<2018年・城主のたわごと6月>




2017年8月、栃木南部、日帰り旅行の二回目、最終回!

佐野氏居城「唐沢山城」「清水城」と、懐かしの足利・佐野(#^.^#)



     
  前回から、2017年8月に行った「埼玉〜栃木南」編に入っている(^^)。

前回の分は……↓

〜おしながき〜「埼玉〜栃木南編
「4月のたわごと」(千葉北西・埼玉〜栃木南1)
■8月・埼玉県川口市、栃木県栃木市・佐野市
<川口「長徳寺」、@裏門〜本堂>
<川口「長徳寺」、A三重塔〜仁王門>
<川口「長徳寺」、B仁王門・参道・山門>
<東北道で茨木まで移動>
<皆川城址>
<金剛寺(皆川氏菩提寺)>
<佐野市葛生、お昼ご飯(^O^)>
<佐野氏菩提寺「本光寺」>
<佐野氏本城「唐沢山城跡」に向かう>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

前回は、最初だけ川口(埼玉)の「長徳寺」を訪れ、あとは東北道で栃木まで北上して、皆川氏の居城「皆川城址」、菩提寺「金剛寺」、佐野氏の菩提寺「本光寺」までレポし、居城「唐沢山城」を残したので、今回に繋げたい。

唐沢山城の後は、もう一ヶ所、佐野氏にゆかりの寺であり館跡でもある、「興聖寺」(清水城跡)に赴く。
その後、二年ぶりの樺埼寺跡、同じく佐野日帰り温泉で旅を終える。

最後は、ほんの触りだけ、東京の神田明神に入った所で次回に跨ぐ。



■8月・栃木県佐野市
<「唐沢山城跡」到着、@枡形・天狗岩>


唐沢山は、前回の最後に近寄り、その麓の登り口(鳥居)から登ってゆく車道を、途中までお届けした。

さらに山道を登り……
唐沢山城跡」(地図)に到着(^O^)!

入口付近は、上の写真より右側に駐車場があって、もうちょっと広いんだけど、人だかりがあったので撮るのを遠慮した(^_^;)ゞ。

言葉で説明すると、駐車場の背後に実は「レストハウス」がある。
営業時間が終わってたのか開いてなかった。
営業してれば、売店なりやってて、書籍など置いてたのかもしれないが……(^^ゞ。

ただ、この下に出す絵地図はその近くに落ちてたもので、これが無かったらレポを書くのもしんどかったと思う(^_^;)。。<唐沢山の神様ありがとうございます。

このレストハウスのある場所、城のあった当時は「倉屋敷」が存在したらしい↓

唐沢山城跡の見取り図
←左の図面の赤枠部分を拡大↓

↑城への入場は、南西部の「大手門」からであったと思われるが、現在はそれよりちょっと北から車道が伸びて来ているので、我々はそこから来ている。

現「レストハウス」で、元「倉屋敷」の前(駐車場)を過ごして、入口を入ると……

入口付近に立つ幟。「全国山城サミットin佐野」(唐沢山城跡は第24回とある)→

入ってすぐに出迎えるのが、前面を塞ぐ石垣で、入るなり自然と右折を余儀なくされる。いわゆる「枡形」の入口構造である↓

先の展開を言うと、右方面(↑の地図では下↓)に誘導された後、左方向(↑の地図では右→)に向かって進路が伸びるが、そちらに行かず真っすぐ(↑の地図では下に↓)進むと「天狗岩物見櫓)」に向かう、急勾配で曲がりくねった石階段をゆく事になる。

→こう入って石垣にぶつかり右折して
前を見ると「天狗岩」への階段

この左の写真↑の形状が「枡形」。
大手門」からの繋がりで見ると、まず城内に入って来る手前で、敵が直進できないように、鍵の手に折れる「くい違い」に造られていたという(「くい違い虎口」)。
さらに侵入した内側が、このように「枡形」に囲ってあり、幾重にも敵の進む勢いを削ぐ工夫がされていた。

これは、典型的な戦国時代の城の作りに思える。
こういう点が、この城が「藤原秀郷の時代までは遡れない」と言われる理由に上げられるのかもしれない。

その後、前を向くと(右の写真)、進路は左←に伸びているのだが、後で又戻って来るとして、ここではいったん「天狗岩」に行く階段を登ってみる。

山城の割に、登りやすく石段と石畳が築かれている♪

唐沢山城は、佐野市の北、高さ240メートルの山全体をいう。
戦国末期に佐野氏が居城を移した後は、江戸期を通じて廃城されていたが、明治になってから「唐沢山神社」が創建され、県指定の公園ともなったので、このように整備されるようになったのも、それら以降だろう。

往時の広さ550町歩と言われ、周囲を急崖にかこまれ、全山アカマツにおおわれ、断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞になっている。
今では、春の桜、つつじ、キャンプ、秋の月見、松茸狩り、冬の梅、と一年を通じて自然を楽しめる。

←程なく到着するのが、巨岩の重なり合う高台
↑眼下に広がる風景が圧巻!

この天狗岩、わりと大きいが、足場が狭いので↓

例によって繋げ撮り(パノラマ4枚180度以上)、この端のが天狗を祀る祠?↓

この「天狗岩」は、「大険山」とも例えられる岩山で、南面に突き出た岩が、ちょうど天狗の鼻のようだったため、この名がついた。
頂上からの良好な眺望を活かし、広く周囲を見張る役割を果たしていたと考えられ、先に出した絵地図には「物見櫓」とも書かれていた。

この唐沢山城からは、関東平野を一望でき、昔からその展望は「実に13州に及ぶ」と賞賛された。
遠く北に日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰富士、東に筑波、そして今では東京の高層ビルを見ることもできるという。

岩を踏み越えると、もうちょっと周囲を見渡しに行ける(パノラマ4枚180度以上)

前回、4月号からこの旅行のレポに入っている。
今いる「唐沢山城」の城主・佐野氏については、前号の中でも最後の二つ、<佐野氏菩提寺「本光寺」><佐野氏本城「唐沢山城跡」に向かう>から話を始めている。(続けてお読みになりたい方は↑クリックを(^^ゞ)

本光寺でも述べた通り、佐野氏は私にとって極めて「謎の氏族」である。
その領域に入り込めば、詳しい資料(博物展示、ゆかりの寺社や観光所などの現地案内板、売店販売の書籍など)に出会える物と思ったが、ここ唐沢山城でも、その後に行った佐野城でも、そういう物に出会わなかった(^_^;)。

そこで、前回も述べた通り、wikiその他のネット上の記述に、多少もたれかかりながら進めている。


眼下の町と田園風景。意外とクリア(^O^)
こっちは遠近の山および山麓の眺め→
足元の眺望図には左から「筑波・三毳・富士・秩父・妙義・浅間・榛名・寺久保・赤城」と山の名が並ぶ

wikiによると……(佐野秀綱のページ)、

基綱国基−実綱−成綱−広綱−貞綱−資綱−師綱−重綱−重長盛綱秀綱−泰綱−豊綱昌綱宗綱氏忠−房綱−信吉−久綱

佐野氏は平安末〜鎌倉初期の佐野基綱を起点に、↑江戸初期までの間、このように続いた……という事だ。
手持ちの資料と食い違いが無く無いが、だいたい、この系図に沿って書くことにしたい(^_^;)。

まず初代・「基綱」の子・「国綱」が、鎌倉時代初期の1228年に、清水城を建てた事が知られている。
(清水城跡には、この後に訪れる(^^ゞ)

この「国綱」は、上の系図にある「国基」あるいは「実綱」に相当するのか、あるいは国基の兄か弟なのかはわからない(^_^;)。


ホームズくんにおウチを作って貰いたい(爆)(パノラマ4枚180度以上)

その後の佐野氏について、詳しく書いているサイトもあるが、私はその材料を持ち合わせてないので、カットする(^_^;)。

実は「佐野氏」と思われる存在は、手持ちの資料などにも散見しなくないのだが、官位名(〜守)とか通称(太郎・次郎)しか伝わらない史料(発給書など)によって、一定の氏族の継続は認められつつ、時代と当主(上記の「諱」)との合致がわからない(^_^;)。

