2011年秋の東北〜北関東レポ第6弾。最終回だよっ(^O^)。 メニュー欄では「山形〜福島〜栃木編」と題して来た。内訳は……、 1月:〜福島県 2月:福島県〜山形県 3月:山形県〜福島県 4月:福島県 5月:福島県〜栃木県 6月:栃木県 こう辿って来た(^^)。 前回(5月号)は、栃木県入りして、土砂崩れに遭い(^_^;)、3泊目を迎え、目が覚めた所で<つづく>となったね(笑)。 最終回は、野門「家康の里」の朝から、まずはお届け(^。^)。 すぐ近く「栗山東照宮」に朝のお散歩の後、野門から川治を経由、鬼怒川温泉沿いで昼食(&テーマパーク閲覧)の後、宇都宮に出て、「栃木県博物館」「宇都宮二荒山神社」を見学の後、すっかり夜になったが(^^ゞ、「宇都宮城址公園」にも立ち寄って、帰路に着き、途中、さいたま見沼の日帰り温泉に寄った。 そして前回書いた(上)の続き、「日光山縁起(下)」に入ろう(^^)。 日光には行かないが、後の話にも出て来る「光明院」は、江戸期以降「輪王寺」に変わって今は無いのと(^_^;)、日光と同じく宇都宮の「二荒山神社」にかけての、かなり広いエリアが伝説の範囲に含まれると思えたので、敢えて日光の名所(寺社など)を外して特集(^^ゞ というわけで、今回は最初に、前に行った日光レポを提示しておくわね(^^ゞ↓ 2005年2月<金精峠〜日光へ>以降(全文) 2005年4月<日光・明智平>(同じく全文) ↑日光の雰囲気は、こちらをご覧くらはいネ(^^)。 <4日目・野門温泉「家康の里」の朝、2(続き)>
上の写真に見えてる側の二階の窓は、廊下に面していて、廊下からの景色は……↓ 「ガラッ」こんな感じ、隣も民宿だね多分(パノラマ3枚ほぼ180度)
一方、部屋(廊下と逆)側の面はこちら↓(パノラマ4枚180度以上)
同じく二階の窓(部屋側)から見ると、こんな景色が見渡せる↓ 皆さんおはようございます>(^。^ρ|<ガラガラ(パノラマ3枚ほぼ180度)
良いねー(≧▽≦)! こうして写真で改めて見ると、やはり湯西川の平家落人村にも雰囲気が似ている気がする。(2011年6(5)月<「平家落人民俗資料館」「平家集落」>内) ちなみに、今いる野門「家康の里」は→地図A。湯西川の平家落人村「平家集落」は→地図B(ヤフー版)。 「昨日は暗くて、山崩れ来たらどうしよ〜って言ってたけど、大丈夫だったね〜(^^)」 「そうだね〜程々に遠いよね〜あれなら」 まぁどうも想定外らしいから、あれ以上雨が続けば、何が起こったかワカランが(笑) 朝食は、同宿だった若い男性お二人連れと一緒に食べた(^^)。 この宿では、宿泊客同志が共に食卓を囲む習いになってるのだが、前夜は台風の到来で、相客さんは凄く早い時間に到着し、一方の我々は例の土砂崩れ被災で遅くなって(^_^;)、時間に開きが出て別食になった。 この朝ご飯で、ようやくお互い挨拶しあい、いっぱいお喋りしながら楽しく食べた( ^,。^)ф。
卵は、自分で目玉焼きを作れるようにフライパンが出されて、個人的にはこれが抜群に嬉しかった☆ミ というのも、実はやや卵アレルギー気味で、生や半熟だと、2回に1度の割合でお腹を下したり、痒み・湿疹が出る(-_-;)。。 昔は、それでも頑張って食べてみたりしたもんだが、旅行中は無理もしてるから発症の確率高いし、旅行中の体調不良は何かと面倒なので、結局、旅館の朝ご飯に出る卵は食べない事に決めて、もう何年も経つ(>_<)。。 だから、こうやって自分で火加減が調節出来ると、シッカリ固茹でに作れ、安心して完食できるんだわ(^^)v。 そして右の写真は、女将さんが宿についてるスナック・ルームに招いて下さり、4人とも食後の美味しいコーヒーをご馳走になったんだな! ワ〜イイ香り>( ^o^)〃迴~~ スナックルームには、壁じゅうに訪れたお客さんの写真がビッシリ貼り詰められ、BGMは……なんと、ユーミン(松任谷由美)ですよ!(笑) 「うわ〜懐かしい雰囲気っ!(≧▽≦)」 「こういうの20年……いや、30〜40年ぶりぐらい?」←我々夫婦の反応(笑) 「そうね〜。お若い人にはちょっとアレかしら〜」←女将さんの反応 「いや! ユーミン知ってますよ!」 「母親が好きで、よく聞いてますから!」←若者たちの反応(笑) 事前に送って下さった宿パンフで、スナックがついてるのは知っていたが、地元の方が集まる酒場と兼用なのかも……ぐらいしか思ってなかった。 それがスゲェ爽やかムードで、ホントに一昔前のペンション……いや、ユース・ホステル時代(笑)に戻ったような健全さで、一気に好感度上昇した!(≧▽≦) <朝の散歩、「栗山東照宮」>
字は(例によって(^^ゞ)こたつが書き入れたよ 右側には、23号線から入って来るルートが、省略してだいぶ近めに書かれてるけど(笑)、入口付近の「家康の里・入口」とある所が、昨夜、プール状態になってた所ね(^_^;)。後で通るわよ(笑)。(2012年5月<川治〜野門、土砂崩れに遭遇(爆)>) で、絵地図の中央には、「家康の里」に入って、旅館や民宿(赤い屋根)のズラーッと並ぶのが書かれ、その中央、上に書かれてるのが、この「栗山東照宮」(^^)。 私らが泊まった宿は、東照宮よりさらに奥まった所(左側)だったけど、東照宮に至る前(右側)には、共同浴場「家康の湯」という日帰り温泉施設があったようだ。
段上の社殿の傍らに立つ木製の案内板によると、由緒は以下の通り。
「家康公神体」とあっても「像」とは限らないが、現存で所有されている物は「家康の坐像」という事なのだろう。 ちなみに文化財の指定(?)は、平成16年(2004)と書かれていたから、つい最近だ。
すると、江戸期には日光の東照宮にあった「御神体」が、今はこの野門で所有している、という事になりそうだが(笑)、これと似た逸話(あるいは同じ話と言うべきかもしれないが)を、かつて山形県の山寺(立石寺)で知った(^^ゞ。 (知らなかったら、トンデモ伝説の一種かと思う所だったかも(^_^;)) 要約すると、「江戸の戦い」(上野の彰義隊の戦いかなと(^^ゞ。1868年だね)の後、日光にも戦禍が及ぶ気配となったので、別当大楽院都貞侃の実行により、04/26、御神体を長持に入れて四人で担ぎ、僧徒社人20人で供し、会津藩兵に守られて、日光を脱出した。 04/05には会津若松に到着。城内に安置した。 が、会津にも戦雲が及ぶ事となったので、08/23に会津を出て、09/14に出羽国の立石寺(山形県の山寺)に着き、20日余り留まった。 トップシークレットだったので、当時を記す文書は、全て山形柏山寺の扱いとなり、山寺での動静は知られてない。 唯一、当時を知る古老の談話が伝わっており、立石寺では20日余り、主に奥之院に密かに安置され、供の人々は立石寺の山頂・華蔵院に宿泊。 あまりの寒さに、供の人は敷布団を二つ折に被っていたそうだ(笑)。 一方、日光の東照宮側の記録では、山寺(立石寺)に到着した直後は、まず根本中堂に安置し、供の人々は中島屋に宿泊。2日後に御神体を奥之院に遷し、供の人々は中性院(これも山頂にある寺院の一つ)に移った……とあるそうだ(^^ゞ。 (2009年2月・根本中堂=<立石寺(山寺)、対面石〜根本中堂〜山門>内・中性院・奥之院・華蔵院= <立石寺(山寺)、仁王門〜三院〜三堂>内)←同じ事を前も書いてる(笑)←後ろのリンク、中性院・華蔵院あたりね(^^ゞ
日光からの一向は、山寺(立石寺)に20日間安置・逗留(避難)の後、世情が収まったので、今度は二口峠を越えて、宮城県の仙台を経て、再び日光に向かい、輪王寺の仙岳院に到着したという。 輪王寺というのは、今も日光の東照宮などある一帯に林立しているお寺ね(^^ゞ。明治の神仏分離で別れたけど、元は一つだった。(2005年2月<日光・東照宮>内、および<輪王寺>) 今回は後半部で、この輪王寺の前身「光明寺」の話をするからねっ(^^)。 何しろ御神体は、ちゃんと日光の東照宮に戻ったんだね(笑)。 細かい誤差はあるものの、このように遠隔地の寺同志に「御神体の避難」の記録が残され、日数も付帯状況もだいたい一致しているので、こういう事があったんだろうと思う(^^ゞ。 日光三山のある方向ではないかと(^^ゞ(パノラマ3枚ほぼ180度)
