<2008年・城主のたわごと5月>




2007年11月〜2008年2月(^^)。まず「香取神宮」第二弾。

年末年始(七福神巡り)を挟み、2月の「麻賀多神社」第一弾。




     
  前回(4月)からの続きで、「香取神宮」の第二弾(^^)。
行ったのは2007年11月と2008年2月だけど、写真は取り混ぜてお届けしている。

その後は、ちょっと年末年始の様子などをお届け(^^ゞ。

そして年が明けて、2008年2月、「麻賀多神社」を次回と2度に渡ってお届けしよう〜♪



■2007年11月・2008年2月・千葉県佐原市■
<香取神宮・2、「本殿」>


↑前回は先に「要石」の方に行ったので、今回は本殿に行ってみる。
(現在位置もう一回提示・地図A

まずは前回も出した写真から(パノラマ4枚180度)

↑駐車場から見える石垣に囲まれたお社の一郭。前回はこのお社の敷地(左の階段)の一部にちょっと入り、その後は後方の森にある「要石」に行った。

今度はこの写真の右側、ちょっと明るい一帯が、参道から続く正式な参拝ルート。↑

正門からの参道と合流するこの辺りは、銀杏の大樹が真っ黄色に色付き、遠目にも華やかだった(^^)。

では、正門から入って来て、↑に合流してみよう。

「香取神宮」正門(^^)。

前に、ここと対で祀られる「鹿島神宮」に来たが、その時が夜だったせいか、ここ「香取神宮」はだいぶ印象が違う。
(写真ではさらに真っ暗だが、「鹿島神宮」レポは、2005年11月<鹿島神宮>を(^^ゞ)

鹿島神宮は、その内また明るい時間を選んで参拝してみたいと思うが、ここ「香取神宮」で目を引いたのは、まずは広々とした森。そして歩いてみて感じるのは、柔らかく親しみやすいフワッとした雰囲気かな(^^ゞ。

正門(大鳥居)を潜って振り返る、門前の仲見世街↓
正面・参道を先に進む→

砂利道に点々と続く灯篭たち
やがて参道を挟んで左に池地

やはり参道を挟んで右にも池(パノラマ2枚)

この「ゆったり感」は、周囲の森林からかもし出される空気なのかも(^^ゞ。
前回お届けした「要石」のある森が「旧参道」と書かれていたので、こちらからの参道は新しいようだが、この森全体は、ここが古来から信仰の場として保護されてきたため、豊かな自然が天然の状態を保っているという。

周囲の巨木には、目通り幹囲り3mを超えるスギをはじめ、イヌマキ・モミなどがあり、スギの老齢林としては県下でも有数で、学術的にも貴重なのだとか。
森の高木層はスギが占めているが、亜高木層にはスダジイ・シラカシ・シロタモなどの常緑広葉樹が多く、草木層にはアスカイノデ・フモトシダ・イワガネソウ・ベニシダなどのシダ類をはじめ、リュウノヒゲ・ヤブラン・フウランなどの草木類も数多く自生しているという。

森の全体は亀に似ていることから「亀甲山」とも呼ばれている。

また、これらの説明とともに案内版には「落葉に埋れた古道や古井戸は、往時の景観をしのばせている」と書いてあった。
これは前回通った、「要石」や「奥院」のある「旧参道」の事を指しているのかもしれない。

そして、ここが合流地点(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑左の参道から来て↑鳥居を抜け↑さっきの銀杏の巨木↑この合間で合流↑総門

楼門は二箇所あって、最初のここを「総門」と呼ぶようだ。

総門の(向かって)右側はこんな感じ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

さらに(向かって)右側はこんな風情(^^)(パノラマ2枚)

香取神宮の境内見取り図(トップページは「香取神宮HP」)←今「総門」の前にいる(^^)。

そろそろ「香取神宮」の話をしたいが、何しろ古くから続く神社だから、歴史や伝承の類や、継承されてる役職・祭祀などの文献も、すこぶる多い(^_^;)。。
何から書いたらいいのか判らないが(笑)、取り合えずは由緒にまつわる辺りから。

この「香取神宮」の祭神・経津主(フツヌシ)(別名・伊波比主(イハヒヌシ))は、「日本書紀」には出て来るが、「古事記」には出て来ない事で、色々と取り沙汰されているように思う(^^ゞ。

先に言っておくと、ここと対と言っていい「鹿島神宮」の祭神・タケミカヅチ神は、日本書紀では「武甕槌」、古事記では「建御雷」と、漢字が違っててややこしい(^^ゞ。

以下、日本書紀を青で、古事記を赤で記す。

まず、イザナギとイザナミの子にカグツチが生まれたが、火の神だったので、生んだ母のイザナミが死ぬ事件がある。イザナギはイザナミの死を悲しむ余り、カグツチを切り殺した。