前回書いたように、佐野氏は宝治合戦で敗者側に廻ってしまったそうだ。

宝治合戦は、鎌倉御家人の二代巨頭だった北条氏と三浦氏の戦いだった。鎌倉じゅうを巻き込んだと言われる程だから、三浦方についた家も少なくなかったのではないかと思う。


↓この巨岩より先には流石に行けない(^_^;)。。
……と思ったら、亭主がドンドン登って行っちゃう→

「危ないよっ、降りて来なさい\(>o<)/」 <フガーッ

私のこれまで知った限り、三浦方についた家には、佐原氏の反北条勢力(猪苗代・北田・藤倉)とか、長尾氏など、その後の系譜が不明瞭になりつつ、戦国期にイキナリ表に出て来る傾向を感じる。

御多分に漏れず、この佐野氏も同じで(^_^;)、戦国初期に出て来るまで、史実的・系譜的に不透明になりつつ、忽然と具体的な当主名をともなって史実に登場する。

それが前回「本光寺」で書いた通り、本光寺を開基した「盛綱」の時である。
古河公方・足利成氏の時代(享徳の乱)にあたり、この時、佐野氏は成氏の側についている。


(長くなったんで項目を分けますが、話は続きます(^_^;)ゞ)



<「唐沢山城跡」、A竜神宮・大炊井・神橋>

さっきの地図をまた出す。さっきの位置より、やや右に移動する↓

本筋の順路に戻って、先に進もう
←左図の赤枠部分を拡大↓

上の地図にある「唐沢山荘」というのが、下の写真の右の建物↓

←アホ亭主は放って(笑)
↑スタートラインに戻り、枡形から中央広場に進むと、アチコチに猫が寝そべる光景に出会う(笑)

話を続けよう(^_^A)。

佐野盛綱が、この唐沢山城を整備したのは、享徳の乱も終わった1491年ごろとみられており、享徳の乱の当時はどこにいたのかわからないが、そう遠い所ではないんじゃないかな……。

佐野氏の去就は、享徳の乱における両陣営の経過にとって、小さくない影響だったと思う。
成氏が古河を本拠地とした原因は、鎌倉を陥落(占領)されたから、とはよく言われるが、それだけで「だから古河」と特定した理由に繋げるには、いささか納得材料に乏しい(^_^;)。。

成氏が本拠とした古河も、その敵将・長尾景仲が立てこもった天命・只木山も、足利氏の出身地である「足利荘」を意識した拠点だった、と思うのが自然だろう。

足利の西隣の新田岩松氏や、小山・結城といった、古河の北東部に位置する勢力は、当初から成氏に与同していた。
さらに、心臓部の足利に間近い地盤をもつ佐野氏が加わってたとすれば、長尾氏の覚えた圧迫感は相当に強烈だっただろう(^_^;)。。


唐沢山荘」、登山者用の施設だね
その足元にうずくまるトラ猫♪

(「足利荘」は荘園の名で、「唐沢山荘」は山荘(登山者の休憩所または宿)の名デス(^_^;))

その後、時代はドンドン戦国時代の佳境の頃に向かっていくのだが、どういうわけか、この城の至る所、城の構造などの説明はあっても、佐野氏自身についての説明は殆ど無い(^_^;)。

なので、佐野氏のその後については、手持ちの資料から話していこうと思うが、どうもこの城自体の雰囲気を伝えるのに、「佐野氏の話をするので良いのかなー(^_^;)」と、首を傾げてしまう。


というのも、率直に、この城に訪れてみた感触は……。
メチャクチャ「藤原秀郷の城」を謳っている(≧▽≦)!<なぜ?
「(戦国期の)佐野氏の居城」というよりは、「(平安期の)藤原秀郷を祀る神社」の色合いの方が数段濃い!(笑)


唐沢山城跡の特徴の一つがこの猫達(笑)
山じゅう至る所に猫がいる

佐野氏の事をあまり知らないのもあるが、雰囲気に負けたのもあって(笑)、これより藤原秀郷の話にいこうと思う(^_^;)。。
というのも、藤原秀郷は謎の多い人物で、その出身地や居住地についても謎が多く、どこに行ったレポなら確実に語れる……といった具合じゃないから、いっそここで語ろうかと(^^ゞ

ただ、ここにいう「藤原秀郷」は、歴史における姿より、御伽草子などに描かれる、「ムカデ退治」の「俵藤太」の面影が強い(笑)。

イキナリそこから入ると、「舐めとんのか」と思われるかもしれないが(^_^;)、後ほど歴史における藤原秀郷の話も続けるので、まずは現地にあった案内板の既述を元に、藤原秀郷の紹介を並べたい。

「並べる」と言ったのは、山城跡のアチコチに同じような看板があるのだが、中でも詳細に述べる物が、この周囲に二カ所あるので、その2つから参る。


近寄っても立つ気配もない猫達ww
順路の先に見えるは大きい石の鳥居

     
   秀郷公は、天児屋根命22世の孫・藤原鎌足を祖とし、数代を経て上野国邑楽郡河辺荘赤岩の館にて生を受け、幼少の頃、近江国(今の滋賀県)と山城国(京都府)の境にある宇治の田原という所に住んで、弓馬の器量優れ、人々より田原藤太と慕われた。

 その頃、近江は三上山大むかで出没し、人々を苦しめている事を聞き、得意の弓術にてこれを打つ。
(「唐澤山神社・由緒」)



 唐澤山御祭神であらせられます藤原秀郷公が、京に架かる勢多大橋を渡る時、橋の中央に息も絶え絶えの大蛇が横たわり、京の人々は恐れ慄き、只、遠巻きに見ているだけでしたが、公は何事もないように大蛇を跨ぎ橋を渡り終えました。
 それを見ていた従者が、此の人こそ真の勇者と公を呼び止め、助けを請いました。
 大蛇は龍神様の化身で、ムカデの毒にやられ、敵を討ってほしいのです、と公を龍宮城へと招きました。
(「八大龍王神・縁起」)
 
     

鳥居に向かって左横に「竜神宮
さらに先、同じく左手に「大炊井

「竜神宮」の祭神は「弥都波能売神(ミヅハノメ)」だった。水の神様だね(^^ゞ

     
   夜になると、黒き山が動き多くの松明をかざしこちらに向かってくるのが見え、よく見ると、大きな邪悪な目がらんらんと恐ろしく輝き、龍宮城へと襲いかかって来たのは、大ムカデの化けものでした。

 公は弓矢の名手でしたので、三本の鋼矢をとり、一の矢を番え敵の眉間に中央に的を絞り放ちましたが、矢はカチンと跳ね返りました。
 急いで二の矢を撃ちましたが、同じように跳ね返されました。
 公は最後の三本目の矢を「神よ御照覧あれ」と、矢じりにツバキを塗り、全く同じ場所を狙い放ったところ、矢は眉間より奥深く射抜き、ムカデはどうと膝まつき、息絶えました。

 これ以降、龍神様は公の傍らに仕え、数々の瑞象を表し、今日に至り唐澤山に鎮座まします。

(「八大龍王神・縁起」)
 
     

大炊井」に近寄って見る。鯉が泳いでる(^O^)
順路はさらに「神橋」へ進む、なだらかな階段道が続いている→

この「大炊井」は、近くの案内板に、
「築城のさい、厳島大明神に祈請をし、その霊夢により、掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である。深さ9米直径8米あり、今日まで水がかれたことがない」と書かれてあった。

この「築城の時期」を、先ほどから絵地図として出してるパンフレットには、
@藤原秀郷(927・940年)
A佐野成俊(1200年頃)
B佐野盛綱(1520年頃)

と、3候補、示してあるんだが、史学的にはBの盛綱の時だろうと解釈されている。ただし、1400年代の後半まで遡って範囲に含んでいる。

ただ思うに、この城の伝説としては、@藤原秀郷龍神の加護で、コンコンと湧き出る水の恩恵を得た……と言われ続けて来たんじゃないかなぁ(^^ゞ

そして、ここが「神橋(パノラマ4枚180度以上)

↑この「神橋」は、大正15年、皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚記念として、地元の高齢者より寄与されたそうだ。

この「神橋」の語感、日光の神橋を思い出す(^^ゞ。
日光の神橋も、「蛇橋」と呼ばれ、勝道上人が日光山を開く時、急流に深沙王が2匹の蛇を放ち、その背から山菅が生えて橋になった……という伝説がある。それにあやかったのかも?