てわけで、「家康の湯」「家康の里」と、「家康」の名がつく謂れは、かくのごとく「家康の御神体(神像)」が絡んでの事のようで、アノ“家康”自身がここで何かしたとか、葬られたとかいうわけではないようだ(^_^;)。 では、家康の他にもう一つ、小栗久右衛門が守護を命じられた、「日光(男軆山)三社権現坐像(神体)」というのは、どういうものか……。 スイマセン(^^ゞ、こっちはよく判らない。坐像とあるから、人の形をしてるもののように思うけど、日光・輪王寺では、阿弥陀と四菩薩というのが御本尊との事だから、やはり仏像だろうか……? 一般的には、「日光三社」とか「男体山」というのは、家康が神格化されるより前から、日光の神として祀られてきた、山岳信仰の対象である。 これは幕府が滅び、徳川家が消滅してしまっても、なお土地に残るべき神々と言える。 仏教としては阿弥陀如来、千手・馬頭観音が相当し、神道としては男体・女体・太郎といった、高い山々を権現に見立てて相当させている。 今度はそっちに話を移そう(^^ゞ。 その前に、まずはいったん宿に戻って、もう一度出直そう。 <野門〜23号線、土砂崩れの痕跡(^_^;)> 宿に戻って別れの挨拶をした後、車に乗って、いよいよ出発(^O^)! 前夜の遭難後は、一応宿に辿り着けたから大丈夫だろうと思いつつも、ちょっと心配していた車は……ちゃんと動いた(^_^A)。 道は、今行った「栗山東照宮」を通り過ぎ、「家康の里」入口(地図C)までの曲がりくねった山道を下る。その途中、途中に……、
昨夜のドバーッと広がった土砂じたいは綺麗に片付いて、我々のように退去する車には、穴の上に板で橋を渡して通してくれるが、対向車には一台も合わなかった。入って来る車に対しては全面通行止めになっていると聞いた。 それにしても、衝撃的な陥没ぐあいだ(汗)。 まぁ雨が降り過ぎて、底が抜けちゃったんだね。そこに上から土砂や岩石が降って来るから……(^^;)。。 昨夜は「大変な目に遭った」と驚いていたが、それでもまだ、これほどの現場にはなってなかったから、あれでも早期に移動完了できた方だったのかも(^_^;)。。 昨夜はその後、動けなくなった車があったと聞いたが、これに墜ちたのかな。。。。。オソロシイ。。 ここに来る前にも、落ちた石や枝の残りが端に寄せられたり、ひび割れや凸凹ぎみの道や、横合いからピューとか水の出てる所など見られたが、停まって撮影してると、下がベリッと抜けるような気がして、なるべくサッサと通り過ぎた(^_^;)。。 前夜の最後、岩石が車底にはまって動けなくなった地点は、もう少し先の坂道だが、その辺りはもうスッカリ片付いて、スンナリ通れたので、写真は撮らなかった(^^ゞ。
↑「通行止」とある奥に、「家康の里」の入口を示す、黒木の門構えの足が見え、そのさらに奥には看板が見える。 看板には「家康の里・民宿村」と題して、主要民宿9軒が名を連ね、「茅葺き屋根が残る静かな民宿←1Km」と紹介されている(#^.^#)。 前夜は真っ暗で凄まじい豪雨で、何より溜まり水と戦っていたから、全く気付かなかったけどね(汗&笑)。。 「家康の里」への入口を出ると、すぐ23号線とぶつかる。左折してなお奥へ進めば、川俣温泉(地図D)に行き着く。 そこが湯西川とならんで、もう一つ本格的な「平家落人村」と伝わり、湯西川で見たような落人が築いた「平家塚」など祀られているそうだ(^^)。 今回はそこまでは行かず、むしろ右折して「野門橋」を渡り、川治温泉(地図E)まで戻っていく。 そして前夜、最初に土砂崩れに遭遇した地点(たぶん(^_^;))
↑今も少し残骸が残ってるが、前夜よりだいぶ片付いて、今は道路の表面も見えている。 恐らく始終、片付けてると思う。こうして障害なく通行しているこの時間でも尚、反対車線から来る消防救助の車両と、三度ぐらいすれ違った。 しょっちゅう点検と、土砂の片づけを行っているのだろう(^_^;)。 我々は平日を利用して旅して来たが、この後、また週末に差し掛かるので、このあと車輛が増えるからだろう。 つくづくご苦労な事だと頭が下がる。m(__)m ここは特に、左側から始終崩れて来てる感じがする(^_^;)。。 脇に退避所があり、やや場所にゆとりがあるので、前夜もギリギリ脇を通り抜ける事が出来たが、他と同じ狭い山道だったら、どうにも塞がれて前には行けなかったと思う(^_^;)。 ってか、下手すると横合いから直撃を食らったかも。前の夕方も途中からピューとか水が噴き出してる箇所があったもん(汗&笑)。。(2012年5月<川治〜野門、土砂崩れに遭遇(爆)>) <23号線を東進、川治ダムまで> ところで、昨夜、次々と災難に見舞われた我が家の車、途中に見付けたガソリンスタンドで相談したら、「動いてるなら大丈夫じゃないでしょうか(^^ゞ」という話だったんで、「そういうもんか(^^ゞ」と安堵し、予定通りこのまま旅を続け、夜中までに家に帰る事にした。 そこで急きょ、家の近くの歯医者に、明日の予約を取ろうという話になった(笑)。 朝になるまでは、もう一泊しなきゃならないかも……と思ってたが、この通り、この先も行けそうなので(^^ゞ。 歯は心配したほどの問題は無く、私は急ぐ必要を感じなかったんだが、実は……亭主も詰め物が取れてしまったのだ( ̄▽ ̄;)。 亭主となると休みの内に手当てして貰わないと困るので、明日の朝一で予約を頼もうという事になった。 全く、どういう事だろう。連日降り続く雨で、山も崩れる、道も陥没する、同じように人間の体もふやけて型崩れしやすくなるのだろうか。。。(汗&笑) 途中にドライブイン風のそば屋「やしお」(地図F)を見付けたので、車を停めさせて貰い、歯医者に電話した(^_^;)。 電話の向こうで、「あらあら、ご夫婦でお仲の宜しい事で〜!!」と笑われてしまった。。
一時、野生の猿が、土産屋から食べ物を持ち去ったり、店中を荒らしまわる被害がたえず、観光客が猿に餌を与え過ぎる事が原因として、餌付け禁止の条例が出された記憶がある。 人から餌が貰えるものだから、調子に乗ってやりたい放題というのもあっただろうが、豊富な食糧ゆえに猿の数が増えたりすれば、やがては飢えに襲われ、ただでさえ、食糧は人から奪い取る物、と学習した猿達が、ますます凶暴化するのは必至である(^_^;)。 しかし「日光猿軍団」など、現代でも日光に猿は付き物(笑)。 遡れば江戸期、日光東照宮では、神馬を繋ぐ「神厩舎」に、「三猿」(見ざる言わざる聞かざる)を含む、猿の説話が八面に彫られた。(2005年2月<日光・東照宮>内) さらに遡れば、前回途中まで話した室町後期成立の「日光山縁起」にも、日光権現が小野猿丸大夫を呼びつけた話があるなど、日光と猿は歴史的にも、意味合い的にも関係が深い。 今回は、この後に続きの後半部を話そう(^^)。
で、今戻って行く道は、進行方向右側が、日光三山の北裏側に面している。 いわゆる「日光」は、日光三山の南側にあり、中禅寺湖の北岸の東照宮・二荒山神社・輪王寺のある辺りである。 対して、これより行くのはその途中まで……すなわち、日光三山の北をまず東進し、川治にぶつかったら南下する途中、鬼怒川温泉街あたりにまでまず行く。 日光に行くには、さらに南下して今市あたりにぶつかって右折し、西(つまりコの字状)にちょっと戻ると行き着くが、今回は日光は行かない(^^ゞ。 代わりに、日光の北面の山や川の景色を眺めながら、前回の「日光山縁起」の続き(後半)を話そう(^^)。
