<2014年・城主のたわごと4月A>




2013年11月は、白井市の神々廻城跡からスタート。

そして晩秋の「印西(手賀川)水郷めぐり」乗船レポ(^^)




     
  4月の「城主のたわごと」は二回ある。
04/10に出した「城主のたわごと4月」が一回目、今回のは二回目のアップになるので、「城主のたわごと4月A」と題した(^^ゞ。

二回に及んだ理由は、去年の5月号と12月号、今年は2月号……と、この一年以内で3ヶ月分ものレポが、パソ不調が原因で欠番になってしまい、レポが遅れに遅れているからだ。。。
少しでも追い付こうとあがいている\(>o<)/!!<ジタバタ

今回、見た目がいつもとかなり違う(^^ゞ。
4月版の定例用紙(壁紙・アイコン・ライン・枠内壁紙)を使い回ししてみたら、「前回のと見分けつかない(・・;)」と気づいたからだ(笑)。
5月版のを前倒しすると、5月号も出すつもりだから、やはり前の号と見分けがつかなくなると思い、慌てて新しいの↑を作ってみた(≧▽≦)!

メロン色の露に青葉の組み合わせにしてみた。みずみずしくて気に入ったので、また使う機会があったら使いたい(^^)。

てわけで、4月二回目の「たわごと」を行くが、ここで毎度定例句を入れさせて貰う。……宣伝じゃよ(^。^)



日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで去年同様、前レポの宣伝を行う(^。^)。引き続き前回が最終回だった「埼玉北部編」を提示ー!

〜おしながき〜
「1月のたわごと」(夏〜初秋・埼玉北部1)
■6〜9月・千葉県柏市・松戸市
<小森城跡・名内城跡と「手賀合戦」>
<真夏から初秋へ>
■9月・埼玉県北部
<久喜市「甘棠院」(古河公方二代・足利政氏の館跡)>
<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>
<行田→熊谷ドライブ(復元・忍城)>

「3月のたわごと」(埼玉北部2)
<畠山重忠史跡公園(館跡)>
<皆野に向かう(鉢形城・寄居・長瀞を抜けて)>
<円福寺「畠山重能(重忠の父)平将平(将門の弟)墓所」>
<皆野から秩父へ><秩父神社、秩父夜祭>
<秩父神社、本殿>

「4月のたわごと」(埼玉北部3)
■9月・埼玉県北部
<秩父神社、本殿、2(つづき)><エピロ〜グ(^o^)♪>

読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さて今回は、サブタイで述べた通り、11月中旬ごろ、まずは白井市の神々廻城跡に行ってみた。
ついで、昔ながらの小舟で六軒川・弁天川・手賀川をめぐる「水郷めぐり」(印西市の街おこし)に参加してみたので、そのレポをお届け(^^)。



<白井市「神々廻城跡」(鳥見神社)>

以前、「城主のたわごと」でレポした事がある「木下(きおろし)街道」(2012年12月<木下街道(県道59号・市川印西線)、@白井市編>以降)は、南は市川市〜北の印西市を結ぶ、県道59号線であるが、城跡はその途中、ちょっと脇に入り込んだ所にある。

地図←城跡の中心地はこの辺りだけど、すぐ北に「鳥見神社」、南には「神宮寺」「浅間神社」「駒形神社」が集中して並んでいる。
昔は城地だった所に今は寺社があるのはよくある事だから、城域全体がもっと広範囲に及んでた場合、これらの寺社を含んでいたかもしれないね(^^ゞ。

今回はすぐ北の「鳥見神社」(地図←城跡と殆ど変りない位置だが(^_^;))に行ってみた。
南の寺社にも行けたら、その時に追加のレポをしたい(^^ゞ。<いつになるかわからんけど

←正面鳥居
↑石碑が何枚も並び、「伊勢神宮」や「湯殿山・月山・羽黒山」の字が書かれていた。どちらもこの辺りでは、弘法大師巡礼などと並んで多く見掛ける。

ただ、写した一枚をよく見ると、「伊勢神宮 大々神楽奉奏記念」とある。
「大々神楽」もよく見る字列だが、その間に「」と書かれるのはあまり見た事がない気がしたので、検索してみたら、「湯立神楽」の事を「湯神楽(ゆかぐら)」と呼ぶ事があるそうだ(゚.゚)。

