前回は9月〜12月まで、一気に飲み干したので(笑)、この辺りでちょっと止まって、まずは年末の風景から(^^ゞ。 そして次は年が明け、今年も正月は「松戸七福神めぐり」から〜♪ 正月休みが終わると、毎年の事ながらドッと忙しくなり(^_^;)、1月も後半ごろから少〜しづつ時間が出来て、手賀沼より北、我孫子市と柏市(千葉県)の城跡を巡ってみたので、2月の初旬あたりまで交えてお届けする。 ■2008年12月〜2009年1月・千葉県松戸市 <紅葉とクリスマスが同時に訪れるの図(笑)>
以下、11月の終わりから、12月にかけて、だいたい1ヵ月以内の風景だったと記憶する。だから、いささか極端な比較になってはいるが……(笑)。
ド〜ン! き〜よ〜し〜こ〜の夜〜(^O^)♪
ド〜ン! 小さい秋〜小さい秋〜小さい秋、見〜付けた(^O^)
と言っても、松戸は温暖化の前から、積雪は年を越えてからが普通で、年内は降ってもウッスラ雪化粧する程度で、たくさん積もると「12月から珍しいね(゚.゚)」という感じだった。 それでも12月の風景と言えば、枯れ木と霜柱だったから、ここ1〜2年は、クリスマス間際になってから電気オンにする家や、年を越えた後もイルミネーターしている家がちょくちょく見られる。 私としては紅葉期のイルミネーションも、「もうすぐクリスマスか〜(^^)」と喜ぶだけだが(笑)、一生懸命に飾り付ける人にしてみれば、「ライトに紅葉が映えてしまう(-_-;)」というのが気になるのも、無理ないと思うワケ。 でもせっかく購入した飾りなのに、短期間ではもったいない。。
以上、「12月の風景」おしまい。引き続いて「正月の風景」を行く。 <今年も年始は「松戸七福神めぐり」から>
毎年恒例のおせちセットは、今年から著しく品種を抑えたので省略(^_^;)。。 年々ジワジワ値上げ傾向にはあったけど、今年はスンゲェ高くなったんだな〜いいかげん国内産で賄う事に無理が出てるのだろう。私は気にせず安い物を買ってるケド(爆)。 さてさて、上図は「徳蔵院」で撮影させて頂いた絵地図(^^)。 この「松戸七福神」に配されたお寺は、全て真言宗の豊山派である。 江戸川沿い(左)は都内に出る側なので、午前中は混んでいる。なので「徳蔵院・円能寺・医王寺・華厳寺」(右)と廻ってから、「金蔵院・善照寺・宝蔵院」(左)の方面に参拝する。
この「徳蔵院」は1400年代の初めに、下総国の国分寺の末寺として創建された。 境内には「国府台合戦」の戦没者墓地と伝わる「藤塚稲荷」が祀られている。 しかし、前の住職さんが入るまでの長〜い間、住職の居ない荒れ寺だったそうだ(゚.゚)。 それでここ毎年のように、年々整備されてたんだね〜!
