<2008年・城主のたわごと4月>




2007年9月。「宮城〜山形編」6弾は上山温泉から最終回。

2007年11月と2008年2月の「香取神宮」第一弾をお届け!




     
  去年11月からスタートの「宮城〜山形ツアー」、6回目・最終回(^^)。
時は2007年9月。今回は4日間の最終日、夕方から夜まで!
旅の最後は山形県に出て、上山城と上山温泉に♪

そして、今回から始まる「香取神宮」の第一弾の、始まり始まり〜(^O^)。
行ったのは、まずは2007年11月。日が短い時期でもあり、行ったらスグ暗くなっちゃったので、翌2008年2月に、もう一度行き直した。
というわけで、写真は11月と2月のを組み合わせてお届け(^^ゞ。



■2007年9月・山形県
<上山城>


地図A←右下のグチュグチュとうねる山道を宮城県からやって来て、今もうすっかり山形県に入っている。そのまま上山温泉に近付くと、地図上には表示されてないが、13号線というのとぶつかる。これを左折して、さらに右折して、温泉マークとお城マークのついてる辺りまで行く。

蔵王からの道をまず左折すると→
13号線。広い道路の行く手に山並(^^)。

今度は右折、城・温泉・駅の方に向かう♪

当初はこの前日に帰る予定だった。
それが一泊延びて、遠刈田〜蔵王を廻ったのは前々回と前回の通りで、この日は「温泉と山ドライブ♪」という亭主の要望以外は、これといって旅程も何〜も無く、行き当たりばったりの旅が続いている(^^ゞ。

とは言え、蔵王あたりまでは、少なくても私は前に二度ほど来た事があるが、ここ上山温泉はホント初めてだし、考え無しでブラッと来たので、この開けた盆地と周囲の山の並びを見て、「こんなトコなんだね〜(゚.゚)」と、カドを曲がるたびに夫婦でハモッた(笑)。

この辺りに城があるのは、旅の前に地図を見ていて、何となく目に入って知った(^^ゞ。
その時は「旅程からエリアが離れてるから、まぁ来ないわなぁ〜」と思ったんだが、蔵王に出ちゃったので、山ドライブの行き先のどっかから高速に乗らなきゃ帰れないので、ふと「ここ出ちゃおうか」と朝決まった(笑)。

城だ、城だ。目指して登ると……
途中の駐車場から……「おや?」

ホント駐車場に到達して、車から降りた途端、この一団に出くわした(^^ゞ。

神人サンっぽい一団の後には
やはり甲冑軍団(笑)!
ご当地の旗指物

ガチャガチャした、あの特有の物音が近付いて来たので、目前に現われる前から、
「キタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━!!!!」
とは思ってたが案の定(笑)。

いよいよゾロゾロと武将軍団登場(笑)。

どっかで見た風景ながら、この方々は、知り合いではありません(笑)

一団はさらに城に続く坂を
エンエンと登って行く

やっぱ、こういう行列にはお城が似合うねぇ(^^)。城に続く坂道を、揺れながら進む旗は見応えがあった。

ところで、あの旗は何の紋だろう(゚.゚)。
ちなみに、祭り係の人たちが羽織ってるハッピの背にあるのは三つ葉葵、つまり松平氏の家紋っぽく見える。
この辺りで松平氏と言えば、1600年代の能見松平氏、そして幕末までこの地を治めた藤井松平氏があり、どちらも徳川家康に至る前に分派した松平氏の流れに当たる。

そもそも、この上山には鎌倉時代の初期、源頼朝が奥州藤原氏を制し庄内の田川氏を討って、各地に地頭を置いた時、五十嵐小文治という者を配したそうだが、その頃にはもちろん城は無かった。

また1356年、北朝側の斯波兼頼(羽州探題で最上氏の祖)が山形に入部し、やがてこの上山が最上氏にとって最南端となっていく場所であったが、やはりこの時期、城に関しては上記同様。

上山城としての歴史は、室町時代の応永年間初期(1400年前後)に、斯波兼頼の曾孫・里見満長が初めて着封、上山殿と称し「虚空蔵山」に山城を築いたのが初めとされ、当時は「高楯城」または「亀ヶ岡城」とも言われていた。