湯立て」というのも全国的・一般的な呼び方かわからないが(^^ゞ、風景はテレビとかで見る人も多いんじゃないかな。
熱湯に葉っぱなどつけて人や家道具などにふりかける、厄払いみたいな行事だよね。

千葉県には、出羽三山の参拝記念碑を境内に掲げる神社が多い(^^)。
そもそも湯殿山のご神体が「」であり、出羽の山寺で購入した本にも、「湯立て」が民間に深く浸透した修験者行事であると紹介されてたのを思い出す。
(2009年3月<羽黒山・参道、1>内および4月<湯殿山(山形県)経由〜福島飯坂温泉(福島県)泊>内

←参道、バラック風の建物に前を阻まれるが
越えれば、正面に本殿↑
江戸期の明和5年(1768)再建を最後に老朽化。平成22年(2010)に修復したそうだ。

実は「鳥見神社」というのは、この白井市とその周囲(手賀沼と印旛沼に挟まれた広い地域と言うべきか)にずいぶんと多いらしい。
「城主のたわごと」でも、布瀬方面のレポで出した事がある。あと阿夫利神社の説明した時にも、付近の「鳥見神社」の名を出した。
(2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)><千葉県印西市「阿夫利神社」、1>・2009年1月<阿夫利神社、2>

そこから、古代史(それも黎明期)との関わりなど深く探求されてるサイトもよく見掛ける。

本殿の背後に控える二つの祠
本殿に向かって左脇の石碑には……

風変わりに切り立った形の石碑
「石裂大神」とある。明治30年の建立。いかにも神代の黎明期っぽい神様の存在を思わせる(^_^;)

ちなみに「石裂大神」で検索してみると、トップにこの神々廻の「鳥見神社」がパパッと並ぶんで驚く(笑)。
そして記紀の記述のあれこれが出て来る気配はある。ヤマトタケル伝説なんかも見掛けた(^^ゞ。

が、私は「鳥見(とりみ)」と聞くと、殆ど瞬間的・反射的に「鳥海三郎(弥三郎)」、すなわち「安倍宗任」を思い出す(爆)。
ヤマトタケル伝説も、→白鳥伝説→白鳥柵・白鳥館→白鳥則任(宗任の伯父)に容赦なく向かう(爆爆)。

宗任の安倍氏は陸奥の勢力であり、対する出羽には、やがて朝廷勢力(つまり源頼義・義家父子)と与して、安倍氏を討った清原氏が地盤した。

この清原氏は、平安初期に中央から赴任した清原令望の子孫が土地に根付いたという説があるが、この手の話は、坂上田村麻呂・安倍氏・小野氏・藤原氏などの中央貴族が東北に赴任したという点から出る、「子孫土着説(土地の女に子を産ませて云々)」と同様、簡単に信じる気になれない(^_^;)。。

ただ近頃、これらと別に、「出羽清原氏の初代・清原武則は、平繁盛国香の子で貞盛の弟)の孫」という説が浮上している。

これは茨城県(と言っても千葉北西部と同じ下総)に「宗任神社」がある事、常陸平氏の大掾氏に「赤目」など、陸奥征討戦に絡んだ名乗りがある事など考え合わせると興味深い。

と言っても、「陸奥話記」(前九年の役の戦記)には、前九年後三年の役に登場する清原氏は、「俘囚の主」とあるらしく、俘囚なら蝦夷出身者を指す点から、「繁盛流の系譜が当てはまるだろうか(^_^;)」という疑問は残らなくない。

が、桓武平氏が坂東に土着した点までは、平将門の乱平忠常の乱などが起きた点から確実であるから、その平氏から東北地方に土着した氏族が出るのは、若干ながら真実味を感じないでもない。

それと、この清原武則の弟・岩城則道の曾孫に「海鳥道三郎忠衡」があり、その娘が千葉氏に嫁いで、千葉常胤の祖母(常胤の父・常重の母)となっている系図がある点なども興味深い。

