■11月
<夕焼けと月見>
この2004年は災害の多い年だった。
また、そうした天変地異でも予測させるがごとく、夕雲の下に地上近く異様な光が宿されたり、あるいはどす黒い雲間にあらわれる月が妙に近く感じたり、何か空恐ろしい光景を何度か見た。
残念ながらそれらを見た時、タイミングよくカメラを持ってなかったので、画像に残す事はかなわなかったが、異様な光景をたくさん見た心境のなせる技で、この秋〜冬は、空の写真をかなり意識的に撮った。
↑言いたい光景ってのはこゆのじゃなくて、もっと空恐ろしい光景なんだけどね(汗)。
でもウチ(松戸)あたりの夕焼け空は、時たまこのように、別の意味で空恐ろしいぐらい赤く照り輝く事が多く、また雲の様子が、海や島や山でもそこにあるような立体感を放って、なかなか見所があるので、よく撮れたのを出してみた(^^ゞ。
で次は月行こうか(^^ゞ。↓
中秋の名月
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残念。ちょっとブレ。。
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月見の宴(^^)
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↑月の写真って難しいですね(^_^;)。。結構何枚も撮ったけど、だいたいどれも失敗。
上のは月じたいの光度がかなり強い夜に撮ったのでよく撮れたが、実際には周囲のどす黒い雲の方が凄かった。
で、最後はコレ(笑)↓。月見には普通はお団子なのだが、この時たまたま買ってあったのが、この「安倍川餅」(爆)。
包み紙
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中は3個入り
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きな粉と餡の団子
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これは近くのコンビニで売ってた(^^ゞ。
時々こういう郷土菓子を売る時があるよね。
よく見掛けるのは「広島もみじ饅頭」「鴨の玉子」あたり。あとは千葉名物「濡れ煎餅」(笑)。 |
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で「安倍川餅」の由来だが、駿河の安倍川上流にある笹山金山の金粉に因んで、きな粉と餡の餅を献上した所、晩年の家康が喜んで「安倍川もち」と命名した事に始まるそうだ。
東海道の宿場で、安倍川を渡る時にこの餅を食べて元気をつけた、と前に聞いた事もある。
って、結局食い物がオチかよ〜(笑)。
いやいや、そんな事じゃいけない。ってんで、次からがいよいよ心霊ツアー
……違う違う(汗)、神霊ツアーの始まり始まり〜。
<将門神社>
もはやオカルトの代名詞にされつつある「平将門」(汗)。一応地元では尊い神様であらせられまする(^_^A)。
ま、知名度さえ上がってくれれば、この際どっちでもいいような気もするけどね(笑)。
ウチあたりでは将門絡みの史跡(と言うのかな:笑)は多いらしい。
その中の一つで、たまたま掲示板で将門ネタで盛り上がってる頃、何となく地図を見てて発見したのが、ここ「将門神社」。
場所は松戸の北、柏市の沼南という町にある。
松戸からだと柏駅よりこの沼南の方が近く、またこの沼南は前は東葛飾郡であったが、2005年に合併吸収されて今は柏市となった。
この柏市にはそのさらに北の我孫子市との間に、手賀沼という広大な沼がある。
沼南という地名は、この手賀沼の南にある事を意味している(と思う。他に思いようがない:笑)。
この手賀沼と言い、今回この後に出て来る印旛沼と言い、手賀沼より北の利根川と言い、さらに北で茨城県に入った霞ヶ浦と言い、元は全て太平洋から繋がる海だったようだ。
丸っきり水の底がその後の堆積や埋め立てによって今は陸となってる地域もあれば、元から島だった所もあろうし、或いは松戸あたりは陸に繋がってたようだが、そうした陸にも川は幾筋もあっただろう。
で、この手賀沼の南、岩井という所に「将門神社」はある。この辺り一帯を地図で見ると「屋敷」と書いてある。
ちなみに周囲には香取神社が2個は見付かる。結構このへんには多い神社名(^^ゞ。
左の鳥居が「将門神社」・右の山門が「龍光院」
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沼南の歴史を歩く「21」番
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↑見てお分かりの通り、鳥居を入るとすぐ二階建ての建物がある。どうも地元の青年館であるらしい。
というわけで、将門神社はこの建物の裏手に廻らないとならない。
これが何となく、神社が「隠されてる」という具合に感じるんだな(^^ゞ。
何か「堂々と祀るワケにいかない」みたいな感じがして、そゆとこ雰囲気的にビビッとは来たが、無論どうしてこういう配置になってるのかは知らないよ?(笑)
