<2008年・城主のたわごと11月>




2008年5〜9月、2回シリーズで下総水域を北から南に!

今回は、鬼怒川・利根川・古利根川・手賀沼の北岸までを(^^)。




     
  ■2008年5〜9月・茨城県常総市〜千葉県我孫子市

2回シリーズで近隣レポを駆け足でお送り♪
主に下総北部の水流(香取海)西側を巡る。時期は5〜9月と、素晴らしくバラバラだが(笑)、場所は北から南にジワジワ行く。

前回までの「将門ツアー」でも書いた通り、「下総」は今の茨城県の南西部と千葉県の北部が該当する。
茨城県から千葉県に入ると、まず利根川に出会う。次に古利根川に出会い、やがて手賀沼に至るが、この手賀沼もさらに南に水流が伸びている。

今回が北は茨城県の豊田城から、南は千葉県は手賀沼までの「手賀沼北岸湖北)編」を。
次回が北は手賀沼から、南は葛西・鎌ヶ谷辺りまでの「手賀沼南岸沼南)編」を(^^ゞ。

千年前の霞ヶ浦・利根川・手賀沼・印旛沼→

上は、手賀沼の「道の駅」で撮って来た写真(^^)。
こんな具合に繋がってる昔の状態を、よく「香取の海」などと言うが、今回レポは、左側の血管のように水流が集まって見える辺りが相当する。



<茨城県常総市「豊田城」(石下町地域交流センター)>

まずは「将門ツアー@茨城」から戻って来なくてはならない(笑)。
でもまだ常総市の「豊田城」が残っているので、これをまずお届けする(^^)。
時は、5月GWと7月の二度に渡って。

国道294号線を筑波に向かってた途中に見えて来た、ミョーな建物(笑)。地図A

↑この建物を過ぎるとスグ交差点になってて、左折してスグ右側に「妙見八幡神社」があった(^^)。↓
妙見八幡神社」→
「妙見」は千葉氏や相馬氏の守り本尊なのだが、その妙見に関わる伝承がこの土地にも伝わっているので、それは豊田城に着いてから話そう♪

そしてこのまま、さらに294号線を進んで、またスグの「石下高東」交差点を左折し、最初の信号を右折すると、いよいよ「豊田城」が見えて来る。↓地図B

ド〜ン!「豊田城」(^^)
正式名「石下町地域交流センター

冒頭で出したあの櫓っぽい建築物との関連性(全部が同時に作られたのかとか)は詳しく知らないが、この豊田城の周辺には、ああした櫓がアチコチに点在してて、ネット上でもよく散見するので、全部で幾つあるのか、ぜひ常総市に発表して貰いたい!(笑)

城の前にド〜ンと立つ「長塚節」(近代詩人)の像。→

9月にも話した通り、この地域には「豊田」と名のつく城や城跡が、私の把握する限りでも三個はある(^_^;)。

一つは8月のレポ最後に出した「豊田館将門公苑)」、ここは将門の館があったと推定される900年代の後、これから紹介する「豊田氏」が居城した「向石毛城」(1000年代以降)でもあった場所。

二つ目は今いる「豊田城」で、上記の「豊田氏」が1000年代以降に「若宮戸」に居住したのに由来して作られている。
今あるのはモチロン模擬天守で、何より他の「豊田」と名のつく城跡との区別上だろう(^_^;)、正式には「石下町地域交流センター」とも呼ばれる建築物(笑)。

三つ目は「豊田城址」と言い、子貝川流域に城址の石碑があり、1000年代以降に基盤したこの豊田氏が、1300年代ごろに「新たに作った城」で、戦国期(1500年代)にもその名を現す。ここもその内に行ってみたい(^^)。
←城内の案内図
同じ絵地図が入ってる「図録」が、お城の中でも買えるよっ(^O^)。

石下町は西(左)に飯田川と東仁連川、中央に鬼怒川が流れ、その間を北から南に「常羽御厨の兵馬調練馬場跡(8月レポ)」「下総国庁跡」「将門公苑(豊田館跡・7月レポ)」「将門一族の赦免供養碑(9月レポ)」「将門一族の墳墓」がある。
東(右)には小貝川(子飼い川・蚕飼川)が流れ、鬼怒川との間には北から南に、「豊田四郎の供養塔」「石毛城址」、この「豊田城(地域交流センター)」、そして「豊田城址」がある。

この豊田城、「将門の乱」の後が間が飛んで、イキナリ「豊田氏」の登場になるので、前回からの繋ぎも含め、「将門の乱」の後の話もちょっとしよう(^^ゞ。

まず、父の国香を殺されながら、貞盛が一度は将門と仲良くしようとしたのは前に書いた通りだが、この貞盛と将門が結局は戦いあう事になったのが「承平・天慶の乱(将門の乱)」だ。

その将門が討伐された後、将門の怨念を恐れてどうこうと言った話より、むしろ将門討伐の勲功を主張(争奪)しあう図が展開された(^_^;)。。

その中の地味な一人が、この豊田氏の祖・平繁盛ではなかろうか。
この平繁盛は、将門を討伐した平貞盛の弟である。
ちなみに繁盛の子孫と言えば、たぶん豊田氏より大掾氏などが有名(^^ゞ。

「将門記」には平国香・貞盛の父子しか名が出て来ず、後にこの辺りに子孫をばら撒く、この「繁盛」は出て来ない(^^ゞ。同じように後にこの辺りに子孫を広げる国香の弟「良文」も出て来ないが、こっちの二人の方が、その後の地域史としては重要だったりもする(笑)。

この繁盛は後年になって、
「自分も将門討伐のため命懸けで戦ったのに、(藤原)秀郷や貞盛ばっか官職を得てますよね〜。自分だけハブセにされて今日を迎えてるんですがぁ〜」
といった愚痴を太政官に送っている。

つまり「将門記」にもあった「(秀郷・貞盛以外の)土地の人間は善悪の区別なく辛酸を舐めた」という一例に入るだろうか(^_^;)。。

無論こういう事は必ずしも本人の主張が正しいわけじゃないだろうが(^_^;)、実際どれだけ功績があったかはともかく、在世中に年齢まで大きく偽る事は出来ないので、陣に加わる年齢には達していたのだろうし、父・国香を殺され、さらに兄の貞盛が将門に追われる中、弟の繁盛が、少なくても将門についたとも考えにくい。

