<2006年・城主のたわごと1月>



2005年5月「関宿編」後半は川の合流地のレポ。

そして同じく5月、栃木県鬼怒川「東武ワールドスクウェア」第一弾。




     
  明けて2006年が来てしまった(汗)。
去年はやっと12月に年内レポに追い付いた。今年は……たぶん夏ごろには何とか追い付く気がする(笑)。
一時はソーゼツなる「二年前のレポ(爆)」ってのも堂々とやってのけた歴史があるから、まぁ今さら遅れてるからどうって事も無いような気もするが(^^;)。。

というわけで、前回「関宿編」の続きからまず行く。



■関宿
<関宿城・周囲の「にこにこ水辺公園」>


これより城を出るので、まずは駐車場にあった見取り図の登場。

いいなぁ、この安易なネーミング(笑)。「にこにこ水辺公園」!(爆)

↑これで見ると、前回は敷地の左側、灰色の駐車場から茶色の建物(城ね(^^ゞ)部分を通り抜けて、その右の庭園をそぞろ歩いた。
今回はそれらを取り囲む、周囲の緑地を散策してみる。

ちなみに、この敷地全体を、上に「江戸川」、右に「利根川」が流れていることが示されている。最後にこの両川の合流する橋まで行ってみる。

まずは城の外に出る。上の地図だと、たぶん右下の緑地に当たるんじゃないかと(^^ゞ。

パノラマ5枚(かなり魚眼(^_^;))。城の外は広い広い野原。

↑写真はパノラマで真ん中がかなりせり出してるが、右と左の道は実際には一本道で繋がっている。

前回も述べたごとく、この地域は江戸川と利根川の合流地で、江戸川の向こうは埼玉県、利根川の向こうは茨城県。その中間の細〜〜〜い地点にここ、千葉県の関宿はあるから、今後もジャンジャカとビルが建ち並ぶ大都市になる恐れは感じない。

この通り、ドド〜ンと遠慮なく野原が広がり、亭主悲願の「野原で寝っ転がる」希望はスグかなった(笑)。

早速そのようになっているの図
である事を主張している(汗)。。

↓野原のケロタン。城に向ってるようだった(笑)。↓
逆側、野原の遠く先には……筑波山?

そういや筑波山って、古くはガマの油売りがいたんだとか前に聞いたな(笑)。このカエルも、筑波山から関宿城に援軍に駆けつけた兵なのかも(^_^;)。

ただ私は「クローバーの密生地」ってのが苦手で、何だか目詰まりと眩暈を催す妙な体質で、歩きながらだいぶクラクラしてしまった(^^;)。。

パノラマ3枚。城の横(右)には公園の敷地が広がっている。

ちょっと公園の方にも向かってみる。川の合流地点に近付く感じになる。

わりと敷地の広い公園(パノラマ3枚)。 道の先は利根川。

ここが何とも「シュールな公園」だった(^_^;)。この芝生の上に↑点在する小さな影は……。

ウサギに……
カッ、カバですかっ。。

他にゴリラとかパンダもいた(^_^;)。。でも野ウサギはファンタジーのような、カバもちょっとサバンナっぽくイメージできなくないムードだったので良いとして……問題なのは。。↓

この不思議な、のたくった軍団。
ナマズだぁぁ〜っ!(爆)
先にはカメも。。

この辺りまで来ると、一体あそこにいる影の実態は何だろう、とイチイチ歩いて行って確かめずにはいられなくなり、ここでだいぶ時間を食った気がする(汗)。。

どれもいちいち妙にリアルな肉体を持っていて、カメなんて竜宮城に行ってくれそうなカワイイ奴じゃなくて(^_^;)、どう見てもゾウガメなんだわぁ。。→

ここ、夜中に来たらコワイだろうなぁ。。

珍妙な動物クンを見てる内に、江戸川側の道まで来てしまった。

また道路に突き当たる。この道路の向こうは江戸川。 (パノラマ3枚)

右にウッスラと見える山並は、さっき野原から見えた筑波方面と思える。↑
↑また左に遠く、橋が見える。この橋はまた後で渡る。

いっぽう道路右側。グルッと内側にカーブして敷地を囲んでいる。
(パノラマ3枚)

