<2009年・城主のたわごと11月>




2009年7月「千葉〜銚子編」の第3弾(^^)。

3日目は銚子市。犬吠埼から西に向かって、「等覚寺」まで!




     
  「千葉〜銚子編」の3回目は、前回の最後に出た、銚子市・犬吠埼から!!
今回で最終回のつもりだったが、次回にチョロ出て終わる予定(^_^;)。。
にしても、犬吠埼って何年ぶりかな〜(^^ゞ。子供の時以来だったような気も……。

3日目は午前、「犬吠埼灯台」「千騎ヶ岩と犬岩(犬若)」」「川口神社」「圓福寺・飯沼観音」までが犬吠埼。
お昼を食べて( ^,_^)、午後は西に向かって、海上氏ゆかりの「海上八幡宮」と「等覚寺」まで行ってみよう!

また今回は、銚子の風景を交えながら、前回は概要で一杯になって伝え切れなかった、千葉常胤父子の素顔(?笑)にも迫ってみたい!!



■7月・千葉県銚子市
<犬吠埼の夜〜朝(#^.^#)>


↑前回は「埼」でなく、「崎」と書いたんだけど、ネット検索したら、意外とどっちも同数ぐらい出て来て、「埼」で通じる感じがしたので、今回から「埼」で行く(笑)。今ココ→地図A

夕食は洋食のコース。肉も魚も野菜も新鮮で美味しかった。特にパンの入ってる小皿、刻み貝にお焦げチーズが乗ってる一品で、ハーブやガーリック風味がよく合ってた〜(^^)。

夜の写真は、残念ながらこれしか撮れなかった(^_^;)。
部屋からは、肉眼なら闇の奥に海原の広がる様子が見て取れたし、夜中じゅう、深い海に引き込まれそうな実感も濃厚だった。

夜中11時ごろだったか……水平線にズラーーーッと、おびただしい光が横一列に並んで、その光の一つが自分の体を照らすと、「大砲打ち込まれたら、どうしよう(≧▽≦)」みたく、ドキドキした(笑)。

ちゃんと確認を取ったわけではないが、まき網の漁船団かな(^^ゞ。

おはよー(^O^)。テラスの向こうに広がる朝の海!(パノラマ2枚)

↑こんな水平戦上、真夜中の真っ暗闇に漁船の灯りが横一列に並んでたのっ(^O^)。

子供の頃、北海道に行くフェリーの中で、イカ釣り船を見た事があった。
一艘だったが、夜の海は真っ暗で、ザブザブ水を切る音が続くのみ。ちょっと島影らしきが見えるだけでも刺激がある所を、イカ釣り船は町のネオンのようにド明るいから、すごく記憶に残ってる。

そんな光輝の船団が、横一列にズラーッと並んだ様子は本当に圧巻で、画像でお届けできないのが残念(>_<)。。。

宿泊したペンション(^^)地図B
夕べテラスから見た門に……

↓降りて来てみた(^^)(パノラマ4枚・180度以上)

←これもテラスから見えた岩礁(^^)。

地図C。これより朝の海岸沿いを巡りながら、歴史の話に挑戦してみようと思う(^O^)!

千葉城の郷土博物館には、千葉常胤がいち早く頼朝陣営への参加を決意した理由として、

@頼朝の父・義朝と主従の関係があったから。
A平治の乱以後、相馬御厨の支配権を平家方の佐竹氏に奪われるなど平家から強い圧迫を受けていたから。
B常胤の六男・胤頼が頼朝と挙兵前から関係があり、七男・日胤は頼朝の祈祷僧であったから。

と考えうる要素を項目立てている。
@とAについては、2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内にざっと書いた通りなので(^^ゞ、今回はBについてやりたい(^^)。

千葉常胤の子供たち(千葉六党)の中で、もっとも知られた人物といえば、この六男「東胤頼」だろう。
東氏」は後に子孫が名乗ったとも言われるが、始祖である千葉常胤の六男・頼胤も、遡って「東胤頼」と呼ばれる事が多いので、私もそのように記す(^^ゞ。

歴史を通すと、多くの場合、「東氏」は代々が歌道における名人であった事が言われるが、幕府創世記のおいては、初代であるこの胤頼が、頼朝の近臣として、頼朝の挙兵前から活躍した人物で、記述頻度が場合によっては父の常胤以上に高い。

胤頼から出た「」の姓は、ここより西の「東庄」にちなんだと伝わるが、所領については「三崎庄」も含むといわれ、現在だと、この犬吠埼より南西に「三崎町」というのがある。

この銚子市は非常に広く、東端はここ犬吠埼から、西は東庄町をさらに越えた先まである(^_^;)。
が、東端の犬吠埼にも東氏一族の痕跡を伝える寺社があり、これらを総て含む広い範囲(殆ど銚子市全体)が影響下にあったものと解釈して先に進む。

浜辺を少し歩いてみた(^^)(パノラマ4枚・180度以上)

広大な庭園に飛び散る庭石のような岩礁

←拡大。水平線をすべる船。

頼朝が伊豆に流刑されて来たのは、14歳。その父・義朝が、平治の乱によって死んでから、2ヶ月ほど経った頃だろうか。
その当時、頼朝の身の回りの世話は、頼朝の乳母たちや、乳母の男子達、乳母の娘婿といった限られた存在(安達・河越・伊東・八田・小山・山内首藤など)だったと思われ、地理的に見れば、北条氏も、その延長線上に入ると思われる。

やがて監視の中でも、じわじわと旧来からの義朝の部下たちとの面会も行なわれていったようだ。

千葉(東)胤頼が、頼朝とどう出会い、主従関係を結んだかは明らかでないが、頼朝が長ずると、年頃の近い若者たちと意気投合し、ともに狩などしたようだから、そうした中の一人だったのかもしれない。

続きは、灯台に行ってから話そう(^O^)。



<犬吠埼灯台>

↑に行ってみよう(^^)。地図D←やや南に移動。
犬吠埼は、殆ど島のように周囲を海に囲まれてるだけあって、他にも「地球が丸く見える丘展望台」など、海の景観を楽しめるスポットが豊富だ。

小雨がパラついて来る中を進行
↓灯台が見えて来た(^^)

海辺の街らしく、南洋の(沖縄あたりの)雰囲気をかもす屋根つき門なども見られた(^^)。

犬吠埼灯台」に到着(パノラマ2枚)

明治以来の伝統をもつ灯台(^^)
脇からは海岸にも降りれる

海岸には降りず、灯台の周りを巡る散策路を行く(パノラマ2枚)

「犬吠埼灯台」は、明治7年(1874)に完成した。まだ文明開化の初期で、設計と監督は、イギリスの技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが手掛けたが、レンガは国産の物が用いられた初の灯台だった。高さ約31.3m。

灯台には99段の階段が設けられ、もちろん中に入れる。入口には「施設の異変や海上における遭難、その他お気づきの点はお知らせ下さい」と、海上保安庁の名入りで案内が出されていた。

そして、海上保安庁キャラ、「うみまる」君だ!(笑)→
これが又々、バツグンの可愛さよね(≧▽≦)!

灯台の遊歩道、案内図

↑は南を上にしてる。今、下の赤い線上、灯台の周囲を廻るコースに居る。私らはこれをグルッと廻って終わりにしたが、描かれた線の通り、海辺近くを散策するルートもある。
犬吠埼の全体の中では→地図D。ただでさえ出っ張ってる犬吠埼の、さらに出っ張り部分に居るわけだ(^^)。

ではでは、房総の大海原を背景に、千葉氏と頼朝の「出会い編」に話を移したい(^O^)。

手すりの続く散策路(パノラマ4枚・180度以上)

←岩に打ち寄せる波しぶき(^O^)!