こうした事柄は、後に奥州征伐を経て、鎌倉武士らが東北へ乗り出していった(領土化した)点を考えあわせると、後付の可能性も全く無いとは言えないから、慎重に精査される事が望ましいとは思う(^_^;)。

が、疑う姿勢も持つと同時に、清原武則岩城則道の従兄弟からは、秋田城介繁成常陸大掾多気氏などが出て、前九年・後三年の役に名の出る海道成衡などに繋がっていく点から、房総や常陸の平氏を、陸奥や出羽と古くからかなり密接な関係があった……という視点を今後は加味すべきであろうと思う。

となると、記紀や古墳期など旧時代を探るのもいいが、関東太平洋側の地名や苗字・社名・族名には、鹿島・香取と同様、東北史の発端として掘り起こす必要があるんじゃなかろうか。

鳥見神社の杜を側面駐車場から写す(パノラマ4枚180度以上)

この位置から後ろを振り返ると、細い道路を挟んで反対側には……↓

こんな畑の一帯と奥に森が見える(パノラマ4枚180度以上)

あの森あたりが城跡の遺構があるトコかな(^^ゞ。
「神々廻(ししば)城」については史料が全く無いらしく、戦国期の勢力的には、手賀原氏や高城氏などが北や西にあり、東部はそろそろ本佐倉の千葉氏や臼井氏などが迫ってる地点かと思うが、詳しい事はわからない。

手持ちの本でも、千葉北西部として載ってる範囲が、せいぜい松戸・鎌ヶ谷あたりまでで、白井市ほど東部になると出て来ない(^_^;)。。
ただ隣に接する柏市に藤ヶ谷城跡などがあり、ちょうどこの後に行ったので、次回あたり取り上げたいと思う。

前年に訪れた「イラストで知る白井の伝説」展で買った本によると、昔(江戸以降だろう)、こんな視界に「狐火」がよく浮かんでは消えたという。
火は近付くと遠ざかり、逆に追いかけられた体験談もあった。
夏にかけて、川岸に赤い火が横一列に広がったり片端から消える光景を見た者もいた。

と言っても、今見るような広大な風景ではないようで、こういう畑地は森林地を次々と伐採して拓かれてからの物という。
白井には害虫が少なく畑地が適している事から、畑地開拓の展開になったようだ。

畑地になる前……水田耕作が主流だった戦前は、昔の写真には太いケヤキの木が並んで見られる。「ししば山」と呼ばれる深い山があり、森林伐採地として林業が盛んであったという。

「狐火」というのも、解説によると「狐がよく出ていた事と関係あるだろう」とあった。深い森は、狐の生息には適した環境だったのだろう。
それが二次大戦を境に、「狐火」の話もパタと聞かれなくなったそうだ。戦後は森林が伐採されていき、風景が激変したからだろう。

以上、関連事項は(09/04遅れてリンク)
2008年9月<宗道〜下妻>内
2008年11月<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)><千葉県印西市「阿夫利神社」、1>
2009年1月<阿夫利神社、2>

2009年3月<羽黒山・山頂>内および<羽黒山・参道、1>内
2009年4月<湯殿山(山形県)経由〜福島飯坂温泉(福島県)泊>内
2009年10月<「千葉寺」、2>内
2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内および<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内
2010年2月<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、2>内以降
2010年5月<「毛越寺」A、南大門跡〜開山堂>内以降
2010年6月<白鳥館遺跡>
2010年9月<総社宗任神社><宗道神社・宗任神社>

2012年12月<木下街道(県道59号・市川印西線)、@白井市編>以降



<秋深し(^o^)>

六高台さくら通りの桜の紅葉
秋空高く飛ぶ自衛隊機

そして、毎度おなじみ下手賀川
発作橋(地図)の白鳥サン達(笑)

一見「うふふ〜きゃっきゃ♪」
よく見ると「餌だー!」バシャバシャ!

(拡大)優雅にして凄まじい鳥愛(盗り合い)

←「今日も美味しかったわね〜」キャッキャ
↑カァ〜カァ〜カァ〜ッッ!



