<2010年・城主のたわごと2月>




2009年9月「岩手南部編」第3弾は、2日目の江刺から(^^)。

2泊目の矢櫃温泉を経て、3日目はいよいよ平泉入り!




     
  「岩手南部編」の3回目(^^)。
まず前回「えさし藤原の郷」の続きから再開♪ 続く2日目夕方の行程は、館山城址公園(岩谷堂城址)に立ち寄るのを最後に、水沢を離れ、一関まで南下、西部の山に分け入って、矢櫃温泉で2泊目を迎える。

3日目は、この矢櫃温泉の風景お届けからスタート。
矢櫃温泉からは、もう一度やや北上し直して、いよいよ平泉に入る〜♪
今回はそこで、ちょうどお昼時となったので、南部名物「わんこそば」(笑)など堪能しながら、午後からは「中尊寺」に入り、その途中で次回に譲りたい(^^)。

そして、全体のお話としては、前回が「前九年の役(1051〜1062年)」で終わっちゃったので(^^ゞ、今回は「後三年の役」から始めたいと思うーーー!!



<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、2>

引き続き、場所は地図A。で、前回は、
@「政庁(お話「鬼切部の戦い」)
A「見返り坂」周辺(お話「阿久利川の戦い」)
B「経清館」「清衡館(お話「黄海の戦い」「小松柵の戦い」)

と進んで来て、

C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1(お話「衣川の戦い・厨川の戦い」)
↑この途中までやった。地図にすると……↓

←左下の「清衡館」から、「炎坂」や「河崎柵」を経て、奥の「厨川柵」の門に入った所で、「つづくぅぅ〜!(^O^)」と言って終わったワケ(笑)。

↑を見てもわかる通り、河崎柵や伊治城は崖を背にしてるが、「厨川柵」のみ、門内にちょっとしたスポットが展開されてて、撮影でも少しロングで撮れる仕組みになってるの(^^ゞ。

「厨川柵」(前回も出したけど)→
柵まで少し続く道を、周囲の森が囲んでて、大河ドラマのシーンでよく登場する(笑)。

(これも前回出したけど)入った所↓、門内も少し先が続いてる(^^)。

先に進むと……
ちょっとした囲いがあって……

中に入ると、「アラハバキ」が祀ってある。

これは東北で見られる遺跡(ストーン・サークル)の再現と見られるが、やはり東北で信仰された独特の祭祀として、この「えさし藤原の郷」においては、特に「アラハバキ」と称されていた。

「炎立つ」でも、古くに蝦夷に来た(物部の)一族に、東北の土地神、「アラハバキの神」として祀られ、登場していた。

よく石を見ると、石の切れ目や歪みごとに、ホントに賽銭が挟んであったりして(゚.゚)、テーマパークなのか神社の一郭なのか、迷ってしまいそうだった(笑)。

「アラハバキ」を出て↓、「厨川柵」も出て→

厨川柵から長い道を戻ると目前に
伊治城。塀の左右に門が連なっている。

 ・ 紫波

  ・ 胆沢

 ・ 伊治

  ・ 多賀
  この伊治城、ここでは順路的に「厨川柵」を見た後に廻るようになってるので、画像は今回に廻したが、説明は、だいたい前回に済ませた通り(^^ゞ。

←多賀城(国府)と胆沢城(鎮守府)の間(宮城県栗原市)に位置し、築城した767年から、蝦夷の叛乱が頻発。780年の「伊治公呰麻呂の乱」では城が俘軍に囲まれ、陸奥国守と牡鹿郡の大領が殺害され、城内から介が連れ出された。(2010年1月<巣伏村の古戦場跡(胆沢側)「田んぼアート」>内

そして前九年の役には、安倍氏側が、この伊治城に対抗すべく、河崎柵(場所はこの辺かと→地図B)を置いた。(20101月<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内

伊治城。背後に断崖、左右に砦門を従えて(パノラマ2枚)

また、大河「炎立つ」でもこのセットは、そのまま「伊治城」として出て来た(^^)。

確か、前九年の役の序盤「鬼切部の戦い」で、まだ国府側に属していた藤原経清が、この伊治城にいて、既に叛乱した安倍貞任が、捕らえた秋田城介・平重成(繁成)を連行して来るシーンだったかと(^^ゞ。(2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内

さて前回は、700年代末〜800年代初頭の蝦夷征伐を通して、古代陸奥の地理をざっと説明し、さらに1000年代の「前九年の役」(1051〜1062年)を通し、征伐後の奥六郡を支配した、俘囚の族長・安倍氏の時代を説明させて貰った。

今回は、続いて「後三年の役」(1083〜1087年)に移りたいと思う(^^)。
安倍氏が滅んで21年、今度は安倍氏を倒した側の清原氏が内部抗争に陥る。これが「後三年の役」の発端である。

「後三年の役」は、まず清原氏内部の対立図で見ればわかりやすい(^^)。
真衡(死亡) 家衡(滅亡) 清衡(「藤原」復姓)
奥州藤原氏の時代到来
家衡→
清衡→
清衡→
→こういう流れとなるわけだ(^^ゞ。

伊治城前の広い蓮池と大通り(^^)→

ここに出て来る「清衡」が「前九年の役」で反逆し、捕まって斬首された、アノ藤原経清の子だが、彼が清原氏に居るのは、経清の妻だった清衡の母(安倍頼時の娘)が、清衡を連れ子として、清原武貞と再婚したからである。

@清原真衡・家衡・清衡
前妻
├−−−−真衡
清原武貞
├−−−−家衡
安倍頼時の娘(大河ドラマ「炎立つ」で「結有」と名乗っていた)
├−−−−清衡(後に「藤原」に復姓)
藤原経清

真衡は先妻の子、家衡は後妻の子、清衡は後妻の連れ子である。
真衡と家衡は父が同じ、家衡と清衡は母が同じだが、真衡と清衡は父も母も違う。ややこしい家庭事情だね(^_^;)。

清衡の母にしてみれば、清原氏は、夫・経清や実家・安倍氏を攻め滅ぼした憎い仇である。それを思えば、イビツにも見える再婚劇だが(^_^;)、これには、次のような説もある。

それまで、清原氏の仙北三郡と、安倍氏の奥六郡という仕切りによって、俘囚(蝦夷人)自身による奥羽統治は成り立って来た。
だから安倍氏が滅んだ後も、安倍氏の血を引く清衡の母を清原氏に迎え入れ、男子を儲ける事によって、安定的に従来の流れを保とうとした、と(^^ゞ。

何はともあれ、そうやって生まれて来たのが、家衡なのである。
大河ドラマ「炎立つ」では、豊川悦司が熱演していた(^^)。

←蓮沼の端まで歩くと、「政庁」の北側御殿、「伽羅御所」の立ち並ぶ様が見える(^^)。

一方の清衡については、大河「炎立つ」では、村上弘明が渋く演じていた。d(^^)b
この「後三年の役」は、第二部「冥き稲妻」と題され、父・藤原経清の仇討ちに燃える清衡は、もちろん主人公である。そして、朝敵&敵の子である彼は、「この清原氏では当然」って感じに冷遇されていたわね(^_^;)。。

そして、同じく夫(経清)の仇討ちに燃えねばならぬハズの母・結有(ゆう)だが、仇である清原武貞との間に生まれた子・家衡への愛に迷う。。
こういう母の不甲斐なさも手伝って、視聴者ともども尚更、「敵討ち」への情熱を駆り立てられるのだ!ヽ(`Д´)ノ

構成としても、細かい部分まですごくよく出来た展開だったので、ドラマとしては抜群に評価してるけど、ただ、清衡の清原家における立場が、果たしてこの限りの物だったかは、色んな角度から見る必要があるかもしれない(^_^;)。



<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>

コース図→
上「アラハバキ」「厨川柵」「伊治城」と来て、大きな蓮の沼地を通ると、元の「政庁」があった辺りに戻って来る。
が、右上の「金色堂」は時間が無くてカットし(^^ゞ、「政庁」の北側から入って、「伽羅御所」と「大路」(政庁南門に続く道路)にまず通じる。

大路」の突き当たり、「政庁南門
「鬼瓦」だ!(火の鳥を想い出す(^^;))

話はそろそろ、「後三年の役」に本格的に入りたい(^^)。

<真衡×清衡・家衡、「白鳥村の戦い」>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「前九年の役」の功労により、清原氏は鎮守府将軍の座に就いたのみならず、元々自身の領していた出羽北部(奥羽山脈の西側、秋田県の横手盆地一帯)の「仙北三郡」に併せ、安倍氏の領した陸奥北部(岩手県)の「奥六郡」まで含め、事実上、莫大な領土の主となった。


┌清原光頼
├武則┬武衡
├女  ├−武貞−真衡=成衡(海道氏)
||  └女  |
||   |  |
|├吉彦秀武 |
|吉彦氏    |
└女 ┌橘貞頼 |
  ├┴橘頼貞 |
橘氏       ├家衡
安倍頼時−女(結有)
       ├清衡
藤原(秀郷嫡流五代)経清
 