頼朝の御家人には、前九年・後三年の頃からの主従関係を伝承とする家もあるが、頼朝が挙兵した時、基本的には、保元・平治の乱の付き合いがアテにされたと思われる(^^ゞ。
そんな昔じゃないから、まだ気心が残ってるだろう、というわけだ(笑)。

保元の乱(1155年)では、源義朝は勝ち組に属したが、続く平治の乱(1159〜1160)では完敗した。
この平治の乱に至った動機というのも、義朝が保元の乱での戦功評価に不満があった事などが、よく取り沙汰される。

これが真相としたら、義朝に従った者らは、保元の乱によっても旨味が薄かった、という事になる(^_^;)。
さらに平治の乱の後、保元の乱しか参加形跡が認められない千葉氏も、「義朝の従だった」事を原因として、相馬御厨を取り上げられる経緯に繋がっている(^_^;)。

保元の乱では従ったのに、頼朝の挙兵に応じなかったのは、大庭氏なんかが上げられる。
どっちにも積極的に応じたのが千葉氏である。
平治の乱では従ったのに、頼朝の挙兵に渋ったと見られるのが、上総氏と言われる(笑)。
どっちにも積極的に味方したのが三浦氏や佐々木氏などが見える。

当初から面倒をみてくれた乳母関係でも、安達など、積極的に頼朝支持で立ち回った者もおれば、伊東・山内首藤など、嫁取りとか挙兵とか、いざ「運命共同体」レベルの段に及ぶと、イキナリ背を向ける者達もいた(^_^;)。

普段は盛り上がっていても、いざとなると世の中って動かんもんだね〜(-_-;)という実感を、頼朝主従は思い知らされたのではなかろうか(笑)。

「当たり前じゃっ、土地がかかってるのだ! 甘い理想で動かれちゃ迷惑!」
こんな渋〜い小言を、彼らは耳にしただろうか(^_^;)。。。

↓ココ、波しぶき、そそり立つ岩礁に
立ち尽くす釣り人!

見てるだけでコワイ〜(>_<)。。でもすんごい迫力ある光景だった!

↑を部分拡大すると、周りはこ〜んな蠢く波間↓
こっちも拡大率一緒。→
すぐ傍で、こ〜んなに波しぶきが上がってるの!

さてさて、話を戻そう(^^ゞ。
千葉常胤には、東胤頼までで、最少でも6人は男子に恵まれていた事がハッキリしている。

長男が生まれた時には、「よしよし、わしの土地をお前に譲ってやろう(^^)」と思っただろう。
次男が生まれると、「よしよし、ジイチャンと父チャンが開拓中の相馬(頼朝の父・義朝としのぎを削りあってる頃だろうか)を、お前に譲ってやろうな(^^)」と思ったかもしれない(笑)。

そうやって三男・四男・五男と生まれると、だんだんあげる土地が少なくなったり、遠くになったりするのだ。
「大丈夫、大丈夫(^^)」、こんな無責任なことを言って、次々と子供は生まれて行ったに違いない(笑)。

しかし長年、頑張ってモノにした相馬御厨の権利も、平治の乱以後は、佐竹氏の物となってしまった(^_^;)。。

さらに周り込むと、手前から奇岩ぞろいの亜空間!(パノラマ2枚)

ガウンまとった魔法使いみたいな人にも、フクロウみたいにも見える(゚.゚)!→
目鼻立ちハッキリ!

この犬吠埼を形成する岩石は、地質学では中世代白亜紀層に属するとされ、少なくとも七千万〜一億年以上の風雪に耐えてきている。

奇岩はこの後も、見に行くとして、話を続けよう(^^ゞ。

六男・胤頼は京の大番役というのを勤めていた。上西門院(後白河法皇の姉)に仕えていた記録もある。
もしかして、もうあげる土地が無くなって、父チャンや兄チャンに「仕送りしちゃる!」と励まされ、「目指せ東大!」とばかり、広い世間に羽ばたいて行ったのかもしれない(笑)。

そんな不憫な(?)末っ子が、暇を貰って帰って来ては、こんな事を言い出した。

「父チャン、伊豆の頼朝さまは、すごいカッコイイんだ(^O^)。みんなに人気があって、近いうちに、きっと関東じゅうの大将になると思う!」
「そうかそうか(^^)、京でたくさん知識を積んだお前が言うのだ、きっとその通りだろう」

頼朝の挙兵時、胤頼は積極的に京と伊豆の間を情報を伝えたり、仲間同志でせっせと密談なんかやっていた。

「父チャン!ヽ(`Д´)ノ、みんな頼朝さまが頑張ろって時に、ちっとも味方してくれない!!
頼朝さまは今が一番大事な時なのにっ\(>o<)/」
「よしよし、大丈夫じゃ、父チャンがみんなを説得してやるからな(^^)」

和歌なんか詠んじゃって、やたらデキのイイ息子の手前、ニコニコ顔の二つ返事でこんな安請け合いをするものの、常胤ももう60過ぎのお年寄り。
息子のいう「頼朝さま」ってのは、昔は上司筋だった気もする源義朝の嫡男。コレが旧主筋って奴か、とは思うものの、出来れば面倒は避けたい本音もあったに違いない(^_^;)。。

灯台の周りコースはおしまい(^^)。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

参加同意を迫る頼朝の使者に、常胤のした反応ってのが、場面や記述物によって種々様々(笑)。

「感涙にむせて言葉が出なかった」とか、「眠るように無言」とか、つまりは表情がよくワカラン(^_^;)。
或いは上総広常が「千葉常胤と相談するんで(^^ゞ」と答え、或いは千葉常胤が「上総広常と相談するんで(^^ゞ」と、二人して使者をたらい回しにした風情も漂わないではない(笑)。

しかし結局は……息子と孫に押し切られた!( ̄▽ ̄;)

この息子・孫連中が又スゴイんだわ(^^;)。。
「ナニ迷う事ないでしょ、相談? んなもん、しないでよろし。さぁさぁ今スグお返事!」
とか、父(祖父)に対して、「お前らもしかしてナントカ商法ですか」な鼻息よっ(笑)。

「子」は六男の(東)胤頼だが、「孫」は、長男・胤正の子・成胤。長男から六男までに年齢差もあっただろうから、叔父と甥の間柄ながら、年齢は近かったんだろうね(^^ゞ。
血気盛んな年頃の胤頼と成胤は、特に強く説得したのだろうと想像する。

常胤┬(千葉)胤正−成胤
   ├(相馬)師常
   ├(武石)胤盛
   ├(大須賀)胤信
   ├(国分)胤通
   └(東)胤頼

が、常胤が嫌々従ったかと言うと、どうもその後と繋ぎ合わせると、要するに……、
「そうかそうか(^^)、流石はわしの子じゃ孫じゃ、皆々デキの良い事じゃ(≧▽≦)!!」
つまり、ワシの子や孫の考えは全て正しい!な結論。……大丈夫か、この家(^^;)。。

こうして1180年、石橋山でボロ負けした頼朝一行は、房総に亡命して来たのである!

灯台の前に戻る。旅館街とかウッスラ見える(パノラマ3枚・ほぼ180度)

←水際まで散策路と手すりが降り、見に行けるようになっている(^^)。

さて、ケツをまくるや、常胤父子は、イキナリ強烈な獰猛さを発揮(笑)!
房総に匿った頼朝を、上総広常との合流のため送り出すや否や、下総国府の目代館は焼き討ちするわ、追って来た敵をさんざん打ち破るわ。
そらもぉ……さすが朝敵血筋でんがなっ(爆)。

やはりどこまで行っても、親父たちの主眼は「土地」である(^_^;)。結局の所、動く以上は「相馬御厨、奪還運動」←これ以外に兵を動かす理由なんか何もない(笑)。

こうした華々しい場面に、一族でも常に先頭を切って突進したのが六男・胤頼だろう(^^)。
「ハァハァ! 頼朝さま! 今戻りました! 目代や国衙の連中やっつけました(^O^)!」
「って事は俺も今日から朝敵っ(・・;)。。。」
「ええええっ\(>o<)/、ダメだったッスかー!」
「い、いや大丈夫、令旨があるし(←50%疑問)、以仁王は生きている!(←100%嘘)」
見ようによっては、二度と引き戻せないレベルに追い詰めただけのような気も(笑)。

将門の乱、忠常の乱に続いて、第三次・反逆&亡国が又々、下総でかぁ〜( ̄▽ ̄;)!
ところがそこで、すかさず千葉常胤の、鶴の一声が響く。
「本拠地は鎌倉に(-_-)」
こうして頼朝一行は、房総(千葉県)から、まず武蔵(東京都)に渡り、次いで相模(神奈川県)に入った。

以後、やたらと血なまぐさい事件は、全て鎌倉が発信地となったのである(爆)。

ただ鎌倉を指定した理由は、別に厄介払いという事ではなく(笑)、義朝の所領があった事や、伊豆以来の支援者……中でも、三浦氏との連携を考えて、と推測されている(^^ゞ。

灯台前にはお土産屋&食堂の建物が並ぶ(^^)(パノラマ2枚)

お土産は、干物とか佃煮とか、さすが海の幸が豊富だった(^^ゞ。
あと、前回も紹介した「銚電(銚子電鉄)濡れ煎餅」も沢山あったよ!!



