<2015年・城主のたわごと5月>




2014年11月、茨城県古河市「古河城跡」(歴史博物館)の続き。

「長谷観音」「古河総合公園(公方館跡)」「鳳桐寺」をお届け!!




     
  「ご挨拶」コーナーでも述べた通り、今号を書いてる間にパソコンについにガタが来てしまった(^_^;)。
代用があるので、今回は何とかアップにこぎつけ、レポ更新以外は対処できているが、万全な態勢を取り戻すには時間がかかるかと……。

次回以降のレポと関連リンク貼り付けなど、この先の予定が見通せない事を、先におことわりしておきますm(__)m
(リンクは後追いでチョコチョコ貼りたいと思いますー)

さて、前回から古河レポをスタートしている(^O^)。
前回は、関宿を経由して、古河に到着。
古河城跡である「古河歴史博物館」にいる所で、今回に引き継いでいる。

日帰りだったので、今回(連載2回目の短期レポ)で終了するが、古河が気に入ったし(^^)、行けてない所もいっぱい残ったので、また行ってみたい☆ミ

古河の後は、ほんのちょっとだけだが、11月〜12月の日常を走る(^^ゞ。



■11月下旬・茨城県古河市
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)、2>


前回は、簗田氏関宿から始まり、イキナリ古河公方(および、その前身・鎌倉公方)の話から入ったので、古河じたいの紹介が少し疎かになっている(^^ゞ。
今回は、博物館にもいることだし、古河の歴史をざっと記そうと思うが、それがなかなか簡単ではない(笑)。

先史時代に始り、平安期ごろまではスンナリと話せる。

紀元前3万年ごろの石器から、人の住んだ形跡が現れる。
やがて温暖化による海水流入を経て、思川・渡良瀬川・利根川など豊かな自然環境が出現。

縄文期の出土からは、古河の古代人が、東京湾をのぞんで貝塚を形成し、狩猟・採取・漁労を営んだ様子や、装身具からは呪術的な日常も垣間見える。

古墳時代は、9基あったと伝わる古墳は原型がとどまらないが、各々の古墳跡からは、石室と副葬品、埴輪、古墳周囲の二重溝、集落址などが見付かっている。

奈良時代に入ると、万葉集の歌に、「許我(こが)」の地名が出て来るようになる。


古河歴史博物館古河城跡)」(地図(パノラマ4枚180度以上)

が、続く平安期については不明(^_^;)。問題はこの辺り以降なんだわ(笑)。

展示場では、平安〜鎌倉期についても一応、平将門の乱・源頼政・静御前伝承が色濃く残る古跡が紹介され、それらはとても興味深かったが、小さいコーナーに留まっていた(^_^;)。

古河公方が本拠化する前の古河城を、最初に築城したのが平安〜鎌倉の下河辺氏と見られるが、これについても同様(^_^;)。

その後の中世〜古河公方の時代についても、古河公方の扱いは、本拠地の割には意外なほど小さく、その後の江戸時代から先が膨大な量の展示となっている。。

館内パンフレットでも、平将門や古河公方の事は、冒頭に書いて来た古代史の続きとして、各々一行で片付けられている(爆)。

私の行った時は、期間限定の特別展で、富士山にまつわる展示会が行なわれていたが、常設展示では、

@「鷹見泉石」、古河藩における名家老で知られる。
Aその他、古河藩における文化人河口信任・土井利位・奥原晴湖など)

といった辺りがメインだった。どちらも江戸時代の内容である。


入口は二階(撮影は室内休憩所から)
左が扉(^^)、向こう正面は箱庭

↑ここまでの写真、実は前号の使い回しっ(≧▽≦)!

ところが、売店で求めた、古代史・中世史について書かれた書籍には、平将門についての研究結果が、思いのほか多くの紙面を割いて論述されている事に驚いた(゚.゚)。

将門というと、現在の坂東市に本拠があったとされ、その東隣の常総市や西隣の境町にも、勢力圏らしい地名・跡地・伝承地があるが、境町のさらに西隣にある古河に、同エリアという認識が持たれている事が意外だったからだ。

