<2016年・城主のたわごと6月>




2015年10〜12月、秋は松戸市域ウォーキング参加。

年末にかけて、紅葉とクリスマス・イルミネーションお届け!



     
  まずは、定例だと……(笑)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

というのを冒頭にいつも入れるんだけど、前回の↓

〜おしながき〜「武蔵千葉氏編」1〜4
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

↑は、ちょいレポだったんで、その前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

その前の古河も出しとこか(^。^)↓(それはもいって?www)

〜おしながき〜「古河編」1〜2
2015年「4月のたわごと」(古河1)
■11月・茨城県古河市
<関宿を経由して古河へ入る>
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>
<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>


同「5月のたわごと」(古河2・他)
<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」> ■11月下旬・茨城県古河市
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)、2>
<「長谷寺」(長谷観音)>
<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>
<古河総合公園A旧民家(中山家と飛田家)>
<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>
<古河総合公園C「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>
<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>
<鳳桐寺>
■11〜12月・千葉県北西部
<晩秋〜初冬の風景>

てなわけで、今回は久々にマルマル「日常編」(^^ゞ。
10月の風景の後、すぐ11月に入って、松戸市立博物館のウォーキングに参加(^_^A)

やがて11月から12月へ……紅葉からクリスマスへと、町も模様替えの季節♪
クリスマス・イルミネーションをお届けの途中で、次回に譲る(^^)。



■10月後半・千葉県柏市
<天高く馬肥ゆる秋>


↑これって、秋の(良さを称える)挨拶によく見るけど……。

そもそも騎馬民族(匈奴や蒙古)が収穫期に大挙して略奪に来るのを、漢民族(前漢の趙充国らしい)が「収獲の秋が今年もきた」と警戒して言った言葉なんだと(^_^;)。。

空高く柿の実も熟し
手賀川・土手下デコボコ道に秋風吹く

「馬が肥える」は……
「略奪する側の馬が夏草を食んで強靭になっている」とも受け取れるそうだが、
「略奪される側の収穫を狙って飢えた馬が襲う」
とも解釈できそうだ。いずれにせよ、「秋」は「収獲」なんだなぁ。 *しみじみ*

発作橋の白鳥たち
手賀川、風に靡くススキ

子供時代、最初に外国の季節感……中でも「秋」のイメージを知ったのは、ヴィヴァルディの「四季」で、「秋」の曲想が、たいそう華やか・賑やかだったのに驚いた。
外国では「収獲の喜び」を前面に露わすんだなぁ、と思った。

しかし日本において、「秋」は、「実の盛り」より「葉の枯れ」がメインで、どちらかと言えば、「静寂」をもってする。
だから成長途中で、いきなり「収獲」「喜び」「盛大」「華やぎ」「賑わい」と思え、と言われても、DNAに組み込まれてる「侘び寂び」は取り替え不能なんだなぁ(笑)

そして、いつも来る手賀沼東岸(曙橋近く)(パノラマ4枚180度以上)

前回行った「武蔵千葉氏展」の後も、10月はジワジワ秋が深まり、11月を迎えた(^^)。

以上、関連事項は、(2016/09/03、後追リンク)
手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>




■11月初旬・千葉県柏市・松戸市・流山市
<城跡・古戦場跡ウォーキング、@南柏駅〜境根原古戦場〜根木内城跡>


↑に参加。
「友の会」という市立博物館の中に事務局がある、松戸市民の歴史散策的な会が主催(と思う(^_^;))。

ちょくちょく地域広報にも催し物の案内が載るんだが、大抵は新聞紙の片づけの折に、「終わっちゃったね(^_^;)」という具合に確認するのが常である(笑)。

ただこの時は、前回「武蔵千葉氏展」と同じく、ツイッター情報を流して下さる方がいて(いつもありがとうございますm(__)m)、タイムリーに応募に間に合った(^_^A)。

集合は南柏駅地図)↓2階から駅前を撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

駅の改札を出た所で、係の方が一人一人確認し、胸バッチ(リボンを安全ピンで止めるもの)をくれる。通路を出た↑ここで、大勢の参加メンバーと待ち合わせ。

博物館の学芸員さん(中山文人先生)を語り手&列の筆頭に、「友の会」の方がお世話下さりながら、この日は、何しろ「歩く」事がメイン。

歩く範囲は、柏市・松戸市・流山市を跨って流れる富士川両岸の台地で、一応お題目としては、「戦国期の城や古戦場の跡」を歩くわけだが、目的は「歴史探訪」より「健脚ウォーキング」にあり(笑)、かなり長距離コースと言える。

まずは駅前でバスを待ち、来たら乗りこみ、目的地に向かう。
この先、地図は通常サイズで出すが、詳しくはお好みのサイズに拡大してご覧あれ。

光が丘」(地図)で下車、光が丘団地に入る(パノラマ3枚ほぼ180度)

ここは、前にレポした通り(^^ゞ、1478年の「境根原合戦」の激戦地と伝わる一帯。(柏市光ヶ丘)
史跡についてはこちらを→(2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)>

