<2015年・城主のたわごと9月>




2015年5〜7月、増尾ニッカ通り・六実・手賀沼南岸のカフェ、

将門王都の津「大井」。足利ツアー初日は東京虎ノ門から!




     
  今回から、栃木県の足利市のレポをスタートするが、まず前半はこれまで同様、日常編の続きをいくんで……。

まずは定例(笑)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「古河編」1〜2
「4月のたわごと」(古河1)
■11月・茨城県古河市
<関宿を経由して古河へ入る>
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>
<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>


「5月のたわごと」(古河2・他)
<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」> ■11月下旬・茨城県古河市
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)、2>
<「長谷寺」(長谷観音)>
<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>
<古河総合公園A旧民家(中山家と飛田家)>
<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>
<古河総合公園C「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>
<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>
<鳳桐寺>
■11〜12月・千葉県北西部
<晩秋〜初冬の風景>

読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

pdf版)
各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さて、改めて今回の段に入ると……。
前々回は冬編(年末年始〜2月まで)、前回は春編(2月〜5月下旬まで)だった。
今回はそのさらに続きで、春〜初夏編(5月〜7月)をいく(^^)。

まずは、柏市増尾のニッカ・ウヰスキー柏工場で5月に行われた「ふれあい感謝デー」と、その近隣の観光地風なお店一帯(^^)。

次は、松戸市六実の六実駅周辺。相馬野馬追いの絵を飾った地元の着物屋さん初め、ちょっと懐かしい街の並び。

やがてアジサイの季節を迎え、手賀沼の南岸(柏市)のお洒落なパン屋さんに喫茶店、そして、将門の王城伝説地。

そして後半は、7月初旬の足利旅行編に入るが、実は足利市に入るのは最後の最後(^^ゞ。
日程は一泊二日だけど、一日目は東京に用があって、足利には夕方以降向かい、夜に着いたから。

よって、足利史跡の本格的なレポは次回以降になります(^_^;)ゞ。



■2015年5月・千葉県柏市・松戸市
<増尾ニッカ・ウィスキー柏工場「ふれあい感謝デー」>


通常この工場の周囲は森林が多く、工場の前通りなど人通りは多くないから、洒落た避暑地のムードが濃厚(^^)。(通行する車の量は少なくないけどね(^_^;))

それがこの日は、工場の内部も前通りも、たいそう人出が多かった。

一般人が工場の中に入れるのは、この「ふれあい感謝デー」だけだからだろう。
私らもこの日は、中にちゃんと入れて貰えた(^^)↓

門入ってスグ左手にイベント会場(^^)(地図パノラマ4枚180度以上

いつもの工場前はこんな感じ→(2015年4月<ニッカウヰスキー柏工場>
前の訪問時(2014年10〜11月ごろ)は、ちょうど「マッサン」(NHK朝ドラ)放映時だった。
門前の「土小たんけん隊」の案内で、「ふれあい感謝デー」は毎年4月下旬に行われると知った。

が、今年は5月に行われた。
近くのお店で聞いた所、毎年は4月なんだが、今年だけズレたようだ、というお話だった。

この5月には、もう「マッサン」も放送終了していたが、日程のズレには、何かドラマ人気と関係してたのかな(笑)。

千葉県のゆるキャラ「チーバくん」や
柏市の「カシワニ」も!

チーバくん達の背景が入口(門)↑で、続々とお客さんが入って来るのが見えるよね(^^)。

チーバくんは千葉県の、カシワニは柏市のマスコットキャラ。
あと、左でかかんでるのは、「さかサイ」君という消防がらみキャラのようだ(^^ゞ。名前は柏市の「逆井」だね(笑)。

チーバくんのプロフィール(@「千葉県ホームページ」より)
カシワニのプロフィール(@「かしわインフォメーションセンター」より)
さかサイ君のプロフィール(@「柏市消防局」)・ブログ(何と、アメブロだ(^_^;))

こちらは「シーポック」という
千葉県警のマスコットらしい

シーポック@(県警の紹介@「千葉県警」より)

「ふれあい感謝デー」は、日程表みたいのがあって、メニューに従い色々なイベントがされたようだが、終盤間近に近くの喫茶店から亭主と交代で見に来たので、ちょちょっと居て、写真を撮ったら引き上げてしまった。

それでも、この敷地に入ってスグ出会えるのが、沢山の屋台(露店)と正面のブラスバンド演奏と、このゆるキャラちゃんたち(^^)。

ブラバンの演奏がなかなかで、殆どの観客はこれを聞きに来てた。
観客の多くは、たぶん演奏する高校生の父兄さんたちだと思うが、演奏がこれまた立派で、次々と有名な楽曲が演奏されて、聞き応えがあった(^^)。

今年は甲子園でも、松戸から初出場の専修大付属高校のブラバンが、「あり得ない程スゴすぎる演奏」と、日本中をにぎわせたと聞く(笑)。
確かに、私らの時代からブラバンは熱心な地域だったかな。

この日の門前は↓この通り、大層な人出(パノラマ4枚180度以上)

↑門を出ると、この日は遊歩道が解放されて、この歩道をドンドン行き来する。
私もこれより、この左方向に行きます(^^ゞ。

去りながら、最後までブラバン演奏が聞こえて来た。
「ほたるの光」の演奏が聞こえた時は、「マッサン」の名場面や最終回を思い出して、ちょっとグッと来たなぁ〜(ノ_・。) 。。

この曲は、ドラマでは、「別れ」よりも、アイルランド語の題名「オールド・ラング・サイン」のモチーフ(古き良き昔を思い出し、旧友と杯を交わす)を重視していた。
さすがは日本ウィスキー生みの親・ニッカである(笑)。



<近くの喫茶「夢」と電車とジャズ演奏>

さて、先の遊歩道から道路に出て、さらにちょっと進むと……↓

こんな一帯に出会う↓(パノラマ4枚180度以上)

←こっちが「ニッカ・ウヰスキー柏工場」ね。→こう歩いて来ました。
今いるこの一帯、1〜2度入った事がある店があった。ちょっと高級志向だったけど、確か以前は蕎麦の専門店があった。

ずいぶん御無沙汰するうち、当時の蕎麦屋は他の店になったのか見かけず、今は他にも数件の営業店が寄せ集まっている。
私らは昼を食いそびれていたので、二階で軽食を取った。

ニッカ柏工場のある方向ね(^^)
一階「ネフェルティティ」(拡大)

「ネフェルティティ」は、「Nefertiti」と書かれ、カフェとカレーとジャズ演奏の専門店。
(エジプトの王妃の名前だよね(^^ゞ)