八柱の2寺の後は、高城氏が最終的な本拠地を置いた、松戸の北部・大谷口(小金)城跡の周辺に向かう。(城跡に関しては2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>を、菩提寺に関しては2004年8月<寄り道2、広徳寺「高城氏の墓所」>を) 最初に行ったのが「医王寺」。↓ 地図D 細長い敷地の奥に本堂がある(パノラマ2枚)
いつも美味しい甘酒を出してくれるお寺である( ̄∇ ̄)<ゴッツォーサマ 「医王寺」は、江戸初期の寛永年間(1624〜1643)、越後の新発田から、ある法師が不動明王をもたらし、土地の持ち主・高木(治衛門)吉久が敷地を寄進し、出家して開祖となって始まった寺である。 大谷口城との近さから行くと、この土地を持ってた「高木」という人は、高城氏と関係ある人かな(^^ゞ。 不動明王は、火災の時も田螺が周りに張り付いて守られたので「田螺不動」とも言い、盲人が満願日に目を不動滝で洗ったら、見えるようになったので「姿見不動」とも呼ばれ、疫病からも村人を救ったと伝わる。 昭和61年(1986)になって、不動さまの出身地である越後の「管谷寺」を訪ね、ここ「医王寺」の記録と合致している事が判明したそうだ♪ 良かったね〜(^O^)。 ↑奥の正面に「弁財天」、築山っぽい中央に菅原道真を祀ってある。右の階段の上に見えるのが本堂。 そして画面いっぱいに見える手前の空間(砂地)は、「火渡り」の場である! 書いて字の如く、「火の上を渡る」のである! 修験とかがやる荒行の一つだね(^^ゞ。 毎年正月2日の午前中に行われるのだが、開催時間に間に合ったためしがない(^_^;)。 でも真言宗だから、ちゃんと山伏とか頼んで、護摩を焚いて行なわれるようで、モチロン靴を脱いで、裸足で一気に走るのだ〜。 清めの塩の混ざった砂地が、大勢が火の上を渡った跡も生々しく、こうして残っている。
「華厳寺」は、幸田川から里人が引き上げた地蔵を本尊としている所から、七福神の中でも、川の女神・弁財天が当てられたのだろう。 弁天サマの前には、ザルと溜め水が置かれており、そこで毎年ジャラジャラと銭を洗うのだ!(笑) 寺の記録などが火災によって消失する事が多い中、この地域には火災事故が殆どなかったそうだ(゚.゚)。 地蔵を得た事とともに「川の恵み」と受け取ってだろう、長く「火防の寺」と称され、正月の「火渡り」行事も、火の上を果敢に渡って、火災を乗り越えようという祭りなのだそうだ。 以上、水辺の恵み=火災除けという要素が強い、北小金の「医王寺」「華厳寺」だったが、「松戸七福神」に配されたお寺の中では、判明する限り、この「華厳寺」が鎌倉時代の開基と、一番古そうな感じがする(^^ゞ。 さてさて渋滞も緩和された頃合を見計らって、そろそろ西側、江戸川沿いの寺々にも行ってみよう(^^ゞ。
「善照寺」の本尊は聖観音で、恵心の作と伝えられ、下総33観音の19番、東33観音の13霊場。不動堂もあり、折々に護摩修行を行なっている。 開山については不明だが、松戸向山(相模台)にあったのを、慶長16年(1611)に水戸街道に沿った現在地に移転した。 その当時の住職は、戦国期の1500年代後半〜江戸期の1600年代前半の人なので、もしかしたら前身は、すぐ近くの相模台城と関係ある寺だったのかな(^^ゞ。 相模台城跡もかなり変わった城跡なので、そのうちレポしてみたいが、古く南北朝の頃の伝承として「北条氏」となってるのは、戦国期の後北条氏との混同かな(^^ゞ。どちらかと言うと第一次国府台合戦の時に、小弓公方側に使われた場で、その後は原氏か高城氏の城だっただろう、と見られている。 そして最後が……地図G↓
以上、関連事項は、 2004年8月全文 2004年9月全文 2005年12月<お正月(^^)・そして今年も「七福神巡り」> 2006年7月<八柱「藤塚稲荷」><松戸オマケ・各所、風雲名物(笑)> 2007年6月<松戸七福神巡り><松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)><高城氏について> 2008年5月<年始(^^)・「松戸七福神」巡り> ■2009年1〜2月・千葉県柏市・我孫子市 <手賀沼と発作橋(冬の白鳥)> 松戸から柏・我孫子方面に向かう。ルートは幾通りもあるが、今いるのは逆井・藤心のあたり。地図H
