<2018年・城主のたわごと8月>




2017年8〜11月、神田明神・湯島天神の続きから☆彡

深まる秋と共に「高オ神社」「米ヶ埼城跡」、再び都内ツアー



     
  冒頭は定例通り、宣伝から(^o^)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「埼玉〜栃木南編
「4月のたわごと」(千葉北西・埼玉〜栃木南1)
■8月・埼玉県川口市、栃木県栃木市・佐野市
<川口「長徳寺」、@裏門〜本堂>
<川口「長徳寺」、A三重塔〜仁王門>
<川口「長徳寺」、B仁王門・参道・山門>
<東北道で茨木まで移動>
<皆川城址>
<金剛寺(皆川氏菩提寺)>
<佐野市葛生、お昼ご飯(^O^)>
<佐野氏菩提寺「本光寺」>
<佐野氏本城「唐沢山城跡」に向かう>
「6月のたわごと」(栃木南2・東京)
■8月・栃木県佐野市
<「唐沢山城跡」到着、@枡形・天狗岩>
<「唐沢山城跡」、A竜神宮・大炊井・神橋> 
<「唐沢山城跡」、B神橋・桜の馬場・南城> 
<「唐沢山城跡」、C本丸・二の丸・三の丸>
<「唐沢山城跡」、D和合稲荷・組屋敷・避来矢山>
<唐沢山を降り、西に向かう>
<「興聖寺」(清水城跡)>
<樺崎寺跡〜佐野やすらぎの湯(^_^A)>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

その前のも……↓

〜おしながき〜
武蔵千葉氏編
湯島天神(天満宮)編
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>
良かったら読んでねっ(≧▽≦)!

この前後も、境根原古戦場ウォーキング(2016年6月号)、松戸の根本城跡(同7月号)、北総の龍腹寺(同11月号)、松戸の中根城跡・上本郷城跡・上本郷館跡ウォーキング(2017年4月号)、北総の龍角寺に松戸戸定邸(4〜6月号)、東京の清澄庭園・手賀沼の鷲野谷城跡(8月号)、松戸の根本城跡、萬満寺(9月号)、茨城の東林寺城跡(2018年1月号)

など、小ネタ史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り、さらに前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
宜しくねっ(≧▽≦)!

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

前回は、日帰りながら凄く久々の遠出レポが終わった(^^)。
あとは日常&近隣編に戻るわけだが、前回の最後に触りだけチョロと出した、神田明神と湯島天神の参拝の続きに始まる。

その後は、わりと駆け足で秋9〜11月を、近隣レポで綴る。

まずは、千葉竜ケ崎線の秋の風景に始まり、松戸・五香六実の「高オ神社」は、写真はこれまでも出したが、神社のレポは初。
次は船橋市の「米ヶ埼城跡(意富比神社)」、そして地元のミソゴマクッキーに惣菜レストランに、森林地に造られた自然公園、松戸の博物館と展示会。

そして最後は、再び都内。今度は秋も深まる11月。
神田川にかかる昌平橋・万世橋・聖橋・お茶の水橋をそぞろ歩きつつ、家康入府の頃からの江戸の大工事の歴史。
湯島聖堂やニコライ聖堂を経て、駿河台に差し掛かる所まで。(次回に続きます)



■8月・東京都千代田区・文京区・墨田区
<神田明神@、境内の左側と「資料館」(将門の鎧)>


最初に場所を示そう→地図
そして前回の最後の方を、そのまんま持ってくる(笑)↓

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真夏の暑さ真っ盛り。今年もお参りにやってまいりました!(^人^)<パンパン!

入口「隨神門」とその両脇の左右大臣

境内に入って「隨神門」を振り返る

↑左から「祭務所」「神楽殿」、中央「隨神門」「御手水」、右に絵馬奉納や御籤を結ぶ場所。

↑の逆↓正面を見ると本殿(拝殿)

↑左から「鳳凰殿」(受付・売店)、中央「本殿(拝殿)」「獅子山」(手前の売店に隠れてるが)、右「明神会館(結婚式場)」

続きは次回(^O^)

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↑こう言って終わった。予告通り、続きをやる(^^ゞ↓

まず、↑最後のパノラマ、上段と下段ので合わせて360度になるんだけど、下段の方の左「鳳凰殿」(受付・売店)が、今後は撤去されるようだ(今もう無くなってるかも)。

その後の展開として、現在、「文化交流館」なるを建造中らしく、完成予定が今年(平成30年・2018年)の12月だとか。
建てる場所は、「神田明神・境内図」3←これが一目瞭然だが、上のパノラマ写真で言うと、上段の方の右「御手水」の裏側。

……ちょっとその御手水まわりの風景を見せると、↓

左「千社札納札所」、右「御手水
さらに右は「大黒」と、波乗り「恵比寿

この4つぐらいの建物の後背に、前は二階建ての庭園(「屋上回遊庭園」。それより昔は、立体駐車場だったかな)があったんだが、そこに今、「文化交流館」を作ってる最中のようだ。

一番右にある「(波乗り)恵比寿」像(少彦名命)のさらに右に写ってるのが、さっきの「鳳凰殿」の端っこだけど、これを撤去した跡地に、何か予定図が描かれてない所を見ると、ただの広場(参道)になるのか、露店などが立ち並ぶのか……?

