前回で東北レポは終わって、前回に引き続いて、日常および近隣レポ編(^^)。 前回は、秋〜初冬(9〜12月)あたりまでをお届けした。 今回は、冬〜初春(2010年12月〜2011年3月ごろ)までをお届けしたい。 ■2010年12月〜2011年3月・東京都、千葉県北西部 <クリスマス前の東京(皇居東面)> ↑ざっと、皇居の東側、北は須田町から南は国会議事堂あたりまでの、紅葉&クリスマス&夜景を♪ 地図A←通常サイズ(13)にしとくけど、「15」ぐらいが南北ちょうどサイズかな(^^ゞ。
地図B←法務省。 地図C←国会議事堂(どっちも「16」以上) 以後は夜景。↓六本木のみ皇居周辺じゃないけど、クリスマスっぽく街灯ライトアップしてたんで(^^ゞ。そのあとは再び皇居周辺。
地図D←「ザ・ペニンシュラ東京」(詳しくは拡大を(^^ゞ。「18」以上ぐらい) 地図E←「明治安田生命ビル」(字表示「19」以上)
今年(2011年)は、これから冬も節電モードになりそうだから、クリスマスのイルミネーションも控えめになるんだろうね(;_;)。。。当分去年までのが見納めかもしれないから、沢山撮っておけば良かったな〜。。 以上、関連事項は、 <東京「上目黒・氷川神社」の「目黒富士」>↓にて <クリスマス本番〜年末> 今年(と言っても2010年だが:笑)も行きましょう(^^)! 普通のおウチもあるので、詳しい場所は内緒だけど、だいたい柏・松戸とその周辺(^^ゞ。 あ(゚m゚)その前に……今回は2枚だけ。前回に続いて「変わった夜空」を↓ 夜の明るい雲。これで夜8時の空、しかも12月よっ(^^;)。。
この「城主のたわごと」では、山陰レポの前(つまり震災の前)から取り上げてる通り、去年(2010年)の夏〜冬にかけては、こういう「変わった空」を何枚か撮った。 まぁ、実際に感じたのに比べ、撮影技術の問題もあって、異様な感じが伝わらないかもしれないけど……。。。 12月と言えば冬至。1年で暗くなるのが一番早い時期だし、実際、この12月も他の日は「暮れるの早くなったね〜」が挨拶になるぐらい、午後は4時半とかにドップリ暮れてた(笑)。 特に東日本は暮れが速いから、関西など西の方から来る人からは、急な日暮れ具合に驚かれる事が多い(^_^;)。 なのに突然、何この明るさ!っていう、この夜空が現われたの(^_^;)。 まるで昼のような明るさで、同じように怪訝な顔で空を見上げる通行人が何人かいた。 勿論↑の写真は、暗くてもわりと写る、高感度モードになっている(^^ゞ。
2010年の閉めは、曙橋ちかくの暮れゆく手賀沼(パノラマ2枚)
これもまた、走り廻るようなスピード感ある夕雲
山陰に行く前(1月号)から始まり、東北レポの後は先月もお届けした通り、この2010年は夏〜冬にかけて、ヤケにダイナミックな夕雲&夜雲をよく見た。 ただ、それは雲に関してのみで、これより正月を越えて、遠くの富士山や筑波山のシルエットが抜群によく見えたりする傾向は、単に極寒の12月〜1月の風景として毎年の事だけどね(^^ゞ↓ 以上、関連事項は、 ■紅葉&クリスマス 2007年6月<クリスマスの街角(^^)> 2008年4月<松戸市・「常盤平」駅前「けやき通り」> 2008年5月<年末(^^)> 2009年6月<紅葉とクリスマスが同時に訪れるの図(笑)> 2010年7月<街路樹の紅葉(#^.^#)>および<クリスマス・イルミネーション> <新年は今年も、松戸七福神巡り(^^ゞ>
さて今年も、松戸七福神めぐりの開始! ……特に毎年恒例にする気はないんだが(笑)、だいたい年の終わりまで大わらわだから、何も考えずに休暇に入り、年末は買い出し&掃除に明け暮れて元旦を迎え(場合によっては過ぎ:爆)るんだね。 元日はくたびれきって、食っちゃ寝てテレビ見て、ドロ〜ンと休み気分に浸って何も考えず、イザ初詣に出掛ける頃、「いつものアレで(^^ゞ」になっちゃうんだな(笑)。 何となく町の様子を見るのも、この七福神コースが一番だしね〜♪ ただ、これまで七福神の神様たちは、何度も写真に撮って出したので、今年は七福神自体は出さず(^^ゞ、ざっと各お寺の様子をお届けしよう。 まず、弁財天の配置される「華厳寺」(地図J←「17」以上)↓