<前半> ┌@前置き(天地開闢と神降臨、仏教布教)=1 └A前半、有宇中将の話=3 前回までの話(前半@とA)は→(2012年5月<南会津方面に向かう>内) (前回は、Aを「=2」と書いたんだが、よく見たら、もっと多かったんで、「=3」に書き変えた(^^ゞ) <後半> ┌B後半、前世譚・蘇生譚・日光と赤城の神戦=2 └C後付け(日光山の風水配置、季節ごとの祭礼)=1 今回は後半のBCを行こう(^^)。 前回も話した通り、Bは物語の骨子なので詳しめに書く。 〜日光山縁起(下)〜 (有宇)中将は死後、閻魔王宮で、門外に母と朝日(の姫)君を見て、互いに涙を流した。 その思いが庁中に満ちて、第三の倶生神が「二人の女は非業の死なので、娑婆に返すが、有宇中将は定業の死な(寿命が尽きている)ので、浄玻璃の鏡によって善悪を知るべし」(という)。鏡を見ると、業因のがれはないが、過去の宿願によって無間の苦しみからは覗かれる事がわかった。 (倶生神の鏡の示唆によると)有宇中将は前世、二荒山の猟師で、鹿を狩るために山に入り、母は彼を養うため山に入って薪や木の実を拾ったが、寒さを防ぐため鹿の皮を着て、木の下草が深い所にいた。そこを息子の彼が、鹿と見誤って(母を)弓で射てしまう。 「母子ともに貧しさのために、こんな事になった」と嘆くと、母は「自分は老いて命は惜しくないが、お前が五逆罪(君子・父・母・祖父・祖母を殺す罪。極刑になった)になる事がいたわしい」と言って息絶えた。 「猟師は死苦は受けても、貧苦は受けるべきでない。願わくば自分はこの山の神となり、何度も生まれ変わり、貧窮者を助ける事を願とする。急ぎ娑婆に返し、この願を果たさせよ」と閻魔王に言い、蘇生した。 猟師は有宇中将に、母は青鹿毛(馬)に生まれた。雲上(鷹)は子で、阿久多(犬)は妻だった。 中将が(今回もまた)蘇生した後、朝日の(姫)君は懐妊、馬頭御前(二荒山神伝では「馬王」)を生んだ。青鹿毛(馬)の生まれ変わりだった。
(有宇)中将は上洛し、次第に昇進して大将となった。東八ヶ国(関東八ヶ国=上野・下野・常陸・下総・上総・武蔵・相模・安房)と陸奥まで届き、陸奥はあさ日の(姫)君の御父(あさ日)長者に束ねさせた。 馬頭殿(馬頭御前)は七歳で都に上り、帝の御目にかけ、十五歳で少将、程なく中納言になった。 中納言(の馬頭御前)が都から下向し、朝日長者殿の所に行った時、一夜召した女が男子を生んだ。三歳で父(の馬頭御前)に会ったが、見ると、容姿が醜いので、都に上らせず、奥州の小野という所に住む事となった。 小野猿丸といい、弓箭を取ると人に優れた。百発百中、空とぶ鳥、地を走る獣、捕り漏れる事は無かった。 (※「小野猿丸」は、さらに古くは、南北朝成立の「神道集」に、「ロ奄(←二文字で一文字)佐羅麼」(オンサラマ)とあり、狩猟民の間で英雄と伝説された人物。百人一首の歌人「猿丸大夫」と同一視される点については後述する)
ここで注目なのは↓ 有宇中将が大将になって程なく、神とあらわれて、下野国の鎮守(地域や城館・荘園を守護する神)となった。 ↑イキナリこうなるんだね(^_^;)。神になっちゃう。。 上野国の赤城大明神と湖水(中禅寺湖であるらしい・地図I)の境を争って、たびたび神軍(いくさ)をしたが、簡単に決着せぬ大儀なので、鹿嶋大明神(常陸国一の宮)に頼んで、軍(いくさ)評定をした。 日光権現が鹿嶋大明神に相談すると、鹿嶋大明神は「奥州の御孫、猿丸大夫は立派な弓取りだ。彼に頼んで、本意を遂げられるべきだ」と助言した。 古文の多くの例の如く、主語がイキナリ変わったり、無くなったりするが、鹿嶋大明神に「御孫、猿丸」と言われているからには、「有宇中将=(→)日光権現」なのだろう(^_^;)。。 そこで、女体権現(日光三所権現の一神)は、背中に金の星が三ある鹿に変身し、みちのくあつかし(阿津賀志・厚樫・熱借)山へ行く。猿丸大夫は珍しい鹿を見付けたと、山々を追いながら日光山まで入る。 これまた、イキナリ名が出て来る「女体権現」だが(^_^;)、前後の文脈から、「朝日の姫君」も神上がりして権現となったのだろう、と受け取られている。 また、日光の原始宗教は女神信仰だったのが、後に男体信仰や三所信仰に転じたとも言われている。 さて、いよいよ「神戦」のはじまり、はじまり〜(^O^)! <川治温泉〜鬼怒川温泉、121号線を南下> ↑23号線を川治で右折、121号線を日光・鬼怒川方面へと南下する予定だが、「川治温泉、去年来たよね〜(^O^)」とか言って、121号線を左折し、ちょっとだけ北上して「川治湯元駅」(地図K)に寄った(笑)。(2011年6(5)月<川治温泉で一泊(#^.^#)>) 「川治湯元駅」前のロータリーと和風庭園(^^)
(女体)権現は猿丸を誘き入れると鹿の姿を消し、権現として現われ、猿丸に「ここに退き入れるため鹿になっていたが、自分は満願権現だ。この山は疎かに思うな。深く頼む事は、上野国の赤城大明神が、我が国の海山(海は湖水の事で中禅寺湖を指す。山はその付近の山)を奪おうとして、何度も戦い合っているが勝負がつかない。お前は天下無双の弓とりと評判なので、力を合わせて本意を遂げよう」 (猿丸は)易々と了承。三所権現は笑みを含ませ、合戦は明日の午の時と定めた。
味方の神兵は雲霞のごとく飛び出て、おのおの軍の内談はまちまちだった。その中に猿丸大夫がたのみ入る。 猿丸大夫は、ふし柴の茂みの中に櫓して、敵は今かと待つ。 やがて空はかき曇り、山風しきりに草木をなびかせ、海上(湖上)に白波が立ち渡る。猿丸は弓の絃を口にくわえて濡らし、そぞろ引いて待つ。 敵とおぼしきは海面(湖面)に浮かび出た。両眼が鏡を並べるようで、足の数は多く、百千の火をともしたよう。 権現は大蛇の躰になっている。敵味方のどよめき声が山岳に響き渡る。雲の上は海の底まで雷鳴が轟き、稲妻が閃いて、真に耳目を驚かせる。 この空・山・風・波・雷の様相、敵の現われ方、無数の眼や足の並ぶ描写、まるきり怪獣映画ジャン(・・;)……と驚くんだよね。。 「日光山縁起」にある日光権現は、この通り大蛇……つまる所は龍神である。 前年、塩原から南会津にかけた地域に龍神の伝承がある事は述べたが、この川治湯元から、これより鬼怒川を沿って南下するルートも、龍の踊る姿に比して、「龍王峡」(地図L)と呼ばれる景勝地である。
敵は百足(むかで)だ。輝くのは眼と見定めると、三人張の強弓に十五束の中ざし矢を取って、引っ張ってしばらく溜め置き、ヒョウと放つ。鏑は海上(湖上)にひらめき渡り、百足の左の眼に深く突き立った。重症を負わされ(た百足は)とても適わず、引き退いた。 弓の弦を口(唾)で濡らしたり、味方が大蛇(龍神)、敵がムカデ(百足)という設定は、同じ室町時代成立の『俵藤太物語絵巻』の「俵藤太(藤原秀郷)」とよく似ている(^_^;)。 ちなみに、日光と同じ下野国には、足利(藤姓)、小山、佐野など、藤原秀郷の子孫が大変多い。この事は後で述べよう。 権現は猿丸が敵を打ち果たした忠節に感じ入り、「お前の弓箭の力で我が宿意を遂げて敵を滅ぼし、国を取った。お前はそもそもわが孫。今からこの国をお前に譲ろう。わが子・太郎大明神(馬頭御前)と共に、この麓の一切の衆生を利益せよ。お前をこの山の神主とする」といったので、猿丸は喜び、諸神も喜んで、舞い踊り歌を唄った。それで湖の南の川原を「うたの浜(歌ヶ浜)」という。 今回通ったルートは日光より東方で、神戦の伝えられる所から少し離れてるので、神戦から付けられたと伝承される地名を以下に列挙しよう(^^ゞ。 合戦が行われたと伝えられる「戦場ヶ原」→地図ML 大ムカデの流した血が溜まった、と伝えられる「赤沼」→地図N(ヤフー) 勝負が決した、と伝えられる「菖蒲ヶ浜」→地図O 勝利を祝い、歌い踊った、と伝えられる「歌ヶ浜」→地図P(ヤフー) 三の嶽より紫の雲が立ち降りて、湖水の上に五色の波がたち、異香風が薫じた。怪しい雲の中より、一羽の鶴が飛び下る。左の羽の上には左に馬頭観音、右は勢至菩薩、鶴は女人の姿に変じて猿丸に告げた。「馬頭観音は太郎大明神、勢至菩薩は猿丸の本地である。お前は恩の森(小野の森?)の神となって、衆生を導け」と言って消えた。 権現は、下野国では日光三所、常陸国では鹿嶋大明神として現われた。過去は夫婦だった。人の立派な事を嫉んだり、貧しさを笑う者には利益せず、貧窮孤独な者を憐れむべし、と誓った。 