<2015年・城主のたわごと4月>




2014年8月〜11月の風景。最後は関東公方の聖地・古河!

日帰り旅行レポ2回シリーズ、第1弾が始まるよっ(^O^)/




     
  今月号は、2014年8月から11月までの日常編に始まる(^^)。

殆どは街や自然の日常風景だが、ちょっと名所巡りも入る。
まずは8月、「村雨丸伝説」の残る、白井市の「西輪寺太子堂」のちょいレポ。

毎度ながら、夏〜秋にかけては、夕焼けといった風景は今年も印象に残った(^^)。
10月は、珍しく早く始まった紅葉、そして朝ドラマッサン」で話題となった、ニッカウヰスキー柏工場の、これもちょいレポ(笑)。

夏から深まる秋にかけての手賀沼、特に夕方から夜中にかけて撮りました(^^ゞ。
この秋(2014年)は、例年に見ずススキがすっごく見事で、ずいぶん長い間目を楽しませて貰った♪

そして11月。いよいよ古河(茨城県・南西部)に向かう(^^)。
今回は古河に到着して、最初に行った古河城跡古河歴史博物館)のレポ、その途中まで。

え〜と、この古河城というのは、古河公方の御所のおかれた所から、ちょっと離れていて、次回は「古河総合公園」にある、この御所跡古河公方館跡)もやる(^O^)/



■8月・千葉県鎌ヶ谷市・白井市
<赤い軍団・チーバ君(笑)>


↓月もトロける熱暑の8月
何気ない日常風景に紛れて、奴らはそこに居た→

それは……(拡大)
チーバ君!

●寇(笑)でも来たのか、彼らは鈴なりに繋がれて連行されている。
……いや、そうじゃないだろ(^_^;)。これは道路工事中に使われる柵(鉄パイプ)を支えるポールのようだ。

この人達(人(^_^;)?)は、このごろアチコチでよく見掛ける。ガチョウだったりヒヨコだったりするんだが、ついにチーバ君が駆り出されたと見える(笑)。

歩道の外側の緑地には→
新米チーバ君が出番を待っている!w

時々通る道で、近くのコンビニに寄って、駐車場からこれを見たんだが、実は当初、黙って通り過ぎようとしたε==(/^o^)/。

そしたら亭主に「写真に撮らないのか9(^Д^)」と咎められ、撮影 σ只|ω・`)<カシャ



<西輪寺・太子堂(村雨丸伝説と聖徳太子像)>


いつも、すぐ近くを通るのに、一本道を脇に入るのを亭主が億劫がって入らないので、この日は強く要請して入って貰った(^。^)v

亭主は、脇と言ってもちょっと時間がかかりそうに思ってたようだが、凄く近かったんで、「あれ?こんな近く(^_^;)?」と拍子抜けしてた(笑)。

でもそんな勘違いしそうな程、辺りは森に囲まれて、奥がどうなってるか見通せない場所(^^ゞ。
そのぶん、緑に覆われて、夏場は涼しそうな感じでもあった。

それがここ、「西輪寺」(地図(パノラマ4枚180度以上)

この寺は、前に一回だけやった事のある「白井七福神めぐり」の「福禄寿」に相当する(^^)。
前に行ったのは、「大黒」の「延命寺」、「恵比寿」の「長楽寺」の二寺のみだが……。

■白井七福神めぐり
2012年8月<白井七福神めぐり@大黒@「延命寺」>
   〃   <白井七福神めぐりA恵比寿@「長楽寺」>


そして、以前から何度かに渡って伝えて来た通り、「村雨丸」の伝説に登場する寺でもある。

■「矢の橋」「手賀女城主」「村雨丸伝説」
2013年11月<藤ヶ谷、伝説の合戦場跡「矢の橋」>←「矢の橋伝説」
   〃   <「イラストで知る白井の伝説」と手賀城伝説>←白井市の伝説
2014年6月<柏市・藤ヶ谷城跡(と高柳城跡)>←「村雨丸伝説


正称「急雨山圓乗院・西輪寺」(天台宗延暦寺派)(パノラマ3枚ほぼ180度)

寺のあるこの場所(地図)は、白井市富塚であるが、 藤ヶ谷城跡の紹介でも述べた通り、この地区は、柏市(沼南)の藤ヶ谷と接しており、この「村雨丸伝説」は(或いは「矢の橋伝説」も)、隣接する藤ヶ谷城跡(地図)など、かつて相馬氏の影響下にあった地域への意識が強く働いて伝わった(作られた)伝説と見られている。

山門を潜って、境内に入ろう(^^)。

小じんまりと落ち着いた佇まい(^^)(パノラマ4枚180度以上)

正面が本堂、向かって右が「太子堂」ではないかと(^^ゞ。
この「太子堂」が、この寺ではほぼメインと言って良いようで、門前の教委(白井市)の説明版には、写真入りで「木造聖徳太子立像」が提示されていた。
「原則非公開」とあるが、表に写真が公開されている所から、恐らく直に拝見する事についてと思われるので、写真は出す(^^ゞ↓

↓「孝養太子像」と呼ばれる16歳の太子像
太子の父・用明天皇の病平癒を願う姿とされ、髪は美豆良(みずら)を結い、両手に柄香炉、衣の上に袈裟、足に沓のスタイル。

無理の無い自然な姿勢、現実感のある顔立ち、無難な衣さばきなど、像の構造・造形から、南北朝時代(14世紀)の制作と考えられている。
こちらは門の傍のお掃除小僧像(^^)→

この聖徳太子立像は、高さ102.5p、桧材による寄木造、目は玉眼を嵌め入れ、全身に色彩を施してあり、白井市の指定有形文化財(彫刻)となっている。

目を引いたのは、この太子像が、太子堂の「本尊」と書いてあった事。
考えて見れば、確かに「太子堂」なのだから、太子本人を祀ってて良さそうな気もする反面、私が無知なのか、現存した日本人が「本尊」とされてる例って、あまり見た事ない気が……(^^ゞ。(神ならともかく)

……と言っても、「太子堂」とされる他の寺の堂で、何が本尊だったか覚えてないが(^_^;)ゞ、もっとフツーに如来とか菩薩、明王なんか(つまり外国から来た仏様)だった気が……?