(それから、ムカデ退治の話が、「日光山縁起」の神獣争い(日光の大蛇と赤城の大ムカデの戦い)に似てるの段は、後でします(^_^;)。)

が、この場所は、かつては(戦国期でしょう(^_^;))曳橋が架けられており、敵の侵入に対し、橋を引き払って通行を遮断する機能を備えていたという。
外敵に備えて、使用時以外は曳橋を引き上げていたようだ。

この橋の下には、「四ツ目堀」と呼ばれる空堀(水が無い堀)があり、城の山頂部(西城域と帯曲輪以東)を、東西に大きく分断する堀切だった。

←橋の下に今も残る「四ツ目堀」の跡。
当時はもっと深かったと思われる。

藤原秀郷の「ムカデ退治」を、ネット上を検索すると……、

・秀郷を「俵藤太」とする話
・秀郷は大蛇を跨ぐのではなく「踏みつけた」とする話
・秀郷にムカデ退治を頼む段は、その夜に秀郷が眠ってみた夢とする話
・龍神(の化身)が美女の姿で登場する話
・ムカデ退治の御礼に、米が尽きずに湧き出る俵(尽きぬ水ではなく)を貰ったので、「俵」の異名がついたとする話

……など、細かい点で増減や違いのある記述も見かけるが、大まか同じ作りだと思う(^^ゞ。


(長くなったんで、また項目を分けますが、話は続きます(^_^;)ゞ)



<「唐沢山城跡」、B神橋・桜の馬場・南城>

又、さっきの地図だが、位置はさらに右に移動↓

もう中央まで来てるね(^^ゞ
←左図の赤枠部分を拡大↓

さて、「ムカデ退治」の後日談(^^ゞ。

     
   琵琶湖の神ノ龍王は、この功(ムカデ退治)を賞賛し、公はこの時、神縁を受く。
 時の朝廷よりは従五位下に叙され、下野国・押領使に補される(延長5年4月)。よって居城を唐澤山に築く。

 第61代、朱雀天皇の御代、天慶2年12月、平将門、下野を始め、関東各地を侵略す。
 公、平貞盛と共に、下総国・幸島の北にて迎撃し、将門を滅す。
 時に天慶3年2月14日(世に之を、天慶の乱と云う)、朝廷、其の功を賞し、従四位に叙し、武蔵・下総、両国守に任じ、鎮守府将軍とす。
 以来670年間、子孫善政をしいた。
(「唐澤山神社・由緒」)
 
     

恐れながら、この段を検証いたします(^人^)。<合掌
ただし、平将門の乱そのものの話は省略します。↓詳しくはこちらをご覧あれ

平将門(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「平将門の史跡・伝承・信仰・相馬(千葉)氏」>

↓「水琴窟・天慶夢」。滴る水の調べを聞く庭園。「天慶」は、秀郷のいた(将門の乱の)時代。
↑この庭園を右に見つつ、先に進む道→

( ↑「水琴窟・天慶夢」は、絵地図で見ると、「西城(天徳丸)」かその並びにあったと思う。
ちなみに、この「天徳丸」というのは、小田原征伐の頃に出て来る、佐野氏の城主一族「天徳寺宝衍」にゆかりの曲輪名)

藤原秀郷が、いかにも架空の物語である「ムカデ退治」によって、従五位下に叙され、下野国・押領使に補される、という部分。しかもそれを「延長5年(927年)4月」と考証までされている。

史実における藤原秀郷は、『将門記』では、将門を討つ段(940年)になって急登場する。(急すぎて違和感すらある(^_^;))

が、『将門記』以外では、その前歴が記されている。
『日本紀略』には、916年に、18人を流罪とするよう下野国司が命じられたとして、流刑者の一人に、秀郷の名が連ねられている。


←「さくらの馬場」。昔、武士が馬を訓練した所。桜が多いのでついた名。(軍用馬って、スゴイ急斜面で調練するんだよね(^_^;))
↑逆に道の右は深い谷。今は樹々が生い茂る

(↑道は、左に高い崖、右に深い谷がある中を進む。右の谷には「三つ目堀」跡が続き、やがて「物見櫓」跡に到達する)

ついで、『扶桑略紀』に、929年、やはり下野国が藤原秀郷の乱行を取り締まるよう申請し、太政官より、周辺の国に兵を差し向けるよう、五通の通達が出されている。

その秀郷が、『将門記』の登場に際しては、イキナリ「押領使」と紹介される。
これは犯罪者を追捕する役職で、今だと警察官に近いが、秀郷の時代は、俘囚の叛乱や群盗の蜂起などへの対処に適用されたから、今以上に戦闘能力が必須と言えた。

つまり、流刑されたり乱行を取り締まられた秀郷が、急に異例の昇進をした……というよりは、「乱暴者を捕まえるのに、同じような乱暴者が投下された」と見るべきだろう(^_^;)。。
(京政権側の差別的偏見によるにせよ)


いよいよ本丸に向かう( ̄^ ̄)
途中に華麗な御手水(#^.^#)

対して、将門を討伐して得た地位は四位。前歴とは比較すべきもなく大きい。
将門討伐前の秀郷は六位だったらしく、これは前回も書いた通り、都の貴族社会においては、殆ど「無位無官」と呼ぶに等しい(^_^;)。

この辺のギャップが、「将門討伐の前に一度、従五位下を経た」→「功績の根拠は、ムカデ退治」という作り話が生まれる由縁なのかもしれない。

このムカデ退治の話が作られた背景に、近江の蒲生氏の存在があったのでは……とする記事がネット上に見られるが、「なるほど(^^)」と思う。
蒲生氏は、秀郷流の子孫を謳っている一族である。その話も後でしよう。


絵図面もだいぶ右の方に来た
←左図の赤枠部分を拡大↓

(拡大図がやや広範囲のため、字が小さくてスイマセン(^_^;))。さっきの「桜の馬場」をさらに進み、左折して階段を上り、途中で一度、右の広場「南殿」に立ち寄る)

『日本紀略』にある、将門討伐の恩賞を約する太政官符には、極めて異例の内容があるという。すなわち、
「魁帥(首謀者)を殺さば募るに朱紫の品を以てし、賜うに田地の賞を以て、永く子孫に及ぼし、之を不朽に伝えん。又次将を斬る者は、その勲功に随いて、官爵を賜らん」

将門を殺した者には、五位以上の位階と、一代限りでなく、永く子孫まで相続できる農地を与える。将門に次ぐ武将を斬った者にも、その勲功に沿って位階を授ける」

……と、こう約束したのであるが、こんな桁外れの恩賞など、将門の乱の前後には無かったと見られている。


南城跡」の社務所(行啓殿跡)
「南城跡」の展望台

(↑社務所の建物は、明治27年(1894)、後の大正天皇が皇太子の時代に行啓され、その折に建てられた。
城のあった当時は、本丸より南方向にある所から「南城」と呼ばれ、南北18メートル・東西36メートル。
「蔵屋敷」や「武者詰」があったとされ、東側には堀を設け、周囲は石垣をめぐらし、特に東南の石垣は見ごたえがある。

「下毛野 みかもの山の 小楢のす まぐはし児ろは 誰が笥か持たむ」
という万葉集の歌が、展望台にあった。

あと、ここにも猫がいっぱいいた。
「猫のエサをばらまかないで下さい」と注意書きがあるので、「餌付け禁止なのに、あげちゃう人がいるのかな」と思ってよ〜く見たら、「あげる場合は、お皿等をお使いください」とも書いてあった(笑)。
禁止じゃないんだね(^_^;)。。)

気持ちよさそうに昼寝ニャンコ
エサも食い飽きた風情のニャンコ

東国の将門の乱と同時に起きた、西海の藤原純友の乱の鎮圧にも追われて、都の政府には、割ける力もひっ迫していた。
また、この二つの乱は、動乱の進み方が早く、かつてない規模に発展していたから、事態は深刻を極めていた。

それと、純友らの叛乱は、海賊討伐の軍功に対する恩賞に不満を持ったから、という説もある。
さらに、乱の推問使が言を左右にして、ズルズルと出発を遅らせたので、この任を解いた、というような記述も散見する。