ご本尊(本堂の)は、幸田川から引き上げられた地蔵で、地域に火災が殆ど無かった事から、火除を祈願される寺になったので、近年では、川にちなんで弁天さんのお寺となったと同時に、火渡り行事も始まった。(2009年6月<今年も年始は「松戸七福神めぐり」から>内) だから、この「水子」も川と関係あるのかもね。元々、地蔵は子供の守り神(仏だけど)だもんね(^^ゞ。 この背後の墓苑にも、ちょっと入ってみた。 裏は墓地で、奥(→)は新区画(パノラマ4枚180度以上)
お堂の脇道↑から入って、まず墓苑↑、さらに進むと、まだお墓の立ってない空間↑に達する。 この一郭で、お寺の方か火渡り行事関係の方か、笹葉のたくさん繁った長い青竹を数本、ここで火を起して焚かれていた。 「こんなに広かったっけ(゚.゚)」と思いながら、先に進んで、振り返ってみると……↓ 振り返ると、本堂が左に、その手前に墓苑が見える(パノラマ4枚180度以上)
この↑石碑に、この広い敷地の説明が書かれていた(^^ゞ。 「後世に伝えるため記す」として、「新墓地完成の碑」とあり、その内容は、寺の敷地は狭かったが、檀徒さん達が協議し、篤志な方の協力を得て、実勢価格より格安で、昭和63年に新しい墓地として土地を取得したそうだ。 昭和63年(1988)だと、ずっと前だから、単に自分らがこの敷地に気付かなかっただけなのかも(笑)。まぁ檀家でもないので、入らなかったというのもある(^_^;)。 でも、この松戸市も東京都に近い地域は、細々と建物が立ち並んで、正直あまり東京と変わらない(^_^;)。 寺は愚か、首都近郊の大型墓地(いわゆる霊園)もいっぱい気味なのか、もっと遠くの霊園のチラシなんか新聞に混ざって来る始末。 そんな中で、旧来からある寺(ここは鎌倉時代に起源)が墓地を広げるなんて……しかも、実勢価格より格安なんて、そんな事もあるんだな〜と感心した(^^ゞ。
七福神というのは、日本史の中でも典型的な神仏習合だから、地域によっては、派はもちろん、宗が違う寺同志や、神社さえ混ざってるもアリのようだが、そうした中では「松戸七福神」は、「真言宗」の「豊山派」と、宗も派も統一されてる(^^ゞ。 一方、成田山(新勝寺)は、松戸七福神と同じ真言宗ではあるが、「智山派」だから、厳密には違うんだね(^^ゞ。 真言宗という事だと、松戸七福神では、よく弘法大師像や弘法大師堂、四国霊場巡りの記念碑などを見る。 だからか、この不動明王は、ちょっと奥まった目立ちにくい場所にあり、一方、恵比寿サンよりさらに手前に大師堂があって、弘法大師が祀られている。
この「本陣」については、ちょうど前回までの東北レポ「第3弾(6月A)」でもやった(^^)v。 福島県の南部(奥会津博物館や大内宿)で見た通り、江戸時代のおエライさん向け宿泊所だっ♪ (2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内、および、<大内宿>内) 「おエライさん」とは、ここの案内板によれば、「幕府役人、大名、公家、旗本」などで、さらに「本陣」には、一般の旅籠などが設けることを許されない、「門、玄関、書院」を設ける特権を与えられていた。 福島県では、ああして立派に「本陣」の建物が残ってたり、残った史料を元に復元したりしてて、いいなぁ〜(;m;)。
「松戸宿」は、「水戸道中」と呼ばれる道筋の宿場の一つだった。 参勤交代では、常陸国の「土浦藩・笠間藩」、陸奥国の「磐城平藩・相馬藩」など、十数家の大名が宿泊や休息に利用した。 江戸前期は吉岡隼人家が、中期以降は伊藤惣蔵家が代々勤めたが、明治維新後に宿駅制度が廃止されると、本陣も廃止となった。
「宝蔵院」は、今めぐってきた「善照寺」「松戸神社」「本陣跡」からスグ南にある。 七福神では、大黒さんを配しているお寺(^∧^)。地図O 山門の外から既に見えてる、新築の二階建ての建築物は、元は、大黒さんがポツッと立っていた辺りに作られていた(^^ゞ。 何だか立派になって、ちょっとビックリしたけど、毎年抱きついてくれるワンちゃん、今年も元気に迎えてくれて嬉しかった!
