<2015年・城主のたわごと2月>




2014年5〜8月、松戸・境根原古戦場、東京は千住と目黒レポ。

船橋の城跡二つ、夏の風景・湖上の蓮の花〜☆ミ




     
  前回から日常編が始まっている。以下は定例通り(笑)。

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで去年同様、前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「茨城北部編」1〜5
「6月のたわごと」(千葉北西城跡・茨城北部1)
■3月・茨城県水戸市・常陸太田市・北茨城市・笠間市
<水戸・茨城県立歴史館「常陸南北朝史」展>
<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>
<常陸太田市「大甕神社」へ>
「7月のたわごと」(茨城北部2)
<大甕倭文神社(つづき)>
<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」>
<横川温泉から金砂温泉まで>
<金砂温泉〜西金砂神社の石像群「田楽舞」>
<「金砂城跡」と「西金砂神社」>
<西金砂山〜日立北IC>
<日立北IC〜北茨城IC〜花園神社>

「8月のたわごと」(茨城北部3)
<北茨城市「花園神社」@滝と渓流>
◆義光@、官職を捨てて兄・義家の援軍に駆け付けるの段
<「花園神社」A楼門から拝殿まで>
◆義光A、助けた兄・義家に言い負かされるの段(笑)
◆義光B、今度は貴族に忠義を捧げてみるの段

<「花園神社」B本殿>
◆義光C、結局地元(身内)の抗争に身を投じるの段(^_^;)
<花園〜常磐道〜常陸太田>
◆義光D、兄・義家が死んだ途端の超黒幕な暗躍劇!
<馬坂城跡>
<佐竹寺>
<2日目夜〜3日目朝、笠間市「ぶんぶくの湯」の宿>

「10月のたわごと」(茨城北部4)
<「ぶんぶくの湯」A、霊泉と「源九郎・意成大明神」>
<笠間から、再び常陸太田へ>
<「太田城(舞鶴城)・本丸跡」(太田小学校)>
<「太田城(舞鶴城)・二の丸跡」(若宮八幡宮)>
<昼食・太田街なか「石打うどん」>
<佐竹氏歴代の墓所「正宗寺」>
<正宗寺「佐竹氏一族と佐々宗淳(助さん)の墓所」>
<西山荘>
「11月のたわごと」(茨城北部5)
<西山荘、2(つづき)>
<偕楽園@南門まで(千波湖〜梅桜橋)>
<偕楽園A南崖と見晴らし広場の夕梅(南門・櫟門・東門・好文亭前)>
<偕楽園B「好文亭・奥御殿」>
<偕楽園C「好文亭・東西塗縁〜楽寿楼」>
<偕楽園D「夜の梅」@梅林〜孟宗竹林>

読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さて前回、去年(2014年)の3〜5月(春)を一気にやった続きで、今回は5〜8月(夏)をお届けしたい(^^)。

まずは前回、最後の予告でも言った通り、5月、松戸市の「境根原古戦場」跡、6月、印西市の「上宿古墳」。

6月はアジサイに始まり(^^)、ちょくちょく用事で行く東京の、今回は北千住(足立区)と池尻大橋(目黒区)のレポ。池尻大橋は、震災直前に、高速道路のジャンクション建築計画を見たのが完成されてたので(^^ゞ。

続いて、千葉県船橋市の「船橋城」跡と「花輪城」跡。
7月に入って、印西市の曽谷ノ窪という遺跡。

8月に入って、盆踊り、サルスベリ、夏雲、今年も台風前の夜雲。
そしてこれまでも時々夏の風景としてお届けした、手賀沼蓮の花を見ましょう(^^)。



■5月・千葉県柏市・松戸市
<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)>


およそ16年前、それまで長らく離れていた松戸に戻って来て、わりと最初の頃に、この地名(というか合戦名)を知った。
子供の頃や学生の頃は……たぶん知らなかった(^_^;)ゞ。

で、戻って知ってからは、ここを通っては、「この辺りが合戦の跡地なんだよ(^^)」と言ったりしたもんだが、周りは住宅地だし、麗澤大学(地図)の構内が中心地とも聞いていたので、「一般人には入れないね(^^ゞ。名はあれど、偲ぶ縁(よすが)は無し」といった具合に思っていた。
(2007年1月<柏、酒井根の風景>(06/10追加))

ところが、とある団地の前を車で走っていたら、急に亭主が、「ここ掘れワンワン▼o・ェ・o▼」……じゃなくて、「今、合戦がどうのこうのって字が見えた!」と叫んだ。
ちょうど、その近くで買い物して帰ろうとしてたのもあって、案内の立ってた所から団地内に入ってくれて、見付けられた。

光ヶ丘地区の団地内に入る
中心地にある運動場

このグラウンドの先に見える森(地図)がその跡地である。
鉄道だと、東武野田線「新柏」か「増尾」から15分強ぐらいかなぁ……。

この右側→の小さい森ね(^^ゞ(パノラマ縦4枚)

この先、右側に在ったのは、「塚」であった。(↑ここからも、ちょっと盛り土が見えるよね)
激戦地によくある、「首塚」とか「胴塚」だったのだろう。

以下、枠でまとめた部分は、現地の教委(柏市)の案内板による記述↓(太字や地図リンクは私が入れました(^^ゞ)

 現在は光ヶ丘地区となっていますが、このあたり一帯は「酒井根合戦場」(地図)といわれ、ここにあるような小塚が数十もありました。

「小塚が数十」というのは、合戦跡地としても少なくない方と言えよう。続けて……、

 酒井根原合戦場と言われているのは、穀倉地帯である下総国を求めて太田道灌千葉孝胤が一戦をかわしたところからこういわれています。この戦いの最も激戦の地は、現在の麗澤大学地図の前(小字赤作)あたりとされています。
 当時の模様は、松戸市小金の本土寺地図の過去帳に「文明15年(1478)12月10日於境根原打死諸人等皆己成仏云々」とあり、また鎌倉大草紙に「太田道灌は、国府台地図)よりはせ向かい、合戦終日、木内(千葉勢)ことごとく討ち死にし、千葉孝胤は臼井城地図)に退いた」とあります。

塚跡地の端、運動場に近い側で、フェンスに囲まれた「井戸」がある
「災害用井戸」で、「飲用が出来ない」と、「都市機構・松戸住宅管理センター」の注意書きがあり、塚との結びつきは書かれて無いから、最近の物かな(^_^;)。

 戦いに勝った太田道灌は、戦死した者の霊を弔うため、敵、味方の区別なく首、武具をそれぞれより分け、首塚胴塚刀塚としたと伝えられています。
 その一部と伝えられている塚がここに保存されています。 地名の「酒井根」は、ちょうどこのあたりが相馬郡葛飾郡だったことから「境根」と呼ばれたそうです。

そして、今出した写真の井戸↑が当時から続く物かは分からないが↓

 また、合戦に勝った太田道灌が乾いたノドを酒井根薬師堂近くの井戸の水でうるおし、まるで酒のようにうまかったので以後「酒井根」に変わったなどの言い伝えが残っています。

「酒のように美味」と聞くと、これより4キロ半ほど南に行った常盤平(松戸市)にも、湧き水なのに、父親が酒のように美味しがって飲んで酔っぱらい、子が飲むと水だったという、「子和清水」(地図)の伝説がある。

そこは今では水が枯れているので、伝説の根拠や地下の水脈がここと同じかはよくわからない(^_^;)。
が、江戸期の生鮮(なま)街道では、子和清水で輸送中の鮮魚に冷水をかけ、鮮度を保ってから江戸方面に運んだというから、子和清水の方は江戸期には、よく知られていた場所だったんだろう。

