<2014年・城主のたわごと1月>



2013年6〜9月、下手賀沼(白井市)の城と手賀原氏を特集♪

後半は日帰り旅行「埼玉北部編」第一回の始まり始まり〜(^O^)!




     
  まずは……12月に上がらなくて陳謝m(__)m。
パソ不調&年末の時間読みの甘さで、1月にズレ込みました。

先々、どっかで追い付くかわからないけど、追い付く場合も、もう紛らわしい事はせず、その月の2度目の題名に「A」と入れさせて貰って潜り込ませるとするわね(^_^;)。

さて、今回は後半から、9月にいった日帰り旅行「埼玉北部編」を開始する。
次回に跨って、合わせてだいたい2回の予定だけど、はみ出ちゃったらごめんね(^^ゞ。

また、年末に書いてたので、文中「今年」という表現があるが、2013年の事でつ(^_^;)。

今回序盤は、まず日常編の続きからいく。
前回は6月半ばで終わったので、今回は6〜9月をざっとお届けし、その後、今言った「埼玉北部編」に入って、久喜市の甘棠院「古河公方二代・足利政氏の館跡」、加須市の竜興寺「足利持氏・春王丸・安王丸の墓」を巡り、行田市→熊谷市と通って、深谷市(次回)を目指す。



■6〜9月・千葉県柏市・松戸市・白井市
<ホタル観賞会@21世紀の森と広場>


↑ツイッター情報で見て、行ってみた。
先にネタをバラすと、ホタルは筑波山から連れて来たもの(^^ゞ。それをここで放流して、二日間だけ夜間の公園に市民を招いて見せる……というイベント。

6月7〜8日の夜19:30〜20:30に行われた。
ネット情報掻き集めた限り、毎年やってるのか今年だけなのか、毎年としてもいつから始まったイベントなのかは全然わからなかった(笑)。

行きたくなった理由は、開催場所の「21世紀の森と広場」の夜風景を見てみたかったから。
同様の人が多いのか……中央入口(地図)付近に↓

入口付近↓到着すると大勢の人が(笑)
開放ゲージからワラワラ入場

「21世紀の森と広場」は、いつかちゃんとレポしないと……といつも思いながら、他のレポに流されてなかなか取り上げるタイミングがとれない。
それと、ここにはしょっちゅう行くもんだから、あまりにも写真がいっぱい溜まり過ぎて(^_^;)、写真の選択が大変そう、というのも大きな理由だ。

それほどにこの公園の景観は素晴らしく、松戸市の中でも代表的な自然公園であり、市域から見てもほぼ中心的な位置にある。規模も極めて大きい。

前回も述べた通り、野鳥や自然の保護のため、野外コンサート会場だとか運動場といった騒音源施設は一切作られてない。この事が、この公園のどこよりも大きな魅力だと思う。
コンサート会場は、隣接する「森のホール」に大きな施設があって、クソ芸能人が次々来るし(^_^;)、 運動施設も松戸運動公園といった別施設が設けられている。

ハッキリ言うと、音楽だのスポーツだの騒音出したがる奴が、自然を破壊するのを初めから見こして、棲み分けを行っている(笑)。
全てが水辺や里山・野原や森といった、もっぱら静かな環境を出来るだけ自然に近い状態で維持させるためである。

故に、ゴミは持ち帰り制が徹底されており、当然ながら夜間の出入りは厳禁。わりと自然状態に近い(マムシとか蜂なんかもぎょうさんおる)から、ウッカリ夜に侵入するとヤバイとすら思う(笑)。

そこが夏とは言え、夜の7時8時なんて時間帯に市民の出入りを許可するというだけで珍しい。地元民としては「入って見たい」という感情を催す(笑)。

深い森への導入口ながら、まだ灯りの多い入口付近の通路は、高感度設定で撮影すればまだ写る。
樹々はこの通り背丈が高く、この奥に進むと更に森林度が増していく。

↓こちらは逆に、公園の奥から入口に向かう方を撮影。奥の暗さが一目瞭然かと(^_^;)ゞ
通路は芝生広場に行き着くが、「ホタル鑑賞」は広場には入らず、右の山壁沿いの山道っぽ通路をいく。行けば行くほど真っ暗(^_^;)→

この後は……残念ながら、どの写真を見ても、明度めいっぱい上げても、殆ど写ってない(^_^;)。残念。。。
ホントはこれより先、ズバズバとホタル達が現れた。木々の密集地で枝という枝に群がっていた。土にも苔にも湿地にも水流にも、フワ〜ッと宙をゆらめく薄緑色の光が満ちていた。

私はホントに小さい子供の頃は東京だったし、引っ越して来た小学生の頃なら、ちょっと探せば蛍のいる水辺もあったかもしれないが、あいにく心臓重病の予備軍を患って絶対安静を言いつかり、家に寝付いてる事が多かったし、そうでなくても、そこまで自然を残した環境の中で遊びたがるのは、やはり男の子が多かったと思う。

ただ、カブトムシやザリガニをとりにいった話など聞いた事はある。
それが、蛍となると流石にスグ周囲で話に聞いた事がない。1〜2匹飛ぶのを見た事はあるが、これほど密集するのは、やはり現地の風景とは思えない(^_^;)。……と思っていると、案の定、

「今夜のホタルは、筑波山麓から集めたものです」
と案内員(ボランティアかも)の方が、通る皆々に説明しているのが聞こえた(^_^;)<ヤッパリ。

辛うじて通路を照らす遠くの灯りが見える
そして1枚だけ
(拡大)蛍

地図←やや移動してこのへんかな。
蛍はアチコチで光を放つんだが、いっせいにバシャバシャとフラッシュをたいて写す人がいっぱいいて、「これだと返って写らない気が(^_^;)」と思ったが、それでも尚暗かったというのが正解のようで、何枚も撮った中で蛍の光が写ったのはこの1枚限りだった。

それでもご覧の通り、上手い事フワ〜ッと舞いあがった所が撮れたようで、航路の通りに光がブレてくれたので、ちょっと動画っぽい(笑)。

暗闇だったが、肉眼では木々や石などがちゃんと見え、蛍はこのように一匹かぎりでなく辺りじゅう無数に散らばって居り、繁る枝の合間を高く浮き上がる。

このように多くの蛍の光を見てると、何だか自分の体が、水族館の水槽の中にでも入り込んだ錯覚を催した。
なぜなら蛍の浮かび上がり方が、水中のように空気抵抗を無視した動きに感じるからで、「綺麗」と言うより「神秘的」と言うか、「不思議な感じ」がいっぱいだった(^^)。

以上、関連事項(のみ、01/30追加)
■21世紀の森と広場
2005年3月<松戸21世紀の森と広場>
2013年11月<常盤平〜八柱「元禄まつど村」と「21世紀の森と広場」>内




<巨大建造物と動物遺跡の謎〜う〜なぎチョコパン(笑)>

実は6月以前の写真も3点ほど混ざってる(^^ゞ。まずは松戸市東部の五香からスタート!

梅雨も本格化っぽい曇り空の下、助けを求める女の悲鳴が鳴り響く!! 振り返ると……、

突如エンパイア・ステート・ビルに
美女を片手に乗せたキング・コングが出現!

……と思いきや……、

五香駅(下は線路)に隣接の
パチンコ屋さん(地図)だった(^_^;)ゞ

では、徐々に西の松戸方面に向かって行くぞよ(^^)。

←五香から八柱に向かう281号線から見える大仏の首!
↑こちらは八柱の交差点(地図)。 ビルの上から犬が(笑)

↑左の大仏は「翠雲堂」という仏具屋さん(地図)の敷地に置いてあるモノ。

そして、右のビル屋上の犬↑だが、このビル全体が犬の美容や入浴、そして犬と一緒に入れるカフェ&レストランなど、愛犬家のための集合店舗なので、犬フィギュアもあって当然なんだが、一見可愛いワンちゃんの大きさが……↓

通りの自動車や歩行者と比べるとずいぶん大きい(笑)
(拡大)ワン!

お次は、さらに西に行って、松戸駅に到着(^^)。場所はよく覚えてないけど、駅の西側(地図)。
周囲は商店が多い。個人の家ではなさそうで、ネット上わりと出て来るんで、有名なのかも(^^ゞ。

初め目に入って来るのは、庇の上にいるスパイダーマン(笑)↓
全体を見渡すと、壁には龍と虎の絵と共に、「龍虎降臨図」とある。周囲は商業地街。

最後は、またズーッと東部に戻って、しいの木台(柏市)の住宅街(地図)。
野馬を象った歩道モニュメント(とでも言うか(^_^;))の、この季節ならではの風景を(^^)。

点在する野馬石像を雑草が囲む
草を食べる馬
タテガミを生やす馬

夏になると、柏や松戸あたりでよく見る光景が、この生い茂る雑草(^_^;)。
ちょっと放っておくと、雑草が歩道じゅうを占領するか、背が高くなって向こうが見えない程になる(笑)。

「東京ではあまり見なかったよね」と最初に来た頃、亭主に言われて、「そういやそうだな(゚.゚)」と思った。
「東京みたいに空気が汚れてないからかな」「土壌がいいのかな」とよく言い合ってるが、とにかく植物類の発育が異常に良いのは確か(^_^;)。。

この野馬モニュメント達も、「どうせそうなる(^_^;)」と、最初から計算されてデザインされたのだろうか(笑)。

あとはモニュメント類ではないけど、同じ6月の風景なのでドッキング(^^ゞ。
←夜の松戸運動公園で見た月空。明るかった〜(゚.゚)
↑お散歩中に会ったワンちゃん。アジサイの影から可愛く顔を出している(^^)。

こたつ城主は、常々このワンちゃんの種類を知りたくて、思いきって飼い主の人に尋ねる事もあるが、だいたい「種類は知らないです」とか「雑種かも?」と言われる(>_<)。。

犬に詳しい人に聞こうと思って、出来るだけ写真に撮らせて貰う事にしてるのだ( ̄^ ̄)。
旅行に行くから飼えないが、飼えたらこういうワンちゃんかな〜なんてね(#^.^#)。