去年は首輪の綱が切れて、裏庭に廻されていたのを、住職さんがわざわざ裏庭までご案内下さったのだ(^_^;)。 忙しい正月に申し訳ない、と思ったんだけど、「いやいや、会ってってあげて下さい」とニコニコ仰る様子から、このワンちゃん、けっこう大事にされてるんだな、と思った(笑)。 今年は綱も回復したようで(笑)、元通り、入って来た所でシッポを振ってくれた! 撮影しようとすると、早速サービスしようと近寄って来るので、カメラを構える時間は非常に少ない(笑)。 もっとも、どうもカメラを大事な物と心得てるようで(゚.゚)、手を邪魔するような素振りはせず、もっぱら足元に顔を寄せて来るのだ。……賢い!(なので、写ってるのは頭と背中ばかり多い:笑)
この墓地、松戸で有名な名前……松戸氏や安蒜氏の墓を見掛ける。安蒜氏は戦国期の高城氏の配下いたのと同氏族だろうが、松戸氏は、20世紀梨を発見・改良した「松戸覚之助」と同じ松戸さんかな(^^ゞ? 他に、「染谷氏」を見付けた。 こちらは、このほど本堂の隣に合祀された摂社の一つ、「菅公堂」と関係がある「染谷」さんかな(゚.゚)?
そして、ここに祀られる事となった由縁を、こう続ける。 「八柱霊園が昭和五年頃造成され、それに伴い天神山が崩されてその土で田を埋めたり道路造成をしました。祠も今は白髭神社の末社に移されています。 此の度徳蔵院の境内に祀られる事になった天神様は子和清水の染谷仙次郎氏が個人的に祀っていたのですが、氏が亡くなりお祀りする事が出来なくなった為、遺族より寺に託されましたので、管公堂を新たに建立し松戸天神としてお祀りする事になりました」 目に見える風景からは窺い知れない、松戸の歴史の一端だな〜と思った。 八柱霊園は、松戸市やその周辺の多くの人々(かなりの割合で、ヨソから来た新興住民もいると思う(^^ゞ)のお墓が集まった霊園だ。 それを作るために、怨霊を鎮める山が崩され、地域の補充に土が使われ、それでも神社の末に祀ったり、個人的に祀る地元の方がおられた。 もしかしたら、そのおかげで土地は祟りを受けずに済み、祀る人が居なくなっても、こうしてお寺が引き取って下さるので、引き続き、平穏に暮せるのかもしれないよね(^^)。 道真の命日、2月25日には、笹に25個の団子をつけた「天神団子」をお供えして、今でも祭祀を続けているそうだ(^∧^)。 ところで、本堂の隣の敷地には、前面に弘法大師を祀る小さなお堂があり、その後方に、前の年には「金毘羅神社」、それより前には「藤塚稲荷」の復帰と、次々と増設されているんだよね(゚.゚)。 さっきの登り階段の手前には、これも近年「子育て地蔵」も設置されたし、この徳蔵院は、近年まで無住寺だった時代が続いたそうだがが、その分バンバン盛り返してて、頼もしいんだわ〜(#^.^#)。
地図Q←詳しくは「15」以上ぐらい。 ここ数年、七福神めぐりはスイスイ廻っちゃう事が多く、こんな暗くなるのは久し振りだが、最後までお茶を振舞って下さり、有難かった(^∧^)。 日のある内に廻るのも気分がいいけど、暗くて寒いと、ホノボノと温かみが伝わる。 良い風情で締めくくらせて頂いた(#^.^#)。 以上、関連事項は、 2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内、および、<大内宿>内 ■正月&松戸七福神 以上、関連事項は、 2004年8月全文 2004年9月全文 2005年12月<お正月(^^)・そして今年も「七福神巡り」> 2006年7月<八柱「藤塚稲荷」><松戸オマケ・各所、風雲名物(笑)> 2007年6月<松戸七福神巡り><松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)> 2008年5月<年始(^^)・「松戸七福神」巡り> 2009年6月<今年も年始は「松戸七福神めぐり」から> 2010年7月<初日の出とお正月(^。^)><松戸七福神で初詣> <真冬の手賀川、白鳥・富士山・筑波山> 手賀沼の東、手賀川が西と南に分水する辺りに、いつも沢山の白鳥が浮かんでいる(^^)。 秋から真冬までの、同じ集合場所に屯してる様子を続けてお見せする。 地図R←白鳥さんたちのちょっと左に発作橋がある。橋の袂にいっぱい集まってる。
