<2018年・城主のたわごと4月>




2017年7月は手賀沼「星神社」。8月は久々日帰り旅行!

川口「長徳寺」、栃木、皆川氏と佐野氏の城とお寺(^O^)




     
  冒頭は例によって宣伝(^。^)、前5回と同じ↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「湯島天神(天満宮)編
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>

この前後も……、

境根原古戦場ウォーキング(2016年6月号)、松戸の根本城跡(同7月号)、北総の龍腹寺(同11月号)、松戸の中根城跡・上本郷城跡・上本郷館跡ウォーキング(2017年4月号)、北総の龍角寺に松戸戸定邸(4〜6月号)、東京の清澄庭園・手賀沼の鷲野谷城跡(8月号)、松戸の根本城跡、萬満寺(9月号)、茨城の東林寺城跡(2018年1月号)

など、小ネタ史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り……↓

〜おしながき〜「武蔵千葉氏編」1〜4
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

その前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

その前の古河も出しとこか(^。^)↓(それはもいって?www)

〜おしながき〜「古河編」1〜2
2015年「4月のたわごと」(古河1)
■11月・茨城県古河市
<関宿を経由して古河へ入る>
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>
<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>


同「5月のたわごと」(古河2・他)
<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」> ■11月下旬・茨城県古河市
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)、2>
<「長谷寺」(長谷観音)>
<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>
<古河総合公園A旧民家(中山家と飛田家)>
<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>
<古河総合公園C「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>
<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>
<鳳桐寺>
■11〜12月・千葉県北西部
<晩秋〜初冬の風景>

1月号の後、確定申告につき、たいそう間が空いた(^_^;)。
申告終わってスグ着手できれば良かったんだけど、亭主の故障やら急に決まった旅行やらで、思いのほか時間がかかってしまい…… (>_<)。。

さて今回は、最初ちょっとだけ地元、手賀沼近くの「星神社」をやるけど、その後は次回号と連載で、栃木県南部の「栃木〜佐野の日帰りツアー」レポをやりたい(^^)。

行った場所は、まず埼玉県川口市の「長徳寺」、そこから高速で栃木まで行き、皆川氏の「皆川城址」と、その墓所「金剛寺」。
そこからちょっと西に移動し、葛生でお昼を食べ、佐野氏ゆかりの「本光寺」。

その次に、同じく戦国期の佐野氏の居城「唐沢山城跡」に行くんだが、向かう途中までで、次回に引き継ぐ。



■千葉県柏市・7月
<星神社>


最初の一枚だけ、我孫子市の写真があって、それが……↓

手賀沼北岸の「水の館」(地図)↓
手賀大橋(地図)からも見える→

北岸から「手賀大橋」を渡った。
つまり、これよりレポする「星神社」が、手賀沼の南(柏市)にある、という事(^^ゞ。

前に同じく沼南の「鷲野谷城跡」をレポした時、↓

「鷲野谷城跡」のある鷲野谷村は、その中心に「妙見社」(現在の「星神社」)があり、その周囲に「龍光院(将門神社)」「善龍寺」「医王寺(薬師堂)」「香取神社」と社寺地が密集しており、前述の「将門ウォーキング」においても中心的エリアと言えるのではなかろうか。

と書いた。(2017年8月<鷲野谷城跡>内
その「星神社」に行ってみたので、今回はレポしてみよう(^O^)!

通常は近くの舗装道路(地図)をよく通るし、一般車両もわりと行き来するので、そこから入る方が行きやすい(始めて来る人はわかりやすい)んだが、上記の文章にもある通り、将門神社(龍光院=地図)のエリアにあるので、周辺のムードをお届けすべく、神社の裏手から廻って来よう。

「将門神社(龍光院)」に隣接してる畑地の奥にある鰻屋「鳥善」(地図)を、以前にレポした事がある。(2008年12月<鳥善(うなぎ(^。^))>内
そこへの通り道を、途中からチョチョッと曲がると↓

善龍寺地図)にいきあう
←を左に見て右折、森林道をゆく↓

森林道の終わった所で左折すると、ちょっと幅広い道に出る↓

星神社」(地図)に到着(^_^A)

神社独自の案内板などは無いが、沼南町(柏市)教育委員会が「沼南の歴史をあるく」と銘打ち、町内の各地に番号を振って建てている標柱には、こう書かれている。

「19 星神社
 星神社の祭神は妙見大明神で、他に鷲神社兵主神社の祭神も合祀されています。
妙見社と同じく2月22日、23日に鳥ビシャの神事がおこなわれます。」

←(拡大)拝殿

前に「鷲野谷城」のレポでも述べた通り、古くは「妙見社」と呼ばれていたようだ。
(2017年8月<鷲野谷城跡>内

だから、「星神社」と呼ばれるのも、妙見が北極星信仰と同一のものとして信仰された事に由来するのだろうと思う

この地域の旧領主、相馬氏千葉氏の分家であり、千葉氏の一族は妙見を信仰し、月星紋を家紋に掲げていた。

こんにち各地の妙見神社は、よく「天之御中主神」を祀っているが、それは明治の神仏分離によって、仏教に類する妙見菩薩を神社が祀る事が出来なくなったからで、当時、妙見の名を避けた社名で祀った神社もあり、別名のまま定着してる神社もあろう。
ここもその一例だろうか?

鳥ビシャ」というのは「おびしゃ」と同じく、的を弓矢で射る行事。
ただ、その的(マト)に、「」「」などと書いて射るので、「鳥ビシャ」と呼ばれるようだ。
節分に鬼を祓うのに似た「魔除け」「厄除け」の行事だが、「鳥」を特に追い払うのは、農作物を食べたり荒らしたりするからだろう。農業民の祭事(神事)と言える。

ちなみに「おびしゃ」で検索すると、柏市、佐倉市、流山市、成田市、野田市、市川市と、千葉県ばかりが集中して多く出て来る。

拝殿の内部。神輿が収納
合祀の各祠

拝殿前の脇一列に集められた各祠には、削減や摩滅によって読めない部分もあるが、判読できた字には、「稲荷大明神」「山神」が一祠づつ、「疱瘡神」と並んで、「三峰明神」(判読しにくいが恐らく)と書かれてる一祠があり、「四国三十三寺」と書かれた四国巡礼記念のような石碑もあった。
慶応4年」と読める裏書も見られた(明治1年と同年の1868年が相当する)。

以上、「鷲野谷城跡」のあった鷲野谷村で、中心にあった「妙見社」(現「星神社」)を初めて参拝に訪れた。

前のレポ(2017年8月<鷲野谷城跡>内でも述べた通り、鷲野谷城は出城で、この星神社の位置に、この地域の本城があったとする伝えもあり、室町時代の1395年に、相馬氏の領地であったものが、戦国後期の1590年には、高城氏の家来、染谷氏の城となっていた。
今見た石碑類にも、施主として染谷氏の名が見られた。



■8月・埼玉県川口市、栃木県栃木市・佐野市
<川口「長徳寺」、@裏門〜本堂>


この8月は、日帰りだけど久々に旅行したので、このあとから次回号にかけてレポしたい(^O^)。

行った場所は、栃木県の栃木&佐野エリアがメインで、行きがけ(途中)に埼玉県の川口に、帰りがけには足利佐野にも寄った。

前夜に見たサボテンの花(月下美人?)
花に魔法をかけるような夏の月

パッと見た時「ああ、月下美人だな」と思いこんでしまったんだけど、念のため検索して確かめた所……花を上から写した写真ばかり出てきて、このように横から撮った画像が一枚も見つからず、果たして本当に月下美人かどうか自信が持てない(^_^;)。。

何しろサボテンの開花に相応しい真夏の旅立ちだった←コジツケ
勿論、出発したのは翌朝で、この夜は家でグッスリ寝たのよ(^^ゞ

そして翌日……。
すんごく久々に高速に乗った。まずは外環道を川口方面に向かう。

←外環道のこの風景を見た途端、「うわっ久々!」と夫婦で声が揃う(笑)。

亭主の独立以来、我が家は大層な貧乏と先行き不安のため、極力遠出を控えて来たから、何しろ高速に乗る体験がひどく懐かしい!