古河公方についてとなると、さらに熱意がこもり、「古河公方の時代が、古河の最も輝いていた時代」と、展示会場とは180度逆転した書かれ方になっている(・・;)。。

このアンバランスさ、かなり強烈な差異に感じないではいられない……(^^;)。。

このようにチグハグになる理由は、私にもよくわからない(^_^;)ゞ。
だから、理由に匹敵する材料を述べる自信は無いが(笑)、思いつくままに述べてみようと思う。

博物館をジックリと見学した後は……↓

今度は外に出まーす。まず一階に降り
階下に見る噴水庭園

この噴水庭園から、道路を挟んで向かいに見えるのは、「鷹見泉石記念館」(地図)↑
まずは、この辺りから説明を始めよう。

鷹見泉石(1785〜1858年)は、江戸期の古河藩・土井家名家老で、古河城下に生まれた。
洋学に熱心で、オランダ商館長ブロンホフから「ヤン・ヘンドリック・ダッブル」という西洋名を貰った程である。

当時の古河藩主・土井利厚・利位は幕府の中枢にあったため、家老の泉石も、ロシア漂流民の大黒屋光太夫との関係、ロシア使節レザノフの来航、間宮林蔵・近藤重蔵の北方探検、ペリー来航、大塩平八郎の乱とその召し捕り、さらに渡辺崋山蘭学者たちの交流など、活躍の場が大変に多く、かつ多岐に渡っていた。

こうした泉石の関係資料3153点は国の重要文化財に指定され、向かいの歴史博物館でも定期的に入れ替えを行ないながら展示しているそうだ。

鷹見泉石の頃の展示は、スペースも広く展示数も多かったから、あれでも入れ替えを頻繁に行っているというなら、率直に言って、「全体数が多いんだなぁ」とまず思う(^_^;)。

博物館の向かい「鷹見泉石記念館(パノラマ4枚180度以上)

↑この記念館は、泉石の最晩年の住居を改修したもので、古河城の余材を使用したといわれる。
珍木「楓樹」、二ノ丸御殿の石燈籠がある。
奥原晴湖の画室も、明治の1891年に熊谷に建てられたものを移築・復元してある。

↑この先に進んだT字路に、「GALLERY Mammy Continental」という輸入家具屋さんの看板があり、何となく風景の一部と化して見えたので、内容を写させて貰う↓

ヨーロッパ直輸入家具・輸入品専門店 マミーコンチネンタル
絵画・リトグラフ・ポスター
アール・ヌーボーランプ
ベネチア・ボヘミア・ガラス
美術品・工芸品・etc…
マイセン・ヘレンド・ミントン
ロイヤル・コペンハーゲン
リチャード・ジノリ・スポード
ウエッジ・ウッド・エインズレー
アルフォンス・ミュシャ
マルク・シャガール
マリー・ローランサン

こんにちではブランドと芸術に分かれてる名も、みんな一緒に並んでいる様は、昭和のレトロな雰囲気に近いかな(^^)。
「輸入品」とあるけど、私の子供の頃は、洒落て「舶来品」と言ったものだ(笑)。

これがその家具屋の案内板↓
左折し、博物館の敷地に沿って歩く

前号でも、最後にオランダ製の大型オルゴールで示した通り、このような舶来文化が何となく似合う土地の気風は、洋学に影響を受けた鷹見泉石と、泉石に代表される多くの勉学者・文化人を輩出した、江戸期の古河藩によるものと言える。

以上が、歴史博物館の展示に見られる古河の歴史観だが、ここで、先ほど課題にあげた「差異」に戻って、これより述べてみよう。

まず、普通、戦国期城跡と言うと、山城である事が多い。
そうした場は、今では城跡公園風に整備されていたりして、小さい資料展示室が設けられているのを見る時もある。
そこに展示されるのは、中世や戦国期の氏族を特集する内容だ。

が、古河城平城だったから、江戸期も廃止されなかった。
だから江戸期に使われた古河城の跡地にある博物館としては、江戸期の展示が主流となるのも頷ける。

やがて隣接「古河文学館」(地図)に連なる濠風の敷地(パノラマ4枚180度以上)

さらには、江戸期に比べて文献資料に乏しい中世・戦国期の歴史も、最近の発掘調査では、よく新技術の導入などによって新発見が多いが、維新後の古河城は、明治43年〜昭和2年(1910〜1927)にかけ、渡良瀬川の改修事業によって、土塁は崩し、堀は埋め立ててしまったので、そういう期待も適いにくい。。

歴史博物館によると、改修工事について、「理由は水害対策、具体的な目標は、城の所で蛇行していた流れを真っ直ぐにするため」だったが、「計画の詳しい経緯は不明」とあり、保存推進の申し出や意見もあったが、それらが進展した形跡は無いらしい。(城址を示す石碑がある辺り→地図