<清原氏の外戚勢力>
以下三名は、清原氏の女婿で、地名とおぼしき「字(あざな)」が呼称されている。
・橘貞頼。字は「志万」で、八郎潟あたりと思われる。
・橘頼貞。字は「新方」で、鶴岡市あたり。
・吉彦(きみこ)秀武。字は「荒川」で、仙北郡協和町。

他に書いておくと……、
・吉美侯(きみこ)武忠。字は「斑目」で、横手市あたり。
・清原武道。字は「貝沢」、雄勝郡羽後町。

↑の通り、武則武貞真衡
という順で、清原氏の嫡流は受け継がれたようだ。

「前九年の役」において、清原氏として戦闘に名が出て来るのは、当主であった武則と、その子の武貞で、特に父の武則の名はよく出て来るから、相当な活躍をしたと見れる。

そして時代は移り、清原氏の当主は、真衡の代。海道氏から迎えた養子・成衡に、源頼義の娘を嫁がせるべく、婚礼を催そうとしていた。
コトの起こりは、この婚礼の祝儀から発した。

清原真衡にとっては、義理の叔父である、吉彦(きみこ)秀武が、この婚礼の祝いの貢物を献上した。
なのに真衡は囲碁に興じ、無関心に振舞った……というのが発端らしい(^_^;)。

清原一族の長老としての面目を潰された吉彦秀武は、真衡が驕っていると激怒し、雑言を言い捨てて出羽に戻ると、真衡の弟の家衡、義弟の清衡らと語らった。

三人はそろって真衡への対決姿勢を強め、清原一族の間には戦端まで開かれた。

幾ら無礼があったと言っても、その現場に居なかった清衡や家衡が、一緒になって怒るのは道理に合わないから、要するに三人とも、真衡が(自分ら弟にではなく)養子に跡を継がせようとしてるとかが気に食わなかった、みたいな事じゃなかろうか(^_^;)。。

ただ、このように清原一族の重鎮たる吉彦秀武にアテにされてる所を見る限り、清原氏における清衡の立場も、敗者の家系への差別・冷遇のみ、ってわけではなかったように思えるよね(^^ゞ。

そして「伽羅御所」は、今回は一風景のみ(^^ゞ(パノラマ4枚・180度以上)

前回は、「清衡館」を「安倍氏の館ってコトで(^^ゞ」と先に出させて貰ったが、↑この「伽羅御所」はドラマで、三代・秀衡と四代・泰衡の時代のセットとして使用しており、その贅美を尽くした様が、まだ清衡ぐらいの時代だと、さすがに早かろうと思うので(笑)、この「伽羅御所」については、秀衡とか泰衡の時代の説明をする頃、改めて写真を出したいと思う!!

A常陸(繁盛流)平氏と東北
さて、こうした清原氏を囲んで、吉彦安倍など在地勢力をはじめ、藤原(秀郷流)・源氏(清和河内流)など、一応名のある家のひしめく中、目立った勢力と言えば、常陸平氏(繁盛流)だろう(^_^;)。。

┌(平)繁盛┬維茂−繁成−(城)貞成−重家−永基−永家−資国
|      |                    ┌清原光頼   ├資長(資永)
|      |                    ├武則┬武衡−女
|      |                    ├女  ├−武貞−真衡=成衡(海道氏)
|      |                    ||  └女  |      ↑|
|      |                    ||   |  |      ||
|      |                    |├吉彦秀武 |      | |
|      |                    |吉彦氏    |      | 婚
|      |                    └女 ┌橘貞頼 |     | 姻
|      |                      ├┴橘頼貞 |     | |
|      |                    橘氏       ├家衡  養|
|      |                       安倍頼時−女(結有) 子|
|      |                              ├清衡  ||
|      |                  藤原(秀郷嫡流五代)経清   ||
|      ├安忠−則道−−貞衡−繁衡−−忠衡−−成衡(岩城氏)−┘|
|      └維幹−(大掾)為幹−繁幹┬(多気)到幹(宗基)−女      |
|                        |             ├−−−−女
|                        |     源頼信−頼義
|                        |            ├┬(八幡太郎)義家
└貞盛−−−維将−維時−−−直方−|−−−−−−−−女└(新羅三郎)義光┐
                         |             ┌−−−−−−┘
                         |             └義業
                         |                ├(佐竹)昌義
                         └−(吉田)清幹−−−−−女
↑の通り、「」「海道」「岩城」などに囲まれているばかりか、源氏に絡めて、「大掾」「多気」「吉田」の影もチラつく。これら全てが常陸平氏(繁盛流)である。

ただ岩城氏の「成衡」は、後にその子の「隆衡」が、清衡の婿となって岩城氏を起こすものの、この「後三年の役」に名を顕す「海道小太郎・成衡」と同一人物か、定かな系図はない(^_^;)。。

しかし、その祖、「安忠」から勿来の関を含め、磐城方面に基盤を有していたと見られ、その子孫の成衡が「海道氏」を称した事とも符号する。
見やすいように、後に「岩城氏」となる「成衡」を含む系図を繋げてみている(^^ゞ。

B源氏(清和・河内流)
注目すべきは、これら東北や常陸の在地構図に、源氏が割り込んで来る事で、「平忠常の乱」で名を上げた頼義は、平直方の娘を娶って義家の誕生を見た。
その上さらに、多気氏の女にも女子を生ませ、海道成衡と娶わせたあげく、清原氏に送り込んで来るのである(^_^;)。

と言っても、既に頼義は死去しているから、「送り込んだ」の主語は、異母兄の「源義家が」という事になる。

この事と合わせて、後三年の役は、「源義家が清原氏に仕掛けた罠」という見方がある。清原真衡には子供も居たようなのに、わざわざ他家から夫婦ごと養子を取る、という発想自体、何となく不思議な感じがするのは確かだ。

そんなキナ臭い空気の中、永保3年(1083)、その張本人・(八幡太郎)義家陸奥守(兼・鎮守府将軍)に就任し、赴任してきたのである(^_^;)。

「伽羅御所」を出ると、続いてG「街並み」というコーナーがある(パノラマ2枚)

中に入って進む↑と、先はこんな通り↓が続いてる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

←こんな感じ。
「政庁」の横隣のスペースでもある(^^ゞ。

ほんの僅かな距離の通りだが、少し路線を歪ませて、見えない空間を作っており、実際には、ここを何度も何度も騎馬で通りながら撮ったであろう各カットを、上手く繋げて出来ている、ロング・シーンなどあり、かなりの大きさの「(京などの)街並み」という感じに、ドラマでは見せている(笑)。

また、庶民とか芸人のちょっとした空間……例えば酒場とか貧乏長屋みたいな場面としても、見掛けた覚えが……(笑)。

そして、「入場ゲート」に戻って来る。ここでは衣装の貸し出しとか、色々な催しもやってるようで、帰りがけに「牛車」をしまってる場面に出会ったら、記念撮影のため、もう一度出して下さった(^^ゞ。

入場ゲート(出口も一緒(^^))→

古代女性に扮した職員サン達が、牛車をしまったりしてる所。

牛車なんて、歴史の便覧とかで平面的に見た限りで、あまり間近に見た事が無いもんだから、ジロジロ見てたら……。

←わざわざ出して下さった(^^ゞ。(ありがとうございますm(__)m)

ちゃんと持ち手部分を置くテーブルがあるのよね〜(゚.゚)。

さて、源義家が陸奥入りして来てどうなったか、に進もう(^^ゞ。

八幡太郎義家は、前九年の役の勃発時には14歳、初陣は19歳、終了時には24歳になっていた。
そして、新たなこの任官時、義家は45歳になってやって来た。父・頼義は既に故人である。

この陸奥で源義家を手厚く迎え、三日三晩もてなしたのは、先妻の長男・清原真衡。
真衡はこの後、すでに対立していた吉彦秀武を討伐しようと、出羽に進発するのだが、その留守を狙って、吉彦秀武と組んでる清衡たちが、真衡が政庁を構える「白鳥村」の家々400余を焼き払い、真衡の館も襲った。

これが「後三年の役」の勃発である。永保3年(1083)であった。

この時、清衡たちが襲った真衡の館は、「前沢区白鳥館」というから、今ある「白鳥館跡」に比定できるだろうか。
今回、最後に寄ったので、そこで少し詳しくやろうか(^^ゞ。

真衡の妻は源義家に巧みに取り入り、清衡らの真衡への攻撃を、「これは国守(義家)に対する攻撃と同じですっ!\(>o<)/」と訴え、源義家の郎党の兵藤・伴の機転で、真衡の妻と成衡(海道氏からの養子)の命は助かった。

この時点で義家が、真衡側の味方だったことは明白なんだが、陸奥守の権限を笠に着て、奥州に対する武門棟梁権の何らかの布石を図っていた、とも見られている。

しかし、「成衡が助かった」というのは、その妻である「義家の異母妹」を救出するためだろうから、義家の郎党どもが手を出すのは、「国司として」と言うより、「身内の抗争に乗じて、私兵を出した」と中央に受け取られた感じもする(^_^;)。