亭主の仕事は、肉体的にも頭脳的にも神経的にもハードなのに、自営になってからは、長期の休みを取る事が全く出来なくなった。
ただ、時間の使い方だけは自由度を増したので、ちょっとでも時間がある時を狙って、サッとドライブか銭湯入浴でもして、こまめな息抜きで凌ぐ毎日である(A*。*)=3

「まぁ金がかからなくていいか(^_^;)ゞ」と、私は思ってたが、こたつ亭主自身は、「高速に乗らないと、非日常圏に飛び出した感が乏しくて、リフレッシュできない▼*ェ*▼」と、今回つくづく言っていた。

そういう意味では、実に久々の高速なんだわ。
……と言っても、本格的に旅行気分が出て来るのは、この先、東北道に乗ってからだが……。

東北道には、この川口から乗り換えて北上するんだが、この日は川口を少し西に過ぎた川口西まで行って、ひとまず降りる。

最初に訪れたのが、川口市の「長徳寺」(地図(パノラマ縦横3枚)

お寺の存在をどう知ったかと言うと、足利学校の歴代庠主(校長)の一人、龍派禅殊(寒松)の経歴を調べている内に知った。
龍派禅珠は足利学校の庠主となる前、この長徳寺を中興している。

さらに、そもそも長徳寺が、鎌倉公方初代・足利基氏の祈願所として建立された事を知った。
古河公方ならともかく、鎌倉公方ゆかりの寺がこんな所にある事に興味を惹かれた。

川口という所は、ウチからそう遠くない。ちょっと長めのドライブをする気になれば来れる距離だが、現在はそういう時間的なゆとりに乏しいし、何かのついでというような所用があるような場でもない。

だから、この日のように、日帰りとは言え「今日は旅行(^^)」と決めた時にでも来ないと、来ないまま日が経ってしまいがちに思えて、無理やり旅程に組み込んだ(笑)。

門前の禅僧像(龍派禅殊?)
門を入ると建物と奥に続く坂道に会う

駐車場は左側の建物の前にあり、そこに車を停めた後、この細い坂道を登っていった。

長徳寺について、お寺の案内板によると……。

     
  独立丘陵に位置する長徳寺は、鎌倉建長寺末寺の臨済宗幻住派に属し、山号を大智山という。寺伝によると創建は南北朝時代の貞治3年(1364)、足利基氏祈願所として僧秀田によって開基されたと伝えられている。



長徳寺は、臨済宗建長寺派の古刹で開山は古先印元禅師です。
 
     

と二種の説明版にそれぞれ書かれていたが、「開基」と「開山」を別に分ける例はしばしば見るので、「二通り(違う種類)の伝え(由来)がある」という事ではないと思う。

駐車場の前の建物。庫裏か修行所か集会場かと。

駐車場はこの建物の周囲にあるが、駐車場との仕切りの緑地に……↓

可愛らしいお地蔵さんの石像があった(^人^)<ナムナム

↑この真新しい石の自由なデザインのお地蔵さん、6年前に行った大胡の長善寺(大胡太郎の墓のある寺)でも似たようなスタイルの石像を見たけど、同じ仏師(デザイナー)さんかな?

で、ここ長徳寺の正門(表山門)は、実は今入ってきた所ではなくて、この駐車場より坂下にあるんだけど、山門は最後にご紹介する(^^ゞ。

我々は車で来たので、車を停めた後、さっきも入ってすぐ前方に(建物の右に)見た細い坂道を真っすぐに登って行った。

その坂道の登った先が、ここ→

上り詰めても、尚しばらく続く建物の脇を抜けて進むと、やがて本堂の前庭に到着する↓

本堂前(右から入って来た←)(パノラマ4枚180度以上)

この本堂の正面に門があった(上の写真でも左端に門の屋根がちょっと見える)。正式な山門から入って進んで来ると、この門をくぐった真正面に、この本堂を仰ぐ事になるんだろう。
駐車場を目当てに、裏門から入って来た我々は、右方向から←こうやって来たけど……。

これより、本堂の前を横切って伸びる通路を、さらに←こっちに進む。

……通り過ぎる前に、この画像で特筆するのは、左側の「ビャクシン」(ヒノキ科)の樹。本堂を途中から覆っている巨木。
古く中国から渡って来たと伝えられ、鎌倉の建長寺の実生といわれる。根回り4.0m、樹高13.0m、枝張り7.4m四方。県指定。



<川口「長徳寺」、A三重塔〜仁王門>

開基と開山を分けるパターンで、ちょくちょく見るケースは、開基が土地の有力者で、高僧なりを招いて開山させたり、開基の弟子が同門同宗の師の名を開山に充てる、などの図が多い。

手持ちの資料を探すと、「僧秀田が領主・二階堂氏の援助を受け、古先印元禅師を勧請開山として創建したという」とする記述を見つけた。

ネット上これに類するワードを探すと、開基の「僧秀田」が二階堂氏の末裔を称していたらしきが寺の由緒書にあるようだから、上記も、そこからの解釈だろう。

「僧秀田」は、「僧」と「秀田」を分けて読むのか、一繋がりに読むのかわからない(^_^;)。
一方、「古先印元」の方は名のある僧侶で、夢窓国師に甲斐国の恵林寺の住持となるべく要請を受けた事が知られている。

←本堂の前を横切り、ビャクシンの樹を過ぎて、さらに進む。

その後、説明はイキナリ……、

     
  天正10年(1582)に住寺職となったのが本寺中興の祖・龍派禅珠である。この時、寺は栄え純瀾たる文化が花開く。  
     

↑ここに時代が一気に飛ぶ(^_^;)。

いついつの火災で焼失したとか、戦乱で宝物が散逸したとか、経済事情による修繕不能など、何らか「寺の荒廃」といった、お定まりの前段階が一切ないのに、イキナリ「中興」になるのも異様だし、何より「鎌倉公方の祈願所」としての寺の存在証明が、その後どういう経緯を辿ったのか、一切書かれていない(^_^;)。。(理由らしきは後述します)

本堂を通り過ぎて、左右を見渡すと……(パノラマ5枚180度以上)

↑左に石庭、中央は墓所へ上がる階段と仁王門、右には三重塔、という実に壮麗な伽藍配置が奥に控えていた。

「江戸期にイキナリ中興」は、埼玉県に関しては、ここ長徳寺に限らない。
試しに、川口市の周辺に目を転じると、西隣の蕨市や戸田市にも、鎌倉〜室町時代に発祥し、江戸期を通じて今に伝わる寺が数多く見つかるが、全て創建時の記録の後は、一気に江戸時代に記述が飛ぶ(^_^;)。

それが、行基とか徳一、空海、円仁、源義家など、かなり古い時代の名僧や英雄の伝承を発起に見立てる由緒なら、全国的に多い傾向で、「実質は江戸時代から始まったんだろうな(^^ゞ」と容易に納得がいくのだが……。

そこが、鎌倉時代や室町時代の記録となると、年代や人名、宗派、創建動機などに妙な具体性が顕れるものが増える。つまりそこには、伝承の域を出た「史実性」を色濃く感じる。
この地域の寺々には後者の型が当てはまる。

↓まずは左端の石庭
う〜ん。いかにも禅宗のお寺の風情だね(^^)
そして右端の三重の塔
最初はこちらから行ってみよう(^O^)/<おお〜!

