<2009年・城主のたわごと8月>




2009年、千葉県「平忠常ゆかりの伝承地」を巡る〜!

5月「東光院」「大椎」(千葉市)、7月「沼闕城」「大友城」(東庄町)。




     
  今回は「平忠常ゆかりの伝承地」をお届けしたい。
まず、5月のGW(ゴールデンウィーク)に、千葉県の中部・千葉市に行った。

ここまでは前回の予告通りなんだが、その後、7月の後半に、今度は千葉県の北東部・香取郡の東庄町にも行ってみた(^^ゞ。

なので前回予告していた、6月の松戸市のレポは次回に廻すとして(^^)//、今回は後半に急きょ、7月の東庄町レポを入れたいと思う〜!(^O^)/<ヤンヤ、ヤンヤ



■5月・千葉県千葉市
<東光院>


↑に行ったのは、GWも終わりごろ(^_^;)。。
今年は、例年以上に連休モードに入るのが遅く、テレビで「高速料金の値下がりをうけて、渋滞がウンヌンカンヌン」と報道されてるのを尻目に、通常の日々を送っていた。

「ま〜いいよね〜何か豚インフルがフェーズ5になったとか言うしさぁ〜」とか言いながら、世間が「そろそろ帰るぞ〜」という頃になって、ようやくノロノロと家を出る始末(^_^;)。。

しかし、そんな頃に家を出ても、使える日が1日しかナイ
それは果たして、大型連休と言えるのだろうか(汗)。

ウチの近くで出会った、霊場巡りの一団

一行に出合ったのは、ウチから手賀沼に向かう途中だった。
何の霊場巡りだったのかな〜と、後でネット上を調べてみた所、「東葛・印旛大師霊場巡拝」ではないかな……と(^^ゞ。

5月1日から5日まで、連日かけて、指定されてる四国霊場(と言っても、千葉県のだけど(^^ゞ)を歩きぬくようで、この日は確か、5月3日だったと思うが、ちょうど行程予定と出合った日にちが合ってるので。

橋を渡る合間も、チリンチリンと音を鳴らしながら(^^)

皆さんが無事に結縁されましたように(^∧^)。

さてさて、日帰りの旅は千葉市に向かう。今回は「平忠常ゆかりの伝承地」を訪ねる旅である(^^)。
まず「平忠常」という人は、1028〜1031年の「平忠常の乱」で知られている。

桓武天皇−葛原親王−高見王−(平)高望王┬国香
                             ├良兼
                             ├良将−将門
                             └良文−忠頼−(千葉)忠常−常将┐
┌−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
└常永┬常時−常澄−(上総)広常
     └常兼−常重常胤┬胤正−成胤
                  ├(相馬)師常
                  └(東)胤頼

↑系図では「忠常」から「千葉」となっているが、まだこの頃は、その曾祖父「高望王」が坂東に下った頃以来の「平」姓で、「平忠常」と呼ぶ。

居城地については確定要素に乏しいが、私の知る限り3ヶ所ある。

一つは千葉県千葉市の「大椎城」で、これは千葉氏の伝承に基くように思える。
もう一つは千葉県香取郡の「大友城」付近であり、これは「今昔物語」の記載に基く。

「大椎」のある千葉市は、千葉県の中央にあって、「上総」に近い。
一方、「大友」のある香取郡は、茨城県と境を接する利根川付近にあって、千葉県では北東部になる。「下総」である。

3ヶ所目は、忠常が乱の途中から移ったという、千葉県夷隅郡の「伊志見山城」で、千葉の真ん中より南部よりで上総国と思うが、場所をよく知らないから今回は行ってない(^_^;)。

忠常が領したのは「上総・下総」であるから、モチロンこの3城以外であっても良いとは思う(^^ゞ。
実はもう一箇所、相馬郡に拠点を置いていたとも言われるが、それがどこかやっぱり判らないので(^_^;)、最後に手賀沼の写真でも出して、お茶を濁そうと思う(笑)。

千葉氏筋の伝えだと、大まか「大椎」が先で、「大友」を経由して、常重の頃に「千葉城」(千葉市)という経路を辿っている。

まずはこの「大椎城跡」のある千葉市の方に行くが、城跡に行く前に、「平忠常ゆかりの寺」という伝えのある「東光院」に寄っていく。

場所は、地図A(拡大すると寺名が出て来る(^^ゞ)。
鉄道だと、JR外房線「鎌取」駅が近い。

千葉市と言うと、東京湾に面する内房側のイメージがあるが、県庁など並ぶ都市部は確かにその通りだが、こんなに内陸深く入った山奥にも及んでいる(私達も知らなかったが:爆)。

私らは高速だったから「大宮IC」で下りて、↑→こんな長閑な風景の中を行った(^^)。

あいにくの雨で、画面がユラユラしたり、ワイパーが写っちゃってるが(^_^;)、千葉市もちょっと奥まった地域に入ると、自然が溢れてて、GWなのに人も車も少なくて、なかなか良かった♪

到着。「東光院」(^^)。まずは駐車場から(パノラマ3枚・ほぼ180度)

駐車場を出て正面。長い石段を登る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

威容堂々たる木立の作り出す濃い深緑が目に鮮やか(^^)。
↑登る途中から右手に見えて来る鐘楼堂。
また石段の途中に並ぶ数々の供養碑には、「秩父・三十四番観世音・供養碑」という大正時代の物もあった。
石段の左手から写すと、こんな感じ(^^)↓

(パノラマ3枚・ほぼ180度)

そろそろ階上の門が見えて来た(^^)。↓
門から振り返って階下を撮影。→
今は淡緑の楓も、きっと秋には綺麗な紅葉になるんだろうね〜(^^)。

門に入って展開する境内(パノラマ5枚・180度以上かなり魚眼(^_^;))

境内に進む前に、どんな具合に「忠常ゆかりの寺」なのかを話しておきたい(^^ゞ。

実はこのお寺に来て、「うわぁ〜忠常の事は、どこにも書いてない(*o*)!」と思った(爆)。
だから、もしかしたら、「県民ならではの地元情報」という、超ローカルな部類かもしれんが(^^;)、私の知る限りでは、「忠常が地域民衆の病気平癒のために建てた」という言い伝えがある。

この由来からも察せられる通り、ここの本尊は薬師如来で、社務所にズラリと並ぶ御守にも、「癌封じ」や「ぼけ封じ」、子供の病気除や身代札などが多く、病気を防いだり平癒を祈願する寺だ。

だが忠常を由来とする史跡なんて、県内でもそう多くは見付からないので(^_^;)、この際、ここを舞台に「平忠常の乱」を書かせて貰う事とした。

「平忠常の乱」は、地方史レベルでは、乱による荒廃が、その後の房総の歴史を特異な物とした点にあると思う。
一例として、乱後の開発によってと思われるが、律令の頃よりも新しい地名が多く誕生したと言うことだ。

が、この乱は、そうした地味な地域史を越えて、全国レベルでも注目される(^_^;)。

その主な要因としては、「鎌倉幕府の御家人が、どっから降って沸いたのか」という点かな〜と思う(笑)。
これは「源氏の東国における台頭」の上でも重要だろうから、まずは源氏の側から書く。

清和天皇−貞純親王−(源)経基−満仲┬頼光(摂津)
                         ├頼親(大和)
                         └頼信(河内)−頼義−(八幡太郎)義家
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−┘
└義親−為義−義朝頼朝 (八幡太郎義家より先は、詳しくは源氏系図を(^^ゞ)

源氏(清和源氏)は、三代目・経基の時に源姓を賜り、939年ごろに「介」として武蔵国にやって来る(ちなみに「守」には、臨時の「権守」として興世王が就任している)。
この辺りは、2008年10月<筑波山中〜羽鳥(服織)〜湯袋(弓袋)>の通りで(^^ゞ、将門が謀叛を起こすと、「讒言ではあったが、今になって的中した」という事で(笑)、経基は従五位下に叙されて追討軍に加わったという。