この「発作橋」あたりから、いま白鳥のいる手賀川の背後には、左後ろに筑波山、右後ろには、真冬の夕方だと、富士山のシルエットがそれぞれ見れる(^^)。
上の写真は、もちろんかなり望遠(^^ゞ。千葉県の北部だと、富士山なんてスゴイ小さくしか見えないからね(笑)。
発作橋より、手賀川を西に沿って進むと、手賀沼の東端「曙橋」(地図S)に行き着く。
この時期、こういった休日の風景とは別に、実は正月明け以来、「どうしても\(>o<)/!」と、亭主に強くせがんで、防災グッズの購入&設置にいそしんでいた。……今思えば、ネズミや鳥のような、「動物的カン」と言われても仕方ないが(^_^;)。。 3月に出した「今週のご挨拶とお知らせ」には、その事が書いてある。(後でまた出すけど(^^ゞ) これはそう長くないので、まんま引用↓
以上、関連事項は、 <初春の手賀沼・古利根川>↓にて <夕雲・枯木立・雪> 1〜2月ごろ。 年が明けると、自分が気付かなかっただけかもしれないが、前年までに見たような「物凄い雲」を見かける事は少なく、ちょっと印象的な雲を見る程度になった(^^ゞ。
そして、お次は前も紹介した、柏市、藤心の喫茶店「アンチーブ」(地図T) ちょうど良い具合に小雪が降り始めたので撮影(^^)。
雪が降りだすと客足も途絶え、ペンションだとか、ロッジやコテージの一室に閉じこもっってる気分に(^^ゞ。
山陰では、港に停泊してる船舶が、300以上も積雪の重量で沈没したと言うから、夏のゲリラ豪雨と言い、このところの降雨降雪量って、ホント半端じゃないと、つくづく思わされる。。 以上、関連事項は、 ■藤心「アンチーブ」 2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢> 2007年10月■2007年8月ごろ 2010年12月<藤心「アンチーブ」(喫茶店)> <東京「上目黒・氷川神社」の「目黒富士」> ここから3月(^^)。ウッスラと春の気配がする頃。 ヤボ用で、東京の池尻大橋まで行った。 前からこの辺りを通る時、道路から見える盛山に「氷川神社」とあるので、「見学したい」と思ってたのだが、いつもは車なので、途中で止まるわけにも行かず……(;_;)。 この時は電車で行ったので、用事の帰りに寄って見た(^^ゞ。 地図U←氷川神社は、「18」以上で出て来る。
↑左の写真の前の道路(246号線)を、←こう行ったり、→こう戻ったりしながら、「あの斜面の上の神社を見てみたいな〜」といつも思う。 一方、右の写真は、246号線(玉川通り)との交差点(大橋)で、交差してる道路は317号線(山手通り)。 なぜ後方(317号線)に下がるかと言うと、ちょっと左側を見て貰いたいから(^_^;)。 317号線の左の敷地(パノラマ3枚ほぼ180度以上)
↑こうした物が作られていた。今年(2011)の3月だから、今(10月)はだいぶ完成してるだろうか(^^ゞ。 これは「大橋ジャンクション」といって、中央環状新宿線(板橋から大橋に至る、中央環状線の延長11km道路)と、3号渋谷線(東名高速に繋がる高速道路)の「繋ぎ目」になる予定で、建設が進められていた。
元々そこにあった建物の写真(上空図)もあって、何百からなる建物(多くはビル)がドッとどかされて、姿を消した事がわかる。 実はこたつは、祖父母の代&子供の頃から、目黒&世田谷あたりが地盤だったし、亭主と知り合ってから15年以上、やはり目黒&世田谷に住んでたので、前どんなんだったか覚えておきたかった気もする。 写真撮っておけばよかった(>_<)。。 で、「氷川神社」との位置関係だが……(パノラマ2枚)
↑こうした案内板が、建設現場の囲いとして、エンエンと広がっているが(笑)、中央左の円周道路図が、ジャンクションを上空から見た完成想像図。 円周の上は緑地になるとして、円の閉じ目が2方向に分かれている。分かれたちょうど合間あたり、246号線の向こう側に「氷川神社」の敷地がある。 では実際に、まだ建設途中ではあるが、この分かれ目の下を潜って行ってみよう(^^ゞ。 ジャンクション分かれ目の下に歩道橋(パノラマ3枚ほぼ180度)
地図V←「18」に設定。かなり拡大版だが(^^ゞ、分かれ目の合間より、ちょっと渋谷寄りの二本の下から、「氷川神社」に向かうようになっている。 国道246号線を横断する歩道橋(パノラマ3枚ほぼ180度)