ここで改めて、古河公方の後(戦国末〜江戸期)の古河城の足跡を見てみよう。
小田原征伐後の古河城は、

1590年、小笠原秀政
1601年、松平康長
1612年、小笠原信之、政信
1619年、奥平忠昌
1622年、永井直勝
1633年、土井利勝、利隆、利重、利久、利益
1681年、堀田正俊、正仲
1685年、松平信之、忠之(断絶)
1694年、松平信輝、信祝
1712年、本多忠良、忠敬
1759年、松平康福
1762年、土井利里、利見、利厚(利和)、利位、利亨、利則、利与(廃藩置県)


さらに先に伸びる道(左手前に文学館)
振り返って戻る(右は歴史博物館)

廃藩置県が1871年だから、最後の土井家は109年間と、他家に比べて長い上、途中の1633〜81年の約48年間と併せると、通算157年間と、土井氏による一人勝ちの感がある(笑)。

他にも、松平・奥平・本多といった親藩・譜代の歴任に見る通り、古河は徳川幕府に極めて重要視された土地だった。

それもそのはず、古河は江戸日光を結ぶ要所にあり、将軍が外出する唯一の機会である日光参詣の折には、古河に宿泊を取るから、特に徳川家に忠節な家柄が選ばれて配置されたのだろう。

このように、江戸時代の古河は、徳川幕府譜代の城下町としても、日光道中の宿駅としても発展したのみならず、土井家のような重鎮が受け持ったため、鷹見泉石の事蹟で見た通り、時には、国の中枢で起こる大事件に対処せねばならないなど、その時々の藩主の役割によって、多くの文化・技術・情報を吸収(研究)する必要に迫られた。

そのため、位置としては江戸から少し距離を置きながらも、さながら国会周辺の官公庁みたいな役割を担う藩だったのではなかろうか(^^ゞ。

道路下の博物館の庭園に降りてみる
元の噴水庭園と博物館に戻る

そうした立地条件のなせるわざか、全体として学問を重んじるのが藩の気風だった。

日本で初の脳解剖をおこなった藩医・河口信任の『解屍編』は、有名な『解体新書』にさきがけて出版されている。
藩主の土井利位みずからも、大坂城代京都所司代老中を勤める傍ら、雪の結晶を観察し、『雪華図説』『続雪華図説』に、183種を記した。

さらには、江戸の藩邸で江戸の文化人と交友を重ねる者もおり、書画芸術も多く花開いた。
南画家・奥原晴湖もその一人で、下絵・絵手本・粉本を残している。
狩野派から出た河鍋暁斎は、浮世絵・漢画・洋画など、幕末〜明治の様々な絵画を研究し、名作を世に残した。

明治以降は、製糸工業ができ、足尾鉱毒事件田中正造も古河を活動拠点としていた事で知られる。

以上のような点から、文や画像を用いた展示内容も豊富になり、相対的に、中世以前については隅に追いやられがちな印象になるのかも(^_^;)ゞ?


この「古河歴史博物館」「古河文学館」(古河城跡)「鷹見泉石記念館」の周囲には、他にも「篆刻美術館」「古河街角美術館」「永井路子旧宅」などが、各々歩ける範囲にある。



<「長谷寺」(長谷観音)>

↑「長谷寺」(地図)は、山号・院名を「明観山・観音院」と号す、真言宗豊山派。古河横町星寺末。長谷町にある。

古河とその周辺の寺社で、古河公方に関係するものは、

@古河公方が来る前からあった寺社
A古河公方が古河に移った際、ともに鎌倉から来た寺(鎌倉から勧請してきた社)
B古河公方によって開基された寺

この三つがあると思うが、今、注目するのはAで、長谷寺も該当する(^_^A)。


行きに、駐車場から博物館に向かう途中に見た寺だが、博物館は営業時間があるので先に見て、帰りがけに寄った(^^)。

博物館からの戻り道、左手にある
逆方面から改めて写す

このように伽藍が通りから露出して見える。

明応年間(1492〜1500)に、古河公方初代・成氏が、古河に移ってから、古河城鬼門除けとして、鎌倉の長谷から勧請した(「古河志」)、木造十一面観世音菩薩像を本尊とする寺で、「長谷観音」とも通称されている。

