<2008年・城主のたわごと12月>




2008年5〜9月、下総水流レポの第二弾(^^)。

今回は手賀沼の南岸を、西から東に進むっ♪





     
  前回は茨城県から、千葉県との県境の利根川・古利根川を経て、手賀沼まで南下して来た。
手賀沼の北側(湖北)が千葉県の我孫子市、ここまで前回レポした。

今回は、さらに南にやって来る(^^)。
手賀沼の南側(沼南)は千葉県の柏市となる。今回はこの柏市からスタートしたい♪

時期は前回と同じく、5〜9月と大雑把だが(^_^;)、順序は前回が北から南に行ったのに対し、今回は手賀沼の南沿いに東に向かって移動する。

まず手賀沼だが、昔は湖の幅が広域に渡っていたのが、今その東側は周囲を田園に囲まれ、川筋ほどの細さに変化しているから、今でも湖として見れる一帯は限られているが、それでもかなりの広さである(笑)。

手賀沼の後は、南の内陸を東に進んだ最後に、手賀沼の南東にある小さな手賀沼……ここは臼井市と印西市との境界でもあるのだが、今回は印西市にまで行ってみた。地図A



<千葉県柏市・手賀大橋「道の駅・我孫子」のヒマワリ畑>

↑を今年見付けた(^^ゞ。7月ごろ。場所は地図B

「手賀大橋」近くの「道の駅」に咲くヒマワリ(パノラマ2枚)

我孫子市から柏市を繋ぐ「手賀大橋」の脇にある「道の駅」に連なる畑。

この「道の駅」には、こうした作物の直売所や、又レストランからは手賀沼の湖面が見られ、道を隔てて天然温泉(満天の湯)も出来て、人の集まる一帯となった(^^)。

目にも鮮やかな黄色の連続(^^)(パノラマ4枚・180度)

これより、この「手賀大橋」を渡った南の「柏市」に入り、沼を東沿いに進んでみよう(^O^)。



<手賀沼南岸・蓮の花>

場所は地図C。↑これは去年ごろから目を付けているのだが、よく訪れる人の話では、「年々、蓮が手賀沼を侵食している」という事だった(笑)。どういう事かと言うと……、

ド〜ン!(6月ごろ・パノラマ4枚・180度以上

↑これは湖の南の道から見る手賀沼で、この場所は沼を見渡す「見晴らし台」のような建物なんだが、これに登って見ても、この通り、見渡す限り、湖が遥か遠くにしか見えない(笑)。ちょっと右の階段から降りてみよう。

7月ごろ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

こんな感じに、沼の上に作られた橋を散策↑しながら、ずいぶん奥まで人が入ってるのが見られるが、橋があるのはほんの陸地側で、その先がエンエンと蓮の葉に覆われて湖面が凄く遠くにしか見えない(^_^;)。この蓮の下はもちろん沼つまり水である。

この蓮は長い間に、湖面上にジワジワと広がっていったのだろうが、近くに寄れば、季節による侵食度の違いも見られる(笑)。ちょっと入ってみよう。

上の橋を降りて、ちょうど茂みに隠れる辺り→

これは5〜6月ごろ、水草が既に背高く覆い繁ってて、「将門と妻子が舟に乗った葦津江の雰囲気だね(^^)」とか言いながら、ちょっと舟にでも乗った気分(笑)。
この先に続く橋は……↓

初夏は水草が主流だが、盛夏には
ドン! 蓮の葉が覆う(笑)

5〜6月には見えてた水面が
ドン! 8月にはこの通り(笑)

葉の大きさに関しては、春先よりは夏になるほど大きくなる傾向があるにはあるだろうが、5〜6月でも大きい葉はあって、それより夏が深まるにつれて、前に出た葉を追い越して、新しい葉がさらにドンドン背を高くしていく感じがする(^^ゞ。

5〜6月ごろは膝元に
7月にはもう手すりより上(笑)

8月。葉はだいぶ高くなり、チラホラと花も見られる(パノラマ2枚)

私も亭主も「きっと真夏には、蓮の花で湖面一面がピンク色に染まるのではっ(^^)」とか期待してたんだが、それは蓮という植物の生態をよく知らない人の期待で、蓮は常に花よりもさらに葉が上に伸びる植物なのだっ!(笑)

だから8月でも全体としてはこうである(笑)(パノラマ4枚・180度以上)

それでも7月末〜8月になると、湖面までは行けないが、この散策路からかなり蓮の花がよく見える(^^)。しばし鑑賞タイム〜♪

蕾(つぼみ)から(^^)

こんな風にポンッと頭を空に突き出す蕾(つぼみ)もあるが、開花しきった頃には、すっかり葉に覆われて、遠目には満開状態が全く見えなくなる(^_^;)。

それでも橋に立ってジッとしてると、パァ〜ッと風が吹いた瞬間、チラッチラッとピンクが見られて、次の風が吹くまで、ず〜っとカメラを構えている人もよく見受ける(笑)。

だんだん葉に背を抜かれる花(笑)。これはさっきの見晴らし台↓(^^)

そして仏様の乗る、いわゆる蓮の花(^^)
シャワーのようなレンコン(笑)

亭主はここの蓮の花を見るたびに「レンコンが売れる!」と言う(笑)。
こういう、いかにも鑑賞用の蓮の花と、食用レンコンは種類が一緒なのかよく判らないが(^_^;)、レンコンと言えば、薬膳料理でも代表的な食材と言える。

詳しい効用は知らないが、東洋医学で分ける処の「気・血・水」の内の「血」に関する症状への食療として、よく「蓮根(レンコン)」を見掛ける(^^ゞ。

例えば日本でダイエットと言うと、油分・糖分・炭水化物・動物性たんぱく質などを控えて、何しろカロリーを減らそうとはするが、ダイエットして腹が空いた分、ガバガバ水分を採ったりする人がいて、そういう事をやると体内が冷えて体が上手く機能しなくなるので、本当は水分はあまり採らない方がいい(^_^;)。

