<2004年・城主のたわごと9月>




松戸、良いトコ、一度はおいで〜(/^。^)/♪

ってなワケで「七福神巡り」の続きぢゃっ☆ミ




     
  この「たわごと」でも、ついに地元ネタを載せるようになった。ウルウル(ToT)。。
これもデジカメのお陰だ。地元の写真なんて、いちいちフィルムを買って現像しに行くのはバカバカしいから、絶対にやらないと当初は思ってたものである(笑)。

そして、満を持した初企画が……なぜか「七福神巡り」(爆)。……我ながら渋い。
これぐらいのペースでやってかないと、松戸なんてすぐネタ尽きそうだもんな〜(笑)。

さて前回の続きを書こう(^^)。



<寄り道3、なぜか水戸黄門(笑)>

なぜ↑こうなるかと言うと、前回最後を飾った「広徳寺(高城氏墓所)」から、次に向かう2箇所の寺「医王寺(毘沙門天)」と「華厳寺(弁財天)」はかなり近い距離にあるのだが、その三点の中間にあるコンビニに、なぜか「水戸黄門弁当」というのが売っている。
正確な名称は「水戸黄門 特選幕の内」(爆)。

正月には毎年品切れで買いそびれる。そしてこの年も実は買いそびれている(爆)。
が、何しろこの辺は家からそう遠い距離でもないから、掲示板でこの弁当の話題が出た正月過ぎて間もない頃、また買いに行って見事ゲット。その時の写真を載せる。

ちなみに右側のは、これまたなぜか家の近くのコンビニで売っていた「水戸黄門カップラーメン」(笑)。

デカイ梅干が特徴の「水戸黄門 特選幕の内」
水戸黄門カップラーメン

カップラーメンの方だが……これってどこでも売ってました(^_^;)? それとも地域限定?
地域限定だった場合、なぜ松戸周辺なのか知りたい気もするんだが(笑)、とりあえず水戸黄門とラーメンの関係については時々聞く話で、「水戸黄門が日本で初めてラーメンを始めた人」だとか?(笑)
カップラーメンの蓋の裏の説明をざっと整理すると……。

水戸黄門こと光圀は、1665年7月に中国から儒学者を招き、自ら接待のために麺を打って出した所、その返礼に朱舜水という人が、故郷伝来の麺料理を作って饗し、作り方を光圀に教え、帰国してからも材料を献上した。
材料は、「藕紛(オウフエン・レンコンを元にした澱粉)」をつなぎに麺を、「火腿(フォトイ・豚腿肉の塩漬けハム)」でスープを、「川椒(チュアンヂアオ)」「青蒜絲(チンスアンスウ)」「黄芽韮(ホアンヤアヂウ)」「白芥子(パイヂエズ)」「イエンツアイ」の五辛(ウーシン)を薬味に沿えるという物。

で、肝心の味は、ちょっと中国野菜の臭味のある……しかしやはりカップラーメンの味だった(笑)。



<松戸七福神巡り4、「毘沙門天=医王寺」>

さて、上述の「医王寺」にやってくる。北小金駅を北上した広徳寺よりさらに北上。中金杉という場所。

ここは毎年オイシイ「甘酒」をふるまってくれる(^。^)。
味は薄すぎず濃すぎず甘すぎず。その美味しさとは、一言で言うと「舌が焼けるほど熱い」に尽きる。

この「熱さ」が、実に腸(はらわた)に染みるほどで、少量でも本当に体が温まり、また門に入ってすぐのお寺の玄関口の前に、コンロの上の鍋が伏せた茶碗とともに置かれてて、自由に頂けるので楽しみだったりする♪

だもんで、入ってとりあえずご朱印を頼み、その場で甘酒を頂いてから後にゆっくり参拝、という順路になってしまう(笑)。

そして通路のような細長い庭を真っ直ぐ抜けると、まず右の「毘沙門天」(^^)。
残念ながら右のちょっとボヤけた写真しか残らなかったが(汗)、お顔が若く凛々しい。

毘沙門天は「多聞」とも言い、「多聞」は「一切を聞き漏らさない」という意味。
四天王(持国・増長・広目・多聞)の一人で、寅年の寅月の寅日の寅刻に生まれ、須弥山の北方に住まい、仏法を守護し、富貴財宝をもたらす。七福神の中では戦神の位置づけだから、ニコニコ顔の神様の中で一人厳しい顔をしている事が多いが、敵や妨害を防ぐ七難即滅の神として崇拝されている。