成氏は1497年に亡くなったので、明応年間(1492〜1500)と言えば、最晩年と言えるだろう。
また、成氏が古河に来たのは1455年であるから、それまでの37〜42年間、長谷寺は、依然として鎌倉に在った……という事になる。
(ちなみに現在も鎌倉に「長谷寺」はあるが、今いうのは、「古河に来なかった」の意味ね(^^ゞ)


大正期に再興されて以降の本堂(パノラマ3枚ほぼ180度)

成氏の後も古河城の累代藩主の祈願所で、当時の本堂は八間四面勾欄付き赤塗の荘厳な伽藍であったが、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となり、大正3年(1914)に再興された。

本尊の十一面観音菩薩立像は像高2メートル余で、大和長谷鎌倉長谷と同じ一本の木から造られているといわれ、日本三大長谷観音とよばれている。
この「三大」というのを、ネット上では秋田や会津にも散見するが、古河については、「古河長谷観音」→「長谷観音の紹介」→「長谷観音の歴史」に詳しく書かれている(^^)。

以上、「古河歴史博物館」「鷹見泉石記念館」「古河文学館」「長谷寺」は、いずれもJR宇都宮線古河」駅から、徒歩10〜15分程度の距離。

鎌倉から古河に来た寺社の話は、↓この後も続きます)



<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>

古河総合公園」の入口(地図)→

前号でも言った通り、古河公方の御所が置かれた跡地で、今は広い公園になっている。

スイマセンこの写真も前号の使い回しデス(^_^;)ゞ。博物館(古河城跡)に行く前に、入口まで寄って撮影しといた。

この古河総合公園になると、先ほどの古河城跡とその周辺の寺社や博物館などと違って、「古河」駅から、ずいぶん離れている。
徒歩だと……駅から30分は歩くかなぁ(^_^;)。

公式サイト「古河総合公園」で見ても、バスの案内は無く、「タクシーで駅から10分」と書いてあるから、駅でタクシーを拾うか、最初から車が無難かなー。。

ただ、周辺はそれなり都会で、道幅も広いので、スーパー・コンビニ・飲食店・薬局・電気店・銭湯ランドなど、主だった周辺施設はほぼ揃ってて、夜も8〜9時ごろまで営業してたかな(^^ゞ。

公園に面している道路(公道)が、「公方通り」と称されてて(まずこれが嬉しい(#^.^#))、そこから園内通路に入ると、ずーっと奥に広い駐車場が左右にあり、駐車場から公園入口までの間に、モニュメント(巨石)の並ぶ芝生が続く。

モニュメント群の中心に「御所沼復元記念」という石碑が立っていた(゚.゚)! ↓
公園も、この「古河公方広場」から始まる(^^)→

↑左写真の石碑にいう「御所沼」というのは、これより入る公園の中にある大きな池で、↑右写真にある「古河公方広場」から始まる水流の行く先。

「復元」とは、「古河公方の時代にはあったが、その後無くなった」という意味だろうが、江戸期か、それとも渡良瀬川の改修事業によってか、と調べた所、wikiに「戦後の1949年、干拓・埋立されて消滅」「復元は1996年」とあった(^_^;)ゞ。(御所沼古河総合公園@wiki)

一方、右写真の石碑「古河公方広場」には、側面の片方に「二入川」とあり、もう片方に、

康正元年(1455)足利成氏鎌倉より古河に移り古河公方と称し、この地にも館を設けたという。古河公方は五代目義氏に終わるが義氏の娘氏姫は後方の森の中に鴻巣御所を営んだ。
 この小川は上流の小字名に因る二入川という。
と刻まれていた(^^)

始まりの水(^^)
チョロチョロと流れて御所沼に向かう

「この地にも館を設けたという」といった、まどろっこしい書き方になるのは、この「古河公方館」が、古河公方初代・足利成氏が、先ほどの「古河城」を本拠と定めて住む前に住んだ、とは推測できるものの、古河城が代々の古河公方が住んだ事がハッキリしてるのに対し、この「古河公方館」は、その後どう使用されたかわからないからだろう。

そもそも古河城と古河公方館跡は、それぞれ独立した城なのか、或いは両城が一繋がりだったのか……。
先ほどの「古河城」跡の歴史博物館あたりと、ここ「古河公方館跡」は、距離にして、だいたい1.5キロぐらい、博物館は東にせり出した出城(諏訪曲輪)跡だから、南端部にあった城域からだと、1キロぐらいか……。

繋がってたとすれば、かなり巨大な敷地となろうが、渡良瀬川の改修事業によって古河城の遺構が失われ、さらに戦後の埋め立てによって、ここ古河公方館跡も一部しか無い今となっては、全容は掴みにくいかもしれない。