夫婦二人で来た時には何とも思わなかったが、このほど大勢でここに到着し、おもむろにカメラを構えると、改めて自分らのやってる事の異様さに気付いた(爆)。

かつては大激戦のあった古戦場なんだろうが、今は市民が平和に暮らす団地である。
その中を、旗を掲げた一団がゾロゾロと隊列を組んで練り歩く(笑)。

これは確かに、公的機関や学術畑の委員さん・学者さんでも、ちょっと二の足を踏む振る舞いに違いない(^_^;)。。

そこで「市民のリクレーション」を隠れ蓑に……ふむふむ( ̄ー ̄)<ニヤ

前も来た首塚・胴塚(左)
同じく(右)(地図

バス停からちょっと団地の奥に入り込んだ所に、この塚が森とともに残されている。
風景と歴史についても前のレポを見てね→(2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)>
ここで一団は立ち止まって、団地から一歩、この小さな横長の森に入りこむ。

しばらくここで中山先生(学芸員氏)から、「松戸市には、本土寺過去帳という、極めて貴重な知的財産があるため、地域学習にとって恵まれた環境が与えられておりましてー」といった挨拶に始まり、簡単に境根原合戦の説明の後、「」の説明に入る。

塚が「首塚など合戦に関係のあった物」か、実は「富士塚のように後世作られた物」か、はたまた「城跡の一部」かは、実は見分けがつきにくいらしい。
掘っても何も出て来ない事が多いという(笑)。(塚ではなく、正規に認定された城跡からは、ムロン多くの出土品があるんだと思うよ(^_^A))

しかし、同じように隆起している土でも、「古墳」となると、「ガチンガチンに踏み固められてるから一目でわかる」……なんて事が話された。φ(。。)m<フムフム

■境根原合戦(長尾景春〜上総武田)(2016/09/03、後追リンク)
2005年10月<石神井城(東京都)>内以降
2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内
2007年1月<臼井城跡>内以降、および<柏、酒井根の風景>
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内以降
2007年10月<真里谷城跡>内
2007年11月<久留里城>内
2008年6月「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降
2009年10月<千葉氏館跡(千葉地方裁判所)>内
2009年12月<中島城跡>内
2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内
2014年3月<皆野に向かう(鉢形城・寄居・長瀞を抜けて)>内
2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)>
2015年4月<関宿を経由して古河へ入る>内
2016年4月<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>および<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>以降


酒井根(光が丘)を出発すると……
あとはひたすら徒歩

バスはこの光が丘までで、この先は最後まで徒歩。乗り物には解散後まで乗らないで、ひたすらウォーキングである。(歩行距離7キロ、約4時間コース)

はじめ、この行程を聞いた時、「え(^_^;)、そんなに歩けるかな?」と正直思った(笑)。
距離もそうだけど、それより何より、「そんなトコ歩かないでしょフツー(^^ゞ」って場所ばかりで、学生の通学ルートでもない限り、車で移動するというのが、松戸の市民感覚だからだ。

しかし、それはよく考えたら、いわゆる「地元の感覚」という奴かもしれない。

昔、甲信越(山梨・長野・新潟)を旅してた時、地元の方と話をする機会があると、よく、「そんなトコ歩く人、この辺にはいないよ(^O^)」と笑われたものである。

しかしこのたび歩いている所は、富士川という、今では殆ど地下に隠れている川のルートに沿っていて、昔なら行軍ルートであるから再体験してみようというものである。

道はやがて下り、一番低い所の→
道の脇に「富士川」がある!

地図←今ココ

勿論、戦となれば、川は舟を使って行き来したのだから、「歩く」ことが「再体験」にはならない。
が、例えば、「川中島合戦の激戦地の周囲をめぐる旅」などを企画する場合、同じように「犀川・千曲川に沿って歩いてみる」なんて考える人は少なからずいるだろう。

すると同じように、例えば境根原合戦やら国府台合戦やらのツアーをしてると考えてみよう。
地元感覚としては、「歩く? どうかしてるんじゃない?」と笑っちゃうようなルートでも、歴史マニアとしては、「そこを歩くのが正しい」という事になる(^_^;)。

←さらに続けて歩き……
↑「根木内歴史公園」(根木内城跡)到着〜♪

地図←根木内歴史公園(松戸市)の入り口

知り合い同志は話すが、そうじゃない人同志は、皆ちょっとヨソヨソしい雰囲気で黙々と歩くのみだった。
それが、さっきの富士川が脇から覗ける地点あたりから、チラホラと話し始める。

「川が見えるなんて知らなかったぁー」
「こんなトコ、いつも歩かないからー」
「私も車で通るだけですよ〜」
「私、車ですら滅多に来ないです、この道は」

とか言う感じで、さすがは同市民、話しだすと……、

「ああ、あそこはこの頃店が出来たでしょー?」
「そうそう、そこからちょっと行ったトコに学校があってぇ」
とかいう具合に、いわゆる「近所話」というのが始まる(笑)。

公園入り口から来た道を振り返る
前を向き直して公園に入る

一度ここで振り返ったのは、↑公園の南側の道路方面にも、かつては城域が広がっていた……という説明があったのだと思う。

学芸員氏(中山センセ)は一人しかおられない(^_^;)。
「武蔵千葉氏展」の説明会でもそうだったが、大人数を乗り超えて一人だけ近付くわけにもいかないから、そうハッキリ話が聞き取れたわけではない(笑)。