もう飼ってるでしょ一匹>▼o・ェ・▼o  (^_^;;;)<う…うん。。

最後は……これだけド〜ンと間が飛んで、7月も後半に入ってからなんだけど……↓

「あれは鳥か飛行機か、いや、う〜なぎチョコパンだ!」

って鳥肌たつほど意味不明だが(笑)、写真の「う〜なぎチョコパン」も、それ以上に何を狙ってるのかわからないユルさ(^_^;)。。

↑は店頭撮影で、自分で買ったワケじゃないから、袋から取り出した画像はこちらを見てくらはい(^_^;)↓

【画像】セブンイレブンで「う〜なぎチョコパン」買ってきたけど存在感ありすぎるwww
NAVERまとめ(ツイッター発言まとめサイト(^^ゞ)より)

思うに、色々と変な物を連想させたりできるよう、わざとユルく作って、ツイッター受けを取りに行ったんだと思うわ(笑)。
あと、そうめん&ひやむぎの難解な違い編も貼っとくわね(笑)。

さすがはセッブンイレ〜ブン、いい気分〜(^^;)。。<ヤケクソ



<小森城跡・名内城跡と「手賀合戦」>

↑写真は7月後半〜9月後半まで撮ったものを用いるが、表題の小森城跡名内城跡に行ったのは、上記期間の最初、すなわち7月後半である。

これら二つの城は、誰の物かハッキリわからないのだが、今回は原氏に焦点を定めて書こうと思う。
ちょうど前回、本光寺でも原氏の話をちょっと出した所でもあるし(^^ゞ。

手賀沼よりちょっと北あたりから、我が松戸市あたりまでの、かなり広範囲に夥しい城跡が残っている。
大部分が相馬岡田氏、原氏、高城氏の物で、戦国時代の流れは、だいたい前者から後者に権力が移ろっていった。

千葉宗家を支族の馬加千葉氏が滅ぼし、馬加千葉氏を家来の原氏が牛耳り、その原氏の家来であった高城氏も、やはり勢力を強めて、ついには原氏を凌ぐ幅を利かせていった。(2008年7月「千葉県の動乱」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>以降)

千葉宗家←馬加千葉氏←原氏←高城氏
これが、北総地域の下剋上の図式である。背景に、後北条氏の存在がある。

房総で宗家を名乗った(乗っ取った)佐倉千葉氏馬加氏)は、後北条氏に強力なコネを持つ原氏高城氏にドンドン仕切られ、最後は殆ど後北条氏に吸収されていった(^^;)。。

城跡に行く前に、まずはいつもの通り、手賀沼の風景からお届けしよう(^^)。

曙橋付近(地図)から見る手賀沼
湖の向こうから近付いて来るヨット

松戸市で戦国期の城というと、多くが開発によって遺構が失われた中、小金の小金城大谷口城(2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)>根木内城(2007年6月<根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り>、7月<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り>などが、遺構も一部ながら残されて公園として整備されている。

二城とも高城氏の城と伝わり、後北条氏の小田原落城とともに終焉となったものと思われる一方、城の始まりの時期を、原氏の時代と見る説もある。

辣腕ぶりが伝わる原氏も、この北総地域では、殆どの城跡が高城氏の勢力に塗り替えられ、原氏独自の痕跡らしきは、殆ど伝わってない(^_^;)。

強いてこの辺りで「原氏の城跡」となると、この曙橋から一番近い「手賀城跡」(地図)が比定されるかな、と。
実は前行ったら、墓地に入り込むのみだった(^_^;)。そのうち又行ってみるね(^^ゞ。

見てる内にヨットはドンドン近付いて
あっと言う間に目の前に到着(゚.゚)

↑実は手賀沼には、こんな風に手賀沼の北方から敵が来攻して「合戦になった」とする伝説があるらしく、白井市や印西市の書籍を得た限り、合戦話の出どころに「東国戦記」あるいは「東国戦記実録」と呼ばれる書物があるようだ。

内容は、1575年、茨城県の牛久岡見氏の家来、栗林義長が印西(手賀沼の東隣)を攻撃し、小林城原氏父子が千葉方の武士とともに防戦した、というもので、同様の物が「常総軍記」にもあって、こちらでは1585年の戦いになっている。

ただ、どうもそれらにいう「印西合戦」というのは……後世の作り話っぽい(^_^;)。
書かれたのは近世……つまり江戸時代の空想物語らしい。

そう言われれば、前に牛久城に行った事がある。
年代はハッキリしなかったが、牛久城は佐竹(旧・関東管領上杉)勢力×後北条(旧・古河公方)勢力の衝突ラインで、牛久の岡見氏は後者勢力として、千葉県の豊島・高城の同盟を得て城を守った……と書かれてあったのを思い出す(^^ゞ。
ちなみに、前者勢力としては多賀谷氏の存在がある事もその時に書いた。(2008年7月<牛久城跡、2>内

……と断った上で、この「印西合戦」については、印西市教育委員会の本に、「(対する北総地域は)既に後北条氏の傘下にあって、戦闘が起きたとは思えない」と記されていた。

後に書くけど、同じ書物(東国戦記実録)には「手賀合戦」というのもあり、これに名内城らしき陣所が出て来るんだが、印西合戦が空想話なら、手賀合戦も作りごとなのかな……(^^ゞ。

←こちらは9月の光景。鳥がいっぱい来てて、飛び交う様がなかなか圧巻(^^)

合戦の有る無し全てが「空想物語」で片付けられるのかになると、わりと地域や書物によって、バラバラな感じもするんだけど(^_^;)ゞ、何しろ北の茨城県方面から攻めて来た話や、南の小森城と戦う間柄だった、とする前回の「小森城主と手賀城の女城主の悲恋」(2013年11月<「イラストで知る白井の伝説」と手賀城伝説>内などは、どちらも「作り話」という見解で一致してるようだ。

ただ、何もかも全てが嘘八百で史料的価値が皆無というのではなく、「原氏の城跡があった」という伝承が、書かれた当時に残ってたのは確かな事だろう……という感じに、各地域の歴史認識として大まか一致してる感触を得ている。

相当するのが、この曙橋から近い「手賀城跡」(地図)かと思え、あれこれ調べる中では、恐らく「手賀原氏」と呼ばれる一族の城であったと考えられるが、これと本家の原氏との関係というのが、はなはだ不透明である。

にも関わらず、さっきの「東国戦記実録」には、「本家の原氏と分家の手賀原氏が、1579年に合戦をした」(手賀合戦)という話があるようだ(^_^;)。。
結論から言うと、全部ではないのかもしれないが、「空想の所産」と解釈されてるフシを感じる(笑)。

今度は発作橋に来てみた
(中央拡大)向こう岸にはカンナ通りが続く

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柏市      |
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←<>は、上の手賀沼、下の下手賀沼の二つの湖を繋ぐのは手賀川下手賀川になっている。

発作橋
は「つ」の字の折れ曲がる部分あたりにあり、手賀川から下手賀川に分流する地点。これを南下すると下手賀沼に至る。

「つ」の字の内側に入る辺りに、先ほどから言ってる「手賀城跡」があり、「つ」の字の下に、これよりいく「名内城跡」「小森城跡」がある。

一方、右上の写真で、橋の向こうに見える「カンナ通り」は、「つ」の字を右方面に外れた位置にあって、完全に印西市に入る。
川からは離れるが、良い風景なので(^^)、ちょっと行ってみよう。

←田園を割って、赤と黄のカンナの花が続く
↑左方向、広大な田園が続く

このカンナの花は、エンエンと沿道を続き、青空と緑の田園の爽快な夏景色に、フレッシュな彩りを添える。

実はこの秋、手賀川の船に乗る機会を得て、船頭さんに、このカンナは地域の「カワセミ会」が植えているものだと教わった。
確かに、この道の各所に「カワセミ会」という看板が見られる(^^)。


そして、この道をさらに行くと、「大森」に出る。江戸時代、「大森陣屋」(地図)があり、その代々の代官の墓が、近くの長楽寺地図)にあるという。

この地域は佐倉藩主であった稲葉氏の支配地で、稲葉氏が山城国(京都)の淀藩に転任となっても、淀藩の1/4もの石高に相当する重要な飛び地だった。

大森陣屋は、住民の要望によって作られた。
藩の御用があると、以前は佐倉の役所まで行けば良かったのが、藩の移動によって、江戸屋敷まで出向く事となったため、費用に苦しんだ事が原因だった。

淀藩にとって重要な財源だった事もあり、この要望は叶えられ、陣屋には役人も駐在し、住民側からも希望者を募って、手代や使番が出された。
これは農民から領主側の構成員となるシステムで、敷居が高いとされる近世の身分制を考える上で重要な研究材料と言える。

さらに驚くのは、住民ご贔屓の代官の再任要求運動というのが行われた事である(*o*)。

1826年から代官を務めた、春名忠之助という者が、下総領民に「慈愛の計らい」(具体的な内容はわからないが)を感謝され、転任反対運動が住民から起こった。

江戸時代は、農民の方からこの手の要望を公儀に示すのはご法度( `Д´)× の風潮だったから、陣屋では、正式な手続きを踏めとか、言い分が越訴であるとか、たびたび牽制を示しつつも、江戸屋敷との取次に心を砕いた。
一方の住民側の惣代も、返答を直接伺いたいとか、願書が江戸屋敷に送られるのを見届けるまで陣屋に居残るなど、並々ならぬ熱意を見せた。

大森陣屋は惣代を「不届き」として、宿預かり処分にしたが、春名は江戸屋敷から戻ると、惣代を赦免。
しかし勘定奉行の問いただす所となり、勘定奉行は「村からの願いによる再任という事では問題がある」と、願書の取り下げを内々に持ちかけた。
住民らが願書を取り下げると、春名はしばらくの間だけ、他の二人の代官とともに留まる事になった(^o^)☆ミ

その後、春名は江戸に転任となったわけだが、領民は鶏卵を100個、土産に渡し、途中の街道を見送りながら、途中を夜通し酒盛りを開いて別れを惜しみ、江戸まで供をした者もいたという。

何とも心温まる話じゃないか(^^)。
江戸期の「代官」と言えば、「悪い商人と結託して民を虐める」パターンが時代劇の定番だが(笑)、この地域は、領民から役人側の人間を出す仕組みがあったから、こんな心温まるケースが生まれたのだろうか?

