<2007年・城主のたわごと9月>




2007年4月「神田明神」第二弾っ(^O^)。

そして7月、手賀沼散策&「根戸城」と「松ヶ崎城」♪




     
  今回は前回「神田明神」の続きからっ(^^)。訪れたのは2007年4月。

そのあと、ページの都合で(笑)今回はいきなり7月に飛ぶけど(^^ゞ、5〜6月の写真もちょっとだけあるから、それは次回に廻す。

で、7月のレポは手賀沼で、温泉場と散策がちょっと入り、メインは手賀沼北部の城巡り〜♪



■4月・東京都千代田区・神田
<神田明神つづき、いよいよ参拝(^^)>


↑前回も書いた通り、実際には参拝は済んでいる(笑)。というのも「みつまめ」を食いたいがため、本殿の参拝後「天野屋」に直行、そしてまた神社に戻って来た(^^ゞ。

で、車の進入路の入口でバッタリ出会った、とてもオメデタイ光景(^O^)。結婚式だぁ〜っ!!→

わ〜い♪ 縁起イイ。いい時に来たなぁ〜(#^.^#)。

巫女さんが先導を務め……
シズシズと進む花嫁サン(#^.^#)

↑左に見える屋根が本殿。本殿に移動すると、その前には……、↓

石獅子」スゴイ逆光で顔が真っ暗(^_^;)
上が親獅子、下が子獅子

敷地内部の見取り図は→境内図(「神田明神」http://www.kandamyoujin.or.jp/top.htmlより)

この「神田明神」、これまで随分取り上げて来たが、敷地じたいは広くないのに、このように内部の旧跡や建造物はギッシリで(笑)、この「石獅子」も今回になってやっと取り上げられた次第(^^ゞ。

しかし、この、特に「親獅子」はいつ撮っても逆光ぎみで(^_^;)、顔が真っ暗になってしまうので、今回はだいぶ明度を上げてみた。

この「石獅子」は幕末ごろに製作されたと推定され、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つ。『武江年表』に「文久2年(1862)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とある。
神社境内の「獅子山」という場所に据えられていたが、大正12年(1923)の関東大震災で「獅子山」自体は崩壊。「子獅子」は紛失、「親獅子」二頭は保存され、再建された獅子山に据えられたそうだ(現在、滝の下にある「子獅子」は後に再製作された物だろう)。

本殿では神前でしめやかに挙式が(^^)。
おめでとうございます(^O^)!

こないだ、「この神田明神で自分も結婚式しました(^^ゞ」という人に会った(笑)。また「自分もあそこで結婚式してる人を見た事がある」という人にも会った事がある。
やっぱ有名な神社なので、挙式場の候補としても人気が高いんだろうね〜☆ミ 末永くお幸せにっ(^O^)。

←本殿の左隣には新しい神札授与所。屋根の鳳凰↓
授与所で頂いたお守り。→

厄除けのお守りは地震を意識してか、ナマズのキャラクターだったが、一瞬「ハクション大魔王」の「壷」に見えてラブリーだった(素晴らしく古いネタでゴメン:笑)。

本殿の向かいには「鳥居」があるが、その隣には新しい建物がまた出来ていた(笑)。↓

鳥居の隣に新建造物(パノラマ2枚)。左手前にあるのはお手水。

「将門公御神輿」と門柱に表札があり、屋内には神田祭りの壮麗な祭りの様子らしき錦絵が飾ってあった。

将門公のお神輿
じゃ、そろそろ本殿の裏(摂社)にも廻ってみる(^^ゞ
屋根の守護神

神札授与所「鳳凰殿」の屋根に翼を広げる「鳳凰」に対し、本殿は以前より「水鳥」が屋根の四隅にいる。
この水鳥のお守りも前に頂いた事があり、これは「家内安全」のお守りだった(^^)。昔から屋根の守護神だった「火除」の意味合いがあるのだと思う(特に江戸は火事が多かったしね(^_^;))。

本殿の隣から裏にかけて、数多くの摂社や記念碑(句碑など)が所狭しと雑居している(笑)。
「水神社」「小舟町八雲神社」「大伝馬町八雲神社」と摂社が三つほど続いた(2005年12月<初詣2「神田明神」>)所に、「角田竹冷の句碑」と「力石」。

「角田竹冷」は江戸期に生まれ、明治初期は「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人としても知られ、尾崎紅葉ら多数と「秋声会」を組織。俳誌を創刊。古俳書の収集にも努めた。

「力石」はあちこちの神社や寺で見掛けるが(^^ゞ、ここのも同様に、昔の若者が力試しに用いたものだろう。
案内版には「道切説も伝承の一つ」と書かれていたが、これは2006年7月<国府台天満宮>内や2007年1月<八千代「文化伝承館」>内にも書いた「辻切」と同じ、道を伝って来ると信じられていた疫病を防ぐ「まじない」で、元々、石を「頼代」とする古くからの信仰に通じるようだ。
ここの「力石」は江戸期(1822)に持ち上げた人の記録が銘記されるという。

そして四つ目の摂社「江戸神社」あたりまでが本殿の隣に位置する。創建は702年と、江戸最古の地主神。↓

「江戸神社」
←内、ご神体の「神輿」
元は、今の皇居内にあって「江戸大明神」として崇拝されていた。

先月「芝崎道場」の事を書くのに「江戸氏」に少し触れたが、その江戸氏が多摩郡喜多見村に移住してしまった。
が、やがて太田道灌が江戸城を築城し、上杉氏、北条氏などが続けて城地に祀っていたという。

