<2011年・城主のたわごと10月>




2010年12月〜2011年3月。千葉北西部と東京。

クリスマス・年末年始・冬景色。そして、東日本大震災。




     
  前回で東北レポは終わって、前回に引き続いて、日常および近隣レポ編(^^)。
前回は、秋〜初冬(9〜12月)あたりまでをお届けした。

今回は、冬〜初春(2010年12月〜2011年3月ごろ)までをお届けしたい。



■2010年12月〜2011年3月・東京都、千葉県北西部
<クリスマス前の東京(皇居東面)>


↑ざっと、皇居の東側、北は須田町から南は国会議事堂あたりまでの、紅葉&クリスマス&夜景を♪
地図A←通常サイズ(13)にしとくけど、「15」ぐらいが南北ちょうどサイズかな(^^ゞ。

ちょうどクリスマスの飾り付けをしてるか……
(拡大)お手入れ中かな(^^ゞ

←巨大な銀杏の樹
法務省だね(^^ゞ。シャッター切る間合いが悪くてゴメン。この道→こう進んで突き当たりが……↓

国会議事堂
(拡大)

周辺の道路は、そろって銀杏の木が落葉して、黄色い絨毯が出来ていた(^^)。

地図B←法務省。 地図C←国会議事堂(どっちも「16」以上)

以後は夜景。↓六本木のみ皇居周辺じゃないけど、クリスマスっぽく街灯ライトアップしてたんで(^^ゞ。そのあとは再び皇居周辺。

「六本木」界隈
皇居周辺「ザ・ペニンシュラ東京

↓ペニンシュラ足元のイルミネーション
レトロな「明治安田生命ビル」ライトアップ→

地図D←「ザ・ペニンシュラ東京」(詳しくは拡大を(^^ゞ。「18」以上ぐらい)
地図E←「明治安田生命ビル」(字表示「19」以上)

デパートは閉店してるけど、ウィンドには……
(左拡大)ツリー&雪ダルマ(^O^)

今年(2011年)は、これから冬も節電モードになりそうだから、クリスマスのイルミネーションも控えめになるんだろうね(;_;)。。。当分去年までのが見納めかもしれないから、沢山撮っておけば良かったな〜。。

以上、関連事項は、
<東京「上目黒・氷川神社」の「目黒富士」>↓にて




<クリスマス本番〜年末>

今年(と言っても2010年だが:笑)も行きましょう(^^)!
普通のおウチもあるので、詳しい場所は内緒だけど、だいたい柏・松戸とその周辺(^^ゞ。

あ(゚m゚)その前に……今回は2枚だけ。前回に続いて「変わった夜空」を↓

夜の明るい雲。これで夜8時の空、しかも12月よっ(^^;)。。

この「城主のたわごと」では、山陰レポの前(つまり震災の前)から取り上げてる通り、去年(2010年)の夏〜冬にかけては、こういう「変わった空」を何枚か撮った。
まぁ、実際に感じたのに比べ、撮影技術の問題もあって、異様な感じが伝わらないかもしれないけど……。。。

12月と言えば冬至。1年で暗くなるのが一番早い時期だし、実際、この12月も他の日は「暮れるの早くなったね〜」が挨拶になるぐらい、午後は4時半とかにドップリ暮れてた(笑)。
特に東日本は暮れが速いから、関西など西の方から来る人からは、急な日暮れ具合に驚かれる事が多い(^_^;)。

なのに突然、何この明るさ!っていう、この夜空が現われたの(^_^;)。
まるで昼のような明るさで、同じように怪訝な顔で空を見上げる通行人が何人かいた。

勿論↑の写真は、暗くてもわりと写る、高感度モードになっている(^^ゞ。
でもそれは、通常モードだと、肉眼でハッキリ見える明るさでも、写真になるとブレたり写ってない事が多く、それを目で見える程度まで感度を上げてくれるに過ぎない。
明度も、いつもと同じ程度しか上げてない。

さて……お待たせ(^^)、クリスマス・イルミネーション集→


窓辺の内側ライトも……
(拡大)クリスマス版(^^)

最後のこれは問題なかろうと思うので書くと、手賀中学(地図F)の校庭に飾られてた光の巨大ページェント→
先生たちか生徒たちが飾り付けたんだろうね〜(^^ゞ。

2010年の閉めは、曙橋ちかくの暮れゆく手賀沼(パノラマ2枚)

これもまた、走り廻るようなスピード感ある夕雲


山陰に行く前(1月号)から始まり、東北レポの後は先月もお届けした通り、この2010年は夏〜冬にかけて、ヤケにダイナミックな夕雲&夜雲をよく見た。

ただ、それは雲に関してのみで、これより正月を越えて、遠くの富士山や筑波山のシルエットが抜群によく見えたりする傾向は、単に極寒の12月〜1月の風景として毎年の事だけどね(^^ゞ↓

以上、関連事項は、
■紅葉&クリスマス
2007年6月<クリスマスの街角(^^)>
2008年4月<松戸市・「常盤平」駅前「けやき通り」>
2008年5月<年末(^^)>
2009年6月<紅葉とクリスマスが同時に訪れるの図(笑)>

