<2016年・城主のたわごと4月>




2015年9〜10月は、まず柏市「福満寺」の続きから。

印旛沼・手賀沼・ハロウィン。東京「武蔵千葉氏展」(^O^)




     
  2月に掲示板を閉じた(今のところは休止としてるけど:笑)ので、感想はメールでくらはい(^^)。

今回は、武蔵千葉氏の話題があるので、定例の「旅レポ読んでネ(^^)」を出すのはどうしようかと思ったんだけど、武蔵千葉氏一回だけだからな〜と思ったんで、やっぱり「定例」でいこう。

まずは、その定例(笑)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「足利編」1〜4
「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

今回は、まずは9月、前回の手賀沼南岸「福満寺」の続きをやりたい。
お寺の参拝の後は、隣の「香取神社」にいき、その日、偶然出会った御神輿を撮りました♪

続けて、9月〜10月にかけて、印旛沼、手賀沼の秋の風景。
そしてこの秋もハロウィンの街風景(^^)。

最後は10月、東京都板橋区で開催された、「武蔵千葉氏」の展示会を見に行った。
展示会場の、区立郷土資料館と、その裏の民家展示。
資料館の周囲を占める「溜池公園」と、その裏手「赤塚城跡(本丸)」。
そして、これら城跡から南方の「不動の滝」、千葉氏菩提寺の「松月院」をレポする!



■9月・千葉県柏市・我孫子市
<「福満寺」、2(日暮玄蕃の墓)>


↑前回の最後にレポした寺(^^ゞ。今回に引き続ける。地図
(2016年2月<「福満寺」、1(平将門の“大井”伝承の寺)、2016/05/22・後追リンク)

まずは前回も出した写真(パノラマ)ながら、本堂に向かうお寺の正面と、それとは逆に本堂の縁側から振り返る風景を……↓

まずは正面、本堂を中心に(パノラマ5枚180度以上)

逆に本堂の縁から見る福満寺の境内(パノラマ4枚180度以上)

前回は本堂と、その周辺までをレポした。
今回は、本堂に向かって(上の写真)左側、本堂から見ると(下の写真)右側に向かう。

まず、本堂のある敷地には弁天池があるんだが……、

←その傍らに布袋尊像が立っている。
↑そいで、こちらは「弁財天」と扁額された鳥居の先に赤い欄干の橋が渡されている。

調べてみたら、柏市でも「七福神巡りをやろう!」という動きがあるらしく、その中で福満寺には布袋が配置されてるようだ(^^ゞ。
弁財天には、「幸町辧財天」という所が該当するそうだ。(かしわ七福神創立を考える会

←弁天堂とその傍らの↓鴨クン(^^)

この弁天堂は、天保11年(1840)、上野不忍(しのばず)から勧請。(上野の不忍池は、天海が琵琶湖の竹生島から日本五大弁天の一つを勧請したものという)

さて、前回、このお寺正面の道を下りて来て、その途中↓

この「観音堂」の前を通った(パノラマ4枚180度以上)

今度は境内の敷地内から来てみる↓

左「観音堂」・中央「本堂」(右各摂社)(パノラマ4枚180度以上)

この観音堂は江戸初期の建立で、三方に廻廊と高欄がめぐり、天井には、寛永寺で狩野派の絵を学んだ19世・恵深和尚の龍の絵があるという。
下総観音霊場14番札所。

↑この位置から後ろを振り返ると……↓

行きに通った深緑の坂道を境内から臨める(^^)

この坂道に面する斜面に、ズラーーッと小さい祠が郡をなして並び、まるで「祠の住宅街」か「祠のマンション」のよう(^O^)

まず観音堂の傍からいこう。
観音堂の奥隣(向かって左)に、墓地に続く階段の下に「日暮玄蕃の墓」がある。↓
江戸初期の事件に出て来る人物であるが、「日暮」という名は地元に古い。

今では細々と新しい地名にとって代わられているが、私の子供の頃、「日暮」は、かなり広範囲に及ぶ地名だった。

姓としても、戦国期の高城氏の重臣の中に見るし、今でも松戸市でよく見る。確か松戸に「日暮酒店」などあった(^^ゞ。

そういえば八柱にも「アンビル」というリカーショップがある。高城氏家臣の安蒜氏(※)だろう。
高城家臣は江戸時代、酒造で暮したんだろうか(^^)。
(※ 「千葉氏の一族」さんによると、安蒜氏は高城氏の一族から出たとも)

後北条氏が小田原に滅亡した時(1590)、後北条方だった高城氏の小金城は、浅野長吉(長政)に攻められて落城。
……と言っても、城の主力は小田原への援軍に行かされて抵抗できず、殆ど開城に近かったが、留守部隊の中に、安蒜・吉野・平川・血矢・日暮・高橋ら200騎、軽卒300人と、今言った名も見える。

手持ちの本には、「城は接収された後、焼かれたと考えられる」とあったので、小金城(遺構の一部現存は現・大谷口公園)は、その時点で廃城されたのだと思っていたが、wikiによると、家康の五男の「武田信吉が松戸の小金城(大谷口城)3万石の領主となり、1〜2年で佐倉城に移り、小金城は廃城した(概要)」とある。
少しの間使われたんだね(^^ゞ。

いずれにせよ、その後の高城氏は、ちゃっかり旗本になって存続するが(笑)、戦国期の広大な領地は手放さざるを得なかったから、地元の家臣の家柄は、各々が幕府体制との関わりの中で身を立てていっただろう。

信吉自身、関ヶ原の後は水戸へ転封され、1603年には若くして亡くなった。
ために信吉の起こした徳川系の武田氏断絶した。

しかし信吉の甥(信吉の弟・頼房の子)で、やはり水戸藩主となった水戸徳川光圀が、前藩主であり、叔父でもある武田信吉一族の供養に熱心だった。
光圀は、信吉の生母・秋山夫人(家康の側室で、穴山梅雪夫妻の養女となる事で武田家の名跡を引き継いだ)の墓を整備するため、松戸本土寺に手厚い保護を与えている。

祠の密集地が斜面にズラリと勢ぞろい

そして福満寺の由緒によると、この「本土寺の檀家に「日暮玄蕃」がおり、小金に住み、水戸公の信任厚く、隠密でもあった」という事で、本土寺を介して、水戸徳川と日暮氏の子孫らしきに関係が成立してた事を伺わせる。

そして「寛文のころ(1661〜72)、本土寺の僧、日述が密かに不受不施宗門を広め、玄蕃一族を邪宗門に引き入れ、仏性院を建立」
「寛文4年(1664)頃、徳川幕府が悪宗門御吟味の折、玄蕃一族取り調べに驚倒し、当福満寺の住持豪養に駆け込み、天台宗に改宗して、子々孫々福満寺の檀家になるという事で急難をのがれた
と当時の記録を綴っている。

この事件、宗教史として長い経過があるので、多くは割愛するが、松戸とその周囲に限らず、時代に吹き荒れた日蓮宗の法難の歴史を物語るもので、日蓮宗はキリスト教並みに幕府に苛烈な弾圧・迫害をされた宗派と言える。房総は日蓮の地元でもあった故に、影響が薄くない。
(詳しくは→不受不施派@wikiまたは本土寺@wiki