……実は、この辺りでは、今でも「鶏卵」を道々看板を出して売っているんだわぁ(#^.^#)。
こんな歴史があったなんて知らなかった〜♪ 今度鶏卵を買ってみますです(^^)。

さっきの「発作橋」まで戻ると……↓

川面に白鳥が一羽浮かんで見える向こう、手賀沼方面にポクッと浮かんで見えるのが、布瀬神社布瀬城跡などがある一帯。

前回も、手賀城の女城主に恋心を寄せる小森城主の伝説にてらして、「下手賀沼から下手賀川を北上してくると、最初に見える島影(岬)」と述べた。

原氏の話に戻ろう(^^ゞ。原氏については、これまで、「千葉常胤の大伯父(祖父・常兼の弟)から始まった家系」と言って来た。

千葉常永−┬−常兼−−常重−−常胤(千葉氏)
       |
       └常宗(原氏

千葉常胤は、鎌倉幕府創立の頃に頼朝を援けて、代々の悲願であった相馬御厨の下司職を完全にモノとする事に成功した、千葉氏においてもっとも名のある人物である。千葉市の千葉城前にも、馬上の銅像がある(^^)。

上の系図の通り、この「原氏」も後世に続いたようだが、この「たわごと」では、「千葉県の動乱」で、1455年に千葉宗家を急襲して滅ぼし、その子孫(武蔵千葉氏)を武蔵に駆逐(市河合戦)してしまう勢力として、千葉宗家から分かれた「馬加氏」と、この馬加氏と結託する「原氏」の存在を語ってきた。
2008年7月「千葉県の動乱」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>

どうも、この室町時代に下剋上の色合い濃厚に現れる「原氏」は、平安期の分かれ(常胤の大叔父)でなく、室町期、新たに千葉宗家より分出した支族の系譜のようだ。

さらに詳細に分け入ると、系譜の出自には若干の違いもあるようだが(^_^;)、私が書籍で確認した系図だと……、

<千葉>
氏胤┬満胤┬兼胤−胤直(市河合戦で滅ぶ)
   |   └康胤(馬加)┬胤持
   |            └輔胤
   |              ↓
   ├重胤(馬場)…胤依…輔胤−(佐倉)孝胤−勝胤−昌胤−胤富(海上)−邦胤−重胤
   └胤高(原)−胤親胤房┬胤隆−胤清−胤貞┬胤栄
                    └胤宣(手賀原?)  └胤親

千葉氏胤は南北朝時代、満胤は室町初期の人。どちらも千葉宗家、つまり千葉氏の惣領だ。

原氏の初代「胤高」が、「満胤の弟か子」という違いがある系図もあるようだ(^_^A)。

発作橋を渡り、「つ」の字の内側に入って再び川を振り返ると……

さっきの位置(向こうがカンナ通り)
近付く。白鳥がスイスイ水面を滑り始める

手賀原氏の話にいく前に、本家の原氏が千葉宗家を滅ぼした後に辿った経歴を述べる。

初代・胤高の孫・胤房が本家に謀叛して滅亡させた、いわゆる市河合戦(これは史実よ(^_^;))の後、その子・胤隆は、小弓義明を担ぎ出した真里谷武田氏との抗争に敗れ、小弓城を取られて、北相馬(茨城県利根町布川)で没した。
その子・胤清になると、北条氏綱の支援を得て、小弓城を回復した。
「千葉県の動乱」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>

<千葉>
氏胤┬満胤┬兼胤−胤直(市河合戦で滅ぶ)
   |   └康胤(馬加)┬胤持
   |            └輔胤
   |              ↓
   ├重胤(馬場)…胤依…輔胤−(佐倉)孝胤−勝胤−昌胤−胤富(海上)−邦胤−重胤
   └胤高(原)−胤親胤房┬胤隆−胤清−胤貞┬胤栄
                    └胤宣(手賀原?)  └胤親

(↑拡大)橋の袂に密集し
(↑拡大)スーッと長い列を作って進行(^^)

先頭の方にいる茶色のは、まだ子供の白鳥。雛の羽毛がまだ残ってるんだね。
この写真は9月初旬ごろ。こんな頃に子育てが終わるんだねぇ(^^)。そろそろ飛び立てるのかな?

さて、本家に対して分家と伝説(創作)される「手賀原氏」の方だが、話は架空でも、「手賀城」がある以上、そこを領する城主はいたはずであるが、当時史料が無い(^_^;)。。

<千葉>
氏胤┬満胤┬兼胤−胤直(市河合戦で滅ぶ)
   |   └康胤(馬加)┬胤持
   |            └輔胤
   |              ↓
   ├重胤(馬場)…胤依…輔胤−(佐倉)孝胤−勝胤−昌胤−胤富(海上)−邦胤−重胤
   └胤高(原)−胤親胤房┬胤隆−胤清−胤貞┬胤栄
                    └胤宣(手賀原?)  └胤親

寺伝や過去帳・戦記などには、「手賀城主」として「原胤親」の名があり、「手賀城主原氏系図」なるにも、「原胤貞が手賀を賜わり、後に筑前守・胤親が続いた」とあるので、「胤親」を「胤貞の子」とするように思える。

しかしどうもこの名は、室町期の原氏・初代の胤高の子が「胤親」である事からの後付と見れるらしい(^_^;)。

それよりも、真里谷武田氏小弓公方・義明との攻防に敗れ、手賀の東、利根町布川で没した胤隆の弟に、胤宣というのがいて、これが本土寺過去帳(当時史料)において、「手賀の原出雲守」と書かれているらしいから、むしろこの系統の子孫ではないか……とする説がある。

こちらは9月下旬、だいぶ暗い時間だが
白鳥がいっぱい(゚.゚)。鳥目じゃない?(笑)

それでは、下手賀沼の南、小森城跡に向かおう。

手賀沼は北を我孫子市、南を柏市と接している、我孫子市と柏市にも城はいっぱいある(^_^;)。

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我孫子市  印西市
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柏市      |
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     白井市
←もう一回だすね(^^ゞ。 手賀川となっている東部は、流れの途中から印西市になる。白井市は我孫子・柏・印西より南部にあって、内陸部といえる。

そして、下手賀沼の南岸の白井市小森城・名内城があった。まずは小森城から行く。

小森城跡地図名内城跡地図

↑は、だいたい中心の位置ね(^^ゞ。
城跡は大抵範囲が広いので、公園にするなり丘を囲うなど、ある程度整備されてたり、森林になってるとか、石碑や案内板が立ってる所だと、「ココ(^^)」と紹介できるんだが、そういう所を発見できなかったので(^_^;)。

側面を廻り込みながら仰ぐ
同じく車道から仰ぎ見る

こうやって見る限り、深い森に囲まれているようだが、実はかなり大規模な工業系の施設街になっていて、工場のような倉庫のような建物と敷地がいっぱいあった(^^ゞ。

さっきの地図の中心点近くに行ってみると……、

こんな感じ(^^ゞ。食品工場地の一郭。ここから後ろを見ると……

こんな森が隣接地を埋めている(地図

こうした森を見る限り、「ここは確かに城跡だな〜」と感じる。
「しろい散歩道」によると、「犬走り」とよばれる帯廓の土塁がわずかに残るという。

亭主が登って「畑があるだけだよ」と教えてくれた→
私有地なのかも(^_^;)<スイマセ〜ン

また先ほど見た通り、崖上にあり、その下は昔は河岸があって、渡船場が設けられ、銚子港から利根川を渡って来る鮮魚を、手賀沼で荷揚げの後、ここから松戸・船橋・浦安、そして江戸へと、竿漕ぎの船で運んだそうだ。
船渡場に相応しく、昔は旅籠もあったらしい(^^)。

ただ残念ながら、城主については、前回に見た「小森城主」の伝説しか無く、あれも後世の創作だが、あの話の中では明確に「手賀城と敵対勢力」と描かれていたから、手賀原氏の支配領域ではなかったのだろうか……?

ただ、学者さん達が言う通り、原氏と佐倉千葉氏が抗争した、という史実は見付からないけどね(^_^;)。

小森城地図)は、前回紹介した手賀城の女城主との悲恋伝説(2013年11月<「イラストで知る白井の伝説」と手賀城伝説>内の残る城跡で、伝説では、小森城主は「千葉氏の家来」となっていたが、史実ではどういう勢力かわからない(^_^;)。

次は、その近くの「名内城」跡に向かってみよう。

名内城地図 )は、これまた伝説では、手賀原氏原氏本家の戦った「手賀合戦」で、手賀原氏の陣所に「名内」と出て来る。

「手賀合戦」とは、さっきも紹介した「東国戦記実録」(近世に書かれた戦記)によると、1579年に千葉国胤が弟の頼胤を大将とし、原胤栄を先陣として白井を攻めた。千葉富胤の子で原氏に養子に入った小林の原氏も与した。

手賀原胤親は驚いて、防戦のため「名内ノ台」に陣し、これに我孫子氏・小金の高城氏・芝原中峠の河村氏・布川の豊島氏などが加勢して、300余が立てこもった。

が、国胤の発病で引き分けとなった……という(^^ゞ。これを「手賀合戦」と呼ぶそうだ。

この伝説も史実的にどうなのか確認できない(^_^;)
一方に「同族間の抗争すなわち戦闘らしきがあった」とする伝説がそのまま書かれてる物を見るし、他方では、さっき「印西合戦」でも言ったように、「既に後北条氏の傘下にあって、戦闘が起きたとは思えない」といった論調も見掛けるし……(^_^;)。。

