<2018年・城主のたわごと1月>



2017年5〜7月、「将門フォーラム」と近隣レポ♪

後半は牛久沼「東林寺城跡」「千勝神社」「牛久沼水辺公園」!




     
  冒頭は例によって宣伝(^。^)、前5回と同じ↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「湯島天神(天満宮)編
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>

この前後も……、

境根原古戦場ウォーキング(2016年6月号)、松戸の根本城跡(同7月号)、北総の龍腹寺(同11月号)、松戸の中根城跡・上本郷城跡・上本郷館跡ウォーキング(2017年4月号)、北総の龍角寺に松戸戸定邸(4〜6月号)、東京の清澄庭園・手賀沼の鷲野谷城跡(8月号)、松戸の根本城跡、萬満寺(9月号)

など、小ネタ史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り……↓

〜おしながき〜「武蔵千葉氏編」1〜4
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

その前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

その前の古河も出しとこか(^。^)↓(それはもいって?www)

〜おしながき〜「古河編」1〜2
2015年「4月のたわごと」(古河1)
■11月・茨城県古河市
<関宿を経由して古河へ入る>
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>
<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>


同「5月のたわごと」(古河2・他)
<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」> ■11月下旬・茨城県古河市
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)、2>
<「長谷寺」(長谷観音)>
<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>
<古河総合公園A旧民家(中山家と飛田家)>
<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>
<古河総合公園C「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>
<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>
<鳳桐寺>
■11〜12月・千葉県北西部
<晩秋〜初冬の風景>

今回は、5月の途中から7月まで。
5〜6月は、又々時間の余裕がなくなって、あっちゅう間に過ぎる(^_^;)。。
東京でスカイツリーの写真を撮り、手賀沼公園で束の間のひとときを過ごし、我孫子で「平将門フォーラム」の講演を拝聴。

すぐ7月になって(笑)、ちょっと余裕が出たのか、利根川ゆうゆう公園とか、松戸市立博物館と21世紀の森と広場の写真なんかがある。

そして後編は茨城県の牛久沼に行ったレポをお届け。
まずは「城中観音堂」。次に、前も行った「カッパの碑」の森林道と、小川芋銭の住居跡「雲魚亭」。
今回お初に訪問したのが、「東林寺城跡」と「千勝神社」、最後に「牛久沼水辺公園」で夕焼け〜☆



■2017年5月・東京都荒川区・千葉県我孫子市
<スカイツリーの見える風景>


ヤボ用(仕事の打ち合わせ(^_^;))で東京に行った折、ビルの高層階から臨んだ風景。

中央にツンと立つのがスカイツリー(地図

スカイツリーは千葉北西部のウチの方からもよく見え、ちょくちょく千葉県側から写した物を載せるので、東京方面(逆側)から見える物を載せてみた(^^ゞ

写してる方向は南東に隅田川を超えた墨田区あたり。
さらに先には千葉県の浦安、もっと先には東京湾、そのさらに奥には千葉県の千葉市があろう位置だが、無論そんなトコまでは見えようハズがない(^_^;)。

……ちなみに、今いるのは、このスカイツリーより西北の荒川区あたり。

広いベランダ(バルコニー)から陽光を浴びるビルの室内

お外(地上)。……なぜか南国情緒(笑)

……てなトコ(何しろ都内)から、上層階にのぼって、さっきの下界を見下ろしたわけ(^^ゞ

←再びスカイツリー
↑そして、その左端の方面が千葉北西部

というわけで、これより千葉北西部にワープで戻ります ε=(┌ ̄_)┘<ダダッ ↓



<手賀沼公園(我孫子市)>

イキナリやって来ました、手賀沼公園(^^ゞ(パノラマ2枚)

ここでもスカイツリーを見るのか……見ません(^_^;)。
ここは我孫子市。千葉県でも最北端。
もうちょっと東京寄りの松戸でもスカイツリーは小さく見える程度だから、ここからとなると、見えてもさらに小さい事でしょう(笑)。

地図←これが手賀沼公園のある位置。拡大してもらうと、公園内部の間取りがよく見れる。
上の写真は、公園中央の手賀沼に対して直角に凹んだ部分。見ての通り、凹んだあと、右手に向かってズズイと岬状に伸びている陸地にこれより向かう。

来た(^^ゞ。ヒタヒタ寄せる湖水に触れられる岸辺(パノラマ5枚180度以上)

↑パノラマ状にしてあるので、ずいぶん魚眼だが、前方の陸地が今歩いて来た対岸。

ここがこの手賀沼公園で、湖水に触れられる唯一の場(^^)
手賀沼は大きいので、ここ以外にも、船に乗ったり魚の釣り場なんかで、水を直接触れられる所はアチコチあろうけど、子供でも安全に水遊び出来る場としては、ココが一押し(^O^)!

さらに←左に進んでみよう。

又々パノラマなんでスゴイ魚眼だが……(パノラマ6枚180度以上)

横1列に繋げて撮影してるから、上の写真のように横に真っすぐに見えるが、地図←また拡大して貰えればおわかりの通り、実はここ、湖に向かって突き出した部分だから……↓

実はこんな風に丸く出っ張ってる。奥の陸には→
こんな石造物がある

もっと後ろに退いて写せば、もっと丸く出っ張っている形状がお伝え出来よう。
しかし、これ以上後ろにゆくと、撮影者(私)が湖に落ちてしまう(^_^;)。。

逆に陸地の方から、湖の方を振り返ると……↓

左手前に石造物、奥の手賀沼に岬の先端が突き出している(パノラマ3枚ほぼ180度)

この通り、かの石造物は陸に広がる芝生の上にあって、「片U(僕の宇宙儀) 佐治正大」という説明版があるので、ゲージツ品なんだろう(^_^;)。。ここだけ箱根の「彫刻の森美術館」風。

ちなみに、この手賀沼を、よく「我孫子市」と紹介したり、「柏市」と紹介したりするが、手賀沼は沼の真ん中に市境がある(^_^;)。
ここ「手賀沼公園」がある湖北は「我孫子市」、手賀沼の南(いわゆる沼南)は「柏市」である。

以上、5月はわりとあっと言う間に終わった(^_^;)。。



■6月・千葉県我孫子市(柏市・松戸市)
<平将門フォーラム(アジサイと手賀沼)>


この表題の慌てぶりからも覗える通り、6月はさらにあっと言う間(^_^;)。。

まず、「平将門フォーラム」というのに行った
岡田清一・講師

「フォーラム」と銘打つだけあって、講師は大勢おられた。私の読んだことある本の著者は、岡田清一氏だけだったのと、こういう場でバシャバシャ撮るのも何となく憚られて(撮ってる人もいっぱいいたけど)、このフォーラムの写真はこの2点のみ(^^ゞ。

この後は、季節の写真に取り交ぜて話そ〜(((つ^o^)つ<フヨヨン
(後ろに続く写真は、だいたい柏と松戸の風景で、このフォーラムとは全く無関係でつ)