2010年7月<街路樹の紅葉(#^.^#)>および<クリスマス・イルミネーション>




<新年は今年も、松戸七福神巡り(^^ゞ>

というわけで、今年(2011)も取り合えず、明けましておめでとう(^O^)!
←おせち料理は、例年と変わらぬようでいて、実は今年から、全部中身が違う(爆)。

毎年セットで取り寄せてたんだが、年々安いメニューが姿を消したり、品数が減ったり、値上がりしたり……餃子事件で食材を揃えるのが困難になった年もあったから仕方ないんだろうけど、ウチもリーマンショック以来、なかなか財政立て直しがね(^_^;)。。

なので今年は全部、日頃の惣菜メニュー買い置き&スーパーおせちの取り合わせ(爆)。味は日頃と同じだが、見た目は立派に正月してるよね?(笑)
焼き加減がうまくいったのか、亭主は「魚なんか毎年のよりウマイ!」と言ってたし(=^m^=)。

さて今年も、松戸七福神めぐりの開始!

……特に毎年恒例にする気はないんだが(笑)、だいたい年の終わりまで大わらわだから、何も考えずに休暇に入り、年末は買い出し&掃除に明け暮れて元旦を迎え(場合によっては過ぎ:爆)るんだね。

元日はくたびれきって、食っちゃ寝てテレビ見て、ドロ〜ンと休み気分に浸って何も考えず、イザ初詣に出掛ける頃、「いつものアレで(^^ゞ」になっちゃうんだな(笑)。
何となく町の様子を見るのも、この七福神コースが一番だしね〜♪

ただ、これまで七福神の神様たちは、何度も写真に撮って出したので、今年は七福神自体は出さず(^^ゞ、ざっと各お寺の様子をお届けしよう。

まず、弁財天の配置される「華厳寺」(地図J←「17」以上)↓

←今年も恒例の火渡りが行なわれたようだ(^^)。
↑階段の上から、火渡り行事を見下ろす本堂。
本尊のお地蔵様の前には、陶器で色鮮やかに作られた弁天様も(^^)。

↑本堂に向かって左に大きな地蔵が立っている。
←これね(^^ゞ。幟に「子育・水子地蔵」とある。

その背後に墓が並んでるので、一見、よくお寺や墓地の前に並ぶ六地蔵と同じにも思えるが、こちらはそもそも、お寺の本尊からして地蔵尊なのだ(^^ゞ。

本堂は扉が閉じてる事も多かろうが、お地蔵さんって、道端で気軽に手を合わせる印象があるから、外にもあるのかな(^^ゞ。

ご本尊(本堂の)は、幸田川から引き上げられた地蔵で、地域に火災が殆ど無かった事から、火除を祈願される寺になったので、近年では、川にちなんで弁天さんのお寺となったと同時に、火渡り行事も始まった。(2009年6月<今年も年始は「松戸七福神めぐり」から>内
だから、この「水子」も川と関係あるのかもね。元々、地蔵は子供の守り神(仏だけど)だもんね(^^ゞ。

この背後の墓苑にも、ちょっと入ってみた。

裏は墓地で、奥(→)は新区画(パノラマ4枚180度以上)

お堂の脇道↑から入って、まず墓苑↑、さらに進むと、まだお墓の立ってない空間↑に達する。
この一郭で、お寺の方か火渡り行事関係の方か、笹葉のたくさん繁った長い青竹を数本、ここで火を起して焚かれていた。

「こんなに広かったっけ(゚.゚)」と思いながら、先に進んで、振り返ってみると……↓

振り返ると、本堂が左に、その手前に墓苑が見える(パノラマ4枚180度以上)

この↑石碑に、この広い敷地の説明が書かれていた(^^ゞ。
「後世に伝えるため記す」として、「新墓地完成の碑」とあり、その内容は、寺の敷地は狭かったが、檀徒さん達が協議し、篤志な方の協力を得て、実勢価格より格安で、昭和63年に新しい墓地として土地を取得したそうだ。

昭和63年(1988)だと、ずっと前だから、単に自分らがこの敷地に気付かなかっただけなのかも(笑)。まぁ檀家でもないので、入らなかったというのもある(^_^;)。

でも、この松戸市も東京都に近い地域は、細々と建物が立ち並んで、正直あまり東京と変わらない(^_^;)。
寺は愚か、首都近郊の大型墓地(いわゆる霊園)もいっぱい気味なのか、もっと遠くの霊園のチラシなんか新聞に混ざって来る始末。

そんな中で、旧来からある寺(ここは鎌倉時代に起源)が墓地を広げるなんて……しかも、実勢価格より格安なんて、そんな事もあるんだな〜と感心した(^^ゞ。

この「華厳寺」と、ほんの近距離の「医王寺」(毘沙門天地図K←「15」以上)では、今年も美味しい甘酒を振舞ってたよ(^^)。

さて、お次に向かうは、南西方面、恵比寿さんのいる「金蔵院」(地図L)→

中央が本堂、写真から外れてるが、右に庫裡、そして、本堂の左脇に小さく見えるのが、恵比寿さんの屋根だが、そのちょっと後方(本堂の脇)に↓

←「成田山」と書かれた不動明王。足元に見えるのは、矜羯羅・制多迦の二童子かしら?
↑こちらは、入口からの墓地に近い「亀石」大きな樹の根元にあった(^^ゞ。右のちょっと白い石が頭?