さらに後、徳川氏が入府して来る。そして1603年に江戸城を拡張した時に、神田神社とともに神田台に遷し、1616年に遷座となった。

江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称、さらに明治18年(1885)に江戸神社と復称された。

裏の摂社には、「水神社」といい「八雲神社」といい、築地や小舟町や大伝馬町の魚河岸や大物問屋の「商売繁盛」を祈られ、江戸の町の活気を裏付けるものばかりだが、この「江戸神社」も、1680年半ば以降「菜市」を支えた神田多町の「青物商」が整った頃から「市場の守護神」とされた。

その「神田市場」が1989年に大田区東海の地に移転するにあたり、江戸神社奉餐会により「今上陛下ご即位大礼の記念」として、大神輿を御神座として再建鎮座された。

その「神輿」は、この「江戸神社」が、大坂の陣に先立つ1613年には始まった「三天王祭」の一の宮とされ、6月7日朝、明神の境内を発輿して南伝馬町二丁目に設けられた御仮屋に入り、氏子の町々を波御して14日還輿された。日本有数の巨大なもので、通称「千貫神輿」と親しまれ、神田祭で担がれる200基の神輿の象徴。

この辺りから先は本殿の裏に入る。→
このように隣から裏の摂社にはギッシリと神社が詰め込まれ、江戸平川の漁村に祀られ、稲荷社5社を合祀した「浦安稲荷神社」、神田三河町、皆川町、蝋燭町、旭町の「三宿稲荷神社」、隅田川の船人達の守護神で、商家、飲食業、遊芸職に信仰された「金毘羅神社」、庶民信仰を集めた「末廣稲荷神社」と続いて、最後に「籠祖神社」に到る。(2006年9月<東京・神田明神>内

←最後の「籠祖神社」についてのみ補足(^^ゞ。

前に神様や由来については書いた。また「籠職人の祖神」とも紹介したが、これは今も書いた神田「青物市場」や、日本橋の「魚市場」で、籠や笊(ざる)が多く使われた事と関係する(^^)。

それらの葛籠職人たちは「亀井町」に(千代田区岩本町から中央区子伝馬町にかけて)多く居住し「籠祖講」を結成していた。

今は新築されたが、江戸期1850年には彼らが「鳥居」を奉納し、また戦時の空襲で被災した「玉垣」を1951年に「講」によって再建。「狛犬」にも1961年の銘が残り、10年ごとに講が奉納してる事がわかるそうだ。
この「講」の活動は今では殆どわからなくなってしまったが、この「籠祖講」は今でも活動を続けていて、毎年11月の例大祭も執り行っている貴重な例と言える。

というわけで、今回の「神田明神」特集もおしまい(^^)。神社を出ると、「明神男坂」の案内が書かれ、階段が続いている。左に割拠するビル街(笑)。→

今回も満開に近い桜の頃に来た。境内には花見客だろうか、何やら場所取りらしきシートが敷かれていた。その上に、高校の一行の名が記された沢山のダンボール箱が置かれ、「松戸かぶ(松戸組合)」と書かれているのが目についた(笑)。

あと、神田明神に貼ってあった広報には、この頃多い「アキバ系」への批判が書かれていた。近いからね〜秋葉原(^_^;)。
「神社だからお堅いな〜」と一瞬思ったんだけど、実際に境内の摂社付近にそういうファッションの奴を見た時には、その凄まじい醜さに「将門サマ〜祟ってやって」とやっぱ思った(爆)。

以上、関連記事は、2005年3月<神田明神>
2005年11月<将門神社>
2005年12月<初詣2「神田明神」>
2006年3月<神田祭>
2006年9月<東京・神田明神>

2007年8月<神田明神「天野屋」>内・<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>



■7月・千葉県我孫子〜柏市・手賀沼
<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>


地図←まず「手賀沼」は、柏市と我孫子市の境界線上にある。
よく見ると、手賀沼のある所にだけ我孫子市が柏市に食い込んでいるようにも、食い込まれてる柏市も、白井市や印西市に割り込んで手賀沼を占拠してるようにも見えるが、それは……(笑)。

←これから行く手賀沼親水広場「水の館」に貼ってあった地図(^^ゞ。

ご覧のように柏市は、緑色(左に縦長)の部分に黄色(手賀沼の下)の部分を合併吸収している。

この黄色の部分、元(2005年まで)は「東葛飾郡沼南」と呼ばれた地域(^^ゞ。てわけで、今「手賀沼」の広い湖の部分は、我孫子市と柏市がサンドイッチして「中身を分け持つ」ような格好になっている(^_^;)。

さて、地図にも書かれてる手賀沼を渡る橋を「手賀大橋」と言う。
この湖も東に行くに従い川ぐらいの幅となって、「手賀曙橋」「水道橋」「浅間橋」「関枠橋」「六軒大橋」などの橋が出て来るが、今回は西の湖部分にある、この「手賀大橋」を渡って我孫子市に入るので、まずは橋付近の様子をお届け。

地図←橋を渡る直前に十字路があり、それを過ぎて左には「道の駅・沼南」があり、右に「満天の湯」が見える。

手賀大橋に差し掛かってスグ右。「手賀沼温泉リゾート・満天の湯」

この「満天の湯」、今年の3月ぐらいにオープンしたての新しいスーパー銭湯。
温泉と言っても「古くからある歴史的な」とか言うのとは違うよ(^_^;)。。今時の掘れば出て来る類でしょう。多分かなり掘ったんだろうね(笑)。温泉効果は「かなりのモン」だと思う。

