■5月
<宗吾霊堂、2>
じゃ前回の続き。いよいよ宗吾霊堂の中に入る。
山門入って正面は本堂
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すぐ右は鐘楼、その手前には……↓
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↓「すっぽん供養の碑」(爆)
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碑と鐘楼の間には綺麗な蓮池と庭園が(^^)
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↑背後の蓮池もなかなか見事だし、手前の碑も大きくて立派だが、何よりも碑に寄り添う「スッポン」の彫像がカワイイ(笑)!
ああ、何か素晴らしく親近感を覚えるのは、やはり「こたつむり」のサガだろうか(爆)。
↑この右側の赤いお堂(写真は左)、入って奥まった所に↓
このお寺のそもそもの創建は坂上田村麻呂で、その持仏と伝えられる「大聖歓喜天尊」が納められているのが、ここ「聖天堂」という事のようだ。
つまりかなり古くからお寺自体(あるいは前身)はあり、そこに宗吾の事件が起こって宗吾の霊を弔う(祀る)ようになった、という経過ではないかと。
というのも、この「宗吾霊堂」は、「鳴鐘山・東勝寺(真言宗豊山派)」の管理する仏堂で、今いる霊堂の敷地は、実は宗吾の時代には「刑場があった」というのだ。
なるほど、宗吾の霊を正しく吸収するには、彼が命を散らせた場所、つまり刑場がもっとも相応しいわけだ。
佐倉宗吾にまつわる話は→2005年「11月のたわごと」<うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内を(^^ゞ。
加えるに、寺内の案内板の説明によると、だいたい以下の通り。
「承応年間(1652〜54)下総の佐倉藩の悪政により生活に苦しむ人々を救うため公津村名主、木内惣五郎(←佐倉宗吾の事ね(^^ゞ)が徳川4代将軍・家綱に直訴し、10万の人々の命を救った。
その罪により1653年、本人と4人の子供は刑に処され、遺骸を東勝寺の住職さん等が現在のお墓のある場所(当時の刑場跡)に埋葬した。
百年後の1752年、百年祭の時、佐倉藩主堀田正亮によって「宗吾」の法号を贈られ、立派な佛位を得てから宗吾を祀るお堂として「宗吾霊堂」と称する事になった。
お墓では偉大な「宗吾精神」(このお寺の言葉で「大慈大悲の広い心」という意味)を敬慕し、お堂には信徒の人達が所願成就を祈祷し、現世の利益を授かる」
成田市宗吾1−558
ここでは、護摩修行、節分、花まつり(釈迦誕生祝)、講、といったお寺の行事の他、宗吾の命日に「お待夜祭」、また冬至に「星供養」も行われる。
いよいよ参道正面の本堂
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掲げられている立派な山門札
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写真だと大きさが伝わらないが、お堂はかなり大きい。まぁホントに立派な、しかも周囲の敷地と言い、規模も広くてこれまたビックリ(笑)。
この「宗吾霊」の山門札には、奉納者「公爵・徳川家達」の名が刻まれていた。
家達という人は、15代徳川慶喜の跡を継いだ徳川宗家16代。つまり幕末〜明治の人で、慶喜の大政奉還によって宗家の家督を継承したらしい(^^ゞ。この山門札もかなりデカイよ(笑)。
他にも、柱の建造などのたび、全国各地から寄付や寄贈が多く寄せられてる。どうも「成田山に来たついで」みたいな軽いノリの参詣者じゃなさそう。これらの寄贈者には団体名とかも結構多く、まぁホント大層な数の信者の篤い崇敬を受けている事がよくわかった(^_^;)。
ここまで超人気のカリスマ郷民。……あまり居ないような気がする。。
さらに、この本堂の左脇に資料館、本堂の裏の奥まった所に人形展をやってる建物がある。
資料館はこの日、早めに閉まったようで入れなかったが、そこの前に「下総式板碑」の説明版があり、南北朝時代の卒塔婆の事が書いてあった。こちらは1342年。
もう一つ、船形薬師寺(船形区)の梵鐘(1311年)の記述もあり、撞座が一個しかない珍しいタイプなのだと書いてあった。
そして人形展がある(^^)。これもこの日は見られなかったのだが、人形が舞台演劇風に物語る各場面が、案内板にも写真提示されていた。
各場面というのは、佐倉宗吾の物語の各場面で、宗吾については芝居などで江戸期たくさん上演された(^^ゞ。
例えば、「雪の子別れの場」。
直訴を胸に秘めて、我が家を出る宗吾とそれを見送る家族の場面。
次に、直訴に出掛ける宗吾を船に乗せる甚兵衛の場面。これを「義侠・甚兵衛なた切りの場」と呼ぶそうだ。