将門を討伐して以降、貞盛流は伊勢に行ってしまうが、貞盛はこの繁盛に常陸における土地の権利を譲ったと言われる。
こんな愚痴を言ってる弟・繁盛に対し、兄の貞盛は「ごめんな〜俺だけ、じゃあ常陸お前にやるわ〜(^^ゞ」とかいう背景があったのかもしれないね(笑)。

また繁盛の子供は少なくても二人は貞盛の養子とされており、よく「貞盛流」と言われる子孫には、実は繁盛の子孫が入ってるわけだ(笑)。

そこから見る限り、この兄弟が仲が悪かった感じもしないから、やはり繁盛は兄を援けるため積極的に将門討伐に精を出したんだろう。

じゃあ「苦難の兄を一生懸命に助けたのに、その兄(貞盛)一人に功績を奪われた可愛そうな弟」とだけ見るかと言うと、その後が何かと生々しい(笑)。繁盛は同じ書状の中で、おもむろにボヤキの続きをこう繋げる。

「せめて比叡山にお経を奉納したいんですが、色々と邪魔する奴が居ましてねぇ」と主張の矛先が変わるのだ(^_^;)。。

「邪魔する奴」とは誰のことかと言うと、これが従兄弟の「忠頼」の事だったりする(^_^;)。。

┌国香┬貞盛=維幹(養子)
|   |     ↑
|   └繁盛−維幹−為幹−繁幹−政幹−成幹(豊田)
├良兼−娘
|    |
├良将−将門
├良正
└良文−忠頼忠常−常将−常永−常兼−常重常胤(千葉)

つまり「将門の乱」が、「将門」×「貞盛」という従兄弟同志の対立だったのと同じく、将門の死後も、やはり「忠頼」×「繁盛」という従兄弟同志の対立が続いてるワケ(^_^;)。

だから繁盛は太政官あてに、愚痴ブー垂れるのに乗じて「(将門の時みたいに今度も)忠頼追討令ちょーだいネ(^。^)v」とお願い(運動と言うべきか)してるわけだ(笑)。

忠頼への追討はどうなったのか知らないが、忠頼の子、忠常が「平忠常の乱(1028〜1031)」で討伐された時、やっと繁盛の系譜が見事この地の勝利者となりえたかと言うと、実は忠常を説得&降伏させたのが、あのチクリ魔・源経基の孫・頼信(これも義家や頼朝の祖)だったりした点が、この関東地方の面白い展開

ふぅふぅ一気に喋ったら、ちょっと疲れた(^_^A)。お茶でも飲みながら、お城の最上階(7階・展望室)からの風景を見ておくんなまし。( ^^) _旦~~

南西(パノラマ4枚・180度以上)

以下、上の写真で右に見える風景が、その下の写真では左に出て来るよっ♪

北西(パノラマ4枚・180度以上)

北東(パノラマ4枚・180度以上)

南東(パノラマ4枚・180度以上)

この屋上に出る最上階の天井には、大きな龍の絵が描かれていた。ちょっとこれの説明をしよう。

やがて「前九年の役(1051〜1057)」を迎え、陸奥の安倍頼時・貞任への追討に、繁盛から出たこの「豊田氏」の祖「豊田四郎」も赴き、真っ先駆けて戦功を上げ(阿武隈川の先陣)、康平5年(1062)、鎮守府将軍に就くとともに、この豊田の地もゲットする(^_^A)。

その時までにも、この地域に住んではいたらしいんだけど、公的には遂に土地の領有は認められなかった、という事かね?

この「豊田四郎」は、「赤須四郎」「石毛荒四郎」「大掾政幹」と異名が多い(^_^;)。この中で「大掾」は、この「政幹」の兄の系譜に引き継がれてるので、先代までに引き継がれた「大掾氏」を一時名乗った、という事だろうか。一般的な系図では、この「政幹」の代は「石毛」とされてると思う。
平氏(国香流)系図(^^ゞ←又々急遽作成(笑)

しかしそれより興味深いのは、この時、豊田四郎が戦功を上げた原因が、ナント妙見菩薩が夢に現われ「今だよ突っ込みなさい」とお告げをしたので、走り出したら、掲げた旗から飛び出した龍が乗せてくれて敵陣まで届いたというのだ!

ちょっと待って下さい、妙見菩薩というのは、千葉氏の守り本尊だったはず(^_^;)。そして千葉氏の主張では、千葉氏に来る前は、将門の守護神でもあったハズ。
つまりアナタ達が長い間揉めてたハズの、将門・忠頼・忠常の守護神に当たるのを、そりゃ一体?!

実は……ですね。。
豊田四郎(石毛政幹)という人は、自分の娘を千葉常重に嫁がせていたのです!(笑)

つまりですね、妙見菩薩は、娘婿と孫(千葉常胤)を伝って、この豊田氏にも味方する事になったのでぃす!

千葉常胤の生年はハッキリしていて、平清盛と同い年の「1118年」(^。^)。
ここから「前九年の役」に遡るとなると、お母さんが、豊田四郎(政幹)の60歳前後ぐらいの時に出来た娘、と考えないと計算が合わない気がするけど、まぁギリギリ有り得ない線でもないかなぁ?(^^ゞ

となると、「戦場で妙見のお導きが先にあって、千葉常重とは、その後で縁付いた(から、むしろ千葉氏の方が妙見の加護に相乗りした)」と考えた方が良くなってしまうけどね(笑)。

いずれにせよ、さっき通った「妙見八幡神社」も、この謂れと関連してるんじゃないかな♪
そしてこれが豊田氏に長く伝わる「蟠龍旗(ばんりゅうき)」という龍の絵が書かれた旗の謂れで(^^)、その後は、「神旗」として後冷泉天皇より賜わり、名も「豊田四郎・平将基」と改め、この城の最上階天井に龍が書かれるわけだ。

平将基……ナニその将門の縁類っぽい名乗りは(爆)。

将基は、長男・広幹を「将門公苑」と同じ場所の「向石毛城」に、二男・成幹を「台豊田」に配し、後三年の役(1083)には……これも息子かな、政綱を北茨城市の豊田城址に配して、豊田33郷・下幸島12郷の他、筑波郡西部まで領有。

お昼の豊田城
夜ライトアップ(ちょっとブレたが(^_^;))

この豊田氏、頼朝の幕下にスンナリついてる所を見ると、結局、伊勢平氏を一緒になって討ったのだろうか(^_^;)。

と言うのも、その後は威勢の良さしか伺えず(笑)、将門の頃も名馬の産地だったという古間木・大間木から頼朝にも馬を献上し、馬牽、騎馬、随兵など引き連れて奉公。寺院造営では雑掌奉行にも任じられるなど、ずいぶん名を上げてたようだ(笑)。