つまり、ただでさえ深刻な状況に加えて、全体的に誰も彼もが反抗的あるいは消極的で、よほど恩賞を弾まないと、事態が前に進まない当時の様子がうかがい知れる。

当時は、いわゆる菅原道真の祟りが継続される時間軸にあり、世相に少なからぬ影響を及ぼしてただろうから、その「菅原道真の霊を味方につけたぞ!」などと言い出す将門政権の討伐には、人々のモチベーションが上がらなかったのかも(^_^;)。。


天気の良い時には、この展望台から東京の高層ビルが眺められるんだって(笑)。
今は茂みが覆っているが、この「南城」の城下の台地に、当時は「物見櫓」があって、入り組んでる谷間も良く見通せるようになってたそうだ。

あと将門は、五代に下るとは言え、桓武天皇から出た皇族出身者であるから、それを討つとなると、よほど将来約束でも無ければ、後が怖いという感覚もあったのかもしれない。
時代が下って、足利直冬が叛旗を翻した時も、直冬を尊氏の子だからと、信じてついてった九州の人達が大勢いた。

そこで打ち出された、朝廷政府による恩賞の大盤振る舞いの結果、藤原秀郷は、将門の討伐前は六位であったのが、討伐後には従四位下を得る事に成功したのだ。
少なく見積もって5階級、最大で8階級の飛び級特進(((( ;゚Д゚)))。これほど途中を一気に飛ばす昇進は、殆ど例が無いらしい。

五位以上になると、子孫への影響も継続の可能性が高まるから、位階だけでも空恐ろしい出世と言えるが、それにも増して注目すべきは、「子孫に受け継がれる土地」を、わざわざ太政官符が恩賞に示す点である。


(長くなったんで、又々項目を分けますが、話は続きます(^_^;)ゞ)



<「唐沢山城跡」、C本丸・二の丸・三の丸>

一番右まで来たら、今度は上に登るノダ↓ 皆の者ついて参れ(・0・)/<おー

いよいよ本丸を目指すよ(^O^)
←左図の赤枠部分を拡大↓

本丸への階段、途中まで登って「南城」跡の景観を楽しんだら、残りをさらに登る!

エッチラホッチラ長い石段を登って鳥居をくぐり
引局」という場に一先ず到達。更なる石段と楼門の先に、本丸跡に祀られた「唐沢山神社」がある。

また、この辺りに「南局跡」ともあり、「古地図によっては「二ノ丸」とも記されている場所で、かつては奥女中の詰所であったともいう」と書かれていた。

後に鎌倉幕府が出来ると、その創成期には波乱も多かったが、三代・実朝の時代は比較的安定を迎えた。

そこで執権の北条義時は、ここぞとばかりに大ナタを振るい、目障りな有力豪族らの権利を脅かす気配を見せたΨ(`∀´)Ψ
すなわち、1209年、諸国守護人の職務怠慢を言い立て、終身在職(世襲制)を改め、定期交代制を提案したのだ。

これへの主だった抵抗勢力であった三浦氏、小山氏、千葉氏は、将軍実朝の提出命令に応えて、各々の家伝を披露した事がある。(`・ω・)=3

この中では、小山氏藤原秀郷の子孫である。


明治16年(1883)創建。藤原秀郷を祭神とした社殿

それぞれが、どのような経緯で土地に関する権利を認められ、しかも継続的に脅かされた事が無いという主張で、守護職の世襲慣習であると、公私を問わず思われて来た事例として注目されるものだ。

まず、千葉成胤は、「1118〜1120年の千葉庄の検非違使の前提を足掛かりに、頼朝の代に至って(その挙兵以後の働きが認められ)、祖父・常胤が下総一国の守護職に任じられた」

三浦義村は、「1124〜26年、祖父・義明が相模国の雑事に携わり、頼朝の代に至って(その挙兵以後の働きが認められ)、検断(検察・軍事)を父・義澄が命じられた」

と、頼朝の時代と、せいぜいその前代に遡る程度なのに対し、小山朝政が主張したのが、「940年の将門討伐の勲功」であった。
彼一人だけ抜群に古い例を持ち出している事がわかろう。
さらに、「以後13代、数百年、片時も絶えた事はありません」と、誇り高く付け足している。


「引局」の鳥居まで見下ろす
抹茶の粉を散らしたような苔の石段

( ←この辺りかな。あとで絵地図を見たら、「車井戸」 という古井戸があるらしい。城のあった当時は、茶の湯に用いる水を汲んだんだとか……。
深さ25メートル余あり、「龍宮まで続いてる」と伝えられたそうだ(゚.゚)!)

秀郷が歴史上に登場するや、たった一度の将門討伐を経ただけで、その子孫たちは瞬く間に関東の広い範囲にはびこり、強く根を張って、無視しがたい一大勢力を誇った。
この快挙は、イザナギとイザナミが天の浮橋から矛先の雫を垂らして、次々と国の各箇所が形成され、人が次々と生れて増えた現象に似て、まさに「神話」としか言いようがない(^_^;)。

一定の時代までは、それが「将門を討伐したから」だけで納得を得られたのが、時代が経つにつれ、その異例さに首を傾げ出したのか、いつか「ムカデ退治で、従五位下」なる途中過程が加わった(^_^;)。。

このような歴史上の人物が他にいないので、後世の人は、将門退治の前にも何か英雄的な行動があったから「押領使」の職を手に入れた、と想像したのだろうか(^_^;)。。


今回は行かなかった右上部分
←左図の赤枠部分を拡大↓

(↑字が小さくなって恐縮(^^ゞ。
本丸の裏手は行かなかったけど、長く曲輪の跡地が並んで続いている。

北城」は、城当時は「姫御殿」のあった曲輪。お姫様が住んでたんだね(#^.^#)。
佐野氏は北条氏から養子を迎え、その系譜も小田原征伐の後は、豊臣方の勢力、富田氏から養子を迎えたが、彼らを婿に迎えたのは、佐野氏の姫君たちだった。

その隣の「金の丸」は、城当時は金蔵があったらしい。
現在は「唐沢子供会」の教育場として、「金の丸ロッヂ」がある。

お花畑」というのは、謙信の春日山城にもあるが、この唐沢山城は謙信と攻防の末、上杉氏の勢力が入った事もあるから、影響があった可能性もある?(笑)

これより、二の丸・三の丸を巡る( ̄^ ̄)。↓)

絵地図は再び左に巡って来るノダ
←左図の赤枠部分を拡大↓

こたつ城主は、これまでも何かと主張してきた通り、「史実的に誤伝であっても、伝承は全て残すべき」が自論であり、信念でもある。
理由は、これ又ちょくちょく強調する通り、「誤伝の中にも又、歴史が残るから」である。

このほど、「秀郷のムカデ退治話(が作られたの)には、蒲生氏の影響が云々」という記述を散見するに及んで、重ねて「なるほど(^。^)」の思い濃厚である。 *ホクホク*
(【坂東武士の系譜(1〜3)】「藤原秀郷 大ムカデ退治で始まる英雄譚」@産経新聞)

蒲生氏は秀郷流の子孫を称する氏族だが、どうも古代、近江国の蒲生郡を開拓した「蒲生稲置」の後裔のようだ(^_^;)。。
これはこれで、古代より続く名族なのに、いつか藤原氏を名乗るようになった、というわけだ。
それを蒲生氏自身は、秀郷から続く系譜として、戦国時代まで欠ける所なく細々と繋げて伝えている。。


本丸の下は苔むした石垣が壮麗
石垣下にはかつて「表御殿」があった

( ↑「表御殿」は、城のあった頃、日々の事務や指揮采配をとった正庁があったという)

蒲生氏の事を話す前に、藤原秀郷に至る前と後の系譜に、ざっと触れたい。

天児屋根命…(中臣)鎌子−黒田−常磐−可多能 ネ古−御食子−(藤原)鎌足−不比等┐
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
├(南家)武智麿   ┌鷹取
├(北家)房前┬真楯├末茂              ┌千時…(内藤・蒲生・奥州藤原)
├(式家)宇合└魚名┴藤成−豊沢−村雄−秀郷┴千常−文脩┬文行…(佐藤・大友)
└(京家)麻呂                                └兼光−頼光┐
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
├兼行−(足利)成行……(三代ほど)……佐野基綱
└行尊−行政┬(小山)政光−┬朝政
         └(下河辺)行義├(長沼)宗政
                    └(結城)朝光