俗にいう「246」、すなわち国道246号線は、「玉川通り」とも呼ばれ、古くは江戸と相模国を結ぶ「厚木街道」、相模の「大山・阿夫利神社」に参拝する人々も多いため、「大山道」とも呼ばれた。 明治40年(1907)、路面電車「玉電」が敷かれ、渋谷=玉川が結ばれると、大橋一丁目に車庫が置かれ、昭和44年(1969)の「玉電」廃止の後は、東急バスの車庫になった。 昭和46年(1971)、首都高速三号線の高架ができ、52年(1977)に地下鉄・新玉川線(現・東急田園都市線)が出来るなど、玉川通りは都心と郊外を結ぶ、大交通幹線として活躍している。
246からも目につく、この丘陵型の盛土は、思った通り名所のようで、「富士山」に見立てた物だそうだ(^^)。 現地にあった案内板からは、ちょっと判りにくい所もあったけど(^_^;)、だいたい次のような事だった。 この「富士山」は、昭和52年(1977)7月に、「登山道」としてここに開かれたそうだ。 「登山」というのは、この丘陵の途中に、「何合目」とか呼ぶ各所が設けられるからじゃないかと(笑)。 こうして境内の一角を、「目黒富士」と呼ぶようになり、7月1日には、「山開き」の例祭が行われる。 ここに「登山道」が出来たのは、この「氷川神社」の境内に、元々「富士講」の石祠や石碑が移されていたからだろう。 「氷川神社」正面、「目黒富士」を見上げる(^^)(パノラマ2枚)
「富士講」は、江戸時代に、富士山に対する民間信仰から発し、各地で人々が集まって作られた「講」で、人々は富士山に登ったり、身近にも小型の富士塚を築き、これに登って山頂の石祠を拝んだ。 江戸期の目黒区内には、「元富士」と「新富士」の二つがあり、「元富士」の方は、文化9年(1812)、目切坂上(上目黒1-8)に作られた。高さ12mで、浅間神社の石祠を祭った。 「新富士」は、それより後に別所坂上(中目黒2-1)に築かれた。 明治11年(1878)に、富士塚は取り壊され、この「氷川神社」に「元富士」の石祠などが移され、後にこの「登山道」を作るのに繋がった……という事だと読んだ(^^ゞ。
前方、階段のぼった先の境内(パノラマ4枚180度以上)
ああまで喧騒じみた大都会の中でも、ちょっと階段のぼれば、広くないながらも、ちゃんとこうした神社の空間がある。 何となく焼き芋でも焚火に入ってるんじゃないか……みたいな、ホンワカした情緒。 何だか懐かしいよね(^^ゞ。 今登って来た正面の石段は、江戸時代の文化13年(1816)の造営というが、初めはなだらかな物だったようだ。 石段の下には、「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道の道標があり、この大山道(現246号)は、江戸時代、「石尊参り」と言って、神奈川県伊勢原市の大山への参詣のため、多くの人々が利用した道だったから、多くの人が見た道標だったんだろうね(^^)。
明治11年(1878)、解体となった先ほどの「富士塚」の碑や祠などを、この「氷川神社」に移した。 明治38年(1905)、「大山街道」(246号線)を拡張する際に、現在ある急勾配な石段に改修された。 明治45年(1912)、北野神社を合祀(菅原道真を祭神としたのは、この時なんだろうね(^^ゞ)。 昭和20年5月25日、380年余、村民を守って来た神社の社殿は、戦災によって消滅。 氏子が再建をひたすら願った結果、東京オリンピックのあった秋(1640年だよね(^^ゞ)、奉賛会が設けられ、浄財を募って、社殿・神楽・社務所を造営する事ができたという。 昭和52年(1977)7月に、先ほど見た、「目黒富士」の「登山道」が作られて、こんにちの態を整えた。 境内の4基の鳥居は花崗岩造り、狛犬は小松石造りという。
一番下の鳥居から周囲を撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)
実はこの2〜3月、やや身辺落ち着かない日常だったが、そんな中、長年興味の対象だった場所だった事もあり、ちょいと優雅な参拝タイムを味わうことが出来た(^^)v 以上、関連事項は、 ■東京方面 2004年12月<そこに、なぜか「世田谷観音」(爆)> 2005年3月<東京> 2005年11月<駒沢公園(東京)> <初春の手賀沼・古利根川> また、千葉県に帰って来た(^_^A)。 例によって、手賀沼方面に向かい、さらに北上して、この日は古利根川まで行った(^^ゞ。 そしてスペイン、イビサ島に到着!(笑)
