<2007年・城主のたわごと6月>




松戸編、2006年12月クリスマス、2007年正月(^^)。

そして2月、オフを兼ねて「大谷口(小金)城」「根木内城」レポ!



     
  この「たわごと」も、2004年から急ピッチ&大長編のお蔭で、だいぶ追い付いてきた(^^)。
しかし後でまた溜め込むと遅れるので(汗)、今回は今年(2007)の3月〜4月辺りまで頑張ろうと前回の最後にそう書いたが、2月「松戸の城跡オフ」の内、最後に廻した「根木内城」の写真が不足ぎみだったので、わりと最近までチョコチョコと行って撮り、補う事にした(笑)。

そういうわけで、予告とは異なるが、今回は2月のこの「根木内城」の初回までお届けっ♪



■12月
<クリスマスの街角(^^)>


メリークリスマス! 我家のご馳走(笑)
街角イルミネーションウォッチ開始!

毎年キレイな飾りつけをしてるおウチを撮影。でも一般のお宅ばかりなので詳しい場所は内緒(^。^)







毎年「この飾りつけが今年のブームか(゚.゚)」とか感動しながら街を歩くのだが、例年のこの時期はもう寒いし、スゴイ忙しさもあって、とても夜に撮影して歩くゆとりがないのが、この暮れ(2006年)は、忙しさの合間に妙なマができる事もあったし、何しろ暖冬で(^_^;)、コート着てると汗を掻く程だったので、余裕で撮れてしまった。。

私はだいたい外観をやたらと派手にする風潮は好きじゃないんだが、クリスマスのこうした飾り付けや、花を咲かせているおウチには、いつも感謝して心から楽しみに眺めさせて頂いている(^^)。

その前の年ぐらいからだったか、青い光(発光ダイオード?)のイルミネーションが増えて、彩りも華やか&鮮やかに感じた。
ツリー型、カモシカ型、サンタ型の華やかな装いも目に楽しいし、家の内部の灯りを使って、窓を通しての演出もなかなか凝っていて感心した(^^)。

2006年もこうして暮れていき、除夜の鐘が鳴って、明くるは2007年!



■1月
<松戸七福神巡り>


明けましておめでとうございます〜(^。^)。

今年もお節のお重(^^)
お雑煮♪
梅干茶とお屠蘇☆ミ

おせちは注文品(笑)、お雑煮は一応手作りで(^^ゞ、私はおすまし風の汁に、鶏肉、大根、ニンジン、キヌサヤ、シイタケ、里芋、柚子皮、餅、ギンナン、長ネギなんかを入れている。

梅干茶というのは全国的なものだろうか。食っちゃ寝をする正月なので、お腹のこなれが良いように、必ずこれだけは毎食用意するんだが……(笑)。

さて、今年も年初はおなじみ「松戸・七福神巡り」。
2006年7月<八柱「藤塚稲荷」><松戸オマケ・各所、風雲名物(笑)>でお届けした時、「工事中のため移転していた」とお伝えした「徳蔵院」の「藤塚稲荷」が、工事完了につき、ちゃんと元の本堂の横の位置に戻ったことをご報告(^^)。

毎度「徳蔵院」の階段前
階段を上がって「藤塚稲荷」復帰!

手前にはお堂が安置され、弘法さん像開帳
その奥に「藤塚稲荷」

ちなみにその横には本堂が無事完成!  隣に「藤塚稲荷」↓という配置

そして、これは2005年12月<お正月(^^)・そして今年も「七福神巡り」>内にてお届けの「宝蔵院」のワンちゃん!(笑)

覚えててくれたのかそうじゃないのか(笑)、今年も抱きつき!
そしてこれが鹿児島飴!

このワンちゃん、毎年絶対に吼えないのに、今年だけは別れぎわに一回だけ「ワン!」と訴えた。
「毎年こんなにサービスしてるのに、そのオイシイ匂いの物をくれない」と思ったのだと気付いた(笑)。

この日は出掛けの雑煮が間に合わず、行きがけにマクドでハンバーガーを買ったのだ。我々の体にはフライドポテトのいかにも美味そうな匂いが染み付いていたに違いない(^_^;)。。
「油モンだからな〜腹でも壊されたら」と、ケチするつもりはないが、一本だけあげた。美味しそうに食べてた(笑)。