この時はまだ、この「鳳凰殿」が建ってて、その裏に廻ると↓

「拝殿」の側面も見れる↓(パノラマ4枚180度以上)

↑左から「祭祀殿(資料館)」、中央「御神殿(拝殿)」側面、右「鳳凰殿」裏面と並ぶ。

この「鳳凰殿」(右)のある敷地が今後は空く……という事だね(^^ゞ。
これより「資料館」(左)に入るんだけど、実は、資料館を見学したのは、この8月でなく、この後に続く11月の都内巡りの時。
わざわざ二度に分けて出すのも、場所の説明がわかりにくくなるので今出す(^_^;)。

ちなみに、今立つ位置から後ろを振り返ると、摂社が「水神社(魚河岸)」「小舟町八雲神社」「大伝馬町八雲神社」「江戸神社」とズラリ並ぶ。(「神田明神・境内図」27〜24)

これが二番目の「小舟町八雲神社」→
最初、日本橋にあった伝馬町の一つ、小伝馬町が宮元となっていたが、魚問屋仲間が祭礼費用を賄うなど、神社の活動に関与するようになり、彼らが集住した小舟町の人々により崇敬された。

「祭祀殿(資料館)」に入る
神武天皇像(撮影許可を得てます)

団体予約で館内案内の方をつけて頂き、許可を頂きながら、バシャバシャ撮影してる方(特に写真係の人は)もいらした中だったので、撮りやすかった(^^ゞ。(ありがとうございましたm(__)m)

その中で特に、私と亭主の目を引いたのは……↓

←「平将門公・紅絲毛引威大鎧現代鎧)」
NHK大河ドラマで使用の鎧」と紹介されてた。

……『風と雲と虹と』だよね(*O*)<おおっ!
「現代鎧」とあるから、ドラマのために造られた物じゃないかと思うけど、「神田神社蔵」とあったから、ドラマで着用後(将門役の加藤剛が(^^ゞ)、こちらに寄贈された、という事だろう。

同じ所に「平新皇将門公・鶏頭鳳凰拵御太刀」というのも紹介されてたけど、この膝上に兼帯されてるのがそうかな?

太刀の方(写真のかわからんが)も「神田神社蔵」で、江戸時代に再現されたものだそうだ。
鎧の後ろに掲げられる錦絵が、たぶん江戸時代に演目された将門ゆかりの歌舞伎瀧夜叉姫の話かな(^^ゞ)と思われ、歌舞伎では将門の佩用した物として「鶏頭」を使われたそうだ。

一方、将門の時代の太刀については、館内の説明書きに……↓。
「上古刀(直刀)から日本刀(彎刀 わんとう)への過渡期と言われている。
兵は騎馬戦を得意としたが、その際、直刀よりも彎刀のほうが戦闘に適したため、将門公の時代に徐々に変化していったのであろう」とあった。

見学した時は、健在でいらしたのではないかと思うけど、加藤剛さんは、つい二ヶ月弱前の6月18日に他界された(;_;)。。
謹んでご冥福をお祈り致します(;人;)<この鎧に宿って、関東(坂東)を守って下さい



<神田明神A、境内の右側と裏側(合祀殿)と茶屋>

さてお次は、一度「拝殿」の前(最初に入門した所)に戻って、 あらあら眺めると……、

↓右手「祭務所」の前に白馬の馬車。
←同じく右手の空に浮かぶスカイツリー

白馬の馬車は、実は、これも11月に行った時に見た物で、七五三の撮影のために置いてあったのかも(^。^)
スカイツリーの方は、8月の写真。
見える位置は、境内に入って、だいたい「明神会館」のあたり(自分の立つ位置によるけど(^^;)ゞ)。
(「神田明神・境内図」8・11)

そして、「拝殿」の右脇「獅子山」の右下に注目↓

↑「獅子山」の側面に廻ると、こんな囲いがあって、実はここが神馬「明(あかり)ちゃん」(神幸(みゆき)号)のお住まい(=^m^=)
お土産コーナーに貼ってあった「あかりちゃんスタンプ」がズラーッと、よりどりみどり勢ぞろい!→

この神田明神の敷地に、馬のように体が巨大で神経の繊細な動物を飼育する空間を確保するのは難しいから、この獅子山の隣に、全身をスッポリ隠せる所を作って下さったのは、「良かったな〜(^_^A)」と心から思った。

ただし残念ながら、この前年もそうだったんだけど、この年も8月は避暑のため、あかりちゃんは「千葉の牧場」に、美味しい草を食べに行っちゃってたのだっ(笑)。
……秋になってから参拝に行くべきなんだろう(^_^;)。。

他に、これまでと違ってた所と言えば、拝殿の裏側に列する摂社に……↓

合祀殿」なる社が新設されてた
前は「籠祖神社」があった場所だ

「籠祖神社」(猿田彦神、塩土老翁神)の他に、これまでは「本殿」に合祀されていた「八幡神社」(誉田別命)、「富士神社」(木花咲耶姫命)、「天神社」(菅原道真命、柿本人麻呂命)、「大鳥神社」(日本武尊)、「天祖神社」(天照大御神)、「諏訪神社」(建御名方神)を改めて合祀する目的で、「合祀殿」と改名して祀るそうだ。

時代に即して「合祀し直し」を堂々とやってのけるのが、神田明神のスゴイ所(笑)。

たかが幕末〜明治維新ていどの、昨日や今日始まった、新米そこそこのちょっと出の神社とはワケが違うでー。
どや、思い知ったか、テロリスト万歳神社!(核爆)

さて、参拝コースも最後になると、大きな銀杏の木に出会って終わる。
(「神田明神・境内図」39)

この「大公孫樹(おおいちょう)」は、江戸時代よりこの地に育ち、大正期の関東大震災(1923年)、神社の社殿をはじめ、諸施設がことごとく炎上、崩壊した中で、唯一焼け跡に残り、ひこばえが生え育ち、樹命を繋いだ。

それから2年後の昭和9年(1934)、復興された社殿は、鉄筋コンクリート建造で、日本初の高耐震構造を備えた神社建築であったため、 昭和20年(1945)の東京大空襲による大火災の中でも、見事に焼失を免れた。

その時、この公孫樹のひこばえも立派な樹木に成長して親木を支えており、社殿とともに健在ぶりを示して、多くの都民・国民を勇気づける一躍を担っただろう。

親木のほうは枯木につき、倒木の危険を防止するため上部を伐採し、保存する運びになったそうだ。
今後も災難除け、厄除け、縁結びのご利益を後世に伝えるだろう。

銀杏の足元には「さざれ石」があり↑、「君が代に詠われている。永久の団結と繁栄の象徴」と説明されてる。

君が代に詠われてるのは岐阜県の物らしく、この神田明神にあるこれも、「美濃」と県境にあるとおぼしき「伊吹山」の産出のようだが……

国歌に歌われている、さざれ石とは。 」(@「和の素敵・京都浄住寺」より)
↑によると、「さざれ石」は全国にあるらしく、石の内部成分により、雨水などによって溶け出すと、小さい石同志をくっつけ、やがて大きな「巌」になる点が、君が代の歌詞にある通りだと。

