<2017年・城主のたわごと4月>




2016年9月・夜の松戸駅周辺、10月・上本郷七不思議

11月・栄町の龍角寺も行ってみましたー!




     
  今回は、冒頭のみ、これまでと同じく↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

で始まるが、最初の提示は、たまには新ネタ、菅原道真の話……↓

〜おしながき〜「湯島天神(天満宮)編
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>
(リンク間違えてました。後で貼り直しました。2017/05/12)

↑を入れてみよう(^^ゞ。
その前も、境根原古戦場ウォーキング(2016年6月号)や、松戸の根本城跡(同7月号)、北総の龍腹寺(同11月号)など、小ネタながら史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り……↓

〜おしながき〜「武蔵千葉氏編」1〜4
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>
(リンク間違えてました。後で貼り直しました。2017/05/12)

その前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
(リンク間違えてました。後で貼り直しました。2017/05/12)
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さて、前回は秋に差し掛かった所で、今回に引き継いだので、今回はこの秋(9〜11月)、地元の古文書講習でちょくちょく通った夜の松戸から、続きをスタート。

続いて、10月も松戸市内。
前年の秋も参加した、地元歴史会のウォーキングに、今年も参加〜(^o^)
今回は上本郷の七不思議めぐりで、これは前々から巡ってみたいと思っていた散策コースが、運よく企画されたのに相乗りっ♪

そして秋も深まり……11月。
久々に印旛郡栄町の「房総のむら」に足を伸ばした帰り、せっかく近くまで来たので、前も行った龍腹寺と同じ龍伝説を持つ、「龍角寺」を今回は訪れてみた☆彡



■千葉県松戸市・9月
<夜の松戸〜古文書講習とレトロな繁華街>


←前回ここで終わった。夜の松戸駅西口。
前回も言った通り、この時期、夜な夜な松戸をウロつく用事があったからだ。

どういう用事かと言うと、古文書史料の解説講習|ω・`)<ソォ〜ッツ

これに通学する傍ら、パート労働にも出る多忙ぶりだったが(^^;)、この機を逸すと、二度と受講できない内容に思えた。

話のつづきは後に譲るとして、松戸駅の駅前は、東口も西口も歩道橋上(二階)に整備されており、↑西口(地図←詳しくは拡大を)を出ると……↓

しばらく歩道橋を歩いてから地上に降りる(パノラマ4枚180度以上)

↑ここまで、前回の写真(^^ゞ。今回は、この歩道橋を降りて……↓

地上道路に出た(パノラマ4枚180度以上)

駅前を遠ざかって……
正面に「松戸市民劇場」(地図

この駅前通りには、後でまた戻って来るんで、覚えておいて(^^ゞ。

で、この市民劇場のある十字路を右折して、しばらく行くと……、

↓道路の左側ビルの並びに……
↑「ゆうまつど」女性センター(地図)のビル→

建物の名は、女性の就労や育児の相談を専門にする施設っぽいが、講習は、『戦国末期の史料を読む−西原文書の世界−』というもので、受講者も女性でなく高齢男性が多かった(笑)。

講師は市立博物館・学芸員、中山文人氏で、前年の境根原古戦場ウォーキング(主催は市立博物館・友の会)でも、市民相手に歴史案内を勤めておられた(中世〜戦国あたりが専門なんだろう)
9月〜11月、隔週で行なわれた。1回2時間・全6回。

西原文書」とは、このほど松戸市で購入した古文書のセット(10点)で、西原氏というのは、後北条氏の家来。

だからこの古文書群も、多くは北条氏の書類だが、西原氏は同盟相手の今川の救援に駆り出された事もあるので、今川氏真より出された感状も混ざってる。
駿河侵攻といって、今川義元の死後、武田や徳川に攻め込まれて、氏真が駿府から逃げ出した時(1568年)のね(^_^;)。
宛先は北条氏で、「オタクの家来が頑張ってくれましたよ!」と、給料を出してくれるよう報告してあげるもの。

一方、松戸市が買った理由としては、一応「第二次国府台合戦(1563〜64年)の直前、松戸の戦国大名・高城氏の名が後北条氏勢力として現れる、貴重な当時史料であるから」という名分。

どういう所かと言うと↓この辺りだわ

ところがどうも兵糧の値段で折り合いがつかなかったらしく、それを高城氏が「今がチャンス!」と北条氏に知らせた。
チャンスってのは「謙信が来る前に攻めるなら今」という意味で、北条勢も兵糧は不足してたが、慌てて三日分のみ携帯し、江戸城も守らず、すぐ国府台に攻め込んだ。
「千葉県の動乱vol2」内<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>

古文書には、まさに「兵粮は3日だけ持ってけばいいから、早く出発ぅー!」とあった(^_^;)。

ただ、高城氏の名が出て来るのは、10点の内、この1箇所なんだよね(^_^;)。
だから購入には、「神奈川後北条氏の地元)に予算が無くて、西原文書を買えない」という裏事情もあったらしい(爆)。

こうした古文書って、バラバラに分けて購入すれば安くなるものなのかわからんが、そうだとしても、分割は散逸や保存状態の悪化を招くため、望ましくない。
私もこの手の古文書が、幕末から昭和の戦後までの動乱期、いかに試練の道筋をたどったか、あれこれ読んでるんで、「分けるなんてとんでもない(^_^;)」と思った(笑)。

そして出来れば、博物館など、保存方法に長けた機関の懐に入るのが一番望ましいので、松戸市立博物館の所蔵になったのは幸いだった、とも思う(^o^)v

……と、歴史オタクは思うが、他の市民はそう思ってくれないかもしれないので(^_^;)、皆さんの血税が、かくかくしかじかに使われました、という報告も兼ね、講習が開催されたんだろう(笑)。
だから受講料は無料!(受講できるのは松戸市民に限る:笑)
なので、この機会を逃せないノダ! 松戸で開かれた高城氏の展示会ってのもやった事あったけど、一度限りだったんだよねー。。(財政事情的に当然だろうが:汗笑)

……お堅い話はここまでにして、先ほど言った通り、また駅前通りに戻って来よう↓

途中の路地にフラリと入る(パノラマ6枚180度以上)

←左手にちょっと見えてるのが駅前通り。(↑方向に市民劇場 ↓方向に松戸駅)。
今、その途中の路地を→こう入って来てる、この路地が、すごくレトロなムードで、「今の内に撮っておかないと、無くなる恐れ(^_^;)」と、一生懸命パノラマ撮りに燃えていたら……。

撮影中、傍を通った男性が、私の撮影が終わるのを待って、
「ここ、撮っておくのは今が最後のチャンスかもしれませんよ! もうすぐ建て替えで、取り払われるような話も出てるようですから!」
と、声をかけてくれた(*o*)!

