今回「北茨城〜南福島」編は「第6弾」だが、殆ど前回までで終ってるんで(^_^;)、「最終回」と言うより、「オマケ」に近い(笑)。 この東北旅行の後は、たった今、また東北から帰って来たばかりだが(笑)、それまでの間は、旅行らしい旅行は全くしていない(^_^;)。 ただ、ここんとこ出歩く機会が多いので、各所で撮った写真ばかり溜まってる(汗)。。 なので、取りあえず今回の所は、秋の景色編(秋〜初冬)をお届けしたい!! ■2010年9月・福島県白河市 <南湖神社、2(続き)>
参拝前から、だいぶ薄暗がり気味だったが、途中でドッと暗くなるので、御了承を(^∧^) 地図A←「南湖神社」。詳しくは拡大してね(^^ゞ。 南湖公園の南岸を大きく占める人口湖には北東、庭園(翠楽園)からは東に位置する。 途中左に「祈祷受付所」、さらに奥に進むと「拝殿」(パノラマ2枚)
神社は「開園二百年」の記念として、「長期総合境内整備計画」を打ち立て、屋根の葺き替えをはじめ、参拝者の便宜を図るため、社務所や参集殿の建て直しなどを目的として、一口二千円〜の各種協力を呼び掛けていた。 参道の左右には、各種の御守りなどが写真入りの看板で賑やかに立てられ、祈祷に力を入れてる様子がうかがえた(^^)。 御守りは、「水晶守(福徳円満)」「勾玉(浄霊招福)」「金運守(金運招来)」「ぼけ封じ(無病息災)」「御朱印(参拝記念)」「ランドセル守(通学安全)」「老化防止(健脚健康)」「合格(受験)」など各種♪
松平定信の教訓と言うと……どうも私は、信州・松代藩の真田家、八代・真田幸貫の「七軽之書」というのを思い出すんだなぁ(爆)。 真田幸貫は、松平定信の次男で、信州松代の真田家に跡継が絶えた所に養子として迎えられ、八代藩主に就いた。 当時のことを記す「松代町史」には、就任するや、公正な裁判を行うべく、事件の関係者を身分の上下に構わず(農民と穢多だったかな(^^ゞ)同じ場に入れようとしたものの、頑強な抵抗にあって諦めた話がある。 あと、領内の視察も自らしようとして、小豆色だったか……あまり身分の高い人が着ない服で出掛けようとして、廻りに反対される話なんか、ウッスラ思いだす(ウロなんで、細かいトコ違ってるかもしれんが(^_^;))。 どちらも、父・定信の「四民平等」の感覚を濃く受け継いでる感じがする一方、その定信自身からは、「養子に行くに際して戒め」として渡されたのが「七軽之書」で(笑)、これがまた七カ条からなり(^_^;)、内容は「七種類の軽さ」だったか書かれ、要するに「軽い奴はダメだぁ〜っっ!ヽ(`Д´)ノ」という事がズラズラーッと七カ条も書かれてたと思う確か!(笑) つまり、定信譲りの「平等の理念」と、定信が案じた「軽い性格」の両方を持ち合わせてたって事なんじゃないかなと愚考すんだけどっ!(笑)
こんな事やってる場合じゃなかったわ。もう、いい加減暗いのね(笑)。次行こう(^^ゞ。 <エピローグ(笑)・「白河の関」「あゆり温泉」> この先はもう真っ暗で、写真は写ってないんだけど(笑)、まず「白河の関」は、行くだけ行ってみた。 街灯など殆ど無く、写真は愚か、肉眼でも何も見えなかった(爆)。ただ、この時から雷が来て、時々ピカッと光を指してくれた(ありがと(^_^;))ので、一瞬だけ周囲を見渡したりした。 右下の写真は、現地にあった絵地図で、右がフラッシュで光っちゃったんで、そこだけ残して後は明度を上げてる。↓
左上の城が、前回行った「白河小峰城」。ど真ん中の水色のが「南湖公園」(今までいた「南湖神社」と同じ場所)。そして右下(フラッシュ部分より下)が、この「白河の関」。 ……と、絵地図では等間隔っぽい位置関係になってるけど(^^ゞ、実際には小峰城と南湖公園の距離を、倍は車を走らせた(笑)。地図B 小峰城や南湖公園からやって来ると、先にこの石碑と「白河神社」のある「白河関跡」に着き、その続き(隣)の敷地が、「白河関の森公園」……森林公園だね(^^ゞ。↓絵地図で見ると、ログハウスとかあって、市民の憩いの場という感じかな。 