そんなこんなの内に、出羽に出陣した肝心の真衡が、帰って来ずに病死するのだ(^^;)。。

「介入権の行使」を目指す義家は、合戦の最中、上のように郎党らへの加勢など繰り出す傍ら、使者とか遣わして、「何で戦争してんのか説明しなさい」などと、今さら国司っぽく清衡たちに問いただす(^_^;)。。

とは言っても、問いただされてる清衡も清衡で、義家との合戦には負けて、敗走の憂き目を見ていたから、「こっちにも主戦論者がいたんだが、討死したし(^^ゞ」とか言って(笑)、そもそも敵対した真衡が死亡した事だし、行き掛かりで戦ってた義家とは、和睦する事とした。

なので結局、生き残った家衡と清衡に遺産相続がされる、という事で解決を見た(^_^A)。


ドラマでは前段階が色々あるんだけど、実際的に清衡と義家が意気投合したのは、この辺りじゃないかな〜と(笑)。

続きは↓で(^^ゞ。



<館山史跡公園(岩谷堂城跡)、「二清院」>

「えさし藤原の郷」には、閉館ギリギリまで居たが(^^ゞ、あとはちょっと寄り道してから宿に向かった。

「ちょっと寄り道」のつもりだったから、まずは来るまでの道のりにビックリした!(笑)
地図C←寄ったのはココ。地図上には「岩谷堂城跡」とある。

地図を拡大して見て貰うと、少しは通じるだろうか……ここは上空から見る限り、「えさし藤原の郷」に、8号線「盛街道」という道路を隔てて隣接してるのだが、実際には、この道路は「上空にある」と言って構わない程、とんでもなく高所にあるのだ(^_^;)。。

最初その事に気づかず、何度か行き来しては、ナビを見て、「あれ?! 通り過ぎた?(゚.゚)」とか言っていた。
「まさか、アレって事は無いよね(^_^;)」
「あの橋? 違うでしょ、あんな高い所、何かダムでも作ってるんじゃない?」

しかし、何度も通り過ぎる内に、「どうもアレらしい(^_^;)」と覚悟を決めて、山沿いをグイグイ登って、空中の橋を渡った。
……凄く怖かった(^^;)。。。橋を渡るタイヤが震えていた(←?!?!:笑)。

到着。月に向けてカラスが飛んでいた
すんごい高い所に来た(^_^;)。。

カラスの写真が撮れたのは、コレ一度きりだったかな(^^ゞ。
よく宮沢賢治の童話とかで、木の電信柱の五線譜になってる電線に音符のようにカラスが止まってる絵があるけど、ホント現地に来たら、まんま童話の世界が広がってて、ビックリした(笑)。

全体的にすごく幻想的で、風土として、どういう共通項があるのかまでは突き止められなかったけど、少し房総半島に似てるかな〜とは思った。

さてさて、ここは、「藤原経清と清衡の館があった」と伝えられている所から、記念として「二清院(経衡の「清」を取ってるのだろう)」という御堂が建てられている。城跡・御堂・公園・そして八幡神社を全て含めて「館山史跡公園」と呼ぶ(^^)。

←そこがコワイ橋(^_^;)。→こう登って来た(パノラマ4枚・180度以上)

↑の反対側↓が「館山史跡公園」と駐車場↓(パノラマ4枚・180度以上)

「後三年の役」の方も、先に進もう(^^ゞ。

<義家・清衡×家衡、「沼柵の戦い」>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
平和が戻り、遺産相続も無事に済んだハズの清原氏だったが、家衡が遺産の分配に不満を持ち、今度は清衡を相手に、再度、兄弟喧嘩を始める(^_^;)。

この背景・経緯として、清衡は源義家によく尽くし、義家もそういう清衡を大いに認めたので、家衡が孤立した……なんて事が言われる。

しかしそもそも、「調停者としての君臨」を目指すのなら、調停が成功しなければならないはずだ(^_^;)。そこが、何か義家って、オイシイ東北料理をいっぱいゴチしてくれた人の味方をしてるだけにも見えなくはない(笑)。

なので、義家が最初から兄弟喧嘩をさせるべく、問題ある分配を勧めた、とも見られている(笑)。「清衡には胆沢・江刺・和賀の三郡、家衡には稗貫、紫波、岩手の三郡」という分配が、それである。

一方、調停という源氏の手法(でもあり目的でもある)自体に、元から問題があった、という見方もある。
そもそも家衡には、誕生からして、清原氏および出羽・奥州の支配権を一元化すべく役割が期待されている。そこに国司による調停とは言っても、イエ問題に他氏の介入を受けるようでは本末転倒、という事になるからだ。

入口の案内板にあった園内地図↓
右下の駐車場に今いる。真ん中の紫色(アジサイ園)を超えて、中央に「二清院」、左に「館山八幡神社」。

左の道路沿いには、「藤原氏御館跡碑」とあり、さらに左に展望台。

↑この園内を巡るコースの途中から、ジワジワ暗くなって来た上、ここでナント、デジカメの保存数がいっぱいに達しちゃって(゚.゚)、車に戻って、ノートにデータ入れ替えとかやってる内に、どうにも暮れて来ちゃったから、残念ながら、一番行くべきだった(?)「藤原氏御館跡」の辺りでは、もぉ真っ暗に……(;_;)。。

そのさらに先の展望台とかも、肉眼なら風景など見えたかもしれないけど、そろそろ宿の時間も気になってたので、「二清院」と、辛うじて「館山八幡神社」あたりまでお見せ(^^ゞ。

では、まず「駐車場」付近から園内に入る。登ると、奥にコンモリと盛山が見えて来る。

さて、再度、内輪揉めモードに突入した清原一家は、どうなったか……。

応徳3年(1086)、家衡は清衡の館に奇襲をかけ、妻子や眷属を殺害。
清衡は単身で辛うじて遁れ、義家に被害を訴えたため、義家は、数千騎で家衡が籠もった沼柵を包囲した。


奇襲と妻子殺害についてだが、特に子の方は、血の繋がった叔父(清衡と家衡は、父は違うが母は同じ)に殺された事になる。。

この時、家衡に襲われたのが「豊田館」と伝えられており、前回も通った場所(2010年1月<江刺「豊田館跡」>内だが、この岩谷堂城跡も「清衡の居館」と伝わり、慰霊とおぼしき堂・社もあるので、ここで当時の事件に関わる地元の伝承(と芸能)の話をしよう(^^ゞ。

「えさし藤原の郷」では、大河「炎立つ」の第二部・最大のクライマックス・シーンを通じて、「家衡は直系を主張して、兄・清衡と反目し、清衡暗殺を企てて豊田館に火をかけ、清衡の妻子と一族を皆殺し」にした、とこの襲撃事件について語ると同時に、「原体剣舞」という現地に伝わる芸能の解説をしてくれてた(^^)。

原体剣舞」は、宮沢賢治が紹介して知られたようだが、元は、「奥州藤原氏の初代・清衡が発端」と伝説される芸能(舞)なのだ(^^)。

と言っても、舞が江刺で行われるようになったのは、江戸時代末期だそうだ(^^ゞ。
ただ、剣舞であるのに子供が演じる(中でも女の子が加わる)理由として、「殺害から一人逃れられた清衡は、一族の怨霊を鎮めるのに、特に妻や子への供養のため、女子や稚児が剣舞をする」とあり、子供のように清らか、女性のように華やかなこの剣舞の別名を、「子供念仏剣舞」、「稚児剣舞」とも言うそうだ。

二清院」に到着→
9月も終わり頃なのに、まだアジサイの花が、枯れながらも残っているのに驚いた(*o*)!