……といった所で、時代はポンと飛んで、龍派禅殊(寒松)の中興時代にゆく。

     
   龍派禅珠(号 寒松)は、幼少の頃から円覚寺奇文和尚について詩文を習い、早くから格調の高い文章をものにして、学僧としての才能を発揮していた。



また、天正18年には徳川家康により寺領40石を安堵され、以後長徳寺は将軍家代々の保護を受け、建長寺派四大柱の一寺院として栄えるのである。
 
     

案内板にはこれのみであるが、龍派禅殊は先ほども述べた通り、足利学校の10世庠主(校長)である。
その足利学校で得た資料集によると、龍派禅珠は甲斐国(山梨県)の人である。

三重塔の手前にある裏木戸
階段を上がるごとに屋根が見えてくる

龍派禅殊が、天正10年(1582)に長徳寺の住寺職となったとして、それはいつまでだったのだろう。
と言うのも、龍派禅殊がその後、足利学校庠主になった時期が、実はハッキリしないのだ。

年表の上では、天正19年(1591)になってるものの、それは先代の9世庠主、閑室元佶(三要)が足利学校を離れたのがその頃で、代わって跡を継ぎ、10世庠主となったのが龍派禅殊であるから、隙間(があればそれ)を埋めてそう考えられたと思われる。

閑室元佶が足利学校を離れたのは、秀吉の小田原征伐を機とする。

足利学校の保護者として、後北条氏は絶大な存在感を持っていた。
その後北条氏が滅ぶと、足利学校に所蔵されていた書籍は、秀吉の甥、豊臣秀次(後の関白)によって持ち去られ、閑室元佶も又、上洛を命じられて、足利学校を離れざるを得なかったのだ。

三重塔から見える風景(#^.^#)
(↑ただし、残念ながら三重塔の中には入れないから、これは階段を上って三重塔の足元に立った高さから、その下を写した写真(^^ゞ)

ルイス・フロイスは『日本史』に、次のように書いている。
「足利学校の学僧たちが、関白の支配下に置かれ、地域が戦乱や叛乱(?)に晒され、大学も火災と破壊の被害を受け、教師も学僧も四散し、学舎のあった場も破壊と蹂躙を受けた」(概略)
(何かスゴイ事が書かれてるが、フロイスはこれをどこで聞いたんだろう(^_^;))

文禄2年(1593)……小田原征伐から3年後、京都妙心寺の鉄山宗鈍が、足利学校を訪れて詠じた漢詩には、様々に荒廃した様子が描かれている。
ただ、そう感じさせる表現には、漢詩的な誇張や懐古的な色調も濃いようで、実質的にどうだったのかは何とも言えない。
注目するとしたら、「長い間、講師が教壇におらず、学生の学ぶ姿も無い」という所だろう。

小田原征伐後の足利学校は、学校として機能してなかった期間があった、と見られる。

仁王門の足下に座す布袋尊像
お次は仁王門。釣り提灯に「観世音」とある

書籍類とともに秀次に連れ去られた閑室元佶は、秀次の下で、京五山の学僧とともに謡本の注釈などに従事した。
文禄4年(1595)7月、豊臣秀次は高野山で自刃。この時、閑室元佶は秀次の近くに持していた。

そして慶長2年(1597)、高野山にいた閑室元佶は、伏見にいた徳川家康の下に参じ、以後、相国寺の西笑承兌や、金地院の以心崇伝と共に、家康の幕政で主に寺社政策を助けた。

このようなわけで、足利学校の庠主の座が、閑室元佶から龍派禅殊に譲られた明確な日付は、慶長7年(1602)、家康の命によってであって、小田原征伐による後北条氏の滅亡から、実に12年もの歳月を要するのである(^_^;)。。



<川口「長徳寺」、B仁王門・参道・山門>

それでは、その12年間の龍派禅殊について、ここ長徳寺には何か残ってないのだろうか……。

ここ長徳寺は武蔵国にあったから、先に述べた通り、天正18年(1590)小田原征伐後に関東入府した徳川家康によって安堵され、手厚い保護を受けたようだ。
龍派禅珠じしんも、江戸城紅葉山文庫の創設に尽力するなど、家康・秀忠・家光の三代を通して、あつく信任を得ている。

そして長徳寺には、竜派禅珠の詩集『寒松稿』と、手記『寒松日記』が残されている。手がかりがあるとしたらこれより優れた史料はあるまい。

↓仁王門から振り返る、今までいた新緑と堂宇伽藍
こちらは仁王門の仁王像、吽像→
真っ黒光りして、なんともダンディー♪

しかし、慶長年間(1596〜1614)に二度の火災に遭った。
寺は間もなく再建されたようだが、『寒松稿』の巻1・巻2が残念ながら焼失した。現存するのは慶長6年(1601)〜寛永13年(1636)の作のみである。

これは将軍から百姓に至るまでの広い層にわたる禅殊の交渉を綴った詩文で、五山文学の最後の傑作といわれ、禅宗の法語類をはじめ、文学に属する詩歌・論文・紀行・随想など多種多様なものを含んでいるという。

寒松日記』には、慶長18年(1613)〜寛永9年(1632)の間の出来事が綴られている。
これも、もっと前から書いた物があったのに燃えてしまったのかもしれない。。
それでも江戸時代初頭の重要な事件が記され、史料的価値が非常に高く、禅殊の交際の広さがうかがえるという。

←もう片方の仁王像、阿像も黒テカ☆彡
↑下方から突き出る三重塔が見られる
ここは墓地がエンエンと続く高台だった。

以上。残念ながら、このようなわけで、庠主交代の時期空白を埋める文献には出会えなかった(^_^;)。

私の個人的見解としては、文禄4年(1595)、すなわち豊臣秀次が自害した年に、徳川家康が書籍類を足利学校に還付したようなので、これが庠主を筆頭に立てて、足利学校復興の緒に着いた時期と見立てるのに適当ではないかと思う。

あとは、『寒松稿』『寒松日記』の原文をあたるか、何らか研究された著作物に出会う以外にない。

このお寺に来てみたら、大層立派に整備され、お庭掃除のお坊さんも優しいし、法要なども多く引き受けている様子で、気軽に声をかけやすく思えた(#^.^#)<ホニホニ♪
そこで「当たって砕けろ(^_^;)ゞ」と、受付で聞いてみた所……。

私訳寒松日暦全
なる本を出して見せて下さった。奥付を写真に撮らせて頂いた。昭和62年の発刊で、限定部数70部の非売品だった(^_^;;;)。。
著作者は沼口信一氏。(住所と電話番号もあるが、個人の物と思われるので、掲載は差し控えさせて貰う)

(お寺の方、ご親切に、ありがとうございましたm(__)m)

木戸に彫られた絵柄が素敵!
(←右部分拡大)獅子舞だね(゚.゚)

この彫り絵にある「獅子舞」と関係あろうと思われるので……↓

     
  長徳寺の獅子頭および神楽面
 本寺には獅子頭3頭神楽面10面が保存されている。このうち獅子頭2頭の裏面には年号が墨書されており、これによると元禄11年(1698)以前に製作されたものであることがわかる。
 芝における獅子舞は、代官熊沢忠勝房州(現:千葉県南部)の鶴ヶ谷八幡を遷宮し、鶴ヶ丸八幡神社を建立したのを機に、毎年8月15日に御子舞・獅子舞が奉納されていたことが本寺所有文書に明らかであり、この時使用された獅子頭が現存の2頭である。また、嘉永5年(1852)8月、峰町農民八幡宿農民が交わした。「差上申済証文之事」により、本寺門前の人々と鶴ケ丸門前の人々が獅子舞を行っていたことがわかる。(昭和54年5月2日 市指定)
 