このあと、この一帯の方にお聞きしたお話では、食べ物はカレーだけだが、かなり美味しいという事だった。ネット検索でも、お客さんの感想に「すごく本格的な味」と書かれていた。

入口からちょっと覗くと……
竹鶴政孝・リタ」夫婦の写真

すぐそこがニッカ工場なので、ここで気を利かせて展示してるのかな(^^)。
ジャズ音楽の生演奏中だったのと、この時は二階(この上)の店で食事をしたので、こちらには入らなかったが、入れば、竹鶴夫婦(マッサンのモデルとなった実在の夫婦)の展示などが見れたのかもしれない。

何かニッカ創業にまつわる物が見れるかも?という期待があったので、ウチの近くでこういう催しをやってる事がわかっただけでも嬉しかった(#^.^#)。

我々の上がった二階に行こう。
二階には、こんなスロープから車ごと登れる(^^)→

左の屋根の下にある緑色の物は、ナント電車(゚.゚)!
廃棄処分になった物を引き取って展示してるそうだ。これは成田線かな☆彡

スロープ登ると、周りをグルリと5〜6軒のお店が取り巻く空間。

←こっちから登って来た(パノラマ4枚180度以上)

↑から、後ろを振り返るとこんな感じ↓(パノラマ4枚180度以上)

ざっと、軽食喫茶、カラオケ、アンテナショップ、手工芸・陶芸などのお店のようだ。
一階には、鯛焼きの看板が出ていたので、どれかのお店で営業してるんだろう。

我々は下のパノラマ写真の中央に見える「喫茶・夢」というお店に入った。
入口にあるメニューには、確か蕎麦もあったと思うので、昔この一帯で食べた蕎麦屋の蕎麦が、この喫茶店で食べられるのかも!(確か鴨南蛮が美味しかったのよ)

改めて「喫茶・夢」正面(拡大・地図
ホットサンドとサラダ・デザート

ホットプレートは和風の味付けで、とても美味しかった( ^,_^)ф。
この他に、お好みドリンク(アイスコーヒーを頼んだ)もついて、1000円ぐらいだったような。

メニューに出てる写真だと、サンドイッチとミニサラダだけなのに、実際に出て来ると、果物アリ、ゼリーに佃煮までついて、エライ豪華でビックリ!(普通、逆だよね:笑)

お勘定の時、「こっちをメニューの写真に出さなきゃダメじゃないですかー(≧▽≦)」と思わず言ってしまった(笑)。(いつも材料があるわけじゃないのかもしれないけど)

いつも通る森林道を見下ろせる窓(パノラマ4枚180度以上)

店内は、列車の車窓のように軽く仕切られて、円形なので、列車と言うより船のような感じで、眺めも良く落ちつける(^^)。

お店の方もお客さんも、ニッカ工場の「ふれあい感謝デー」のブラスバンド演奏の話をされてて、常連さんの集まる場所という感じがした。

外に出ると、オーナーさんが話しかけて下さり、さっきの電車の話、一階ジャズ喫茶のカレーが美味しいという話など、色々教えてくださった♪

柏や松戸は、新興住宅地と農業地が殆どだが、ここだけ箱根か軽井沢みたいに、ちょっとしたレジャー気分に浸れる場所だ(^^)。

以上、関連事項は、
■ゆるキャラ
2002年6月文内(かまめしクン)
2005年5月<五香から常盤平へ>内(パペット・マペットのウシ君カエル君)
2006年11月<大涌谷自然研究路、2>内(黒玉子)
2006年12月<房総のむら>内(ドラム)
2008年7月<八柱〜五香・さくら通り(松戸市)>内(まりもっこり)
2009年1月<スイーツ・タイム(^。^)>内(バイオガソリン)
2009年7月<南部「海禅寺」>内(守犬)
2009年8月<日頃の風景(手賀沼)から(^^ゞ>内(チーバくん)
2009年11月<犬吠埼灯台>内(うみまる)
2010年2月<平泉到着(^O^)! まずは「わんこそば」!(爆)>内(わんこきょうだい)
2010年8月<松戸運動公園>内(チーバくん)
2012年4月<柳津温泉に到着(^_^A)。2泊目夜>内(あかべぇ)
〃   <「圓蔵寺」の境内散策、「人形塚」「龍蔵大権現」>内(あかべこ・KISSペア)
2012年6月<川治温泉〜鬼怒川温泉、121号線を南下>内(かわじい)
2014年4月<B集結、鎌ヶ谷駅前「イーオン」通りと市役所の賑わい>内(かまたん)
〃   <鎌ヶ谷市役所で大団円(ノ^O^)ノ∠・*:.。. .。.:*・゜゚・*☆>内(かまたん)
2014年4月A<「印西(手賀川)水郷めぐり」C六軒川〜木下下船>内 (チーバくん・いんザイ君)
2014年5月<市川大野「本光寺」続報(^。^)>(木魚のぽっくん)
2015年1月<松戸市「常盤平さくら祭り」>内(ふなっしー)
201
5年4月<赤い軍団・チーバ君(笑)>(チーバくん)
〃   <11月の手賀沼、ススキ撮影>内(うなきちさん・いんザイ君・ふさだだしお・カシワニ)
2015年5月<晩秋〜初冬の風景>内(まっぴー)
2015年8月<春の花々〜高柳「善龍寺」>内(みのりちゃん・ふなっしー)
境界線が難しいが(^_^;)、以下は含みません。
ただの人形やヌイグルミ(おこじょなんて微妙だが)、民芸品および郷土玩具(赤ベコ・こけし・サルボボ等)、現代風のお守り・お札(将門クン・将門キューピー・日本代表ヤタガラス等)、彫像、風景(舟・建物・街灯・インテリア)の一部、農風景(かかし・稲束・田んぼアート)、案内板・標識・土産品などに描かれた挿絵(漫画タッチの真田十勇士とか)、漫画・アニメ・ゲームのキャラグッズ(妖怪キャラとか)、ただのコスプレ(祭りやイベントの着ぐるみや貸出および創作衣装など)
■増尾、ニッカ通り周辺(2015/11/06リンク追加)
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>
2008年8月<「廣幡八幡宮宗社」と「宮根遺跡」>
2012年10月<無難に近場で(笑)、まずは藤心>内
2015年1月<GW直前、増尾城・妙見堂跡>内
2015年4月<ニッカウヰスキー柏工場>



<六実「きもの川久」の“相馬野馬追い図”>

↑という着物屋さんがあって、東武野田線六実地図・松戸市)近くに、着物売り場の建物(地図)と、美術館の建物(地図)がある。(殆ど同じ場所と言えるぐらい近距離だが)