↑このカーブの外側こそが、利根川と江戸川の合流地。つまり左に埼玉県、右に茨城県がもっとも近い所である。

そして川向こうの風景も撮影。(パノラマ2枚)

広々してノンビリと長閑で居心地が良かったぁ(^^)。5月なので日暮れも遅く、まだそう暗くなかった。

じゃ城の見える広場を通って
駐車場の方まで戻ってみよう〜。

↑左の写真、城の前の公園にいるのはゴリラ(汗)。↑中央の石碑は「三懸鶏鳴之地」と書いてあり、地元のライオンズクラブさんが建てたらしいが、そこには古来から「三県(埼玉・千葉・茨城)の三箇所の鶏の鳴く声が聞こえる」のに由来してそう呼ばれた事、「関八州まほろばの地」とも呼ばれた事が書かれていた。

確かに鶏が鳴けば互いに聞こえあう程、この三県が近しい場所だとはしみじみ実感する。それだけで、この地は訪れる価値があるだろう。

最初に示した地図で言うと、城の右下の緑地に出て、城の右の公園(シュールな一帯:笑)に行き、城の上部の公園道をダラダラ歩いた。つまり城の周りを廻り込んで駐車場まで戻って来た。

で、元来た位置。→

博物館の閉館時間が気になって、到着するとすぐ中に入ったが(間に合わなかったけど:笑)、実はこの駐車場の周囲もなかなかいい眺め(^^)。

駐車場の左側。(パノラマ3枚)

駐車場の右側。(パノラマ3枚)

車まで何か取りに戻ったのかな?
何しろこの後「今度は川の合流する所を見に行こう」って事で、もう一度戻って、今度は橋を渡ってみた。



<江戸川流頭部、中之島公園>

ここは博物館や公園の敷地から出て、「中ノ島公園」という所に属する。正式名称は「江戸川流頭部、中之島公園」。

案内板にあった現地の地図

かなり縮小率おさえたつもりだったけど、まだ見えにくいね(^_^;)。
上から2番目の紺色の標識が「関宿城博物館」、これまでいた場所ね(^^ゞ。その右の紺色が本物の「関宿城跡」。
で、赤く「現在地」とある所に今おって、これより橋を下の方角に向かって江戸川を渡る。

←橋を見上げる土手。綿タンポポがいい風情〜(^^)。
渡りながら関宿城がこんな具合に見えて来る。↓

橋を渡る、折しも夕日が正面!
城が遠ざかる〜〜。

普通こういう眺めのいい場所って、トラックや車がビュンビュン通って、ゆっくり歩きたくてもオチオチしてられない事が多い。でもこの橋は交通規制されてて車輌はいっさい通れない。

だから写真も落ち着いて撮れるし、スケッチしたい人や油絵かきたい人でも、この橋の上からじっくり城が見られるんだよっ(^^)。 おにぎり食べたい人もOK!(さすがにゴザをひいて座ったら、他の通行人に迷惑だろうけど:笑)

一方、関宿城とは反対側。中州を取り巻く江戸川の合流が見れる。

最初に江戸川の一筋
そして左と右から合体〜〜!

この川を完璧に越えれば埼玉県〜〜〜(笑)。

さてさて橋を渡ると、まず見えて来るのは「関宿、水閘門(すいこうもん)」という水門。↓

利根川は洪水が多く、改修工事は1600年代、徳川家康が始めた「利根川東遷事業」というのが発端。

戦国期から長い間に行われた改修工事の跡、洪水の痕跡などがこの辺りには満載で残され、古い建設機械なども、中ノ島公園や関宿城博物館に展示されているという。今度見てみたぁ〜い(≧▽≦)。

江戸時代は江戸方面に水が大量に流れ込まないよう、「棒出し」という治水施設が使われ、これは関宿水閘門が完成するまで使用された。

また治水工事としては、それまで東京湾に流れ込んでいた利根川を渡良瀬川とともに東方の鬼怒川に導き、太平洋の鹿島灘へ放流。
一方、江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていたが、この工事によって利根川の派川となり、舟運の発展とともに江戸に通じる水路となって「江戸川」と呼ばれはじめた。