が、その後、坂東において、源氏は特には勢力を伸ばしていない。

元々、京に近い畿内周辺に居たかったのかもしれないし、経基の世代だと、まだ皇親の特典が有効だったから、ノンビリしていられたという事もあったかもしれない(笑)。

或は、もし先々の事を考えて、坂東に勢力を伸ばしたいと思ってたとしても、将門討伐に功を上げた藤原秀郷や平貞盛の子孫たちが地盤してて、源氏の入りこむ余地は無かった、という感じもする(^_^;)。

ところが、それから250年ほど経って、頼朝が挙兵した時(1180年)には、すでに「重代の家人」が登場し、その勢力の殆どが坂東武者である。
頼朝の父・義朝が出た「保元・平治の乱(1156年・1164年)」でも、「古くから仕える家人」がゾロゾロ出て来る中に、坂東武者(房総では千葉氏上総氏など)が入ってるから(^_^;)、ここでも、もう遅い。

さらに遡ると、八幡太郎義家の「後三年の役(1083年〜)」、その父・頼義の「前九年の役(1051年〜)」になるが、そこでも「源氏が坂東の武者を従えて」となっている(^_^;)。

ところが、そこからさらに遡る「平将門の乱(935〜940年)」では、前述のごとく、源氏はそう目立った活躍をしたわけでもなく、存在感も薄い(笑)。

なのに、例えば大河ドラマ「炎立つ」でも、頼義・義家父子は圧倒的に勢威を張っていて、秀郷流の直系である藤原経清がヘイコラしてるのを見て、「何で源氏はこんなに兵力があるの(゚.゚)?」と不思議に思った人も居ただろう(笑)。

そこで注目されるのが、「平将門の乱」から「前九年の役」までの間で、頼義の父・頼信の制した「平忠常の乱(1028〜31年)」という事になる(^_^A)。

その前を辿ると、源氏は地域によっては下手すれば、「武勇もない癖に、先祖をチクッた嫌なヤロー」に過ぎない(爆)。
そこで、この乱が、源氏と坂東武者の結び付きの発端であり、前九年の役の前段階として、注目されるのである。

歴史の事はおいおい書いていくとして、「東光院」の境内には、沢山の石像が祀られていて、どれもそれぞれ「お願いの筋」が明確で面白い(^^)。
こちらは「赤目蛙(かえる)」↓
こちらには「他抜坊(タヌキ)」と書かれていた→

「無事帰る」に引っ掛けて、蛙を御守りにする神社はよく見るが、この「赤目蛙」の「赤目」は、「神通力を得て、人の運勢が48通りに見え、悪い事があれば全てを良い方にかえる(替える)」という意味が書いてあった(^^ゞ。

一方、右の「他抜坊(タヌキ)」は、「他の人々を追い抜いて(他を抜き)、自分が一番先に進む(身心出世する)」といった意味が書かれ、負けず嫌いな人に向いている(笑)。

他にも「負けるもんか御守」というのがあって、元は「病気に負けない」という意味だったんだろうが、これも勝負が必然の人(受験とかスポーツ選手とか)には向いてるかもね(^^ゞ。

くどいが、この寺の境内には、どこにも「忠常ゆかり」とは主張されてない。
なのに内部に佇む、こうしたあらゆる装置が、「忠常に引っ掛けている」と感じるのは気のせいだろうか(笑)。

こちらは「太子堂」だったかな
「縁結びの道祖神」(^^)。右にチラと見えるのは↓

「喜常(きつね)之宮」!
よく覗き込むと……
キツネが!

稲荷じゃなくて「喜常(きつね)」という命名が面白いんだけど(笑)、お堂の横腹には「皆さんの日頃の愚痴を聞いてくれます」と書いてある!!
「他抜(タヌキ)」で頼んで出世出来なかった人が、「どうもタヌキは相性が良くないらしい」と、ここに来てグチグチ言うのかな!

←これはご存知、「招き猫」(^O^)。下に結ばれた沢山のおみくじが縁起良さそう〜!
そして同じくご存知(笑)→
字が微妙に違うがっ!
これらのネーミングは誰が考えるのかな(^^ゞ。

いよいよ本堂に到着(^O^)!
本堂の前には、長〜く連なる五色の紐が垂れ下がっている。↓

紐は、ご本尊の仏像の指に繋がってるそうだ(゚.゚)。五色の布にお願いを書いて結ぶのだ。
↑本堂の前にあった、開運おみくじの入った金属釜(^^)

さてさて、源氏に対して、乱で討伐された側の「平忠常」の方も(^^ゞ。

先に結論から書いてしまうと、「討伐された」と言っても、実は源頼信平忠常に対して、武力を全く行使していない。
頼信がまだ房総に入る前に、忠常は降参を申し出ており、これを頼信が受け入れる形で、乱は終息を見ているのだ。

なのに房総は、何百年も「亡国」と言われるほど荒廃した(・・;)。。
つまり頼信への降参より前に、既に戦乱によって荒廃しまくっていたわけだ。
なぜそこまでになったかを探る上で、以下の系図が関係してくる。

桓武天皇−葛原親王−高見王−(平)高望王国香貞盛−維将−維時−直方
                             |   └繁盛−維幹(惟基)
                             ├良兼
                             ├良将−将門
                             ├良文忠頼−(千葉)忠常
                             └良茂−良正−(致頼)

まず高望王が889〜898年ごろ、親王任国の制度に従い、平氏を賜って関東に下り、上総・常陸・武蔵・下総などの開拓の端についた。
やがて子の国香良兼・良将・良文などに、所領の相伝を行なったものと見られる。

良将の子・将門が「将門の乱(承平・天慶の乱)」(935〜940年)を起こした時、将門は、叔父である国香良兼と敵対。
国香は将門の乱に巻き込まれて死に、良兼も乱の終息を見る前に死んだ。

そして将門自身は、国香の子・貞盛の討伐によって戦死した。

この「将門の乱」の時、同じく将門の叔父にあたる「良文」(忠常の祖父)はどうしていたか(^^ゞ。
残念ながら良文は、当時の事を書いたと確定できる書物や、史実として信憑性が高い記述類には、「将門の乱」に対して、一切その登場を見ない。

「将門の乱」の史料としては「将門記」が上げられるが、これには国香貞盛良兼・良正は出て来るが、良文繁盛(貞盛の弟)の名はない。

それが「忠常の乱」では、この良文の子孫(忠常)と国香の子孫が互いに争い合うのだ。

この点については、「まぁ、将門の乱から忠常の乱までは、90年近く経ってるからなぁ(^^ゞ。それだけ長い間には、子孫が増えたりして、また土地争いが起こったんだろうな〜」と、ざっと思っておくのが、まずは適当だと思う。

ただ一つだけウルサイ事を言うと、実は「将門記」というのは、「将門の乱の後すぐ書かれた」とも、「将門の死後から92年後に書かれた」とも言われ、「戦後すぐに書かれた部分と、だいぶ経ってから書かれた部分の合作」とも言われているのだ(汗)。

「平忠常の乱」の終息=1031年
「将門の乱」の終息=940年+霊界の将門一周忌=92年=1032年

これじゃ、「忠常の乱の直後に書いた」つまり、「将門記には、ちょっと忠常の乱の事情も混ざってないか(^_^;)?」と疑われても仕方ない。。

そこで、「じゃあじゃあ、その90年の間に起こった事で何か推測できないの?」
ナイス!(笑) じゃあ次は、それ行ってみよう(^O^)/

その前に、本堂の中にお邪魔(=^m^=)。

「おおおお(*o*)!」と声を上げたのは、まずは月星と七曜の紋。何か千葉氏ならではのムードっぽい!