嘘、嘘(^_^;)。手賀沼です。いつもの曙橋あたり(地図S)これより恒例、日没シーンの連写。 日の入り始め、お日様が縦に重なって二個あるように見えてビックリした(笑)
お次は、イタリアのボルセーナ湖にも出てみよう(^。^)。 ヽ(^^; )<やめなさいよ、そういう見栄張るのは。手賀沼のちょっと北にある、古利根川でしょーがっっ!! さらに近付いてみる(パノラマ5枚180度以上)
こんな感じに、湖面にバッチリ近付いて釣りが出来るので、釣りキチな方々がよくここで糸を垂れて、車で連れて来た猫チャンに餌を上げたり、焚火なんかも出来るようで、ドラム缶に乗せれる調理道具など積んで来る。 イタリアの……とか書いたが、実際にはインドシナとか、こんな感じかしら〜(≧▽≦)と、何となく憧れる雰囲気♪ 湖(溜め池)の北側、茨城県取手市の側(パノラマ4枚180度以上)
以上、関連事項は、 ■古利根川・手賀沼・手賀川・逆井 2005年11月<将門神社> 2006年8月<まずは逆井の梅から(^^ゞ> 2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢> 2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降 2008年4月<柏市・手賀沼> 2008年5月<年末(^^)> 2008年6月<黄砂吹き荒れる手賀沼>以降 2008年7月<逆井の梅花〜手賀沼(柏市)> 2008年8月<お花見続行(^^)> 2008年11月<茨城県取手市「龍頭山・常圓寺」>以降 2008年12月本文 2009年5月<古利根川・手賀沼・清遊湖> 2009年6月<手賀沼と発作橋(冬の白鳥)> 2009年8月<日頃の風景(手賀沼)から(^^ゞ> 2009年9月<初夏の布瀬と手賀川(^^)> 2009年12月<柏市「手賀沼」「下手賀沼」> 2010年7月<手賀沼と下手賀沼から、富士山・筑波山を> 2010年8月<今井の桜>以降 2010年12月<将門神社(沼南「龍光院」)>以降 2011年1月<手賀沼の晩春〜初夏> 2011年9月<柏市〜白井市、秋の夕暮れ><同じく、夕月・夜雲>および<日没> <3月11日、東日本大震災> この時の事を、「今週のご挨拶とお知らせ」に書いてある。 日付は3月18日……震災より一週間ほど後だが、今思い出すよりは、当時に近い印象が綴ってあると思うので、その部分の概要(短くしてます)を列記。(元の文は、「今週のご挨拶とお知らせ」2011年3月18日内を)
この日は、そんなにいつもと違う夕陽とは気付かず、ただ写真を撮っていたら、近所の人が「周りのお店、みんな閉まっちゃったよ」と教えてくれたので、買い物どうしようかと思ってたけど、家に帰り、テレビ情報を集めるのに専念する事にした。
後で、巨大な津波が太平洋の各地を襲ってた時間の夕陽だったのだと、気付いた。
この後も、「ご挨拶」では、この日の夜、次の一日……と、後日の事を書いた(元の文は、「今週のご挨拶とお知らせ」2011年3月18日内を)。 帰宅難民となって、さんざんな目にあった亭主は翌夕、何とか帰って来れたが、原発事故が起こって、すぐに計画停電が始まり、昼間の駅は閉めて、夕方ごろ構内の階段を使うと、足元まで真っ暗だった。
ガソリンは2週間後に給油できるようになったが、その2週間といい、そのさらに後といい、物不足にはちょっと悩まされた(^_^;)。。 特に電池と水は、ずいぶん長い間無かった。 買いだめが横行したとも聞くし、水は放射能雨の影響で、消費者が殺到したとも聞くし、水自体はあるが、被災地で作ってたという事もあって、ペットボトルの需要が追い付かなくなったとも聞いた。 ヨーグルトや納豆など、発酵させるような食品は、計画停電の影響で作れなくなったとも聞いた。 次回は、2011年の春〜初夏編。だいたい3月〜5月ごろをお届け出来れば、とーー! 2011年10月23日 <つづく> |
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