<2008年・城主のたわごと7月>




2008年3月「牛久城跡」続き。裏の社と牛久沼も♪

そして3〜4月の(主に梅と桜の)花巡り(^^)。




     
  前回「牛久城跡」の続き(今年3月)の先は、城跡近くの神社と沼地周辺の景観をお届け♪
その後は3〜4月の、桜祭りも混ぜて、主に春のお花風情を(^^)。



■2008年3月・千葉県我孫子市〜茨城県牛久・第二弾
<牛久城跡、2>


場所は、も1回地図A←多分この辺り(^_^;)。
さらに、も一回、前回も出した城跡内部の案内図を出してみよう。↓

現地の城跡内部の案内図(大竹房雄氏作図)

↑上部「木戸口」辺りから入って来て、これまで「三の丸」と「二の丸」の間を通って来ていたのではないだろうか(チョー自信ナイ)。。

で、何しろ前回はちょっと長めの森林道を歩いて、虎口(みたいな入口)の近くまで迫っていた。

後方・こんな道から来て(パノラマ4枚・180度以上)

前方、登り坂を上がってさらに先に進む(パノラマ4枚・180度以上)

↑よく城跡いくと「馬出し」とか「土橋」とかあって、「虎口」って書いてあるけど、以下「虎口のような所」と書く(笑)。で、左側の堀をもう一度↓

深くえぐれた堀とコンモリ盛り上がる土塁(パノラマ3枚・ほぼ180度)

この牛久城、やはり場所がわかりにくいのか、近隣レポなどでは見掛けるが、それ以外だと、相当に城廻り達者そうな人でも行った形跡を見かけない。それをブラッと来たついでに来れてしまって申し訳ない気がするぐらい、私としてはかなりの城跡という感じがした(^^ゞ。

で、これより「二の丸」と「腰郭」に入る辺りではないかと(^_^;)。
何しろここまで来れば、城跡を歩いた事ある人なら「虎口のような所」の意味がわかる造りになってるが、案内図も何もナイから、「この先は山」と思って戻るかもしれないが(^_^;)、進めば続きの遺構が出て来る!(笑)
虎口のような所(笑)
進んでスグ左に郭跡がある

この真ん中のヘッコミよ〜↓(パノラマ6枚・180度以上)

↑左の道(虎口のような所)から入って来て、右の森林道に抜ける真ん中に高い土塁に挟まれた通路があるのが見える。図から想像すると「二の郭」の一端に相当するように思うが、「櫓台」と書かれるサイトも見る。ここに入ってみるのだっ!

竹やぶ〜! でも平たく広い場所だとわかるでしょ(^^)(パノラマ4枚・180度以上)

↑また周囲を土塁が覆ってるのも(^^)。
たぶん前はもっと竹藪だらけだったんだと思うけど、今は竹が多少伐採されてると見えて、このように入って来れる。
……ただ竹藪と言えば藪蚊チャンが多そうだから、こたつ達が行ったこの時期(3月ごろ)より先の季節になると、ちょっと大変かも(^^ゞ。沼地も近いしね。

そろそろこのお城と歴史の話をしたいが、まず、この地域は他県で、これまでの範疇外なので、そんなに詳しい事は知らないの(^^ゞ。

ただ、あくまでも「たまたま」(笑)、ちょうど同時期に他の事を調べてて、ついでに図書館で見たとか、そういう事が妙な具合に重なったりで、書く事が多少はある。

牛久城を舞台に行なわれた合戦は、1500年代後半の、主に「後北条×佐竹」の攻防戦が背景にある。
だいたい出て来る両陣営の勢力としては、

北条方=岡見氏・豊島氏・高木氏
佐竹方=多賀谷氏

こんな感じ。で、この牛久城は「岡見氏」の城だった。

その前に、これからも、もしかしたら出て来るかもしれないので、今の内に触れておくと、まずはこの城の歴史から見ると敵側勢力で、後北条氏がやたらと勢力争いをした「佐竹氏」というのは、戦国時代の東北でもよくその名を現す。
元を辿れば源氏である。