が、多分、発掘調査が行われた時の事が話されてたと思う。
途中からだが、「畝堀(障子堀)と言えば、北条と言われますが、この根木内城の畝堀は、北条より前の時代です」という話が聞けた。

(同博物館2006年、根木内歴史公園開園記念企画展・資料本『戦国の城をさぐる』にも、この事は書かれており、畝堀遺構が検出されたのは、向かって左手の家あたりのようである)


さらに、「発掘調査の結果、城に作られた堀を後から壊して、上から道路を作っていた事が判明しました」という話も聞け、調査中に撮影された発掘遺構の写真がコピーで配布された。

土橋を渡り、公園(郭跡)へ至る
橋の右手、深い濠の跡

根木内城跡も、これまでちょくちょくレポしてきたので詳しくは読んで(^^ゞ。

■根木内城跡
2007年1月<柏、酒井根の風景>
2007年5月<講演拝聴@松戸>
2007年6月<根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り>
2007年7月<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り>
2007年10月<根木内城跡>
2010年9月<根木内城跡(根木内歴史公園)の春♪>
2011年11月<八ヶ崎・「根木内城跡(公園)」"チラホラ桜">


今日はウォーキングのレポなので、歴史の話は↑リンクにまとめとく(笑)。

ここで、このウォーキング始まってから始めてのトイレ休憩となった。
「良かったー(^_^A)」と、いそいそ向かった(笑)。

この催し、参加は無料だが、事前に申し込みと抽選通過が必要で、当選を知らせるハガキに、「タオル、飲み物、動きやすい服、歩きやすい靴」の用意を呼び掛け、さらに広報には、「途中にトイレはありません」と、事前の覚悟を迫っていた(汗)。



<城跡・古戦場跡ウォーキング、A行人台城跡〜名都借城跡>

根木内城を出て、右(西方面)に曲がると、スグ国道6号線「水戸街道」にぶつかる。
これを越えてさらに行くと、富士川が合間に流れる住宅地に入れる。
入ってスグの辺りが、今は跡形もない「行人台城跡」(地図)である。

6号線の向こうに根木内城の森
逆側マンション辺りが行人台城跡

この日、巡った史跡は、大まかに言って二つの時代の合戦(争乱期)が関係する。

一つは、1477〜78年に、太田道灌(およびその主筋の上杉氏)と、千葉孝胤長尾景春と同盟)の間で行われた境根原合戦である。
この時、古河公方は上杉と和睦したばかりの頃なので、千葉+長尾による単独叛乱となった。

先に見て来た光ヶ丘の首塚・胴塚などは、この戦いに含まれる。
今回は最後に、この合戦の折に使用され、落城したと見られる「前ヶ崎城跡」に立ち寄る。
(2008年6月「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降)

もう一つの時代は、だいたい1520〜27年ごろで、小弓公方義明が擁立され、里見義通がそれに応じて、この辺りで軍事行動を起こした関係と見られている。

この地域では高城氏が応戦し、家臣が多数討死している。
この「行人台城」でも合戦があり、高城氏の家臣と見られる、鈴木帯刀などが討死した事が、年不詳ながら『本土寺過去帳』に確認される。
(2008年6月「千葉県の動乱」vol2<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537)>以降)

住宅地の合間の富士川
先は土手(地図)が立ち塞がる

地図←の通り、この土手の上には常磐線が通っている。先ほどの「南柏」と「北小金」を繋ぐ線路である。
土手にぶつかると右に道が折れる。少し進むと、今度は左に線路の高架下があるので、左折して線路を突っ切る。(この辺りから、流山市に入る)

これがそのトンネル。潜ったトコ
足下に富士川の流れ

写真にも、ちょくちょく写ってる通り、道行く先々で後ろから自動車が一行を通り越す。

そのたび、一番後方の人が「車が来まぁ〜す、右(左)に寄って下さぁ〜い」などと、大きい声で前方に呼び掛ける。
殆どそれを実行するために、今日一日を付き合っているような係と思えた。

いやはや、ご苦労さまな事でしたm(__)m<篤く御礼

線路を越え、しばらく行くと
スコーンと拓けた農地に出る(地図

ところで、今の「行人台城跡」だが、位置的に、さっきの根木内城にすごく近いので、敵方勢力の城とは考えにくく、根木内城の補助的な機能を持つ支城であったと考えられているようだ。

以下は『東葛の中世城郭』(千野原靖方)にある事だが↓

大正5年(1916)に発掘調査が行われ、数百年を経た人馬の骨が多く出土した。

近くの東漸寺の記録には、この行人台の古戦場から、夜な夜な叫哭哀慟の声がおこり、村人が恐れ、往来も途絶えたと伝わる。

そこで、呈誉という三世住職が念仏を大音声した後、
「鬨の声、敵も御方(みかた)も夢さめて、あとおは野辺の秋風そ吹く」
と詠むと、それらは泣きやんだという。

同書には、地中に人骨が多数埋まっていると昔から知られていることが、この話の背景ではないか、と推測されていた。

トイレ休憩か先の道を確認かで停止
途中から脇の道に入った

この辺りから右手に、崖に沿った小路が並行してあり、散策道としても良い風情だし、当時の地形の名残を確かめる意味もあるのか、広い道路から脇に逸れ、山道(地図)をゆくようになった。