拡大
夜はこんな感じ(^^ゞ。

駐車場から(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑この左の門から入り
館内入口へ(パノラマ2枚)

温泉は塩分が多く、湯冷めしにくい事から「熱の湯」とされていた。
手賀沼は大正の頃、多くの文人が訪れ、沼地の風情と広大な自然を愛した土地で、この「満天の湯」にも「縄文時代より人々の生活の形跡があり、平安時代には手下浦(てがうら)と呼ばれた」と、一応歴史についても触れていて、室内は絶えず琴の音が響き、ちょっと良い旅館のような高級ムードでやっている(^^)。

食事処や休憩室、リラクゼーションルームにマッサージ、アカスリ、ヘアサロン、今はやりの各種の岩盤浴がある。
銭湯にはサウナ2室。室内は温泉と水風呂を入れて5種。露天は温泉だけで4種、他1種。

癖になるような心地よい風呂を厳選しぬいてる感じで、ずいぶん人気があるらしく、ネット上でもベタ誉めの声をよく見掛ける。
露天が庭園風で、カッコウなど鳥の声を流してて、庭園が室内の温泉かも眺められ、長湯できる気持ち良さ。
平日650円、土日750円と、温泉&高級ムードの割にリーズナブルなのも助かる(笑)。

夜の手賀沼。真っ暗(笑)。風呂の帰り沼まで行って撮影。(パノラマ4枚・180度以上)

↑これは「手賀大橋」から東にいった「曙橋」あたりね(^^ゞ。



<手賀沼親水広場と「水の館」>

さて地図←「手賀大橋」を渡り、「手賀沼親水広場」にやって来る。

道路から歩いて入る、前後に縦長の公園(パノラマ5枚・180度以上・かなり魚眼)

↑中央にポツと建ってる塔は「水の館」と呼ばれる施設。この日は「手賀沼フォーラム」という催しをやっていた。
この縦長の公園を川べりに歩くと、横に手賀沼を間近に眺められる。↑右の道を歩いてみよう。

噴水広場。その向こうに手賀沼の風景

行き過ぎて振り返ると「手賀大橋」が(^^)。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

で、真っ直ぐ行って左に見えるのが……
「水の館」

「千葉県手賀沼親水広場・水の館」という。
「手賀沼フォーラム」は、地域の広報なんかでちょくちょく見掛けてはいたが、行ってみるのは初めて(^^ゞ。

この時のフォーラムの様子もネット上で見たが、水質汚染で有名になった湖だから、浄化運動とかマラソンとかやってるようだ。

実はこの日、沼南方面に買い物に行く予定だったので、午前中にちょっと寄っただけなんだな(^^ゞ。
でも一応、史跡の散策コーナーみたいのもあったので、中に入って拝聴〜♪

会場にあった地図
スライド「縄文時代の陸地」

地図には各名所の案内があった。
まず湖を西に離れて、左上から「こんぶくろ池」「飯泉家」「戸張城址」、この「戸張城」の斜め左下には酒井(境)根(2007-01「たわごと」)合戦場跡、右下に「増尾城跡」(2005-10「たわごと」)がある(^^ゞ。

手賀沼に差し掛かって、西側の湖の北に金塚古墳と、これから行く「根戸城跡」がある。湖の南には「箕輪城跡(2006-08「たわごと」)

湖の中央の北にはこれから行く水神山古墳。南には、この地図には無かったが、将門神社と龍光院(2005-11「たわごと」)がある辺り。
湖の東側には南に「泉」の「おせし様板碑」と「龍泉院(2006-08「たわごと」)

湖を今度は東に離れ、川となった手賀沼の北に「うなぎ塚」「千間堤」「開発済世碑」。南には「香取・鳥見神社の猟場碑」「月影の井」「海野屋作兵衛顕彰碑」「囲い・水塚」。

この時の説明会は、中世や戦国期の特集ではなかったので、注目すべき「城跡分布図」という具合にはなってなかった(^^ゞ。話も殆ど古墳の場所、そしてイキナリ時代が飛んで、近代の文人達が好んで住んだ手賀沼周辺の風景などが中心だった。

が、右上の写真にある「昔は海だった」というのは面白かった。写真の黒い部分は「昔(これは縄文時代だが)は海(か水辺)だった地域」だそうだ。

その後はもっと陸地が増えたと思うが、どうも下総地域は大きく変わらなかったように思う。
太平洋、茨城県の霞ヶ浦、茨城と千葉の県境にある利根川、千葉県の手賀沼と印旛沼、これらが全て「海」で繋がっていたという事情は、江戸時代あたりまで殆ど変わらなかったようだ。

古墳については、手賀沼北岸は、その北の海(利根川に繋がる海が昔はあった)には古墳が少なく、南にたくさん作られた事、湖の中央から西側と東側では、若干、古墳の時代が異なることなどが説明されていた。

パネル展示では、大蛇やダイダラボッチ、化けウナギ伝説のある湧水「こんぶくろ池」に興味を持った。
文化人については「柳宗悦」「志賀直哉」「バーナード・リーチ」「滝井孝作」「中勘助」「杉村楚人冠」「武者小路実篤」などの説明が書かれていた。



<手賀沼周辺散策・古墳と川べりの風景>

説明会が終わり、ウォーキングが開始された。

まずは近くの「香取神社」麓。(パノラマ2枚)