そして上の写真にもある「関宿水閘門」は、大正7年(1918)着工、昭和2年(1927)完成。開閉にはディーゼルエンジンが使われた。水門の脇に残る開門部分は人力で行われた物で、現在は閉じられていて「川の日」(7月7日)のみ開けられる。

「川の日」(゚.゚)?
七夕の「天の川」に引っ掛けてるのかな? 千葉県では星は千葉氏の家紋として、大変にシンボライズな存在なので、もしかして本当にそうかも?(笑)

こっちはもっと古く、明治40年(1907)に架けられた「江戸川橋梁」。→
ポニー型ワーレントラス橋というらしい。

大正15年(1926)江戸川から撤去され、1999年に当時の面影をもとに復元。

文明開化以後は、トロッコや蒸気機関車を使って治水が行われ、完成したのは昭和6年(1931)。またトロッコレールを使って作った藤棚も残る。

その後、昭和38〜63年まで、観測の行われた水位観測施設も残っている。今でも水位の観測は行われてるが、今は水晶式というのを使ってるからもう使われてないそうだ。

関東最大級のコブシの大木。
対岸に見える関宿城。

絵地図の案内板。上に横たわるのが利根川、縦に流れるのが江戸川。

江戸川の左、埼玉県幸手市に「平将門の首塚」が見える。ここには載ってないけど、利根川の向こう茨城県に入ると「国王神社」がやはりあって、ここも将門関連の史跡としては有名(^^ゞ。
今回は行かなかったのであまり述べなかったけど、この辺りもかなり将門色(何それ)の濃い地域。

沈むごとに光を増す夕日。
さて戻ろうか(^^ゞ。

途中、お城の周囲を大きく旋回する……鷺かな(^^ゞ?


その広々と旋回して空を舞う動きと、夕日を浴びて静止する城との対比が素晴らしく、昔の人が「白鷺城(姫路城)」とか「千鳥城(松江城)」などと、天守閣に鳥の名をつけた気持ちが頷ける思いだった。

そして振り返ると、夕日は地平線に沈みこんでいた。


橋の渡る先に沈む夕日……今では昔の青春ドラマの再放送でしか見掛けない風景となってしまった(笑)。
しかしこうして間近に見ると、かなり感動〜〜〜!ってわけで、何枚もバシャバシャ撮った(^^ゞ。


さて、もういっぺん駐車場に戻る。



<実相寺>

ここからはまた車で(^^ゞ。

←博物館を含む「にこにこ水辺公園」を出る。鯉のぼりが舞っていた。

17号線まで引き返す(詳しくは前回2005年「12月のたわごと」のこの辺を)

17号線に入るとわりとすぐ左側に「実相寺」がある。→

宝樹山本足院「実相院(日蓮宗)」正面
綺麗なハナミズキの花っ♪

724年、行基により創建。開山は茨城県総和町に法相寺として。真言宗に改宗ののち1409年、日英上人により日蓮宗に復帰。

1475年、古河公方、足利成氏の重臣、簗田氏が関宿城に入城したとき、寺はこの関宿に移された。

……と寺の案内板にはあったが、簗田(河内守)成助が関宿城を築城したのは1457年だから、たぶん誤植(1457年が正解)と思う(^^ゞ。

この実相寺は、江戸期から明治まで関宿城主であった久世家の菩提寺であり、歴代の城主と奥方の位牌を安置し、墓地には家老職の富田家、奥原家、亀井家など家臣の墓もある。

1871年、関宿城の本丸を一部を移築。1709年に建造された客殿で、千葉県で本丸の建物が現存するのはここだけ。

また、終戦当時の内閣総理大臣、鈴木貫太郎(元海軍大将、元侍従長)夫妻、その弟の孝雄夫妻の墓もある。

本堂
橘紋だね(^^ゞ

久世氏が領主になるまでの関宿は波乱万丈で(笑)、まず1457年に築城した簗田氏だが、簗田成助の後、高助・晴助・持助と代変わりしつつ居城。が、持助の時に上杉謙信に通じたため、1574年、小田原北条氏の攻撃を受け、関宿城は後北条氏の持城となった。