まず講師のラインナップは……、

1、『将門伝説を取材して』三谷和夫氏(※)
2、『我が町と将門』
  取手市=飯島章氏(取手市埋蔵文化財センター・館長)
  流山市=北澤滋氏(流山市立博物館・学芸係長)
  坂東市=富山恵一氏(将門研究家/ガイド会・会長)
  我孫子市=辻史郎氏(我孫子市教育委員会・生涯学習部・文化・スポーツ課・主幹)
3、『平将門の生産力』
  「馬」=岡田清一氏(東北福祉大学大学院・教育学研究科・教授)
  「鉄」=柴田弘武氏(古代史研究家/えみし学会・会長)
  「布」=染谷冽氏(関東学研究会・代表)
終了後ディスカッション
主催は「関東学研究会」で、我孫子市・坂東市の共催、取手市・流山市の後援である。

トップバッター(※)は、チラシ段階では、↑三谷氏ではなく、「村上春樹氏」とあった。
このフォーラムの開催は、地元の学習会で配られたチラシで知った。
その場で、村上氏が来られず、三谷氏に交代となった、というスピーチもあった。

手元のスマホでwikiを検索して、「という名の、平将門の研究者がいるらしい」と、認識したものの、「アノ(小説家の)村上春樹かと驚いた!」と呟いたら、すかさず「そう!字まで全く一緒ですよね!」と呼応する人もいた(笑)。


↓百合の花は見かけるのが珍しい|ω・`)
そして今年も梅雨時を彩るアジサイ(^^)→

そうこうするうち、当日になった。
「ちょっと早めに行った方がいいかも」と思いつつ、そういう具合に運ばず、何とか30分以上前に到着したが……。

「立ち見になります。宜しいでしょうか」と受付で断られてしまった。 *うっ*

私らはまだ行列に加えて貰えたけど、それより後に来た人らなんかは、どこに並べばいいのか案内も行き届かず、自主的に行列を作るものの、部屋に入れるかどうかもわからない始末となった。。。

会場は「我孫子市市民プラザ」と言い、我孫子駅に近い「あびこショッピングプラザ(地図・イトーヨーカドー・セブン&iの看板が目印)の建物にある。(渡り廊下で隣接していると言うべきか)。

我孫子市というのは、千葉県でも端の……ハッキリ言って、そんな都会並みのイベント慣れしてない地域だと思うよ(^_^;)。
会場で市民の方が話しかけて下さって知ったのだが、どうも我孫子の市民ホールが、耐震だったかアスベストだったかで、何しろ今は使用できなくなったから、という内情のようだった(^_^;)。。

ようやく部屋には入れたものの、少しでも見やすい位置に背を宛てられる壁を探すのみで、以後、立ちっぱなしのまま5時間近くを過ごす事となった(^_^;)。。
前日まで徹夜のあげく立ち仕事してた亭主には、ずいぶんツライ午後となった。

開幕するや、早速「ここまで盛況になるとは……問い合わせの電話がジャンジャンかかってきて、こんな事は、我が市始まって以来です。驚きです。快挙です!」みたいな挨拶が飛び出て(笑)、何とかスタートを切った。

一人15分〜1時間程度の時間配分がされてて、終了が近づくと係員が押しリンをチンチン鳴らして急かすんだけど(まるで学会(^_^;))、後ろにいくごとに予定とはズレまくった(笑)。


アジサイって本当に七色、いや、それ以上に多彩だよね〜
↑全て鉢植えで何色も咲き揃ってるのが圧巻!

さて、どんな話が行なわれたかだが、貰ったプリント類に走り書きしたメモから思い出すと……。

まず現在、福島県の相馬市と千葉県の流山市は、姉妹都市となっているそうだ。

これは、鎌倉時代の末期(1323年)、千葉氏の支族(千葉六党)で、将門子孫をも称してきた相馬氏相馬重胤)が、下総国から陸奥国に下向したからだろう。
相馬流れ山」という民謡に、相馬野馬追の様子が歌われており、これは相馬重胤が家臣らと連れ立って陸奥に下向する道すがら、故郷・下総の流山を偲びながら歌った、と伝えられているそうだ。

そういう事から、姉妹都市が成立したのだろう。
どちらの地にも、将門の伝説が伝わっており、イベントや展示会の折には、互いに所蔵の宝物や資料を貸し借りしあっているんだろうと思う(笑)。

ここ「たわごと」では、2008年の将門ツアーのレポで紹介した所で、取手(茨城県)の、将門誕生地とされる寺田の「総代八幡宮」と、米ノ井の「龍禅寺・三仏堂」も取り上げられた。
龍禅寺の近くの大日山古墳仏島山古墳には、将門とその愛妾・桔梗の前があるという伝承もあるらしいので、今度、また行ってみたい(^^)

取手に誕生説がある理由は、将門の母犬養春枝の娘とされるからで、犬養氏が相馬郡の豪族だからというのだが……。
ただ、将門生母が犬養氏というのも、『尊卑文脈脱漏』によるんだよね(^_^;)。つまり、相馬氏が成立した後……という事になる。

相馬氏がこの相馬の地を取り込むために将門の子孫と称した事や、将門に関する伝承の殆どが江戸以降の創作であろう……といった歴史考証は、抜け目なく説明されていた(^_^;)。

確かに詳しく内容を聞くと、史実と無縁そうな空気が感じられる。
例えば、この三仏堂の生誕伝承には、こんな逸話がついている。

まず、将門の母が「大蛇の化身」だと(^_^;)。
そして、生まれた将門の体を舌で舐めまわしていたところ、21日で全身が終わるものを、20日目に、将門の父・良将が約束を破って覗いたので、こめかみだけを舐め損ねてしまった。
だから将門は、こめかみを矢で射られて討ち死にしてしまった、と……(笑)。

逆に、これまでは、「江戸時代以降」と決めつけられて来た野馬土手が、発掘調査の結果、その前時代から殆ど変りがない事が判ってきた、という報告もされた(^O^)。
将門が牧の経営を行なっていた件なども、今はだいぶ確実視に近づいてきているようだ(^^)。

以前は、農業に適した常陸の領地を叔父らに占領され、将門は土壌の痩せた水害の多い土地に追いやられたかの如く説明されていたものだが、この頃では、多くの水流に囲まれているお陰で、農業には適してない代わりに、放牧経営(馬の囲い込み)や砂鉄の確保(水運)に効率が良かった、という見解がされ始めているようだ。



坂東市からは、国王神社における将門命日の供養が紹介された。
すごく独特の行事だった。

国王大神」の掛け軸をかけ、灯明、酒、生け花、供物を供えてを鳴らして念仏を唱える。
般若心経を一反、不動明王真言を百反、白川神道(吉田道の前の流派)による三種大祓を百反、そして回向文を唱える。
終わると、餡かけ団子、強飯(赤飯)、蜜柑、甘酒、酒一升、葡萄酒一升を振る舞う。

なんともスゴイ気がする! 宗派も酒も、あらゆる種類が取り揃えてある。
将門が今の世に生きてたら、酒と甘酒とワインのどれを好んだかなー、と迷って全部出しちゃうような感じ!