<千騎ヶ岩・犬岩>

さらに南に移動し、奇岩を2つ見に行こう(^^)。犬吠埼の最南端にあたる場所だ。
地図E←拡大すると「千騎ヶ岩」の方を指しているが、殆ど並びって場所に「犬岩」もある。

この二つの岩は、「義経伝説」に根ざしている。
「千騎ヶ岩」は、義経が千騎で立て篭もった場と伝わり、「犬岩」の方は、義経の愛犬が岩になったと伝わる。

1180年、富士川において平家軍を蹴散らした源頼朝は、鎌倉に幕府の礎を築き、1183年ごろから活動の活発化していた木曾義仲を、御家人らを畿内に派遣して、1184年に討ち、そのまま平家追討戦にも及んだ末、1185年には平家を滅亡に追い込んだ。

平家追討に活躍した義経は、平家滅亡の直後から、頼朝と摩擦関係に陥り、対抗して頼朝追討令を出させるには成功したが、味方は集まらず、やむなく京を去った。
以後、1189年までの長い間、義経の逃亡生活が始まった。
ここの伝説は、そうした義経逃亡譚の一つとして伝えられているように思う。

実は、京を去ってから奥州で死ぬまで、いつどこに居たのか義経自身の痕跡はない(^_^;)。

これは史料上では、僅か9年しか存在確認ができない義経の物語としては、かなりの比率に当たる。
義経は1180年、頼朝が富士川に平家を破った陣営に初登場し、1185年から逃亡し始め、1189年には死亡する。

つまり登場から数えれば、その半分の年月は逃亡生活をしていた人なのだ(^_^;)。。
だから、その後半の痕跡を語る伝説が各地に出来るのも、無理ないかもしれない(笑)。

まずは「千騎ヶ岩」(^^)(パノラマ2枚)

道路からは岩面の一部しか見えないが、案内板の写真を見ると……。

←こんな風に、奥にもド〜ン!と岩石が続いているようだ(゚.゚)。左下が今いる道路ねっ。
千騎も伏せたかは定かでないが(笑)、こんな奥行きのある岩場が、そういう伝承を呼ぶのだろう。

岩の標高は標高約17.7m、周囲約400m、約2億4000万年前の古生代二畳系とも言われるが、最近では、2億1000万年前の中正代三畳系との見方もある。
こうした硬質砂岩のため、2億年以上も保っている事は間違いなく、県指定天然記念物。
500羽を越すウミウが飛来して越冬し、ムクドリやイソヒヨドリの繁殖地でもある。

義経伝説としての伝えは、いつからか知らないが、江戸期の安政2年(1855)、「利根川図志」(赤松宗旦)に紹介され、名勝地に数えられたという。

そして、少し先に進んでから、また海岸沿いに近付くと……、

ドーン!!「犬岩」だぁぁ〜!!
ああっ、ホントに犬の形をしているっ(≧▽≦)!!

地名の由来ともされる伝説に、頼朝から逃れ、奥州へ行く義経が、銚子に寄って愛犬を残して去ると、犬は主人を慕って、七日七晩も岩頭で吠え続けたから「犬吠埼」と呼ばれた、という物がある。

この「犬岩」は、その伝説を裏付けるように、その犬が死んで岩に化した、と伝わるものだ。

うわ〜何か可愛そうすぎて、号泣しそうなエピソード(TOT)。。。

この「犬岩」、上の写真で見ると、左手を「お手」(「お代わり」と言うべきか)してるように見える。

が、角度が違うと、右手を出してるようにも見える(^^ゞ→
今気付いたけど、何か顔もあるように見えるね。。

さてさて、この伝説を聞いて、「あれ? 義経って勧進帳とかで、確か北陸の関所を越えてなかったっけ(^^ゞ?」と思う人もいるだろう(笑)。
義経は日本海側を通ったのか、それともこの伝説の通り、太平洋側を通るって事もありうるのか……。

公式記録的には、京を出てから死ぬまで、4年余りの義経は「行方不明者」である(^_^;)。
が、京を去った後、義経とともに海難に遭ったのか、遊び女らしき(いわゆる静御前)が「吉野で別れた」と言い、「興福寺で匿って伊賀に送った」という僧侶もいた。
その後、伊勢神宮に出没したとか、比叡山に出たとか、洛北だとか、風聞も多かろうが(笑)、最終的には、伊勢→美濃→奥州と推測されたようだ。

関東・東海道筋は頼朝の命が利きやすいが、僧兵の多く伏する比叡山や興福寺、義仲の挙兵の基盤と見られる北陸には、充分に効果の行き届く時期にはまだ入ってない。

さらに、義経が京を出て海難に至る前、すでに頼朝から義経追討の召集が掛かっており、千葉常胤も陣容に入っている。特に義経追討に限らないが、こうした場合、筆頭格で名が上がる立場にある。

また、当時やたら「義経を見た!」「討った!」という誤伝が出回った(^_^;)。。多くは恩賞目当てだ。房総に匿う気のある人物がいても、こんな鎌倉の近い地で遣り通す事は難しい。。

こう見て来ると、やはり房総はかなり困難だ(^_^;)。
よく伝えられる通り、北陸あたりを経由するのが妥当に思われる。

すると、後世によく見る義経にあやかった嘘話の一つか……。
ただ、この可愛そうなワンちゃんを見ると、何とか無理にでも繋げてやりたい気もする(TOT)。。

「源平盛衰記」には、片岡常春の弟・為春というのが、平家との合戦で水軍を率いて義経を助け、「義経記」にも、義経に従った片岡為春が、奥州・衣川(平泉の近く)において、合戦して死んだとされるそうだ。

「義経記」や「源平盛衰記」が正確に史実を伝えてるかはともかく、片岡常春は海上氏の出身なのだ(^^ゞ。
前回も書いた通り、海上氏には、千葉常胤の六男・胤頼から出た系譜の前に、常胤の叔父・常衡から興された一族があって、片岡常春はこれに属する。(2009年10月<「千葉寺」、2>内

(千葉)常永┬常時(常晴)−常澄−(上総介)広常
       └常兼┬常重−常胤−┬胤正
           |         └(東)胤頼−重胤┬胤行
           |                     └(海上)胤方
           └常衡(海上)−常幹┬常親
                         ├常春(片岡)
                         └常永

平家と戦っている時、義経は頼朝の指示で動いていたから、彼らが義経軍に編成されても不思議は無いが、その後も義経に従って運命を共にした……という事になるだろうか。

つまり、為春は義経と同行、として記述されてるのだと思うが、何らかの事情で義経を一時離れていた、というのはどうだろう(^。^)。
腰越状なんか読むと、頼朝に弁解を試みていた時期もあるっぽいから、例えば、言い訳の使者を鎌倉に送った、なんて事は有りそうな気もする。

しかし頼朝の強硬な路線を知ってる房総では、一族じゅうが為春を留め、義経の元には返さない(^_^;)。
義経の居所はわからなくなり、やっと判った時には、奥州に居るという事だったら、一族を振り切って船出……。
うんうん、二度と故郷に戻らない覚悟なら、出来なくもなかろう。

縁者としては為春の供養はしたいが、義経が房総を通ったなんて誰も信じないから、これなら幕府の手前も「他愛のない俗説」で通るかも……という事で、あえて為春の名は隠し、「義経」で伝わった、なんてのはどうだろう。うん、出来た出来た(^_^A)。

という事は、犬が鳴きながら岩になったのは、「義経を慕って」ではなく、「義経を慕った為春を慕って」という事になる。

義経は京にも奥州にも鎌倉にも居たが、そのたびに愛犬を連れ回る……と考えるよりは、房総の人に飼われた房総の犬なら……。
理由も聞き分けられず、 キャンキャン吼え続けるのも無理はない(TOT)!!