白雲と黒雲が木枯らしに煽られて移動。地平線上は黄色く濁って光る。
水辺は殆どが水田となって多量の水蒸気が上がり、関東特有の空っ風で、これまた関東特有の土を舞い上げて、雲が急速度で移動する。 風も雲も太陽光線も砂塵も、遮る山が無いので、全体的に自然風景が壮観(笑)。 地平線が照り輝く時なんか、かなり怪しい雰囲気(^_^;)。 こんな風雲の下を、野馬が鬣を靡かせて走ってた昔を思い浮かべる。 さてさて、手賀沼に到着(^_^A)。正面に筑波山が見える。
湖や川や海の様変わりする風景は、どこの土地でも神秘的だが、ここでも季節を問わず、時折パール色になる事があって、それが青や黄色やピンクに変化するのが楽しい。 東の方に出てみる。地図K←中心点を拡大すると、大きな橋と小さな橋がある。大きい方が車道で「発作橋」という。 この発作橋のある辺りで手賀川が分流され、西の手賀沼(我孫子市・柏市)と南の手賀沼(柏市・臼井市・印西市)に分かれる。今いる場所は、南の手賀沼に繋がる川筋。 左に「発作橋」、小さい橋との間に白鳥の群れ(パノラマ4枚・180度以上)
湖によく来る白鳥達が、この辺りまでスイスイと水面を滑って来て溜まるようだ。 白鳥に絡んだ話は、この先、城跡巡りの折にちょっとする(^^ゞ。 この辺りは、いま手賀沼の湖がある所からは、幅が狭くなって川になっているが、昔は今私らの立ってる辺りも湖だったと思われる。 地図L←ちょっと拡大して周囲を見てみると、左の布瀬新田あたりから発作あたりまでは、恐らく水域だったんだろうと(^^ゞ。布瀬新田より左の布瀬あたりまでが陸地ではないかと。 布瀬には「布瀬城跡」や「香取鳥見神社」(2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>)、「高野館跡」(同<平将門の別荘(高野館跡)>)などがあり、一方、手賀沼を超えた北には「龍崖城跡」(2008年11月<千葉県我孫子市「龍崖城」(将門の乱・伝承地)>)がある。 南の方は、だいぶ距離があるが、千葉ニュータウン(印西市)がある(^^ゞ。
「手賀大橋」。柏市から我孫子市に入る。
この橋の左手前には「箕輪城跡」(2006年8月<箕輪城跡>)、右の水面には蓮沼(2008年12月<手賀沼南岸・蓮の花>)が広がり、右手前ちょっと陸に入ると「将門神社」(同月<「将門神社・龍光院」(沼南)>および2005年11月<将門神社>)に行ける。 じゃ、次は我孫子市に行ってみよう(^^)。 <「柴崎城跡」の周辺「柴崎神社」(我孫子市)> 地図をパッと見る限り、我孫子市が北にあって、柏市が南にあるように感じるが、正確に言うと、我孫子市は東にあり、柏市は元々西にあった。 それが、我孫子市の南にあった旧・東葛飾郡の「沼南」が、現在は柏市が吸収しているから、それで柏市が南にあるように思われがちだ(^^ゞ。 しかし柏市には、我孫子より北緯に位置する地域もあるのだ(^^ゞ。 茨城県との県境・利根川が、西では北に食い込み、東では南に食い込んでいるため、西部の柏市の方が、北に頭一つ出ている、という事になる。 これより行く「柴崎神社(城跡周辺)」は我孫子市だが、その後に行く「布施城跡」(柏市)の方が、さらに北の方にある。 で、これより行く「柴崎神社」の東には、昔は「柴崎城跡」があったが、今は無く、城跡の辺りも行ってみたのだが、住宅地や学校の敷地となって、「遺構は何一つ残されてない」と「東葛の中世城郭」に紹介されている通り、遺構や石碑らしきを発見しなかった。 地図O←柴崎神社。地図P←柴崎城跡。 位置を正確に知りたい場合は、それぞれ拡大して見て貰えると(^^ゞ。城跡の方は範囲が広いので、だいたい中心点を取ってある。 もよりの駅は、どちらもJR常磐線の「天王台」駅。
これまでも折々に述べて来た通り、千葉県では出羽三山詣が盛んで、三山の碑が建つ寺や神社を、各所で頻繁に見られる(^^ゞ。 ここのは特に、ロゴ(字のデザイン)がたいそう洒落てて、「レトロな雰囲気〜(#^.^#)」と気に入った(笑)。