七福神というのは、日本史の中でも典型的な神仏習合だから、地域によっては、派はもちろん、宗が違う寺同志や、神社さえ混ざってるもアリのようだが、そうした中では「松戸七福神」は、「真言宗」の「豊山派」と、宗も派も統一されてる(^^ゞ。

一方、成田山(新勝寺)は、松戸七福神と同じ真言宗ではあるが、「智山派」だから、厳密には違うんだね(^^ゞ。

真言宗という事だと、松戸七福神では、よく弘法大師像や弘法大師堂、四国霊場巡りの記念碑などを見る。
だからか、この不動明王は、ちょっと奥まった目立ちにくい場所にあり、一方、恵比寿サンよりさらに手前に大師堂があって、弘法大師が祀られている。

次は南に向かい、松戸駅に近い「善照寺」(地図M←「18」以上で字が出て来る(^^ゞ)で、布袋さんを拝んだ(^∧^)。

近くにある「松戸神社」は、前にレポした事もある。(2004年8月<寄り道1、松戸神社>

それらのすぐ近くで、今回はじめて見付けたのが、ここ。
旧松戸宿・本陣跡地」→

場所は、地図N←「20」まで上げないと詳しい場所はわかりにくいかも(^_^;)。

この「本陣」については、ちょうど前回までの東北レポ「第3弾(6月A)」でもやった(^^)v。
福島県の南部(奥会津博物館や大内宿)で見た通り、江戸時代のおエライさん向け宿泊所だっ♪
(2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内、および、<大内宿>内

「おエライさん」とは、ここの案内板によれば、「幕府役人、大名、公家、旗本」などで、さらに「本陣」には、一般の旅籠などが設けることを許されない、「門、玄関、書院」を設ける特権を与えられていた。

福島県では、ああして立派に「本陣」の建物が残ってたり、残った史料を元に復元したりしてて、いいなぁ〜(;m;)。

ここ、「松戸宿」にあった「本陣」の建物は、残念ながら、平成16年(2004)に解体されたそうだ(>_<)。。

それまであった建物も、慶応3年(1867)2月に、出火により焼失した直後に再建された物と言うから、それより前の建物はもっと古かったんだろうし、再建された本陣だって、今から数えれば150年近く前、幕末だもんね〜。

「松戸宿」は、「水戸道中」と呼ばれる道筋の宿場の一つだった。
参勤交代では、常陸国の「土浦藩・笠間藩」、陸奥国の「磐城平藩・相馬藩」など、十数家の大名が宿泊や休息に利用した。
江戸前期は吉岡隼人家が、中期以降は伊藤惣蔵家が代々勤めたが、明治維新後に宿駅制度が廃止されると、本陣も廃止となった。

そして「宝蔵院」。二階建てのお堂が出来てて驚いた!

「宝蔵院」は、今めぐってきた「善照寺」「松戸神社」「本陣跡」からスグ南にある。
七福神では、大黒さんを配しているお寺(^∧^)。地図O

山門の外から既に見えてる、新築の二階建ての建築物は、元は、大黒さんがポツッと立っていた辺りに作られていた(^^ゞ。

何だか立派になって、ちょっとビックリしたけど、毎年抱きついてくれるワンちゃん、今年も元気に迎えてくれて嬉しかった!

不動明王だから不動堂かな?
そして今年も……
サービス犬、健在!
今年も元気そうで嬉しかった♪

去年は首輪の綱が切れて、裏庭に廻されていたのを、住職さんがわざわざ裏庭までご案内下さったのだ(^_^;)。
忙しい正月に申し訳ない、と思ったんだけど、「いやいや、会ってってあげて下さい」とニコニコ仰る様子から、このワンちゃん、けっこう大事にされてるんだな、と思った(笑)。

今年は綱も回復したようで(笑)、元通り、入って来た所でシッポを振ってくれた!

撮影しようとすると、早速サービスしようと近寄って来るので、カメラを構える時間は非常に少ない(笑)。
もっとも、どうもカメラを大事な物と心得てるようで(゚.゚)、手を邪魔するような素振りはせず、もっぱら足元に顔を寄せて来るのだ。……賢い!(なので、写ってるのは頭と背中ばかり多い:笑)

今は亭主に抱きついてるが、後ろ脚だけで立つのは勿論、両前足でシッカリと人の足を抱える事ができる! 亭主も「技を上げたな!」と驚いていた(笑)。

お次は、七福神では寿老人を配してるお寺(^^)。例年はわりと最初の方に来る、八柱の「徳蔵院」(地図P)→

例年、この登り階段の左側の坂から、右側の坂をよく写すんで、今回は逆に、右側に登る坂から写した↓

↑すると、こんな感じ。坂の下、右にチョロと見えてる赤い旗が、今の登り階段があるトコ(^^ゞ。
でも階段で登らず、こっちの坂を登って来ちゃうと、折り返しっぽく道が墓地の中に続いていく。→

この墓地、松戸で有名な名前……松戸氏安蒜氏の墓を見掛ける。安蒜氏は戦国期の高城氏の配下いたのと同氏族だろうが、松戸氏は、20世紀梨を発見・改良した「松戸覚之助」と同じ松戸さんかな(^^ゞ?