が、「血液がドロドロになるから」という理由で、日本には「水分を控える」という考え自体が無い。
ならば血液の流れを良くすればいいのであって、いたずらに水分を取って、無理に体を冷す必要もない(笑)。

例えば虫に刺されやすいなんていう人も、血の濁りに原因があるケースもあり、他にも血の道が滞ると、貧血や皮膚炎、重病としては血管が切れるなど、多くの問題を引き起こすわけだ(^_^;)。
レンコンには、こうした血液の循環を促す作用があり、昔はありとあらゆる「血の道」に用いる事のできる、主に薬用と思われていたようだ。



<「将門神社・龍光院」(沼南)>

前回は手賀沼の北岸の「将門神社」をレポしたから、今回は南岸の「将門神社」だが、ここには2005年「11月のたわごと」で既に来ている。

今回は、前の時のレポでは写真が今イチだったので(^_^;)、ちゃんと撮り直したから見てネ♪というのと、この「将門神社」のすぐ近くに、素敵なウナギ屋さんが出来てるので、そこへの誘導という事で(笑)。

行ったのは今年(2008年)7月ごろ(^^ゞ。場所は手賀沼から、やや内陸に入った「岩井」。地図D
将門が最後に住んだと思われる「石井(いわい)営所」と同じ地名(^^ゞ。この周囲に「将門散策コース」がある(笑)。

左「将門神社」鳥居・右「龍光院」山門(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑神社とお寺は、敷地に入ると繋がっている(^^ゞ。左は青年館の奥に「将門神社」が隠れ、右には入ってスグ右に「如蔵尼」(将門の三女)の地蔵堂がある。

如蔵尼ゆかりの地蔵堂
手前壁ぎわに咲き揃うアジサイ(^^)

文章は(お手数ですが)2005年「11月のたわごと<将門神社>」を読んで頂ければ(^^ゞ。
また、そこに言う「茨城県岩井市にある」という「国王神社」は、今は岩井市ではなく、坂東市となっている。これは今年(2008年)「10月のたわごと<坂東市「国王神社」>を(^^)。

同じく「風早村大井将門山に出城を置いて、布瀬高野高野御殿を持ち、その土塀が今でも保存されている」という「布瀬高野」に今回、下の方でレポを試みている(^^ゞ。

この地蔵堂は「龍光院」つまりお寺の方の敷地にあり、ご本尊は「延命願王」「地蔵菩薩」と、六地蔵の内の「鶏亀地蔵菩薩」。

元は将門の三女・如蔵尼の建立と伝えてる事は言うまでもないが、再建時期を1774年とし、地蔵は1849年の修復の後、1978年の再修復の時に、案内版なども建てられたと見られる。

こちらが左の建物の裏「将門神社(パノラマ3枚・ほぼ180度)

平安末〜鎌倉初期の千葉常胤が「祖先、将門公を偲び復興」と伝わる。
さらに社殿の新築・改造については以下の通り。

一、将門大明神拝殿 正徳2年(1712)
二、新造立花表 享保7年(1722)
三、新造立平親王将門宮 延享元年(1744)
四、新造立花表 明和3年(1766)
五、造立閇植 寛政2年(1790)
六、彩色将門大明神雨屋 文化3年(1806)
七、再建将門大明神 安政6年(1859)霜月

最後の安政6年(江戸末期)が、現在の本殿であり、「五尺宮社流総欅破風造り屋根は寄棟造り茅葺鉄板で覆ってある」と記されていた。

湖北のと同じ「将門大明神」(^^)
本殿の裏の「放れ駒

この本殿と、特に裏の「放れ駒」が、前のレポ(2005年11月)でちゃんと写らなかった(^_^;)。。
案内版によると、「九曜紋」とともに、将門の用いた紋と伝わっていると言う。

←これも2005年のレポでは写りの悪かった、本殿横の祠群。元々かなり暗い場所だったみたい(^^ゞ。
↑「将門神社(龍光院)」の敷地を出てスグの通りに咲いてたアジサイ(^^)。

ここから「石井営所」跡までは、北に手賀沼を超えて我孫子市を越え、利根川を超えて茨城県に入り、取手市や守谷市を超えて、坂東市まで行くわけだけど、地図E←「坂東」とある辺りに「石井営所」、「我孫子」とある辺りが手賀沼南岸の「岩井」。地図でもわかる通り、わりと距離よ(^_^;)。

だけど、この辺りを「いわい」と呼び、また確かに将門伝承が多いようで、千葉県だと、あと野田市にも伝承地があるようだけど、今回は手賀沼まで来ちゃったので(^^ゞ、これより手賀沼南岸の痕跡を辿ろう。



<鳥善(うなぎ(^。^))>

「将門神社」(龍光院)から歩いてスグの場所に、うなぎ屋さんがある(^。^)。ここも7月ごろに。

↓あの森のある裏辺りが「将門神社」かな(パノラマ5枚・180度以上

↑の逆側、道を進んだ正面の森が「鳥善」↓(パノラマ5枚・180度以上)

←これが正面からの入口。

道を左に折れて、ちょっと進むと駐車場もあって、このように建物の中の灯りが仄見える(^^)→

この駐車場の階段を登ると……↓

あまり広くないので、↓上下左右4枚のパノラマで繋いだ(笑)。
こっちはドアを入って階段を降りた所(パノラマ縦3枚)
ミラクル・ワールドみたいに木材の組み合わせが面白い建物(^^)

←階段を降りる途中から垣間見える店内
↑大樹を配した店内インテリア(パノラマ2枚)