将門は死後、地獄で永く苦しんでる様子が『将門記』に書かれている。
だから、あらゆる方角からあらゆる手段を講じて、何としても救い出して魂を安らげよう、という気迫のようにも感じられる。

東京の浅草に、将門の菩提を弔った、時宗の流れを継いだ神田山・芝崎道場「日輪寺」地図)が今もあり、同じ命日(2月14日)に、やはり般若心経と「時宗のお経」が唱えらえるそうだ。


わ〜い、お水くれるの?嬉しー!
トポトポ、ゴクゴク美味しー☆

↑また、手賀沼にやって来ました。トレーニングに付き合って走ったのか。ご主人さまにお水を貰って、美味しそうに飲んでるワンちゃんを見かけた。

このたびは我孫子で開催されたので、我孫子をはじめとする千葉県(特に西北部)に伝わる将門伝承が多く語られた。
まず、日秀の将門神社。大井天満宮。沼南の王城通り、将門山、東金の出生地など紹介された。

日秀の将門神社というのは、前に将門特集をやった翌月号で、手賀沼の南の将門神社とともに、北の将門神社を紹介した事がある。そこだ。
ここの伝承については、首曲地蔵とか将門井戸とか、さすがに我孫子市側からの講義に詳しかった。井戸などは周囲に跡地があるらしいので、今度行ったら、そこで話したい。

大井天満宮」の方は初耳で、ネットで探すと、前に参拝した「芝崎神社」を指す記述も見つかるが、どうなんだろう?
フォーラムでは、芝崎神社と神田明神の前身の柴崎道場との類似性への言及もあったので、柴崎神社を指すのかもしれない。

沼南の王城通りについては、以前たわごとでもレポした通りだ。
将門山というのは、江戸期の佐倉宗吾の事件があった折、その舞台として登場するから、佐倉の将門山(大明神)が一般的だが(今度行きたい)、こないだ行った手賀沼の南、福満寺にも将門伝承が伝えられ、その近くを「将門山」と呼ぶようでもあった。
私は福満寺で行ききれなかったけど、将門の愛妾・車の前の五輪塔の話も出た。

最後の東金の話は、将門の母が道中で産気づき、竹を組み、川の水を産湯に、将門を生んだ、という話に基づいて、「将門サミット」なる催しで、将門の少年時代のドラマが行なわれたそうだ。(検索したら、こんな伝承が見つかった→「東金の昔話、将門誕生」(@「将門ブログ」より)

それから、市川大野に「首塚」があるという話も出た。
これは、二度ほどレポした「本光寺」の近くで、前から目をつけてる城跡だと思う。将門伝承を持つと聞いている。
実は、本光寺に行くようになったのも、その城跡が目当てだったのだが、入れるかどうかわからなかった。
しかし検索してみたら、レポしてる方もおられるので、お参りできるようだ(^_^A)。今度訪れてみたい。

それから、桔梗を植えなくなったり、生えなくなった理由に、桔梗の前が善玉だったり悪玉(裏切者)だったり、各種の伝承があるという話は、将門信者が成田山詣でをしない話とともに、何度も話が出た。

我孫子ならではの逸話としては、我孫子には、杉村楚人冠という文化人の邸宅(今は記念館)があるのだが、生前の楚人冠が、地元の家政婦に桔梗の花を頼んだところ(描写するのに必要だったのか、飾りや生け花だったのかはわからない)、「この辺りでは、桔梗は集まりません」と言われたという。

楚人冠は和歌山県の出身で、上京後も東京に住んで、我孫子には震災後に家を構えたようだから、桔梗の禁忌が、当時まだ息づいている事を知らなかったんだろうね(^_^;)。


手賀沼の日没。(地図
↑(拡大)。一年で一番日暮れの遅い時期となり、いつまでも明るい一日も暮れかけている。

以上のように、このフォーラムでは、将門自身の生涯や、平将門の乱(承平天慶の乱)そのものについては殆ど取り上げず、茨城南部や千葉北部に伝わる将門伝承(痕跡)が多く語られた。

講演会場に隣接した展示会場にも、江戸期の浮世絵がズラリと並べられ、購入した小冊子にも、「将門伝承」に重きが置かれ、その種類を「冥界・調伏・祭祀(将門を祀る様々な神社にまつわる伝承)・王城・首・鉄身・七影武者・藤原純友(との呼応)・親族(愛妾や従者も含む)」と、項目を分けて列挙されていた。

中でも、やはり滝夜叉姫は大きく取り上げられていた。
展示室に並ぶ浮世絵には、滝夜叉姫と共に登場する、その弟(将門の男子)の良門が、藤原純友と結託して謀反を起こす……という筋立てが書かれており、「こんなストーリー展開なんだ!(≧▽≦)」と驚いた!
江戸時代の人は、こういう活劇に熱狂して拍手喝采したんだろう(^_^;)。

講座の締めくくりとして、将門の江戸における人気を、「(江戸とその周囲に)住民が増え、ヨソ者の拠り所となったから」と解説していた。

将門の伝承は、時宗など遊芸者・芸能民による慰霊に始まり、街道渡河といった交通路を基点として、江戸中期以降には、浮世絵講談で話を伴って拡散された。

水戸道中、なま街道、渡場など、交通路の整備に伴い、人々は流動化し、無縁の地が拡大し、新田開発干拓などで、地域が活性化すると、将門伝承は地域同志を結びつけ、隙間を埋める精神的な拠り所となり、坂東(関東)のシンボルとなった。

江戸が帝都となり、東京になり、戦後になっても、東京の外側にまで新興住宅地が広がり、「ヨソ者」は、ますます増え続ける一方だ。
今日の皆さんがまさにそうです。このフォーラムの盛況が良い例です。このたび将門をやると言ったら、電話がジャンジャンかかってきて、我孫子市始まって以来だそうです」と会場を笑いで沸かせた。

トップリ……

その後に続いた「馬・鉄・布」のテーマ別講演では、ようやく将門のいた時代が語られたものの、やはり将門自身の話はなく、と言って中央史でもなく、時代背景としての地域産業に重きが置かれてた感じがする。

どれも一言でいうのは困難なので、特筆したいトコだけ書く。
将門のいた地域と製鉄の関係。これは近年、製鉄遺跡が多く見つかって、何かと取りざたされてる点だと思う。

ただ……、これは事あるごとに言うんだが、よく言われるような、「将門は製鉄を行っていたから、武器に優れ、兵力も強かった」←真っすぐここに進むべきではないように思う(^_^;)。

と言うのも、前に古河を訪れた時に買った本からもうかがい知れた点で、その地域に製鉄が行なわれる理由は、将門より100年以上も前の、陸奥の平定(坂上田村麻呂の頃だね(^_^;))にあるとみられるからだ。
それを将門に特化して話し出すと、方向性が変な具合に折れ曲がってしまう(笑)。

さらに言うと、将門の時代になると、東国における製鉄はそう珍しくない(^_^;)。
武器云々にも勿論、鉄の存在は重要だが、それより農具としての需要が多かっただろう。
今回のフォーラムでも、むしろ製鉄所は「将門の乱をキッカケに閉鎖された」という見立てになっている(^^ゞ。

一応、突くタイプの刀から、切るように反りの入った日本刀にいく過程の武器を、各年代ごとに並べた図で説明があったが、正直、将門と製鉄と武器が云々という話題は、ちょっとナンセンスに感じてしまう(笑)。


それよか、将門が古河を勢力下にしようとしていたのではないか、という説がこの頃は出ている、という話が聞けた点は収穫だった。これも古河の本に取り上げられていた。

このあと、8月に、栃木県の唐沢山城跡にいくんだが、藤原秀郷と将門の衝突に、古河を取り巻く勢力図を交えると、伝説や神話の世界から、何か急に地域史が浮き出して感じられる。