この日はすんごく曇ってて、肝心の神社の内部の写真は全て真っ黒だった(汗)。
なので、この先の風景は全て明度やコントラストを上げ上げに上げて作成してる事を断っておこう(^_^;)。。
じゃ、お寺の門の方からお邪魔(^^ゞ。
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建物裏の神社の敷地に侵入
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由来は寺と神社の両方にあり、寺(龍光院)には、将門の三女「如蔵尼」のことが書かれていた。以下。
如蔵尼は母親とともに大変な美人で求婚者が多かったが独身を貫いた。
父将門が戦い(天慶の乱=939〜941)に敗れて(戦死して※)から、この岩井の地に庵を結んでひっそりと暮らしていたが、病を得て地獄に落ち、地蔵菩薩の助けで蘇生して如蔵尼と改名し、80余まで生きた後、端座して入滅。
また父将門の霊を祠に祭り、将門大明神としたのが将門神社の起源で、その時に地蔵堂を建立し地蔵を安置したのが、寺の方の起源。
1616年に大火に見舞われ岩井は灰塵と化したが、本尊は自ら逃れて村民を守った。
以上。
これが神社本殿のお堂
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お堂の扉と階段
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右側から撮影
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案内板によると、この本殿は千葉常胤(五代:1118〜1201)が祖先の将門を偲んで社殿を復興したという伝説があるそうだ。
今回はこれを機会にちょっと歴史背景を掘り下げてみる。
この千葉常胤、あの平清盛と同い年である。この二人を見比べながら、ちょっと時代を見てみる。
桓武天皇を初代として、4代目に高望が出る。
高望の次の代に、国香・良兼・良将・良文・良茂、という兄弟が出る。それ以降は以下。
┌国香−貞盛−−−−維衡−−−−正度−正衡−−−−正盛−忠盛−清盛
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├良将−将門(相馬)−将国(信田)−文国−兼頼(相馬)−重国−胤国−師国=師常←-┐
| (養子)|
└良文(村岡)−忠頼−忠常(千葉)−常将−常永−−−−常兼−常重−常胤−師常
−┘
まず千葉氏が将門を祖先と見るのには、この千葉常胤の次男、師常が、将門以来の嫡流が絶えた相馬氏を継いで、後に奥州相馬氏に繋がる相馬氏初代となった所までは、前回(10月)「増尾城」の所で書いた。
が、遡れば天慶の乱(あるいは、将門の乱=940年)の後、将門の叔父、良文は将門の遺児を匿ったという。その一人が嫡流の将国で、他にも女子を匿い、自分の嫡子と結婚させた、とかいう説があるにはあるらしい。
それがこの如蔵尼なのかは判らないし、いずれにせよ千葉氏に女系ながら将門の血が繋がっているというのは、確証の取れてない事のようだ。
次に国香の子、貞盛は、天慶の乱の折に将門を討伐した武将の一人。
当時、将門の討伐がいかに重視・待望されたかは、天慶の乱によって朝廷以下が大混乱を呈し、その討伐には恩賞として、武士が公家の位に列するという、異例の約束を取り付けた事でもわかる。
これが「平家で無ければ人でない」とまで言われた伊勢平氏の、全盛時代への伏線になったとも言われる。
秩序が乱れ、藤原氏による中央政界が混沌を極めるのに乗じて、伊勢平氏たる忠盛・清盛親子は台頭した。
一方の千葉常胤。こちらは逆に源義朝(頼朝の父)に従って保元・平治の乱に出た。
平治の乱で源氏は清盛の平氏に敗れ、頼朝は伊豆に流刑された。
千葉氏はこうした源氏の流人を監視する立場となりながら、義朝への旧恩から源氏を密かに助け、頼朝が挙兵するや加勢し、また奥州藤原氏の討伐にも従軍するなど、鎌倉幕府の厚い信任を得た。
で、話は伝説に帰って来る。
将門の霊を偲ぶという行為が、清盛の平氏時代に行われたのか、あるいは鎌倉幕府成立まで千葉常胤は生きているので、逆に源氏の勝利の後なのか、その辺りが掴めると「200年後に復興」の事情も少し見えるかもね(^^ゞ。
お堂の横(真っ暗(^^;))
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裏側。馬が二頭走ってる図柄の透かし彫り
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今あるこの建築物は、江戸末期の1859年に建立された。屋根には堂々と菊のご紋も入ってる(^^ゞ。
江戸時代の将門はよく芝居や物語の素材にも使われ、江戸庶民にも大人気の武将(武神)として持て囃された。
が、この人気のルーツを辿ると意外と古く、徳川幕府初代の家康自身が大の将門ファンだった、という辺りに辿り着く(笑)。
それより前、北条の時代はよく知らないが、太田道灌も将門の社を敬ったと言われる。
