<2006年・城主のたわごと8月>




まずは、2006年1月「国府台合戦編」第二弾から(^^)。

そして3月、千葉県柏市・沼南〜手賀沼までの風景をお届け〜♪




     
  まずは前回の続き「国府台合戦編」から(^^)。これは今年(2006年)1月。

次は3月。引き続き千葉県(^^ゞ。さらに北の柏市に出てみる。このごろよく行く手賀沼と、そこに到る途中の風景をお届け。



■1月・千葉県市川市
<里見公園(国府台城跡)>


↑に入る前に、公園(城跡)の周辺をざっと書く。ただ今回は行ってないトコばかりね(^^ゞ。

まず西に江戸川。東京との県境。こういう場所は「攻防の地」となりやすい(ゆえに今回の歴史ネタはタップリ:笑)。
江戸川を渡った東京側には、柴又帝釈天と寅さん記念館(^^ゞ。「男はツライよ」の舞台(笑)。

北には小塚山公園、北国分公園、堀之内貝塚公園、東に、国分尼寺跡公園、国府台公園、須和田公園と、わりと公園が多い。
と言っても東京と接する所だから、周囲にはビルがたくさん。南に東京医科歯科大、和洋女子大など、中学、高校、大学がゾロゾロ。
さらに南は国府神社、東南に下総総社跡、弘法寺、手児奈霊堂、国分寺、真間弁財天など、見所も豊富っぽい(^^)。

じゃいよいよ里見公園に入る〜(^^)。まず見取り図。↓右が北。


まず入口は左下。入って最初に出会うのが「花壇広場」。その上が「噴水広場」。
はじめはまず「花壇広場」の下にある緑地部分の丘に行ってみる。

その後は「花壇広場」「噴水広場」の外側の道をず〜〜〜っと通るだけ(^^ゞ。

江戸川に達した辺りで緑地に出て「柴烟草舎」と「羅漢の井戸」。道に戻って来て右に「亡霊の碑」(小さい青い所)。ここがメイン(^^ゞ。
最後は上部分、緑色の多いエリアを廻りながら「明戸古墳石棺」を見る。
(ちなみに左下と右上の両スペースの合間に食い込んでいる空間には、前回お届けした「総寧寺」の領域がある)

入ってスグ左は庭園風の一郭
前方、左に花壇広場、右に小高い丘

この丘の方に先に行ってみる(^^)。真っ直ぐ進んで、丘への登り口を探すと、

登り口が見付かる
登ると小高い広場。「花壇広場」を見下ろす→

こんな感じ(^^)。パノラマ5枚(180度以上)
↑さすがに180度以上あると、かなり魚眼だけど(^^ゞ。

で、丘の下にチョロと見えてるのは、↓

こんな広場。アーチの左に「国府台城跡」という碑。奥には芝生と花壇が広がる。

この丘部分は何らかの土塁跡かな〜と思いながら歩いたが、ハッキリとは判らない(^^ゞ。園内にあった「房総の魅力500選」には、「里見氏など房総勢と小田原の北条氏が二度に渡って戦った古戦場跡で、今でも土塁や空掘の跡が残されている」とあった(あと桜の名所らしい)。

……あ、ちなみに、この「房総の魅力500選」だけど、千葉県では結構あちこちで見掛ける。小さい記念碑のようなもので、ちょっとした土地の説明など書かれている(^^ゞ。
1983年人口が500万人に達したのを記念して、88年に選定したという。

今はどうか知らないけど、そういや千葉県は全国でも教育県として高い水準だったとか聞いたな(^^ゞ。「房総の魅力500選」を教育県だからやってるのか、そうじゃないのかは不明だが、教育の手からすっかり離れた世代にとっては助かるので維持して欲しかったり(笑)。

丘から下に降りる。

パノラマ3枚。全体的に広い敷地を綺麗に整備された公園だった(^^)。

では「花壇広場」と「噴水広場」を通り過ぎる。↓

花壇広場」。奥に「里見茶庵」。
噴水広場」。噴水の中央にモニュメント

「里見茶庵」というのは、この時は開いてなかったが、売店か軽喫茶店ではないかと(^^ゞ。今度開いてる時に行ったら、面白いメニューかグッズがあるか覗いて見たい(笑)。

二つの広場を抜けた辺りに「柴烟草舎」↓。北原白秋の邸宅。

市川には北原白秋、幸田露伴、永井荷風などがいた。白秋は「葛飾閑吟集」にその風情を歌い、真間から移り住んだ小岩村の住居は、この里見公園の向かいにあり、江戸川改修にともない園内に移築。

看板には、実り豊かな稲穂の田園を、何千羽の雀が飛び立つ華やかさと寂しさが白秋の歌と文で書かれ、その子、北原隆太郎(寄贈者かと)の文(1970年、移築の翌年)も添えられていた。
「華やかにさびしき秋や 千町田のほなみがすゑを群 雀立つ」白秋(1916年)

この、↑建物に照り光りしてるのはまさに夕日で(^^ゞ、歌の風情を思わせるが、これは江戸川から直接入ってくる西日で、↓

川向こうは田園ならぬ今や大都市
この広場の端から下に降りる階段が(^^)

降りると「羅漢の井戸
井戸の正面は江戸川がすぐ間近に(^^)。

この渓流っぽい山間っぽい急斜面、なかなかイイ雰囲気だった〜(#^.^#)。

いかにも天然の要塞っぽい複雑な山の構造。パノラマ2枚

↑今は歩きやすく階段と歩道がついてるし、河川はピッチリと枠組みに治まってるけど、当時はかなりの断崖だったんでしょうね。

断崖絶壁を示す江戸期の絵
国府台合戦を描いた「小弓義明・戦死の図」
↑左の写真、かなりボケててゴメン(^_^;)。「江戸名所図会」(1829年成立、1836年発行)だそうです。
一方右のは「成田参詣記」(1858年成立)らしい。どちらも公園の案内にあったんだが、前に地元の本屋で買った本(市川歴史探訪・千野原靖方/著)に出典が書いてあった(^^ゞ。