奥州藤原氏は、四代とも生年不詳だが、初代・清衡の生年を「天喜4年(1056)」とするのは、「中右記」の「大治3年(1128)、73歳(享年だろう)で没」を参考にするようだ。

清衡が没したと見られる、この大治3年(1128)の4年前、天治元年(1124)の日付で、中尊寺金色堂棟木の銘に、「大檀」として「散位・藤原清衡」、続いて「女檀」とある下に、左から「平氏・清原氏・安倍氏」の三つが並んで書かれているそうだ。
書き順としては、縦に右から書くのが普通だから、「安倍・清原・平」の順だろう。

「藤原」は清衡の実父・経清の姓、「安倍」は実母の姓だ。
となると、「じゃ、残りの『清原氏』や『平氏』は誰?」という事になる(^_^;)。

「女檀」とあるから、清衡の妻ではないかと言われ、「清原氏」を最初の妻、「平氏」を後妻、と見る説もある。

清衡の妻子は上述の通り、家衡に襲われ殺害されている。
奥州藤原氏は、清衡を初代として、二代基衡は清衡の実子であるから、清衡は後妻を娶って基衡を得た事になる。
すると、殺されたのが清原氏の女(と子)、基衡を生んだのが平氏の女という事になりそうだ。

なるほど、清原氏の女性を妻とし、男子まで得ていたので、真衡や家衡と変ることのなく、清原氏の一族に仲間に入れられていた、と見る事が出来そうだ(^^ゞ。

「二清院」の先に並ぶ「館山八幡神社」の屋根(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ただ、供養などする場合、祖父母に遡って四氏を祀る例もあるので……。

藤原頼遠
  ├−−経清
平氏の女 |
       ├−清衡
安倍頼時 |
  ├−−女
清原氏の女

↑こういう線も仮に加えてみた(^^ゞ。「安倍・清原・平」の順番も、もしかしたら単純に、「年齢順」とか「死亡順」かもしれないし……。

と言うのも、経清夫人は夫や実家の敗戦後、スンナリと清原後妻の座に納まって家衡を生んでるが、これを「戦後、普通によくある自然なケース」とはとても思えない(笑)。

それよか、「母の実家に戻って、従兄弟や又従兄弟らと再婚」という事だったら、連れ子も同情的な目で見られる気がするのよ。

となると、「謀反人の子」と差別を受けたり、「母も戦利品扱い」と罵られるなど、悲劇的な経過があったかどうかも疑わしい、という事になるけどね(^_^;)。

遺構に祀られる祠
「館山八幡神社」だが……
近寄ってもなお暗く(^^;)。。

さて、この「岩谷堂城跡」だが、ここは昔から「御館山」と呼ばれ、「古代からこの地方を支配する豪族の居館や砦がおかれ、平安末には経清・清衡の砦館であった」と伝えられている。

しかし、平泉藤原氏が滅亡した後の鎌倉時代、この地に入って来た幕府重臣・葛西氏の所領となり、一族の千葉胤道が城を築き、葛西氏の支族・江刺氏が入城、本拠とした。
戦国時代も伊達氏の支配下にあって、幕末まで伊達家臣・岩城氏の居城としても、南部藩との境界としても、守備・存続されていた場所である。

そのため、それらのいずれかの時代で要塞として機能した山城だったのだろう。
城砦の遺構と八幡神社が鎮座する山頂部の本丸跡、大規模な土塁、堀の一部(堀・空掘)が現存している。

また本丸跡には、延慶4年(1311)、城主・江刺三郎四郎が父母の供養のために建立した古石碑や、樹齢800年を越すイチョウの老樹が残されているそうだ(暗くなっちゃったけど)。。

ところが、昭和58年(1983)、岩手県埋蔵文化財センターの発掘調査により、平安時代の住居跡が発見され、改めて言い伝えられていた、「経清と清衡の館」という認識に立つ事となった。

そこで、江刺の歴史に一大光芒を放つ武将「経清・清衡」父子の偉業を永く顕彰するため、先ほどの「二清院」が建立された、というわけである。

神社参拝が終わって、道路に戻ってくる途中の土塁(パノラマ2枚)

藤原経清は、従五位下・亘理権太夫だったと伝わっている。
豊田館の近くにある墳墓は、官位にちなんでだろう、古くから「五位塚」と呼ばれているらしい。

宮城県亘理地方を支配しつつ、初めは陸奥国府の官人として、陸奥の国司に従って奥州に下った経清だが、安倍頼時の娘婿となってからは、「江刺郡豊田ノ館に移り住み、その子・清衡が生まれたのも、ここ江刺」と伝えられている。

確かに経清は反逆者として滅んだが、経清の子・清衡は生き延び、その後の内訌にも勝ち抜いたため、生誕の地に戻った、と考えられる。

が、江刺における居館と伝わる豊田館は、妻子もろとも家衡による襲撃の場となった。

なので、妻や子の流血にまみれた凄惨な現場を避け、他の地(例えばここ)に居館を築いたのか、或いは豊田館は再建されたが、それとは別に、ここにも館が作られたのか、初めから複数箇所に館があったのか、いずれにせよ、清衡が嘉保年中(1094年頃)に「平泉に居を移すまでの館」と見なされている。

これが真っ暗な中で撮った御館跡〜(^_^;)(パノラマ4枚・180度以上?)

また、清衡が戦没者への鎮魂と平和への祈りを捧げて制作した「紺紙金銀字一切経」の奥書に、「江刺郡益沢院内書」とあるが、現在も江刺で相当する地名となると、「増沢」しかないので、そこを擬定地として、現在「益沢院跡」なる観光地(休憩所)も造られているらしい。
この岩谷堂城跡から、さらに少し北になるが、地図D←だいたいこの辺かな〜と(^^ゞ。

「後三年の役」については、この後も続くぅ〜!(笑)



<矢びつ温泉(厳美渓)にて、2泊目>

奥六郡の南端二郡「胆沢」「江刺」とは、これでお別れ(;_;)。。
「エサシ(江刺)」は、アイヌ語で、「前面」「境目」を指すそうだ。西の胆沢に対しても、南の磐井に対しても、そういう意識はあったのだろう。
その意識に沿って言えば、これより蝦夷にとっての「異郷」に入る、という事になる。

2日目のお宿は、「一関」を経て、厳美渓という所に取った(^^)。
3日目の宿も、同じようなルートを使った♪

というのも、一関の東西には、素晴らしい渓谷と温泉(^_^A)があるのだっ(笑)。
それだけ深山に囲まれた地域なんだね。アテルイ討伐隊の面々も、安倍氏や清原氏討伐の面々も、みんなご苦労様でしたm(__)m。

地図C←岩谷堂城跡に中央点が入ってる。北上川を元に渡り戻して、左の「水沢インター」で、まず高速に乗り、水沢→平泉前沢。
地図E
←中心点が変わって(^^ゞ、平泉前沢→一関。高速を降りた後は山道を行き、矢櫃温泉のある宿に中央点を置いている。

着いた時は暗かったので、宿の全景などは翌朝に廻すとして、まずは、美味しい夕ご飯〜(^O^)
ド〜〜ン!!
凄いボリュームだけどっ、殆ど食べ切ってしまえる私達っ(≧▽≦)

ここや一関を含めた広いエリアで「お餅がご馳走」なのだと宿の仲居さんに教わった(^^)。このメニューだと、お味噌汁にお餅が入っていた♪
↑食後のデザート♪

前の宿がちょっと少食メニューだったのと、この日の昼がラーメンだけで、お腹が空いてたのもあって、ガツガツ食ってしまい、すっかり中身を忘れてるんだが(爆)、火を入れた鉄鍋に入ってたお肉は、もしかして前沢牛だったかも?!

今回は水沢と平泉は行ったが、その間の前沢は、白鳥館に行った時に通っただけなのだ。
でも前沢牛は、そこで飼育されてるのよね〜(#^.^#)。

そして食事の後は!!!

今夜も温泉〜〜〜(つ^o^)つ。露天だよっ(パノラマ縦4枚)

う〜ん外気が気持ち良かった〜♪(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ふぅふぅ、やはり温泉はいいね〜((o(^^)o))<チャプチャプ♪

さてさて、これまで見てきた「水沢」について、最後に付け加えると……。
胆沢城も、北上川を東進した江刺も、水沢駅より東に当たるのだが、実は水沢駅の西側は、江戸期には留守氏の城(水沢城)と城下町があった(^^ゞ。

留守氏は、元は頼朝の奥州征伐の後、葛西氏などとともに奥州経営に当たった留守職・伊沢氏の後裔だったが、鎌倉以降は落剥して、伊達氏からの入嗣を繰り返した。

秀吉の小田原征伐の折、あの独眼竜政宗(伊達17代)の叔父・政景も、留守氏の当主で、宮城県の利府城にいたが、葛西氏らとともに参陣しなかった咎で、利府を追い出された。

が、その後は伊達氏の保護を受けて、朝鮮の役で功績を立て、伊達氏の称号を与えられ、清水→一関→金ヶ崎→水沢の順で城を変わり、政景の子・宗利は、寛永6年(1629)、水沢城に初代城主として入城し、数々の治績を果たしている。



<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>

おはよーおはよー(^O^)/
夜が明けた事だし、この矢びつ温泉の素晴らしい風情を、早速お届けしたい!