最後の「布」は……ようやく椅子が空いてきて、やっと座った途端、疲れが出たのか眠気に見舞われて、所々抜けたが(笑)、大まか、関東の織物業が、他の地域に比べていかに生産性が高かったか……という話だったような気がする(貰ったプリントから察する限り)

これは、将門を語るために何か資料を提示する……と言うより、逆に、坂東における織物業の優勢を語るために、『将門記』を引き合い(資料文献)に出した……という気がする(笑)。

例えば、将門の妻(良兼の娘)が、良兼軍に捕らえられてしまった時、共に船に積まれた「雑物物資具三千余」が差し押さえられており、これが布であった……という具合。

小飼川・糸繰川・絹川・桑原・蚕子・布佐・結城・綾戸・羽鳥など、「布」に関する地名が多いなども紹介された。


……といった所で、「平将門フォーラム」の報告を終える(^^ゞ


 
■7月・千葉県我孫子市・松戸市/茨城県龍ヶ崎市・牛久市・つくば市
<利根川ゆうゆう公園、「親水護岸」(水上ステージ)>


あっと言う間に7月(^_^;)。。
この日は、前も一度だけレポした事のある「利根川ゆうゆう公園」に来た。
利根川の河川敷を横いっぱいのスペースを使って展開され、西に行くと、広いグラウンドが3〜4個続けて出て来る(そのうち2つは野球場のようだ)。

一方、前に紹介したのは、公園の東端にある、ピクニック広場やキャンプ広場で、川にせり出す「親水護岸」なる水上ステージ地図)を、「不思議レポ」した(笑)。

右に広がる白っぽいスペースが水上ステージ前の広場↓(パノラマ4枚以上)

行き過ぎた草むらの中から
突如、ステージに降りる道が出現!

前もレポした通り、この“道”は途中で土に埋没して消滅している(^_^;)。。
だからステージに辿り着く方法は、今の所無い(笑)。そのステージというのも……↓

水辺の雑草に覆われて、殆ど姿が見えない( ̄∇ ̄;)(パノラマ4枚180度以上)

このステージ手前のスペースは、←この通り、緩やかな下り階段で、水上ステージを見下ろす観客席のような作りになっているのだが、階段もステージも旺盛な雑草に浸食されて、その用を果たしている様子が伺えない(^_^;)。

前にレポした時も、このステージで「耳なし芳一のライブをするんだろうか」と、幽気のこもったアナウンスをした(笑)。

そもそも、この「ゆうゆう公園」じたい、いつも閑散としてて、大勢の利用者が訪れてるのか疑問だが(笑)、それでもいる間に、自分たちの他に、必ず1〜2組程度のカップル(家族や友達連れ)が来ているのに出会いはする。駐車場にも一台ぐらいは停まっている。

だから連休とかスポーツの試合が近い時期など、大勢が使う事があって不思議ではない。(あまり大勢を見たことないけど(^_^;))



<「松戸市立博物館」と「21世紀の森と広場」の通路>

この項目だけ、現時点の7月のに加え、2月とか4月とか、ちょっと前の写真も交じる(^^;)ゞ

21世紀の森と広場」(地図)は、松戸市を代表する大型の自然公園で、非常に多くの人が訪れる。
常々「ここをレポしないと(^_^;)」と思いつつ、規模がデカイのと、あまりに地元すぎて、写真もいっぱいあるし、いつでもいいと思う内、ついに取り上げないまま過ごしている(笑)。

右の図が公園内マップで、例によって、字は私が大きくした物を上から書き入れている→
(「何々の森」とか、もうちょっと場所名が多いが割愛した(^_^;))

←こちらは上の図の左寄り中央部分を拡大した局部。
中央口」と書いてあるのが、公園のメインの入口で、「森のホール21」という大型劇場施設と隣接している。

その上部を横切る道路の向こうに「松戸市立博物館」がある。
本日は、この「中央口」から公園への導入部分と、道路向こうの「市立博物館」への地下通路のみ取り上げてみる(^_^A)

まず、「森のホール21」を背にして、中央口(地図)から公園の方(↑の図だと右側)を見下ろす。すると……、

左の丸屋根のビル↓が上の地図↑に見える絵と合致しよう(パノラマ4枚180度以上)

さらに、絵地図にも示され、↑上のパノラマ写真にも写っている、道路の向こうにある「松戸市立博物館」(地図)というのは……↓

道路の向こう側にこう見え
こんな地下道を潜って歩いてゆく

トンネルの入口に刻まれている字は、「森のプロローグ」と書かれており……

トンネルの中は森の樹々を表す透かし彫りと
森に訪れる野鳥の展示

この野鳥は確か、剥製ではなく地元の彫刻家が作ってくれた物じゃなかったかな(今度調べてみよう(^^ゞ)

このトンネル(森のプロローグ)を抜け
階段を上がると……

道路の向こうに「森のホール21」が見え……↓
振り返ると「松戸市立博物館」→
つまり、道路の下を今のトンネル(森のプロローグ)で突っ切った事になる。

ちなみに、横断歩道も歩道橋も無いので、「森のホール」と「博物館」を行き来するには、今のトンネル(森のプロローグ)を通るか、公園(21世紀の森と広場)の中に入って歩くか、道路を遠くに進むか戻るかして、横断できる所に行くしかない(^_^;)ゞ。
歩ける人や晴れた日はそれでもいいけど、車いすの人やスゴイ雨降りの時なんかは、さっきの丸い屋根の塔エレベーターがあるので、それを使うと便利。

エレベーターはこの丸い屋根の塔ね↓
今度は「21世紀の森と広場」に入る

さっきの「中央口」に戻ってきた。
さっきは丸い塔の傍らにあるトンネル(森のプロローグ)を潜ったけど、今度は真っすぐ、公園(21世紀の森と広場)に、ほんの触りだけ入ってみよう。

長い坂道を下って来ると、やがて前方に、木登りをする子供たちの彫像が現れる。
傍らの石碑に、以下の言葉がある。

     
  21世紀の森と広場

 昭和40年代から昭和50年代にかけて、当時の松戸市は人口が著しく急増し、都市の基礎整備も追いつかず、生活環境も悪化していく傾向にありました。21世紀に向かって、本市の将来像を明確にしておかなければ、取り返しのつかない状態になると感じておりました。こうした状況の中で、本市のほぼ中央に位置するこの千駄堀地区は、樹林地に囲まれたの入り組む独特な景観を構成しており、谷頭には湧水が多く見られ、植物も豊富で、小動物も数多く生息する変化に富んだ地域として存在しておりました。
 「この地域の持つ固有の自然環境を守り育てていくこと自体が、市民の生活環境を豊かにし、ここを拠点として松戸市の都市空間が新たに創造されていくことにつながる。また、次代を担う松戸市民にも継承していく責務がある。」との認識から、この地を市域全体の核的空間として、大規模公園を建設することを決意致しました。そして、20世紀最大の事業として、どんな困難があっても成し遂げる覚悟で、輝ける未来に希望を抱き「21世紀の森と広場」と命名致しました。
 その後、地権者170余名の協力のもとに、面積50.5ヘクタールを昭和56年1月都市計画決定し、同年6月都市計画事業認可を得て事業に着手しました。
 以来10余年、幾多の難題を克服し、今、市制施行50周年を迎えたこの年に開園するに至ったことは、ひとしお感激も新たにさせてくれます。「21世紀の森と広場」が子々孫々に至るまで市民に愛され続ける公園として育っていくことを祈念して、ここに開園記念モニュメントを建立致しました。