その脇道に入る前、しばらく休憩が入った。
この辺りにトイレがあるとかないとかいう話が出ていたが、道を確認するための休止だったのかな……。(この辺りの内輪話は、後でしようか:笑)

脇に入ってからの写真(↑右)は、左手に広がる低地(農地)と、対岸の景色。
富士川も、今は殆どが地面(河川敷)になってるが、昔は渓谷の谷間を流れる川だったんだろう。今は農地となってる所にもっと太く流れてるのが見えた頃もあったと思う。

さらに山林に深く入り込み
谷地とも距離が出て、森から覗き下ろす感じ

やがて右手に「宝蔵院」(地図)が出て来る↓
よく正月に松戸七福神でゆく、大黒天の「宝蔵院」とは違うよ(^_^;)ゞ。同じ真言宗だけどね。

創建不詳。江戸初期の石造物がある。山号は開光山。本尊は阿弥陀如来。
他、弘法大師像88体巡拝塔郡、サルスベリの保存樹木など。

この後、予め配布された行軍図には、「名都借(なずがり)城跡」(地図)が書き込まれ、この宝蔵院のスグ裏手に位置するのだが、この時は拠らなかった。

←こちらは「宝蔵院
名都借城跡はこの裏手)

ただ、以前からこの城跡には「きっと何も無いんだろうな(^_^;)」と思ってたのが、このウォーキングで配られた図示を地図で確認すると、近くにお寺(広寿寺)があるようなので、そのうち行ってみたい。

名都借城跡は、先ほど言った二つの時代の内、1520〜27年頃の、小弓公方義明+里見義通が、義明の兄・古河公方3代高基+梁田氏と争いあった時に出て来る城。

永正18年(1521)3月、高城氏の家臣、畔蒜・田嶋・鈴木らが討死。
他に、結城合戦で春王丸・安王丸の側についた、龍崎氏(下河辺氏一族)の家臣・高知尾氏と、佐倉千葉氏の家臣・飯野氏の名が見られるという。

はじめは小弓義明側に在ったのを、高基が関宿城の梁田氏に命じて攻めさせ、享禄2年(1529)3月、戦功によって、梁田氏の家来、鮎川美濃守・同豊後守に、高基から感状が発せれている。(『東葛の中世城郭』(千野原靖方))

これらの記録を繋げると、高基側の高城氏から義明が奪って(あるいは城の関係者を味方につけるなりして高城氏と戦い)、あとで高基側が奪い返した……という事かな?

義明が軍事行動を起こした最初は、1517年(近年、1518年とも言われるらしい)、原氏小弓城を、真里谷武田氏が義明のために奪取した頃なので、それから第一次国府台合戦のあった1538年まで、房総のあちこちでこんな取り合いをやってたという事だね(^_^;)

結局、義明は国府台合戦で滅んでしまい、3代高基の古河公方が以後も継続するので、高基についた原や高城といったこの地域の勢力は、継続された。

この後に学術員氏が配布したプリントに、「(名都借城は)今までほとんど調査が行われなかったが、今回の調査で、中世後半(戦国時代)から近世(江戸時代)にかけての生活の跡(遺構・遺物)が発見され……云々」とある。

「今回の」ってのがいつなのか判らなかったが、中世城郭の発掘調査を、今でもやってるんだー(゚.゚)、というのが正直な驚きだった。



<城跡・古戦場跡ウォーキング、B前ヶ崎城跡〜北小金駅>

最終到着地である「前ヶ崎城跡」(地図)は公園になっているが、このウォーキングでは後方から歩いて来たので、正面入口からは入らず↓

↓こんな階段を上がって来た(^^ゞ
やや小高い土塁上に「尾鑿山大権現」とある→
検索すると栃木県鹿沼市の賀蘇山神社というのが出て来るが詳細は知らない(^^ゞ

もう一方の正面の入口には、後で廻るね(^^ゞ。

この城跡公園は流山市にあるんだが、実は長らく住んだ東京から、14年ぶりに千葉県に戻って来たばかりの頃(もう18年も前だが:汗)、一番最初に行った城跡は、松戸や柏の城ではなく、確かこの「前ヶ崎城跡」だったような……(爆)。 *ウロ覚えだけど*

なぜかと言うに、この城跡の向かいに、「流山運転免許センター」(地図)があるからだ。
引っ越してスグここに来たのも、免許証の住所変更届けの必要からだったかも……(笑)。(あるいは変更届けは警察でも出来て、最初の更新だったかな(^_^;))

登った先は城跡公園(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

流山市教育委員会の説明版には、この「前ヶ崎城」の経緯を「16世紀中葉から1590年頃まで機能」とし、「小金城(現・大谷口公園)を本拠とする高城氏支城」とのみ記すに留めている。

それは高城氏が、戦国時代となった頃には、もはや確実にこの辺りを支配領域とした事が明白だからだろう。

しかし高城氏の勢力内の誰がここの城主であったかになると、よくわかってない。
先にあげた『東葛の中世城郭』(千野原靖方)には、小金の牧士・花野井(花井)氏(高城氏一族、あるいは高城氏と養子関係?)や、高城氏の旧本拠地、栗ヶ沢城代田島氏(高城氏の属将)などの推測が示されている。