矢びつ温泉「瑞泉閣」、朝の佇まい(^^)。
朝食もタップリ!(≧▽≦)

このホテルは建物の内外ともに、ちょっと見所があるのっ(#^.^#)。

玄関の1階には、弁慶と義経が!(笑)
2階の龍神には、前にちゃんと神棚が祀ってあるのっ(゚.゚)!→

弁慶&義経の話までには、まだまだ時代がかかるよね(^_^;)。取りあえずはその先祖・八幡太郎義家の事から片付けないと……。 *ファイト〜!ヽ(`Д´)ノ*
〜|  ┌−┬−┐  |〜
〜|秋|仙||岩|〜
日|田|北||手|太
本|県|三||県|平
海├−┤郡|  |  |洋
〜|山└−+−┴−┤〜
〜|形県  |宮城県|〜
 
┌−−−−−┐
|岩┌−−┐|
|手|紫波||
├−+−−┴┤
|和|稗 貫 |
|賀└−−−┤
├−−┬−−┤
|胆沢|江刺|
└−−┴−−┘
  さて、義家が攻め、家衡が籠もった沼柵は、出羽(秋田県)にある。

これを含めて、「後三年の役」におけるこの後の戦いは、全て仙北三郡で行われており、奥六郡に比定すれば、その緯度は和賀あたりに相当するかと……。
このように、源義家が赴任してから、戦争が再度に渡って起こっている事が伝わると、京の朝廷では、義家の次弟、(賀茂二郎)義綱の出羽への派遣が議せられたが、関白・藤原師実が、じかに義綱に奥州の事情を聞くにとどめた。

そして、翌寛治元年(1087)になると、合戦の停止命令を下す計画すら持ち上がる。
つまり朝廷では、頼義には認めた、朝意による奥州征伐(安倍追討)の許可を、今度の義家に対しては、渋っているばかりか、押し止めようとしていたとも見られる。

と言うのも、それまでは、清原真衡+源義家(真衡の養子の舅)に対し、清原家衡+藤原清衡(家衡の同母兄)が反抗する戦いであって、先頭に立つのはどちらも清原氏。つまりは内部抗争だったのだ。

そこに、源義家が国司の名のもとに軍事的に介入してる事すら問題だったわけだが、それでもその時点では、そう大きく広がらずに、何とか円く治めた方だった。

それが今度は、さらに戦線が拡大してるのだ。。

そしてこの程は、反清原(源義家+藤原清衡の連合)に対し、清原一族が結束して抵抗するのである。
この、「反清原×清原」の対立図は、「兄×弟」の構図ではなくなり、やがて「源氏×清原」という色調として、双方の陣営に次第に色濃く顕れはじめるのである。


ロビー前には、庭園の見えるラウンジが(^^)(パノラマ2枚)

夕食・朝食ともに、連続してタップリ食べたものだから、食後はすぐ動けず、ラウンジでコーヒーを飲みながら休憩(^_^A)。

この庭園が凄く広大(゚.゚)。(パノラマ4枚・180度以上)

お腹ごなしに散策に出てみた(^^)

さて、我々はこんな具合にお腹がくちいが、義家軍はお腹ペコペコだったのだ(>_<)。。

沼柵における包囲戦は、家衡の抵抗に遭って、膠着したまま厳冬を迎える。
再び兵士たちは飢餓に陥り、馬肉を切って食べたが、ひどい寒さに凍え死ぬ者もいた。
義家が凍える兵士を自ら抱いて温め、介抱し蘇生させた、という有名な美談も、この時の物だ。

しかし状況は改善せず、義家も諦めて軍を引き上げた。

そして、この戦いの頃から、これまで陰に隠れて名を顕すこともなかった、「清原武衡」が正面に出て来て、清原一族として源氏の挑戦を受けて立った。清原氏系図B

義家が撤退した事について、清原武衡は家衡を褒めて、
「独りであれほどの敵を、1日は言え追い返した手柄は、家衡だけの高名ではなく、武衡の面目でもある。この国司(義家の事だろう)の評判は、昔の源氏や平氏にもまさるものを、こう追い返したなんて……」と感動している。

<清原氏滅亡、「金沢柵の戦い」>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
武衡・家衡のコンビは、義家はまた来るだろうから、もっと要害の地へ移ろうと、沼柵から金沢柵(秋田県横手市)に移った。

義家は、武衡が応援した事を大いに怒ったが、当分は兵力の整備につとめ、翌年(1087)秋、数万騎で金沢柵に攻めかかった。


大きな庭の入り口(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ちょうど義家らが金沢柵に到着した頃の逸話がある。
一行の列を乱して四方に飛び散った雁の群れを見て、義家は伏兵に気づき、探索させた所、すすき野に潜伏していた30余騎の敵を討ち取ることが出来た。

義家は、かつて大江匡房に「武士の器量は充分だが、合戦の道を知らない」と評されたので、「大江匡房に兵法を学び、文の道にも通じたため、雁(の習性)に気づいた」と語った。

大江匡房は、平安期の学者の家柄で、代々に著名な先祖・子孫を持つが、殊に有名なのは、鎌倉に参じて頼朝の幕閣に加わった、大江広元だろう(さらに行く末、毛利家にも繋がる家である)。

源義家と大江匡房は年齢も近く、片や当代随一の武の人であり、片や同じく随一の文(学問)の人、という組み合わせもあって、両者が意気投合した逸話として知られている。

もちろん史実としての整合性は不明で(^^ゞ、話の内容も、太田道灌や毛利元就などにも見られる、よくあるパターンではあるが(笑)。

広い庭園には小滝や小川が施されている(パノラマ3枚・ほぼ180度)

優美な庭園の奥の山々が、また神々しい(^^)

さて、この「金沢柵の戦い」に到って、義家の弟、(新羅三郎義光が来援する。
これも有名な逸話で、義家は「君がここに来たのも、父上(頼義)が生き返られ、いらした証だ。君が副将軍となったからには、武衡・家衡の首は手中にしたも同じ(^^)v」と大いに喜んだ。

義家と義光は協力し、東国の精鋭をもって、この柵の攻略にあたったが、武衡・家衡の防備は堅かった。
義家は兵らの士気を高めようと、勇敢な者には「剛」、臆病な者には「臆」、と各々の座をしつらえ、日々振る舞いによって兵を選んで座らせた所、毎日「剛」の座にすわる者もおれば、逆に毎日が「臆」の座の者もいる。
「剛」に座った事のない、「末割」という武者は、ある時、腹いっぱいに飯を食い酒を飲んで、先駆けをしたが、敵の矢が咽喉に当たって死んだ。

彼の死体の射切られた首からは、ご飯粒が元の形のまま出て来たので、人々は嘲笑した。
義家は悲しんで「勇者でないものが、一度急に励んでも、ぶざまな死に方をするものだ。食べた物が腹の中に納まらず、咽喉で止まっているのも臆病だからだ」と解説した。


(パノラマ3枚・ほぼ180枚)

さて、こうして金沢柵を包囲してる内に、やがてまた冬季が到来。大雪が降って、凍死者の出る恐れもあって、士気の衰えが出て来た。

義家のアテにするのは、恐らく陸奥に備蓄され、運ばれる兵糧だっただろう。
多賀城から遠い出羽に来てしまうと、兵站の確保が大きな課題なので、こういう場合にも、陸奥と出羽に権限の及ぶ「鎮守府将軍」がいいのかもなぁ(笑)。

それでも、ここで兵糧攻めによる柵の孤立策を提案したのは、発端から関わってきた、清原一族の重鎮・吉彦秀武であった(清原氏系図A)。出羽人だから、この柵の堅固さに詳しい。「これ以上の兵力の投入は無益」と、ただ包囲するよう提案したので、糧道を含めてだろう、道の二方を義家が、一方を義光が、一方を清衡が押さえた。

こうなると、城方ではやる事が無くなるから、清原氏からは、罵詈雑言を外に向かって浴びせる一方になった。
「前九年の役の時、源頼義は名簿をささげて、清原武則に援軍を請うた、相伝の家人の癖に」と、こうまくし立てるわけだ(笑)。

これに受けて立った義家、「名簿があるなら出してみよ。そちらこそ、源氏あってこその清原氏」だとか、気丈にも言い返すわけだ(^_^;)。


何の事を言ってるのか……。清原氏が鎮守府将軍になれたのは、源頼義の推薦があったから、といった辺りの事ではなかろうか。
この当時、戦争によって官位を得るには、通じた人の推薦が無ければ成就しなかったのである。

しかし古代における論功行賞には、「後から援軍を寄せた者」に手厚い傾向も感じる(^_^;)。

将門の乱でも、「平貞盛は一人では勝てなかった所を、藤原秀郷の援軍によって勝てた」として、功労は秀郷に厚く報いられた。
同じく、清原の援軍によって、負け続けの戦いが有利に運んだのだから、この時に義家が言い返した事に、どれぐらい分があるのかな、とは思う(笑)。

庭をさらに奥に←こう進んでみる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

大庭園の端に達すると、涼しげな渓流が見られる♪

↑この柵の所から前を傍観すると……、

ド〜ン!目の前を流れる「磐井川」っ(^^)。(パノラマ2枚)

↑もう一度、地図E←かなり縮小してるけど、岩手県の中でも南西に寄って、西の秋田県、南の宮城県にかなり近い場所なんだよね。
特に今回来た中では、一番秋田県にグッと迫っていて、実は今話してる内容と近いと思う!(≧▽≦)

さて、上記の「相伝の家来」だが……この論理は、何か横道に逸れている感じもしなくない(^_^;)。
すなわち「相伝の家人」とは、代々が一定の家の家人となる主従関係を示す。

しかし基本的に主従関係というのは、この時代はまだ世襲ではない(^_^;)。それが概念的には、既にこうして顕れている例として、よくこの時の、両陣営による「言い合い」が引き合いに出される(笑)。
例えば、明智光秀が信長を攻める「不忠」に留まらず、家康が豊臣秀頼を滅ぼす場合も「不忠」だとかね(^_^;)。。