日のある内に来て見てみないと、多くは言えないけど(^^ゞ、この案内板にあった限りで話すと、この「白河の関」跡も、松平定信が歴史考証を行ない、「ここじゃっ!( `・ω・´)〃」と選定して、寛政12年(1800)に「古関蹟」の碑が建てられたんだとか(゚.゚)! それまでは、関が設けられた場所が、長いこと不明なままだったんだね〜! 関の設立・設置時期すら文献からはわからないらしい。 だから松平定信が、どういう考証によったのか興味深い。当時まだ土地に残ってた伝承など元にしたのかな(ワクワク)……。 戦後の昭和34年(1959)〜38年(1963)に行なった発掘調査では、実際に竪穴住居跡、掘立柱建物跡、空堀、土塁、柵列など、古代〜中世ごろの遺構が発見されたそうだ(^O^)! 同じく縄文土器、土師器・須恵器・灰釉陶器、鉄製品など、やはり古代〜中世の遺構も出土し、土師器の中には、「門、大室、□舟」などの墨書土器がみられるという。 この書き方を見る限り、現在の歴史学からは、まだ、ここが「関の跡」と完全には確定してなさそうだね〜。何だかロマンね(#^.^#)。
ちなみに白河の関が文献に現われるのは、延暦18年(799)、承和2年(835)の太政官符に「白河 戔リ」の名が認められ、該当するだろう事、歴史背景から推定して、大化の改新以後の7〜8世紀頃には存在していただろうと思われる。 奈良〜平安期に機能した関で、多くの古歌に名が現われ、廃関の後も、「歌枕」として能因・西行の和歌や、「奥の細道」にも詠まれている。 ところで、白河の関に入った頃から、雷がゴロゴロ鳴り始めてはいたが、白河に戻って来ると本格的になった。 「白河と言えば(^^)」と、車を流して夕飯食べる所を数軒を物色する内に豪雨となり、店じまいする所も出始めて、慌てて一軒に入って、名物の「白河ラーメン」を食べた! でも慌ててたのと、外の激しい雷雨に動転して、ラーメンの写真は撮りそびれた(笑)。
前やはり日帰り温泉を探した時、矢板インター(栃木県)の近くに「城の湯温泉」を見付けたので、「そこに(^^ゞ」と思ってたが、そこに向かうには終了時間が近付いたから、白河よりちょっと北に出て、西白河郡の矢吹町に見付けた(^_^A)。地図C いいお風呂だったよ(^^)。 今言った矢板の「城の湯温泉」の「城」は、矢板インターを通る時に、東北道からも見える城山の事じゃないかと(^^ゞ。「川崎城」跡という。 今回の旅行でちょっと馴染みになった宇都宮氏から分家した、塩谷氏の城のようだ(^^)。地図D 塩谷氏も塩原あたりの興亡に名が出て来たので、イキナリ覚えてしまったわ〜(笑)。 ではでは、これにて「北茨城〜南福島」編を終える。お疲れ( ^^) _旦~~ 以上、関連事項は、 2001年5月・議事録・旅行編056/10月・祭り編024 2005年9月・本文(松代) 2006年3月<鬼怒川〜「栃木県民の森」〜矢板>内 2011年8月<南湖公園><南湖神社、1> ■9月〜12月・千葉県柏市・印西市・松戸市 <松戸市「祖光院」「カフェ・リビエラ」「庄や」> 東北旅行から帰って来た(;_;)<グス。後は、おウチの周辺から秋の風情をお届け。 最初は、まだ少し夏の余韻が残る松戸市から……。
お寺は曹洞宗なので、開祖・道元の絵巻が堂内に貼られているんだが、考えてみれば禅宗の禅は、仏教の開祖・仏陀の頃より続く、もっとも古く純粋な修行法なんだね。 この彼岸花のように、彼岸の海原の彼方に悟りの境地がある、って事だね(^^)。地図E
地図F←地図によっては「コミニュニティ・カフェ」とも出て来る。「昭和セレモニー・松戸儀式殿」という、最近スタイルの葬儀会場の隣にある(^^ゞ。この道は「21世紀の森と広場」という巨大公園に続く道なので、全体的に公園ムード♪