永正11年(1514)には、伊達稙宗に攻略され、翌年和睦し返還、五年後に再び攻略されたが、天文4年(1535)里見満長の子孫・武永(衛)義忠が挙兵して奪還した。
同年、高楯城を廃して、新たにこの地・天神森(現在は月岡公園)に平山城を築き、月岡城とも称した。

城主は武衛氏三代と里見氏で、1600年の関ヶ原では、上山里見氏は最上義光と共に徳川方に与し、上杉軍と戦った。

元和8年(1622)最上家改易後、能見松平氏(重忠)、蒲生氏などを経て、土岐氏2代が領した17世紀の後期には、城郭として最も整備され、白壁の城壁をめぐらし、後景には四季折々の緑や紅葉に映えた上山城は、小藩(2万5000石)ながら奥羽の名城と称されていたと伝えられている。

この道はお城(天守閣)の裏手の神社に続いていた。↓

頂上の「月岡神社」到着(^^)
武者行列の集結場から少し離れ

我々夫婦は裏手の広場一隅にやって来る。↓

←これは「沢庵(たくあん)」。
「沢庵」は小説「宮本武蔵」や「春の坂道」なんかに出て来るが(^^ゞ、史実の人で、江戸期の京都・大徳寺の長老だった。
江戸幕府の厳しい宗教統制から起こった紫衣事件に強く抗議し、寛永6年(1629)、57歳で、ここ上山に配流された。

当時の藩主・土岐頼行(22歳)は、松山に春雨庵を新築して沢庵を迎え手厚く遇し、教導を仰いだ。
上山藩政史上に格別の治績をあげ、上山城も整備し、西山の緑を背景にした美観は、小規模ながらも奥羽の名城と称えられていた。

当時の本丸北の堀端の上に見事な桜の古木があり、沢庵もこの花を眺めて配流の身を慰められたといわれ、多くの領民は「沢庵桜」と愛称した。

が、元禄4年(1691)に、土岐頼行の跡を継いだ頼殷が1万石加増で大坂城代に栄進し、翌5年(1692)に転封となると、上山は幕府領となって、幕府の命により跡形もなく破壊され、沢庵桜も切り倒されることになった。
幕府の代官は由緒ある桜樹を惜しんで、切らずに残そうとしたが、幕命に背けず根元から3メートル余の幹と枝を残して切り取らせた。その時の代官の歌に、

  そよ風もいとひしものを桜木二 斧打つ音をきくぞかなしき
  手折りしもいとひしものを今とても 根をたへねとハいかておもハん

後任の金森氏が5年間在任の後、同十年松平信通が着封、その家臣・中山四郎右衛門は荒廃した上山城跡に一際美しく咲いている沢庵桜を眺め、両代官の遺した歌に感動し、一首の歌を詠んでいる。

  斧の音くたく言の葉なかりせハ 月岡山の花をやハ見し

沢庵桜はその後も上山城の春を飾ったが、30年後に惜しくも枯れ果ててしまったという。

しかし、その根元からは蘖(ひこばえ)が成木しており、西紀2000年を記念して、有志あいはかり、その成木から苗木を育て、上山城跡をはじめ禅師ゆかりの地などに植樹して、沢庵禅師の遺徳を偲び、温情と勇断をもって愛護した先人の心情を称え、後世に語り伝えようとするものである。
(平成13年・沢庵桜植樹実行委員会)

天守閣の裏側が近付いて来る→
←こう歩いてって築地塀を越すと、↓

階段を降りて正面に行ける(^^)
城内敷地の見取り図

←階段の左脇には、各段ごとにちょっとした施設がある。

中段「足湯
下段「かかし茶屋」(物産・土産・軽食)

そして階段の右側は……
←「上山城」天守閣(再建)
↑石垣には「かかし」人形が展示。
ルパン三世ってトコが現代風だね(笑)。

土産屋の「かかし茶屋」も、この「かかし」に由来するのだろう(^^ゞ。
近く、このお手製「かかし」を市民から集めて、コンクールか展示会か祭りを挙行する予定が書かれた、大きな看板が告知に出されていた。