■高城氏については(2016/09/03、後追リンク)
2004年8月<寄り道2、広徳寺「高城氏の墓所」>
2004年9月<松戸七福神巡り7、「寿老人=徳蔵院」>
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>
2006年8月<箕輪城跡>
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>以降
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>
2008年5月<年始(^^)・「松戸七福神」巡り>
2008年7月<牛久城跡、2>
2009年6月<「布施城跡」と、その周辺(柏市)>
2009年9月<相模台城跡>
2009年10月<胤重寺>
2011年12月<殿内「ダガシヤ・ダイチャン」(駄菓子屋)>
2013年11月<高柳城跡「善龍寺」、桜の残り咲き(^^)>
   〃   <「イラストで知る白井の伝説」と手賀城伝説>
   〃   <市川大野「本光寺」(大野城跡)>
2014年1月<小森城跡・名内城跡と「手賀合戦」>
2014年6月<柏市・藤ヶ谷城跡(と高柳城跡)>
2016年4月<「福満寺」、2(日暮玄蕃の墓)>


この辺から↓入って来て、今、端まで来た(パノラマ4枚180度以上)

田島氏の場合、その官位が「刑部」であるからのようで、この城の付近に、「刑部郭・追手橋・馬場」といった地名が伝わる事を根拠とする。
ただ、これらの地名と、実際の城の施設との関連は不明で、現在、城の西側は道路建設で失われ、東部と南部に、高さ3〜4mの土塁、深さ約3mの空堀が確認できるのみという。

↑の逆側↓正面に降りる階段と周囲の土塁(パノラマ4枚180度以上)

地形は、さっきまでともに歩いて来た富士川は、前ヶ崎城に到達する直前で西に逸れ、代わって北を蓋するように板川が東西を流れて、西に向かう富士川と合流する。(地図
前ヶ崎城は、二つの川に頭部を挟みこむ絶妙な位置にあった。

持ち主の名は不明だが、本土寺過去帳は、年不詳ながら明確に「前崎落城」と記し、その折の「太田六郎」「戸張彦次郎」の「討死」を伝える。

この「太田」とは太田道灌の縁者だろうか……。

端側の土塁に近寄り、柵の外を見る(パノラマ3枚ほぼ180度)

先に光ヶ丘で見た「境根原合戦」(1478年)の前哨戦ではないか、という推測を、同書にも見るし、今回のウォーキングで配布された資料にも関連戦が匂わされている。
そうなると、合戦前に落城に至ったという、まさに歴史の激動の渦中を経験した城という事になる。

本土寺過去帳は、それをある年の11月3日としているが、これが文明10年(1478)とすれば、境根原合戦12月10日なので、まさに直前である。

1478年6月、道灌は武蔵国の多摩郡村山(東京都東村山市)に陣取り、長尾景春に与する者ら(本間・海老名・甲斐の加藤)が相模国に立て篭もる所に、弟の資忠(図書助)を派遣。
道灌+資忠は、千葉孝胤+長尾景春を各所で撃破した。

←正面の入口に向かう階段を下りてみる

さらに、古河公方成氏の許可を得て(佐倉千葉氏の千葉孝胤は、上杉と和睦する前の成氏の与党だった)、下総へ出陣。
道灌は国府台(市川市)に「仮の陣城」を構えた。

これに本土寺過去帳の記述を「前哨戦」として噛ませると、以下のシナリオが浮かぶ。

南の国府台(地図)に陣を構えた兄・道灌に呼応し、弟・資忠(図書助)は北から下総へ進出。上杉方だった戸張氏と連携して、前ヶ崎城に入っていた。

11月3日、長尾景春と連合した千葉孝胤の軍が、この前ヶ崎城(地図)を攻撃。
道灌の縁者「太田六郎」と、柏市の戸張城にいる戸張氏が応戦したものの、防ぎ切れず討死、前ヶ崎城は千葉孝胤の手に落とされる。

そして12月10日、千葉孝胤はさらに富士川を辿って境根原地図←さっきの団地ね(^^ゞ)に進撃。国府台から来た太田道灌と激戦の上敗れ、臼井城地図)へ落ちる……というシナリオだ。

改めて、こちらが「前ヶ崎城跡」の正面(^^ゞ(パノラマ2枚)

根木内城にはトイレがあるのに対し、この城跡公園には無かったような……。
最終見学地というのもあって、長く休憩時間を取ったから、免許センターか近くのコンビニ(セブンイレブンとローソンが地図に見つかる)で借りた人もいたのかも。

もっとも地図に見えても、いつの間にか無くなるコンビニも多いし、免許センターも、中に入れる時間だったかどうか……。
確か初めてここに来た時は、コンビニとか無かった気が……(^_^;)。
公園と免許センターの間に、ラーメン屋さんがあった。(今もあったかな?)