他に、「染谷氏」を見付けた。
こちらは、このほど本堂の隣に合祀された摂社の一つ、「菅公堂」と関係がある「染谷」さんかな(゚.゚)?

これがこのほど新設されていた、その「管公堂」→
どうして菅公を祀ってるかと言うと……昔はどこでも祀ってたんだよね(^^ゞ。さっきの華厳寺にもある。
この「日暮」(昔はそう呼んだ)にも、「天神山」が祀られてあったそうだ。

菅原道真は学問の神だから、知恵にあやかろうという事もあろうが、ここに新しく出された説明版を読む内、「そういう事か(゚.゚)」と思えたのは……。

まず道真が妬みを買って、「讒言」により「左遷」された事。そして、悔しさ無念さを梅の花に託して太宰府に去り、「恨み」を残して亡くなった事。
その後、旱魃・洪水・疫病・落雷が起こり、道真を追い落とした勢力者が次々と犠牲になり、醍醐天皇まで悩死されたので、「祟り」「怨霊」と見なされ、天満宮が祀られた事が、わざわざ書いてあった。

そして、ここに祀られる事となった由縁を、こう続ける。

八柱霊園が昭和五年頃造成され、それに伴い天神山が崩されてその土で田を埋めたり道路造成をしました。祠も今は白髭神社の末社に移されています。
 此の度徳蔵院の境内に祀られる事になった天神様は子和清水の染谷仙次郎氏が個人的に祀っていたのですが、氏が亡くなりお祀りする事が出来なくなった為、遺族より寺に託されましたので、管公堂を新たに建立し松戸天神としてお祀りする事になりました」

目に見える風景からは窺い知れない、松戸の歴史の一端だな〜と思った。
八柱霊園は、松戸市やその周辺の多くの人々(かなりの割合で、ヨソから来た新興住民もいると思う(^^ゞ)のお墓が集まった霊園だ。
それを作るために、怨霊を鎮める山が崩され、地域の補充に土が使われ、それでも神社の末に祀ったり、個人的に祀る地元の方がおられた。

もしかしたら、そのおかげで土地は祟りを受けずに済み、祀る人が居なくなっても、こうしてお寺が引き取って下さるので、引き続き、平穏に暮せるのかもしれないよね(^^)。

道真の命日、2月25日には、笹に25個の団子をつけた「天神団子」をお供えして、今でも祭祀を続けているそうだ(^∧^)。

ところで、本堂の隣の敷地には、前面に弘法大師を祀る小さなお堂があり、その後方に、前の年には「金毘羅神社」、それより前には「藤塚稲荷」の復帰と、次々と増設されているんだよね(゚.゚)。
さっきの登り階段の手前には、これも近年「子育て地蔵」も設置されたし、この徳蔵院は、近年まで無住寺だった時代が続いたそうだがが、その分バンバン盛り返してて、頼もしいんだわ〜(#^.^#)。

そして、だいぶ暗くなっちゃったが
最後は「福禄寿」の「円能寺

地図Q←詳しくは「15」以上ぐらい。

ここ数年、七福神めぐりはスイスイ廻っちゃう事が多く、こんな暗くなるのは久し振りだが、最後までお茶を振舞って下さり、有難かった(^∧^)。
日のある内に廻るのも気分がいいけど、暗くて寒いと、ホノボノと温かみが伝わる。

良い風情で締めくくらせて頂いた(#^.^#)。

以上、関連事項は、
2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内、および、<大内宿>内
■正月&松戸七福神
以上、関連事項は、
2004年8月全文
2004年9月全文
2005年12月<お正月(^^)・そして今年も「七福神巡り」>
2006年7月<八柱「藤塚稲荷」><松戸オマケ・各所、風雲名物(笑)>
2007年6月<松戸七福神巡り><松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>
2008年5月<年始(^^)・「松戸七福神」巡り>
2009年6月<今年も年始は「松戸七福神めぐり」から>
2010年7月<初日の出とお正月(^。^)><松戸七福神で初詣>