この豊田氏の没落の記録と言えば、宝治元年(1245)、三浦泰村の乱(宝治合戦)に連坐によって勢力を失った時だが、それでも建長5〜8年(1253〜56)に、北条時頼によって、豊田氏の祖「豊田四郎」が供養され、同時に平将門への赦免を得て慰霊が行なわれるようになった事は前回書いた通り(^^ゞ。

その後、1300年代に小貝川流域に今ある「豊田城址」の辺りに、12代豊田善基が「豊田城」を築き、その子・治基が整備。
その後の南北朝以後の記録は不明だが、戦国期には、向石毛城(将門公苑)は関館氏の一族、武蔵守が支配し、豊田城の支城として拠点していたようだ。

天守の敷地を出てもアチコチに……
城郭風の建物が(^^)

そして、この地にも戦国時代が到来する。
19代・豊田政親小田政治の娘を妻とし、政親の子・治親政重・政忠は、いずれも政治の娘の生んだ息子だったようで、小田氏と敵対関係にある、下妻の多賀谷氏の南進を防いでいた。

永正年間(1504〜1521)の向石毛城(将門公苑)は、城主の(武蔵守)宣重が、要害のため大改築を行ない、複数の見張塚を設けて、豊田城と呼応して守備したが、下妻33郷を勢力下におく多賀谷氏は、佐竹氏と結んで、小田・豊田の両域に侵入。

そこで、天文元年(1532)、政親は「石毛城」を築き、二男・政重に分封、豊田本城の前衛としたが、天文年間(1532〜1554)、多賀谷勢が向石毛領に侵入。
北辺の前衛・四の塚(杉山)は全員討死。三の塚、二の塚も破られ、本城に知らせる間もない内に、正月の祝宴の隙を突かれて焼き打ちされ、向石毛城は落城。

自刃した館武蔵守(向石毛城主)の嫡子・播磨は外舅の古間木城主・渡邊周防守の元に落ち、重臣の増田、松崎、大類、斉藤、草間、軽部らは石毛を頼ったが、後に石毛城は降伏、廃城となる。

天正3年(1575)、豊田氏20代(22代とも)治親は、多賀谷氏に内通した家臣・飯見大膳に毒殺され、豊田城落城。
後に飯見大膳は、豊田氏家臣らに取り戻され処刑されたと言う。

将門の「承平の乱」でも、良兼の甘言に乗って将門を裏切り、内部情報を通報した「子春丸」というのがいて、この時は将門が勝ったものの、やはり子春丸は処刑されている。
同じような事が繰り返されて、土地の人々はきっとこの事を思い出したと思うな(^_^;)。。

翌4年(1576)、古間木城も多賀谷政経の攻略する処となり、城主の渡邊周防守は討死、向石毛城主の子・播磨は多賀谷に降った後、仏門に入り、向石毛城址跡(現・将門公苑)に般舟山法輪寺を再建し、祖先の菩提を弔い中興の祖となっている。

また、さっきの「蟠龍旗」だが、多賀谷氏との合戦の折、敗走で松の木に置き忘れてしまい(>_<)、でも今でも放光寺に所蔵されてるという(^_^A)。

石毛地方は多賀谷氏(6万石)の支配を経たが、多賀谷氏は関ヶ原の合戦(1600年)に佐竹氏とともに西軍に投じて敗戦となったため、領地を没収されて、慶長8年(1603)より幕府の直轄領として統治された。



<千葉県我孫子市「利根川ゆうゆう公園」>

千葉県に戻って来た(^^ゞ。まずは利根川。

県道我孫子利根線(千葉県側)
利根川側「利根川ゆうゆう公園」入口

地図C←こんな所(^^ゞ。ここは千葉県我孫子市だが、茨城県からやって来ると、将門ツアーでちょくちょく出した「取手市」より南に位置する。
大河近くの空間を使って、緑地と自然を活用してる施設が地図に見られ(^^)、この広大な敷地を「利根川ゆうゆう公園」として、我孫子市都市部公園緑地課が管理している。

公園は大まかに分けると、西が「自然観察ゾーン」、真ん中が「スポーツゾーン」(地図だと「利根川運動公園(野球場)」)、東が「ファミリーレクリエーションゾーン」と「自然緑地ゾーン」(地図だと「自然野草園」)がある。

その中で、地図上でも目立った名にもなってない「ファミリーレクリエーションゾーン」をわざわざ選んだ理由は、「城跡じゃね(^_^;)?」とおぼしき遺構っぽいシルシが地図に見られたからなんだが、来てみて特に形跡を認められなかった(つーか絶壁近くの密林だったので行くのをやめた)から、ここでは「茨城県から南下して来ると、まず利根川に出会う(^^)」という雰囲気を出してみよう(笑)。地図D


来たのは8〜9月ごろだったと思う。↑今だいたい「現在地」あたりに居て、これより利根川にせり出す「親水護岸」という水上ステージに向かうが、遺構っぽさが地図で確認できるのは、左端にあたる。

←「親水護岸」に向かう。反対側は「県道我孫子利根線」に上がる土手→
(パノラマ4枚・180度以上)

利根川の流域じゅうを公園化するとなると、かなりの広さで、管理も大変だろうと思うが(^_^;)、そこにズンジャカとビルが立ち並んで一般人が全く近寄れない空間とするよりは、こうして緑地や川の景観を保ち、市民の憩いの場としてくれてる方がいいと思う♪

水上ステージ「親水護岸」(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑って事なんだけど、階段状の観客席とおぼしき石の合間から雑草がっ(笑)。
「使う時だけ手入れするのか、作り掛けでバブル破綻したのか……」
「って事は、千と千尋の国に行ける船が来るかも!」←どうすれば、そういう発想になれる

ステージに行ける通路を進むと
途中から道が草に埋没!