これが奇異な印象になったのは、太子堂の本尊は書いてあるのに、本堂の、つまり寺そのものの本尊は書かれてなかったからかな〜。。

つまり、「本堂=何々菩薩、太子堂=聖徳太子」と書かれていたら、「うん、そんなもんかも(^^ゞ」と見過ごしてしまった気がするんだわ……。

そして、こちらが「白井七福神」の「福禄寿」サマ(^^)→

この福禄寿像は、境内に入って右奥(太子堂の前)にしつらえてあった。
これの由来は特に無かったけど、七福神めぐりのために建てられたんじゃないかな、と(^^ゞ。

で、「村雨丸」の伝説によれば、この西輪寺が建立されたのが、1593年という事だったが、その時すでに、聖徳太子像は里人たちの手で安置される段取りにあって、太子像自体の謂れには触れられてない
2014年6月<柏市・藤ヶ谷城跡(と高柳城跡)>←「村雨丸伝説

ただ普通、寺の謂れといえば、過去の伝承やらご本尊の由来やらに遡るものだろう(^_^;)。

(拡大)↓幸せになれますように(^∧^)
「本尊」たる聖徳太子立像が、南北朝時代の作なら、寺の来歴も南北朝以降で良かろう(^^ゞ。

そして戦国期以前の相馬・高城・海東といった諸氏を匂わせる「村雨丸」の伝説が江戸期に語られた。
門入って左のお地蔵サマ(^∧^)→

聖徳太子の像が南北朝時代の作品という点は、言うまでもなく貴重であるが、「村雨丸伝説」によって、江戸期、この寺の太子像が篤い信仰を集めていた事を知る手掛かりになった点においても、貴重な太子像と言えよう。



■9月・千葉県柏市
<中秋の名月・彼岸花・ススキ>


ネットで調べた限りながら、2014年の中秋の名月は、09/08だったらしいが、これはその翌日の写真。
たまたま外を歩いてたら、夕月が殆ど満月に近く、その影が妙に綺麗に見えたので撮影。

この時、私の前をいく自転車の人も、車輪を停めてジックリ撮影してて、私はその人がどくのを待って写したんだが(笑)、長々と撮影したくなるのが頷ける程、月が凄く大きく、月光が明るく、月影が極めて鮮やかだった。

黒々とした森に差し掛かる様が幻想的
(拡大)月影さやか

↓下は、月が移動した軌跡ではなく、こちらが動いて見えた月ね(^^ゞ。手前の風景(特に鉄塔)との対比上、明度上げたので、月面の影はだいぶ落ちてしまったけど……。

テッテッテと月が森から現れるかのよう(笑)

以後、森との対比上、ちょっと縮小↓

さらにドンドン森から遠ざかってゆく!

初盤が冷夏なみに涼しかった(寒いぐらいだった)のに対し、8月は暑く(^_^;)、特に後半は湿気でモアーとした。
それでも、例年なら出廻るコバエも少なく、喜んでいたら、暑くない9月や10月になってから増えた(^_^;)。。
暑さを待ち切れず繁殖したって事かな(苦笑)。

←下手賀川の発作橋。いつも白鳥が群れる場所。
今が盛りの彼岸花の朱色が秋空によく映える(^^)

晩夏〜晩秋にかけての手賀沼は、後で一気に並べて見せるとして、まずは初秋の道々の風景をば(^^)。

手賀川の土手下、暮れゆく雄大な空
帰る道々に凛と立つススキ

さっきの富塚(白井)に向かう道
ずーっと西の高柳方面

9月は足早に通り過ぎ、お次は10月に進もう(^^)。



■10月〜11月・千葉県印西市・柏市
<ハロウィン・千葉ニュータウン中央>


今年もハロウィン(^O^)!
……でもこれも近年、そこそこ落ち着いて来たかな。飾る所は飾ってるけど、どこもかしこも……という感じじゃなくなってきた。

振り返ると、2012年頃がピークだったかなー。どこもオレンジ色と黒で、カボチャ・コウモリ・ユウレイ・魔法使いの絵が見られたもんね(^^ゞ
↑亭主の書いた絵。「自分のお手」だそうだ。ハロウィンとは関係ないけど(笑)

秋も中盤。次は、八千代市から印西市の千葉ニュータウン中央に向かう61号線の風景。
この道は近頃ちょくちょく通るけど、レポは初めてかも(^^ゞ。

61号線、八千代方面から進み
橋から色づく秋の田畑が見える(^^)

方角は南から北に向かってて、これより途中、右に「東京基督教大学」の敷地があり、さらに交差点(地図)を過ぎると、「北総花の丘公園」のある一帯を通る。

丘と田畑の秋風景の先に
急に背の高いビル街が出現

さらに街中に進んで行くと、広い住宅街に分け入り、通りには街路樹の紅葉と落葉(^^)↓




<ニッカウヰスキー柏工場>

さてさて、今度は北上して、柏市は増尾城跡に近い「ニッカウヰスキー柏工場」に行ってみよう(^^)。

去年秋(2014年10月〜今年春(2015年3月)にかけて、NHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」で、ニッカウヰスキーがすっかり評判になった(笑)。

それがここ、「ニッカウヰスキー柏工場」(地図)正門前(パノラマ4枚180度以上)

この写真を撮っていたら、門の脇の赤いポストに郵便投函に来られた地元の方が、にこやかにお辞儀をして下さった。
こたつら夫婦が車を寄せ、カメラを持ってソワソワしてるのを見て、「マッサンを見て、見学に来たんだな(^^)」という感じの笑顔だった(笑)。来る人が多い(か、多くなった?)のかもね(^^ゞ。

赤いポストの上には、前も一度、増尾城に近い廣幡八幡のレポ(2008年8月<「廣幡八幡宮宗社」と「宮根遺跡」>でもご紹介した、地元の小学校(柏市立土小学校)の子供たちによる「土小たんけんたい(探検隊)」の説明標識が頭を出していた(^^)。
それによると、