←特に屋根裏の骨組みが何だかスゴイ!(笑)
これもいっぺんに撮れなかったので、縦横4枚繋ぎ合せてる(^^ゞ。
屋外の爽やかな緑と
店内のドッシリした木材

庭に面した障子側に座った(^^)(パノラマ4枚・180度以上

広間の向こうに見える厨房
会計&手洗いへの通路

店内で目にしたスクラップに、オーナーか料理人か柴崎サンという名があったけど、もしかして神田明神関係の人かな?(笑)(違ったらスイマセン(^_^;))
特に将門メニューとかあるわけじゃないけど、龍光院の名の入った……ハッピかな? そういうのが目に入った。

←そして出て来た、コンガリ美味しいウナギ(^。^)
↑デザートのメロン♪

手賀沼には「フィッシング・センター」とかもあって(^^ゞ、よく「鯉・鮒・虹鱒(にじます)・あまご・スッポン・鮎・鰻」など書いてあるんだが、これも沼地から獲れるのかな(笑)。

食後は周辺をゆる〜く散策(^^)。この辺りは、「将門通り」とか「将門伝説の地巡り」などと名付けられる地域なのだが、ホントに隠れ里のようなムードいっぱいで、将門の本拠地レポも終えた事だし(笑)、今度はこの辺りの将門伝承巡りも、ゆったりと歩いてみたい♪

↓この森が「鳥善」、中央(小さい人影が見える)が神社からの道
(パノラマ4枚・180度以上)

↑の逆側風景↓(パノラマ4枚・180度以上)

何となく城跡っぽく見えるんだよなぁ、ああいう小山が(こうやって伝承は増える:笑)。



<手賀曙橋>

さらに東に進むと、沼の端に来る。ここから東は今は川になっている。地図F

昼下がりの湖面(5〜6月ごろ・パノラマ4枚・180度以上

日没後の湖面(9月ごろ・パノラマ4枚・180度以上

ゆったりと行くヨット(^^)
秋の暮れ時の湖畔

←白鳥サンの滑る湖面も、季節や湿度、空の具合で、真っ青になったり、こんな具合に抹茶羊羹のように見えたり!(笑)

よくカメラを構えて長い間、日暮れを撮影する人も見受けるので、こたつもマネして(^^)↓



「曙(あけぼの)橋なのに、夕陽がキレイだよね!」とは、いつも言う冗談(笑)。



<兵主八幡神社>

ここからは湖水近くから内陸(南)に入り、「布瀬」(柏市)という地域に向かってみる。地図G

この「布瀬」は、千葉氏が史上に具体的な登場をする頃、つまり平安末期の千葉常重、そしてその子の常胤が、「相馬御厨」を寄進するに当たって、その四囲を示した一点としてよく見る「布施郷」と、まぁだいたい同じ地域と見ていいと思うよ(^_^;)。

ただ細かい事で恐縮だけど、ほんのちょいズレる点を言うと、御厨の境界「布施郷」は手賀沼以北、こっちの「布瀬」は手賀沼より南にある、という点ね(^^ゞ。

つまり千葉常重らは、手賀沼より北の「相馬郡」の寄進を上申するに当たって、その南限を「手賀水海」(手賀沼)としてるワケ。

思うに千葉氏が主張した「布施」は、今の手賀沼(湖)の北西にも「布施」(我孫子市)という地名があるので、こっちが史料に登場する場所かと。今の地図だと、だいたい→地図H

また、この南限とされる地名には、よく「篠籠田(しこだ)」というのも上げられ、それは今の地名だとこの辺→地図I

だけど千葉氏の本拠はもっと南の千葉だから、これでも他と凌ぎを削りあった中では、思い切り欲張って広い範囲を主張してる方なんだろうと思う(笑)。

というのも、これより行く手賀沼より南の「布瀬」あたりも、結局は相馬御厨の領域に入っちゃってる気がするわけよっ(爆)。

それは手賀沼北西の布施郷も、元々「布施御厨」っつーのが存在してて(^_^;)、その布施郷を千葉氏は再寄進を行なう事で、「相馬御厨」として了承させようとした、とも見られてるわけ(笑)。

今回この相馬御厨については、下の「香取鳥見神社」の所で話そうと思う。

で、それと関係あるのかになると、ちょっと何とも言えないが、これから行く南の「布瀬」にも、いわゆる「将門伝承」が色濃く残っているのねっ(笑)。

時期は7〜8月ごろ(^^ゞ。まずは布瀬に向かう途中に立ち寄った神社から。場所は地図J←今の「曙橋」から、ちょっと内陸を南に入った所。

兵主八幡神社(パノラマ2枚)

境内には案内版など何もない。ただ「兵主」と「八幡」の「両神社」とあるので、合祀されたのかな?(^^ゞ

←鳥居を潜り広々した参道を通って、こちらに到着↓

↑参道は道だけ大きな木々に囲まれてるが、その周囲がスコ〜ンと開けてて明るい雰囲気(^^)。

←拝殿 こちらは拝殿前の鳥居と、その前の鳥居の間↓

右の写真は、出羽三山の碑。左から「湯殿山大神」「月山大神」「羽黒山大神」。千葉県ではよく見られる(^^ゞ。千葉県は全国でも出羽三山詣の最も多い県だという。
他に、伊勢神宮や四国巡礼の記念碑があり、「寫 阿州一ノ宮寺」という石碑もあった。

ネットでは、「兵主」というのは兵庫県にある神社だとも出て来る(^^ゞ。
拝殿の頭上には、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト……」で始まる「教育勅語」が貼ってあった。



<六所神社(柳戸砦跡)>

「兵主八幡神社」から、さらに南に入って来ると、地図K←に「六所神社」がある。

かなり鬱蒼とした森にある「六所神社」。敷地は小さい。

「六所」という地名は、茨城県の常総市にあった「六所塚」では、「元は御所(五所)があったのを、将門が叛逆者であるのを気遣って地名を変えた」とあったが、ここでもそれが当てはまるのかは判らない(^^ゞ。(2008年10月<常総市「六所塚考」>