さらに道を進み、塚を正面から撮る(パノラマ3枚ほぼ180度)

だから、
酒のように美味い「子和清水」の伝説→4キロ先の合戦地「境根原」で太田道灌が勝利
……というのが混ざって、道灌が水を飲んだら美味だから「酒井」に変化……こんな風に連想されたのかな、という気もしなくはない(^_^;)ゞ。

しかし子和清水や酒井根に限らず、北総地域には井戸伝説が凄く多く、七不思議だとか将門にちなんだ話をよく見る。
前回も書いた如く、野馬の放牧地だったので、馬たちの水飲み場の確保に適した環境だったのだろう。

井戸水の話の後は↓

 また、平成11年、12年度の団地建て替えに伴う財団法人千葉県文化財センターの発掘調査によって中近世と思われる道路状遺構、溝状遺構、土抗などの遺構や常滑・渥美産の陶器、宝篋印塔、板碑、銭貨などの遺物が確認され、交通路あるいは墓地に利用されていたことが明らかになりました。
 このように本地域と歴史上の太田道灌とのつながりは深いものが見られます。
柏市教育委員会

さらに近付いてよく見ると、左に一つ、右に一つ、塚が見える(パノラマ4枚180度以上)

こういう合戦の塚は、関ヶ原・姉川・川中島などでも見た気がするけど、東京の近辺となると、伊勢原(神奈川県)の太田道灌の首塚・胴塚を思いだす。……というか、咄嗟に他に思いつかない(^_^;)。

それぐらい、太田道灌ゆかりの塚というのは何か印象的で、そういや臼井城(千葉県)にも道灌の弟、太田図書の墓というのがあったのをよく覚えている。

太田氏というのは、どうもあの源三位頼政の子孫であるらしい。
北関東から東北にかけて、頼政ゆかりの神社というのがやたら多いのは、もしかすると、このような慰霊を念入りに行う家系なのか、ゆかりの塚やら墓所・神社やらがよく残っている事と関係あるだろうか。

道灌と頼政なんて、わざわざ関係づけて考えて見た事もなかったが(^_^;)、よく歌を詠む武人であった点、そして非業の最期を遂げた点は共通してるかなぁ……。

改めて、向かって左の塚(拡大)↓
右の塚は奥まってるので、近くに寄って撮影→

来てみて、「知って良かったな〜」と満足し、かつ、地元ならではの気の効いた内容と思ったのは、一般的に「境根原」と書かれる地名が、なぜ、この現地で「酒井根」と書かれるのかという説明だった(^^)。

実はこの地域に来ると、「酒井根」と標識を出すバスを見ることがあって、「境と酒井はどっちが正解(゚.゚)? それともエリアによって違うの?」と思っていたのだ。
それが本日、めでたく氷解(^_^A)。

それと、今は見掛けなくなったが、ここに戻って来た最初の頃、ここ酒井根と子和清水のちょうど中間の、小金原あたりに、「太田道灌」という地酒の看板を出すお店があったのを覚えているからだ。
きっと、この伝説にちなんで作られた地元の酒造だったんだろうね〜☆ミ

逆に、ちょっと残念に思ったのは、この「境根原の戦い」自体の説明が希薄だった事だ。
(麗澤大学の方に、本格的な何かがあるのかもしれないが)
国府台合戦ほどじゃないまでも、この合戦は、千葉北西部を舞台として繰り広げられた戦闘として、それほど小さい出来事とは思えない。

……というわけで、次項は晩春の風景とともに、この「境根原合戦」の背景について述べて行こう(^^ゞ。



<境根原合戦について>

「境根原合戦」の名が現れるのは、教委の案内板にもあった通り、文明15年(1478)12月の事である。

この合戦、「太田道灌と千葉孝胤の間で行なわれた」で正しいのだが、やはりこの二人の間だけで片付けてしまうと、「なぜこの二人なのか」がわかる人は居ないんじゃないか、とも思う(^_^;)。。

この境根原合戦の前には長尾景春の乱、後には臼井城の攻防戦も行なわれ、さらに後には長南武田氏も攻略されており、これらの戦いには全て連続性がある(^_^;)。
(2007年1月<臼井城跡>・「千葉県の動乱」<長尾景春の乱、江古田沼袋・境根原・臼井攻城戦(1476〜1480)>

太田道灌の背景には、道灌が家宰を努める主家・扇谷上杉氏があり、その宗家・山内上杉氏がある。
二つの上杉氏と道灌は、ともに、古河公方・足利成氏と戦っていた。

いわゆる古河公方足利氏×関東管領上杉氏の抗争である。

柏市で見付けた。ピンクの小さい花いっぱいの樹。
もう5月で桜じゃないような……。綺麗だね(^^)。

振り返れば、古河公方・成氏の父、鎌倉公方・持氏も、上杉との間で戦闘状態(永享の乱=1435年)となり、持氏は敗れて自害した。
(2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内・「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>
それが、成氏を鎌倉に迎えて公方とした頃(だいたい1447年頃)のみ、上杉氏は幼い成氏を補佐すべく関東管領に就任し、古河×上杉の対立にも、一時の平和が訪れた。

しかし成氏が成長すると、享徳の大乱(1454年)によって、上杉との間に再び戦闘が起こり、以来、関東は各地で、古河公方×管領上杉の長い戦争状態に陥った。
(「千葉県の動乱」vol2<享徳の大乱(1454)>

それが「境根原合戦」の起きた、この文明15年(1478)は、長らく対立していた古河成氏と上杉氏の間で和解が成立し、それ以降、成氏は朝敵とされた汚名も晴らしていく段階に入る。

ところが成氏に、上杉氏と和睦してもらっては困る人達もいた(^_^;)。
この上杉氏を新たに敵に廻しはじめた長尾景春や、成氏とともに上杉氏と苛烈に戦いあった馬加康胤の孫・千葉孝胤であった。

長尾景春のほうは、長尾氏独自の問題と言えなくない。
長尾氏は山内上杉氏の家宰であったが、景春はこの家督継承を叔父に奪われてしまったため、その裁定を下した山内上杉氏を相手に叛乱を起こした。

つまり景春は自分が上杉に叛きたいがため、ここに来て、急に敵対勢力だった古河成氏を頼ったのだ。

こちらは例によって、手賀沼・曙橋付近(地図(パノラマ3枚ほぼ180度)

が、千葉氏に関しては、そもそも古河成氏と上杉氏の戦いのトバッチリで市河合戦(1455年)が起こって、二つに割れた。

古河公方を支持したのが馬加康胤千葉孝胤はその孫と見られている。馬加氏は房総に残って、千葉宗家を奪取した。
一方、上杉氏を支持した千葉宗家は滅び、その子孫は武蔵に落ち伸びて、武蔵千葉氏となった。
その後も馬加氏武蔵千葉氏が争い合う状態が続行されている。
(「千葉県の動乱」vol2<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>

<千葉>
氏胤┬満胤┬兼胤┬胤直(※)┬胤将
   |   |   |      └胤宣(※)
   |   |   └胤賢(※)┬実胤
   |   |          └自胤(武蔵千葉)
   |   └康胤(馬加)┬胤持
   |            └輔胤
   |              ↓
   ├重胤(馬場)…胤依…輔胤−(佐倉)孝胤−勝胤−昌胤−胤富(海上)−邦胤−重胤
   └胤高(原)−胤親−胤房┬胤隆−胤清−胤貞┬胤栄
                   └胤宣(手賀原?)  └胤親?