 平成5年4月吉日 松戸市長 宮間満寿雄
 
     

そう。千駄堀は私の子供の頃は、近所の男の子たちがよくザリガニを釣りにいく場だった。
私は殆ど入った事がなかったので、あまり明確な記憶も思い出も無いが、今この公園のように明るく開かれた空間ではなく、鬱蒼とした森の中の沼地だったと思う。

「どんな困難があっても成し遂げる覚悟」とはよく言ったもので、ちょうどここを建設していた前後、東京から寄せる都市化の波は、松戸や柏に留まらず、北は我孫子や取手も超えていったし、千葉県(東)に向けては、千葉ニュータウンの広い範囲にまで及んだ。

ちょうどその頃、私はこの地を離れて東京に住んでおり、ここが開園してから5年後に戻ってきた。

その後は、不況が来たり、少子高齢化に東日本大震災に人口減と、どちらかと言うと都市化の勢いは終息ぎみになったものの、松戸より奥のどこどこの方が、遥かに整備が進んでいるだの、発展的だのと、松戸を「時代に取り残された地域」のごとくに批判する声にも出会った。

しかし未だに松戸市には、野鳥を愛好し、残された森や沼地の生態系を守り、清掃活動や昔ながらの農業文化の伝承など、ボランティア活動を積極的に行う人も多い。
また、東京寄りの地域(船橋など)に薄い自然の残存率や文化への意識が、松戸より奥の地域で、わりと良好な状態に保たれてる感じがするのも、その時々の「将来像への明確化」が図に当たった影響もあるのでは……とも思う今日この頃だ。

モニュメントの先は、いよいよ公園が本格的に始まる。
続いて、右に「光と風の広場」、前方は「水とこかげの広場」に向かう道→
「21世紀の森と広場」は、道路に分断されることなく広範囲を公園が占めている。先ほどの道路も、「21世紀の森と広場」からは、頭上を渡る橋に見えるだけだ。

ところで、さっきの「市立博物館」に向かうトンネルが、「森のプロローグ」と名付けられている理由は、博物館を含む一帯が、「21世紀の森と広場」の中でも、「縄文の森」と呼ばれるエリアにあるからかもしれない。
博物館の外に出て、周囲を散策しようとすると、すぐに縄文時代の竪穴式住居の再現コーナーが森の中に出会える。松戸は縄文遺跡の多い土地だ。

といった具合に、この公園は、色々な試みをあちこちに散りばめて広範囲に展開されている。
今後も時折レポをしていけたら……と思う(^^)



<(牛久)城中観音堂の薬師如来>

←夏の月。雲間から顔を出した所。

新しいデジカメに変えてから、どうも夜の撮影に四苦八苦(`・ω・)σ只<カシャッ
かなり暗い所でも、フラッシュ無しで明るく撮れるのは助かるんだが、逆に明るすぎて色が飛んでしまうのが難点……(*_*)

さて、同じく7月、例によって亭主がフラリと車を走らせて、牛久の方に行った。

行ったことあったような、無かったような道を行くうちに、「城中区民館」に行き会い、その隣にある「城中観音堂」(地図)を見つけた↓

この「城中」なる地名、牛久沼の周囲でも結構広い範囲を指すようで、この観音堂も、後になって地図上を懸命に探したが見つからず、結局グーグルの地図検索で見つけるハメになった。

最近のグーグル地図って、本当にスゴイわ(^_^;)。。

これが、その「城中区民館」(隣が観音堂)(パノラマ2枚)

この「城中区民会館」は、元は茅葺の念仏堂だったらしい。区民の集会場として永く親しまれていたのを取り壊し、区民の寄付と町の補助金、篤志家からの援助を得て、建築された事が、昭和45年(1970年)付の碑に記されている。

その隣の「城中観音堂」は、文和2年(1353)の建立であったといい、これも内部の如来像、観音像とともに損傷が甚だしかったため、やはり浄財を得て、昭和63年(1988)に修復された。

←「城中観音堂」 ↓扉前にあった物

そして、その内部の仏像というのが結構古い。
昭和63年(1988)に施した観音堂とともに修復された「両尊像」とは、「薬師如来坐像」と「十一面観音像」であるらしいが、観音像の方はいつごろの誰の作品か書かれてなかった。

が、薬師如来坐像の方は、平安末ごろの作風と見られ、像内背部に、南北朝時代の文和4年(1355)に、大幅な修理が行われた、とわかる墨書銘がある。

左から十一面観音像、薬師如来坐像、右の一体は何の像かわからなかった↓
中央の薬師如来坐像が平安末の作風→

薬師如来坐像は元来、奈良時代の「行基」の作と伝承されてきたそうだが、それを平安末と推定する理由は、目が彫眼で、鎌倉期以降の玉眼になっていない事、寄木造り(檜材)の制作手法などから、そう見られるそうだ。

観音堂の建立の二年後に仏像の修復を行った……という事は、どういう事情が想像できるだろう。

予め先に「何々堂」を作ってしまい、後からそこに安置するに相応しい中身を入手する……という事も十分にありそうだが、まぁ普通に考えると、仏像が先に在って、その仏像のために御堂を建てた、と見るのが自然な感じがする(^_^A)

南北朝時代の当時、既に古い薬師如来坐像であると知れてあり、それに相応しい立派なお堂を建てようとする。……うん、ありそうな話だ。

そうなると、南北朝期に仏像がどこかから来たか、この地にあったのを見つけたかで、お堂を作り、安心して安置しておける場を得たうえで、仏師など呼んで仏像の修復も施した……こんな感じだろうか、うんうん。

しかしそうなると、伝わる名が「薬師堂」ではなく、「観音堂」とは、これいかに……(^_^;)。。



<小川芋銭記念館「雲魚亭」と「河童の碑」>

続けて、車を回して、馴染みの「河童の碑」(地図)界隈に来てみた。
これ、前も来ました(^_^;)ゞ。繰り返しネタでスイマセン。
この牛久界隈には、ここ二年ほど、ドライブがてらフラリと立ち寄る機会が増えた。

ウチら夫婦は手賀沼がお気に入りで、よく出かけるが、いつもとちょっと違う水辺の風景を楽しむのには、印旛沼とか牛久沼などが、ちょっと遠出すれば届く距離なのだ♪

これが「河童の碑」のある森林道(パノラマ5枚180度以上)

このベンチの向いてる方向に牛久沼があるんだが、おいそれと見えるわけではない(^_^;)。
ただ樹木の間から沼が一望できる所があるので、行ってみよう。

森林の右端にある「河童の碑
森林の左端に「雲魚亭」(地図

「雲魚亭」は、明治の画家、小川芋銭の住まい跡地で、今は記念館となっている。
小川芋銭については、→2008年6月<小川芋銭記念館「雲魚亭」>内に書いた通り。その生涯についてはその時書いたので、今回は追加事項について(特に芸術活動)だけ記す。

芋銭の父・賢勝がこの牛久に帰農した理由は、江戸藩邸での重職から、廃藩置県によって失職した事が原因だった。
芋銭が上京し、桜田小学校に通った折は、伯母の婚家を頼っていたようだ。