「今度はかかしだね〜(^^)」
「今年は、最初の日から"こけし"も見たよね〜(^^)」
「去年は、米沢でも変わったスタイルの干し稲を見たしね〜」
「ホントこういう民芸品が多いよね〜」
「冬が長いから、田んぼのお休み期間に作るのかな〜」
「子供のうちから手先が器用に育ちそうだよね〜」

とか言いながら、お城の中に入った。
城の中は博物資料館となっていて、展示はかなり良かった(^^)。建物は4階建ての内、3階までが展示で、その上に展望用の最上階という造りになっていた。

最上階からの眺めをお見せしよう(^^)。
左の風景が、一つ下に行くと、ややズレて右に出て来る写し方になっている(笑)。↓

(パノラマ4枚・180度)

↑左に遠く聳えるのは、左から「三宝荒神」「地蔵岳」「熊野岳」(蔵王連峰の最高峰)「刈田岳」(刈田峰神社)
中央の近くの山は、左に「葉山(葉山神社・修験の山)、中央に「三吉山」(三吉神社・斉藤茂吉の歌にある)、右麓の手前に「上ノ山駅」がある。

(パノラマ4枚・180度)

西(パノラマ4枚・180度)

↑最初に到着した「月岡神社」の方角。

左に遠く高く聳えるのは「太平山」、その手前近く左に「虚空蔵山」、右に「高楯城跡」、この上山城を築く前、1400年代ごろから、最初に里見氏が城を築いた方角。

さらに右に来て、中央に近く大きく聳えるのは「経塚山」(経を埋めた伝説がある)

(パノラマ4枚・180度)

城は破却されて無くなったが、上山藩は金森氏、藤井松平氏(3万石)10代の治領下で170余年間を経た。
幕末においては藤井松平氏の治世下にあり、松平信行が藩主の1809年には、藩校「天輔館」が開設され、松平信宝が藩主の1840年には、学舎を移築して「明新館」と新設された。

上山藩には、農政や兵制などに活気的な業績を上げた金子清那があり、彼は元は公武合体を説く穏健派として知られたが、上山藩は江戸薩摩藩邸の襲撃に加わり、この時に金子は戦死した。

この江戸における薩摩藩邸襲撃は、鳥羽伏見戦のきっかけとなった事件としてよく聞き、また暴発した側として「庄内藩」とかよく耳にするが、具体的にどんなメンツか知らなかったので、この博物館でイキナリ知って、ちょっと驚いた(゚.゚)。

こうして維新の時代を迎え、これまでも代々城の再建が宿願であったが、維新まで一部を修復するに止まり、再築されることは無かった。
周囲の堀も、明治5年に埋め立てられ、城の西側に僅かに内堀の名残を留めている。
現在の上山城は、昭和57年に旧二の丸跡に城郭風の郷土資料館として建設したものである。

お城の展示と頂上からの眺めを堪能すると、階下に降りて、受付で温泉の事を聞いてみた(^^)。
受付の人は親切に周辺の地図コピーを手渡して、日帰りで入れる銭湯への行き方を詳しく案内して下さった。



<上山温泉「下大湯」>

ところが、教えられた通りに行ってるつもりなんだが、なかなか判らず(笑)、往来を行ったり来たりして通行人の方に聞いたり、それでも行き過ぎたりして、商店街のお店に入って聞いたら、ウチの車が何度も行き来するのを見ておられたのか、「あの〜温泉を」と言っただけで、うん、と力強く頷いて、曲がり角を詳しく教えて下さったり、この辺りから、「何かすごく気さくな人が多い」と嬉しくなった(笑)。