この垂れ幕を背景に、中央に五重塔、その左右の日光月光の菩薩さま、そしてそのさらに左右を守護する脇侍が、古くから寺に伝わる、二対の毘沙門天像だ。

この兜跋(とばつ)毘沙門天像は、正式には「木造天部形立像」と呼び、かつては山門に二対で安置されていた。
よく各地の山門などで見られる通り、片方が「阿形」、もう片方が「吽形」であるが、実は製作年代がそれぞれ異なるという(゚.゚)。

「吽形」は平安後期の作だそうだから、千葉常胤の頃だろうか。
「阿形」の方は南北朝時代の作というから、或は片方が失われたりで、後世に作り直して補したのかもしれないし、最初から片方だけだったのかな(^^ゞ。

他に、案内版には写真が載せられていた物で、古くから伝わる物では、「木造観音菩薩立像」という鎌倉時代の物が、善光寺式の阿弥陀三尊像の脇侍だったと推定され、檜の一木造だそうだ。

「銅板押出阿弥陀三尊像」は、銅板に打ち出された室町時代の物で、堂内の荘厳具か懸仏などとして使用されたのではないかと推定されていた。
これら重要な秘仏は奥に保管されてるのだろう(^^ゞ。

でも、ここの「木造伝七仏薬師坐像」が絵で描かれて、大きな額縁に入れられ、参拝客にも見られるようになっていた(^^)。この「七仏薬師」の絵が、社務所の御守(方位除など)にも描かれ、他の御守とともに、「平山お願い薬師」として並んでいた。
こちらは(向かって)右にあった仏像さま(^∧^)→

この七仏薬師が、このお寺で最古の平安期の仏像郡で、中尊は座高107cm、一木割矧造で漆箔を施し、薬壷を持つ薬師如来。
左右六躯の胸飾りや腕飾りなどの装飾品を付けた菩薩坐像は、中尊よりやや小さい一木造で、あわせて「七仏薬師」と伝えられているノダ。

さっきの五色の布を連ねた紐も、紋入りの垂れ幕の奥にまで達して、この薬師さまの指に直接繋がり、みんなの切なるお願いを叶えて下さるので、「平山お願い薬師」と呼ばれるわけだね(^^)。

こうしたお寺の姿勢が、身分の高い人達だけでなく、「土地に住む民衆の病気平癒のために建てた」と伝承されるに相応しいと思った。

↑金剛杵だね(^^ゞ。パッと見た感じ、五鈷杵かな。

こちらは法具の置かれた奥に鎮座する、十二神将ではないかと。上には天女の絵が懸けられていた(^^)→

見るからに「密教ぉ〜!」という雰囲気の通り、こちらは真言宗豊山派である(^^ゞ。

では次の段に進ませて貰おう。
「平将門の乱」と「平忠常の乱」までに、平氏一族の間にどうゆう事があったのか……。

「平忠常の乱」では、なぜ忠常が、戦いもせぬ内に源頼信に降伏したのか、当時の史料の中ではハッキリしない。
当時の頼信自身が実際に言った言葉として、「(忠常が降伏して来るとは)思いも寄らない事だった」とあるのを見ても、当時としても、ここが謎と捉えられた感じがわかる。

平安期は武力闘争が必ずしも美徳とはされない時代だから、頼信の言葉には、「武力など用いなくても、源氏の仁徳や威光に自然と屈したのだ( ̄^ ̄)」という、一種の自慢や宣伝がある、とはよく指摘される点だが(笑)、そうだとしても、忠常が源頼信を選んで投降した事に変わりはないし、頼信が「驚いた」というのも、それなり重要な証言だと思う。

そこで、戦後の受け止め方を知る手掛かりが、乱より随分後に書かれたかな〜とは思えるものの、「今昔物語」の記述に求められる。

そこで忠常は、「源頼信はやんごとない方だから、すぐにも従いたいのだけど、惟基は先祖以来の敵だから、(これと行動をともにする)頼信に従うのもちょっと……」と言うのだ。

もちろん「今昔物語」には、「辻褄を合わせてる部分」は多々あるだろう(^_^;)。「どうして忠常は、それまでは土地が荒廃するほど抵抗しながら、頼信が来ると聞いただけで降参したのか」という点が疑問だったので、納得するためにそう書いたのかもしれない(^^ゞ。

だから、頼信ヨイショの部分は置いといて( ^^)//、ここで注目するのは、「先祖以来の敵」の部分。これには裏づけが無くもない。

「今昔物語」にいう「惟基(これもと)」は、下の系図に見る、「維幹(これもと)」の事だろうと推測されている。

高望王┬国香貞盛−維将−維時−直方
     |   └繁盛維幹(惟基)
     ├良将−将門
     └良文忠頼−(千葉)忠常

維幹の父・繁盛は、忠常の父・忠頼と仲が悪かった。
繁盛が太政官に「比叡山にお経を奉納したいのに、忠頼が邪魔する」と訴えを起こして、忠頼への討伐を望んでいる。

つまりここで、「親子二代に渡る抗争(゚.゚)?」という構図が浮かび上がって来るわけだが、実は忠常が源頼信に降参する前に戦っていた相手は、貞盛の曾孫・直方なのだ!
しかも繁盛が太政官に申請してる文書には、やれ「旧敵」だの、「(忠頼は)以前からの恨みを晴らそうとしている」だの、もう既に敵対関係の長さが伺える。

ここから、「重代に渡る怨念の図式」というのが事実なら、さらに一代遡って、国香良文の兄弟の間にも無かったか……という疑いが生まれやすいと思う。
国香良文の時代となると、さすがに「平将門の乱」と時代が被って来る(^_^;)。

やはり「今昔物語」だが、良文については「嵯峨源氏の源充と、互いに武芸を競い合い、互角であると互いに認め合った」という説話がある。
この「源充」が、「将門の乱」の発端から将門と敵対した「源護(嵯峨源氏と見られている)」と関係があれば、良文と将門には、共通の敵を相手に手を組む関係があったようにも受け取れる。

前段階が長くなって恐縮だが、次は、その辺りに突っ込んでみたい(^O^)!

お堂を出て、→こっちに行ってみる
こんな、なだらかな坂の上には

←集団墓地がある。霊園では墓地の売価とか示されてて、まだ入れる余地が充分ありそう!(爆)
↑そして坂を下りると、ここの墓苑の守りをする六地蔵サン達(^^)。六道の入口と称されていた。上でも下でも、ご先祖の死後の平穏をお願いする、という事だね。

坂の途中からは、本堂の屋根が見られ、手前に設置されたトイレには、古風に衝立があって、そのさらに手前のお手水風の甕があり、カワイイ金魚も泳いでたよっ(^^)。
さて、「良文が国香と戦っていた」とするのは、主に千葉氏妙見信仰を物語る「妙見縁起」などに見られる。「染谷川の合戦」がそうだ。

これは、1528年(あるいは1550年)の「紙本著色千葉妙見大縁起絵巻」に描かれている。
群馬県群馬郡の「染谷川」において、良文将門と力をあわせて国香と戦っている内に、僅か七騎になってしまい、良文と将門が戦勝祈願をした所、妙見菩薩が雲に乗って現われ、矢を拾って渡してくれた。
これを射た所、国香の大軍には剣の雨が降り注ぎ、見事劣勢を挽回、国香勢を打ち破った、という霊験話である。

すると、1500年代ぐらいに出来た話か……と思いきや、1200年代に福島県に行った相馬氏にも、似たような縁起が伝わっていたと見られる。
福島県に伝わる「下総国千葉郷妙見寺大縁起絵巻」(1662年)にも、やはり舞台が染谷川で、そこにやはり妙見が雲に乗って現われるが、ここでは妙見が水かさの増した染谷川を瀬踏みして向こう岸に渡し、劣勢の良文の危機を救っている。

1300年代ごろ成立したとされる「源平闘諍録」にも、将門の苦難を妙見が助けて、勝ちに導く話がある。
この話では敵が良兼で、その後、将門に見切りをつけた妙見は、「丸きり敵の元に行くのも、ちょっと」と良文の元にやってきて、以後、良文の子孫たちの守り神となる。