(※)←市河合戦(1455年)で滅んだ千葉宗家出身者

だから、「太田道灌×千葉孝胤」で間違ってないんだけど、本来は……、

山内・扇谷上杉×古河公方足利成氏
太田道灌    ×長尾景春
千葉自胤(武蔵)×千葉孝胤(房総)

↑こう書いたほうが、より実相に近い気が……(^_^;)ゞ

文明3年(1471)には、成氏が鎌倉を出てから本拠としていた古河城が、長尾景信(景春の父)に攻められて落ちてしまい、成氏は一年近く古河城に戻れない事があった。
そんな成氏が頼って落ち伸びたのが、千葉(佐倉か?)の千葉孝胤だったのだから、彼は古河公方の与党と言える。

もちろん鶏が先か卵が先か、明瞭な所は何とも言えない。
上の権力争いに下が巻き込まれる事もあれば、逆に下同志の抗争に公方が担がれる事もあろう。

それに敵との交渉において、部下への成敗や切り捨てを条件にあげるのは常套手段でもあった。
享徳の乱の前、成氏を暗殺しようとした長尾景仲(景信の父・景春の祖父)の所領を、景仲の上司・上杉憲忠が、成氏に返せと言って来たり、返さずにいると景仲が寺社領を横領するので、成氏がその処分を憲忠に命じても、憲忠が応じない、という遣り取りがあった。

古河成氏も、同じ反上杉勢力として自分を頼って来た長尾景春の要請を受け入れ、律儀にも上杉を相手に出陣している。

対岸の丘に天空より光が差して神々しい(^^)
この雲間からの光線がず〜っと見られ、早く写したかったんだが、今イチな風景が続いてる間にここに来て、漸く写せたら、光の線が凋んでしまった。。

しかし、そのすぐ後に成氏と上杉勢力との間に和解が成立し、やがては京(の足利本家や朝廷)との和解・復縁となっていく。(京との正式な和解成立は、1482年となる)
長尾景春は成氏に見捨てられ、千葉孝胤に至っては、上らされた梯子を下ろされたとも言えなくない。

しかも境根原合戦で千葉孝胤が負けると、勝った上杉側の武蔵千葉氏の千葉自胤(千葉孝胤のライバル)が、太田道灌と共に臼井城を攻め下し、長南武田氏(これも古河公方勢力)を降参させるに至っている。

何しろ、この境根原〜臼井〜長南の戦いでは、古河成氏が、上杉方になったとまでは言わないが、もはや反上杉連合のボスではないので、説明版に「古河公方×管領上杉」とは書かれない(個々の武将名が記されるに留まる)のかもしれない。

しかし古河公方と上杉の対立は膠着状態に陥って長い時間が経過していた。
ここにきて、古河公方と上杉とのあいだに、急転直下で和解が成立した下地には、これらの者たちの叛乱が要素した可能性はあるかもしれない。

特に長尾景春の乱のほうは、それまで結束していた上杉態勢に現れた、初めての綻びと言え、時機的に見ても、上杉氏内部にとって小さくない不利をもたらしたと思う。
上杉内部ではこのあと、太田道灌が粛清され、両上杉(山内×扇谷)の対立など、内輪の反目が起こるのだ。

今や京も、応仁の乱後の復興が急務だっただろうし、京から送られて来た堀越公方も伊豆一国におさまり、全体が最早ひたすら古河公方を追認せざるをえなくなっていく(^^)v。

だから結果から振り返ると、長尾景春や千葉孝胤の起こしたこれら軍事行動(叛乱)は、古河公方・成氏を朝敵の汚名から脱出させる好機になったと見る事もできる。

「境(酒井)根原合戦」については以上(^^)。

以上、関連事項は(06/10追加)
2005年10月<石神井城(東京都)>内以降
2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内
2007年1月<臼井城跡>内以降、および<柏、酒井根の風景>
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内以降
2007年10月<真里谷城跡>内
2007年11月<久留里城>内
2008年6月「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降
2009年10月<千葉氏館跡(千葉地方裁判所)>内
2009年12月<中島城跡>内
2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内
2014年3月<皆野に向かう(鉢形城・寄居・長瀞を抜けて)>内




■6月〜7月・千葉県北西部・東京都心
<印西市「上宿古墳」>


今度は、この頃よく通るようになった、印西市の大森から(^^ゞ。

よく通る道路の曲がり角に、史跡らしきを示す標識がいつも見えるので、亭主に車でちょっと路地に入って貰った(^^)。地図

閑静な住宅地の合間に空き地があり、その奥に(パノラマ4枚180度以上)

……あるのが、「上宿(かみじゅく)古墳(パノラマ3枚ほぼ180度)

ただし奥まで入って行くと、普通のおうちがあるので、「おおっ」と驚く(^_^;)。

門の所に案内板があって、古墳の説明があった。これはそのまま提示するね。

上宿(かみじゅく)古墳
 大森上宿の竹林の中に存在する上宿古墳は、横穴式石室(埋葬のための部屋)を持つ方墳です。この古墳は木下貝層から切り出した石材(貝化石)を積み上げて造った石室が良好な状態で残っています。
 このような横穴式石室を持つ古墳は、7世紀後半に造営されたものと考えられています。昭和48年(1973年)に印西町(当時)によって町の史跡に指定されました。
 この古墳は、個人宅内にありますので、マナーを守って見学しましょう。
【出典:印西名所図会(一部改製)】
印西市

(案内板にあった写真↓)
じゃ、実際に現物に近付いてみましょう(=^m^=)→

↑上のは発掘調査をした時に撮影された物だろう。現在は……↓

←手前を竹襖で仕切りされた、その奥に……↓
草に覆われた洞穴らしき暗がりが仄見える。
一般のお宅なのだから、門から一隅を見せて頂けるだけでも有難いよね(^^ゞ。

鉄道は、JR成田線「木下」駅から、徒歩20分ぐらいかなぁ。

(関連事項リンクは、この後、↓下の方で夏にもう一ヶ所「曽谷ノ窪瓦窯跡」という遺跡に行ったので、そこでまとめて出すね(^^ゞ)



<北千住宿場町(サンロード商店街)高札場>

時々、東京にいく事はあるが、だいたいあまり写真を撮ってるゆとりがないか、撮っても断片的すぎてレポにできないケースが多い(^_^;)。

この時は、まぁまぁまとまった枚数が撮れたので、レポしてみよう(^^ゞ。

北千住駅の裏通り
サンロード商店街」(地図

足立区である。JR常磐線と地下鉄千代田線の「北千住」駅の裏通り。
レトロな建物が残り、和物の幟や旗が多い。
戦国末期〜江戸期は宿場通りだった。通りの各所に、そうした地域の歴史の説明がされた標識が建てられている。

年代物の建物を使ってオープンされてる「お休み処・千住・街の駅」(@「千住宿.com」)では、小さいパネル展示所が設けられ、地域にちなんだ各種のパンフレットも並べられている(^^)。

中でも街灯ごとに立てられている「千住宿を通った大名とその家紋」という案内が、宿場通りを特徴づけていて、面白かった。
全部で幾つぐらいあるのか確かめてないが、とりあえず写した写真には、福島県(磐城)の三春五万石、安東家(元・秋田県出身)の家紋があった。

……で、詳しい場所を覚えてないが、だいたいこの辺に→地図

先住宿・高札場」とされる一郭
特に当時の門というわけでもないようだ(^^ゞ

この門を潜っても、奥に続く細長い公園に出るだけで、特に旧跡を裏付ける建物や礎石などがあるわけではなかった(^^ゞ。

でも恐らく、「昔はよく高札を建てられた跡地」という事だろう。
傍にあった案内板には、「明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを提示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました」とあって、すぐ周知されるべく、出される場所が常に一定していた事がうかがえる。