     

実は、ここに名を顕わす「熊沢忠勝」は、慶長年間における二度の火災の後、再建を助けた芝村の代官で、この地のキリシタン殉教事件と関りがある。

この事件については、境内の案内板にも、付帯状況的にちょっと触れられてはいるものの、あまり詳しくなかったので、手持ちのガイドを元に書かせて貰う。

←帰路。ようやく坂の下に山門が見えた(^_^A)
↑逆に山門の方から振り返ると、二方向に通路が枝分かれして伸びてる。清楚な禅寺の参道☆

県内のキリスト教信仰は1600年代初頭から広まったようだ。
児玉郡渡瀬村(現神川村)の善明寺キリシタン寺であることが露見し、開創の山口平之進一族7名が神流川の河原で処刑された。
岩槻ではキリシタン原主人夫妻が捕えられ、元和9年(1623)、江戸で処刑された。
幕府は他にも、宣教師二人を含む50人のキリシタンを処刑した。

同時期、アンゼリス神父をかくまった、ここ芝村竹小屋権七郎(洗礼名レオン)も殉教し、その妻ルヒイナ(洗礼名)(又はルシーナ)も獄につながれかけた。

が、ルヒイナの父で、幕府代官の熊沢三郎左衛門忠勝は、長徳寺の大檀越で、住職の龍派禅珠と親しかったため、幕府の信任厚い龍派禅珠が、幕府要人に救命を嘆願したおかげでルヒイナは助けられ許されて、祖母のもとにあずけられた。(夫とその男子は処刑されたようだ)

(パノラマ2枚)

今回は知らずに行きそびれたが、これより南へ徒歩15分ほどの所に「如意輪観音堂」があり、高さ29.3pの阿弥陀如来坐像を安置した厨子が堂内にある。
あけると目がみえなくなる」と言い伝えられ、戦後まで開帳されなかった。

光背の光縁部に蓮華に似せた麦穂が図案化され、巧みににキリスト教関係の紋様が取り入れられている。
首を胴部から引き抜け、胎内にヒノキ材の一木造りのマリア観音(13.2p)とキリスト像を付した銅製の十字架が収められ(県文化、県立博物館蔵)、仏教徒を装った芝村の隠れキリシタンの物と思われることから、ルヒイナの遺物ではないかと推測されている。

長徳寺には、『圓通殿観音堂三十六歌仙絵扁額』があり、名の通り、三十六歌仙の絵と歌が描かれた物だが、その裏面に「熊澤三郎左衛門大夫人妙悟拝」と墨書され、記された日付は、キリシタン殉教事件のあった年である。(妙悟はルヒイナの母かと)
殉教者とその関係者の供養のため、奉納された物と推測されている。

そしてこちらが山門「大智山」の扁額
さらに背後にひいて写す( ^^)σ只 <カシャッ

他に、この寺には龍派禅珠中峰明本の「頂相」(ちんそう)が伝わっている。
これは禅宗独特の習慣で、高僧の肖像画を描き、描かれた高僧は自ら自賛の詩をそこに書き入れて、弟子たちに印可の証として授けるものである。

龍派禅珠のものは、逝去した88歳の春、七言絶句でしたためられている。
中峰明本のものについては……↓

     
   中峰明本は、中国銭塘の禅僧で、姓は孫氏、南宋の景定4年(1263)に生まれ、の至治3年(1323)61歳で没している。書に優れた才能を持ち、その墨跡は我が国では「笹の葉書き」、中国では「柳葉の体」と呼んだ。この頂相は、鎌倉建長寺住職・本寺第11世古先印元が伝えたものと言われている。
 (昭和33年3月20日 県指定)
 
     

長徳寺の開山・古先印元ゆかりの品という事で、こちらにあるのだろう。

最後になったが、この長徳寺のある環境について述べる。
川口は、都心のど真ん中ほど大都会とは言わないが、田舎とか山奥と呼ぶには程遠い都会と言える。閑静な住宅街とか言っても、自然を破壊して作られてる事に変わりはない。

そんな中で、この長徳寺のある場所は、最初にも述べた通り、独立した丘陵にあるためだろう。周囲の喧騒を寄せ付けないばかりか、深い森と緑に囲まれて、豊かな自然が守られている事に驚く。

寺を含む周囲は「保全緑地」に指定され、スギ・ナラ・シラカシ・アカシデ・スダジイ・ヒノキ・アカマツ等が生育しているという。

いつまでも最良の環境が保たれることを願わしく思う。



<東北道で茨木まで移動>

ここから、メインの栃木県、栃木&佐野エリアに直行する。
まずは川口西から外環道(高速)で川口(地図)まで戻り、東北道(高速)を北上。

途中、サービス(かパーキング)エリアに寄った。蓮田だったか羽生だったか……(^_^;)ゞ
←が羽生市のゆるキャラのようなので、多分、羽生PAだったんだろう(笑)。

左・いがまんちゃん。頭に乗ってるのは赤飯なんだとか。
右・ムジナもん。頭に乗ってるのはモロヘイヤの葉。

ここでは、埼玉各地から食材を多用した豊富なメニューが見られた。

例えば、川越の和菓子「いも恋」、狭山市の里芋や春日部の大豆、埼玉県の小松菜を使ったコロッケやメンチカツ。そして宮城県の塩釜市のかまぼこ製造業者と一緒に造った「あげかま」も美味しそうだった(#^.^#)。

休憩終わって続き再開!
遠くに山が見え始める

「いや〜やっぱ東北道はいいね〜(^O^)」と、こたつ夫婦(笑)。

関越道も前は(信州や、上州の沼田方面に行く場合に)よく使ったが、近年は東北方面や北関東方面に行くのに東北道をよく使ってた。

東北道は、始まりの川口IC(インター)がすでに埼玉県で、ひたすら北関東や東北に向かう道路なので、はじめから落ち着いたムードで走れる。
都内や神奈川のような、派手なビル街もネオン街も渋滞も少ないし、悪質ドライバーにも殆ど会わない。

その結果、近年は、どこに行くからどの道を使う……と言うより、「東北道がイイから、その界隈にしか行かない」という旅行の仕方が増えた気がする(爆)。←邪道

岩舟JCTが近づくと山岳が急増する
ひときわ高く聳える唐沢山

少し走る内に、遠くから山が近づいて来て、栃木県の岩舟JCT(ジャンクション・地図)の前後あたりで、周りじゅうが山岳地帯になり、いかにも「旅の序曲♪」という雰囲気になる(#^.^#)。

前はよく東北に行ったので、岩舟は「ほんの序の口」だったが、近年、新田(群馬)や足利(栃木)に旅したため、この岩舟がコースを西に変更する注目ポイントになった。

亭主も、この山岳地域に差し掛かると旅のスイッチが入るらしく、「このへんって何があるの?」と、運転しながらウキウキと聞いてきた事がある。
佐野厄除け大師」と無機質に答える私(笑)。よく夜中の民放テレビCMで画像を見るので、亭主も知ってはいて、「いつか行ってみようか」と言ってた。

今回は、まさにその辺りで旅行してみよう、という計画にした。(日帰りなので近場で(^^ゞ)