まず経津主神の系譜については、そのカグツチの血液が生んだ「磐裂(イハサク)」と「根裂(ネサク)」(第五段一書六・七)の間に、「磐筒(イハツツ)」と「磐筒女」が生まれ、経津主神は、この二神の間に生まれたと日本書紀は伝える(第九段本文)。
これを社伝では「カグツチの子」として「磐裂(イハサク)」と「根裂(ネサク)」を繋げ、その後は日本書紀と同じ。

一方の武甕槌(タケミカヅチ)の祖を、日本書紀では、カグツチを切った刀の血液から甕速日(ミカハヤヒ)神が生まれた(第五段一書六)とし、また「稜威雄走(イツノヲハシリ)神の子の
甕速日(ミカハヤヒ)神の子の漢速日(ヒハヤヒ)神の子が武甕槌(タケミカヅチ)」とも伝える(第九段本文)。
これを社伝の系譜では「カグツチの子」に「稜威雄走(イツノヲバシリ)神」を繋げ、その後は日本書紀の後者と同じ。

ちなみに「古事記」では、「イツノヲバシリ神」はカグツチを切った刀そのものの名になっている。
また経津主神武甕槌神が生まれるまでの、祖父母→父母→子という過程を辿らず、カグツチを切った血から一気に全員ゾロゾロ生まれて来る(^_^;)。(神様の名前の漢字は、古事記と日本書紀ではそれぞれ違うが)

それと、「古事記に経津主神は出て来ない」と書いたけど、この建御雷(タケミカヅチ)が生まれた時、これの別名として「建布都(タケフツ)」「豊布都(トヨフツ)」と書かれてはいるが、「二神」とは分けていない(^_^;)。


こんな所が、まずは二神の出生編(^^ゞ。

では「総門」から、さらに内部の敷地に入ってみよう(^O^)/。

総門」を潜ると
また右の楼門に向かう参道が続く

ここが前回お届けした(ちょっとだけ入った社の一郭)「天降神社市神社」「馬場殿神社」と通じる敷地で、駐車場に戻るには左に行くが、これから右に向かって進む。
境内見取り図(トップページは「香取神宮HP」)←今「楼門」の前の参道にいる(^^)。

参道途中の紅葉(11月)が美しかった
これも11月(^^)

宵闇の頃
参道に並ぶ奉納品は醤油(^^)

醤油は千葉県の名産で、野田は日本で一番早く醤油作りを始め、銚子やここ香取でも作られている。この「ちば醤油」は香取(^^)。
他にNHK朝の連続テレビ小説で舞台になった、入正醤油の「澪つくし」も20〜30個並んでて、コーラなども奉納されていた。

ちょうど菊花の展示をしてた
立派な菊の花がズラ〜ッ!

記紀の神話で、次に経津主神武甕槌神が出て来る場面は、いわゆる「天孫降臨」の場面で、ざっと言うと、「地上には騒がしい悪い神がいるから」と、いきなりは降臨できず、地上に次々と使者を立てるんだが、使いに出した神たちは皆、大己貴(オオアナムチ)神に媚びたり、地上で妻を娶ったり、先に使いに行った神に射落とされたりで、何しろまともに報告もせず、帰っても来ない(^_^;)。。で、最後に使者に立ったのが……。

「日本書紀」では、神々が推薦した経津主(フツヌシ)なのだが、「経津主神だけが撰ばれて私はお呼びじゃないわけ?」と強い調子で武甕槌(タケミカヅチ)が立候補し、彼も経津主神の副使となって一緒に地上に行くのである(第九段本文〜一書二)。


一方の「古事記」では、この最後の使者には、伊都之尾羽張(イツノオハバリ)神が推薦される。これ字は違うけど、前にカグツチを切った刀の名前だったと思う(^_^;)。

この「伊都之尾羽張(イツノオハバリ)神」は、これまたどういうわけか急に名前が変わって、「天尾羽張(アメノオハバリ)神」って名前で返答し、「自分の子の建御雷(タケミカヅチ)之男神に行かせるのがいい」と言って、建御雷神が使者に決定する。


ここから先が、これまた有名な「国譲り」のシーンで、古事記では大国主(オオクニヌシ)神、日本書紀では大己貴(オオアナムチ)神……つまり大黒さんに「譲れや」と迫り、大黒さんは「息子に聞く」とか言うけど、結局譲った。

ここで平定するとされてる「葦原中津国」はどこにあるのかよく判らないんだけど(^_^;)、この時に迫った相手の大国主は、日本書紀でも「古事記」でも、二神の行き先をハッキリ「出雲」と言っている。