現在、こんな風に目につきやすい場にしてあるのも、昔の何があった場所が今どこにあるのか、ビルが建ち並ぶとまるきり判らなくなるからだろうね(特に都内入った途端そうです(^_^;))

門を潜って公園に進むと……
なぜにタコの滑り台?(笑)

傍にあった案内板によると、「江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まった、といっても過言ではありません」と書かれ、慶長二年(1597)に人馬引継駅となって以来、栄えたそうだ。
寛永2年(1625)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄したという。

学生の頃、千葉県から出て行くと、都内の入口が足立区だから、綾瀬や北千住は馴染みの土地だった。
松戸からは千代田線だが、北千住で交差する路線を使う友人には日比谷線を使う人も少なくなかった。

日比谷線は東武線と乗り入れ、その遠い行き先に「日光」なんて字を見て、「遠いなぁ」なんて思ったものだったが、江戸時代から千住という所は、日光にいくために設けられた宿場だったんだなー、と今頃思うのだった(笑)。

他に、「街の駅」で貰ったパンフ類には、色々気になる千住の歴史が書かれていたが、一番気になったのは、「千住」の語源を、「千葉氏が住んだ」に由来する、という説があるらしい事(^^ゞ。

これも又、さっきの境根原合戦で話した、武蔵千葉氏(孝胤の敵・自胤など)を指すようだが、俗説と言うか……迷信のような物っぽい(^_^;)。
こちらに詳しい→「室町時代の千住」@「千住宿.com



<池尻大橋ジャンクションと目黒天空公園>


さて、今度は2011年の冬……ちょうど東日本大震災の直前に、上目黒の「氷川神社」(目黒富士)を見に来て、その周囲の環境を一緒にレポした所だ。

前、2011年10月号で出した写真が判りやすいので、文章ごと切り取って持って来た(^^ゞ↓

←これが完成イメージ図で、この計画はネット上にも公開されてる。

すなわち、「大橋ジャンクションでつながる、再開発事業とまちづくり」がそれで、ジャンクション建設の他に、地上27階(3〜27階が住宅地)と42階(11〜41回が住宅地)のビル建設が進められる。

二大ビルには、住宅の他、店舗や事務所、駐車場、公益施設などが含まれ、二つのビルの合間に、ジャンクション道路が円周トンネル内に作られ、その屋根部や円周トンネルの内側に、排気ガスや騒音を軽減すべく、緑地や市民広場を設け、地域に還元利用される計画のようだ(^^ゞ。

イメージ絵の様子(推進過程で変更アリ)では、ショッピングモールや公園の他、桜並木なんか作るようだ(^^ゞ。

この時は、高速道路のジャンクションやビルを建築中で、現地の図面にあった完成予定図と、建築途中の写真を出したが、それが今はすっかり完成しているので、改めて再レポ(^^ゞ。

まずは地下鉄の「池尻大橋」駅から地上に上がったトコ↓

日本で一番有名な246号線(笑)に出る(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)

この真ん中の円柱っぽい大きな建物↑が、すでにジャンクションの下半身かと。上部が立体交差状に入り組んでるのが見てとれるよね(^^ゞ。

進路は↑ここから←こちら方面にいく。左に見えてるビルが目的地(地図

←ジャンクションの下(^^ゞ。進むと右の円柱建物を過ぎた辺りに……
↑こんな壁が見えて来る。建築中だった頃(2011年)には、完成予定図などがズラーッと貼ってあった(^^ゞ

建築中(2011年)のレポはこちら→(2011年10月<東京「上目黒・氷川神社」の「目黒富士」>

この壁にはこの通り、自然を象ったかのような、和風庭園のような、美術館のようなデザインがされてて、こたつが気に入ったのは……↓

カタチュムリだじょーん(#^.^#)
同族・同族(^。^)v☆ミ

以前、ジャンクション建築に絡む再開発計画に見た通り、多くの家屋や商店・企業・施設などをどかして建設された事が想像される。

そこで、区民の皆さんにできるだけ居心地のいい、緑多い環境を演出しようと、地味な所で「自然と共生」みたいなモチーフを用いているのかな〜と(笑)。

何しろそうやって、せっせと歩いて来ると、↓やや広い一帯に出る。

歩いて来て振り返った構図↓(パノラマ縦横6枚180度以上)

この立体道路の下を、ちょうど真ん中あたり歩いて来た↑。
↑この左のが前は建築中だったビル(クロスエアタワー)で、一階はスーパーマーケット。

……スーパーの中に入ったら、まぁまぁ広さもあり、都内では妥当(良心的)な値段の品が多かったんじゃないかな(^^ゞ。(もっと安い物を買い慣れてる千葉県民にはちょっとアレだが:笑)
あと、輸入品やちょっと高級志向のブランド品なんかも勿論あった。(この頃では千葉でもこういう店増えたけど(^_^;))

で、これより、この左のビルに入って上層階に上がるけど、上にいっちゃうとどこにいるのか判らなくなるので(^^ゞ、先に見取り図を提示。

←ピンクの字は私が入れました(^^ゞ。
山手通りと国道246の交差点に「クロスエアタワー」(←これより入るのはこっち)と「プリズムタワー」の二つの高層ビルが建てられ、その合間に、ジャンクション道路と、その上に設置された「目黒天空庭園」がある。
↑「目黒天空庭園」の見取り図

天空庭園の見取り図は、チマチマと名称が書き込まれるのみで、どういう場所かよくわからないので(^_^;)、目黒区の行政サイトから→「目黒天空庭園・オーパス夢ひろば」←こっちが仕切りごとに詳しく解説されてる。

ちなみに「クロスエアタワー」ビル内には、目黒区役所出張所がある。ビルから出ると……、

「天空庭園」に渡る橋が、まず視界を遮る↓ (パノラマ4枚180度以上)

橋の欄干は背の高い透明素材で仕切られており、渡る時に左右の景色が垣間見られる。

左には大都会の下界が
右はジャンクション道路がモロ(゚.゚)!

渡ると、左方向に進行路が続く↓


奥に進むほど下り坂になるので、背景のビル街が見渡せて、まさに「天空に浮かんだ」錯覚が得られる(^^ゞ。

この庭園、続けてもっと歩くと、きっと奥が円状に続いて、色んな風景が楽しめそうだが、この日はここまで撮った後セカセカ帰った(^_^;)。

都内は駐車場が無いし、在っても(しかも運良く空車でも)、料金がバカ高くて長時間は停められない(^_^;)。
電車はすぐ混む時間に入るし、ゆっくり散歩してる時間が無いのが残念。。

こんな東京でオリンピックなんて、とてもじゃないが正気の沙汰とは思えない(苦笑)。
世界各国から大勢が、思い切りガッカリするため、日本の印象を最低にするために来るんだねぇ(^_^;)。。

私も次はいつ来られるかな……(笑)。

以上、関連事項は(06/10追加)
■東京方面(皇居〜世田谷など)
2004年12月<そこに、なぜか「世田谷観音」(爆)>
2005年3月<東京>
2005年11月<駒沢公園(東京)>
2011年10月<クリスマス前の東京(皇居東面)>および<東京「上目黒・氷川神社」の「目黒富士」>
2012年1月<御茶ノ水(神田明神まで)>
2012年7月<ハロウィンの頃まで>
2013年9月<初詣A「神田明神」拝殿に到達まで(笑)>以降




<船橋市「船橋城跡・将門の松(城ノ腰松?)」>


千葉県北西部に戻るが、↑名はあれど、遺構は殆ど無く、僅かに名残りがあっても、史料・伝承は全く無し(^_^;)。
よって、当地に案内板などは全く無いし、そこにいる人すら、城跡と知ってそこにいるわけではなかった(笑)。