しかし頼朝や足利尊氏や徳川家康に繋がる(事になっている:笑)、つまり幕府を興すブランドの家柄ではない。
幕府を興したブランド家というのは、八幡太郎義家の子孫達である。義家以降の系図

八幡太郎義家には、賀茂二郎や、新羅三郎義光という弟がいた。
で、新羅三郎義光の家からは、あの武田信玄を出した甲斐武田氏なんかがあるが、この佐竹氏もこっち、新羅三郎義光から出た家系である。

八幡太郎義家とか、新羅三郎義光とかいうのは、平安期の後三年の役(1083〜)に登場する人達だから、つまり……メッチャ古い(^_^;)。。

平安時代・鎌倉時代を通して、ずぅ〜っとこの辺りに地盤していたようで、我が千葉県から、例えば千葉氏あたりが北の勢力とぶつかるとなると、この佐竹氏は漬物石みたいに何度か重しになって出て来る(笑)。

それが、この城の出て来る1500年代後半あたりになると、千葉氏はわりと質素になって(^_^;)、その代わりに動乱の時代に出て来た勢力(例えば高城氏なんか)があり、それらを吸収する形で北に伸びて来たのが、後北条氏である。

なので、佐竹と後北条がぶつかる図というのは、つまりは地勢的宿命(笑)みたいな所があるわけ。

千葉県方面から見た感じだと、詳しくは拙コーナー「千葉県の動乱vol2」を。
前に作ったのをこのたび、文章を整理して(追加すべきは追加して)まとめたが、かなりの長さなので(^_^;)、このあとに必要な箇所を抜粋してリンクするね(笑)。

ではさっきの道に戻ろう。まずは高い土塁の合間を(パノラマ4枚180度以上)

戻った(^_^A)。右方向が続きの道(パノラマ3枚ほぼ180度)

もう一つ、これはこの近辺の城……例えば逆井城など行くと出て来る、戦国期の茨城においてわりとビッグネームなので書かせて貰うと、「多賀谷氏」というのも、古河公方がらみの豪族の一つ、結城氏と関わりが深い。
結城合戦(1440)はこの辺

結城氏というのも古いから念のために書いておくと、将門を討伐した下野の豪族・藤原秀郷(田原藤太)の後裔で、同じく後裔の奥州藤原氏は陸奥に滅んだが、秀郷以来なのだろう、この地域には結城氏のような、奥州ではなく北関東において存続していた家がある。

つまり、言い出せばキリが無いほど、長い事この辺りに居た豪族がドドッと出て来て、なかなか華々しい(笑)。

結城氏は持氏の遺児らを匿って、1440年の結城合戦で征討されてしまうが、その最中、まだ赤子だった結城氏の遺児を救い出して自領に匿い、後に結城氏の再興に繋げたのが、この多賀谷氏なのだという。
実はこの辺りを図書館で読んだの〜(#^.^#)。

その後、スーパースター足利成氏が関東公方(鎌倉→古河)に就任すると、千葉県だと里見・上総武田・馬加・原などを幕下に加えていったわけだが、それより真っ先に結城氏を取り立てたわけ。
理由は、結城合戦で成氏の兄達(安王丸・春王丸)を匿って敗退してしまったからなのね。

その後、「古河公方エライの時代(笑)」を迎え、結城氏を盛り立てた多賀谷氏の勢力も拡大したのだろう、茨城で見かける城跡の碑には、よくこの「多賀谷氏」が出て来るのを見受ける。

←森林の奥深く続く遊歩道を先に進む。
一方この城の援軍に名を現す「豊島氏」というのは、1477〜78年ごろに古河公方や長尾景春らと手を組み、しかし「江古田・沼袋」および「石神井」において太田道灌に滅ぼされた、あの豊島氏なのか、ちょっと判らなかった(^_^;)。江古田沼袋(1477)はこの辺

しかし同じく名を現す「高木氏」の方は、松戸のあの高城氏と見て間違いなさそう(笑)。
松戸の高城氏は、1538年の第一次国府台合戦より後なら、東葛飾地区における勢力を継続的に保っていた事が確定されている。