<「印西(手賀川)水郷めぐり」@木下で乗船>

↑どっかで貰った(置いてあった)チラシで見付けた「舟めぐり」である。

……確か、手賀沼の「道の駅しょうなん」だったように思う(^^ゞ。
チラシには手賀沼を含んだ広範囲に、複数の“ゆるキャラ”(笑)が書き込まれた絵地図が載ってて、各箇所ごとに観光ポイントがあり、その一つに、かなり本格的な企画っぽく書かれていたのが、この乗船企画だった。

亭主が「それ乗ってみたい(^^)」と、珍しく前向きリクしたので、家に帰ってから検索してみたら出て来たのが……↓
ぶらり川めぐり(@「いんざい水の郷ネットワーク」主催)

まずは先ほども言った「木下街道」を
今度は印西方面へ北上

さっきいた神々廻城跡から出て来た地点が、地図←だいたいこの辺で、今↑走ってる所が→地図

途中に亀成川を渡り(地図
さらに北上

←やがて左折(地図
↑利根川の下、二つの川の間に入る

←局部を拡大。左下の交差点まで木下街道をナナメ北上して来て、左折した。やがて二つの川の下「弁天川」を渡って中州に入り、すぐ右折して弁天川沿いを走り、「現在地」まで進む。

周辺は、右下に「JR木下(きおろし)」。
弁天川の上部に流れる川は「六軒川」、そのさらに上部に「利根川」。
六軒川と弁天川は図の外れ左で合流して「手賀川」になり、「手賀沼」に繋がる事となる。

「現在地」と書かれた所に「印西市立中央公民館」(地図(パノラマ5枚180度以上)

公民館の周りには、地元の俳句会の句集碑や、昔の道標などが点在・陳列されていた。
道標には、「往時の大森宿木下河岸を結んでいた町田堤の大森宿側にあったものです」という説明版が横に建てられていた。

道標(如意輪観音っぽいね(^^ゞ)
公民館の後方に乗船場があるが、道の右を見ると→

既に広い水路に満々と水が(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

川めぐり乗船場・いんざい水の郷ネットワーク」の案内↓
曲って程なく、河岸に下りて行く坂道→

坂道を降りて行き、係の方に名前を言って、乗船料(大人一人1時間コース1000円)を払って、同じ船に乗る予定の人々と一緒に、船が来るのを待つ。

各係は地元の方々が手伝いあって担当してるようだった。
「あれー船のチケットがない〜!」
などと担当の方が探して下さったものの、どうも無かったようで、
「チケット無くてスイマセン(^_^;)、無くても乗れますので」

というのも、「川めぐり」乗船は予約制(^^ゞ。前もって電話して乗りたい日時を指定して、その時間に行くから、名前を言えばいいわけ。
も一回だすわね(^^ゞ→「ぶらり川めぐり(@「いんざい水の郷ネットワーク」主催)

「チケット無くても乗れるんなら(^^ゞ」
とウチらも言ってたら、一緒に待ってた相乗り客の方が、
「ウチが貰ったの一枚あげます(^^)。同じの何枚もあるんで。どうぞ記念に」
と譲って下さった(^o^)☆ミ
「いいんですか? わ〜ありがとうございます〜(^O^)」
とか言ってる内に……、

前の船がやって来るのが
見えて来る。ドンドン近付き

スピードを緩めて
着岸。次の出航船と並ぶ

じゃ、いよいよ乗船するよ(^^)v<ワクワク



<「印西(手賀川)水郷めぐり」A出航、弁天川〜手賀川入口>

地図←現在地。「六軒川」の端から出航して、まずは「弁天川」をしばらく行く。
やがて「六軒川」と合流して「手賀川」となる所(地図)までいこう(^O^)。

以後、地図は通常サイズで提示していくが、そう長い距離じゃないので、細かくご覧になりたい場合は、ご自分で拡大して下さい(^^ゞ。

船に乗ったよ〜ユラユラ〜(≧▽≦)
後方、さっき前の船が来た方向

じゃ、出発進行〜(^O^)/

前を向くと、こういう風景→
さっき中央公民館の道路挟んで右に見えてた建て物がすぐ迫って来る(^^)

あれは「手賀排水機場」で、やがてカーブを曲がると、やはりさっきのちょっと広めの水辺に一度出る。

このカーブ部分が、「六軒川」と「弁天川」の合流地点(地図)で、船体を旋回させたりしやすい広さって感じもして、ちょっとノビノビ(^^)↓

六軒川弁天川の合流部(パノラマ2枚)