この城に限らず、東京都にもっとも接近してるせいか、船橋市の城跡は残存例が薄く、史料の裏付けなども殆ど聞いたことがない(^_^;)。。

それでも、あてずっぽうながら(笑)、東京湾に近付く南岸から、深く水入りのある海老川の河口近くに「船橋大神宮」なる神社があり、古くから「意富比神社」なるを祀っているという。(神社は船橋駅と東船橋駅の間を南に行った所にある→地図

この河口から海老川の流れに沿って城跡が点在し、神社の次に海から近いと思われるのが船橋城と花輪城……といった、いかにも大雑把なアタリ(^_^;)ゞ。

まず二つの内、海からやや遠い「船橋城跡」に来てみる。……と言っても城は現在……、

船橋中央卸売市場」になっている(爆)(パノラマ3枚ほぼ180度)

地図←ココです(笑)。
築城年代・城主など共に不明。この通り、今は遺構のカケラもないが、かつては城跡があったと伝承され、そこに植えられていた松を、「城ノ腰松」と呼んでいたとか……。

昭和2年(1927)の大日本帝国陸地測量の記録に、この辺りの水田に「城ノ腰松」と書かれた独立樹があった事が載ってたそうだ。土塁跡もあったという。水城だったともいう。(確かに敷地を割るように海老川が流れている)

それらしき松を外側から探す。↑ここから見える樹木がそうか。(てゆうか他に入れる所が全く無い(^_^;))。。
……しかし、ここは一般車両が気軽に入って良さそうな場所とは思えない(^_^;)。。

そこで一旦中に入って、門番らしき方に「あの〜城跡がここにあると聞いたんですがぁ、あれがそうかと思うんですがぁ」とか言って見る。

「あれは……多分違うと思いますよ」と係員さんは言うものの、邪険に追い返すような感じの人じゃなかったのが幸い、快く中に通して下さった(^O^)<ありがとう〜!

そんなわけで、一応木の生い茂る一帯までは何とか近付けた(^_^A)。これがそうです→

樹々の下にあったのは「鎮魂碑」で、城(跡とされるココ)と関係ありそうでいて、係員さんの言われた通り、中近世の物ではない。戦中の昭和18年(1943)1月10日に起きた工場爆発事故による死亡者22名に対する物だ。

経過は、昭和15年(1940)に鴨川ニッケル加工鰍ェ設立、戦時下における飛行機部品の製作業務が開始。
事故は、戦局もたけなわで生産拡大、国民総力をあげていた時、電気溶鉱炉が爆発し、作業に当たっていた従業員22名が死亡するという大惨事であった。
鎮魂碑は同年4月19日に建立された。

大樹の群生は、この「鎮魂碑」の為の物と思われるが、お蔭で、木々の傍らに目指す「」も見付かった!↓

それがこれ、「将門の松」(爆)→

前方「鎮魂碑」を仰ぎ見るように手前に生え、傍に石碑も刻まれている。

曰く、

(伝説) 将門(まさかど)の松
此処にもと一本の大きな松があった。土地の人は「将門の松」と伝えてきた。平将門が戦乱の某日、この松の根元に腰を下ろし、身を休めたと伝えられる。
以来一千有余年の歳月が流れ、何代目かの巨松だが、この伝説の朽ちなんとするを惜しみ、長く後世に伝説を残すこととした。
なおあわせて、都市及び公共施設の緑化推進に多少とも寄与する所があれば幸いである。
平成10年10月吉日
船橋市中央卸売市場協力会

初見がいつかは勿論わからないが(^_^;)、文章に見る通り、松は老朽して代を番えている事が伺えるから、あながち新しくないのかもしれない。

それに下総国(千葉北部&茨城南西部)は、全体的に千葉氏や相馬氏の影響もあって、彼らが祖と謳う将門伝承があっても不思議は無い。

が、千葉や相馬に結びつけるには、船橋はちょっと軸を逸れてる感じもする(^_^;)。
それと、将門に関わる伝説というのは、明治以後や戦後など、東京が時代の新局面に乗り入れる時、エジプトのファラオの呪いみたいに甦る(てゆうか創出される)傾向がある(^_^;)。

船橋界隈だと、前に市川大野の本光寺の隣にも、将門伝説を持つ城跡があると書いたが、仏教宗門としては、日蓮宗が地域に根深いかな、と思える。
茨城あたりに行くと、今度はどうも南朝史跡(あるいは南北朝騒乱地)に、将門伝承が多いような気もする。

どうも日蓮宗とか南朝とかいうのは、どっちかと言えば、将門を逆賊呼ばわりする側じゃないかとも思う(爆)。

船橋は東京湾に面している。
湾を渡れば、将門の首塚のある大手町界隈である。昔はそこまで水域で接していただろう。
同じく、茨城は坂東(猿島)にも将門の胴塚というのがある。

つまり、例えば「ここ(か海の対岸)には逆賊の首が掛けられた!」とか言われた場所があったとして、そこに「(将門のようにならずに済むために)悔い改めよ!味方につけ!ヽ(`Д´)ノ」とエライ人が説法に来るとしよう。(日蓮とか北畠親房とか)

でも、地元の人間は、エライ人が居る間は、「そうそう(^_^;)」とか話を合せているが、居なくなれば、元々「逆賊ヽ(`Д´)ノ」とは思ってないので、「戒め」よりは「親しみ」の感情が優先され……

逆賊の首がかけられたっ!(((( ;゚Д゚)))

将門サマが座ってお休みになられたそうな(^o^A)

↑こう変わってしまうのかなぁ〜(笑)。 *ありがち*

……いや。今はそんな話じゃなかったハズだ(-_-;)。。
確か、「城ノ腰松」を探していたハズだよね(汗)。それはどこにいったんだろう。(続く↓)



<同市「花輪城跡(茂呂神社)」>

さらに南下して、↑に来てみる。(地図)。神社名は「茂侶」とも書く。

入口は南北に二ヶ所ある。我々は北から入ったが、順路としては南からだろう↓

狭い路地に面し、住宅地の合間を割って参道がある(パノラマ4枚180度以上)

「船橋城」にあったという「城ノ腰松」は、上に見て来た通り、「将門の松」の事だったのかもしれない(^^ゞ。

ただ、そもそも「城ノ腰」なるは、元は「地名」で、上に行った、船橋中央卸売市場船橋城跡)は、今では「船橋市市場1丁目」であるが、昔はその下に「字(あざ)城ノ腰(じょうのこし)」とついたらしいφ(。。)m。

この地名、「元は宮本町(花輪地区)にあったのに、いつの間にか船橋中央卸売市場(船橋城跡)あたりを指すように変わった」とも伝わるんだとか(゚.゚)?