祭神は「天御中主(アメノミナカヌシ)命」。要するに「妙見社」のようだ(^^ゞ。 境内で「妙見」という字を見たかな(^_^;)。明治の神仏分離まで「妙見社」と称されていた事は確かなようだ。 まず、階段から拝殿や社務所までの間、手水の附近の参道には、とても変わった石像の群があるのよっ(^^)。
亀は妙見サマの乗物だから、こうして妙見サマのご出馬に備えて、カワイイ顔のから怖い顔のまで、ズラーッと待機してるんだね〜(^^)。 で、肝心の神社の由緒だが、この神社には何も書かれてない( ̄∇ ̄;)。。 祭神を「天御中主命」とし、亀行列を待機させ、北野天満宮を祀っても(←は後で出て来る)、由緒は書かないという……参拝客が気の毒に思えて来る(笑)。 が、古い社伝由緒にはあったのだろう、「承平・天慶(931〜47年)の頃、柴崎左馬督が社殿を修築し、平将門いらい相馬氏一族の守護神として崇拝された」という。 将門まで遡れるかは何とも言えないが、この由緒自体は家康入府の頃には既に在った、という気は少しするな〜まぁ、これについては後で書こうか(^^ゞ。 さて、拝殿にお参り(^∧^)も終わったので、次は社務所と拝殿の間に入ってみよう。
「三峯社」も「富士嶽講」などと並んで、この辺りではたくさん見掛ける(^^ゞ。大抵は本殿の裏手とかに、小さく合祀されてる事が多いが、ここでは立派なお社が建っていた。 奥社の隣に「永代講」とあるのも、江戸期(「お犬様」が大流行した頃かな)やはり講によって、大勢が信仰したのだろう。
パノラマ5枚(180度以上)
いま拝殿と社務所の間の奥「三峯神社」↑から出て来た
左には本殿(拝殿の奥)の裏側↑に向かって、通路が伸び、その先に駐車場もある。 反対側・パノラマ4枚(180度以上)
↑今度は左に社務所。←鳥居からはこう入って来た。この森林の奥↑にも通路が伸びている。 つまり鳥居&階段で来る参道とあわせると、都合、三方向に通路がある。
左に「北野天満宮」があり、右が「水神」になっている。 まず本殿に「妙見」を祀り、「北野天満宮」と「水神」と「将門」の組み合わせは、前回の「相馬中村神社(中村城跡)」でも見た通りだ(^^ゞ。 東京「神田明神」が、大手町の将門首塚の管理をはじめ、将門を祀って来たのは周知の通りだが、「天御中主命」は「金毘羅神社」に祀られ、摂社の筆頭に水神、一駅先の「湯島天神」で菅原道真を祀ってるので、いずれも、どっかの時代の何らか古例に従っているのかな? 「神田明神」は、将門慰霊の前身として「芝崎道場」を上げる。徳川家康が江戸に来て以降、江戸幕府に保護を受け、正式に「将門後裔」が選ばれて「芝崎氏」が神主となり、代々祭祀を続けた、という風になっている(2007年8月<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>)。 そもそも将門の首が落ちたとか、洗って埋めたとか言われる場所が「柴崎」だから、字の違いは問題にならない(^^ゞ。 なので一瞬、「ここも有名な神田明神にあやかったのかな(^^ゞ」と思いそうだったが、戦国期の記録を伝える松戸市の「本土寺過去帖」に、永正2〜3年(1505〜06)として、「中相馬・柴崎八郎四郎 妙伝位」「道中入、中相馬・柴崎右馬五郎」という。 つまり「相馬(の地)=柴崎(氏)」は、「家康の関東入府(1590年〜)の前」という事になる。 前回の相馬中村神社の妙見社でも、「元は下総に将門を祀る妙見社があった」事が示されていた(2009年5月<相馬「中村神社」(西館跡)>)。 「将門=妙見」が流布された結果、「芝崎氏が適任」て事になったのなら、ここでないまでも、下総のどっかの「柴崎」が、家康の来る前から、「将門ゆかりの神社だぴょ〜ん(^。^)」と言ってた可能性も否定できない事にはなる。 が、その後、「本土寺過去帖」の柴崎氏がどうなったかは判らない(^_^;)。 この神社の近くにあった「柴崎城」は、天正2年(1574)には、古河公方・足利義氏の御料所として確認できるようだ。 これは上杉謙信が来て頑張ったりしたものの、房総も、ついに北端の関宿まで後北条氏に丸呑みされたから、って事も言えるが(^_^;)、それは次の「布施城跡」に譲ろう。 