「千と千尋と言うよりは、耳なし芳一のステージに繋がってたみたいね」
「琵琶ライブで芳一のシャウト(絶叫)が聞ける、真夜中の水上ステージ」
「平家の亡霊が、さっきの観客席(草葉の影)から声援(干戈の声)で応える」
「周りをライト(鬼火)アップして、雰囲気ありそうだよね〜利根川」

↑いつまで、そこに居る気でしょうか。。 *ベベンベンベンベン*

「オフロード自転車コース」(パノラマ4枚・180度以上)

↑ここは川岸から少し内側に入った広場の一つで、わりと使ってる人が居た。
勢いつけてジャンプ台でクッと自転車を飛び上がらせたりして、なかなか楽しそう(^^)。



<千葉県我孫子市「龍崖城」(将門の乱・伝承地)>

我孫子市は北を茨城県取手市と接し、県境は利根川である。
市は東西を横長に位置し、それをさらに横にスライスするようにJR成田線が通って、西から「我孫子」「東我孫子」「湖北」「新木」「布佐」の駅が並ぶ。

さっきの「利根川ゆうゆう公園」は、「東我孫子」から「新木」までの間を北に広く敷地しているが、さっき行った「ファミリーレクリエーションゾーン」あたりは「新木」の北に位置する。我孫子市の中でも東端である。

今度は少し南の内陸に入り、この「新木」駅に行くまでの間「新木野」に来てみた(^^ゞ。8月ごろだったと思う。地図E

町内にある公園から写す(パノラマ3枚・ほぼ180度)

千野原靖方サン著「東葛の中世城郭」によれば、この付近には「龍崖城」跡があり、これは「龍崖山」にあった、と言う。
「あった」となるのは、同書によれば、土地に伝わる城跡の土塁や空掘跡が存在したのは、1965年ごろまでで、現在は一帯が削られて平地となり、完全な住宅地となっているからだ。

ただ、その工事の時だろうか、鎌倉末期の1322年7月の銘が入る板碑が出土したというから、かなり古くからあった城跡と見て良いのではないかと思う。
また土塁や空掘があったという事は、鎌倉時代の後も、水運や水流に関わる軍事の拠点だったとも考えられ、同書は布川の豊島氏(牛久城にも名が出て来た)の支配下だろうか、と可能性を示唆していた。

城跡の位置についても推定されてるが、今は一般の住宅街なので(^_^;)、ここでは「周囲のだいたいの雰囲気(^^)」を伝えるに留めたい。

新木野の南にある丘陵「気象台記念公園」↓
登ってみる→

というのも、偶然なのだが、この辺りを訪れた時、折しも町の「夏祭り」が行われていたのだ(^^)。

登り口を振り返る
続きをさらに行く
途中、後方にまた階段

この分岐した後方の階段を上がると屋台も出ていて、町内の皆さんが集まって、お祭りを楽しんでいた(^^)。

登り道の途中に見える新木野の街並み(パノラマ3枚・ほぼ180度)

先にあげた資料で、「龍崖城」は今は住宅地に埋没した一帯にあったとされ、それは「東葛飾郡誌」に記される位置とは異なる。
「東葛飾郡誌」にある城跡の位置は、1493〜1521年ごろ顕著に史料にあらわれる「布佐城址」を混同しているそうだ(笑)。「布佐城址」は、1400〜1500年代、古河公方家の家臣・布佐豊島氏の城と推定されている。
が、残念ながら、こちらも明治時代に平地化され、今のJR成田線が敷かれて、同様に住宅地となり、遺構は残ってないという。

一方、こちらの「龍崖城」があったという「龍崖山」(↑今ざっと見える新木野市街のどっかね(^^ゞ)は、鎌倉時代より前にも、将門の乱の後期「天慶の乱」(939〜941)で戦死した城主・栗巻弾正の妻が入水した、という伝説が残り、水神や龍神にまつわる伝承もあるという。
さらに登ると公園に到着→
この公園自体、小高い丘陵となってるので、「あそこも城跡では」とか目をつけるんだが(笑)、何かの城跡と説明されてるのを見た事がなく、ここに「気象台観測所」が作られたのを記念して、市民公園としてオープンしたのだろう。町のみんながお祭りやスポーツなどを楽しむ様子が見られた(^^)。

広々とした平地の展開する市民公園(パノラマ4枚・180度以上)

ここに登れば、昔あった「龍崖山」あたりをざっと見渡せるので、ここに登って街を見たり、龍神パワーをキャッチするのも良いのではないかと思う(^^)。
ちょっとそんな気分をそそらせる具合に、登り口からの通路と言い、どこか城跡公園っぽい作りになってるのも気が利いていると思った(笑)。

広場の横に続く森林道
さらに高くから見下ろす龍崖山跡?

公園から見れる町が、ピタと昔の城や山のあった場所に相当するかは、ちょっと何とも言えないが(^^ゞ、さらに高くに登ると、こうして街の向うの丘陵まで見えて、確かに気象観測の場に相応しいんだろうな〜と思った。

この龍崖山に伝承される「将門の乱」の悲劇は、実際にその通りの事があったのだとしたら、その後に相馬御厨になったこの地には、「将門側としてともに戦って戦死した人が居た」という事になるわけだが、モチロンその史実性については、伝承だからいつから出た話なのかも含め、何とも言えない(^^ゞ。

しかし注目するのは、「承平の乱」ではなく、「天慶の乱」と伝わっている点で、少なくても「自分達は最終的に勝利側ではなく、敗戦した側に属する」という伝承である点かな、と思う。

つまりこの地が明確に将門の勢力だったとまでは至らないまでも、「将門記」を見ても、一族や郎党が家族生き別れとなり、四散しまくって辛酸を舐めた話が書かれているから、将門が敗死した後、落ち延びて来た人から伝わってる可能性ぐらいはあるのかもしれない。



<茨城県取手市「龍頭山・常圓寺」>

↑あれ? 何、千葉県に戻って来たんじゃないの? と思われそうだが、実は利根川の南にも茨城県の区域がある(笑)。
それがこの「小堀」と言われる一帯で、地図で見るとこうなっている→地図F(どうでもいいけど、この「東我孫子カントリークラブ」って、どっちの県に納税してんのかな)

「だいたい」は茨城県と千葉県の県境は「利根川」なんだが、このように県境が飛び出ている所もあって、逆に千葉県の方が茨城県に利根川を越えてる地域もある→地図G

ここでは、この小さな区域の中で見付けたお寺をレポしたい(^^)。
まず、「利根川ゆうゆう公園」の利根川と反対側を通る「(県道)我孫子利根線」を、ちょっと西に行くと、この「小堀」の辺りに差し掛かる。今はコンビニ「ローソン」がある辺り(笑)。県道をチョコっと小堀に入ったトコ(^^ゞ。