方位磁石を持ってなかったから、正確な事は言えないが、確かに北東(平泉)方面に向いてるような気も……。

犬岩を見下ろす崖面には
拡大。地域特有の植物群(^^)

この犬吠埼は周囲を海に囲まれて、常に強い潮風に晒され、土壌が乏しいので、岩場や崖地には特殊な形や性質の植物しか生息できない。

例えば、内陸のサワヒヨドリやツリガネニンジンと同じ種類でありながら、ここのハマサワヒヨドリやマルバノハマシャジンは、内陸のとは全く別物と思えるほど特色が違うという(゚.゚)。
ノアザミやタンポポなどにも、同じような例が見られるものの、まだ十分に研究し尽くされてないそうだ。

また、イソギクやソナレムグラは、ここが北限地になり、千騎ヶ岩には、このソナレムグラの他、ハマボッス、タイトゴメ、ヒゲスゲなど、海岸の岩場に生息する植物が自生している。
植物に関心のある方は、ぜひ一度、観察に来てみよう(^O^)。



<川口神社>

↑に、次は行ってみよう。

途中で出会った地図→
この日は、右のEあたりから出発して、太平洋側に沿って南下。Hが「犬吠埼灯台」、さらに南のKで「千騎ヶ岩」や「犬岩」を見た。

つまり、これまで北から南にドンドン来ていた。が、ここで北上し、今度は西……陸に向かって行く。
まず北上した、上のCに川口神社がある。地図F

また、この地図の各所に「文学碑めぐり」とある通り、この犬吠埼は、海辺の景観と珍しい植物群の他に、多くの文人の句碑・詩碑・歌碑を巡るコースが観光の目玉だ。

並べると、「松尾芭蕉(句碑)」「国木田独歩(詩碑)」「竹久夢二(詩碑)」「小川芋銭(句碑)」
「尾崎愕(←小の字抜き)堂(歌碑)」「佐藤春夫(詩碑)」「尾張穂草(歌碑)」「高浜虚子(句碑)」「源俊頼(歌碑)」「古帳庵(句碑)」など(^^ゞ。

海運の要衝であるとともに、海に囲まれた独特の景観を多くの文人が愛したのだと思う。だから犬吠埼に中世の歴史を訪ねて来る人は、あまり居ないかもしれないが(笑)、海辺の寺社ならではの風情もお届けしたい(^^)。
川口神社」に到着!→

鳥居を潜ると、先にも鳥居と
天に向かうような階段

↑この階段に差し掛かる手前に、子供たちは地べたに座って遊んでいる様子が、何とも神秘的に思えた!

振り返ると
来た方向には海が!
よく、こういう子供たちの唄う童歌に未来を予言する言葉がある、といった幻想的な話を聞くけど、何となくそういう風情を感じたな〜(^^ゞ。
それが又、和歌に秀でた東氏の土地に相応しい雰囲気にも思えた。

また、いかにも海を見下ろす神社という空気も濃厚で、神社の名「川口」も、「ここから海でなく、川(利根川)に入る」という、海路から戻った素朴な感動とともに、水運を司る緊張感が伝わる。

この河口は、「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡会(いらごわたらい)が恐ろしい」とされた難所な上、大型船が接岸できないので、小船で大波に揺さぶられる危険な場所だった。遭難者の霊を弔う千人塚もある。

また昔の香取海(今の利根川)も、ずいぶん荒れたようで(^_^;)、波の荒い日には、鹿島−香取間の奉幣使の往来に、日延べを勧める事などもあったようだから、どっちに出るにせよ、航海安全を祈る場所だったのだろう。

この神社は川口を出入りする漁船の守り神として、長く多くの猟師が信仰し、大漁節にも唄われたという。
「九つとせ この浦守る川口の 明神御利益あらわせる この大漁船」

これは江戸時代、紀州から漁師が住み着くようになり、任せ網(八手網)を伝えて、獲れた鰯を干して大量に流通させたので、漁村は活性化し、川口神社では大漁を祝って、網元たちが作った歌である。

階段を上がりきると、社殿が見える(パノラマ4枚・180度以上)

緑に佇む社殿には波を刻んだ文様が(^^)

神社の創建は、寛和2年(986)と伝えられ速秋津姫(はやあきつひめ)を祀っている。

この「川口神社」には、あの安倍晴明の話が伝わっている(^^ゞ。
現地では「安部」となっているが、カッコ書きで「平安時代の陰陽師」と説明書きがあったので、同一人物と見て間違いなかろうと思う。

ただ、陰陽師らしい話は全くなく、「銚子近在の長者の娘、延命姫にまつわる悲しい伝説があります」と書かれていた。

どうもこの悲劇というのは、夫婦となりながら晴明に嫌われた延命姫が誤って自殺する、というストーリーであるらしく、銚子あたりにこういう伝説がある事は前から知ってはいたが、京の都を中心に大活躍する晴明が、なぜこの銚子で?という点が不思議だった。

で、調べてみた所、中世に成立した「ホキ内伝」(「ホキ」は漢字変換できない(^_^;))に、慶長年間(1596〜1615年)に「注釈」というのがつけられ、そこに「付録」として書かれた話があるようなのだ(^^ゞ。

これをきっかけに、安倍晴明の出生譚が、江戸時代には大流行したようだ。
内容は出生譚のみに収まらず、(芦屋)道満との対決など華々しい逸話に包まれているのだが、出生に関して言えば、晴明であったり、晴明の先祖だったりが、「筑波嶺の生まれ」になっているのだ(^_^;)。

地域的には伝わっていた事が、後になって書物に書かれる事もあるだろうし、筑波は古事記の頃から知られる地名だから、出生地も出身も明らかでない晴明が、筑波生まれであっても構わないわけだが、もしかしたらこれも、遠隔的には将門伝承と関わりがあるのでは、という気がする(^_^;)。

と言うのも、同ルーツの伝承を根拠としたのではないかと思える神社が、茨城県の南部から、この銚子にかけて数ヶ所あるからだ(^^ゞ。

「ホキ内伝」の付録にある「晴明の母」が、狐の姿をした「信太明神」であるというのも、幸若舞「信田」の原型の成立期に遡りそうだ(^^ゞ。
これらの背景にも、和歌を家伝とした東氏一族が関係してないか、気になる所である!!

社殿の手前には手水の建物と……
犬吠埼の巌に象られた池(^O^)!