一般的には「六神を祀るから」と説明されてるのをよく見る。
例えば相模国の大磯にある「六所神社」の、一宮〜五宮の「五社の祭神」+「柳田大明神」というのが近い気がする(^^ゞ。

また、常総市の「六所塚」と相模・大磯の「六所神社」に通じる点で言うと、「国府があった場所」と伝えられる場所という事になろうか(^^ゞ。
常総や今いる「六所神社」には、国府そのものがあったとは認められないから、つまりは「国府祭場の総社方式から来る(分祀とかの)神社」という可能性が考えられるだろうか。

また相模国の「柳田大明神」と直接繋がるかは知らないが、今いる「六所神社」も、実は「柳戸」と呼ばれる場所で、神社の周辺には土塁らしき痕跡があるといい、これが「柳戸砦跡」と呼ばれている。

が、こちらでは「柳田大明神」は祭神名には含まれず、「天照・スサノオ・イザナギ・イザナミ・蛭児・月夜見」を祭神としている事が、「東葛飾の中世城郭」には書かれていた。
中でも「蛭児尊」は、七福神の恵比寿に見立てられる事で知られる通り、ここでも漁労や商業など異郷から幸をもたらす海上神として信仰された、と伝わるそうだ。

神社の周囲で撮った。遺構に当たるだろうか(パノラマ3枚・ほぼ180度)

行ったのは7〜8月頃なので、草がボウボウだった(^_^;)。。

「柳戸」は、「上柳戸」と「下柳戸」に分かれ、ここは「下柳戸」が相当する。

「上柳戸」は鎌倉末期以降、相馬岡田氏が所領とした。相馬岡田氏は相馬氏の支流、相馬氏は千葉氏の分家である。又々急遽作成→相馬氏ざっと系図(^^ゞ

一方、ここ「下柳戸」だが、鎌倉中期、新田岩松時兼に嫁いだ相馬義胤の娘「土用御前」の所領を、さらに娘の「とち御前(尼真如)」が引継ぎ、「とち御前」は藤原某に嫁ぎ、この「藤原某」がよく判らないが、1282年、さらに娘の「藤原土用王御前(尼妙蓮)」に上野国の所領とともに、「藤心・手賀の東方・柳戸村半分」を譲与している。

「上柳戸」が相馬岡田氏の所領だから、この「柳戸村半分」が、ここ「下柳戸」に当たるのではないか、と「東葛の中世城郭」には推量されていた(^^ゞ。

また「とち御前」→「藤原土用王御前(尼妙蓮)」に引き継がれた「上野国の所領」というのは、岩松氏の所領であるらしい。最初に「土用御前」が嫁いだ岩松氏と関連するだろう。

つまり「藤原土用王御前(尼妙蓮)」の実家筋は岩松氏と見られ、彼女は1334年に岩松直国に上記の土地をさらに譲与しており、この時に、やはりここ「下柳戸」と思われる「今井村」も、これから行くスグ近くの「布瀬村」も、その中に入っている。

2年後の1336年に、相馬(泉五郎)胤康が戦死し、「藤原土用王御前(尼妙蓮)」は子息・胤家の代を勤めたので、ここは岩松氏に伝えられた可能性もあるが、史料的にはハッキリしない。。

が、1300年代末ごろには、「布施村」の方は二階堂氏の所領となってて、この二階堂氏は岩松氏の家臣なので、何となく合致しそう(^_^A)。

1381年より後になると、相馬岡田氏の相伝した「上柳戸」についても不明となり、戦国期には上下柳戸とも高城氏の支配領域となったと見られる。

林中にポツッと残る祠
こちらは城の南側

「柳戸砦」(六所神社周囲)は、北は手賀沼から深く入り込む入谷津(水田)と接し、砦近くまで小船が乗り入れられた可能性がある一方、南に「金山落し」と言われる低地帯(水田)、東には人工的な防御施設があった可能性のある小谷に囲まれていたと思われる。

この南側に今来ていて(地図L)、ここには282号線が通っており、その下側がこの通り、低地になっている。↓

低地から「柳戸砦」のあった森を見上げる(パノラマ5枚・180度以上

水運の神を信仰した伝承からも、三方を川・低地・谷に囲まれた要衝の地だったのかもしれない。

真ん中の赤い屋根には、「一ツ井戸」と書かれた案内が立っていた。
この下柳戸地区は、昔から十戸より戸数を増やさず、この「一ツ井戸」を共有していたという事で、今でもその跡地として保存されてるのだろう(^^)。



<平将門の別荘(高野館跡)>

「六所神社(柳戸砦跡)」から、ズズイと東にやって来る。「布瀬」のエリアに入った(^^ゞ。ここは「高野」と呼ばれる地域。地図M
ここも7〜8月ごろに来ている。

ちなみに「高野」という地名が、「高野山から来ている」という話を聞いた事がある。
どこから出た俗説か知らないが(^_^;)、真言系の寺が多い地域だとは思うのと、もう一つは「将門記」にある、「王城建設」の予定地の一つに、「相馬郡の大井の津を、京の大津に見立てる」という記載が、何らか根拠となってるのかもしれない。

魚眼に見えるが、実はちょうど曲がり角(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

以下。「東葛の中世城郭」(千野原靖方・著)を参考に書く(^^ゞ。
平将門の別ショ(「野」の下が「土」の字)」と伝わり、「高野御殿」と呼称されたと「東葛飾郡誌」にあるそうだ。
さっきの「(沼南の)将門神社」にも書かれていた「高野御殿」は恐らくここだろうと思う。

戦国時代の城や館の跡としては防御性に弱いため、将門の時代とまでは行かなかったとしても、室町時代以前(どこまで遡れるかは何とも(^^ゞ)ではないかと同書にも書かれていた。