と長々書いてからで恐縮だが、実は秀郷が藤原氏の出と見るについては、疑問視の声もある(^_^;)。


二の丸に到着(^_^A)。ガラーンと広い
敷地の奥に「神楽堂」があるのみ

(↑高い所に見える鳥居と階段は、「唐沢山神社」つまり本丸の側面との連結じゃないかと。確かめてないけど(^^ゞ。
この「二の丸」は、本丸への大手虎口の守りを固めた曲輪で、「追手馬出」と記された古地図も残されている。御殿直番の詰所があったと見られている)

秀郷の子孫は下野国とその周辺に異常に多い。在庁官人の家系が、これほど短期間に多くの子孫を広げる例は他にない。
よって、秀郷に至る前までに、下野に根を張っていた在地系住人だった、とも見られている。

それが藤原氏を称したのは、急に異例の四位昇叙を得るに至ったためで、藤原の名を冠して、高位高官の列に名を連ねた、とも考えられる。

秀郷の藤原氏は「魚名」流とされるが、wikiには、曾祖父の「藤成」までは、『日本後紀』に官位などの記載があるように書いてあるから、その後に繋げたって事かな(^^ゞ。


次に「三の丸」跡にやってきた。こちらもガラーンと広い

(↑三の丸は、二の丸の隣のさらに低い所にあるが、城内でも大きな曲輪で、当時は賓客の応接間だった。ここでおもてなしをしたんだね ( ^^) _旦~~<お茶でござります。
周囲には高く急な切岸が巡り、部分的に石垣も認められる)

秀郷より後については、秀郷の子の「千時」と「千常」で、大きく幹が別れる。
嫡流は、奥州藤原氏まで続く「千時」の系譜で、以後「千晴−正頼−頼遠−経清−清衡(奥州藤原)−基衡−秀衡−泰衡」で滅びる。

例の蒲生氏も、この「千時」系を謳っているが、この嫡流の辿った経過と共に後述する。

残りは皆、「千常」の系譜となり、まず「文行」と「兼光」に来て別れる。
文行」の方は、「佐藤」「首藤」「尾藤」「伊賀」などを出した「公光」と、「近藤」「大友」「戸次」「立花」「武藤」「少弐」「筑紫」など、九州における秀郷流の子孫に繋がる「脩行」に別れる。


公光」の系譜は、西行を出した佐藤氏、義経に仕えた佐藤兄弟など、奥州藤原氏に縁の深い者もあって、秀郷流の子孫同志の縁を思わせる。

が、どうも「脩行」の方は、秀郷流以外に、利仁流中原氏流など、候補がいっぱいあるようで(^_^;)、本当に秀郷の子孫なのかわからない。
ただ、九州に赴くのは鎌倉時代以降であり、それまでは関東にいて頼朝の御家人に列していたので、蒲生氏とはやや趣が異なる。


三の丸の向かい展望台にも猫が→

一方「兼光」の系譜が後世まで長く痕跡を残し、上野国下野国に多くの子孫を広げた。
途中で「兼行」と「行尊」の兄弟に枝分かれし、前者が佐野氏にも繋がる藤姓足利氏にゆき、後者が小山氏・長沼氏・結城氏・下河辺氏に繋がる、という話は前回した通りだ。
(2018年4月<佐野氏菩提寺「本光寺」>内以降)

そろそろ、先ほどから何かと後回しにしてきた蒲生氏に話を進めようか(^_^;)。
大抵の秀郷の子孫が、「千常」の系譜に続くのに対し、蒲生氏は珍しく奥州藤原氏と同じ、「千時」の子孫を称しているようだ。


三の丸の向かいは、今見た展望台の建物と、こんな藤棚からサヤ豆が沢山ぶら下がっていた(*o*)↓
三の丸から下るウネウネ階段と断崖の景観→

【奥州藤原氏】
秀郷−千時−千晴−正頼−頼遠−経清−清衡(奥州藤原)−基衡−秀衡−泰衡

【蒲生氏】
秀郷−
千晴(千時−千清−頼清−頼俊−秀俊(季俊−(蒲生)惟俊惟賢−俊綱−俊宗−重俊−氏俊−俊綱秀朝−高秀−秀胤−秀兼−秀貞−秀綱−貞秀−高郷−定秀−賢秀−氏郷−秀行

緑色が手持ちの資料。ピンク色はwikiの記述をコピーしたものである。
「晴」と「清」の違いや、「秀」と「季」の違いなど、「字の読みようかなー」と思いがちだ(^_^;)。

別れ目を特定するとしたら、奥州藤原氏の「正頼」、蒲生氏の「頼清」あたりかなー、という感じもする。


別れ目を↓こんな風に特定して記述するサイトも見かける。

秀郷−千時−千晴−千清−正頼┬頼清−頼俊┬行俊(内藤)
                     |        └秀俊−惟俊惟賢−俊綱(蒲生)
                     └頼遠−経清−清衡−基衡−秀衡−国衡(奥州藤原)


(長くなったんで、四度目の項目分けですが、話は続きます(^_^;)ゞ)



<「唐沢山城跡」、D和合稲荷・組屋敷・避来矢山>

お城巡りのクライマックス「本丸・二の丸・三の丸」を見終わって、時間に余裕があれば、「避来矢山」に行ってみると良いと思う(^^ゞ。

ウチらは、次に清水城跡にも行きたかったので、途中の「組屋敷」跡あたりまでしか行かなかったけど、上まで登れば霊廟に行けるようだ。

グルリと廻って元に戻る最後のエリア
←左図の赤枠部分を拡大↓

いずれにせよ、奥州藤原氏も蒲生氏も、枝分かれが起きて3〜4代の内に、その後の名字の始祖となっている。

そして、『氏郷記』によると、ちょうど蒲生氏を名乗り始めた「惟俊」が、平安時代の終わり頃の人と考えられるそうで、しかも、陸奥から上洛して、近江国蒲生郡を賜り、蒲生太郎を称した……という。

……(^_^;)。。。


(これより下は、こたつ城主の「妄想」モードで進むんで色を変えます←閲覧注意:笑)。

←「和合稲荷神社」。三の丸から避来矢山にいく途中「帯曲輪」という三の丸より低い敷地にある。
↑帯曲輪や四ツ目堀と平行して、今は舗装路が伸びており、鋭角に右折すると、避来矢山に登る石段に出会う

(ちなみに「帯曲輪」は、四ツ目堀を足下に見る縁にあり、敵を防いだ最大の防御地だった)

偏見があるのかもしれないけど、私の思い込む歴史観において、およそ平安期ごろまでの人間にかかる重力は、京都から外に向かう程強くかかるのであって、その逆は引力の法則に逆らうのである。

辺境の田舎からやってきて、京に近い土地を貰うなんて話、あまり聞いた事が無い(^_^;)。。

たった一度だけ、Gが全国から鎌倉だけに一気にかかった事があって、それが頼朝の幕府草創期だった。
その時だけは、西国からも畿内周辺からも、バカスカ鎌倉に走る武士が相次いだ(笑)。

だから鎌倉時代になれば、鎌倉御家人が所領を貰って、西国に行くパターンなら大アリで、さっき言った九州に赴いた秀郷流はこのパターンが当たる。


←わ〜い緑のシャワー\(^O^)/<爽快♪
↑やがて到達するベンチ一つ置かれる空間。ここが「組屋敷跡」だったのかなぁ(^^ゞ?