1590年に後北条氏が小田原に滅ぶと、関宿には松平康元(久松・家康の異父弟)が4万石で入城。これが1616年に美濃大垣に転封されると、松平重勝(能見)が3年在城の後、遠江横須賀に転封。1619年に小笠原、1640年に北条、1644年に牧野、1656年に板倉、1669年に久世(※)、1683年に牧野、と目まぐるしく変わり、1705年に久世重之が三河吉田から5万石で入ってから以後は、明治まで9代久世氏がようやく安定支配した。

前回「12月のたわごと」で、関宿城が「富士見櫓を模して建築された」という1671年は、この最初の久世氏支配の頃に当たるには当たる。

観音さま
牡丹が見事だった〜日蓮宗って花壇が綺麗よね(^^ゞ。

久世氏の中では、8代広周(ひろちか)が知られ、幕末に老中職。公武合体論をもって和宮内親王の徳川家茂(14代)への降嫁に尽力。また幕府軍事の強化に努め、陸軍に小栗上野介、海軍に勝海舟を登用した。が、1862年に失脚。余生を関宿城で送った。

鬼瓦
鈴木貫太郎の墓

鈴木貫太郎については、この寺にも長〜〜い年表が立派な木の板に仕立てて示されているし、近くに「鈴木貫太郎記念館」もある。終戦時に総理をつとめた「憂国の宰相」として知られる。記念館とここの墓碑は、その晩年を関宿で過ごしたことに由来するのだろう。



<宗英寺>

いいかげん日が暮れて来た(笑)。
ここは今度にしようかな〜と言いつつ、何となく来てしまった(^^ゞ。

月が出て、ドラキュラ城な雰囲気(笑)
うっ流石に明度限界か、写真がブレ始めた(^_^;)。

山門の中が妙に明るかったので、「夜だけど何かやってる?(゚.゚)」とそのまま駐車場に滑り込んだ。
が、どうやらお寺さんの中で、知り合いが集まってバーベキューをやってるだけのようだった(^^;)。

「うっ、しまった身内のパーティだったのか!」とは気付いたが、いかにも意味ありげに車を降りてしまった手前、意地でも用のある参拝客のフリをする(笑)。

用はある。参拝でもある。しかし身内やご先祖の墓参りではない(爆)。
私がお参りしたいのは、古河公方、足利晴氏の墓である(爆爆)。

持氏−成氏−政氏−高基−晴氏−義氏−氏姫

そもそも、足利持氏までは「鎌倉公方」と言われていた。
これは足利尊氏の子、基氏が鎌倉に派遣されて御所をしつらえ関東を治めるようになって以来、脈々と受け継がれた京の将軍に継ぐ地位である。

持氏は補佐役である関東管領、上杉禅秀のライバルを関東管領にして、キレた禅秀に謀反を起こされた。これが関東じゅうを巻き込んだ禅秀の乱(1417年)。

禅秀が敗れ自刃して終わったが、その後も持氏は京の将軍義教(8代)ともソリがあわず、やれ年号を使わないの、頂戴した諱を息子に名乗らせないのと逆らったあげく、管領を殺害(「永享の乱」1435年)。最後はついに幕府に討伐軍を起こされ自害に追い詰められる(1438年)。

その次男の安王丸と三男の春王丸(長男の義久は持氏自害の同年死去)が、持氏の残党に守られて結城氏を頼り挙兵。が、二人は捕らえられて殺された。この事件が「結城合戦」(1440年)。

というわけで、四男の成氏が鎌倉公方となった。
が、禅秀の乱で父、持氏と対立して旧領を失った武田氏、二人の兄である安王丸・春王丸を庇って脱落した結城氏、他に里見氏などの地位と本領を回復しようとして、関東管領の上杉氏と対立した。

一方の上杉氏には太田道灌の父、道真が家宰をしていて、道真は鎌倉御所と呼ばれる成氏の居館を襲撃した。
いちど江ノ島に逃げた成氏は「江ノ島合戦」で反撃し、1454年には管領上杉憲忠を殺害。以後、関東は「享徳の大乱」に突入。成氏は1455年に古河に御座を移し、「古河公方」と呼ばれるようになった。