鹿児島飴については……この辺か。2004年8月<松戸七福神巡り1、「大黒=宝蔵院」>内


日本産もち米を窯で焚き、麦芽を加え伝統の直火焚き製法で練 り上げた「こめ飴」。
南国薩摩特産「から芋」に麦芽を合わせて直火窯で焚きあげ、芋の旨みをひきだした「から芋飴」。
さとうきびから黒糖を直火焚き麦芽製法で香りをただよわせた「黒とう飴」。

そして「医王寺」の境内から見える風景
私の憧れと妬みを誘う物件名(爆)

私はいつもこれを見て「あそこに住みたい」と妬むのだ(笑)。いいな〜。

で、なぜ「城跡」かと言うと、この最後の「医王寺」のある辺りが、この七福神巡りでは北端にあたり、松戸でも北端の「北小金」駅が近い場所。
松戸をはじめ、この東葛飾一帯の豪族、高城氏が根を張った「大谷口城」のエリアであるから、「城跡」なる名称がついてるのだろう。

次でこの「大谷口城」を今回は特集する。

以上詳しくは「9月のたわごと」(松戸七福神めぐり編) ・「8月のたわごと」(松戸七福神めぐり編)


■2月
<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>


行ったのは今年(2007)の2月、二見さんが秋田から来られたので、二見さんと同じく東北の戦国時代のHPをされてる小野寺維道さんに連絡した所、あちこち会う場所を検討した結果、「松戸で(^^ゞ」という事になった。

普通、松戸に来て貰って、いの一番に城跡に連れて行く、という事はあまり無いような気がする(笑)。
だいたい元々が住宅街なので、観光地みたいな場所にも乏しいが、それでも本土寺とか戸定邸など、ちょっとした景観のいい場所が無くもないのを、2人に乗って貰った途端、車はスイスイと城跡を目指していた(笑)。

松戸市内には、戦国時代の城郭が10ヶ所以上あったと考えられているが、大半は急激な市街化によって(あと、江戸時代から街道とか埋め立てとかはあったみたいだけど、城跡との関連は掴んでない(^^ゞ)消滅してしまい、当時の面影を残しているのは、ここ小金城跡(大谷口歴史公園)と、次に行く根木内城跡の2ヶ所のみである。

この付近の当時の全体像を示すと……地図A
(後日、各々に地図を貼ったので↓をご覧下さい。2016/06/14)

北から行くと、まず地図の北部中央「流山東高」のちょっと左(西)に「前ヶ崎城」(地図)というのがあった。この城は境根原合戦のあった1478年に落城している。
同じく「流山東高」のちょっと下(南)に「名都借城」(地図)があった。こちらは第一次国府台合戦のあった1538年に先立って、1521年、1527年、1529年と、三度に渡って、古河公方高基とその弟、小弓公方義明が衝突を繰り返した。
この二つの城は今は流山市に属する。

そして少し南に来て、今回行く「大谷口城(小金城)」(地図)は地図の左端あたりに「こがねじょうし」なる表示が見える(これは駅名だけどね(^^ゞ)。
最後に地図の中央あたりに「水戸街道」という字が見れるが、その背景に緑地がある。これが「根木内城」(地図)のあった場所である。この二つの城は現在の松戸市である。

これら四つの城は、JR「北小金」駅(地図)の周辺に点在している。

そして「境根原合戦」があったと見られるのは、これらの城から南東方面の「麗澤大学」(地図)や「酒井根下田の森緑地」(地図)のある辺りだったのではないかと思われる。
今も柏市と松戸市の境界線付近であるが、当時も「境根」と言われて、戦乱の火種の場所であった。

その原因として、現在の江戸川下流域と手賀沼西部・南部をつなぐ幹線道路を確保する目的が考えられる。
この辺りは「金(こがね)領」「金(こがね)宿」と呼ばれ、里見氏と北条氏が境を接するなど、争奪・緊張しあう地でもあったが、それは豊かな農村地帯だからというよりは、交通の要所としての「宿」であり、軍事輸送の拠点だったから、という事らしい(北条時代には伝馬宿と呼ばれたようだ)。

以上、だいたい全体図の説明おわり(笑)。

で、これらの城の中では、今回の最後に行く「根木内城」が軍事拠点の最前線にあった。
これから行く「大谷口城」は1500年代の高城氏の城、根木内城については、それより前からの高城氏か原氏の城と見なされている。

高城氏は、最初、この根木内城よりさらに南の栗ヶ沢にいたのを、徐々に北上して根木内、そして最終的には大谷口に居城を移したと見られているが、根木内城については後述する。