Bニッカウイスキー
 しつのよい水と、きれいな空気のあるこの土地に、昭和42年にたてられました。やく160人の人がはたらいています。そうこには、作った日付けが書いてあるウイスキーのたくさんのたるがあります。ここで作られたウィスキーは、全国に送られていきます。
 4月29日は、お客様感しゃデーで、大へんにぎやかです。
平成13年 土小たんけんたい

門内ちょっとだけ覘く(=^m^=)
↑(拡大)「柏工場」。ウィスキーを寝かせる樽が門札に

この「」の話もドラマにはよく出て来たね(^^)。熟成の期間のみならず、樽を置いた場所によって味が全く変わるので、樽の位置を始終チェックし、置き場所を移動したり、開いてシリンダーで液を取り出し、ブレンド実験を繰り返すんだね。

ドラマ関連のドキュメンタリー番組もウィスキー作りの説明をよくやっていた。
置き場所だけでなく、樽の材質の違いもウィスキーの豊富な個性を編み出すそうで、この「樽」の存在がウィスキーの命なんだねぇ(^^ゞ。
だから、これに「」と書いて貰えるのは、とても栄誉な事だよネ♪

この正門前は、前に廣幡八幡でレポした時にも触れた通り、箱根のような森林道が伸びている。

門の右(向かって左)方向に進み……
工場の敷地に沿って右折

道路を見てもわかる通り、ここは追い越し禁止区域なので、いつもここを通る時は、後方車がスピードあげて追い迫る事が多く、それらに乗って早く通り過ぎるので、立ち寄った事が殆ど無かった(^_^;)。

しかし実は、我が家では、このドラマをやるだいぶ前から、亭主が「ニッカの創業者の話なんだって」「朝ドラ初の外国人ヒロインを起用するらしいよ」と言っていた。

というのも、この増尾のニッカ工場というのは、周辺住民にとって小さからぬ存在感を放っている。

この通り、工場のある辺りだけ周囲が深い森で囲まれ、箱根みたいな山奥&北欧風の雰囲気がある。
近くを通るたびに、「小旅行だね(^^)」と言うぐらいだ(笑)。

ドラマでも見た赤い壁の工場(^^)
端まで行くと裏門と森に到達する

ドラマでも、北海道の創業・余市工場の洒落た建物類が、何度も登場したよね。当時としては珍しい西洋風の奇抜な色とデザインをしていたよね。
思えば、そもそもこの柏工場も、ああいう雰囲気に近い感じがある。

ドラマ内では、あまり説明されてなかったが、余市の建物類は、どうもヒロイン=亀山エリーの史実上のモデル、竹鶴リタの生家に似せた部分もあったようだ。

ウィスキーの特集をした番組で、余市に工場と家を作った時、竹鶴政孝(マッサンの史実上のモデル)は妻リタの生家と同じ建築デザインを持ち込んだと伝えていた。
入口付近などを、リタの生家の写真と比較されてて、それ見て確かによく似ているな〜と思った。

やや坂を下った所にある裏門
さらに先には、また森林が始まる

ネットで調べた所、リタが夫・政孝を置いて亡くなったのは、1961年との事。
この柏工場は、その6年後の1967年に出来た、と「土小たんけん隊」との案内だったから、マッサンは独りになっちゃってからも、妻の故郷スコットランド風の工場を、一つでも多く日本に置き残そうとしてくれたんだね(;_;)。。<アリガト、マッサン

それにすぐ近くに増尾城跡(城址公園)もあり、廣幡八幡社には、縄文と弥生両方の古代遺跡もあって、この地域に飲み水の恵みが豊かだったのは確かだろう。

それがウィスキーを作れるほど良質な水だったとは知らなかった(^^ゞ。
都内が近く、大量の消費が充てこまれて、在庫保存のためにあるのだと思っていた。
ニッカのHP等によると、この工場は「ウィスキー・焼酎・缶チューハイ・カクテルなどの総合パッケージ工場」と書かれていた。
施設のご案内→柏工場@ニッカウヰスキー

ズラーッと、これは缶チューハイかな(^^)
赤い壁の工場が沼地近くまで続く

「マッサン」人気で、ニッカウィスキー全体が売れ行きが伸びる中、ウィスキー商品の中でも、特にドラマに絡んだ「竹鶴」や「余市」が、国内どこでも品薄になってしまった事が話題になった。
当時、ツイッターのまとめサイトにも、「どこ行っても無い!」といった悲鳴に近い声が続々上がっていた(^_^;)。

そんな時でも、千葉県北西部のコンビニでは、何とか1〜2本置いてたし、特にこの増尾工場近くのコンビニになると、常時かなり豊富な数が置かれていたと思う(^^ゞ。
ここで作ったからなのか、「ここにだけは廻して(^∧^)」という方針だったからかはわからないが(笑)。

でもドラマで、北海道の余市がウィスキー作りに適した土地だった事から、ウィスキー製造が余市の拠り所になったという話を見ると、この柏工場の雰囲気も、今にして何となく頷ける。

単に東京近くにテキトーに拠点を確保したのではなく、やはりアノ職人気質の竹鶴(笑)が、周囲の森や水を丹念に見て、美味しい酒作りに相応しいとか、こだわって選んだのかも(^^ゞ。

あと、ドラマでも強調されていたが、霧はかなり多く出る(^^ゞ。

大阪時代、山崎が選ばれた理由も、宇治川、木津川、桂川の合流によって、霧が多く出る事が上げられていた。

ここ、増尾も、北には手賀沼、東に印旛沼、西は東京との境に多くの川筋があって、沼地が多い。
前々回もレポした通り、江戸期は馬が放し飼いにされ、その水飲み場にも適していた。

←野馬除土手に登る月(地図

日本では酒と言えば米だから、あまり思いつかなかったが、ドラマで「ウィスキーに適した土地」の話を聞いて、「あれ、うちのほう当てはまるんじゃ(゚.゚)」なんてちょっと思った(笑)。



<11月の手賀沼、ススキ撮影>

さて、先にも述べた通り、古河に行く前に、手賀沼の秋風景をお届けしよう(^^)。
夕方や夜に行った事が多かったようで、そういう時間の幻想的な雰囲気の写真が多い。

初めに、曙橋(地図)近くのパノラマ写真から。

9月後半・夕暮れ近く(パノラマ縦5枚180度)