13〜17歳まで、彰技堂で学んだ事は以前も書いたが、このころの明治新政府の意向により、明治9(1876)年に洋行帰りの国沢新九郎の協力で美術学校を開校し、イタリア人画家を招いて、洋画技術を教えていた。その国沢が麹町区にひらいた洋画塾が「彰技堂」であった。
芋銭は彰技堂の本多に就いて、3年余、洋画漫画を学び、さらに町絵師・抱朴斎南画を学んで、独特の画風「新南画」を築いた。
明治26(1893)年に、父の命でこの地に帰農。

庭を挟んで正面には……
(拡大)樹の合間に牛久沼

これが牛久沼を一望できる場所なんだが、芋銭ら一家が住んでいた時は、もしかしたら、周りの樹がこんなに無かったりで、もっと視界いっぱいに沼を臨めたりしたのかなぁ(^^ゞ

『芋銭』の雅号を用いるのは明治29(1896)年頃からで、大正6(1917)年『肉案』が評価され、横山大観より日本美術院の同人に推される。
河童百図日本画、独自の画境・新南画漫画・挿絵(主に各紙新聞への寄稿)、俳誌表紙画俳画など多岐にわたり、作品数は膨大。
牛里』の号で俳句もし、短歌の作品も多く、老荘思想にも深く傾倒し、河童の碑にも七言漢詩『誰識古人画龍心』がある。
晩年は、禅僧・良寛に学ぶ生活だったともいう。昭和13(1938)年に没。

「お茶屋松」に……
「カッパ松」
お茶屋松」というのは、お茶屋でもあったんだろうか(^^ゞ。

カッパ松」はこのあたりの伝説にあるもので、←手前の石に「牛久沼 河童松」と描く字は、芋銭の筆跡だろう。

このカッパ伝説も、前に書いた通りでちゅ(^^ゞ→2008年6月<小川芋銭記念館「雲魚亭」>内

すぐ近くに「稲荷神社」(地図
(拡大)

この「稲荷神社」も「雲魚亭」や「河童の碑」のある所も、さっき見た「観音堂」も、住所で見ると、みな「城中」だが、その地名が本来指していたと思われる「牛久城跡」として出て来るポイント(グーグル)は、地図←ここで(こちらはマップファン)、2008年のレポでは、その内部に入って写真も出した。

しかし、地名の示すように、もっと広い範囲が牛久城だったのだろう。この稲荷神社の左脇の坂道をこれより下ってゆくが、いかにも城跡の形状に沿っているような感じが濃厚(=^m^=)

これが、その脇を下る坂道
やがて、こんな農道に出る

このあと、今回は、東林寺城跡にゆく。
その道のりを地図で見ると、左折・右折・左折と、まさに紆余曲折するんだが(笑)、進行感覚的には、そんなにわかりづらくない(^^ゞ。
むしろ道なりに近い感じで、左手に見えて来る橋(三日月橋)に向かってゆくと、自然〜と橋を渡ってゆく……という道ゆきッス。

橋を渡る直前に通る「牛久観光アヤメ園
(拡大)カッパ像

これが三日月橋地図
牛久沼に注がれる稲荷川

この三日月橋も、渡る始めの欄干の上に、カッパの像が座り込んでいて、やはり2008年7月号で、その写真を出した。
アヤメ園の像も、三日月橋のも、小川芋銭のカッパの絵をモチーフに造られたんだろう。

この橋を渡った先に東林寺があり、橋の先にコンモリと続く山が、お寺の敷地に含まれる東林寺跡だが、この寺については一応、項目を新たにしよう↓



<東林寺(城跡)と謎の五輪塔(栗林義長の墓?)>

三日月橋を渡った後、道は右側にカーブし、左手に↓このような寺がある。

曹洞宗・福壽山「東林寺」(地図
駐車場にあったポンプ井戸

ポンプ井戸の背景を見てわかる通り、寺の門前は、稲荷川を前にする水田で、さっきの三日月橋から既に見えてた通り、寺の左の敷地には、「東林寺城跡」の遺構を含む丘陵が続いている↓
左が「東林寺城跡」(地図)、右に「東林寺」(パノラマ3枚ほぼ180度)

城跡と寺のポイントを別に置いてるが、恐らく、お寺の建物がある位置を含め、全体(寺のさらに先に至るまで)を城跡と言っていいんだろうと思う。
(思うに、遺構が残ってるのが敷地の南の方(牛久沼に面してる方)という事じゃないかな)

「東林寺城」は、先ほどの「雲魚亭」に程近い「牛久城」(地図)と同じ、岡見氏の城だった。
寺の境内には、城跡についての説明版は無く、五輪塔のみが伝っている。

手持ちのガイドには、築城は尾上(岡見)治部少輔とあり、岡見氏の本拠地は岡見城地図)だが、後北条×佐竹の争いに備えるため、要害堅固な牛久城を作り、本拠を移動した、とある。

ここ東林寺城は、その牛久城のさらに支城だったと見られている。

本堂と庫裏(と思う)
その左に続く庭園

↑写真が左右逆でスイマセン(^^ゞ。何しろ境内に入って左手に庭園があり、奥に進むと階段と坂道を上がって、墓地にいける。
城跡の遺構がありそうな左側は藪林があり、一方、墓地の続きがある右手に進むと、「東林寺城跡  五輪塔」 と書かれた標識が、五輪塔のある方向に誘導してくれる。

008年6月<牛久城跡、1>、および、同年7月<牛久城跡、2>
↑前に牛久城跡に行った時も書いた通り、後北条氏×佐竹の両勢力のぶつかりあう位置にいた岡見氏は、後北条側についたため、佐竹氏と結んだ多賀谷氏に、矢田部城足高城を奪われたが、後北条側の援軍(高城・豊島)を得て、牛久城は守り抜いた。

その牛久城の近くだから、ここ東林寺城も維持したんじゃないかと思う(^^ゞ。

岡見氏のいた時期が1590年まで(その後の牛久城には由良氏が入った)なので、秀吉による小田原征伐の時に、北条氏とともに開城したのかと思っていたが、本によっては、岡見氏は「多賀谷氏に滅ぼされた」とする記述もあるので、秀吉軍の来る前か、征伐の間の戦いで、そうなったのかもしれない。

緑の中にリンと咲く山百合
坂を上がれば左右に墓地が広がる

城跡の説明は、こたつ城のリンク先「余呉くんのホームページ」さんの「東林寺城」に詳しい。
そこにも書いてあるが、この城を含めた辺り一帯に、栗林義長の軍記伝説がある。
ただし残念ながら、元ネタの「東国戦記実録」(または「東国闘戦見聞私記」)は、江戸期に書かれた創作物なので、史実として取り上げられる傾向にはない。

(千葉北西部で言えば、例の「手賀合戦」とか「印西合戦」とかも、この二記に記述されるものの、「史実ではない」と同時に書かれる(^_^;))

それでも、余呉さんの紹介によれば、「過去帳に栗林義長の名が確認されるそうだから、話は作り物でも、同名の人物は史実に存在したんじゃないか(要約)」という事である。

墓地の左手は雑木林が控える。城跡遺構がある辺り(パノラマ5枚180度以上)