地図←この辺りっぽい(^^ゞ。

エイエイッと登る
振り返る。こんな階段(^^ゞ
到着〜♪ 「香取神社」の鳥居。向こうが本殿→
これの右を見ると……↓

こんな感じに歩道がある。後で行く。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

鳥居をくぐってお参り
脇に「三峰神社」の碑

他にも境内には「月山神社」(左に「湯殿山神社」、右に「羽黒山神社」)と書かれた参拝記念碑が立っていた。
特に現地の歴史を示す案内版などは無く、連れてってくれた人の説明では、古代の中央政権に関係した神社というような事だったが、いつごろなのかはよく判らなかった。

……ぜんぜん関係ないかもしれないが(^_^;)、この後の城跡めぐりレポで触れるが、この辺り(手賀沼北岸)が「相馬御厨(そうま・みくりや)」と呼ばれる一帯だった事や、「香取神社」(おそらく佐原にある)への造営に関わった記録もあるようだが、それらとは関係ないのか……。

その後さっきの脇道を行くと、小さな公園っぽい敷地に出た。

中央の盛り上がりは古墳であるらしい。
その隣の鎮守

向かっているのは「水神山古墳」(地図)なので、ここもその一郭なのだろう。
この後はほどなく住宅街に入った。普通のお宅の庭に古墳があるらしい(^^ゞ。その家の周囲を迂回しながら道を進む。

住宅の合間からさっきの神社が見える
ほどなく「水神山古墳」に到着

ちなみに「水神山古墳」とは、東葛飾地区で最大の前方後円墳で、長さは東西に63m(前方28m、高さ2.5m。後円32m、高さ5m)、5世紀ごろの物と推定され、管玉や小玉や針が出土した。

古墳から見える手賀沼(^^)
右側はコンモリと後円部分が

やはり住宅脇の階段を降り
山林を降りて道路を越え
沼岸へ向かう藤棚

↑「水神山古墳」(地図)←この辺りね(^^ゞ。「道路を越え」というのは、今「手賀沼遊歩道」に入ってるから。

すると↓高い草に覆われた手賀沼岸辺に出る。
手賀沼を左手にして親水広場に戻る。→
逆に道の右手を見ると↓

遊歩道から見える、今までいた神社&古墳の森(パノラマ2枚)

この田んぼ側に入ってみる。

田んぼを囲むカカシの行列(パノラマ2枚)

さらに奥には一面の蓮の花畑
藕糸蓮(ぐうしれん)

「藕糸(ぐうし)」は蓮の茎から繊維を採取でき、織物に活用できるという意味で、土浦市の八島八郎氏が品種改良した観賞用のハスの株分け。八島氏の栽培グループはこれから紡いだ糸で皇室の家紋「ふくさ」を織り献上している。

遊歩道に戻る
草木の合間から涼しげに覘く手賀沼

手賀沼にはカワイイ鴨の親子が水辺を浮かんでいた(^^)。

そして手賀大橋も見えて来る
湖の彫像
「水の館」まで帰着〜♪

ウォーキングはここで解散(^^ゞ。この後は我々夫婦のみで城跡攻略!(笑)



<松ヶ崎城跡(柏市)>

さて、この後、いよいよ手賀沼の城跡めぐり開始(^^)。ここから先は我々夫婦だけで行った。
まずは「根戸城跡」、そしてこの城跡を探している途上、偶然「松ヶ崎城」を見付けた。
が、ここでは話の都合から、「松ヶ崎城」の方を先に紹介する。

ここで、いきなり次回以降の話を先にするが(笑)、実はこの手賀沼の城廻を行った後、松ヶ崎城に関する本が出ている事を知った。
「手賀沼が海だった頃」という題名で、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」が出している。

基本は取り寄せのようなので、「連絡して買わなきゃ(^^)」と思ってる内に、8月には久留里に行った(久留里についてもレポは次回以降に(^^ゞ)。

で、ナントこの久留里(正確には久留里城の売店)で、この本を見つけてしまったのだ(笑)。のみならず、手賀沼周辺(東葛飾地区)の城の本もあったので、これもあわせてその場で買った(笑)。そんな辺りを参考にしながらレポ開始〜♪

ほんの僅かな距離の間に、「松ヶ崎城」(地図)のある西と「根戸城」(地図)の東に、厳然と「市」の境界線がある。
この通り松ヶ崎城跡は「柏市」に、根戸城跡は「我孫子市」に別れてしまうのである。

久留里城の売店で買った「手賀沼が海だった頃」には、柏市に住む方々は皆「柏には歴史がない」「昔は牧場だったから」と言う人が多いと書かれていた(^_^;)。
そういう人が多い、と言ってるのは松戸市立博物館の人で(笑)、松戸博物館の館内や出張で講座を開くと、よく柏からも参加者があるのだという。

上にレポしたウォーキングも殆どが柏市民だった(笑)。
つまり「地元に歴史がないから歴史に興味がない」のではなく、松戸や我孫子など隣の市にまで足を伸ばして「近隣の歴史でもいいから知りたい」と熱望してる人が多い感じがする(^^ゞ。

ところが、この「松ヶ崎城」については不明な点だらけで、しかしその立地から、少なくても水運に関わりの深い場所である事は明確なのだ。
となると、遺構を調査・保存する名目として「歴史的な水運との関わりをあげる」という現実がある。

なのに「手賀沼が海だった頃」でわかった事は、この辺りについては「殆ど史料が無い」という事だった(^_^;)。

実は「将門記」も含め、平安時代以前の記述物に、この東葛飾地区のことが殆ど書かれてない(てか「無い」と言う方が正しそう(^_^;))。
一方、東方面、すなわち銚子に近付く佐原などの事は、「香取神社」があったので、わりと残ってるらしいが……。