妙見縁起だと、良文と将門は仲良しこよし( ^^)人(^^ )、「源平闘諍録」だと、将門には必ずしも同調してない感じが伺え、くっつけ合わせると、国香と敵する時は一緒に戦ったが、その後は将門と距離を置いた、というストーリーが出来そうだ。

「将門記」にも、新皇となった最終段階の将門に対し、郎党とおぼしき伊和員経と、将門の弟・将平が諌めるシーンがあって、最後まで将門政権を主宰していた興世王や藤原玄茂を、「将門に道を踏み誤らせた」と結論づけていて、ついて行けなくなった人々が伺われる。

が、妙見縁起は「妙見の霊験」を示すための筋立てで、そこに「将門」や「良文」を繋ぐ線さえあれば良かったのだろうから、細かい事を言い出したらキリがない(^_^;)。

だから今回は、敵が国香良兼かでは違いが出る、という事だけ書く(^_^;)。
実は謎の90年の間、国香の子孫たちが揉めた相手は、良文の子孫だけではなく、良兼の子孫たちともさんざやりあっているからだ(^_^;)。。

高望王┬国香貞盛┬維将−維時直方
     |   |   └維衡正輔
     |   └繁盛維幹(惟基)
     ├良兼−公雅−政頼(致頼)−到経
     ├良将−将門
     ├良文忠頼−(千葉)忠常
     |(村岡)   
     └良茂−良正−(致頼

国香の子・貞盛の系譜は伊勢に勢力を伸ばし、やがて清盛に繋がる伊勢平氏となっていくわけだが、この貞盛の子・維衡が、良兼の孫・致頼(良正の子ともいわれる)と、998年に伊勢で合戦沙汰を起こして、両者ともに流刑されている。

この二家の対立も続いたと見られ、維衡の子・正輔と、致頼の子・致経の間でも繰り広げられ、これより語る「忠常の乱」の最中にも、この対立図が出て来る(^_^;)。。

「将門の乱」との繋がりはともあれ、ここまで来て何となく気づくのは、「いつも一族の誰かと揉めてるのは、結局、国香の子孫ばっかじゃね?」という事ではなかろうか(笑)。

そこで次は、この一家(一族)について、ちっとほじくってみよう(^。^)。

坂の途中から見える対面側の社
本堂の←側にも行ってみよう(^^)

まず小さい坂を登って、最初に見るのが、

←ド〜ン!とデカイ巨木。「身代わり癌封じ」と名付けられてて、樹木の裏に廻って見ると……
↑こんな感じに癌みたいな瘤がある。これを撫でて、自分の癌を代わって請け負って貰うんだね〜。その隣のポストは賽銭入れなんだけど、鬼太郎の「妖怪ポスト」を思い出したのはなぜだろう(笑)。

さて、「平忠常の乱」は、「将門記」のような、乱の前段階から、その動機が窺い知れるように書かれた記述物が存在しない。

史実に登場した時には、「既に房総一帯に乱が派生している」という状態で現われ、「追討使を誰にするか」という、消火活動からしか詳細がわからない。

1028年、6月、忠常の追討が朝廷で議せられ、実はこの時に源頼信が推薦されていたのだ。
しかし選ばれたのは頼信ではなく、さっきも書いた通り、直方だった(^_^;)。。

高望王┬国香┬貞盛┬維将−維時直方
     |   |   └維衡−正輔
     |   └繁盛兼忠維良
     |        └維幹(惟基)
     ├良兼−公雅−政頼(致頼)−到経
     ├良将−将門
     └良文忠頼−(千葉)忠常

まず直方の父・維時が、この時期に「上総介」になった点が要注意である。
そしてこの維時が、貞盛の孫であるのに、貞盛養子となっている(^_^;)。

貞盛はこのように、孫に限らず、弟・繁盛の子、つまり甥もズンチャカと養子に加えていた。

貞盛の系譜は、さっきも書いた通り、良兼の子孫と揉めながらも、伊勢に勢力を伸ばしていくわけだが、貞盛の弟・繁盛の系譜は常陸に勢力を伸ばしており、関東においては良文の子・忠頼忠常の父)と対立していたと見られる。

しかし「忠常の乱」を25年ほど遡る1003年には、繁盛の孫・維良も、「忠常の乱」と同じような叛乱を起こしていたのだ!
維良は下総国府を焼打ちし、官物を略奪するなど叛逆を起こした。一度は追討が送られる事にまでなった。

この維良、余呉将軍として名の高い、維茂(繁盛の子)と同一人物という説もある通り、武勇の人だったようで、父の兼忠は上総の国守(介)だったが、上総のみならず、下総や武蔵でも兵乱を起こしている。

こうした経過の中、維良を擁護していたと思わしき筋から「待った」が入ったり、1014年から三年に渡って、維良の父・兼忠から藤原道長に馬や砂金など、莫大な物品が送られたりで、維良は追捕官符を受けた身でありながら、鎮守府将軍に任じられている。

これは、当時の貴族の日記にも憤りが書かれるほど、露骨な「賄賂」だったと見られ(^_^;)、鎮守府将軍への就任と総合すれば、「揉み消し」に成功した事にもなる。

この維良、上の系図で見ると繁盛の孫であるが、これは維茂と同一人物とも言われ、そうであるなら、貞盛の養子となっている人物である。

「今昔物語」で、忠常に「先祖以来の敵」と言われた維幹(惟基)も、やはり繁盛の子であるが、同様に貞盛の養子となっている。

つまり貞盛は、将門の乱の功績と、その後の鎮守府将軍・就任というダブル昇進によって、従四位にまで進んだ人物であるから、少しでも貞盛に近い方が七光りに預かれるのである!

このように、貞盛繁盛兄弟の子孫たちは、良く言えば身内の結束が堅く、悪く言えば他を陥れる事はあっても、自分達が落ちる事は未然に防ぐ手段をゲットしていたのだ(^_^;)。

こう見て来ると、「国香と良文の兄弟が揉めた」という伝承に頼らずとも、貞盛・繁盛以降の連携だけで、「重代」の構図は、何となく裏づけが取れて来るかもしれない(笑)。

坂からも見えた緑の屋根のお堂(^^)(パノラマ2枚)

←お堂の前に佇む鐘楼
↑お堂の右(向かって左)には深緑が溢れ

左(向かって右)には
ヒッソリと赤い屋根の社がある

これだけハイカラな寺の中で、この奥の社だけが何の字もなく、何となく意味深(^_^;)。
まぁきっと、稲荷とか八幡だろうと思うけど、「きっとここが忠常ゆかりのぉ〜!」という期待を寄せつつ、次の「大椎城跡」に向かった(笑)。



<「大椎城跡」と「大椎八幡宮」>

大椎城跡は「土気」にある。地図B←現地に行っても場所が判りにくいから、拡大して貰うとだいたい判るかと。
一方、縮小すると判るが、「東光院」からはかなり距離があって、さらに内陸に入っている。内房と外房の中間ぐらいまで入ってるかな(^^ゞ。

鉄道はJR外房線の「土気」駅。駅からは歩いて行ける距離だと思う(^^)。
私らは千葉東金道から間道を縫って、千葉外房道に乗り、大木戸IC辺りで下りたと思うけど、下りてから先、道がわかりにくくて、かなり周囲をウロついた(笑)。

外房道に乗ってる頃から雨脚が強まる
「長興寺」というお寺の門

この「長興寺」の前に駐車場があるので、停めさせて頂いて、そこから「大椎城跡」あたりの全景を撮影。

右のコンモリなだらかな稜線が「大椎城跡」(パノラマ3枚・ほぼ180度)

実はこの前にも、どこからなら入れるか、さんざん周囲をウロついたんだが、よく判らなかったので(^_^;)、このお寺に散歩に来られた現地の方に教えて頂いて(ありがとうございました!m(__)m)、何とか中にも潜り込んでみた。

そして一箇所だけ、小型車なら城跡地の中を突っ切れる道を発見したが、この日はかなり雨脚が強かったせいか、凸凹道だったからか、写真のデキはむごかったので(^_^;)、この写真が撮れただけでも満足している(笑)。