この両典に、国府台城と市川城の論議があり、前者は「国府台城とは別に市河城があったが、今は場所がわからない」とし、後者は「国府台も元は市川にあった事を知らないでそう書いている」と前者を否定したため、後から言われた論調が定着して、「国府台城=市川城」とされる時期が長くあったらしい(^^ゞ。

しかしどうも、市川城は今の弘法寺あたり(里見公園の南)ではないか、と推測できるそうで、今では「やはり別」と見る向きを感じる。

でもかなり至近距離だし、この後にも関連するのでこの際、市川城についても書かせて貰う。というのも、千葉県の戦国時代には必ず出て来る事件が関わり、それはこの「たわごと」でちょくちょく触れる「千葉氏」の「顛末」でもあるからだ。

1455年、千葉の宗家、当主の千葉介(胤直)、当主の弟(胤賢)、当主の子(胤宣)が殺された。下手人は当主の叔父・馬加氏(康胤)と重臣の原氏(胤房)だが、これらは古河公方、足利成氏の与党である(^^ゞ。
古河成氏には、里見、武田(上総)、結城などの与党がいたが、これに下総の馬加が加わったので、気前良く「千葉介をやらしてやる」とか約束したのかな(笑)。

一方、当主の弟(胤賢)の子が二人生き延び、逃げてこの「市川城」に落ちた。こっちに古河公方と対立してた関東管領上杉氏が味方する。

この古河成氏と管領上杉氏の抗争は、前年の1454年「享徳の乱」にすでに始まっている(概要は「城主のたわごと」2006年1月<宗英寺>内を)。

翌1456年、結局は古河成氏に攻められて、兄弟は市川城を落ち武蔵(東京都)に逃げて行く。
というわけで、この市川城、当時は関東じゅうの脚光を浴びたハズだが、のちに「文献でしか確認できない城」になってしまった、と(^^ゞ。

又、だいたいの所、これをもって千葉県における千葉氏は終わったかな〜、という感じ(^^ゞ。
それで、信長・秀吉・家康が活躍した1500年代後半は勿論、その前段階で各地に群雄割拠した頃、そのトップランナー斉藤道三(1494年生)・毛利元就(1497年生)の時代にすら、千葉県からは「千葉ナントカの守」というビッグな大名が出て来ないのである(^_^;)。

で、今度はここ、国府台城の起こりから。
今書いた古河成氏と馬加氏に追い出された千葉氏の遺児兄弟のうち、弟を千葉自胤(よりたね)という。武蔵国の赤塚に落ちた後、豊島氏が基盤とした石神井川流域を南に見て、東京の北部に根を張って活動開始する。
これを助けたのが、あの太田道灌である。

千葉・東京で傑出した戦国武将を選ぶと、この道灌の名が必ず上がるのは、1476〜79年にかけて、道灌を絡めた夥しい合戦の坩堝があるからである。

道灌の活躍はもちろん千葉と東京に限らない。それは道灌が戦った相手、長尾景春が関東じゅうを暴れ回ったからである(^_^;)。

長尾景春は管領上杉氏の家宰、長尾氏の子だから、当然この古河×上杉の構図においては上杉側だったが、父の死後(1473年)、家宰の地位を叔父に奪われ、その裁定をしたのが上司の上杉氏だったので、上杉を相手に謀反を起こし、1476年、本拠・鉢形(埼玉)で挙兵。

敵の敵は味方の論理で(笑)、景春は古河公方の与党に(^。^)。<ミイラ盗りがミイラに
景春は翌1477年、五十子(埼玉)の陣を囲んで攻め落とし、山内・扇谷のいわゆる両上杉ともに利根川を超え、上野国まで落ちる騒ぎとなる。

道灌は同じ上杉でも分家筋の扇谷上杉氏の家宰であったが、この五十子の合戦の時、ちょうど今川氏に起きた内紛(お家騒動)の調停に呼び出され、のちの早雲(が当時の今川家後見人)と会いに行っていた(^_^;)。

戻って来た道灌は、上杉本家に起きた騒動を鎮めるべく、景春が暴れるたびにこれを食い止め、あるいは退治し、景春の反乱に便乗した豊島氏などの勢力とも抗争に明け暮れる。
中でも有名なのは「江古田・沼袋の乱(1477・東京都)」だろう(^^ゞ。(「城主のたわごと」2005年10月<石神井城>内>)
↑ここにおいて千葉自胤という、東京と一見関係無さそうな人物がいきなり登場する理由が、これでおわかり頂けるかと(^^ゞ。自胤は道灌を応援することで旧領復帰を望んだんだろうね。

しかし翌1478年になると、古河成氏と上杉氏の間に和睦が成立する。
この和睦、古河与党(と言うか反乱同盟と言うか)となった馬加氏や長尾景春にとってはかなりイタイ(^_^;)。長尾景春なんかはその後も懲りずに暴れまくってる。

というのも、馬加氏は孫の代(孝胤)に至っていたが、和睦によって大義名分を失った所を「待ってました」とばかりに道灌が攻めてくるのだ(^_^;)。

この「馬加」だが、このとき既に「千葉介」を名乗って本家を乗っ取ってるから、文献には「千葉」で書かれてる物が多く、この辺りがややこしい(^_^;)。混乱を避けて元の「馬加」で書くね(^^ゞ。

どうもこの「国府台城」は、この時に道灌が馬加(千葉)孝胤を討伐するため築城した、という伝えが現在は有力視されてるようだ。
道灌は国府台城を本拠に出撃し、境根原(柏市酒井根)で馬加&原を撃退。翌1479年には、千葉自胤とも一緒に繰り出して、馬加孝胤の篭った臼井城(佐倉市)を攻めた。

臼井城の方はGWに行ったので、今度レポするね(^^ゞ。<上がるの冬ごろかな

さて、国府台城はその後も歴史舞台に二度、華々しい登場を続けた。
まず第一次。強いて古河×上杉の時の構図にあてはめると、房総の南にいた里見氏が、どっちかと言うと古河にケツをまくった臭い結果から見ると、という感じ(^^ゞ。