ちなみに最初に根を張ったという栗ヶ沢は、上記4つの城よりはだいぶ南に位置する(^^ゞ。現在も「栗ヶ沢」という地名はあって(地図)、位置関係はこんな感じ地図B
(後日、各々に地図を貼ったので↑をご覧下さい。2016/06/14)

「栗ヶ沢」については、南北関係だけ言うと、JR常磐線「北小金」−「新松戸」−「馬橋」と南下してきた辺りが該当する。

目指すは住宅街の中にコンモリと茂る森
大谷口歴史公園」到着

大谷口城の場所は→地図

ありし日の「大谷口(小金)城の全形
左上に「馬屋敷」「金杉口」「畝堀」「大勝院」とあって、この公園のある一帯は、そのさらに一部「金杉口」「畝堀」あたり(^^ゞ。

中央には「外番場」「番場」「達磨」「達磨口」「中郷」。
左下に「馬場山」「大谷口」「根郷屋」右下に「大手口」「土塁」とある。
これらは地名として今でも残っている。

右の絵図面だと、今は右下の所にいる。これより少し歩いて「現在地」とある正面に行く。
↑一瞬カタツムリと見間違えた兜の石碑(笑)。

この石碑には、公園の創設は大倉邦夫氏の寄付に助けられ、遺跡の保存と公園としての整備に役立った事、大倉氏は、平成8年建設大臣表彰を授与された事が刻まれている。

で、ここが正面(^^)。真ん中の階段を登る。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

城主の高城氏は千葉氏の一族、または、千葉氏から分かれた原氏の一族ともいわれるが、この件については次の項で後述する。

高城氏の松戸市域での活動は1400年代中頃に栗ヶ沢に館を築いたのに始まり、その後、勢力を増すごとに根木内城、大谷口(小金)城と本拠地を移してきたといわれている。

戦国時代の末には大谷口(小金)城を拠点として現在の松戸市、市川市、船橋市、鎌ヶ谷市、柏市、我孫子市などを支配し、東葛飾地方最大、下総国有数の領主、武将となった。

このころの高城氏は、小田原北条氏関係の古文書に「金(こがね)」あるいは「高城」と書かれたものが残されていることから、北条氏の軍事的勢力に組み込まれていたことがわかる。

第一次国府台合戦(天文7年、1538)、第二次国府台合戦(永禄7年、1564)では北条方として戦い、相模国(神奈川県)にも領地を得るが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏は滅亡、高城氏も運命をともにし、小金領主としての役割も終わった。

登った正面。左に柵で囲ってあるのは「障子堀」跡。右端は「虎口」(パノラマ3枚)

「障子堀」
自然地形を巧みに利用した城の中でも、ここ(金杉口)では、さらに自然の斜面を削って急傾斜とし、その下部に幅4m以上、深さ約2.5mの空掘が造られていた。
この空掘は、虎口から約20m程の地点から掘られており、途中1ヶ所に高さ2mの間仕切り(障子)が造られて、堀底を侵入してきた敵をその壁で遮る構造となっている。
この空掘は、砂地を掘り下げて造られているため底、壁ともに砂質で、非常に水捌けは良くなっていた。

さらに階段を登ると、この公園の頂上に達する。↓

公園中枢の広場(^^)。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ベンチも置いてあって、一見ただの公園風だが、広場の端には説明版もあり、また周囲を土塁が囲んでいるのが城跡の証拠。↑の中央に屋根つきの休憩所があるが、そこから振り返ると↓

この通り、周囲を囲む土塁跡が見られる(パノラマ3枚・ほぼ180度)。

土塁は西側から北側にかけてL字状に見られ、その構造は、城の内側を約50cm掘り下げ、台地の緑辺部に土塁の底になる部分を幅約3mの帯状に残し、その上に粘土を盛り上げて高さ約1.5mの土塁とした。低くみえるが、外側の空掘の構造から見て、敵の侵入を防ぐと言うよりも、自分の身を隠す程度の機能であったろうと案内版にはあった。
大谷口(小金)城では、他に粘土や赤土(関東ローム)をそれぞれ約10cm位の厚さで突き固め、それを交互に高さ2m以上に積み上げた土塁も確認されている。

大谷口(小金)城の規模は南北約600m、東西約800mに及ぶ県下最大級の中世城郭で、下総台地西端の複雑な地形(高低差が約15m)を利用し、さらに大規模な土木工事(削平、堀削、盛土)を施して、土塁と深さ10m前後の空掘を縦横にめぐらせ、本城、中城、番場など9〜10の曲輪を連続させる構造となっていた。