←到着。「名内城」跡。地図。入ると進む程に道が無くなり、途中で引き返した(^^ゞ。

「名内」は上記に登場する他、「大名内村」の由来として、「大名牟遅」(大国主の別名)が示され、小名内=小名牟遅=少彦名命もあるそうだ。

永禄年(1558〜69)に千葉氏家臣が紀州から勧請し建立した「粟島神社」は今は大己貴(オオナムチ)命を祀っているそうだ。

が、明治まで 少彦名命を祀っていたようで、「オオナムチ=名内」という村名の由来と祭神が混同されて、入れ替わった事が推測されている。

ところで、「東国戦記実録」の「手賀合戦」についてだが、佐倉千葉氏については「国胤」は「邦胤」の事だろうが、原氏については、本家「胤栄」と手賀原氏の「胤親」の対立構図は、二人が兄弟という説に乗っていると思われる。
が、さっきも言った通り、「胤親」なるは戦記や寺伝に、存在自体が創出されてる可能性がある(^_^;)。

<千葉>
氏胤┬満胤┬兼胤−胤直(市河合戦で滅ぶ)
   |   └康胤(馬加)┬胤持
   |            └輔胤
   |              ↓
   ├重胤(馬場)…胤依…輔胤−(佐倉)孝胤−勝胤−昌胤−胤富(海上)−邦胤−重胤
   └胤高(原)−胤親胤房┬胤隆−胤清−胤貞┬胤栄
                    └胤宣(手賀原?)  └胤親

むしろ、宗家を滅ぼした後の千葉氏(この系譜は、「市河合戦」当時は「馬加氏」と呼ばれ、その後は本家筋の武蔵千葉氏との区別上、佐倉千葉氏と呼ばれる)内部では、早くから後北条氏に後援を得ていた原氏の力が、千葉宗家やその御一門を押しのけて、ドンドン強力になる一方だった事がうかがわれる(^_^;)。

このことは、お家騒動の後に千葉宗家をついだ海上胤富が後北条よりで、後北条派の原氏に都合が良く、この家督騒動の前後から、原氏は強い主導権を握り、千葉氏を強力に後北条傘下に誘因した。
(2009年12月<中島城跡>内

そして千葉邦胤は家臣によって殺害される。
こうした点、むしろ主家たる佐倉千葉氏こそ、内紛に遭っていた感がある。

ちなみに、その子の重胤は、小田原討伐の折、後北条氏の加勢のため小田原城に入城させられ、開城とともに浪人、佐倉千葉氏の滅んだ代である。

以上が伝説と史実の比較である。
史実であれば、そのままに受け取ればいいのだが、創作があるなら……。

前回は小森城主と手賀城の女城主の悲恋伝説について、「本当は仲が悪かった勢力地同志が、後世には仲の良い関係になっていたから、『実は慕い合っていた』という話を作ったのではないか」と書いた。

その延長線上で考えると、江戸期に書かれた合戦記の「原氏同志の戦い」というのは、同族の諍いの部分より、もしかしたら、「原氏と千葉氏が手を組んで敵と戦った」といった、むしろ同盟関係に主眼があるのかなぁ……なんて考えてみた。

相馬や千葉といった古い時代の武家に対し、土地では相変わらず愛着あるいは憧れの念を持っていて、何かと自分らの土地と結び付けて登場させようとした形跡もある(^_^;)。
ゆえに自分らの土地の原氏が、千葉氏に専横・越権をふるった原氏とは別物と伝えたかった……といった所だろうか(^^ゞ?(事実、支流であるなら、別物って線もありうるが)

江戸期は戦が無いのはいいんだけど、さっきの「大森陣屋の代官留任運動」でも見たように(代官の話は、東国戦記が出来るより後の事だろうけど) 、せっかく良いお役人が来てくれても、すぐに転任だとかでどっかに行ってしまう(^_^;)。。
そうした繰り返しが、「ウチの土地には、元々よい御領主さまがいた土地で……(^^)」という、昔語り風の作り話が出来る事で、その時々の感謝の思いなりに変えられていったのかもしれないな〜と思った。

以上、関連事項(のみ、01/30追加)
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)><根木内歴史公園(根木内城跡)、1左廻り>
2007年7月<根木内歴史公園(根木内城跡)、2右廻り>
2008年7月<牛久城跡、2>内

2008年7月「千葉県の動乱vol3」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>以降
2008年12月および<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>
2009年12月<中島城跡>内
2013年11月<「イラストで知る白井の伝説」と手賀城伝説>内




<真夏から初秋へ>

←真夏の代名詞、サルスベリの花に……
ジャジャーン! かき氷!

並んでるミニ・スイーツは、私の注文(^_^;)。かき氷ってホント大きいよね(笑)。
亭主は毎年夏になると、スイカ・かき氷・梨を一度は食べないと夏を終えられないと主張する(笑)。

今年(2013年)も、花火が撮影できた(^^)。
去年はちょうど良い場所で打ち上げ花火に出会って、絶好の撮影場所を確保できたのだが、今年は手前の家々の屋根にかかってしまって、高く上がったのしか撮れなかった(^_^;)。

それでもこうして振り返ると、ずいぶん沢山撮れたな〜と嬉しい(^^)。
この夜は、亭主は家に籠って仕事してたんで、私だけ出掛けて写して来たから、このレポで亭主にも初めて見て貰うのよ〜♪

ヒュルル〜パパンパンパン!

ド〜ン!ド〜ン! シュルルル〜!

パッ、パッ、パチパチ、ド〜ン!

この夏は、7月ごろから、急にパソコン上の動きが悪くなった。
ノートに変えてから、熱暴走に対しては冷やせば対処可能になったので、今年もそれで行こうと、あまり心配してなかったのに、理由の不明な急な不調に陥って、ほとほと困り果ててしまった(^_^;)。。

例年通りの熱暴走もあるんだろうが、思うに、急にハイスペック仕様に切り替わった事を疑っている。

というのも、わりと複数から、この7月あたりを境に、急にネット閲覧が重くなった、という感想を聞いたから(^_^;)。
実際、パソコンメーカーに問い合わせて質問を開始するなり、「昨日のアップデートからですかね」と言われた(^^ゞ。
想像するに、他にも同じ問い合わせがいっぱいあったんだろう(苦笑)。

この夏、画像ソフトもいきなり使用料制に方針を変更したため、慌ててギリギリ直前バージョンを買わされるハメになった。
これが使いづらくて( ̄□ ̄;)、作業の手間は増える、メモリは使いまくるで、さんざんな目に遭い、「城主のたわごと」を一ヶ月分アップできない程スケジュールを押してしまった。。。

さらに、メールもクラウド仕様に転向されてしまった。
HP容量置き場に撤退されて以降、HP続行環境が次々と陥落していく。。

アップデートはセキュリティ上仕方ないが、この流れ、もしかして一部は、来年(2014年)4月だったか、XPが終了するのが原因かなぁ……(^_^;)。。
ストレス強くして、早めの乗り換えを促してるとか(笑)?

まぁ相手都合で簡単に撤退されてしまう既存のシステムにアップするよりは、自分の管轄にHTML保存できる分、自主サイトを持っているに越した事はないんだが、サーバーやらブラウザやら、使用ソフトなどの変更が起こるたび、右往左往しなきゃならないのは、この先はしんどいなぁ〜というのが正直な所だ。

5月、亭主の病気騒動をキッカケに手を出したブログ(&SNS)に、もしもの時には連絡手段を保持しておくか〜と、この夏ごろから本格的な使用に乗り出す事にした。

てな具合に夏も終わり(明治安田生命ビル)
9月を迎えた(ハロウィン・プレゼント(^^))

去年は、震災の年とその前年に比べて、夜に光る雲が現れるなどの変わった空を殆ど見なくなった、とレポしたが、今年も去年以上に見なくなった。ただ1〜2度だけ……、

妙に明るい地平線近くの空
スゴイ光の夕焼け空

などが写せたが、震災の前後に見たような、長時間ズーーッと光り続ける……といった異様な感じは無く、しばらく照り輝いて暗くなったと思う。
中越地震の前に見たのなんて、夕方5時ぐらいから夜中12時近くまでだったもん(^^;)。。

それでも、こういう空を見た後は、しばらくの間ちょっと緊張する癖がついたと思う。。

あとは、別に変わった空ってわけじゃないけど……

一部だけ現れた虹。写真ではただの陽光だが、肉眼では不思議な光の射し方だったの。

ちなみに下の建物は改築された千葉西総合病院、最上階にヘリポートが設置された。
9月になってもしばらく暑かったけど、夕空にのぼる月も、だんだん秋の気配になっていった。

今年は地震・津波こそ震災級の物はなかったが、この9月は、千葉・埼玉で最大級の竜巻が起きた。

豪雨にも見舞われた。亭主がちょうど出張で行く方面に近い名古屋が冠水したので、「大雨で街が埋まってるらしいよ」と電話で教えた翌朝、今度はウチのほうが「竜巻警戒!」と報道された(^^;)。

「雷や空から聞こえる異様な音に注意!」とか、「急に気温が下がったら、頑丈な建物に避難!」という話だったんで、朝起きてホントに雷の音が聞こえた時には、慌てて廊下に籠った(窓がない場所そこだけなんで(^_^;))。。

この後は、冒頭で言った通り、日帰り旅行「埼玉北部編」を開始する。
毎年恒例の夏休み旅行は、経済的な理由から見送り、この日帰り旅行を代用レポとする(^_^;)。

経済的というのは、そろそろ老後の気になるお年頃(#^.^#)だし、保険乗り換え直後なんで、実効期までは万一の時ナニ(手術・事故・災害への備え)というのもあるが、さらに安倍蚤糞(アベ・ノミ・クソ)で、この先はインフレ・増税・もしかして戦争もありかっつー時勢で、金使うわけにいかんよなぁ(笑)。

まぁ自民支持者はせいぜい消費しなはれ(^。^)
国民の収入がアップせんのは、何もかも全て、支持者の消費努力が足りないせいだぜ。さぼるんじゃねぇゾ(笑)。
(私が言ってるわけじゃないよ。安倍と黒田の考えなんだから仕方ねぇじゃん(^^;))