これは前(2005年「城主のたわごと11月」に)も書いた通り、法度破りを承知の上で、宗吾に夜間の船を出して命を絶った甚兵衛の話。(甚兵衛は後半「房総のむら」の後に通る(^^ゞ)
この辺り芝居や講談などでどう扱われてるのかは、私はもちろん知らないが、アテにならない領主より、宗吾の方がよほど民草に支持を集めていたとしたら、当然悪い代官やら役人やらが「アイツは直訴に及ぶかも」とか目をつけてて、「しかし夜間の渡しは禁止してるから、誰も舟を出さないだろう、ふっふっふ」とかいう図が前もって出て来そうだよね(^^ゞ。
また「上野・寛永寺・直訴の場」というのがある。
寛永寺の渡り廊下。その軒下に宗吾が潜み、やって来た将軍に直訴状を差し出している。
ここに宗吾の身の上として「佐倉領389ヶ村10万領民を救うため一身一家を捨て」と書かれている。
389ヶ村(*o*)?! いや〜最初お寺の説明版の「10万の領民」を見て、「多すぎやしないか(^_^;)」と思ってしまったんだけど、このヤケに具体的な村数を見る限り、まんざら誇張でもないのかも(汗)。。
この人形展示には66体が13場面を再現してるそうだ。20分700円。
これは「奥の院」→
本堂の真裏にあった。信者の先祖供養の事が書いてあったような……。これも寄付とかたくさん集まって建てられたんだろうね(^^ゞ。スゴイわ〜。。 |
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いやいや、もぉ宗吾霊の人気の凄さを思い知った参拝であった(^^ゞ。
きっと霊験もあるんだろうね〜。「現世利益」とシッカリ書いてあったもんな〜。こりゃ寺というより神社に近いっ(笑)。
さて、当初予定してたウナギ(爆)。
宗吾霊堂の帰り、佐倉に寄って食べたんだが……この日はドライブで時間を食って遅くなってしまい、店に入るには入ったが……ハズレだった(うっ)。。翌日に持ち越すだっ。
<房総のむら>
↑宗吾霊堂の翌日に行った。こちらは印旛沼と利根川の間にある。→地図A
南側から説明する。
まず右下の端に「宗吾」。水の流れを北に遡ると「印旛沼」。この印旛沼より北東に「根方」とあり、この根方に「房総のむら」はある。
さらに印旛沼から長門川を遡って北に利根川。利根川が横にグイ〜ンと横たわって県境となり、利根川の南が千葉県、北が茨城県。こんな位置関係ね(^^ゞ。
宗吾霊堂と「房総のむら」はかなり近いのだが(^^ゞ、この日は松戸からいきなり利根川(つまり北)の方に出て行ったので、356号線あたりから。
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←まずはイキナリ利根川沿いに(^^)。しばらくすると、ちょっと内陸に入る。↓ |
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根方に行くには「安食」の手前で「長門川」を渡らなければならない。
曲がるとスグ「房総のむら」の駐車場がある。ちょっと見取り図を→
ご覧の通り、敷地の殆どは緑地で、中心部の赤い線内にチョコチョコと建物らしき表示がある。
本来ならその建物郡のある地域にすぐ入れるハズだが、この日は何と言ってもGW(笑)。↓
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一般駐車場はみんな埋まってるから、奥地に通されてしまった(^_^;)。→
そこで、上の見取り図の一番左下から入場。すると長々と緑地を通って行く事になるが、満員と言っても、敷地が広いので、人・人・人〜〜〜という感じが殆ど無いのは良かった(^^ゞ。 |
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あと、ちょっと注意なのは、建物郡のある一帯は有料(^_^;)。大人300円。(赤く線で囲ってある所ね(^^ゞ)
金は払えばいいんだが、建物があちこちからチラチラ見えるので、わからないとウロウロしがち(笑)。一度「風土記の丘資料館」に入ってからでないと入れない構成なので注意(^^ゞ。
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というわけで、一番端の駐車場に到着(^_^A)。↓
左に駐車場、真ん中の入口から入場。パノラマ3枚(ほぼ180度)
ここからしばらくは無料の一帯を通る(^^ゞ。
さて、この「房総のむら」とは何か。……何だろう?(爆)
一言でいうと「テーマパーク」だろうか。と言っても、いわゆるテーマパーク(遊園地の焼き直し版)みたいのとは赴きが違い、「体験学習」と銘打ってる紹介によく出会う(^^ゞ。
何を体験するかと言うと、昔ながらの農業実践コーナーとか農村の村祭りとか、古代から近代までの民芸や工芸の実習みたいのをやってる写真をよく見掛ける。
敷地内にあるのは、昔ながらの建物(移築および再現)、古墳(これは史跡(^^ゞ)、自然散策路といった所か。