国家としては「団結」を謳うんだろうが、多くの神社としては、自然の神秘を崇拝する思いから祀るんだと思う。
巨岩や巨木がくっついてると、夫婦岩とか夫婦杉とか言って、祀ってるよね(^^ゞ。
だからどっちかと言うと、神社に置く理由は「夫婦和合」「子孫繁栄」が妥当(笑)。

「隨神門」を出ると、大鳥居までの短い参道の両側に並ぶ茶屋の中で、↓「三河屋」が我らの定番(^^)
こじんまりとした喫茶店内→
(店内の右半分は、お土産売り場)

甘酒屋さんだけど、好みのメニューは「クリームみつまめ」(^O^)(亭主は餡子をいれ「クリーム餡蜜」)

これを食べれるのが幸せの証だよね( ^,_^)φ″」
「いや、生きてる証とすら言える( ^,3^)ф´」
とかいうワケのワカラン事を言いあいながら、美味しく頂く。

クリーム餡蜜・蜜豆
向かい店のメニュー「銭形平次そばセット」!

今回はレポにしなかったけど、神田明神には、「銭形平次の碑」といって、銭形平次(想像上の人物で(^^ゞ、野村胡堂の捕物時代小説の主人公)の活躍する舞台が、「神田明神下」であるのにちなんで、境内に石碑が立っている。
石碑の下には、犯人を捕まえる時に平次が投げる銭(寛永通宝)を象った、大型の石の台座がしつらえてある。(「神田明神・境内図」12)

境内には「相馬野馬追」のポスターも貼られていた→

神田明神に参拝し始めたのは、昭和55年(1980)頃からだが、その後ちょくちょく変遷する様を見ながら、かれこれ40年近くの歳月が経っている。

隨神門」など、いつの間にやら凄く立派になったし、「祭務所」「神楽殿」なんかは、前は何があったっけと思うほど立派な建物があるし、「鳳凰殿」が出来た時は、内部の売店で書籍などをはじめ、手広く色々なグッズが並び始めて嬉しかった事など思い出す。

今、門前に掲げられる由緒書を見ると、平成19年(2007)の銘記である。
つまり、平成時代に捉えた(捉え直した)、神社を囲む歴史観による記述という事になるが、創建された天平二年(730)や、平将門が祭神に加わった経緯より、「東京の食を支える市場の発祥地の氏神」という、現在の役割を重視した書き方がされていた。

ピックアップすると、「都心108町会の総氏神」であり、エリアを「神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内」とし、特に「青果市場・魚市場の人々」の崇敬を述べている。

歴史については、徳川家康の江戸開幕による江戸城拡張によって、元の大手町・将門首塚の周辺にあったものを、江戸城の鬼門の位置に遷すべく、現在地に鎮座し直した事が書かれていた。

歴史のメインは江戸時代で、特に現在、二年に一度行われる「神田祭」は、江戸時代には、江戸城の城内に入って、徳川将軍の上覧のもとに行われたため、「御用祭」「天下祭」と呼ばれた。

先ほどの資料館でも、この「神田祭」(神幸祭)関係の出展物がとても多かった。
境内に祀られている鳳輦(大黒・将門)と神輿(恵比寿)の祭礼行列では、先ほど述べたエリア108町会の氏子による、200基もの町神輿が繰り出される。(これがなかなかスゴイ)

ウィキによると、今の町神輿に匹敵するものとして、かつては山車が使われていたが、電信柱の登場で通行が困難となり、曳かれずとも残されていた山車も、関東大震災や戦災で焼失したそうだが、装飾品などと共に売却されて、関東各地に保存されてる物もあるという。

(この事は、博物館で案内の方にご説明頂いた事と、だいたい同じo(^^)o)



<「湯島天神」とスカイツリー>

↑が同じ所にあるわけではない(^_^;)。

神田明神地図)は千代田線だと「新御茶ノ水」駅。湯島天神地図)はその一つ隣の「湯島」駅と、歩いても行ける距離なのに対し、スカイツリー地図)はだいぶ遠い。

いつもだとスカイツリーは、これら都内に用があった帰り道から見えるんだが、この時は帰りがけに寄り道用があって近くに行ったので、近寄って見たってだけ(^_^;)

何しろ、次の参拝は湯島天神である。前年から二所参りを決め込んでいる。

社殿に到達する前の梅林庭園(パノラマ3枚ほぼ180度)

奥は巨石に囲まれた見事な池。小さい滝もある。
やはり社殿に到達する前に分かれる男坂→

湯島天神については、前年のレポ(2017年2月<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>以降)にわりと書いたと思うので、今回はザックリ省く(^^;)ゞ
前回は撮らなかったトコだけやろう。

拝殿に連結する太鼓橋
拝殿の天井絵龍の墨画が覗ける

拝殿は、正面からだと大きな賽銭箱、左は太鼓橋の連結、背後は本殿などがあって近づないが、右の散策路からこの天井絵がちょっと見えるので撮影させて貰った。

調整して見た↓
こちらは裏手に続く回廊の蟇股の彫刻

なかなか印象に残る龍の絵だったので、家に帰って画像ソフトを駆使して上のように加工して見た所、雲間に現れ出た龍神の図面だった(^^)。<立派だね〜♪

また、本殿の裏手には、摂社と休憩所のための屋根が続いて、蟇股の彫刻がたいそう綺麗。
前年に来た時のレポでもたくさん出したけど、今回は前回撮れなかった所を撮ってみた。
上の牡鹿・雌鹿と紅葉に続いて……↓

栗鼠と山葡萄に
白馬と水仙(かな?)

