<2002年・城主のたわごと6月>




ワールドカップ三昧で、気付けば6月ももう後半!(爆)

そろそろ、ここも更新しておかねば……(笑)。



     
  このところ上記の通り、サッカー観戦に明け暮れている(笑)。そうする内に、あっと言う間に半月は経ったのである。

何とかせねば……。というワケで、慌てて手を付けるのはいつも「たわごと」ネタ(爆)。今回も信州旅行編の続き。

さてさて、祭りの後の我々は、おもむろに史跡巡りなど開始した。

実は梵天丸夫婦は松代に来るのが初めてである。
松代と言えば……江戸時代は当初から幕末まで、信州真田藩の城下町であった。
真田宝物館なる地元の郷土資料館では、ここと、ここから歩いてすぐの真田邸(9代藩主幸教の母貞子の方の隠居所)と文武学校(嘉永年間設立。松代藩士の子息達が剣、柔術、弓、槍、文学などを学んだ学校)をあわせ3点セットの拝観用のチケットが販売されている。3箇所のいずこから入っても、このチケットを購入できる。

この3点に加えて、真田家菩提寺の長国寺がやや離れているが主要観光ルートと言える。3点セットは案内無しでも来ればいつでも見られる事だし、まあ長国寺に行っておこうかの。。。

ハッ(・・;)、まるで松代観光ページになってる気が……!(爆)
このまま行くとホントに松代の回し者になりそうだから、これ以上は、検索すればどっかで説明が出て来ます、と濁して(笑)、ここでは省かせて貰おうか。

しかし案内人としてあまり出来が良くない我々は、この日、祭りの道路規制に引っ掛かり、長国寺に入るまでに少々道に迷ったりした。それでも何とか無事到着。

ここはいつ行っても、それなり新しい話が聞ける所なのだが、この時も奥の霊廟(初代藩主真田信之と4代藩主信弘の物がある)に案内してくれた方が楽しい話をしてくれた。

真田家、家督相続における裏話(^。^)。うひょひょ〜、そうだったのか〜。

何処まで書いていいやら判らないが、要するに、養子を取ってからお跡が生まれ、その一族の墓というのがココにはある。これ以上はやめておこうか(笑)。

城下町(跡)だけでも見所は沢山あるのだが、キリもないからココを離れ、ちょいと見晴らしのイイ場所から町を見下ろそう。

松代は盆地である。町は東は寺尾山、南なら白鳥神社、西には象山などあらゆる角度から見下ろせるのだが、戦国に由来して見晴らしもイイ格好の場所と言えば……まあ、象山よりちょっと奥(さらに西)にいった妻女山だろう。

妻女山に向かう途中、まず松代銘菓(と私が勝手に思っている)「真田の太鼓」を探し歩く。
何しろ交通規制を喰らっている上、さすがは城下町で、「だいたいこの辺で曲がれば……」とアタリをつけてもまだ迷う(汗)。

しかしようやく到着。銘菓「真田の太鼓」はココで売っている!
「象山屋」である! 名の由来は当然、地元の英傑佐久間象山にある(と思う)。

ちなみに隣は薬局。菓子を買ってみようと言う方、松代駅で町の地図を貰って下さい、松代町内であれば非常に正確に殆どの店が書き込まれてます。
で、前回も宣伝したので、「真田の太鼓」について触れる。

……美味しい(^。^)。

「ボケッ! カスッ! も少し詳細を言わんかぁ〜っ!」 キャーーー\(>o<)/!

という声が聞こえた気がしたので、中身を書くと、これは……えらく単純なクッキーサンドなのだ。
しか〜し! そのクッキーが何とも独特な柔らかさというか堅さというか、ビミョーにケーキ風でもあり、しかしあまり甘くない。その上から砂糖!……そう、これまたえらく単純にペラッとシロップ風の砂糖が塗ってある。

サンドされている物……これもえらく単純な「アンズジャム&バター」。

いや、マジでこれだけの素朴な菓子である。ただ不思議な事に、一個食べるともう一個に何となく手が出る。気安く食べられる味って事になるのだろうが、かなりスイスイ食べられる点が、私に言わせると「銘菓」に該当するのである。
これが若草色の薄い和紙に包まれ、ペタと「真田の太鼓」というシールが貼られている。それだけである。一個百円ぐらいだった気がする。

さて、いよいよ松代の町をちょっと出る。
信玄の次弟、左典厩信繁の墓がある典厩寺に寄る。道路が前と違っていて、実は前に比べてわかりやすい道路事情になってるのに、昔のアタマでわざわざクネクネした道に入り込んで迷ったあげく、一応到着。

武田左典厩信繁。この男は川中島合戦で戦死した。信玄にとって非常に優れた弟であったらしいし、この後にこの地に入った真田氏は武田氏の麾下にあったから、この信繁や前に書いた高坂弾正の墓などは、非常に丁寧に守られて来たのだろう。