つまり古河公方、二代政氏の次男義明は「自分も与党が欲しい」と思い、中でも上総の真里谷(まりやつ)武田氏をアテにして迎えられ、この武田と争っていた原氏の小弓城(千葉市)を攻落。ここを御所として「小弓公方」となった。
原も武田も元は古河の与党……と見ると、要するに内ゲバみたいなもんスかね(^^ゞ。

ここに北条ファンドが参入(笑)。
「小弓公方」義明の兄、高基(古河三代)は北条氏綱の娘を息子晴氏(四代)の嫁に貰って北条と連携。元々古河与党の原氏も一緒になって北条に与し「小弓城奪還」を狙った。そしてこのころ松戸に基盤を作った原氏の重臣・高城氏をして、やがて松戸周辺が北条傘下となったのも、この流れからだろう。

里見氏はここで北条氏と手を切り、小弓義明の娘(青岳尼)を嫡男義弘と婚約させた。

真里谷武田になると、兄(信隆)が富津に拠って北条と与し、弟(信応)は小弓義明を頼るなど、やがて分裂した。

こうして第一次国府台合戦が始まった。
天文7年(1538)10月、義明+里見連合軍は江戸川の東に布陣、北条軍は西に対峙。
小弓公方義明は息子の義純や里見義堯をはじめ、逸見、武田など房総勢一万余騎を率いて国府台に陣を敷く。北に松戸の椎津、堀江、村上、鹿島の諸将を、南の市川国府台を本軍とし、義純、里見、堀口、正木、多賀などを配置。
対する北条氏綱(二代)は、遠山、根来(金谷斎)、松田、狩野、笠原などと二万余騎を従え、対岸に対陣。

この時、義明は矢切の渡しから江戸川を渡河してくる北条勢に対し、油断して出陣命令を出さなかったとも言われる。
義明+里見軍の南北二つの陣営は北条軍に分断され(たのか、挟み撃ちにしようと、敢えて通したら突破されたのか(^^ゞ)、北上して敵を迎え撃とうと突撃した義明は、すでに東に廻っていた北条軍に横合いを突かれ、激闘のすえ戦死、房総勢は敗退した。

おかげで原氏は小弓城を奪還でき、重臣・高城氏も北条側の勢力を頼みに松戸周辺に広く基盤を築いた。

第一次から23年が経ち、永禄4年(1561)、世の中はバリバリの戦国時代に突入。まだ長尾景虎と名乗っていた上杉謙信は、北条三代氏康に対抗、関東管領上杉氏を就任。 (この年が有名な第四次川中島合戦)
里見氏は、第一次国府台合戦で敗れた里見義堯の子、義弘の代になっており、家臣正木時茂を外交官として謙信に誼を通じ、里見義弘と謙信の間に同盟が成立。これは南北から北条氏を挟み撃つ同盟であった。

この時になると、北条氏綱の孫(氏綱の娘が古河四代晴氏に嫁いで生んだ)義氏が古河公方となりつつあり、謙信や里見氏は義氏とは異母弟の藤氏(母は関宿城主・梁田氏の娘)を推した。

あ、すっかり忘れてたけど(^^ゞ、上杉はどうなったかと言うと、謙信に家督を譲ったぐらいだから、ここに来て(ホントは途中色々あるけど)、やっぱり古河×上杉は永遠のライバルに決定〜(笑)。

というわけで、永禄6年(1563)〜7年(1564)にかけ、謙信は関東へ進出。知らせを受けた里見義弘は国府台に布陣し、岩付にいた道灌の曾孫、資正と康資の江戸城奪還(道灌の居城だったが北条側に取られていた)への兵糧支援に乗り出した。

ところがどうも兵糧の値段で折り合いがつかなかったらしく、それを高城氏が「今がチャンス!」と北条氏に知らせた。
チャンスってのは株の相場ではなく(笑)、「謙信が来る前に攻めるなら今」という意味で、北条勢も兵糧は不足してたが、慌てて三日分のみ携帯し、江戸城も守らず、すぐ国府台に攻め込んだ。

こうして第二次国府台合戦が始まる。
同年(1564)1月5日、国府台の里見氏は、大多喜や勝浦の正木氏、太田氏あわせて兵8千。
対する北条氏康(三代)は、長男氏政(四代)、次男氏照、三男氏那はじめ、遠山、富永、松田など二万余騎に松戸の高城も加えて矢切台で迎え撃った。

里見軍は退散したと見せかけて北条勢をおびき寄せ、北条勢が「からめきの瀬」を渡河し台地をのぼりはじめた所を待ち受けて、上から急襲したという。北条勢は大打撃を受け名立たる名将も討ち取られた。

が、翌8日払暁、里見勢は油断して勝利の酒宴を開き、主が家来をねぎらいに行ったりしていたため、その所在が不明になったりなど軍隊指揮が取りにくくなっていた。ここを北条軍は里見の陣地目がけ一斉に攻撃をかけ、国府台城に攻め込んだ。

寝込みを襲われた城中は鬨の声に驚いて大混乱に陥り、鎧、太刀、馬の鞍を探し惑う声が飛び交い、武器や鎧にいっせいに群がり、それぞれ誰の物かも確かめず、ちゃんと身につけられない有様の内(「太刀一振り鎧一領に二人三人取り付けて我よ人よとせり合ひ、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」)に戦いに巻き込まれた。

里見義弘は馬を射られ、家来の安西に助けられて安房に敗走。正木や太田も上総まで何とか行けたが、里見広次、正木内膳らは戦死した。

ちなみに里見勢は戦死者5320(あるいは2120)余人、北条勢も3760(あるいは1700)余人と言われ、北条にとってもかなり無茶な勝利ではあった。

が、謙信が上州から常陸へ出陣して小田城を攻めていた時で、謙信はここを29日には落としている。少しでも長引いたら、既に多くの戦死者を出している北条氏にとって、滅亡の危機に瀕する時だっただけに、まさに危機一髪。
この地域はこうして北条氏の支配するところとなったのである。