一方、ハナから後北条勢力だった高城氏については、この辺りの支配は明確ではない。 名義上は古河義氏の物となりつつ、実際には高城氏が支配していた、という事も考えられなくないが、私はこの地は、後北条氏のやや直接的な支配となったように思う。 この地域の東隣に「芝原(中峠)城」があり、この「柴崎城」ともども、「河村氏」の名が上げられている。この河村氏が古河公方の城代という事になりそうだ(2008年11月<千葉県我孫子市「芝原(中峠)城」>)。 (ちなみに、スグ近くに千葉氏の伝承地「常圓寺」がある。同月<茨城県取手市「龍頭山・常圓寺」>)。 「古河公方の城代」と言っても、まぁ「後北条氏の家人」だろうか。足利義氏はその前の古河公方とは違い、殆ど「後北条氏の人」みたいなモンだから(^_^;)。 てわけで、高城氏の最終的な支配領域は、北限が手賀沼まで、という事じゃないかと今の所は思ってるけど……。 けど……となってしまうのは、江戸初期に書かれた「高城文書」に、これよりさらに北にも高城氏の領域が書き記されているのだ(^_^;)。でも、どうもその辺りになると、ちょっと誇張の疑いもあるような気が……(笑)。 てな事を繋げ合わせ、将門の伝承地である、ここ「柴崎神社」に間近な「柴崎城跡」が、一定の時代まで相馬氏の支配地であった可能性も、ちょっと考えに入れておこうと思う(^^ゞ。
このまま降りると、最初の鳥居と同方向に出る(パノラマ3枚・ほぼ180度)
この森林道の入口附近には「黒髪塚」という、いわくありそうな石碑もあった。「髪」って事は……遠い戦場(外国とか?)で亡くなった戦没者の慰霊碑かな。 ちなみに城跡は、1960年代の中頃まで土塁・空掘・虎口・物見櫓台などの跡があったそうだが、倉屋敷・小木戸口・鍛冶作などの地名もあったようで、「東葛郡誌」には、外郭を含んだ城下町まで範囲に含んで、集落を含む台地全体だったとあるようだ。 聞いてみた所、神社の方も、「この一帯が城跡だった、と聞いています(^^ゞ」と仰っていた。 柴崎城とは距離があるから、城でなく何らかの屋敷跡地か、城の廻り地の社だったのかもしれない。 戦国期の城みたく遺構が残ってなくても、何となく残しておいて欲しい緑地だった(^^)。 <「布施城跡」と、その周辺(柏市)> ↑さっき話した通り、我孫子市のさらに北にある「布施城跡」にやって来た(^^)。 が、私の知る限りでも、ほぼ同名の城跡が近辺に4箇所はある(^_^;)。 一つはこの「布施城跡」だ。柏市にある。 二つ目は「布佐城跡」で、柏市の布佐駅周辺にあったが、今は駅前となっていて残ってない。 三つ目の「布瀬城跡」と、四つ目の「布瀬館跡」は、ほぼ同じ場所にあり、これも今は柏市だが、元は東葛飾郡「沼南」地区だった。この「たわごと」では、「香取鳥見神社」で取り上げた(2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>)。 その折、沼南すなわち手賀沼の南は、最初から「相馬御厨」に申請されてなかった、という話をした(結局は相馬領となったフシがあるが:笑)。 これより行く「布施城跡」のある辺りが、当初から御厨の南限として出て来る地名「布施」と、だいたい一致すると思う(^^ゞ。 場所は地図Q←城跡地のだいたい中心点を取ってあるが、ここも土塁などが失われて残ってないものの、地図で見た感じでは、今は北に遠く流れる利根川の水辺が、かつては近くまで迫り、ここが陸地の最後だったと思われる。
相馬守谷氏というのは、前回の陸奥相馬氏に対して本家筋かと言うと、実はそれより前から枝分かれしている(^^ゞ。 相馬氏系図←ズーーッと右の後代に至ると、「相馬守谷氏」が出てくる。それをグッと左に遡ると、「陸奥相馬氏」やら分かれる、さらに二代前「胤継」で分かれてる。 で、戦国期のトコだけ抜き取ると……、 胤徳−┬−胤広−−胤定−−胤貞(守谷相馬)−−胤晴−−整胤−−治胤 ├−胤満 └−胤保(布施城) ↑三男「胤保」が、この「布施城」を守っていたようだ。父・胤徳は永正・大永年間(1504〜28)茨城県の守谷城の城主だった。 千葉県全体としては、千葉氏の宗家が武蔵に追われ、その後を馬加千葉氏が興った後、隙に乗じて、房総じゅうに勢力を拡げた上総武田氏と原氏が抗争しあった時期である(「千葉県の動乱vol2」<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537>)。 馬加や原は古河公方の与党であり、この相馬守谷氏の領域も古河公方の支配領域に位置したため、元々その影響下にあるが、その古河公方家でも、三代高基とその弟・小弓公方義明に分裂した時期でもある。 そうした中、1525年に、相馬守谷氏の当主・胤徳は亡くなり、後を継いだ長子・胤広は古河公方・三代高基に仕えた。