てわけで、地名の元あった場所にある城跡と言うと、この「花輪城」跡が該当する(^_^;)。
さっきの船橋城跡もだいぶ南だったが、さらに海に近い所にある。

石畳の敷かれた参道をズズイと
……進むと、徐々に傾斜を上がっていく

今は城跡の西部に、この神社の敷地が残るのみだが、昔はこの東部(右側)を含め、東西約100m、南北約150mの台地にあり、廻りを切岸状に空堀が巡り、内部は四つの廓から成り、南北が堀切されていた事が、昭和9年(1934)の報告にあるそうだ。

参道は神社拝殿に続く途中、右側に空き地があって、昔は廓があった跡かなと思ったり……↓

(パノラマ3枚ほぼ180度)

ここも築城年代や城の持ち主など一切不明だが、神社については、拝殿に以下の由緒が書かれていた。

まず「三代実録」(900年代初頭成立)に、「下総国の茂侶神」に対し、「貞観13年(871)、従五位下→従五位上」、「元慶3年(879)、正五位下→正五位上」と、位階の上昇が示されている。

また、「延喜式神名帳」(900年代前半成立)には、「下総国葛飾郡」に「二座」として、「茂侶神社」と「意富比神社」をあげており、その頃には、この地に在った事が理解される。

いよいよ鳥居と拝殿が見えて来た(^_^A)↓
数段を登った境内には、先着の団体さんが大勢おられた。どうも地元の歴史散策会だったようで、中央で皆さんに説明してる方がおられた(^^)→

ちなみに、延喜式に「二座」として、ともにあげられている「意富比(おほひ)神社」の方だが、先にも示した、東京湾からの河口近くにある「船橋大神宮」(地図)を指すんじゃないかと(^^ゞ。

第二次国府台合戦の折(1564年)、北条氏政が、この船橋大神宮の神官・戸見(富)氏に対して、軍兵の狼藉を禁じる制札を与えている(「船橋大神宮文書」)。

この「船橋大神宮」を河口とする海老川沿いには、このあと、夏見城・米ヶ崎城・高根城・金杉城などが点在する。
これらの機能した時代や城同志の関係は不明ながら、米ヶ崎城にやはり「意富比神社」があるようだから、軽率ながら推理すると、海老川に絡んだ神社という感じもする(^^ゞ。

参道を振り返る
御手水

団体さんは行ってしまい(^^ゞ、居残ってジックリ撮影(笑)
祭神については、「愛媛県越智郡瀬戸内海大三島祭神は、阿多の豪族・大山祇神の娘御子で、日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り、古来、縁結び安産子育ての神として地元民の崇敬する処でありました」と、まずあった。

正直、「何で瀬戸内海の事を持ち出すのかな(^_^;)」とは思ったものの、続けて、「摂社として祭神の姉命・磐長姫(いわながひめ)を祀り、小御嶽神社と申して居ります」と言う所を見ると、「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」でいいんだろう(^^ゞ。

さらに、「西北にある湧池は天の眞名井と称する当社の神泉であります」とあって、磐長姫はそういう(岩間から水が湧くみたいな)所に祀られる事が多いな〜とも思う。

最後の方に、「江戸名所図絵によれば年の始に隔年この神域より柳営に根引の岩松を撰び上納する旧例とすとあります」とある。

「江戸名所図会」は江戸後期の書物だから、「柳営」は徳川幕府だね(^_^;)。「根引の岩松」は、お正月飾り(門松とか)だろう。(これもどっちかというと、磐長姫っぽい喩えだが:笑)

以上が、拝殿に記されたご由緒(^^)。

本殿の裏手には、結構長い小路が北側に向けて続いていた(パノラマ5枚180度以上)

←こっち(北側)に抜ける細い小路で、途中に庚申塔が数体と、出羽三山(羽黒・月山・湯殿)参り供養碑などが並んでおり、出口の鳥居の手前右側に、浅間社が祀られている。

千野原靖方さんの「東葛の中世城郭」によれば、出口の鳥居あたりが、城跡としては「大手口」と呼ばれ、浅間社の脇が昔は小高く、虎口を防御するため櫓台跡が……、そのさらに右奥、自治会館がある平坦な辺りにはが各々あった可能性を指摘されつつ、昭和9年の報告の他に伝えがない事が惜しまれている。。

庚申塔と出羽三山参り供養碑、この右側にもズラーと並んでいた↓
裏手の鳥居を出て振り返ると、左脇にもう1個、鳥居が見える。もう一度入ってみよう→

もいっぺん→地図ね(^^ゞ。今、最北端にいる。↑ここを改めてもう一度入って、スグ左を見ると……↓

これが今言った「浅間社」。屋根の下を覘くと……
↑富士山の形だね(^^)。富士浅間社の祭神は、ここと同じ、「木花開耶姫」だもんね♪

辺りは坂がちょっと急で、この辺りは周囲から小高い所にあるのがわかる。
昔はここから富士山が見えたのかもね(^^ゞ。今も言った通り、この脇には、城があった頃は櫓台があって、小高くなってたと思われるらしいから。

千葉北西部の城跡や墓所などは、見晴らしのいい場所にある事が多く、冬の夕方は富士山のシルエットが一望できたりする。
松戸の高城氏の墓所や、国府台城跡なんかがそうだ(^^)。

ただ、この祭神についてだけど、800〜900年代の頃は、ストレートに「茂侶神」と書かれてたわけで、それが今はあまり明確でないのかな〜。

ネット検索(てゆうかwiki)で知った限りで恐縮だが、大雑把に述べると……(^_^;)。

茂侶神社」は千葉県に三社(流山・松戸・船橋)限りの神社であるらしく、前二社は大物主命を祭神とし、木花咲耶姫を祭神とするのは、ここ船橋だけだそうだ。

最北端の出口を又出る。左は宮本中学校の校庭(パノラマ2枚)

ついでに海老川河口にある「意富比神社」(船橋大神宮)の方は、東京湾の漁民に信仰を集めた太陽神だったらしいが、平安期に伊勢神宮に寄進され、夏見御厨が出て以降、天照大神への信仰が強まり、次第に社名も忘れられ、「船橋大神宮」とのみ認識されていったとか……。

「意富比(おほひ)」の神は、元はどうも「日照りに雨をもたらす」という、千葉県に多い神話が船橋にもあったようだ(^^ゞ。
「大日」と書かれるのも見る。これは今の江戸川が昔、「太日川」と呼ばれた事を思い出すね(笑)。

私の知る限り、北総の龍角寺(印旛郡)・龍腹寺(印西市)・龍尾寺(匝瑳市)が旱魃に雨をもたらす伝説であるし、うちの近くでは、布瀬の香取鳥見神社にも同伝承がある。
久留里城にも、同じような雨降りの奇跡を元にした築城伝説があった。

そして、この伝説のある地には、平将門がその地に居たような伝説が、ともに語られる。
この「船橋大神宮」(意富比神社)にも、頼朝や家康と並んで、「平将門が寄進・造営」とwikiに書かれていた。

房総は、平忠常の乱(1028年〜)で住民が激減したり、亡弊国と呼ばれた事で知られる。
鎌倉時代ごろに、古くを振り返って「平忠常の乱より前から在った」という認識を持てた宗教古跡に対しては、とりあえず将門の名がついてるのかもしれない。

水や井戸にまつわる伝説に、必ず行基や弘法大師・徳一が冠されるのと同じなのかもしれない。
(ところがそこに、日蓮や北畠親房が来て……以下略:笑)

以上、関連事項は(06/10追加)
■平将門(増えたのでリンクページ作った↓)
平将門の史跡・伝承・信仰・相馬(千葉)氏

■他、千葉北西部、戦国期の城跡・墓所など
2004年8月:広徳寺、高城氏墓所
2004年9月:徳蔵院、国府台合戦供養祠
2005年10月:増尾城
2005年12月:関宿城
2006年1月:実相寺・宗英寺(足利晴氏墓)
2006年7月:徳蔵院「藤塚稲荷」・国府台天満宮・総寧寺
2006年8月:国府台城・おせし様・龍泉院・弘誓院・箕輪城
2006年12月:師戸城@
2007年1月:師戸城A・臼井城
2007年6月:大谷口(小金)城・根木内城@
2007年7月:根木内城A高柳城
2007年9月:松ヶ崎城・根戸城
2008年11月:龍崖城・常圓寺・芝原(中峠)城・
2008年12月:柳戸砦・高野館・布瀬城
2009年6月:柴崎城・布施城
2009年9月:相模台城・千葉城
2013年11月:高柳城・矢の橋小森城大野城(本光寺)
2014年1月:小森城跡・名内城跡(手賀合戦)

2014年4月A:神々廻城跡
2014年6月:藤ヶ谷城(高柳城)手賀城




<アジサイ・カトレア・曽谷ノ窪瓦窯跡>

これより6〜7月にかけて、初夏の花々と風景をお届け(^^)。まずはアジサイからっ☆ミ


アジサイって、幕末にシーボルトが日本で発見したとか、その時すでに西洋にも、いわゆる西洋アジサイがあったけど、これも元は日本のガクアジサイが原種で、日本から中国に渡り、中国から西洋に渡って、西洋アジサイが出来たんだとか見掛ける(゚.゚)。

日本が原種ってのもスゴイけど、アジサイよりガクアジサイの方が原種ってのもビックリ!