裏付け史料はないが、近くのお寺「福蔵院」(真言宗)の記録には、
天慶の乱(939〜941)から383年目にして、1190年3月27日、住民が土中から茶釜を発見し、その中から光り輝く不動尊(空海ではなく、良弁の作という)が出て来たのに驚き、村で相談の結果、明王を安置すべくお堂を作り、完成した7月27日を縁日とし、儀式をした。さらに368年後の1558年10月27日に、千葉氏の重臣・円城氏が再建した」

とあるそうだ(^^ゞ。将門自身の伝承はないが、将門の乱との繋がりを主張してる点が注目される。

竹林の合間から土塁らしき土盛が(^^ゞ
風情のある高野の風景

竹林の合間からウッスラと見えるこの遺構は、たぶん、館跡(正方形)の土塁に蓋をするように仕切られた、前衛の土塁ではないかと思う。

 □ ] ←こう見ている(たぶん(^^ゞ)

前衛の土塁には、中央に虎口が認められると「東葛の中世城郭」(千野原靖方・著)にはあるが、当地には案内らしき物は一切ない。ちょっと「ココでいいのかな〜(^^ゞ」と場所にも迷うが、上記の本と写真的には合致すると思う。

また、ここからちょっと行った先には、「御門工業」という看板も見られ、「きっと、ミカド工業、って読むんだろうね(^。^)」と、将門ゆかりの地に来た満足感に浸った(笑)。



<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>

同じく7〜8月ごろ、高野より少し北東に向かうと、地図には「峰神社」とされる場所があるのだが、当地には小さな祠があるのみだった(地図N)。↓

同書には「以前は遺構が在ったと言うが、現在は消滅」とあるので、城跡としての痕跡は無いのだろうが、だいたいこの辺りが中世には「布瀬城・館跡」が在った辺りではなかろうか。

1300年代末ごろ、岩松氏の知行文注文に、「布施村」を知行する名として、「原将監」「二階堂山城」が見られ、氏・二階堂氏と関係する土地だった可能性が見られる。

氏は現在の佐倉市の「高崎村」に所領があり、この布瀬の地とは、やがて印旛沼に繋がる鹿島川を通じて、水流で繋がる可能性はある。

二階堂氏は岩松氏の家来だが、鎌倉府の足利氏の奉公衆ともなっていたので、そのまま1400年代半ば頃までは、岩松氏の所領だったと見れるが、その後の戦国期は不明。

戦国期初頭の1491年には、茨城県龍ヶ崎市を出身地とし、「守谷相馬氏」に属した「羽黒氏」が「布施殿」と書かれ、後に高城氏が深い関係を持った「馬橋の万満寺」で誅された事が「本土寺過去帳」に確認されるという。

この地域はかなり広範囲にわたって、相馬高城の三勢力が凌ぎを削りあったから、そうした中では、かなり重要な城跡の一つだったのではないかという気がする。

この地は、ちょっと隙を見せると、あっちゅう間に勢力争奪の場となる歴史を繰り返して来た。今回はその辺りを書くわけだが(笑)。

さらに、この位置から鬼門(北東)に当たる所に「香取鳥見神社」があり、こちらは1988年、郷民などの寄付によって再建されたため、今でも立派に存続されている(^^)。地図O

また、布瀬城跡あたりから神社までの間に「腰巻」という地名があり、これも「腰郭」などがあったのかな、と思わせる地名だが、言われの程は判らない(^^ゞ。

香取鳥見神社」に来てみた(パノラマ3枚・ほぼ180度)

祭神は、経津主(フツヌシ)命と饒速日(ニギハヤヒ)命。
「経津主」神は香取神宮の祭神なので、辺り一帯「香取」と名のつく神社はみんなそうだが(^^ゞ、一方の「鳥見」の方は、もう一つの「饒速日」神を祀ってる事が多く、こうした「鳥見神社」は、ここ沼南にある他、臼井・印西・印旛沼の方にもっと多い気がする。

社伝によると、この「香取鳥見神社」の創建は古く、698年と言う。

この年の6月、大干害で諸作物が枯死し、この布瀬郷や近郷の農民がこの地に集まって氏神に祈願した所、甘露の雨が降り、五穀豊穣を得た。

そこで、同年9月、諸所に一宇を建立したのが始まりで、村の産神として崇敬崇拝された。

「干害を雨乞いによって退けた」という逸話は、印旛沼でも700年代の事として同じものが見られ、その時に龍の遺体が三分に分かれ、龍角寺・龍腹寺・龍尾寺に納まった、という伝承に繋がっている。(2006年12月<房総のむら>内

利根川から印旛沼までの領域に、600年代末から700年代初にかけて、大きな自然災害を起点に寺社への信仰が起こった、という共通項があったのかもしれない。

社伝に戻る。
その後、天慶年間の「平将門の反乱」(天慶の乱=939〜941年)の際に、兵火で保存されていた宝物などが、全て灰燼と期してしまった。

この場所から推測すると、将門の勢力による兵火ではなく、将門と敵対していた勢力による兵火だろう。

「承平の乱」(935〜)で行けば、平良兼による兵火という事になろう。良兼はその頃、神崎(香取郡)から出航して香取海を渡っているから、史料に現われない時期か、将門が敗戦した「子飼・堀越の渡の両合戦」(936年)の直後なら、良兼もここまで侵入できただろう。

が、ここに伝える「天慶年間」から行けば、良兼は既に死んでいるので、将門の死の直後、将門の敵である平貞盛や藤原秀郷の連合軍か、将門の敗死後に押領使として残党掃討に当たった良兼の子・公連によるものを指してるかもしれない。

また社伝に戻る。
この神社は、付近20ヶ村の総鎮守だったため、村民らが再建を議していた所、千葉常重がこれを聞き、費用の全てを支出して社殿を再建し、一族を率いて参拝・奉幣祈願して、神社崇敬の範を示した。