「雲上」(鷹)は、本地が虚空蔵菩薩、「阿久多丸」(犬)は地蔵菩薩、「青鹿毛」(馬)は太郎大明神で、馬頭観音の垂迹。有宇中将は男体権現で、本地は千手観音、朝日の君は女体権現で、阿弥陀如来の化身である。 だいたい、ここまでが後半部のストーリー。この後も後半は続くが、「後書き」と見て、以後Cとして、分けてみた(^^ゞ。 Cここから、だいたい「後書き」的に、日光(二荒山神社)の紹介という感じで、ストーリー性は殆ど無い(^^ゞ。 昔、勝道菩薩(勝道上人)は仏法興隆の志あって、当山へ分け入り、岸は高く川は深くて渡れず、祈祷して深砂大王を呼び、「自分は玄奘三蔵のために流砂の難を助け、和尚の志を現す」と、二の竜を結んで投げると、橋となったので、踏み渡った。 この橋は、現在も「日光二荒山神社」の「神橋」(輪王寺の南「大谷川」に架かる・地図S)として観光の名所となっている。 (※また前回、2012年5月<南会津方面に向かう>内に示した通り、前半部で有宇中将が初めて二荒山に来た時、「山菅の繁みを向こう岸に渡った」とするのに対応して、ここを「(勝道)上人が教えに沿って蛇橋を渡ると、橋の上に山菅が生じたので、山菅橋と名付けた」とする史料もある) その後、一男・太郎大明神は、下野国河内郡の小寺山(現在の宇都宮二荒山神社近くの下宮山)に遷宮し、若補陀落大明神と号し、社壇の南の大道を通る者は下馬の礼をせず、秋毫の誤りがあれば、神が怒り刑罰がある。そこで瑞がきを北の山に遷す。 この「宇都宮二荒山神社」には、この後、宇都宮に寄った所で行くけど、日光やここ鬼怒川より、だいぶ東よ(^^ゞ→地図T かの二荒山の松ぜんは内宮の儀を隠し、この如意峯の叢祠は外宮(豊受大神)の理をあらわす。内証(内心の悟り)外用(外界での働き)と同じだが、和光同塵(仏が一時的に智を隠して、煩悩の塵に動じて衆生に縁を結ぶ)の本誓において、当社はなお優れている。 境は結界ではないので、五障とされる婦女も足を運び、縁を結び、四重(殺生・窃盗・邪淫・妄語)の悪人もたなごころをあわす。 魚類や鳥類・獣類なども、捕って食う事が却って彼らの救いとなり、菩提の岸に送り届ける。大慈悲の方便は、藍は藍より出て藍より青し。 中世は女人禁制ではなかったという事だろうか(^_^;)。。確か江戸期の日光にも「女人禁制」の歴史があったハズだが、場所によるのかな(^_^;)。。 承平の将門の乱では、賊の首を伝え、正一位の尊号を贈り、(平将門・安倍貞任・平家一門・藤原泰衡・蒙古など)五ヵ度の征伐に、この神の力が発揮され、代々の聖主、家々の将軍も崇敬した。 五つの征伐戦をカッコ内に記したのは、「宇都宮大明神代々奇形瑞之事」というものに、そうあるらしい(^^ゞ。 この内、二番目以降の安倍氏(前九年の役)・平家・奥州藤原氏の討伐には、多くの武家が「先祖が参戦した」と謳う事が多く、しかも全て清和河内流源氏(源頼義・義家・頼朝)を総大将としている戦いである。 対して、筆頭に「平将門の乱」を上げ、特に、「将門の首」に追加言及してる点は注目される。この事は後述したい。 西向き、女峰(女体)山方面。見えるのは手前の山かと思うけど(^^ゞ
社壇は四神相応、青竜を川東に、白虎を道西、前に池水を深く湛え、神竜あざとを九淵の底に隠し、後ろには山巌高くそそり立ち、霊亀の形を一嶽にあらわし、地景は非常に優れ、祭礼の霊験もあらたかだ。 春渡冬渡の祭礼は、公家の勅願で始まり、3月は稚児による延年舞、5月の会式も、武将の祈念から始まった。重陽宴の菊水は、神前の水に浮かび、秋山飾り(大湯神事)の紅葉は、質素な供物の細やかさを象り、吾田屋もりのなる子(鳴子)の綱は、長く天の邑併せ田(日本書紀神代)の昔の跡をしのび、御狩司の鈴倉のかがり火の影は、ほのかに卜部かたやきのふるい言葉を残す。 以上で、取り合えず「日光山縁起(下)」を終わる。 お疲れ>( ^^) _旦~~ 「日光山縁起」には、室町期あたりの説話と言うか、物語草紙のソースがあちこちに散りばめられていて、色んな見方が出来て楽しいと思う(^^)。 「たわごと」で取り上げた話だと、父子二代で充分な筋立てに思える所を、なぜか祖父・父・子の三代が出て来る点や、畿内から陸奥に下向する点、三代目の母が一夜の相手をした土地の女だったり、容姿の難が出て来る点、血縁に蛇が絡む点などは、「田村草紙」(室町時代)「田村三代記」(江戸時代)の流れにとても似ている。 (2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降) 他にも旅の苦労話や、その途中で死んで蘇生する話は、わりと色んなソースで見掛ける(^_^;)。たわごとで出したのだと、小栗判官、安寿と厨子王、瀧夜叉姫などがそうだね(^^ゞ。 (2010年10月<「小栗城跡」周囲をウロつく(小栗判官の話)>内および、2009年5月<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>内) この後、鬼怒川を経て宇都宮に出る。日光山縁起の話はそちらでも続けよう。 <鬼怒川で昼食・「とりっくあーとぴあ日光」>
この鬼怒川沿いのテーマパーク街って結構南北の距離があって、間に鬼怒川ライン下りや、温泉旅館やホテル、足湯やレストランなど、自然の景観と恵みを生かした観光施設を間に挟みつつ、折々にテーマパーク施設が並ぶ。 北から、「人形の美術館」「相田みつを心の美術館」「花いちもんめ」「東武ワールドスクウェア」「グランデ・イソーラ」「江戸村」「3D宇宙・恐竜館」「とりっくあーとぴあ」「猿軍団」「竹久夢二美術館」と続く……。
私は前から興味があったので、それなり味わいながら見たが、亭主は入るやスグ「サッサと出る」動きに転じ(笑)、トイレに入ったり、座れる所で休んで、長々と時間を潰していた。 雨続きと昨夜の事故の疲れもあったんだろうが、感想も良くなかったね(^_^;)。 まず値段。大人1800円は高過ぎる。撮影自由で、撮り放題という点を容れても、500円以内だろう(^^ゞ。 この値段でも入ってしまう理由は、すぐ近くの「東武ワールドスクウェア」(地図U)の入場料2500円にある。一見高いが、入って見ると、なるほど「東武ワールドスクウェア」には匹敵する価値があった。 2006年1月<東武ワールドスクウェア><現代日本ゾーン> 2006年2月<アメリカゾーン><エジプトゾーン><ヨーロッパゾーン><アジアゾーン> 2006年3月<東武ワールドスクウェア「日本ゾーン」> ↑は、亭主も凄く興味深く見てたよ(笑)。物凄く手が込んでたもんね。確かに安くは無いけど、ディズニーランドなどと同じく、複数回行く気になる場所だと思う。 引き比べ、こちら「とりっくあーとぴあ日光」は、高い料金を払って入るや、一定人数が集まるまで溜めておかれ、時間を無駄に使わされたあげく、案内人が現われ誘導するが、これがまた……(^_^;)。。。 派手な身なりの女性が客を見下しながら、けたたましい声と勿体つけた喋りで、時間をたっぷりかけて、ゆっくりゆっくり「展示絵の見方」を説明する。言われた位置をちょっとはみ出すと、神経質に注意して来る(^_^;)。。 しかし必要ない(^_^;)。。展示物の周囲に書いておけばいい。人件費が無駄(笑)。 ただ、これは最初の10分ぐらいだったかな。後は解放され、自由に見て廻れる(^_^A)。 駐車場のバカ広さに比べ、展示会場の狭さ、展示物の少なさも気になる(^_^;)。場に飽きた子供が駆けまわるんで、何度もアチコチでぶつかった(笑)。 あと食事する店はない。到着してから遠くまで飲食店を探し、食べてから戻って見た(^_^;)。 こちらは騙し絵効果↓ 同じ面に描かれたクジラの絵を……
あと、上下を横に倒した背景を作り、人が宙に浮いてるように見せる空間とか、エジプトのピラミッド内の謎めいた空間などもあったね(^^ゞ。