そのうち「美術館」の前に、↓こうした絵が飾られている。


このような説明書きがついている↓

     
  「このまちで野馬追いや将軍がお鹿狩りをしたころの話」

私達のふるさと東葛飾地方は、平安時代の頃から野生の馬が棲む広大な放牧場でした。
江戸時代から「小金牧」と呼ばれ、馬は一般に小荷駄用とか農耕用に供給されました。
またこの牧場は第八将軍吉宗を初めとして三人の将軍のお鹿狩りの舞台として利用されてきました。
さらに牧場の一部は集落地開放され、今日の台地内陸部の多くの街の基礎がつくられます。
知ってるつもりでも、意外と知らないことが多いふるさとのこと。
歴史をひもといていくと、新しいふるさとの魅力が発見することができます。

11代将軍家斉寛政7年(1795)に、12代家慶嘉永2年(1849)に計4回五香六実お立場でお鹿狩りを行いました。
家慶のときは時局がら部隊訓練も行っています。
将軍がお立場に立った時の様子が描かれています。
 
     

美術館はこれ「きもの川久」(地図パノラマ2枚

着物屋さんの敷地だけど、ここは着物売り場ではなく、「美術館」(カルチャーセンター)なんだね。それで、上記の野馬追い・鹿狩りの様子が紹介されてるわけだ。いつか見学に来てみよう(^^ゞ。

この前通りは、今、車が向いてる方向に進むと、スグ東武野田線踏切に出くわすんだけど、そっちに行かず、H字状に右折し左折すると、同じく東武野田線の「六実」駅に到達する。↓

まずはH字状に右折→してみよう(パノラマ4枚180度以上)

H字の横一文字の路地の途中、左側にも「川久」の建物が建ち、着物の営業店はこちら↓

きもの川久着物営業店(パノラマ2枚)

こちらは……↓

振袖がウィンドウに(^^)
反対側の並びもちょっとレトロ☆

この通りを進んでいくと(上の写真で、もう突き当り↑が見えてるけど)↓

H字の右側、突き当りに到達(パノラマ4枚180度以上)

↑これを左折すると、もう駅が見えてるよね(^^ゞ。

東武野田線アーバンパークライン六実」駅(地図

カッコに入ってる「アーバンパークライン」は、今探すと、2014年4月1日から導入された「愛称」らしい(2013/12/17付:東武鉄道発表PDF)。

「愛称」と言うと、「本名」に付随してる(「本名」が否定されてない)ように感じるが、地方紙かなんかで最初に見た時は、「改名」(野田線名称廃止)っぽいノリを感じた(^_^;)。。

これ書いてる間に来た大雨&洪水の時、NHKの各路線の運転状況ニュースでも、「アーバンパークライン」と表示され、カッコ書きですら「野田線」とは書かれなかった。。。

でもこの愛称、どうもウケが宜しくないような……(笑)。
ツイッターでも、マトメサイトで「【悲報】」とか書かれちゃって→「せめてソイソースラインだろ」とツイッター民反発(ソイソースは野田醤油に由来ww)

筑波エクスプレスは全く新しい路線だから仕方ないかもしれないけど、東武伊勢崎線を「スカイツリーライン」だとかに名前を変えちゃって、次の矛先が向いて来た感じ(^_^;)。。

でも賛成票はわずか3%で、野田線のままがいい」の回答が一番多いという結果(^_^;)。
愛される事と、商業的な成功(もっと多くの利用者確保みたいな?)は違う、という事ですか。

そんな野田線の一駅「六実」で、相馬野馬追いの歴史紹介に努めているきもの川久」はエライと思った次第(^^)。サイト→「きもの川久

■野馬除土手(及び類似公園・騎馬パレードなど)(2015/11/06リンク)
2007年8月<六高台の桜と五香の野馬土手>内
2007年10月<野馬除土手>
2011年1月<初夏、沼南〜松戸の野馬除土手>
2011年9月<「白馬公園」「野馬公園」「しいの木公園」>
2012年8月<冬空・雪・野馬土手・節分・氷>内
2012年10月<六高台ハナモモ通り>内
2014年4月
<鎌ヶ谷市「相馬野馬追」騎馬武者パレード、@出陣>以降
2015年1月<5月、鎌ヶ谷市、貝柄山公園「野馬の親子像」>内
2015年4月<ニッカウヰスキー柏工場>内




■6月
<アジサイとわんこ(#^.^#)♪>


今年も春は終わり、初夏が近づいて来た。夏の始まりはアジサイかなー(^^)。

↓お月様、キレイ(*v*)
そして、そろそろアジサイの季節(#^.^#)。今年もいっぱい写真が撮れた。→

車で通り過ぎて「今のアジサイ綺麗だった(>_<)」と、カメラの遅れを後悔する事が多かったので、小まめに撮るよう気を付けてたら、例年より多く撮れた(笑)

↑これは五香の野馬除土手に咲くアジサイ。




ここで、番組の途中ですが……、

まぁ今年もあれだな
暑いわけ涼んでるわけよ
ふうぅ。。

以上、暑さにへたばってるワンちゃんでしたー(笑)

ここ2〜3年、7月に入ってから期間の長い台風が来て、涼しい日が長々と続いてから猛暑って事が多かったが、今年は……。

アジサイ紀行・再開(^_^A)

6月頃から暑くなり、7月に入ってからも衰えることなく暑さが続いた。
(長い台風は来たが、その影響で涼しくなったのは、8月下旬だった)


この頃はまだ6月で、猛暑という程じゃなかったけど、湿気と暑さに体が慣れぬ内に7月になった。
7月は何とか中旬まで冷房使わずに頑張った。下旬も正午までは頑張ったが、8月は朝から無理だった。夜中にタイマーで切れた冷房つけに起きた程だった。。。

おっと、まだ6月の話題なのに先まで話しちゃった(^^ゞ。

←驚くほど多彩な色のアジサイが増えた

まだもうちょっと6月の写真(と話題)が続きますよ♪

以上、関連事項は、(2015/11/06リンク)
■初夏・アジサイ
2004年11月<アジサイ・ロード>
2005年5月<ガクアジサイ>
2007年10月<根木内城跡>
2008年11月<初夏の花々>
2010年12月<梅雨の風情(湖と蛙と紫陽花)>
2011年12月<小田原城にお散歩♪>
2012年12月<晩春〜初夏の花々と景色>内
2015年2月<アジサイ・カトレア・曽谷ノ窪瓦窯跡>



<手賀沼南岸「杜のパン小屋」と「手賀カフェ」>


手賀沼周辺の地図↓字の上からクリックしてみて!(^O^)