で、案内板(笑)によると、「オン・カア・カア・カ・ビ・サンマ・エイ・ソワ・カ」と、まずは梵語が書かれ(^_^;)、「難関突破、招福開運、願望成就、身体健全、御利益あり」と続く。さらに……、 「やる氣は無明を照らす光、やる氣は生命の根源。人生の吉凶すべからく己の為せる業にしてやる氣を起し持続する限り吉運常に座右に在りて為すこと叶わぬことなし。南無彌留氣地蔵尊」 地図G←詳しい位置は「20」(最大)まで拡大して(^^ゞ。ゴチャゴチャした所なんで(笑)。 「では、おやすみ〜n(^^)n」夜ブトンに潜るお月さま☆ミ
<柏市〜白井市、秋の夕暮れ> そろそろ、秋も深まって来た(^^)。 地図H←中心点ナシ。だいたい範囲 以下、だいたいは手賀沼やその周辺の景色だが、松戸市の六実や柏市沼南のしいのき台などの住宅街でも、紅葉や夕焼けが綺麗だったので、折々に交えながら(^^ゞ。
「カンナ通り」は、ちょっと綺麗メな呼び方で、実際には私らは「たまご通り」と呼んでいる(爆)。 地図I←今井から下手賀沼までの道路で、この頃は綺麗なカンナの花を植えているので、「カンナ通り」と名づけられている。(2011年1月<手賀沼の晩春〜初夏>内) これが「たまご通り」になってしまうのは、この道の界隈の農家が、イチゴやトマトなど農作物を各家ごとに売っていて、中でも「たまご」の看板が目立つからだ(^^ゞ。 右上の写真は、下手賀沼から今井に戻って来る向き。
今井の桜は前春→2010年8月<今井の桜>を(^^ゞ。開花の時期は、遠目にもハッキリ桜並木だと知れるが、この通り通常は、背景の丘陵や周囲の緑と溶け合って、並木がある事すらわかりにくい(笑)。
リボンを転がしたような雲間
曙橋に到着(パノラマ4枚180度以上)
青空の色と幅が広がり、全体が紫色に染まり直して、空と湖が同じになって、何だか外国映画のシーン(「風と共に去りぬ」とか)みたいだぁ〜と思っている内に……↓ どんどん夕焼けが濃くなったんだわ(パノラマ4枚180度以上)
さらに照り輝き……(パノラマ4枚180度以上)
映画を越えて宗教画に近付いて来た(^_^;)(パノラマ3枚ほぼ180度)
湖面(パノラマ3枚ほぼ180度)
<同じく、夕月・夜雲> さらに夜更けに近付いた時刻。上に同じく(^^ゞ、これも街中(沼南の住宅街)から始まって、再び手賀沼に向かうコースを。 再び、地図H←中心点ナシ。だいたい範囲
光ってる方角は北のほう。周囲は田んぼ道だから、殆どライトは無く、むろんフラッシュも焚いてない。 写真の明度も、通常と大きく変わらない程度に抑えてある。通常これぐらいの時刻、街灯のない所で写真を撮ると、車のライトに照らされる道以外は、殆ど真っ黒にしか映らない(^_^;)。 それがこれだけ映るのは、元より空が少し明るく感じる夜ではあったが、星は殆ど無く、地平線近くに白く光るあの雲(?)のなせる技かと。
写真を拡大して見ると、ハッキリわかるんだが、↑左の光ってない方角の写真は、遠くの街の灯りがだいぶブレている(^_^;)。明度が足りないため、走ってる車から写すと、どうしてもブレちゃうんだな(笑)。 対して、空が明るい方の写真は、かなり遠くの灯りでも、ブレずにハッキリ写ってる。それだけ空のあの光の光度が強いんだと思う。 こういう、地平線の近くが真白く(あるいは黄土色に)光ったりしたのは、実はあの中越地震以来(^_^;)。 時々こんな風にちょっと光る事は通常でも無くは無いけど、あまり長い時間続いたり、すごく明るかったり、しばしば起こるというような事はないので、こういう光り方をしばしば見るようになったら、写真を撮ってみようと前から思っていた。 ただ、これは秋の事で、半年後の東日本大震災との関係はどうかな……だいぶ時間が経ってる気もするけどね(^_^;)。(もっとも直前なんかだと、備えようがないから、半年以上前にわかる事自体はいいと思うけど) さっき日没を見た曙橋あたりの夜景(パノラマ5枚180度以上)
左方面がホンノリ明るいのは、これはなぜかわりといつもの事で(^^ゞ、西の方なんだけど、西は柏駅のある賑やかな所が多いので、夜でもネオンなどが空に反射してるか、あるいは日没の残照?(だいぶ夜中になってるけどね) 北の方は、今、緑のライトがついてる曙橋あたりが相当する。もう光ってない(^^ゞ。……ってか、別の日に撮影した写真だったかも(爆)。 ↑の反対側の風景↓(パノラマ5枚180度以上)