あれだと晴れてても、ちょっとどうかな〜と思ったけど、後日ネットで、この城跡に訪れる市民学習の散策が行なわれているのを発見したから、現地に詳しい方の案内を得るか、よく地形を確かめて入るのなら問題は無いようにも思えた(^_^A)。

この「大椎城跡」のスグ南西に、「大椎八幡宮」という社を見付けたので、場所を少し移して、そこからお届けしよう。地図C

←こんな木立の中をやって来て
↑これが「大椎八幡宮」。1999年の新築記念の碑が建っていた。

ここもちょっと城跡っぽく森林に囲まれて(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

この境内の前は二手に分かれ、さっきのなだらかな森林道と……

←こんな階段道もついている。 ↓力強い表情の狛犬

雨も降ってたけど、だいぶ遅い時間帯に入ってたのもあって、写真が暗くて恐縮(^_^;)。

大椎城は、千葉氏発祥の地である。
冒頭部に、「大椎→大友→千葉」と書いたので、その通りに進んでいるが、

忠常常将常永常時−常澄−(上総)広常
            └常兼常重−(千葉)常胤┬胤正−成胤
                              ├(相馬)師常
                              └(東)胤頼

忠常常将」までは「大友」、「常永(常長)」の頃に「千葉」、「常時(常晴・上総氏の祖)」が「大友」を引き継ぎ、「常兼(千葉氏の祖)」が「大椎」に住んだ、とするものもある。

千葉城にも、「1126年、千葉常重が、大椎城から千葉城に居を移した」と書かれているので、途中の細かい過程は違っていても、千葉常重の頃までには大椎に居たのだろう。

しかし「相馬」「大友」「大椎」「千葉」といった各場所に、「どの時代にどの世代が居た」という記述は、それによって彼らの移動形態が判る、とか言ったものではない気がする。

どちらかと言うと、そのどれもに拠点らしきがあって、その時々の事情によって本拠を移したり、分家が移り住んだ、とかいう事かな〜と思っている(^_^;)。

良文の子孫は上総・下総(千葉県)・武蔵(埼玉県・東京都)などに分布して領したが、良文じしんの名乗る「村岡」は、埼玉県熊谷市説と、神奈川県藤沢市説がある。
良文以降、どこから来たのかは不明だが、986年の文書に「(どっかから)武蔵に来た」と、太政官符にあるそうだ。

それが忠常の頃には、既に「上総・下総」を領する大勢力となっている(^_^;)。
つまり忠常より後の世代は、この両総のどこに住んでいても、そんなに不思議でもない(笑)。

だからむしろ、なぜ忠常の頃にそれほどの大勢力が出来たのか、という点が、不思議と言えば不思議なのかもしれない。
次はその辺りに迫ってみたい!(^O^)/



■7月・千葉県香取郡東庄町
<沼闕城跡(福聚寺)と椿海>


↑何て読むんだろう。。
さて、ここからが、このHPでは珍しい、かなりの緊急レポ!(笑)
先月の後半に行ったばかりの「沼闕城」「大友城」に場面を移す(^^ゞ。

7月の旅行は、2泊3日で千葉市と銚子市、そして香取郡の東庄町に行った。どれも千葉県である(^_^;)。。
旅程の最後が、この「沼闕城」「大友城」で、銚子から帰ってくる順路にある。

地図D←拡大すると「福聚寺」が見える。お寺を目的地に行くと、もうそこが城跡という場所だったから、ここは判りやすい(^^)。

田園の向こうに見えて来る「沼闕城跡」を含む山並→
現地には城跡を含む広大な「県民の森」があり、豊かな自然が市民に提供されている(^^)。

←これがそうだが、この中で城跡地は、左端のほんの一部(^^ゞ。他はバーベキュー広場とか、自然観察路、花や野鳥やキノコ栽培などの場がタップリ広がっている。

で、まず言っておかなくてはならないのは、この「沼闕城」は、平忠常の城ってわけではない(爆)。
ここは千葉氏から出た東氏の城跡で、戦国期の遺構も含まれるそうだ。

ただ東氏については、別の所で話す機会もあるかな〜と楽観してる(笑)。
今回ここを忠常の話に選んだ理由は、話の都合というフシもあるが(爆)、この地域一帯が千葉氏や東氏にとって、恐らく「先祖伝来」という意味合いを含め、重要な場所だったのではないか、という憶測に基いている(爆)。

「地域一帯」と言ったのは、ここはこの後に行く「大友城跡」に、非常に近い場所にある城跡で、大友城は今の利根川流域に面していたように思え、一方この沼闕城のある山は、昔なら南の「椿海」に面した場所にあったようにも思えるからだ。

到着(^_^A)。……お城の遺構のような(゚.゚)。(パノラマ2枚)

駐車場から、既にこういう感じ(^^ゞ。この先をちょっと行けば、「福聚寺」と「城山の森」のある場に出る。

さて平忠常の大勢力が、いかにして築かれたか……。

忠常を降参せしめた源頼信について、「今昔物語」では「頼信が常陸守となって下向していた時」の話が登場する。
頼信は確かに「平忠常の乱」の十数年前に「常陸守」となってるようだから、書かれた逸話は「乱の起こる前段」と受け取るのが良いかもしれない(^^ゞ。

そして「今昔物語」では、既にその頃の忠常が、「私的勢力が極めて大きく、上総・下総を思うままに支配して、公的な仕事や賦役を放ったらかしにしていた」とある(笑)。

しかし実は忠常は、まず「上総介」に任じ、さらにその後「下総権介」に就いているのだ。
上総は親王任国なので、「介」は事実上の国司であるから、「私的勢力」「思うままに」と言っても、「勝手に入り込んで、荒しまわった」とかいう程ひどくはなかろう(笑)。

が、乱が房総のほぼ全域に及んでいる事から見ても、そうした地位を背景に、房総全域に殆ど瞬く間に勢力を広げた、という事は考えられるかもしれない(^_^;)。

先の平繁盛の太政官への文書(986年)には、「忠頼らが武蔵に移住して、(自分を)妨害しようとしている」とあるが、その後、「更科日記」の菅原孝標が「上総介」に着任した1017年より前には、忠常が「上総介」になっていた可能性があるという。
それから乱が勃発したとされる、1028年までとなると……。

やはり上総に来て、十数年前後ぐらいで房総じゅうを仕切った、という事かな(^_^;)。。

しかし将門の乱で、これと言った功績を確認されていない平良文の孫、忠常が、上総や下総の国司になった事からして、突飛な印象を受けなくもない。

そこで一説に、時の政府が、国香流平氏の増長を抑える事を意図し、重代の敵対関係にある平忠常を、あえて上総に打ち込んだのではないか、という見方もある。

時の権力者は、関白の藤原頼通。国香流の直方はこれに仕えている。
一方の忠常は、頼通の弟・内大臣の教通に近かったようだ。
この両陣営に、それぞれ中央の権力が関わって、国家総動員の形となってしまった、という見方もある。

さて、駐車場から先に進むと……。

左手には薄暗がりの森が拓け(パノラマ5枚・180度以上)

右手には「福聚寺」の敷地が見えて来る(パノラマ5枚・180度以上)

左手の森が、どうやら「城山の森」で、現地には何も書いてなかったが、東氏の「沼闕城」跡だろうと思われる(^^)。
城山の森には後で廻るとして、先にお寺に行ってみよう。

福聚寺」の中国風な山門→
↑現地の案内図。
この図だと、右から入って来て、今、「福聚寺」の前に居る。

この案内図は、寺と城山の森の間に建っていて、「天保水滸伝・遺跡遊歩道」と書いてあった。
「天保水滸伝」というのは、江戸後期の任侠抗争を描いた講談や浪曲。東庄町は、そのゆかりの地で、ここにも登場人物の一人、勢力富五郎の碑が、寺の前の道から左方向に続く先にあるようだ。