本土寺は日蓮宗として名高く、しかも下総の寺だったから、法難の渦中となり、流刑や処刑の憂き目にあった上人もいる。
17世・日弘の後4世が世代に数えられないまま今日を迎え(4世目が日述)、ようやくカウント再開の18〜20世も墓碑は無く、日述は江戸・大阪・京の大衆に熱烈に称えられながら流刑された。

21世・日信(が水戸光圀と信交を持つ)以降、本土寺が不受派から受派に組み込まれたため、やっと住職の墓が建てられるようになった。(←これは本土寺の話ね、今いるのは福満寺)

←道路側から撮影。↓「馬頭観音堂」

馬頭観音堂」に安置される馬頭観音は、往古、近郷の兵馬営業の諸氏が発起となって、武州上岡妙安寺より、馬頭観音の分身を乞って祀り、馬の保護神として信仰されている。
「悪人調伏・象病息除・天変地異・論議得勝を本文として畜生道の救済に当る」とある。

「太子堂」
入口付近の六地蔵

太子堂は、前回も述べた通り、近郷の大工さん達の寄進で昭和48年(1973)に再建された。
やはり前回も述べた通り、山門の梵鐘の所でも、当時の大工の棟梁の名として、相馬郡大井村坂巻清左衛門が見られる。

ちなみに坂巻氏の名は、近くにある「大井追花城跡」に、平将門の重臣と伝承する坂巻若狭守にも見られる。(2016年2月<「福満寺」(平将門の“大井”伝承の寺)、1>内以降、2016/05/22・後追リンク)

六地蔵の側に来ると、その前に「大六天」↓が並び、その左には、文化5年(1808)に創立された「四国八十八ヶ所巡り」の碑とともに、弘法大師の供養塔が並ぶ。明治時代、四国を巡って砂を頂き奉納するなど、熱心な信者が多いという。

地蔵の前の「大六天
本堂前の「粟島大明神

この「粟島大明神」は、最初に寺に入った時、本堂前の宝篋印塔や霊石やらのあった並びに鎮座であったのだが、祠に入る向きが裏にあって、弁天池を廻り込んで参拝するようになってたので、最後に廻した。

この神は民間信仰神で、wikiでは、「少彦名」「蛭子の妹」「住吉神の后」「婆利塞女」の四説を列挙してるが、この寺では、恐らく医薬の神としてだろう、「少彦名命」としており、「諸人の病を癒し賜う明神」とある。

その後に、「ことに婦人の下の病には霊験有りと古来より伝えあり」と説明し、パンフレットにも「安産・子授け・女性の病気に格別の効験」と重ねて謳っている。

以上、関連事項は(2016/05/22、後追リンク)、
■前回
2016年2月<「福満寺」(平将門の“大井”伝承の寺)、1>内以降
■安蒜・高城・本土寺関連(ざっとね(^^ゞ
2004年8月<寄り道2、広徳寺「高城氏の墓所」>
2004年9月<寄り道3、なぜか水戸黄門(笑)>
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>
2008年5月<年始(^^)・「松戸七福神」巡り>
■水戸徳川光圀(これもいっぱいあるんでメインのだけね(^_^;))
2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内
2014年10月<西山荘>
2014年11月<西山荘、2(つづき)>




<隣接「香取神社」>
 

福満寺は、前回も示した通り、「鐘楼堂」のそびえる高台から坂を下ってゆくと、左手低地に観音堂と本堂に次々と出会う構造だが、その隣の「香取神社」(地図)は、鐘楼堂と並ぶ高さに立地しており、福満寺の前面を塞ぐ山壁は、この香取神社の土台部分、という形状である。

←福満寺の鐘楼堂。↓こちらが「香取神社」正面鳥居(パノラマ4枚180度以上)

鳥居を潜るとすぐ出会う大きな樹木(クスノキ?)
境内に入ると、すぐに二股に分かれ、本殿には右にいく

古伝に元和(1615〜23)以前からあるといい、以来、長く鎮守杜として崇敬されているそうだ(^人^)<パンパン

も一つ鳥居をくぐって本殿に
右に「大杉社」

大杉社は、この手賀沼の界隈ではちょくちょく見掛けるんだよね(^^ゞ。


でも摂社については、子安社・稲荷社・天神社・神輿庫などが説明版にあげられ、大杉社は書かれてなかった。

もっとも上記は、摂社の案内を示すための記述ではなく、改修された時の新築記録である。

神社付近の町道の改修工事が行われた時、参道の大半が道路の敷地となって境内が狭くなったため、天皇陛下の金婚式を祝うに際し、新装を行っている。

神社所有だった大六天天神山の山林を基本に用い、多くの浄財を集って、今言った摂社の他、鳥居御水舎の新築もその折にされた、という事だった。



<湖北「布佐」周辺、神若囃子の神輿>

今までいたのは、手賀沼の南岸、いわゆる沼南と呼ばれる所(柏市内)だったが、今度は手賀沼の北……いわゆる「湖北」(我孫子市)に出た。

前回も書いた通り、実はこの日かなりの発熱だったんだが、病院が休みなのと、「熱はすぐ退く(^^ゞ」と思ってたので(今思えば大間違い)、この後も引き続きドライブ続行した。

手賀沼の南は、前は南東によく行ってたが、この頃はこれまでいた南西の大井によく出るようになった。
北は、これも前は北西に出たが、この頃は北東の布佐あたりに行く事が増えた。

何となくブラブラする内、後方からやってくる神輿に出合った。この辺(地図)だった。近くには布佐駅(JR成田線)と「都(みやこ)」という交差点(地図)がある。

↓ワイワイガヤガヤ町の人が見物に来る中……
ピーヒャラピーヒャラ近付く神輿の行列→

神輿の中央には、ヒョットコ仮面の踊り手

この場合の神輿の屋根の上に乗る少年達って、西洋宗教絵画のエンジェルみないなもんかね。頭上に乗せ歩く、「神の余裕」とでもいうか(笑)。

急に神輿が止まり、おもむろに方向転換を開始
クルクルクル〜っと

祭りの衆や町民の方の邪魔にならぬよう、やや遠くから見てたので、ハッキリ何をしてるか確認できてないけど、氏子さんの家とかに挨拶(あるいはその年の厄払いとか?)してるんじゃないかな(^^ゞ。

真後ろのおうち→にもご挨拶
終わると再び←出発・前進〜!

何しろこうやって道行く途中、180度展開して、ヒョットコさんの踊りを左右にお披露目すると、又おもむろに前を向いて、剽げた踊りとピーヒャラピーヒャラ音曲を繰り広げながら進んでいった。

カドを練りまわって曲がり
次の交差点で信号待ち

神輿の台座の背には「神若囃子」という字が書かれた。検索してみると、どうも布佐にある「竹内神社」(地図)の祭礼のように思える(違ってたらごめん(^_^;))。

今いる近くに確か「(みやこ)」という交差点(地図)があるんだけど、この地名も、もしかすると、南岸の「大井」を、将門王都の「大井津」に見立てる仕組みの一つなのかな(^^ゞ。
この辺りの芸能とかと関係あるのかなぁ?