結局……この辺りじゃなかったかと(^^ゞ。地図B

←「下大湯」銭湯である。
手前に湯にちなんだ何かの跡地が?↓

残念(^^ゞ。さすがに真っ暗に日が暮れて来て、案内版を撮影したんだが、字が写らなかった〜。。

でも、この上山温泉じたいの謂れは、博物館で買った本や、この銭湯で貰ったパンフなどにも書かれており、以下のとおり。

上山温泉は湯野浜温泉や会津東山温泉とともに奥羽三楽郷に数えられる名湯で、温の起こりは、1458年、肥前からの旅の僧侶・月秀が上山を訪れた際、山王山麓の沼辺で、足を痛めた鶴が脛を浸して怪我を癒し、飛んで行くのを見て沼地に湧き出る湯に気づき、温泉を開いた事に始まる。ゆえに「鶴の湯」「鶴脛(つるはぎ)の湯」とも呼ばれたそうだ。
また鶴が休んだ石を「鶴の休石」と呼ぶようになったという。

やがて温泉の周りに人家も建ち並び、湯治場として発展し、現在の湯町となった。
この地は上山・山形の両領域の境に接し、米沢藩とも近く、観音堂は最上三十三観音の十番に当たるそうだ(1109年、開山)。

この下大湯の始まりは、江戸幕府が開いて間もない寛永元年(1624)、ときの上山藩主・(能見)松平氏が湯町にあった「下ノ湯」を、山形へ向かう羽州街道近くの、ここ観音堂下に移し、「下大湯」として一般人のために開放したもので、この地で最初の共同浴場であったと伝える。

町中にある銭湯が、1600年代の前半から……というのは、私の知る限りではかなりの古さ(゚.゚)。

山形への羽州街道はこの近くより北方へ直線化され、温泉場としての城下町づくりがここを起点に、おおよそ現存するごとくに行なわれたので、以来この下大湯は、市民や往来する出羽三山の行者らに親しまれて、つねに町の繁栄の象徴的存在として、街道を往来する人々で賑わった。

たまたま、この大湯ができた五年後に江戸初期随一の名僧とうたわれた沢庵禅師が紫衣事件で京都から上山に流され、当座の住居が近くの坂道の下にあったところから、近隣の人々と供にこの下大湯に浸かって、配流の身をあたためたことが沢庵禅師の書簡にのこっている。
「鶴脛の出湯にうつる影みれば片輪もなおる七日七日に」
「鶴脛温泉」と呼ばれるようになったのは、沢庵禅師のこの歌からとも言われている。

当時の湯槽は桧皮葺屋根に桧づくりとも伝わり、元禄年間に火災により焼失、再建された享保時代には湯槽は石造りに変わり、嘉永・明治の改修を経て再興され、最近では昭和32年(1957)の大改築が最後となる。

館内は今では幻と言ってもいい、純然たる「銭湯」(^^)。
20〜30年前なら東京にも当たり前にあった銭湯だが、痺れるほど熱い湯が今となっては何とも懐かしく、出てから夫婦で落ち合い、コーヒー牛乳なんか買って車に乗り込み、夜の山形を高速のポイントに急ぎながら、
「良かったねー(≧▽≦)」
「懐かし−ー!(≧▽≦)」
と感激を分かち合った(笑)。

何と言っても上山の方々がみんな気さくで、見知らぬ観光客とも和気藹々して下さるムードが良かったの(^^)。

そして高速に乗って、「東北にいる間に食べるんだよねっ!」と、(例によって)最後のこだわりで、わりとスグSAで夕食。

最後の食事は以下のメニュー。
←米沢牛ステーキ定食(亭主)
↓米沢ラーメン(城主)

食い終わって再び車に乗ってからも、白石が過ぎる、会津が過ぎる〜〜!と騒ぎながら帰路。
さすがに今回の道のりは遠かった(^_^;)。

東北のお土産は、左上から「支倉焼」「仙台いちご日和」「白松モナカ(大納言・栗・大福豆・胡麻)」。全て貰い物(^^ゞ。

右は温麺(うーめん)で、左上から「玉子」「抹茶」「普通のうーめん」、右が「梅しそ」。
美味しかった♪

以上、6回シリーズの東北旅行「宮城〜山形編」も、これにて終わりっ(^^)。 *パチパチ*



■2007年秋・千葉県
<柏市・手賀沼>


ってわけで、東北旅行も終わり、あとは定例の貧乏・近場巡りの日々(笑)。

まずは9〜11月ごろ、手賀沼に出たら、ピンクと水色の空と厚い雲を映して、湖がとても綺麗だったので撮影した(^^)。
場所は地図C←この辺。

青空と夕焼けと厚い雲の手賀沼(パノラマ4枚180度以上)