栃木ICで降りてしばらく走り
やがて「皆川城址」を目指す

高速を降りたのは、岩舟JCTより一つ先の「栃木IC」(地図)。
亭主が山道、森林道が大好きなので、今回はそういう道がありそうな所を探して、岩舟〜栃木の南北から西側にかけてにポイントを立ててみた。

ただ、グルグルとドライブするだけでは勿体ないので、周辺の史跡巡りもしようと、あれこれ探した所、ちょうど皆川氏佐野氏の領地だったので、関連の城跡・寺社を見繕って行った(^^ゞ。



<皆川城址>

最初は皆川城跡地図)を目指した。

街中に入る。前途に皆川城址
程なく到着(^_^A)

……と言っても、この建物は地域の公民館(^^ゞ。
本丸は山頂にあり、公民館の駐車場に車を停め、徒歩でエッチラホッチラ坂道を登って行けるようになっている。

登り口にあった案内図→
例によって字が小さいので、私が上から書き入れ(改竄!ww)してある(^^ゞ

図には、梅・桜・ロウバイ・つつじ・アジサイ・紅葉と、四季を彩る植物の場所も記されて、行楽にも適した公園になってるようだ(^^)

この日は亭主の森林ドライブが目的なので、一発目からノンビリ城廻りなどしてると、後のスケジュールに響いて、目的達成も疑わしく思えたので、「そのうち来る日のための実況調査(^_^;)」に留め、上の図の「梅林」あたりまで登っただけで引き返した。

なので、以下はそこに達するまでの僅かな道のりだけど……↓

↓登り始めると、すぐ出会う鳥居が……
雷電神社」→
城跡への登り口には、下のような説明版があった↓

     
  皆川城址
 室町時代皆川氏を名乗った長沼秀宗が築いたこの城は、山の形をそのまま利用したものでその形から「ほら貝城」とも呼ばれている。城山を登るとその中腹に井戸の跡土塁武者走りが残っていて、当時をしのばせる。
 この皆川地区区民館(旧中学校跡地)は皆川城の枡形に建てられたものであり、現在の公民館の西側に土塁、西から南にかけてが残っている。
 この東方に存在する持明院は、皆川城の鬼門除けとしたものらしい。白山台流鏑馬草競馬で名高い東宮神社の台地も皆川城の一郭をなしたものであり、神社は城の守護神として祀られたものであった。また西方の金剛寺には、皆川城歴代の墓がある。
 
     

↑最後にある「金剛寺」には、このスグ下で訪れます(^^)

←雷電神社は小さな祠があるのみだが……
↑祠の背後に、山頂の本丸あたりであろう展望台らしきが見える

上の説明版の記述からも察せられる通り、皆川氏は、元は長沼氏であった。
長沼氏についてレポに書いた始まりは、2011年6月号Aで、その旅行をしたのは、2010年9月だった。(2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内以降)

……今から7年前のレポで、8年前の旅行だった事になる。
(今回のこの旅行をした時から振り返ると、6年前のレポ、7年前の旅行)

その折は南会津を旅行していたので、長沼氏については、南山系の立ち位置から見たが、その時も、皆川に歴史を築いた皆川氏という一族を意識した事を覚えている。

さらに進むと、又お社に出会う
今度は「厳島神社」。池の小島に鎮座

その後、特に上杉禅秀の乱永享の乱享徳の乱などについて書く時、調べものなどすると、よく長沼氏の名があらわれるのを文献などに見たし、出典にあらわれる『皆川文書』も、ちょくちょく目にして、何かと気になる氏族だった。

長沼氏についての研究や史跡の保護は、地域で熱心になされている印象が強い。
南会津の博物館でも、長沼氏単独の研究書籍が売られていたし、このほど行った皆川城は跡地がよく整備され、菩提寺の墓石には、一人一人の墓に名札が置かれて、訪問する人にわかりやすく案内されていた。

お社二つ通り過ぎて、下の公民館あたりを写す(パノラマ3枚ほぼ180度)

ただ、長沼氏も皆川氏も、載せるサイトによって、随分と系譜にも歴史の経緯にも、違いがあるように思える。
それらと、私が南会津で買った資料集を見比べても、かなりの違いがある(^_^;)。。

と、断った上で、長沼氏の系図を示すと……、

┌小山朝政┌時宗┬皆川宗員┬宗長−宗景                ┌盛秀−実国−盛秀
├長沼宗政┤   |      ├宗義┌宗廣−宗俊           └−−−−-−−−┐
└結城朝光|   |      └宗村┘┌宗実(南山長沼)−高宗┬朝直−朝秀……□□┘
        |   └宗泰−−−宗秀−┤               └朝秀(↑養子)
        └頼宗−宗次         ├秀行−秀直−義秀(皆川)−満秀−憲秀−氏秀
                          ├朝実−顕宗
                          ├宗親−宗行
                          └高秀

←「梅林」に行きかけて引き返し、皆川城を去る
↑途中に通った八幡宮神社(地図

あれ? 今の系図には、先ほどの説明版にこの「皆川城を築いた」とあった「長沼秀宗」の名が無いではないか……?
はい、その通り\(^O^)/! その件については、次の「金剛寺」で述べましょう〜♪

皆川氏の系図(※)は、この後もリンクを出しながら進むので、ご心配なく(^^ゞ)



<金剛寺(皆川氏菩提寺)>

↑は皆川城址(地図)から車でちょっとの距離→金剛寺(地図)(歩いても10分ぐらいかな(^^ゞ)

途中の風景(#^.^#)

金剛寺に到着(^^)

寺についての案内は無いが、境内にある「皆川家歴代祖廟」には立派な説明版があるので提示↓
     
   皆川家歴代祖廟
 皆川家歴代祖廟は皆川城(別名 法螺貝城)を中心として勢力を誇っていた歴代城主の墓地であります。
 
     
     
   下野国の名族藤原秀郷を祖とする皆川氏長沼五代奥州長沼五代を経て、長沼五郎秀宗の時にこの地に移りその子氏秀に至り皆川姓を名乗り、観音山に皆川城を築きました。その後、たび重なる合戦を経た後、皆川広照の代、豊臣秀吉の小田原城攻めに際し徳川家康のもとに降伏し、江戸時代には旗本として幕府に仕えました。
 戦国時代より遺骸は必ず菩提寺である金剛寺に葬られ一代も欠けることなく現在に至り、立ち並ぶ墓碑の型式をみることによって時代差を知ることができるなど価値の高いものであります。
 なお、本寺には皆川広照が寄進したと伝えられる皆川広照着用具足(南蛮鎧兜)や広照の長子、隆庸(たかつね)が宝永17年(1640)に先祖の菩提のために寄進した薬師如来像が安置され、いずれも市指定文化財に指定されています。
 栃木市教育委員会
(栃木市指定文化財 昭和36年12月21日指定)
 
     

←門前から見える皆川城址の山頂
↑柱にいた蝉

確か「ツクツクボウシ」だったような……。画像検索で探した所、背中の模様が似たのが見つかったし(^^ゞ。

ところで、上記の説明のみだと、小田原征伐によって大名として成り立たなくなったように受け取れるが、実際には、「後北条氏の陣営にいた事による没落」といった形跡は薄く、旗本になるに至ったのは、その後の経緯にある。

その辺も追い追い述べていこう。

←本堂の前に咲き群れていた白百合の花が可憐
↑そして本堂の側面、墓地への途上に、さっき掲げた「皆川家歴代祖廟」。鳥居と説明版も立つ。

まずはさっきも出した、皆川氏の系図↓

┌小山朝政┌時宗┬皆川宗員┬宗長−宗景                ┌盛秀−実国−盛秀
├長沼宗政┤   |      ├宗義┌宗廣−宗俊           └−−−−-−−−┐
└結城朝光|   |      └宗村┘┌宗実(南山長沼)−高宗┬朝直−朝秀……□□┘
        |   └宗泰−−−宗秀−┤               └朝秀(↑養子)
        └頼宗−宗次         ├秀行−秀直−義秀(皆川)−満秀−憲秀−氏秀
                          ├朝実−顕宗
                          ├宗親−宗行
                          └高秀

初代・長沼宗政、2代・時宗については、この辺→(2011年6月A<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内/同<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内

続いて、長沼氏の3代・宗泰、4代・宗秀は、この辺→(2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内

←では、皆川氏歴代の御霊方々を礼拝しに、謹んで鳥居を潜る!(`・ω・)<お邪魔します
↑奥にズラリ!と並ぶ墓石の数々(*o*)<多い!