以上、関連事項は(2016/05/22、後追リンク)、
■手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>




■9月〜10月・千葉県柏市・佐倉市・鎌ケ谷市・白井市
<秋の印旛沼>


以後、9月下旬〜10月、下に続く、東京の「武蔵千葉氏展」に行くまでの間の写真、やや前後しながら進める。

まず、前号でも行った印旛沼にまた行った(^^ゞ。この秋はどうも、そちら方面づいていたんだな(笑)。(2016年2月<夏の印旛沼・虹・月・盆踊り>、2016/05/22・後追リンク)

秋半ば、金木犀がいい香り(#^.^#)
山の無い千葉の平野をゆく(笑)

前回も述べた通り、印旛沼は南北に二つあり、前はよく北の方に行っていたが、今回は前回と同じく南のほうに来た。

前は印旛沼へ行くとなると、千葉ニュータウンを間に挟んで東西をゆく464号線を、ただ点から点へ行き来するだけだったが、この頃は464号線を南北に出入りする道を少し知るようになって、ドライブの範囲が二次元的に広がりつつある(^^ゞ。

途中に渡る新川(たぶん)
広々と拓ける周囲の平原

この日は確か、途中に263号線を通って、64号線に入って南下、舟戸大橋を渡って湖岸に出たと思う。

湖岸(と言っても、地図上ではまだ橋の途中)に徒歩で降りれる浜辺があって、この湖岸風景の今と昔の違いを、詩情豊かに述べた案内板が立っているので、紹介しよう(^^)。

舟戸大橋(たぶん(^_^;))
やがて湖岸(地図)に到着

臼井八景 師戸帰帆

 もろ人の 諸戸の渡り行く舟の ほのかに見えて かえる夕ぐれ
 印旛沼の晴れた日の暮れ方、風が止んで波が静まり、鏡のようになった広い湖面には、向う岸の山並が青墨色にくっきりと映し出されている。その中を、もろもろの人を乗せた渡し舟が、臼井の渡船場から対岸の諸戸(現、印旛村師戸)へゆったりと渡ってゆく。光勝寺の夕べの鏡が鳴って、漁師の白帆舟も三々五々、師戸の河岸へ帰ってゆく。

船は違えど今も濃厚に残る沼の風情(#^.^#)(パノラマ2枚)

 三百年前の元禄時代、円應寺地図※)のそばに住んでいた。「臼井八景」の作者は、この辺りの湖岸から師戸へ帰る帆舟を眺めながら、一幅の絵のような美しい情景を楽しんでいた。そして、もろもろの人師戸の人を掛けて、その秀景を前揚の歌に詠んでいる。

(※現・円応寺、ちなみにすぐ近くに臼井城跡(地図))

ズラリと並ぶボート。貸し出し用かと(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)

 向う岸にある師戸は、以前漁師の帆船が盛んに出入りして活気のある河岸であった。また、臼井の舟戸との間を行き来する渡し舟の船着場としても賑わっていたが、今は漁師がめっきり減り、昭和38年に舟戸大橋ができてからは渡し場もなくなって、昔の帰帆の風景は殆ど見られなくなった。その師戸岸のすぐ上の師戸城跡には、西印旛沼が一望できる県立印旛沼公園地図)がある。
題字 佐倉市長 菊間健夫
撰文        立原三知男

帰りに通った森林道
濃い緑の丘陵沿いを走る

千葉県には、突出した大きな山も無く、また全体的に標高のある山岳地帯も無いが、水辺のような低地の近くに、すぐ山奥のような森林地に入る道があって、覆い茂る林の作り出す急な影の濃さに、ちょっと驚くことがある。

そうした、雰囲気のあるウネウネ坂道などには、ちょっとした食事処や喫茶店などがある事もある。

旅館までは無いので、思うに、日帰りの釣り客やゴルフ客のために営業してるんだろうが、近隣の住民にとっても、息抜きのドライブに良い風情をかもしてくれてる(^^)。

沼地の昔ながらの景観も大事にしたいが、豊かな森林場なども、急な開発で無くなったりしないといいな〜♪

↑これはたぶん舟戸大橋とは別の橋(この辺かなぁ→地図

以上、関連事項は(2016/05/22、後追リンク)、
■印旛沼(北・うなぎロード)・白井〜(南)
2005年11月<すすきロード(千葉ニュータウン)><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
2006年11月<宗吾霊堂、1>
2006年12月ほぼ全文
2007年1月<「印旛沼公園」(師戸城跡)、2>
2008年4月<印旛沼〜宗吾〜佐原香取>
2008年5月<千葉ニュータウン〜印旛沼>以降
2008年6月<麻賀多神社、2>内
2010年8月<「房総のむら」レストラン〜印旛沼周辺の夕日>
2012年8月<印旛沼うなぎロード(^。^)>
2012年12月<木下街道(県道59号・市川印西線)、@白井市編>
2016年2月<夏の印旛沼・虹・月・盆踊り>




<秋の手賀沼(大井〜今井)>

前、2012年10月か……φ(。。)m、手賀沼の形状を「つ」の字で示した事がある↓

■■■■■■■
         ■
昔  ■■■■■
■■■−−−┐
         |
今  −−■■┘
←こんな感じね(^^ゞ

「今」は、二つの湖の途中を川幅ほどの水流に変え、その周囲を高い土手で囲み、さらに周囲には田園風景が広がる。
二つの湖は、左上を「手賀沼」、右下(南東)にあるのを「下手賀沼」と呼ぶ。

「大井」は手賀沼の南西(左下)。「今井」は下手賀沼の南西岸(左下)。
まず今井からゆく。春は桜並木の見える野原も……↓

秋は黄金色の稲田が広がる
夏〜秋はカトレアの咲く街道

道路は下手賀沼の南岸に通っているが、やがて民家はだんだん無くなり、広い河川敷に出る。地図


左の森の奥が下手賀沼
今度は所変わって「大井」

大井は手賀沼に近い辺りをいつもレポするが、もうちょっと手前の、まだ住宅街っぽい辺り。地図

←続けて北上し、手賀沼の西の方「ヒドリ橋」(地図
橋の下には二羽の白鳥(↑拡大)


湖畔に割り込む水田には、白鷺も
(↑拡大)

■■■−−−┐
         |
    −−■■┘
←今、左上「手賀沼」の左下側にいる。これより南岸沿いの道を、手賀沼の右下、曙橋(地図)のほうに進む。

↓前方は夜空と丘陵で闇が濃いが
道路の左手、湖の向うの夜景が綺麗→

←そして、いつもレポする曙橋近くの駐車場から。
この日は秋空の下、悠々と帆を拡げる白いヨットが湖面に浮かんでいた。

以上、秋の良い日和が続く一方、私のひいた風邪のほうは長引きに長引いたぁ〜!……という話をする(^_^;)。。

まず熱のほう……。

最初の3日間は病院に行けなかったので(救急に行けば良かったのかもしれないけど、そこまで長引くと思わなかったので(^_^;))、38〜39度代から全く下がらなかった。。

しかし驚いたのは、その後で、4日目に病院に行って薬を貰ったのに、それを朝から飲んでも、平熱にまで下がるのに、翌日の夜までかかった事(*o*)!!
飲んでも飲んでも、毎回37度台後半なんだよな〜〜。。「薬効いてんのかな。もいっぺん病院行き直そうかな(^^;)」と思いましたよ、はい。。

そして本格的に長かったのが……咳!!
一週間は、喉から血が出るかと思うぐらい咳が止まらず(>_<)、その後もゴロゴロ咳が10月にかけて三週間以上は続きましたね。
最後は咳が出かかっても、気力のほうが萎えて止まってしまうといふ……(つД`;)。。

以上、関連事項は(2016/05/22、後追リンク)、
■手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>




<ハロウィンの街>

そんな咳がやまない時期(笑)(9月の終わりから10月後半にかけて)、街もだんだんと色づいていった。ちょうどわかりやすく、ハナミズキの赤い実と紅葉の写真が対比できる。

まずは9月末ごろ
葉はまだ青く、赤い実だけついてる

二週間ぐらい後の10月半ばごろには、もう真っ赤に!
ハナミズキって春は紅白の花が咲くし、秋には凄く綺麗に色づいて、季節感のある良い樹だよね(^^)。

そしてこの10月と言えば、街は……↓

ハッピー・ハローウィン(^0^)!