肝心のこの城の主、岡見氏というのが、ちょっと出がわからなかった(^^ゞ。八田流すなわち宇都宮氏などと同系の小田氏を祖と見る記述を見掛ける一方、相馬氏の流れという説も見受ける。
八田流は藤原氏だが、古くから鬼怒川周辺に基盤をもった毛野族が祖とも言われている。
一方の相馬氏は千葉氏から出ているが、千葉氏の祖の良文の甥・平将門の後譜を継いでいる事で有名だ。

目を上げれば、清々しい緑をもたらす密生竹の林(パノラマ2枚)

何しろ当時の情勢をざっと言えば、「佐竹+多賀谷」、もう一方が「岡見+小田」という組み合わせで見ると判りやすい。
そこに後北条氏が結城氏と結んで、この地域(岡見+小田)に侵出の手を伸ばして来た、というわけだ。

この牛久城の築城時期は天文年間の後半、だいたい1550年頃と見られる。
すなわち、1538年の第一次国府台合戦を経て、三代・氏康の時代を迎えた後北条氏は、1546年の河越夜戦で武蔵国の支配を固め、勢力を着実に北上させて来ている頃だ。
第一次国府台合戦・河越夜戦(1538〜46)はこの辺

その北条氏も、房総においては未だ勢力を保持している里見氏との攻防を繰り返している所だろうが、関東管領と、その影響力の大きい武蔵を下せば、その北に勢力を伸ばすのは自明の理なのだ(^_^;)。

つまり房総から見れば、北条が来るぞ〜!と思ってるんだけど、北条から見れば陸伝いに武蔵から来れるようになったから、いちいち海渡って里見を滅亡とかに追いやるほど戦う必要もないってわけ(笑)。

進んで右手「腰郭」ではないかと(^^ゞ(パノラマ3枚ほぼ180度)

一方の左手には堀を隔てた向こうに、うず高く見えて来るのが「本丸」の土塁じゃないかな〜と。↓

何しろ物凄い竹林の多さで見えにくいが(^_^;)(パノラマ2枚)

グッと身を乗り出して見る堀と、その向こうの土塁(パノラマ3枚ほぼ180度)

最初の図面の解釈が間違ってないなら、本丸の南側から沼が見えるのかもしれないが、あまりに凄い密林なので行く気も失せて、そのまま南に繋がる道を辿った(^_^;)。。

さて、関東管領となった上杉謙信が北条と敵対すると、「佐竹+多賀谷」も「岡見+小田」も敵味方の関係を超えて(後北条氏の北上を牽制する必要からでしょう:笑)、総出で謙信の味方になった。

が、謙信が戻ってしまうと「岡見+小田」は突然北条氏に服したので、「佐竹勢力+謙信」は小田氏を攻めたり孤立させたりした。

ちょうど同時期、房総でも「第二次国府台合戦」が行なわれた。
これも後北条氏の勢力を阻むため、謙信が房総の里見氏と同盟した背景によるもので、結局里見氏は、謙信が小田氏の小田城を攻めてる間に、北条氏の素早い奇襲によって敗退した。第二次国府台合戦(1564)はこの辺

が、この牛久城や小田氏の小田城にとっては、「佐竹勢力+謙信」の攻撃はかなりの痛手だった(^_^;)。
包囲された小田氏は衰退し、岡見氏は佐竹と特に下妻の多賀谷の勢力に押されて、岡見氏の有力な支城・矢田部城と足高城は、多賀谷氏によって攻略された。

それでも北条氏との同盟によって、この牛久城は北条氏と同じく同盟関係にあった布川城の豊島氏、小金城の高木氏(大谷口城の高城氏)などの援軍を得て守りぬかれた。
岡見氏を含むこの地域も、こうして北条の支配下に組み込まれて行ったと見られる。

わかりにくい場所にある城跡だが、何も知らずに来た私らがスンナリここに辿り着いたのも、この時の援軍に対し、「松戸の人達ありがと〜(^^)/」という、お城の声が導いてくれてたのかな。だったらいいな(#^.^#)。