<真冬の手賀川、白鳥・富士山・筑波山>

手賀沼の東、手賀川が西と南に分水する辺りに、いつも沢山の白鳥が浮かんでいる(^^)。

秋から真冬までの、同じ集合場所に屯してる様子を続けてお見せする。
地図R←白鳥さんたちのちょっと左に発作橋がある。橋の袂にいっぱい集まってる。

10月ごろかな
秋から冬(11〜12月)にかけて……

年越えて1月、すっかり真冬(*_*)
暮れ時の川では、白がよく目立つ

この「発作橋」あたりから、いま白鳥のいる手賀川の背後には、左後ろに筑波山、右後ろには、真冬の夕方だと、富士山のシルエットがそれぞれ見れる(^^)。

北に筑波山
南西には富士山

上の写真は、もちろんかなり望遠(^^ゞ。千葉県の北部だと、富士山なんてスゴイ小さくしか見えないからね(笑)。

発作橋の北側
(拡大)「なかなか良い眺めじゃわい」

発作橋より、手賀川を西に沿って進むと、手賀沼の東端「曙橋」(地図S)に行き着く。

そこにも沢山の水鳥が集まって
餌を貰いに飛び上がっている

発作橋も曙橋も、車道と人しか通れない橋があって、歩道橋の方からよく餌をやる人を見る。

←これは殆どカモメさんだね(^^ゞ。水面の方には、白鳥や鴨も混ざっているけど、餌をキャッチするカモメは動きが速く、何とか頑張って撮れた一枚(笑)。

この時期、こういった休日の風景とは別に、実は正月明け以来、「どうしても\(>o<)/!」と、亭主に強くせがんで、防災グッズの購入&設置にいそしんでいた。……今思えば、ネズミや鳥のような、「動物的カン」と言われても仕方ないが(^_^;)。。

3月に出した「今週のご挨拶とお知らせ」には、その事が書いてある。(後でまた出すけど(^^ゞ)
これはそう長くないので、まんま引用↓

その扉、長い間、「地震が来たら怖いな〜(^_^;)」と思ってた「観音扉」と言う奴で、中は全部がガラス器と陶器……つまり「割れ物」ばかり。

しかも、その食器棚の倒れる(としたらその)先が、流し台です。
地震で怪我をした場合、一番最初に行きたい場所は水の出る所です。
そこに割れ物が殺到したら、怪我を癒すために蛇口に手を伸ばしただけで、さらに怪我をしそうです(^_^;)。。。

いや、その前に、たぶん足元に転がるガラスの破片で、足を大怪我してたでしょう。飛び散る破片で顔まで切ってしまうかもしれません。

だからこの棚に、最近、防災グッズを取り付けたのです。
食器戸棚と天井までの間に突っ張り棒を張りました。
さらに、閉じた扉の上下2ヶ所にも錠をかけました。どちらも地震に備えた安全装置です。

どうしてもこれをつけたいと、この正月明けぐらいでしたか、疲れ切っている主人に強く言い張って、防災グッズ売り場に駆り立てた事を思い出します。
人間は鼠や鳥と一緒で、体のどこかに地震を予知する本能が備わっているんですね(^_^;)。。

以上、関連事項は、
<初春の手賀沼・古利根川>↓にて




<夕雲・枯木立・雪>

1〜2月ごろ。
年が明けると、自分が気付かなかっただけかもしれないが、前年までに見たような「物凄い雲」を見かける事は少なく、ちょっと印象的な雲を見る程度になった(^^ゞ。

常盤平駅の北側
五香あたり

そして、お次は前も紹介した、柏市、藤心の喫茶店「アンチーブ」(地図T
ちょうど良い具合に小雪が降り始めたので撮影(^^)。

窓辺に霞む冬景色
枯れ枝の合間からも……

雪が降りだすと客足も途絶え、ペンションだとか、ロッジやコテージの一室に閉じこもっってる気分に(^^ゞ。


積雪量は例年通りで、ウチ辺りは特別多くはなかったが(元々多くないし(^_^;))、この冬は年末年始(12/31〜01/01)、鳥取では国道9号線で、1000車輛が長時間、通行止めとなったニュースが伝わり、特に日本海側は北から南まで、積雪の深さが最大値となった地域が出た。

山陰では、港に停泊してる船舶が、300以上も積雪の重量で沈没したと言うから、夏のゲリラ豪雨と言い、このところの降雨降雪量って、ホント半端じゃないと、つくづく思わされる。。

以上、関連事項は、
■藤心「アンチーブ」
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>

2007年10月■2007年8月ごろ

2010年12月<藤心「アンチーブ」(喫茶店)>




<東京「上目黒・氷川神社」の「目黒富士」>

ここから3月(^^)。ウッスラと春の気配がする頃。
ヤボ用で、東京の池尻大橋まで行った。

前からこの辺りを通る時、道路から見える盛山に「氷川神社」とあるので、「見学したい」と思ってたのだが、いつもは車なので、途中で止まるわけにも行かず……(;_;)。

この時は電車で行ったので、用事の帰りに寄って見た(^^ゞ。
地図U←氷川神社は、「18」以上で出て来る。

これがその盛山と神社に続く石段(^^)
最初にちょっと後方に退かせて貰う……

↑左の写真の前の道路(246号線)を、←こう行ったり、→こう戻ったりしながら、「あの斜面の上の神社を見てみたいな〜」といつも思う。

一方、右の写真は、246号線(玉川通り)との交差点(大橋)で、交差してる道路は317号線(山手通り)。
なぜ後方(317号線)に下がるかと言うと、ちょっと左側を見て貰いたいから(^_^;)。

317号線の左の敷地(パノラマ3枚ほぼ180度以上)

↑こうした物が作られていた。今年(2011)の3月だから、今(10月)はだいぶ完成してるだろうか(^^ゞ。
これは「大橋ジャンクション」といって、中央環状新宿線(板橋から大橋に至る、中央環状線の延長11km道路)と、3号渋谷線(東名高速に繋がる高速道路)の「繋ぎ目」になる予定で、建設が進められていた。