頷ける気がするのは、松戸に戻って来たばかりの何年間は、確かにあったハズの喫茶店やら古本屋やら、昔ながらの店々が、いつの間にか姿を見せなくなっているのに気づく日々だったから……。

「やっぱそうですかー勿体ないですね〜!」
と、応じると、その方、
「この裏手が、またとない風情なので、是非ちょっと裏に廻ってみて下さい」
と教えてくれた。
夜で暗く、裏にも建物があるかまで見通せなかったので、このアドバイスは助かった☆彡

まず↑に印度カレー屋さんの黄色い屋根が見えよう。その隣の隣が「やきとり」の暖簾を出してる「上州屋」なる一杯飲み屋で、そのまた隣は「もつ焼き」「樽酒」を掲げる「松戸酒場」なる店↓

「上州屋」に

「松戸酒場」

これらの店の間からも、この裏手に入れるように、各店舗の合間に隙間があるのもオツなんだが(ちょうど店のオヤジさんらしき人が、その隙間↑に立っているのが見える)、「松戸酒場」(地図)で一度、左折カドがあり、店の裏にある細い路地がさらにオツなので、そこから撮影してみた。

これが「松戸酒場」の建物の裏側↓
人一人やっと通れるほどの細〜い路地
この左側の店と店の合間に背中を入れて、カメラを縦に構えて、下の写真を撮りパノラマで繋げた↓

懐かしい赤提灯と紺に白抜きの暖簾。グッと来るね〜(縦パノラマ5枚ほぼ180度)

ちょっと前まで、こういう店やら路地やらはいっぱいあったのに、ここ10年ぐらいの間か、急激に無くなった気がする。

今、東京なんかで見かけるこの手の風情は、殆どが「再現」「作り物」だよね(^_^;)。。
わざわざ「レトロ」と銘打って、特別に新築されるため、木の電信柱とか戦前の看板とか、ちょっとわざとらしい古さを演出し過ぎて、返って、こういうありふれた感が無いものだよね(笑)。

しかしさすがの再現物でも、こういう「路地」となると難しいかも……。今は消防法とかクリアできないような気が……。。



■10月
<上本郷七不思議・プロローグ、「中根城跡」>


冒頭に述べた通り、地元歴史会のウォーキングに参加〜(((つ^o^)つ
この「上本郷(かみほんごう)七不思議」というのは、だいぶ前に松戸七福神めぐりお寺で買った、地元の史跡巡りガイドにも載ってて、すこぶる興味深かったもの。

もっと昔を辿ると、子供の頃にも、小耳に挟んだ記憶がウッスラと……。
が、その頃ちょうどオカルトブームだったから、「怖い(>_<)」という印象があったんだよね。。
全部巡るとだったか、子供同士で行くとだったか、何か悪い事が起こるみたいなノリだったような……(単に子供同志でいくのを禁じてただけだったかも:笑)

ネットで見ると、今はそんな風潮は見聞きしないが、車だと入り込みにくい所もあるし、言い伝えの通りに残ってない目印も多いようだったので、何となく行きあぐねていた。

それがこのたびは先導して頂け、しかも大勢で行けるというのが大変ありがたく、参加した♪

コースは前もって、歩く部分に線が書き込まれた地図を手渡されたが、所々省略など、微妙な変更も行なわれながら進んだ。

北松戸駅を出発し
水戸街道を北上

大まかには、JR常磐線、各駅の「北松戸駅」(地図)からスタートし、ちょっと北を周りながらも、やがて南下していき、最後には新京成線「上本郷駅」(地図)で解散する。

(通常通りの縮小サイズで地図を提示するが、徒歩による移動なので、結構細かいから、詳しくは、地図サイト内部でサイズを拡大しながら見て下さい(^^ゞ)

「北松戸駅」の後、順路は駅の裏手の競輪場に行く予定だったが、さっそく省略が指示され、水戸街道に真っすぐ出て左折(地図)、北上。やがて「首切地蔵」(地図)に行き会う↓

元治元年(1864)、水戸藩の佐幕派・佐藤久太郎(※)が、同藩の攘夷派に小金宿で捕われ、ここで斬首された。
村人が地蔵を祀って冥福を祈ったが、何度もが無くなり、今も無いと言う事だが……

三体の内、中央の地蔵には首があった→

この祠の背後は森に覆われた急な斜面で、上に龍善寺があるそうだが、特に見る物は無く、登るのが大変なので、後で遠望する事として、登らず先を急いだ。
やがて右折(地図)、小道に入る。
(※ 佐藤を「討幕派の密偵」とし、「幕末に水戸藩に捕らえられ、脱走に失敗して斬首」とする記述も見かけるが、wikiでは「諸生党」とある。
水戸は幕末に二派が激しく争い合った地で、維新により急転直下、官賊が大逆転したので、敵味方の混同が時々見られる:汗)


水戸街道(国道6号線)は大型車もスピード上げてバンバン通る、まさに大道路だが、いったん曲がると、閑静な住宅街が続き、やがて奥まるほどに……↓

鬱蒼とした背の高い竹林
由緒ありそうな民家

まるで京都にでもいるような景観( ^o^)〃迴~~

地図←今この辺り。
行く先々で、おうちの庭先や田畑、道端、学校や保育園などにいる方々に、地域に伝わるお話などを聞いて回っている様子だった。スゴイなぁ(゚.゚)
こうやって聞きこむ事が、地域の歴史を知る重要な手がかりなんだねっ!(`・ω・)=3

(パノラマ3枚)

近くの「廣照寺」(地図)も順路に入ってて、「下総国分寺の末寺」(真言宗)との事だったが、ちょっと歩くのでこれもカットされた。
どうも目当ては、廣照寺が別当を勤めていたという「安房須神社」のようで、そちらに真っすぐ向かった。

竹林をさらに登り……
安房須神社」(地図)到着

実はこの「安房須神社」も、前から来たかった所で、中世〜戦国期、「中根城」があった跡地の中心に位置する。

中根城は、現在は殆どが住宅地となって、遺構が残るのは、この安房須神社周辺の台地のみだそうだが、城の規模は、城域の北部が馬橋の南部に届き、南部は北松戸駅と並ぶ緯度と、かなり大きかったようである。

ただ、その広大な敷地は、たぶん戦国期の物じゃないかと思う。
……と、わざわざ断って言うのは、この中根城は、ずいぶん古く、鎌倉時代には城(居館)があったとされており、その頃の城の持ち主は、千葉氏とみられている。

鎌倉大草紙は、この鎌倉期にすでに「小金城」があったとし、「頼朝の時代の千葉常胤から六代目の頼胤が居住し始め、貞胤・氏胤と続けて使用し、千葉に移って」云々と記している。