↑最初の1枚だけ9月だが、以後は全部11月(^^ゞ。
古河に行ったのが11月23日だから、それまでの風景。

次は11月初頭・夕暮れチョイ過ぎ頃(パノラマ縦5枚180度)

日没部分を拡大
さらに拡大

最後は、さらに1週間後、だいぶ夜更け(パノラマ5枚180度以上)

前はこの辺り、しょっちゅう夜霧に包まれていたのよ(^^ゞ

手賀川下手賀川の分流(地図
手賀川の土手から北岸を見る

対岸の灯りが遠くに映える(^^)
これは又、その翌日の夕暮れ過ぎ

最後の右の写真は、いつもの曙橋(地図)付近だが、いつもは湖側ばかり出して、内陸側の夕暮れ写真をあまり出してないので(^^ゞ。
だいぶ暗いが、ホンノリと黄色いのが見てとれるかと(^^)。

この2年ばかりは、秋旅行は控えているが、3年前までは、この季節必ず東北や北関東方面に行って、秋の色づく田んぼを写したもんだ(^^ゞ。

で、今度は前を向いて、湖面をもう一度出すが、今度は橋付近を少し離れ、水際に沿って湖の先(西)に進んでみる。

暗いけど、実はススキが湖にせり出して沢山立っている

今年の秋は、このススキがずいぶん立派で、しかも長期間たもっていた。
だから何度も「ススキを写す\(>o<)/!」と主張して、車からデジカメを向けたりしたのだが、ススキが生えてる場所って、車道よりちょっと奥まった空き地なんかに多いんで、今イチ近付けない(^_^;)。

車道ぎわに並んでるススキだと、今度は近すぎて、車のスピードでブレてしまう。
あの仄かに明るい色と細かい穂先が、強いブレを生みやすい(^_^;)。。

だから、こうして外を足で歩く時にしかジックリ写せないんだが、秋って日暮れが早いし、年末に向けてだんだん忙しくなる頃だから、空き時間が夕方や夜しか無くて、暗い時間の撮影になってしまうんだなぁ。

湖面に映る夕焼け色を残しつつ、手前のススキを浮き出させると、こんな感じ

これは日暮れ前
(拡大)わりとよく撮れてた(^^)v

手賀沼を離れて、その周囲の道々に見たススキが素晴らしかったんだが、車内から写せる間合いとなると、どうも被写体が限られて……↓



こういう日光そのものが入っちゃう写真はアレだけど(^_^;)、以下は明暗を調節して↓


……大差ないか(-_-;)。。

まぁ、でも、この11月は、ススキを取ろうと四苦八苦した結果、妙なアングル妙なモードの写真が撮れた。

こんな写真とかね(笑)
何かヒッチコック映画みたい(^_^;)

それにしても月灯りの荘厳な事(^^)

秋、旅行に行く前後、よく月の写真をレポに出す傾向があると我ながら気づいたが(^^ゞ、特に「秋だから名月」という意識は無く、外で「綺麗(^^)」と思って写すのが、後で振り返れば、そういや秋(^^ゞ……という事が多いだけ(笑)。
それだけ、「秋には名月が多い」と言えるんだろうね(^^)。

さて、最後のコレは何かと言うと、手賀沼で見掛けた旗→
「TEGAスタンプラリー」とある。そういう催しがあったんだろう(^^ゞ。

実は私もキャラ名に詳しく無くて、ネット検索で調べたんで、正確かは自信無いけど、あと、夜に撮ったんで色具合も良くないが、下に並べます。宜しゅうに(^^)↓

「印西」と「柏」は市名ね(^^ゞ。三つ目は我孫子市に「布佐」という地名がある(駅もある)ので、我孫子市の代表なんだろう。
この三つの市が、上下二つの「手賀沼」および手賀川を囲んでいるので、4キャラクターが選ばれているんじゃないかと思う(^^ゞ

うなきちさん(手賀沼)、いんザイ君(印西市)、ふさだだしお(我孫子市)
カシワニ(柏市)
ではないかと(^^ゞ

(注:ウナギはともかく、手賀沼にワニサイがいるわけではありましぇん藁)

以上、関連事項は、(06/12追加)
■ハロウィン&紅葉
2005年11月<駒沢公園(東京)>
2008年4月<松戸市・「常盤平」駅前「けやき通り」>
2010年7月<街路樹の紅葉(#^.^#)>
2011年9月<柏市〜白井市、秋の夕暮れ>以降
2012年7月<ハロウィンの頃まで>内
2013年1月<今年の秋もハロウィン(^O^)!>
2013年8月<晩秋の紅葉(銀杏)・白鳥・夜霧>
2014年4月<秋は深まり……>
2014年4月A<秋深し(^o^)>
■増尾、ニッカ通り周辺
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>
2008年8月<「廣幡八幡宮宗社」と「宮根遺跡」>
2012年10月<無難に近場で(笑)、まずは藤心>内
2015年1月<GW直前、増尾城・妙見堂跡>内
■「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」(←専用ページ作りました)




■11月・茨城県古河市
<関宿を経由して古河へ入る>


↑始まり、始まり(^^)。日帰りだったんで、次号で終わります。

古河は1455年、古河公方の初代・足利成氏が拠点を定めて以来、秀吉の小田原征伐まで約135年間、六代(政氏・高基・晴氏・義氏・氏姫)に渡って、関東公方本拠地となった場所である。「千葉県の動乱」vol2

古河に行くのに、どの道を通るか地図を見たら、関宿を経由して行くのが良いと知った。
途中までは16号線を北上し、中里(千葉県野田市・地図)辺りで右折、北上し関宿の端までいく。

緑多く情緒ある古風な風景♪
途中に鎮守の杜なども見え(^^)

関宿は千葉県の北西端、古河は茨城県の南西端にあって、互いに近い。

古河公方の時代、古河は、栗橋(野田氏)・関宿水海(梁田氏)といった、関東足利氏の御料所に配置された諸城によって守られていた。

さらに、下総(埼玉)の幸手(一色氏)・武蔵(埼玉)の騎西(佐々木氏)・種垂(小田氏)・菖蒲(金田氏)・羽生(木戸氏・広田氏)などの諸城に、それぞれ関東公方の奉行衆が配置され、互いに連携しあって強い防備を固めていた。