さらに厄介なのは、陸地と水域のハッキリとした境界が時代によって異なる疑いもあり、話は勢い「人類がいた形跡のあった場所」つまり縄文とか弥生とか古墳とかいう、いわゆる先史時代から推測していく面倒臭い(ある意味オモシロイ:笑)所から出発せざるを得ないのである(^_^;)。。

「先史の人がなぜこの地域に住んでいたのか」に始まり、「他の場所は水だった」まではだいたい合ってるとして、「道筋はどうだったか」になると、どの水運をメインとしていたか、そうじゃなくて陸路があったのか、という歴史の基本からして、もぉ謎だらけである(^_^;)。。

例えば、人が生活した形跡に乏しい所は水辺だったとも限らず、「牧(昔の牧場)があったから、(人が住んだ形跡ともいえる)板碑が無い」みたくも言える可能性があるというのだ。

なので、これはさっきの説明会でもちょっとそうだったが、話はエンエン古墳時代やせいぜい大化の改新〜平安初期といった古代に遡り、わずかな史料や痕跡(古くは貝塚、中世以降だと板碑とか)に頼る。

ところが、古代〜平安になると「何とかいう地名がこの辺りに当たるのでは」という「推測」がやたらと多い。例えば「どこどこの沖合いから船を出してどれぐらい行った先に何とか言う「津」らしき地名があって……」という具合で、港(拠点)1個探すのも、まるで「邪馬台国さがし」である(^_^;)。。

つまり、この地域を含め、およそ千葉県の北西部については、中世じたいが殆ど考古学に頼らざるを得ない(^_^;)。

ところが又さらに厄介と言うべきか、江戸期以降は、多くの地域が埋め立てられ新田開発された。
さらに追い討ちをかけるように、明治以後も、東京が近いため、怒涛のように押し寄せる開発の波で、唯一の頼りと言える「遺構」も既に豊富とは言いにくい。。。

しかし戦国期〜江戸期については資料が無いわけではない(^^ゞ。「新田」と名の付く場所は今でもたくさん残ってはいて、地図を見ても区画の仕方で何となくわかる所も少なくない。

開拓も、どの順番でされていったか多少わかるらしく、その順番を見て、例えば「開発しやすい場所から手をつけた」なんて推理から当時の地形を思い描くなど、手も足も出ないほど謎だらけではない。

あと「手賀沼が海だった頃」には、古代からせいぜい平安末期ぐらいの事がエンエン書かれてるが、実質としてこの城跡の機能を押さえたい分野は「むしろ戦国期にある」という気が実は少しした(爆)。

と言うのも、軍記物や寺の過去帖など、「史料としては今イチ」と評価されてなかった記述が、今になって「遺構」から立証されて覆される例もよく見掛けるんだなぁ(^^ゞ。

戦国期には、一定の領主や領地を越えて激動したが、その痕跡が「城」という形で残った。それによって時代や勢力範囲の特定率も高まるのである。
だから戦国期の城跡となると、市内より市外から熱い視線を注がれる事が多いかも(笑)。開発と行政区分は歴史の敵である(爆)。

さっきも言ったとおり、根戸城と松ヶ崎城は恐ろしく近い(^_^;)。目と鼻の先と言っていい。
互いに見える程の距離にあって、「向こうは違う行政単位」というのも、何となくもどかしく感じてしまった。

「将門記」が関連するのか、根戸城のある我孫子市に入ると、わりと「平将門」伝承の城や地域がそれなり出て来る感じがする(^^ゞ。そうなると松戸みたいに「いきなり戦国時代から研究スタート」という具合には、なかなか行き難いのかな〜。。

ところで「手賀沼が海だった頃」では、ただでさえ説明するだけでも大量を要する「房総の戦国史」(笑)が、おそろしく表現範囲を狭められている(^_^;)。。
これで地元の人が興味を持てるんだろうか(^_^;)、と首を傾げるほどの省略ぶりで、すごく端折って話をさせられている松戸市立博物館の人に同情した一方、戦国期の資料に関わる話が一番興味深かったのは、単に私が戦国贔屓だからか(笑)。

もっとも、大化の改新から奈良朝に到るまでに、昔の東海道がつけ代わったことなどがわかったり、鹿島と香取の間の水運が波が荒くて大変だったこと、あと前から「これ何だろう(゚.゚)」と思ってた「相馬御厨(そうまみくりや)」について説明されてて、戦国期より前の話も大変勉強になった(^^)。

だから、古代や平安期について書かれた事を省略する必要は全く無いと思う(^^)。
ただ鎌倉期以降について、特に戦国期については、無知きわまる私が知る限りでも、もっとわかってる事が多いのだから(笑)、少なくても倍、親切を言えば5倍の量が必要だろうと思った。

さてさて、前説明が長引いたが、何しろまずは「松ヶ崎城跡」(地図)に来てみよう(^^ゞ。
根戸城を探しながら道路を行き来してたら、道路に大きな看板が出されて位置が示され、行ってみたら、公園にでもなるのか、何やらせっせと造作されてて、わりとスラスラッと入れてしまい(^^ゞ、また我々二人の他にも登って来てる人を見掛けた。昔は不動尊があって、多くの参拝客が訪れた丘のようだ(^^)。