こんな感じにチラッと社の一廓っぽい緑がある。→
ここが「龍頭山・常圓寺」。

来たのは、やはり8〜9月ごろだったと思う(^^ゞ。
このお寺の本尊は「不動明王」で、元は千葉常胤(1118〜1201)の守り本尊だったと伝わる。

桓武天皇−葛原親王(高明)−高見王と続いた後、平城天皇より平氏を賜わった高望王から坂東に下って、国香・良兼・良将(将門の父)・良文などの男子が、それぞれ関東に割拠した事は、ちょくちょく書いて来た。

ここの寺伝では、千葉氏に繋がる良文を「三男」と書いている。
また、この良文は「村岡五郎」と称し、「下総千葉」に居城したとも伝え、常胤は良文の八世の孫とあり、千葉に生まれたので「千葉介」としたとも言う。

元々、常陸や房総は、蝦夷やら俘囚の反乱やら討伐で出兵頻度が異常に高かったし、その後は将門の乱やら忠常の乱やらで戦も多かったが、常胤の時代は今度、保元・平治・源平争乱・奥州合戦など、イキナリ名立たる合戦の多い時代になる(^_^;)。。

なので常胤は、ある出陣の時、この守り本尊の不動尊を、兜の底に頂き置く事にした。
そのうちに天災の仕業か、所々の陣中で病が流行り、多くの者を悩ませた。
しかし常胤の千葉家では、主従が一緒になって不動尊に帰依し、その加護によって病気にかからずに済んだ(^O^)。

ところが野陣していたある夜、みんなが仮寝を取っていたら、敵はコッソリ幕外に草を積み上げ、突然、焼き打ちをかけ、陣中にまで多数の矢を射掛けて来た。
が、焼き打ちされて出口が炎で塞がれてるため、みんな逃げ出す事すら出来なかった!!\(>o<)/

そんな時、陣の上空に不動明王の霊が忽然と現われ、雲を起こし、雷を招いて、暴雨が車軸を流して降り募り、炎はたちまち消滅!! 敵は十方へ散乱してしまった(^O^)。
以来、千葉家では累代の大将が、必ず不動明王を肌身放さずお守りにした。

↓左の方から車で入って来た。道路側には石塔が続き、奥には墓地↓
(パノラマ4枚・180度以上)

↑の反対側↓には参道に祠が並び、お寺の建物が建っている↓
(パノラマ4枚・180度以上)

常胤より19代「勝胤」が居城を構えた「本佐倉」が手狭になって、「佐倉鹿島山」を開築して居城としたのが「佐倉城」となった。
戦国時代の初期は、千葉氏は北条早雲とは疎遠だったが、天正時代(1573〜)になると、和睦を結んで北条氏の婿の立場となっていたため、不幸にも天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐の時には、北条側として小田原に参陣、湯元口に詰めていた。

しかし小田原は落城、ついていた大小名も戦死したり離散を余儀なくされた。
時の千葉氏の当主・重胤も居城だった佐倉城が上方の勢力に取られてしまってるけど、自分達の本国なので房総に戻って来て、下総に隠れ潜んで侘び住まいしていた。。
郎党達は旧臣・椎名左京亮などのみで、残りの兵は大勢が離散した。。

千葉重胤が重病にかかってしまい、寛永17年(1640)6月16日、椎名左京に「常胤公の頃から伝えられる、この不動明王が何度も危難から助けてくれた事を、お前も知っているだろう。自分は平癒の見込みがないから、自分が死んだら、必ずどこでもいいから一社を構え、この明王を守護してくれ」と頼んで、息を引き取った(;_;)。。

椎名右京亮は出家して、常圓と改名。主家の菩提を弔うため諸国を巡った。

やがて常圓となった椎名右京亮が、故国を懐かしんで下総に戻り、相馬郡の岡村に庵を構えて過ごしていたある時、疫病が流行して遠近の大勢の民がバタバタと倒れて苦しみ、見るに見かねた常圓は、主家の深遠なる尊像ではあるが、この不動明王像の霊験を説いた所、それを拝んだ者達は忽ち病が治った(^O^)。
こうして遠い者も近い者も、みんなが再び、この不動明王像を崇拝するようになった。

この小堀河岸は、新地開発の地で鎮守など無く、ついに村中の衆が評定の上、「お不動さまを村の鎮守にお願ぇしてぇ!」と頼んだ所、常圓も「その方が重胤さまのご遺言に沿う事だと自分も思う!」と了承してくれ、明暦元年(1655)、この小堀に引き移り、一宇を構えて、改めて「龍頭山」と号し、常圓の名をそのまま祖として「常圓寺」と名付けた。

自身は悲運にありながら、父祖や郎党らへの恩恵を忘れなかった千葉重胤も、多くの人のため主家の不動明王を譲った常圓も、みんなのために霊験を近隣に伝えた相馬郷の人々も、ちゃんと千葉常胤からの話のまま伝え続けた小堀の代々の人々も、みんなで太鼓判を押す不動明王(^^)。
特に疫病平癒と火災・急な危難除けには、地域や血族や時代をも越えて、抜群の霊験があるのだっ(^O^)。



<古利根川(茨城県側)>

ところで、どうして利根川を越えて小堀地区だけ茨城県なのかと言うと、昔の利根川は小堀地区の北ではなく、南を流れていたのだ(^^ゞ。

それが明治40年代(1907〜)に始まった利根川の改修によって、小堀地区が利根川本流から分離され、ここだけ利根川の南に、今の茨城県から孤立したように見える形になったわけ(^_^;)。

しかしこの小堀の水流と河岸は、「小堀河(おおほりが)」と呼ばれ、歴史的に大きな役割を果たしていたのである。

江戸時代は流通に水流が利用され、多くの船が行き交っていたが、その中でも年貢米を運ぶ船は特に重視され、各領の領主たちは、年貢米が江戸まで円滑に運搬されるよう、特別に念を入れていた。

ところが利根川は渇水期になると、この小堀から関宿までの浅瀬が災いして、年貢米を運ぶ高瀬船の航行が困難になる事が多かった(>_<)。
←利根川から南に入った小堀地区。

そこで領主たちは渇水期になると、銚子から江戸へ向かう高瀬船から、積荷を分載して「艀下(はしげ)船」を利用した。

と言っても、艀下に使われた船も高瀬船だったらしいが、「艀下」という名称は、単に舟の違いにつけられる名称とは違うのだ(^^ゞ。
その分載する河岸の事を、他と区別して「艀下河岸」と呼んだが、これは関宿と、この小堀にのみ認められていた。

小堀河岸には、荷物の運搬にあたる船持とよばれる人びとと、船や荷物の差配を行う河岸問屋(船宿)など、効率のため分業が発達し、年貢米の運搬という絶対不可欠な作業だったためだろう、各領主たちは、渇水期には小堀河岸の特定の河岸問屋に、この「艀下」の提供を求めたという。