その背後には第二陣として、下総の結城(結城氏)・山川(山川氏)・下野の祇園(小山氏)・皆川(皆川氏)といった、北関東有力豪族の城々が布陣していた。


古風な町並みを抜けて
時折、拓けた平原に出る

16号線を抜けて関宿に向かうルートは、17号線と思って地図を見たら、17号線は江戸川に近付きはするが、グーグルで風景を確認すると、江戸川沿いは土手の脇下を通るようで、この河川敷っぽい平原を見付けられなかった(^_^;)。違う道を通ったのかなぁ(笑)。

何しろ関宿までギリギリいっぱい近付くが、関宿城(博物館・地図)まで到達する前に右折し、境大橋地図)で利根川を渡って、354号線に合流し、北西方向、古河(とりあえず「公方通り」→地図に向かってひたすら走る。

途中に見えたお寺(^^)
橋から見える関宿城博物館

古河公方の居城については、1985年の発掘調査報告というのがあるようだが、2012年出版の本に、「調査を待たないとわからない」ともあるので、調査内容が不完全なのかもしれない。

しかし、もし古河公方の居城の規模が大きくなかったとしても、上にも見た通り、古河という地域を守備する体制は重厚で、関東公方が鎌倉から移って来た当初、こうした十重二十重の防備は、潜在的にせよ、その役割を果たしたと思われる。

何に対しての防備かと言うと、関東管領・上杉氏との抗争に対して、である。

経過として直接的な原因は、幕府の命を受けた今川範忠が、各地を転戦する成氏の不在時、鎌倉に押し入り、全て焼き払ったからだが、それ以後も成氏を寄せつけさせなかったのは、上杉主従(上杉家宰の長尾氏・太田氏)の敵対行動が故であったからだ。


利根川から見える関宿城
(拡大)

この関宿城は現在は博物館になっており、建物は、1671年に江戸城富士見櫓を模して建てられた城を、1995年に再建したものだが、江戸期に河川の付け替え工事があったため、古河公方の時代に梁田氏がいた頃とは、位置が少しズレている。(詳しくはこちらを→2005年12月<関宿城>内

元の関宿城は、古河公方初代・成氏が古河に移座した二年後の1457年ごろ、梁田氏が築城したと見られている。
成氏の起こした享徳の大乱につれて、房総でも、千葉氏の宗家と支族(馬加氏)の間に「市川合戦」が起こり、関連して生じた房総の動乱(具体的には、前回も特集した、あの「境根原の戦い」や、臼井城における戦いなど)に際し、必要が生じて作られたと見られている。(「千葉県の動乱」vol2<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>

関宿には城跡の他に、古河公方の四代・晴氏の墓もある(2006年1月<宗英寺>内
晴氏は、正室に迎えた北条氏綱の娘(芳春院)の生んだ、五代・義氏の関東公方就任を否定し、この関宿城の城主・梁田氏から迎えた側室が生んだ、藤氏・藤政らの家督を主張して、上杉謙信と組み、北条氏と真っ向から敵対した。(「千葉県の動乱」vol2<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>

それは梁田氏が、初代・成氏や、その二人の兄・春王丸・安王丸の母を出し、二代・政氏の母(成氏正室)、三代・高基の母(政氏正室)を出すなど、古河公方家の外戚勢力であった点が大きい。

後北条氏氏康・氏政)×上杉謙信の戦いは、基を辿れば、古河公方家外戚同志の戦いなのである。

天然温泉「御老公の湯」(笑)→
何となく写してしまった(笑)。橋を渡り終わる頃、右手に見える。

調べてみたら、やっぱ水戸黄門の事らしく、水戸に本店があるようで、食事処のメニューに、「光圀」「八兵衛」「お銀」「助さん」「格さん」「弥七」「葵」の字が!(→「御老公の湯(境店)」
ホテル付ってトコがいいなぁ(^^)

「外戚同志の争い」と言うと、閨閥とその背後権力のような物を感じがちだが、簗田氏に関しては、鎌倉幕府における前北条氏や、京の足利将軍家に対する日野氏のような印象が無い。

北条政子日野富子といった、夫たる将軍顔負けの「御台所」の面影など、簗田氏の女性達(春王丸・安王丸・成氏の母、政氏の母、高基の母、藤氏・藤政の母達)に求める事など全く出来ない(^_^;)。
その実家筋たる簗田氏にも、一氏族による特別な権限など発した形跡を見ない(^_^;)。

日野氏は貴族の出であるから違って当然として、前北条氏なんてのは、それほど大した家柄でも無ければ、土地に有力だったという形跡もなかった。
しかしだからこそ、執権の座にのしあがり、鎌倉政府でナンバーワンの位置を獲得したとも言える。

この「執権」の立場を、室町時代の関東府に探すと、匹敵するのは関東管領、すなわち多くの場合、山内上杉家だろう。
だから外戚とは言え、簗田氏に前北条氏ほどの存在感が無いのは当然なのだ。


橋を渡り切って左折、354号線に入ると、今度は左窓がわ、川向こうに関宿城が見える↓

豊かな水を称える利根川と
(拡大)関宿城

簗田氏は足利氏の根本家来と見られている。
京の足利氏が将軍になる前から、足利氏の家臣(郎党)だった氏族と言う事だね。
有名な人物だと、たとえば高師直なんかそうみたいよ(^。^)。

佐竹氏ツアーの時も言ったけど、師直の高氏は、北関東ではメッチャ評判悪い(≧▽≦)!
大名(守護クラス)に命令するのに、足利家の一家来が、あれせい、これせい、と高飛車に言うのが、関東武士には違和感があったんだろう(^_^;)。

前北条も末期はさらなる御内人(北条氏の家来)に仕切られていた。
(大抵、根本家臣だとか御内人というのは、「御家人ではない」という意味合いで使われる)

これに反発して、足利尊氏新田義貞が北条政権を滅亡させるのに、多くの武士が同調した点を見ても、前北条氏から武士の心が離れていた様子が窺える。
(2014年10月<笠間から、再び常陸太田へ>内および<佐竹氏歴代の墓所「正宗寺」>

だから、後北条氏との戦いのたびに矢面に立たされながらも、簗田氏は古河公方の黒子に徹したのかもしれない。

しかし逆の見方をすれば、さほどに影の存在である簗田氏が、数度にわたって正室(生母)を送りだした理由は何だろう?