てな事を考えながら、この数行の履歴を眺め続ける内、これが書かれているという『氏郷記』なる出典の成立期が気になった(^_^;)。。

この名を蒲生氏の系図に探すと、戦国期のあの「蒲生氏郷」しか見付からない(^_^;)。
もしかすると、これは蒲生氏郷が「先祖代々の言い伝え」とか言って書いた(あるいは書かせた)由緒書きなのかなぁ……。。

(さっきの新聞記事↓なんか、100%その解釈で書かれてるもんね(^_^;)
(【坂東武士の系譜(1〜3)】「藤原秀郷 大ムカデ退治で始まる英雄譚」@産経新聞)

蒲生氏郷は小田原征伐の後、いわゆる奥州仕置で会津に領地を得て赴くと、会津じゅうに大勢の木地師を連れ込んだ。だから会津周辺は元は山神信仰だったのが、惟喬親王が祭神にとって代わった(^_^;)。
何か、そういうような雰囲気のある家だよね(笑)。


←さらに山頂の霊廟に向かう石段(時間切れにつき、我々はここまでで退散(^^;)ゞ
↑避来矢山から降りてゆく途中、さっき通った「大炊井」の大きな池が樹々の合間から見えて来る(^^)

(↑我々は上までは行かなかったが、避来矢山の山頂にある霊廟は、唐沢山神社が創建されて功績のあった人々を祀っているそうだ。
「避来矢山」の名は、秀郷の百足退治により、龍神から送られた鎧より発したという)

そもそもなぜ秀郷が、蒲生氏の家系とくっついたのか。

それは、やはり秀郷の姓が「藤原」だからだろう。
それで蒲生氏の子孫が、どの藤原氏なら通りそうかと検討するうち、秀郷流ならば裾野が広そうだった、とかかなぁ……。

ムカデ退治の別バージョンでは、秀郷がムカデ退治を行ったのは、「京から、所領に貰った下野国に向かう途中」とする設定に出会う。

下野国の人でも、京の貴族と主従関係を結んで京にいた、という線もあるが、秀郷の姓が「藤原」だから、京の貴族出身で、下野には「下向した」と思われてた事があったんだろう。


上から見下ろす「大炊井
(拡大)泳ぎ回る鯉が見える

ところが、伝説を家系と整合すべく、よく調べたら、秀郷は奥州の平泉にいた藤原氏に近いことがわかったので、「陸奥から来た」という話になったのかなー(^_^;)。
この設定だと、後に会津に転封された時は、何かと都合も良かっただろう。

ただ、全くの捏造と言い切る気は無くて、先にも言った通り、奥州藤原氏だけが陸奥に行ったわけではなく、佐藤兄弟の佐藤氏のように、陸奥に住んだ秀郷流は他にもいたのだ。

奥州藤原氏に与した秀郷の子孫が、平泉が滅亡したため頼りを無くして放浪したとか、平泉には与せず陸奥を離れたとかで、近江にやってきて、先住の蒲生一族と縁を持った……。
何かそんなストーリーならば思いつかぬでもない。

そう考えると、旅の途中に泊まった家に助けを求められ、悪党退治をしてやって、婿に望まれ、その土地に定着する……とかいう流れならアリだろう(スサノオ神話っぽいけど(^_^;))。


←凄く背の高い樹木の合間に橋が渡り、道は続く
↑さっき通った「神橋」に戻る。横合いから見ると、「帯曲輪」の土塁と、「四ツ目堀」の高低差が瞭然

例えば家康の徳川家が、「新田の末裔なのに松平を称した」いきさつに、「養子入り」が飛び出る屁理屈を思い出す(汗)。

元々、蒲生氏の土地伝承か信仰の筋に、龍神に関する素地があれば、「先祖神の許しを得た結合」という構成も頷ける。


ただ、「秀郷の子孫が婿になった」のではなく、「蒲生氏の末裔の方が、秀郷子孫の養子に入って藤原姓を名乗る」……という展開が苦しい気はする(^_^;)。。

となると、↓こんな順序が思い浮かぶ。

@そもそも土地神か先祖神に龍神伝承(信仰)があった。
A何か必要に迫られて、藤原を名乗るようになった
B藤原の中では、秀郷流だと取り入れやすかった
C下野との整合性から、ムカデ退治の話が出来た
D先祖は、奥州藤原氏のいた陸奥から来た事になった


入口付近、レストハウス(倉屋敷跡)あたりの木戸→
レストハウスの脇からは「大手門跡」や「足尾山神社」に行ける散策路が伸びている

ムカデ退治の話は、大蛇とムカデの対立である事、大蛇の側に助太刀する事、助太刀の方法が弓矢を射る事、ムカデの描写、大蛇の側が勝って、ムカデが倒される事など、ことごとく、「日光山縁起」の筋立てと重なっている(^_^;)。
話に下野国や陸奥国が出て来る点も、蒲生氏と秀郷の接点と符合する。

この事から、藤原秀郷の故郷が下野国なので、同じ下野国の日光の伝説が、混ざって出来た話ではないかと推測されてるようだ。(私も同感(^^ゞ)

思うに、Cあたりで、下野国という意識が出てきて、日光と赤城の「神戦」のモチーフになり、「大蛇×ムカデ」になったんだろう。

まぁ、私の妄想をこれ以上書き散らしても、読む人も大変なんでこの辺にしとくわ(笑)


(一先ず、藤原秀郷がらみの話は終わりですが、他の話が続きます(^_^;)ゞ)



<唐沢山を降り、西に向かう>

↑降りる段に入ってからで恐縮だが、城跡内では秀郷伝承(信仰)に気圧されて進まなかった「佐野氏」の話も、ちょっとしようかと……(^^;)ゞ

走るルートは、行きに来た道をそのまま唐沢山を通り過ぎて、先に向かう道。
行きは西から来て麓の鳥居を見ながら登ったが、これよりは南に向かう山道を通る。

亭主も喜んだ、変化に富む
ピンカーブ連続の山林道(笑)

wikiによると……(佐野秀綱のページ)、

(佐野)基綱国基−実綱−成綱−広綱−貞綱−資綱−師綱−重綱−重長盛綱秀綱−泰綱−豊綱昌綱宗綱氏忠−房綱−信吉−久綱

さっきは、盛綱まで述べた。
史実的に唐沢山城が整備された時で、古河公方の成立した後あたり、と書いた。

その後、戦国時代にスッカリ突入した豊綱の代に、これよりいく興聖寺が創建された。

その次代、昌綱の代が、主に北条氏康上杉謙信の間の長い抗争の時代に当たる。
この唐沢山城をめぐる戦いは、手持ちの資料にも名を顕わす。

唐沢山城は天然の要塞として機能高く、関東のほぼ中心部にある。
さらに上杉も北条も関東公方に掲げんとした古河(謙信は藤氏・藤政を、北条は義氏を)も近いため、両陣営ともに重要な戦略拠点とみなされた。
伝説のみならず、史実においても、関東戦国史で屈指の山城であり、古戦場と言える。、


視界が開けると下界には
市街が伸びやかに広がる

wikiによると、佐野昌綱は、上杉にも北条にも攻められては防戦し、やむなく降伏すると、すぐもう片方に攻められ、また防戦し、降伏に至ると、またもう片方が……というのを繰り返したようだ(^_^;)。。

さらには、上杉も後北条も攻防範囲が大変に幅広いので、どちらの援軍を待とうにも、北陸・甲信越・関東の遠隔地からになって、唐沢山に兵力を割けない事も少なくなかっただろう(^_^;)。。

佐野氏の歴史なのに、どうもこの辺りの戦歴については、上杉謙信の研究(花ヶ前盛明氏とか)沿線でしか見た事ない(^_^;)。。

その延長線上で恐縮だが、『佐野記』というのに、永禄2年(1599)の事が書かれてる。
上杉謙信と結んだ唐沢山城は、北条氏政(当主は氏康の時代だが)の率いる3万5千の大軍に何重にも包囲された。

途中「6月の森」(地図)を通過
道はさらに山中に続く

(↑この「6月の森」は、グーグル地図には「6月の森・オーベルジュ」とあり、マップファンには「ウェディングリゾート・6月の森」とある。どっちが正しいんでしょう(^_^;)。。)

佐野昌綱は、石や丸太を投げ落とし、家臣らとも結束して、北条を寄せ付けず、謙信も上野平井城にあって危機を聞きつけ、8千で駆け付けると城の西方に陣取り、甲冑もつけず、44人のみ従えただけで、包囲の敵陣の真っただ中を駆け入った。

これに対し、昌綱は大手門を開いて一行を招じ入れ、謙信の馬の口にすがって感涙にむせんだ。
これに北条からは誰一人として手向かわなかったので、謙信の名を天下に轟かせ、神話となったという。