だが謙信は里見義弘との同盟を疎かにせず、その後も永禄9年(1566)まで、毎年秋〜冬に越後を背に、足しげく関東に出征を繰り返し、里見勢もこれに呼応して毎年北進、北条を挟み続けた。

では、いよいよメインの公園中央部にやって来る(^^)。↓

ここ!「亡霊(群亡)の碑」のある石垣〜
登る。

かなり逆行なので明度あげあげ(^^ゞ
里見諸士里見諸将里見広次の墓

この「里見広次」は、第二次国府台合戦のとき15歳で戦死した人で、里見義弘の弟、忠弘の子。「広次」「弘次」「弘継」とも書かれる。美少年であったと言われ、敵の将・松田康吉はその死を悼み、のちに出家したともいう。

その後秀吉によって北条氏が滅亡させられると、天正18年(1590)徳川家康が関東を治めに入り、国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城となった。
その後、里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなく、265年の歳月を経た文政12年(1829)、里見諸士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ↑、また石井辰五郎という人によって(年代不詳)里見広次公廟(右側)が建てられた。

←「夜泣き石
里見弘次の末娘は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着いた。

12〜13歳の姫は、戦場跡の凄惨な情景に恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまった。

それから毎夜この石から悲しい泣き声が聞こえ、里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼んだ。
その後、一人の武士が通りかかり供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったという。

ただ里見弘次は15歳の初陣で戦死したので、12〜13歳の娘がいるというのは無理があり、この話は弘次の慰霊碑が、これから行く「明戸古墳の石棺」の前に「夜泣き石」と共にあった(大正11年撮影の、国府台一丁目、佐々木家所蔵の写真で確認)ところから、弘次にまつわる伝承として伝えられたものと見られる、と平成4年3月、市川教育委員会が説明を加えていた。

お姫様が父の面影を慕って……とか、通りがかりの武者が救ったというのは、江戸期の「里見八犬伝」のヒロイン(伏姫)とも重なるが、史実としてはどちらかと言うと、第一次で戦死した小弓義明の娘(青岳尼)と重なる気がして、真偽の程はともかく、やはりこの地に相応しい伝承だと思った。

YORI様に教えて貰った「夜泣き石」、見に行ったよ〜(^^)。

明治、陸軍教導団が移され、以来終戦に至るまで国府台は、兵舎の建ち並ぶ軍隊の街となり、遺構はその時に破壊されたとも言うが、現存している部分も各所に見られる。
昭和34年(1959)「里見公園」とされた。

ところで、さっきからやたらと強い西日だが(笑)、この慰霊碑の所からふと見ると……。

ジャーン!富士山!→
川に近寄って見る(^^)。↓

最初あまりに日差しが強く、手前の江戸川も真っ黒だし富士山も見えなかったのが……↓

光の端から富士山が現れ
空の光の輪が狭まり
やがて川面が見える(^^)

なかなかのシャッターチャンスに行き会えて、すごいラッキー(^O^)。
実はこの瞬間を捉えるため、ずーーーーーーっと三脚を構えてる人の姿が見えてはいたが、それまで「あの人何やってるのかな(^^ゞ」と思っていた(笑)。それがお墓の後ろからカァーーーッと西日が強烈に差し込んだので、一瞬サーチライトにでも照らされたのかな、と行ってみたら……という感じ。

公園の西側は川に沿って長く続いてるので、散策しながら時々また夕陽に出会えた(^^ゞ。
そのうちに、やはり三脚を構えている一団に出会った。

みんなで観覧(^O^)。
う〜ん、いつまで見てても素晴らしい(^^)。
富士山の右横は鳥瞰図によると大室山らしい↑

皆さんすごいカメラを持ってて、もしかしたら本職のカメラマンかも、とちょっと気がひけたが(笑)、メゲずに混ざってバシャバシャ撮りながら、「こんなスポットがあったなんて〜!」と喜んでいたら、
「ここまで綺麗に見える事は滅多にナイよ。月に1度……いや半年に1度かなぁ」
「初めて来たの? 運がいいね〜! 今年はきっとイイ事があるよ」
と口々に答えて下さった(#^.^#)。さすが柴又! 皆さんと〜っても気さく♪

日が沈むほどに手前の江戸川が輝いて見える
やがてトップリ♪

う〜ん、こんな所で合戦をしてみたい(爆)!!(←いっきに台無しっ( ̄□ ̄;))

最後に緑地部分を散策する。この辺り、いかにも遺構っぽい丘陵が周囲に続き、吊橋や池などもあって公園としてもイイ雰囲気だったが、日暮れまで夕陽と富士山を見ていたので、だいぶ暗くなった(^^ゞ。あまりイイ写真を撮ってないので、ざっと……。

こんな吊橋が続く(^^)
まず「明戸古墳石棺」のある場に行った。

古墳は全長40mの前方後円墳で、周辺から6世紀の埴輪も採集された。
石棺は後円部分に作られ、板石でされた蓋は「夜泣き石」の台座になっていた。
石材は筑波山麓から切り出され、霞ヶ浦と手賀沼、江戸川の水運を利用して運ばれたと思われる、筑波石と呼ばれる黒雲母片麻岩。

江戸期『江戸名所図会』にも、この石棺の存在が記され、「寺僧の伝えとして、一つは里見弘次の棺、もう一つは誰のものかわからないが、義弘の弟、正木内膳の棺ともいうが、それは誤りで、上世の人の墓だろう。地上の土が崩れて石棺が出た(道灌が築城した時に、とも言われる)ので、中にあった甲冑や太刀、金銀の鈴、陣太鼓、土偶人などのうち一つ二つを総寧寺に収めた」とあり、図も描かれていたので、これによって出土した時の事が明確にわかったという。

後の発掘ですぐ隣の法皇塚古墳の後円部に中国南朝系もしくは百済から伝来の横穴式石室が見付かり、盗掘された跡ながら、上記と同じ物の他、鞍、鐙、轡などの馬具と、夥しい装飾品が発見された。
古くから千葉県は放牧に適した土地だったので、騎馬系の古代人が住んで適応したのかもね(^^)。