道路に面した「松ヶ崎城」の東側
まず行き過ぎて北側に行ってみる

北側から入れる道があった
この先はさっきの斜面に続く

今度は南に入る道筋を通ってみよう(^^)。

ズラーッと見えて来る「松ヶ崎城」の山と森(^^)(パノラマ2枚)

↑左脇の黄色い店との合間から入って行く。
こんな感じね(^^ゞ↓。すると登り階段に行き会う→
「手賀沼が海だった頃」によると、城を取り囲む江戸期の新田部分を塗り潰すと、城が手賀沼にそそり出ていた事がわかるらしい。

これまで来てたトコが手賀沼に突き出てた辺りで、今登ってる階段あたりから昔も陸地かな〜と♪
さっき道路側も造作してたが、ここも大工さんの軽トラが。でもここは近所のおうちを作ってたようだ(^^ゞ。

←振り返って見る。なかなかイイじゃないか〜(^。^)。
↓さらに進むと曲がりカド。右に曲がる。→
この右の森から城郭の跡地が始まっているが、木に「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の松ヶ崎城についての説明書が貼ってあった。

そこには「『松戸の高城氏と関連した城』『村人が自分たちのために築いた城』などの説があります」とある(゚.゚)。

ま、「高城氏(「たわごと」2007-06)の方は、あの恐るべき勢力増大の時期だろう(笑)。思うに1500年代である。
が、「村人」の方は……ちょっと意味がよくわからないが(^^ゞ、これまで調べた限りでは、ここも根戸城も「匝瑳氏」の城とあった。
この後、やはり久留里城で買った(笑)東葛地区の城郭の本にも、城主として「匝瑳(そうさ)」氏の名が上がっている。

「匝瑳氏」については「手賀沼が海だった頃」には殆ど無い話が多いので、今言った「東葛の中世城郭(著・千野原晴方氏)」を参考に書くね(^^ゞ。

カドを曲がりながら、森林地帯を撮影(パノラマ4枚・180度以上)

この「松ヶ崎城」のさらに西に、今は国道16号線になって、もう遺構は無くなり場所も特定しかねるようだが、かつては「高田城」という城跡があったらしい。

その高田城が匝瑳氏の居城で、この匝瑳氏というのは、さっき香取神社で話した「相馬御厨」に関わる時代に遡る。だいたい「保元の乱」あたりの時代だと思う(^^ゞ。

ここで「相馬御厨」と「千葉氏」、千葉氏から分かれた「相馬氏」、さらに相馬氏から分かれた「匝瑳氏」について書いて行こう。

「相馬御厨」が文献に現れるのは「平(千葉)常重(経繁)」の頃だという。この人物は、源頼朝が旗揚げした時、付き従って協力した千葉常胤(2005-11「たわごと」)の父で、保元の乱にも頼朝の父、源義朝に従ったというから、平安末期ごろだろう。
そして「匝瑳氏」(千葉流)というのは、この千葉常重の弟が発端という事だった。

千葉常兼−┬−常重−常胤(平清盛と同い年)−相馬師常−義胤−胤綱−胤村−師胤
       └ 匝瑳氏初代
(ちなみに、常重の叔父から出た「匝瑳氏」(上総流)ってのもあるみたい(^^ゞ)

で、「相馬御厨」は元は伊勢神宮に奉仕する領地とされた(後に荘園化された)。
千葉常重が「相馬御厨」の南限として、「手下水海」を上げて「伊勢神宮に寄進したい」と申し出ているそうだ。「手下水海」とは今の手賀沼を意味する。

この「相馬御厨」の前は、伊勢神宮に寄進すべき「御厨」としては「布瀬御厨」があったのだが、どうもその範囲を超え、わざわざ四方の境界を書いて申請し、やがてそれが認められて「相馬御厨」となった、というような事が「手賀沼が海だった頃」に書いてあった。

「御厨」は、その地から上がる海産物を貢物として納める規定地を指すそうだが、こうやって広い領地を、貢物をエサに公的に認めさせる手段だった、というような事だった。

……辣腕と言えるだろう(^_^;)。
平安期の武士は、貴族とか寺社の土地のボディーガードとして登場したが、平安も末期の頃になると、むしろその地位を利用して、「テメェら、ここをどこだと思ってんだ、オラオラ」みたく周囲をのしていき、やがて公家にも手に負えなくなったわけだ(笑)。

その後、将門流を継承する形で後を継いだ相馬氏は、やはり千葉常胤の子・師常から出た。相馬師常から見れば大叔父さんの系譜だから、その後この地域を持った相馬氏と深い関係があると思う。

また、この後に行く「根戸城」と関係するかどうかは不明だが、「根戸」という地名については、鎌倉時代ごろと思うが、千葉常胤の子・相馬師常の曾孫の相馬胤村(2005-10「たわごと」)に「三子・根戸三郎胤光」という人が出ていて、根戸城のほんの少し北にあった(これも遺構は消滅)「法華坊館」に、この人が関係するともいう。

「匝瑳氏」のその後はそんなにハッキリしていない(^_^;)。本家の相馬氏は守谷に本拠を移していったわけだが、増尾など元の相馬領も、主に一族の相馬岡田氏が後を引き継いでいたようだ。

その相馬岡田氏も、1400年代〜1500年代、金融業者に売買とかして、だんだん増尾などの領地が人手に渡ったそうだ。。(金融業者っ?(・・;))
相馬氏の支配が弱体化し、御厨の伊勢神宮への納税を怠ったので、伊勢神宮が怒り……のみならず、着服した代官が罷免されたとかいう事もあったらしい(汗)。。

分家の匝瑳氏の方は、香取社の造営料を負担したりしてたらしく、神領の管理などに関与して得分を得ていたのかも、という推理も見掛けた。

じゃあ、いよいよ城跡へ(^^)
入った〜うぉ〜森だぁぁ〜!