つまり「日本書紀」では経津主神武甕槌(タケミカヅチ)の二神で迫り、「古事記」では、建御雷(タケミカヅチ)と彼が連れていった天鳥船(アメノトリフネ)神の二神が迫って、国譲りが完了する。

ちなみにこの天鳥船(アメノトリフネ)神は、地元では神崎町の「神崎神社」で、「経津主神が東征に来た時に、案内をした神」という事になっているよ(^^ゞ。

以上が、だいたい天孫降臨&国譲り編。

こちらは「黄門桜
昼は枝ぶりが映らないので夜のを(^^ゞ

黄門桜」は貞享元年(1684)、水戸光圀が参拝の折、樹植奉納したと伝える。
他にも光圀(黄門)の伝説があり、今は枯れてしまったが、この地の大きな老杉を見て、この地に多く茂る杉の木々の母であろうと「木母杉」と名付けたという。

時代を経て、光圀より7代後の藩主・幕末の斉昭が参拝した時、この「黄門桜」に、「恵ある風にしられていちじるし、香取の宮の花の盛は」という歌を詠んだ。

←2度目の楼門をくぐる。これも11月で、富士山を象った菊花が出迎えてくれた。
↑元禄時代(江戸期)と伝わる細やかな彫り細工が美しい(^^)。

今度は国譲りの後、いよいよ経津主(フツヌシ)神武甕槌(タケミカヅチ)神が東国に来てからのお話(^^)。

その前に、国譲りの前後、記と紀では、ちょっとづつ記述が違う事を……(^^ゞ。

「古事記」では、大国主神&事代主神が「わかった、じゃあ譲ろう」となる前に、「建御名方(タケミナカタ)神」という大国主神の息子だけは譲る事に異を唱えて、「力競べ」となり、建御名方(タケミナカタ)神が負けて逃げ、科野(しなの=信濃=今の長野県)の州羽海(すわうみ=諏訪湖)で「ここから出ません」と約束する話があって、これは「日本書紀」には無い。

逆に「日本書紀」には、この国譲りが終わった後も「第九段本文」で(「第九段一書二」では国譲りの前)、まだ「香香背男(カカセオ)」という星の神が服従しなかったので、倭文(シトリ)神の「建葉槌(タケハツチ)」が服従させる話があるが、これは「古事記」には無い。

この香取神宮では、経津主(フツヌシ)が祭神だし、神社で行なわれる数々の祭りの中には「星鎮祭」というのもあって、やはり「香香背男(カカセオ)」を討った時の古事にならって、弓をひき的を射る行事があるなど、日本書紀の話に沿っているけど、神社で買える「神宮小史」では、「日本書紀」にはない話、つまり「建御名方(タケミナカタ)神が古事記には出て来る」とは、一応書かれてある(^^ゞ。

ま、何しろここまでが記紀(古事記と日本書紀)のお話しで、その後……という事だろう、香取神宮では「経津主(フツヌシ)武甕槌(タケミカヅチ)は東国を平定した」と社伝に続く。

東国人にとっては、出雲とか九州とかで起きる出来事と同じく、「その後、東国を平定」の所が読みたい気がするんだけど(笑)、残念ながらその辺りは記紀には出て来ないの(^^ゞ。

ただ神宮の創建の時期としては、「神武天皇18年」という伝えで、これは「神代」なので明確な時期はアレだけど(^_^;)、日本書紀に基ずくならば、「紀元前643年」という事になる。

場所が最初から、この佐原のいま神宮のある場所なのかは……。
古代の神社は遷宮して動かすのがしきたりだから、あちこちだったのかもしれないね(^_^;)。

ただ「かとり」の名はかなり古い。まず日本書紀「第九段一書二」に、経津主神について「この神は今は東国の"楫戈・取”(カトリ)の地に也」とある。
(カトリ=漢字変換で出て来なかったので、「カ」を二文字で足らせた(^_^;))

東国ってどこだろう(^_^;)。。

「古語拾遺」になると、「下総国の香取の神」とかなり明確に、「延喜式」はさらに「下総国香取郡一座・香取神宮」と、動かしようもなくこの神社の事を指して来る。

神宮の実在については、各時代の造営記録に示されるが、一番早いのが「日本後記」の弘仁3年(812)6月に、「二十年を隔て改め造れ」と出て来る。
この「二十年を隔て」については、後でちょっと触れるね(^^)。