皆川氏の系図(※)

そして、長沼氏の5代・秀行の頃から、この皆川氏に向かう流れが、この辺→(2011年6月A<塔のへつり>内〜<大内宿に向かう>

この嫡流筋の長沼氏に対して、3代・宗泰の兄に「宗員」という人が出ているが、こちらが先に「皆川」を名乗り、この皆川城にも先に来ていたのではないか、と見られている。
その後、この系譜は何か事情あってか、この城の主として現れなくなる。

それに対して、5代・秀行の後、7代以後の義秀、満秀、憲秀と続く三代のいずれかの頃、最後のリンクにあった上杉禅秀の乱では、鎌倉公方4代・持氏に味方したために所領を得た事もあったが、その後の永享の乱でも、続いて持氏に味方したため、持氏が滅ぶと、奥州などには居所が無くなって、この皆川に(たぶん親戚の皆川氏がいた跡を頼りに)落ち伸びて落ち着いたとみられている。

そしてこの経緯により、「長沼」の名も憚って「皆川」と改姓した、という伝えもある。

前列に並ぶ墓石。一人一人に諱と戒名と没年が記された立て札(パノラマ3枚ほぼ180度)

皆川氏の系図(※)

一方、秀行の兄弟「宗実」から枝分かれしたと見られる南山長沼氏も、「南山殿」と呼ぶ向きも見るが、こちらは憚る必要の生まれる前に分家したからか、こちらがむしろ「長沼氏」と今でも呼ばれているようだ(^_^;)ゞ

そして、前項の皆川城跡でも述べた通り、城跡の説明版にある築城者「長沼秀宗」が、私の出した系図に見当たらないのは、手持ちの系図には、9代・憲秀の次が、イキナリ「氏秀」(10代)となっているからなのだ。(でも時間配分的には、これで正しい気もする(^_^;))

ここんとこネット上に検索すると、「憲秀」から「氏秀」の間に、「秀光−秀宗」の二代が入ってる系図がある。
もしかすると、この皆川城に伝わる「秀宗」の名を、系譜に継ぎこむ(帳尻合わせの)為の系図というのが存在するのかも(^_^;)?

後列も同様。ここまでキチンと立て札された祖廟群は初めて!(パノラマ3枚ほぼ180度)

皆川氏の系図(※)

というのは、この墓所には、「初祖 長沼秀宗 公」とあり、「永享10年(1438)8月1日 33歳 鎌倉腰越にて討死」と死期について記され、さらに同じく、「初代 皆川氏秀 公」として、「文明12年(1480年)9月3日 39歳」と没年が書かれている。

二人の年齢差は42歳。祖父と孫でもおかしくないが、祖父から孫への相続と言えば、応永25年(1418)、義秀が重病となり、孫の憲秀に贈与状が記された事がある。
もし「義秀−満秀−憲秀−秀光−秀宗−氏秀」ならば、義秀から孫の憲秀に贈与が書かれてから、僅か20年後に、憲秀のさらに孫の秀宗が33歳で死亡するのは、無理がなかろうか(^_^;)。。

さらに憲秀には、確かに「秀光」という子もいた文献があるんだが、これが1363年に三代将軍・足利義満に所領を没収されていて、「この辺りの三代程度って重複されてないか(^_^;)?」と疑うのだ。(父子でなく兄弟であったとか、改名などによる同一異名人がいたとか)

四代・俊宗、三代・成勝は石が古い!
左のさらに端、初めの一基

その後は……、

氏秀−宗成−成勝−俊宗┬広勝
                 └広照

↑概ねこんな感じに続いたんじゃないかと(^^ゞ。

……で、さっき言った、小田原征伐以後の変転についてだけど……。

皆川氏は、そもそも北条勢力というわけではない。
この地域の多くの豪族(主に宇都宮氏)同様、北上してくる北条勢力と、その敵対勢力(主に上杉氏)との狭間で揺れ動く図の中あったようだ。

そんな中で織田信長に気脈を通じた点では、北条も皆川も同じだったが、信長が本能寺に滅ぶと、北条氏政は織田方に離反の姿勢をとり、信長の跡を受けて台頭した秀吉には敵対していった。

逆に、皆川広照は家康と通じていたので、秀吉と家康が小牧長久手に反目した頃はともかく、両者が和睦し近づくにつれ、北条の北上線の最前線にあった皆川城は、北条勢力の集中砲火に晒され、ついに北条氏に屈服した。

古めかしい旧家のある村
さらば皆川! また来たい(^o^)ノ

こんな経緯からだろう。秀吉の小田原征伐においては、さっさと家康に降伏しており、この時に居城を、皆川城から栃木城に移したという事だ。

大抵の記述から、それは「自主的に行われた」ような書き方に読める。
「皆川城を接収された」とか、「所替えを命じられた」という記述を見ない。

wikiなんか読むと、北条氏への降伏は、「家康の助言に従った」という説もあるようなので、それで反北条方(上杉・佐竹・里見など)に近い戦後待遇(安堵)を受けたのかもしれない。

ただ、皆川広照はその後、家康の六男・松平忠輝傅役となり、やがて附け家老となった。
監視役でもあったのか、広照は忠輝の行状不届きを家康に進言、怒った忠輝の逆告訴によって改易された。
そこまでは順当に出世し、領地石高ともに増加していたようなのが、ここで1万石チョイぐらいに落ち着いたって事かな……(^^ゞ

皆川氏は、広照の孫の代に、嫡流は嗣子なく若死にして断絶したが、同じ孫の代から旗本として続いたようだ。
金剛寺にも、多くの歴代当主と思しき人々の墓石が列を連ねていた。



<佐野市葛生、お昼ご飯(^O^)>

次の訪問地は佐野市にあるが、ただ目的地を指定すると、高速に乗るよう指示して来ると思い、任意の経由地点を、途中の葛生の曲がり角(地図)に設定した。

すると、やがて達する210号線(地図)は、地図やグーグルのストリートビューで確認した限り、かなりの山道で、次々と絶景ポイントを通過するハズだった。

ところがどうも、しょっぱなで違う方向を目指してしまったと見え、山道らしきを通らなくもなかっが、亭主のリフレッシュのため組んだドライブコースを外してしまったようだ。

多分これは75号線だろう(^_^;)
西に向かう予定が南西に進んでる

これはこれで、周囲が広々して開放感のある風景が続いたが、ピンカーブの連続する山道ではない。それでも当時もその後も、間違った事に気付かずにいたんだから、おめでたい(^_^;)。。

↓途中「円仁の独鈷水御堂」の看板
後で拡大して見たら「282号線」だった→

この282号線がちょっとだけ山道してたが、スグ平地に入ってしまい、「あれ(゚.゚)?短いね」とか言ってる内に葛生に着いたので、「ちょっと変だな」とは思っていたが、通った道路を確認したのは、8ヶ月も経った今頃(^_^;)。。