↑畑仕事中のオバサン風でスイマセン(^_^;)。雨続きで濡れてばかりいたんで、この旅行はずっとタオルを離さず、着衣も湿気でくたびれて、こういうスタイルだった(笑)。 それでも亭主、さんざん面倒臭がりながら、やっとこの1枚を撮ってくれた(笑)。 「見る」より、こうやって写真に写して、後で見て楽しむ場なんだろうね(^^ゞ。 お客さんはみんなその辺を割りきって、絵の前でそれなりのポーズをつけたり、仲間や家族を撮ってワイワイ楽しんでたけど、廻りを盛り上げるために頑張ってる人もいた(汗)。 この手の体験ごっこ(合戦ごっこもそうだが)って、ちょっと気疲れするよね(笑)。写真で見て楽しそうに見える物って、必ずしも現地で楽しい思いが出来る物とは限らない(^_^;)。。 あ、そうだ。正面からの写真が無いよね。撮ってなくて、スイマセン(^_^;)。 「とりっくあーとぴあ日光」正面:日光旅ナビ版/JTB版/MAPPLE観光ガイド なぜか、あまりマトモな正面写真が無い。。なぜだろう。別に正面は何も問題ナイよ?(笑) 日光市など公式観光では、全く取り上げて無い(^_^;)。。まぁ民間の施設だから、それも納得かもしれないが、上の同じ観光サイトでも、これが「東武ワールドスクウェア」だと、日光旅ナビ版←こうだもんね(^_^;)。wikiにも載ってるし、雲泥の差(笑)。
121号線は鬼怒川温泉から今市までの間に二本通り、さっきも行った通り、各種テーマパークが点在する中を、さらに南下しきった所に、「日光宇都宮道」(高速)が東西に伸びている。 <宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」> だいぶ雨脚が強くなって、空は暗い(^_^;)が、まだ日暮れの時間にはだいぶ早い。 地図V←今市IC。これより高速に乗って宇都宮に向かう。
さっきの「日光山縁起」に話を戻す(^^ゞ。(日光山縁起→冒頭(上)(下)) 「日光山縁起」は、成立が室町後期と言われる。途中の神戦(猿丸と大蛇と百足の戦闘)の部分は南北朝に成立した「神道集」にも見られるそうだが、先ほど示した通り、文末近くに蒙古襲来(元寇)を思わせる記述が見えるので、早くて鎌倉後期といった所かと……。 一方、書かれている話は、いつの伝承か。文字通り、「聖武天皇の頃」だろうか? 山形県の山寺(立石寺)の近く、千手院あたりに、「磐司磐三郎の墓」があるそうで、磐司の祖父を「藤原良継(馬王)」、父を「猿丸大夫」、母を「山姫(香取明神磐比主命の子孫)」とするらしい。 (磐司磐三郎については→2009年1月<対面石と対面堂>内および、2月<立石寺(山寺)、仁王門〜三院〜三堂>内を) 「藤原良継」をwikiで調べたら、716〜777年という事だった(スイマセン手抜き調査で(^_^;))。 あと「馬頭御前」を「馬王」とするのは、「二荒山神伝」(林羅山)だから、江戸時代に考証した結果、聖武天皇の神亀5年(728)あたりに相当する人物を充てたのだろうか(^_^;)。 ウッスラ思い当たる節がある。 藤原良継の父は、藤原宇合である。同じく日光山縁起の馬頭御前(馬王)の父は、有宇中将である。 岩波書店の日本思想大系には、わざわざ「有宇中将」なる名乗りについて、「俊寛の子、有王の名を連想させられる」と注釈が振ってある。 最初「それが何なの(>_<)。ワケわかんない!」と思ったものだが、ツラツラと時代を見る内に、思い当たった(笑)。 藤原宇合+有王=有宇中将←こう言いたいのだろうか(笑)。 つまり、聖武天皇の頃に名を借りたが、実態は平安末の人物であると(爆)。 だいたいこんな所から、この後に日光山の大自然の話を交え、徐々に攻めて行く(^^ゞ。 (字はこの色で書くので、下のも注目して見てってね(^^))
↑正確に言うと、「男体山」「大真名子山」「小真名子山」「女峰山」と、四つの山が並んで見えるようだ(^^)。 この後に訪れた、「栃木県立博物館」で購入した「展示案内」の本に、山の形と名前が対比して書かれていたから、間違いない♪ ちなみに、「太郎山」は、この位置だと「男体山」の裏になって見えないんだね(^_^;)。 さて、宇都宮に到着。降りたインターは宇都宮だったかな、鹿沼だったかな(^_^;)。 行く先は→地図W、今も言った、「栃木県立博物館」ね(^^)。 街中に入ると渋滞ぎみで(^_^;)、なかなか博物館に近寄れず、近付くと今度はナビの示す位置が微妙で、入口を入り損ねて裏に廻ったり、道を探して時間をロスしたが、何とか中に入った。
日光山は、まず「神橋」(輪王寺の南「大谷川」に架かる・地図S)のある地域、標高600mから、日光の大自然地への入口となる。 そして、中禅寺湖一帯の森(地図X)↓は、標高1300m、湖の周辺に行くと落葉広葉樹が増え、動植物ともに種類すこぶる豊富になる。 中禅寺湖の落葉広葉樹林
中禅寺湖は、元は魚のいない湖だったが、明治以後、姫鱒や川鱒が放流され、その一部が自然繁殖するようになった。 標高1400m、やや上がった湿原(戦場が原など)は、中禅寺湖あたりとともに、現在、乾燥化と増えすぎた日本鹿による食害が深刻なのだそうだ(^_^;)。 天敵の日本狼が絶滅したため日本鹿が増え、笹を食べ尽くしたあげく、他の木々の幹の樹皮まではがして食べるため、枯れてしまう木が多く、以前より花も激減したという。。 (ちなみに、日光そのものの風景は、2005年2月<金精峠〜日光へ>以降および、2005年4月<日光・明智平>以降、を見てネ♪) 「日光山縁起」の最後の方に、「魚類や鳥類・獣類なども、捕って食う事が却って彼らの救いとなり、菩提の岸に送り届ける」とあるのを、一瞬「都合のよいこと言っちゃってぇ〜(^。^)」と笑って読んだ(笑)。 ところがこないだ、日本各地で鹿の食害が進み、僅かな有志の捕獲や狩猟に頼ってきたものの、捕れた鹿は殆ど埋めるしかないので、今後は猟銃家の老化や引退もあって、少しでも料金化していくため、食肉化を模索している、という話をやっていた(゚.゚)。 同じ問題は日本に留まらず、今世界で「ジビエ料理」が注目されているんだとか……。 一定の動物の数が増減する事は、これまでもあったかもしれない。 意外と猿丸のような狩猟が行われていた頃には、こういう問題も解決できていたのかもしれないね(^_^;)。
シカは古墳時代の円筒埴輪にも絵が描かれている。鹿の絵が描かれる事はよくあっただろうが、この地域の物は、雄と雌の二匹が交互に描かれ、古墳を悪霊から守ると信じられていたとか、王による鹿狩が重要な儀式であったから、という説が言われているそうだ。 そういう鹿を、ただ埋めているというのは……(^_^;)。。殺すのは仕方ないとして、せめて食って我々の血肉と金に代えてやる方が、確かに鹿も報われよう。 みんな、鹿を食べよう\( ̄□ ̄)/! 鹿は低カロリーで癖が無くて美味しいよ! さて、日光の山岳地帯の続きを……(^^ゞ。 戦場ヶ原からさらに上がって、標高1500〜2300m、白根山の中腹からは常緑針葉樹の深い森となり、動植物の種類がドッと減って、一定の生物に占められる。(立体模型では、真っ黒い熊が大きな木によじ登っていた(^^))
後は「撮影禁止」区域なので、写真はここまで( ^^)× 歴史編も人間の時代を迎え、古代・中世・近世・近代・現代と、急いで展示を見て、何とか見終われて、これまた急ぎ足で売店に行って、大急ぎで郷土本を見繕い、アワアワと数冊購入(^_^A)。 外に出ると、道路は都内のような混み具合。亭主ちょっと閉口しながら(笑)、今度は「宇都宮二荒山神社」へと急行! 「日光山縁起」と下野国の話も、そちらで続けよう(^_^A)。 <宇都宮二荒山神社> さっきも出したが、地図T←「宇都宮二荒山神社」(^^ゞ。 下野国一之宮だそうで、大手の神社で駐車場は広いし、結婚式場のような会館はついてるし……ってわけで、まず駐車場……神社の裏手と言うか、中途半端な場所から入った(^_^;)。正面には最後に行くわね。 博物館でタップリ時間を取ったので、さすがにここに到着した時は、日暮れギリギリぐらいで、途中から夜になるよ(笑)?