まぁさすがにこの頃になると、単純に英雄としての将門の武勇にあやかったんだろうが(^^ゞ、道灌はともかく、家康は、関東に京とは別の政権樹立を目指した人だから、ヨソ者の多く集まる江戸に、その中核となりうる神格的存在を抜け目なく置いたのかな(笑)。
最後の写真に出て来た「馬」は、これまた言うまでもないかもしれないが、相馬氏のシンボルである「放れ駒」の図柄。
これは将門いらいの家紋として代々の相馬氏に引き継がれ、相馬は奥州においても「野馬追い」の行事を伝えて、将門の子孫であることを長く誇りとしている。
なぜ馬なのかと言えば、将門は放牧経営で家を盛り立て、またそれが坂東平氏をはじめ坂東武者の心の拠り所であったからだろう。
また牧の経営というのは、ずいぶん歴史が古いようで、土地としてのルーツに馬との関わりは切っても切り離せない感がある。
この「将門神社」の案内板には、大まか以下の説明だった。
茨城県岩井市にある「国王神社」にも共通性がある。が、(この沼南の「将門神社」では)将門が居住したのは「下総の相馬群、岩井村」(と書かれている)。
将門は父良将(下総介)とともに下総の開発と住民の安定に心血をそそぎ、信望を集めて、風早村大井将門山に出城を置いて、布瀬高野に高野御殿を持ち、その土塀が今でも保存されている。
律令制から荘園制に移行するに従い、領土問題が起きて上総国や日立国と争い、朝廷より追討令を受けた藤原秀郷(俵藤太)が成田の不動明王に戦勝祈願をあげて、日立の平貞盛と協力して、春一番の突風とともに鏑矢を放った。
将門はこれに右目を射抜かれて落馬し、940年2月14日午後3時、再び立たなくなった(死亡した※)。
以上。
ちなみに、風早村、高野、ともにウチの近くの地名ね(^^ゞ。
※「将門の戦死」「将門の死亡」。ともに私の表現で補足してあるが、この神社では「将門が死んだ」「最期を遂げた」といった表現を一切見ない。
「神だから」か、或いは「生存説」を取る立場なのかは判らないが、個人的には着目した。
そう言えば久留里記でも、将門は妙見菩薩が化身した天女との間に子をなしているが、思えばこれもスゴイ事だし、将門の首が京から東京の大手町まで飛んで来た、というあの有名な伝承もまたスゴイ。こういうスゴイ人が「神になった」までは、まぁアリとしよう。
が、久留里の将門を穿って見れば、自分より何代も後に生まれる子らの父になってるわけだ。いかな英雄でも、天皇でさえ、神になるには死が前提であるのに対し、「死んでない」という発想、これこそ何にも増して物凄い(汗)。。
<すすきロード(千葉ニュータウン)>
これはまた別の日だが、やはり11月に千葉ニュータウンを抜けて成田まで東に出て、そこから北上して鹿島までドライブした。
実はその前の9月。同じルートを通って同じドライブをしている(^^ゞ。
その時は夕方から出て鹿島に着いたのは夜だったから、今度はいちど日のある内に行ってみようという事になったのだ。
千葉ニュータウン。名を聞くと、どんな大都会かと思われそうだが、そうでもない(笑)。
では、めくるめく田園風景でも出て来るかと言えば、それも違う(^_^;)。
この辺りを走ってると、何しろ見渡す限り「荒野だ」と思う。いや「原野」という表現が近いかも。
昔なら水域も多く放牧地には適してただろうから、ホントにパッパカパッパカと野馬が走ってただろう(^^ゞ。
しかしそうした想像は全て、田園を開こうが、あるいは放置しようが、山の無い地域ゆえに遮る物も無くただ遠くまで見渡せる、という風景に起因する(笑)。
これは東京のように、ビルがどんどん建ち並んで視界を遮り出すとそうは行かないのだから、ある意味貴重な風景とも言えるのかもしれない。
と言うのも、この辺りもドンドン開発が進んでいる。この所の不況続きで多少遅滞してはいたのだろうが、この先景気が上向けば、加速もありうる感じがする(^^ゞ。
さて、この晩秋の頃になるとススキ野がなかなかに良く、ドライブには気持ちいいコースなので、特に説明もなく、しばらくただダラダラと写真をお見せしようと思う。
↑松戸を東に出て鎌ヶ谷を通過。464号線に入る。さらに東に、白井から印西にかけて千葉ニュータウンはある。今はまだ白井の辺りかな。
↑右にある高架橋や線路は、道路とピッタリ平行に走る「北総・公団線」という鉄道。
ちなみに「印西」という地名も将門伝説に登場する。以前に見た「久留里記」にも、将門自身が「千葉・飯高・印西・周西・浦田など6ヶ所に妙見社を建立した」と伝承されていた。出城ぐらいあっても不思議でないが、これも後の千葉氏の活躍に類するのかもしれない。
途中の交差点で見つけた神社。通り過ぎただけでまだ行った事無いけど(^^ゞ。↓
そろそろ千葉ニュータウンが近付いて来たかな?(^^ゞ
↓背の高いビルが近付いて来る。何段も続くススキ野は一斉に風にキラキラ揺れる☆ミ↓
ってわけで街中に入って来る。でもスグ通り過ぎるんだけどね(^^ゞ。↓
さてドライブ気分のまだ続き(笑)。
相変わらず464号線なんだが、途中で行き帰りの二車線が合流するために橋を渡る。「竜腹寺」の交差点という。
ちょっと面白い橋なんで撮影した(^^ゞ。
ん? 何だアレは?