二つ目の楼門を潜ると、ここが拝殿(^^)。
楼門でも書いた通り、江戸期の元禄時代の建築で、桃山時代の形式を用い、徳川幕府が建てた。

拝殿の裏に本殿がある。向かって左側から進んでみよう(^O^)。

←廻った(^^ゞ。最初に見えて来るのが、この「神饌殿」↓
この並びに摂社が続くのだが、まず傍らに大きな錨(いかり)がある。↓

かとりの錨
その並び(奥)に「三本杉(パノラマ縦横4枚)

練習艦「かとりの錨(いかり)」
海上自衛隊練習艦「かとり」は、昭和45年(1970)建造され、平成10年(1998)7月、除籍になるまでの28年間、毎年、海上自衛隊の幹部候補生を乗せ、世界の海で航海訓練を行い、各国を歴訪して友好と親善を深め、多くの幹部自衛官を輩出したとして、役目を終えた錨が、命名の由緒の深い、この香取神宮に奉献された。

もう一つ、この並びにある「三本杉」だが、これには、後冷泉天皇の頃、源頼義(八幡太郎義家の父)が奥州の安倍頼時を追討した時(前九年の役・1051年〜)の逸話が残る。

実は逸話は二つあって、どちらもこの時に源頼義が参拝し、祈念した所、霊験があったという物。

一つは、頼義の軍勢は微小であったので、下総国に来て、ここで祈念した所、霊鳥があらわれ北方に飛び、軍馬の音が遥かに聞こえて来たので、杉に人を登らせて見させた所、相州と武州の味方が雲霞のごとくやって来るのが見え、勢力を増す事が出来た。
そこでその杉に「斥候(ものみ)」と名付けたという物だが、これは残念ながら明治6年(1873)大風で転倒、朽ちてしまった。

もう一つが、今も残る上の写真、「三本杉」である。
これはやはり源頼義が、「天下太平・社頭繁栄・子孫長久の三つの願成就せば、此の杉自ら三岐に別れん」と祈願したところ、一株の杉が三枝に別れたので、以来「三本杉」と呼ぶようになった、という伝承である。

今見ると、三本のうち真ん中が途中になってて、小さい一本が途中から出ているような(^_^;)?
これは「天下太平・社頭繁栄・子孫長久」のどれに当たるのか……源氏が途中で途絶えて、別系から宗家が出ている、みたいな事なのかな?(笑)
何しろ凄く大きい杉だった(^^ゞ。

さて本殿の建物が見えて来た(^^)
摂社「匝瑳神社

この「匝瑳神社」は、「香取大神の親神・磐筒男神磐筒女神」を御祭神としている。
さっきも話した通り、経津主(フツヌシ)神のお父さんとお母さんを祀っているのだ(^^)。

←本殿をさらに裏に廻る。
記紀の神話には東国平定について書かれてないが、神宮小史には、二神は荒ぶる神々(香香背男など)を駆除し、子孫の代に至って東国を平定の後、「海路を銚子港から軍船を乗り入れた」とある。

そして一方の子孫達は鹿島に、もう一方の子孫達は香取に根拠地を定め、さらに東夷を征討すると、それぞれ鹿島と香取に神を祀り、荒れ果てた土地に田野を開いて、殖産を大いに興した。

だから下総国では、葛飾・猿島などにも香取神社を産土神とする集落が、常陸国では行方・新治、陸奥では黒川郡や亘理郡・行方郡・栗原郡に鹿島神社を祀る集落がとても多い。
もちろん陸奥一宮の塩竈神社の二神の事にも触れてある(^^)。

経津主神の子供も摂社「又見神社」に祀られ、名前を「天苗加(アマノナヘマス)命」というそうだ。
経津主神の后の名はわからないが、一説に、やはり摂社の「側高神社」の祭神がそうだとも言う。

古くから由緒ある宮に相応しく、香取神宮に関わる歴史の類・伝承などを書くとキリがない程だが(^^ゞ、柿本人麻呂・藤原定家・賀茂真淵など、名立たる文人が香取の浦の歌を詠んで、その知名度は抜群だ。

本殿の裏側(パノラマ2枚)に出た↓

この本殿の裏側にあるのが……↓

末社「櫻大刀自神社
摂社「鹿島新宮

左「櫻大刀自神社」の御祭神は「木花開耶(コノハナサクヤ)姫命」で、「安産子育ての神」としている。

もう一つの右「鹿島新宮」の御祭神が、先ほどから話している「武甕槌(タケミカヅチ)」である。

経津主(フツヌシ)神は物部氏の祀る神として知られ、物部匝瑳氏というのもいるから、鹿島が藤原(中臣)で、香取が物部という話をちょくちょく聞くが……(笑)。

香取の神については、この神宮が別名として祀る「伊波比主(イハヒヌシ)」(文献では「続日本後紀」や「延喜式」に出て来る字)に目を転じると、同じく日本書紀「第九段一書二」の「斎之大人(イワヒノウシ)」と読みが一緒だと気づく。