あとは……そうだね〜(^^ゞ、ドラマの撮影によく使われてるようだが、それはちょっと後で書くね(笑)。
まず最初に「旧学習院・初等科正堂」という建物がある。これは移築。寄贈されたんだろうね(^^ゞ。↓
鮮やかなさつきの群を抜けると
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ドーンと登場。「旧学習院初等科正堂」
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寄贈の理由は、この近く成田に下総御料牧場があったから……という説明だが、「皇室関係って事?」と調べてみた所、「宮内庁の管轄」て事だったから、そうだったんだろう。中に入ると、↓
綺麗な西洋窓の教室。パノラマ5枚(180度以上・魚眼)
かなり魚眼よ(^^ゞ。実際には窓の並びは平面。反対側の壁は↓
こっちはトビラ揃い。パノラマ4枚(180度以上・魚眼)
白亜の建物を出ると、これまた西洋風のテラス。
建物のまわりには、千葉県じゅうの市町村を代表するそれぞれの植物が植えられていた。
ウメ=酒々井町・横芝町・成田市・長柄町・千倉町・睦沢村・富山町・岬町
クロマツ=松尾町・飯岡町・光町・八千代町・旭市・野栄町・市川市・印西市・白子町・夷隅町・一宮町
マキ=千葉県木・東金市・蓮沼村・八日町場市・長生村
ツバキ=木更津市・三芳村・干潟町・鋸南町・和田町・大原町・館山市
ヒノキ=丸山町・長南町/ユウカリ=松戸市/ダイオウショウ=印旛村
サクラ=栗源町・白井町・富里町・佐倉市・四街道市・大多喜町・富津市
モクセイ=山田町・大網白里町・下総町・鎌ヶ谷市・本エリ村
ビワ=岬町/スギ=山武町・天津小湊町/イチョウ=浦安市・鴨川市・市原市
ケヤキ=我孫子市・野田市/シイノキ=沼南町・袖ヶ浦市/アジサイ=勝浦市
プラタナス=銚子市/ポプラ=佐原市/カシワ=柏市
キョウチクトウ=成東町・千葉市・御宿町
ツツジ=東庄町・茂原市・流山市(?)/マテバシイ=九十九里町
エンジュ=海上町/サザンカ=大栄町・栄町・多古町・船橋市
アカシヤ=習志野市/イブキ=小見川町/クスノキ=神崎町
キャラボク=関宿町・八街市・君津市/ヤブツバキ=白浜町/サツキ=芝山町
ここから森林の道がスタート!
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道はやがて民家のある一帯に出る
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平野家は江戸時代に名主を勤めた家で、式台のついた玄関などに名主の生活がうかがわれ、中央に27畳の広さの板の間をもつ大規模な住まいで、そそり立つような大きい寄せ棟造りの屋根が特徴。
ここには庭園に、日本の代表的な竹を植えている。竹の説明が書かれていて、
「竹」=棹より竹の皮が自然に脱落するもの
「笹」=竹皮が脱落していないもの
「孝行竹」=竹や笹とは違って下茎が無く、親竹の周囲にのみ筍を出し、親を囲んで株立ちする様子が孝行者に似ている所から名がついた。
……といったような事が説明してあるんだが、この辺りではまだ「この説明は一体(゚.゚)?」と思っていた。
全体を見てから思うに、こういう説明は別に外国人向けに書いてあるわけではなく(笑)、この「房総のむら」で行われている「民間行事(祭事)の伝承」と相乗しているのだろう。
また緑の小道を進むと
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「旧・御子神(みこがみ)家住宅」
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1179年建築、移築1973年。
安房郡丸山町で代々農業を営んだ家で、安房地方の直屋(すごや)型の典型。座敷まわりに縁側をつけ、引き違いの板戸に半間の明障子を用いた。建築当時の記録(普請帳)も残っているという貴重な民家。
そいや、民家めぐりって、この「たわごと」ではあまりやってなかったかも(゚.゚)。
昔はしょっちゅうやってて、だからと言って特別、民家の造りなどに詳しくはないんだが、こういう所に入ってボーッとするのが趣味と言えば趣味かも(笑)。
順路は中央部に向かう。左の森は……
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こんな古墳郡がエンエンと
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これは「竜角寺古墳群」と言い、このように盛り上がった土ごとに「○号」と番号づけされた標識が建っている。
全部で113基あり、大きさは様々。
ここ「房総のむら」には「岩屋古墳」という、各辺が約80mもある、天皇凌を除けば日本一の古墳がある。
また、この森の中にも散策路が通じていて、印旛沼が見えると言うんだが、私らの歩いた限り、一瞬だけそれっぽいのが見えた箇所がある。