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おおっ、何か2つに別れてる!
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答は「竜」(笑)。
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この胴体と尻尾の切れてる間に橋がある(^^ゞ。遠くから見ると繋がって見えるトコがミソ。
尻尾がわ。これだけ見ると何だか判らない(笑)
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空に昇り上がるようなシルエット
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↑後の3枚は、実は前に行った時(その時は夕方に通った)写真(^^ゞ。
<うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
さて、印西を抜け、さらに東に進むと次は印旛村。「将門神社」でも述べた印旛沼のある地域に入って来る。
白井とはまた雰囲気の違う……
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しかし見渡す限り原野には違いない(笑)。
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私なんかは「印旛沼」と聞くと即座に「水害・干拓」って言葉を思い出す(爆)。
これは千葉県で社会の教育を受けたので当然なんだが、ナント印旛沼開発の長い苦闘の歴史は、意外と全国的に有名なようで、遠い山陰から来た亭主でさえ「ああ、江戸時代に干拓で」と即答した事があって、ちょっとビックリした(^_^;)。。
私は残念ながら日本史は鎌倉末期までしか授業を取らなかったが、江戸時代をやると必ず出て来る、覚えさせられる、と聞いた。
家康が江戸に来てすぐ、1600年代には開始され、それがナント長々1900年代の中頃、そう、ついこないだまで続いてたのだ。。
驚くべき時間の長さ……。生まれてから死ぬまで水害に悩まされた世代が、ざっと12世代はいた計算になる。
うっ残念! 対向車がぁ〜。。
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もう隠れたけど、ちょっと背を伸ばせば沼が見える。
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走行してる車の中から撮影するには、ちょっと遠目に沼はある。時々チラと見えるんだけどね(^^ゞ。何しろ進行方向の右手に沼はある。
そしていよいよ宗吾に近付いて来る。突き当りを左に折れる。
そして、この「宗吾」という地名のある一帯が、こたつ言う所の「うなぎロード」( ̄∇ ̄)。
印旛沼はいま脇を通ったから、これからは遠ざかりそうなものだが、実はこの印旛沼、これから向かう方向にもある。
道路も多少ジグザクしてるし沼もウネウネしてるんだけど、全く違う場所にある理由は、実は印旛沼って少なく見積もっても二箇所はあるから(爆)。
それこそ長い歴史の間、血のにじむような努力の果てに、埋め立てたりで川幅の狭い所に地面が出来たのかもしれない。
が、昔は一つだったんだろうね(^^ゞ。道路を行くと次々「うなぎ屋」が出て来るのはそれゆえだろう。
というわけで、これから向かう宗吾街道も印旛沼に橋を渡して道がある。この橋を「甚兵衛大橋」という。説明は後でする。
水産センター(印旛沼漁業組合)
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ここで停車〜。これよりウナギを食う(爆)。
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↑左のは加工でもしてる所かな。直営レストランとも書いてあったから、ここでも食べさせて貰えるのかも。
で、入ったのは右の写真の所で、この手前の駐車場に車を入れた。
左側の店に入った。二つ看板がある奥。→
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「い志ばし」と読む
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ナント店内満席 (昼とっくに過ぎてたけど)、「右駐車場」の矢印の庭で待つ事に。
こたつ亭主↑
ちなみに向かいの店も「うなぎ屋」(^^ゞ。最初そっちに入ろうとしたんだが、閉店してた(昼時を過ぎたからかも)ので。
向かいのうなぎ屋「かどかわ」
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なかなか風情のありそうな……
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で、「い志ばし」の裏庭に入る。すると……。
ガビーン( ̄∇ ̄;)。。こんなにお待ちのお客さんが……。
看板にあった「駐車場」はこの右にあるが、停めてる車の中で待ってる家族もいた。。↑
どれぐらい待ったかなぁ(^^ゞ。20分経過した所までは時計を見てたんだが……。
「これから鹿島に行くってどうよ?」
「でも、まぁこの時間なら日のある内に着くだろうし」
「そうだねぇ」
「今からウナギを諦めるってのは無理だもんなぁ」
「絶対無理っ!(爆)」
そんな事を話す内に、わりとドンドン店内から店員さんが客を呼んで(なんと整理番号を配るんだわ)、自分の番が来るのが近付いてると思いながらも、ウナギのこんがりと焼ける、まぁ何ともイイ匂いが店内から漏れてくる。