こんな道ね(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ではでは、お寺に入ってみよう(^O^)(パノラマ4枚・180度以上)

この寺は、江戸期の名僧・鉄牛が晩年を過ごした事で知られる。

千葉県は、今でこそ陸で一繋がりに見えるが、東端の銚子やこの東庄あたりは殆ど孤島と言っていいぐらい、ほんの一部しか房総半島と繋がってなかった(^^ゞ。

北には、今の利根川が昔はもっともっと川幅が広かったし、南からは、昔は「椿海」と呼ばれる広大な水域が入り込んでいたため、この南北の海域が繋がっており、銚子や東庄をそっくり囲み切っていて、これより行く「大友城」のあった辺りなどは、恐らく一番「椿海」が入り込んでいて、もぉ陸地がそこでプチッと切れそうな所にあった(^_^;)。

太平洋側はやがて塞がれたようで、江戸時代の図面では、陸の中の湖となっていた様子が伺える。
と言っても、海上、香取、匝瑳の3郡にわたり東西12km、南北6kmにも及ぶ広大な湖である。今は完全に埋め立てられている。

←寺に入る。        江戸初期の「椿海」↓

水運を司り、あるいは土地に立て篭もって外敵に備える拠点としては、絶好の場所なんだが、江戸初期、人々に農業をさせて暮らして行く時代となり、この椿海を水田とするべく、干拓の願いを土地から申し出た。

が、諸事情あったのだろう。なかなか幕府は許可してくれなかった(^_^;)。。
そこで、江戸にいた鉄牛が、この地域の人のために幕府に働きかけたのだ。

鉄牛は、寛永5年(1628)に山口県に生まれ、11歳で寺に入り、黄檗宗を開いた隠元禅師に出会って、江戸でも人望が高い僧侶だったので、幕府の許可を取り付け、自分も73歳で生涯を閉じるまで、福聚寺に晩年を過ごした。

寺には、鉄牛が69歳の時の像、「紙本著色(じほんちゃくしょく)鉄牛和尚像」が残され、これは江戸の弘福寺で、初期洋画の作者として知られる僧・巨竜禅人によって描かれた、繊細・華麗な作風。
他にも、天和3年(1683)に、独得の泥絵具を用いた事で知られる喜多元規の、力強い作風「紙本著色・隠元・木庵・鉄牛」の三和尚像が残されている。

巨竜禅人も喜多元規も鉄牛の門下で、いずれにも鉄牛の自筆が入っている。

立派な本堂と庭園(^^)(パノラマ2枚)

ウ〜ワンワン!怪しい奴!(笑)
中国風の門から外へ戻る(^^ゞ→

はじめに、平忠常への追討使として選任されかかりながら、平直方にその座を奪われた源頼信は、最終的には追討の任に就くわけだが、この頼信の人柄ついても少し書いておきたい(^^ゞ。

清和天皇−貞純親王−(源)経基満仲頼光(摂津)
                         ├頼親(大和)
                         └頼信(河内)−頼義−(八幡太郎)義家

将門の事を中央にチクッた「経基」の後、「満仲」も似たような事で頭角を現し、その嫡子・頼光も、後世、大江山の鬼退治をした事になったものの、実際には警備や盗賊の追跡・捕縛ぐらいで、摂政藤原氏と婚姻で繋がったりしつつ、京で和歌を詠む貴族であった。

頼信も父や兄たちと同じく、藤原氏に仕えていた。

頼信の主人は藤原道兼だったが、この道兼は、その兄の道隆と犬猿の仲だったので、頼信は主人のために道隆を刺そうと邸に入ると言い出し、兄の頼光に「失敗するかもしれないし、成功してもそれで道隆公が関白になれるかわからないし、なれたとしても、それでは一生主君を守りおおせるか疑問だ」と止められた。

ここは兄・頼光の言い分がもっともで、忠義心のつもりでも、主人の迷惑になるのがオチだろう。
やれ暗殺だ呪詛だのを言い掛かりに、優位な職や中央から遠ざけられるの、相伝が別系に行っちゃう事は多かったし、それらが実は冤罪であっても、自作自演すら行なわれて足を引っ張るのが貴族社会だ(^_^;)。。ホントに実行したら、どんな事になるだろう。。。

こんな暴挙を思いつく弟に猪突されては、いつ自分にまで連坐が及ぶか、わかったもんじゃない(^_^;)。お兄さんは心配なワケだ(笑)。

しかし頼信のこうした実行力、人を思う一途さは、東国ではウケが良かったに違いない。

「今昔物語」に、頼信と忠常の逸話がある。
史実性はちょっと置いといて(^^)//、面白く興味深い話なので書いてみようと思う。

今度は「城山の森」に入って来る(パノラマ4枚・180度以上)

↑の反対側、奥まで森が続いている↓(パノラマ4枚・180度以上)
端っこ↑この明るい辺りまで行くと、

山並の向こうに田園地、昔は「椿海」があった辺りかと(パノラマ3枚・ほぼ180度)

さて、「今昔物語」に入ろう。
上総・下総を「思うままに支配」している平忠常の話を聞いて、源頼信は懲らしめようと、「惟基」に話を聞くが、これは繁盛の子・「維幹」だろう。大掾氏などの祖にあたる人物である。

維幹は「忠常の勢力は強く、住居は要害で容易に近づけない」と多勢で攻める事を勧め、自らも三千騎を調え、鹿島神宮で頼信軍と合流した。

維幹にすれば、これまでに書いた通り、父・繁盛の頃から敵の家である。中央からきた頼信を担ぎ、ヤル気満々で、「邪魔な忠常などやっつけてしまえ!」てわけだね(^_^;)。

ところが、忠常の住居に攻め入るには、入り海を巡って陸路で七日かかる。
頼信は舟で忠常に降伏の使者を立てたが、忠常は「頼信殿には従いたいけど、維幹は先祖の敵だから」と拒否するのである。

忠常は攻撃を察して、既に舟をみな隠してしまっていた。
船を隠された頼信は、「坂東は初めてで不案内だが、家伝によると、この海には3mほどの浅い道があって、馬の腹が立つていど水に浸かれば、歩いて行ける」と道案内を請う。

私はこれを読んだ時、「海のど真ん中に、向こう岸まで歩いて行ける浅瀬の道なんか、ホントにあるの(゚.゚)?」と、不思議いっぱいの気持ちに包まれた(笑)。

本当にあるのだとしたら、ぜひ見てみたい!!(≧▽≦)
正直この思いが、「一度は行ってみたい場所」という動機の第一だった(爆)。
今見ている「椿海」とは反対の北側、今の利根川から続く海の事を指していると思われる。後でその辺りも行ってみよう(^^ゞ。

鉄牛禅師の碑(だったと思う(^_^;))→
↑南東方面に見える「八丁堰」(貯水かな(^^ゞ)

さて、忠常の居場所まで歩けると言った頼信達はどうなったか。
頼信に言われて、道案内に名乗り出た者が、自分が通る後を、従者に葦を一束づつ突き刺させながら進んだので、大勢の軍兵がそれを目印に全て渡れた。

忠常は、「まさか頼信殿が、この浅瀬の道をご存知あるまい」と、のどかに準備をしていたら、浅瀬を渡って来たという伝令があって、忠常は「仕方ない」と、頼信に名簿(家臣となる誓約状)と謝罪の文を書いたので、頼信も「強いて攻める必要もない」と軍を引いた。

「今昔物語」の概要は以上である(^^ゞ。
この話では、「忠常が頼信に降参した理由」を語ってる気もするわけだが、それはつまり、「前もって、このような主従関係にあったから」という事になる。

もちろん「今昔物語」にあるような武勇話が、実際にあったかは立証できない(^_^;)。
説話に見るのは、知略の人に対して臣従を決意する人、という「主従の一例」に過ぎない。

