まずは、2005年9月、前々回からお届けしている長野の「志賀高原編」最終回。 その後はだいぶ時間が飛ぶが(^^ゞ、バタバタと慌しく年末までに撮りだめた物を数点。 そして年明け(2006年)。次回に渡って「国府台合戦・跡地廻り」と題し、千葉県北西部の八柱(松戸市)と里見公園(市川市)をお届け。 ■2005年9月■長野 <志賀高原「大沼廻りコース」続き> 前回は大沼廻り(池めぐり)コースの途中までお届けした。 も一回コースを(^^ゞ
↑水色の道を「四十八池」まで来ている。これを過ぎていよいよ「大沼」を目指す。
↑「志賀山神社」の鳥居の先は登山道で、上に示す地図の通り「裏志賀山」に行けるようだ。我々の歩いた道からも、山並の頂上付近が垣間見られた。↓
こうした森林道を程ほど行くと、やがてエンエン次々と階段道が登場する。殆どが下りなのでしんどくはないし、勾配もすごく急という程でもないが、何しろかなりの長さなので、足運び次第では膝をヤラレる(^_^;)。↓
こういう面が、前回も述べたごとく、標高の高さゆえの要注意かも(^_^;)。。 前回、バス停で「これから先は冷えるから」と止められた話をしたが、確かにかなり急激に気温が下がるので、平素は丈夫な人や城山廻りなどに慣れてる人でも、油断すると危ない(^^ゞ。 このコースも、ゆっくり行けば小学生(丈夫な子なら低学年)でも歩けると思うが、中高齢者には返って注意が必要かも(^^ゞ。特に日頃知らず知らず無理をしてる人は尚更。 さて、降りに降りて、大沼到着(^^)。湖畔↓が見えるレストハウスで昼食♪
このレストハウスで、前回もちょっと触れた「大蛇伝説」について書かれた看板を見た(^^)。 伝説はこんな具合。↓ 大沼池の大蛇は志賀高原の守り神で、嫁取りを試みて美しい若者に変身し、中野東山の花見に行き、一人の美女を見染めた。 美女は小館城の高梨政盛の娘で名を黒姫といった。 これは……だいぶ前ので恐縮ですが(^_^;)、2002年「4月のたわごと」<高梨氏館跡>における「高梨氏」ね(笑)。 中野の小館という地名は、地図に今でも見えて、こたつが行った時も中野高校のすぐそばだったから、ここで間違いないと思う。地図A 一方の、ここ大沼池は中野より東の地図B。「黒姫山」は中野より西の地図C。 つまり、中野を間に挟んで東西のえらく広範囲にわたる伝説であり、しかも高梨政盛は戦国時代における実在の人物でもある(^_^;)。 さて伝説の続き。 若者は黒姫と恋仲になり、高梨政盛に自分が大沼池の大蛇だと名乗った上で、黒姫を嫁に欲しいと願い出た。 政盛は断ったが、若者は毎日お城を訪ねて願ったので、政盛は「乗馬した自分の後ろをついて城を七周できたら姫をやる」と約束する。 政盛は乗馬の名手だったので、当日までに城の廻りに刀を逆さに埋め込んでおき、当日ついて走って来た若者を尻目に、物凄いスピードで遠ざかった。追いつけなくなると焦った若者は、思わず大蛇の姿に戻って後を追い、刃の向いた刀にさんざん身を裂かれた。 体じゅうをズタズタにしながら七周をついて廻った大蛇は、昏倒して起き上がれなかったが、やがて息を吹き返し、周囲に誰も居ないことを知って「騙された」と悟り、一族郎党の助けで暴風雨を呼んだ。 志賀高原じゅうの池は決壊。中野まで洪水に見舞われ、村も人も壊滅。 小館城も流されそうになったが、城だけは東山が水を食い止めた。しかしすっかり壊滅した城下を見た黒姫は大沼池に身を投げた。 大蛇はやっと雲を去らせ、大沼池に戻った。 以上が、大沼池で読んだお話しだが、この伝説には幾つものバリエーションがあるようで、約束を破られ怒った大蛇の祟りで、黒姫の体にウロコが生え始めた話、それを恥じて池に身を投げた話、あるいは醜くなった身を隠すために登った山が「黒姫山」という話、ネット検索するだけでも色〜んな話に出会える(^^)。