金魚ぉ〜(^O^)↓
大きく開けた竜神の口からは笹の葉が(゚.゚)!→

速秋津姫を祀ったのがいつからか判らなかったが、幕末には吉田松陰が回遊に来た事を伝える碑もあり、明治3年までは、ここは「白紙明神」と呼ばれて、地域の信仰を集めて来たという。



<圓福寺・飯沼観音>

次に向かうのは、犬吠埼のこの辺→地図G

圓福寺という場所なのだが、圓福寺は二箇所あった。
最初、お寺があると思っていた場所に向かう途中、反対側に背の高い五重塔が見え、「圓福寺」とか「飯沼観音」という字があったので、「別物(゚.゚)?」と思ったんだが、入って伺った所、南北のお寺の間に国道356号線が通っている、という事だった。

国道の南側にあるのが「太子堂」、ここには「本坊」と「釈迦涅槃堂」がある。
北にあるのが「本堂」で、いわゆる「飯沼観音」は、こちらになるようだ(^^ゞ。

観光で来るなら北側で良かろうが、本来のお寺への用だと南側に行く事になりそうだ。

戦前は豪壮だったお寺が、太平洋戦争で全て焼失。今は間に商店街や旅館が建てられ、敷地が二つに分かれてしまったそうだ。

犬吠埼の街中→

私は商店街のムードいいな〜(^^)と思ってて、お寺も同感なのか、分断の事はあまり強調したくない雰囲気に思えたけど(笑)、寺が二つある点は必ず聞かれるだろうからね(^_^;)。

まずは南側の方から訪れてみよう(^^)。地図H

南側の「圓福寺(パノラマ3枚・ほぼ180度)
左手前に「句碑」奥に「内仏殿」、正面が「本坊」、右に「釈迦涅槃堂」。

南側の圓福寺では「納経所」などを司り、「巡礼・遍路」の受付がされていた。

←「新四国八十八本尊奉安霊場」

巡礼は、「坂東観音」が「1〜14番」と「15〜26・28・30・31番」と「27・29・31・33番」。
「西国観音(那智山・高野山・信貴山参籠)」が「1〜31番・他番外」と「22〜33番・番外」。
他に、「駿河観音」が「1〜33番」、「最上観音・出羽三山」が「4〜33番」、「津軽三十三観音恐山」が「1〜33番」、「秩父観音」が「1〜34番」、「鎌倉三十三観音」など。

遍路は、「四国八十八霊場」が「1〜37番」と「38〜88番」など。
以上がズラリと案内されており、どれも東京浅草か銚子を集合あるいは解散場所としており、大勢の巡礼者が、近隣から遠隔地までの各地の結縁を求めて、年がら年中ここを訪れる様子が伺える(^^)。

こちらは「古帳庵の句碑」→

古帳庵は江戸時代の江戸小網町の豪商で、本名を鈴木金兵衛と言い、埼玉県入間郡越生町の出身。
天保12年(1841)、俳諧の友で銚子の豪商・田中玄蕃、野崎小平治らに招かれて、「ほととぎす 銚子は国の とっぱつれ」と詠んだ。

この句は銚子を代表する句となり、ここの碑には、古帳庵の妻が詠んだ「行き戻り瓢(ふくべ)を冷やす清水哉」も添えて刻まれている。

次は国道356号線を超えて、北の「圓福寺」にも行ってみよう(^^)。地図I

こちらは北側の「圓福寺」で参拝者を出迎えてくれる「仁王門」。

戦災で全焼との事だったから、門も再建だろうか。
←門の手前にある「坂東廿(二十)七番 十一面観音菩薩 飯沼山」と書かれた石碑は、大正9年の日付だった。

刻まれた字には、後から塗ったと思われる赤色で、来た人に読めるようにしてあった(^^)。

両陣を囲む仁王像と、柱を守る白象

この圓福寺の寺伝では、728年、網にかかった十一面観音像を草堂に安置し、本尊としたという。
中世には海上氏の帰依を受け、 江戸期の銚子は門前町として栄えたため、飯沼や松岸の河岸から、銚子道で訪れる多くの参詣者で賑わい、長く「飯沼観音」として崇敬を集めた。

仁王門を潜ると、目の前に大きな本殿、左に五重の塔だ!

そして本殿(拝殿)の前には……
ド〜ン!こたつの二倍以上ある大仏!

特にこの大仏や隣の五重塔に案内板などは無く、境内には大きなトラックやシャベルカーが入って、何やらせっせと造作中だったから、これから整備されていくのだろう(^^)。
手元のガイドには、江戸期の1711年の鋳造とあり、戦災時の機銃掃射の弾痕も残っているという。

取り合えず、自分なりに歴史について書いておく(^^ゞ。

実は東氏の領した土地は、九条兼実の領地でもあった。

道長−頼通−師実−師通−忠実┬忠通┬基実(近衛)
                     └頼長├基房(松殿)
                         ├兼実九条
                         └慈円

九条氏というのは、↑摂関藤原氏から、ちょうど兼実の代で分かれた家で、兼実は弟の慈円とともに、公武合体派として、公家の中でもいち早く、また突出して鎌倉幕府との友好路線を図った事で知られている。

土地……というのは、具体的には三崎庄で、摂関家(忠通)→皇嘉門院(忠通の娘・崇徳中宮)→九条家(兼実)という経過を辿ったようだ。
(この他に、東氏はここより西の橘庄(東庄)を領するわけだが、これは国司の藤原氏と争奪した地域である)

「土地を領する」と言っても、荘園主に対して在地領主を置く形を取るわけで、これは平安期は勿論だが、鎌倉幕府の時代となっても、基本的には変わりはない。
三崎庄の荘園主としては、1183年に九条兼実の所領となり、以後は子孫に相伝されて、1336年まで、九条氏としての確認はできるようだ。

←話の雰囲気と言い、この構図と言い、奈良とか京とかの旅のようだが、ここは千葉県の銚子市である(爆)。←念のため(^_^;)

一方の在地領主としては、先ほども出た、元・海上氏から出た片岡常春だったようだ。その祖父・常衡が摂関家に寄進したのが始まりらしい。(2009年10月<「千葉寺」、2>内

(千葉)常永┬常時(常晴)−常澄−(上総介)広常
       └常兼┬常重−常胤−┬胤正
           |         └(東)胤頼−重胤┬胤行
           |                     └(海上)胤方
           └常衡(海上)−常幹┬常親
                         ├常春(片岡)
                         └常永

が、1181年に、謀反ありとして没収される。これは常春の舅が佐竹氏だった事が関係するかもしれない。前年の1180年末に、佐竹は頼朝に討伐されており、また「義経記」には、常春自身の出身を、「常陸国の鹿島行方」と書いている。
1185年にも、やはり常春に同心した佐竹氏が謀反と見なされ、千葉常胤が在地領主権を得た。
その後、一度、常春に返付された形跡もあったが、1189年には停止されたようだ。

1185年の後、常春に返付されたという事は、常春は義経に従ったのではなく、頼朝に服したとも思えるし、1189年に停止されたのは、返付の後に、類縁者(例えば弟の為春)が義経に従っ(て討死し)たから……と結び付かないでもない。

今回の「犬岩」の話は、ちょっとその辺りの線で創作してみたんだけどね(^^ゞ。

今年(2009)5月落慶の五重塔
門から撮影
門を外して撮影

再建の歴史建築物を見る事は少なくないが、2006年に着工して、ホント2ヶ月前に落慶したばかり!という出来立てホヤホヤ、新品の塔を拝めたわけだ(^O^)。
まだ、どちらかと言うと、「工事中」の雰囲気が濃厚だったから、戦災で焼失してなければ、圓福寺の由緒や建物の説明など、これから書かれるかもしれない(^^ゞ。

現在書かれているのは、初重に薬師如来・光背に薬師三尊百体が安置され、作りは「銅葺・総檜造り」で、総高33、5m(風圧の関係で心柱のみ鉄骨)という事だった。
毎月8日(薬師縁日)午前11〜12時と、毎月18日(観音縁日)午後3〜4時半に開扉(晴天・無風の時のみ)。

また、大仏の左(向かって右)の梵鐘には案内があった。→
県指定文化財。鐘の高さ70.3cm、口径50.6cm、三段組。
乳(ち)は四段四列で、上帯に素文、下段に唐草文、池の間四区に、「上総国菅生(すごう)庄本郷飯富宮社頭」の銘文があり、君津郡袖ヶ浦町の「飽富神社」にあったと推測できるが、ここに運ばれた時期と経緯は不明。
享徳11年(1462)の銘と作者・「河内権守光吉」と「貞吉」の名がある。

さて、そろそろ二代目・海上氏……すなわち、千葉常胤の六男・東胤頼の家系から出た海上氏についても書こう(^^ゞ。

やがて、元・海上氏の片岡氏らに代わり、千葉氏の分家・東胤頼(常胤六男)の孫・胤方が海上氏を継ぐ形で領する。
これは常胤の次男・相馬師常の相馬氏も、初めは上総氏に相馬を名乗る者がいたのが、常胤の系譜が引き継いでいる事とも類似する。