千葉常重は、だいたい1000年代〜1100年代の人だから、「将門の乱」(900年代前半)からずいぶん時間が経ってるが、その後「平忠常の乱」(1028〜)で、この地域は長く「亡国」とか言われてたので(^_^;)、それだけ長〜い間「再建を議していた」のに、ず〜っと適わなかったと考えれば、この千葉常重の登場と「費用全部オレ持ちで σ(^^ )」という申し出は、どんなにか魅力的だっただろう(笑)。

←神社の中に入ろう(^^ゞ。

また、この常重の父の代から、房総平氏は主に「上総氏」と「千葉氏」に分かれる。

┌国香−貞盛……やがて伊勢平氏(清盛)
├良将−将門
└良文−忠頼−忠常−常将−常永┬常時−常澄−広常(上総)
                      └常兼−常重常胤(千葉)

系図では、大抵「忠常」から「千葉氏(千葉介)」になってるが、千葉氏より上総氏の方が勢力範囲と言い、兵力動員数と言い、桁違いに大きいので、後の千葉氏に繋がる流れは、この時はまだほんのチョロイ支流で、実際には「上総氏」の方が本家筋だったとも言われている。

常重の父・常兼は、常重が小さい頃に亡くなったのか、相馬郡の仕置きを「後で息子(常重)に返してやってちょ」て事か、上総氏の祖である、兄の常時に任せていたらしい。
常時は約束通り相続させようとしたという事か、甥の常重を自分の養子にしている。

で、また社伝に戻る。
大治年中(1126〜30)は、相馬郡布瀬郷と称し、布瀬、手賀、片山及び柳戸の村々を手賀の島と言い、この神社は「手賀島」の郷社だった。

この「布瀬郷」というのが、さっきも書いた、相馬御厨の南限として登場する地名(^^)。

又、この大治年中(1126〜30)という時期、確かに千葉常重は「相馬郡布施郷」を御厨として伊勢神宮に寄進しており、いったんは下司として承認を受けたが、その時には多分、そんなに南の方まで御厨の領域に入ってなかったと思うのよ(^_^;)。

だから、この神社に伝わる「常重が費用を全部出してくれた」と言うのは、この辺りも後で領域に入れる事を見込んで、開発してる最中の伝承かもな〜と思ったり(^^ゞ。

さらに境内の参道を進む→
この神社は、鎌倉時代の後期に、千葉氏の一族、原氏(手賀原氏)の記録も書かれているのだが、今回は平安期の相馬御厨について書いておこう(^^ゞ。

この相馬御厨、千葉常重の寄進の後、「官物をちゃんと納めなかった」とイチャモンつけられて、国司(受領)だった藤原氏に横取りされた(^_^;)。。

寄進ってのはプレゼント(官物)を沢山納めて、有力者にオーナー(相馬の場合は伊勢神宮に)になって貰う仕組みで、このプレゼント類を用意すんのがスゴイ大変なんだけど、これやっとかないと、一生懸命に開発した土地でも、国衙領になっちゃうのね(^_^;)。。

なので、千葉常胤(1118〜)の代になってから未納分を納め直すとして、御厨の下司と承認され直した。
常胤という人は前も言ったけど、平清盛と同い年(^^)。どうも常胤の代になると、南限がドドッと南に下りて来てる気がする(笑)。手賀沼より南の領域も(モチロンこの手賀沼の南の「布瀬」も)、最終的には御厨の領内となってるようだ(^^ゞ。

だが、相馬御厨の試練は、むしろここから始まったのだ。。
今度は源義朝(頼朝のオヤジ)がやって来て、千葉氏の本家筋の上総氏の「浮言」を言い掛かりに、「結局ここは自分が譲り受けた方がイイ気がするのよっ(≧▽≦)」とか言い出して、何しろ自分が寄進してしまったぁ〜。。。ヽ(^^; )<オイオイ

だから相馬御厨って、「二重に寄進」された土地なワケ(汗)。。

なので義朝と千葉常胤の「二人とも下司」という異常な事態になった(^_^;)。義朝は現地には居ない人だから、義朝の家人となった上総氏が義朝側の下司になってたのかもしれない。

そこで「保元の乱」(1156)が起こった。この時に千葉常胤も上総氏のマネして義朝の家人となってた(参戦した)事がわかる。

てなトコから、相馬御厨も、義朝が親分格で千葉氏が子分格みたいなカッコか、例えば、北相馬を源氏、南相馬を千葉氏みたいなカッコで、まぁ何とか仲良く納めてたのかもね(^^ゞ。

こう見ると、結果的には上総氏と千葉氏の内紛を、源義朝が入って来て上手にまとめた、とも見れなくはないんだが、それは義朝の子・頼朝が鎌倉幕府を起したのを遡って見た見方で、上総・千葉にしてみれば、「源氏は上手く立ててやれば、そのうち居なくなるから、後で自分らで山分けしよう(^。^)」とか言ってた可能性も「絶対に無い」とは言いにくい(爆)。

←さらに進むと、正面に拝殿が見えて来る(^^)。

ところが続く「平治の乱」(1159)で、上司になった義朝が敗戦して死没っ( ̄∇ ̄;)。。。

「義朝は謀反人だから、その権利は一切没収〜」とかいう事になって、相馬御厨も白紙にされそうになったんだが、千葉常胤の奮闘努力の甲斐あって、没収は何とか免れた(^_^A)。

「親分の源氏は負け組だけど、自分は勝ち組だから勘弁してちょ(^。^)」と言ったかどうか(笑)、何しろ千葉氏は「保元の乱」にだけその名が見え、「平治の乱」に出た痕跡はない。

ところが、どんな親分でも、親分って大事だな〜とわかる現実が否応無くやって来る。。

親分の源義朝が居なくなると、今度は佐竹氏出身の源義宗というのが来る。
義宗は、前にイチャモンつけた国司(受領)の藤原氏が、平資盛(平重盛の子)の母を娘に持つもんだから、清盛からの平家全盛を傘に着ながら押し入って来た。これが「平家でなければ人でない」とか言われた時代ね(^_^;)。。
ま、千葉氏や上総氏も平氏と言えば、平氏なんだけど……思えば遠くに来たものだ(爆)。

で、源(佐竹)義宗は、来てすぐスピード寄進( ̄∇ ̄;)。

没収されるような場所だから、寄進も一から遣り直しって事だったのか(^_^;)、千葉氏は官物をまた揃え直せば、下司職再任っぽくなってたようで、そこに来た義宗の寄進が結局は認められ、相馬御厨の下司職は佐竹氏に横取りされてしまう〜!