今回は、湯島天神はこれだけなんだけど(^^ゞ、引き続いて、さっきも言ったスカイツリーの近くを通ったので……↓

ビルの合間からだんだん姿を現すカイツリー
ついに足元に到着

中にいっぺんぐらい入ってみないとなー、と言ってる内に過ぎ行く日々(^^;)ゞ

こんな寄り道をして、日も暮れて、おうちに帰っていきました(((つ^o^)つ <完



■9月〜11月・千葉県白井市・印西市・松戸市・船橋市・鎌ヶ谷市・柏市
<千葉竜ケ崎線(茨城・千葉・県道4号線>


しばらく近隣レポ編(^^ゞ。
東京も近隣みたいなモンだったけどww、それよりさらに近い県内ドライブ。

県道4号線は、この頃よく通るようになった道路で、ちょっと懐かしい風景ぽくて気に入ってるので、時折写真に撮っている(^^ゞ。

この秋は、9月と11月に同じ角度から撮った写真があって、深まる秋の比較が楽しめるので、かわるがわる出してみたい。

このへんは、白井市の神々廻あたり(地図)→

色々所用あって、白井あたりに行った後、気晴らしドライブで189号線を走り、印西市に入って尚もいき、その県道4号線(千葉竜ケ崎線)にぶつかり、左折して北上、というルート。

こちら9月(快晴)
二か月後の11月(曇り空)

この道は、撮影の出だしをもうちょっと前からスタートすると、古い観光地っぽいレトロな雰囲気なんだけど、いつも途中から気付いて慌ててカメラを構えるんで(^^;)ゞ、↓この辺からになる。

これも左・9月
右・11月

地図←現在位置

しばし9月モードで進み……

次の「菓匠 川村」という和菓子屋さんで……↓

再び左・9月
右・11月

こう比べると、右の11月の方は、曇り空(あるいは暮れ時)で暗いってだけでなく、やっぱ冬に近づいてる時期なので、店内の灯りに何ともホッとする温かみを感じるな〜と、しみじみ思うわ〜。
(ってそれを、この真夏に出す回で言っても、暑苦しいかもしれないけどな:笑)

←11月
↑以後、9月モードで先に進む

やがて道は大森交差点地図)に出る

↑この左に入れるカドがあって、「上宿古墳」に行ける。前にレポをした事がある→(2015年2月<印西市「上宿古墳」>

次の課題は、カメラの構え損ないを修正し、今度はもうちょっと前のルートから撮影を開始して、またレポしたいと思う(`・ω・)!



<松戸、「高オ神社」、改修完了(^O^)>

↑「高オ」の“”の漢字は、「」の下に「」ね。(機種依存文字でしか出ない(^^;))

これまでにレポしてきたのは→(2017年4月<10月初旬〜11月中旬、秋の風景>/2017年8月<「松戸七福神」B、恵比寿・布袋・大黒>内

舞台はまず……、常盤平〜八柱あたりに一度ゆこうか。

秋の月夜に……
月見団子とチーバくん!(笑)

チーバくんは千葉県のゆるキャラで、これは、常盤平〜八柱の県立西部図書館地図)のカウンターに飾ってあったもの(^O^)!
季節ごとに飾り付けが工夫されて、カワイイので撮影させて貰いたいと頼んだら、係の方が本の並ぶ図書棚を指して、「こっちが入らなければオッケーですよ(^。^)」と快く許可してくれた。

こちらは常盤平。昔なら金ヶ作か千駄堀(地図(パノラマ3枚ほぼ180度)

常盤平は、今言った図書館とか市立博物館などが立ち並ぶ、松戸でも中心の場所で、駅の裏には、昔ながらに森が残り、夏は木陰が助かる(^_^A)。

今年(2018)、その博物館で、江戸時代の松戸を取り上げ、ポスターに用いられた松戸市の昔の地図に、各村の仕分が書き込まれていた。

それを見ると、他の多くの区域は概ね地名が書き込まれているのに、松戸市の東端に飛び出た「五香六実」あたりだけ、上から雲がかかって、馬と草と水辺の絵なんか書かれて、「人は住んでません」という雰囲気が濃厚だった(^_^;)。。

その、五香六実にある「高オ神社」(地図)↓は、ここんとこ改修工事をやってて、ずいぶんの間、幕に覆われて、お社を見れなかった(ノ_・。) 。
それがこの年(2017年)全て完了し、見事に真新しい社殿に蘇っていた( ^O^)//<パチパチ

蘇った拝殿。ピカピカ☆
屋根の裏側も新しい木組みが

この辺りでは大きめの神社で、辺り一帯の氏神的な存在感がある。
境内もわりと広く、秋には神輿を担ぐ祭りも行われ、菊花の展示テントも張られる。

境内には幾つか石碑が立ち並ぶが、今回は神社の起こりに関わる、明治時代の地域史のみ提示。
(適度に、句読点・太字・西暦表示など付け加えてあります(^^ゞ)

     
   碑文

 明治維新の大事業を達成した政府が先ず行ったのは、小金牧・佐倉牧などの開墾事業でした。

 この開墾事業の目的は、当時、東京市中に残中する 士籍を離れ、或は時局の変転等により、職を失った人々を救援する為とも、また社会不安を解消する為だったとも云われております。

 何れにしても、王政復古を布告した新政府は、その結果生じたひずみの跡始末を、旧幕時代軍馬の放牧地であった、小金原中野牧(現在の五香六実)にも求めたのであります。

 このようにして、私達の五香六実は、明治2年(1869)11月から他の十数ヶ所の開墾予定地と共に、移住民入植することにより、開発が始まり、遂次明るい村作りが続けられました。

 古代、或は中世より、野馬の放牧場だった当地に、始めて人が住むことになったのですが、当時は交通の便悪く、加えて土地は痩せ、水利も満足でなく、通常生活は極めて困難の土地だった様子でした。
(↓下に続きます)
 
     