実は一昨年(2016年)に、このお寺と五輪塔に行った事のある方と、メールで栗林義長の話をして、大いに盛り上がった事がある(笑)。
それで、余呉さんトコ以外にも、あれこれ検索した所、「栗林義長ファンが、ずいぶんいるんだな〜」と実感した(笑)。

先の「東国戦記実録」「東国闘戦見聞私記」の他に、「牛久城の天才軍師は狐の子孫?」というサイトによると、「常総軍記」というのにも記述があるらしい。

さらに「栗林義長の祖母(父系)がキツネ」という話が、牛久地方の昔話として語り継がれているらしく、同サイトによると、『女化騒動記』『牛久騒動女化日記』『女化原夢物語』というのが出典らしい。
あと、その足跡を訪ねるサイトに、「栗林義長の歴旅」というのも、ちょくちょく見掛ける(^^ゞ。

坂道に咲き群れる青アジサイ
これが城跡にあったという五輪塔

この五輪塔は、東林寺城跡の南側の一角に建っていたそうだ。1970年代ごろ、水田造成の採土事業によって、今の位置(墓地のはずれ)に移転された。
二基とも像高145pで、室町末期の作と認められた事が、牛久市教育委員会の案内板に書かれていた。市指定文化財。

誰の墓かは全く書かれてなかったが、メールでは「これが、栗林義長の墓だったりして〜〜〜!」という話で盛り上がったノダ(笑)。



<千勝神社>

いつもはこの辺りまで車を廻したら家路に着くのだけど、夏で日暮れがノンビリだったのもあって、この日は亭主が牛久沼の周囲をグルグル巡り、沼の探検が始まった(笑)。

やがて、行く手に大きな鳥居が見えたので、「行ってみたい!」と車を停めて貰った。

途中に見えた筑波山
そして、こちらがその大きな鳥居の神社

遠くからは巨大な鳥居が見えるのみだったが、近づくと参拝客用に広々とした駐車場が備えてあり、「千勝神社」であることがわかった。

「千勝神社」と称する神社は、よく行く手賀沼の北岸の通り(我孫子市)に、小さな社があるのを見掛ける。
だから、ここに大きな鳥居と、その奥に広がる大きそうな神社を見た時、「手賀沼の神社の総本社かも」と思った。

が、同系列の神社なら、主祭神も同じ神様であろうのに、ここの主祭神が「猿田彦」神であるのに対し、我孫子のは、検索して調べた限り、どうも「日本武尊」と「水速比売神」のような……(^_^;)。。

ちなみに、この(つくば市の)千勝神社は、下妻の同神社から勧請して来たというから、この(つくばと下妻の)二社については由緒も祭神も同じである。

駐車場から、( ^^)σ只<カシャッ
正面から「千勝神社」(地図

wikiを調べると、「千勝神社」はここ以外に、埼玉県の久喜市に3社ほどあるが……。

一つは、天手力雄命、誉田別命、軻遇突智命(加具士命)、事代主命、宇迦之御魂命、菅原道真公、熊野夫須美神、御子速玉神、家津御子神。
もう一つは、 大己貴命、武甕槌命、経津主命、天御名方命。
最後の一社は、 大己貴命、木花佐久夜姫命、天神七柱命、地神五柱尊、天照皇大神、菅原道真公、市杵島姫命、宇迦之御魂命。

……と出て来るんですけどっっ!(*_*)

昔はここから沼の水面が見えたのではないか(パノラマ2枚)

「千勝神社は関東に多い」とするサイトも出て来る。
「祭神を神話の神の名に改めたのは明治以後」という記述も見たので、そもそも「千勝神」が正称なんだろう(^_^;)。

中には、「八幡太郎義家が奥州に赴く折、戦勝祈願をした」という由緒もあるようで、これなんか、すごく発祥に近いんじゃないかという気がする。

武人の道ゆきに沿って祀られたと考えれば、「導きの神」であり、「猿田彦神」「味鋤高彦根命」「武甕槌命」ひいては「大己貴命」という、いわゆる天孫降臨がらみの神名が充てられたり、東征の「日本武尊」が充てられたのも頷ける。
(明治以降、存続の都合上、記紀の神名を充てた神社がいっぱいあるんで(^_^;))

高台に向かって階段を
ドンドン登って参道に入る

当地に掲げられた案内板にも↓

     
  千勝神社縁起

主祭神 猿田彦大神(尊称・千勝大神
配祀 山根彦神八栄根彦神

猿田彦大神は天孫降臨の時、上は高天原を下は瑞穂国(日本)を照らす程の御神力をもって天八衛に待ち受けられ、天孫一行を無事高千穂に教え導かれました。その御事跡により、古来より導き・道開きの大神と称えられ、白鬚大神・佐田大神・椿大神・道祖神・さいの神・庚申様・船玉様等々として、全国津々浦々にお祀りされ、家庭円満の道、商売・経営の道、合格への道、方除・八方除等々、様々な道の安全を願う方々に尊崇されております。
当神社は、筑波山の西方現下妻市武烈天皇の御世(502年)に奉斎されました大神千勝神社)を、御神徳及御教えの波及と更に多くの方々の御多幸を願って昭和39年に勧請し、鎮座しました。
また眼前の大鳥居は、台湾檜により、高さ10m余、桂の太さ90p(目通り)という規模で、平成元年に建立されたもので、檜の鳥居としては日本屈指の大きさでございます。

 千勝神社社務所
 
     

とあり、「道の神」として全国に祀られる多くの神々の名が列挙されている。
また、ここの「千勝神」が下妻から勧請された事、下妻の「千勝神社」が西暦502年に祀られ始めた事が記されている。

武烈天皇というと、よく憶測される通り、創作性を疑われる伝記を帯びている可能性から、その実在すら疑問視する声もある天皇で、つまりちょうど継体天皇に移行する前の、謎の時代・空白の時代に由緒の端を持つ神社……という事になる。

案内図。字が大きいので、書き加えずにそのまま提示

↑拝殿の奥、本殿が三社あり、中央の主祭神「千勝大神(猿田彦大神)」を囲む左の「山根彦神」と、右の「祖霊浄魂」(祭神:八栄根彦神)の両本殿がある。
この左右神は、あまり見た事のない御神名だが、後に触れよう。

I「初代宮司 歌碑」とあるのは、ここの初代の宮司さんが、國學院大學の先生だったようで、あの折口信夫に師事したそうだ(^^ゞ。
折口信夫の著書に、『釈迢空』を題するシリーズが何冊かあり、その解説者として名を顕わす「千勝重次」という人がそれだ。1916年生〜1972年没。

大学で講義を行い、また歌を詠むことにも秀でる傍ら、お名前から察するに、神主のお血筋で、土地に重要な神社だったからだろう。この「千勝神社」の整備に尽力した事が現地に書かれていた。
何かそういう学識なり、社伝や古文書なりの古例に沿って、上図のような祀り方がされてる、という事かもしれない。

←正面に現れる拝殿
↑酉年のデッカイ絵馬(^O^)

先ほども言った、本殿の両脇を囲む左右の神様だが、案内板によると、左殿の「山根彦神」は千勝大神の第一の随伸で、人の願いや祈りが、千勝大神に強く届くよう、また千勝大神の御神徳を支障無く受けられるよう、教え導いてくれる「仲立神」だそうだ。
同時に山根彦神は、智恵を司り、学問知識教育の神としての御神徳が顕著とされ、学業成就試験合格の神としても仰がれているという。