この「相伝の家人」問題は、源氏と奥州藤原氏の間にも持ち込まれ(^_^;)、わりと息の長い問題となるので、ちょっと次、それ考えてみようか(笑)。

←ちょっと明るめにして部分拡大(^^ゞ
これは川なんだけど、湖とかみたいな、抹茶羊羹の色だったの!(エメラルド・グリーンとか言わないかね?普通(^^;))
↑中間部は石の並びが顕れて、浅瀬っぽかった。夏〜秋なら入れそうだねっ(#^.^#)。

←ホテルの前の道路から続く橋だろう。
↑庭の端。渓谷に面する柵の前は石庭風。

←近寄ると、石は秋の草花に囲まれ、柵向こうの山や渓谷と一体感もホント見事で、結婚式場やその宿泊によく使われるホテルなんだろうな〜と思い、後で、平泉の各史跡の庭園に似ていた、とも思った♪

さて、源氏と清原氏の間に、相伝の主従関係があったかに戻るが、「奥州後三年記」には、「主君を攻める、不義不忠の輩」とあるそうだが、どうもこの書物は後付も多そうだし、元々言ってたのは、「恩知らずめ」という部分じゃなかろうか(^_^;)。。

と言うのも、清原氏がやってるような同族争いって、少なくても東国では、そう珍しい事ではなかったのではないかと(^_^;)。。
なのに、さも物知ってるゲに、「兄弟は仲良くネ♪」だとか教訓垂れるヨソ者ってどうよ?
ヨソ者はヨソ者らしく、「地理もよく知りません、食べ物も減っちゃいました、ヘルプであります!」とか土下座してた、アンタの親父の方が、よほど可愛ゲあったわよっ!ヽ(`Д´)ノ

……ま、本音を言えば、こんなトコじゃないかな〜と(^^ゞ。

要するに現実の気持ちとしては、清原氏内部の族長権に対し、国守の地位を笠に着て、ヨソからイチャモンをつけてる源氏に対し、嫌味を言ってるのかな〜と(笑)。

で、それに対する義家の「源氏のお陰で!」の部分も、事実関係はともかく(^_^;)、罵り合ってる事は互いに「恩知らず」って事だったんじゃないのかな(^^ゞ。

それがどうして「主従」とか、「相伝の家人」になるのか……(^_^;)。



お腹もだいぶこなれて来たので、そろそろ出発……の前に、もう一風呂浴びていこう(笑)。
ちょうど↑で見て来た渓流の上に、大浴場があるのよ(#^.^#)。

室内の温泉。淡い白濁色の湯だった(^^)(パノラマ2枚)

↑にも見えてるけど、昨夜は真っ暗だった露天(^_^A)(パノラマ縦3枚)

↑の下が、さっき見た磐井川の渓流なの(^^)。川の流れ聞こえて来る、いい温泉だよっ♪

……さて続きを考察。……と言えるほど物知ってるワケじゃないけど(^_^;)。

八幡太郎義家は、源氏系譜の中で、頼朝に匹敵するか、見ようでは、それ以上の英雄と伝えられている感じがする。
が、成立期が足利幕府以降の物(軍記・説話・伝承類)は、ちょいと気をつけた方がいいのかな〜という感じもしなくはない(^_^;)。。

と言っても、骨子が鎌倉期やそれ以前にあったとされる伝承が殆どだから、何に書かれてるからダメみたく、スッキリ色分け出来るほど単純じゃないんだけど(^^ゞ、後世付会の、どういう点に気をつけるかだけ、とりあえず書いておこう。

早朝の湯の滑らかな事(^_^A)
こっちは男湯露天(亭主が撮ってくれた♪)

清和天皇−貞純親王−(源)経基−満仲┬頼光(摂津)
                         ├頼親(大和)
                         └頼信(河内)−頼義┬(八幡太郎)義家
                                      ├(賀茂二郎)義綱 |
                                      └(新羅三郎)義光 |
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−┘
義親−為義−義朝−頼朝  (八幡太郎義家より先は、詳しくは源氏系図を(^^ゞ)
義国┬義重(新田)
     └義康(足利)

↑大雑把だけど、このように義家の血を引いている家柄からは、後に幕府の頂点・征夷大将軍(足利・徳川)が出ている。
ちなみに、(新羅三郎)義光から出た家には、佐竹武田小笠原平賀といった諸氏がおる(笑)。

しかし、何もかも「足利政権下に捏造」とかじゃなく(笑)、だんだん下地が出来て行ったのかな〜と(^^ゞ。

頼朝の家系が、三代将軍・実朝の暗殺事件によって途絶えた後、わりと長い時間、鎌倉時代は続く(^_^;)。
そして執権北条氏がようやく滅ぼされ、源氏の中から足利・新田が出て来て、互いに揉めたあげく、足利氏が勝ち残った。

この辺りから、「義国の子孫」による「源氏嫡流」を巡る争い、という発想になってる気がすんのよ(^_^;)。つまり足利・新田にしてみれば、
義親の系譜でなく、義国の系譜でもよいのは、両氏の祖・義家が優れていたから」
義家の代で、既に武門の棟梁権の下地を内包していたから」
という事はあるのかな〜と(^^ゞ。

ただ、義家の生きた時代、或いはその直後から伝わる彼の「英雄譚」が、主な骨組となっている事には変りないだろう。当時の貴族などからも、義家自身の飛び抜けた武力は、充分に注目されていたように察せられる。
そのあたりは、次回以降に譲るとして、今回は「後三年の役」の続きを行こう(^^ゞ。↓



<磐井川〜衣川>

そろそろ出発(^^)。地図F←現在地を少し拡大。
昨夜は一関から磐井川に沿って、342号線をやって来たが、既に日も暮れていたので、この道の周囲の風景をあまりちゃんと見れなかった(^_^;)。
なので、まずは、342号線を少し下ったり、また上って来たりしながらの風景をお届けしたい。

その後、この342号線を一関まで戻るのではなく、342号線を少し戻った所で、すぐ左折して49号線「栗駒衣川線」(←地図に道路名がないが、地図中「本寺」と書いてある黄色い道路)に入った。
ここで地元の神社を見た。地図で見ると「駒形神社」とある辺りかと思う。

その後、49号線をさらに行き、平泉を北西部から廻って、衣川に達し、北から南に平泉を見て廻った。
……と、こんなコース周りで(^^ゞ、話は「後三年の役」の、「金沢柵の戦い」の続きに行きたい!(笑)

↑金色の田園、山肌で陽光を照り返す郡墓→素晴らしい風景だったわ〜(#^.^#)

一度ある程度下って、また登り返している頃かな?

では「後三年の役」の続き(^^ゞ。

ある夜、義家は「武衡・家衡は今夜落ちる。仮屋を(もう要らないから)焼いて、よく暖を取るように」と、周囲に命じた。
こんな窮状の野外で、仮屋を失うなど、死ぬのと同然だったが、言うとおりにした所、確かに金沢柵が落ちたので、皆、義家の神通力に感服し、尊敬の念を強めたという。

恐らく、柵内の敵の食糧も尽きたのだろう。柵は11/14夜に陥落した。
城中には火がかけられ、人々は四方に逃げ惑い、煙の中でおめき罵る声が満ちて、さながら地獄の如くであった、と「奥州後三年記」は伝え、義家軍が城内に殺到し、次々に城兵を切り殺していく様子を、「後三年合戦絵詞」は伝える。

その前に武衡は、新羅三郎義光に話がしたいと呼び出したが、義家は他の者を遣わしている。
こうした城中との遣り取りで、落城のタイミングが読めたのではなかろうか。

武衡と家衡も、義家の強硬な姿勢を感じ取ったのだろう、柵に放火して、しぶとく逃亡を企てた。
武衡は城中の池の中に隠れていたのを、見付かって捕らえられ、家衡は下郎に扮して逃亡途中、「次任」という者に殺され、首級のみ持ち込まれた。


引き続き「342号線」

う〜ん本当にメルヘンの国に居る感じだわ〜(#^.^#)。

落城すると、予め生け捕りを命じられていた、「千任」というのが引き出されてきた。
これは篭城してる柵内から、「源氏なんか、相伝の家人の癖に(^。^)」と雑言して来た奴である。
「どの口でほざいたっ!ヽ(`Д´)ノ」と、怒り心頭の義家によって、金の箸で舌を切って処刑された(汗)。。


最終ラウンドに、清原陣営から出て来る、この「次任」とか「千任」って、安倍氏の「貞任」とか「宗任」と名前が似てるけど、安倍氏にゆかりある人達なんだろうか……?