今は、このように城跡地から、豊かな水流は臨めないが(^^ゞ、かつては利根川を隔てた北側に眺める、相馬地域の山河の風景が素晴らしかったようだ。 古河公方の勢力を支える上で、この地の水運は大きな力を持った。 常陸川・小貝川の流域に、守谷・筒戸・高井・高野・布施など諸城を持つ相馬守谷氏は、古河+関宿の地域から、鹿島+香取+印旛沼に渡る船舶をおさえる拠点として重視されたと見られる。 この内、守谷と筒戸には小野寺維道さまのご案内も得られ、2月に行けたので、次回お届けしたい(^^)。 この布施城の近くには「天神山」もあって、「天神社」があったそうだが、明治35年(1902)に合祀されて、社地・境内は無くなったと言う。 これも何となく、前回の相馬中村城を思い出すね(笑)。 周囲には寺や神社があって、周りをちょっと散策したので、続けて布施城の周辺をお届けしよう(^^)。 「香取神社」(パノラマ3枚・ほぼ180度)
地図R←さっきと同じ地図。境内は←こう入って来て、突き当りが……
城周辺の地形と言えるか判らないし、水辺の側ではないんだが、今は田園地に囲まれてるこの「香取神社」、何となく湖畔の絶壁にでもあったような雰囲気に思えて(^^ゞ。 境内には、相模の「大山阿夫利神社」の碑が建っていた。 その後の守谷相馬氏と布施城についても書こう。 主家・古河公方家も、第一次・国府台合戦(1538年)以降は、後北条氏(以後「北条」と書く)に圧迫・掌握されていき、古河公方・4代晴氏も北条氏に敗れ、幽閉された後、1560年には死去する(「千葉県の動乱vol2」<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>)。 こうした中、何度か上杉謙信が来援には来るものの、何度目かに謙信が去った後、相馬守谷氏も「古河公方の御座所」として、守谷城を明け渡す事になった。 1566〜67年、守谷城には、古河公方・5代義氏の母(北条氏綱の娘)が入城。最後の城主・相馬治胤は立ち退き、実質的には、北条氏に従属の証として手渡した事となる。 それまで古河城・関宿城が、何度も北条と旧古河勢力の間で攻めたり攻められたりを繰り返し、そのたび古河義氏が松戸の小金城(大谷口城か)に逃げ込んだり、野田の目吹城に余波が及んだりで、そうした渦中に含まれる守谷城も無縁ではなかったのだろう。 又この前後、古河公方の別系(藤氏・藤政)を擁立したり、謙信や佐竹氏の力を背景に、古河義氏に対抗するなど、旧古河勢力の主流だったのは、関宿の簗田氏であり、一時和睦にあたって古河公方・北条・簗田の間で、守谷城の処置を取り沙汰した結果にも思える。 さらに1574年、ついに簗田氏の関宿城も北条氏に下る事となり、自動的に相馬守谷氏も、北条氏の指揮下に確定した(「千葉県の動乱vol3」<北条氏の終焉(〜1590)>)。 1577年と1582年の、古河義氏への年頭祝儀では、布施城主とおぼしき「相馬因幡守」の名が現われるが、松戸の高城胤辰の「代官」となっている。 領域が近接する高城氏は、第一次(1538年)、第二次の国府台合戦(1564)で、北条方として勢力を伸ばして来たので、布施城にいた相馬氏も、高城氏の影響下にいたと思われる(2007年6月<高城氏について>)。 この時、この相馬氏から、太刀をはじめ五種の品物が捧げられ、古河公方・義氏からは扇を賜わるのだが、この進物の筆頭には、2度に渡って「白鳥」が出て来るのだ(^^)。 いかにも水運の地からの相応しい贈り物、という感じがする(食肉としてかな〜)。 相馬氏は御厨を寄進した平安末から、何度もこうした水辺の産物を時の権力者に送った。 平安期は幾度も徒労に費やしたが、それでも何度となく水の恵みに助けられたに違いない。