これは「斎王」を意味し、特定の神というより「神事を行なう神」の一般名詞で、鹿島に祀る武甕槌(タケミカヅチ)神を奉祀する、在地性の強い神だったのではないか、とも見られており、香取神は、元は海上交通に関わりの深い神だった事から、「御舟祭」が伝えられている。「楫取(かとり)」は「舵取り」に由来するとも見られている。

つまりこれは、古代の下海(しもうさ)上国造が祀っていた在地の神だったのが、後に鹿島神を祀るようになった、という見方で、こういう関係は、伊勢神宮の在地神・豊受神(外宮)が天照大神(内宮)を祀った事に類が見られるらしい。

日本で「神宮」とされるのは、伊勢・香取・鹿島の三宮に限られ、中央に近い伊勢神宮が一つの神宮とされているのに、なぜ鹿島・香取が独立した神宮とされたのか……(^_^;)。
一説には、蝦夷征伐の士気高揚のため、二つ神様がいた方が都合が良かったからとも言われ、陸奥におよぶ二神の分派は、蝦夷を取り込んでいく過程の証左なのだろうが、なぜ二つだと都合が良かったのかなぁ(笑)。

本殿の裏からは、元に戻るルートと、外に出られるルートがある。
外に出ても何も無いんだが(^^ゞ、ちょっとした散策ルートになっているので、元に戻るルートには後で廻るとして、ちょっと散策ルートに行ってみよう。

本殿を後にして
暗い森林の小道を行き
出た所を右に見る

こんな感じに、すごく森が深くて、夕方や夜でもホンノリとしたイイ感じ(^^ゞ。

「出た所」ってのは、こんな感じ(パノラマ4枚・180度以上)

逆側・出た先の風景(パノラマ4枚・180度以上)

お団子やおでんを食べられるお土産屋さんがあって、二階には見晴らし台があった(^^)。

その脇に、「下総国式内社の碑」があって、これは「延喜式」記載の下総国の式内社11社などの所在地を、清宮秀堅(1809〜1879)という人が調査した碑で、1861年に建立。

鹿島と香取の両神宮については、伊勢神宮とともに、日本で三社のみの「神宮」の名を冠されており、香取神宮の各年代に残る書状はどれも、「修理しろ」「造営しろ」と、物凄くやかましく催促を受ける内容ばかり(^_^;)。。

造営者の名が歴々と記されている。
1137年・不詳
1158年・不詳
1177年・葛西清基
1197年・千葉常胤
1227年・葛西定蓮
1249年・千葉時胤
1271年・葛西経蓮
1293年・千葉胤宗
1330年・葛西清貞
1369年・千葉貞胤・大須賀
不詳  ・安富・山名
不詳  ・千葉満胤
1483年・千葉孝胤
不詳  ・千葉親胤
1571年・不詳
1607年・中野
1700年・平岡・竹村
1940年・神祇院直轄
1977年・奉賛会

これがどうも「日本後記」の弘仁3年(812)6月に言う、「二十年を隔て改め造れ」なんだね(^^ゞ。20年に一度、誰が造営を行なったかの記録が残っている。

いわゆる将門の乱(承平・天慶の乱・935〜940年)の後も、将門系譜以外の平氏一族同志で伊勢を巡ってどったらこったら、房総でも良文(将門の叔父)の系譜が将門っぽい反逆とかやらかして(平忠常の乱)、安房・上総・下総まるごと「亡国」とか言われちゃう時代を経て(^_^;)、平安末期〜鎌倉初期ごろ、だいたい清盛に続く系譜が伊勢平氏、良文流の系譜が千葉氏で決定、となっていく。

そうして千葉氏として最初に登場する「千葉常胤」は、以前にも触れた事があるが、千葉・相馬・東を継いだ子の他に、大須賀・国分という家を興した子がいて(2005年11月<将門神社>内、大須賀氏の名があるのは千葉氏の一族としてだろう。

さらに1201〜03年ごろ、常胤の五男・国分胤通の伝承がある。
祭神の始祖神としてだろう、「軻遇突智(カグツチ)神」も、「埴安(ハニヤス)姫」とともに祀ったのが「返田神社」だが、そこを注意されても下馬せずに通って落馬し、神の怒りと知って、鞍を松にかけて神に捧げ、徒歩で参詣したという。

この手の、神聖な井戸水で馬を洗ったら祟ったとか、この香取やその周辺の古跡にちなんだ逸話は山のようにある(^_^;)。。前回、水戸黄門(光圀)がヤラレた話と同様に(笑)。