そこんとこ、地方の観光地や山奥の城跡と違って、緊張感に乏しい(笑)。
見学の閉館時間もなけりゃ熊も居ない。途中で疲れた、足が痛くなった、トイレに行きたくなった等で、「スイマセン抜けます(^^ゞ」でも、何も問題ない(笑)。
(学芸員氏だけは場に付きっきりで、休みが取れず気の毒だったが(^_^;))

入口前の説明版にあった図面から。

←こちらは城域(全体)の復原図。
空堀の跡が検出されて判明したんだろう。

こちらは現存の遺構
(左の図のほんの先端部分が相当する)

城跡公園をもう出てしまったが、ウォーキングの話も続けよう(^^ゞ。

ご一緒の会員さん達から聞いた話だと、どうもこのウォーキング、前もって行程チェックのため、会員同志だけで一度リハーサルが行われたらしい。

遅ればせながら、その折のアナウンス↓
健脚万来 東葛古戦場・古城跡めぐり

根木内城では、トイレで「行き先わかってますから、先に行って下さい」と、言ってくれる人もいたし、この前ヶ崎城跡を出る時、「ここで失礼しまーす」と言って抜けた人もいた。

だいたいの人達は、この後も団体にくっついて、今度は北小金駅(地図)まで歩いたが、列から外れて、免許センター前の停留所に並んで、バスが来るのを待つ人もいて、知り合い同志の勝手知ったる雰囲気みたいな感じだった。

最後尾で相変わらず「車が来ま〜す」と前に注意を促す係の方あり、会の説明しれくれる方もいらして、皆さん大層親切でわきあいあいとしてて楽しかった(^^)。

帰りがけに側面から見た前ヶ崎城跡(パノラマ2枚)

場の中心はやはり学芸員氏(中山先生)で、最初は、「私、今日まで、絶対に怪我とか出来ない!とすごく緊張して過ごしてました!」と、皆を笑わせてた。

……私の記憶が確かなら、前に拝聴した講演でも、「北総の城跡に侵入しては、何度か白眼視された」り、「通報されそうになった」なんて話で、やはり市民の笑いを誘っておられた(^_^;)。。

この日も、市民が「ここで前にトイレを使わせて貰ったよ〜」とか、先生が「いやそれはダメだ!」とか押し問答が展開されていた(笑)。

「親方日の丸背負った身で、下手な事できないんですから!」と、仰せごもっともな主張をされて、「そっか、大変だな〜(^_^;)」と思った(笑)。(この頃何でもニュースにされっからね:苦笑)

やがて常磐線(千代田線)が見え
北小金」駅(地図)で解散!\(^O^)/

それでも帰りは、前ヶ崎城から北小金駅までの道のりは、車道ではなく、河川敷の野原を歩いた。

会員の方が「こんないい道があるのに、先生は車の通る道を行く!って言ってたんですから〜」と、ニコニコ教えてくれた。
何度も薦めるうちに、先生もやっと同意してくれたんだそうだ。

なるほど……と思った(^^)。

実は、講演を聞いた事があるという話が出た時、先生が「つまらなかったでしょ?」と仰ったんで、「え(・・;)?」と驚いたのだ。(私は面白く聞いた:爆)

長く松戸を歩いてきた市民は、歴史の難しい事はわからなくても、どこが良い景色だとか、どこの農家は親切だとか、どこの野原は一見草ボウボウでも、草の合間に安全に歩ける道があるとか、お堅い学者が知らない事をよく知っている。

だから先生も、「今日はつまらない歴史はやらない( -_-)× 楽しいウォーキングがメイン!」という一日に、体を空けてくれたんだね(=^m^=)

(「つまらない歴史」 。゚(゚ ̄□ ゚̄;)゚。<ガーン!)

いいじゃ〜ないの〜幸せ〜ならば〜( ^O^)ノ♪ (((つД`;)。。

以上、関連事項は(2016/09/03、後追リンク)
■境根原合戦(長尾景春〜上総武田)
2005年10月<石神井城(東京都)>内以降
2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内
2007年1月<臼井城跡>内以降、および<柏、酒井根の風景>
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内以降
2007年10月<真里谷城跡>内
2007年11月<久留里城>内
2008年6月「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降
2009年10月<千葉氏館跡(千葉地方裁判所)>内
2009年12月<中島城跡>内
2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内
2014年3月<皆野に向かう(鉢形城・寄居・長瀞を抜けて)>内
2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)>
2015年4月<関宿を経由して古河へ入る>内
2016年4月<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>および<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>以降


■根木内城跡
2007年1月<柏、酒井根の風景>
2007年5月<講演拝聴@松戸>
2007年6月<根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り>
2007年7月<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り>
2007年10月<根木内城跡>
2010年9月<根木内城跡(根木内歴史公園)の春♪>
2011年11月<八ヶ崎・「根木内城跡(公園)」"チラホラ桜">

■国府台合戦の前哨
2008年6月「千葉県の動乱」vol2<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537)>以降

■高城氏
2004年8月<寄り道2、広徳寺「高城氏の墓所」>
2004年9月<松戸七福神巡り7、「寿老人=徳蔵院」>
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>
2006年8月<箕輪城跡>
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>以降
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>
2008年5月<年始(^^)・「松戸七福神」巡り>
2008年7月<牛久城跡、2>
2009年6月<「布施城跡」と、その周辺(柏市)>
2009年9月<相模台城跡>
2009年10月<胤重寺>
2011年12月<殿内「ダガシヤ・ダイチャン」(駄菓子屋)>
2013年11月<高柳城跡「善龍寺」、桜の残り咲き(^^)>
   〃   <「イラストで知る白井の伝説」と手賀城伝説>
   〃   <市川大野「本光寺」(大野城跡)>
2014年1月<小森城跡・名内城跡と「手賀合戦」>
2014年6月<柏市・藤ヶ谷城跡(と高柳城跡)>
2016年4月<「福満寺」、2(日暮玄蕃の墓)>