やがて坂道を下り
出口に出る。途中を右に行く道からは……

↓遠景が見える(沼も見えた気がするが……) 出口→

頑張り抜いて後北条氏の力となったこの牛久城も、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めの際には開城し、ここには秀吉によって、由良国繁が城主として入った。
由良氏というのも、「佐竹×後北条」の構図では、後北条側だったようだが、その後、関ヶ原合戦(1600)年を迎え、元和9(1623)年には廃城となった。

戦国期の城に相応しく、本丸がある城山には石垣や天守閣を持たず、三方を沼に囲まれ、平山に北条流の築城技術を取り入れるなど、東国の城としての特徴も持って、頑強な造りを施されている。
特にこの地は、後北条氏と佐竹氏の境目にあったため、重点が置かれたと見られている。



<城跡の裏手の神社>

↑近くに「明神」とされる地図や「城山神社」という名も見掛けたが、この神社自体には何ら痕跡は無かった(^_^;)。
ただ城跡の麓や裏手にこのようにある神社は、城の鬼門除けに配される社って気がするんだけど、クネクネした道で行ったので方角は明らかではない。夕陽の指す方向から、だいたい北東(つまり鬼門)という気がする。

正面(この左手が城山のある杜)
鳥居の手前の祭祀

大樹の傍らの道祖神
ご本尊

奉納されてる剣
周囲の祠には
馬に跨った武神



<牛久沼・稲荷川>

だいたい「牛久城跡」(地図A)から「かっぱの碑」を抜けて、地図B←「三日月橋」に向かい、この周囲の牛久沼に沿って散策を開始♪

内陸から沼辺に出て仰ぐ夕陽(#^.^#)

やや北上して「三日月橋」周辺(パノラマ4枚180度以上)

↑左、橋の始まりにチョコっと見える影は「かっぱ」の銅像↓

背に甲羅を負ったカッパさん(^^)
やはり小川芋銭の絵がモデルか

小川芋銭については、前回の<かっぱの碑・牛久藩陣屋跡><小川芋銭記念館「雲魚亭」>を参照(^^)。

橋の向こうの田園と流れる稲荷川(パノラマ4枚180度以上)

稲荷川は牛久沼に流れる川で、この左(西)の地域は、さらに左(西)にまた牛久沼があって、つまり岬と言うか半島と言うか、沼に細長くせり出した一帯となっている。再び地図B
ちょっと↑の道に降りてみよう。↓

橋から降りて、稲荷川と三日月橋を眺める(パノラマ3枚ほぼ180度)

川のほとりには、共同田園地とでも言うか、小学校とかの体験学習っぽい広場があって、畝田が周囲を張り巡らせる中に水路と、みんなで育ててる植物が見られる中、シンボルの「カッパ」の像がここにもあった(^^)。

哀愁を帯びたカッパの背甲羅
周囲には水流が巡らせてある

大人カッパの像
こちらはワンちゃんと小僧カッパ

右の方の像は、犬と子供カッパの逸話でもあるのだろうか(ワクワク♪)。

←稲荷川の沿岸を周遊♪
↑対岸の夜景を見ながら、細い道を進んでいるが、道路の間際まで水辺が迫って、水かさも多く「おおおお(^^)」と喜んだ(笑)。

三日月橋付近にはアヤメ園も整備され、また広大な牛久沼は、マコモ、ヨシ、ガマ等の群落が濃い緑を競って独特の景観を見せるという。

この後は日が暮れて写真はここまでだが、続けて牛久沼の周辺を巡り、国道6号線に出た所で、界隈のウナギ屋さんの一軒に入る(^^)。地図C←この辺り。

「寺田屋」さんというお店だった
ウナギ〜(#^.^#)