今年もあちこちのお店でハロウィンの飾り付けが楽しかった(^^)

ウチあたりは、5〜6年前から、何だか急発展してて(笑)、色んな店がいっぱい出来てる(^_^;)。だんだんどこで撮った写真かわからなくなりつつ……。

←これはパン屋さん。パン屋も増えたなっ(≧▽≦)
よく見掛けるのは鎌倉ベーカリーかなー?

今度は高柳に来た(地図)
よく通る森林と畑の間の道

ちょっと前まで、高柳(柏市)あたりまで来るとわりと田舎の風景が見られて、「このへんいいよね(^^)」とか言ってたんだが、この頃はだんだんと開発が進んでいる。

と言っても、東京の多摩ニュータウンみたいに大開発ってわけじゃなく、前から住宅地はあったが、そいや店舗が無かったな〜という所に、あるとき大型店舗が進出し、マンションや福祉施設などが、ジワジワと農地や空き地を埋めていく感じかなー。

←こんな風に、元は道の片側や両側がガランと広い畑か、鬱蒼とした森林なんだけど、造成が始まると、結構あっと言う間(^_^;)。

ピグ友さん(アメーバのゲーム&アバターチャットの仲間)で近所の人がいて、よく、どこに店が出来たね〜、え〜ホント〜?てな話をする(^^ゞ。
よく行くと思ってる所でも、1〜2ヶ月通らないなんて事がザラにあるんだなー、とわかる。

この辺は河川敷もあるんで変わらないだろうが、農家は無くなるかもしれない。
工事始まってから通りかかって、「わ〜次来たら写真撮っておかないと(*o*)」と思う内に、次々と風景が変わった経験は少なくない。
写真は撮れる時に撮っておくに越した事はない。(と言ってて撮りそびれるけど(>_<))

以上、関連事項は(2016/05/22、後追リンク)、
■初秋〜ハロウィン
2012年7月<ハロウィンの頃まで>内

2013年1月<今年の秋もハロウィン(^O^)!>
2015年4月<中秋の名月・彼岸花・ススキ>以降




■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>


↑に行った。今回最後のレポになるが、ピッタリ今回で終われる(次回に続かない(^^ゞ)。

ツイッターで教えてくれる人がいて(いつもありがとうございます(^人^))、講演と展示説明の日程もチェックしてたが、講演には行けず(講師は黒田基樹センセだったようだよ、今年「真田丸」のさ!:笑)、展示説明には何とか行こうと、朝から頑張って出掛けた。

←こちらは、展示会場のある「郷土資料館」の隣の「赤塚溜池公園」にあった付近絵地図

右上部分だけ関係あって、後は無駄なスペースの多い地図だが(笑)、例によって字が小さいので、私が紫色の字を入れといた。

今回訪れるのは、まず右上の「郷土資料館」(地図)これがメイン。
次に、「来たついで(^^ゞ」に訪れたのが、隣接「赤塚城跡本丸)」(地図)。そして中央の道路ハス向かいの「不動の滝」(地図)。
あとは昔から行ってみたかった所で、さらに左方向、この地図には入らない距離にある、「松月院」(地図)というお寺。

はじめの「郷土資料館」は、ずいぶん前もって着くよう家を出たつもりだったが、途中の乗り合わせが予定通りに行かず(特に事故も無かったハズだが(^_^;))、展示説明会の時間ギリギリになってしまいそうだったので、珍しく駅からタクシーに乗った。

これが良かった。資料館は提示されていた徒歩時間より駅から遠めだった(^_^;)。

門から郷土資料館に入った所
入ってすぐ左にある古い玄関

これは「新藤楼玄関(しんふじろうげんかん)」と呼ばれ、明治時代、板橋遊郭で、最大の規模を誇った「新藤楼」の玄関。

説明版には、
「明治19年に建てられた北豊島郡役所(板橋三丁目)周辺に移り、旅館業というよりは、実態を遊郭に変え営業を開始した」
とあるから、建物は明治19年(1886)以降だろうが、遊郭の前身(旅館?)らしきがあったのは、それより前だったのかも……?

遊郭が行われた背景事情として、
「江戸時代中山道第一の宿場として栄えていた板橋宿は、明治16年の鉄道開通、同17年の火災により次第にさびれていった。そのため、宿場の旅籠業者は再起策の一つとして」
とある。つづけて、

「寺社建築に用いられている、唐破風造りを取り入れた豪華なつくりとなっている。区内では残り少なくなった明治期の建造物として貴重であるばかりでなく、板橋宿の変貌を伝える資料でもある。
 現在地へは昭和49年に移築したが、長い間の風雪により痛みがひどくなったため平成4年に保存修復工事を行った」

かつての「新藤楼」
そして対面(右)に「資料館」入口(^O^)

この入口にすっくと立っている月星の兜と赤備えの鎧武者は……

きっと「武蔵千葉氏クン」とかなんだろうねっ(≧▽≦)!
……とワクワクしながら、後日ネットじゅうを検索しまくったが……

板橋区の『ゆるキャラ図鑑』無視されまくっている(・・;)。。

さらに、到着したのはギリギリながら開催時間には間に合ったハズなのに、館内に入ったら、もう説明が始まっていた(*o*;)。。

「時間まだですけど、みんな揃ってますから、じゃ、もう始めちゃいましょうか〜」
「あ、そうですね〜」(さっさと帰りたいしぃ〜)
のノリでしょうか。いかにも“超マイナー郷土史の説明会”という風情でした(^^;)。。

気を取り直して(笑)、正面から撮影「板橋区立・郷土資料館(パノラマ5枚180度以上)

え〜と、↑この立ち位置からだと、「左」というか「後ろ」と言うかに、「溜池公園」の溜池(地図)がド〜ンと広がるのが木々の間から見えるんだが、その風景は建物を出てから赤塚城跡(地図)に向かう所で出そう(^^ゞ。

これより中に入って、展示説明をじっくり聞き、展示をじっくり見学した。
むろん撮影は禁止であるので、館内の写真は無い。以下、映像無しで話す。

資料館の説明会で、係の方に質問したのだが、「わかりません」と言われてしまい、ちょっと残念だった事がある。
武蔵千葉氏が赤塚城に入る前、その前衛拠点として、志村城に入城したとされる、千葉隠岐守信胤なる人物についてである。

私はこの名を古い本で見付けたのだが、どういう書物が出典なのかを知りたかったのだ。
出来れば、千葉氏の系図のどこかの位置に確認できると嬉しかった。(もしかすると文化年間の『赤塚紀行』?とも思うが、後に書こう)