ただしその最大級の城跡については、今はその殆どが無く、一隅であったこの公園にのみ史跡保存がされて、周囲に城跡に名残の地名が残されているのみである。

昭和37年(1962)、本城、中城筑の発掘調査に始まり、現在まで10回の調査が実施され、中国の物や国産の陶磁器類、内耳付土鍋、石臼等の生活用品や角釘、刀子、銅銭、弾丸、五輪塔頭部等が出土。

小金城、大谷口小金城、大谷口城、小金大谷口城と四通りの名称があり、地元の人々には大谷口城と呼ばれて親しまれている。

広場を通り過ぎて奥の階段を降りてみる。

降りた所にまた小さな広場があり、右に見える柵が「畝堀」(パノラマ3枚)。

「畝堀」
ここで発見された堀は幅7m、深さ約3m(現地表面から)と規模では普通だが、堀底に断面が「蒲鉾形」の畝(高さ約90cm)が堀の方向と直行する向きに連続して造られた、全国的にも非常に珍しい構造をしているそうだ。

前は見事な「カマボコ並び」だったのが(笑)、残念ながら、今はまた土を被ったのか、かなり平らになってしまっている(^^ゞ。

見事な「カマボコ並び」だった時、ここは付近の子供達がその上を飛び跳ねて喜んでる様子がよく見られた(笑)。

この施設の利点は、侵入した敵が堀底の小溝に足をとられ、横への移動がしずらくなり、その敵を狙い討てることだと言われる。

だからもしかしたら……子供が転んで怪我でもして、慌てて土を被せたのかな〜とも思ったり(^_^;)。。

特にこの畝堀は、畝部分が粘土層を掘り込んでおり、非常に滑りやすく、効果的となっていたというから、今でも危険ではあるのかもしれない。

堀底に加工を施した堀は、関東地方では小田原北条氏の軍事的勢力下にあった城に多く見られるところから、小金城(高城氏)の戦国時代末の状況が、古文書だけでなく、城の施設からも伺うことができそうだと案内版にあった。

←発掘当時のカマボコ型畝堀

一度さっきの頂上の広間まで戻り、さっきの「障子堀」と逆方向の「虎口」に行ってみる。進行方向↓
この辺りはわりとなだらかな坂。振り返って見る→

やがて「金杉口跡」に到達する。↓

小金城には大手口(東)、達磨(だるま)口(北東)、金杉口(北)、大谷口(南)の四つの「虎口」があったとされているが、ここは金杉口と呼ばれる小金城の「虎口(出入口)」の一つで、西側の低地から城内へ入ると正面と南側は高い急斜面にあたり北へ進むことになる。

ここは三段(推定)の階段を持ち、最上段には門柱を立てたと思われる土壇が4ヵ所見付かったが、構造は解らないそうだ。
土壇は砂を突き固めた、径約60cm〜1m、高さ約10cmの物だという。
現在は庭園・公園風に造作してあるため、当時の面影とは違っている。

前方。今は歩き易く階段が設けてある
金杉口(虎口)を出て右折する

←あとは長い階段を降りて元に戻る。木立に囲まれた、なかなかいい風情の階段(^^)。
↑降りて行く途中で移した市街の風景。今はスグ近くまでビッシリと住宅が建ち並んでいる(^^ゞ。

この階段付近だったかな、小野寺さんに「こうやってあのレポートの写真を撮るんですね〜」と感心された(笑)。
人を待たせるのも気にせず、バシャバシャバシャと連続して「パノラマ写真」を撮っていたと思われる(^_^;)。



<高城氏について>

高城氏が下総の歴史に現れる時期は1400年代ごろで、1400年代前半には「清高」という名が登場するが、この後に国人領主となる高城氏の前身としては、痕跡の薄さを否定できない。

1400年代後半になると、この高城氏が本土寺に制札を出したという1470年という時期があって、この地域への影響力を示す初めての登場に思われる。

この時期、この地域は大きな時代的変遷に晒されるが、その契機はおおよそ二つの時期に分けられ、その一つの時期は1455年、二つ目は1478年である。

@まず一つめ。
鎌倉公方となった足利成氏は、関東管領上杉氏と対立したあげく、1455年に古河に座所を移して「古河公方」となった。
同年、千葉の宗家、千葉胤直(当主・千葉介)、胤賢(胤直の弟)、胤宣(胤直の子)は、古河成氏の息のかかった胤直の叔父、馬加康胤とその重臣で小弓城主の原胤房に千葉城を追われて自刃した。