千葉常胤−胤正成胤−胤綱−時胤−頼胤−胤宗−貞胤氏胤

そこにいう(鎌倉期の)「小金城」を、この「中根城」と見る説、ここよりすぐ北の「馬橋城」(地図)とする説、さらに北の「大谷口城」(地図)とする説もあるようだ。

ここ、安房須神社にも「由緒書き」が出されていたが、そこには無難に(笑)、高城氏の戦国時代のみ、こう書かれていた。

「(戦国期の)高城氏は根木内城地図)が手狭になったので、大谷口に小金城地図)を新築した」と、よく言われている通りの事を述べた後、「この中根城は、南の防衛のため設けられた前線の出城」という記述があった。

ここから先は、こたつ城主の“想像”だが、鎌倉期に千葉氏の三代が使用した後は使われず、戦国時代になって高城氏が、千葉氏の居館があった場所を含め、範囲を拡張して作り直したんじゃないかな〜と(^^ゞ。

緑の中の厳かな本殿を後にし
再び住宅街を練り歩く

あとは、安房須神社の由緒書きから、そのまま(^^ゞ↓

高城氏は有力な武士を配して防備をかためた。武士を新作(ここの地名)に住まわせ、日常は農耕に従事させ、有事には出動できる態勢をとらせた。新作は武士の居住集落として発生した。
豊臣秀吉の関東攻めで高城氏は敗れ、滅亡した。中根城守備の武士は帰農し、新作は農家集落となった。

新しい村づくりのできた新作住民は、郷土の平安と繁栄を希求して少彦名命を勧請し、安房須神社を現在地に創建した。慶長11年(1606)である。

その後、明治41年、村落内に分散奉祀されていた猿田彦命道祖神)、菅原道真命天神社)を同神社に合祀した。
安房須神社は三柱の神の鎮座するお宮であり、古来からあつく信仰されている安産の神・子育ての神・学問の神のいます宮居である。



<上本郷七不思議@〜A、「明治神社」雷山と獅子舞>

歩く途中、先ほど、「首切地蔵」(地図)で登るのを省略した「龍善寺」が遠望できると、案内されたので、「どこだ、どこだ」とみんなで目を凝らした。↓

住宅地の合間の空き地から
(中央拡大)「龍善寺」が見える(^o^)

ちょうど周りの建物が切れた所があって見られたけど、ここから見えるなんて、よほど丹念に下見しないとワカラン気が……。
下準備して下さった方、頭が下がりますぅ〜(^人^)<合掌

龍善寺地図)は浄土真宗で、昭和9年、新潟県から本堂を移すために松戸に来られた住職さんが、北に筑波山、南に富士山が見える小高い丘が気に入って、昭和11年に建立したそうだ。

この龍善寺の近くに、かつて「雷(いかずち)山」があったとも言われるが、ハッキリした事はわからないようだ。
「いかずち山」とは、「上本郷七不思議」の一つ、「官女の化け物」がよく出た場所で、このあと行く「明治神社」に、その名残りがあるともいわれている。

というわけで、ここでいよいよ真打、「上本郷七不思議」の登場(`・ω・)=3

このウォーキング最初の「七不思議」は……

@「二ツ井戸」→
……残念ながら、伝説の井戸は現在もう無く、代わりにかような大きい石碑が道の傍らに建てられ、 「七不思議 二ツ井戸址」と字が刻まれている。(地図

以前は釣瓶井戸二つ並び、片方が澄んでると、もう片方が濁っている点が「不思議」の謂れ。

又、この地区では、ここ以外に井戸を掘ってはいけないと言われていたそうだ。

……ちなみに、「上本郷七不思議」って、ネット検索すると案外いっぱい出て来るんで、松戸の有名or人気スポットなのかもっ(笑)
(ただし、それぞれの内容は全国によくあるパターンらしいよ(^^ゞ)

ただ、大抵は上本郷駅から始まり、北松戸駅の方向に向かって、@番・A番・B番……と番号を振られるのを見かけるので、今回とは順路も振り番も逆のような気がする(^_^;)。。

お次は「明治神社」(地図)正面
我々は裏手から廻って入った(^^ゞ

「明治」に出来た神社かと言うと、そうじゃなくて、元は「妙見社」だった。
例によって、明治の神仏混合禁止(神仏分離令)で、明治2年社名を変更してる(^_^;)。。

妙見菩薩は千葉氏の守護神(守り本尊)だったので、千葉氏か高城氏(も千葉支族を自称し、妙見を祀っていた)の城跡近くに、信仰の痕跡が残されている事が多い。

ただ、ここの妙見社は、江戸期の元禄年間に創建されたと聞くので、城跡との関係は不明。(帰農した家臣筋による物か、土地に根付いて続いた妙見信仰か?)

さらについ最近、本殿が火事で焼亡してしまい、再建されたばかりなので、建物自体は大変に真新しい(笑)

側面を仰ぎ見ながら通る
改めて正面に集結

この明治神社に、先ほども言った通り、「いかずち山」の「雷神社」にあった物ではないかという、「雷電宮」と刻まれた石が奉納されてるそうだ。

というわけで、「上本郷七不思議」の第二弾いってみよう!

A「官女の化け物の話
昔、(いかずち)神社が祀られていた「いかずち山」に、夜な夜な真っ赤な袴をはいた官女の化け物が現れ、人を驚かせた。


……と、これだけなんだが(^_^;)ゞ、手持ちのガイドに「つづき」の話があって……、

この「いかずち山」を所有した家は、必ず潰れたそうだ(・・;)。。

(そうそう、小さい頃に聞いたのも確か、何らかのアクション起こした人に報い(祟り)がある的なノリだった。このエピが出火元かも……)

そこで、この「官女の化け物」を調べるため、小金城高城下野守が出掛けた所、白髯の翁が現れ、舞を舞って消えた。
高城下野守は、「これは神社に舞を奉納せよ、とのお告げだろう」と、神楽を奉納した。
これが今日に伝わり、「獅子舞」になった、という。


まだ工事中で足組が残されてる
こちらは地面、貝殻がたくさん!

(貝殻は、縄文期の貝塚上本郷遺跡)もここにあったからなんだよ( ^,_^)φ″)

実は、この直後、獅子舞の奉納が、ここ「明治神社」と、最後にいく「風早神社」で行なわれたようだ。
毎年10月初旬ごろ行なわれるそうで、ポスターなどで見た限り、いわゆる獅子舞とは違い、どうも東北奥州市会津など(岩手県・宮城県・福島県)で行われる「鹿踊」にかなり近い感じがする!