日暮れは左方向から
暮れる向こうから灯りもついて(^^)

この日暮れを、台を組んで大型カメラで撮る人も多い

ちょうど大きな樹がある所に沈んで行くので、絵になるからだろうね〜(^^ゞ。

以上、関連事項は、
2006年8月<手賀沼>
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)><手賀沼親水広場と「水の館>




<松戸市・「常盤平」駅前「けやき通り」>

「常盤平」は「ときわだいら」と読む。

11月も終わりごろ、いきなり紅葉がすごく綺麗になったので(^^)。
場所は地図D←この辺。

左の大きなビルは「西友」スーパー・右は「常盤平団地」

↓逆に駅の方はこんな感じ。                      右が「西友」ね(^^ゞ↓

ちょうど夕陽の時刻、照り返しが綺麗だった♪

↓駅から遠ざかると        坂を下り↓ 緑が増える(日が当たらないから(^^ゞ?)↓

うっすら紅葉した黄緑色も綺麗(^^)

この先もケヤキ並木は続くが
この辺りで駅に戻る。さっきの坂下あたり。

駅に戻る道すがら、また「西友」が現われる(笑)

急な冷えで急速に色づいたと見え、日の当たる場所や坂の高低で色合いがまるで違うのが目に楽しかった(^^)。
この年(2007年)は年末まで、こんな風に、とっくに枯れ落ちた枝もあれば、いつまでも紅葉してる枝もある、という具合だったな(笑)。

常盤平を後にして……
他の秋の風景も(#^.^#)

ここは白井方面。白井市は松戸市のほぼ東隣で、南の鎌ヶ谷市を越して入る。

この一帯は見事なススキ野で、こう平面が多いと、わりとすぐ宅地化しそうに思う(笑)。

松戸市と鎌ヶ谷市と白井市の関係、地図E←こんな並び(^^ゞ。

パノラマ2枚。ちょっと逆光が残念(^^ゞ。

さて、この後は香取神宮をお届けするが、途中で年を越えてしまうので(^_^;)、今回と次回、香取神宮をお届けの後で、ちょっとだけ年末〜正月もやろうと思う。
その時に、また紅葉が出て来たり、とっくに冬景色になってたりするのは、この年の紅葉ぐあいのせいではなく、編集の都合ッス(笑)。

以上、関連事項は、
2006年7月<雪の八柱霊園>



■2007年11月・2008年2月・千葉県佐原市
<印旛沼〜宗吾〜佐原香取>


上に出した白井を通り、前に何度か紹介した千葉ニュータウン→宗吾を通って、佐原市の「香取神宮」に行く。
白井から宗吾までは地図F(かなり縮小(^^ゞ)

シンボルの電灯
宗吾に続く印旛沼周辺の道

で、いつもここに来ると、変わった電灯とウナギで撮りそびれるので、今回は撮りました!(笑)

見よっ、これが印旛沼だぁぁぁ〜〜〜!!!
今ちょうど橋を渡った瞬間(^^ゞ。

わりと一瞬しか見えないんだけどね(^_^;)。

オープンした甚兵衛茶屋
ウナギ・ロードを抜け(^。^)

←そして「宗吾霊堂」を通り抜け!