この利根川は、まさに成氏にとって敵、上杉氏との境界線であり、何度も激しい戦いが行われた。
京の幕府も、別の鎌倉公方を立てる事を考え、将軍義教の子、政知を鎌倉に下向したが、政知は鎌倉に入れず堀越にとどまって「堀越公方」を名乗ったため、名実ともに関東は二大公方の乱立する事態となった。

が、成氏は、最後は越後守護の上杉氏の仲介で幕府と和睦した(1482年)。

しかし1486年、太田道灌は上司の上杉定正に殺され、混乱状態となった上杉氏は扇谷と山内に割れて揉め、再び関東は騒乱に飲み込まれる。
成氏の子、政氏は扇谷についたり山内についたりしてたが、そのうち政氏も自分の子、高基と対立するようになった。

高基は持氏のいる古河を飛び出し、家来である簗田氏の関宿城に移った。場合によっては高基は「関宿公方」になってたかもしれない(笑)。
また高基には義明という弟がいて、義明も「小弓公方」と名乗って独立してしまう(笑)。

上杉も内輪揉め、古河公方家も内輪揉め、そこに付け込んで進出してきたのが北条早雲(笑)。この古河公方父子の対立は、そもそも早雲が裏で画策した結果とも言われている。

が、政氏と高基には政策上の違いもあり、政氏が鎌倉公方時代の体制や権利を行使したのに対し、高基は北条氏綱に縁組を申し出て、巧みに北条氏に擦り寄っている。

で、やっと晴氏の話になるが、そういうわけで高基の子、晴氏は北条氏綱の娘を妻にした。
その頃、晴氏にとって叔父である小弓公方義明の勢力が増し、脅威に感じた晴氏は舅となった北条氏綱に討伐を頼む。氏綱は義明と組んでた里見義堯との合戦に及ぶ。これが「国府台合戦」(1538年)。北条氏が勝ち義明は討死した。

晴氏は家督を氏綱の娘との間に生まれた義氏に譲ったが、北条と戦っていた管領上杉氏に同調したのを期に、簗田高助の娘との間に生まれた藤氏・藤政と古河城に籠り、北条氏康に反旗を翻す。
が、敗れて藤氏とともに捕らえられ、晴氏は相模に幽閉され、晩年は関宿城に戻って死んだ(1560年)。

晴氏の子でありながら北条氏の血もひく義氏は、北条氏によって小田原に移され、鎌倉鶴岡八幡宮の参詣を強いられるハメになり、北条氏は義氏を補佐する名目で「副将軍」と自ら称した。

これじゃ「まるで北条の傀儡公方じゃん」と見るのも道理で(笑)、上杉謙信が藤氏を擁立したり、藤氏が死ぬと簗田氏が藤政を担いだりしたが、1574年、頑張ってた簗田持助もついに北条氏照に攻め込まれ、関宿城を明け渡した。
もぉ〜すっかり完敗ね(^_^;)。

その北条氏も1590年小田原に滅ぶ。
秀吉は義氏の娘、氏姫を小弓公方義明の孫と結婚させ、喜連川足利氏として子孫を残させた。

本堂と手前のおっきな木
山門を振り返る
ホントはだいぶ暗い(^_^;)

↑かなり明度をいじったが暗いね(^^ゞ。他に松平康元(家康の異父弟)の墓もあったハズなんだけど、暗くて探せなかった〜(>_<)。。

←古河公方晴氏の墓/真紅の牡丹(芍薬かな(^^ゞ?)↓

日もとっぷりと暮れ、関宿を後にする前に、行き掛け何度か見たウナギを食べたいね〜という話になり(またまた:笑)、帰り道「うなぎ屋」を見繕いながら走った。

一軒なかなか良さそうな店を見付けたので、イソイソと入って「うなぎ・そば定食」を注文(^^)。

美味しかった〜☆ミ
地図で見ると、関宿ってかなり距離があるように見えるんだが、道のりがいいのか、来て見ると行きも帰りもわりとスグで、関宿にはまだまだ見所が沢山あるので、そのうち又来たいと思う(^^)。