←これが完成イメージ図で、この計画はネット上にも公開されてる。

すなわち、「大橋ジャンクションでつながる、再開発事業とまちづくり」がそれで、ジャンクション建設の他に、地上27階(3〜27階が住宅地)と42階(11〜41回が住宅地)のビル建設が進められる。

二大ビルには、住宅の他、店舗や事務所、駐車場、公益施設などが含まれ、二つのビルの合間に、ジャンクション道路が円周トンネル内に作られ、その屋根部や円周トンネルの内側に、排気ガスや騒音を軽減すべく、緑地や市民広場を設け、地域に還元利用される計画のようだ(^^ゞ。

イメージ絵の様子(推進過程で変更アリ)では、ショッピングモールや公園の他、桜並木なんか作るようだ(^^ゞ。

元々そこにあった建物の写真(上空図)もあって、何百からなる建物(多くはビル)がドッとどかされて、姿を消した事がわかる。

実はこたつは、祖父母の代&子供の頃から、目黒&世田谷あたりが地盤だったし、亭主と知り合ってから15年以上、やはり目黒&世田谷に住んでたので、前どんなんだったか覚えておきたかった気もする。
写真撮っておけばよかった(>_<)。。

で、「氷川神社」との位置関係だが……(パノラマ2枚)

↑こうした案内板が、建設現場の囲いとして、エンエンと広がっているが(笑)、中央左の円周道路図が、ジャンクションを上空から見た完成想像図。
円周の上は緑地になるとして、円の閉じ目が2方向に分かれている。分かれたちょうど合間あたり、246号線の向こう側に「氷川神社」の敷地がある。

では実際に、まだ建設途中ではあるが、この分かれ目の下を潜って行ってみよう(^^ゞ。

ジャンクション分かれ目の下に歩道橋(パノラマ3枚ほぼ180度)

地図V←「18」に設定。かなり拡大版だが(^^ゞ、分かれ目の合間より、ちょっと渋谷寄りの二本の下から、「氷川神社」に向かうようになっている。

国道246号線を横断する歩道橋(パノラマ3枚ほぼ180度)

西(三軒茶屋)方向
東(渋谷)方向

俗にいう「246」、すなわち国道246号線は、「玉川通り」とも呼ばれ、古くは江戸と相模国を結ぶ「厚木街道」、相模の「大山・阿夫利神社」に参拝する人々も多いため、「大山道」とも呼ばれた。

明治40年(1907)、路面電車「玉電」が敷かれ、渋谷=玉川が結ばれると、大橋一丁目に車庫が置かれ、昭和44年(1969)の「玉電」廃止の後は、東急バスの車庫になった。
昭和46年(1971)、首都高速三号線の高架ができ、52年(1977)に地下鉄・新玉川線(現・東急田園都市線)が出来るなど、玉川通りは都心と郊外を結ぶ、大交通幹線として活躍している。

歩道橋から「氷川神社」を見る
歩道橋を降りる

246からも目につく、この丘陵型の盛土は、思った通り名所のようで、「富士山」に見立てた物だそうだ(^^)。
現地にあった案内板からは、ちょっと判りにくい所もあったけど(^_^;)、だいたい次のような事だった。

この「富士山」は、昭和52年(1977)7月に、「登山道」としてここに開かれたそうだ。
「登山」というのは、この丘陵の途中に、「何合目」とか呼ぶ各所が設けられるからじゃないかと(笑)。
こうして境内の一角を、「目黒富士」と呼ぶようになり、7月1日には、「山開き」の例祭が行われる。

ここに「登山道」が出来たのは、この「氷川神社」の境内に、元々「富士講」の石祠や石碑が移されていたからだろう。

氷川神社」正面、「目黒富士」を見上げる(^^)(パノラマ2枚)

富士講」は、江戸時代に、富士山に対する民間信仰から発し、各地で人々が集まって作られた「」で、人々は富士山に登ったり、身近にも小型の富士塚を築き、これに登って山頂の石祠を拝んだ。

江戸期の目黒区内には、「元富士」と「新富士」の二つがあり、「元富士」の方は、文化9年(1812)、目切坂上(上目黒1-8)に作られた。高さ12mで、浅間神社の石祠を祭った。
「新富士」は、それより後に別所坂上(中目黒2-1)に築かれた。

明治11年(1878)に、富士塚は取り壊され、この「氷川神社」に「元富士」の石祠などが移され、後にこの「登山道」を作るのに繋がった……という事だと読んだ(^^ゞ。

目黒富士」の脇の階段を登る↓
登り切って振り返ると、建設中のジャンクション・トンネルと歩道橋と、さっきの工事現場が見える(笑)→
こういうのが東京の風景だな〜とつくづく(^_^;)。

前方、階段のぼった先の境内(パノラマ4枚180度以上)

ああまで喧騒じみた大都会の中でも、ちょっと階段のぼれば、広くないながらも、ちゃんとこうした神社の空間がある。
何となく焼き芋でも焚火に入ってるんじゃないか……みたいな、ホンワカした情緒。
何だか懐かしいよね(^^ゞ。