ガクアジサイとかヤマアジサイとか、検索すると出て来るけど、写真だけ見ても違いが今イチわからん(^_^;)。。

でもアジサイの色って多いよね〜。基本は青・赤・白なんだけど、単にそれらの組み合わせという感じがしない。七色どころか、十色も二十色もあると思うっ☆ミ


お次は、休日ドライブでフラリと入った道にあった遺跡↓。場所は印西市。

曽谷ノ窪瓦窯跡(パノラマ4枚180度以上)

遺跡名のみで、説明板も何も無くて、この時は、何の遺跡だかサッパリわからなかった(^_^;)。

ネット検索で、どうも奈良〜平安期ごろ、瓦窯を焼いた跡らしい事を知った。
千葉北西部で古代遺跡と言うと、龍角寺遺跡印旛国造といった、やや東や南の方をイメージしやすいんだが、この木下(きおろし)駅あたり、遺跡の密集度じたいは高いのかも(^^ゞ。

この近くの遺跡の調査研究結果をわかりやすい書いて下さってる方がおられ、読んで参考になった。
PDFだけど(^^ゞ→「池ノ下遺跡

出土内容は遺跡によって違うんだろうが、この時代、不老長寿に強い関心を持たれ、呪術的な手法か、桃の種がいっぱい出土した話などが面白かった(^^)。

地図←場所はここ。遺跡の向かいが「天神幼稚園」だった。
ここもJR成田線「木下」駅、徒歩15分ぐらい。

←下手賀川のカトレア通り・白鳥達↓

梅雨も過ぎ、夏もいよいよ本番(^_^A)。

以上、関連事項は(06/10追加)
■初夏・アジサイ
2004年11月<アジサイ・ロード>
2005年5月<ガクアジサイ>
2007年10月<根木内城跡>
2008年11月<初夏の花々>
2010年12月<梅雨の風情(湖と蛙と紫陽花)>
2011年12月<小田原城にお散歩♪>
■千葉北西部の古墳・遺跡(ざっと(^_^;)ゞ)
2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内(明戸古墳石棺)
2006年12月<房総のむら>内(竜角寺古墳群)
2007年9月<手賀沼周辺散策・古墳と川べりの風景>内(水神山古墳)
   〃   <松ヶ崎城跡(柏市)>内(古墳跡)
2008年6月<子の神「延寿院」・子の神古墳>内(子の神古墳)
2008年8月<「廣幡八幡宮宗社」と「宮根遺跡」>内(宮根遺跡)
2009年10月<胤重寺>(七天王塚・前方後円墳)
2012年12月<手賀沼南岸・片山(北ノ作古墳群と南蔵院)>内(北ノ作古墳群)

2013年1月<「権現古墳」と庚申塔(前原公園)>内(権現古墳)



■8月・千葉県柏市・松戸市
<盆踊り・サルスベリ・夏の空>


ある夕刻すぎ、外を出歩いていたら、どっからか盆踊りの音響が流れて来たので、探して寄ってみた(^^ゞ。

住宅地の合間を割って入る路地
会場に到着、公園内に入る

地図←「松戸市クリーンセンター・テニスコート」の広場だった。
幅広いジャンルの運動場と言うよりは、散歩などにブラリと寄れる公園といった感じで、駐車場もあるので、私らも時々来ることがある(^^ゞ。

「盆踊り大会」と書かれ、付近の人も少しは見に来ていたが、この夜は予行演習っぽくて、役員用のテントに人はおらず、露店も無く、音楽だけが鳴り響いてた(笑)。

私も「今週末あたりやるのかな(^_^A)」と腹積もりしたが、そのまま行きそびれてしまった(笑)。

ただこの写真見て思い出すのは、8月になっても、あまり暑くなってなかった事かな。

……と思って、8月のご挨拶を見たら、

「日本経済が苦しいので、神様が電気代を免除\(^O^)/!
涼しい夏に感謝!(神様、出来れば次は冬を暖かく(^∧^)」

と題名され、

「途中、7月の終わり頃から8月23日ごろまでですか、すごぉ〜く暑い、死にそうに暑い日もありましたが(笑)、それ以外は涼しかったですね〜(^^ゞ。」

と書いていた(笑)。2014年8月のご挨拶

この日は8月の初め頃で、上記の中でも暑かった期間に含まれるが、この会場を探す前、まだ日が暮れてなかったけど、それほど暑かった覚えがない。

会場には入口が設けられ、広場は提灯がいっぱい(パノラマ3枚ほぼ180度)

この盆踊り大会は、入口に貼られた布に「高柳町会」とあった。
高柳町は柏市だが、このクリーンセンターのある松戸市東部は柏市に食い込み、あちこちで両市が入り組んでいる。

松戸でも奥地にあるから比較的開発が遅く、新しい町と若い家庭が多い。
盆踊りなんかあるのが、子供には夏の楽しみだもんね(^^)。

近隣、しいの木台のサルスベリがこの季節は見頃

同じく近隣、高柳で見上げた広い空と夏雲(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

↑右方向続き↓(パノラマ縦4枚)

関東の空は広く雄大で、風も多く雲の流れも壮観(^^)。

しかしこの後、8月は初旬から大型台風に見舞われ、日本各地で被害が聞かされた。
過去の天気図をネットで見ると、12号が先に来て、遅れて11号が来たような……。

これは8月7日の夜、西の空に現れた、横長の非常に明るい雲↓


この頃すでに、台風接近のニュースが続々入っていたので、この雲は「台風の影響」とハッキリ認識して見た。

ただこの年、なぜか千葉県は、他の各地で聞く台風や長雨の猛烈な被害を逸れる事が多かった。
逆に、他にはさほど被害をもたらさない異常気象が、千葉県だけに訪れる事も時々あった(^_^;)。。

房総半島って、列島の中でも東部に頭一つ突き出してるので、天気予報図を見ても、そこだけ雲がかかったり、逆にそこだけ逸れたりする事がたま〜にあるんだが、この年は、良くも悪くも、千葉県だけ仲間はずれが多かった覚えがある(^_^;)。。。

時間が経てば経つほど、ドンドン明るくなっていく(^_^;)

ピグのチャットでも、東北とか九州など遠い土地の人には、関東なんて全部同じだろうから(笑)、「大変ですね!大丈夫ですか?」と言われる事が多かった。

が、そう言う時は妙に空が明るく、逆に、「台風も去ってヤレヤレですね」と言われる頃、「うち今、真っ最中(^^;)」なんて事がちょくちょく……(笑)。

そうそう、台風が去ってからの方が風が強くなって、外出もヤバかった事があった。。
それが結構な長い期間で、「いつまでこうなの(^_^;)?」と思ったり……(笑)。

■不思議な空(2011年以降)(06/10追加)
2011年1月<夏の花・森・夕焼・月・花火>
2011年4月<晩夏〜初秋・手賀沼までの空と雲>
2011年9月<松戸市「祖光院」「カフェ・リビエラ」「庄や」>内以降
2011年10月<クリスマス本番〜年末>以降
2011年12月<晩春から初夏にかけて>および<夏の夕空・夜空>
2012年1月<夏空・夏雲>
2012年10月<GW突入、新緑と八重桜、震度5前夜>内