この湖畔に至る手前に「大蛇神社」に直接降りられる坂道があった。 今いるここからは見えないが、これより湖の周囲を巡るコースに入ると、その鳥居が遠目に拝める(^^)。行ってみよう〜♪
この散策路は平坦で歩きやすい(^^)。また茂みの合間から時おり湖が見えて、心地よい。
この「大蛇神社」は、前回「蓮池」にもあった「大蛇神社」の元宮なんじゃないかな、と思う(^^ゞ。 ちなみに蓮池では、毎年夏に「大蛇祭り」を行なってるようだ。ミスコンのような雰囲気でお姫様が登場し、大きな大蛇の人形を何人もで持ち、町を練り歩いて蓮池の「大蛇神社」で参拝する、といったもののようだ。 ↓あとは湖の周りを巡って歩く内に、だんだん湖の色が濃くなっていく。 パノラマ3枚。橋を渡りながら湖を撮影。(橋は実際はまっすぐ(^^ゞ)
この、本物の緑より青い、まるで絵の具を溶かしたような碧色には恐れ入る(^_^;)。。この沼に悲恋の伝説があるのも、特別な生き物が住んでいると想像するのも無理ない気がする。 大沼池もここで終わり。綺麗だったね(#^.^#)。
途中、珍しいキノコを見掛けた(^^)。 採取してるウォーキングのグループもいて、案内をしてる人が説明していた。
「大沼池入口」に到着(パノラマ2枚)
ここが前日にも来たバス停(^^ゞ。前の日はここからバスに乗ったが、この日はここからしばし歩いて「蓮池」のバス停まで行く。地図D 途中「志賀1号トンネル」を通る。
「蓮池」からはバスに乗って「硯川」に戻る。
「硯川」では「前山リフト」駐車場に車を停めてあるので、これに乗り換える。 <雲海の「笠ヶ岳」・霧の「山田牧場」> この後は帰るだけなんだが、行きは群馬県を通って来たので、帰りは逆方面に出て、さっき大蛇の話で出た中野の方面に出て帰ってみようという話をしていた(^^ゞ。 横手山〜硯川(熊の湯)〜蓮池のこれまで通った道を292号線と言う。これを反対方面に北上する手もあったが、292号線を平床で曲がり、南西「笠ヶ岳」を通ってみる。地図E。
この雲海の凄さに圧倒されて、思わず亭主も車を停め、二人で降りてしばらく眺めてしまった〜(#^.^#)。 パノラマ4枚。横に繋げると小さくなるけど、湧き上がる雲の凄さ伝わるかな〜。
雲は全て、かなりの早さでうごめくので、見てる内に自分の足元が揺れてる錯覚までする(笑)。 手前の陸地の下をかがみこんで覗くと、そこはもう真っ白(≧▽≦)。ミルクの中からミルクがまた煮立って出て来るような、次々と雲の沸き立って来る様子も凄かった。 「でも、これって、雲の向こうは実は奈落なんだよね〜(^_^;)」 ↑こう想像するものだから、その後は、雲の噴き溜まる奈落の方に内側カーブする道なんかだと、運転する亭主も横に座る私も、何やらすごく緊張してしまった(笑)。 そのうち上空もすごい濃霧となり、その裏から太陽光が当たる様子が神秘的だった〜。 この先は徐々に霧に包まれ、次の山田牧場ではまたまた濃霧(笑)。 ここ、地図に「放牧中の牛に注意」と書いてあるんだよね(笑)。ウネウネとした山のカーブを行きながら、霧の合間から牛が出て来るかと、ちょっとドキドキ(笑)。 ヨーロッパの風景みたいで、この辺りも良かった〜(^^ゞ。