登り口に「おたりや堂 三番」と書かれた説明版があった。 氏神が、12月15日に冬の神、1月15日に春の神として、「おたりや堂」に来て、田楽を鑑賞するという(^^)。 境内では「どんど焼き」を行ない、古い縁起物やお札を燃やした火に当たると、風邪をひかないと信仰されている。
「宇都宮二荒山神社・太々神楽」の事が書かれていた。江戸中期から続く神楽で、江戸の神田流の流れを、「宮比流(みやびりゅう)太々神楽」と称している。1月・5月・9月の28日に奉納。江戸期は老若男女で埋め尽くされた。現在も保存会によって芸能が守られている。市無形文化財。 他に、桐生に生まれ、宇都宮の高校を出た川柳人、前田省郎(1897〜1960)の句碑もあった。著書・刊行に「俳諧と川柳」「柳多留序文の研究」「川柳探求」など。 「夢の中 古里人は 老いもせず」 この前田雀郎や、これより行く昭和天皇お手植えの楠木の他にも、文人の句碑・歌碑・記念碑など、16碑があるようだ(^^)。 特にそう書いてはなかったが、宇都宮は、鎌倉期に歌壇を形成して名を高めた宇都宮氏の地盤なので、歌や句の碑が特に多いのかもしれない。 これより、その宇都宮氏の事を書いて行きたい(^^)。 そして、この位置が正面。中央奥に拝殿(パノラマ5枚180度以上)
この辺り↑から入っちゃったみたい(^^ゞ
「日光山縁起」について、よくよく各所で、二荒山神社の神主が小野氏で猿丸の子孫だから、古代の小野氏が云々……という話を見掛ける。 しかしさっきも触れた通り、「小野猿丸」は、古い文献では「オンサラマ」であって、「小野」ではない(笑)。(日光山縁起→冒頭(上)(下)) また、猿丸の子孫と称する人々は南会津地方の狩人に多かったらしいから、神職や特定の氏族に限った伝でもなさそうだ(^^ゞ。 「猿丸大夫」の名も、古くは平安末〜鎌倉初期に編まれた「小倉百人一首」に、 「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は哀しき」 に見るが、これには特に「小野」なる姓は無い。 しかもさらに古くは古今和歌集にもあるようで(゚.゚)、これは知らなかった(^_^;)。wikiにそうあるので、その解説によると、元は「読み人知らず」とされた歌だったようだ。 また、日光の伝承としてよく説明される通り、この縁起が語られたのは「中世」の神仏習合、すなわち鎌倉期以降であって、古代に遡れるかは怪しいと言わざるを得ない(^_^;)。。
藤原秀郷の子孫の、例えば小山氏あたりを強く意識する存在となると、それはやはり宇都宮氏ではなかろうか(^_^;)。 ここ「宇都宮」に、日光と同じ「二荒山神社」がある事自体、この氏族を疑う余地はあるし、俗説かもしれないが、「二荒」を音読みして「日光」となった、という説もあるようだしね(笑)。 と言うのも、さっき「猿丸大夫」で見た「小倉百人一首」は、当時すでに歌人として名の高かった、宇都宮頼綱が深く関わって成立した、とも言われているからだ(^^ゞ。 この二荒山神社のすぐ北に(この後行くが)、その居城、宇都宮城跡もある。 場所については、これまた日光山縁起の後半に、先に見た通り、「一男・太郎大明神は、下野国河内郡の小寺山(現在の宇都宮二荒山神社近くの下宮山)に遷宮し、若補陀落大明神と号し」とある。 話の筋から太郎は「馬頭御前」(馬王)だろう。「補陀落(ふだらく)」は「二荒(ふたら)」の事と思われる。 左が奥の本殿、右は手前の拝殿。右脇から撮影(^^ゞ(パノラマ3枚ほぼ180度)
宇都宮氏は、秀郷流と同じ「藤原氏」出身を名乗りつつも、初代「宋円」なる人物に謎が多過ぎる(^_^;)。。 関白・藤原道兼の曾孫と称されているが、その正体を「天台座主」とも言い、「日光座主」とか「宇都宮座主」とも言う。つまり貴族出身でありつつ、僧侶でもあったというのだ。 (例えば出羽のこんな所に居たり、ね……(^_^;)→2009年3月<羽黒山・山頂>内) また、その後に続く宇都宮氏にも、不透明な部分が多い。 宋円┬宗綱−−−┬朝綱 └中原宗房 ├寒河尼(頼朝乳母・小山政光妻・結城朝光母) └八田知家(義朝の子?) このように、中原氏や義朝の子を養子とした、などという話もある。 さらには、院政期ごろの北下野には、奥州藤原氏との往来からか、街道筋に富が集積されやすく、源姓、藤姓の他にも、橘姓、紀姓など、多くの根の全く異なる氏族が、各々に宇都宮の一族を名乗り、競合していた可能性が見られると言う。 左から、稲荷社・楠木・明神の井・(神輿車庫?)・女体宮・本殿(パノラマ4枚180度以上)
もしかして、中原や八田といった、後に頼朝の開いた幕府で活躍する面々については、何かそういう事(養子入りとか)が必要だったのかも(^_^;)……なんて思ってみると、ついでに、「藤原宋円」なる人物も、やはり日光や比叡山といった「天台系の僧侶」と考えてしまう方が、いっそ無難ではないか……とさえ思える(笑)。 日光山は、平安後期、頼朝の父・源義朝の大いなる支援の元に、比叡山から来た僧「聖宣」(日光山別当・16代)によって、「常行堂」が創建された。 「聖宣」は何らかの事情で、比叡山における修行が続行できず、比叡山の法灯を伝える事に強い使命感を燃やして日光を訪れ、「常行堂」の落成供養に至った祝いか何かだろう、比叡山から常行三昧に使用する袈裟を賜り、その御礼の書状を、1158年付で書いている。 これが日光山・輪王寺における最古の記録らしい。 源義朝は平治の乱(1159年)に敗れて、1160年には死んでしまうが、日光ではその後も、この聖宣によって、「常行堂」に加えて「法華堂」も作られ、勝道上人の創建から続く「中禅寺」、真言系の拠点「滝尾社」と並ぶ勢力基盤となって、天台勢力が広がった。
1177年、聖宣の跡(別当職)をめぐって、二人の弟子が争い合う。 一人は、小山三兄弟(朝政・長沼宗政・結城朝光)の大叔父・大方政家の子・隆宣。 もう一人の禅雲は、那須氏の出身というのだが、那須は頼朝の旗揚げ当時は、平家方に味方してたようでもある。 両者とも、俗の血縁勢力を呼び込んで合戦に及んだので、日光山の堂宇が多く焼失したそうだ(^_^;)。。。 禅雲が争いに勝って、17代別当職に就くが、後に隆宣が18代と23代、その弟・弁覚が24代、そのさらに弟・性弁が25代の日光山別当職になっている(^_^A)。
そして、1177年、後白河院の近臣が、比叡山の末寺・白山涌泉寺を焼いた罪で、院により流刑となるのだが、その罪を訴えた比叡山座主・明雲も追放・所領没収となってしまう(^_^;)。 明雲は伊豆に流される所を、天台宗徒らが近江で奪回して比叡山に帰ったので、後白河院は平清盛に比叡山攻撃を命じる。 清盛は承諾しつつ、なぜか流刑された院の近臣の兄を捕らえる(^_^;)。。これが「鹿ヶ谷陰謀事件」ね。 元々、平家の清盛が抜擢されたのは、比叡山など大勢力の寺社への武力介入が期待されたからなんだけど、清盛ら平家は、既に比叡山と仲よしこよし ( ^^)人(^^ ) だったんだね(笑)。 院はそこがムカついてたヽ(`Д´)ノだろうし、清盛も内心ヤベェと思ったんだろう(^_^;)。。大騒ぎで疑獄事件を起こし、反平家勢力を一掃して、比叡山攻撃の一件を……つまり、ウヤムヤにしたわけだな(笑)。 後に後白河院を幽閉するに至る、いわゆるクーデターの折になると、清盛は明雲をチャッカリ天台座主に復帰させている(^_^;)。
この「女体宮」は、祭神を「三穂津姫命」とし、効能も、縁談や出産など、女性の体の諸願を成就させる神……としているが、このように小さいながらも頑丈・立派で、しかも本殿に一番近い場を占めてる辺り、やはり「日光女体権現(女峰山)」を彷彿とさせられる(^_^;)。例祭日は10月22日の午前10時。 他に、ここには「十社(県内式内社の神)」とあって、「素戔鳴尊・天兒屋命・味秬高彦根命・武甕槌命・豊城入彦命・大山咋命・事代主命・下照姫命・譽田別尊・日本武尊」が、ドッと合祀されていた。 宇都宮二荒山神社のサイトを見ると、ここから少し離れた各所、境内の内外に、この他、「東照・剣」の各宮、「荒・松尾・十二・菅原・十二・須賀・市・水」の各社が末社とされている。 宇都宮二荒山「神社の起源」(「宇都宮二荒山神社・二荒山会館」より) 境内の絵地図も丁寧に書いてあるよ(^O^)!