354号線をズンズン進み、さっき示した「公方通り」との交差点(地図)まで来たら、初めの行き先は右折なんだが、先にちょっと左折してみる。

←「古河総合公園」の入口(地図
後で来る(次回になる)が、ここは古河公方の御所が置かれた跡地で、今は広い公園になっている。

私の考えを言えば、古河公方が成立して以降になるけど、簗田氏の関宿城は、公方の「里帰り先」みたいな感じがする(^_^;)ゞ。

三代・高基は、父・政氏のいる古河を飛びだし、関宿に籠ってしまった事がある(^_^;)。
四代・晴氏になると、後北条氏綱の娘を娶って後継(義氏)を得る一方で、側室・簗田氏に儲けた男子(藤氏・藤政)に家督を移し変えようとして、北条氏と敵対する。

こうした心理から想像すると、近臣とか乳母・給仕係といった、「公方の身の回りに近しい存在」みたいな面が感じられる。私の勝手な想像だけどね(^^ゞ。
この時期の関東管領、上杉謙信の書状からも、簗田氏の存在感はそれなり濃く感じられる。

古河公方と簗田氏のこうした輪郭は、幼少期より動乱に巻き込まれ、公方就任以降すら定住地に事欠いた初代・成氏が、その母を簗田氏に持つ所から何もかも発するように思われるのだが、簗田氏については、その前歴らしきが無いわけでもないようだ。
(この後に続けよう↓)



<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>

今度は「古河歴史博物館」到着
(拡大)駐車場の案内地図↓

左下の駐車場に今いる。博物館に向かう途中、「長谷観音」↑があるが、博物館見終わってから参拝しまーす。

←これが上の地図で博物館に向かう道路ね。右手に長谷観音のお堂が見える(^^)。

この道の右に、一区画だけ右に突き出た「諏訪廓」という古河城出城があり、今は博物館が建っている。(右に奥まってココからは見えないが)

一方、この道路の左側に、本体の古河城が、ズラーと縦長に幾つもの廓を連ねて在ったようだ。かなりの敷地だ。


↑もうちょっと行った先にある史跡地図。例によって、字は私が書き入れました(^^ゞ。
古河は史跡が多いので、古河公方と古河城(の各部署)に関連する史跡だけを書いた。
実際には、これより東西南北の、もっと広範囲に古河公方関連の史跡(寺や城跡)などが多い。

で、今、「長谷観音」を通って、「古河歴史博物館古河城跡)」(地図)に向かっている。博物館の位置は、古河城の中では、「諏訪曲輪」と呼ばれる出城で、その左側(西)に本体の古河城がかつてはあった。

本体は、この地図の上から下まで入れても足りないぐらい縦に長く、「古河城下模型」@「古河市(公式サイト)」によると、北から南に、「観音寺曲輪」「桜町曲輪(丸の内)」「三の丸」「二の丸・本丸」「頼政曲輪」「立崎曲輪」の順に並び、「諏訪曲輪」一つが東に突き出ていた。
(※赤い字の曲輪は、江戸時代に追加して作られたようだ)

ちなみに、古河城は廃城とはならず、江戸時代も引き継がれて使われた。
小笠原秀政松平康長永井直勝も増築したようだが、最終的に長かったのは、1633年に入った、土井利勝土井氏である。

「長谷観音」を過ぎると、ほどなく……↓

「右に曲って下さい」の標識が示され
曲ると、こんな石畳の路地がある

路地の先、左に既に「博物館」の建物の一部が突き出ているのが見える(^^ゞ↑

さて、話は簗田氏に戻るが、成氏の登場前だと、史実的に確実なのは、上杉禅秀の乱(1417年)の頃からっぽい(^_^;)。
幕府+上杉+京都扶持衆と、持氏派の対立の中で、持氏派に連なって出て来るようだ。

それより前になると、かなり大雑把ながら、およそ1300年代〜1400年代ごろに、下野国から来たのではないかという感じ。
それは、下野国に簗田御厨があり、これを「名字の地」にしてると考えられるからだろう。
この事は、簗田氏の話というよりは、関東足利氏、つまり古河公方の歴史を語る上で重要に思える。

簗田氏の自称する所では(つまり「信ぴょう性に疑問」という含みだが(^_^;))、前九年の役(1051〜1062年)の折、八幡太郎義家の元に参集し、安倍貞任などの追討に活躍したのをキッカケに、義家の子孫への奉公が始まったという。

だいたい、このエピが出て来ると、学者サン達の態度は「これだからなー(≧▽≦)」みたいな感じだよね(笑)。
簗田氏は、常陸平氏の祖・平繁盛の子・維茂余吾将軍)の子孫を称しているから、源氏との出会いを語る必要が生じて、そういうエピになるんだろう(^_^;)。。

路地を進んできた。←左に博物館(パノラマ4枚180度以上)

ただ、とんでもないコジツケの多い他氏に比べれば、著しく遠いとも言えず、「義家の子孫」というのも、義家の子・義国、そしてその子の足利義康の系統になろう。(2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内・2014年8月<「花園神社」B本殿>内

八幡太郎義家┬義親…頼朝
         └義国┬義重(新田)…義貞┌義詮(室町幕府将軍)
              └義康(足利)…尊氏┴基氏(鎌倉)−氏満−満兼−持氏−(古河)成氏

足利義康は、1142年に安楽寿院への寄進を根拠に立荘。足利荘の成立を見るが、次いで荘園化に乗り出した簗田御厨に関しては、藤姓足利氏との競争に敗れてしまう(;_;)。。

ゆえに平家が滅亡し、平家と関係の深かった藤姓足利氏が衰亡してから、簗田御厨が足利氏の確定となった(^^)v
足利氏との主従関係に主眼をおくなら、簗田氏の名字の地となったのも、それより後(つまり平安末〜鎌倉時代)ということになる。

古河歴史博物館古河城跡)」(地図)と噴水庭園(^^)(パノラマ4枚180度以上)