が、ここに清和源氏たる頼信と、坂東平氏たる忠常の「主従関係」が成立している所も、歴史的な意味合いとしては小さくない。
「忠常の乱」が問題となった当初、源頼信が追討使から外されたのも、二人の間にこうした主従関係があると見なされた事が原因ではないか、という指摘もある。

また、頼信を「一枚上」に描いている事は確かだが、一方の忠常に対しても、「国賊」の惨めな姿をもって辱める場面にはなっていない事も、後世の受け止め方の一つと見ておいていいのかもしれない。



<大友城跡と、その周辺>

「今昔物語」に言う「衣川(今の利根川)の尻やがて海の如し。鹿島梶取(香取)の前の渡の向ひ、顔見えぬ程なり」、ここまでが大利根自然公園にあたる、と推測されるそうだ。

さらに「而るに彼の忠恒(忠常)の栖(すみか)は、内海に遙に入たる向ひに有る」というのは、「椿海から大友の下に入り込んだ谷と桁沼の間で、下総台地は最も狭くなっており、“船曳”の地名が残り、大友の砦あたりから内海を監視できる地点」という。

そこで、この「大友城跡」が最適の地として浮かび上がるわけだ。

大友城跡(パノラマ3枚)

地図E←だいたいの位置を出すけど、実は探しながら周囲をかなり走り回ったあげく、現地の方にお聞きしたので(ありがとうございましたm(__)m)、ちょっと正確な場所がわからない(^_^;)。。

この「大友城」の話は、「忠常の乱の前」と思えるが、上記で書いて来た通り、国香流の勢力に対する防衛拠点として、この地域も関係しただろうという推測で、続きを書く(^^ゞ。

「忠常の乱」における叛乱の原因は、納税をめぐるトラブルだったようで、先に書いた平維良にせよ、平忠常にせよ、地方で叛乱が多く起こる背景として、国司が任期の最後の年に、極めて過酷な納税を行なった事が上げられる。

1028年、当時、「安房守」であった「惟忠」なる人物が、忠常に焼き殺されるという被害報告があるが、これが貞盛繁盛の一族であるかは定かでない(字が近いけどね(^^ゞ)。
同年6月、忠常への追討が議せられ、平直方中原成通が追討使となる。

しかし「国司は忠常の掌握の下にある。国人も国司の命令なんか聞かない」と報告される具合で、事実上、房総じゅうが忠常を支持している様子が伺える。
つまり「将門の乱」のような事が、その90年ほど後に、また再現した事になるが、その規模は、将門の時とは比較にならないほど広範囲だ。

追討の選定が6月なのに、なぜか追討使らの出発は遅い。この時点から、追討使に選ばれていた平直方中原成通の間に、不和が生じていたのかもしれない。

ノロノロしてる内に7月となり、上総では忠常に与した国人によって、「介」の県犬養(あがたいぬかい)為政が取り籠められる事件が勃発。叛乱軍の動きは早い。
忠常側は、時の内大臣・藤原教通に使者を送って弁明につとめ、追討令の撤回に動いたが、8月、この使者は京で捕えられてしまう。

また、追討使もようやくこの8月に京を発ち、1029年2月には、東海・東山・北陸にまで「忠常追討への協力」が官符をもって命じられたが、叛乱は全く収まらず、12月に中原は任を解かれてしまう(^_^;)。
追討使同志に内輪揉めがあったようで、こうした事態によって、追討軍の動きも忠常の叛乱状況も、京は知る手掛かりを失ったと思われる。

こうして報告の途絶えた三年の内に、悲劇は起こったと思われる。

平地の脇を廻り込んで山に続く(パノラマ2枚)

脇に続く道路で山の向こうにも出られる(パノラマ3枚)

亭主は歩いて山中に入りたがったのだが、この時期、亭主は足を故障してたので、思わず「やめた方が(^_^;)」と止めて(笑)、車道の方を行った。
←かなり暗い。鬱蒼とした山道で、左の木々の間から城跡の様子をチラッと窺い知る程度だった。

1030年3月、「安房守」には、新たに藤原光業なる人物が下向したが、印鎰を捨てて京に逃げ帰った。
さらにその後任として、平正輔(↓)が赴こうとするが、途中の伊勢で、良兼の曾孫(か良正の孫?)の致経と私闘となって行けない。

これがさっき話した、良兼流との私闘を引き継いだと見られる部分だ(^^ゞ。正輔の父・維衡(貞盛の子)は、致頼と伊勢で合戦した咎により流刑になったのだが、その後に復活し、この時は「常陸の国守」であった。
これも維良の時と同じく、あるいは「賄賂」の結果かもしれないが(笑)。

高望王┬国香┬貞盛┬維将−維時直方
     |   |   └維衡正輔
     |   └繁盛┬兼忠−維良
     |        └維幹(惟基)
     ├良兼−公雅−政頼(致頼)−到経
     ├良将−将門
     ├良文−忠頼┬将常
     |(村岡)   └(千葉)忠常
     └良茂−良正−(致頼?)

こうして、「上総介」に維時、その子の直方が追討使。直方の主人は時の権力者、関白・藤原頼通
「常陸の国守」に維衡、その子の正輔も追討使。

叛乱の鎮圧に、ダラダラと何年も時間をかける内に、忠常に対し、国香流が包囲していくようになるのを、国家権力が後押ししていく構図が出来上がっていく(^_^;)。

山を潜り抜けた。大友城跡の全容が見える(パノラマ3枚・ほぼ180度)

さらに連なる山々。どれもそう高くはない(パノラマ2枚)

5月、忠常が伊志見山(上総国・夷隅郡)に籠る。大友城からだとかなりの距離に思え、恐るべき広範囲に及ぶ戦乱になってる事が伺える。
また、この時に忠常は出家しているようだ。

1031年3月、下総国からは、下総守となった為頼が政府への報告に「忠常への追討によって、国の荒廃が甚だしく、安房・上総・下総(つまり房総全土)は既に亡国になった」と訴えており、為頼の妻子は、飢え死にしている。
この報告からは、忠常の叛逆行為より、国家の追討によって荒廃している事がわかる。

こうして直方はついに召還され、やっと初めて追討使に任じられた源頼信は、忠常の子の法師を連れて京を出発。
頼信は甲斐守だったので、いちど甲斐に立ち寄ったのだろう、彼が甲斐にいる間に、忠常は出家して「常安」と名を変え、子二人と郎党三人とともに投降した。

忠常は京へ護送中、美濃で病死し、首のみが京へ送られた。
忠常には他にも子がいて、まだ降伏してなかった常将と常近について、朝廷は議論したが、関東の荒廃と忠常の死を理由に、さらなる追訴は沙汰やみとなった。

こうして「平忠常の乱」は終息した。

高台から遠い低地の臨める場所に出られた(パノラマ2枚)

大友の近くに“船曳”という地名があったようで、ちょっと地図には地名が見当たらなかったが、地図で見ても、昔この辺りまで水辺が寄せてた地形に思えるので、持ってた本にある地名を頼りに行ってみた。

地図F←ところが、この辺りから「昔水辺だった(^^)」と思わしき風景に出会わなかったので、ちょっと周囲を走って、それっぽい所を探す内に、こうした風景にやっと出会えた。

←さらに車を走らせる内に、同じように低地の臨める場所に出会う。

「今昔物語」に言う、源頼信の攻め寄せた岸辺とは、こんな感じだったろうか……。

乱後、三年を経た1034年になっても、上総守となった者が話した実情は、「追討使の直方や諸国の兵士は、多くの被害を受けた上総国から、三ヵ年分の租庸調を調達させられ、塵一つ残さない有様」というものだった。

上総守の持っていた、前任者・維時直方の父)の徴符(税の徴収状)の控えには、上総にあった22,980町余もあった田が、18町余に減っていた。

上総守は続けて、「将門の乱も随分な被害を出しましたが、これほどではありません。自分が赴任した年は、それでも50町余に増えており、今はやっと1200町余となり、他国に逃げた人民も帰って来ました。これも復興のための太政官の免税措置を守り、少しの税も取らなかったからなのに、報告のため上洛すると、京の貴族は、官符にある被害などまるで無いような調子で、寄ってたかって納物を催促され、困ります」と言った。