やがて旋回を終えて、船は弁天川に漕ぎ出して行くが、乗船したここ木下は、かつては産業・商工業が盛んで、駅の周囲には、今でも鰻屋さんや煎餅屋さんなど、茶屋の並んだ頃の名残の老舗店があるそうだ。

が、そういう商売が年々経営が厳しく、あるいは数が少なくなっていく現状は、ここでも変わらないようだ。
それと私の知る限り、この辺りのおおよその歴史背景として、水運は江戸時代が全盛で、明治以後は徐々に陸運に押されて、衰退の一途を辿った……と認識している。
想像するに、利根川から手賀沼までのこの水系も、ざっと同じ感じじゃないかと思う(^_^;)。

船頭さんの話によると、そうした地域活動の何とか一助になるべく、この川巡り船は8年ほど前から、船の活用が盛んだった時代を再体験すべく始められたそうだ。(同HPによると、2006年活動開始とか→活動のあゆみ)

初めの六幸橋(地図)を潜り
水神社」(地図)の傍らをいく(^^)

コースは、この弁天川を後で手賀川に出て、さらに下手賀川までちょっと乗り出すんだが、30分コース(500円)だと手賀川までいかず、弁天川→六軒川で戻るだけみたい(^^ゞ(「ぶらり川めぐり」)。
もちろん船に乗るだけでも、現代では珍しい体験だろうけど、手賀川あたりの風景を知る者の感覚としては、30分コースでは期待値にはちょっと届かないかも(^_^;)。。やはり60分コースがお薦め♪

神社を越え、成田線(だったかと確か(^^ゞ)の下を……

潜って
次々と橋を後にして先をいく

今通った「水神社」は、同「いんざい水辺の歴史」によると、1998年に新築されたそうだ。
ページには、利根川や手賀沼の新田開発の長い長い苦労談(殆ど失敗を繰り返す歴史)が書かれており、この弁天川は、干拓工事史では比較的早い、江戸初期の1671年、手賀沼干拓の「落とし堀」として作られた。……人口運河なんだねぇ(゚.゚)。

あわせて幾つかの堤が作られた中に「六軒堤」があり、続く1675年に「六軒箱新田」が開発され、「六軒」草分け集落ができ、請け方が安芸の宮島から勧進した「弁天」が人々に親しまれた(ので川の名になった、という事だろう)。

今はやや東寄り、木下に戻る方にある「弁天橋」(地図)も、元はこの「水神社」の傍にあった(ので、当時の名残りを示すため「水神社」を新造した……という事じゃないかと思う)。

この一見、橋のように目立つ配管の先にあるのが356号線を渡す「弁天大橋」(地図

やがて手賀川の河口に到達
関枠橋」(地図)の前を飛ぶ水鳥たち

手賀川に出ると川幅は広がり、船旅もゆったりと優雅な雰囲気を醸し出す(^^)。
船は13人乗りで、予約と料金の具合では貸し切りも出来るそうだよ♪

なるべく遠景を繋いでパノラマ状に撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

(パノラマ4枚180度以上)

こういう小さい船は他の乗員も写っちゃうんで、いつものようには出せないけど(^^ゞ、パノラマ状態に出来なくても、だいたい雰囲気は伝わると思う。
いつも土手から見る手賀川が、こんな風に間近に水の流れが感じられるのは初めてで、嬉しかった(^^)。

手賀沼までいくとボートもあるけど、どっちかと言うと単なる非日常感より、昔の生活感を体感できる方が好みではあるので、このような企画は有難い(^^)。
また、柏や鎌ヶ谷に比べると印西はちょっと遠くて、土地の方との交流に距離があるから、船に乗ったり催しに参加してお話しが聞けたりするのも嬉しい。