池のある広場
遺構らしき丘陵。所々に積雪の跡(^^)。

そうそう(^^ゞ、最後になったが、この日は前回も写真を出した通り、千葉県にも雪が積もった後で、所々でその跡が見られた♪

これにて「国府台合戦跡地めぐり」はおしまい(^^)。

この1月は、例年に比べて(所用ついでながら)出掛ける機会が多く、他にも、流山の高城氏の城跡や近藤勇の陣跡、また茨城県の守谷城跡など、色々と行った珍しい年明けだったが、残念ながらカメラを持ってなかった事が多くて、レポはこれのみ。
どこも近いので、又そのうち行ったらレポしてみたい(^^)。



■3月・千葉県柏市
<まずは逆井の梅から(^^ゞ>


この頃よく行く手賀沼付近をご案内。昔は沼南と言い、今でもその地名で話すことが多いが、今は全て柏市に統合されている。

よく行く割に、写真を殆ど撮らない事が多かったんだが、上記に書いた通り「カメラを持って行かない事が多かった」ので、それを反省して、この時期やたらカメラを持って家を出た(笑)。

だから2月の写真も混ざってるかも(^^ゞ。
写真を撮った日もわりとバラバラ(笑)。後で順路に沿って並び替えている物も多い。

行程は松戸から北東の手賀沼に向かう。手賀沼は我孫子市(北)と柏市(南)の境界にある大きな湖。松戸から手賀沼まで→地図A。←この地図の中心地「逆井」あたりで、まずは梅の花を写した(^^)。鉄道だと東武野田線「逆井」が近い。



手賀沼に行くには、手賀大橋(8号線を北上)を渡るのがわかりやすいが、その手前で右折、282号線に入り、ちょっと周辺を散策しながら行ってみる(^^ゞ。地図B ←沼と平行して下を行く道に入り「手賀の丘公園」を目指す。

沼南高校の手前あたり
緩いアップダウンで拓ける視界



<泉「三夜堂」と「おせし様」>

「泉」が近付いて来る
282号線から脇の登り道に入ってみる

ここ、「泉入口」というバス停がある所(^^ゞ。いつも282号線を通っていて、この左脇に分かれる上り道に何となく「城跡っぽい雰囲気〜」とそそられていたので、この日はちょっと入ってみた。

この辺りに相馬氏の城跡があった(今は遺構の一部のみ)、としているサイトもあるので、こういう丘陵地帯かな〜と期待するのだが、詳しい住所がわからない(^^ゞ。

坂を上がってちょっとお邪魔(=^m^=)
墓石屋さん、面白い彫像がたくさん!

路地ごとに垣間見る梅の花が、のどかな春の風情を漂わせる(^^)。

さて、のどかな農村にも、ちょっとした旧跡がある。

←鬱蒼たる林の脇の坂道を下ると、↓正面に「三夜堂」。
かなり古くからあった吉祥院というお寺の跡らしく、今はこのお堂だけが残っているらしい。

「三夜堂」、何かポエムな響き(^^)。
と思ってちょっと検索してみたが……あまり多くは出て来なかった(^^ゞ。

ただ、少ない中に、埼玉県の寄居に勢至菩薩を祀ったお堂が出て来て、これが「三夜堂」と言われる事には注目した。
北条氏那(三代氏康の三男)の室が守り本尊としていた、との事だった。「室」と言っても、氏那の場合は婿養子として妻(藤田氏)の家(鉢形)に入ったのだから、「ヨソ(例えば小田原あたり)から持ち込んだ」のとはわけが違う。

←実はこのスグ近くに「おせし様」なる板碑があって、どうもこれも「勢至菩薩」を祀った物のようだ。
しかも、この「おせし様」自体が、検索するとヒット数が少なく、出て来てもこの沼南のこの「おせし様」に集中している(゚.゚)。

勢至菩薩は十三仏の一つで、観音菩薩と対になって大日如来の両脇を守る菩薩だが、観音信仰のみ全国的に物凄く多いのに対し、かなり影が薄く、単体で祀られる事は極めて稀と言うから、この符号は「率」としては注目していいと思う。(関係があるとまでは言わない:笑)

大日如来に対してか、月を拝むと会える(願いが適う、だったかも)とも言われ、いつごろからの風習かはわからないが、庚申と似て、夜の祈り&徹夜の飲み食い行事(月待ち信仰)もあったようだ。

元々月や星は千葉氏の紋だから、千葉一族の割拠したこの辺り(相馬も千葉出身(^^ゞ)にとっては馴染み深く、また、夜中じゅう飲み食いしながら起きて祈る、江戸期の庚申信仰が大流行した事も、あるいはこの「おせし様」と一致する所があったのかもしれないね(^^ゞ。

じゃ「おせし様」跡に行ってみよう(^O^)。目印は↓「手賀西小学校」。
小学校からの坂上がってスグ→

古くから「おせしさま」と呼ばれ、銘文に天文4年(1535)、二郎、四郎、源四郎、平七小五郎等の人物名が刻され、中心に「奉庚申待供養」とある。

信仰と言えば、平安の後(下手すると旧石器時代の後)は一気に飛んで江戸時代になるのが常道のこの辺り(笑)としては、「1535年」というヤケにハッキリ戦国時代を特定して出たこの「おせし様」にはちょっと感心した。

中世末(室町時代)に地元の有力一族によって建てられた庚申待ち供養碑で、この時期に庚申信仰を用いた事がわかると同時に、庚申信仰とおせしさまを本尊とする月待信仰と板碑供養()が混じり合った珍しいもの。
現在でも風邪除けのお茶が供えられている。

肝心の「有力者」はわかってないのだろう(^_^;)。相馬氏については1300〜1400年代ぐらいまでしか辿れないのかもしれないし、高城や原が出て来る国府台合戦は三年後の1538年と、いかにもビミョー。