ここ↓。森の合間から一瞬(^^ゞ。
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遠いので部分拡大↓
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これが印旛沼としたら、さっきの「宗吾霊堂」はこの沼を越えて、ずーっと向こうね(^^ゞ。(位置的には左と言うべきか)
こんな具合に、この左側の森はず〜っと続いてて、季節がら藤の花がたくさん咲いてた。
が、右側にはやがて「風土記の丘資料館」が出て来る。
資料館の建物は撮影しそびれて無い(^^ゞ。こんな道の右側ね。→
ちなみに、資料館を過ぎてさらに行くと、右は「古墳広場」という無料で廻れる公園がまた始まる。 |
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この資料館の建物に入り、料金を払って、建物内部一階からの出口を出て、有料の敷地(屋外)に入る(^^ゞ。
入ってスグ(だったと思う)、古代の石棺が並んでる所に出て、そこからまた森が始まる。↓ |
ここから先が有料(大人300円)の区画である。
まず森に出る前に、資料館を外側からちょっと見られる通路があって、ちょうど教室が開催されていた。
やはり何か工芸品を皆で作っているらしく、熱心に取り組んでる様子が窺い知れた。
「房総のむら」のパンフレットによると、ここには勾玉や土器、石器、縄文料理の製作教室もあるらしい。
森に進むと、最初は竪穴式住居の再現コーナーがあり、弥生時代のと古墳時代の物が実物大で展示されていて、中にも自由に入れた。↓
弥生時代(紀元前1世紀)のと、古墳時代(モデルは7世紀初めごろ)ので共通するのは、上の写真の通り、民家の藁葺き屋根がそのまま全体になってるような家で、家の中は土を掘ってあり、下に降りて家に入る作り。入口は南。
どちらも内部には4本の柱があり、柱の外側は寝床部分。発掘調査によると、寝床部分は土を踏み締めておらず、柱より中央部分はよく土を踏み固めて、一家の食事や団欒の場となっている点。
想像図には、寝床に藁を敷き詰め、また中央部にも座布団がわりの藁敷きが、家族の人数分書かれていて、そこに食器や鍋が置いてあった。玄関には足マットみたいな藁敷きも見られる。
二期の違いは、弥生時代は家が南北に少し長方形になっていて、カドの内部が丸く、上り下りには丸太を削って足場をつけた一本梯子を使い、階段の右脇には貯蔵穴(床下収納)があり、板でふたをする。家の中央部に「炉」がある。
これが古墳時代になると、家全体の形がほぼ正方形になり、内部のカド部分はキッチリと正確に掘られ、板材を使った階段のような物を作って上り下りしやすくなっている事。「炉」に代って、入口と反対側の家の奥に「かまど」が設置され、かまどの傍には地下に穴を掘り、その上から蓋をしてあったり、想像図でも、「かまど」の近くに瓶詰めのような大きな入れ物が登場してくる。
おウチの中で、いち早く台所(調理と貯蔵)の機能が充実したのね〜、それもこんな早くからだったのね〜、とか想像してみた(^^ゞ。
そして森と自然の部分がちょっと続いた後、いよいよ「時代劇コーナー(?)」が始まる。↓
↓竪穴住居のある森はこんな感じ。 |
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この後も森林と自然の散策コースが続くが、敷地が広いので間を飛ばして(^^ゞ、先に行き急いでみる。
これが時代劇コーナーの入り口。→
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入った所から、ちょっと周囲を見渡してみる(^^ゞ。↓
まず、この右の通りを見てみよう(^^)。
奥がちょっと蛇行してる。
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途中・左に鎮守の森も(^^)。
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蛇行した道の一番奥から逆に見てみると、こんな具合。↓
今度はさっきの所から、左側を見てみよう。↓
全体はこんな感じで、決してそう広範囲の町並みではないが、すごく忠実に出来ていて、よく時代劇などここを舞台に撮影されるようだ(^^ゞ。
時代と土地のモデルは、江戸末期〜明治初期の佐原市(千葉県)などの町並みを参考に再現。
町並みは「土蔵造り」などの建物で構成。入口の戸は「蔀(しとみ)戸」「板戸」「格子戸」、内部は「箱階段」など商家の特徴を取り入れた。
16棟の商家は、めし屋、そば屋、小間物、呉服、酒、燃料、薬、川魚、瀬戸物、菓子、茶、本、瓦版、紙、細工物、畳、木工、鍛冶など房総に多い業種。他に稲荷神社と辻広場。
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←衣装の貸し出しをしてるから、一般のお客さんでも時代劇の衣装を着て歩いてる(^^ゞ。 |