千葉氏や東氏の領となった過程には、やはり相馬御厨の相論の時、相馬とともに立花郷(橘庄・東庄)も、国司の藤原氏に取られてしまった経緯が関係するように思うし、片岡氏の佐竹絡み(あるいは義経絡み)での没落も無縁ではないだろう。

1199年、九条家の家司が預所職を与えられたが、地頭となった東氏の妨害で年貢が得られなくなり、1202年、九条家の家司は預所職を辞退したという。

「妨害」とか言うと、すごく乱暴に思えるだろうが、実は鎌倉時代、こういう事は日常茶飯事で、「地頭の乱妨」って字面は、全国的に珍しくも何とも無かった(^_^;)。。(それ以上に長く多いのは、「僧兵の乱妨」:爆)

辞退によって解決を見るのは、むしろ穏やかな方だったと見るべきか否か(笑)。

↓本殿(拝殿)がまたデカイ(≧▽≦)!
階段を登ってから見下ろす五重の塔(^^)→

下総のどこの話かわからないが、三代執権・北条泰時の頃に、こんな逸話が残っている。

泰時の時代になると、戦争や内攻は少なく、比較的平和な事が多く語られるが、鎌倉幕府には裁判が多く持ち掛けられた。
名執権として知られる泰時は、出来る限り根気強く、多くの言い分を聞いたようだが、それでも双方譲らず(あるいは三つ巴だったり四つ巴だったり)、紛糾が多かったようだ(^_^;)。

そうした中、下総国の領家(荘園主)と地頭の間で起こった土地の紛争裁判の折、領家との話し合いで、地頭の側が急に自分の膝を叩き、泰時の方を向くや、「負けました」と答えた。
これを見た泰時が、「今まで多くの裁判を見て来たが、こんな事は初めてだ。判決がわかっていても、一言ぐらい弁解するものなのに、あなたは本当に正直な人だ」と答え……それだけなら判るが、あげく「嬉し涙を流した」と言うのだ(^^;)。。

当時の紛争というのが、どんだけ互いに譲らぬ展開だったか、逆提示的にわかろう。
二代将軍・頼家なんかは、地図にパッと線を書いて、「これが境界! 多い少ないは運! もう言うな!」なんてキレちゃったんで、御家人の評判が悪かったとも言われる(^_^;)。

鎌倉時代と言うと、裁判に取り上げて貰えず困窮したとか、鎌倉まで私財を投げ打って訴え出たとか描かれる一方で、代々の執権に短命者が多い一因に、こうした連日の激務があるとも見られ、相当に辛いものだった事が想像できる。

ところが、この下総の一件では、泰時の涙も手伝ってか、負けっぷりに感じ入った債務者が、未払いの納物については半分を納めれば良い事にしたというから、房総ではホンワカ平和にやってたのかな〜なんて思わなくもない(笑)。

本殿から見下ろす、鐘楼・大仏・仁王門・五重塔(パノラマ4枚・180度以上)

圓福寺は、戦災後の立派な再建ぶりが確認できたし、どれも真っ赤で大きい大きい建物なのが、特に縁起良さそうで気に入った(^O^)。

海に近い神社に真っ赤!というのをよく見るが、山と同じく、海も死者の行く場所とされる事、海が太陰(=水)である事から、陽気を招いてバランスを図るという、やはり五行思想から来ているのだろうか。
海から帰って来た人が、この盛大で華やかな色を見て、故郷に戻って来た実感を得たのだと思う。
再建、これからも頑張って欲しい(^^)。

さてさて、こうして午前は過ぎ、いよいよお昼ご飯の時間なのだー!(笑)



<漁港と豪勢な浜料理( ^,_^)>

お昼をどこで食べようか、ペンションで相談に乗って頂き、周辺地図まで貰ったのだ(爆)。
その結果、「銚子漁協直販所」の向かいの定食屋さんに決定〜!地図J←今この辺。拡大して貰うと詳しく出て来る。

やって来ました。「銚子漁協直販所」!→
↑建物の下から大っきな船が見える(^O^)

どうだね。いかにも、美味い魚介類が食べられそうな気配じゃないかっ!!! *ジュル*

ちょっと中にも入ってみたりっ☆ミ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ここから見える水流は、もう利根川に入ってるんだね(^^)。再び地図J

←道路の向かいには、魚河岸料理「常陸」!
↑階段の壁に掲げられた旗! おっきい(≧▽≦)

↑通りから見た限り、「わりと小っさいね(゚.゚)」と言ってたんだが、中に入ったら、奥行きがかなり広くて、座敷部屋の手前にも食堂と、仕切り小部屋までついてた。
ちなみに階段には、「丸に蔓柏」の紋が飾ってあった。

我々は座敷で食べた(#^.^#)
こたつ注文、海老カツ・刺身定食!

この海老カツが凄いデカさで(*o*)、お腹は減ってた方だけど、全部食べ切れなかった。
でもスンゴイ美味しかったから、残すの勿体なくて、出来れば持って帰りたかった(爆)。

亭主のが又スゴイんだわ! ボリューム満点の海の幸づくしの上に、ハマグリまで頼んじゃう(≧▽≦)!
↑一口じゃ入りません!なサイズ!

さてさて、海の幸もタップリ食べたので(^^)、また出掛けよう。
話が(成り行きで:笑)鎌倉時代に入っちゃったので、付け加える点を書いておきたい。

千葉常胤は、六男の東胤頼より位階が低かった。これは胤頼が、京で宮仕えしてたからかもしれないが、頼朝によって位階昇進が果たされた後も、常に胤頼の方が上だったし、常胤は自身に栄誉が授かる場合においても、それを息子に譲って、自分は頂戴しないという図を通す事もあった。
これは常胤の千葉氏に限らず、三浦氏なども同じように子に譲っている。

ま、常胤に関しては、「ワシの息子は(ワシより)デキがイイ(≧▽≦)!」と喜んでたからって気がするが(笑)、こういう父子の光景は、頼朝の目にどう映っていただろう。

頼朝は、従兄弟・木曾義仲の子(で、娘の婚約者でもある)義高を、義仲の謀反にかこつけて殺させたし、実弟の義経すら、これまた謀反にかこつけて、死ぬまで追討の手を緩めないわけだ(^_^;)。

こういう頼朝の冷酷な姿は、後に北条氏に脚色されたとも言われるが、決して「身内に優しいタイプ」とまでは言い切れないだろう(笑)。

が、発想を変えてみると、義仲や義経は、我が子が死に晒されるような事態を、自ら招いてしまったのも事実だと思う。

頼朝の父・義朝も、勇猛な人だった反面、相馬御厨の相論でも見る通り、無茶の多い人生を送った。
平治の乱で敗れた義朝一家は、戦死したり、捕らえられたり、討ち果たされたり、悲惨な末路を辿った。

次男にして頼朝の兄・朝長などは、戦場で重症を負い、義朝の命じた別路を行く途中から、傷の痛みに耐え切れず引き返して来て、義朝に叱られたあげく、義朝の手で討ち果たされたという話もある。

もっとも、「それ誰が見た話(^_^;)?」と思わなくもない(爆)。
強いて確かな生存者と言えば、朝長の死ぬ前に一行からはぐれてしまった頼朝ではなかろうか。

はぐれる前、手負いの兄を見ていれば、兄がその後どうなったか、まだ少年だった彼にはすごく気になってたのではなかろうか。
だいたい「はぐれた」と言うからには、一行は頼朝を探さず先を急いだ、という事になる。
真冬である。「見捨てられた」という思いが、少しは胸をよぎっても無理はない(^_^;)。。