しかし、郷土資料館の図書コーナーをブラブラ見ていたら、「志村城」と題された本に、しっかり「千葉信胤」の名は載っていた(^_^;)。
説明係の学術員さんは、まだ近くにいたので、それを持って行って重ねて質問しようかとも思ったけど、あまり質問されたくなさそうだったのでやめた(笑)。

志村城と言えば……。

こたつ城を始めてから、時折あちこちで志村城の話をすると、多くからの反応が鈍い物だったのを、実は長い間、不思議に思っていた。

しかしこのレポを書くにあたって、グーグルストリートビューマップで志村城のあたりを見て、その人達の反応が何となく納得できた。

私は志村城に、二度に渡って行った事がある。
一度目は1980年代で、二度目は1990年代ごろだったかなぁ……。←大雑把な上に曖昧で恐縮(^_^;)ゞ

一度目は「東京にこんな所もあるんだなぁ(゚.゚)」と、ひたすら驚いた覚えがある。
ちょっと近付きにくいほどの深い森林があって、熊野神社に出た時は、開けていてホッとしたほどだった。
城跡付近を離れると、車がガンガン通る道路もあるし、建物もそれなり多く建ち並んでる所があるのに、城跡の付近だけは、樹木による薄暗がりが多く、緑も鬱蒼と濃かった。

それが二度目の時は、「ずいぶん変わったけど、前と同じように城跡があって良かった〜(#^.^#)」と思ったのを覚えている。
だいぶ都会的なムードになって、城跡公園のようになっていて、高台で風通しも良く、庭園風の緑地を散策できて、「どこの城跡もこんな風になればいいのに」と思った。

しかし今、ストリートビューで見ると、志村城跡には大きなマンションが建ってしまっている。
目印のコパル工場というのが、昔はいかにも工場という感じだったのが、今は洒落た都会風のビルになっている。
辺り一帯に「志村城」と名のついた建物が林立しているようだ。……つまり城跡の風情は全て打ち消されてしまった、という事に他ならない(^_^;)。。

これでは、「いかにも城跡って風情」なんて言っても、「はぁ?」と思われるだけだろう。
そうか……そうだったんだね(;_;)。。

展示会の内容は後に廻すとして、↑この入口を入って、そのまま向う側に抜けると、そこに民家の展示があって、そこには撮影禁止の表示はないから、色々写させて頂きました(^^)↓



<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>

はい、資料館を通りぬけて戸外に出ました(^^ゞ。↓正面がこうです。

正面が「旧田中家住宅」の母屋。屋根は茅葺き寄せ棟造り
昭和46年(1971)に徳丸五丁目の田中茂雄氏から寄贈・移築された古民家で、江戸後期の建築と推定されるが、移築までの約百年間に改築され、建築当時に忠実ではない。

元は旧前谷津川を南に見下ろす日当たりの良い緩斜面(現在緑道となっている)にあり、住むにも農作業にも最適の場所だった。

逆に、母屋の方から郷土資料館の建物を振り返る(パノラマ4枚180度以上)

一方、母屋の前側面に立つ「納屋」(上の写真では右、もう一つ上の写真では左)は、昭和47年(1972)に蓮根二丁目の中村辰三氏から寄贈されたもので、切妻・瓦葺きで一階の床が板張りとなっていた。

「納屋」の左には大きな「漬物樽」も
納屋の中は民具などの展示

納屋の隣の「漬物樽(つけものだる=とうご)」は、板橋区大門の本橋金平氏の寄贈。
板橋区練馬区は、江戸時代から練馬大根の生産地として有名で、大半は漬物として年間を通じて重宝された。

樽は木製。板橋区大門の漬物商が使用していたもので、別名「とうご」。沢庵漬け用で、大根4千本以上が入る。
最初が酒造用に用いられ、次に味噌・醤油と経て、最後が漬物用となった。100年間は持つといわれ、ときどき竹製のタガを取り替えた。
樽の値段は、昭和10年代で新品200円、昭和40年頃の中古の樽では5〜10万円であったという。

こちらは「醸造用大釜」↓
↑納屋から振り返る和風庭園(パノラマ2枚)

「醸造用大釜」は、板橋区成増にあった日本酒の醸造元「秀峰(しゅうほう)」で使用した蒸米・釜場用の鉄製大釜。同所の竹内總一郎氏の寄贈。

甑(こしき)をのせて米を蒸したり(一日一回)、湯を沸かした。酒の火入れに使う時は、釜の内側にゴマ油や漆を焼きつけて鉄分が出ないようにした。
釜の大きい方が7石(約1260kl)、大甑・ 酉元 甑 (もときしき)に用い、小さい方が4石(約720kl)、四段甑や洗い物用の湯を沸かした。

今度は母屋(→)の方に入る
座敷には神棚に掛け時計

母屋旧田中家住宅)は、「座敷」が(12畳半)と(10畳)の二間あり、「お勝手」(板張)、「納戸」の四部屋という、典型的な「田の字型」の間取りに、「土間」を加えた、関東地方の民家として代表的な農家建築。

昭和の初期までランプ火鉢を使い、押入れなども無い簡素な暮らしで、もっと以前は、畳も座敷だけに敷かれた。
神棚、仏壇、大黒柱などに昔の家族の暮らしが偲ばれる。

←こちらが座敷や納戸、↓こちらが土間(パノラマ4枚180度以上)

入口は「大戸」と呼ばれ、夕方に大戸を閉めた後は、「コオシ戸」(障子紙を張った戸)から出入りする。

昔は冠婚葬祭を母屋で行った。
婚礼の時、婿縁側から座敷に上がり、嫁は、古くは台所脇のセトグチ勝手口)から入り、後には大戸から入って座敷に上がる決まりだった。
入る時は敷居に火のついた松明を置き、これを跨いだ。

葬儀の時、家族の柩は奥の座敷に安置し、表の座敷から担ぎ出した後、で掃き出し、を撒いた。
塩・火・箒には穢れを追い出す呪力が信じられ、出入り口には火災・災難除けの札が貼られ、別世界との境界を築いた。境界を超えるには用心が必要とされた。

お犬様(^人^)<パンパン
土間に差し込む陽光が懐かしい(#^.^#)

昔は四季ごとに、イエホラ(近隣集団)・ムラの単位に応じた行事が行われた。
秋には収穫感謝も兼ねた月見行事、ムラ単位では神社の秋祭りイエ単位では台所神の荒神様恵比寿講お十夜が行われた。

外には他に「井戸小屋」もあり、昭和48年に大門の須田新次氏から寄贈された。
つるべ井戸」は、庭の東隅に掘られることが多かった。

「旧田中家住宅」は、板橋区有形文化財に登録されている他、外観がかつての武蔵野の面影を残す貴重な景観資源であることから、板橋区景観計画における景観重要建造物にも指定されている。(景観法第19条第1項)

(「武蔵千葉氏展」については、引き続き↓にて(^^ゞ)



<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>

さっき絵地図でも見た通り、郷土資料館の東に「溜池公園」(地図)があり、裏手(南)に「赤塚城(本丸)跡」(地図)がある。

これよりその本丸跡に上る。

その先の道順まで話しておく。
その後、公園を出て道ゆき、ハス向かいの「不動の滝」(地図)までゆく。その隣には赤塚城跡の「二の丸跡」もあったようだったが、この日は気付かず、通り過ぎてしまった(^_^;)。