地図T←「宇都宮二荒山神社」(さっきも出した地図だけど)。 今度は改めて正面から入り直すが、すっかり暗くなって(^^ゞ、あまり写りが良くなくてスイマセンm(__)m。 でも、外は丸きり大都会で、街の灯りも明るく、夜空に向かって聳える真っ赤な大鳥居は、ビル街の谷間に、すこぶる存在感を放ちながら立ちつくしていた。 「鹿ヶ谷陰謀事件」では、有名な俊寛をはじめ、内外の大勢の者らが逮捕・処分されている。 そこで、有宇中将に、俊寛の子「有王」が云々……という話が出るのかな、と(^^ゞ。 平安末期は、中央の権門と結びついて権益を確保しようとする動きが、全国規模でひしめいていたから、「鹿ヶ谷陰謀事件」の後、何かと平家が武力行使を誇示して恐怖政治に陥って行くと、その影響は全国に及んだ。 渦中の中心にいる比叡山の支寺・日光山における勢力争いも、何らか中央の様相と連動していた可能性は高い(^_^;)。
下野国は、古代には藤原秀郷流の、いわゆる「藤姓足利氏」が主流となって力を伸ばしていたが、平安末、平家に味方したため衰退し、没落する。 かわって同じ秀郷流から、それまでどちらかと言うと日蔭の存在だった「小山氏」が、頼朝の御家人として台頭した。 また、この小山氏と、同じく幕府御家人として「宇都宮氏」が出る。「八田」という名で出て来る事も多い。 頼朝の乳母・寒河尼は、宇都宮(八田)宗綱の娘で、小山政光の後妻に入り、小山三兄弟(朝政・長沼宗政・結城朝光)の母となった。 結城朝光は確実に寒河尼の子であり、父は頼朝とも言われている。←ここ意外と重要☆ミ 何かそういう所から、「日光山縁起」における、「朝日の姫君」や「馬王」に、寒河尼をはじめ、日光山の支援者であった義朝・頼朝の影が潜んでいるような気がしなくもない(^^ゞ。
1180年の頼朝の挙兵に際し、逸早く駆け付け、最も早く認められた御家人は、相模や上総・下総・武蔵と言った、南関東の豪族たちが多かったが、下野国の小山朝光(結城)の名もある。 朝光の二人の兄、朝政と宗政(長沼)はやや遅れたようだが、翌1181年、政子が頼家を生んだ時には、長男の朝政が出産三夜を勤めた記録が見える。
以上の通り、豊城入彦命が下野・上野の国に来て、四代後の奈良別王が下野国の国造となって創建に至った事を、神社の由緒としている。
この「豊城入彦命」は、上野・下野国の古代豪族「毛野氏」の祖神とされており、宇都宮氏も毛野氏の流れと見る説がある。 確かに、平安末における唐突な出方、そのくせ現われた瞬間から一定の勢力を保持している点など、個人的には、素地の部分として有力視できる説に思えている。 鎌倉に本拠を築き、関東をほぼ従えた頼朝は、1182年、頼朝の従兄弟(母の兄・熱田大宮司・範忠の子)の観纏を、日光山19代別当職に就けた。 禅雲(那須氏)を退かせて、押し込んだのである(笑)。 しかし宗徒の反発を買って、観纏は山を降りる結果になったという。 「日光山縁起」の話も、↓「宇都宮城」で、いよいよ大団円(^^)。 <宇都宮城址公園> ↑にも行ってみよう(^^)。宇都宮二荒山神社を出て、駐車場まで街中を歩き、車で行った。 宇都宮城は、実は古くは藤原秀郷が建てたとも言われるらしいが、代々の宇都宮氏が居城し、改易後も江戸期を通して城はあった。 ちなみに、「宇都宮天井事件」は後世の脚色らしいが(笑)、本多正純の城だった時期があったのは史実(^_^;)。 が、戊辰戦争で戦場と化し、市街地ごとボロボロに焼かれ、残りも片付けられて跡かたもないが(^_^;)、今は公園となってて、何やら建物も建てられて、夜でも入れて良かった(^^)。
話は頼朝の時代に戻る。 小山朝政(長男)が登場し、長沼宗政(次男)が所領を得る活躍を得たのは、1183年「野木宮合戦」を起源と見る。 志田(三郎先生)義広が暴れまわった当初、叔父ゆえに見逃していた頼朝も、鹿島神社の神領横領を聞くに及んで、敵意を明確にし、義広が鎌倉へ攻撃に出るルートに、小山兄弟が出向いて撃退した。 >鹿嶋大明神(常陸国一の宮)に頼んで、軍(いくさ)評定をした。 >日光権現が鹿嶋大明神に相談すると、鹿嶋大明神は、 >「奥州の御孫、猿丸大夫は立派な弓取りだ。 >彼に頼んで、本意を遂げられるべきだ」と助言した。 鹿島神社の権益が侵された事は、兄弟やその叔父(寒河尼の弟)八田知家の武功に益したとも言える。小山兄弟が手勢を出し、武功を上げた時、八田氏も参軍しているようだ。 宇都宮(八田)知家は、常陸に領地を保持したもんね(^^ゞ。(2007年5月<筑波山神社>内) 茨城県の筑波神社に行くと、八田氏の祖としても豊城入彦尊が祀られ、そこでは毛野氏の一族であると示されていた。
その八田氏が義朝の子と言われるのも、寒河尼が頼朝の子を産んだと言われるのも、日光山縁起の裏に義朝・頼朝の影を感じる点だ(^^ゞ。 >権現は、下野国では日光三所、常陸国では鹿嶋大明神として現われた。 >過去は夫婦だった。 さらには、敵となった志田義広とて、元を辿れば義朝の弟であり、頼朝の叔父。同じ源氏だ。 日光の神や猿丸が戦った敵・赤城明神(百足)も、宇都宮二荒山神社の祀る豊城入彦命を祭神としているそうだから、「神戦」の伝説は、下野と上野に分かれた毛野氏の同族争いと見る向きもあり、こんな所も、縁起と重ねられようか……。(日光山縁起(下)) では、「猿丸」には誰が該当するだろう。
猿丸が当初いた「あつかし山」とは、奥州藤原氏との唯一の戦闘(1189年)が行われた阿津賀志山と思われ、頼朝の鎌倉勢に益したのは、同族(秀郷流)の奥州藤原氏を打つべく、小山朝光の急襲であった。衝突した敵味方の両軍ともに苦戦が続いたその時…… >この時、小山朝光が会津方面にコッソリ向かい、山越えして背後から急襲。 (2009年4月<阿津賀志山防塁>内) という事があった。まさに、猿丸のごとく飛び入ったんだね(^^ゞ。 この時点では「小山」姓だが、名前から見ても、結城氏の初代「結城朝光」の事だろうから、これを頼朝の子供と見れば、義朝の孫になるよね(笑)。 さらに振り返れば、有宇中将が前世、誤って母を殺してしまい、死にゆく母が我が子が五逆(の一つ、親殺しの)罪に問われる事を嘆くシーンも、義朝が父・為義を斬罪に処すのに、この五逆罪に当たると云々する場面を思い出す。 すると猿丸を日光へ導く「女体権現」は、「寒河尼」あたりか、「祖母」という点からすると、義朝の妻(熱田神宮家)、すなわち日光山19代別当職・観纏の叔母?(笑) 公園中央。おおっ、何やら立派な櫓台が!(パノラマ4枚180度以上)
その観纏が日光山を去った後、頼朝は1186年、下野国の寒河郡の土地を寄進し、やがて1192年に征夷大将軍となり、鎌倉幕府を正式に開くと、日光山も幕府と緊密な関係を築くようになった。 鎌倉においては、権威ある寺社として、まず鶴ヶ岡八幡宮を第一等、そして義朝の菩提を弔った勝長院を第二等とした。 この勝長院と日光山の別当職は、鎌倉時代に始まり、室町時代に至るまで兼任とされた。 はじめは小山氏など、幕府の有力な御家人の家から出たが、やがてさらに格が上がり、摂関家や将軍の子弟などが就くようになった。日光山では「光明院(輪王寺の前身的な呼称)座主」などと呼んだようだ。 「日光山縁起」が、鎌倉以後に成立した物語だとすれば、同じ下野の、しかも日光山に要職を出した小山氏を、全く意識しなかったとは、ちょっと思いにくい(^_^;)。 と同時に、日光の二荒山神社は、一介の幕府御家人の手には届かぬクラスに押し上げられてしまったので(^_^;)、そこで宇都宮に先祖「豊城入彦命」を祀って、ここ宇都宮城の守りとした(か、元からあったのなら保持した)のかな……なんて想像も浮かべてみたが、さて、どうだろう(笑)? 塀の上には左右に再現された二つの櫓(パノラマ3枚)