今回は、これまでの城跡類・他についても、案内版など無かったのだが、ここもお寺の由緒などが書かれてなく、由来などわからなかったのが残念だった(^^ゞ。 この像は「一遍上人」と書かれており、寺も「時宗」と書かれている事だけは確認できた。 また作風から、1300年代の作と推定される「阿弥陀如来」と、その「両脇侍立像」の三作があり、この地域の「善光寺如来信仰」を知る手掛かりとして貴重とされていた。 「開山七百年」ともあったから、時宗は、神田明神の前身「芝崎道場」を始めたのが、一遍上人の二代目・真教上人(遊行二世)でもあるので、相馬氏との関係など判れば、ぜひ知りたい所だ(^^)。 こちらは城跡から少し離れた「柏市立・柏病院」(パノラマ2枚)
城跡として区分される領域からは、ちょっと離れた場所(地図S)にあるが、地図で見ると、この周囲に何やら遺構っぽくも思える跡が確認できるので(笑)。例えば……↓ 病院の柵の外側(パノラマ3枚・ほぼ180度)
真冬だったので、入るなら絶好のチャンスだな〜とは思ったが、この日は物凄く寒く、亭主が「ブルブルッ▼>ェ<▼」としてたし、私有地かもしれないから、これで引き上げた(^^ゞ。 この病院は、昔は陸軍病院があり、戦後は国立病院として、そのまま使われていたようだ。国立病院になってからの建物は、そのまま利用されているという。 現在は国立から市立病院に変わっている。 陸軍病院として開院したのは1939年で、傷病兵のうち軽症者は、利根川の遊水地を開墾して、大いに食糧増産に貢献したという。 当時としては、珍しい話ではないかもしれないが、この地域に長く続いた歴史から見ると、「武士の開墾ってのが、つくづく伝統の土地だな〜」とも思った(^_^;)。。 また、ホンットーについ最近まで、開発・開墾が続いてた……という感じもして(戦後もやってたもん:笑)、この地域の厖大な水流域を思い知らされる。
この「追分蕎麦・根戸家」のある辺りが分岐点で、地図T←北東に分かれて行くと「布施弁天」があるのっ。地図だと「あけぼの公園」と書いてある辺り。その分岐点なので「追分」なのかな?(笑) ところで、この「根戸」というのは、前に言った「根戸城跡」と近いから、地元の人がやってるお蕎麦屋さんかな〜(^^)。 この辺りに近い所では、まず「松ヶ崎城」(地図V・2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>)、そして「根戸城」(地図U・同月<根戸城跡(安孫子市)>)などがある。 布施の空に浮かびかかる、真冬の夕月
2月の守谷レポまで行きたかったが、ちょ〜ど時間となりま〜したっ(>_<)。。 一つだけ今からお断りしておくと、話が鎌倉・室町を飛ばして戦国時代に行っちゃうのは、次回の守谷に行っても、あんまり変わらない(^_^;)。 相馬守谷氏については、下総北部の相馬氏として唯一残ってる(史料に現われる)系譜には思えるものの、途中の事があんまし判らない(^_^;)。 何しろ戦国期、ズンチャカ動乱し始めた頃、イキナリ出て来る……という感じがする。私が知らないだけかもしれないが(^^ゞ。
が、北については私の知る限り、女系に相伝されて他に渡っている例が多い気がする。 ざっと言うと、黒崎郷が嶋津氏に渡り、開発によって多くの村に分かれたが、所領者が遠隔地のため、1300年代の記録を最後に、同氏による所領実態が失われた可能性が高い。 取手市戸頭については中原氏に渡ったが、やはり1300年代に近江と所替えされた後、足利尊氏によって香取神宮に寄進され、同年代に譲与記録が途絶えた。 利根町横須賀については、1200年代に足助氏(源氏の一族)→秋田氏、1300年代に→足利氏満(関東公方)→鎌倉別願寺に寄進されたようだ。 (以上、関連リンクは内部に記載) というわけで、次回は2月下旬、この相馬守谷氏の本拠「守谷城跡」とその周辺に始まり、4月の桜祭り〜5月に入ったトコあたりまで行きたい〜! 2009年06月18日 |
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