■他、千葉北西部、戦国期の城跡
2004年8月:広徳寺、高城氏墓所
2004年9月:徳蔵院、国府台合戦供養祠
2005年10月:増尾城
2005年12月:関宿城
2006年1月:実相寺・宗英寺(足利晴氏墓)
2006年7月:徳蔵院「藤塚稲荷」・国府台天満宮・総寧寺
2006年8月:国府台城・おせし様・龍泉院・弘誓院・箕輪城
2006年12月:師戸城@
2007年1月:師戸城A・臼井城
2007年6月:大谷口(小金)城・根木内城@
2007年7月:根木内城A高柳城
2007年9月:松ヶ崎城・根戸城
2008年11月:龍崖城・常圓寺・芝原(中峠)城・
2008年12月:柳戸砦・高野館・布瀬城
2009年6月:柴崎城・布施城
2009年9月:相模台城・千葉城
2013年11月:高柳城・矢の橋小森城大野城(本光寺)
2014年1月:小森城跡・名内城跡(手賀合戦)
2014年4月A:神々廻城跡
2014年6月:藤ヶ谷城(高柳城)手賀城
2015年1月:増尾城・妙見堂跡
2015年2月:船橋城跡・花輪城跡



■11〜12月
<晩秋の紅葉(すすき・銀杏・野馬除土手)>

11月中旬から12月末にかけて、まずは紅葉が深まってゆく様子をお届けー。
同じ場所が二度出て来る写真もあるから、前と後の紅葉具合を比較してみてねっ(^^)。

野馬除土手からいこう。まず11月中旬。
五香六実の元ダイエー(現オウル)に続く高い土手跡。(地図

12月初旬。
またこの野馬除土手に来てみると……
周囲の紅葉が増してるでしょ(^^)

坂の上に続くオウル近くの土手
こちらは五香駅付近の野馬除土手(地図

−−−−−−−−−−−−−−−−−−(^。^)−−−−−−−−−−−−−−−−−−

続けて逆井、いつも彩りの鮮やかな紅葉の道(地図)↓

11月下旬
銀杏の黄色い葉が続く

↑が、さらに季節は進んで、12月中旬には……↓

もはや枯れ始める頃
紅葉も最後でもう真っ赤!

同じく逆井「観音寺」前通り(地図
燃えるような最後の紅葉

−−−−−−−−−−−−−−−−−−(^。^)−−−−−−−−−−−−−−−−−−

最後は、大井(大津ヶ丘)の銀杏並木(地図)。こちらも11月下旬

新興住宅街の並木道から
やがて手賀沼南岸へ続く

この道の先は手賀沼の南岸へ伸びてるんだけど、手賀沼は次の項でやるね(^^ゞ。
この銀杏並木の黄色い葉っぱも……↓

12月中旬には……
すっかり落ち切って

黄色い絨毯状態(^^ゞ
こちらは小金原の銀杏通り(地図

鎌ケ谷の方だったかな。灯りが点いてるかと思うほど鮮やかな紅葉(^^)

以上、駆け足だったけど、晩秋から初冬にかけての紅葉でしたー(^^)。

以上、関連事項は(2016/09/03、後追リンク)
■野馬除土手(及び類似公園・騎馬パレードなど)
2007年8月<六高台の桜と五香の野馬土手>内
2007年10月<野馬除土手>
2011年1月<初夏、沼南〜松戸の野馬除土手>
2011年9月<「白馬公園」「野馬公園」「しいの木公園」>
2012年8月<冬空・雪・野馬土手・節分・氷>内
2012年10月<六高台ハナモモ通り>内
2014年4月
<鎌ヶ谷市「相馬野馬追」騎馬武者パレード、@出陣>以降
2015年1月<5月、鎌ヶ谷市、貝柄山公園「野馬の親子像」>内
2015年4月<ニッカウヰスキー柏工場>内
2015年9月<六実「きもの川久」の“相馬野馬追い図”>

■紅葉&クリスマス(10〜12月)↓最後にリンクしますー



<手賀沼・南岸と北岸>

↑今も言った通り、手賀沼周辺だけ分けるね(^^ゞ。
さっきの11月下旬。大井の銀杏並木(地図)から真っ直ぐ進むと、まず大津川に沿った道に合流し(地図)、やがて自然と手賀沼南岸を走る道になる↓

大津川沿岸の道も、ススキ生い茂る秋の到来(^^)

この秋〜冬は、私も仕事を探さなきゃ……と思ってた矢先だったのに、前回も言った、あのスゴイ風邪をひいて、思えばそれからかなー、体調の不調が訪れた(*o*)。。

……と言っても自覚症状は殆ど無く(子供の頃から、この手の病気が多い(^_^;))、それでも病院に行けば薬を飲まされるだろうし、副作用が恐ろしいので、ただでさえ経済難なのに漢方薬治療の日々が始まってしまった。

更年期と思う(^_^;)。
だから「風邪をひいてから」と言うよりは、「風邪をひいた頃から」だね。

やがて手賀沼の南岸を行き
手賀カフェ」(地図)に到着(^^)