さらに進む。見渡す限り、森〜(^^)。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

「手賀沼が海だった頃」に図示されてた説明図によると、この入口付近から、このようにしばらく進み、やがて左手側の草の中に「本郭」とそれを囲む「西側土塁」とさらにそれを囲む「堀」が出て来るという。この辺りだろう。↓

いかにも土塁っぽい高さの土盛部分が出て来る(パノラマ4枚・180度以上)

こうして歩くと真っ直ぐだが、元は「食い違い虎口」と呼ばれるスタイルで、敵が侵入しにくいように、ちょっと入り口をズラしてあったという。

こういう虎口の作りと言い、郭を囲む堀の深さや幅と言い、戦国後期まで使われた可能性が高い一方、城と隣接した台地にある「竹ノ台」という今も残る地名の「竹」が「タテ」の訛りではないかと言われ、「館跡」だったかもしれないので、最初(前身)はかなり古い時代という推測もある。
虎口を過ぎて真っ直ぐ行く
さらに真っ直ぐ真っ直ぐ(笑)

正面(南東)に見える市街。昔は海だったんだね〜(パノラマ3枚ほど)

海と言っても、この角度だと、海の向こうに手賀沼の北岸は間近に見えたかも?(^^ゞ

さて、この「松ヶ崎」の戦国期についてだが、さっきの「根戸三郎」が根戸城自体との関係がわからないのと同じで、これも城地と関係するとは限らないが、「松崎」という地名は1419年には現れるという。

これは千葉県の佐原にある「香取神宮」が仮殿を造営するにあたり、屋根葺き用の瓦木を運ぶことに触れた書状らしく、「相馬松崎」から材木と人手(造営のもあるのかな、木の伐採と船の漕ぎ手の事を言ってる気もする)について書いてあるようだ。

「松崎で松ノ木をとって運んだ時、船を漕ぐ人達が酒代を求めたので、仕方なく酒を出した」とあるらしく、この「酒代」って、どれぐらいの額を包含してるのかな〜と興味深い(笑)。

実はこれから行く「根戸城」にも、「太田道灌・築城伝説」がある。
と言うのも、この匝瑳氏からは、戦国初期の1456年、古河公方と結託した馬加氏や原氏が千葉宗家を襲ったあげく、その遺児の千葉実胤・自胤兄弟が市川城から武蔵に落ち延びた時(<享徳の大乱・武蔵千葉氏×馬加氏(1454〜1456)>)、この戦いで討ち死した名前が出て来る。

その後、武蔵に落ちた千葉自胤が、管領上杉氏やその家宰・太田道灌の助勢を得て戦った1478年の「境根原合戦」(<長尾景春の乱、江古田沼袋・境根原・臼井攻城戦(1476〜1479)>)の時にも、上杉&太田道灌&千葉実胤・自胤兄弟の側について、討ち死した名が出て来る。この時は、家臣の野嶋氏・今泉氏も戦死したそうだ。

これらは松戸市の大谷口城ちかく「本土寺」の資料(「本土寺過去帖」)に残っているという。

この時、根戸城が築城されたという伝えもあり、それによって「太田道灌の建てた城」とも言われている。

境根原で馬加氏や原氏を破った道灌が、そのあと臼井城を攻めに行くにあたって、根戸城も使ったという事のようだ。
確かな証拠には到ってないようだが、もしこの由緒が本当なら、手賀沼(香取海)への水運利用か敵の水運の押さえとして場所が確保されたのかもしれない。

やがて北条氏が台頭して来ると、本家の相馬氏もこの匝瑳氏も、高城氏などとともに北条氏の麾下に入るが、東葛飾最大の勢力を誇った高城氏に徐々に圧迫され、ついに去って行ったとも、高城氏の支配下となりながらも匝瑳氏の一族がここを守っていたとも推測されてるようだ。

←左手にはコンモリとした盛り上がり。「物見台」があったとされる。元は3基あったのが、2基しか確認できなかったそうで、元は古墳だったようだ。
↑一方右手、少し戻った所。南側に「腰郭」。

「腰郭」に降りる坂はわりと急で(^_^;)、ちょっと滑り落ちるような感じだった。

降りるとお地蔵さんのような石仏の胴部分と瓦屋根、お手水っぽい石造物↓。その傍らからは、急な石階段が下に続く→
本には「不動堂があった」とある。不動堂は平成8(1996)年に火事で消失したという。

その後も、唯一の建物の無くなったこの地には「弘法大師」の石仏があったのが、1998年、心ない人に壊され、首と台座が盗まれたという。今あるこの石仏らしき石造物がそれだったのかも……。

一方、脇の石段から降りた先には、湧き水の出る所があるらしい。降りてみなかったが、この城跡は、江戸期には「不動滝」を流していたという。ここの水を利用していたのだろう。

この水脈と関係あるのかは知らないが(^^ゞ、この松ヶ崎からは少し離れるが、北西に「こんぶくろの池」という湧き水があって有名らしい。

こうして江戸期については、茶屋などもあり、手賀沼や富士山の眺望もあって、多くの信者や参拝客で賑わっていた様子を窺い知る「絵馬」「風景(鳥瞰)図」「参拝図」があったという。