この簗田氏が、下野国から、古河城のある下河辺荘にやって来た事情に、小山氏の乱(1380〜97年)との関連を指摘する見解がある。

鎌倉公方二代・氏満は、小山氏のライバル・宇都宮氏の肩を持って、小山氏の討伐に踏み切ったのだが、実は鎌倉府としても、小山氏の存在(特に南に増長する姿勢)が邪魔だった。
(2012年6月<宇都宮城址公園>内

関東足利氏は、鎌倉幕府の無き後、武士の統合システム維持のため、鎌倉に御座所を置き続けたものの、足利氏にとっては、下野国の足利根拠地(発祥地)である。
まずは、足利と鎌倉(相模)との間を遮断されたくない。

さらに、渡良瀬川・利根川の水利は、掌握できれば利益となりえたが、これが逆に小山氏の自由になるのでは、大いなる脅威である。

この時期、小山氏は南下拡大、鎌倉府は勢力の北上路線にあって、ちょうど両勢力のぶつかりあう所が、下河辺荘……みたいな所もあったんだろう。


紅葉に向かって噴き出す水しぶきには
(拡大)七色の虹が(^O^)!

……「下河辺荘」という地名、至る所で目にするのだが、そういやどれぐらいの領域を指すのかと、wikiで確認してみたら……

>茨城県古河市・五霞町、千葉県野田市、埼玉県加須市・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・越谷市・松伏町・吉川市・三郷市の各市町にまたがる地域下河辺荘@wiki

……とか出て来るんだけど、ず、ずいぶん広いじゃないですかっ(・・;)。。

私の知る限り、鎌倉府としては、「(特に)古河関宿あたりに御料所を確保したい」という強い意向を持っていた。

そのように認識して改めて地図を見ると、なるほど、古河のすぐ北隣に小山氏の本拠地が接している。(地図

下野国から南下して、成氏の頃には関宿あたりに領域した簗田氏の動きも、足利氏の根本家臣としての活動として見ると、納得がいく。

博物館と道を挟んで向かいは「鷹見泉石記念館」(パノラマ2枚)

さらに関宿の東の水流は、太古から自然に出来た地形に対し、不自然(人工的)な流れが指摘され、その時期が戦国期と推測される事から、簗田氏が利根川東遷を行なったと見られている。
これは堤防を築いて水流を付け替える河川工事によるもので、高い技術力を要する。

利根川東遷の話は、自分的にはちょっと驚きで(*o*)、この地域の水流付け替えの歴史は、江戸幕府が出来る前から、何らか行なわれていた可能性を強く疑ってはいたが、文献で確認できないと諦めていたし、そうなると、江戸時代の工事記録にかき消されてしまうものとばかり思っていたので、ちょっと嬉しくもあった(#^.^#)。

なぜ簗田氏に、それほど高い技術力があったのかは不明だが、こうした簗田氏なので、関東公方家とのたび重なる婚姻も、「それだけ密接な結び付きを必要としたから」という見方も出来る、って事かな(^^ゞ?

最終的には、享徳の大乱(1455〜)に始まる、成氏古河移転にともない、同じく、根本家臣である野田氏栗橋・古河に就き、簗田氏は水海・関宿という配置に落ち着くわけだ(^_^A)


博物館は2階が入口になってて、一階は駐車場のようなエントランスホールのような空間、正面奥に…
古河城出城諏訪曲輪跡」の石碑→
ポツンとコレが建ってるのみだった。

ところで、京の室町幕府(&将軍)が、関東(鎌倉)公方に対し、表立ってキッパリと対決姿勢に終始したのは、関東(鎌倉)公方・四代・持氏が死に至った、永享の乱(1438〜)以降で、上杉禅秀の乱(1417〜)における持氏や、小山氏の乱(1380〜)における、二代・氏満に対して、一応は味方の立場を取るので、だんだんこじれていったかのような印象にはなる。

しかし内実を見ると、既に小山氏の乱においても、下野国をめぐる小山氏宇都宮氏の対立(発端は領民同志の境目相論)の背後に、京の将軍・義満と鎌倉の氏満の対立は、調整の余地なく露呈した。
つまり、京の義満がお気に入りだった小山義政を、氏満は急展開に攻め立て、執拗に追及し、一方的に滅ぼしてしまうのだ(^_^;)。

関東管領・上杉氏の忠告を無視しまくる様子などは、永享・享徳の乱の事前練習でもしているのか、と言いたくなる程だ(笑)。

では、博物館に入ろう(^^)。
この博物館、どこか他と違って、シックな雰囲気なので、あちこち写真に撮ってしまった。
↑例えば、この手すり。派手さは無いが個性的で何となくエレガンス。
階段部もどこか西洋風のような、やはり城郭っぽいような→

成氏の代に至って、ここ古河を本当に関東府にしたのだから、小山氏を潰すだけの事はあった……と一応は言えるのかもしれない(^_^A)。。

しかし足利の郷は、京将軍にとっても先祖の地にかわりなかろう。
それがゆえなら、両者が一致して、下河辺を足利氏の直轄地とするなり、小山氏から守るなり、撤退命令を下すなりするのが道理だろう。

そもそも、京にいった本家の意向を受け、関東公方に伝える。そのための関東管領ではないのか。一体、上杉氏は何のために、関東に配置されているのだろうか……?