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↑道端に置いてあった籠。 |
最初に入った時は、「なんだ(^^ゞ、たったこれだけの範囲なんだ」と肩透かしを食ったような気がしたんだが、一軒一軒の店の中に入れるようになってて、入ると一階で当時の店の風景を再現してたり、二階にはそれぞれ展示室を設けていて、それをイチイチ見ると、意外とかなりの時間がかかる(^^ゞ。また二階に上がって窓から外を見ると、これまた凄く時代劇がかった雰囲気で、だんだん凄さが伝わってきた。
一階の再現コーナーは、ただ当時の器物などを置いてある店もあるが、簪(かんざし)屋さんなどは、本当に職人さんが簪を作っている所が見られたり、駄菓子屋さんでは駄菓子が売られてたりしていた。
「房総のむら」には、千代紙ろうそく、こけしの絵付け、おかめやひょっとこのお面や張子人形作り、竹や木、紙で作る昔のおもちゃ(けん玉など)作り、房総うちわ、浮世絵、房総の海や山の幸を使った太巻き寿司作りの教室もあるそうだ。
ちょっと中にも入ってみよう(^^ゞ。
店には気軽に入れる。
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ここは薬屋さん。漢方薬の引き出し。
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資料展示室には特に「撮影禁止」とは無かったけど、一応写真は遠慮ね(^^ゞ。
でも薬屋はわりとよく見た。当時の病気に対する知識、特に薬の種類や、あと行商なんか興味深かった。
例えば、厄除けに使われたという事か、まじない等を宣伝するために描かれた物か、昔は子供の命を数多く奪った「疱瘡の疫神」を描いた絵などがあった。確かまじないの仕方とかもあったと思う。
また薬の行商というと、最近の時代劇では、NHK大河「新選組」で土方歳三が行商してるシーンがあったが、行商については、例えば「金瘡膏(きんそうこう)」という薬。外房総から茨城北部にかけて、利根川水系を利用して広く販売された事などが説明されていた。
また眼薬には、今の目薬みたく一滴づつ垂らして入れるスタイルがあった(^^ゞ。東金の方で作られていた家伝の製法のようで、ちょっと調べてみたいなと思ったり(笑)。
薬草から作ったサンプルなどの展示があり、薬草にはナガイモやワレモコウ、クコ、モモ、等があったな。
薬屋の他にも、当時の衣装や風俗、特に女性の髪結いなど詳しく絵やカツラで説明されてて、面白かった。
髪結いの展示は江戸時代の物だったが、歴史を辿ると、髪結いは「巻き上げ→垂髪→結髪」の過程を経た。
奈良時代より前は大陸風の「巻き上げ型」、平安〜室町には「垂髪(すいはつ)」という長く垂らしたスタイルが主流となり、江戸期が近づく頃に女歌舞伎役者の影響から「髷(まげ)」というスタイルが流行して、江戸期には「結い髪」が主流となった。
この結い髪が、やがて身分や年齢、仕事の違いや未婚者と既婚者の区別などに応じて280種にまで及び、それらの髪型に応じて櫛(くし)、笄(こうがい)、簪(かんざし)といった多様な装飾品とその細工も発展した。
幕末以後、欧米にまで日本の工匠文化として注目されたのがコレだよね(^^)。
こうした説明は髪結いに限らず、各展示室(各建物の二階)にプリントにされて置いてある(^^)。
各お店ごとに、一階と二階に見せ場や展示があり、一軒一軒、昔の家屋の今とは違う構造を楽しめる。
階段下の空間を、床の間風に使った仕切り↓ |
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少し広めの階段を儲けたお店→
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一方、普通の狭い階段
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←の階段下はお茶屋さんの店先↓
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だいたいは、こんな風に人一人やっと通れる狭い階段が多く、いつもはドタバタ走り廻っていそうな子供達も、用心深く一段一段登っていく光景を見た(=^m^=)。こういうお家に住んでたら、お行儀も良くなりそうだね(笑)。
このお茶屋さんには、二階で和菓子とお茶のコーナーもあったので、ちょっと一服♪
季節の和菓子とお茶(^^)。
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「玉露」と書いた開き窓から外を撮影
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こんな風に、各お店の二階から見下ろす街の光景もなかなかの風情(^^ゞ。