↑前にこれを作成して出したのは、2013年1月の「たわごと」<大島田〜箕輪・「手賀大橋」と「道の駅しょうなん」>内だったφ(。。)m。
その時、「手賀城跡」は字は入ってたけど、城跡には行ってなかったので、リンクしないままだったのを、2014年6月に手賀城跡のレポしたので、今日はやっとリンク出来た(^_^A)。

さらに、左岸の「ヒドリ橋」「福満寺」は、前は字も入ってなかった(^_^A)。
「ヒドリ橋」は前月レポしたのでリンク貼ったけど、「福満寺」はまだ行ってないので、今は字だけです(^^ゞ。

さて、今回これより紹介するのは、史跡や名所ではないので、上記の地図には含めないが、だいたいの場所は上の地図に照らして説明できる。

まず最初にいくパン屋さんは、中央の手賀大橋のちょっと右下にある「満天の湯」とか「ハスの群生」と書いてある辺りにある。

次に向かう喫茶店「手賀カフェ」は、手賀大橋のちょっと左下「箕輪城跡」と書いてある辺り。

最後にいく「将門の王城跡伝説地」は、一番左下の「福満寺」と「箕輪城跡」の間あたり。

では出発ε==(/^o^)/ まずはパン屋さんネ☆彡

杜のパン小屋・NOUVELLE VAGUE」(ヌーヴェル バーグ)
↑看板。森とパンの下にあるウネウネは手賀沼の形なのよ(^^)

地図)←私の記憶ではこの辺だけど、検索ではもっと手賀大橋に近い所が出て来るから、そっちが正解かも。まぁ湖と反対側を探してれば、行き会うよ(^^ゞ。<大雑把でゴメン

グーグルの写真地図(ストリートビュー)には、まだ建物が現れてないから、わりと最近できた店だと思う(^^ゞ。私も気付いたのは最近。

お店に並ぶ菓子パンの数々(#^.^#)
ヒヨコとジバニャン(≧▽≦)

お次は軽食喫茶のお店に参りましょう(^。^)。
手賀大橋を超えて(北に渡るのではなく、橋の手前を突っ切って)西側に出る。

手賀大橋満天の湯」(地図)を超えた
右窓は手賀沼の土手と河川敷が続く

やがて左手に現れる「手賀カフェ」(地図パノラマ2枚

近寄るまで、それ程とは気づかないが、このハーブ庭園がなかなかの見応え(^^)。

背後の森が「箕輪城跡」、右が今走って来た道路(パノラマ3枚ほぼ180度)

道路からパッと見だと営業店か見分けがつかない時期があったが、この頃は看板も掲げられ、たまに通ると「あそこにカフェがあるんだよねー」「いつか入ってみたいねー」と言う場所のまま、ずいぶん過ごしていた。
が、この時は意を決して、中に入ってみた。

この玄関前はラベンダーなどが咲き群れ、とても綺麗な佇まい(^^)。玄関から見ると……↓

足元は妖精でも戯れていそうな空間(パノラマ5枚180度以上)

では中に入りましょう(#^.^#)
お昼のクロワッサン・サンド☆

「カフェ」の名の通り、スイーツやドリンク中心で、お昼にはちょっと足りないかもしれないが、このクロワッサン・サンド、想像してたより味も食感もシッカリと濃厚な食べ応えで、とても美味しく満足した(#^.^#)。

窓の外は、ピグ・ライフで見るような、素晴らしいハーブ庭園(笑)→

手賀沼は遠くにちょっと見えるだけだが、外で食事も出来るよう、テーブルと椅子が庭にもあった。

他のテーブルでは、わりとシッカリした食事をしてる団体さんもいたので、「翌週はランチに間に合う時間に来てみよう(^。^)」と示し合わせ、二週続けて来てみた。
そのランチとは……、

大皿に色々メニューの盛り合わせ(^O^)
食後ドリンク&小スイーツ

地場野菜の持ち味を生かしたお浸しやサラダ、アッサリ風味の鶏肉、特に濃厚な風味の野菜スープが絶品だった。
食後のドリンクには、抹茶とマンゴーの香りタップリのスイーツを一口づつ( ^,_^)ф
全体的に、口じゅうに広がる風味が楽しめて、ハーブ菜園の趣旨が伝わって来る(#^.^#)。

建物の横、駐車場から周りを見てみよう(パノラマ4枚180度以上)

↑の逆(対面)側。この森の奥が↓箕輪城跡あたり(パノラマ4枚180度以上)

箕輪城跡(地図)には、だいぶ前だけど一度訪ねた事がある→2006年8月<箕輪城跡>
前も書いた通り、戦国期には高城氏の領域だったので、その勢力下の城跡があったと見られている。さらに古くは、相馬氏の領地。

この地域も、長く千葉・相馬系の影響が濃かったと見えて、手賀沼の北岸にも南岸にも「将門神社」(を祀るのは千葉一族……中でも特に相馬氏の特徴)があるが、今回はこの喫茶店に来た帰りに、フラリと入った路地から思わぬ収穫……すなわち、将門伝承(推定?)にバッタリ行き会った(^_^;)ゞ。

ちょっと項目を変えて、次はそこ行ってみよう(^O^)/



<手賀沼南西部、将門王都の津「大井」>

まずは、正確な位置は抽出できてないので、近くのお寺の福満寺を示す→地図
この時は気付かなかったが、この辺りは、前回「藤姫伝説」で最初に出会った、将門の絵の入った看板を掲げる「福満寺」がある方角なのだ。(2015年8月<手賀沼・西側「藤姫ウナギ伝説」>

先ほどの手賀沼南岸の道路を、さらに西に向かっていき、わりとスグ左折(地図)。
確か「ウナギ屋(^。^)」さんへの案内標識が見えて、曲がった覚えがある(笑)。

その道を「鰻正」という鰻料理屋さん(地図)まで進んだ。

以上、三点の内角に位置します(^^ゞ。

鰻正まで行って、折り返して戻って来る途中、「将門のナントカって書いてあった(゚.゚)!」と、途中からまた路地に入って見付けたんだよね〜♪

それがここ、瓦屋根付きの古風な
板塀のお屋敷の脇をゆく路地

板塀には、「相馬の都・平将門王城通り」と記された、小さな標識が掲げられていた。

この辺りは「大井」という地名で、今いる所はこの通り、 隠れ里のように鄙な雰囲気だが、ちょっと南はバッチリ区画整理され、団地・戸建・学校などズラリと立ち並び、車もバンバン通る柏市の新興住宅街で、そこが「大津」と呼ばれる一帯である。(2013年1月<「権現古墳」と庚申塔(前原公園)>内

「大井」も「大津」も、将門との関わりとか、ちょくちょく聞いた事が無くもないんだが、それを示す寺・社・公園・石碑・看板などは、今言った「福満寺」以外のものでは見た事なかった(^^ゞ。

この後に書く通り、将門の王城(王都)建設予定地の候補というのは、各地にあるものだから、「ここにそういった何かがあるはず」という意識すら希薄だったかも(^_^;)ゞ。。

やがて、2〜3軒分ほどの空き地に到達するのだが……。(パノラマ2枚)

ナント、この空き地が「王城の地」と現地で呼ばれていた場所だった!