このすぐ左に本堂があり、そして本堂に安置されてる不動明王について土地の伝説が書かれている。
この寺のご本尊、不動明王は「田螺(タニシ)不動」または「姿見不動」と呼ばれ、この村には、寛永年間(1624〜1644)、越後の国、新発田の管谷寺より、布教に来た僧侶が分身を背に負って来て奉納した。
ちょうど村は疫病が蔓延していて、村人がすがった所救われ、その後も数々の奇跡を起こした。

ある日、落雷のため不動明王の祠が焼失したが、焼け跡から掘り出された不動明王には無数の田螺(タニシ)が張り付いて、不動明王の本体には全く損傷がなかったので、人々は驚嘆して「田螺(タニシ)不動」と呼んだ。

また盲目の娘がこの不動明王に願をかけた所、満願の日に不動滝で目を洗うと、水面に不動さまの姿が現われるのを見た。その後娘は目が見えるようになった事を感謝し、生涯お参りを続けた事から、「姿見不動」とも呼ばれた。

こうした事から、特に火災防止と万病平癒が信じられ、諸願成就を祈って篤く崇拝されたと言う。



<松戸七福神巡り5、「弁財天=華厳寺」>

そして、ここも広徳寺や医王寺に近い、幸田の「華厳寺」。弁財天のいるお寺(^^)。
七福神の中では紅一点、女神として強調される弁財天も、大黒や毘沙門とともにインドの神様で、元は吉祥天女(ラクスミ)やガンガという女神とともに、ヴィスヌ神(維持神)の妻であった。

が、三人の女神は互いに仲が悪く、ガンガ(ガンジス河神)はシバ(破壊神・大黒さん)の妻に、弁財天(サラスバティ)はブラフマ(創造神)の妻になった。
が、日本では、吉祥天女は毘沙門天の妻になってるとも言われる。……って事は、ヴィスヌ神は全ての妻に逃げられたわけかっ(笑)。

弁財天はインドでも日本でも川の女神だが、水流のごとく音楽(琵琶)や弁舌によどみ無い所から、学芸全般の神として祈られる。
日本では、荒れ狂う竜神を宥めてその妻となった伝承もあり、雨を降らせ福をもたらす宇賀神と混ざって「弁天さん」と親しまれ、祀られる水で銭を洗うと富貴に恵まれると言われる。
左は弁財天。手前には銭を洗うザルと清水が用意されていて、ここで洗った小銭を、最初の年はすぐ使い切ってしまったのだが(^^ゞ、この頃はなるべく使い切らないようにしている。

下は「華厳寺」のオリジナル純米酒
松戸七福神
ラベルをちょっと拡大(^^)

入り口を入ってすぐ駐車場があり、その奥、正面に弁天さま。そしてこの駐車場と弁天さまの右側は高台になっていて、階段を上って本堂。
この本堂に時間ギリギリに滑り込んで、華厳寺にしか売ってない銘酒「松戸七福神」をゲット(^。^)v。

さらに右の写真は、またまたお守りっ(#^.^#)。実はコレ今年買った物だが、七福神を乗せるニワトリさんの船頭の「宝船」。
宝物いっぱい来ますように〜(^O^)。

申し遅れているが、この「松戸七福神」は、全て真言宗の豊山派に属する寺ばかりである。
この七寺以外にも、この辺り一帯、豊山派の寺は多い。いかに真言系の寺勢力が根を張った地域かよくわかる。

そして、この華厳寺では、この駐車場と弁天さまの間あたりに、「火渡り歩行」の跡があった。
晦日か正月にでも行われた跡だろう。炭と砂が入り混じり、ここをみんな縁起を担いで「アヂヂ〜ッ!」と叫びながら走ったんだなぁ……と思った。

こういう修行って、滝とかあるスゴイ山奥でやるんだろうな、という先入観があったので、ちょっとビックリしたり(^_^A)。
(もっとも山こそないが、この辺りもそれなり田舎ではあるか:笑)