千葉胤賢の子が二人逃げて市川城に上杉氏の支援を受けて落ちたが、翌1456年、馬加や原らと宜しくやってた古河成氏に攻められ、結局兄弟は市川城を落ち武蔵(東京都)に逃げた。
この千葉氏の遺児兄弟のうち、弟を千葉自胤(よりたね)といい、武蔵国の赤塚に落ちた後、東京の北部に根を張って活動開始した。これを助けたのが上杉氏の家宰、太田道灌である。

A次に二期め。
それから22年たった1478年、古河成氏と上杉氏の間に和睦が成立したが、孫の代(孝胤)に至っていた馬加氏は、この和睦によって孤立してしまい、そこを太田道灌に攻め込まれる。
道灌は同年12月、国府台城を本拠に出撃。馬加孝胤と原氏を「境根原」の戦いで撃退した。

敗退した馬加孝胤勢は、一族の臼井持胤、俊胤の守る臼井城へ逃げ帰ったので、道灌は翌1479年、千葉自胤とも一緒に繰り出して、馬加孝胤の篭った臼井城(佐倉市)を攻めた。
道灌の弟、太田図書助資忠と千葉自胤の軍勢が臼井城を包囲し、激しい戦となって、太田方が勝利したと見られるが、結局は原氏によって奪回される事となる。

(*この後、二度に渡る国府台合戦(第一次=1538、第二次=1564)においては、原氏は北条方に与し、高城氏も同様であったと見られる)

この二つの時期に挟まって、千葉支族たる高城氏が勢力を拡張し大谷口城を支配した、と見る事も出来なくはないが、どうもそこには、まだ不透明な点が混ざるようである。

前回(5月)に、
■松戸市根木内歴史公園開園記念企画展「戦国の城をさぐる」シリーズ二回目
10/22(日)「里見氏・後北条氏と下総」(千葉県立船橋高等学校教諭)
に行ったという話を書いた。

講演は全三回の内の一回しか行けなかったが(^^ゞ、特別記念企画期間による展示物の特別展が行なわれていて、これが(地元民的には)なかなか興味深かった。

せっかくの機会だし、もっと知りたく思ったので、記念企画展にあわせて売られた松戸市立博物館の本を2冊購入した。
千葉県内の大きな博物館などで買えるのかもしれないが、いずれにせよ地域限定の物で、そう簡単に手に入れにくいだろうから、この高城氏について書かれてた事から、極めて興味深かった事のみ、ちょっとだけかいつまんで記したい。

高城氏が大谷口に居城し、その領地を我が物とした時期については、まだ特定する事ができないのが現状という事だった。

1470年ごろと見られる制札については、高城氏が本土寺に出された物とされているが、本土寺は当時も地元で有力な寺なので、高城氏に制札を出されるのはおかしい、とも言われ、どうも「後世の捏造」を疑われている感じを受ける(笑)。

もう一つ、高城氏の出自についても謎が多く、「原氏と同じく、千葉氏から出た」という記述が見付かるそうだが、これも後世に自発的に書かれた物なので、簡単には鵜呑みに出来ないそうだ。

それは1400年代の後半に見られる「高城」という人物名に、千葉一族特有の「胤」の一字が無い事から疑われるようで、もし千葉氏に繋がる者であったとしても、諱を貰えない程度に遠い距離にいた存在と見る可能性も指摘されている。

「原胤長判物写」によると、それがいつの事かはハッキリしないが、「栗ヶ沢の地は、原氏が高城氏にあげた物」であるらしい。ここに原氏を「主」、高城氏をその「従(家来とか)」と見る事ができるという。

そうなると、栗ヶ沢同様に、根木内も大谷口も原氏が先に築城・居城(あるいは所持)していた事も考えられる。

原氏が1517年に小弓公方義明と武田氏(上総)に小弓城を奪われた時、「高城」と称する「越前守」は原氏の家老として戦死している。また同「下野守」が敗走し逐電し、これらと後の高城氏との関連はわからないが、小弓城を奪われた原氏が、高城氏の根木内城に敗走したという記述もあるので、この頃になると、根木内城にはすでに高城氏がいたのかもしれない。