「どうする? 俺らの一個前で『今日は品切れになった』とか言われたら」
「打ち壊し〜〜〜!(/>o<)/」
「一揆〜〜!\(>o<)/」
「夜討ちぃ〜〜!\(>o<)/」
「兵糧攻め〜〜〜〜〜!ヽ(`Д´)ノ」
もぉ腹が空いてワケのワカラン事を叫び始める、こたつ夫婦であった(汗)。。
そうこうする内やっと呼んで貰え(;∇;)
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無事、店内に侵入〜〜(TOT)。
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結構有名な店らしく、店内じゅうに有名人ぽいサインがドカドカ〜ッと飾ってあった。
「鈴木大地」「岡田真澄」「滝田栄」だけ読めた(^^ゞ。サインって字が読めないよね(笑)。
滝田栄さんの色紙には、大河「徳川家康」の時の写真(家康役)が一緒に入ってた。ロケにでも来たのかな?(印旛沼を見て「ここを干拓しよう!( ̄^ ̄)」と決意するシーンかな:笑)
右から2番目が滝田栄さんのサインと写真
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そして……うなぎ〜〜!(爆)
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いつもはケチケチして一番安いのを頼むんだが、この日はちょっと奮発した(笑)。
美味しかったよ〜〜〜〜〜〜(≧▽≦)!
これでそうでもない味だったら……とか言ってたんだが、期待を超えて美味かった。こんがりとよく焼けて、表面だけでなく、噛むと奥まで「サクサク」と深い音がする。うなぎと言うより、層が厚くシットリとしたパイ菓子の歯ざわり。
さて腹が満足した所で、続き出発(^^)。宗吾街道をさらに行く。
またまた道の途中に……
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又うなぎ屋さん「名鳥」と書いてあったな(^^ゞ
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とにかく「うなぎ」の看板はよく見る(^_^;)。車なんで全部は撮れないけど。
この辺りから、原野とか沼の近くというより、山間の雰囲気が濃厚になって来る。
「宗吾街道」の標識↓。沼地だけあって夜通ると霧も多い。
この「霧」が、手賀沼にせよ印旛沼にせよ多く、目前を波状にフワリフワリと押し被って来る光景は、本当に海の中に入って行くように錯覚する夜も多い(^^ゞ。
「麻賀多神社200m、宗吾霊堂1km、成田山5km」の道路標識。
この麻賀多神社はこれから通るが、麻賀多神社にせよ宗吾霊堂にせよ、実はまだ通った事があるだけ(^^ゞ。
……どころか、「宗吾霊堂」に関しては、YORI様のHPで謂れを知ったのが、ナントつい最近(爆)。
最初に通った時は「ふぅ〜ん。大きな霊園があるんだぁ〜」とか言ってた。
霊園じゃないのよ、霊堂ね。
江戸初期の義民として、歌舞伎や芝居で名を知られる「佐倉宗吾」(もっとも私が知ったのはホントについ最近:爆)の話というのは、ざっとだいたい以下となる。
佐倉宗吾は相次ぐ水害や飢饉に苦しむ領民のために、年貢の負担を減らして貰えるようアチコチ頼みに行くが、何せ「縦割り行政」は日本政治の得意技(苦笑)。どこに行ってもたらい回しにされるだけ(^^;)。
そこで宗吾は直訴に及ぶ決意をし、監視の目を破って村を脱出して江戸に潜入した。
この時、夜間の舟は出しちゃいけないお触れを破って宗吾を舟に乗せたのが、渡しの甚兵衛。甚兵衛は禁を破ったカドで処刑される事を見越し、宗吾を送り届けると自ら印旛沼に飛び込んで命を断った。
なので、この辺りは「宗吾」に並んで、「甚兵衛大橋」「甚兵衛渡し」「甚兵衛機場前」などの地名も残る。
さて宗吾は、江戸城の将軍、4代家綱の通る時を狙って、ご法度の直訴に及んだ。
宗吾の頼みはやっと取り上げられ、領主堀田氏は厳しいお咎めを受けたと言うから、歴代将軍の中で影の薄い4代家綱、なかなかやるじゃん(笑)。
とは言え直訴はご法度。宗吾は処刑され、宗吾の慰霊のために建てられたのが「宗吾霊堂」なのである。
この「どうして宗吾霊堂が作られたか」が実に諸説……伝承もあれば完璧な作り話(芝居など)もあり、あるいは推論あり私説ありで、何が正しいのかよく判らないが(^_^;)、何しろ直訴した宗吾だけが処刑されれば済むものを、宗吾の家族、それも処刑を免れるべき女の子までみんな殺されてしまった、という所がミソらしい。
それゆえに宗吾が祟った。
が、直訴は一族ぜんぶ処刑って話もよく聞くので、祟るのは「宗吾の逆恨み」って感じもしなくはない。
それをまた、家族が処刑されずに済むように、宗吾が妻は離縁し子供は勘当したという話もあれば、それでも堀田正信が女子を男子と書き換えて殺させたとか、いろんな話がある。無論どれがどこまでホントかわからん(汗)。
で、祟りというのが、堀田氏には怪奇な事件が相次いだとか、当主の堀田正信が発狂して自殺したとか、いや自殺じゃなく家綱の死に際しての殉死だとか、発狂というのも、正信が幕府の失政を糾弾した(これは事実らしい)もんだから、「臭い物には蓋」で「発狂扱い」にしたとか、いや正信の幕府への批判は、宗吾の一件で幕府に咎めを受けて逆ギレしただけだとか、その証拠に、一度改易された堀田氏が、その後またこの地に復帰して宗吾の霊を祀った(これも本当らしい)のは、宗吾の祟りを恐れたからだとか、それも又やっぱり郷民と揉めたからだとか、まぁ色々な話が出て来た(^_^;)。
ところが「宗吾霊堂」についてさらに調べた所、なんとこれまたビックリ!