手前に駐車場、背景に広い田園地帯と丘陵があるが、真っ暗(^^ゞ。 丘陵の前にチラチラ光って見えるのは、走りゆく数台の自動車のライト。 これも西側(今度は右側)が明るいけど、柏方面のネオンなどの影響だろう(^^ゞ。 ネット上で「地震雲」とか言って乗る写真って、どこがいつもと違うか書いてない事が多いんで、要注意かな〜と思う事も実は多い。 縦長雲も、実は飛行機の行路だったり、ここは夜でも、いつも何となく明るい事が多い場所ってのがあって、建物などあまり建ってない所でも、巨大ゲーセンがあったり、そういう灯りを遠くの大気が反射してる事もあろう(^_^;)。 ただ、長年地域に住む者が「ここがこういう光り方する事はあまりない」という夜空の光は、やはりもっと注意を払っていいと思う。 ちょうどこれから、これをアップしようと思ってたら、ニュースサイトに、大地震のある時、太陽の黒点が減少する事が判明した、とか書かれていた。 と言っても、検証はまだまだこれからだろうが(^_^;)、歴史的には大地震のあった年などに、台風や洪水など、科学的には、地震と直接関係あるとは思えない大災害や、冷害・旱魃など食糧危機に陥る事例をよく見るので、昔の人は関係があると思って注視していたのだろうと思う。 <秋たけなわ(^O^)、和菓子と紅葉♪> ↑最初の「和菓子」ってのは、知り合いの方に頂いた八王子のお土産(^^ゞ。「高尾せんべい」と「松姫もなか」。 「松姫」は武田信玄の娘で、前回「8月のたわごと」で、保科正之の母を匿った話にも出て来た「信松尼」の俗名とされている。 彼女が武田の滅亡時から逃れて、八王子に辿り着き隠棲したのにちなんで作られた、郷土銘菓(^^)。
八王子はアレだが、私が行った事あるトコだと、山梨県の県境、奥多摩の数馬に、こんな伝承があったよ(^^ゞ→2004年6月<数馬、三頭山荘「山菜小皿料理」と「菊姫弁財天」>内 以下は、いよいよ秋本番、紅葉風景の列挙と行きたい(^O^)! みたび、地図H←中心点ナシ。だいたい範囲
陸上競技場。対岸の紅葉も色とりどり(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)
<「白馬公園」「野馬公園」「しいの木公園」> ↑周辺には、道路脇の歩道にも馬の首を象った石像が点在しており、この他にも「たてがみ公園」「ひづめ公園」など、馬にちなんだ名の公園があるようだ。 昔、野馬を放牧させていた地域である事に由来しているんだろうと思う(^^)。 ↑左のカドまで行ってみると……↓ こちらにも出入口がある(パノラマ2枚)
ご覧の通りの、住宅地の合間にある、とても小さい公園(^^ゞ。
よく見ると、こんな風に、さりげなく馬や牧(牧場)の演出がされているんだね(^^)。 前に柏市の「松ヶ崎城跡」を紹介した時、「柏市は昔から牧場だったから、史跡はないと聞いていたと、市民の方によく言われる」というような事を書いた(2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>)。 つまり、「にも関わらず、松ヶ崎城という城が昔はあって……」というのが主旨だったが(笑)、多くの地域が江戸期には放牧に使われ、そして恐らく、そのずっと前から放牧は行なわれていたんだろうな、と思う。
実は最初にこの公園に入った時、この盛り土が目に入って、「古墳だったり(^^ゞ?」なんて期待したんだが、周囲を探した所、それらしき案内板などもないから、単なる子供の遊び場とかなんだろう(笑)。 ここでも燃えるような楓の紅葉(^^)
お次は「野馬公園」だけど、これだけ東北旅行に行く前に撮った写真(^^ゞ。5〜8月ごろなんで、1個だけ夏っぽい空気(笑)↓ これまた住宅地のど真ん中「野馬公園」(パノラマ3枚ほぼ180度)
地図M←確かここ(^_^;)。詳しくは拡大してね。新京成線の「五香」とか「元山」など、ほとんど松戸市に近い。