しかし、日本に珍しい崇拝対象である事は勿論、あらゆる信仰スタイルとミックスさせた風変わりさが、素晴らしくクッキリと心に刻まれた。
ちなみに相馬氏は千葉氏の支流なので、普通は妙見社を祀る事が多い。これも星信仰の菩薩なので、通じる所があるかもしれないね(^^ゞ。

板碑は舎利塔から転じて死者供養のため、梵語や仏像などを刻んだ卒塔婆の一つで、この板碑は、塔身の上部に大きな天蓋、中央は連座の上に月輪とバクの梵字(釈迦如来)、その下には机と三具足(香炉・燭台・花立)がそれぞれ彫られている。
材質は秩父産の緑泥片岩を使った武蔵様式の武蔵板碑で(他に筑波山麓の黒雲母片岩で造られる常総様式で、北総に産する砂岩を用いた下総板碑もあるが、この辺りでは多くない)大きさは高さ65cm、幅30cm、厚さ3cmとの事。

あと村の外れにあった墓地に来てみた(^^ゞ。→
ドッと視界が拓ける一帯で、奥の森林に目が行く。

ああいうちょっとした丘が、あるいは遺構かも……なんて言いつつ、確証もないので元の282号線に戻った。

今度は282号線の反対側にある「龍泉院」に行ってみる(^^ゞ。地図C
この寺の名は、282号線のカドに看板が出ている。



<泉、龍泉院>

見えて来た、見えて来た♪
龍泉院」(地図C)山門
樹齢260年の樅の木


お寺の向かって左に駐車場があり、この樅の木は駐車場にあった。

パノラマ5枚(180度以上)
↑入って全体はこんな感じ。かなり魚眼だけど(^^ゞ。

やはりこの季節は梅に目が行く(^^)
梅の花の方から見た、夕闇せまる本堂

1253年(鎌倉時代)、この泉村に創建。開祖は相馬小次郎師胤。
「城主のたわごと」2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内の通り、将門の叔父からの家系・千葉氏から出た師常が、将門の相馬氏が絶えたので跡を継いだ。その師常の曾曾孫がこの師胤である。

また「城主のたわごと」2005年11月に、相馬氏を継いだ師常の実父、常胤は平清盛と同い年(1118年生)だと書いた(^^ゞ。

(相馬)師国=師常−義胤−胤綱−胤村−師胤
          ↑
(千葉)常胤−師常

常胤が1118年生まれ、師常は1143年生まれと、ここまでは判ってるのだが、その後の生没が実はハッキリしない(^^ゞ。この系譜には養子相続(兄弟相続など)は無く、全て父から子への伝譜とされている。
すると、その後みんなが20歳で嫡男を上げる効率の良さ(笑)で行けば、1253年の師胤は30歳。余裕で開祖できそうな年齢だが、ちょっとズレが生じて、まだ子供だったり、下手するとまだ生まれてなかったりする、とこの辺りもビミョー(笑)。

それと、この師胤、その父の胤村からの相続により、兄の胤氏は下総を相続したが、弟の師胤は奥州行方郡を相続し、事実上、師胤こそ奥州相馬の祖と言われる。
と言っても、もちろんここ下総は故郷であるから、そこに寺を作っておかしいって話ではないよ(^^ゞ。ちょうど奥州に実際に行くことになった時代の人って話ね。

本堂の向かって左横に通路。これを潜って、
←こう出て、↓に降りると墓地

寺の墓地には「相馬家」という立派なお墓もあった。(写真は遠慮ね(^^ゞ)

開山したのは、木更津市の真如寺6世住職の長英。
天文年間(1532〜54)の頃、曹洞宗だったとも見られる。

1632年、本多正貫(柏市あたりは江戸期、本多氏の所領(^^ゞ)は5世住職の幽谷に帰依して、4町を寄進。諸堂を作った。15世の象山の時、本堂と香積を再建。参道を作った。

堂内にある観音像は県内唯一の秩父百観音(江戸期)で、天保年間(1830〜43)に泉村には火災が頻発したので、25世の鉄眼は百観音の石像を奉祀、近在24か村の施主の寄進で、1839年に成就。各村に普門品講を結び、観音経の読誦塔が競って立った。
が、本堂も観音堂も老朽が進み、のちに香積のみ改築。

1895年(明治)には隣村の鷲野村に生まれ、大正期に高僧として名高かった山崎辮栄がインドのヴッダガヤから菩提樹を頂いて植え、境内にある。

1980年、2400坪の山林を処分して資金に替え、檀家から浄財や多額の寄付を募って、1981年に本堂を解体の上、春に地元の棟梁の手で客殿を、10月に有井建設の施工で本堂に着手、1982年3月に完成した。
また1992年には、浄財と寺有金によって観音堂も改築。
これら最近の改築については、31世住職によって記念の説明碑が立っている。

老朽した建物を土地の人と力をあわせて復興したり、お庭は綺麗だし、主要道には「龍泉寺」というデッカイ看板も立てて頑張ってるから、きっと多くの人に知って欲しいんじゃないかなっ(^^)。



<柳戸「弘誓院」>

方向は、さらに手賀沼公園に向かうのだが、282号線からも行けるし、泉の「おせし様」とかあった辺りからも行ける(^^ゞ。

←まずは282号線の方から。わりと風情があって好きなコース(^^)。

ただ、この左上にちょくちょく写ってるのは、この時つけてた初心者マーク(爆)。邪魔臭くてゴメン(^_^;)。

で、今度は泉の「おせし様」のあった村から行ってみる。↓

わりと急な下り坂でそそられる(笑)。
そして森林の奥から又「それっぽい」風景。

パノラマ3枚(右の看板には「ひがし聖地公苑」とある)

そして「弘誓院」に来た(^^)。↓

←まず道路から、ドーン!とデカい樹木が見えた。寺内の案内を見る限り、これは雌雄の銀杏かと(^^ゞ。
↑そして、両大木の合間に山門と参道。正面は本堂。じゃ入るね♪

この銀杏、南にある雄樹には乳柱が発生しており、母乳の出の悪い女性がこれを削って煎じ飲むと、乳の出に恵まれるという伝えがある。雌樹は西にある。1983年の雹で枝が折れたりしたが、今でも両方元気いっぱいである(笑)。

入って左には弁財天
振り返ると……おおおっ、鐘堂が樹木の中に!