この一帯は「商家の町並み」と題されていて、そのちょっと外れに行くと、時代は明治時代を迎える。
また、明治時代とは反対方向の外れには、「武家屋敷」があり、さらにもうちょっと離れた所に「上総の農家」「水車小屋」があり、その辺りまで行ってみた(^^ゞ。
本当は、そのさらに道路を隔てた遠い所に「下総の農家」「安房の農家」「農村歌舞伎舞台」と題される地帯があるが、この辺りには時間が足らず行けなかったので(^_^;)、行った所だけ。
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まず明治時代の一帯。ここで有料地域を出るので、タダで見られる(^^ゞ。
←昔のポスト。
写真館→
ポストの方は昔は「書状集箱」と言われてたらしい(^^ゞ。郵便制度は明治4年に制定され、その当時の物を復元。
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「どうぞご利用下さい、郵政省」と書いてあった所を見ると、ただ見物用に設置しただけでなく、ここに投函すると配達される通常のポストの役割を果たしているようだ(笑)。
一方、写真館の方は、明治時代の1880年に千葉市長州に立てられ、1911年まで使用された、第二代目の千葉県議会議事堂(再現)。
屋根は日本で古くから行われてきた平瓦と丸瓦を交互に着く本瓦葺。前面のベランダや窓は西洋風。擬洋風建築と呼ばれる和洋折衷の外観。江戸末期の開国後の日本にもたらされた西洋文化が、いちはやく千葉県にも伝わっていたことを物語る。内部は事務室として使用してるようで、中には入れなかったが、扉も壁も擬洋風建築に合うように再現したのだとか。
ここで出てしまうと有料地帯には戻って来れないので、この辺りは閉館してから見てもいいと思う(^^ゞ。
で、我々はまだ、そのまま「有料地帯」にいる。
次は「武家屋敷」に行ってみたんだが、だんだん閉館時間が近づいて来たので、ちゃんと撮影できないまま(^^ゞ。
屋敷前で出会った扮装さん(笑)
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中にあった武具だけ撮影〜(^^ゞ。
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「房総のむら」で変装してると、わりと遠慮なく周囲からバシャバシャ写真を撮られるので(笑)、あまり撮られたくない人は気を付けた方がいいかも(^^ゞ。
さて、最後は「上総の農家」に行ってみた。
ここ「房総のむら」が、よくドラマ撮影の舞台に使われる事はさっきも書いたが、それもNHK朝の連続テレビドラマや、大河ドラマなど、ちょっと時代がかったドラマに多いようだ。
大河ドラマで「新選組」をやってた時、そのテロップに、よくこの「房総のむら」が書かれてた覚えがあって(多摩における遣り取りに使われてたと思う)、お店の人に聞いたら、「あ〜そうそう、あっちの田んぼの方でよくやってたよ」と教えてくれた。
そうそう(^^ゞ、昔は田畑や農家は日本じゅうどこでもあったし、そういう所なら昔の風景を保ってたものだが、今は細々とした所まで違って来てるから、建物や街や衣装より、はるかに重要なのが「自然の風景」かもね。自然も含めて丸ごとタイムスリップした場所となると、かなり広い敷地が必要だしねぇ……。
ってわけで到着したのがココ↓( 上総の農家)
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「見覚えがある!」
と亭主と2人声が揃ったが、どのシーンだったか……(^^ゞ。
近藤がオジサンに虎徹を貰って帰るシーンだったような、もっと前の、土方を訪ねて来るシーンだったような……。 |
あるいは、もしかしてここではなく、ここに似たような風景が「下総の農家」か「安房の農家」にあって、そこで撮影したのか……。
しかし亭主はこの農家に入る前から、勝手に場面を想定。道を歩きながら、
「ウチの道場に来ないかぁ〜2人でデカイ事やろうぜぃ!(@近藤)考えとく!(@土方)」
とセリフを喋り始めるので、私はあわててBGMを担当(笑)。(これは確か第二話だったよね(^^ゞ)
門を入る。
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上総の代表的な名主クラスの農家を再現。
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↑主屋・長屋門・土蔵・馬小屋・納屋・木小屋・作業小屋の7棟で屋敷構えを構成。敷地は約760坪。主屋は江戸時代1857年に建築。今も山武郡大網白里街に現存する秋葉家を昔の姿に再現。面積59坪、使用している材木はすべて国産。大黒梁は長さ約16mもある樹齢150年のマツを使用。長屋門や土蔵は市原市にある内藤家に残る江戸末期の建築を伝統工法で再現。