この慰霊をコッソリ行うために、堀田氏がせっせと祀っていたのが、ナントまた「将門」だとか何とかっ!
宗吾が直訴に及ぶ前、村の代表者が「将門山」に籠って相談したとか、「将門山」は千葉氏の威勢が良かった頃は妙見社を祀っていたのを、徳川の世になってから妙見社が引き摺り下ろされ「諏訪社」がとって代わった、とかいう話も読んだな(^^ゞ。
郷土の誇りを踏みにじられた千葉遺臣や領民にとって、もしかして「将門山」は、郷土復興のシンボルだったのかもしれないし、密談に都合良い隠れ蓑だったのかもしれない。
というわけで、擦れ違いの発端は将門を軽く見たからだってんで、堀田氏が将門山にせっせと拝みに行くようになったとか、いや、藩主が領民に頭を下げられないから、将門という神に頭を下げて、心の中では祟る宗吾に謝ったんだとか、だから佐倉の「将門山」というのは将門とは関係なく、実は宗吾伝説が発端なのだとか、これまた色々な話があった(^^ゞ。
堀田氏の子孫で元佐倉市長だった方が、その談話に、「歌舞伎芝居の宗吾宣伝に迷惑してる(だろうね:笑)が、堀田氏には、千葉氏の遺臣への配慮が足らなかったのでは」と指摘されてたのが印象に残る。
血筋に踏ん反り返らず、ご先祖に対しても批判すべきはきちっと批判する。これぞホントの領主。エライ! *拍手喝采*
と、こんな諸説出るほど有名な話なのに、地元でありながらこれまで全く知らなかった(滝汗)。。←えらくない(^_^;)
ちなみに「将門山」には、将門を裏切った将門の妾「桔梗」の墓があり、将門の祟りで桔梗の花が咲かないといった、実に将門オンリーの伝承もある。
ただ、この辺りを何度か通る身の上として一つハッキリ言い切れる事は、この地域は本当に幽霊ぐらい出て不思議じゃないぐらい濃霧の様子が物凄い、という事(爆)。まさに「霊界にいざなわれていく感じ」である。 *上手くまとめたつもり*
というわけで、この道の左にあるのが
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先ほど標識にあった「麻賀多神社」
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ここもいつかお参りに来てみたい(#^.^#)。
宗吾霊堂はこの麻賀多神社のもうちょっと先。
でも謂れを知ったのは「つい最近(爆)」だし、何せこの時は「霊園」と思ってたから、写真なんか撮ってないんだわ(汗)。
<鹿島神宮>
さて宗吾を過ぎると左折、51号線に入って成田に至る。そのまま51号線、すなわち「佐原街道」をひたすら北上して行けば、県境の利根川を越え、茨城県に入って霞ヶ浦も越えて鹿島に着く。
距離は長いが、この道は都会的な大きな道路なので、写真も撮らなかった(^^ゞ。
ただ、霞ヶ浦に差し掛かった頃、ドッといきなり暗くなった事に驚いた(゚.゚)。
時計を見ると……まだ4時になってない(爆)。
見よ、この暗さ!