1586年、北条方の足利長尾氏と「須花坂の戦い」を行い、佐野宗綱の戦死後は、北条氏忠を養子に迎えて北条に服属。

やがて南麓でも鳥居に出会い
これより清水城跡の方面に向かう

1590年の小田原征伐では、北条側だったので危機を迎えるが、佐野一族で秀吉に仕えた天徳寺宝衍の奔走により、存続を許され、天徳寺宝衍にちなんだ「天徳丸」という曲輪(さっき神橋の近くにあった)の名が残っている。

江戸初期の1600年、山城禁止令により、佐野信吉佐野城(佐野市の現・城山公園)へ居城を移し、唐沢山城廃城となった。
(今年4月に佐野城にも行ったので、そのうちレポしますね(^^ゞ)

(佐野)基綱国基−実綱−成綱−広綱−貞綱−資綱−師綱−重綱−重長盛綱秀綱−泰綱−豊綱昌綱宗綱氏忠−房綱−信吉−久綱

明治16年(1883)、正三位を追贈されるに及び、後裔一族旧臣など、秀郷の遺徳を偲ぶ人々により、本殿・拝殿を創建し、以後、「唐沢山神社」によって全山境内地となった。
明治23年(1890)、別格官幣社に列せられ、大正7年(1919)、贈正二位。
現在の唐沢山城跡は、県立自然公園にも指定されている。


(佐野氏については(藤原秀郷についても、もうちょっと)↓まだ続きます。)



<「興聖寺」(清水城跡)>

これより向かう「興聖寺」(地図)は、元は同じ佐野市の「田之入」にあった寺が、今の場所に移ったもの。
今の場所には、元は「清水城」があった。だから「清水城跡」とも呼ばれている。

この4月(2018年)、佐野に再び行って、今度は佐野城を訪れたら、城内の施設にパネル展示で、佐野氏の城を示す地図があった。
城が34ヶ所もの広い範囲にある中で、唐沢山城清水城は、とても近い距離にある城同志だった。

清水城の築城と廃城の時期は不明だが、唐沢山城より古い事、唐沢山が廃城になった後も使われた事などから、唐沢山城のような戦国期ならではの山城になる前後は、この清水城が、佐野氏本家の「御屋形」だったのではないかと思う。ガイドブックにも「惣領館の可能性が高い」とある。

尚も道は進んで……
興聖寺」(清水城跡)到着

まずは現地の案内板から。
     
  「『栃木県誌』などによれば、安貞2年(1228)、佐野国綱岩崎義基のために築いた」ともいう。  
     

まずこの「国綱」だが(^_^;)……

(佐野)基綱国基−実綱−成綱−広綱−貞綱−資綱−師綱−重綱−重長盛綱秀綱−泰綱−豊綱昌綱宗綱氏忠−房綱−信吉−久綱

↑見当たらないので、ネット検索した所、「基綱の嫡男」とする記述を見つけた。
また、↑の「国基」と同一人物とする情報も見るので、佐野氏本家の当主らしい、という事でいいだろう。(自分で調べたワケじゃなくて恐縮だけど(^^;)ゞ)。
時代も鎌倉初期……と、だいたい実在と符合する。
(【坂東武士の系譜・第2部(14)】「佐野国綱 「承久の乱」活躍、淡路に新領」@産経新聞)>)

次に「岩崎義基」だが……、これは「謎の人物」と言える(^^;)。。
(【坂東武士の系譜・第2部(16)】「岩崎義基 追討逃れ佐野へ?義高伝説」@産経新聞)>)
↑によると、木曽義仲の嫡男で、頼朝と政子の長女・大姫の婚約者の義高が、実は殺されずに生存した名乗りとされるそうだ(^_^;)。
が、さすがに義高生存説は信ぴょう性に欠けるため、「何らか木曽氏の関係人物が、この辺りに居たのでは」と推測されるに留まってるようだ。

山門への道は、外堀を渡る作り(パノラマ4枚180度以上)

ところで、この「岩崎義基」を探したおかげで、意外な本命に出会う事が出来た(^o^)。

基綱の次男、景綱は佐野荘の北部を領した「上佐野氏」の祖で、「鉢木物語」で有名な佐野常世に繋がる、とする記事が上記にあったのだ。(「下佐野」に相当する本家南部を所領した、という事だろう)

「鉢木物語」は、北条時頼(五代執権)の廻国伝説で、時頼とは知らずに旅の接待をした常世が、鎌倉に駆け付ける日のため、貧乏にあえぐ中でも武具を手放さぬ覚悟を話し、時頼のために、丹精した植木すら薪にくべて暖を取らせた。
感じ入った時頼が、常世の言葉通り命を下し、駆け付けた常世に、自分の身分を明かし、接待への礼と忠義に報いるため、失った所領を取り返し、新しい所領も加えて与え直す、という話。

私もこの話が「確か佐野だったよな〜」と思ってたので、wikiの系譜にそれっぽい名が無いのが意外だった所、「岩崎義基」で検索した先で、やっと出あえた(^_^A)<収穫、収穫♪

墓基らしき石塔が門前に
真っすぐ本堂に向かう参道

     
  「(その後)子孫が代々居住したが、永正年間(1504〜21)、義基12代の孫、左馬介重長岩崎城へ移り、大永元年(1521)、佐野秀綱の居城となる」  
     

(佐野)基綱国基−実綱−成綱−広綱−貞綱−資綱−師綱−重綱−重長盛綱秀綱−泰綱−豊綱昌綱宗綱氏忠−房綱−信吉−久綱

φ(゚.゚)ゞ<ジィ〜〜
重長」の方はある。唐沢山城を整備した(事実上、創建した)盛綱の前代に。時代的にもだいたいその頃かもなー、という感じもする。次の「秀綱」しかり。
ただ、その前にある「義基」は、文脈から先ほどの「岩崎義基」と見れば、佐野重長には繋がるまいし、重長の12代前となると、始祖・基綱を超えて遡ってしまう……↓

※藤姓足利氏〜佐野氏@
(足利)成行┬成綱     ┌忠綱
        └家綱−俊綱┴有綱−佐野基綱

※藤姓足利氏〜佐野氏A
(足利)成行┬成綱−家綱┬俊綱−忠綱
        └大胡重俊  ├佐野成俊
                 └有綱−佐野基綱


↑にも無いから、やっぱ「岩崎義基」なんだろう(^_^;)。。<謎すぎる
まぁ何しろ、秀綱から先は佐野氏の居城になったと。

本堂正面
扁額

一方、手持ちのガイドには、「戦国期、佐野豊綱興聖寺殿)の創建。当初は唐沢山城の山麓、田之入(現・佐野市田之入町)にあった」と書かれている。
こちらは「興聖寺殿」と号名にある通り、清水城ではなく、現在のお寺「興聖寺」を建てた当主の事だろう。

この 豊綱ならば……↓

(佐野)基綱国基−実綱−成綱−広綱−貞綱−資綱−師綱−重綱−重長盛綱秀綱−泰綱−豊綱昌綱宗綱氏忠−房綱−信吉−久綱

先ほど唐沢山から下りて来る道中に述べた、昌綱の前代にあたる。
前回レポした、佐野氏の菩提寺「本光寺」は、盛綱が唐沢山の西北山麓に創建したのが、現在は場所が変わっていると書いた。
この「興聖寺」も、同じように佐野氏の当主が開基し、唐沢山麓にあったものを、現在はここ清水城の跡地に移転した、という事になる。

その後、佐野氏は先ほど述べた通り、北条氏忠を養子に迎え、秀吉奉行の富田氏からも信吉を養子に迎えたが、1600年の山城廃止令で、唐沢山城から佐野城に移り、さらに1614年に改易されて廃城となる。(ただし佐野氏は、後に旗本に復帰したようだ)
興聖寺がこの地に移転されて来るのは、寛永12年(1635)の事である。

     
   城跡の規模は、東西116m、南北133mのほぼ方形である。四方に土塁と、その外側に堀の遺構が残る。
 古地図によると、大規模な城の本丸がこの城跡に当たる。この城域は本丸・北二ノ丸・南二ノ丸・三の丸からなり、それぞれ曲輪が水堀で囲まれていた。さらに周辺には侍屋敷があって、有力な家臣が配置されていた。
 古文書『佐野領御館野林清水御城内』で、この城を「清水御城」「清水ノ城」「吉水の城」と記されていることから、名称を「清水城跡」とした。
 『栃木県市町村史(昭和30年刊)』以後の『城郭大系(村田修三編)』『栃木県城館跡(昭和58年刊県文化事業団編)』等では、城名を「興聖寺城」とも紹介している。
平成18年1月 佐野市教育委員会
 