↓左の建物が郷土資料館、右の大池が溜池公園(パノラマ4枚180度以上)

肝心の「武蔵千葉氏展」についても話そう(^^ゞ。

展示会も、期間中に売り出された資料本(図録)も、この日の説明会でも、千葉氏の本拠地であった房総における、馬加氏原氏謀叛劇と、そのために滅亡に至った本嫡流千葉胤直・胤宣の父子の最期といった前段階については、殆ど触れてなかった(^_^;)。。

武蔵千葉氏は、胤直の弟、胤賢の二人の男子、実胤・自胤の兄弟によって興され、ここ東京都板橋区の歴史に加わるわけだ。
兄弟の父である、この胤賢すら、本嫡流の胤直・胤宣の父子と殆ど同時に討たれてしまうと言うのに、とにかくこの合戦については見事なまでにスルーでした(笑)。。

よって、ここ武蔵国に来るについては、ほぼ「内訌によって」の一言で片づけられ(^_^;)、しかし、その代わりに、房総では知り得ない(余り意識されない)、武蔵に来たからこそ生じた、彼ら千葉氏の子孫を取り巻く歴史には出会えた……と思う。
まあ、それもだんだん話ながら進もうか(^_^;)ゞ

↑資料館と溜池の後方に「赤塚城本丸」に上る階段↓(パノラマ4枚180度以上)

何しろ、武蔵千葉氏については、特に房総に残った傍系・馬加(佐倉千葉氏との軋轢は、既に「千葉県の動乱」で話してる通りなので、ひとまずそこを提示しておくね、↓

┌→2008年7月「千葉県の動乱vol2」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>
|〜以下内訳〜↓
├2005年10月<石神井城(東京都)>内以降
├2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内以降
├2007年1月<臼井城跡>内以降
├2007年6月<高城氏について>
└2007年10月<真里谷城跡>内以降
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
↑以降、追加↓
2009年10月<千葉氏館跡(千葉地方裁判所)>内以降
2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)><境根原合戦について>
2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降
(以上、だいたいの所ね、全部提示すると膨大なので(^_^;))


氏胤┬満胤┬兼胤┬胤直−┬胤将
   |   |   ├胤将?└胤宣
   |   |   └胤賢−┬実胤−守胤−治胤−憲胤−女
   |   |         ├自胤−盛胤          ├某
   |   |         └信胤?       北条氏常(直胤)
   |   └馬加康胤┬胤持
   |          ├岩崎輔胤?−孝胤┐
   |          └孝胤?−−−−−┴勝胤−昌胤┬利胤    北条直重
   └○○−馬場重胤−胤依−岩崎輔胤?         ├親胤┌良胤 |
                                     └胤冨┴邦胤┬女
                                              └重胤

到着(^O^)!ここが赤塚城本丸跡よ!(地図(パノラマ4枚180度以上)

わりと急な坂で、エイサエイサ!と夏草を踏みわけるように登って到着したら、「ヘビに注意」とか書かれていて、ギョッとした(・・;)。板橋って言ったら、かなりの都会だけどね。。

赤塚城跡は、ここは勿論、他の大部分も都立公園の敷地に含まれ、「城山」「お林山」などと呼ばれているそうだ(^^)。

城の歴史は、今も言った通り、康正二年(1456)の千葉自胤(よりたね・これたね)の入城を機に伝わるもので、空堀や土塁の跡が当時を裏付ける。自然の谷によって、城の北・東・西が囲まれており、今見た溜池は北にあって、谷の水を受け止めている。

さらに北には、江戸時代には「徳丸ヶ原」と呼ばれる原野があったが、天保12年(1841)、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行った事から、「高島平」と呼ばれるようになった。

明治以後は開墾され、「徳丸田んぼ」と呼ばれる水田地帯となり、溜池の水も灌漑に利用されており、高島平団地の開発が始まったのも、昭和40年代(1965〜)から。



資料館と溜池公園と赤塚城の本丸跡は、敷地がくっついていて、その外側を道路が囲んでいる。地図←詳しくは拡大してね
公園を廻り込むように道を歩いていくと、やがて出会うのが↓

この「不動の滝」(地図(パノラマ4枚180度以上)

この通り、小さい祠にさい銭箱、奥に細い滝が見られ、周りを鬱蒼と森が囲む。→
さらに脇には数体の石仏も見られた。

地図には「不動の滝公園」とあり、この森の脇に登り階段もある。
ネット上には遊具やベンチも僅かな、ごく小さな公園の写真を載せて下さる人も見掛けるので、この高台を登った上が公園なのだと思う。

今、道路を背にしているが、その道路を挟んでさらに後方には「東京大仏」の敷地があり、恐らく公園化されてると思われる中に、「赤塚城」の「二の丸跡」(地図)がある。
購入した図録の「地形測量図・遺構推定図」を重ねると、この不動の滝あたりも城地に含まれるように思われる。

何しろこれをさらに遠ざかっていくと、武蔵千葉氏の菩提寺「松月院」(←も僅かに城地に被るようだ)に向かう。

(「武蔵千葉氏展」については、引き続き↓にて(^^ゞ)


<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

↑ここは初めて訪れるが、昔二度に渡って志村城跡めぐりをした時、ここにも来たいな〜と何度か思った事が、今になって感慨深い。

正確さにこだわって言えば、地図的に「松月院」は大通りに面してない。
大通りに面しているのは、「松月院・檀信徒会館」の方で、その隣に十字路に接している微かな三角州の土地(地図)があって、そこに立派な正門の風情が施されているのみである↓

これが十字路に面する三角州
萬吉山・松月院」と号されている

ただ、↑この正門の佇まいの中を入って行くと、一つ道路を隔てた向こうに、改めて「松月院」の山門と境内がある(地図)(右の写真、木々から透けて僅かに見える)

私の今やって来た「赤塚城」の「本丸」(溜池公園&郷土資料館)や「二の丸」(東京大仏)の方からは、この↓松月院の方に先に着くから、↑の正門の存在には遅れて気付く(^^ゞ。

これが裏通り(というべきか(^_^;))と「松月院」山門(パノラマ2枚)

さて、「武蔵千葉氏展」。
本来「郷土資料館」で話すべきだったが、ここまで来ちゃったんで(^_^;)、こちらで話します。

先にも述べた通り、武蔵にやってくるキッカケや、房総において「千葉氏」を名乗るようになった(率直に言えば「取って代わった」)「馬加系(佐倉系)千葉氏」については、全くと言っていいほど触れられてなかった(^_^;)。。

展示会や図録のトップを飾ってたのは、福島県の相馬市相馬妙見歓喜寺」から借りて来た、いわゆる“妙見縁起絵巻”の各場面が、ダダダーーッッ!と壮烈なる並びっぷり(^O^)<おお〜

特に図録を買うと、展示された全部が絵だけでなく原文までシッカリ載ってるので、まぁそれなりお買い得ではあったかな(^。^)。

(妙見縁起は、千葉や相馬の祖・良文が甥の平将門と組んで、やはり親族の平国香と戦う話や、その後、将門を離れた妙見が良文の家の守り神になる段、千葉氏が頼朝の挙兵を助けて、房総国の平氏勢力と戦う段、頼朝が妙見の霊験に感動し、参拝するといった話の絵巻物)