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拡大。まだ町の灯りもあまりついてない(この辺りはかなり都会よ〜:笑)
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「一雨来るのかな(^_^;)」
「でも(窓を開けて)全然そんな気配ナイよ(^_^;)」
とか言ってる内に……ナント月が出る(爆)。
霞ヶ浦
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月(4時よ(^^;))
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鹿島神宮に到着(5時ごろ)
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実は鹿島神宮に行く手前では、途中でちょっと寄り道した。
と言うのも、どうも雨が降るでもないし、月は煌煌と出たままだし(^_^;)、そのくせこんなに暗いって事は、これは再び明るくなる事はないのだろう。どうせ行ってもロクに見られないだろう、と言うんで、薬屋に寄って駐車場で少し休息してから行ったのだ。
それでもまぁ5時前ぐらいで、上の通り、もう真っ暗よ(^_^;)。
「日本で一番東にいるからだろうか」
「まぁ11月だから日は短いけどね、ウチの方も」
とかワケのわからない事を言いつつ、何とか自分を宥めすかして鹿島神宮まで来た。
「これじゃあさぁ、前に来た時と変わらないよね〜(^_^;)」
「前来た時は夜中9時だっけ?」
「そう。でも中には入れたから同じだよねぇ」
まぁ強いて違うと言えば、デジカメを持って来てる事ぐらいかなぁ。。
神宮前の鹿ちゃんの像。明るいのはここまでなので手持ち無沙汰に写してみる。
では、鳥居を入ってみようか(^^ゞ。
この案内図に沿って軽く境内を説明。
まず鳥居を潜って進むと最初に出会うのが「楼門」。これを潜って右に「本殿」(奥)と「拝殿」(手前)。左にはまず「社務所」、次が「宝物館」。今回行けたのはここまで(^^ゞ。
この宝物館にいつか入ってみたい。古代から伝わる長さ3mの宝刀というのが看板にもあった。
あと、「悪路王の首」という作り物があるらしい。これも見てみたい。
神宮の一番奥には「要石」のある場所があり、子供の頃に行った覚えがある。
以下、明度を上げてご紹介(真っ暗だもん:汗)。
楼門を潜って、左に社務所、右に拝殿 (パノラマ4枚180度)
では入って進む。
正面に「高房社」という小さな祠があり、そこに「鹿島の大神に従って天香香背男を討ったのが、鹿島神宮の祭神、武甕槌神」と紹介され、ここを先に拝むのが古例と書かれていたので、先にお参りした。
「高房社」
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そして拝殿。おみくじもひいた(^^)v。
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さらに奥に続く道
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この「天香香背男」は上の一字を抜かして「カカセオ」と読めるが、これはアイヌ語の「カウカウセウ」が似た音で、これはアイヌ語で「霰(あられ)が降る」という意味。
和歌に出て来る「鹿島」の枕詞が「霰(あられ)降る」なので、元はアイヌ語か、それに近い言葉だったのかもね(^^ゞ。
さて社務所はもう閉まっていたが、警備の人はいた。
お守りだけ見て引き返したが、「伊勢神宮の札」というのがあった。あと目をひいたのは「武道守」と「勝守」かな。
この「勝守」は神田明神でもあったけど、あまり見ない気がする。
「武道守」の方は、「いかにも鹿島〜」と思った。よく時代劇を見ると「鹿島大明神」と床の間に飾ってる道場が出て来る。ホント武道者の神様だもんね(笑)。
あとは社を出てからだが、鹿島アントラーズの旗やら横断幕やらがよく見られた(^^ゞ。
鹿島神宮に入って来る道の途中で「鎌足神社」と書かれた案内板が見えたので、帰りにちょっと寄ってみた。
さすがに鹿島神宮を参拝した後になると、普通でも暗くなる時間になってたのと、鎌足神社のあたりは尚一層暗い道だったので、入ってお祈りして写真を撮っただけね(^^ゞ。
道路の案内
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鳥居(かなり暗いよ(^^ゞ)
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祠
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石碑
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その名の通り、藤原鎌足を祀った神社のようだ。
正直最初に来た時は、この案内標識見て「なぜここに鎌足(^^;)?」なんて思ったんだが(笑)、鎌足が常陸出身とか、常陸に自領を持ってるとか、そういう話があるのを後から知った。
ちなみに、鎌足は「中臣」氏と名乗ってたのを、死ぬ前に功績により「藤原」という姓を賜ったんだが、中臣というのは姓じゃなくて「中ぐらいの家臣(つまり、その他大勢)」を総称した宛名だったのでは、なんて個人的には思ってる(笑)。