いずれにせよ、原氏が小弓城を奪還できたのは第一次国府台合戦のあった1538年以降であるから、これより後なら、原氏は小弓城に戻ることが出来、高城氏が大谷口城(当時は小金城と呼ばれていた)を治め得た、といった推測がされていた。

原氏が宗家たる千葉氏に取って代わるほどの大勢力を下総に誇ったのが、宗家千葉氏の没落によるものであると見るなら、その原氏に匹敵するか凌ぐほどの勢力を保持した高城氏についても、急成長した原氏の動向に注目すべきであるのだろう。

にしても高城氏と原氏が紛争したとか、ライバル関係だったような気配は、これまで上がった情報から伺う限り全くない。
ならば、なぜ「原氏と同等だ」と主張してみたり、「本土寺は自分に信服してる」ように見せる必要があったのだろう?

これもいつ頃の事かわからなかったが、高城氏は僧侶や寺などを相手に寺領でのもめごとで裁判沙汰になった事があったらしく、北条氏の裁定で敗訴している。
また、高城氏は地元の寺社などに対して、大変に丁重な書状を出しており、そこには「領主として居丈高に命令する」という様子は窺い知れないそうだ。

もしかしたら原氏に対してどうこうより、領地を治める上で、寺社領民に手こずったのではないか、という見方ができそうだ。
狂暴な寺領民が沢山いたのだろう(笑)。中には領主たる高城氏に対して、悪党を雇って暴挙とも思える武力行動に出た記録も残っているのである(^_^;)。。

それでも1540年以降についての高城氏の大谷口支配はほぼ確実で、それより半世紀にわたってこの地を支配した高城氏は、やがては広大な領土を持ち、北条氏から認められるかわりに「お約束」の軍役を次々と課せられ、疲弊を余儀なくされたという。

その後はお定まりの小田原合戦となり、北条が滅亡して、見ようによってはやっと重い軍役からも解放されたが、もちろん負け側の運命として城も領地も取り上げられ、高城氏は徳川秀忠の代に旗本として存続を許された。

あと最後に、これは今回購入した本に限らず、松戸〜沼南(柏)あたりを行き来してると濃厚に感じることなのだが、この辺りの勢力は、千葉支族の相馬・原・高城の三氏であり、相馬氏については、茨城県の守谷城(通称・将門城)の存在を抜きにはできないので、その内これも又ちゃんと訪れてみたいと思っている。

以上、詳しくは「城主のたわごと・千葉の動乱」<享徳の大乱・武蔵千葉氏×馬加氏(1454〜1456)>以降



■2〜6月
<根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り>


まずは地図(詳しくは拡大して見て下さい)
去年の秋に企画展が催されたのも、全てはこの「根木内城跡」が「歴史公園」としてオープンされた事に端を発している。

博物館発行の著述類および公園の記述を信ずるならば、この根木内城のはじまりは、「1400年代中頃」と意外と古い。
ここに、高城氏がその居城を北上させていった裏づけの一端が示されたとも言えなくはないが、高城氏については前述の次第により、この公園では築城者について「原氏または高城氏(下総国守護千葉氏に関わる武家)」と記載を慎重にしている。

城の役割:小金城(大谷口公園)の東側を守る拠点・街道の監視など
城のおわり:豊臣秀吉が天下統一を果たした16世紀末(1590年ごろ)
城郭の規模:東西200m、南北500m(公園の南北を含む推定範囲)

JR常磐線北小金駅・南口より徒歩15分。新京成バス、バス案内所(西新田経由)行き「根木内」徒歩1分。

根木内歴史公園、正面(パノラマ4枚・180度以上)

右の道路標識には「根木内城址橋」「上富士川」とある。この「根木内城址橋」というのは……↓

逆側パノラマ4枚(180度以上)。城の脇を流れる上富士川にかかる橋。

ちなみに、公園のお向かいには橋を挟んで二軒の動物病院↑があり、公園にはひっきりなしにワンちゃんを連れてお散歩に来る人がいる(#^.^#)。

今度はその「根木内城址橋」から根木内城跡の森林を写す。(パノラマ2枚)