以上、関連事項(のみ、01/30追加)
■花火
2011年1月<夏の花・森・夕焼・月・花火>
2013年1月<日没・月・花火>内




■9月・埼玉県北部
<久喜市「甘棠院」(古河公方二代・足利政氏の館跡)>


9月下旬、ちょうどお彼岸のころに行った。
遠出&宿泊を控えたのは、インフレや増税が最大の理由だが、前々年の南会津〜栃木、前年の群馬旅行の流れから、ちょうど秩父方面に目を向けていたのだっ( ̄^ ̄)!
(ううん、遠出できない負け惜しみッス:笑)

てわけで、今回狙いを定めたのは埼玉県北部。
途中までは東北や北関東に行くのと同じで、東北道に乗る。

最初の見学場所は「甘棠院」(地図)。鉄道なら、JR東北本線「久喜」駅が近い。我々は久喜ICで下りた。

ナビはイキナリ寺の裏手の駐車場に導いたが、山門はこちら(^^)→

甘棠院は、鎌倉にある臨済宗円覚寺派に属する。

山号は永安山、本尊は釈迦如来。開山の貞巌和尚は、古河公方二代・足利政氏の子(一説には弟とも言う)であるが、政氏が永正16年(1519)当初に移り住み、その館を寺とした事が初端という。

古河公方については、この「たわごと」では、特に「千葉県の動乱」で重点的に述べている。
よく「たわごと」内の各レポにもリンク貼りしてる通り、当「戦国放題こたつ城」では、ほぼメインのネタと言える(笑)。

当サイトは一応「戦国放題」であるので、これまで古河公方以降の話が多かった。特に古河公方初代の成氏については、濃くやってきた(笑)。

今回はその前後の世代、父・持氏と、子の政氏について述べようと思う。

ここ「甘棠院」では、まず政氏について述べておく。

←やがて立派な板葺屋根の総門に達する
↑塀つづき裏門には二両引紋が(^^)☆ミ

(↓拡大)足利氏の寺だねぇ(^^)
振り返ると、奥にさっきの山門、手前が中門、周囲は墓地→

政氏は、初代である父・成氏の後を継いだ、古河公方・二代目である。

<足利将軍家と鎌倉公方>

┌尊氏@┬義詮A−義満B┬義持C−義量D ┌義勝F
|     |           └義教E−−−‐−+義政G−義尚H        ┌義輝L
|     |                        ├義視−−義植I  ┌義晴K┴義昭N
|     |(鎌倉公方)                └政知−義澄J−−┴義維−義栄M
└直義…└基氏@−氏満A−満兼B−持氏C┬義久
                             ├春王
                             ├安王       ┌高基B−晴氏C−義氏D
                      (古河公方)└成氏@−政氏A┴義明(小弓公方)

これまで「城主のたわごと」でも、「千葉県の動乱」などで何度か述べた通り、関東の動乱は、基本的には関東管領上杉氏(後に佐竹氏+上杉謙信が引き継ぐ)と古河公方足利氏(後に後北条氏が引き継ぐ)の対立が全般像である。

が、そんな中でほんの一時期、上杉氏の内部でも内輪もめが起きていた時期がある。
(「千葉県の動乱」<成氏と幕府の和解・道灌殺害・早雲伊豆進出(1482〜1491)>

政氏は、関東管領の両上杉(山内×扇谷)の間が不仲となった、そんな時期の二代目・古河公方だった。

対立する両上杉のうち、政氏は扇谷上杉定正を助けたが、1494年に定正が死去すると、その子の朝良とは対立し、今度は山内上杉顕定と手を組んだ。

総門を潜ると正面の本堂
(拡大)本尊の釈迦如来像

1505年に両上杉和睦し、両上杉+古河公方政氏は手を携え、古河×上杉や両上杉同志の対立の隙を狙って、関東進出を企んだ北条早雲と、ついに対決姿勢を取る事となった。

しかしその時には既に、長男・高基(三代・古河公方)は飛び出して母方の宇都宮氏に走り(後に関宿城に移る)、次男・義明も独立して小弓公方となるなど、子達とは対立を深めた。

政氏も古河城を出て、1512年に小山氏を頼って小山に行ったが、小山氏の背反を危惧して岩槻城に移るなど、不安定な状態を経た後、1518年に出家。翌1519年に久喜に隠居。同年、ここ甘棠院に移り住み、館を寺とした。

本堂と脇の竹林の合間に……
(拡大)恰幅のいい猫(笑)

二代政氏と三代高基の父子が、どれぐらいの期間、相克状態にあったか……。
1505年の両上杉和睦の後、高基が古河御所を飛び出し、色々あったあげく、政氏が古河に戻って来るのが1520年のようで、この時に高基と対面してる事から、1505〜1520年のだいたい15年間ぐらいを充てて推測されていると思う。

古河親子が(あるいは両上杉も?)相克するよう裏で仕掛けたと言われる北条早雲は、その前年の1519年に死去しているから、政氏と高基の仲を裂く存在が居なくなった……とも見てとれる。
(「千葉県の動乱」<武田氏と里見氏と小弓公方(1503〜1537)>

しかし早雲の死後も、後北条氏は、長く古河公方家を捉えて離さなかった。

三代高基が息・晴氏(四代)に北条氏綱の娘を娶らせたが、その晴氏も、晩年には梁田氏の娘との間に儲けた子、藤氏・藤政とともに後北条氏に叛旗を翻し、これに上杉謙信も力を貸すべく、ずいぶん関東への出兵に腐心しぬいた。
(「千葉県の動乱」<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>

しかし結局は、氏綱の娘から生まれた五代義氏が後北条氏の傀儡公方とされ、古河公方家は後北条氏にお墨付きを与えるだけの存在となっていくのである。

政氏は 、成氏の興した古河公方家に、早くもそうした後北条氏の影が覆い始めた時代の人だった。

本堂に続く通路の横には十三仏がズラリと並ぶ(^^)
その途中から奥に続く通路が出ていた→
今思えば、これが「政氏の墓」に通じる順路だった気がする(^_^;)。

でもこの寺に入ってきた時、後から後から彼岸参りの車がいっぱい来て、ウチらはちょうど駐車場から車が出払ってた時に入れたようで、来るなり停まれたんだけど、後から詰めかける車を見て、「うわ(^^;)、ウチら参拝でもないのに悪いかも」と内心焦りながら中に入ったのだ。

まぁ私らも参拝ではあるんだけど、普通は彼岸と言えば、先祖や故人の「供養」のために墓参りをするもので、我々のようなのは、どちらかと言えば「観光」(言い繕ってもせいぜい「研究」)だろう(笑)。

なので正直、これ以上停めてていいか、様子を見に行きたいと思って……、

←墓所にも途中まで行き掛けたんだが……
↑引き返した。さっきの中門までの間にある集団墓地

戻るとやはり駐車場は満杯状態で(^_^;)、五輪塔は探しきれないまま寺を出た。

境内にある「足利政氏の墓」というのは、高さ113pの五輪塔を指すようで、そこに「享禄四年(1531)7月18日甘棠院殿吉山道長大禅定門」と銘が刻まれ、館跡と共に県指定史跡になっているそうだ。

甘棠院のその後は、天文17年(1548)火災のため堂宇を焼失したが、翌18年再建され、天正19年(1591)には、徳川家康より寺領百石の朱印地を賜っている。

現在の寺域はおよそ750u、空堀がめぐらされ、土塁も一部残されている……という事だが、ガイドにある方角から推察すると、先ほどの奥庭あたりがそうだったのかもしれない。

←この集合墓地もなかなか壮観で、頂点の仏像の上にカラスが止まってる光景など、戦国期のワンショットっぽくてカッコイイ(拡大→)

遺構・墓の他、歴代住職の頂相など、貴重な文化財が多数伝えられており、所蔵あるいは県立博物館に寄託・寄贈されている。

国指定重要文化財「紙本著色伝貞巌和尚像」(作者は戦国時代の幸手城主で、歌人でもあった一色直朝。「月庵作源直朝」の落款がある)
国認定重要美術品 十三仏版木
     〃      九曜菊散双雀鏡
県指定有形文化財 絹本着色足利政氏
     〃       縹糸威最上胴丸具足
     〃      源氏車紋鞍(付 障泥(あおり)・鐙(あぶみ)・轡(くつわ))
     〃      道憲作十文字鎗
(※貞巌和尚は、政氏の子、あるいは弟)



<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>

↑「加須」は「かぞ」と読む。「龍興寺」は、地図やガイドでは「竜興寺」で出て来る。

「甘棠院」(地図)から北西方面に少しいくと、今度は政氏の祖父・持氏と、その子(政氏にとっては叔父にあたる)春王丸安王丸の墓所(供養塔)のある「龍興寺(竜興寺)」(地図)に着く。

持氏
┬義久                         ┌義氏D−氏姫
   ├春王                         ├藤氏    |
   ├安王             ┌高基B−晴氏C┴藤政    ├義親(喜連川)
   └成氏(永寿王)@−政氏A┴義明(小弓公方)−頼純−−頼氏


持氏の墓は、鎌倉別願寺の方が有名かも(^^ゞ。
別願寺にあるのも、やはり「供養塔」で、どちらも後の関東公方が建立したものという。
一方、これよりいく龍興寺の供養塔は、持氏の四男・成氏古河公方初代)の建立と伝わる。

……だいたい墓というのは、死後、後の人が作る物だから、墓でも供養塔でも同じだろうが(^_^;)、鎌倉は成氏以後、50年以上も打ち捨てられ、荒廃しきって廃屋・廃寺だらけだった所を、後北条氏が入って復興させた所だ。
そこに続いた古河公方五代の義氏というのは、後北条氏の傀儡公方だからね(^_^;)。