ちょっとイビツな角度(パノラマ3枚ほぼ180度)
11月には菊花展も開催♪

↑社殿のスグ近くに色々建ってて、遠くからだと全容が写せなかったので、スグ近くで撮って、後で繋げたのデス(^^;)ゞ

     
  (↓続き)
 そして、その後、次々と襲い来る旱害颱風禍など、自然の苛酷な試練に打克ち、よく苦難に耐え得る体力と能力の持主のみが、この地に住着いた時代もありました。

 吾等の父や祖父・曾祖父、そして私達の先輩達は、ひたすら農作物の生産に力を盡し、一致協力して道を作り、農耕地を開拓し、或は高オ神社を勧請、善光寺を建立、また子弟のためには分教場を開校するなど、今日の五香六実の基礎づくりに努力したその労苦には、まことに言語に絶するものがあり、この業績に対して深盡なる敬意と感謝を捧ぐるものであります。

 斯くして、当初先人が、五香に高く実よくみのれ●●と希い五香六実と名付けた当地は、明治・大正・昭和と三代の星霜を経てまさに百年、今や文化と共に躍進を続ける都市近郊の田園郷として、健やかに、誇り高く発展しつつあります。

 この秋を期し、当地に現住する市民諸氏の協賛を得て、ここに異議ある祭典を執行するに当り、昔日を偲び、更に将来にかけて和合富民の郷と成さんことを祈念して小史とす。

昭和42年10月 五香六実開墾百年祭委員会
 
     

←拝殿の右前にある「御手水」と「大師堂」。

大師堂には弘法大師像が安置されている。
境内に「四国八十八ヶ所霊場」の事が書かれる碑があるから、その関係だろう。
境内の碑文によると、ここの大師像は、元は「鷲野谷村妙見社にあった」とあるんだが、ちょっと前にレポした「星神社」の事じゃないかと思う。
(確か星神社にも、四国八十八ヶ所霊場の碑があった)

それから神社の裏手の霊園は「善光寺」の管轄で、善光寺は上記にある通り、開拓民達によって建立されたという寺だろう。
ちなみに五香駅の近くに「善光寺」がある。真言宗のようだ。

もう一つ重要なのは、この神社のある場所は、元は「香実会所」という、当時の物資支給所のあった跡であるらしい。「五香六実」の地名に関わる跡地と言える。

     
  「史跡 香実会所跡」

 由来
 東京窮民八千余人が、政府の企画により、小金牧 佐倉牧入植したのは、明治二年(1869)秋から冬にかけての頃である。その人達の一部はこの周辺にも移住し、初めて五香六実の村落が誕生した。

 香実会所は、これら開墾民の統率者である開墾会社々員詰所の別称であり、開墾民の生活物資などの支給所でもあった。明治5年(1872)春、事業の失敗により会社は解散したので、開墾民の歴史に密接な関係のあった香実会所もまたその機能を停止した。

 この香実会所についての開墾民の印象は、必ずしも良いものではなかったが、ともかく五香六実近代化のさきがけ的役割を果たしたことは事実である。入植以来ここに百年。これを記念してこの地に碑を建立するものである
 
     

「印象が良くなかった」というのが気になって探す内、こんな記事を見つけた↓

●五香六実の誕生◇苦難の開拓時代(@「YC六実」さんより)
↑によると、会所には、重労働に向かない女性達が、線香や草履の製作に働くなどもあったが、全体としては旧士族らには不慣れな農業に、自然災害も重なって、経営不振。
約束されてた支給物は半分に減らされ、土地は社員4人に75%、残り25%を入植者170戸に分けて解散したという……。

明治新政府によって、千葉北西部で行われた開墾地は、行なわれた順に地名がつけられた事で知られる。

初富(鎌ケ谷市)、二和、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香、六実(松戸市)、七栄(富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市・多古町)

先に述べた通り、松戸市では五香六実が特に「人の住んでない土地」だったようだから、他の各開墾地も、同じような事情で、言語に絶する苦労があっただろう。

薩長は三井に借りた金を返すかわりに、暴力や詐欺による取り立てを後押し→小金牧 〜開墾と野付村の生活〜(@「柏市」HPより)
ウィキには、会社による開墾民からの搾取、土地の奪取、警官ぐるみの弾圧など凄まじく、田中正造が国会で取り上げた事も書かれている。→小金牧、廃止と開墾



<船橋、「米ヶ埼城跡」(意富比神社)>

今度は船橋市。ここ数年よく行くようになった漢方薬局の帰り道、前から目をつけていた城跡に寄ってみた↓

米ヶ埼城跡」の一隅にある「意富比神社」(地図(パノラマ3枚ほぼ180度)

「意富比」は「おおひ」と読む。
前にこれは太陽を表す読み(大日)で、現在の「船橋大神宮」における古い祭神名であった、と書いた事がある。(2015年2月<同市「花輪城跡(茂呂神社)」>内以降)

以前も述べた通り、ここ米ヶ埼城も、船橋大神宮を河口として続く海老川の水運に連なる城と想像されるが、残念ながら、城や城主に関する記録は一切ないようだ。

神社の右側は田畑地(右端が正面)(パノラマ4枚)

神社の左側も田畑地(左端が正面)(パノラマ4枚)

神社は城跡の前方にあり、昔は高台にあったらしいが、削られて今は平坦になっている。
西側を囲むように、北から南への土塁跡らしき土手がめぐり、西方に物見櫓跡もあったと推定される。
55年前には、東〜南東方面にも、空堀・土塁らしき凹凸の跡が見られたらしい。

神社の大鳥居をくぐる↓
しばらく進んで振り返る。→
背の高い樹林が鬱蒼と立ち並ぶ中に続く参道

海老川に沿った各城の並びから見ると、米ヶ埼城の隣は、西に夏見城、北に高根城がある。

夏見城の夏見氏、高根城の高城氏(胤紹とも)は、ともに小金城松戸市)の高城氏に属す勢力であった。この米ヶ埼城も同時代の物であれば、これらとの関係があった可能性がある。

↓参道の脇で、ヒッソリ肩寄せあう祠たち
やがて辿り着く、さらなる鳥居の扁額に「正八幡神社」と刻まれ、奥に慎ましい社殿が見える→

他に、土地改良に関する石碑があったが、撮影で表面が光って殆ど読めない(^_^;)。。
たぶん城跡に関する内容じゃ無さそうに思えたが……(ちゃんと読めてないので何とも)

夏見城跡と高根城跡も、今度寄れる時間があったら寄ってみたい(^O^)!