<山田温泉〜小布施〜松代〜真田> 山田牧場を過ぎると、奥山田、松川渓谷、山田温泉と、温泉村に入って来る(^^)。 ここまでのちょっと西洋っぽい雰囲気とはガラリと変わり、涼しげな渓谷に面した山奥の、これまたすご〜くイイ風情で、写真を撮りたかったんだが、道を間違えるとイカンので地図と首っ引きであまり撮れなかった(^^ゞ。 ガイドには、長い笹竹に入れたサンカ酒とかタヌキ鍋など、山奥ならではの料理が楽しめると書いてある。また来てみたい(^^)。 この後は山田温泉から小布施に向かう。地図F。←北の方に高梨氏館のある中野が入るようにしときました(^^ゞ。
途中、「城山っぽい雰囲気の山〜(゚.゚)」って山影に出会う。 この辺りに来ると、そろそろ城山が出て来る領域。 通った辺りを後で調べてみた感じでは……小曽崖城、滝の入城、枡形城というのが見付かるが、通っただけなので勿論これがそうとは言えないよ(^^ゞ。
というわけで、松代の写真は一個もない。 それでもわざわざ松代を通ったのは、「好きだから〜(#^.^#)」というのも勿論理由の一つだが(笑)、もう一つは「一度、松代〜真田に抜けてみたいね(^^)」って話をしてたからっ。 去年お届けした「真田ロード」(詳しくは2005年6月〜9月「城主のたわごと」上州〜信州編をば(^_^A)) で今イチ網羅しきれなかったのが、この松代〜真田間の道で、ここも鉄道は通ってないから、車じゃないといけない道。35号線というのがそれだが、地元では「真田線」と呼ばれている。地図H。 真田幸隆が信州攻略の活動をしてた頃から使っていたルートだとか、その孫で松代藩主となった真田信之が、このルートを通じて旧領(真田)と連絡を取り合ってたとか、そういう話を松代でよく聞いた事がある(^^ゞ。 というわけで、松代から真田に抜けてみた。夜だったのでハッキリ景色が見れたわけではないが、通ってみたい道だったから満足した〜(^^)。 そして三つ目の理由……高速代を浮かすため(爆)。 小布施まで出ながら、長々と下を通ってここまで来た理由がまさに、初回にお断りした「貧乏旅行」ゆえ(^^;)。。 そして最後の一つが……イイ温泉があるらしい( ̄∇ ̄)。<ニヘ 私たちは松代の温泉が大の贔屓で、いつ行っても「イイ、イイ(≧▽≦)」と誉めるんだが、一緒に風呂に入る地元の人には、いっつも「真田線の途中に日帰り温泉があって……」という話を聞かされるのだっ(笑)。
湯船は……すご〜く広い(゚.゚)! 全て石組みの贅沢な温泉で、水風呂も一郭にあり、出入りしながらかなり長風呂した(笑)。 湯の色は透明で、一見「これがそんなに利くんだ〜?」と思ったが……あの大沼ハイキングでだいぶ膝をヤラレ、「どうも足が……」と何度も運転を休み休みここまで来た亭主、驚いた事にこの湯に入った後ピタリと治ったらしい(゚.゚)! これは日ごろ運動不足ぎみの私も同じで、あの大沼ハイキングは「今日はともかく、明日来そうだな〜〜〜(>_<)」とかなり覚悟してたんだが……やっぱりこの湯に入りよ〜〜く足を揉んでおいたら、翌日殆ど筋肉痛が出なかった! あの松代温泉に住んでる人達が声をそろえて「いい」と言うだけの事はある!(笑) (下手すると、松代温泉に入って「やっぱ温泉は松代(^^)」と悦に入ってる私に「アンタ! こんな湯浸かってないで、あっち行っておいで!」とか言う人がいるんだわ〜(^_^;)) 夕食もここで取り、店内のパン屋さんで焼きたてパンを買って、さて、あとは真田に抜けると……「あれっ? こんな道に出るんだ(゚.