左端に立ってる説明版は、特に提示者名(教委などの)は無いが、以下の事が書かれていた。

     
  「王城の地」
 将門記の王城の地とは此の地なり

将門記に云く、王城を下総の国の帝南に建つべしと。
この地より、眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき、北に筑波山を拝し、西に富士山を奉拝し、関八州を手中にできるこの地こそ王城建設にふさわしい所であります。
かって奈良時代には相馬郡六郷が置かれました。手賀沼南岸には大井郷と古溝郷が配され、手賀沼北岸には布佐郷・倉麻(そうま)郷・意部(おぶ)郷・余部(あまるべ)郷が置かれました。
また同時代には東海道京の大津から下総国府を通り、大井より布佐に渡り戸頭(とがしら)に出、常陸の国石岡まで整備されました。
このように都市機能が整備なされた所に将門相馬の都を建てることに決定しました。
 
     

上記の郷の内、「倉麻」の「倉」は、上が隠れて見えなかったので、もしかすると「蒼」かもしれないが、恐らく「相馬郷」の事だろう。
大井・古溝・布佐・相馬・意部」の五郷は、「相馬郡」の六郷に含まれる古代の郷名である。
余部」だけは、「印旛郡」に属す郷である。

では改めて、全景を写し出してみよう。

平将門・王城の地(パノラマ4枚180度以上)

ここでは「王城」と書かれているから、そういう地域伝承があるのかもしれない。
が、恐らく正確には、「王都付近の津・大井」を指すんだろうと思う。

「城主のたわごと」では、これまでの群馬県(総社神社)や、埼玉県の秩父などでも、「将門記」の文を取り上げて来たので、「将門の乱」の時系列に並べてみよう。

「将門記」〜上野国の新皇即位
2013年6(5)月<「総社神社」と「宮鍋神社(蒼海城跡)」>内
(2008年10月<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>内1
「将門記」〜弟将平の諫言
2014年3月<円福寺「畠山重能(重忠の父)平将平(将門の弟)墓所」>
(2008年10月<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>内2以降)


この後、将門首脳陣による、いわゆる偽都(彼らにとっては新王都)を議する下りが、こう来る↓

     
  諸国(坂東八ヶ国)の受領(八官)も取り決め、王城(皇居)を建てる議題にも取り掛かった。
その議事録に曰く、

下総国亭南(邸宅の南)に建設すべし。ついでに 木義 橋京の山崎に、相馬郡大井の津を、京の大津になぞらえよ」
(※「木義」←二文字で一文字、変換が出ないので(^_^;))

とあり、左右大臣・納言・参議・文武百官・六弁八史など皆取り決め、内印・外印の鋳造寸法、書式・字体まで定め、残るは暦博士の選定をどうするかまでになった。
 
     

(この前からの流れから、建設や計画を命じる主語は「興世王」と思われる。当時、将門首脳陣のトップにいた人物。
ただし、これらの計画は、議事後二ヵ月経たずに将門が敗死・一族滅亡したため、建築が着工されたとは到底思えない(^_^;))

現実の開発の波が押し寄せぬうちに、周囲の風景も撮影しておきたい(汗)

まず「亭南」は、「将門の邸の南」という解釈が今では一般的で、この会議が行われた頃(つまり最後の)将門の居館は、茨城県坂東市の「石井営所」(地図)が相当しそうだ。(2008年9月<最後の本拠「石井営所跡」(坂東市)>

かつては守谷城(茨城県守谷市)を言ってた時期があったらしいが、ここはかつては「将門城」(地図)と呼ばれてたものの、今では戦国期下総相馬氏居城(の一部)として知られている。(2009年7月<北東部「守谷城跡」1、城内地区>

もう一か所、岡田郡国生村という説があるようだが、どこにあるのかよく知らない(^_^;)。前に行った事があるトコでは、このへんかしら→地図(現・茨城県常総市)
ただこれは「亭南」を「庁南」と読んでの事らしい。確かに国生あたりでは、「国庁跡」なる近くに行った事がある(2008年9月<「常羽御厨・兵馬調練の馬場跡」と「馬場天満宮」>にはあるが……ちょっと無理があるかなぁ(^_^;)。

むむっ、城郭風の建物が!
と思ったが、どうも民家のようだ(^_^A)

今いる手賀沼の南岸・大井は、石井営所からも守谷城跡からも国生からも南に位置するので、上記三ヶ所のいずれでも該当するが、この会議では、ただ王城(皇居)だけでなく、その周囲に、京の山崎大津も予定してるわけで、王城と同時に「王都」の構想と言える。

そうなると、守谷からだと近距離すぎて、「王都の範囲があまり広くなくなるかも」とは思う(^_^;)。

それでは、肝心の「王都」はどこに設定していたのか……古来より多くの候補・議論がされて来たらしい(笑)。

まず、モデルとされている京都だが……。
そもそも京の中心地はどこか。御所か二条城か府庁か市役所か京都駅か……。

残念ながらこれらはどれも市街のド真ん中に所在するわけではない(^_^;)。

帰り通った高柳(柏市)、芙蓉?立葵?(^^)
五香(松戸市)、野馬除土手

そこで勝手に、「堀川五条」交差点地図)を、京の中心点に設定させて貰う(笑)。
(地図の初期サイズは1/10万に設定提示してます。拡大・縮小は地図内、左の調整リンクをご利用ください)

それを、将門首脳陣の設定したとされる、いわゆる偽都(彼らにとっては新王都)の中心地であろうと考証比定された1モデルの地点に求めると、だいたいこの辺りかしら→地図(千葉県野田市)

京都も中心地のちょっと北に御所があった事を考えると、だいたいちょっと北に石井営所があるし、まぁまぁ合ってるんじゃないかな(^^)。

それに対し、「大津」に擬せられた地点は……と言うと、これも候補地が三か所ぐらいある(^_^;)。

@水海道地図(ポイントは大雑把に駅周辺(^_^;)・茨城県常総市)
A今いる手賀沼の南の「大井」(福満寺を図示→地図・千葉県柏市)
B木野崎あたり→地図(これも大雑把・千葉県野田市)