風早神社の獅子舞は夕方までに終わるのだが、ここ「明治神社」の獅子舞は、夜に始まり、夜中の0時まで行われるんだって(*o*)!
みた事ある人の話では、「夜の灯りで浮き立って見えて幻想的、夜のをお勧め!」との事だったので、今度ぜひ見てみたい(`・ω・)=3

夜中に行なわれる理由は……、埼玉の秩父神社夜祭りを行なうから、妙見信仰がらみかもしれないけど、夜な夜な出現する赤い袴の官女の化け物に、「こうやって夜でも悪魔祓いしてるんだからね!」と見せつけるためかなー、とも思ったり!( ^O^)//

獅子舞の記録は、明和7年(1770)に奉納があった、というのみで起源がわからないが、話に「小金城の高城氏」が絡むのが気になる点で(^^ゞ、舞や神楽を奉納したというのが、「所有しても潰れずに済むように」という含みと見ると、築城伝説っぽい感じもしなくない。

いかずち山龍善寺の周辺というのが正解なら、ギリギリ中根城(安房須神社のあったトコ)の城域に入ってた可能性もあると思うからだ。



<上本郷七不思議B〜C、「上本郷城跡(本覚寺)」>

明治神社の正門から、門前の道を続けて歩いていくと、途中に「待つ馬の坂 胎蔵院跡」と大きな字が刻まれた銀色の碑に出会う。脇に小さく「上本郷七不思議・ゆるぎの松」と銘打たれている。

そこで立ち止まって、群れて説明を聞くんだが、大抵はよく聞こえないの(^^ゞ(住宅街だから、あまり大声も迷惑だしね)

でも手持ちの写真を見せ廻って下さる方がいて、立派な枝ぶりの松の木の白黒写真だった。
と言うのも、七不思議にある、二つの松の木伝説の松は、両方とも今は枯れてしまって無いのだ(^_^;)。<仕方ないね

上本郷七不思議B
断崖の迫る坂道に続く
急な石段の上に石塔
「ゆるぎの松」

地図←右の丘陵は、上本郷城跡の遺構があるらしい。(このあと、その主曲輪があったと思われる本覚寺にいくが、遺構は殆ど失われいるようだ)

右の写真の階段上にある石塔は、墓か庚申塔などかわからなかったが、急な階段で、踏み幅も狭く、森の中も暗いので、登るのは控えた(ノロノロして置いてかれちゃうと困るし(^_^;))。

が、近所に長く住む人から、地震の時の状況など聞き取りを行っている対話を小耳に挟めた。
石碑や遺構、そして天然の大木などが、いつまではあったが、いつ頃無くなったとか、そういう記録は、工事による移動や撤去なら建築会社に聞けるだろうが、無住の寺社や災害・風化など、近隣住人しか把握してない事も多いので、折々の聞き取りが重要だと思った。

上本郷七不思議
B「富士見の松」(写真で見せて貰ったのはこちら)
昔、本覚寺の南に、一本の大きな松の木があり、全部の枝が、不思議と富士山の方向(西)に伸びていたので、この名がついた。

C「揺るぎの松」(こっちが上の石碑)
昔、上本郷の高台に枝ぶりの良い大木の松があり、水戸黄門が目を留め、幹を撫でると、ユラユラ揺れたので、この名がついた。大正末期に枯れてしまったという。


←やがて本覚寺地図)の背面が見えて来る。
寺の裏からグルリと回り込んで、↑入口に着いたが、←の通り、かなりの高台に聳える寺

先ほどの丘陵(遺構)と合わせて、この本覚寺や、このあとにいく本福寺の敷地は、これもまた昔は「上本郷城」のあった領域のようだ。
先に行った「明治神社(元・妙見社)」になると、城域から外れてるかもしれないが、城の北東方面(鬼門)に位置するのを見ると、祈祷社とか菩提寺などあったかもしれない。

日蓮上人像
本覚寺・本堂

ご覧の通り、本覚寺は日蓮宗の寺院で、開基は江戸時代。
その前の戦国期までは、ここを頂上とする高台に築かれた上本郷城があった。

現在は殆ど遺構が損なわれてしまったが、かつては土塁・空堀が残り、櫓台らしき跡地と思われる高台も認められたそうだ。

高城氏の勢力による城郭(要塞)ではあろうが、城によった人物や使用された時期については、文献などに全く無い。
当地に居住する旧家に、小宮氏がいる事から、高城氏家臣の小宮氏に関するものと推測する向きもある。

又、このすぐ東にある本福寺(次にいく)は、鎌倉後期に開基された時宗寺院であり、千葉貞胤が時宗に帰依していたことから、さっきの中根城同様、ここ上本郷城の起源も、貞胤の時代である建武・南北朝時代の頃に遡れる余地があるかもしれない。

←裏手の墓地からの眺めが素晴らしい↓(パノラマ3枚)

江戸時代に至り、元禄12年(1699)、日蓮宗を慕う信徒によって本覚庵が建立されたが、その前身は「釈迦堂」であったことが、文化3年(1806)の街道図(五街道分間延絵図会津道多功道(上本郷村))に記されているという。

そこに「稲荷」という表記もあり、これは水戸光圀(黄門)が江戸城に登城する道すがら、この地に稲荷の建立を命じた、という伝承を縁起にしている。
その後、この寺では西山稲荷大明神を勧請したようだ。

この景観なら城を作るしかないよ(笑)!(パノラマ3枚ほぼ180度)

松戸水戸黄門日蓮宗と言うと、やはり本土寺(新松戸)を思い出す(^^ゞ。

中世を通じて、本土寺は由緒も格式もあり、勢力も保持していたが、江戸期に不受不施派として弾圧され、受難の時を過ごした。
受不施派から住職を配されて、寺は立て直しが計られたが、光圀が本土寺の保護に乗り出したのも、それ以降だった。

本土寺には、家康の側室で、家康五男・武田信吉の生母・秋山夫人の墓がある。光圀はこの墓所を整備している。
光圀にとって信吉は叔父にもあたるし、信吉は水戸徳川家の前代の水戸藩主でもあったからだ。

信吉は後継ぎなく没したため家系は断絶し、後に水戸藩主となった光圀が、信吉やその生母の菩提を弔う義務を負ったと考えられる。

信吉は水戸に入る前は、小田原征伐の論功行賞で、松戸の小金城大谷口城)に配されていたようで、生母の秋山夫人は、ちょうどその時期に亡くなったのだろう。

それと光圀の生母も、どうも日蓮宗の信者であったようだ。
松戸で水戸光圀の伝説が息づいているのには、このような背景が作用しているのかもしれない。



<上本郷七不思議D、「本福寺」と「カンスケ井戸」>

本覚寺からすぐの距離に本福寺がある。向う途中、脇に低地に降りていく階段があって、「カンスケ井戸」に通じる。

カンスケ井戸への階段
通り過ぎ、本福寺地図)到着→

カンスケ井戸」には本福寺の後に行ったが(^^ゞ、先に写真を出しておこう。
湧き水による溜め池となっており、昔から飲料水や農業用水として暮らしの役に立ってきた。
昔は低地まで汲みに来て、高所まで運んだのだから、さぞ大変だっただろう。