一方、右殿は「祖霊浄魂社」といい、霊界浄化を目的とした、”祖霊神(おやがみ)の修行の場”のお社として建立されたそうだ。
その守護神として「八栄根彦神」を掲げており、こちらは山根彦神に次ぐ、千勝大神の随伸で、祖霊浄魂社で修行する祖霊神たちの「指導の神」として祀られている。

よく「神様のお使い」とされる動物に、狛犬が擬せられ、お供えが置かれていたりする。
狛犬好きのこたつは、神様にお願いを届けてくれるよう、よく犬や狐の像の背をナデナデしているから、仲立ちの神様というのは、何となく親和感がある。

拝殿から受付の建物に向かい、屋根付きの渡り廊下が出ていて、拝殿と渡り廊下の間を繋げる建物の窓から、奥に立つ本殿が覗き見えた。
「山根彦神」と「八栄根彦神」の説明は、そんな拝殿脇の窓辺に置かれてあった。

拝殿の脇の建物から覗いた本殿
神社の外は元は沼であろう水田地帯

色んな神社に行くが、猿田彦神というと、大きい神社だと摂社に祀られている事が多かったし、主祭神として祀られている場合は、とても小さいお社しか見た事がない。

そう思って、お守りやお札も、たいそう興味深く眺めたが、特に変わったお守りがあるわけでは無く、多種類のお守りを豊富に取り揃えてはいた。

強いて言うなら、「縁切り」のお札は大きくて立派で、「悪縁」「禁酒」「禁煙」「癌&難病」「ぼけ封じ」「かんの虫」と、6種類も揃っているのに、ちょっと驚いたかも。
やはり「道の神」と言うと、道祖神(境神、辻切)の信仰が濃厚なんだろう。

この神社のある位置を地図で確認すると、昔は明らかに沼地であったであろう所が、今はすっかり水田になっているのがハッキリわかる。(地図
沼の入り江に先ほどの大鳥居があり、昔は船着きの場でもあったのではないか……。良縁も悪縁も、そういう場から入って来ると思える、ちょうどそんな場所にある神社に思えた。



<牛久沼水辺公園>

↑という所に最後に寄った。(地図
牛久沼をグル〜ッと周遊してきて、一周し終わった辺りである。

これまた何やら「水上ステージ」風な(笑)(パノラマ3枚ほぼ180度)

ただ恐らくここは、船に乗り降りするとか、浅瀬に入る事が出来るとか、何らか用途を果たしてる場じゃないかと思う(^^ゞ。

この公園は、公園と言っても、何か遊具があるとか、グラウンドがあるとかではなく……↓

ド〜ンと見渡す限り、野っ原で
水辺も、見渡す限り水面(^^ゞ

ところで、水辺の向こうに見える建物群、最初に牛久沼に来た時、帰りにうな重を食べたお店じゃないかと思ったんだが、検索してみた所、ナント今は閉店しまったようだ(・・;)。。
「寺田屋」というお店だった。

……ところで、それを今、検索していたついでに知ったんだが、「うな丼」は、牛久沼を発祥とする説があるんだね!
鰻を頼んで食べようとした時に船出を知らされ、飯の上に鰻を乗せて船に乗り込み、降りてから食べたら、適当に蒸らされて美味しかった……という話だった φ(。。)m<フムフム

お〜い、船が出るぞ〜(/^O^)/ (パノラマ4枚180度以上)

ところで、「牛久市」という市があるのに、この牛久沼は「龍ヶ崎市」の沼なのだ(^_^;)。

牛久市は北にあり、龍ヶ崎市はその南にある。
牛久沼は両市の西側にある沼だが、どう見ても「牛久市の西」に隣接してるのであって、「龍ヶ崎市」から見ると、ちょうど牛久沼の分だけ、極めて不自然に北西方向に枝を伸ばした形で牛久沼を領有している(^_^;;)。。

さらにイビツなのは、牛久沼の北には「つくば市」があるが、これまた「つくば市」にとって牛久沼は、殆ど「食い込んでいる」と言って良いぐらい隣接しており、東隣の牛久市に取られるならともかく、そのさらに南に位置する龍ヶ崎市の領有と見るには、極めて無理を感じる位置関係である(^_^;;;)。。。

さらに言うと、「つくばみらい市」も牛久沼の北西に隣接しているし、「取手市」も牛久沼の南西に隣接しており、牛久沼は以上、5市の境界上にある。……ややこしくてスイマセン(^_^;;;;)。。。。。

水の入り際から……
陸に上がって団らんする白鳥一家

人が何人いようがいまいが、全くお構いなしにドシドシと野原に入り込み、お腹を上に向け、足を伸ばして、リラックスしまくる白鳥一家。
手賀沼でよく見かける白鳥たちより、さらに人見知りせず、下手すると背後から話しかけて来るんじゃないかと思うぐらい、違和感なく公園を利用しまくっていた(笑)。

やはり手賀沼と同じ蓮の花(^^)
岸辺に停まる舟、湖面に映る暮色

↑沼の手前に建つビルは、地元の鰻屋「伊勢屋」。老舗旅館のような風情で、しかも3階建てなので、検索してみた所、旅館とは出て来ないので、上層階は宴会場とか貸し切り部屋で鰻料理を振る舞ってるのかなー。

貧乏なので鰻はやめたが、この日だったか、帰り道にほうとうの美味しいお店を発見した!
そのうち写真を掲載したい(^O^)

以上で、牛久沼レポを終わるo(^^)o



<エピローグは「アンチーブ」から♪>

「アンチーブ」(地図)は、柏市藤心の喫茶店(^^ゞ。
これまでも、ちょくちょく近隣の季節レポに混ぜて、お届けしてきた。

お外から見たお店→2012年10月<無難に近場で(笑)、まずは藤心>

窓辺のエサ台に乗る小鳥たち
ピントを背景に移してみる

←本日のランチ。
野菜を中心としたヘルシーなメニュー(^H^)<モグモグ

この日はこの後、去年8月号でやった「鷲野谷城跡」で述べた「星神社」(妙見社跡)に出掛けたんで、次回レポしよう(^O^)

それを7月の最後とし、8月に入って、日帰りながら久々に遠出したので、そのレポートに入りたい!

題して……「南栃木、日帰りツアー」とでも言うかなー☆

最初だけ埼玉県の川口市「長徳寺」、そして栃木県に行って、「皆川城址」「皆川家歴代墓所」「本光寺」「唐沢山城跡」……といったラインナップ。お楽しみに〜(^O^)

■藤心「アンチーブ」
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年10月■2007年8月ごろ
2010年12月<藤心「アンチーブ」(喫茶店)>
2011年10月<夕雲・枯木立・雪>内
2011年12月<晩春から初夏にかけて>内
2012年10月<無難に近場で(笑)、まずは藤心>
2013年1月<「権現古墳」と庚申塔(前原公園)>内
2013年11月<常盤平〜八柱「元禄まつど村」と「21世紀の森と広場」>内


↑アンチーブ以外の関連リンクは、例によって後日に(^_^;)。
(このところ溜めちゃってます。スイマセンm(__)m)

<つづく>

2018年01月16日
 
     





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