……ところが、それが全然そうじゃないんだよなー(笑)。


入口は二階(撮影は室内休憩所から)
左が扉(^^)、向こう正面は箱庭

折しも11月下旬、紅葉も極まった頃で、屋根に降り積もる落ち葉が半ば紅く、半ば枯葉色で風情があった(#^.^#)。

京の幕府と関東管領が、関東公方(鎌倉・古河)を上下から挟みこんで圧迫し、関東公方がそれに逆らう図というのは、実は室町幕府の創成時からあった。

南北合一によって、南北朝時代は歴史的に解消を見たが、やや後に起きた観応の擾乱は、ここが終わりという時を迎えてない。

尊氏の弟・直義の死(尊氏派による暗殺といわれる)によって終わったのは、二人の兄弟争いに過ぎない。
それは、後を引き継いだ基氏(直義養子・尊氏実子)の系譜(つまり関東公方)による再戦の始まりでもあった。


博物館に入るドア(^^)
奥の水辺庭園も、紅葉が綺麗(^O^)→

直義は生前、高師直(の親戚・師冬が関東管領だった時もある)や、義詮(尊氏嫡男・後の2代将軍)など「尊氏派」を鎌倉から追放ヽ(`Д´)ノ。養子に迎えた基氏を後釜に据えた(^_^A)。
直義が死ぬと、巻き返しに来た尊氏直義色を一掃ヽ(`Д´)ノ。尊氏派を次々と補任(^_^A)。

基氏は自分の子でもあるから、尊氏もこれに鎌倉における大きな権限を与えはしたが、関東管領補任権は、京の将軍に帰した(鎌倉公方の推挙を前提とはしたが)。
そして京の幕府との連絡、および交渉の権限を、関東管領一任的に保持させた。
(↑強いて言うなら、これが後の禍根となった、とは言えよう)

だから当初は関東管領も、「鎌倉府の補佐」と銘打ちつつ、実際には尊氏が送りこんでいた。


ところが高師冬とか畠山国清とかは、関東では反発を食らって上手くいかない(^_^;)。
そこで基氏(鎌倉府・初代)は、直義派上杉憲顕を呼んで任じた。



こうして関東管領職も、上杉の世襲になっていってしまう(笑)。

でも結局、これだと尊氏の敗北に終わった事にはなる(^_^;)。
そして京の足利氏は、関東へのコントロール機能を取り戻せないまま、ズルズル時間が経ってしまう( ̄▽ ̄;)。

関東で上杉なら上手く行った理由は、さっきも云った通り、上杉は家臣ではなく、外戚(尊氏・直義の母が上杉氏)だからだろう。つまり公方の血筋に入り込んでいる家だから。
関東人にとっては、尊氏派とか直義派というのは、そこに属した人はともかく、そう重要だったとも思えない(^_^;)。

けれど単なる兄弟喧嘩に過ぎず、むしろ廻りが迷惑なだけなら、直義の死をもって混乱が終息して良さそうなものだ。
なのに実質は、断絶が深まる一方だったのは、兄弟喧嘩は表層的な対立に過ぎなかったからとも言える。

いよいよ中に入りまーす(^O^)/(パノラマ2枚)

室町時代に深く入れば入るほど、東西「違う国」と認識されてる事実を感じざるを得ない(^_^;)。
関東に限らず、そもそも京がそんな認識で、4代将軍・義持などは、九州への軍事については独断即決で決められるが、関東については干渉を躊躇する傾向が多い。


もっと言うと、「鎌倉時代が終わった」とか「鎌倉幕府が無くなった」という認識自体が無い(爆)。

この事は、(2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内2にも書いた通り、↓


「鎌倉攻撃に参加した多くの武士は、足利氏千寿王と、新田義貞のどちらに軍忠状を提出するかで混乱した。鎌倉攻撃によって北条氏が滅び、恩賞を査定する幕府が、実質的に消滅したからだ」
↑こういう事です(^^ゞ。
自分達で滅ぼしておきながら、論功行賞・所領安堵・訴訟決済など、鎌倉の各システムは残して頂きたい、と(笑)。

現に、京に行った足利尊氏を、自分ら流に「鎌倉殿(^^)」と呼んじゃう者もいっぱい居たんだから、冗談にならない(^_^;)。。

こうして、常に「ヤル気満々の鎌倉(古河)」と、「諦め気分いっぱいの京」という室町時代が出来て行った(完)。


こちらは館内で唯一、撮影を許されるオランダ製のオルゴール→
撮影だけでなく、係の方が時々ホールに来て音楽を奏でて下さった(^^)

その音楽というのが、ものすごい大音響で(笑)、演奏というのも、大きなゼンマイのようなものをガクンガクンと廻す大掛かりな物で、終わってから拍手とともに、観客一同から「お疲れ様ー」という声が出た(笑)。

古河は江戸期、藩主の土井利位が「雪華図説」(雪の結晶を描いた)を著したり、家老の鷹見泉石が蘭学のために輸入した品が多いなど、勉学向上のお国柄だった。
オランダとの縁を記念し、1990年にオランダから送られた物だそうだ。
細工には、雪の結晶、オランダの水車や運河の絵が施されている。

博物館では、古河公方関係はほんの一隅にチョロとあるのみ(^_^;)ゞ
それでも、成氏が足利学校から招いた医者・田代三喜が、後の戦国期に名を馳せた、あの曲直瀬(まなせ)道三の師だった事など知って、大いに感動した!
発給文書の現物で、成氏の字が見れたのも嬉しかったなー☆ミ

展示の少なさは、期待を大きく外れたものの(笑)、居心地が良く、周囲には関連史跡も多いので、古河にはこれからも何度も通いたい(^^)。

9時〜5時(駐車場は5時まで)、休館は祭日の翌日と第4金曜日と12/28〜1/4



次回は、この続きで、まずは博物館(古河城・諏訪曲輪)の周辺をちょっと散策し、さっき通り過ぎた長谷観音、そして、最初に入口まで行った「古河総合公園」、これは古河城に対して、「古河公方館跡」があり、5代・義氏の墓がある。

日常編に戻れれば、クリスマス・シーズンの街などレポ出来るかなー?

今回も関連事項はまた後日(^^ゞ。
11月号と1月号のリンクは貼りましたゾー(笑)。


出来ましたー(^O^)

以上、関連事項は(06/12追加)
2005年12月<関宿城>
2006年1月<関宿城・周囲の「にこにこ水辺公園」>〜<実相寺><宗英寺>
2008年7月「千葉県の動乱vol2
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内・2014年8月<「花園神社」B本殿>内
2012年6月<宇都宮城址公園>内
2014年1月<久喜市「甘棠院」(古河公方二代・足利政氏の館跡)>以降
2014年10月<笠間から、再び常陸太田へ>内および<佐竹氏歴代の墓所「正宗寺」>
(古河公方ネタは、時代背景として大変多くのレポに登場するので、ごく主体的な号だけ抜粋してます(^_^;))


<つづく>

2015年04月08日(06/12関連リンク追加)
 
     






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