松戸の方に戻って来た。これも芙蓉か立葵かな↓
こっちは都内に向かう道だった。朝顔か夕顔か……→
いずれも夏の花だね(^^)、もう夏なんだ(笑)

石井営所を基点に、千葉県野田市の偽都比定中心地(地図)を割り出したのだから、そこからBの木野崎は、これまた近すぎて、王都の範囲が狭くなる(^_^;)。

一方、京の地図と重ね合わせて見ると、琵琶湖の西岸にある「大津地図)」にピッタリ重なる位置にあるのが、@水海道地図)と言える。
@説の出典は「相馬日記」であるらしく、かつては「相馬郡大井村」と呼ばれたらしい。

ただし、当時は今のように地理測定が正確ではなかろうし、「擬する」というのも、都市計画なんだから、「ズレ無くピッタリ京に合わさる」事より、風水的に、この方角には山・海・大道がある方がいいとか、運送・交通の便、外敵に対する要害などを重視しただろう(^_^;)。

そう考えると、A手賀沼南岸大井は、位置的にも無理の無い範囲にあり、ここもかつては、「千葉県東葛飾郡沼南町大井」であった点など、不自然さが無く、候補に残して良いだろう(^^)。
こちらの出典は「下総国旧事考」であるらしい。

ちょっと長くなったけど、将門王城(王都)伝説(推定)地については、取りあえず以上(^_^A)。
いつかこの謂れのスポットらしき福満寺も訪れ、又レポしてみたい(^^)。

以上、関連事項は(2015/11/06リンク)、
2006年8月<箕輪城跡>
2013年1月<「権現古墳」と庚申塔(前原公園)>内
   〃   <大島田〜箕輪・「手賀大橋」と「道の駅しょうなん」>内
2015年8月<手賀沼・西側「藤姫ウナギ伝説」>
■手賀沼の蓮・蓮花
2007年9月<手賀沼周辺散策・古墳と川べりの風景>
2008年12月<手賀沼南岸・蓮の花>
2009年12月<柏市「手賀沼」「下手賀沼」>
2015年2月<手賀沼の蓮の花(^^)>
■手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>


平将門の“亭南”に関して
2008年9月<「常羽御厨・兵馬調練の馬場跡」と「馬場天満宮」>
   〃   <最後の本拠「石井営所跡」(坂東市)>
2009年7月<北東部「守谷城跡」1、城内地区


「将門記」〜上野国の新皇即位
2013年6(5)月<「総社神社」と「宮鍋神社(蒼海城跡)」>内
(2008年10月<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>内1
「将門記」〜弟将平の諫言
2014年3月<円福寺「畠山重能(重忠の父)平将平(将門の弟)墓所」>
(2008年10月<古河市「持明院」、下妻市「五所神社」>内2以降)
■平将門(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「平将門の史跡・伝承・信仰・相馬(千葉)氏」>



■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>


さてさて、いよいよ足利ツアーの始まり始まり(^^)……なんだけど、冒頭でも言った通り、今回の所は、初日の都内ツアーがメインとなり、足利は夜に入ったホテルまで(^^ゞ。

都内と言うのも、亭主の仕事がらみで(^_^;)、私は用事の間、旅行で入り用な物を買いに行ったり、車中で旅行先の行き場所をチェックしたり本を読んでいたが、そのうち、「ちょっと周囲を散策してみよう(^^)」と外に出た。

行ってみたのは、「梅上山・光明寺」(地図)。
住所は虎ノ門(千代田区)、最寄りの鉄道は、地下鉄(東京メトロ)日比谷線「神谷町」駅。

寺の正門はあるにはあるが、山門と言うより、細い路地にある普通の家の玄関みたいな感じで(^_^;)ゞ、どっちかと言うと、駅前から真っ直ぐ伸びる道路(1号線(桜田通り)と15号線(第一京浜)を結ぶ道)に面した裏口の方がわかりやすい↓

これがその道路、神谷町駅は←こっち(パノラマ4枚180度以上)

さすがは都内ど真ん中の虎ノ門、周囲はこの通り、バンバカと高層ビルが立ち並んでいる。
この位置からクルリと後ろを振り返ると……↓

通りに面した境内(^^)たぶん裏口だけど(笑)(パノラマ4枚180度以上)

正門は最後に出すね(^^ゞ。この裏口から入りまーーす。

このお寺の歴史は、境内には殆ど記されてなかったので(そんなに広くないから無理も無いけど(^_^;))、お寺のHP「浄土真宗本願寺派・光明寺」によると……、

1212年(あるいは1250年)、天台宗の僧・了栄の創建。「常楽寺」と称す。
1226年、関東にいた親鸞の教化で、了栄が浄土真宗に改宗。(本願寺派

……と、鎌倉初期の創建らしい。

(拡大)大都会の駅前通りを前に
(拡大)豊かな深緑の佇まい(^^)

鎌倉時代の後は、ポポポーン!と間が飛んで、

1540年、本尊の阿弥陀如来像が光明を放って、疫病流行から人々を救ったと信じられた事から、「光明寺」に改称。
1590年、徳川家康の江戸入府の際、17世・証高が境内の紅梅に古歌を添えて献上。
1604年、江戸城の造営により、霞が関から現在の西ノ久保に移転。
1645年、訪問した3代家光は、家康が梅の献上を大いに喜んだ事にちなんで、山号を「真色山」から「梅上山」に改称を命じた。

と、関東・東北における多くの古跡と同じく、家康の江戸入府のちょっと前から始まり、江戸時代の事績がメイン。

以後、明和の大火、明治の廃仏毀釈関東大震災による庫裏焼失、第二次世界大戦の空襲による全焼など、多くの災難に遭い、寺の多くの品々が消失。

歴史を記す資料はほとんど残ってないが、1776年に25代証山が書写した「光明寺縁起」から事績を知れるという。

戦後は復興し、現在は、千葉県君津市埼玉県草加市にも分院「光明寺」が開設されている。

←(さらに拡大)
旧西久保幼稚園の碑
富山県の彫刻家・岩城信嘉氏の作で、戦後に設立され、昭和42年に廃止された幼稚園の跡碑。

↑左脇から始まる数段の階段を上って入る。

今でも残る宝物としては、
徳川家康の自筆・日課念仏(「南無阿弥陀仏」6段書写)
井伊直幸(なおひで)書状(彦根藩13代藩主、1784〜87年大老)
・廃仏毀釈の頃、仏教界再生のために活躍した、29代・石上北天と同郷・富山県棟方志功(1903〜1975年)は、浄土真宗の信仰に関わる作品を数多く残しており、1963年に作品『広大会』を寄贈され、ここに所蔵されている(そういや上の石像も、ちょっと似てる?)。