だから遠く上野国(群馬県)あたりからも、この小堀に「艀下稼ぎ」に来る船があったといい、文政4年(1821)には、小堀河岸じたいの船が70艘に対し、他所から稼ぎに来る船が100艘と、大層な賑わいを見せる現場になったのである(^^)。

そのため小堀地区の「艀下河岸」の名が、利根川にも江戸川にも広く知れ渡り、小堀河岸の位置づけは舟運の中でも、他とは違う特異なものとなっていった。

しかし明治29年(1896)に常磐線が開通。物資の輸送は次第に鉄道に取って代わられ、明治40年代(1907〜)からの利根川の改修により、小堀地区は分離し、水運と艀下で名を知られた小堀河岸の役割は終わりを告げた。。

しかし実は今でも、小堀地区の南に両端を堰き止められるような恰好で、昔の利根川の一部が残存している。

古利根川を茨城県側から見る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

そう。それが今の「古利根川」である(^^)。
だから今でも小堀地区の所だけ、この「古利根川」をもって、茨城県と千葉県の県境が存在するというわけ♪

↑ここは、この地域の人が釣り人などに、善意で公開してくれてる釣り場(^^)。
今ではコンクリートにガチンガチンに固められたり、地下を通されてしまう川が多い中で、昔ながらの自然な風情がそのまま残っている貴重な空間♪

この「古利根川」については、この先、千葉県に入ってからもちょくちょく出て来るよっ(^O^)。



<千葉県我孫子市「芝原(中峠)城」>

↑に行ったのは、逆にクイ〜ンと遡って、確か6月ごろ(^^ゞ。
ただ場所としては、今行って来た小堀地区より古利根川を僅かに隔てるのみで、ほんのチョイ先(笑)。
ただ、この古利根川がこの辺りでは県境なので、ここから千葉県我孫子市に入るってだけね(^^ゞ。

地図H←場所は明確なのだが、入って来る道が「こ、これでいいのかな」と思いやすいから(^_^;)、行きたい人は「1/3000」ぐらいまで拡大して見て。

国道356号線を北に平行して伸びる道を「大和団地入口」で曲がると、わりとスグ←の標識に出会う(草に隠れてるからよく見ないと(^_^;))

←コレね。上から「波除不動尊」「古利根沼」「芝原城跡」「古利根公園・自然観察の森」という標識。これの示す通りにスグ右折して、何しろ真っ直ぐ真っ直ぐ行って左にある。

車ならスグだけど、歩くとわりと距離があると思う。。道さえ間違わなければ、この辺り一面を覆う森が見付かるし、公園になってるから、入るのはどこから入ってもOKだと思う(ただし駐車場はナイ)。

道路の左に見えて来る森(パノラマ4枚・180度以上)

↑ちなみに道の反対側(右側)は普通の住宅街(^^ゞ。

で、この森、入口らしき所が数箇所あるが、奥側には散策コースみたいのがあり、その手前には「中峠城址庚申塔」と一緒に石仏が祀ってある。↓

中峠城址庚申塔
対面側の下り坂むこうに見える丘陵

右の写真の通り、城跡の対面側は今は住宅地となっているが、城のあった頃はこの地区も城内の縄張りで、調査を行った頃の区画図には、そこまで地図に描かれていた。

又、この下り坂の向こうに見える森……あの辺りにも何か遺構のようなシルシが地図には見え、実は最初、あの森の周辺で、長い事ウロウロとこの城跡を探していた(^^ゞ。
一城としては、あの森まで距離があるので、支城でもあった森かな〜とも思ってみたが……(ちなみにこの辺は「史料にナイ城跡」がウジャウジャあるとも聞く(^^;))。

←では中央の入口から入る(^^)。鬱蒼とした森林道↓

この入口、「自然観察の森」と書かれた石が建ってて、「こっちは公園で、城跡は別(^_^;)?」と一瞬思うんだが、進んでると城跡の案内版が出て来て、そこの遺構図と後で帰って見た地図が一致してるので、ここでいいんだと思う(笑)。

遠い側面に土塁っぽい土盛が見えて来たり(パノラマ2枚)

城の敷地は元は三角形をしていて、西の頂点をT郭(本丸)とし、中央を南北に分けてU郭、東も南北に分けてV郭と連結方式によって構成されてるが、U郭とV郭の南側を住宅街にするに当たって、昭和49年(1974)に発掘が行われ、土塁や空掘などの正確な見取り図が取れ、土器や陶器も出土した。

T郭の西先端部にも人家があり、根古屋の地名が残り、V郭には建物を建てた痕跡が認められず、大手口があった可能性も考えられる。

案内版によると、今は住宅造成によって壊滅した部分が多いが、それでも我孫子市内の中世城郭の中では形を保ってる方だと言う。

前方(パノラマ4枚・180度以上)

案内版には「芝原城中峠城)」とある。
この二つの城名、同じ所にあると思ってなかったので、「同じ城なのかっ(^^ゞ」と初めて思った。この辺りには他に「柴崎城」というのもあって、何かとややこしい(笑)。

この城に「河村氏」が居た事は確実らしく、河村氏は藤原秀郷流の相模波多野・松田氏の一族で、古河公方家臣であったと考えられるが、以後「河村ナントカ」という名が色々登場するのが全部関連するかは、ちょっと判らない(笑)。

「本土寺過去帳」(松戸市)には、1532年3月に「小屋嶋」(流山市小屋か?)で没した「河村外記」が初とも言い、古河公方後継の長男・高基と、次男で小弓公方となった義明の抗争が、西下総の各地で起きていた時期から察するに、高基派と見られる河村氏も、1520〜1528年には御料所の「柴崎」「中峠」の経営を委ねられていたと推定される。

が、現地の案内版(我孫子市教育委員会)によると、ここの城主・河村氏は、元々後北条氏の家臣で相模の在地土豪だったのが、「後北条氏の(北総方面への)進出にともない、この地に移って来た」と書いている。

となると、1538年、第一次国府台合戦で小弓義明が敗死した後か……。。

古河公方家か後北条氏かによって、河村氏による在地が開始された時期にブレが生じるかもしれないが(笑)、他に後北条関係の史料には、東京都品川区や杉並区、埼玉県和光市、神奈川県秦野市にも、北条氏の「江戸衆」として、同族の「河村氏」の存在が確認されるようではある(^_^;)。

古河公方の家臣であった場合も、後北条氏が自分らの血縁・義氏を5代目・古河公方としたので、「柴崎」の「河村刑部」や「中峠」の「河村伊賀守」らも、これに従い御料所支配に携わり続けたと見られる。

1574年には、古河公方家の御料所「柴崎」の地を「河村刑部」が知行しており、この「河村刑部」が、「柴崎」東方の、この「中峠城主・河村氏」の一族と見られているが、1582年閏12月、古河公方・義氏が没すると、古河公方家の家臣らは北条氏に包括されたと見られ、どっちにしてもここで北条氏に組み込まれた事は間違いなかろう(^_^;)。。

右手に開ける明るい空間の奥は
おおおお! 古利根川だぁ〜!