やっぱ肉親である子(成氏)や孫(政氏)のいたこちら、古河の近くの地域で供養されていた、と考えるのが自然に思える。

途中の道(^^)、わりと街中から……
こんなだだっ広い平原に出る

で、さっき「甘棠院(政氏墓所)」でも言った通り、これより政氏の祖父・持氏の墓所にいくので、古河公方より前時代の鎌倉公方(鎌倉府)にちょっと遡って話す。

<足利将軍家と鎌倉公方>

┌尊氏@┬義詮A−義満B┬義持C−義量D ┌義勝F
|     |           └義教E−−−‐−+義政G−義尚H        ┌義輝L
|     |                        ├義視−−義植I  ┌義晴K┴義昭N
|     |(鎌倉公方)                └政知−義澄J−−┴義維−義栄M
└直義…└基氏@−氏満A−満兼B−持氏C┬義久
                             ├春王
                             ├安王       ┌高基B−晴氏C−義氏D
                      (古河公方)└成氏@−政氏A┴義明(小弓公方)

鎌倉公方の初代・基氏は、足利将軍初代・尊氏の子であり、二代・義詮の弟である。
尊氏の弟で、尊氏と観応の擾乱で争い合った直義……すなわち叔父の養子となって、直義が配備された鎌倉に続けて配備されたのである。

父(尊氏)と義父(直義)が諍いあったように、兄・義詮と基氏の間も、良好とまでは言えないまでも、鎌倉と京の間に不穏の気配は感じられない。


が、二代氏満が「康暦の政変(1379)」の折、三代満兼が「応永の乱」(1399)の折と、二代続けて、京の足利本家(将軍)に対し謀叛の動きを見せた。

その動きは折々の関東管領・上杉氏(憲春・憲定)に諌止されたり、京本家と和解となるなどで、大事に至る未然に食い止められた。


←到着。「竜(龍)興寺」(地図)。

四代・持氏に至って、今度は前・関東管領上杉氏憲禅秀)が「上杉禅秀の乱」(1416〜17)を起こした。(「千葉県の動乱」<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>
乱は幕府によって鎮圧されたが、持氏はその後「永享の乱」を起こし、京将軍(六代・義教)や幕僚などの息がかかった関東管領・上杉憲実と対立・抗戦、もはや持氏自身が幕府による討伐対象とされ、あげく持氏自害(1438年)に至るのである。(「千葉県の動乱」<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>

持氏の長男・義久は、持氏とともに滅ぶが、二男・春王、三男・安王結城氏の援けで挙兵し、失敗して殺される(結城合戦=1440年)。

今回は「上杉禅秀の乱」から、「永享の乱」によって持氏が滅ぶまで、少し詳しく書いて行きたい。


前の通りを挟んで向かいは、拓けた田園風景↓

9月、やや色付き始める稲田(パノラマ4枚180度以上)

「上杉禅秀の乱」を起こした上杉禅秀(犬懸上杉氏)は人事問題で持氏と対立、管領職を辞し、替わって上杉憲基山内上杉氏)が就任していた。

<関東管領上杉氏>(超・略系図(^_^;))

┌重顕(扇谷)−朝定−顕定−氏定
├憲房┬憲藤(犬懸)−朝宗−氏憲禅秀
└清子└憲顕(山内)−憲方┬房方(越後)−憲実
  ├−−┬尊氏       └憲定−憲基
足利貞氏 └直義

禅秀の叛乱に加担したのは、千葉兼胤(下総)・岩松満純(上野)・那須資之(下野)・武田信満(甲斐)といった、まずは禅秀の婚姻関係者の名が上がる。

次いで、持氏の叔父の足利持隆・弟の持仲結城白河満朝南部・葛西(陸奥)、山入佐竹与義小田持家・治朝大掾満幹(常陸)、宇都宮持綱(下野)、曾我・中村・土肥・土屋(相模)、加納(伊豆)、他に信濃、武蔵の国人たちなど多数に上る。


上に見る通り、禅秀には婚姻関係が手広く、関東でも特に有力豪族ばかりと結んでいる。
ゆえに強気であった、とも言えるが、それにしても禅秀が諸将に決起を促した内容が、「不義の御正道を正す」ためだという。

……ずいぶん思い切った言い廻しに聞こえる(^_^;)。日本に多い(特に後の戦国期に多い)下剋上の手法とは、ちょっと違うノリを感じる。
下剋上の場合、「君側の奸を除く」辺りが定例句に思える。

「主君そのものを討つ」とは言わず、「主君を惑わしている悪い家臣(近臣なり)を討つ」とボカさないと、味方して貰えないからだね(^_^;)。

それが「不義の御正道」、すなわち、「持氏その人が間違っている」とぶっ放して、これだけ大勢の味方を得たわけだ(^_^;)。。
ある意味ホントの下剋上とも言えるかもしれんが(笑)。

慌てて逃げ出す持氏には、上杉憲基はじめ、従った供の数が500余騎、遅れて持氏から要請を受けた長沼義秀なども加わったようだが、由比ヶ浜合戦に敗れてからは、逃げる一方だった。


そのまま鎌倉を出て小田原に逃げ、禅秀軍が小田原を攻撃して放火すると、夜陰を箱根山に入り、箱根山別当の案内で、駿河国の大森館を経て、瀬名に逃げのび、今川氏を頼った。(関東管領・上杉憲基は箱根山ではぐれ、越後を目指して落ちた)

←境内見取り図

その頃になって、幕府は今川氏と越後守護の上杉氏に持氏の保護を命じた。

やや悠長と言える(^_^;)。事件から27日後である。
遠い東国の出来事で直接被害を受ける危険が低かった事や、ひどく風聞が多く判断しにくいなどもあっただろう。

またこの時代、東西の管轄は鎌倉府と京の幕府とで、かなりハッキリ分かたれていた事も伺える。
四代将軍・義持が、管領以下、家臣らと協議を重ねて決定に及ぶ過程を見ても、畿内や中国・九州地方に比べると、東国は自己の権限一つで命令できる場所でなかった、という説も登場する。

一方で、どうも四代将軍・義持が、あまり持氏救済に積極的ではなかった感じもする(^_^;)。

しかし、ようやく幕府が持氏への支援を決定した10月29日の翌日、義持の実弟・義嗣が、突然出奔して高雄にこもって出家を望む、という事件が起きた。
これが、一時は命数尽きたかにさえに見えた持氏を救う事となるのだ。


境内に入ると、すぐ迎える青石塔婆
(拡大)鎌倉後期の物

↑緑泥片岩を材料としている。刻まれた銘によって、当時から「青石塔婆」と呼ばれていた事が判明。
塔婆は鎌倉〜室町に隆盛した死後往生を祈る信仰だが、これは鎌倉後期の文永8年(1271)年の物。元寇の三年前だね。県指定文化財。

義嗣が捉えられ尋問を受けると、義嗣は舅の禅秀と東西呼応し、義持政権の転覆を計っていた事、禅秀決起後の関東に向かって禅秀と合流を図った事、前年の北畠満雅の叛乱も、義嗣が関与していた事などが次々と露呈された。

ただし、関係者の逮捕による証言・尋問の類は、内容がドンドン膨らむ一方で(^^;)、義嗣与党というのも、管領細川や・山名・赤松・日野など幕僚も含めた最有力豪族の名まで次々と出て来て、始末に負えない状態に陥った。

だから、上に言ったどこまでが真相かはわからないが、何しろこれらの発覚の途端、それまで緩慢だった幕府の動きが一転して、急スピード&積極的に禅秀討伐に向かった。


順路を進むと、やがて本堂に到達→

持氏が駿河今川氏の保護下に入ってから二ヶ月後の12月下旬、幕府の意向を受けた今川範政が、関東の禅秀派に対し、「代々の忠勤が消え、所領は他人に充当される」と忠告をつけて寝返るよう促した。

その途端、持氏の味方へと寝返る者が続出。

禅秀軍は正月明け、一度は小田原合戦で形成を有利に展開したものの、大半が寝返る様相に抗しきれず、鎌倉、雪の下で、持隆持仲禅秀父子の自刃となって叛乱の幕を閉じた。

つまり事件より二ヶ月も経った頃、関東諸将らが、「禅秀は幕府の敵」と認識した事になる(^_^;)。。
さらに、彼ら禅秀与党は殆ど幕府による処断を受けず、禅秀の子に至っては幕府から扶持を得て大事にされ、京では「関東において自害の輩」への追善供養まで行われた。。

ただし、この時点で、「将軍・義持が(持氏を殺すため?)禅秀の決起を裏で策動した」とまでは決めつけ切れない。
義持(四代)や義教(六代)が、関東の反持氏勢力と提携したと言えるのは、むしろこれより後である(^_^;)。


凄く仲のイイお散歩ワンちゃんと飼い主サン
(拡大)構って貰ってるのだ♪

境内では、多くの参拝客と出会ったが、誰も皆、親しげに挨拶をかけてくれた(^^)。
お寺が地域の社交の場になっているのかもしれない♪

まず、禅秀の乱が終息した後の持氏による、禅秀与党への報復……これが執念深く、エンエンと長く、かなり凄まじい(^^;)。。
特に禅秀と婚姻関係にある有力豪族たちは、徹底的に報復・弾圧された。これらの行為を、持氏はよく「禅秀与党退治」などと称した。

岩松満純
、上野国で囚われて処刑。
武田信満、甲斐に攻め込まれて木賊山で自害。
千葉兼胤は乱の最中に降伏したので、辛うじて一命を取り留めている。
しかし禅秀の領国の上総国では、上総本一揆が乱後に降伏したが、これは許されなかった。


ハートのついた石燈籠♪
整った禅風庭園に三蔵法師の一向も(゚.゚)

甲斐国の守護には、持氏は逸見有直を推したが、幕府は禅秀に加担した武田信満の弟、信元を立て、小笠原政康がその支援を命じられたが、逸見氏・穴山氏が信元の入国を阻んだ。
(「千葉県の動乱」<上杉禅秀の乱(1416〜1417)>

常陸国の守護には、佐竹義憲を持氏が支持し、これと対立していた山入与義は幕府を頼った。

……このように、京の将軍と鎌倉公方が対立する歴史は、前に、下野国の「小山氏の乱」(1380〜82年・1397年)を取り上げた時も、これが鎌倉公方2代・氏満(+宇都宮基綱)と、3代将軍義満(+小山義政)の代理戦争的な色合いを帯びている事を述べた。(2012年6月<宇都宮城址公園>内