以上、お寺のHP浄土真宗本願寺派・光明寺に沿って書かせて頂きました(^^ゞ。以後は境内レポ。

通路を←こう入って来た(パノラマ4枚180度以上)

視野確保のため、建物に上がる階段をちょっと上ってから写している(^^ゞ。
境内は狭く、建物と通路があるのみで、ちょっと撮影スペースにも困る程で、こんな風に、境内に入るや、目の前を塞ぐように大きい建物が待ち構えている。

右のやや小ぶりな建物との間にちょっとあるスペースを↑こう抜けると、もう路地に出る(^^ゞ。そこが正門。

逆に、真後ろを振り返ると……↓

↓このお堂の左脇から入って来た。右は墓地↓(パノラマ4枚180度以上)

こんな風に、通路の正面の大きな建物の隣は、集団墓地がビッシリ……という配置。

建物に対面するように建っている、このお堂は「常楽堂」という納骨堂。

昭和55年、天文9年(1540)までは、常楽寺と称していた名に因み、「倶会一処(くえいっしょ)」(お浄土で皆が一緒に会いましょう。)という仏教の教えを実現するために建立された。
光明寺代々の住職の遺骨、納骨を希望した門徒(檀家)の遺骨が収められ、毎年4月15日の総永代経法要に、法要が営まれる。

常楽堂
その横に「焼死人の墓

「常楽堂」の向かって左脇には、明和の大火(いわゆる「目黒行人坂火事」)の供養墓がある。

焼死人の墓」 旧跡 「明和の大火死者供養墓」(港区指定文化財)
明和9年(1772)2月29日の午後、目黒行人坂の大円寺より出火し、強い西南の風に煽られ、麻布・芝から江戸城内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草・千住まで達し、翌晦日の午後ようやく鎮火。明暦3年(1657)1月18日の「振袖火事」以来の江戸の大火となった。

類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382。死者は1万4700人、行方不明者4000人を超えた。
光明寺では、境内の山の上に避難した男女90人が焼死、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失(寺社奉行、土屋能登守の見分)。

←供養碑には「南無阿弥陀仏」と刻まれている
↑すぐ隣に迫る墓地。奥にいくに従い、少しづつ高くなり、階段を登って各家のお参りにいける。

焼死人の墓」は、惨事に心を痛めた当時の住職が、焼死者の供養のために建立したもので、のちに山の上から現在地に移された。火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重。(港区教育委員会)

光明寺の過去帖には、「2月29日の午後」が「」とあるらしく、「大円寺」については寺名は無く、「目黒行人坂、浄土宗の寺」と書かれてるようだ。
wikiで調べると、大円寺はどうも「天台宗」だったようで、こうした誤りがあるのは、何らかのソースを書き写したのではなく、当時の伝聞の通りに書いたから(ある意味、当時史料として忠実)なのかもしれない。

こちらが正門、さっきより細い路地に面している(パノラマ4枚180度以上)

↑これがさっき言った「正門」(山門)。道は細い路地で、右の白い建物が、さっき階段を使わせて貰った大きい建築物。中には「テラス」があるそうで、近隣オフィスから昼休みに一息つきに来る人もいるらしいよ(^^)。
東京神谷町「光明寺」(@「浄土真宗本願寺派・光明寺」より)



<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>

用事を終えた亭主と合流した後、皇居付近を走り、首都高に乗り、東北道に移って(途中SAで一服)、高速は館林で降りる。あとは夕闇を潜りながら足利市街を目指す。

虎ノ門から皇居の方角を目指す(パノラマ2枚)

皇居外苑前「馬場先門」交差点(地図パノラマ3枚ほぼ180度

左の森は皇居(外苑)、右一番手前は、いつもは夜景の中で見る明治安田生命ビル(明治生命館)。

皇居の脇を抜け
首都高に乗る

首都高↓から東北道に進み、サービスエリアでちょっと休憩(^_^A)↓

東北道には蓮田SAと羽生PAがあるが、どっちだっけな……(帰りに寄ったのは羽生とハッキリ覚えてるが)。
店頭販売で、焼売(シウマイ)屋さんかな。こんな串刺しで餃子や焼売を連ねていて、面白かったので撮った(^^)。

左の串は「よくばり串」(520円)といって、左側(持ち手側・串下)から、「肉ニラ饅頭」「海老シュウマイ」「パオ餃子」「黒豚シュウマイ」の順に刺してある。
右のは「パオ餃子」だけ4個連ね刺した串(380円)で、「地場野菜たっぷりの一口サイズ餃子」という事だった。
小腹の空いた軽食タイムにGOOD!……という事で、亭主が買って食べた(笑)。

東北道に戻って運転再開(^^)。
当初は岩舟JCT(地図)まで北上して北関東道に入り、西に進んで足利IC(地図)で降りるつもりだったが、降りるようナビの誘導があったトコで降りたら、館林IC地図)だった。

電線に鳥がいっぱい(゚.゚)
館林から足利に向かう

千葉・東京方面(南西)から行くと、東にある栃木県にまず出会い、その西の群馬県は一つ奥という地理なんだが、実は館林あたりは、ほんのちょっとだけ群馬県(笑)。群馬県の形
そこだけドォ〜ッと東にせり出して来ているんだね(^^ゞ。

この日の目的地は足利駅近くのホテルで、足利ICから行くより、館林ICからだと、一般道を2.5倍ぐらい距離があるんだが、その分、館林から岩舟まで3IC、岩舟から足利までは2IC、合計で5ICも高速を走り繋げなくてはならなかった。

それが館林で高速を降りれば行けると思うと、「足利ってわりと近いんだね(^。^)」という印象になった。

市街地を抜けると夕闇の下に
広い田園地が続く(^^)

実は今回の旅行、行く直前に予定を変更している。
当初は二泊三日の予定で、長野と群馬に出かけてみようとしていた。
宿も取ったんだが、来週には行こうかという頃、亭主の仕事都合で、一泊に変更となり、予定を全部取り換えた。

足利は当初、初日の行きがけにちょっとだけ寄る予定だったんだが、一泊となると、遠出は困難と見て、いっそ足利をタップリ見て廻る行程に組み替えた。

結果的には、それが返って良かったんだが、最初の予定で、足利に「ちょっとだけ寄る」と設定したのは、ここ十数年の旅行でアチコチ行ったため、どこもちょっとづつ食い残しがある状態だったからだ。だんだん旅程の組み方が難しくなってる中、足利はこれまでに行き残した所だった。