地図上の配置と、来て見て公園化されてる現状から、上手く行けば川が見れるかも、と思ってはいたが、私の言いなりにただ車を漕いでる亭主は、全く予想してなかったから(こちらも期待ハズレだと悪いから言わなかったが:笑)、ここに来て大喜びっ(≧▽≦)!!

もう既にこの時点で、「そろそろ日が暮れる」とばかり、何となくソワソワし始める(笑)←湖畔に行きたいに違いない(爆)。

←さらに北の利根川に掛かる橋や通る車まで一望に出来て、何とも贅沢な眺め(^^)。
↑眼下の古利根川にはボートを浮かべて、水流を楽しんでいる人の姿も♪ こんな眺めを毎日見られたなんて、河村氏っていいな〜!(爆)

戦国期のこの辺りは、殆ど水運の取り合いばっかしてたから(笑)、今では隔離に近いこの古利根川も、昔の水流と結び付けて考えれば、ここは重要な基地であったに違いない。

そろそろ元の道に戻ろう(^^ゞ。

戻って後方(左にあるのは案内版)(パノラマ4枚・180度以上)

前方、行き着いた道を左折(パノラマ4枚・180度以上)

←左折した。このまま出口に向かう。

河村氏は以後、北条氏に従って各地を転戦し、1585年4月に「河村外記」が静岡県熱海市で没し、1586年4月、北条氏直に従い下野の佐野方面へ出陣した「河村彦四郎」が、佐竹・佐野氏らと戦って5月3日に佐野領で討死。

また1589年、「中峠城」の「河村石雲斎」「河村三河守」という人物が相次いで没している。

1590年の秀吉による小田原征伐では、浅野長政らの進攻によって、高城氏小金城大谷口城が明け渡されたのと同時に、「中峠」「柴崎」も開城されたと推測される。

土地の伝承として、この時に「芝原城(中峠城と同一だろう)」の城代・「林(伊賀守)順道」が自刃したとも案内版には記載されていた。

出口付近の森には、キャンプファイヤー用の組み立て木材があった。夏休みに使うのかな(^^)。
こちらは道路から来て一番手前の出口→

で……公園出て車道に戻ってから、元来た道を戻るんだが、この道が結構スゴイ(笑)。

切り立った断崖と
そそり立つ密林の合間を潜り抜ける

こんな感じ(^_^;)。
「ここも城の縄張りの内」という風に見ると、それなりスリリングだが、あまり大きな車は通れないから、歩きじゃないなら、さっきの住宅街から来る方がいいかも(笑)。

そして最初の標識のあった道に戻るが、そこで左折せず、さらに先に進むと……ド〜ン! 古利根川に到着(^O^)!→



<古利根川(千葉県側)>

ここがこの地域における茨城県との県境で、あの向う側が、さっき行った茨城県の「小堀」となるわけ(^^ゞ。↓

夕焼けに照らし出される豊かな水面(パノラマ3枚・ほぼ180度)

さっきの「芝原(中峠)城跡」とあまり変わらないけど→地図I

↑の左の道に出て川に沿って移動
橋を渡って広い田野に出る

古利根川の西端あたりに今来ている。かなりのデコボコ道ではあるけど、周囲は野菜とかいっぱい作ってる(^O^)。

ド〜ン!と広い田園風景(パノラマ5枚・180度以上)

そして右方向へ→。なるべく古利根川に近寄って見よう。地図J

叢の中から満面に水をたたえた古利根川(西側・パノラマ3枚・ほぼ180度

←もうこの辺りから茨城県ってトコが、何か不思議(笑)。

ここにはよく、一人で車を運転して来てる人、ボ〜ッと川を見てる人、釣りをしてる人、子連れだったりする人も居るけど、やっぱ男の人が多いと思う(≧▽≦)。
亭主が気に入ったと話したら、実家の母も「ウチ(つまり父)もおんなじ」と言ってた(笑)。

確かに今ドキ、この辺りではすっかり珍しいデキボコ道で、ちょっと向こう岸を見ると、スグ近くまで水が迫ってる風景なんて、今となっては、ちょっとインドシナあたりの風景にすら思え、本当に貴重な風景だと思う!!



<千葉県我孫子市「将門神社」(湖北)>

さてさて、鬼怒川・小貝川・利根川・古利根川と南下してきて、残るは手賀沼だけとなった。

古利根川と手賀沼の間というと、いわゆる「湖北」と言われる一帯がある。
この辺りには、手賀沼の北岸のこの湖北と、手賀沼を南に超えた沼南の、手賀沼を挟んで南北に二箇所の「将門神社」がある(^^ゞ。
沼南の「将門神社」は2005年11月の「たわごと」にも載せたが、その周辺の様子もお届けするのに、次回もちょっと追加レポを出してみようと思っている。

で、今回は手賀沼の北岸までのレポなので、湖北の「将門神社」をレポしてみたい。

今度はちょっと下って、また8月ごろ(^^ゞ。

怪しい雰囲気の8月の月夜→
場所はこんな感じ→地図K
鉄道だと成田線の「湖北」と「新木」の間で南側。この辺りは「日秀(ひびり)」と呼ばれ、将門伝承の残る土地で、又この一画の南を通る道路のさらに南は、昔なら手賀沼の水域がスグ迫っていたと思われる(^^ゞ。

団地の合間に挟まれるように
平親王・将門大明神

道路は複雑で(^_^;)、廻りをグル〜ッと廻り込むようにしか入って来れないように思った。
常総や坂東や取手以来、将門に関わる「隠されている」といった、ミステリアスでもあり、「昔は土地の人々が暴かれないよう厳重に守っていた」という雰囲気も濃い霊場の一つである。

こういう空気ごと将門伝承の一環なので、幾ら有名になっても、ド〜ン!と大きな参道を作ったりで、簡単に来れるようにしない方が良い、という気持を強く持った。

こちらは、字が薄れて見えにくいが「敷石供養塔」と書かれている。→
鳥居を潜ったスグの所に安置されていた。

じゃあ境内に入ってみよう!