さらに義家は、武衡も引き出させて、
「アンタら安倍を討つ好機に乗っただけだろっ?! それよか名簿をさっさと出せ!!」
と猛烈に絡んでいるでちゅ(^^;;)。。。
よほど「相伝の家人」と言われた事に怒っていたと見える(笑)。

さて、ここまで↑は磐井川に沿って……つまり秋田県の方角に向かって行き来する道なので、江刺方面から進発する清衡と、宮城県の方(国府)から来る源義家にとっては、もしかして合流して一緒に出向いた道筋だったり?なんて思わなくもなかった(笑)。

が、ここから先↓は、秋田方面からは遠ざかる道筋に入る。さっき説明した49号線(栗駒衣川線)である。

49号線に入って、右の風景(^^)↓
←左の風景
地図G←だいたいこの辺。確か「駒方神社」だったと思うが……(^^ゞ。

鳥居と本殿のみの簡素な社だが→
拡大。厩には立派な白馬!

白馬はもちろん人形……つーか馬だから、まさに「駒形」なんだけど(^^ゞ。

このように、ガラ〜ンと野に晒されてる霊場って、東北では普通に多いので違和感は無いんだけど、人けも囲いも全く無い森で、廃屋に近い神社に、厩と馬だけはきちんと祀られている、というのが印象的だった!

東北が馬の名産地である事は言うまでもないが、胆沢城あたりでは、古代の信仰場から出土する品に、鏡や鈴に混じって土馬が多いそうだ。

これは、水の精が馬を好むので、馬を献上してご機嫌を取って、水害や日照りの被害から逃れる事を祈ったものだという。

49号線をさらに先に進む〜♪
グッと拓けた広い田園が続く

また、馬を、死者(先祖)の魂を運ぶ特別な動物として扱う信仰については、慧日寺(福島県)に訪れた時にも書いた通りだ(2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内

あの世とこの世を行きかうのが馬であり、また海や川も同じ役割を担うとして、同類視されるようになったのだろうか。

その発想からか、馬は「祟り神」の意味も持つと、「奥州市埋蔵文化財調査センター」では解説していて、「天の岩戸」事件に到る、天照大神・素戔嗚尊の馬をめぐる遣り取りに言及していたのと同時に、「河童」にも触れられていた(^^ゞ。

水辺で水を飲む馬を、河童が水中に引きずり込む、という伝説は全国に多いが、この岩手県では、ここより少し北の遠野の河童伝承が、全国の中でも郡を抜いて有名だ(^^ゞ。

また、義経に絡んだ白馬伝説というのもあるらしい(^^ゞ。
気仙沼に行く途中、亡くなった馬を弔った、という伝承らしく、この地域だと、そっちが近いだろうか。

磐井川に沿った342号線が、ズンズン登ってく山道だったのに比べると、この49号線は平野が続いてる感じだった(^^ゞ。

少し林道っぽい道路に入り
ついに「衣川」を越える(^O^)!

衣川は、高速では何度か超えてたけど、こうやって川をじっくり見るのは初めてっ(#^.^#)。

この49号線(栗駒衣川線)も、衣川を渡ると平泉の北側に達するが、そこまでの道々の地名が、「餅転(もちころ)」「真打」「噌味」とか、何か食べ物っぽくて面白いのっ(^o^)。

今いる場所は、地図H←で、もうちょっと行くと、37号線(花巻衣川線)と出会い、右折して平泉に向かう事になるが、実はそもそも49号線を通ろうと思ったのは、地図I←この辺りに「安部館跡」があるからだった。

でも入り口が、どうにも見付からなかったのと、平泉も見所が多そうなので、急遽、却下した(^^ゞ。

ただ、チラと見つけた案内では、安倍頼時(改名前は「頼良」)に到る、安倍氏三代(忠頼、忠良、頼良)の居城と伝えられるそうだ。
祖父を「忠頼」とする伝えは、信憑性を疑われているものの、当地には「奥州藤原氏より以前」と推定される古代遺跡がいくつかあり、安倍氏の物ではないかと推測されている。

(あと「後三年の役」の話は、まだもうちょっと続くよっ:笑)



<平泉到着(^O^)! まずは「わんこそば」!(爆)>

というわけで、平泉に入った(^_^A)。
最初に町の中心部に行って、昼食を取るお店を探した。

ガイドブックには色々載ってるんだけど、どうも町に入ってみると、「おお(゚.゚)?」と気を引かれるお店が多い(笑)。

そうやって数箇所を廻る内に、「弁慶」と名のついたメニューと、「わんこそば」のどちらにしようか……という、当初は全く考えてもいなかった「悩み」(笑)に、大いに心を迷わせたのである!!

考えがまとまらない内に、とりあえずココに来てみる↓

「夢館・奥州藤原歴史館」という所(^^ゞ(パノラマ2枚)

入りかけたが入場料を見て戻る(爆)

地図J←だいたいこの辺だったと思う(^^ゞ。いや、ここもちゃんと入って見れば、面白いのかもしれないよ?
ただ我々は今、昼食屋を探しているのだわ!

迷った末に選んだ「泉橋庵(パノラマ2枚)

地図K←こちらになります(^。^)。ウナギと「わんこそば」の老舗っぽいような、定食屋っぽくもあるお店だった。
私がウナギを頼んでみた。亭主は南部名物「わんこそば」に挑戦した!

ここで、ちょっと「わんこそば」に絡んだグッズをば、ご紹介(=^m^=)。

ジャジャーーーンン!!!その名も「わんこきょうだい」!(≧▽≦)

岩手県観光ポータルサイト「いわての旅」←トップページ
「いわて平泉観光キャンペーン(07/01〜09/30・もう終わってるケド!)」「わんこきょうだいキャラクタ紹介

いや、もぉ見た通りなんだけど(笑)、右から二番目の「おもっち」の上に乗ってる薄緑色のは、きっと「ずんだ餅」の「ずんだ」だろうね(^^ゞ。今回は「毛越寺」で食べたよ(←まだだいぶ先だけど:笑)。
ちなみに「ずんだ餅」は、餡子がわりに枝豆の摩り下ろしを用いたお菓子ね(^^)。コレがそう→(2008年1月<松島海岸と「観瀾亭」>内

この5人兄弟チャン達は、それぞれ岩手県の中の地域別・郷土料理を頭に乗せているようだ(笑)。
「おもっち」は昨夜、一関料理として頂いたので、今度は真ん中の「そばっち」を、これから食べる!(笑)
↑お店に入るや、お出迎えの鶴亀の藁編み民芸(^^)。

あと「やっぱりね(^^)」という感じだけど、「炎立つ」の出演者さん方のサイン色紙が並んでいた。
渡辺謙=藤原経清(第一部)・泰衡(第三部)/村田雄浩=安倍貞任(第一部)/鈴木京香=菜香(第一部・第二部)/村上弘明=藤原清衡(第二部)などがあったよっ(^O^)。

さてさて、ご馳走が出て来るまでの間、「後三年の役」の戦後編を(^^ゞ。

店内は食堂と各座敷で(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

結局、清原武衡は死刑と決まったが、前もって名指しで何事か打ち明けられるハズだった(新羅三郎)義光は、情が移って、「降参を申し出てるのだから、許してやっても……」と願い出た。

これに反論する兄・義家が持ち出したのが、前九年の役で捕らえられ、一命を許されて流刑された安倍宗任の例だ。

「捕らえられずに逃げ切れておりながら、後で罪を悔いて自首して来た者」←宗任はこれだったから許された。
一方、今回は、「捕まっておりながら、命を惜しんでいるだけ」←の武衡はダメ、という事になった。


色々と注目すべき点があるが、一つは、「敵ながら良質な人物」として、「安倍宗任」の名が上がってる点だろう。

また、論功行賞に腕を振るった、後の幕府将軍にも通じる「武門の統帥」的な論理性も感じられる。
と同時に、「兄は冷徹だが思慮深く、弟は優しいが少し未熟」という、義家・義光の兄弟関係から、彼らの祖父・頼信と、その兄・頼光の遣り取りを思い出す(^_^;)。

┌頼光     ┌義家
└頼信−頼義┴義光

「古今著聞集」に、こういう話がある。

ある寒い夜、頼光が用の帰りに、弟・頼信の家に遊びに寄った。
頼信はすでに一盃やってて、兄の来訪を喜び、盃を勧めた。( ^O^)ノб∀\(^O^ )

ちょうど、ウナギ定食も来着(爆)→

が、頼光は厩に鬼同丸という童が縛られているのを見て、「もっとお仕置きしないと ダメだ」と弟に説教。頼信は家来に鎖で縛らせた。

これを恨んだ鬼同丸が夜中、鎖を解いて天井裏に忍び込み、頼光が翌日、鞍馬に行く予定を盗み聞きして先回りし、放牧の牛を殺し、その中に忍んで待ち伏せしていたが、頼光が四天王らに牛を射掛けさせた矢で飛び出し、頼光に討ち果たされてしまう。

兄の頼光は何もかもお見通しで、四天王まで率いており、兄ほどの先見性・用意周到さには欠ける弟・頼信は、兄に教わり、頑張っている様子が感じられる組み立てになっている。
もう一つ逸話がある。こちらを→(2009年8月<沼闕城跡(福聚寺)と椿海>内

……そろそろ、お食事の準備も整ったようだし、ここらで「いっただっきまぁ〜す!(^∧^)」

亭主注文「わんこそば」来着(爆)→
完食の塔(爆爆)