今登って来た正面の石段は、江戸時代の文化13年(1816)の造営というが、初めはなだらかな物だったようだ。
石段の下には、「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道の道標があり、この大山道(現246号)は、江戸時代、「石尊参り」と言って、神奈川県伊勢原市の大山への参詣のため、多くの人々が利用した道だったから、多くの人が見た道標だったんだろうね(^^)。

正面・拝殿(拡大)
(向かって)右隣の社は……

←「富士浅間神社
合祀時期は書かれてなかったが、浅間神社も富士山信仰から発してるようなので、あの「目黒富士」との関係なのは確かだろうね。
登山道が出来た時か、その前に富士塚から色々移された時かな♪

本殿の「氷川神社」は、天正年間(1573〜92)に上目黒村の旧加藤氏が勧進した村の鎮守で、素盞嗚(スサノオ)命を主祭神とし、天照大御神、菅原道真を合祀している。

明治11年(1878)、解体となった先ほどの「富士塚」の碑や祠などを、この「氷川神社」に移した。
明治38年(1905)、「大山街道」(246号線)を拡張する際に、現在ある急勾配な石段に改修された。
明治45年(1912)、北野神社を合祀(菅原道真を祭神としたのは、この時なんだろうね(^^ゞ)。

昭和20年5月25日、380年余、村民を守って来た神社の社殿は、戦災によって消滅。
氏子が再建をひたすら願った結果、東京オリンピックのあった秋(1640年だよね(^^ゞ)、奉賛会が設けられ、浄財を募って、社殿・神楽・社務所を造営する事ができたという。

昭和52年(1977)7月に、先ほど見た、「目黒富士」の「登山道」が作られて、こんにちの態を整えた。
境内の4基の鳥居は花崗岩造り、狛犬は小松石造りという。

「富士浅間神社」の右には、また鳥居から階段が下りている↓
そこからの急勾配の眺めが、また大都会!(笑)→

下まで降りてみよう(^^ゞ。

この目黒区・上目黒にある「氷川神社」は、社伝にある通り、戦国期の創立という事でいいと思うが(^^ゞ、各地の「氷川神社」は、各社いずれもスサノオ命神(字は様々)を祀り、埼玉や東京に本社があった事が伺える。

つまり武蔵国に古くから伝わる神社とされ、多かれ少なかれ、富士信仰を兼ねている社が多いという。

ここ上目黒の氷川神社は、厄除が祈願され、氏子は昔から「疫病知らず」として知られるそうだ。

階段下に達すると、周囲はさらにビルが林立し、大山詣の旅人たちが、道標を頼りに歩いた頃の風景など、今は想像すら出来ない(^^ゞ↓

一番下の鳥居から周囲を撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

←本殿の向かって左隣には、「稲荷大明神」。
↑並ぶ鳥居を潜って、コン!の前でパンパン(^∧^)

実はこの2〜3月、やや身辺落ち着かない日常だったが、そんな中、長年興味の対象だった場所だった事もあり、ちょいと優雅な参拝タイムを味わうことが出来た(^^)v

以上、関連事項は、
■東京方面
2004年12月<そこに、なぜか「世田谷観音」(爆)>
2005年3月<東京>
2005年11月<駒沢公園(東京)>




<初春の手賀沼・古利根川>

また、千葉県に帰って来た(^_^A)。
例によって、手賀沼方面に向かい、さらに北上して、この日は古利根川まで行った(^^ゞ。

まだ逆井あたり(地図W

そしてスペイン、イビサ島に到着!(笑)

嘘、嘘(^_^;)。手賀沼です。いつもの曙橋あたり(地図S)これより恒例、日没シーンの連写。

日の入り始め、お日様が縦に重なって二個あるように見えてビックリした(笑)



お次は、イタリアのボルセーナ湖にも出てみよう(^。^)。 ヽ(^^; )<やめなさいよ、そういう見栄張るのは。手賀沼のちょっと北にある、古利根川でしょーがっっ!!

千葉県(我孫子市)側(地図X(パノラマ4枚180度以上)

さらに近付いてみる(パノラマ5枚180度以上)

こんな感じに、湖面にバッチリ近付いて釣りが出来るので、釣りキチな方々がよくここで糸を垂れて、車で連れて来た猫チャンに餌を上げたり、焚火なんかも出来るようで、ドラム缶に乗せれる調理道具など積んで来る。

イタリアの……とか書いたが、実際にはインドシナとか、こんな感じかしら〜(≧▽≦)と、何となく憧れる雰囲気♪

湖(溜め池)の北側、茨城県取手市の側(パノラマ4枚180度以上)

←舟や渡し橋もある本格的な釣り場。
↑水辺の対岸には紅白の梅花が(^^)