2014年4月<明るい夜空と虹と月>
2014年7月<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」>




<手賀沼の蓮の花(^^)>

毎夏じゃないけど、これまでも時々お届けしてきた、手賀沼の蓮花。

蓮の花は湖の南側、岸辺近くいっぱいに広がっているから、どこからでも見える事は見える。

手賀沼の南岸、サイクリングロード(車両禁止)(パノラマ4枚180度以上)

ただその中でも、上からも見下ろせ、湖の中にも入れて間近に花を見れる所がある。

地図←だいたいこの辺。
目印は内陸側の丘陵に見える「柏湖南聖地公苑」かな→

墓地・霊園ですね(^^ゞ。
はじめて手賀沼に来た頃、確か「城山聖地公苑」と名乗ってた覚えがある。

この辺で城跡と言うと、「箕輪如意寺城跡」というのがあるにはあるがφ(。。)m、それの事だったのか、それとも湖から見える手賀城跡の誤伝か……。
2006年8月<手賀沼>内(06/10追加)

今日は城レポじゃなかったわ。いや〜ねまるで歴史オタクみたいじゃない(^_^;)ゞ←違うとでも?

ま、何しろそういう霊園が丘陵に見える辺りで手賀沼に近寄り、土手の上のサイクリングロードに上がって見回すと、見晴らし台みたいのがあって(サイクリングロードからの写真が無くてスイマセン(^_^;))、そこから湖の中に橋が渡って入れるようになっている。

見晴らし台(湖側から撮影)
これが湖に入っていける湖上路(橋)

折り返すと↑見晴らし台↓が見える(縮小)
さらに折り返し点(水草が背丈の倍!)

手を広げてるのは私ね(^^ゞ。
見た目殆ど変化が無いが(笑)、この前年秋から、この年6月ごろにかけて12キロ痩せた。
いや、別に病気じゃなくて、ダイエットで(^_^;)。

太り気味だった頃、「周りがそう言わないのは、優しい人が多いから(^^)」と思いこんでたんだが、その割にはこれだけ痩せても何も言われない。

……やっと、「見た目に変化が無さ過ぎるから」だと気づいた(-_-;)。。
痩せ甲斐の無さについては、太ってた時は得してたと思えば帳消しにできるとして、「優しい人が多かったわけじゃなかった」と気づいた事は痛かった(笑)。

ではでは、あとはひたすら、出来る限り近付いて撮影致しまする(=^m^=)

風がそよいで、葉が充分にどいてくれるのを待って……パシャッ!

手前パシャリ、あの奥にあるのも葉がどくのを待って……パシャ♪

華麗に開いて頭を出す花
蕾のみ葉の下に立つ花

咲けば葉の上に出るわけではなく、ずっと下に居るままの花も……

そうだ。ダイエットで思い出したけど、この年は健康診断で引っ掛かって(^_^;)、再検査を受けた。結果は白だった。
同年代で未だに健診を面倒がってる友達とかいて、私も三年前ぐらいまではそうだったから、気持はわかる(笑)。

が、若い頃はともかく、年と共に各種の病気の確率が高まるわけだから、健診と保険の見直しは、出来るだけ時間を見付けてやっといた方がいいよね(^^ゞ。

エンエンと続く蓮の中の橋。葉が侵入してる(笑)(パノラマ4枚180度以上)

この道は湖の中に足場を組み立てた上に渡された橋(湖上路)だから、下は水(^_^;)。欄干から身を乗り出せば、当然水の中に落ちますえ(笑)。

よく来る手賀沼に、このような蓮の花見専用コースがあるものだから、ヨソに行っても、蓮池となると何となく足を伸ばして行って見る事があるが、今の所、ここまで広い蓮湖を見た事がない(^_^;)。。

まぁ私が行く所は、寺社や博物館の庭園か、せいぜい野外植物園だからかもしれないけど。

対岸まで群生してるかと思わされる手賀沼の蓮(笑)(パノラマ4枚180度以上)

まぁもっと高い所にある車両道路の橋なんか渡ると、ちゃんと水面が広〜く見えるから、こう見えてほんの岸辺だけ生えてるんだろうとは思うけど(^_^;)。

これはさっきの見晴らし台に登って、上から撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑このように、ちょっとやそっと高い所に登った限りでは、湖の向こう側にまで届くかのような蓮の勢いを感じる(^_^;)。

湖の中に深く繋がっている橋も、ここからはほんの入口付近しか見えないが、時々蓮の茂みの合間から、人がニュッと首を出したりして、「あそこにも道が続いてる!」と知らされる(笑)。

望遠で向こう岸を写す
蓮が無ければ船着き場の風情だが(笑)

↑向こう岸には、水辺に水鳥もいっぱいいて、見えている建物は、「水の館」(地図
夜に通ると、夜空に塔が聳え立って見え、「恐竜が壊しに来る!」という幻想をしてしまう建物←ブラッドベリの「霧笛」の事を言っている(笑)(2012年8月<手賀沼「水の館」と「天然温泉・満天の湯」>

蓮の花の見ごろは7〜8月(7月の下旬から8月上旬ごろかなー)だが、そう思って見に来ても、桜のように、特にどの時点が満開という感じではない(^^ゞ。

手賀沼で蓮の花が見られる、と知ったばかりの頃、
「一面がピンク色に染まるのかしら〜(#^.^#)」
「見てみたいね〜(^O^)」
と期待して来たら、全面が緑色でビックリした(笑)。

緑の合間からチラチラ顔を出す蓮の花
(拡大)特に葉が風に靡くと見える

サイクリングロード(土手の上の車両進入禁止道路)に戻って、しばらく散歩を続行してたら、一ヶ所だけ、蓮の群生が及ばない水辺が見られた↓

大きい樹の枝が水辺に届いて
蓮の侵入を妨げ、水面が見れる

サイクリングロードをしばし、「どこまで行けば水面が見えるかな〜」と言いながら散策したが、どこまでも蓮が広がっていて、車を置いた場所も気になったので引き返した(^_^;)。

エンエンと遠くまで見える蓮の海(笑)
(拡大)さっきの「水の館」がまた見える

9月ごろまで行けるかな〜と思ったが、時間がかかった割には8月までしか来れなかったね(>_<)。。

以上、関連事項は、また後ほどリンクしますですー☆ミ
(せっかく追い付いてたのに、また間空けちゃって(>_<)、なるべく張り追い付きますm(__)m)

次回は、前回も予告した通り、以前、「村雨丸伝説」でも触れた、白井市の「西輪寺太子堂」を(^_^;)ゞ。
そして9月に入って、街のハロウィン飾り、柏の「ニッカウヰスキー柏工場」、ジワジワ深まる秋の風景を交えつつ……。

いよいよ11月、日帰りで行った、茨城県古河市の、まずは「古河歴史博物館」(古河城跡)。
……古河では他に、あと三ヶ所ほど訪問したんだけど、どこまで入れられるかなー☆ミ

以上、関連事項は、(06/10追加)
■手賀沼の蓮・蓮花
2007年9月<手賀沼周辺散策・古墳と川べりの風景>
2008年12月<手賀沼南岸・蓮の花>
2009年12月<柏市「手賀沼」「下手賀沼」>
■他、「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」(増えたので専用ページにまとめました)


<つづく>

2015年02月20日(06/10追加リンク)
 
     






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