ただ、それを機に怖い病気になってしまう人も多いという事で、治療は続けており、緊縮財政によって、手賀カフェにもその後は御無沙汰……。

こないだ(6月入ってから)久しぶりに行ったら、「お久しぶりでした!」と挨拶された。
覚えててくれたんだなー(#^.^#)、と嬉しかった♪

いつも楽しみのランチ(^。^)
帰りは東岸の曙橋(地図)付近で

ここのランチは、すり下ろされてカップスープに溶け込んでる野菜の他、それぞれ味わい深い生野菜、グラタンに風味ごと閉じ込められた丸ごと野菜、漬物風や煮物風の野菜と、野菜料理がメインだが、お肉や魚も香ばしい調理が施されて、大皿にドサッと並んで出される。

穏やかに暮れる晩秋の手賀沼を眺める(パノラマ4枚180度以上)

トットト水面を急ぐバン
ゆったりと滑る白鳥

この辺りの水鳥の中でも、大柄で風格のある白鳥だが、これはまだ羽毛に茶色が混ざってるから子供だね(^^ゞ。

この白鳥の大人と子供の見分け方は、前に小舟で水郷を巡りをした時、船頭さんに教えて貰ったんだよね(^^)

夕焼けで光る水面を二羽が追い駆けっこ
北岸にそびえる「水の館」(地図

これまでは南岸を見て来たが、今度は手賀沼の北岸も少し(^^ゞ。
季節は12月中旬に移る。

「水の館」は、東西のちょうど中心、手賀大橋を渡った所にあり、夜に通ると、レイ・ブラッドベリ(SF作家)の「霧笛」に出て来る恐竜を思い出す……という話は、2012年8月<手賀沼「水の館」と「天然温泉・満天の湯」>にした通り(^^ゞ。

迫る丘陵の紅葉が素晴らしい
東に向かって進む

再び、手賀沼の南に向かう。12月下旬。手賀沼の東、手賀川の河川敷↓

「風と共に去りぬ」!(笑)
迫力ある師走の夕雲

樹の幹に、スカーレットが立って拳を振り上げてたら、どうしようと思ったよ!wwww

以上、関連事項は、(2016/09/03、後追リンク)
手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>




<クリスマス飾り・イルミネーション>

今年もこれ行こう(^^)。例によって地図は出しません。↑まずは「飾り」(室内)の方から……。

店の外に陳列してあった室内飾り一式↓
こちらはお店の入口に飾ってあったツリー(^^)→

この後は街のイルミネーションをお届けー☆彡

こちらはお外のライト・ツリー
公園のイルミネーション

スノーマンの兄弟?
サンタさんのいる庭

↓五香駅前(地図)←は公の場なので地図を出す
カモシカの集まる星降る光の園→


右の写真。樹に巻きつけられた白色の灯りは、滴が垂れるように光が点々と上下に移動する物で、ここ2〜3年見掛けるようになった。

このタイプも紹介したいと思いつつ、静止画では地味なだけに見えてしまい、撮っても載せなかったけど、今年は出してみた(^^ゞ。
派手さはないけど、雪やツララを伝って溶けた水がおりるような感じで、凄く冬の雰囲気が出てるんだよねー。

以後もドンドン行きましょう(^^)

冬の雨に濡れる二点



今回は以上〜。

次回はまだ年末がちょっと残ってるけど、程なく今年(2016年)の正月に入れ、その後がどこまで行けるかちょっと不透明(>_<)。

関連リンクは又後日貼りますー(^O^)
(先々月と先月の分は、先月のアップ後わりとすぐ貼れましたー)

(以上、2016年6月12日)


出来ました|ω・`)<ソ〜ッ

手賀沼(リンク専用ページ)
■境根原合戦(長尾景春〜上総武田)
■根木内城跡
■国府台合戦の前哨
■高城氏
■他、千葉北西部、戦国期の城跡
■野馬除土手(及び類似公園・騎馬パレードなど)

↑は、各々の項目・箇所に貼ってあります(^^ゞ。(2016/09/03、後追リンク)
貼ってないリンクのみ以下に貼ります。

■紅葉&クリスマス(10〜12月)(2016/09/03、後追リンク)
2005年11月<駒沢公園(東京)>
2007年6月<クリスマスの街角(^^)>
2008年4月<松戸市・「常盤平」駅前「けやき通り」>
2008年5月<年末(^^)>
2009年6月<紅葉とクリスマスが同時に訪れるの図(笑)>
2010年7月<街路樹の紅葉(#^.^#)>および<クリスマス・イルミネーション>
2011年9月<柏市〜白井市、秋の夕暮れ>以降
2011年10月<クリスマス前の東京(皇居東面)><クリスマス本番〜年末>
2012年7月<ハロウィンの頃まで>内および<クリスマスの街(^^)>
2013年1月<今年の秋もハロウィン(^O^)!>
2013年8月<晩秋の紅葉(銀杏)・白鳥・夜霧>
2013年9月<クリスマスシーズン本格到来>
2014年4月<秋は深まり……>
2014年4月A<秋深し(^o^)>

2014年5月<銀杏とクリスマスと古利根川>
2015年5月<晩秋〜初冬の風景>


(以上、2016年9月3日・追記)

<つづく>

2016年06月12日(関連リンク09月03日追加)
 
     




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