゚)!」って思うぐらい、突然真田の見知った地点にイキナリ出た(笑)。 こんな風に、全然知らない道をエンエン行って、いきなり知ってる道に出ると感動するよね(^^ゞ。 あとは、上信越道の上田菅平インターから高速に乗り、意外と疲労感少なく家に帰った。 あ〜〜危なかった(≧▽≦)。今回は又々自ら「慰労の旅」を最後の最後に外しかかったが(笑)、どうにか「十福の湯」のお陰で、辛うじて「疲労の旅」だけは何とか免れた〜〜〜( ̄∇ ̄;)。。。 ■9月〜12月 <お土産編っ(^O^)> まずは、志賀高原のお土産から〜♪ 上3点は、ホテルで買ったクッキー「おこじょにあったヨ」(^O^)。
カワイイよね〜(#^.^#)。でも……本物の「おこじょ」に会えたワケではないのだ(-_-;)。。 そして! 下左↓は小布施で買った「栗かのこ」(#^.^#)。小布施で栗と言えば「竹風堂」さんが有名だが、これは「桜井甘精堂」さんの。美味しかったよ〜♪
「水戸なっとうスナック」は、東武ワールドスクウェア(たわごと1月〜3月)に行った時のだね(^^ゞ。 茨城県結城の「リスカ」という会社が作ってる(^_^A)。棒状のスナックで、味は……納豆の粘り気と梅干の酸味が混ざっている(汗)。。これも「たこやん」と同じ「美味しい目的」で食べるお菓子ではない(笑)。 最後の「山手線80周年弁当」は、亭主が出張の帰り、上野駅で買って来てくれたもの。 お魚とかハンバーグとか、かなり美味しかった(^^)。上に乗ってる大根とニンジンは、最初「北海道と九州?」と思ったが、よく見たら鶴と亀のようだ(笑)。 ちなみに「山手線」というのは、東京都23区内を走っている各駅停車のローカル電車(^^ゞ。 そして2005年、最後は……お月見(^O^)!
↑普通は秋だと思うが、わりと冬が近付いてから撮ったような覚えが……(^_^A)。。 終わりだいぶ端折った気もするけど(笑)、こうして無事に2005年も暮れた(^O^)。 ■2006年1月■千葉県松戸市 ここより次回に渡って「国府台合戦跡地」シリーズ(と言えるかな(^^ゞ)に入るネ。 <八柱「藤塚稲荷」> 明けまして、おめでとうございます(^。^)。 気持ちの悪い事に、この「城主のたわごと」珍しく年内レポ(笑)。天変地異の起こりませんように〜(^∧^)。
松戸七福神廻りについては、2004年8月〜9月「城主のたわごと」松戸編でやったので省略(^^ゞ。 今回は「藤塚稲荷」についてのみ。 今年は年末年始の休みが短かった〜(>_<)。。 というわけで、特に蔵する所もなく、フラフラと例年どおり七福神廻りを開始した。最初に訪れた「徳蔵院」では、本堂が綺麗に新装されていた(^^)。↑ そして、そぞろ境内を廻る内に、ちょうどお墓を見回っていらした住職さまとバッタリと出くわす。 「明けましておめでとうございます〜」←こたつ夫婦 「はい、おめでとうございます、何かお探しですか?」←住職サマ んん〜特にそういうわけじゃないけど(^^ゞ、確かに檀家でもない我々が墓地のある所まで出向く理由と言えば……。 「前、ご本堂の工事をする前は、確か藤塚稲荷がその横に並んでた気がするのですが、それはこれでしょうか」 と聞いてみる(^^ゞ。お正月は和尚さんも忙しいし、話し掛けられでもしなければ訊かなかったに違いない。 「はいはい、そこにあるのがそうですよ(^^)」と和尚さん。 それは墓地に続く道の途中にあった(^^ゞ。今はまだ工事が完全には済んでないので移転してあり、全部が済んだら、元通り本堂の近くに戻す予定だそうだ。 そして……超ラッキーな事に、その場で住職さまのお話しが聞けたっ!!(≧▽≦) この「藤塚稲荷」について、詳しくは2004年9月<松戸七福神巡り7、「寿老人=徳蔵院」>内を(^^ゞ。下の方にある写真だけ、今度もちょっと出しておく。↓ 2003年1月撮影・2004年9月掲載済、徳蔵院墓地から眺める市街