<美味しい物めぐり( ^,_^)φ″>

まずは鎌ヶ谷。ずいぶん前からよく通り、「あれが気になる」と言いながら、何年も経つのに入った事のない店があった。それが……

←「ピエロ」(地図)横にピエロの人形がある
「焼き立てパン」の店なんだけど、気になる名物は、↑「味噌ごまクッキー」。5個で432円と、ちょっと高めだが癖になる味と食感!

↑クッキーの真ん中部分が少し凹んでいて、そこに味噌がベッタリ練りつけられ、「ごま」はそれほど存在を主張しないが、分厚いクッキーの仄かな甘みと味噌の塩辛さが好対照に口に広がる!

次は……所かわって、右に写ってるのは、「鯖の塩焼き定食」→

食べてる場所は、前から時々レポした事のある「自然」(じねん・地図)というお惣菜レストラン。(2016年2月<白井市「大釜ごはん・自然(じねん)」>/2017年9月<常盤平さくら祭り>内
これまで外観だけだったが、ちょっと店内も(^^ゞ↓

モダンながら和風ムードの店内(パノラマ4枚)

メイン料理+ご飯&味噌汁&香の物セットを注文し、バイキング用の皿を追加注文して、惣菜コーナーでバイキング盛り放題(ただし盛り付けは一回限定)。
お茶・コーヒーもセルフ(無料)なので、メイン定食以外は、テーブルに自分で運ぶ型式。

前はバイキングコーナーに、惣菜がめいっぱい出てたんだけど、今は定食の方に力を注いでる感じ。

こちらはサンマ定食
惣菜バイキング

前は……と言えば、ここと同じような惣菜レストランが、アチコチにあと2〜3軒見かけた時期が短からずあったんだけど、「そのうち来ようね(^^)」とか言ってる内に、次々と無くなり(別の形式の店に跡を譲ったり)、今ここしか見なくなった。

こういう惣菜レストランって、経営が大変なのかな。
牛丼屋とか、焼き肉・ステーキ・ラーメンなんかは、逆に増えた感じもするけどね。

徐々に秋も深まり、黄色く色づく銀杏の立ち姿

柏市逆井のあたり(^^ゞ。続けて↓も、だいたい同じような地域。



<柏、南部クリーンセンター裏の森林公園>

地図←森があり、そのカドが近年、公園風に整備された。↓


ちなみにこのT字路の車を走る道の反対側は、お寺と霊園があり、こっち側つきあたりには、巨大な清掃工場の敷地があり、工場の他には多目的スペースあり、スポーツ施設あり……。

清掃工場のために、近隣にも大きな空間を確保してるような感じがする。

この辺り、前は森の奥に細い路地が畑地と入り組み、古民家が点在して、亭主が「隠れ里の雰囲気」と形容してたが、今は宅地化され、舗装道路も造られ、空き地は梅林となるなど一変していった。

僅かに昔の面影が残る、森林と畑と民家の風景→

この森林の左隣がさっきの公園↓

近づくと、低地に池を作っている(パノラマ5枚180度以上)

さらに近づく。その奥に森林公園が続いている(パノラマ縦3枚)

池の周りは平たい散策路が囲み、ベンチなどもある公園風だが、奥の森林はまるきり天然に近い。
森に入って見よう。

だいぶ進んで来たが、前方はまだちょっと続く(パノラマ4枚180度以上)

↑の位置から後ろを振り返る↓池の公園からはだいぶ離れた(パノラマ4枚180度以上)


←真上を見上げる

森には前も入れたのかもしれないが、私有地ではあったろうと思う。
今は私有地との区切りが設けられてるし、何より公園から入って来られるので、断然入りやすくなった(^^)

前は道路に面したカドも、あんな公園風に整備されてなかったと思う。
いつ整備されたのかな。長い事ただの森だったと思うけど(^^;)ゞ。

ちなみに、公園前のバス停は「南部クリーンセンター」(千葉コミュニティバス)であるらしく、この名は向かいの清掃工場の事を指す(^_^;)。

先に述べた通り、清掃工場の敷地には、スポーツ施設もあって、こちらは「リフレッシュプラザ柏」といい、施設のHPによると、「リフレッシュプラザ柏」というバス停もあるという。

そちらへのバスは、JR常磐線の「南柏」駅から出る東武バスで、「南部クリーンセンター」行き、と同サイトにある。(ややこしい(^_^;))
そこから、この公園にも歩いて来れる距離だが、地図を確認すると、リフレッシュプラザ柏や清掃工場のある敷地を囲む道路は、四辺すべてに何らかのバス停が見られる。



<松戸、博物館&ホール周辺の紅葉>

地図←常盤平駅から「21世紀森と広場」(大型自然公園)までの間に踏切があり、踏切に沿った道路沿い歩道に、昔の道標&青面金剛の石碑がある。

←こちら踏切。↓道路。道標&青面金剛はコレ↓(パノラマ縦2枚)

この辺りでは、「青面金剛」と刻まれた石碑や石仏は少なからず見かける。
中世〜江戸期にかけて、庚申信仰が隆盛した事がうかがえる跡であるが、大抵はお寺や神社の境内に。付近から引き取られて来ているのを見る。

が、今でも道路の曲がりカドに、ド〜ンと当時のままの存在感を示している物もある。

この石碑には仏像は彫られてないが、「青面金剛」の下に、「左・金ヶ作道 右・小金道」と書かれ、道標の役割を果たしていた事がわかる。

現在も道路の脇、しかも歩道で、歩く人の傍らにポツッと立って、かつての地名とその方向を指し示すその姿は、今と昔を結ぶ道標のようにも感じられる。

庚申塔道標
さらに道行き、「21世紀の森と広場」に到達

地図←この通路をさらにゆくと、左に「森のホール」(コンサート会場施設)、右が「21世紀の森と広場」(自然公園)への入口、真っすぐ進めば道路を超えて「松戸市立博物館」がある。