では、中に入る前に見取り図を(^^)。

まずは「公園の敷地」を
そして「ありし日の根木内城」の全体図
下部分に影がかかったので、ちょっと手入れして明るくしてある↑(^^ゞ

ご覧の通り、どちらの図にもL字型の道路に隔てられている。L字の縦の道路が「国道6号線」、底辺の道路が「旧水戸街道」。

まずは左の図面が公園の見取り図で、右下から入って水辺を通り過ぎて入城。左に行く道と右に行く道に分かれる。

この分岐点を、今回はまず左に行く。赤いマークで「現在地」と書かれたあたりにまず到達する。ここにはもう一方、旧水戸街道から直接上がってこれる坂道とも合流する。
この合流地点から左中央の薄緑色の広場に入る。
この薄緑色の広場から、国道6号線に降りる階段もある。今回はここまで(^^ゞ。

以降は次回に廻すが、分岐点を右に行く道筋も辿ってみる。
途中から左折して、やはり左中央の薄緑色の広場に到達する。
広場に行かず、直進して右折すると、水辺に向かう橋を渡り、水辺周辺を散策するコースがある。

公園内の通路の説明は以上。これからこの道筋(まず左回りコース)を巡ってみよう(^^)。

で、今度は右図の城跡復元図を見ると、6号線の左部分にも、かつては城があった事がわかる。
主に、北側に四つの郭があり、その中央に櫓台、また各郭を土塁が区切っていた。
この辺りは、今は「国道6号線」の向こう側で、宅地化されて遺構は残ってない。

今でも残っているのはL字の間に挟まる部分だけで、 この地域が改めて「歴史公園」に指定され、整備されて市民に開放された。
←の図(一部拡大)に緑色の枠で囲ってあるのが「公園」の部分である。

上記の四つの郭のある地域より一段南に、横に広い郭があり、本来はその続き(国道6号線の向こう)に「馬出」があった。

そのさらに南、「空掘」と表示される所に、現在は小道が作られ(これは次回に廻す)、さらに南の一番広い郭部分が、さっきの「広場」である。

さらに南には「土橋」がかけてあった。現在もここには人の渡れる橋がかかっている。

公園の敷地はそこまでで、そのさらに南には「旧水戸街道」だった道路があるが、城があった頃には、そのさらに南にも「障子堀」があった跡が確認され、またその辺りには「東漸寺旧地(?)」があったと図にはある。

「東漸寺」は、高城氏が根木内城から居城を大谷口城に移した時、ともに移転したと見られ、大谷口城の近くにも「東漸寺」がある。

この根木内城公園は東に「上富士川」、西には、今は「国道6号線」が延びるさらに先の低地を隔ててスグの場所に「行人台城」があった。
図面でおわかりの通り、国道6号線が斜めに延びているため、ちょうど6号線を下に行った脇に「行人台城」の跡地があったとされるが、この城跡も今は現存してない。

公園内に入る
まずは水辺地帯がお出迎え

これは春になってから撮影。奥のヨシのみ薄茶色に延びるのがわかる

ここでは中世の城跡の他にも、縄文時代の住居跡や遺物も発掘されていて、こうした湿地帯の風景には確かにかなり古代の風景を彷彿とさせる雰囲気を感じさせる。

また数多くの動植物が棲む豊かな樹林地や、上富士川氾濫原である湿地といった自然にも恵まれているので、ここは今ボランティア団体「根木内歴史公園サポーター・根っ子の会」(2006年7月設立、会員27人)が定期的に自然環境保持などの活動をしていて、案内版の掲示には、この「ヨシ」を使って、掲示板の屋根や藁の特殊な結び方など様々な手作り体験をしたり、シュロの葉でカゴを作ったりしている様子が写真に貼られていた。

第1・3水曜日、定例活動日
植物観察会、月一回程度
夏休み工作づくり、8月
戦国の城をさぐる鑑賞、10月
木に名札付け、11月計画
大町自然観察園の見学、11月
ヨシ刈りイベント、12月

自然観察会、史跡講演会、ヨシ刈など、市民と行政が一体となって公園運営を目指して実地され、今後もトンボ、カエルが生息し、野鳥が飛来する公園になることを望んで活動しているという。

小野寺さんや二見さんと行った2月には、白鷺が砂地の地面を歩いていた(^^)。

公園の自然環境は、上富士川の氾濫原と、それに向かって北西に突き出た舌状台地を含む地形で、斜面の樹林池、台地上の平坦地、低湿地の三つの空間構成。
標高20〜21mの台地から標高8〜9mの低地部分の差は最大で12m。様々に高低による差のある自然環境が見られる。