……実は、宗吾から先は成田に出て、この頃はパッパと高速に乗っちゃう(^_^;)。

東北旅行の前に、ついにウチもETCにしちゃってから、ちょっとした距離でも乗っちゃうという道路公団の思う壷(爆)。

そんなわけで、地図G←降りるともう佐原香取(^^ゞ。↓

高速を降りて左折↓  曲がると見える日本列島モニュメント→

このモニュメントは伊能忠敬に由来する。
伊能は日本で初めて地図を作った江戸時代の人で、この佐原が出身地なんだよね(^^ゞ。

で、こっから先が、2007年11月と2008年2月の写真を取り混ぜでお届け〜(笑)。
紅葉と枯れ木の同居は、それが原因ッス(^_^;)。

地図H←インターを降りて、正門方面に行くのは真っ直ぐ。左折すると「要石」と書かれた本殿の近くに出る。

我々は左折して「要石」の方に先に行く。→
正門方面は次回に廻す。

あとは農村の中
一本道を行き

坂の下まで降りると右折
右の狭い斜面を登る

右折ルートは2方向あるから、↑にちょっと見えてる山に、殆ど「折り返す」感じ。
┌→          ┌┐
|  こうじゃなくて、 |↓ こんな感じね(^^ゞ。

以上、関連事項は、
2005年11月<すすきロード(千葉ニュータウン)><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
2006年11月<宗吾霊堂、1>
2006年12月<利根川から印旛沼へ>
2007年1月<印旛沼>




<香取神宮・1、「要石」>

そして神宮に到着(^_^A)。

駐車場から見える石垣に囲まれたお社の一郭(パノラマ4枚180度)

↑この階段からも直接上がって行けるし、この一郭の右側ちょっと明るい場所↑に出ると、正門から続く参道と合流できるようにもなっている。

左の階段から
ちょっと上がってみよう(^^)

ここからだと最初に出会うのが、右上の写真の柵の裏↑の二つの末社。↓

向かって左が「天降神社(伊伎志邇保神)・市神社(事代主神)」。右が「馬場殿神社(建速須佐之男命)」。

「天降神社」とは、天孫降臨に由来するようで、「伊伎志邇保神」は他で見掛けない神だが、鑰守(かぎもり)の神で、天孫降臨に供奉した32神の内の一神との事だった。

「馬場殿神社」の方は、馬場に在った事に由来するそうで、スサノオを祭神とするのも、それと関係するのだろうか(^^ゞ。

この二社をさらに行き過ぎると、神宮のメイン・本殿へと行き着くのだが、今上がって来た順路は、あくまで駐車場から近かったから一先ず来てみただけで、正門から来るのが正式な順路だろうから、これより先は次回に譲ろう(^^ゞ。

今回は本殿に続く敷地とは反対側。↓

神殿近くの駐車場(パノラマ6枚180度以上)

↑この鬱蒼とした森林地帯が、「要石」に続く参道となる。今回はここまで行ってみる事にしよう〜(^O^)。
入口に「要石・奥宮」と標識で方向を指し示されている。

入るや周囲はホント鬱蒼とした森だが(^^ゞ、山城跡とは違い、参道もキチンと整備されて、怖いという感じは全くない。ただ夜はさすがに真っ暗よ(笑)。

この森林の道が古来は本来の参道で、今は「旧参道」と呼ばれている。(2008年5月・追記)

やがて二股に道が分かれ、右に折れてすぐの
石段の先(囲い)が「要石」

この森に入る前、「要石」の他に「奥宮」と標識されていたが、これはさらに奥のようで、この時は参拝しなかった(^^ゞ。
「香取神宮少史」によると、「奥宮」には経津主神の荒御魂を祀っているそうで、今の社殿は「1973年に伊勢神宮が遷宮の折、古伐による」とある。
この「経津主神」が、香取神宮のご祭神だが、本殿その他の本敷地については次回に譲る。

「要石」の手前には、碑文が書かれた古い石碑と線香を立てるような石台があり、向かいには「押手神社」がある。↓
宇迦之御魂神を祀り、古くより正月の「御鍬入(みくわいり)の神事が行なわれた後、五穀を艮(うしとら=北東)ノ隅に埋めた。この祀りを行なわないと、神域付近のみならず、近隣の農民が一切農具を取らなかったそうだ。
対面するように「要石」(囲い)がある→
その右脇の杉が凄く大きかった(^^ゞ。この杉の脇にチラと奥が見えるが、ここから先に行くと、そこにもお社がある。