<「印西(手賀川)水郷めぐり」B手賀川・下手賀川>


北岸マラソンコースに見える東屋
西に浮かぶ岡は布瀬方面か

こんな所で間近に見える山など無いハズなので(^_^;)、たぶん水辺近くに迫る布瀬の丘陵が見えてるのだと思う。↓

(拡大)布瀬城跡などある方面
右岸の終末処理場(地図)を最後に

手賀川遊覧はここまで(^^ゞ。手賀川じたいはこの後も手賀沼まで続いてるんだが、船はここで左折して、下手賀川に向かう。

下手賀川に向かって左折すると
1羽2羽と白鳥が出現しはじめる

↑左の写真はかなりズームして撮ってるので、まだちょっと距離のある発作橋あたりが写ってるが、これらが目前に迫って来るまで、まだ少し下手賀川をいく(^^ゞ。

11月の川岸はススキがいっぱいだった(^^)(パノラマ2枚)

コブ白鳥のこちら1羽は……
まだ少〜し雛の面影を残している

下手賀川に差し掛かる頃から、水面には白鳥(をはじめ水鳥)がいっぱい出て来て、岸辺では小舟を浮かべたり、釣り糸を垂れる人影もドンドン増えて来る(笑)。

ただ船頭さんには、「たまに不幸にして水難事故に遭われる方がおられますので、ご注意くださいね」と呼び掛けられた(^_^;)。。

いつも車道から見下ろす発作橋(地図)の袂を、今日は水上から(^^)(パノラマ2枚)

今は餌の時間でないと見えて(笑)、ゆるゆる浮かぶ白鳥

あ、そうそう、雛の白鳥の見分け方だけど、雛は灰色(茶色というか)の羽毛をしてて、クチバシも黒い。
ここによくいる白鳥は、「コブハクチョウ」といって、クチバシの上に瘤(こぶ)があるんだけど、大人の白鳥はそのクチバシが橙色なんだね(^^ゞ。オオ白鳥なんかは黄色いのよ。

ちょっと大きくして見てみようか……。

(拡大)右上の写真、大人の白鳥
(拡大)さっきいた雛っ気の残る白鳥

右の白鳥は羽毛は殆ど白いけど、まだ頭部に少し灰色の羽根が残ってるのと、嘴(くちばし)が、左のに比べればまだまだ黒いよね(^^ゞ。

もう11月だったけど、他にまだ灰色の羽根の残る白鳥も居た。
でも6月ごろに見たような、母鳥にくっついてヨチヨチ歩く小さい雛はもういなくて、色が違うだけで、大きさも殆ど大人の白鳥と変わらなかったね〜(^^)。

でもこうして間近に子供の白鳥を見ると、「みにくいアヒルの子」っておとぎ話にある通り、「大人の白鳥は優雅だけど、子供の白鳥ってのは汚い色だな〜(≧▽≦)」と思った(笑)。

←遠くにフワフワ浮かぶ白鳥も
船が近付くといっせいに飛び立つ

鳥がこんな風に飛び立つ写真って、世の中では当たり前のように出回っているけど、これを通常、地上でデジカメを構えて撮るとなると、よほどシャッター・タイミングが偶発的に良くないと無理(^_^;)。

狙って待ち構えるとなると、電池切れ覚悟で飛んでくれるのを待ってなきゃならないし、「今飛ぶ!」と思った瞬間にデジカメの扉を開けるのでは、大抵間に合わず、飛び立ちだいぶ行ってしまった後になってしまう(^_^;)。

しかし水上、それもこうして船で近付けるとなると、途端に易々撮れる事を知った(^。^)

というのも水上では、鳥は我々が近付くから飛び立つのであって、いつ飛ぶかわからないという事がまずないから、扉を開けたまま狙っていれば、ちょうどよい瞬間を捉えられる(^^ゞ。
もし撮りそびれても、飛び立った鳥は、また遠からず水面に浮かび直してくれるから、またまた幾らでも近付いていける(^^)v。

布瀬城の方面に向かって羽ばたく
釣り人の方に向かって水面を滑る

江戸期に創作された、手賀城の女城主に小森城主が恋した話は、白鳥のこんな様子を見て思いついたのかな〜(#^.^#)なんて思ったんだが、コブハクチョウというのはどうも外来種らしい(笑)。