ただ、途中に見た「円仁の独鈷水御堂」は小野寺地図)にあるらしく、小野寺と言えば、小野寺維道さんのHPでよく見た地名で、同じくよく聞いた大慈寺の看板も見たし、円仁はこの辺りの出身だしで、間違ったなりに良い所を通れたな、とも思う(^^ゞ。

すぐ下界に降りて平地をゆき
間もなく葛生に到着(^^ゞ

葛生は、国道123号線を囲む両側に、飲食店や和菓子屋、酒屋、旅館、呉服屋、金物店など、各種の商店が集まる割に、背の高いビルも無いから、何となく城下町っぽい風情なので、「この辺でお昼ご飯を食べれたらな〜」と、行ったり来たりした(^^)

天神橋」(地図)を行きつ戻りつ
渡ってるのは「秋山川

↑橋の向こうは、葛生に入る前に超えて来た山々だね。
こんな風に町を行き来したけど、入れるような店が見つからなかったので、先に進む事にして……。

293号線を南に向かう
ようやく見つけた「お食事処ふじ」(^O^)

この南に進むコースで、前に見える山岳地帯こそ、高速で岩舟JCTに差し掛かる頃、逆側から見えてた山岳地帯あたりに相当するだろう。
中でもひときわツンと尖ったのが、たぶん「唐沢山」じゃないかと(^^ゞ。これから「お食事処ふじ」(地図)でお昼ご飯を食べた後に、行きま〜す♪

というわけで、やっとお昼にありつけた( ^,_^)φ″<う〜んモグモグ美味しーっっ!
「前はよく、こういう地元の定食屋さんに、お世話になったよねー」
「こういう所少なくなったよねー。覚えておいて、又来よう」
この「ふじ」さんの定食、すごく美味しくて、後々まで語り草になった♪

亭主「かつ丼定食
こたつ「野菜炒め定食

楽しく飲み食いした後、お勘定に立ったら、ふと傍のチラシが目に入って、
「この、“原人まつり”って何スカ(^^ゞ」
と聞いてみた。飲食店を探して車を走らせる間も、何度か目にしたのだ。

すると、お店のご主人が、
「あ〜〜〜それねぇ! 原人がいたって前に言われたのが、後で違うってわかっちゃったんだよねぇ。でも今でも祭りはやってるんです。良かったら来てやって下さい」

そう言って、チラシをくれた。
「後で違うとわかった……それはまさか(・・;)」
瞬時に脳裏を、2000年に発覚した「旧石器ねつ造事件」が浮かんだが……。

(お店の前は、国道293号線と東武佐野線。線路の向こうに曹洞宗・玉林寺)→

後で調べた所、「葛生原人」とされた骨は、捏造事件に相当する時期より前の、1950年以降に発見されたものらしく、鑑定法の技術進歩によって、2001年に縄文時代以降の物と結論づけられたため、今では「原人ほど古くはない」と確定したものらしい。→ 幻の原人今も存在感

念のため「旧石器ねつ造事件」に関係した発掘現場を、ネットに掲載してくれてる人のリストで探してみたが、葛生は載ってなかった(^_^A)。確定するまでの時代は一部被るけどね。

以前は「原人」と思われて始まった祭りなので、名前はそのままだが(笑)、祭りの写真とか探して見た限り、「縄文以降でもこういう恰好や住居はあったかもね〜」って感じだし、何より皆さん楽しそうに行われてて、地域活性に貢献してるんじゃないかと思った♪

「いいと思います! ジャンジャンやって欲しいと思います!(^O^)」
と調べもせぬ内に言葉はスグ出た。

捏造に関係あったならともかく(あっても地元の人々に責任はないし)、学説的に間違った伝説なども、「それごと地域の歴史として残すべき」が私の主義(`・ω・)<何度でもいう



<佐野氏菩提寺「本光寺」>

皆川城址から葛生に来ルートでは、山地を超えて来るハズだったのを通り損ねたが、亭主のために用意した山林道が、実はあともう1コースあった(^^ゞ。

また東に戻る際に同じような高地があり、それが、先ほどから仄めかしてきた「唐沢山」で、葛生から少し南下し、改めて東に向かう途中に位置する。

その前に、又ちょっと史跡巡りをしていこう。葛生の南にある「本光寺」というお寺に寄る。

住宅地の奥に顔を出す山門
本光寺」(地図

本光寺は、文亀2年(1502)、唐沢城主佐野盛綱(越前守)が開基となって、唐沢山の西北山麓の勝地を霊境と定め、伽藍建立を発願し、かねて高徳を敬慕していた大朝宗賀を開山に招請して、開創した。

大朝宗賀は、熊谷・龍淵寺の3世・惟通桂儒の第一の法嗣である。
山号を「大明」、寺号を「本光」と名付け、永楽銭二百貫の地を寄進して、曹洞宗の宗祖・道元の宗風挙揚の道場となした。

以後、大朝宗賀は14年間在住。
徳風を慕って僧俗が多く集まり、殊に嗣法の四哲は、各々開山の門風を継承して、後世に20余りの末寺繁栄の基礎を築いた。

←山門の先は階段を囲む大木
↑振り返ると左前方に、唐沢山や岩舟山の方角

大永2年(1522)、後柏原天皇より国家鎮護の勅願所に為すと綸旨を賜り、2世・象天宗磋に、徹性禅師の号を賜う。

以後、山門寺門はますます興隆したが、元和六年(1620)に佐野家が改易となったため、寺領は没収され、寺も現在地に移転する事となった。
時の12世・萬室牛孫が中興となり復旧したが、大正5年(1916)の火災で諸堂全焼。

44世・祥天儀光が再度、復興を計ったが、大東亜戦その他の支障のため機縁が熟せなかった。
昭和56年(1981)、良嘉が先代の遺志を継ぎ、建設委員会を結成して計を進め、檀信徒の浄財を得て、新本堂落慶が成った。
(敬称略)

←サルスベリのピンクの花
↑御手水には迫力ある(゚.゚)。龍は先祖・藤原秀郷ゆかりの神獣

この本光寺には以上のように、戦国初期の領主として、佐野盛綱の名が出て来る。

佐野氏は私にとって、未知の領域における未知の氏族である。
大抵は旅行に行く前に、ざっと行く先の歴史をおさえてから行くのだが、「この辺りは、行ってみないとわからないなぁ〜(^_^;)」という見解がずっとあった。

どんな地域でも、行けば何かつかめる要素があるものだ。
ところがこの旅行では、行った後も「どういう氏族(地域)だったんだろう(^_^;)」と思ったまま、こんにちまで来てしまった(笑)。

このたびのレポでも、長沼氏皆川氏)については、南会津で郷土史の本を購入してたので、ある程度は書けるんだけど、佐野氏については、「さっぱりわや┐(´ー`)┌」である。

このレポを作ってる最中(2018年4月)にも、旅行でこの地域を通りかかって、何となく佐野城に寄った。
特に「佐野氏の城」という意識で行ったわけでもなかったが、そこの資料館らしき施設に入った時、「これで何か得られるかも?」と思った。

ところがそこでも、これといった郷土史書籍に出会えなかった(^_^;)。。

↓迫力と言うより狂暴そう(^^;)
昭和56年(1981)に落慶されたという、立派な本堂(^人^)→

それでも、全く何一つ書けないかと言うと、そうでもない。
下野国は関東の中でも、平安期の勢力地盤が大きな変動なく保った地域なので、そういった面から迫りやすい。

戦国期(1500年代)の下野国を開けて見ると、北部に那須氏ら、南部に小山氏、中部と東部に宇都宮氏、そして西部にこの佐野氏が蟠踞していた。
彼らは互いに競い合う事はあっても、平安期から続いてるだけに、各々基盤が強固で、基本的には大名同志が連立して成り立っていた。