こうした農地のある場所などで行われるのだろうが、「房総のむら」では、米(田植え〜刈り入れ)や麦、粟、稗といった穀物類をはじめ、落花生(千葉特産)、芋類や豆類の収穫などを体験でき、「どんど焼き」なども行われる。
また、この頃とみに問題になっている野生動物との共生で言われるようになった「里山」について教える機会もあるという。
……と、この辺りで閉館時間〜(^_^;)。。
敷地の広さについては、普通に歩けば充分に廻り切れるんだが、何しろ資料展示を丹念に見たりすると、この敷地を全て見て歩くのは難しい。また来られたら来てみたい。
というわけで、4時で係員の人にワラワラと追いやられ、だいたいみんなここ「ドラムの里」(多目的広場)に集まって来る。↓
一見、ゴルフの打ちっぱなし会場に見えるが、そうではない(^_^;)。
レストラン等はもう閉まっていたが、ここのレストランには、古代米を使ったケーキや、採れた小豆を使ったぜんざい、
太巻きや黒豆(特産)ご飯など、地元のお母さん達の手作り季節料理が楽しめるという。
お土産コーナーだけまだやってて、私は「ドラム」という縫いぐるみを買った(^^)。→ |
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最初「ドラムの里」の語源がよくわからなかったんだが、どうやら「龍角寺」というこの辺りの地名に関係があるようだ。
実はこの「ドラム」にちなんだ童話の小冊子があったので買ったんだが、どうも子供の入賞作文みたいのが元らしく、内容は「ちょっと(^_^;)」だった。
というのも「ドラゴン」に引っ掛けてなのだろうが、どことなく西洋かぶれしたようなゲームちっくな内容だったので、それよかこの土地に伝わる「龍伝説」の方を紹介したい。
旱魃の村を救うために、小さな龍が大きな龍に(龍が荒神に……と書いてある物も見掛ける)許しを得て大雨を降らせた。「許しを得て」なのか「逆らって」なのか、この辺りも色々あるように感じる(^^ゞ。
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雨はよく降って村に恵みをもたらしたが、雨が上がると、龍は体を三つに分断されて死んでいた。
この「印旛沼の龍」の三つの局部をそれぞれ葬った事から、以下、三つのお寺と地名が印旛沼周辺の由来となっている。
まず、この辺りの地名「龍角寺」は龍のツノのある頭部を葬ったお寺の名前。
そして龍の腹に相当する部分を葬った土地に「龍腹寺」というこれもお寺が出来、ここは今の本埜村。
←いつも来る「龍腹寺」橋にある龍の像は、これにちなんでいる(^^ゞ。 |
また、シッポ部分を葬って「龍尾寺」が出来た。これは八日市にあるという。
私としては、余分な脚色が無くても、これだけで立派な「土地の伝承」だと思うし、「龍が体を三分割した」という部分には一種の特異性すら感じる。現に印旛沼は今、幾つかに分割されてるし。
他にも「龍角寺の七不思議」など、地元に伝わる民話がパンフレットに紹介してあって、それも全てが沼(井戸や水や雨など)に関する神秘の話ばかり(^^)。
<利根川から印旛沼へ>
さて、利根川から印旛沼に出てみよう。
さっきの地図A←これを「房総のむら」のある「根方」から元通り、長門川を渡る所まで一度戻る。
「前新田」と書いてある辺りまで戻ったら、一路、南下する。本埜村・印旛村を抜け、二つ目の印旛沼を超える直前まで降りて来る。この辺りに「師戸城跡」はある。ちなみに二つ目の沼を越えると今度は「臼井」に到る。地図B
じゃ、まず長門川を越える。 |
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長門川(^^)。→
この橋渡るとスグ左折して、あとはグイグイ印旛沼方面を目指す!地図C
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以下、宗吾伝説にも出て来る「甚兵衛」あたりまでの風景をお届け(^^)。地図D
入った途端「おおおお」と声が出るような、いかにも長閑な風景で、まさに「心が洗われる」ようだった(^^ゞ。
この辺りが確か「甚兵衛」(^^ゞ
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沼地の中を道は行く
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この辺りは右に左に、ホントによく印旛沼の湖面が出て来て、目に楽しい(^^)。
そして、やっぱりこの辺りから「うなぎ」の看板が見え、「おおおお、今日こそウナギィ〜!」と又々声が揃う(笑)。
(本当は「甚兵衛が身投げをした」という、暗く悲しい逸話がある辺りなんだが(^_^;))
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←↓この二枚の写真は、実はちょっとルートが違うんだが、だいたい利根川から臼井に抜ける道筋の一つで、やはり橋で沼を渡る。