「カンスケ井」とも「カンスケ井戸」とも書かれてるのを見た。(地図
なぜ「カンスケ」なのかわからないが、「乾助」と書かれた標識も見かけた。「渇きを助ける」と読めば、まさに「恵みの水」という意味そのまんまだ。

高所から低地に降りて
これが「カンスケ井戸

この高台に先ほどの本福寺があり、上本郷城の城域にあったと見てよい距離にある。
宅地化される前に残っていた遺構は、戦国期の縄張りと思われるが、本福寺は先ほどの本覚寺よりグッと古く、鎌倉期におきた時宗二代目・他阿真教が伝えた寺だそうだ。

時宗は元は、寺を持たない遊行の群衆(時衆)だった。ここ東葛地方にも三寺しかないという。
昭和35年(1960)に発見された鉦鼓(円形青銅製の鉦)に刻された銘によると、寺の開創は嘉元元年(1303)と考えられ、確かに他阿真教の生きていた時代(1237〜1319)に入る。

他阿真教は、宗祖・一遍より二歳年上ながら、一遍の死後30年を生きた。
時宗は一遍を宗祖とするが、一遍自身に開宗の意思はなく、「自分の一代限り(で解散)」と言うのが一遍の遺志だった。

一遍の死(1289年)の直後、後を追って入水自殺した信者が数人いた。
他阿真教も、同じく後を追おうと丹生山で断食念仏していた所、噂を聞きつけ、念仏札を貰いに来た山麓の領主(北条時俊と推測されている)に懇請されたのをきっかけに、一遍の跡を引き継いで、教団を継続(再編)する決意を固めた。

今は呑気に鯉が泳いで、庭園のような雰囲気(笑)(パノラマ2枚)

本福寺の本尊は、念仏系寺院らしく阿弥陀如来で、向って右に観音、左に勢至を並べるのは、長野の善光寺三尊仏と同じ形式であることから「善光寺式」といわれるそうだ。
一遍は、長野善光寺を篤く信仰していた。初期の遊行でも詣でたし、他阿真教と出会ってからも、陸奥の祖父・河野通信の墓参り(ひじり塚)に行く途中に詣でている。

他阿真教と言えば、神田明神(つまり将門霊場)の前身である柴崎道場の開基としても、房総および武蔵平氏にとって、大恩ある宗教者と言えるのではなかろうか。

本福寺が開基された嘉元元年(1303)、千葉貞胤はまだ11歳だが、その後の南北朝時代にかけて、貞胤が先祖・常胤以来の真言宗の寺を時宗に改めたとも、、貞胤自身が時宗の僧に葬られて以後、千葉氏が時宗に改めたとも言われる。

以前行った、柏市北部の布施城跡は、同族・守谷相馬氏の城跡と推測されており、妙見社の向かいの善照寺に、やはり一遍像があった事を思い出した。
この本福寺と上本郷城との関連は、確かにちょっと気になる所だ。

←宗祖・一遍上人の像
↑そして七不思議の地蔵、顔に切られた跡が。。

上本郷七不思議D「切られ地蔵
昔、覚蔵院という寺で盆踊りがあった夜、このあたりで見かけない踊りの上手な男を、村の娘たちがうっとりと見ていた。
これを面白くないと思った村の若者が、踊る男に切りかかると、男は闇へ姿を消した。
翌朝、若者が、お寺の地蔵の胸に大きな刀傷がついているのを見つけて驚き、ひれ伏して謝った。
覚蔵院は今は無いため、地蔵は本福寺に祀られている。


本福寺には他に、先に「首切地蔵」でも見た、この近くで斬首された佐藤久太郎の碑があった。

あと、吉田松陰が宿した寺でもあり、「東北遊日記」に書かれた文章も、門前の石碑に書かれていた。
長いのと文体が古いので、ざっと要約(&現代訳)すると……。

「千住橋、日本橋、水戸道、綾瀬川、松戸駅、松戸川、本郷村」と、今に伝わる地名が次々と現れ、「道の狭さ、家の少なさ、山が無く、平田は漫々」とあり、人々が舟を利用する様子、「舟は帆を張るので、橋は架けない方が有利」といった、当時の風景が描写されていた。
番所に差し掛かると、「追捕を恐れて、(松戸の旅籠は避けて)時宗の本福寺に身を隠そう」といった、逃亡生活の緊張感も織り込まれていた。

本福寺とカンスケ井戸を出ると、城跡の南隣の幼稚園に行きあたった。→

先生に聞いた話では、城跡に繋がるこの丘陵地に、戦中は防空壕があってよく避難しに行ったそうだ。

防空壕は戦後、どこからも姿を消して行ったが、山の土が粘土質だったので、戦後の物不足の折には、そこの土を使って幼児たちの工作実習の役に立たせた、という貴重な体験談(若い方なので聞き伝えだろう)を聞かせて頂けた。



<上本郷七不思議E〜F、「上本郷館跡」>

上本郷城跡から南へだんだん遠ざかっていったが、カンスケ井戸と同じ水流か、その後も街中の森林地をヒッソリと流れる「宮の下湧水」(地図)に案内して頂けた。

住宅街の合間に僅かな隙間に
悠々と水量豊富な湧き水が流れている→

飲んでみると、水は匂いも無く美味しく飲めた(^^)v

現在、この湧水地は、上本郷第二小学校が中心になって、自然に近い形を残して、大切に保全・活用されているそうだ。 *先生・子供達ありがとう(^O^)*

「こんな所に川があったなんて!」と驚き合いながらも、そう言う同じ人が道中、「あそこは今は介護施設だけど、昔はウィークリーマンションで」とか、「いつもここは通らないけど、あっちの道を通ると〇〇があって」と、互いに知ってる事を教え合うのも楽しいウォーキングだった♪

意外と澄んでて触ると冷たい
今も僅かに残る湧水地の森

この湧水地の森と並ぶ位置に、これより行く、最終地点「風早神社」がある。
松戸市内では一番古い神社で、神社自体の創建時期や経緯は不詳だが、鎌倉〜南北朝時代の地頭・風早氏の館(上本郷館)跡ゆえに神社となった、と推定されている。

……さっきの「上本郷城跡」と、名称は似てるが、ちょっと違う場所にあるので注意ね(^_^;)ゞ

風早氏というのは、千葉氏の一族である。
細かく言うと……、

千葉常胤が平清盛と同い年というのは、時々話してきた(^^ゞ。
つまり千葉常胤は源平合戦の頃、すなわち平安末〜鎌倉初期の人。

千葉氏が史実にも表舞台にも具体的に現れるようになったのも、常胤の代からで、頼朝の鎌倉幕府が創立されたからこそ、千葉氏のその後は保証された。

←比較的広がりのある沼地を選んで撮影

常胤に六人の男子がいて、総じて「千葉六党」と呼ばれた事も、ちょくちょく話してきた。
すなわち、「千葉」「相馬」「武石」「大須賀」「国分」「」といった姓の各々発祥となって、惣領の千葉氏の支えとなり栄を集め、房総内外に子孫を広めた。