「2万町が18町」には誇張があるとしても、「将門記」にある戦いを見る限り、この当時の戦いも、未だ焦土作戦だっただろう。
討伐側が農地も住居も片っ端から焼き払った後、収奪の限りを尽くしたという事になる。。

戦場の実態が時間が経つほど伝わり、改めて驚くのは現在でも同じだが、源頼信が起用されて終戦を迎える直前、国の守たる下総守の家族ですら、飢餓に苦しんで死んだのだ。
増してや、住人たちに起こった事を想像すると、壮絶な思いにならずにはいられない。

周囲を走り回って、やっと辺り一面が拓けた場所に出会えた(^_^A)。
見渡すと、周りが水辺を囲む島のように見える。→

「将門の乱」と「忠常の乱」には、90年もの月日が隔たっており、時代や世代の遠い二つの乱を、同じ構図として繋げて見るのは、危険な行為だと思う。

良兼流国香流と対立してたと言っても、良兼流は忠常追討に関しては、追討軍側にも名を連ねているし、将門討伐の第一の功だった藤原秀郷の子孫も、同じく将門討伐の功労者・貞盛の子孫と鋭く対立している。

こうした、将門の乱による勝ち組と思える者同志が、苛烈に勢力を争い合う中にあっては、所詮、無事平和を望むこと自体が難しい。
将門の乱に関与があっても無くても、良文流はこの渦中で、生き残りレースの波に飲み込まざるを得なかっただろう。

しかし良文流が、将門もいた下総に流れ込んで来た過程の一幕に、この「忠常の乱」が入り込んでいる事は、紛れもない事実だ。

そして忠常の叛乱行為に対して、房総の国人たちがこれを支持し、国じゅう疲弊するまで終息しなかった事実は、後世に、「将門の乱」への補足を促したのではなかろうか。
あるいは、同じ国香流の討伐による将門追討でも、「同じような惨劇が行なわれたのでは?」という想像が生まれたかもしれない。

一説に、忠常の母は、将門の娘ともいわれる。
しかしその真偽を問うまでもなく、千葉氏が猛然と「将門の子孫」と主張するのも、叛逆罪の烙印を押され、国家の繰り出す討伐軍に焦土とされた、この乱に根源があると思えて自然だし、あるいは房総に入り込み支配していく過程で、既に忠常自身にかつての将門と思いを共有した部分があっても、これまた自然だろう。


頼信は「(忠常が降伏して来るとは)思いも寄らない事だった」と言うが、忠常の子の法師を連れて京を発った、という事は、戦闘の前に説得する事を考えて、とも思えるから、ここに「前もって頼信と忠常の間に、懇意があった」という推測が生まれるのだろう。
つまり「今昔物語」は、その前段階の「穴埋め」を行なっているわけだ。

その「今昔物語」においても、頼信が言い出さなければ、地元の人は浅瀬の道を教えず、案内もしなかったように思え(長文なので省略してあるが(^^ゞ)、そこから地元では、維幹いがいは「忠常を攻める気がない」という感じもウッスラ漂って感じる。

房総全土が「追討によって亡国となった」点、一戦も交えなかった頼信には、訪れる前から降伏した点について、「頼信になら降伏してもいいが、先祖の敵には降伏しない」→「そこまでして、直方には降伏したくなかった」という推測が補強されてるようにも思える。

今度は水辺のあった側から陸地を見てみる(パノラマ3枚)

「亡国」「亡弊国」と呼ばれた房総の荒廃地は、忠常の子孫から取り上げられた形跡もなく、その後の上総氏・千葉氏へと続く。

(千葉)忠常常将常永┬常時−常澄−(上総)広常
                 └常兼常重常胤┬胤正−成胤
                              ├(相馬)師常
                              └(東)胤頼

「千葉大系図」には、土地に残った忠常の子・常将は、さらに子の常永とともに、源頼信の子・頼義に従って、前九年の役に参加したとか、頼義の子・八幡太郎義家が常永の烏帽子親となったとか、常永の子の常兼も、義家に従って、後三年の役に加わっていた事などが書かれているそうだ。

実際に、前九年・後三年で頼義・義家に従軍した事を、戦歴の初めに上げる家伝の類は、房総平氏に限らない。
良文流の諸族も、繁盛流の諸族も、事実関係はどうあれ、「平忠常の乱」をきっかけに源氏への従属を果たした事になってるものと見られる。

が、常将・常永・常兼3代の、こうした源氏との主従関係は、「陸奥話記」など信憑性のある史料にはなく、忠常の後は、常胤の代に源義朝に従って保元の乱に参加するまでは、千葉氏が源氏に従った形跡は見られない(^_^;)。

今後は源頼信からの視点という事で(^^ゞ(パノラマ2枚)

一方の源頼信の側だが、頼信の子・頼義直方の娘を娶り、義家(八幡太郎)を儲けている。
直方が縁組を求めたのは、頼義の武勇を見込んで……という事のようだが、これが「忠常の乱」の前か後かは、ちょっと気にならないでもない。

頼義も「忠常の乱」に従軍したという話があるが、頼義が成年に達している時期だから、事実の可能性はあると思う。
頼義の長男・義家の誕生年は、実は定かではないのだが、だいたい1039年ごろと言われていて、妥当な線に思う。

すると、忠常が降伏した1031年より後に娶った直方の娘から、1039年に義家が生まれた……と見れそうな気がする(^^ゞ。
その方が「(忠常の乱に従軍した)頼義の武勇を見込んで」という発想も頷けるし。

こうした駆け引きが行なわれた後年、房総平氏がした選択……それが第三勢力たる源氏を、坂東の地に引き入れ、頭領に祭り上げる事だった。

千葉常胤の時代、坂東武者は頼朝の下に糾合して独立政権を編み出し、やがて鎌倉時代を迎える。
頼朝の出る頃になると、関東の武士らは各々が縦にも横にも連帯関係を作り上げているが、千葉氏についてもそれが言える。

注目するのは、千葉常重大掾氏と婚姻し、その間に常胤を儲けた事だ。
大掾氏は忠常に「先祖以来の敵」とされた、あの維幹の子孫である。

以上、関連事項は、
2005年11月<将門神社>内
2008年6月「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」01〜07話内
2008年9月<「野本の戦い」跡地周辺「鹿島神社」>以降
   〃   「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」21〜26話内
2008年10月<筑波山中〜羽鳥(服織)〜湯袋(弓袋)>以降
   〃   「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」27〜33話内
2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内
   〃   「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」34〜39話内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内




■3〜5月・千葉県柏市
<日頃の風景(手賀沼)から(^^ゞ>


というわけで、最後に手賀沼の風景を出して締め括ろう(^^ゞ。
千葉市の東光院や大椎城跡に行った前後の、日頃の風景から。

いつも行く手賀沼を目指していたら……あらら、可愛いワンちゃんが荷台に(^O^)。一室貸切でお散歩!(笑)
来年(2010)は千葉県で国体があるらしく、手賀沼はマラソンでもやるのか、周辺も道路の整備などやっている。

←国体のポスター。地図の千葉県にハマッてる動物が「チーバくん」だぁぁ!(爆)↓
手賀沼に昇る月模様↑
以後、季節と時間ごとの手賀沼の湖面を(^^)。

3月ごろかな。夜の手賀沼と橋の灯り(パノラマ4枚・180度以上)

5月初め。湖面から上がる蒸気が雲に(パノラマ4枚・180度以上)

5月後半かな。夕暮れの紫色に染まる空と湖面(パノラマ2枚)

次回は、春から夏の、この手賀沼の風景も交え、今回先送りした松戸市の「相模台城跡」を(^^ゞ。
その後は、7月に行った千葉市と銚子市(犬吠崎)のレポを、3回ぐらいに渡ってお届け予定〜♪

2009年08月14日
 
     




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