道路まで行ってみよう。↑あの紅葉した並木道ね。

←来た。雨に濡れる歩道。枯葉が敷き詰められる。
↑こちらはよく晴れた秋空の日。
右下に「21世紀の森と広場」への入口広場がある→

この辺り街路樹の紅葉が綺麗なんだよな〜(#^.^#)
道路向こうの博物館では、この秋、ちょうど松戸の戦国時代の展示会「本土寺と戦国の社会」が催されていた→

本土寺日蓮宗の中でも大きく有力な寺で、広い範囲に存在感を及ぼした。
史料価値も高く、『本土寺過去帳』によって裏付けされた中世史・戦国史もあるため、遠隔地域の歴史の本でも、出典名として名を顕わすのをちょくちょく見かける。

どの寺でも過去帳には一定の価値があろうが、身分と出生地など個人情報の問題から、博物展示に適さない場合が多い。
本土寺過去帳については、その点はクリアしてるとの判断で、公開展示が行なわれた。

公開講座も行われ、日蓮宗に独特の思想ベースによる分派が説明された。
それを展示会場では、戦国期の抗争に関わる対立構図として、図解で示されていた。

博物館の敷地(館外の)庭園
博物館は二階建ての二階のスペースをほぼ全域使用して展示(殆ど常設)を行っており、有料。

一方、一階は一部のみ展示会場となっており、「企画展示」と称して、毎回出し物が変わる。期間は、だいたい二ヶ月ぐらいかなー。無料で見られる事も多い。

一階から緩い坂道を下ってゆくので、「地下」と言ってる人もいる(笑)。
展示物やその搬入搬出の必要性から、天井を高く取るなど、他の部屋(受付・売店・喫茶・視聴覚室・講演会場・各教室・所蔵室・事務&学芸員室など)との高低差を調節してるからかも?



■11月・東京都文京区・千代田区
<秋葉原〜湯島聖堂〜聖橋〜駿河台>


夫婦で都内の散策ツアー参加。秋葉原から皇居まで歩くもの。
メインは皇居・東御苑の散策だったんだと思う。

そこに行くまでに、湯島聖堂とか神田明神明治大学の博物館や学食、お茶の水やら神保町やらの界隈を歩きながら、名所の石碑を確認するだけ(跡地の名残りを示す建物とかは、今は100%無いので(^_^;))で、最後は、アノ「将門の首塚」を拝む、という空恐ろしい行脚。
(ただ、神田明神はさっきのレポに入れたので、ここでは飛ばすよ(^^ゞ)

最初は秋葉原の駅地図)に降り立ち、ビルの林立する都内を歩いた。

←ド〜ン!東京大都会にお上りさんしに来ました!(笑)
昌平橋を渡る(今渡ってるのがそう↑上のは鉄道)

秋葉原(東)から御茶ノ水(西)までの間を繋ぐごとくに、神田川が流れているが、東から西に「万世橋」「昌平橋」(地図)「聖橋」の順に出会う。

その中では、比較的この「昌平橋」が古く、寛永年間(1624〜45)という。
万世橋は明治(その前も近くに橋があるにはあったが)、聖橋は関東大震災の後。
神田川に架かる橋の多くは、関東大震災後の復興によるものが多い。

これが「神田川」だよん(^^)
湯島聖堂地図)「仰高門」

聖橋の一帯は、昔は「神田山」と呼ばれる高台があったが、江戸に幕府を開いた徳川家康が、新たな街づくりのため神田山を切り崩し、江戸城の南の海、日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てた。

すると、海に流れ込んでいた平川が、埋め立てのために下流で溢れ、洪水を頻発した。
そこで分流させるため、飯田橋から隅田川までに水路を作り、江戸城の外堀として開削したのが、今の神田川である。
そのため、本郷・湯島台が切り離され、現在の「駿河台」が形成されるに至った。

「駿河台」とは、家康が没した後、家康について駿河に勤番していた旗本たちが、江戸城に来て屋敷を構えた事、ここから駿河国の富士山が見えた事からついた地名(あとで通る)。

さて、湯島聖堂に着くと、まず「仰高門」↑が事実上、外界から内部に入る最初の門で、その後、敷地内の通路めぐって到達するのが「入徳門」↓そこから建物のある階段を上がる。

続いて「入徳門」を潜る
階段を上がって「杏壇門」に

先ほどの「昌平橋」の名の由来は、この湯島聖堂に祀られる孔子の故郷、昌平郷(現山東省済寧市曲阜)から来ているようだ。
湯島聖堂は元禄3年(1690)、五代・徳川綱吉が儒学に傾倒して創建したもので、自ら『論語』の講釈を行うなどして、学問を奨励した。

対して、昌平橋はそれより少し前からあり、湯島聖堂が出来るまでは、「一口(いもあらい)稲荷」にちなんで、「一口橋」「芋洗橋」と呼ばれていた……とウィキにはある。
この後、「一口稲荷社」の跡地にも行くからね(^^ゞ

実は、孔子廟はここより前に、林羅山が尾張初代藩主・徳川義直の浄財を得て、上野忍岡に建てていた。
三代・家光も参詣・聴講しており、幕府から修繕費も出ていた。

ところが五代将軍を継いだ綱吉は、「儒学は国家体系の学問である」とし、「学者の個人的な建造を、尾張藩の資金で、寛永寺(仏教寺院)と敷地を同じくしている」と異を唱えて、わざわざ幕府主導のものを湯島に作り直したのが、この湯島聖堂だそうだ(^_^;)。。

門の先にデンと構える「大成殿」(孔子廟
湯島・神田の界隈に、まっ黄色に色づく銀杏の大樹→
東京は千葉より冷え込み緩やかだが、確実に秋(^^)