そのうち「東氏」は、初代の胤頼は頼朝に可愛がられ、以後の東氏も代々の将軍や執権に信任され、千葉氏いがいの五家の中でも、特別に家格も家名も高めた事で知られる(特に歌の名家として有名)

その東氏から出たのが、風早氏である。
常胤の六男・東胤頼の子のうち、四郎・胤康が葛飾郡の風早郷に住んで、入道となった。

この風早胤康が承久の乱(1221年)で、敵(三上皇軍)を打ち取って手柄を立てた事、「風早入道」が京の閑院内裏の再建で築地の造営を負担した事も、どちらも「吾妻鑑」にあるそうだ。

こないだ行った足利の鑁阿寺も、元は源義国と足利義康の父子が、堀や土手を設けて住んでた邸宅を、義康の子の義兼の代になってから寺にしたものだった。

風早胤康の生没年は知らないが、その父・東胤頼が1155〜1228年で、足利義兼が1154〜1199年だそうだから、だいたい同時代(鎌倉初期ごろ)の人と見ていいかと(^^ゞ。
個人的には、「邸宅を寺にするのが流行った時代」だと思う(笑)

鎌倉時代の館は、戦国期みたいに規模や造作など大がかりじゃないし、立地も平地で痕跡が残りにくいから、寺や神社になって残っててくれるのは有難い(爆)。

横合の「稲荷社」から入ったが
正面はこちらの大鳥居デス(^^ゞ

地図←風早神社。
この正面の鳥居は、上本郷駅(地図)に通じる車通りの多い道路に面している。
松戸市内ではメインストリートと言ってよく、ウチも車でよく行き来して、いつも「一度は拝みに来ないと(^^ゞ」と言ってるお社だった。

それがこのたび念願かなって、ようやく参拝できたわけだが、いつも車でブンブン通る道路からではなく、あのコンコンと清水の湧く泉と森から、フイッと入って来れた事にちょっと驚いた!

風早康胤の後は……、

千葉常胤┬胤正成胤−胤綱−時胤−頼胤−胤宗−貞胤氏胤(上本郷城)
      ├(他四兄弟=相馬・武石・大須賀・国分)     
      └東胤頼−風早康胤┬康常     ┌貞泰
            (上本郷館)└為康−顕康+時秀
                            └泰宗
と伝わるようだ。
この書き方を見ると、弟の為康に家督が行った具合に感じるが、兄・康常はどうも、四代将軍・九条頼経、五代・頼嗣、六代・宗尊親王(つまり執権北条氏(北条得宗家)と軋轢あった側(^_^;))に伺候してたようだ。

鳥居から参道が長〜く続き
途中に小道を挟んでさらに奥に社殿

風早郷は後に荘園化され、南北朝時代には「風早庄」と書かれ始めるそうだ。
神社は、その「風早庄」内の諸祭神を一ヶ所に集めた総代社だったと伝えられ、風早庄内119ヶ村の総鎮守となっていた。
(風早庄=現在の千葉県の松戸市北部と流山市南部、埼玉県の三郷市を含んだ地域)

戦国時代には高城氏の支配下となり、その保護を受けて、天正12年(1584)と同16年(1588)に、高城胤則から喧嘩口論の禁制法度、社殿造営の取り決め発布(番匠の細工を行なう労働時間の規定など)が、同社の文書に見られるという。
その高城氏からは、300石相当の社地を受領し、天正19年(1591)には、家康より社領5石を寄進され、江戸時代には朱印高5石を受け、幕末に至っている。

祭神は経津主神武甕槌神

獅子舞の行われる神社だけあって、狛犬が立派な獅子!

さっき、「明治神社」でも述べた通り、この「風早神社」も、明治神社と同じ日(10月初旬)に獅子舞が行われており、二つを合わせて「上本郷の獅子舞」などと言われる。
松戸では、上本郷の他に、大橋和名ヶ谷の合わせて三地区に獅子舞が伝承されており、松戸市内で「三匹獅子舞」と称される。
(……と書いてあるんだけど、この「三」は、「三地区」ではなく、舞に登場する獅子の数かと(^^ゞ)

上本郷は先ほどの「明治神社」(地図)と、ここ「風早神社」(地図)であるが、あとの二つは大橋の「胡録神社」(地図)と、和名ヶ谷の「日枝神社」(地図)である。

言い伝えでは、「上本郷には、和名ヶ谷から養子に来た人が広めた」とされ、その一番古い「日枝神社」の記録では、天明地震(1783年)と飢饉(1782〜88年)の際、土地の代官が神輿とともに奉納したと伝わる。

一方、上本郷については、元神官の中山家文書に、「明和7年(1770)9月吉日三匹獅子を奉納」云々という記述が見られるという。

……(^_^;)。。
「言い伝え」と「神官家文書」を並べて論じられるかわからんが、どちらも、「奉納された日付の一番古い記録をあげてるだけ」で、発祥の時期がわかるようではない気がする。

だって「日枝神社の方が古い」んだから、日枝神社は「1770年より前」じゃないと計算が合わないもんね(^^ゞ。
(1770年と1782年は寅年なので、元は干支ごとの奉納だったのかな?)

「結局いつ始まったんだろう(゚.゚)?」と思った人がいたので、例の「いかずち山」の「官女の化け物伝説」で、ざっくり前時代(戦国時代)を遡って、「高城下野守が云々」という伝説になってしまったのかなぁ? *ありがちっ(笑)*

狛犬の獅子あたりから、さっきの鳥居を振り返る。かなり遠い(^^ゞ→

これより上本郷駅に向かい、解散となるので、駅の方向を写した(笑)

獅子舞は、長く風早神社の氏子が受け継ぎ、今は上本郷獅子講中が伝えている。
舞の構成は大獅子一人、女獅子一人、中獅子一人、二人、笛数人で、五穀豊穣を祝い、悪霊退散を祈って舞われる。(「三匹獅子」は、この「大・女・中」じゃないかな(^^ゞ)

現在では、元の和名ヶ谷の舞より勇壮だといわれ、剣の舞では太刀を帯びて舞い、猿も白足袋をはき、面は顔を覆うものではなく額の上にのせるもので、場内整理の役目を担う。
昭和44年、和名ヶ谷、大橋の獅子舞と共に市の無形文化財に指定された。