「おほおほ(^。^)、よく食ったなぁ〜」 *ゲップ*
「さすがにお腹いっぱい(*o*)。ふぅふぅ、この後いっぱい歩かないとねっ(笑)」

今回、亭主が頼んだこの膳は、「秀衡(ひでひら)盛付わんこそば」というセットで、このようにいっぺんに全椀で来て、マイペースで食べるスタイル。天ぷらとトロロの他に、口直し用の小皿がついて、2500円。

食べ放題コースは、プラス700円で、「わんこそば」としてよくテレビなんかで見る通り、給仕の方が傍についてて、椀を次々とお替りしてくれるのだろう(^^)。

他に、「義経」「静」といった平泉ならではのネーミングのメニューもあれば、「前沢牛ステーキセット」なんていうのもあって、注文までにまた迷った(爆)。



<中尊寺・参道、1(八幡堂)>

↑中尊寺って、ガイドブックで見ても地図で見ても、一箇所じゃなく、各名所がアチコチに分散してるように見えるけど、実際には「一箇所」という事でいいんじゃないかな〜と思う(^_^;)。。

でも、どんなに大まかな地図でも、「中尊寺」「金堂」「白山神社」←この三つぐらいに分けて書かれてるんだよね(笑)。

で、どっからどこまでが正確な名称でいうどこの敷地に含まれるのか、ちょっと判らなかったので、「参道」とか書いてみたけど!(笑)

位置は、平泉の全体から見ると、地図L←平泉は大まかに言って、初代・清衡=「中尊寺」、二代・基衡=「毛越寺」、三代・秀衡=「無量光院」と、大きな寺院がそれぞれある。

今そのうちの「中尊寺」の入口に来ている。かなり拡大→地図M
全体ではないが、入口から続く参道の各名所がわかる→地図N

地図N右下、大型「P(駐車場)」を囲むお土産屋さん(^^)

↑の斜め前が「中尊寺参道入口↓

さて、いよいよ「後三年の役」も最終ラウンド。

「奥州後三年記」は最後を、義家の中央への報告文で締め括っているようだ。

「将軍として国解を申し上げる。
武衡・家衡の謀反は、貞任・宗任より行き過ぎているので、『私の力』をもって、たまたま討ち平らげる事ができた。
早く追討官符を発給して頂き、(武衡らの)首を京へ献上したいと言った所、『私の敵』と言われたと聞く。官符があれば功賞が行われようが、ナシとの決定と聞いたので、道中に首を捨てて、空しく上洛した」

結局「私戦」とされ、国家の追討戦とは認められなかったわけだが、大河「炎立つ」では、戦がすっかり終わり切ってから、朝廷の冷遇を知って、義家が激怒・悲憤・落胆する様を描いた。
が、この国解からも判る通り、義家は、この合戦沙汰が「私戦」である事を、自ら認めていたのだ。

また、弟・義光にも、白河上皇より陸奥下向の許可が出てなかった。
後の軍記では、「兄のために左兵衛尉を自ら辞してまで下向」と美談にされているが、当時の貴族の日記には、朝廷の許可も得ず下向したため、解官……つまりクビになった事が書かれている(^_^;)。。

何しろ以上で「後三年の役」は幕を閉じる。 パチパチ>( ^^)// お疲れさま>( ^^) _旦~~

←杉並木は長く、樹木の背も高くて、清々しい参道だ(^^)。
↑最初に出会うのが、左手前の蕎麦屋「義家」と、そのちょっと先の「八幡宮」。

実は上記の義家の国解で、個人的に気になるのは、「武衡・家衡」と数を合わせるためだろうが、「貞任」と並んで「宗任」を引き合いに出してる点だ。

それを言うなら、「(安倍)貞任・(藤原)経清」じゃないかなぁ〜、という気も……(^^;)。。
清原氏を倒すために同盟を組んでる相手が、経清の子・清衡であるから、「経清」は遠慮して、「宗任」に挿げ替えてるという気も……(笑)。

このように、源氏というのは、その場その場の都合によって、ちょっと言葉を取り替えたりするものだから、見ようによっては、「私事を優先する奴」って感じがするのかなぁ(笑)。

……などとモヤモヤしてると、イキナリ最初に出会うのが、この「八幡堂」である。

ナント、その由来が、「天喜5年(1057)」とある! 「前九年の役」の頃だ(゚.゚)。
「鎮守府将軍・源頼義、義家、安倍氏追討のためこの地に至り、ここ月見坂で戦勝を祈願」とある。

中尊寺って、清衡が発願だと思ってた。
まぁ慈覚大師(円仁)が発起とかいうのはアレとしても(笑)、ここで源氏が出て来ると思ってなかったので、「そうか(゚.゚)」とちょっと驚きつつ、新鮮な感動でもあり、納得させられたようにも……。

考えてみれば、平泉の藤原氏にとって、「前九年の役」における敵である源頼義はともかく、頼義の子・義家は、「恩人」とさえ言えるかも(^^ゞ?
「後三年の役」における義家は、最終的に「奥州藤原氏の協力者」として、手伝いだけして去って行く、まさに「イイ人」なのだ(笑)。

1057年は「黄海の戦い」で大惨敗を喫したが(^_^;)、その後、「京都の石清水より迎えて、鎌倉の八幡宮を造営し、後に頼朝が鶴岡に移建」と書かれていた。

鎌倉時代の「吾妻鏡」には、「中尊寺年中恒例の法会」と記され、宇佐、石清水、鶴岡など、各地の八幡宮で行う「八月放生会」は、この神前での法会を厳修としたそうだ。
明治の神仏分離で「八幡堂」と称し、阿弥陀如来尊像も合祀して、多くの庶民の信仰を集めている(^^)。

「八幡堂」の後方に控えるわんこ蕎麦屋。その名も「義家」!(笑)

中尊寺の前には義経・弁慶・西行・芭蕉にちなんだ名の店やメニューがあったが、「秀衡」でさえ境内に入れて貰えてないのに、「義家」だけ特別扱い!(笑)

行きは杉並木の参道を歩いたんだけど、帰りは、この「月見坂」を下ってみた。

「義家」の脇の坂道を降りると、「うどん」「そば」が交互に書いてある横読みメニュー表示が、下るとタテに読めるもんだから、亭主が、「ばんばんばん、ど ど ど、そうそうそう」とか読むわけっ!

「ばんばん来て、どどっと攻めて、国に代わって始末つけといたから、そうそう後ヨロシク!」みたい感じがよく出ててナイスだと思う!!(笑)

ところで、国解で引き合いに出された「安倍宗任」は、前九年の役における叛乱首謀者・安倍貞任の弟で、「炎立つ」では、川野太郎が演じていた。
貞任は討死、経清は打ち首となったが、宗任は前回・今回で述べてる通り、出頭して配流となっている(ドラマでそこはやらなかったけど(^^ゞ)。

「古今著聞集」になると、この「宗任」は、「義家と仲良しこよし( ^^)人(^^ )」で出て来る(笑)。

義家が狩の時、宗任に矢入れをつけてる背中を平気で向けるので、「宗任は元は敵だったから」と、義家の無防備に従者が警告する。
しかし義家は宗任を信用し、宗任もその信によく応えた、という物だ。
義家の弓矢の高度な術にイチイチ感動する宗任がカワイイ(#^.^#)。

二人の敵味方を超えた友情(主従関係)は、夜這いをして廻る義家に、宗任が警護して繰り広げる四方山話などにも見える(^^)。

が、配流先が変更した事はあっても、洛中に来たとか陸奥に戻った記録はないから、後世の創作だろう(笑)。

いよいよ、「総門跡」が坂の上に見えて来る→

源義家は「後三年の役」の後、弟の義綱と合戦沙汰を起こしているし、駆けつけてくれた義光とは、子孫同志で足の引っ張り合いが起きている。
頼光・頼信の兄弟には、子孫同志が後で揉めた話は無いが、義家らは「素朴な兄弟愛」で済む世代ではなかった(^_^;)。。

生涯の大半をかけて執着した奥羽での奮闘も、全く認められることなく徒労に終わった。
後世の人は、「何か彼も得るものがあった」と納得したかったのか、兄が弟を教え導く姿が、義家の場合、安倍宗任との間の物語に仕立てられているのだろうか。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
2007年12月<白石城>内
2008年1月<松島海岸と「観瀾亭」>内
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年9月<宗道〜下妻>内

2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内
2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内
2009年3月<羽黒山・山頂>内
2009年5月<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>内
2009年8月<沼闕城跡(福聚寺)と椿海>内および<大友城跡と、その周辺>内以降
2009年10月<「千葉寺」、2>内
2010年1月<「胆沢城(鎮守府)跡」と「鎮守府八幡宮」>内以降


次回は第4弾、3日目の午後、「中尊寺」の続きから、「接待館跡」「長者ヶ原廃寺跡」「衣川柵」「小松柵」などを巡って、3泊目の「厳美渓」、4日目は「達谷窟」まで行けたらっ(#^.^#)。

<つづく>

2010年02月04日
 
     






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