このデカイ樹木、カメラに収まり切らなくて、撮るのに苦労した(笑)。

本堂の手前に仏像。
拡大。
弘誓院は真言宗の豊山派。本堂は江戸初期の建立で町内きっての古い建築。
昔から「柳戸の観音さま」として知られるが、←この仏像はそれとは違う(^^ゞ。

観音像は坐像で木像。曼荼羅に描かれる聖観音と一致し、密教系の観音像とわかる。秘仏として普段は拝観できない。

というのも、鎌倉期の物と古く、貴重だからだ。平安後期からの割り矧ぎという技法をもつ一方、引き締まった相貌や衣の彫りの深さに鎌倉期の作風があらわれ、作者は明らかでないが、1200年代前半〜半ばごろに活躍した仏師、定慶の影響がうかがえる。
また大きな材木を変則的な木取りで、スタイルも肩幅や両足も幅広いなど迫力のある表現で、地方の特徴もうかがえるのだそうだ。

また1963年、本堂の屋根を替えた時に、天井から法華経の版木が50枚ほど出て来た。うち30枚が定形を保つ。1400年代の中頃の物ではないかと言われ、これも貴重な物。

このように由緒ある寺なので、下総33番の観音霊場とされた。

実はこちらに来た方が、前の「龍泉院」より先だった(^^ゞ。
お城の遺構とか伝承とか、地元の人だったら何か知ってるかな〜と思い、この弘誓院で尋ねてみたのだ。
そしたら龍泉院を教えて下さり、丁寧に行き方も説明して頂いた。お陰で、上で書いたような相馬氏に関わる事も書けた、というわけ。応対して下さったのは住職さまの奥様かお母様じゃないかと思う。ありがとうございましたm(__)m。



<手賀沼>

じゃ、いよいよ手賀沼に行ってみよう(^O^)。地図D。まず柳戸で左折。

←すると、いきなり鬱蒼とした森林の奥に吸い込まれる。そしてすぐ「手賀の丘公園」の真ん中を通る道に達する。↓

この公園、バーベキュー広場や図書館、運動場などあって、人気があるようでいつも駐車場はいっぱい(^^ゞ。

やがてドッと拓けた一帯に抜け、グイ〜ンと手賀沼の方向に進む。

沼に迫って行き止まりを右折
沼の手前の道を東進。看板を左折。
この一枚のみ5月に撮った写真(爆)。妙に青々しいよね(^_^;)。↑

田んぼの所は既に手賀沼の一部(^^ゞ。広い湖面のある所と、このように農地利用されてる所がある。
この辺り、秋の夜などは波状の物凄い濃霧に包まれる。

到着(^^)。左が沼。その先は広大な湖面。右が橋。その先は川ぐらいの幅。

橋を行くと地元の「フィッシングセンター」がある。ここは鉄道だとJR常磐線の「我孫子」と「天王台」の間。JR成田線だと「東我孫子」が近い。

じゃ、ちょっと車を停めて、湖を眺めよう(^^)。

まず湖の方。パノラマ4枚(180度)

反対側は駐車スペースと、その奥の広い田園。パノラマ4枚(180度)

ちなみに手賀沼と言えば……全国で汚染度ナンバーワン(つまりワーストワン)の沼として有名!(爆)
この辺りに引っ越して来てから、ずっと「手賀沼! うぉ〜行きたくねぇ〜!」と振り向きもしなかった(笑)。

ここ数年ずいぶん頑張ったのか、ランクは下がったようだ(^_^A)。とは言え、確かつい最近まで20年だか30年だか連続トップだったように聞いた覚えが(汗)。。そんな短い間に綺麗になるもんなの〜と調べてみたが、
2000年度1位、2001年度2位、2002年度9位、2003年度6位、2004年度4位
……って戻ってる気がするけどっ(汗)。

ただ、今はどこも「汚染川」と言われるのを不名誉に思い、全国単位で浄化運動をしてるらしいから、こうしてしのぎを削る間に本当に綺麗になるのかもね。こういう競争ならいいと思う(^^)。上手く浄化できた経験を分かち合って、日本じゅうが綺麗になったらいいねっ♪

いつも湖面を滑っている白鳥チャン
わりと人見知りしない(笑)。間近でカシャッ

湖の周りは舗装されてるが、車両規制してるからノンビリ歩いても車に追い立てられる心配はない(^^)。
休日はわりと人が多いが、みな思い思いに散策するだけで、騒がしさがないから、いつ来てもいい気分で過ごせる。

このまま西に進むと、辺りには「城山聖地霊園」がある(地図E)から、この「城山」はたぶん手賀城を指すのだろう。手賀城跡(地図F)とかもあるらしい。この辺りはどうも原氏(手賀原氏)の領域のようだ。また前「城主のたわごと」2005年11月で行った<将門神社>のある岩井もこの辺り。

←これは、さらに西にある手賀大橋を渡る手前「道の駅」で撮ったもの。

千葉県の観光ルートのようだ(^^ゞ。「水辺廻道」「歴史廻道」「未来廻道」「緑廻道」「渚廻道」「磯味廻道」「花海廻道」と七つのエリアが書かれていた。
この辺りは「水辺廻道」だとか。うんうん(笑)。