さて、「上本郷七不思議」も、余す所、あと二話になった。

E風早神社の大杉
現在は枯れて亡くなったが、昔、風早神社の境内に杉の巨木があった。あまりに大きいため、その木陰も遠く離れた二ツ木村まで届き、木陰の田は米の出来が悪かった。
巫女に占いを頼んで、受けた神託の通り、影田の不出来な米を風早神社に供えた所、作物がよく実るようになったので、お供えが毎年恒例となった。
平成8年、二代目の杉が本殿の裏に植えられた。


作物が豊かに実った話の後、皆さんとの会食は寿司ランチ〜( ^,_^)φ″
風早で採れた作物も、こうやって美味しく頂いたんだろうね〜( ^o^) _旦~~

と美味しく食べ、楽しく盛り上がって解散し、お店を出て上本郷駅地図)まで行って、
「そうそう、本当はここで解散だったんですよね(^^ゞ」
とか言って、別れたり同じ方向にいく人と途中まで一緒に帰ったりしたんだが……、

実は「上本郷駅で解散」の真の目的は、「上本郷七不思議」最後の一話が、駅の周辺に残る伝説だったからのようだ。そしてその内容が……↓

F八百比丘尼の話
風早神社の前の六軒新田上本郷駅周辺)の村人六人が、長者屋敷の庚申講に招かれた。
ところが、そのうち一人が、「接待のご馳走人魚料理が出る」という話を聞きつけ、六人で相談しあった結果、「食べずに持ち帰るふりをして、途中で捨てよう」と決めた。
ただ六人のうちの一人だけ、耳が遠くて話がよくわからず、捨てずに自分の娘に食べさせてしまった


え゛っ(・m・;)。。<うぐっ

その娘は、800年も長生きし、比丘尼となって若狭国(福井県)に住んだ。後に松戸の千駄堀の村人が若狭に旅に出た時、年老いた比丘尼に会ったという。
(千駄堀は今、「20世紀の森と広場」「森のホール」「市立博物館」などのある一帯)

つまり、上本郷でご馳走を食べると……長生きできるっ\(^O^)/<どやっ

以上で、地元ウォーキング「上本郷七不思議」参加レポを終わる(笑)。 <完><゜)))彡



■10月〜11月・千葉県松戸市・柏市
<野馬除土手(市境と五香駅)>

〜これよりフツーの日常編モード、再開〜

ちょくちょく日常風景的にお届けする野馬除土手。
今回初めて紹介するのは、柏市との県境の、東西に伸びる土手の西側。(地図
いつも東側の土手(地図)はちょくちょく紹介してきたが、それよりやや五香駅寄り。

↓道路の左脇の茂みが土手
土手の正面の畑から見ると↓

道路まで前進して左右を撮影(パノラマ4枚180度以上)

ただ、ここは一般家庭の敷地のようで、人ンチの門内に「野馬除土手」とか書いてある教委の立て札が立ってて、撮影にはちょっと気を遣う(^_^;)。

次に、前も紹介した五香駅近くを南北に残る野馬除土手(地図)にも来てみた↓
今回は、ちょっと奥から、土手のはじまる所まで出てみる。

駅とは反対方向から来て
やがて野馬除土手に出会う

これも左右に撮影してみる(パノラマ4枚180度以上)

こちらは、土手の向かいが二階建て駐輪場なので、遠慮せずに撮れるが、道は狭く、しょっちゅう車・自転車・歩行者が通るので、なかなかシャッターチャンスが訪れない(^_^;)。。



<10月初旬〜11月中旬、秋の風景>

10月さらに秋めいてゆく風景から……。

左は白井か鎌ヶ谷か……右は木下街道の周辺かな

↓秋の名月、月影清かに。(右:拡大↓)
アメジストセージ」という植物ではないかと→

何でそんな植物名をご存知かと言いますと(笑)、ブログで使用してるアメーバの「ピグライフ」(アバターチャットゲーム)にあるから。
特に近年、登場した「裏庭(@ライフ)」で植えられる植物が、よく人様の庭や街路樹で見られる植物(無論こっちはリアル)に多い。
写真で見るより、描線の明瞭な画像(アニメ)で見るほうが形を覚えやすいから助かります。

秋も深まり、11月を迎える( ^^) _旦~~

こちらは六実の高オ神社(地図

高オの「オ」は、環境依存文字でしか出ない(^_^;)。「雨」冠に「龍」と書く。

六実はかつて水の手のない荒涼とした土地で、明治の初期、生活の糧を失った幕臣以下が開墾して夥しい苦労(※)をした。そこで、雨降りを祈るため勧請された水神を祀る神社。
(※ 正確に言うと、幕府直轄の放牧経営が維新で廃止となり、窮乏した失業者が開墾名目で宛がわれた強制労働)

高オ神社は、今も土地の人々に大事にされ、子の成長を祝う七五三の季節には、こうして菊花が集められたテントが出される。

松戸市の北部から柏市の逆井に抜ける途中の、毎年華麗な色合いで夏〜冬の経過を細やかに彩って見せる紅葉の細道→

ここの紅葉が際立って鮮明なのは、周囲に高低差が多く霧の発生も多い場所だからだろう。

そいで、このまま手賀沼方面に向かう(^O^)

ちょうど同じ頃、湖の南岸「手賀カフェ」でランチを頂いたのよ〜♪

店内から見えるハーブ庭園
小さなコテージ風の店構え

←この日は焼き魚とマリネ風小皿
食後の紅茶とミント葉付スイーツ ↑

そろそろクリスマス・モードで、店内には、トナカイ風やらサンタ風やらの変装用のお面や帽子・ヘアバンドなどが置かれてた。

ちょっと茶目っ気だして、身に着けて鏡で写真を撮っていたら、隣テーブルのお客さんも真似して、お店の人も写真を撮って下さった。
そこで、店内にいたもう一人のお客さんに声をかけたら、喜んで参加してくれて、あっと言う間に楽しい変装パーティ・ショットが撮れてしまった!(驚)

お店の方も喜んでブログに載せて下さって、今も、お店のブログに載ってるわ〜(笑) これじゃw



■11月・千葉県栄町
<まずは久々「房総のむら」まで>

冒頭で予告の通り、今回最後のレポは、龍角寺である。
初めて行く場所だが、これまでも行ったことのある「房総のむら」の近くにある。

まずは利根川の南沿い(千葉県側)を走る356号線を、東に向かう。
写真は、「安食卜坑」と「長門橋」の間あたり(地図)の風景から始めよう。↓

「安食卜坑」の交差点
「長門橋」の交差点

今回驚いたのは、最初に来た時は勿論、この前来た時も、「房総のむら」まで行くのは、ちょっと遠出という印象があった。
だから行くとなれば、事前に心の準備をしたものなんだが、この日は亭主がフラリとハンドルを切ってから、ここまであっと言う間に着いた(^_^;)。。