というわけで、これにて「関宿編」はおしまい〜☆ミ



■栃木
<宇都宮〜鬼怒川>


ここから先は、今月のこの回を入れて3回シリーズぐらいになるかなぁ(^^ゞ。

関宿に行ったのもGWなら、この鬼怒川行きもGW。
確か2日に所用がてら関宿に足を伸ばし、5日にここ鬼怒川に来たのだと思う。

と言うのも、亭主が「野原も良かったけど、やっぱり森林浴がしたい!」と言い出したからだ(笑)。
やっぱ飼い主である以上、犬にはきちんと散歩をさせないとならない(汗)。
「森林浴、森林浴」とあちこち検索した結果、安易にも次なるガイドを探し出す。

「全国森林浴の森百選」(爆)。
提供は「林野庁・緑の文明学会」(意味不明(^^;))。。

その指定された関東各地の「森林」の中から、亭主は栃木県の「県民の森」を選んだ。
そこに向うルートを道路地図で確認してたら、前に日光に行った時に買ったガイドブックで見付け、行ってみたいな〜と思っていた「東武ワールドスクウェア」が途中にある事がわかったので、先にそこを目指そうという事になった。

←途中のSAで見かけた鯉のぼり(^^)。

東北道(高速)を宇都宮で降りた。

いつもは「日光宇都宮道路(有料)」を通るのだが、この日は日光の手前の今市から北上して鬼怒川に向うので、「日光街道」を通ってみた。 →

杉並木の威容が素晴らしく(^^)、緑の季節ともあいまって清々しい道のりだった。

「日光街道杉並木」の標識
農家の庭先の花も、ほどよく咲き乱れ♪


道路は日光に向けて東から西に進み、日光に至る手前「春日町」という所で北上する。日光が近いだけあって、この辺りには「日光溜まり漬け」など日光で有名な店も見えた。

←春日町の交差点   大谷橋(大谷川)の鯉のぼり↓

北上ルートは121号線。「大谷川」を渡った後も直進。ウェスタン村を通り過ぎた頃、道路は「鬼怒川」と合流。日光江戸村あたりで橋を渡った。

この橋の上から、ちょうど二艘の舟が見え、舟の上では漕ぎ人がスイスイと櫓を操っていた。
波をわける音いがいは、余計な音を一切出さずに水面をすべる舟の光景に、「おお〜(^^)、風情、風情」と二人とも大喜びで観光気分に浸った(笑)。
鬼怒川には「ライン下り」というのがあるので、タイミング良くこれに出くわしたのだと思う。
一部拡大↓



<東武ワールドスクウェア>


さて駆け足だったが、何しろ「東武ワールドスクウェア」に無事到着(^^)。これも鬼怒川にある。

駐車場入口
この建物の先が展示会場

この建物に入る時に入場料を支払う。大人一律2500円。

「うっ、高い!」という声が思わず出た(笑)。二人で5000円である。
「どうする? 入る?(^^;)」と私。亭主は「ここまで来たら……」と入る気マンマン。

「じゃあ一人で中に入って、良さそうだったら中から手招きして」
とかいうセコイ事を言い出しそうになったが、この日はこの後も行かねばならぬ場所がある。余計な事をしてたら時間の無駄だから、潔く中に入った(笑)。

ま、でもこれだけは先に種を明かしておこうか(^^ゞ。
この値段、決して高くはないと後で悟った(笑)。それもどっかの時点で「おお〜! 悟った!」といきなり思うのではなく、「ここまでは500円」「ここまでは1000円」とかいう具合に、徐々に「2500円」に近付いて行く(^_^;)。
ここはそういう展示会場だと先に言っておこう。多分これはレポを見てても何となく伝わる感覚だとも思う(笑)。

さて、内部は6個のゾーンで仕切られ、その配分は以下の通り。

 
展示数(内、世界遺産)
他、展示物
合計
現代日本ゾーン
12(0)
9
21
アメリカゾーン
7(1)
6
13
エジプトゾーン
5(5)
0
5
ヨーロッパゾーン
32(16)
0
32
アジアゾーン
11(7)
0
11
日本ゾーン
35(13)
3
38
合計
102(42)
18
120

今回は、ピンクになってる「現代日本ゾーン」だけをお届け。残り(アメリカゾーンから先)は次回。
また「他、展示物」というのは、電車とか船や高速道路といった「添え物」的な展示物。