寛政9年(1797)、敷地を拡げ、「昌平坂学問所」を新たに開き、明治維新(1868)まで70年間、官立大学として機能。
教官に、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二州、古賀精里、佐藤一齋、安積艮齋、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵ら。

明治維新後は、新政府の書簡となり、明治4年(1871)に文部省、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)、師範学校(現筑波大学)、女子師範学校(現お茶の水女子大学)、初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれた。

聖堂は江戸時代に4回の大火で、大正時代には関東大震災で焼失し、今も残る一番古い物は、宝永元年(1704)に建てられた「入徳門」のみだそうだ。
現在の「観聖堂」は、寛政時代を再現したもので、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造。

「聖橋」(地図)に到着(^_^A)。ここからも神田川
↑ちょうどJR中央線(電車)が来てるのが見える。橋を渡った向こうに「御茶ノ水駅」があり、駅の外に大きな椋木が立ち、枝にかかる札に「一口稲荷社」の説明書きが下がる→

これは書いてある事をそのまま(^^;)ゞ↓

     
  一口(いもあらい)太田姫神社
一口である太田姫神社に、江戸城外濠(神田川)を作るにあたり、伊達家と徳川家が神田山を開削した時、江戸城の結界また鬼門の護り神として旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された。
昭和6年(1931)総武線開通に伴ない現在の駿河台下に移る。尚鐡道(「甲武線」中央線の前身)は濠の中にあり、開通時、天皇家との間に濠幅を減じない。中で商業を営まない環境を守るとの約束がある(明治期鐡道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫
 
     

……と、これには、元々あった神社がどういう事情で、いつ移転したのか書かれてるだけで、元の由緒は書かれてないが、今どうもこの神社は移転先を得ているようなので(→地図)、そこに行けば書いてあるんだろう。

知る限りで言うと、太田道灌の娘が天然痘にかかったので、穢れ祓い(→えもあらい→芋洗い)で信仰を集める、京の稲荷神に祈った所、全快した。
そこで道灌は、築城した江戸城の鬼門除けに祀った。

長祿元年(1457年)の事と伝わるらしいが、これは道灌が江戸城を築城した年で、娘が天然痘を病んだり治ったりした時と一緒とは(1457年に天然痘が流行したとは)限らないだろう。
このサイトに詳しい→「太田姫稲荷神社 平成25年の改修工事」(@「大好き神田」さんより)

うっ、ニコライ堂の背後にビルが!
やがて「御茶ノ水駅」の交差点に

ニコライ堂(地図)の特色のある丸い屋根は、青空がよく似合うのに、アノ位置に光背を汚すようにビル建てようって発想どうよっっ!ヽ(`Д´)ノ<怒!

……と言いつつ、ニコライ堂は遠くから見ただけで(笑)、すぐ方向を西に向かい、御茶ノ水駅前の「神田警察署・お茶の水交番」のカド(地図)に……↓

↓「御茶ノ水」地名発祥の地。竹筒の水遣り
駿河台、杏雲堂「大久保彦左衛門屋敷跡」→

まずは、「お茶の水」の地名発祥を記念した水遣りだが……。

実は、このカドにこんな水遣りがあったとは、この時はじめて知った
永い人生において、御茶ノ水は、通学・通勤・待ち合わせ・買い物・営業・参拝などの行き帰りに、何百回(何千回?)訪れたか知れない(^_^;)。。
この交差点も、そのように訪れた回数が多かった場所だ。

にもかかわらず、地名の謂れを謳う、この記念の場と石碑の存在を知らなかった(汗)

これは、傍にあった石碑から、そのまま↓

     
  お茶の水

聖堂の西比井名水にて、お茶の水にもめしあげられたり。
神田川掘割の時ふちなりて、水際に形残る。享保14年、江戸川拡張の後川幅を広げられし時、川の中になりて、今その形もなし。
           「再校 江戸砂子」より
慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった。ある時、寺の庭より良い水が湧き出るので、将軍秀忠公に差し上げたところ、お茶に用いられて大変良い水だと、お褒めの言葉を頂いた。それから毎日この水を差し上げる様になり、この寺をお茶の水、高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水というようになった。
其の後、茗渓又小赤璧と稱して、文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。時代の変遷と共に失われゆくその風景を惜しみ、心ある人達がこの碑を建てた。
 お茶の水保勝会  坂内熊治
 高 林 寺    田中良彰 
 昭和32年9月9日
 
     

秀忠」とあるので、家康の死後の出来事かと思ってよく読むと、「慶長」とある。
慶長時代で、秀忠が将軍になって以降というと、1605年〜1614年の10年間が相当する。

となると、ここにいう「水」とは、先に言った神田山の切り崩しと、神田川の開削水路工事に関連して、高林寺から泉が湧き出た……とも受け取れる。

その後、このカドから南に向かい、皇居まで歩くわけだが、この辺りが、先ほど触れた「駿河台」である。
家康の没後、生前の家康について駿河に勤番していた旗本たちが、屋敷を構え、ここから駿河国の富士山を見た事からついた地名で、多くの武家屋敷が立ち並んだのだろう。

江戸初期は奈良奉行・中坊長兵衛、幕末には勘定奉行や軍艦奉行・小栗上野介忠順が住んだ。
(上にある「大久保彦左衛門の屋敷跡」は、今、杏雲堂病院地図)の敷地内にあって、歩道からあの石碑が見える)

明治には、駿河台は華族・官僚の屋敷に変わり、加藤高明男爵、坊城俊長伯爵、小松官邸などは昭和初期まで残っていたが、町名は「神田区駿河台」の後に、西紅梅町、北甲賀町、南甲賀町、袋町、鈴木町だったのが、関東大震災のため区画整理され、一丁目、二丁目に変更された。



次回は、この都内レポの続きから始まり、紅葉とクリスマスの町をお届けする。
どのあたりまで行けるかワカランけど、年末年始は超えられるんじゃないかと思う(`・ω・)

関連事項のリンクは、例によって又後日(^^ゞ。
(ちょくちょく追いついて貼ってはいます!)

<つづく>

2018年08月25日
 
     




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