やがて頼朝にも子が生まれ、嫡男・頼家とともに狩に出て、頼家が獲物を取ったとか、わざわざ手紙を出して妻の政子に伝えた事がある。
政子は「武士なんだから当然! んな事で、いちいち家来を使うな!」と叱り帰したそうで(笑)、この辺りも、「甘やかされて育った頼家」という印象操作があるにせよ、頼朝の一面を見る思いもよぎる。

頼朝は、着飾って伺候した家人に、こんな小言を与えている。
千葉常胤土肥実平は、文筆にも劣り、善悪の判断もつかないし、いつも貧相な身なりをしている。しかし、その所領はお前などには、及びもつかぬほど多い。コツコツ貯蓄に励み、多くの者を兵と成しているからこそ、その全てを勲功に注ぎ込めるのだ」

質素倹約・質実剛健ムードをもって、ここでは「勲功」と、「幕府に役立つ面」を強調してるが、やっぱ御家人の本願は「土地」じゃないかな〜と思うんだなぁ(^^ゞ。
また、勲功の恩賞を、親が受け取らず子に譲るのも、特に武士の独特ではなく、貴族社会にもあった風潮かもしれない。

しかし位階は幕府の許可ナシには得られないし、幕府の評価は土地に直結する。
ここが幕府が出来る前と後の時代の違いなのだ。頼朝が束ねた御家人たちは、下司職という、荘園層の中でも弱く、危うい立場の者たちだった。今で言えば、人材派遣業と労働組合を一緒にしたような……民営組織とでも言えようか(笑)。

頼朝には(政権を受け継いだ北条氏も含まれるが)、御家人たちが何のために忍耐し、何のために忠義を尽くし、命を懸けているのか、そこに人の生きる何たるかを見抜く眼力があったと思う。

なぜなら土地は、子や孫がこの先を生きていくための遺産になるからだ。



<海上八幡宮>

地図K←だいぶ犬吠埼から遠のいたが、ここもまだまだ銚子市である(^^ゞ。芝崎町という所に来ている。

ただ、これまで行った地域は、銚子電鉄の各駅区間が短く、ちょっと電車に乗っては移動……というのがラクだったが、この辺りから先は、鉄道は成田線となって続いているものの、各駅の区間が間遠になるので、車が無い人だと歩きが大変かと思う(^_^;)。

国道37号線から、ちょっと左に入った道に「海上八幡宮(パノラマ3枚・ほぼ180度)

緑で書かれた「海上」の字と、緑豊かな広い境内。

社伝によると、大同2年(807)8月、大分県の宇佐八幡を勧進したという。
「誉田別尊・此売神・大帯姫命」の三神を祀っている。

境内には大きな石碑があり、以下は、石碑にある事に、若干の補足を加えながら書く(^^ゞ。

「誉田別尊(応神天皇)」が、母后の「大帯姫命(神功皇后)」の胎内にいる時に、三韓が制せられて、中国の文学・工芸を取り入れられ、この国の文化の基が開けたので、この二神を文武両道の神として祀って来た。
「此売神」は素戔嗚尊の娘で、瓊瓊杵尊を守護する命を受けて宇佐に天下った、宗像神社と同じ神で、これが三姉妹の神だからだろう、「三柱」と数えられており、祭神はあわせて「五神」とされている。

はじめは「堀内」と号したが、三神を芝野の上に祀ったので、「芝崎」と改め、鎌倉壷に勧進した。
海上郡の総鎮守として、「海上八幡宮」、または「総社八幡宮」とも呼ばれている。

神殿が建立されたのは、崇徳天皇の太治年間(1126〜30)である。
やがて源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、房総に流落した時、祈願をして覇業を成し、鎌倉に向かったので、鎌倉壷と号され、小祠が今でも在って、宮山に遷座した。

……大治元年(1126)というのは、千葉氏が大椎から千葉に居城を移した、と伝わる年でもあり、この神殿建立の背景にも、そうした情勢が伺える。
また、この前後に千葉庄や相馬の寄進活動が開始されている点から、この海上郡が千葉氏にとって、本拠に等しい重要な場であった事も伺える。

中世には、千葉氏・海上氏・国分氏より寄進を受け、奉献物なども残る。特に地元・海上氏からは、篤い信仰を受けていた。

天正18年(1590)以降は、小田原征伐で北条氏とともに(馬加系の)千葉氏も滅びたからだろう、徳川幕府によって朱印地となった。

そのため、社領高として30石を有し、海上郡60余郡の総鎮守として守られ、村内からも、さらに寄附を受けて栄えたのである。

江戸期の天和2年(1682)、社殿が今の社殿に建築され、翌3年(1683)に完成したようだ。

この「社殿」というのは、この奥の「本殿」が、平成2年(1990)に千葉県の県文化財に指定を受けており、その年の秋に、今上天皇の「御即位の御大典」が行なわれた事を記念して、寄附を募り、玉垣を改築した事が書かれていた。

で、県文化財に指定された「本殿」の方だが、案内板に建築様式の側面図が解説されて、とても判りやすかったので、それとあわせて見てみたいと思う(^^)。

側面図。まず屋根の上から行こう。
千木」「勝男木」、屋根は茅葺

屋根の下、「二重虹梁」と、間に赤鬼(笑)を挟んで、彩色の彫り物を施した「本蟇股」。
赤鬼。亭主に「ほら、ほら」と言われなかったら気付かず、写さなかったと思う(^^ゞ。

本蟇股」の彫り物には、「梅・鶯・葡萄・リス・松・鷹」など、華麗な動植物が描かれ、特にこの「赤鬼」には、「江戸時代前期の力強さを表現するもの」と解説がされていた(^^)。

そして「脇障子」と「擬宝珠高欄」の縁(側面)↓
正面の「向拝」には、やはり見事な彩色の唐獅子

この唐獅子も、「虹梁を省略し唐獅子の木鼻彫刻を施しているのは、県内でも類例の少ない技法」とあった(^^)。
この本殿は、正面三間、側面二間の「三間社流造り」と言われるそうだ。

大鳥居も建立以来あったが、修理の記録としては、元禄2年(1689)、亨和4年(1804)、大正13年(1924)、昭和25年(1950)、昭和46〜47年(1971〜72)が残る。

←これは、本殿の奥の摂社。稲荷だったかな(^^ゞ。

明治6年(1873)10月、新治県(千葉県になる前の、この辺りの県名(^^ゞ)の時に郷社に列した。
氏子は、海上地区、船木地区、椎芝地区、豊岡地区、鶴巻地区にわたって、2千戸以上あり、境内の内外に6千坪以上を有する。

昭和46年(1971)の台風25号で大鳥居が倒壊した時は、木の中心が朽ちてしまったので、何十回も有志が日夜語りあって、その年の内に着工し、翌年(1972)に完成できたという。

また、昭和58年には、里の人達が氏子を中心にして相談を重ね、浄財を集めて植林の事業を興し、神殿を囲む神域の森を創生しなおした。
これは、太古から数百年にわたって風雪に耐え、季節や自然の変化を教え、豊凶を占う事で、住民の安全を守って来た参道や裏山の老松が、全国的な松喰虫の猛威によって、短期間に枯れてしまったためだった。

神殿の周囲を囲む、素晴らしい森(パノラマ4枚・180度以上)

なるほど、そう聞くまでもなく、ここに入って来た途端、「わ〜緑が瑞々しい(^^)」と強く感じたわけだが、古くからの森が残っていて、自然の豊かさを感じられるのも嬉しいが、今でも神社を崇拝する住人によって蘇った緑と知ると、嬉しさが倍増して感じられる。



<等覚寺、1>

さらに西にやって来た。
地図L←鉄道だと、ちょっと前に分かれて総武線に入る。車だと356号線から左折して、か〜なり入って来るね(^^ゞ。ただ、ここから、次に行った「中島城跡」までは、500mほどと近距離。

この辺りが、そもそも海上氏の本拠地だったのではないか、と見られている。
モチロンまだまだ銚子市!(笑)
この辺りは、岡野台という所だ。

上の写真の通り、「山に入る(゚.゚)」と思う。城跡も近く、山奥っぽい風情だ。

等覚寺」に到着(パノラマ3枚・ほぼ180度)