以上、関連事項は(2016/05/22、後追リンク)、
■妙見信仰と妙見縁起(福島県・千葉県)
2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>(福島県相馬市)
2009年8月<東光院>内
2009年9月<1日目・千葉城(亥鼻公園)>内
2009年10月<千葉神社>


←門の先には正面にもう一つ門が見える。

右には樹高約10m、樹齢約100年(推定)のヒイラギ。区内では珍しい古木という。→

ヒイラギは節分に、小枝と鰯の頭を門に刺して鬼の侵入を防ぐ習俗で知られるが、他に、葉が若木の時は鋸歯のように鋭いのが、やがて鋸歯が消えて丸く全緑となる事から、人の成長を象徴する(「丸くなった」というよね(^^ゞ)とも言われ、この例えが体現される程の古いヒイラギが珍しい、という意味で、板橋区の登録文化財・天然記念物(名木・巨樹・老樹等)になっている。

さて、これより御参りする千葉自胤の墓だが、本来「自秀の墓」と書かれていたのを「自胤の誤記」と解釈して、「武蔵千葉氏の墓所」とされてきたそうだ。

ところが「自秀の妻」(すなわち「自胤室」)の墓が、自胤の時代より古い、元徳元年(1329)の年号が刻まれているため、松月院は、千葉氏が来るより前からあった寺と見られている。

そうなると、千葉氏の前の支配者が気になる。

ここ赤塚郷は、古くは豊島氏による開発地であったが、仁治2年(1241)に同氏が没落し、前北条氏の領地となる。
鎌倉幕府が滅亡すると、足利尊氏の弟・直義の支配地になり、直義の正室・渋川幸子春屋妙葩(臨済宗)→鹿王院の流れで領主が移っている。

武蔵千葉氏が来た当時は、この鹿王院(京にある寺院で、室町初期に開基)の管轄にあったが、代官派遣による管理体制が、この頃には維持できなくなっていた。
その赤塚郷に、武蔵千葉氏は武力で入部し、そのまま居ついてしまった。

中門を又入ると……
左手にズラリと古い墓石が並ぶ

鹿王院は幕府に赤塚郷の返還を求め、幕府も堀越公方・足利政知を通じて返還を求め、将軍義政自身、直接、武蔵千葉氏に命令するのだが、千葉氏の実効支配は続いた(笑)。
展示会の説明でも、「(房総においては追い出された)千葉氏も、武蔵においては侵入者」と指摘されていた。

しかしその一方で、寛正元年(1460)には、将軍義政はやはり堀越公方・政知に、千葉実胤への扶助(端的に言えば経済面の(^_^;))を命じているのだ。
鹿王院の訴えは一体どうなったんだろう(^_^;)。。

図録の解説によると、武蔵千葉氏の実胤・自胤兄弟は、下総の市川城から落ちて来た当初、葛西への入部を希望したという。
なるほど、葛西であれば海(東京湾)を隔ててすぐ向う岸が、千葉氏の旧領地である。

ところが葛西には、山内上杉氏の重臣・大石氏が領していたため、上杉氏は兄・実胤赤塚城、弟・自胤石浜城に入れたそうだ。
二城とも入間川(現・荒川)に面しており、川で下総に出やすいからだろう。

正面が本堂(パノラマ4枚180度以上)

将軍に認められても、在地に馴染みの薄い千葉氏は、武蔵ですぐ困窮したという。

しかし古河公方が認めた馬加系千葉氏に対し、あくまで武蔵千葉氏を正当と見なす上杉氏は、実胤が困窮ゆえに武蔵を出奔すると、残った弟の自胤に家督を継がせ、相変わらず「千葉介」と呼んで武蔵に居座らせた。。(千葉介は、守護名としても鎌倉御家人としても重んじられた、千葉氏の伝統的な惣領称)

この強行さ、当の武蔵千葉氏はともかくとして、上杉勢力の誰の考えかなー(^_^;)。

『板橋区史』(通史編・上巻)に答(らしき)があった。
説明会の後も展示会をじっくり見て、会場を出る前に、図書閲覧コーナーに出会った(^o^)v
読みたい本を見てから展示場にも戻れるし、一階の図書販売コーナーで本を買ってからも、この展示会は無料だったから何度でも入れるのが良かった嬉しかった(^O^)!<ありがとう

そこで調べた所、どうも武蔵千葉氏の兄弟の間には、上杉体制の対立の構図が反映されていたようだ(^_^;)。
それは今も言った葛西をめぐるもののようだ。

山内上杉氏=大石氏=実胤
       ×
扇谷上杉氏=太田氏=自胤

↑端的に言うと、こういう事が書いてあった。わかりやすい(^^)。
それに、「いかにもありそうな対立図」という感じもしたわよ……(笑)。

前々回に足利レポで、長尾氏について長々と特集した。
その中で、大石氏などは本来、長尾氏よりも家宰に等しい重臣だったと書いた。
(2016年1月<勧農城跡(岩井山赤城神社)>内以降、2016/05/22・後追リンク)
つまり、旧来の勢力(大石)に対し、知恵者の太田道灌が目立ち始めている図である。

こういう対立に対し、家宰・白井長尾景仲・景信取りまとめ力みたいなものは大きかったんじゃないかな(^^ゞ。
そしてその惣領&家宰の座をめぐって、長尾景春が叛乱を起こしてからは、もう上杉内部はついに収拾がつかなくなった、という事かもしれない(^_^;)。<ありがち

展示会には、やはり「太田道灌状」が枚数を連ねて陳列されていた。
道灌が上杉氏に、武士の働きを認めてあげるよう、熱心に上申していた事がうかがえる。
武蔵千葉氏の事も、その含む所にあったのかもしれない。

何しろ太田道灌は、困窮を言い訳に関東を離れて方々へ義理立てした実胤より、残って、あくまでも上杉の布石たらんとし続けた自胤と手を組んだ。
(男の意〜地を〜見せるでや〜んす〜カラスが鳴いて〜夕焼け小焼け〜♪(^。^))

説明会では、自胤の呼び方を、長年「よりたね」と読まれて来たのが、最近の研究で「これたね」と読むのが正しい事がわかってきた……という話をしていた。
早速、付近の案内板には、「よりたね」「これたね」の両方がしるされていた。

本堂の横に「豊川荼枳尼天」(※)
荼枳尼天は人の死期を知り、死ぬまで加護するが、死後は心臓を食らう、信仰を怠ると禍を与えるともいう。武蔵千葉氏の運命に被る気も……。。

※「荼」が「口千」(二文字で一文字)だったが、変換できないので本来の字を使用。

ところで、展示では殆ど触れなかったのが、豊島氏である。

図録にも、鎌倉期には「没落した」とある豊島氏だが、武蔵千葉氏が来た康正元年(1455)の後、文明9年(1477)の江古田沼袋の乱石神井城の落城など、太田道灌との戦いで名を残しており、この地に居続けた事が伺える。
台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区またはその周辺と、勢力範囲も広くに及んでいる事が注目される。

千葉氏豊島氏の分かれ目(先祖)>(戦国期まで出すと長いんで(^_^;))