囲いの隙から
囲いの上から。これが「要石

先ほど述べた「経津主神」が、ここ香取神宮の祭神だが、この香取の北方には「鹿島神宮」があり、その祭神「建御雷神武甕槌命)」と二神域を対で見立てるのが、この「要石」の存在である。

古伝では、この二神が天照大御神の命を受け、「葦原の中つ国」(記紀にある地名で所在不明。国内外に所在地説がある一方、架空あるいは天と地の中間などの諸説ある)を平定した後、香取ヶ浦に至り、この地方がまだ漂える国で、地震が頗る多かったので、人々が大変に恐れた。

ちなみに「香取ヶ浦」とは、現在では、ほぼ利根川に相当するが、太古は霞ヶ浦・利根川・手賀沼・印旛沼・江戸川・鬼怒川あたりまでが繋がった海だった。
香取と鹿島は、太古は海を隔てた、それぞれ島に近い存在だったと言える。

地震は地中に大きな鯰(なまず)が住み着き、荒れ騒ぐからかと、大神が地中に深く石棒を差し込み、その頭と尾を刺し通したので、ここ香取では凸の形に、鹿島では凹の形になっているという。

鯰が地震を起こす……江戸時代の話かと思いそうだが(笑)、さすがに香取・鹿島になると歴史的にも古そう&有名であり続けた事が覆りそうもないから(^_^;)、どっかの時代から付随した逸話にせよ、そう簡単に「江戸期の創作」とも決めがたいけど、この逸話が江戸とかに伝わって「地震と言えば鯰」になった、って事ならあるかな(^^ゞ?

江戸期と言えば、1684年、水戸黄門(光圀)が参拝に来て、これを掘らせた所、根元を見ることが出来なかった、という伝承が残っている。

新しくやって来た為政者が地元の古い神社を訪れて、その秘密を暴こう(自分の威勢を示そう)とすると、神意が現われてウヤムヤにされる、といった逸話じたいは、私の知る限りでも出雲大社なんかにもあるので(^^ゞ、全国にわりとあるタイプの話じゃないかと思う。

が、大抵は蔵を開けたら大蛇とか煙が出て神宝を守った、とかいうのに対し、この逸話が付け加えて面白いのは、わざわざ掘らせてみた点。黄門サマが歴史大好き、何でも探求オジサンだった事も同時に窺い知れる(笑)。

ちなみに「2月のたわごと(2008年)」<鹽竈(しおがま)神社>内に、塩竈神社がこの二神を祀ってる事を書いた。
この二神を祀る神社がどれぐらい多いのか知らないが、この「鹽竈神社縁起」が成立したのが、この9年後の1693年と、水戸黄門のこの伝承と微妙に近い時期って点も興味深い(^^ゞ。

いずれにせよ忘れてはならないのは、この辺りが海だった事。地震が多かった事。
この辺りの川に付随する話として、よく洪水の被害が言われるが、津波なんかも相当だったのかな〜なんて思った。

さらに奥の社に裏から入る(^^ゞ
入ってから振り返る「要石」一帯

実は最初ここが「奥宮」だと思ってしまった(^_^;)。
が、ここにあるのは、香取神宮のHPによると「護国神社」だそうで、創建は昭和21年、明治以降の国難に殉じたこの地域の人達を祭神としている。

護国神社」正面
鳥居から

この鳥居から続く階段はわりと長く、降りる途中から町の景色が一望できる(^^)。

この階段を降りて行くと、門前町と言うか、お団子屋さんやお土産屋さんの建ち並ぶ見世街がある辺りに到達するかと思うが、ここを降りず、「要石」の森の入口まで一度戻る。

その続きは次回(^^)。

ここで、ちょっと先の話を。
香取に来た最初の11月は、わりと夜になって、そのまま帰ったんだが、その後の2月の時は、実は帰りに「麻賀多神社」に拠った(^^ゞ。

が、香取神宮までを2007年の区切りとしたいので、麻賀多神社の方は後日に改めたい。

というわけで、次回は「香取神宮」の続きと、年末年始〜2月頃までの近場巡りがメイン、行けたら麻賀多神社にも入りたい(^^ゞ。

以上、関連事項は、
2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内

2008年04月20日
 
     






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