さて、次は妻女山。川中島合戦では上杉謙信が陣取った場所と言われ、有名なわりに一時期は非常に廃れていた。

ココが謙信の陣跡なのかで論議があるやにも聞くが、今でもうっかり地元のタクシーなどに乗り、車内で次はどこに行こうか話しててこの山の名を出すと、「妻女山!」と激しく反応して、いきなり妻女山方向にハンドルを切る運転手も居る(爆)。

地元の売りかどうかはわからない。松代には名所旧跡が多すぎて、運転手によって「売り」が違う。
しかし妻女山からの眺めが良い事だけは否定しない。手前と奥の千曲川(上流で二つに分かれてます)の間に広がる八幡原が一望に見渡せるからである。

到着。亭主、がんばって上っていく。
車中「俺はついにこの坂道を登るっ!」と興奮し、絶叫する。

何度も徒歩やタクシーで来てるのだが、それをおのが手でハンドルを切って登る事が、彼にとってタズナをさばく若い騎手の如く嬉しいらしい。妻女山は彼の最も好きな史跡と言っていい。この先どう史学的に否定されても、彼は何度でもこの山を絶叫しながら登るだろう。

さて、頂上に着くと二台仲良く車を停め、展望台に上る。たまたま居合わせた観光客の方が写真撮影をして下さった☆ミ

カシャッ!
左こたつ夫婦、右梵天丸夫婦
(4人の後ろのテーブルは合戦の説明地図)

この後は、時間的に最後の史跡巡り。八幡原古戦場跡。川中島合戦の中心地と言われる場所である。
合戦はおびただしく広範囲で行われたと伝えられ、東西は松代駅を挟んで3〜4駅ほどに跨り、南北は松代より南方面から長野に至る途中までを北としている。つまり松代からやや北に外れた東西地域に、激戦の爪痕と言われる史跡が点在する。

それらのほぼ中央に位置する「八幡原古戦場跡」は公園となっていて、敷地内は広く、長野市立博物館もある。有名なのは信玄と謙信の一騎討ちの銅像で、ここの前で講談のオジサンがよく団体バスの人を相手に、刀を振り下ろしながら声を張り上げ、伝説の川中島を伝える光景に出会うものだが、この日は居なかった。

ここもウンザリするほど有名な場所であるから、検索されれば必ずどっかで信玄謙信の一騎討ちの銅像写真に出会えるだろう。

「さて、だいたい終わり」。
こっから先は何処も遠いし、既に夕暮れとなって拝観時間も終えようとしているので、古戦場の土産屋を物色。
「あらっ、ずいぶん久し振りじゃない?!」
と声を掛けてくれたのは土産屋(龍虎売店)のオバサン(笑)。健在である。最初に会った18年前から全く変わっていない。こんなに年を取らない女性が居るだろうか。

後は腹が減ったので、松代方面にちょっとバックした近場の釜飯屋で一服。

この釜飯屋には、松代に入ったばかりの時、実は驚愕した。

「おぎのや」である!
「うっ、横川で食えずとも、ココで食えるってコトか(・・;)」

スイマセンねぇ。気を利かせて頂いて。私が行きに横川で釜飯を食べられなかった事、そしてその行き先が松代である事を、一体どなたが連絡してくれたのでしょう(^_^;)。←こういう勘違いの出来る自分って、長生きだけは出来そうに思う

この「おぎのや」がこの辺り一帯の一大土産屋と化していて、結構いろんな土産が売ってて嬉しかったりしたのだが、実はこの時もう金があまり無くなってしまい、梵天丸夫妻とはここで別れを告げ、我々は銀行に寄りに長野に一度バック。長野からまた戻って高速に乗り帰路についた。

途中寄った横川SAで、松代の「おぎのや」で買えなかった、ぬいぐるみ「かまめしクン」を買う(爆)。

初公開!
(でもない、このあと石和で見せてしまった人も何人か居る)
これが「かまめしクン」だぁっ!

かまめしクンには手足が生えている!
かまめしクン、後姿だ!

自ら被せる蓋には「峠の釜めし」の字が!
正面からラブリーに微笑むのだ!

さらに頭の上の蓋を外すと……→
パカッ! 具が乗っているぅぅ〜!

この具の種類を残らず全部言えた人……アナタは「おぎのや・峠の釜飯」のプロだ!(何だそれは)

出来れば次回行った時には、釜飯を食う時には必ずトリオであった所の「揉み出し茶クン(注:そんなグッズはナイ)」とか「オマケ漬物クン(注:だからナイってば)」などとセットで売っててくれてる事を祈りつつ、本日のたわごとはこれまで!

2002年06月19日
 
     




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