この大通りを北に向かうと「リブレ京成」があり、その裏手に……↓(写真は秋に戻る) 「しいの木公園」(南西側入口)がある(パノラマ2枚)
地図N←わりと拡大して貰わないと、今の「白馬公園」と殆ど位置は変わらない(^^ゞ。 これら「馬公園」シリーズって、これまでもこの辺りを通る時ちょくちょく見掛けてたんだが、毎回「あれ?前に見たのと同じ?違う公園?」と目が惑わされる。 どうやら、柏市の南端、「しいの木台」だけに集中して、住宅街の奥地に数ヶ所点在してるようだ。 で、どういう所が他の「馬公園」シリーズと一緒かと言うと……、 ロングに退いて見る。右の土盛(?)部分らしい↓(パノラマ2枚)
入口に案内板があり、そこにはこう説明書きがある。 「野馬除土手 『野馬除土手』は、牧(馬などの放牧地)の周囲に溝を掘り、堀った土を盛り上げて馬がかけ登れないようにした土手です。土手は、大切な牧馬の逃亡を防ぐとともに、牧外の農民の生活や農作物を守るために築いたものです。 『牧』は、8世紀頃、軍馬や役馬の用に供するために全国に作られ、下総台地(千葉県北部)にはたくさんありました。その後、江戸時代に入り、下総牧は『小金牧』や『佐倉牧』などに分けられました。 牧に関連した施設としては他に、捕込(とっこめ)跡、五助木戸、金ヶ作役所跡などがあります。 この公園の外周の土手は、規模は小さいですが、『野馬除土手』をイメージして作ったものです。」 野馬土手については、これまで……3回かなφ(。。)m、取り上げて来たので、列挙すると…… 2007年8月<六高台の桜と五香の野馬土手>内 2007年10月<野馬除土手> 2011年1月<初夏、沼南〜松戸の野馬除土手> ↑これらは正式な指定史跡であるが、それに対して、この「しいの木台」の馬公園シリーズは、昔、野馬除土手があった事にちなんで作られた、市民向け公園なんだね(^^ゞ。
北側の出入り口、右(西)隣に「リブレ京成」→(パノラマ3枚ほぼ180度)
<日没> 手賀沼方面をドライブしてて(^^)。 次回は、冬の景色編。クリスマス&年末年始(2010〜11年)の風景に始まり、初春あたりまで行きたい! 以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、 2004年6月<数馬、三頭山荘「山菜小皿料理」と「菊姫弁財天」>内 2007年8月<六高台の桜と五香の野馬土手>内 2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)> 2007年10月<野馬除土手> 2009年12月<松戸市「祖光院」> 2011年1月<初夏、沼南〜松戸の野馬除土手> ■手賀沼 2005年11月<将門神社> 2006年8月<まずは逆井の梅から(^^ゞ> 2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢> 2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降 2008年4月<柏市・手賀沼> 2008年5月<年末(^^)> 2008年6月<黄砂吹き荒れる手賀沼>以降 2008年7月<逆井の梅花〜手賀沼(柏市)> 2008年8月<お花見続行(^^)> 2008年11月<千葉県我孫子市「将門神社」(湖北)>および<千葉県我孫子市「手賀沼公園」> 2008年12月本文 2009年5月<古利根川・手賀沼・清遊湖> 2009年6月<手賀沼と発作橋(冬の白鳥)> 2009年8月<日頃の風景(手賀沼)から(^^ゞ> 2009年9月<初夏の布瀬と手賀川(^^)> 2009年12月<柏市「手賀沼」「下手賀沼」> 2010年7月<手賀沼と下手賀沼から、富士山・筑波山を> 2010年8月<今井の桜>以降 2010年12月<将門神社(沼南「龍光院」)>以降 2011年1月<手賀沼の晩春〜初夏> 2011年09月26日 <つづく> |
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