さらに暮れてゆく中を
やがて足利市に到着♪

これより足利市内の写真はいっぱい出て来るが、足利の特徴は、近くに小高い山が点在して迫り、右の写真のような山の稜線がどこからでも見られる点だと思う。

この風景が、予想以上に観光気分に浸らせてくれ、一泊二日の旅程の割には、ドップリと旅行を満喫できた。

以上、関連事項は、(2015/11/06リンク)
■東京方面(皇居〜世田谷)
2004年12月<そこに、なぜか「世田谷観音」(爆)>
2005年3月<東京>
2005年11月<駒沢公園(東京)>
2011年10月<クリスマス前の東京(皇居東面)>および<東京「上目黒・氷川神社」の「目黒富士」>
2012年1月<御茶ノ水(神田明神まで)>
2012年7月<ハロウィンの頃まで>
2013年9月<初詣A「神田明神」拝殿に到達まで(笑)>以降
2013年10月<東京都・皇居〜用賀「カフェ・ピロエット」>
2015年2月<北千住宿場町(サンロード商店街)高札場><池尻大橋ジャンクションと目黒天空公園>
2015年7月<神田明神>内
2015年8月<夜まで都心ドライブ(^^)>
■高速・東北道・(磐越道)
2007年2月<東北道〜磐越道・会津若松へ>
2007年11月<東北道・磐梯方面〜村田>
2008年1月<白石〜仙台〜松島>
2009年1月<まずは会津磐梯を目指す>
2009年12月<1日目・まずは岩手県まで一路目指す!>
2011年4月<まずは東北道で「西那須野塩原」まで>
2012年1月<まずは東北道で郡山まで>以降
2013年1月<東北道〜北関東道>




<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>

↑と言っても、1泊2日の日程だから、2泊目や3日目があるわけじゃないんだけどね(^_^;)。

いよいよ足利中心地に到達(^^)。
東西に流れる渡良瀬川を南北から挟んで、南側やや西に「足利市」駅(東武伊勢崎線)、北側やや東に「足利」駅(JR両毛線)があり、前者(西)には中橋が渡り、後者(東)には田中橋が渡る。

今、うちらは川の北岸を走って中心地に近づいており、左窓に渡良瀬川、前方に中橋が見えて来る。

緑に輝く三連の橋が中橋地図
渡った先に「都ホテル」(笑)

この渡良瀬川は、「中橋」のさらに西に「渡良瀬橋」「緑橋」が渡り、「田中橋」の東には「福寿大橋」「福猿橋」などが架けられている。

ただし橋は渡らない。うちらはこの道を右折して、足利学校や鑁阿寺のある北側の市街に入り、市内のホテル(地図)に到着。

チェックインして、お部屋に(^_^A)
部屋は高層階に取れてて、窓から見下ろす階下は、大きな道路を次々にゆく車ネオンが一望(^^)→

前よく行ってた秋旅行と違って、7月で最も日没の遅い時期だから、明るい時間が長く、一日をかなり有効に使える(^^)。
だからいつもと比較すると、だいぶ遅い到着だったが、ギリギリまで所用があったので、この日はとにかく夕飯に間に合うように行けるのが課題。

ビジネスホテルだったけど、朝夕のご飯を食べれる食堂や、部屋付きとは別の共同浴場があって、着いたら早速お食事に……(#^.^#)。
夕飯は選べるメニューとなってて……。

刺身定食を頼んでみた(^^)
お風呂は人工温泉(^_^A)

足利は周囲に山はあるけど、基本的には平野地で、温泉の出るような所ではない。
でもやっぱ観光地だからだろう、ビジネスホテルだけど、共同風呂には人工温泉が湧いてて、食後のお風呂も楽しみに入った(^_^A)。

出張でもビジネスホテル宿泊となる亭主だけど、お食事と温泉がつくと「旅行(^O^)」の気分を満喫する(笑)。

お風呂では中国から来られたお客さんとご一緒した。
日本語ペラペラで、ナント足利にばかり何度も来ているんだとか(゚.゚)!
「ここが凄く気に入りました」と言われて、この時は「えー!どうして?」と、ちょっと不思議だった。

外国の観光客が来て気に入りそうな場所と言うと、東京・大阪・横浜など都会か、京都・鎌倉・日光・箱根・金沢なんかが思い浮かぶが、足利ってのはすごくマイナーに思えたから……。
でもこれが翌日、思い当たる点が出て来て……それは次回のお楽しみー(^^)。

お部屋に戻って、また窓からお外を見てみる→
右の奥が、足利学校や鑁阿寺のある辺り。

パノラマ状にすると、こんな感じー☆↓

うふふー夜景がとっても綺麗(^^)!(パノラマ3枚ほぼ180度)

てなわけで、寝ま〜す!おやすみなさーーい(^O^)/

−−−−−−グーグー(#^.^#)スヤスヤ−−−−……(p_-)<ムクッ

どやっ!まんま夜が明けたがなっ(笑)(パノラマ3枚ほぼ180度)

上手い事、夜と朝のパノラマが写せたのです(^^)。

てなわけで、朝っ\(>_<)/<セノビッ! おはようございまーす(*´0)ゞファァ~~

↑左端に見える背の高い楯ストライプのビルは、このホテルの立体駐車場。
到着した時は夜で暗かったので、改めて朝の外観を写すと……↓

宿泊棟の隣が立体駐車場(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

敷地はそう広くない(^^ゞ。駐車場が不足ぎみで、立体駐車場があるんだね。

ここから←ちょっと通りに出たトコだけ↓

こんな感じ(^^)朝の足利市街(パノラマ4枚180度以上)

この朝に始まる、この日の足利市内レポは次回から始めるネ(^^)。

次回の内に、足利レポ全部は無理だけど、足利学校、鑁阿寺、太平記館、勧農城跡、長林寺、法楽寺あたりまで行けたら……と思いますー!

関連リンクはまた後日に(^^ゞ。

ただ前号の後、7月号・8月号のリンク貼りは完了しましたー☆
やっと追いついたー(≧▽≦)!というトコです(笑)。
これでまた遅れぬよう(引き離されぬよう)、なるべく一ヶ月以内に貼っていきたいと思います!!(思うのは自由www)



↑関連リンク完了しました(^^ゞ。
各項目ごとに貼ってあります。(2015/11/06追記)

2015年09月17日(2015/11/06、関連リンク・追記)

<つづく>
 
     




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