じゃ、さっきの「鹿島新宮」があった辺りまで戻ろう。

「匝瑳神社」のあった所と逆側を通る
本殿の見事な屋根(^^)

1300年代後半〜1500年代にかけて、戦乱と荒廃にあって延年され、その遅滞を叱りつける「執建状」の語気がスゴイ(^_^;)。。
にも関わらず、特に応永(1394〜1427)、文明(1469〜86)、永正(1504〜20)、天文(1532〜54)の頃の荒廃が凄かったようで、しまいには神主をはじめ皆で山中に逃げ惑った。。

そうそう、千葉兄弟を追い出して始まった、あの千葉県の動乱時代っすよ(^_^;)。。

もちろん時代ごとに、源頼朝・足利尊氏などの寄進はある。↑の動乱期を越えれば、戦国期には浅野長政・木村重成などの制札も経て、むろん徳川家康も寄進も残っている。

古来より長く、天照大神の御神勅を奉じて国家建設の基を開き、国土開拓の大業を果たした建国の大功神として、国民の崇敬非常に篤く、国家鎮護、国運開発、民業指導、武徳などの祖神として広く仰がれて来た。

現在の社殿は、江戸期の元禄13年(1700)の御造営にもとづくもので、明治以降は官幣大社に列せられ、毎年4月14日の例大祭には、宮中より御使が参向される勅祭の神社である。
本殿(左)と神札授与所(右)の間の通路から戻って来る。神札授与所の前には「御神木」、さらに右には「宝物館」がある。
←神札授与所の前に高く聳える「御神木」。樹齢千余年。目通り約7.4m。落合直文が、この杉を「このめぐりいくさかありと四人して いだけどたらず神のふる杉」と詠んだ。
↑「宝物館」は博物館だから写真は撮らなかったが、入口のこの鳥サンだけは、子供の頃から大好きで、何十年ぶりに見て喜んだ(≧▽≦)。

この鳥サン、子供の頃は「コレ大蛇かな、大鳥かな(゚.゚)」と、何だかわからなかったけど、どうも「式年神幸祭」に使われる船の舳先(へさき)だったみたい(^^ゞ。

香取神宮の「祭祀」って物凄く多くて(^_^;)、「何しろ年がら年中、何かの祭祀をやってるんだなぁ〜」と思う事にしているが(笑)、千葉氏などに「ヤレヤレヤレーヽ(`Д´)ノ」と言いながら、ついに果たして貰えなくなっちゃった20年に一度の「遷宮」の祭祀が、今は12年に一度の、この「式年神幸祭」に当たるようだ。

この祭祀が「勅祭」にも当たり、これは東国では鹿島・明治・氷川・靖国、他に全国で伊勢・熱田・出雲など16社が行なう、天皇から頂いた供物などで神様を祀るもので、天皇陛下の勅令で行なわれるからその名で呼ばれる。

この鳥サンは子供心にも強く印象に残っているので、昔は博物館なんか無くて、日頃は庶民が見れなかったから、20年に一度ってのは貴重な機会だったのだろうなぁ〜。(ってそんな昔から、この鳥サンじゃなかったけど(^^ゞ)

宝物館には、国宝「海獣葡萄鏡」をはじめ、「古瀬戸黄釉狛犬」「雙龍文鏡」「藤模様螺鈿小筥三合」「御田植祭用古面」など他多数。見応えがあった(^^)。

個人的にはこの他に、江戸時代の狩野法眼の書いた「香取経津主神・鹿島武甕槌神・神影」という、中国っぽい雰囲気の兜や鎧をまとった二神を描いた絵が、彩色も鮮やかで素敵だった。

ここは境外のお土産屋さん(^^)。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ここから仲見世の街が始まっている。草団子とか、珍しい漬物とか見られた♪

←同じ場所を夜に撮影。香取神宮の山に聳える月光が神秘的だったので(^^)。
あと、ここの行き来によく見掛けるのは、雲から刺して来る太陽光。
写真では、あまりよく写ってないが……↓


なかなか神々しく(^^)、古来から神を祀る土地とされた事を思わされる風情だった。

というわけで、二回に渡った「香取神宮」も、とりあえずおしまい(^^)。
後は年末年始の風景をちょいとお届けの後、この「香取神宮」に行く途中の道筋にある「麻賀多神社」行ってみたいと思う〜♪

以上、関連事項は、
2005年11月<将門神社>内および<鹿島神宮>
2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内・<志波彦(しはひこ)神社><「多賀城」政庁跡と城前地区>
2008年4月<香取神宮・1、「要石」>