高望王┬国香┬貞盛(伊勢平氏・北条・伊勢)
     |   └繁盛(常陸平氏=城・岩城・大掾・小栗)
     ├良将−将門
     ├良文−忠頼┬将常┬武基(秩父・畠山・河越・江戸)
     |        |   └武常(豊島・葛西)
     |        └忠常−常将(上総・千葉・相馬)
     └良茂−良正(和田・三浦・大庭・梶原←(良文流とも))

豊島泰経らが長尾景春の乱に呼応して挙兵すると、太田道灌は武蔵千葉氏と南北から挟み撃ちの態勢で豊島氏を討った。
その後も、境根原の合戦臼井合戦など、武蔵千葉氏の自胤の活躍は、この時代あちこちで伺える。(でもこの辺も、展示会では完璧スルーでした( ̄▽ ̄;))
(2007年1月<臼井城跡>内以降
 2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)><境根原合戦について>、2016/05/22・後追リンク)


これも区史から知った事だが、古河公方成氏上杉和睦(1478年)の後、成氏は房総の佐倉千葉孝胤を排除し、実胤と組む事に同意したが、やはり孝胤を捨て切れず、実胤の下総復帰は断念となったらしい。
実胤は東氏を頼って、美濃へ行った……といったような事が書かれていた。

延徳4年(1492)、千葉自胤はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった。
開山堂には、この開基の位牌をまつっているそうだ。

←「伝千葉一族の墓

やがて房総の佐倉千葉氏も、最後には北条氏に養子入りされて乗っ取られたが、武蔵千葉氏も同様に、最後は女系となり、やはり北条氏系の婿を迎えて、北条氏に包括された。

その後に小田原征伐で北条氏が滅ぶ(1590年)。
天正19(1591)年、徳川家康は40石の朱印地を松月寺に寄進。
歴代将軍が続いて下付した朱印状正本が、寺宝として秘蔵されている。

今ある自胤の墓は、先に述べた通り、「自秀」と書かれるのを「自胤の誤記」との解釈であり、法名を「松月院殿南洲玄参大禅定門」、忌日を「永正3年(1506)6月23日」と刻まれるのも、後世の創立であると、江戸時代から指摘されていたそうだ。

それでも、文化9年(1812)に斉藤幸孝が著した『赤塚紀行』に挿画入りで記されるなど、当時から広く知られていたようだ。(隠岐守信胤志村城の伝承もこれにあるのかなぁ(^_^;))

この『赤塚紀行』で、「自胤夫人の墓」としたものも、銘が鎌倉時代末(1329年)のもので、今では「比丘尼了雲の墓」と呼ばれている(^_^;)。
墓地には、自胤の墓の他に、この比丘尼了雲の墓碑も建てられている。

私の手持ちの古い本は、まだ「自胤夫妻の墓」と認識されていた頃の記述であるらしく、自胤夫人の名を「竜興院殿」と記されている点が、それなり貴重に思われる(^^)。

その本には、自胤がこの寺を菩提寺に定めるにあたって、「近くにあった真言宗・宝持寺を菩提寺とし、曹洞宗に改めて、寺名を「松月院」とし、曇栄を開山に請じて、自ら中興開基となった」ともあるが……。

一番背の高い墓石(右)が自胤、その左が比丘尼の墓
傍らに咲いてた花(^^)

展示会では、千葉氏のシンボルでもあり、篤く信仰もした妙見を祀った跡が、江戸時代にも信仰されてたとか、わりと最近まで区内に残ってた(「語り伝わってた」の聞き違いかも?)という話もあったが、何せ大勢がゾロゾロ見学する中での説明なので、聞き洩らす内に終わっちゃう内容も多く……(^_^;)。。

しかし、どのように新しい事がわかってきても、松月院が自胤によって、武蔵千葉氏の菩提寺とされたという経緯については、今でも否定される事はないようだ(^_^A)。
今後も菩提寺として存続し、武蔵千葉氏の霊を慰め、その歴史を懐古するのに相応しい寺である点に変わり無い事がわかって良かった(^^)。

寺には他に、天保12(1841)年、長崎の高島秋帆が、幕命により、徳丸ヶ原で洋式砲術の訓練を行った前夜、この寺を本陣とした縁で遺品類が保存され、顕彰碑も建てられている。

珍しく、今回はこれで終了(^O^)(「続き」は出ない)

(以上、2016年4月21日)



いつもは「関連リンクを後日貼る」という決まり文句を書くんだが、どうもこの回は書きそびれたようだ(^_^;)。

しかしいつもの通り、後日せっせと貼りに来た(笑)。

各所ごと↑それぞれ最後に関連リンクを追加で貼って来たが(^_^A)、ちょいとバラバラ気味になったので、今回は最後にまとめ貼りをしておく。

■福満寺・前回
2016年2月<「福満寺」(平将門の“大井”伝承の寺)、1>内以降
■安蒜・高城・本土寺関連
2004年8月<寄り道2、広徳寺「高城氏の墓所」>
2004年9月<寄り道3、なぜか水戸黄門(笑)>
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>
2008年5月<年始(^^)・「松戸七福神」巡り>
■水戸徳川光圀
2014年6月<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>内
2014年10月<西山荘>
2014年11月<西山荘、2(つづき)>

■手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>

■印旛沼(北・うなぎロード)・白井〜(南)
2005年11月<すすきロード(千葉ニュータウン)><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
2006年11月<宗吾霊堂、1>
2006年12月ほぼ全文
2007年1月<「印旛沼公園」(師戸城跡)、2>
2008年4月<印旛沼〜宗吾〜佐原香取>
2008年5月<千葉ニュータウン〜印旛沼>以降
2008年6月<麻賀多神社、2>内
2010年8月<「房総のむら」レストラン〜印旛沼周辺の夕日>
2012年8月<印旛沼うなぎロード(^。^)>
2012年12月<木下街道(県道59号・市川印西線)、@白井市編>
2016年2月<夏の印旛沼・虹・月・盆踊り>

■初秋〜ハロウィン
2012年7月<ハロウィンの頃まで>内

2013年1月<今年の秋もハロウィン(^O^)!>
2015年4月<中秋の名月・彼岸花・ススキ>以降


■武蔵千葉氏と房総千葉氏
┌→2008年7月「千葉県の動乱vol2」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>
|〜以下内訳〜↓
├2005年10月<石神井城(東京都)>内以降
├2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内以降
├2007年1月<臼井城跡>内以降
├2007年6月<高城氏について>
└2007年10月<真里谷城跡>内以降
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
↑以降、追加↓
2009年10月<千葉氏館跡(千葉地方裁判所)>内以降
2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)><境根原合戦について>
2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降

■妙見信仰と妙見縁起(福島県・千葉県)
2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>(福島県相馬市)
2009年8月<東光院>内
2009年9月<1日目・千葉城(亥鼻公園)>内
2009年10月<千葉神社>
■上杉の家宰主導体制
2016年1月<勧農城跡(岩井山赤城神社)>内以降


(以上、2016年5月22日・追記)



次回は、秋に行った近隣の長歩きコース、というのをお届けしたい(^_^;)。
松戸の合戦地や城跡めぐりをウォーキングに参加したの(笑)。
その後は、クリスマスかな〜。どのぐらい行けるか、いつ出せるか又しても不明ー(笑)。

<つづく>

2016年04月27日(関連リンク05月22日追加)
 
     






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