塀とその上に建つ、↑二つの櫓台の他は、廻りは広い広い芝生(^^)。昼は緑が綺麗なんだろうね☆ミ 宇都宮氏にとっても、寒河尼は妹であり、叔母であり、大叔母であり……と、はじめ小山氏とは血縁関係から仲が良かったし、その後も婚姻関係はちょくちょく継続された。 が、次第に各々張り合うようになっていった。 小山三兄弟(小山政光の子)の真中、長沼氏などは、惣領家でないから当然とも言えるかもしれないが、宇都宮氏に押されて、北関東から南会津方面に出て行かざるを得なかった感がある。 一方の宇都宮氏にしても、「将門の乱に勝ち、名を残したのは藤原秀郷だったかもしれないが、そのように加護したのは下野の神仏であり、下野の民の助力……」という思いがあったかもしれない。 また、両家は血縁の誼から、同族と言ってよい時代もあった……という思いもあっただろう。 その宇都宮氏も、南北朝時代には南朝につき、北朝についた小山氏に遅れを取ってしまう。 それが観応の擾乱で、足利尊氏×直義の兄弟が争い合うと、宇都宮氏も尊氏につく。 下野国は尊氏・直義にとって地元であるから、尊氏には相当ありがたかったのだろう。宇都宮氏はここで挽回基調に乗った。
やがて南北朝後期には、両家とも一族や家来の領地争いが原因で、互いに戦い合うまでに対立する。(小山義政×宇都宮基綱) この対立が原因で、当初は調整的な立場を借りて、合戦停止を命じていた鎌倉公方(2代)足利氏満が、片方の小山氏を討伐する事態に発展する。 南北朝は終わり、足利氏の世が定まったが、3代将軍・義満に小山義政が近付いたのに対し、宇都宮基綱は、鎌倉公方2代・氏満に接近。これも、「小山氏が鎌倉公方・氏満に目をつけられた原因」とする説もある(^_^;)。 父子二代(小山義政・若犬丸)に渡る「小山氏の乱」(1380〜82年・1397年)によって、小山氏は、鎌倉公方・氏満に徹底的に討伐され、ついに滅亡に至ったのである。 勝った鎌倉公方も、1435〜38年の永享の乱で、いよいよ謀叛を起こした(4代)持氏が討伐され、その子の成氏も鎌倉から去って、1455年、古河に座を移した。(2008年「千葉県の動乱」<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)><享徳の大乱(1454)>)
そこで、名のみでも継続しようと留守職を設定し、小山氏(滅亡したので、支流の結城氏から後継が出た)・宇都宮氏・壬生氏から、代わる代わる僧侶が選任されて就任した。 これが戦国期も継続され、家康が関東に幕府を開き、1613年に天海僧正を日光山の別当に就けるまで続く。 ちなみに、この時期の壬生氏を探した所、室町期に現われた壬生胤業をwikiで見付けた(^^ゞ。記述によると「公家でありながら武芸を好んだ」そうで、これまた有宇中将を思わせる(笑)。 私の知る限りでは、「壬生氏」と言えば、古代に円仁を出した氏族を思い出す。これまた毛野氏を母体とすると言われ、やはり豊城入彦命を祖としている一族だった。(2009年1月<対面石と対面堂>内) 家康が1616年に死去すると、家康の遺言通り、 一年後の1617年に家康の亡骸が久能山から日光山へ遷され、天海は、鎌倉〜室町時代さながらに、徳川家の菩提寺の寛永寺と、この日光山(当時は光明院)の別当職を兼務と新たに定例づけた(^^ゞ。 鎌倉・室町以上のグレードアップを図り、1656年、ついに後水尾天皇の第三皇子・幸教親王を迎えて、初めて今日まで続く「輪王寺」の称号を得た。 以後、江戸期を通じて、日光の座主には法親王が就任したのである。 下野の豪族家から始まって、摂関家や将軍家の子息を別当職に就け、ついには皇族の子弟を座主に頂くに至った日光は、今や世界遺産を冠する山へと雄飛している(笑)。 やはり鹿の食害問題を解決せねば、もはや世界の恥ではなかろうか(爆)。 以上をもって、「日光山縁起」と、「日光山」(常行堂→光明寺→輪王寺)とその支援者・義朝に関わる話を終わる。 <オマケ(^。^)。埼玉県「見沼温泉」> 到着。日帰り温泉の駐車場。真っ暗(笑)(パノラマ3枚ほぼ180度)
地図Z←東北道、岩槻インターで下りて、埼玉県さいたま市見沼区の日帰り温泉「見沼天然温泉・小春日和」(^^)。 ずいぶん暗いけど、さすがにここに着いた時はすっかり夜中だったし、どこも節電してたからね(^^ゞ。
ジックリ浸かって、確か夕飯もここで食べて、あとは残りひとっ飛びで帰宅した。 翌日から、歯医者に行ったり(笑)、例の土砂崩れの後だったので、念のため車屋に見て貰ったら、膨大な修理費を見積もられてしまい(汗)、しかし修理専門の店に行ったら、「問題ナイですよ」と言われてホッとしたり( ^。^) =3、何かと後に尾を引く旅行だった(^_^;)。 車も歯も大した事は無く済んだが、旅行に出る前から不調ぎみだった亭主の修理代(腰痛)で、結局はかなりの出費となった(爆)。 以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、 2005年2月<金精峠〜日光へ>以降(全文) 2005年4月<日光・明智平>(同じく全文) 2007年5月<筑波山神社>内 2008年7月「千葉県の動乱」<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)><享徳の大乱(1454)> 2009年1月<対面石と対面堂>内 2009年2月<立石寺(山寺)、対面石〜根本中堂〜山門>内および、<立石寺(山寺)、仁王門〜三院〜三堂>内 2009年3月<羽黒山・山頂>内 2009年4月<阿津賀志山防塁>内 2009年5月<恵日寺(いわき市・瀧夜叉姫の墓所)>内 2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降 2010年10月<「小栗城跡」周囲をウロつく(小栗判官の話)>内 2011年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内以降 2011年6(5)月<川治温泉で一泊(#^.^#)>および<「平家落人民俗資料館」「平家集落」>内 2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内以降 2012年5月<南会津方面に向かう>内および、<川治〜野門、土砂崩れに遭遇(爆)>以降 以上で、「山形〜福島〜栃木編」の最終回を終わる。 お疲れ>( ^^) _旦~~ 次回は、日常編に戻るんだけど、例によって写真ばっか溜まってて、実はまだ全然先が見通せてない(^_^;)。 年末年始は越えて、今年1月までには入って来られる思うんだけどーーー!! 2012年06月24日 |
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