■2007年年末年始・千葉県柏市・松戸市■
<年末(^^)>


↑まずは、2007年の年末の風景から(^^ゞ。

←銀杏の紅葉。まだ11月末ごろだったかな……。年末は忙しいので(^_^;)。。
ただこの年は12月末になっても紅葉が見られたのは確か(笑)。
それも11月までボンヤリと暖かく、11月末になって、イキナリ寒くなって急に色付いた。

こちらは、手賀沼の白鳥サン。→
やはりかなり遅くまで、こうして湖面で間近に見られた(笑)。
周囲の風景はさすがに寒そうに見えたが……。

手賀沼の冬景色(^^)(パノラマ3枚・180度)

↑その手賀沼、メインの橋「手賀沼大橋」にこの年オープンした「満天の湯」(温泉ランド(^^))が、この冬は煌びやかにクリスマス・ネオンを放っていた。↓
ちょっと中(庭園)に入ってみよう(^^)。→
門の看板は「満天の湯」とある。

オープンと同時にスゴイ有名になったみたいで(^_^;)、近場の温泉巡りガイドや口コミ交換の場でも、ここの評判が意外と高いので驚いている(笑)。

確かにここが出来てから、温泉や銭湯ランドに対して、ちょっと贅沢な志向を持つようになったかな〜とか思う(^_^;)。

あとは完璧、年末。空二点(^^ゞ。

大晦日の夕雲
獅子のような形の雲

以上、関連事項は、
2005年11月<将門神社>
2006年8月<手賀沼>
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降
2008年4月<柏市・手賀沼>




<年始(^^)・「松戸七福神」巡り>

続けて、お正月(^^)。

明けまして☆ミ・。゜:・。。゜.:・☆
おめでと〜!・。.:。( ^O^)/∀☆∀\(^O^ ):・.゜:。

今年も恒例「松戸七福神巡り」で初詣(^^)。まずは松戸市の「八柱」駅(新京成線)の近くの二寺。

おめでたい宝船に乗る「七福神」人形を飾るのは→
「寿老人」のおわす……

←ここ「徳蔵院」(地図B)。
国府台合戦の戦没者墓地「藤塚稲荷」を境内に祀る神社である。

駐車場のワンちゃんは今年も元気そうだった(^^)。↓

次は「福禄寿」のおわす「円能寺」(地図C)。
同じく松戸市の八柱駅の近くのお寺。

この「円能寺」、最初に紹介した頃(2008年9月<松戸七福神巡り6、「福禄寿=円能寺」>)には今イチ把握してなかったけど(^^ゞ、ほぼ隣接した敷地に「千駄堀館跡」がある。
この「円能寺」の周辺によく見られる苗字が「安蒜」氏である事から、確証はないものの、「千駄堀館」は戦国期・東葛地区最大の勢力を誇った高城氏の家臣・安蒜氏の居館では、とも推定される。

館の持ち主や住者が誰であれ、「円能寺」自体が1447年の開基だから、この近さから見れば、当時は関係があったと見るのが自然に思われる。

次は、その高城氏の本拠があった「大谷口城」跡の近くの二寺に向かう。↓

「弁財天」の「華厳寺
そして「毘沙門天」の「医王寺」と言えばこれだぁぁ〜!ジャーン!

甘酒っ( ̄∇ ̄)。ここの甘酒はホント美味いから、みんなジャンジャン来て飲むので、この通り飲んだ後の茶碗もゴッソリ(笑)。
「華厳寺」と「医王寺」は近い距離同志にあり、松戸市でも北のはずれで、常磐線「北小金」駅が近い(地図D)。
「医王寺」に飾ってあったミニ庭園風の盆栽も綺麗だった(^^)→

次は「恵比寿」の……
金蔵院」。本堂の前が拓け、休憩所もある(^^)。

スコ〜ンと啓けた正月の空(^^)
お手水の龍神

前に、ここの湧き水の持ち帰りが書かれてた覚えがあるが、大漁のシンボル・恵比寿サンとも関係あるのかもね(^^)。
この「金蔵院」だけちょっと離れて、常磐線「新松戸」駅と「馬橋」駅の中間ぐらい(地図E)(^^ゞ。

次は「松戸」駅(新京成線・常磐線)に近いに寺。まずは地図F

「布袋」の「善照寺
徐々に日は暮れていき、最後に……

←「大黒」のおわす「宝蔵院」(地図G)
この松戸周辺のお寺を後に廻すのは、先に行くと、この辺りがスゴイ渋滞するから(^_^;)。
年々、この初詣コースもスピーディな行き方が極まって来ている(笑)。