↑この辺り、昔は海だったそうだ(^^ゞ。今回もこういう風景を目前にしながらお話しを聞いた。 国府台合戦の当時、この沖合いまで軍船が押し寄せ、浜に上陸して攻めて来たという。 (そう思って見ると、のどかな正月の夕焼け風景が、どことなく風雲急を告げる様相に見える:笑) 2004年9月の「たわごと」には、この徳蔵院が高城氏の領内にあり、高城氏は北条に与し、戦いは北条側の勝利に終わったから、「戦勝はしたものの戦死者多く」として、これらを弔って建てた祠が現在に伝わる「藤塚稲荷」であると書いた。また徳蔵院のHPにも、やはりそのように書いてある。 が、今回お聞きしたお話しには、「墓」とせず「稲荷」とした所以は、「為政者に知られる事を恐れ、戦没者の墓地という態を隠して菩提を弔う必要があった」という事である。
この辺りの者達にしてみれば、相模の方から出て来た勢力と、安房の方から出掛けてくる勢力が争奪しあう、まさに「板挟みの場所」なのだ(^_^;)。。 こういう事は(川中島合戦などもそうだが)、デカイ勢力がぶつかりあい、デカイ戦が行なわれた各地にあった事情であろう。(出て来ると言えば、遠い越後から上杉謙信まで出て来るのだから:汗)。 注目すべきは、長い時の経つ内に「墓」が「稲荷」に変化したのではなく(私はてっきりこれだと思ってた(^^ゞ)、当初から一定の理由あって「わざと稲荷にした」という点である。 さて、もともと墓地があった場所はこの徳蔵院ではなく、現在の新京成線「八柱」駅あたりで、昔そこは山があったそうだ。地図I←ちょうど中央印のついてる所が徳蔵院で、北に八柱駅、そして今回は南にある「八柱霊園」もレポする予定。 この辺りは長年、新田開発が行なわれた場所で、「新田」という地名はあちこちにある。この八柱駅の隣の隣にも「松戸新田」という駅名がある。 八柱一帯もそうした地だっただろうが、駅の近くにあった「藤塚稲荷」がこの徳蔵院に合祀されたのは、つい最近の住宅地開発が原因したと言う。 今は全国的に有名になった「マツモトキヨシ」は、元松戸市長の名である(笑)。市政としても有名になった「すぐやる課」も、元は瞬く間に新興住宅地化された松戸市の、当時としては苦肉の策であった。 そうした宅地化の波に押されて、駅前に藤塚稲荷を祀る事は難しくなったので、今はこうして寺内に安置されていると言う。 しかし、今でも八柱駅の裏側には「藤塚稲荷」の元地として、僅かにその痕跡を残している、とこの時、私は地元の人間ながら初めて住職さんに教わってビックリした。 「どこにあるんですか? 駅の前の……はいはい、あ〜そんなビルがありますねぇ」 と亭主も思わず身を乗り出して熱心に聞いた。 それで、例年なら次の七福神廻りにすぐ向かう所だが、この年は徳蔵院の後、速攻で八柱駅に行ってみた。
ちなみに隣のビルは「医療法人・清仁会」というビルで、一階は「足立中央クリニック」。