     

佐野を離れて
これより足利方面を目指す

最後になったが、将門を討伐することで、「子孫への永久相伝」を約され、秀郷の得た(安堵というべきか)土地とは、具体的にはどこなのだろう。

秀郷の逸話によく出て来る「俵藤太」は、秀郷の時代にその名を示す史料は無く、後世に現れる別称だろう。
wikiによると、初見は「今昔物語」(鎌倉時代成立)で、「田原」の候補地として、相模・山城・近江などに求める各説があるという。

が、将門との戦いで初登場する秀郷が基盤としているのも、その前歴からも、さらには子孫たちの分布域、それらの在住歴の古さからも、下野国……それも、下総国との国境近くに求めるのが自然であろう。

そこで大抵、「藤原秀郷の居城」として名を顕わすのが、今回レポした「唐沢山城」である。

ただし近年、「唐沢山城の起源は、文献的・遺物的に1400年代後半までしか遡れない」という見解が常識になりつつある。述べて来た通り、唐沢山城は佐野氏の造った城である。

では、藤原秀郷の居城ではなかったのか。秀郷はどこにいたのか……。

実は、この興聖寺(清水城跡)から歩いても程ない距離に、ナント「藤原秀郷の墓」があったのだ(゚.゚)!
後日知ったので、行きそびれたが、唐沢山にさんざん謳われる秀郷伝承だけだと、「結局どこに住んでたのかなぁ(^_^;)」という思いが拭えないので、行ってみたかった。

以上。秀郷の痕跡については、今回はこの辺りまでしか突き止められなかった(^^ゞ



<樺崎寺跡〜佐野やすらぎの湯(^_^A)>

見学予定のコースが終わって、暗くなりきるまでに行ってみたいと思ってた樺崎寺跡を目指した。

この旅行を組んだ時、帰りの風呂を探してたら、足利に行った時に寄った温泉が近いので、「つまり足利が近いんだなー」と思い、二年ぶりに行ってみたくなった(^^ゞ

←この道も懐かしい(^.^)

前に来たのは2年前(2015年)のやはり夏で、レポでは……
2016年1月<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
2016年2月<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>


前に来た時は、樺崎寺跡の盆地全体に涼やかに響き渡るヒグラシ蝉の声に満ちて、それはそれは素晴らしかった思い出がある。

その時の足利旅行を最後に、宿泊旅行は愚か、今回のような日帰りでも遠出の一切を控えていたため、旅行というと、足利旅行の最後に来たこの夕闇の樺崎寺跡が、ふっと記憶に蘇る事がよくあった。
なので、あえて旅の最後……夜になる直前に時間設定(`・ω・)<ジャストイン!

到着↓この丘陵に樺埼八幡宮地図)のお社があり(パノラマ5枚180度以上)

↑の逆↓その前を「樺崎田沼通り」が走る(パノラマ5枚180度以上)

「生きてたねぇ(^_^A)」
「ホントだねぇ(^_^A)」
この2年間、よく生きて来られたものだ、としみじみ思った(笑)。

2年前(現在から振り返れば3年前)には、まだここの庭園は造園中で、「完成予定図」みたいな絵入りの立て看板があったが、現在は完成したのかな……(^^ゞ。
前に見た程、「工事中〜!」という雰囲気ではなく、池なんか随分それっぽくなってるようにも見えたが、「正式オープン!」という感じにも見えなかったなー(^_^;)。。

「自分たちも生きてたなー(^_^A)」なんて、綿花育てて飢えを凌いだ、スカーレット・オハラみたいな感慨があったからかもしれないけど(笑)、こうやって長い時間をかけて復元工事をしてる様子を見ていると、「過去こういう状態になった時って、いつ頃かなー」と思った。

駐車場に隣接する樺崎寺庭園(再現)(パノラマ4枚180度以上)

足利は、足利氏が天下を取って京へ幕府を開いても、鎌倉府があったし、幕府からも管理の手が入るなどして、守られていただろう。
戦国期もバックボーンが北条に、江戸期は徳川に変わっただけで、大きな変わりはなかったんだと思う。

すると、@足利同志で争った享徳の乱、A保護者を失った小田原征伐の後(前号の「長徳寺」でも書いた通り)、B同じく明治維新←やっぱこの辺だろうなーと。(現在はBの続きかも)

で、この後、佐野に戻って温泉に入ったんだけど、佐野と足利って隣なんだなー(^_^;)。
足利に行った時、やはり享徳の乱で佐野の地名が出て来たのを思い出す。

まだ造作中ぎみの池
山影に迫る八幡宮の鳥居と階段

これまで、足利新田が隣り合わせという意識は強くあった。
両方を同時期に行き来したわけではないが、両方とも同じ高速道(北関東道)で来て、足利ICで降りれば足利へ、一つ先の太田桐生ICで降りれば新田に行けるからである(^^ゞ。
(実際に足利に行ったときは、東京で所用してから行ったので、別ルートを取ったが)

ところが、足利や新田に行くにあたっては、東北道から岩舟JCT北関東道に路線変更しなければならない。
その岩舟JCTあたりに、今回行った唐沢山がある。

佐野の日帰り温泉(^_^A)<ユッタリ
亭主の夕飯、佐野ラーメン!

例えば古河あたりだと、ウチから相当な距離はあるんだけど、何のかんの言って同じ下総国だし、行ってみると、関宿の延長線にあるだけだなー、というのがわかって、「凄く遠い」というまでの印象ではなくなった。

それが足利や新田になると、アッサリ「旅行でしょ(^_^;)」と思える理由は、距離もあるけど、やはり唐沢山みたいな山岳地を超えていくから……と言うムードが自分の中にあった。

それがこの時に、「その辺り一帯のかなり広い範囲って、佐野氏が蟠踞してたんだなー」という実感を持つ旅路になったと思う。

もっとも、この旅行でただちに持ったのではなく、この8ヶ月後の今年(2018)4月に、再び行くうち、だんだん持つに至ったんだけど(^^ゞ。

足利・佐野・小山・古河と、それぞれ隣となると、確かに佐野を制する者は何とやらだなぁ……と戦国期の抗争に、今さら納得が及んだ。

そんな感慨が、その次の旅ルートに繋がったんだけど、それはまた後ほど(^^ゞ。

←温泉のお食事処に置いてあった団扇

前回、昼食を食べた定食屋さんで教えて貰った、「葛生・原人まつり」と、「佐野・秀郷まつり」のパンフが手元にあるんだけど、葛生というのは、さっき話した「鉢木物語」の佐野常世がいたと伝承される所みたい(゚.゚)。

美味しいお昼ご飯だったので、今度また是非、伝承地を探しながら、葛生にご飯を食べに行きたい(行き間違えた山道コースのリベンジも兼ねてヽ(`Д´)ノ)

以上で、川口に始まり、栃木南部(栃木・佐野)ツアーのレポを終わる( ^^) _旦~~<お疲れ



■同月・東京都千代田区
<神田明神、ほんの触りだけ(^^ゞ>


真夏の暑さ真っ盛り。今年もお参りにやってまいりました!(^人^)<パンパン!

入口「隨神門」とその両脇の左右大臣

境内に入って「隨神門」を振り返る

↑左から「祭務所」「神楽殿」、中央「隨神門」「御手水」、右に絵馬奉納や御籤を結ぶ場所。

↑の逆↓正面を見ると本殿(拝殿)

↑左から「鳳凰殿」(受付・売店)、中央「本殿(拝殿)」「獅子山」(手前の売店に隠れてるが)、右「明神会館(結婚式場)」

続きは次回(^O^)



以上、関連事項のリンクは又、後日(^^ゞ。
ここんとこ、リンク貼りが大層遅れてたけど、ちょくちょく貼ってはいまして、2017年の8月号、9月号を貼りました☆彡 続きも頑張りますっ。

次回は、この神田明神と同日に行った湯島天神を続け、その後はジワジワと秋の深まりに入ってゆく所存!乞うご期待(^^)

<つづく>

2018年06月26日
 
     





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