↓左は先に進む道、中央「腰郭」跡↓、右に降りて来る坂↓と下に行く石段↓
(パノラマ4枚・180度以上)

「三郡境の不動様」(現地の案内版より)
この場所は松ヶ崎台地の東側突端で、小字は「腰巻」ですが、通称「城山」と呼ばれています。
この地域は昔は下総国の葛飾郡に属し、谷を隔てた北側の根戸の台地は相馬郡でした。また以前この台地のすぐ下まで広がっていた手賀沼は印旛郡に属していました。このように三郡のほぼ境界に立地するため、この不動様は「三郡境の不動様」と呼ばれるようになりました。
不動明王とは、仏教では大日如来の使者であり、真言行者を守護するものとなっています。不動明王の剣は威力の象徴で、これに竜のまといついたものがあります。これを倶利伽羅剣といい、この竜を倶利伽羅竜王といいます。倶利伽羅竜王とは不動明王の変化身です。
石段の途中には湧き水があり、その奥には平らな敷地があります。昔はここに庵がありました。
お堂には当時の風景を図柄とした大絵馬がかかっており、昔の様子が分かります。ここに奉納されている絵馬は東京、流山根卿、小金町などの地名が見られ、昔は相当繁栄していたことがうかがえます。
平成5年6月 柏市教育委員会


覆われた草の合間を行き
急な坂を登る(坂の上に亭主)
←中央拡大

身の丈を覆う草の群れを掻き分けて行った(^_^;)。

坂を上がった上から振り返る→

この部分は、城の見取り図(現地の案内などはまだ無いので、これも本を見て(^^ゞ)には、「腰郭」部分の連続地のようだ。

図では2〜3個の郭が横に繋がったように描かれているが、連続した一定の平地が遺構としては途切れてしまったのか、それとも元から途切れた各部が繋がってた敷地なのかはわからない。

さっきいた頂上の敷地との間には、これも図でしかわからない(樹木に覆われている)が「南側土塁」と示した仕切りがあるようで、この部分以外に土塁の外枠は図示されてない。

先に進む道↓さっきいた「南側虎口」付近↓南側土塁↓今来た「腰郭」からの登り道↓
(パノラマ4枚程度・180度以上)

「腰郭」からの登り道と、その上の森とではあまりにも画像の明暗が違う↑ので、グラデーション状に写真の明度を変えてある(^_^;)。

←頂上の鬱蒼とした森に戻って来た。
江戸期には、我孫子が幕府公認の宿場町になっていたのに、松ヶ崎の人は勝手に客を乗船させて、我孫子を通り過ぎて運び、商売の邪魔をしていると我孫子側から訴えられたそうだ。

告訴のみならず、我孫子の衆が松ヶ崎の者を見咎めて重傷を負わせた所、松ヶ崎でも憤慨し、船戸役所に経緯を説明して調査を依頼し、さらに怪我人の治療に誠意を示さないと批判し返したので、ついに幕府の評定所にまで、この一件が持ち込まれた事があるらしい(^_^;)。

「古くから津を守って来たという自負をもつ誇り高い人達」と締め括られていたが、松戸あたりにいた戦国期の寺の衆のこととも考え合わせると、どうもかなり狂暴な人が住んでたんだな〜と(笑)。
宿場という地理に相応しい歴史と言っていいと思う。

水運が活発だった江戸時代はもちろん、昔の「風景図」にあった様子から、1855〜1905年ごろまで松ヶ崎はこうして大層繁盛していたようだ。

明治29年(1896)には鉄道が敷かれ、陸路の完備によって忘れ去られ、1975年、道路建設のために破壊の危機に瀕したが、「柏の文化財と自然を守る会」の署名運動や嘆願活動によって、ギリギリの所で道路は迂回させる事に決まった。
なので、この区域のみ道路がちょっと曲がってるが(^^ゞ、通ってみた感じでは、見通しも悪くなく安全な交通事情だと思った♪



<根戸城跡(安孫子市)>

これまでいたのが「松ヶ崎城」(地図)。
次は引き続いて、その南東にある「根戸城」(地図)にくる。

行く前に調べてみた所、ここは地元の「手賀沼トラスト」というボランティア団体が清掃活動をしていて、そちらには「私有地なので(公園のように中に)入れない」といった事が書かれていた。
地図には堂々と「根戸城跡」と書いてあるので、勘違いして中に入ってしまう人がいるかもしれないが……。。

この通り普通のお宅でちゅからね(^^ゞ
道を進んで山の続きを垣間見る

ず〜っと横におウチが続く裏手に山がある。

←山の裏手にもちょっと廻ってみよう。

こんな感じ。裏も畑だから入れないよっ(^^ゞ。(パノラマ2枚)

この根戸城。我孫子市の最西端にあり、さっきも言った通り、柏市に食い込んでいる地域になる。
ここもやはり城主として「匝瑳(そうさ)」氏の名が上がっており、「松ヶ崎城跡」で話した通り、戦国期には「太田道灌・築城伝説」がある。

以上、関連事項は2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>
2005年11月<将門神社>内
2006年8月<泉「三夜堂」と「おせし様」><手賀沼><箕輪城跡>
2007年6月<高城氏について>
「城主のたわごと・千葉の動乱」<享徳の大乱・武蔵千葉氏×馬加氏(1454〜1456)>以降



次回は5〜6月の写真もちょっと交え、主に2007年8月に行った、木更津〜真里谷〜久留里〜亀山温泉をお届けっ。

2007年09月13日(2016/11/21:地図(ヤフー →MapFan)張替)

<つづく>
 
     




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