手賀沼に来るオオハクチョウやコハクチョウは渡り鳥で、コブハクチョウだけが印西に定住してるそうだ(゚.゚)。
……そういやオールシーズン見るもんなぁ、白鳥(笑)。

「おっちゃん、釣れてまっかー」
「わてら追われとんのちゃいまっか」

ただ、「白鳥」というだけなら、戦国期の布施城主(布瀬や布佐と混同されるが別の城(^_^;))が古河公方5代・義氏に進呈した事がわかっている。
そこにいう「白鳥」が、こんにちのいわゆる「スワン」と同じかはわからないが(^^ゞ。

また水鳥の捕獲法については、確か布瀬の鳥見神社に、建武年間(1334〜36)頃、住人によって発明された「流モチ縄(ボタ縄)猟」が説明されてたように思う。

古くは、例の相馬御厨の千葉氏による寄進でも、雉や鮭の進物が書かれてるし、後々まで都では歳暮として喜ばれたのだろう、戦国期にはここの水鳥は秀吉・家康へも贈答された。

……そうそう、この日じゃなかったけど、手賀川の土手下のでこぼこ道を走ってたら、雉(キジ)に出会って驚いた事があったよ(゚.゚)!

この先は下手賀沼だが、船はこの辺で停止
旋回しながら周囲を見る

右岸にはいつも通る道路上に、歪んだ電柱が何本も並んでいる。これも地上でいつも見る風景だけど、あの歪みは、どうも震災後はじめて様子を見に来た時からなので、地震でああなったのかな〜と(^_^;)。

(拡大)歪んで重なる電柱達
旋回。左岸(東)には千葉ニュータウンが見える

これより先「手賀干拓一の橋」(地図)を潜って進めば下手賀沼に入るんだが、船はその手前で旋回し、元来た方向……まずは手賀川まで戻る。

(拡大)遠くに高層ビル群
旋回中。漕ぎ起こされる波

「わてら白鳥視点からやと」
(拡大)「車道はこないに見えまっせ」

この車道(戻りの水路だと左岸・西側)は、いつも白鳥を見ながら通る道(^^ゞ。今日は水辺から見上げている。

横からも見てみる
発作橋(歩道用と車道用)に戻って来る

手前の赤い「歩道用」っぽい橋は、いつも「危ないので立ち入らないで下さい」と標識があって、本当は入ってはならない橋なんだろう(^_^;)。
ただ、ここでいつも白鳥たちに餌を与えてる人達がいるから、そのために取り外さないのかも(^^ゞ。

船頭さんは、地元の「カワセミ会」が餌をやって、白鳥たちを保護する活動をしてると説明してくれた。
この「カワセミ会」は、ここから続く田畑の間道に、夏になると赤や黄色のカンナの花をいっぱいに咲かせる会かと思う(^^)。看板の立ってる所に毎年咲いてるから♪

発作橋(歩道用)を潜り
次は車道の「発作橋」(地図

ボートの人から直接餌を貰う白鳥
これも子供の白鳥だね茶色い(^^)

wikiを読む限り、コブハクチョウは1950年代にもたらされ、在来野鳥との縄張りやレンコンの食害などが問題視されつつあるものの、今の所は目立った被害報告は少ないようだ。

繁殖期は攻撃的になるので(他所では人を死亡させたケースもあるとか(^_^;))、子連れの場合はむやみに刺激しない方がいいだろうが、ここ手賀川で間近に見る限り、人のいる所にも、ネコのように近付いて餌を貰う融和的な印象だ(笑)。

手賀川に戻ろう。終末処理場地図)が見えて来る(パノラマ2枚)



<「印西(手賀川)水郷めぐり」C六軒川〜木下下船>

ちなみに手賀川は、東部(弁天川・六軒川)に行かず、西の方にいけば、手賀沼に辿り着く川であるが、先ほどの通り、この船旅では手賀川は下手賀川に行くまでの間に通過するのみだった。
帰りも同じで、弁天川・六軒川の分流にすぐ差し掛かり、行きは弁天川から来たが、帰りは六軒川を通って、木下まで戻った。