春はザリガニ釣りに来る子供達
水辺いっぱいに群生する黄色い菖蒲

この低湿地部には、ヨシの群生やガマがあり、タコノアシ、ミクリなどの貴重な植物もある。

また湿地の遊歩道は桜、ユキヤナギに囲まれ、台地の上の芝生公園には、桜、梅、コブシなどの花木(たぶん植林)、秋には紅葉も美しい。

台地から斜面にかけてシラカシ、シロダモ、スジダイなどの常緑広緑樹林、東の斜面にはヒノキ、シラカシ、イヌシデ等の針広交林、一部に竹林。

いよいよ城跡に入る
大木に囲まれ鬱蒼とした空間

入った途端、密林と言っていい感じ(^^ゞ。

夜は木の間に月。

さっそく突き当たりに土塁
まずは左に登り道

この根木内城跡は、前述の通り、多くの敷地が道路で分断され消失してはいるが、この公園部分の「空掘」「土塁」「土橋」などはよく残されており、先ほどの「大谷口城」に比べると、特にこの土塁のいきなり出会う高さに圧倒される。

遊歩道の右に塞がる土塁の連続
深い谷間
←拡大、橋部分

堀と郭(城の区画)縁辺の間に土塁を土手のように築くことで、敵の侵入を困難にし、また味方は身を隠しながら攻撃することができた。

また「空掘」は、敵の侵入を防ぐために、郭(城の区画)の縁辺下に造られ、かなりの幅と深さがあって、敵が容易に近づけなかった様子が伺える。
公園外の南側の遺跡(現在は宅地)では、堀底に障子と呼ばれる施設や、畑の畝のような工夫を施したものなど、いっそう防御を固めた堀が発見されている。

下の写真は、「土橋」に向かう途中から撮影したのだが、橋の両側の土塁は2mもの高さがあり、今は国道によって消滅した部分の土塁は、郭の角で面積を広げていたが、そこには櫓が建てられていたことが想像される。

密林の横合いの道を行くと……
橋を囲む背の高い土塁の切り込み

そして下の写真が「土橋」。
空堀を一部掘り残して土の橋を造っている。郭(城の区画)と郭、郭と外部を結ぶ役割があり、今通している「土橋」は直線に近いが、古い測量図からは両側の土塁の位置をわずかに食い違え、道を曲げていたことがわかっている。
敵からの郭の中を見えにくくし、一直線に侵入させないための工夫で、当時は橋の幅も狭かったそうだ。

今は人が通りやすく真っ直ぐに(^^ゞ
土橋の先は公園の芝生広場だが……

ちょっとここで、後ろを振り返ってみる(^^ゞ。「土橋」の後ろは……↓

横に通る道路が「旧水戸街道」
付近の様子

もう一回地図を出そう(^^ゞ。地図←公園の最南部に今いる

で、そこから上がる坂道
この先がさっきの「土橋」に到るワケ(^^ゞ

さっきの「土橋」を渡ると……↓

庭園風に広げた芝生の広場(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑この左の道を行き着くと↓

行き止まりに門があり、見下ろせば→
ドーン!国道6号線(爆)

この城の角っ子(左)に「よしのや」があって、よく食いに行く店舗だったりする(笑)。

区切りがいいので、今回はこの「芝生広場」でエンドにする(^^ゞ。この広場、さっきも言った通り、付近の人々(特にワンちゃん連れ)のお散歩コースによく使われてるようで、ひっきりなしにワンちゃんがやって来る嬉しい場所(笑)。

初春には紅梅が
八重桜の頃も美しく、ワンちゃん達も……
大喜び(笑)

確かに公園の掲示板に謳ってある通り、季節ごとの野花などは多種多彩で、いつ行っても何かの花が目をひく。

イヌビエ、ウシハコベ、カントウヨメナ、キクイモ、キンエノコロ、ケイヌビエ、ガマ、ヒルガオ、ブタクサ、ミクリ、ミコシガヤ、ムラサキツメクサ、アカバナユウゲショウ、アカメガシワ、アレチギシギシ、キクイモ、イヌタデ、オオイヌフグリ、などがあるという。

今だとアジサイが美しい。これは月見草?→

オフをまじえた訪城だった割に、えらく糞マジメなレポートになってしまった(笑)。
この日は(その後の写真もかなり混ざってるけど)、すこぶるいいお天気で、4人でそぞろ歩きながらお喋りもたくさん出来て、ゆったりと楽しく過ごさせて貰った。

次回は続き、<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り>からはじめ、何とか4月あたりまで到達したい(^_^;)。

<つづく>

2007年06月13日(2016/06/14:地図(ヤフー →MapFan)張替)
 
     




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