義持・持氏の場合、その関係に亀裂が生じた直接要因は、「京都扶持衆」なる者らの存在を巡る攻防である。

持氏は常陸の守護について、自分が支持した佐竹義憲ではなく、山入予義を決めた幕府の意向に沿わず、やがて山入予義を死に追いやってしまうわけだが、この山入予義が、その「京都扶持衆」であったのだ(^_^;)。。

精巧な「西遊記」の石像達、背後の山門や……
墓地の五輪塔も、物語の背景のよう

「京都扶持衆」の起源がいつに遡れるのか、存じません(^_^;)。
東国に関しては1423年前後から出て来るらしい。だいたいこの小栗征伐の頃から現れて来るのをよく見掛ける。

室町時代には、よく「分国」という言葉が出て来る。
鎌倉府の知行地だと「関東分国」、幕府直轄にあたる場合は「幕府分国」である。

「京都扶持衆」とは、「幕府分国外」の武士でありながら、幕府の扶持を受けている者を指す。

宇都宮・佐竹(山入)・常陸大掾・小栗・真壁・那須・結城白河・桃井などが相当する。
禅秀に与党した氏族が多い事が注目される(^_^;)。


禅秀の乱で将軍義持は持氏の支援をしたのだから、乱終息の1417年から1421年ごろまでは、表向きには、京と鎌倉の間に諍いの要素は薄かった。
使者を遣わしたり謝礼の贈答なども行われ、京と鎌倉の関係は良好と言えた。

しかし潜在的には、禅秀の乱の終息した翌年(1418年)には、桃井宣義・小栗満重の陰謀が露見したと言って、持氏が長沼氏に退治を命じている。


←この玄奘三蔵一向の石像がある位置に山門が続いている→

我々は駐車場から来たので、本堂から先にお参りしたが(^^ゞ、本来はこの山門を潜って入り、その正面には虚空蔵堂がある。

幕府と鎌倉府の対立が目だって来るのは、1422年、小栗討伐の前年あたりからである。
この年、小栗・宇都宮・桃井氏らが持氏に反逆する事件が起こった。

そして持氏は、関東管領・上杉憲直に攻めさせて、さっきも言った通り、持氏に反逆した山入予義を死に追いやったのだ(>_<)。


下野の宇都宮持綱・桃井宣義・佐々木基清なども、次々と反持氏として立ち上がった。
また、これらの影には幕府の示唆が働いていたと言われている。これで幕府と鎌倉府の対立関係は決定的となった。

義持の動きとしては、宇都宮氏に「関東に従わないように」との御教書を下した形跡が、義持の護持僧の日記満済准后日記に顕れてくる。もはや表面的にも険悪な状態が露呈している。

義持の言い分は「常陸甲斐は、関東進止国(鎌倉府が守護などの任命権限を有する国)だが、持氏も(幕府の権限下にある)京都扶持衆を切腹させた(のだから、越権されても仕方ない)」と横やりを敢えて承知で、守護の任命に触れ、受けて立つ姿勢を取った。

常陸の佐竹一族の額田秀直・小栗満重も表だって反持氏となり、持氏は自ら出兵して小栗討伐を行うに至った。

(2010年10月<「小栗城跡」東方、「内外大神宮」)><「小栗城跡」周囲をウロつく(小栗判官の話)>内

←虚空蔵堂・↑こちらから来た。↓「西遊記」・山門→(パノラマ6枚180度以上)

関東国人への軍忠状によれば、持氏の指揮する鎌倉府軍は下総国の古河に陣取って、小栗に進軍、小栗城を大軍で攻め落とした。
宇都宮持綱・桃井・佐々木氏らも誅された。持氏は真壁那須にも軍を差し向けた。

幕府側は、駿河の今川氏、信濃の小笠原氏武州一揆上州一揆など白旗一揆・武蔵や上野の国人、南奥羽の篠川公方・満貞(持氏の伯父、この頃から京都扶持衆の一員)、奥州探題・大崎氏などに協力を呼び掛けて応戦。

持氏寄りだった稲村公方・満貞は劣勢となり、以後は鎌倉に帰って、持氏の歓待を受けた。
持氏もようやく謝罪の使者を出し、義持もこの時期には和睦の意思を固めており、1424年、義持と持氏は和睦した。

今度は逆(進行方向)←山門・持氏墓所↓・虚空蔵堂→(パノラマ5枚180度以上)

1425年、義持の子、五代将軍・義量が若くして亡くなると、鎌倉公方・持氏は「義持の猶子になりたい」と、次期将軍を目指して名乗りを挙げた(^_^;;;)。。

しかし義持は自身に男子ができる望みをかけ、次の将軍を決めず、「義量の後見」の座のままに、事実上は政権を担っていた。

なので室町幕府の五代から六代の間には、三年ほど、四代将軍による「将軍代行」(将軍不在)という期間が存在する(^_^;)。

和睦後の京幕府と鎌倉府の間には、上杉禅秀の遺児をめぐる摩擦も少しあったが、概ね平穏な関係のまま、義持はこの世を去った。

しかし死を前に、敢えて次期候補を定めぬ方針を貫いて四代・義持が亡くなると、くじ引きによって六代将軍・義教が誕生する。

この後継者選びのくじ引きの中に名前さえ入れて貰えなかった持氏は、義教の就任に反対の意思表示のため、兵を率いて上洛すると言い出した(^_^;)。


←そして古河公方・成氏の建立と伝わる「足利持氏・春王・安王の供養塔(県指定史跡)

案内板の記述↓

 室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を治めるため次男の基氏鎌倉公方として鎌倉に下向させた。
 しかし、四代目持氏の頃には勢力をのばし、幕府と対抗するようになった。そこで幕府は、鎌倉公方の力を弱めようとして、持氏と対立している上杉氏関東管領)を助け、永享11年(1439)に持氏を滅ぼした。これが世にいう永享の乱である。
結城(茨城県結城市)に逃れた持氏の三人の子春王安王永寿王は、翌年の結城合戦で捕えられ、幼かった永寿王を除いて斬られた。このとき春王13歳・安王11歳である。
 三基の石塔は、この乱に敗れて自害した持氏とその子春王・安王の供養塔で、ひとり行き残った永寿王(足利成氏)が、父と兄のために建立したものといわれている。
 なお、龍興寺に建てたのは住職の曇芳(どんぼう)和尚が持氏のおじに当たるためといわれている。
  加須(かぞ)市教育委員会

↑とある通り、結局、幕府と上杉氏が手を組んで、鎌倉公方を滅ぼしたわけだが、この時に登場する、関東管領上杉氏は、その前に持氏とともに、上杉禅秀の急襲から持氏を連れて逃げた、上杉憲基とは違う人物である。

<関東管領上杉氏>(超・略系図(^_^;))

┌重顕(扇谷)−朝定−顕定−氏定
├憲房┬憲藤(犬懸)−朝宗−氏憲禅秀
└清子└憲顕(山内)−憲方┬房方(越後)−憲実
  ├−−┬尊氏       └憲定−憲基
足利貞氏 └直義

↑「憲実」というのがこの先登場する、関東管領である。
この人物を見る時、後に上杉の名跡を継ぎ、聖将と謳われた上杉謙信の行動規範に流れる、他の戦国武将と異質な血流の、さらに骨髄に触れる思いがする。

憲実は、殆ど関東管領として持氏と幕府の間を取り持つためだけに教育されたような人物である。
遡る1419年、わずか10歳で関東管領職に就任した(^_^;)。

そして持氏が上洛戦を起こそうとしたこの時、ようやく19歳で表舞台に登場し、「上野国からの注進で、南朝軍の新田氏が鎌倉を攻撃してくる」と虚言を用いて持氏を驚かせ、思いとどまらせる事に成功している。


瓦屋根のついた建物は、雨風除けに最近作られたんじゃないかな(^^ゞ。
中の供養塔は、順序はわからないけど、持氏・春王・安王の三基。

春王
安王は、古河公方初代・成氏にとっては兄達。
今語っている「上杉禅秀の乱」「小栗合戦」「永享の乱」の後の「結城合戦」(1440年)に敗れて捉えられ、処刑された幼い兄弟だ(;_;)(「千葉県の動乱」<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>

上杉憲実の邪魔が入って、義教の将軍就任を阻止こそできなかったが、持氏は生涯、義教を六代将軍として認めず、義教が将軍になって以降の改元には悉く従わない、という方法をもって、その意思表示とした。
伊勢北畠氏の反幕挙兵の時も、持氏と北畠氏の連携が指摘された。

供養塔に春王・安王、そして説明にも永寿王(成氏)しかないが、実は持氏が追討された時、持氏とともに死んだ嫡男に「義久」というのがいて、この「」の字は、将軍の後継者だけが名乗りを許される諱なのに、持氏は許可なく自分の嫡男に命名している。

<足利将軍家と鎌倉公方>

┌尊氏@┬義詮A−義満B┬義持C−義量D ┌義勝F
|     |           └義教E−−−‐−+義政G−義尚H        ┌義輝L
|     |                        ├義視−−義植I  ┌義晴K┴義昭N
|     |(鎌倉公方)                └政知−義澄J−−┴義維−義栄M
└直義…└基氏@−氏満A−満兼B−持氏C┬義久
                             ├春王
                             ├安王       ┌高基B−晴氏C−義氏D
                      (古河公方)└成氏@−政氏A┴義明(小弓公方)


一方の六代将軍義教は義教で、篠川公方・満直が野心をもって、鎌倉府の頂点に立ちたいと言って来ると、これまた三管四職の協議を無視して、勝手に満直の希望通りの御内書を出してしまうなど、四代・義持だったら取らなかった専横をふるい、後の嘉吉の乱を招く予兆のような、専制君主ぶりが顔を出していた(^_^;)。