こんな風に、二重寄進とか二重下司とか異常事態が起こるのは、プレゼントを両方から貰えてウマウマだった、という見方も出来なくないが、「何、今ドキの寄進ってそゆの?」と世間に知れたら、伊勢神宮の株価が暴落(←?!) する恐れもあるんじゃないかな(^_^;)。。

それと原則、一度成立した下司職が「取り消される」って事は無いハズで(^^;)、だから「取り消し」まで行っちゃったかよく判らないんだけど、義宗は下司職と預職という二重権限をゲットしてたので、どっちにしても事実上、佐竹に取られちゃったようなもんなのね〜(汗)。。

それにしても、寄進の際のプレゼント類って、いちお産地直送品なんで(御厨内のこれこれの田から米を何キロとか、同地の鳥やら魚やら数が決められてるの(^_^;))、この場合、義朝とか佐竹義宗って押し入り&領内強奪でもしたのかね(^_^;)。。となると、要は武力(笑)。

「うぉ〜今度の敵は平家かよ〜」と言ったかどうか(笑)、義朝の子・頼朝が「平家打倒」を旗印に挙兵(1180)すると、千葉常胤は真っ先に頼朝の元に駆けつけ、「いや〜アナタのお父さんには、さんざん世話になりましたし(^。^)」と言ったかどうか(笑)、「任せなさい」とばかり、下総目代とかバンバン焼き打ちしちゃう(こういうの得意な家系だから:爆)。

なので動きの鈍かった上総氏を、頼朝が後で「遅い!」と叱ったら、上総氏が「棟梁に相応しい」と感心し、改めて頼朝に従った……。
……とか言う事になってるが、ここも又々、上総&千葉の間で、「保険を分担してかけとこう(^_^;)」とかいう地元相談があったのかもしれない(談合とも言う:爆)。

でも元は、平家追討なんかどうでもいいから(笑)、富士川で平家を敗走させる(1180)や、頼朝がさらに平家を追い詰めようとするのを、上総氏が「んな事より先にやる事あるだろがっヽ(`Д´)ノ」と頼朝の首に縄つけて、佐竹討伐をやらせたわけ(^_^;)。。

ここまで大勢と凌ぎを削りあい、中央の動乱を策動するキッカケとなったとも見れる相馬御厨、金塊か石油でも取れた土地だったのだろうか(今出てるのは温泉だけよ:爆)。
↑てなわけで拝殿に到着(^^)
この拝殿に来るまでの、境内の長い参道が、ちょっと南国情緒してるような、長閑で良い雰囲気だったので気に入った(#^.^#)。

千葉氏が平家追討戦に使われてる隙に、上総氏は頼朝一派に誅されちゃったが(汗)、それでも長い苦労の果てに、相馬はマンマと千葉氏の物となり(^。^)v、千葉氏の分家・相馬氏に引き継がれたのだろう(^_^A)。

鎌倉時代の建長2年(1250)9月には、千葉一族の手賀城主・原(築前の守)胤親が、神社に修繕を加え、文安3年(1446)原氏11代城主が本殿を改築したと社伝はいう。

←参道途中から見える田園風景。昔は直接、手賀沼が見えたのだろう(^^)。

洪水に悩まされる土地だった反面、手賀沼は古くから川魚猟や水鳥猟が盛んで、建武年間(1334〜35)には、ここ布瀬の住人が「流モチ縄(ボタ縄)」を発明したと伝えられる。

ボタ縄猟は、茅から作る軽くて強力な縄に鳥モチを付けて水面に浮かべ、水鳥を捕獲する猟法で、張切網と併用された。

こうして捕れる鳥獣肉は、農家にとって冬場の貴重な収入源となり、都の人々からも歳暮として喜ばれ、豊臣秀吉や徳川家康にも水鳥を献上したと伝わり、境内には「鴨猟記念碑」がある。

相馬御厨の伊勢神宮への寄進の折にも、米や作物・織物や布の他に、「雉(キジ)を百羽、鮭を百尺」というのがあるから、こうした天然の恵みと猟が、古来から、ずいぶん役に立ったんだと思う(^O^)!
また御厨領として、伊勢神宮との関わりもあるのだろうか、境内には拝殿に続く参道に「伊勢参宮」として「太々御神楽奉奏記念」があった。

こちらは同じく拝殿までの参道(境内)にあった「大杉神社」→

江戸期は、寛延元年(1747)7月27日、時の嵯峨御所より勅使をして、菊と桐の御紋章、勅額、御紋章付きの幕、高張提灯及び太刀を下賜された。

また天保9年(1838)11月24日に改築された本殿は、総けやき6尺流れ破風造り茅葺き、三面の板壁に透彫り、向拝の社に双籠を彫りつけ美麗なものであった。
大正4年(1915)8月6日、手賀村社に指定されたのを記念して、同6年(1917)拝殿を新築、本殿は昭和52年(1977)町の文化財に指定されたが、昭和61年(1986)3月20日拝殿より出火、強風に煽られ本殿も焼失した。

そこで区民の力で、氏子総代を代表に再建委員会を組織し、多くの寄付を集めて、本殿と拝殿の再建を果たした事が、昭和63年(1988)の記念碑に記されている。



<千葉県印西市「阿夫利神社」、1>

地図P←やや縮小サイズだが、北には手賀沼の東が窄まって川になっており、その南にこれまで居た「布瀬」、さらに南に小さな「手賀沼」(^^ゞ。さらに南の中心点が、この「阿夫利神社」という配置。