この日もここで日が暮れ、このあと、下に続くお寺にも行ってみたのだが、かなり真っ暗になってしまったので(……と思う、暗さで暗いのか、実はデータ破損なのか、真っ暗すぎてよく判らない:爆)、ここでまた引き上げ、続きはさらに翌日に廻した。



<松戸七福神巡り6、「福禄寿=円能寺」>

3日目。2003年01月05日。
七福神巡りはこれまでに、南西部の大黒と布袋、西部の恵比寿、北部の毘沙門と弁天を廻ったので、この日は南東部を廻る。

最南端の「松戸」駅からは、東に向かって新京成電鉄が伸びている。松戸から4駅東に行くと「八柱」駅がある。ここは武蔵野線ともクロスしてる要所で、ちょっと拓けた一帯。
ここに残りのニ寺があり、父が誉めるのはこの二寺である。

この八柱の北部は、昔は千駄堀と呼ばれる沼地があった(地名は現存)。
今は「21世紀の森と広場」という、驚くほど敷地の広い自然公園となっているが、珍しい野鳥が観測できる野生保護区もある。
その沼地を覆うような急な高台を登ると、世界が一変したかと思うほど鄙びた風情の、鬱蒼とした山奥が一瞬だけある。それを上がっていく。

千駄堀の急な坂(左道路)を上がると、「円能寺」山門
入ると正面に本堂

本堂の左手前に「七福神」の旗の群れ
旗に囲まれた「福禄寿」さん

福禄寿は中国は道教の神で、黄河の濁流を清めた、南極星の化身、南極老人がモデルと言われ、日本では平安期に、陰陽師に星祀りをさせた記録があり、そこで中国五山の一つ、泰山(山東省)の神、泰山府君と認識された。

やがて禅宗で星宿を祀って星を信仰するようになり、室町将軍の足利義満が五山に福禄寿として奉じた頃から、絵にも描かれるようになって一般に人気が高まり、全国に普及した。
頭と髭が長く、亀や鶴と仲が良い寿命の神様として崇拝され、そこに福神や禄神の意味合いも加わったと見られる。

本堂の右側では甘茶を毎年出している。
周囲は農家が多く、本堂にもよく足踏み青竹とか、ちょっとした作物など置いてある。
さすがに山奥という風情で、この辺りは底冷えするが、お寺は確かに良い雰囲気で、長居したくなる。



<松戸七福神巡り7、「寿老人=徳蔵院」>

最後は「八柱」駅を南に過ぎて、最南東の日暮、「徳蔵院」。
ここは八柱の街なかで、周囲はズラリと住宅街が取り囲んでいるが、この寺には、山とまでは行かないが急な坂もあって、墓地から街を見下ろす眺めがなかなかいい。

私が子供の頃には、この「日暮(ひぐらし)」という地名は、かなり広範囲を含んでいたが、今は各地域とも細かく町名がついて区分され、残ってるのはこの辺りだけのようだ。

左側が寺。駐車場から一度坂を降りる
また坂を上った途中を左側に登り階段

この坂を降り切った所↑に、寄贈者の名が連なる石碑があり、その中に「日暮」の名が見られる。
日暮氏は高城氏の家来で、十郎左衛門、又左衛門、大内蔵、理右衛門らが認められ、周囲の領地で平時は農耕を営んでいた。

階段を登ると正面が本堂。手前を右に行くと→
そのさらに右手に「寿老人

寿老人は、福禄寿と同体異名(元は一神)で、福禄寿から「寿」だけを強調して編み出されたのが始まりと言われる。

なぜ同じ神が二人必要なのかは判明しないが、もともと福禄寿が寿命を祈念される神だったのを、「福」と「録」を余分に付け加えらされたから元に戻したとも、やはり「延命寿命」が特に重要であるから新たに編み出された、とも考えられる。

そもそも七福神は仏教経典の「七」に由来したのが始まりと見られるから、数合わせなのだろうが、七つの神は時代や地域によって一定してはおらず、吉祥天や猩猩を加える組み合わせもある。