この敷地にも「徳蔵院で管理している藤塚稲荷」という謂れが書かれていた。 で、えっと……八柱なんて超ローカルな場所と思ってたが、JR新八柱駅が出来たからかな、この頃では多少知られてるようでもあり、また確かに駅前はまぁまぁ賑わってるので一言付け加えると、この跡地に出会える出口は、駅のメインの出口の逆側ね(^^ゞ。アタシらは「駅の裏」と呼んでる。 この後も車を運転しながら、亭主がしみじみ「こんな所で合戦があったんだね〜」と感心した。 私もしみじみ「子供の頃、ここは全部海だった、掘っても貝殻いがいは何も出ない、って習ったよ」と改めて教育制度に不満を唱えた(爆)。 <松戸オマケ・各所、風雲名物(笑)> この後も七福神廻りを続行して、例年は撮りそびれる写真を撮ったのでご披露(^^ゞ。 地図J。←だいたい中間点。七福神廻りも広範囲(笑)。 タテは北から南に「北小金」から「松戸」まで。ヨコは西から東に「松戸」から「八柱」まで。 我々は東の「八柱」から取りかかり、北の「北小金」に出て、西の「松戸」に戻って来る。
@円能寺の七福神レリーフは、たぶん新しく出来た物だと思う(^^ゞ。 各お寺に各福神サマが一神づつおられるが、勢揃いの図は、みやげ物(手ぬぐいとかキャンディーとかお酒とか)やお守りで見掛ける以外は、お寺に飾ってあるのは珍しいかも。 A医王寺のは……(笑)、この看板のある建物の奥、右に参道があるのだが、奥まった場所でわかりにくいので、毎年この看板を目印にしていく(^^ゞ。 しかもこのお寺、本堂で参拝する時には、ちゃんと木の札に「ノウマク、サマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウン、タラタ、カンマン」と唱える言葉が書かれていて、思わず信長を調伏したくなる(爆)。 さて、八柱(東)→北小金(北)と廻って来て、松戸(西)にやって来る道。
↑これはウチあたりではよく見掛ける(^^ゞ。プロパンガスの容器にこれがあって、人ンチの庭に置いてあったり。 思えばプロパンガスって所が、またどことなく危険な(^_^;)。。……あ、そうそう、三鱗は北条氏の家紋ッス(笑)。 以上。 国府台合戦に始まり、風雲だらけの我が街のお正月、松戸七福神廻りでした〜(^_^;)。。 <雪の八柱霊園> ↑前と繋がってるかどうかは甚だ疑問(爆)。単に雪景色を撮ったので載せるだけ(^_^;)。 何せ千葉県は積雪自体がそう多くはないし、そのタイミングで出掛けるチャンスも滅多にないので。 ただ偶然にも、上述の八柱霊園をたくさん撮ったので、下に載せるね(^^ゞ。 まず最初6枚は、八柱より一つ奥、常盤平の雪景色(^^)。
駅の手前に十字路があり、左右を「さくら通り」が横切る。それを左折して入ると八柱方面に向かう。
いつもは満開(じゃない年もあるけど(^_^;))の桜の風情をお届けする、この通り、この日はすっかり雪化粧(#^.^#)。 で、八柱に行くには真っ直ぐだが、右に曲がると北方面、小金に向かう道に入る。
こういう森はあちこちにあるが、夏はよく日暮が鳴いてて気に入ってる場所(^^)。 亭主が最初にこの辺りに来た時……まだ学生でしたが(^^ゞ、こんな風に常緑樹に雪が積もって「ノルウェーに来たみたいだっ」と言ったのを、今でもよく思い出に話す(笑)。 さて、八柱霊園に到着。↓ここがまた鬱蒼として緑多く、積雪するとホントにヨーロッパみたいかな(笑)。
まぁ雪で滅茶苦茶ハイになってて、誰かと遊びたくて仕方ないんだろうが、園内、そばを通って体ごと車にぶつけて来た犬もいた(^_^;)。飼い主の人も慌ててたし、私も急いで窓開けて「大丈夫?」と聞いたが……何のその、興奮してベロ出して窓の中にお手までする(笑)。