沼地から水を引いて田にした一帯が眺め渡せて、なかなかの絶景ポイント(^^)。 |
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というわけで、師戸城跡(印旛沼公園)にやって来る。地図E
■8月
<「印旛沼公園」(師戸城跡)、1>
ここでイキナリ8月に飛ぶ理由、それは……今年(2006年)「城主のたわごと8月」で「千葉国府台・第二弾」<里見公園(国府台城跡)>を出した。そこに、
>臼井城の方はGWに行ったので、今度レポするね(^^ゞ。<上がるの冬ごろかな
と書いた所、同じく千葉県人のぽろぽろ様から、「臼井城(南)と沼を挟んで反対側に師戸城(北)がある、印旛沼公園という名前になってて、沼の船の行き来などの眺めがいい」と教えて頂いたんですね〜。ありがとうございましたぁm(__)m。
「じゃ、行こうか」
と早速行ったのが、この8月というわけ(^^ゞ。
位置的にも、いま利根川から南下して来て、一個目の印旛沼を超え、二個目の印旛沼に差し掛かった所なので、師戸城跡を先にやる。
このあと、二個目の印旛沼も超えた先に臼井城跡があるが、これを次回に廻す。
↓駐車場にたくさんいた猫チャン達(#^.^#)。 |
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じゃ、いよいよ公園の中に入る♪→
ちなみに「師戸城跡」というのは、公園内の案内にはそう書いてあるが、道路標識上では「印旛沼公園」としか表示されてないから、公園の名称を頼りに行く方がいい(^^ゞ。 |
あと、印旛沼を超える前に公園への標識案内はあるが、わりと見落として超えてしまうかも(^^ゞ。「超えた」と気付いた時点で、バックして戻って来る事〜(笑)。
鉄道だと、今度は逆に印旛沼の南側に行って、京成本線の「京成臼井」が近い。
この駅は、臼井城跡まではわりと近く、前に臼井城跡に行った時(8年ぐらい前(^^ゞ)は、この駅から歩いて行った覚えがある。
しかし印旛沼公園までになると距離があるので、バス利用が適当ではないかと。公園の近くに「師戸」というバス停がある。
ではまず「印旛沼公園」見取り図を(駐車場・案内板より)。
現在は左下「公園入口」から、水色の道筋をS字状にウネッと登り詰めた「駐車場」の所にいる。
ざっと説明すると、左「芝生広場」「ちびっこ広場」あたりが、元は「道場台」といわれる場所で、中央の「自由広場」あたりが「三の丸」跡、右区画の上「花木園」が「二の丸」、その下「芝生広場」が「本丸」という事らしい。
今回はまず、ここから「三の丸」跡に入る所までをお届け。
「駐車場」の位置から「芝生広場」にまず入る。
公園は、入るとスグこのような台地状の作りが展開する。左が「芝生広場」↓
右手はS字型の車両道路。
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芝生広場を過ぎ「ちびっこ広場」との間に左折
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↑この「芝生広場」「ちびっこ広場」辺りは、元の地形(城の見取り図?)からは「道場台」といわれる地域らしく、その外側の車両道路あたりは、昔は川だったのか低地になっているね(^^ゞ。
この「道場台」だが、これより通る所にあった案内版には、「本丸、二の丸、三の丸」とともに「四つの郭」と称されていたから、何らか城内の防衛のための敷地に属していた部分だとは思われる。
そろそろ城山特有の濠を渡した橋通路(手前)と土塁の盛り土(奥)が見えて来る。左に案内板「師戸城跡」がある。↓
この盛り土部分あたりが、元は「空掘」と接する城壁跡になってるように思う。この先はまず「三の丸」に入る。
このまま直進。濠を渡りながら、左右の濠を見下ろす。
案内版によると、この師戸城は、千葉氏の一族、臼井氏の居城「臼井城」の支城として、14世紀に築かれたと言われ、その後何度か改築され、16世紀中頃に現存の形に到達したと推定。
臼井城との関係は、印旛沼を挟んで「渡(わたし)」で連絡され、臼井城の防衛に大きな役割を果たしたと考えられる。
1566年、上杉謙信が臼井攻めを敢行した折、その猛攻を食い止めたが、1590年、豊臣氏による下総攻撃で落城。臼井城と命運と共にした。
江戸時代初期「臼井家由来抜書」に名の見える「臼井氏四天王」の一人、師戸四郎がこの城に関係があったかとも考えられる、とある。
「関係があった」。何とも微妙な表現だ(^_^;)。里見同様、千葉氏もその後の勢力(ってか徳川だろ:笑)にいいようにされちゃった関係なのか、それとも楽しく動乱しすぎてワケわからなくなったのか(笑)、
何しろ「城主については明らかでない」という「不明点」が「明らかに」されていた。千葉県に多い傾向だ(笑)。
これより「三の丸」に入る……所で次回(^^ゞ。
<つづく>
2006年12月10日 |