手賀沼は、12世紀初頭の記録では「香取海」という海の一部で、「手賀水海」と呼ばれた。
具体的に歴史に登場するのは江戸期初頭の1621年、利根川の水を常陸川と江戸川に分ける計画(東遷)を持ち、1631年、江戸への水運を便利にするため、手賀沼と江戸川を結ぶ運河を造ろうとしたが、1632年に二代秀忠が没して運河は中止、東遷のみ1654年から開始。
1666年、布川・布佐間の利根川を締め切り、新田開発のため新利根川に水流を移すが、洪水になり失敗。
やむなく元に戻し、河口を堤で締め切り、圦樋(いりひ)により利根川に排水。が、新田開発は73年に一部検地高入れ成る。
1671年、江戸の商人、海野屋作兵衛などが手賀沼新田開発を請け負い、排水路を小林村まで掘り割り利根川に落とすが、やはり洪水になり、設置された圦樋もたびたび決壊。
1728年、幕府が下沼全域の干拓を計画、千間堤を沼中に築いたが、後に洪水になり堤が決壊、失敗に終わる。
1730年、手賀沼新田39村を検地。1300石余り高入れ。海野らの開墾の成果あがる。下沼で鴨猟が再開。盛んになる。
1783年、浅間山噴火。灰が降って利根川の水面が上昇。洪水が頻発。85年、田沼意次は印旛沼・手賀沼の干拓をはかったが、翌86年に洪水。排水路の整備にのみ徹した。
1842年、大森村・竹袋村と手賀沼新田39村の悪水出入りが激化。衝突がおこって怪我人が出る。
明治になり、1870年、布佐堤が決壊する未曾有の大洪水。
1820、印旛県令、川瀬秀治は手賀沼の民間開発に反対し、詳細な調査の必要性を訴える。
1890、利根川洪水で圦樋が6軒大破、堤防80間が決壊。沿岸の被害拡大。
昭和になり、1953年、沼南−我孫子間に県営渡し舟(中秋丸)就航。
1956年、手賀沼排水機場施工。機械排水による干拓が始まる。
1960年、手賀沼の汚染顕著となり、フナ、ウナギなど大量に浮かぶ。
1964年、手賀大橋開通。県営渡し舟廃止。
1968年、第一干拓・第二干拓完成。
1974年、以後、汚染ワーストワンに。
2000年、北千葉導水道完成。浄化のための通水開始。

つい最近まで、洪水と戦っていた事がよくわかる。やっと機械導入で排水、汚染が出る。
それでもまだ渡し舟をやってて、橋はナイわ干拓すら終わってないわ。それらが終わると今度は吹き溜まった水の浄化、つくづく多難な沼である(^_^A)。

手賀大橋を渡り、反対側から写した手賀沼。→
これも5月(^^ゞ。釣りを楽しむ人の姿が見える。

今イチ鮮明ではないが、周辺の絵地図

これを見たら「箕輪城跡」ってトコに、砦っぽい絵が描いてあった。「公園とかあるのかな(゚.゚)」と期待した私らは、そのまま直ぐ行ってみた。「手賀大橋」の手前を西に行ってスグの所にあるようだ。



<箕輪城跡>

大橋を超えてさらに西進、お日様もかなり沈んで来た(^^ゞ。
到着「箕輪城跡

本当はこの箕輪城を探して、エンエンと迷った(^_^;)。
それは、この辺りには「手賀病院」があって、「こっち行くと病院に行っちゃう」と思うものだから、入れる道筋を丘陵の横に探してたからだったんだが、正解は「病院の隣」だった(爆)。

これは結構、検索でも出て来る(^^ゞ。主に城郭サイトで、扱いもそう小さくはない。

で、右の碑↑はすごく錆付いていて、書いてある字は半分以上が読めず、それでも窺えたのは、ここが中世末期の高城氏に関連する城跡であったこと、そしてかなり規模の大きい縄張りであった事だ。

このように、隣と言うよりは病院の敷地内だな(笑)。パノラマ4枚(180度)

こういう風に城郭の跡地を削って建物が建っていたりすると、城郭ファンにしてみれば「ヤラレたぁ〜( ̄∇ ̄;)」という思いに撃沈させられるものだが、私らは「見れたら見よう」ってな出来心で来たので、相変わらず城郭跡がどこか確証に至らず、よりによってその病院に入ってお医者さんに聞いた(爆)。

そしたら、お医者さん、「ここ出て、通りの横にある雑木林の空き地で、碑が一本立っていて」と教えて下さり(悪いけど、こう教えて貰わないと見つけられないような碑なんだ、これが(^_^;))、私らは↑を見付けられた。
写真を撮っていたら、病院のドアからずっと見守っていてくれたらしく「この奥に入って、調査する人とか時々来るんです」と教えて下さった。
ありがとうございましたm(__)m。お忙しい所スイマセンでした!

駐車場が左の建物の奥にあり、そこに車を停めさせて貰ったが、駐車場の周辺も土塁の跡じゃないかな、と思える土盛が見られた。

←これはその駐車場から写した病院の写真。

探しにくい原因の一つは、城のあった丘陵地帯の道がわりと入り組んでいたから(^^ゞ。
でも病院のあった辺りからは、手賀沼周辺の街灯りが緑の合間から見られ、建物の中の病室とかからは、わりとイイ眺めが見られるんじゃないかな、と思った。

パノラマ2枚。遠目に垣間見える低地の町灯り

帰り道にはもう桜が咲き始めていた(^^)。

↑端の電信柱に小さく写ってるのが「しの田」。お寿司の店だったと思う(^^ゞ。昔からよく見掛けるロゴ。
信田は将門の後で相馬氏が一時名乗っていた姓。関係あるのかは知らないよ(笑)?

というわけで、前回から松戸に始まり、市川、沼南(柏)といった千葉県の北西方面レポ、一先ずおしまい(^^)。

次回からは今年(2006年)4月、まずは地元・常盤平桜祭りから(^^)。
そしてまたまた箱根旅行編を三回ぐらいに渡ってお届け〜〜〜♪



ちょっと最後にオマケ(=^m^=)。

フェルト仕立ての縫いぐるみケーキ(^O^)。

左からラズベリーレアチーズ。ショコラトルテ。いちごのショート。モンブラン(^^)。
よく行くドトールで一時ずっとテーブルに乗ってた。汚れちゃうんだろうね、しばらくしたら無くなった(;_;)。。でもショートケーキのクリーム部分のシワなんかすごくよく出来てて感動した〜♪

2006年08月09日
 
     




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