そのように感じる理由は、この辺りまでの途中の地域に、この頃はよく行き来するコースが多くなっており、それらがどこも、もはや「遠出」という印象ではない所になったからだと思う。
(「近場の近場」は「近場」という感覚)

「車買ったばかりの頃、紋次郎さんや梵天丸亭主さんによく言われた通りだね(^_^;)」
「そうだ、懐かしいね〜、もうちょっとって言いながら北海道まで行くって奴ね」(笑)

「長門橋」(地図)で長門川を渡ってさらに東進

この橋を渡った先になると、さすがに「房総のむら」に来た時しか入ったことないエリアなので、気持ちが改まりはしたが、ここから「房総のむら」は、「すぐそこ」という記憶(^_^;)。。

橋の上から見える長門川
古い町並みが並ぶ

やがて川を遠ざかり、町並みも無くなり、森閑とした緑が深まる一帯に「房総のむら」は敷地を広く占めている。

周囲を森に囲まれた道になり
房総のむら」に入るカドを曲がる

亭主が「房総のむら」(地図)にフラリと向かったのは、息抜きドライブが目的で、最後はここのレストランか近場でコーヒーでも飲んで戻るようなイメージだったらしい(忙しいので中を見て回る時間はない(^_^;))

が、いざ到着すると……。
「他に行きたいトコない?▼o・ェ・o▼」
というので、
「ここって龍角寺が近いといつも思うんだけど、行った事ないんだよね」

夏になる前に行った龍腹寺と同じ伝説を持つ寺だと説明し、行ってみたいと答えた。

「房総のむら」を後にし……
龍角寺に到着、もう月が出てた

↑これは「房総のむら」の「千葉県議会議事堂」(移築建物)
どうもこの「房総のむら」というのは、管理がエリアごとに分散してるのか、全体のまとまった案内図が無い(^_^;)。
中央入口あたりに「ドラムの里」という広場があり、そこのレストラン(名称が「木もれ日レストラン」から「農家レストランゆめテラス」に変更されたようだ)周辺に建つ案内板の見取り図を見るうち、龍角寺の位置が確認できた。

「急がないと暗くなる」
と、トイレ休憩だけして、すぐ車を回して探して貰った。



<龍角寺>

上の写真の通り、着いた時には夕月が出ていたけど、空はまだ薄明るかった。
(月の写真って、夜になっちゃうと周りの暗さで月光が強まり、月の陰影が写らないんだよね(^_^;))

龍角寺地図)山門
寺の側面を通る道路↑が境内から見え、すごくレトロなムード満載で、どっかの民宿に一泊して山菜と川魚料理を食べて温泉に浸かりたくなる風情

←階段を上がると、大きな銀杏の木の下にある拝殿(と案内図にある)は現代家屋風(^^ゞ。でも内部には石造のような物が収蔵されて、仮倉庫っぽい感じ↓
←それより重要なのは、拝殿(本堂)にまで続く参道の両脇に残る礎石群
実はこの龍角寺は、古墳時代からの連続性があると見られる日本でもかなり古い寺跡。

だから今建ってる最近の建物より、古代から在る礎石や、この拝殿の裏にあった金堂の跡地と思われる土壇などに価値がある。

入口に入ったこの辺りに残る礎石は、門を建てるための物と思われ、境内の見取り図にも「仁王門跡」と描かれていた。

入口に向けて撮影
拝殿(本堂)に向けて……

ここが印旛沼の竜神伝説で、三つに分断された竜の頭部が葬られたとされる「龍角寺」である。
(ちなみに他の二つは、腹部が「龍腹寺」(印西市)、尻尾が「龍尾寺」(匝瑳市))(〜印旛沼の竜神伝説@wiki〜)

この伝承が残る史料としては、私の知る限り一番古い物で、江戸期の享保7年(1722)に成立した『佐倉風土記』のように思える。
これは、佐倉市のHPなどに紹介されており、同ページによれば、佐倉藩の学者が、藩主(稲葉氏)の用命で、土地の歴史や伝承を訪ね調べて編纂されたものらしい。

その下地となる話なりが、寺の縁起などにあったという事じゃないかと想像するが、ここ「龍角寺」に来てみると、その伝説の前段階として、「和銅2年(709)、竜女化来し、一夜のうちに諸堂を建立したと伝えられる」というのがまず入る。

その後に、「干ばつに苦しむ人々のために、わが身を三つに切る犠牲を負ってまで龍が雨を振らせた」という『佐倉風土記』の話が続く。

本堂の側面を通る(パノラマ3枚ほぼ180度)

ただ、「たびたびの火災で建物が焼失」とあり、「かつては多くの参拝者でにぎわったということです」ともあって、同書の出典となる文書などの存在はうかがえなかった。
(wikiには、中世に既に衰微し、上総氏千葉氏の再興や保護など得る一方で、焼亡も繰り返された事が書かれている 〜龍角寺@wiki〜)

背面に出た。正面に「金堂跡」が見える(パノラマ4枚180度以上)

火災や衰亡の折も、本尊は無事だったと見え、「薬師如来坐像(銅像・国指定重要文化財)は709年につくられた本県最古の白鳳時代のもの」とあり、竜女が寺を建立した年と制作年代が合っている。

金堂跡”は下の土壇ね(^^ゞ建物は最近の物(パノラマ3枚ほぼ180度)
(↑建物の名を、案内図には「校倉作り史料庫」と書いてあった)

本尊だけと言わず、境内より出土した銅製経筒布目瓦(県指定文化財)、東に高さ33m程の三重の塔とも五重の塔とも推考される塔跡も残り、仁王門跡金堂跡のほか、屋根鴟尾(しび=屋根の上に乗る石造細工)から、奈良時代の初期にはあった事がわかる。

作成された石造物のデザインや諸堂の配置や形式から、600年代に遡れる可能性も考えられ、「房総のむら」にもある「龍角寺古墳群岩屋古墳を含む)」が周囲に分布している事から、前時代、これらの古墳を築いていた印波国造が、古墳廃止後の時代に適応して築いた寺院が、この龍角寺であった、とみられている。

近くにあった絵→
かつて、この土壇の上にあった金堂の想像図かな。色落ちしてだいぶ不鮮明だけど

竜神伝説が入り込んだ経緯について、wikiに密教系の布教説話を推理する向きが書かれており、個人的には大いに頷く要素が感じられる(笑)。(〜印旛沼の竜神伝説@wiki〜)

全国に散らばる弘法大師の水利伝説(錫杖で土をついたら水が出た)、仏像分割伝説(一本の木から数体の仏像を彫って川に流し、支流の寺々が本尊にした)も、同じようなノリだろう(^_^;)。
(他にこんなのも見つけた→ 〜雨を降らせて殺された竜@wiki〜)



次回は、この「龍角寺」の続きから始めたい。

<つづく>

2017年04月30日
 
     






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