が、実際、京の義教に対しては、関東管領・上杉憲実が賀使を差し向け、鎌倉府から祝福を受けている態が取り繕われていた(^_^A)。

元号に従わない持氏の事も、憲実が謝罪のため幕府に使者を送って、事無きを(勝手に)得ていた(^_^A)。

その後も、義教は持氏を牽制するために富士山遊覧を実行したり、持氏の方でも鎌倉の鶴岡八幡宮に、義教への呪詛の血書願文をしたためたり、互いに対抗心を燃やし合いながら日を過ごした。


持氏らの供養塔をさらに過ぎると……
墓地区画の一部に「秋池又三郎の墓

この「秋池又三郎」は、「義侠」として崇められてるようで、傍らに立つ教委の標には「博打で得た金を貧民に与え“義侠様”と慕われた。この仏に線香を手向ければ、いかなる願いも成就するという」と書かれていた。

この後も、引き続き持氏の話を繋げるが、ここ「龍興寺」とはこれでお別れ(^∧^)。<合掌

このお寺は、先ほどの「甘棠院」と同じく、臨済宗の円覚寺派、寺の号は「大光山」。
大同年中(約1200年前)天佑和尚の開山と文書に残り、古くから足利氏と関係が深かった縁で、持氏・春王・安王の供養塔が現存している他、足利氏ゆかりのものも多く伝わっていたらしく、足利成氏寄進の達磨画像持氏束帯像があったといわれるが、現在残されているのは、足利家から寄進されたという足利政氏・義氏からの寺領安堵状

他に、代官・間宮忠次の書状など51点を伝え、現在これらは、県立文書館に寄託され、町指定有形文化財として保護されている。

〜その他の主な文化財〜
○青石塔婆(県指定史跡)
○石敢当(町指定有形民俗文化財)
○寛文六年銘庚申塔(町内最古)
○大相撲行司 木村藤次郎の墓
○侠客 秋池又三郎の墓
○虚空蔵菩薩(縁日1月13日)




<行田→熊谷ドライブ(復元・忍城)>

埼玉はごく近い県なので、これまでも何度か通りはしたが、レポをするのは殆ど初めてだと思う。
最初の「甘棠院」(地図)は久喜市、次の「龍興寺(竜興寺)」(地図)は加須市と、南から北に出て来たが、これより埼玉北部を東から西に横切る。

次の目的地は「畠山重忠史跡公園」となるが、途中、「せっかくだから近くを通ろう(^^)」と、旧跡を辿りながら行った。

通ったのは、行田市→熊谷市→深谷市の順。
まず行田では、有名な「忍城」の傍を通った。現在ある天守閣は復元だけどね(^^ゞ。

次に、「熊谷直実の館跡」と史跡ガイドに載ってる位置を目指したが、結果から言うと、こっちは殆ど史跡らしき態を成してない感じだった(^_^;)。

目的地の深谷市「畠山重忠史跡公園」到着は、次回に廻す。
途中のドライブ道を、まだ語り終えてない、持氏の最期まで話して今回のレポを締め括る事としよう。

水城公園」、道の左が「しのぶ池」
右に「行田ゼリーフライ」の店(^O^)

地図←水城公園
ちなみに「ゼリーフライ」とは、芋を使ったフライ(揚げもの)で、野菜コロッケに近いとか。
「ゼリー」というのは、芋を平べったく伸ばして揚げる形が、「銭」に似ているのにかけて……という事らしい(^^ゞ。

持氏の「禅秀与党」への復讐心は相変わらず枯れず(^_^;)、禅秀の舅・武田信満の次男、信長が鎌倉在住の掟(関東分国の守護の義務)を破って甲斐に逃げ帰り、駿河に渡ると、持氏は幕府に信長の処刑を要求して悶着が表面化した。

幕府は信長を庇いながらも、駿河から出て行くよう促すと返答したが、持氏は納得せず、さらに今川氏の後継問題でも、扇谷上杉氏と関わりのある者を推薦する。
しかし義教は、今川範忠を守護とするなど、持氏を徹底して牽制し続ける一方で、延暦寺が持氏と組んで、義教への呪詛と叛乱を企んでいるという風説まで流れ、東西に不穏な空気が伝え廻った。

それでも上杉憲実は、関東から幕府にむけて献馬を差しだすなど、実際の持氏の思考とは正反対の動きを示しつづけて(みんな自由すぎる(^_^;))、京でも「幕府寄り」と受け止められ、持氏と対象的に好意と高評価を得る存在になった。


(拡大)「行田名物ゼリーフライの店」
公園と周辺の見取り図

見取り図は左下が大きな池をたたえた公園、右が官庁街、右上に「忍城」という配置。

信濃国では幕府寄りの小笠原氏に対して、村上頼清が鎌倉公方に支援要請をしたため、憲実の反対を押し切って、持氏は信濃に出兵してしまう。
憲実はやむなく持氏の兵を、自軍によって阻止する事となり(^_^;)、翌年再び持氏が「小笠原退治」と称して出兵しようとすると、これが憲実を討つための兵だという噂が流れて、持氏が慌てて打ち消す始末となった。

持氏と憲実は話し合いの場を設けたが、辞職しようとする憲実と、引きとめる持氏の摺れ違いが続くうち、信濃では小笠原氏が勝利し、「持氏が憲実を追討する」という風聞が起つ。

憲実は恥じて自害を企てるが家臣に止められ、持氏に攻め殺されては、不忠者とされてしまうので、戦を避けるため鎌倉を離れようとした。

義教に利用されないため、幕府と通じると見られる事も避けねばならず、方角を上野方面に向けて発った。

←忍城「御三階櫓」(1988年再建・地図
↑角度を変えて、「あずま橋」と「東門」

話は鎌倉&上野国だが、ここはそのちょうど中間の武蔵国でつ(#^.^#)。

忍城成田氏の城で、石田三成の水攻めでも落ちなかった「浮城」として有名。
前年(2012年)映画「のぼうの城」で取り上げられたので、街ではさぞ映画にちなんだ看板や幟など立てられてるだろうと思ってら……、1箇所も見なかった。これはこれで好感(≧▽≦)。

ちょうどよく、持氏×幕府の戦争も佳境に入って来たので、忍城を見ながら持氏の最期を語る。

この時、相模でも上野でも、幕府軍と鎌倉府軍の戦いが起こっていた。
相模で憲実追討に立った持氏に対し、幕府は持氏追討の軍を起こし、持氏に背いて寝返りする武士が続出。次々と見限られ、見捨てられて、持氏は道々に長尾忠政と行き合った。

長尾忠政は、上野から鎌倉に来た上杉憲実が向かわせた上杉氏の家宰で、忠政とともに鎌倉に入った持氏は、浄智寺に入り、後に永安寺に移って剃髪した。
近臣の多くが称名寺で切腹したが、持氏は永安寺で一ヶ月を過ごした。

憲実は幕府に持氏の助命を願い出たが、幕府はこれを退け、持氏のいる永安寺と、その嫡子・義久のいる報国寺を攻める命を下したため、憲実も千葉胤直らに攻撃命令を下し、憲実自身も追手に加わった。

持氏は若公・姫君ら七人を自らの手で殺害、寺に放火して自害。
稲村公方・満貞はじめ近臣20数名がともに果てた。

こうして「永享の乱」は幕を閉じた。(「千葉県の動乱」<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>
(※浄智寺・永安寺・報国寺は全て鎌倉ね(^^ゞ。一方、ここは武蔵北部です:笑)

さらに西に来て「熊谷寺」(地図
目印は……隣の「熊谷・聖パウロ教会」かなぁ

「熊谷寺」とは、「熊谷直実の館跡」と伝わる寺なんだけど、地図でもガイドでも、すごくハッキリ「熊谷寺」と書かれ、敷地も広いのに、着いてみると、周囲を家や店舗がギッシリ建てられた細い路地に囲まれた寺らしき敷地は、ゴッソリと塀や木々に囲まれて、全く中が見れないし入れなかった(^_^;)。。

何とか近寄れた一箇所から撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

「平家物語」では、我が子・直家と同年齢の平敦盛の首を取らねばならなかった武士の業(ごう)への悔恨から、法然に帰依した事で有名な熊谷直実の館跡だからだろう、ここ「熊谷寺」は浄土宗である。

だが実は、熊谷直実の出家は、父の遺領を横領した(と直実が訴える)日下氏との対決で、直実が弁論を不得手としたため、疑われて何度も審問を受けた屈辱に対し、髻を切って出奔したものであった。
直実は幼くして父を亡くし、一族の日下氏に預けられていた。そのために、そうした複雑な事情に身を置かざるを得なかったのかもしれない。

勿論だからと言って、法然の門を叩き、念仏による往生に生業の差がない事を確かめた、という逸話まで嘘とは言えないだろう。

ただ、どうも自分が関東に長く暮らすせいか、我が子と同年齢の敵の若武者への思い入れだの、殺生を生業とする者の信仰などより、本領安堵を適えて貰うために命がけで戦った功績が口下手で叶えられない、という無念の方が、何倍も心に強く突き刺さる。

武蔵は平家の影響力が強い地域だった。
畠山重忠(の史跡には次回いくが)にせよ、熊谷直実にせよ、頼朝に疑われる原因の深層には、元はと言えば頼朝の挙兵時、平家に付き従っていた事があったのではなかろうか。

こうした二大権力に翻弄される懊悩は、鎌倉に君臨した鎌倉公方が、何かと幕府に対抗しては、北関東の武士らと悶着を起こすたび、再び繰り返された。

以上、関連事項(のみ、01/30追加)
2008年7月「千葉県の動乱」vol3
2012年6月<宇都宮城址公園>内

2010年10月<「小栗城跡」東方、「内外大神宮」)><「小栗城跡」周囲をウロつく(小栗判官の話)>内




次回は、「埼玉北部編」の続き、「畠山重忠史跡公園(畠山氏館跡)」の後、鉢形城跡の傍を通って、秩父の「円福寺(平将門の弟・将平と畠山重能の五輪塔)」「秩父神社」で終わりなんだけど、全部行けるかなぁ〜(^^ゞ。

<つづく>

2014年01月15日
 
     





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