中島城跡からも近距離で、曹洞宗との事だし、海上氏の菩提寺だったんじゃないかな〜。

ここの境内から、東胤頼の孫・海上胤方が、母を供養するために埋納した経筒が出土したのだが、寺の建立は、1390年、海上公胤との事なので、元々、海上氏の菩提寺とか城のあった跡地に、同じく海上氏の子孫が、先祖の何らかの伝えを元に建立し直した(か再建した)のかな(^^ゞ。

後にここは松平氏の墓所ともなったので、前時代の領主の記録は残ってるか……(^_^;)。。

お寺の秘仏や出土した経筒については次回に譲るとして(^^ゞ、この寺を建てた海上氏の祖・東胤頼から後を話してないので、今回は胤頼の子・重胤について書いておく。

千葉常胤−┬胤正
        └(東)胤頼−重胤胤行
                    └(海上胤方−胤景┬教胤
                                 └胤泰−師胤−公胤

これまでも見て来た通り、千葉氏や東氏に関する記述というと、概ね、平和なムードが伝えられるように思う。
鎌倉幕府というのは、何しろ内部抗争と粛清劇がやたら多いので(^_^;)、その合間に見ると、周囲から浮いてる印象すらある(笑)。

よく知られているのは、東胤頼の子・重胤が、三代将軍・実朝のお気に入りだった、という話かな(^^ゞ。
続きは、ちょっと中にお邪魔して、話させて頂こう〜♪→

将軍・実朝東重胤は、主従関係を超えて、「和歌友達」でもあったようだ(^^)。
実朝は、ある時、重胤を召しだしたのに、どういう事情があったのか、重胤はなかなか命令通りに、鎌倉にやって来なかった(^_^;)。。

理由はよく判らないが、前年の1205年には、幕府に呼び出しを受けた畠山重忠が、謀反の咎として、途中の二俣川で、騙し討ちのような形で滅亡に追いやられる事件があったから、ウッカリ呼び出しに応じると、殺されてしまう不安でもあったのだろうか(^_^;)。。

荘厳な高樹の見下ろす境内(パノラマ2枚)

実は畠山重忠の父の妹(か姉)が、千葉常胤の妻だった。出身は秩父氏である。(畠山重忠の武勲は、2009年4月<阿津賀志山防塁>内にも(^^ゞ)
頼朝の生前、1187年に、畠山重忠の代官の横暴が伊勢の大領に訴えられて、畠山重忠は囚人として、縁続きの関係からか、千葉氏に預けられてしまった事がある(^_^;)。

この時、あまりに厳重な処罰に、真面目な畠山重忠は食を断ってしまった。
千葉常胤の長男・胤正は、畠山重忠のこの様子を見て、これでは餓死してしまうと、慌てて頼朝に許しを願った。ε==(/*o*)/

すると、頼朝も感動して許したので、胤正は喜んで邸に駆けつけ、重忠を連れて出仕した(^_^A)。

そんな畠山重忠を滅ぼすよう命令したのは、初代執権の北条時政だった。
頼朝はとうに死に、さんざ血生臭い事件の末、二代将軍・頼家も暗殺された1205年だった。

こうして、北条時政の子、北条義時は多くの御家人を動員し、畠山重忠を討ち取ったのである。

そして鎌倉に戻って来るなり、「討ったものの、謀反の形跡は無かった」と報告し、その直後に父たる時政を追放した。
これは父・時政を追放するため、遭えて畠山重忠を犠牲にした、という見方もある(^_^;)。。

つまり、畠山重忠の領する武蔵への野心の点で、時政・義時の父子は一致してたのだが、冤罪と知りながら義時が畠山を討ったのは、討伐命を下した執権である父・時政の責任を、罪として動かしがたくするためだと。当の畠山重忠が「間違いは誰にでもあるから(^^ゞ」とか時政を許しちゃうと困るから、殺してから「オラオラ、どうすんだよ」って事だね(^^;)。

そう思うと、北条義時ってオソロシイ奴なんだが、畠山重忠の死を義時は泣いて悲しんだとも言う。
この辺り、北条氏を美化する脚色があるとも言われるが、畠山氏と北条氏は姻戚関係にあったし、二人は年齢も似通って、それなり友情で結ばれていたんじゃなかろうか(^^ゞ。

こうして二代執権の座に就いた北条義時が、さっきの東重胤の話に関与するのだ。
「呼んだのに、なかなか来ない\(>o<)/」と、将軍・実朝の怒りを買い、蟄居を命じられた東重胤は、よりによって、このコワ〜イ北条義時に、
「違うのっ、違うのっ\(>o<)/」と、泣き言を言ったらしいんだな( ̄▽ ̄;)。。。

義時は快く取り成しを引き受け、重胤の悲しみを歌に書かせて、将軍・実朝に取り次いだ。

こうして届いた東重胤の歌を詠むや、将軍・実朝はコロリと機嫌を直し(笑)、送られた歌を繰り返し口ずさんで、重胤を召すと、重胤の暮らす下総の冬景色や枯野の眺め、鷹狩、雪の朝などを興味深く聞いて、重胤を許した。 *ホノボノ(#^.^#)*

重胤は実朝の怒りがとけた事に感謝して、義時に長く忠誠を誓ったという。

これも見ようによっては、将軍に向かうべき御家人の忠誠を、横から北条氏が浚った事などがあって、それを言い訳する後付に思えなくはないが、北条義時は、特別に千葉氏や東氏を贔屓していたわけでもない。

本堂まで来た(パノラマ2枚)

←本堂から山門を振り返る。

実朝は京への憧れの強い将軍で、2年後の1208年にも、京から戻った東重胤を御所に呼んで、熱心に都の話を聞き、報告を聞いて感動したというから、元々相性が良かったのだろう(^_^;)。

一方の義時は、自身の郎従を新たに御家人にしようと強攻策に出て、1209年、職務怠慢を理由に、従来の御家人から守護職を取り上げようとして、千葉・三浦・小山から抗議を食らった。

この時は、返って実朝が、「僅かな罪を言い立てて、守護職を取り上げたりはしない」と、千葉らにお墨付きを与えて庇っている。

こう見て来ると、義時が、実朝と重胤の間を取り持ったのは、野心とは無縁の親切心に思える。

東重胤にとって実朝はどこまでも主筋だから、蟄居を食らって本当に慌てたんだろうが、義時は二人を主従と見るより、ふとした事で擦れ違った若い友情と判断したように思える。
そこに、自身が犠牲とした、若き日からの友情を重ね見る姿が浮かばないでもない。

だからこれが、非情の極地と言われる北条義時には、珍しいホンワカ・エピソードなのだが(^_^;)、ここに東氏が出て来る点も、同時に千葉氏のムードを窺い知る点かもしれない。

重胤の子・胤行も、1218年に、「父・重胤と並び立って、無双の近仕」として、将軍に「早く早く、早く来るように!\(>o<)/」と催促されている(笑)。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
2002年9月
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内
2008年5月<香取神宮・2、「本殿」>内
2008年10月「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)27〜33話内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年4月<阿津賀志山防塁>内および
2009年5月<相馬「中村神社」(西館跡)>内
2009年9月<1日目・千葉城(亥鼻公園)>内
2009年10月<「千葉寺」、2>内および<胤重寺>内およびおよび<宗胤寺>文頭および<千葉山>




さてさて、次回はこの「等覚寺」の続きから入って、「中島城跡」をお届けしたら、この「千葉〜銚子編」もエンド(^_^A)。
続いて、 7〜9月の近場風景などチョロとお届けの後、9月の東北旅行レポに入りたい(^^)。

東北レポは「岩手南部編」とでも題そうか(^^ゞ。
5回ぐらいに渡ってお届けの予定だが、まず第1弾は、1日目の「ひじり塚(河野通信の墓)」と樺山遺跡(一部)の後、水沢で一泊。
2日目は午前、「奥州市埋蔵文化財調査センター」あたりまで行けたらー!!

<つづく>

2009年11月06日
 
     





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