入った。正面(パノラマ4枚・180度以上)

逆側、鳥居を振り返る(パノラマ4枚・180度以上)

こんな具合に周囲は閑静な団地や住宅街で、さらに周囲には田畑が広がっている(^^)。
境内の木々の梢や、正面の祠の後方に、たくさんの祠がポツポツ立っている。

正面の本祠
敷地の隅の祠(後ろにスグ団地が:笑)

ここから野田市あたりにかけては、「天慶の乱」の起こった地域とスグ隣接してるから、伝承としては色々残っているのをネット上では見掛けるものの、特に祭神の説明など案内版も一切無いのも、これまた将門関連の神社の特徴のようで(^_^;)、将門を祀る神社が出来た経緯などについては、ここには書かれてなかった。

団地と反対側は広い空き地で
何となく遺構っぽい雰囲気も?(笑)

神社の敷地からは少し離れるが、この周囲にも、将門伝承の絡んだ中世の遺構跡がちょくちょくあるらしい。そのうち又レポ出来たらしてみたい(^^)。



<初夏の花々>

今年はアジサイが特に綺麗だった(^^)。この5〜7月(ごろ)は、こんな風に手賀沼を南北に超え合って、アチコチ出掛けたが、その合間に撮った花の風情もお届けしたい♪

これが「月見草」てのは判ったが
これは何だろう(笑)! アジサイの一種かな?

真っ白なアジサイに(^^)
真っ赤なアジサイ(≧▽≦)

真っ青なアジサイも綺麗〜(#^.^#)
淡い水色のも、いかにもアジサイ!

やっぱ紫陽花だから紫かな〜とか、ガクアジサイも捨てがたい〜!

と、ほうぼうで花の彩りを楽しんだ夏だった(#^.^#)。



<千葉県我孫子市「手賀沼公園」>

さてさて、ついに手賀沼に到達(^_^A)。
今回は手賀沼の北岸(我孫子市がわ)の風景をお届けしよう〜。

手賀沼は大きいので、その周囲にはその自然の恵みを楽しむ名所や、「五本松公園」「岡発戸市民の森」「手賀の丘公園」「手賀沼親水公園」など、公園も沢山あるが、その中でも、もっとも観光スポット的なのが、この「手賀沼公園」だろうか(^^ゞ。
手賀沼の周囲を巡っていると、道路からも駐車場などの標識が見えて来て、そういう雰囲気が感じられる(笑)。地図L

行ったのは6月ごろ(^^ゞ。

公園の中でちょっと珍しいのは、下のミニチュア鉄道で、そんな広い敷地じゃないんだけど、トンネルも踏み切りも陸橋や駅もあって、子供たちを乗せて一周する(^^)。ちょっとした遊園地だね(笑)。

ここが駅。出発進行ぉ〜(^O^)/
ガタゴト・ガタゴト(後ろは公民館アビスタ)

陸橋をエイエイと渡り
チ〜ンチ〜ン踏み切り(奥は手賀沼(^^ゞ)

↑乗ってる子供たちより、周囲で大人が面白がって見てる図によく出会う(爆)。

そして奥に見えた公園に接する手賀沼北面(パノラマ4枚・180度以上)

↑公園の入口からは←こう入って来る。

←浅瀬に階段が設けられ、広い手賀沼の中でも、子供が安心して近寄れる水辺になってるのはここだけかな。その奥の桟橋にはちょうど水上バスが(^^)↓

さらに←こう進んで行くと突き出た展望スポットが(パノラマ6枚・180度以上)

↑何か面白いから、つい繋げちゃったけど(^^ゞ、これは流石に魚眼すぎで(笑)、実際の湾は、出っ張りの所で左折するぐらい全体として湖に突き出る形状になってて、中でも出っ張り部分がかなり湖にせり出しているから、右の方からはその奥(左側)を見通す事はできない。

一方、逆に右側に見える岸辺には船乗り場があって、さっきの水上バスのチケットなど買う所だろう。

駐車場から見える、貸しボートや遊覧船乗り場(パノラマ2枚)

「ウチの近くにこんな観光地があるなんて(゚.゚)」という感じ(笑)。

船乗り場近くの水草の上で、羽を休めるガチョウさん♪→

ただ、遊覧船というのは、さっきの水上バスみたいので、この日は「水生植物園」で「あやめ祭り」が行なわれていたせいか、さっきも見学客を乗り降りさせる光景が見られたが、いつでもやってるワケじゃなさそう(^^ゞ。

手漕ぎや足漕ぎの二人乗りボートなら、いつでも貸してくれるという事だったので、手漕ぎのに乗ってみた。(なみに足漕ぎは屋根のついてる、いわゆる「白鳥ボート」ね(^^ゞ)

今いた手賀沼北岸側(パノラマ4枚・180度以上)

そして手賀沼南岸側・こちらは柏市(^^ゞ(パノラマ2枚)

その間を繋ぐ手賀大橋(地図M

というわけで、何とか手賀沼まで戻って来られた(^_^A)。

以上、関連事項は、
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内
2005年11月<将門神社>
2005年12月<初詣2「神田明神」><八潮合唱コンサート>
   〃   <関宿城>
2006年1月<関宿城・周囲の「にこにこ水辺公園」>〜<宗英寺>
2006年8月<泉「三夜堂」と「おせし様」>以降
2006年9月<東京・神田明神>
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>以降
2007年7月<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り><逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年8月<神田明神「天野屋」>内〜<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>
2007年9月全文
2008年4月<柏市・手賀沼>
2008年5月<年末(^^)>
2008年6月〜「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」
2008年6月<黄砂吹き荒れる手賀沼>以降
2008年7月<牛久城跡、2>〜<逆井の梅花〜手賀沼(柏市)>
2008年7月<千葉県の動乱vol2>
2008年8月<史跡と順路について>以降
2008年9月全文

2008年10月全文




次回は、手賀沼南岸編。
手賀沼の名所の一つ「蓮の花」の群と、沼南「将門神社」とその周辺、布瀬郷の「香取鳥見神社」、葛西の「阿夫利神社」夏の祭礼、沼南高柳「善龍寺」、「小金中野牧」……まで行きたい〜!(希望的観測:笑)

<続く>

2008年11月22日
 
     





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