ちょっと高めだったけど美味しかった。ネットでは江戸期の「鰻丼の発祥の地」とも出て来たよ(゚.゚)。

ユトリがあったのはこの頃までで、3月も途中からドッと忙しくなり(笑)、このあと5月に入る頃まで、時間感覚がおかしくなるほど余裕が無くなった。。

以上、関連事項は、
2007年5月<筑波山神社>内
2008年6月<かっぱの碑・牛久藩陣屋跡><小川芋銭記念館「雲魚亭」><牛久城跡、1>




■2008年3〜4月・千葉県柏市・松戸市・花だより♪
<逆井の梅花〜手賀沼(柏市)>


以降は、今年の春、3〜4月にかけて「花だより」から(^^)。
この春はたいそう忙しかったが、そのぶん外にもよく出掛けたので、あちこちでお花の写真が撮れた♪

まずは梅から(^^)。はじめは逆井の紅白キレイな梅林。地図D

今年の梅は、かなり遅いと感じた(゚.゚)。とっくに咲いてる時期にあちこち通ったが、あまり咲いてないので、「時期を過ぎたか(^^ゞ」と思ってたら、その後にドドッと咲き始めた感じ。


裏の道からも入ってみよう
ワ〜イ、見えて来た(^^)

ちょっと逆光ぎみだけど(^^ゞ、続き。

これは、ちょっと奥まった道路の白梅(^^)

逆井は、よく手賀沼の方に行く時に通るのだが、この日もこのまま手賀沼に行ったら、湖畔は春を楽しむ人がたくさん歩いていた。地図E
↓お散歩ワンちゃん♪

沈む夕日に向かう白鳥サン(^^)

以上、関連事項は、
2005年11月<将門神社>
2006年8月<手賀沼>
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降
2008年4月<柏市・手賀沼>

2008年5月<年末(^^)>
2008年6月<黄砂吹き荒れる手賀沼>



<六実の桜(松戸市)>

やがて桜(^^)。このころで七分咲きを超えてたかな〜。

ここは六実の桜通り地図F。雨の日の桜もシットリと風情があるわね〜(#^.^#)。こういう時は桜餅が食べたくなるのだ!(爆)

桜の開花は今年わりと早く、3月後半にはもう咲き始めたが、気候不順のためか、早く咲いて早く散った所もあれば、いつまでも咲いてる所もあって、結構長く桜の景色を楽しめた(^^)。



<八柱〜五香・さくら通り(松戸市)>

続けて同じく雨の日の、八柱〜常盤平〜五香の「さくら通り」(^^)。地図G←新京成線の内側を巡る道沿い。


コースは五香から常盤平に向かっている。
長く続く提灯の下、どの車も花見運転でノンビリ走行(笑)。

常盤平を超えた辺り。線路(新京成線)からも見える桜並木↓

そして、いよいよ満開の時期(^^)。今度は夕暮れ時の、あでやかな夜桜を。



←真夜中のさくら通り。

一方、時期が移って、ちょっと散り気味になってから迎えた今年の「さくら祭り」→

今度は八柱方面から来て……、↓

出会ったのが……
「関西流大だこ」!(爆)

評判と見えて、かなりの行列が出来ていた(笑)。私が並んだ時で15人ぐらい居たかな〜。そんなに広い通りじゃないし、屋台は三駅分バッチリ並んでるので、そんなに並ぶと多く見える(^_^;)。

ホントにデカイわ!(笑)
もう一つ注目なのが「巻うなぎ」

右の「巻うなぎ」は静岡産なのだが、ホタテ焼き串(左)などと一緒に出ていて、毎年食べ歩きに苦労するので、「こりゃ歩き食いにイイ!」と目を惹いた。いいアイディアだよね(^^ゞ。

他にもご覧の通り、毎年恒例のパフェ類・甘味類など(笑)。

今年は忙しいのもあって長居は出来なかったのだが、夜の内に通って目をつけていた屋台があったので、そこにだけ急いで行ってみた。

←常盤平に近付く。ご覧の通り花びらが減って、雌しべだけ残ってる風情(笑)。
↑一応、桜の絵も(笑)。祭りだと屋台状況が増えるが(^_^;)。咲いてる枝もまだ沢山。

そして、ここが常盤平と五香のちょうど中間ぐらいにある公園。→

いつもはただの公園なんだけど、祭りの時はイベント会場に貸してるようで、ここで、ふと目を惹いたというのが……↓

←これこれ!「山形・いも煮」!(爆)
ちょうど去年(2007年)の秋に行った東北旅行で、山形の「いも子汁」を食べたので、グイと惹かれたんだが、残念ながら、この時はイベントが終わってた( ̄∇ ̄;)。。
会場に来てた山形県人会の人は、夏にも来るからと慰めて下さった(;_;)。。