ちょうど臼井市と印西市の狭間にあって、臼井あたりだとよくウロつくんだが、印西になると通り過ぎて印旛沼方面に行ってしまう事が多いので、この時は「寄ってみよう(^^)」という事になった。7月だった。


ウチ辺りからだと、道を行き過ぎて振り返ると、↑こういう鳥居が見える。なのでバックして来て鳥居の脇の道を入る。

この先、右手に降りると神社正面に出る。→
今回はこのルートをお届けするが、次回は途中で右折せずに、境内に入るルートをお届けする。

と言うのも、この時に参拝してたら、境内でお祭りの準備に集まって会食されてる地元の人達に、「是非お祭りにいらっしゃい(^^)」と、お煎餅を貰ったのだ(爆)。

なので後日、また訪れ直したのだが、そのお祭りというのがちょっと面白かったので、次回、改めてレポしたいと思う(^^)。
そのお祭りの時に、もう1個のルート上に屋台が並ぶ写真も出したいと思う♪

さらに進むと神社に続く石段が見える(パノラマ5枚・180度以上)

振り返ると、こんな感じ(パノラマ4枚・180度以上)

↑ちょうど地平線の所を→こう来て、右の道を↓こう降りて来た。

石段の先に、森林の合間から鳥居がまた見えて来る(^^)。→
こっちは、石段の左に構える不動明王の石↓
祭神は、石凝留命、石裂命、日本武尊、根裂命。
後ろの三神は、千葉県にもゆかりがあるので何となくわかるが、「石凝留命」というのが面白い(^^ゞ。

地元の方のお話では、ここの神様はご神体でもある「石」なんだが、「ここから動きたくない」と神意を示したので、ここで祀っている、という由緒があるそうだ。

まさに「石が凝って留まった」そのまんまだ(笑)。

事の起こりは明和元年(1764)、つまり江戸時代である。
海上郡の銚子の海底から、青石が二個上がった。どんな成り行きか知らないが、漁船の網猟にでも引っ掛かったのだろうか(^_^;)。

数々の奇跡(「奇怪」とある)を起したので、住民が崇敬した所、祈願を適え利益をもたらしたので、やがて「世直し石尊」と呼ばれ、悪風を正しい方向に直す神とされた。(地元の方のお話では、「荒神」という事だった)

里に移して鎮守にしようという者があれば、相模の「国石尊社」(相模国の一宮、阿夫利神社という事のようだ)へ奉納しようという者もあり、議論の末、奉納の方向に決し、神輿を作って中に納め、方角など占って各駅村を巡行した。

近隣の「誉田村」「清戸村」と来て、ここ「浦部村」の鳥見神社に着いて、いったん安置し、次は相馬郡の布佐駅に行こうとしていた。

ちなみに「布佐」という地名は、さっきの「布瀬」から手賀沼を超えてスグ北にある(^^ゞ。

ところがまだ、この浦部の鳥見神社にいた夜、村吏(村役人)の夢に青い衣の老人が二人あらわれ、「自分らを高西新田鎮守両社の内へ合祭せよ」と言って消えた。

この「青い衣の二人の老人」というのが、海底から上がった二つの青い石……つまりここのご神体の化身なんだろうね(^^)。

そこで、新田と浦部白幡の両村に一同を集め、神意に従って、両社境内の凸地の頂(稲荷山)に奉納し、「石尊大神」として、毎年祭祀を行なっている。

次回お届け予定の夏のお祭りも、ご神体の石を神輿に入れて担ぎ出す。

こちらは、石段の右側の深い谷。→
祠が群をなして在り、渓流が注いでいて、何となく城の濠のような感じに見えた(^^ゞ。

維新後の苦難の時も人々の崇敬と信仰は変わらず、造改修や屋根の葺き替えなど行なわれたが、老朽化による破損も目立つようになったため、再建の機運も起こって多額の奉賛金が寄せられ、「平成の大造営」に到った事が、平成11年付けで記されていた。
この石段も意外と新しい感じだった(^^ゞ。

石段を登った先に境内が広がっている(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑ここがもう1個のルートとの合流点なので、今回はここまでにしよう(^^ゞ。

←この左側には数々の石碑(記念碑)が並んでいた。

昭和に入ってからも、手賀沼と印旛沼の広大な流域は洪水に悩まされ、政府に陳情したり、それぞれの地域の住民が署名を行なった。
さっきまで居た、手賀沼周辺の地名も沢山書かれていた。

そうした人々が、この阿夫利神社に陳情書を供えて、熱烈な祈祷を行なったそうだ。
高松宮殿下も手賀沼干拓事業を視察され、最新機器を導入して排水が行なわれた結果、干拓が急進歩するに到った事などの記念碑があった。

以上、関連事項は、
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内
2005年11月<将門神社>
2005年12月<初詣2「神田明神」><八潮合唱コンサート>
2006年8月<泉「三夜堂」と「おせし様」>以降
2006年9月<東京・神田明神>
2006年12月<房総のむら>内
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年8月<神田明神「天野屋」>内〜<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>
2007年9月全文
2008年4月<柏市・手賀沼>
2008年5月<年末(^^)>
2008年6月〜「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」
2008年6月<黄砂吹き荒れる手賀沼>以降
2008年7月<牛久城跡、2>〜<逆井の梅花〜手賀沼(柏市)>
2008年7月<千葉県の動乱vol2>
2008年8月<史跡と順路について>以降
2008年9月全文

2008年10月全文
2008年11月全文


次回は、この「阿夫利神社」の祭礼をお届けの後、いよいよ9月後半の東北旅行(福島・山形)のレポを開始したいと思う〜!

<つづく>

2008年12月26日
 
     





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