まずは手賀川「関枠橋」(地図)を
潜ると、もう分流が見えて来る

(拡大)右に弁天川
今度は六軒川をいく

六軒川は弁天川の北側を平行して流れている。弁天川より川幅がグンと広く、手賀川と同じぐらいの広さがある。
周囲も工場のような大規模な敷地の施設が多かった気がする。

六軒川には、地図で確認する限り、「六軒大橋」(356号線、そのまま弁天川を渡れば「弁天大橋」)、「成田線」、「六軒橋」(弁天川では「弁天橋」)の三本の橋が出て来る。

……て事は、最初は……

六軒大橋」(地図)かな(^^ゞ
何やら土手には横弾幕ふうの字

(拡大)「川の停車場」「ぶらり川めぐり乗船場」とある。ここからも乗れるんだね(゚.゚)↓
次は成田線かな(^^ゞ?→

そうそう、行きの弁天川では書きそびれたが、成田線は「木下駅」と「布佐駅」の間の区間。

そして↓これが六軒橋地図)かな(^^ゞ。
帰着、お疲れサン(^_^A)→
波止場(と言っていいのか(^_^;))に翻っているあの旗は……↓

チーバくん(^O^)!千葉県のマスコットキャラ
↑はい、お疲れさん〜♪

↑チーバくんは千葉県全体の代表キャラで、千葉県の形をしてるの(^_^A)。

対して、ここ印西市のゆるキャラは、この「いんザイ君」!→
ページはこちらだ→「いんザイ君の部屋

印西市にちなんだ名前に合うよう、ちゃんと印鑑を持ってるんだね(笑)。
この写真は、船に乗る前に写したさっきの中央公民館(地図)に、船を降りてから寄って、受付で撮らせて頂いた(^^)。

この「川めぐり」は、この11月が最後の月で、12〜3月はさすがに水も冷たい時期なので休業。春は4月から水開きのようだ(^^ゞ。
最後にもう一回だけ→「ぶらり川めぐり(@「いんざい水の郷ネットワーク」主催)

柏や松戸は、船橋や市川に比べれば田舎だけど、やっぱり東京寄りだから、伝わる情報は我孫子止まりって感じで、こういう地域活動の存在じたい知る人が多くない感じがする(^_^;)。

しかし水系を通せば近い圏内。昔はもっと行き来があっただろうし、この頃は高度成長期とは違って、都会の方だけ見て暮らす姿勢の人ばかりでなくなってきたと思う。
前回の鎌ヶ谷同様、こうした催しに参加してみる人がこれから増えたらいいな〜と思った♪



<手賀川・下手賀川、改めて地上で再確認(笑)>

このあと、いつも通りに手賀川・下手賀川に、日頃の地上風景を振り返りに行ってみた(笑)。

まずは船では行かなかった下手賀沼
船で来た下手賀川の端

まずは先ほどは到達しなかった「干拓一の橋」(地図)に来て、左右を見ている。
これよりさっき来た水流を辿る。

左右に歪む電柱群(^^ゞ
遠く聳える千葉ニュータウンのビル街

亀成川は下手賀川から分流してる
白鳥を追い掛け撮影した辺り

↑亀成川というのは、最初に木下まで船に乗りに行く時、木下街道を通ってて、亀成橋(地図)で渡った川ね(^^ゞ。

そして発作橋地図)白鳥もいる(^^)
後ろは燃えるような夕陽(≧▽≦)!

以上、下手賀川をず〜っと上がって来て(パノラマ4枚180度以上)

手賀川からの分流地点(地図)に到達。最終処理場(パノラマ4枚180度以上)

「不思議だなぁ、いつもと同じ場所なのに、川ではずいぶん違って見えたよね〜」
「白鳥がみんな大きかったねー! 凄く近かった!」
なんちゅうような、しょうもない事を話す、11月の最も早い日暮れタイムだった(^^)。

以上、だいぶピッチあげて頑張った(笑)。
又しても関連事項リンクは後日に(いつやるんだろう(^_^;))。。

次回は、年末年始までは確実に行けると思う(^O^)!
そして次回も、出来る限り一月押さずに、また出したい。



以上、関連事項は(09/04遅れてリンク)
■手賀沼(長くなったんでリンクページ作った↓)
「手賀沼の史跡」「手賀沼・手賀川・下手賀沼」
■木下街道
2012年12月<木下街道(県道59号・市川印西線)、@白井市編>以降


<つづく>

2014年04月30日
 
     






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