鹿島の月(暗くて手持ち無沙汰なので、何となく月を写した)
その時は「今年の月はこんな具合に、雲とのバランスが妙に見応えあるのよね〜」なんて言いながら写したんだが、後になって「その他の、撮影に失敗した月の写真」と見比べると、結構この時の写真が上手く撮れてるのにちょっと驚いた(^^ゞ。
やはり真っ暗だからなんだろうな〜と思う。
最初に来た時も夜だったし、今回も急に真っ暗になった事と言い、何か夜のイメージの残る鹿島であった。
■12月
<駒沢公園(東京)>
さて12月。所用があって東京に出掛けた。時間が余って途中「駒沢公園」に寄った。
まだ千葉ニュータウンから鹿島の行程は、多少は歴史ネタしてたが、この東京お出掛けは全くのネタ抜き(^^ゞ。
ただ紅葉が綺麗だったので、「一応東京でも紅葉は見られるよ」ってぐらいかな(笑)。
千葉と東京。住み比べると、千葉の方が夏は涼しく冬は寒い(^_^;)。
が、これも千葉は縦長なので、南の方は東京より暖かいだろう。
そこんところウチの方は寒い地域のようで、紅葉は東京よりちょっと早く、桜は東京よりちょっと遅い。
という傾向はあるものの、12月にならないと本格的な紅葉が見られない、という年はウチの方でもある(笑)。
もぉその頃になると、忙しくて紅葉どころじゃないんで(^_^;)、毎年紅葉の写真というのは殆ど撮れない。
あと、千葉なら多少は紅葉するが、東京になると「ただ枯れて散るだけ」という木々が大変に多い(爆)。
それでもこうして色づくイチョウなど見て「ああ、秋だな〜(ホントは冬だけど)」などと無理やり思う。それが東京という町なのだ(笑)。
この皇居のある辺りが東京のど真ん中だとしたら、これから行くのは都内でも南西方面。世田谷区である。
皇居からだと電車でも車でも……30〜40分ほどかなぁ(^^ゞ。車は渋滞があるんで、正確な時間なんて出っこないけどね(笑)。
駒沢公園。正式名称「東京オリンピック公園」駐車場。道路側。
(パノラマ4枚180度)
同じく駐車場。逆(公園)がわ。 (パノラマ5枚180度)
このデカイ円盤みたいのは体育館の屋根。
学生の頃、よく仲間と大勢で夜通し飲んで、酔っ払ったあげくここまで歩いて来て屋根に登った(爆)。
でも今時、あるいは一時期の若い子みたいに、大勢いるからってやたら大声で雄叫びをあげるような事はなかったね(笑)。
では公園に入る。ここが入り口の一つ。
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日本庭園の階段
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外国客むけに作られた
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東京オリンピックの時は、さすがに赤ちゃんだったので(笑)覚えに無い(^^ゞ。
なので、ここのどのぐらいが当時の面影を残してるのかもわからない。何しろ「東京オリンピックの跡地に出来た公園」とは聞いている。
この「日本庭園を模した石段@外国客向け」というのも、オリンピックの当時ならともかく、公園全体の雰囲気から見るとちょっと突飛な感じも無くはない(笑)。
けれども和風好みの私としては、ほんの僅かな石段の間だけ和風ムードを楽しめるのは嬉しい。
公園内(右の建物が体育館)
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公園内のまた小さな公園
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園内には車輌は入れないが舗装されていて、よくタッタッタとジョギングする人が通る。ベビーカーを押す人、犬の散歩する人、いつも大勢で賑わっているが、緑地が多く混雑感もあまり感じない。
もう一つ混雑感というか騒がしい空気の乏しい理由は、わりと細々と区切ったスペースが多く、ドベ〜ッと広い場所がそう無い。広い場があっても下のように木々が多く、駆けっこするような雰囲気じゃない。
ここはこたつ夫婦が昔からよく来る広場(^^ゞ。 (パノラマ5枚180度)
↑逆光ぎみで、せっかくの紅葉が真っ黒なのが気になる(汗)。
一方逆側。せっかく色が飛ばずに写ってるのに、こっちは殆ど緑色だったりね(汗)。
(パノラマ5枚180度)
というわけで、果たして東京の12月は紅葉が美しかったのかどうか、今イチよく判らないレポでした〜(汗)。。
時々こうして東京に来る理由の一つに、世田谷に住んでた時、時々行っていた整体(&鍼)に今も時々行くから(^^ゞ。
しかしさすがに住まなくなったので、前はちょっとづつに感じてた町の様変わりが、行くたびに急に変わったと感じる事が多い。
右は世田谷通りに出来た(と言ってもだいぶ前だろうが)お好み焼き屋。→
車で通るたびに「何だろうね、あれ」と言ってたんだが、こうしてカメラに撮ってやっとわかった(笑)。
ちなみに電信柱も赤ポストも停留所も架空の物だろう(笑)。 |
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「大阪の味」と書いてあったが、本当だろうか(^^ゞ。
最後の最後にこんな事をしてたって事は、この年の年末は例年よりは余裕があったんだな〜、なんて事が自分にもわかるレポだった(笑)。
かくして2004年も、どうにか暮れて行ったとさ〜♪ *チャンチャン*
2004年11月26日 |