上記でおわかりの通り、次回に廻す展示物が圧倒的に多いので、次回の「たわごと」は丸々「東武ワールドスクウェア」で終わりそう(笑)。
その上、カッコ内に数を記した「世界遺産」も今回のにはまだ無いので、次回もぜひお楽しみに(笑)。



<現代日本ゾーン>

パンフレットによると……。

001:国会議事堂
002:迎賓館
003:東京駅
a:東北新幹線・やまびこ
b:中央線電車
004:東京タワー
005:旧帝国ホテル
006:東京ドーム
007:東京国立博物館・本館
008:東京国立博物館・表慶館
009:国立代々木競技場
010:新東京国際空港・第2ターミナルビル

c:水上スキー
011:ふじ丸
d:船舶送迎ターミナルビル
e:消防艇
f:港湾施設
012:漁港
g:船舶航行A、B、C
h:高速道路
i:運河水門

こう書かれている。途中「10」と「c」の間に一段落スペースが入っているのは、後で説明する。

まずは「国会議事堂」。

会場内は入場の建物を過ぎると、ご覧の通り屋外である。

広い視界としては、鬼怒川の自然と周囲の山々の色合いも同時に楽しめるのだが、それだと模型のリアルさが出ないし、全体の雰囲気を知るには「そりゃやっぱ見に行くのが一番っしょ〜」と思うので(笑)、この後は、出来る限り近くに迫ったショットでお届けする。

もう一つ。
上のはこたつ亭主が写っているが、ここの謳い文句は「世界の有名な建築物や遺跡などを1/25の縮尺で再現」である。
中に入って何より感心したのは、「有名なアノ建物とアノ建物って、隣同士に建ってたら、こんなに大きさが違うの〜?」とかいった、ミニチュアならでは比較が楽しめる点。
これについては、雰囲気ブチ壊しかもしれないが、折々ある程度は比較対照物も出そうかな〜とか思う。

お次は「迎賓館」。

↓「迎賓館」裏門側。
そして「東京駅」→
この駅前の雑踏のまばら感が何かリアル(笑)。

撮りそびれたけど、この東京駅、ちゃんと駅のホームも再現されてて、リンゴロリンゴロと電車入りを告げるチャイムとともに、「●番線〜お下がりぃ下さい〜、何時何分中央線快速電車が入ります〜白線の内側にぃ〜下がって〜」という、ムゴイほど日常的なアナウンスが流れる(^_^;)。

「オッ、オレは鬼怒川に来たハズだぁぁ〜! 森林浴!!」亭主絶叫(爆)。
混み合うGWに無理にもドライブする理由と言えば、しばしの休暇の間だけでも現実から逃避したいから。
なのに、この仕打ちは一体!!(≧▽≦)
そう。ここに展示されているのは、「現代日本」と言うよりは、東京・東京・また東京の連続なのである!(^^;)<オソロシイ

悪夢の再現(笑)、東京駅とその周辺のビル街

スモッグで薄汚れたビルの様子とかも徹底リアルに再現されてるから、尚更卑近な感じがする。。

う〜わっヤナ感じっ(^^;)、中央線だよ(汗) カタンカタンと電車の音までリアル。。

東京タワー」(左、全体・右、足部分)
←さすがにダントツな背の高さ。見上げてるのは亭主。
↓実物の東京タワーも、付近を通ればこの下の部分は見えるから、この気味が悪いほどのリアルさは実感(^^;)。

どう言うのかなぁ。何か、自分の通ってた小学校でも世間に晒されたような「気恥ずかしさ」さえあった(^_^;)。
ってかマジな話、「汚れ」とかも再現されるので、海外客の手前、「気恥ずかしさ」どころか「国辱モン」である。

皆さん、くれぐれも有名な公共施設は汚さないように使いましょおおおお〜(爆)。

展示物から展示物に歩く舗装路。芝生や植木もよく手入れされてる。

↑中央線の線路の先にあるのは……。↓

旧帝国ホテル

さらにその奥隣に続くのは……。↓

左「国立代々木競技場」、真ん中「東京国立博物館」、右「東京ドーム

↑左右の二つはちょっと大きめ。比較、真ん中のが小さめなので、↓

こんな感じ。「東京国立博物館」(左「表慶館」、右「本館」)