以上、関連事項は、
■古利根川・手賀沼・手賀川・逆井
2005年11月<将門神社>
2006年8月<まずは逆井の梅から(^^ゞ>
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降
2008年4月<柏市・手賀沼>
2008年5月<年末(^^)>
2008年6月<黄砂吹き荒れる手賀沼>以降
2008年7月<逆井の梅花〜手賀沼(柏市)>
2008年8月<お花見続行(^^)>
2008年11月<茨城県取手市「龍頭山・常圓寺」>以降
2008年12月本文
2009年5月<古利根川・手賀沼・清遊湖>
2009年6月<手賀沼と発作橋(冬の白鳥)>
2009年8月<日頃の風景(手賀沼)から(^^ゞ>
2009年9月<初夏の布瀬と手賀川(^^)>
2009年12月<柏市「手賀沼」「下手賀沼」>
2010年7月<手賀沼と下手賀沼から、富士山・筑波山を>
2010年8月<今井の桜>以降
2010年12月<将門神社(沼南「龍光院」)>以降
2011年1月<手賀沼の晩春〜初夏>
2011年9月<柏市〜白井市、秋の夕暮れ><同じく、夕月・夜雲>および<日没>




<3月11日、東日本大震災>

この時の事を、「今週のご挨拶とお知らせ」に書いてある。
日付は3月18日……震災より一週間ほど後だが、今思い出すよりは、当時に近い印象が綴ってあると思うので、その部分の概要(短くしてます)を列記。(元の文は、「今週のご挨拶とお知らせ」2011年3月18日内を)

本震14:46、風邪ぎみ&花粉症の薬で眠かったので、こたつで横になっていた。

揺れて来たと感じ、「物が降って来る場所から遠のくように」と忠告する地震速報に逆らって、危険物の多い台所に行き、素早く食器戸棚の扉を閉じて、錠をかけようと伸ばした手が、激震で叩きつけられながらも、しがみついて閉め、台所を離れて、本格的に安全な場所に身を置いて、本格的な揺れに備えた。

テレビ放送の真剣さから、初めて「大きな地震?」と気付き、やがて大きな震度が発表されたのに驚きつつ(後でさらに大きな震度に訂正されたが)、その後30分〜1時間は、(気象庁の発表では、短い範囲に何度も揺れたようになってるが)揺れてない時間がなかった

こたつ亭主から電話があり、お互い無事を確認しあいながら、テレビにも、亭主の目前にも、東京の人はみな屋外に出て、地上に集結してる様子だったので、「外に出た方がいい」と言い合って、電話を切った。

外に出ると、隣近所とも声をかけあい、「出た方がいい」という事になったので、一度家の中に入って、いつも持って出る手荷物を取り、再び出ようとした所で、15:15、震源=茨城県沖の震度6強が起きて、足の下が歪んで足元がもつれたが、体調不良のせいか、一瞬わからなかった(^_^;)。。

外に集まって来た近所の人と話したり、避難所の確認などしあったり、被害を話しあったが、高層建物の高層階に住む人からは、かなり揺れて恐怖を感じた事を聞いた。

しかしその内、寒くなったので家に戻った。

この日は、そんなにいつもと違う夕陽とは気付かず、ただ写真を撮っていたら、近所の人が「周りのお店、みんな閉まっちゃったよ」と教えてくれたので、買い物どうしようかと思ってたけど、家に帰り、テレビ情報を集めるのに専念する事にした。

←家族や近所の安否確認も取れ、一先ず安心した時間だったし、変わった空を見ると撮る習慣が身についてたから、この日もいつも通り、何気なく撮ったが、後日デジカメから取り出して見た時、異様さ、気味悪さに改めてギョッとした。

後で、巨大な津波が太平洋の各地を襲ってた時間の夕陽だったのだと、気付いた。

部屋に戻ってテレビを見る内に、名取川の大津波の映像が映り、物凄い被害に驚愕。

その後、あちこちの部屋で、本が落ちていたり、設置した家具類から戸棚や乗ってた物がズリ落ちかけてたり、茶碗の飲み物などをはじめ、液体類がこぼれてたり、後から後から気付かされた。

この後も、「ご挨拶」では、この日の夜、次の一日……と、後日の事を書いた(元の文は、「今週のご挨拶とお知らせ」2011年3月18日内を)

帰宅難民となって、さんざんな目にあった亭主は翌夕、何とか帰って来れたが、原発事故が起こって、すぐに計画停電が始まり、昼間の駅は閉めて、夕方ごろ構内の階段を使うと、足元まで真っ暗だった。

←駅やスタンドの営業中止の告知

ガソリンは、運よく車が修理から戻ったタイミングで足りてたが、どこの店も営業中止となり、初めちょっと遠くまで探しに行ったが、それでガス欠になると、余震で逃げる場合ヤバイので、探すのも諦めた。

ガソリンは2週間後に給油できるようになったが、その2週間といい、そのさらに後といい、物不足にはちょっと悩まされた(^_^;)。。
特に電池と水は、ずいぶん長い間無かった。

買いだめが横行したとも聞くし、水は放射能雨の影響で、消費者が殺到したとも聞くし、水自体はあるが、被災地で作ってたという事もあって、ペットボトルの需要が追い付かなくなったとも聞いた。

ヨーグルトや納豆など、発酵させるような食品は、計画停電の影響で作れなくなったとも聞いた。



次回は、2011年の春〜初夏編。だいたい3月〜5月ごろをお届け出来れば、とーー!

2011年10月23日

<つづく>
 
     




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