むかし、民俗学者だったか文学者だったか考古学者だったか、「その街のナントカを知りたかったら墓地に行け」といったような事を言った人がいて、私はいつもここに来るたびにその言葉を思い出す。 この頃の霊園には珍しくないのだろうが、ここはまた、ずいぶんと思い思い多様なデザインの墓が多く、教会風の建物があったり鳥居があったり、動物の石造やら銅像やら豊富で、不謹慎ながら、墓を見て歩くだけで楽しめる(爆)。 どう言うのか、いかにも一定の宗派や寺社に全く無関係に展開された街ならでは、という様子がよく現れている。
↑集団墓地風の一郭。整然と並んで雪に埋もれ美しい。 ■千葉県市川市 <国府台天満宮> 話は遡るが、松戸七福神廻りをしたのが1月2日。 コースは最後に松戸を廻る。その松戸にあるのが大黒さんの「宝蔵院」(地図K)で、場所は江戸川に近く、川べりを通る時「矢切の渡し」の看板がいつも見える(^^ゞ。 そんな翌3日、YORIさまから「国府台城に、夜泣き石という里見義弘の娘がなった石がある」と教わり、検索でそれが「里見公園」にある事を知った。 「矢切の渡し」とともに、この「里見公園」の看板も見掛けていたから、「あ〜意外と近いんだなぁ(゚.゚)」と思い、地図を見ながら1月28日ごろ行ってみた(^^ゞ。場所はわずか南にそれて、こんな位置→地図L。 里見公園の位置はわりとすぐ知れたが、車を停められそうな場所を探す内に、公園周囲の「国府台天満宮」を発見した。場所は国府台三丁目。 国府台天満宮
案内板には文明11年(1479年)、太田道灌の建立とある。 明治時代までは法皇塚の墳頂部という所にあったのが、土地の買い上げにあって農家と共に現在地に移された。 ……と、歴史に関してはそれのみなのだが(^^ゞ、今回は千葉県の特集でもあるので、このお宮に付随して書かれていた事も少々。 それは、この天満宮で行なわれる「辻切り」という行事が、市川では昔は盛んだったのが、今はここでしか行なわれてない、という事だ。 「辻切り」と言っても、凶暴な浪人が夜な夜な徘徊し、罪もない町人とかを切るアレじゃないよ(そんな事が今でも行なわれてたら……(^_^;))。 外から侵入する悪霊を「辻で断ち切る」という意味(^^ゞ。 切り方は、郷(村・部落など)の四隅の辻に魔除けをしておく。
実は、わりと千葉県の各地でこういう記述に出会う(^^ゞ。千葉では全般的にこの呪術が用いられていたのだろう。 個人的に面白いと思うのは、同じ千葉県でも、南部では注連縄を用い、北部では大蛇を用いる、という違い。 市川ではこの他に獅子舞も盛んだったが、今は後継者がいなくなり昭和13年(1938年)には絶えてしまったという。 <総寧寺> 天満宮から里見公園・正門にやって来る道の途中に、ここ総寧寺がある。
近江・観音寺城の佐々木氏頼により1383年、通幻禅師を開山として、近江・左槻庄・樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立。曹洞宗。
明治時代(1872)には学制が決められ、第一大学区の校舎を境内に建設する事となったが、後に陸軍用地となり、戦後(1558年)里見公園となった。
ではでは、長らくお疲れ様でした。又お会いしましょーー。 <つづく> 2006年07月07日 |
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