←会場で空しく地上を舞う「キティ風船」(笑)。
毎度、祭りの風船人形は工夫されてる(^^ゞ。

今年は「まりもっこり」(変な名前:笑)という、北海道マリモだろうか、不気味な可愛さのヌイグルミが見られた。

って、やっぱり話が桜から逸れたさぁ〜。。。
(≧▽≦)。。。
妙に愛敬があって、緑色ってのが環境保護とかに良さそう(こじつけ)。
洞爺湖サミットに出るのかな(笑)。

以上、関連事項は、
2005年5月
2005年12月<常盤平・桜まつり><桜めぐり(六実・常盤平さくら通り・八柱霊園など>
2006年9月<1日目・花と嵐の(笑)「常盤平さくら祭り」@松戸>
2007年7月<常盤平さくらまつり、1>
2007年8月<常盤平さくらまつり、2><六高台の桜と五香の野馬土手>

2007年10月■2007年8月ごろ




<松戸〜都内>

↑大雑把な範囲で恐縮(笑)。言わんとするのは、場所によってかなり桜の咲き具合に違いがあるな〜と(^^ゞ。

松戸八柱付近。かなり散ってて
地面には薄ピンクの絨毯が出来てた

先月も写真を出したが、元々ウチ辺りは時折スゴイ強風がある(笑)。先月出した写真ほどではないが、この前日だったか、やはりボォボォと風が吹いて、バァ〜ッと花びらが舞い散り、これもなかなか華麗だった。

←だいぶスカスカ気味だが、青空が透けて見えて、むしろ美しかったり(笑)。葉は全く出てない。
↑都内。今イチ桜の風景は撮れてないんだが(笑)

こんな感じ。東京ではまだ満開気味(^^)
夜に見つけた綺麗なお花(^^)



<高柳城近辺(柏市)の菜の花と桜>

今度は4月もだいぶ割り込んだ頃で、「さくら祭り」よりかなり後だったが、桜の咲いてる所がずいぶん見られた。

梅林のあった逆井から程近い高柳周辺地図H。こちらはまだ桜が満開に近く、落ち着いた風情(^^)。

ちょっと路地に入る
行く手(左)には菜の花が(^^)

↓目に眩しい程の黄色(^^)
こちらは向かいのお寺「善龍寺」→

大きな桜の樹に咲く(パノラマ3枚・ほぼ180度)

このお寺には参道入口にある六地蔵サマをお参りによくやって来る(^^)。前にとっても霊験あらたかだったの♪

今いるのは高柳の「馬洗戸」の辺りで、お寺は「善龍寺」と言い、桜の向こうの山までの間に国道があって、道沿いに「神明社」があるが、これの謂れがずいぶん古いようだ。

というのも、地域一帯が古くは相馬氏、又は岡田相馬氏(相馬氏の支流)の、戦国期には高城氏の所領だったとも言われる。

春は桜や周囲の花々が綺麗だし、夏にかけてはカエルの鳴き声が素晴らしくて、この辺りに住んだ頃から、お地蔵サマ参りにかこつけて、ずっとお気に入りの場所なのだが、「馬洗戸」とか「善龍寺」で検索すると、意外と「高柳城」と出て来るサイトがあって、ちょっと驚いたり(^^ゞ。

ただ、この時期はホント忙しくて(^_^;)、慌てて撮った写真には失敗作も多かった〜。。
通常、忙しい時って「あっと言う間に時間が経った」と思うものなんだけど、この時期は妙に長く感じた。
年末だと気にならないんだが、世間が花見や長閑な散策を楽しんでる時、一人バタバタしてるのはツライね(笑)。

次回は4月末に行った「広幡八幡宮宗社」(柏市の増尾城近く)に始まり、いよいよ、5月GWの「平将門ツアー@茨城編」第一弾をお届けの予定〜!

<つづく>

2008年07月23日
 
     




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