寿老人は一般的には杖を持ち、鹿を従えて描かれるが、ここでは大きな葉のような団扇(軍配?)を手にしている。

この寿老人と向かい合わせに、本堂に並んだ祠があり、その一つに「藤塚稲荷」がある。
ここは元は、第二次国府台合戦(1564)の戦死者の埋葬地と伝わる場所である。

話は遡るが、徳蔵院は永亨の乱(1438)以降、寺が何かと攻撃目標とされたので、僧侶の避難目的として作られたとも、市川国分寺の子院か隠居所として始まったとも伝わり、いずれにせよ設立は1426〜63の前後と言われ、真言宗が急速にこの地域に勢力を確保したと言われる「太田道灌(1432〜1486)以来」に重なる。
また九州肥前の千葉氏から出てきた高城氏も、同じ頃この辺りに定着し、寺の近くに城があった。

が、これが手狭になったので、高城氏の本城は大谷口(北小金)に1530年に着工、1537年に完成、居城を移した。広徳寺・医王寺・華厳寺のあった地域である。
大谷口城が出来たこの1537年は、北条氏綱が制覇の矛先を武蔵に向けた年で、第一次国府台合戦(1538)の時には、高城胤吉は千葉昌胤のすすめで北条氏とともに小弓公方を討った。

戦には勝ったが戦死者が多く、遺骸や鏃を「日暮寺」すなわち現在の徳蔵院に葬った。
「藤塚稲荷」の場がそれと伝わり、稲荷は現在も徳蔵院の境内に残っている(スイマセン。写真は無いです:汗)、と寺で買った本に書いてあった。

高城氏は北条氏に重んじられ、埼玉県の三郷市や神奈川県の綾瀬市や横浜にも領地を貰ったが、最盛期の当主、高城胤辰が若死にして以来落ち目で、秀吉の小田原征伐(1590)では、大谷口城は浅野長政に攻められて落城。高城氏の家来たちは帰農した。

その後、真言宗の寺々は、徳川家康の寺社対策によって統制され、徳蔵院も厳しい体制下で維新まで生き延びた。

さて右の塔は、寿老人や藤塚稲荷をさらに進み(本堂から遠ざかり)、墓地の奥に立っているのだが、ここからの眺めが良いのだ(^^)。

ねっ(#^.^#)。

このお寺は、毎年本堂の前にお菓子とお茶が「自由にお召し上がり下さい」状態で置かれてるので、子供やオバサン達が一口頬張りながら参拝している(^^)。
また和尚さんがカワイイ方で、御朱印して貰いながらご本とかお守りを買うと、ニコニコ応対しながら、なぜか代金のオツリが500円多い(汗)。

「違います」と指摘すると、「あ、スイマセン」と言って、さらに500円追加してくれる(滝汗)。。
「あの、あの、多いんですけど」と言って返すと、「あ、スイマセン」と言って、これまた下の「七福神手拭」(売り物なんだけどね、これ(^^ゞ)をサービスで下さった(笑)。

七福神のお守り♪
こちらも七福神全員集合♪(和尚様ありがとうございましたm(__)m)



<エピローグとオマケ>

最後にちょっと書き忘れていた事がある。
七福神巡りというのは、今や全国各地にあって、「これが松戸の特徴だぁっ!」と言える部分は特に無い(爆)。が、一つだけ松戸の面白い点をあげると、「松戸七福神鍋」つぅ物(イベント?)がある。

これが何かはよく知らない(爆)。
と言うより、これをおっ始めた料理屋は、メニューに地元の食材を入れる事とかのいろいろな条件をクリアすれば、店の前に出す幟やらオデン等にいれる七福神っぽい焼印(宝船などの絵の)を、松戸市が提供する、という企画らしい。

だから、メニューについては各料理屋の自由という事で、これ今でもやってんのかなぁ……(笑)。
その内やってる店を見付けたら、またレポしようと思う。

というわけで、これにて今年の(去年だけど:笑)の七福神巡りは無事終了〜(^O^)。新しい年を迎えたのでありました。

成果↓。集めたご朱印。その下には……(笑)→
えべっさん」(爆)

上の「えべっさん」は、元は「エビス」が流れ着いた本拠である兵庫県西宮の地酒が入ってたそうで、のりちゃん様が七福神ファンのこたつに、わざわざ送って下さったので、我が家の壁に東西の福神さまとして、こうして仲良くご鎮座頂いている。
のりちゃん様、ありがとうございました〜〜〜〜っ☆ミ

2004年09月20日
 
     




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