佐竹氏(常陸国)や上杉氏(越後)、後北条氏などのような、いわゆる戦国大名は登場(誕生)していない。
周辺の大名を武力などによって従える必要がなかったからかもしれない。

そういう地域に、上杉氏北条氏がしのぎを削りあいに来た……それが1500年代の様相だった。
だから、イキナリ熾烈な戦闘の坩堝に置かれたのではないかと思う(^_^;)。

賽銭箱の下に蝶紋が(`・ω・)!
渡り廊下が雅な造り(#^.^#)

上記、四氏(那須・小山・宇都宮・佐野)のうち、藤原秀郷の子孫に、小山氏佐野氏が相当する。

平将門を退治した藤原秀郷は、(恐らく)無位無官に等しい身分から、一気に四位の貴族クラスに大出世した。
よって、秀郷流の末裔たちは、関東〜東北にかけて勢威を鳴らし、清和源氏が入り込めなかったぐらいとさえ言われている。

中でも、特に強大な勢力を持ったのは、東北の奥州藤原氏、そして北関東では藤姓足利氏であった。
奥州藤原氏は滅び、藤姓足利氏も後背勢力の平家滅亡の後は衰退した。

それが、下の系図に当てはめてみると、足利俊綱−忠綱の頃だったらしい。

秀郷┬千時……(奥州藤原氏)清衡
   └千常−文脩┬文行┬公光……(佐藤・伊賀・首藤・尾藤)
            |   └(近藤)脩行……(大友・武藤・少弐・戸次・立花)
            └兼光−頼光┬兼行−(足利)成行┬成綱     ┌忠綱
                     |            └家綱−俊綱┴有綱−佐野基綱
                     └行尊−行政┬(小山)政光┬朝政
                              |        ├(長沼)宗政
                              |        └(結城)朝光
                              └(下河辺)行義−行平

裏手は、墓地が上り斜面を広範囲に出来ていて、その入り口に居並ぶのは歴代ご住職の墓かしら↓
並ぶ墓地の先頭に観音立像(だよね)→

手持ちの系図だと、藤姓足利氏は初代「成行」までしか確認できない(^_^;)。。
上記の「成綱」から「佐野基綱」まで(赤い字)は、wikiで確認した系図を、手持ちの秀郷流系譜に当てはめて書いている。

藤姓足利氏の末裔として戦国初期ごろまで確認できるのが、この佐野氏大胡氏(初代・成行の庶子・成家から出た、という説がある)などだろう。

手持ちの資料になると……、

足利成行┬成綱−家綱┬俊綱−忠綱
      └大胡重俊  ├佐野成俊
               └有綱−佐野基綱


↑と、ビミョーに違うが、こちらは尊卑分脈なので、wikiのは検証後の物かも……。
私の把握の限り、「家綱」なる人物は、新田と足利の祖(八幡太郎義家の子)・源義国郎党だった。

(↑本光寺はこれで去るが、佐野氏の話は続く↓)



<佐野氏本城「唐沢山城跡」に向かう>

平将門を討伐した功績の余韻で、清和源氏の入る余地を阻むほど繁栄した秀郷流の子孫が、なぜその源氏の郎党の座に甘んじるのか……。

同じように、やはり将門討伐で名をあげた常陸平氏は、常陸に占める影響力は強いのに、清和源氏の新羅三郎義光(義家の弟)に対し、従の位置で接してるように思う。

佐野氏の唐沢山城跡に向かう
←街中を抜けると、迫る山岳地↓

理由は……、一つは単に、桓武天皇より清和天皇の方が後代に即位したからじゃないかな。
つまり、清和源氏は桓武平氏より、今上天皇への直近率が高いから。

現代に例えると、桂宮さまや高円宮さまは大正天皇のお孫さんなのに、我々は、大正天皇からはもっと遠い曾孫さんにあたる皇太子さまや秋篠宮さまの方が、天皇や天皇の位に近いと感じてるよね。

今は皇室典範の規定があるからだけど、そう感じる理由は、皇太子さまや秋篠宮さまが、今上天皇の御子様だからだよね。
同じように、桓武天皇より、清和天皇の方が即位が後(最近)だったわけ。

……てのが今にも通じる理屈になるが、もっと生々しい所を言うと、源氏は北関東に地盤する事が難しかった分、京における人脈があったので、藤姓足利氏が開発した荘園を寄進する事に成功させている。

地域に根を張らないと開発は出来ないが、それを中央に認めさせる手段となると、京に手づるのある源氏でないと難しかった、といった所かと(^^ゞ。

↓唐沢山の麓(地図)に立つ鳥居
先はエンエンと山道。ヒャッホーー!(^O^)/~

以後は、話を藤姓足利氏の足利俊綱−忠綱に進めるが、詳しくないので、wikiの記述を信じて書く(^_^;)。↓

頼朝の叔父(義朝の弟)・志田義広が、挙兵した頼朝に合流せず、頼朝に鹿島押領を責められて腹を立て、1183年に頼朝討伐を企てた時、藤姓足利父子はこれに乗じ、頼朝側についた小山・長沼兄弟と野木宮合戦を戦い、敗れた。

この野木宮合戦の時の藤姓足利氏が、今言った俊綱-忠綱であったらしい。
一方、忠綱の甥にあたる佐野基綱は、小山兄弟らとともに頼朝に与し、以後も鎌倉幕府御家人の立場にあったようだ(^^ゞ。

←唐沢山城に向かう山道から見える下界(^O^)
(亭主もやっと山道らしい山道に登れて喜んだ:笑)

藤姓足利氏に代わって、地域に勢力を強めた秀郷流の子孫は、何と言っても小山氏を嫡流とした、下河辺、長沼、結城氏などだろう。

同じように頼朝に従った割に、佐野氏が小山氏ほどに名を見ないのは、どうしてだろう?

……というのが長く「謎」だったんだが、「武家家伝」さんの記述(佐野氏@「風雲戦国史」より)など読む限り、どうも宝治合戦三浦方(北条氏の敵方)にあった事が原因のような……? 

なるほど(^_^;)。
宝治合戦によって、その後の系譜が不明になってしまった氏族は各所で散見する。佐野氏もそれだったとすれば、それなり納得。

そんなわけで、基綱より後は、最初に出した盛綱までが詳細不明で、盛綱の頃、古河公方に仕えて歴史に登場する、という感じのようだ(^_^A)。

その後は、これまたwikiによるけど……(佐野秀綱のページ)、

基綱−国基−実綱−成綱−広綱−貞綱−資綱−師綱−重綱−重長−盛綱−秀綱−泰綱−豊綱−昌綱−宗綱−氏忠−房綱−信吉−久綱
(ここで江戸時代に突入。その後も旗本としての系譜が続くが、長いのでここまでネ(^_^;))



今回はここまで(^^ゞ

次回は、この続きで、↑で行きかけてる「唐沢山城跡」と、「興聖寺(清水城跡)」。最後にちょっと足利近くまで足を伸ばして、前も行った「樺埼城跡」に寄って、佐野の日帰り温泉でエンド。
次回は、旅行の後の日常編にも入れるんじゃないかと思う〜!

例によって関連事項のリンクは後日に……。
と言いつつ、このリンク貼りがここんとこ、えらいサボリ気味でスイマセン(^_^;)。
超多忙期も終わったので、ジワジワ着手したいと思っておりますm(__)m

<つづく>

2018年04月28日
 
     






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