←お寺のワンちゃんに今年も会えた(^^)。ちょっと痩せたかな。。

今年も元気にお正月を迎えました。神様、ありがとうございます(^∧^)。
というわけで、今年も無事に初詣を終え、マンマン忙しい日常に戻るのだったぁ。。

以上、関連事項は、
2004年8月「8月のたわごと」
2004年9月「9月のたわごと」
2005年12月<お正月(^^)・そして今年も「七福神巡り」>
2006年7月<八柱「藤塚稲荷」><松戸オマケ・各所、風雲名物(笑)>




■2008年2月・千葉県成田市■
<千葉ニュータウン〜印旛沼>


実は「麻賀多神社」には、冒頭「香取神宮」に2度目に行った2008年2月の帰りに寄った(^^ゞ。
ただ、その前日にもその近くまで行った。用事はなく、単に「ウナギを食いに」行ったのでア〜ル(笑)。

例によって千葉ニュータウンに向かう
(ホントは帰りの)夕陽・木立から

やがて草原に
川辺のビルに
大地まで割り込む

千葉ニュータウンをど真ん中に、鎌ヶ谷から印旛沼まで突っ切る北総・公団線(鉄道)と国道464号線には、ドンドン大きなビルが建ち並び続けているが、それでも山も海も無ければ東京ほど狭くもないこの地域(^^ゞ。大地にトップリと日が沈むまでの光景が、ビロ〜ンと広範囲に展開する(笑)。

天然温泉「真名井の湯」千葉ニュータウン店(パノラマ2枚)

地名の印象から受ける通り、千葉ニュータウンは新しい町(^^ゞ。あまり寄る事もないのだが、この「真名井の湯」は前から大きな看板を目にしてたので、ちょっと寄ってみた(笑)。

と言ってる内に印旛沼に到着(^^)
うなぎ(^。^)。おほほっ♪

店内から遠く見える印旛沼
雲間の太陽を受け止める湖面

以上、関連事項は、
2005年11月<すすきロード(千葉ニュータウン)><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
2006年11月<宗吾霊堂、1>
2006年12月<利根川から印旛沼へ>
2007年1月<印旛沼>

2008年4月<印旛沼〜宗吾〜佐原香取>



<麻賀多神社(成田)・1>

↑ちなみに「麻賀多神社」は二箇所ある。今回行ったのは成田市の方だが、もう一社は佐倉市にあり、単に同じ名前の神社が近くにあるというのではなく、両社ともに紹介されている事が多い。
今回行ったのは地図H←コチラ。

周辺の案内図が道路沿いに標識されていて、とっても親切(^^)。

ここに言う「義民ロード」の「義民」とは、佐倉宗吾(木ノ内惣五郎)の事を指す。

前に「宗吾霊堂」に行ったが、「麻賀多神社」は、そのスグ近く(^^ゞ。

↑「宗吾霊堂」側から来て「宗吾旧宅」に向かう道路沿い(パノラマ5枚180度以上)

↑この赤々とした柵に囲まれた森が「麻賀多神社」の側面(^^)。左が正面に当たる。
周囲は広大な沼地なのに、この辺り一帯のみ、急に山奥に入ったみたいな鬱蒼たる森で、道もくねっていて、霧も出ることがあって、気に入っているコース(そして何よりウナギもあって(^。^))。

今度は正面から(パノラマ3枚・ほぼ180度)

内部はそんなにスゴイ広さでもないし、決して派手な神社ではないが、この通りに面した看板類は年々増えてるような気も……?(笑)

この辺りの道路は、周囲の静寂に反して意外と交通量が多い時間があって、みんな飛ばしてるから、いきなり目の前に出て来ても、勢い余って気付かずに通り過ぎる可能性が高いからかも(^^ゞ。

有名な神社であるらしく、社名や祭神で出て来るサイトが凄い多いので、わかりやすいように頑張って表示してるんだろうな〜と思う(^^)。

入るとスグ傍らに、早速お祀りされてる一帯が目に入った。→
石か木かあるいは土を祀っているのか、祠も像もない所に祭祀がされていた。

鬱蒼とした暗い森の奥に続く敷石の先に、密林の合間から拝殿が見えて来る。
ちょうどイイ具合にイイ角度から夕陽が差してくれて(^^)、撮影に役立った。つづきは次回!

2005年11月<すすきロード(千葉ニュータウン)><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
2006年11月<宗吾霊堂、1>
2006年12月<宗吾霊堂、2>




というわけで、次回はこの「麻賀多神社」の続きから、3月に行った我孫子(千葉県北部)の旧村川別荘(我孫子本陣の邸宅)と子の神古墳跡、そして牛久沼(茨城県南部)の「かっぱ塚」と「小川芋銭邸宅跡」、さらに「牛久城跡」まで行ければっ(^^)。

<つづく>

2008年05月30日
 
     






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