こうした大小の比較が楽しめる点は、現地でぜひ味わって(^。^)。
また入場すると手渡されるパンフレットには、敷地内の模型の大きさが園内の地図として描かれて判りやすい。

さて、この東武ワールドスクウェアで最大の面積(敷地)を持つ模型は、これである。↓

新東京国際空港・第2ターミナルビル」(玄関)

↑この建物の向こう側には「飛行場」がある↓ので、それが主な面積を占めている。

飛行場の右にあるのが、上の写真にあった建物。

大きさについては飛行場の向こう側を歩く小さな人影で察しがつくだろうか。

こうやって写真だけで見ると、上部の山(園内の築山)が本物の山に見えて来る(^_^;)。

さらにこの飛行機への積荷など行うミニカー等が始終動いている。↓


速度は、よく飛行場で見掛けるこうした運搬車と同じ徹底した安全走行なので、早くはない。その音も立てないノンビリ具合が妙にリアル(笑)。これらが無いと、一瞬「大きめの飛行機のオモチャだな〜」としか思えない。

さて先ほど目録について「「10」と「c」の間に一段落スペースが入っているのは、後で説明する」と述べたが、それは実は、ここから「アメリカ・ゾーン」に入ってしまうからである。

ここから明らかにこれまでのゾーンと違う世界が展開(と感じる)

少なくてもここに移動して、真っ先に目に飛び込んで来るのは、今は無き「ツインタワー」とその手前右の「自由の女神」。
だもんで、てっきりここからがアメリカだと思いがちだが、実はこのスペース、手前の水辺ほとんどがまだ「現代日本ゾーン」の続き。

後からその理由を思い至ったのだが、原因は……アメリカからは出し物が乏しいからかな、と(^^ゞ。

では、この手前の「現代日本ゾーン」には何があるかと言うと、↓

水上スキー」(とパンフにはある)
ふじ丸」(船)と「船舶送迎ターミナルビル」(手前)

この(恐らく)太平洋を象った水辺にも、始終うごめく船があって、パンフレットには「消防艇」とか「船舶航行」と書いてあるんだが、何しろ動き回ってるのでどれがどれだか判らない(^^ゞ。

↓そうした船類の一群
そして右→
港湾施設」と「漁港」。
そのさらに向こうに横たわる線路のような物は……。↓

高速道路

そして最後は「運河水門」。↓

右のを見ると、ちょっと伝わるかな……。水面が手前と奥のとでは高低に差がある。水門による水流の調節を再現した模型。

以上が「現代日本ゾーン」。

ここまでの所は正直「よほどミニカーとか船やらの模型が好きな人にはいいんだろうけど、う〜ん、2500円も払って見るかと言うと、私はちょっとね〜」と思っていた。

無論この「舐めた感想」は、前にも述べた通り、後で徹底的に覆される(笑)。

ここに入る人はみんなカメラをバシャバシャ写してる。閉館時間が近付くと、見回りらしき人が最後の客の後を等間隔に距離を保ちながらついて来たが、早く出て行って欲しい、といった様子など全く見せず、むしろ撮影の邪魔にならぬよう気を使ってくれる。

また、この「東武ワールドスクウェア」を載せてるサイトは数限りなくあるが、中には実に丹念に詳細に載せてる人もいて、値段の高さでよりつかない人も沢山いるだろう反面、行った人からはそれらのサイトを通して、賞賛の言葉を実に多く見る。
思い思いの視点から様々に撮影された多くの写真には、「自分も行ってみよう」と思うまでに背中を押された(笑)。

だから私が言うのは、「ここで帰らない方がいいですよ」という事(^^ゞ。
もし過去に来て、そして途中まで見て帰ってしまった人がいたら、それは残念至極なことだと思う(笑)。

ただし飲食物の持ち込みだけは一切禁止である。
内部には日光・宇都宮・鬼怒川をはじめ、世界じゅうのお土産類もあるし、世界各国の料理メニューをそろえたレストランもあるので、これだけはしっかり守ろう(^^)。

ではでは、この続きはまた次回!

<つづく>

2006年01月16日
 
     





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