ただ、五代 ・義氏の娘・氏姫が、小田原征伐によって豊臣秀吉に接収された古河城を出て、この古河公方館跡に「鴻巣館」を営んだ事をもって、「初祖・成氏の住まい(古河城の前身)」と推測されてるんだろう(^^ゞ。

氏姫は、それを前提として移り住む……つまり「古河城を引き払う事に同意した」という事だと思う。

これより本格的に「御所沼」が始まる→

同意も何も、後北条氏についた者、つまりほぼ関東じゅうが小田原征伐によって有無も言わさずアッサリどかされたんだが(笑)、実は氏姫だけはそうはいかなかった(笑)。

この氏姫の件は後に触れるとして、何しろ氏姫の時代までに、成氏の居館跡が判らなくなってしまった……という事は無さそうだから、「成氏の最初の居館」という解釈でイイと思う(^^ゞ。

これより、いよいよ、その「御所沼」に入って行くので、園内にあった案内板を見てみよう↓

←例に寄って字は私が書き入れた(^^ゞ。
現在、図の東端「公方広場」にいる。

上の写真に見た通り、はじめは細い水流から始まり、向こうの橋(渡り廊下)を越えると、大きな沼地がスタートする。

沼の中央に「公方様の森」という森林地があり、森の東に「古河公方館跡」、すなわち「鴻巣館」跡地がある。

御所沼」は、さらに南にも続くが、森を抜けて「天神橋」を渡ったら、陸地を北上して「徳源院跡」(古河公方の五代・義氏の墓所)に向かい、北端の「桃林」に到達……というのが、我々の辿ったコース。

地図←公園全体の中心にポイントを置いた

さっきの「鎌倉から古河に来た寺社」の話に入る前に、古河公方の初代・成氏がこの古河に来るまでの経過と、来た折の事を述べる。

経過については、そのうち又、じっくり話す機会もあるかもしれないので、今回レポに必要な所以外はササッと流すよ(^^ゞ。

今回書きたいと思う点は……。

かつて、古河公方が「敗北して逃げて来た」「仕方なく来た」というイメージが強かったらしい。
が、古河で買った本には、それらが誤解として否定され、「古河の重要性をよく認識し、迷わず入部した」「選び取られるだけの理由が数多くあり」と主張されていた。

私もこの点は大いに同意したい所で、その後に続いた多くの説得材料(折に触れ、述べる事もあると思う)についても、「なるほど!」と強く惹かれた(^^)。
が、今の所、私にはそれを論じ切る程の知識も自信も無く、ただ何となく成氏について、「鎌倉に未練を感じてない人」「むしろ鎌倉を捨てた男」という印象を持つに留まる。


左に「公方様の森」、中央に「御所沼(パノラマ4枚180度以上)

←まずは、「公方様の森」の方に行ってみましょう(=^m^=)

強いてその論拠を問われれば、恐らくそれは、成氏が鎌倉で育った人でないからだろうと思う。
同様に、成氏に至るまでの4代と比べると、成氏には、何かそれまでの鎌倉公方と違う所があるように思える。

特に、その父・持氏と大きく違うと感じる。

生まれながらに権威も高く、軍事力にも恵まれた父の持氏と、幼児の頃から監視や流転の境遇に曝され、関東公方の座についてからも、持つべきを制限されたに相違ない成氏。

これだけでも大きく違うのに、前者は挙兵後1年も経たずに死んで滅び、後者は30年近くも朝敵とされながら、しぶとくその生命を繋ぎ止め、かつ最後までには和睦に漕ぎつけた。
歴史博物館で買った本にも、この不思議に触れて、「大きな違い」と言及されていた。

「公方様の森」は鮮やかな紅葉に彩られていた(#^.^#)(パノラマ4枚180度以上)

まず成氏の父・鎌倉公方四代・持氏永享の乱(1438年)に敗れ、鎌倉で自害する。
(2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内以降←永享の乱は、いつも出す「千葉県の動乱」には無く、こちらにしか書いてないので、これを読んでネ(^_^;)ゞ)

京の六代将軍・足利義教の命で、やむなく持氏を討伐する側となった、関東管領・上杉憲実は、続く結城合戦(1440年)でも、持氏の遺児・安王丸春王丸の挙兵に対し、渋々ながら討伐側に廻った。

しかし憲実は、持氏の死の直後から自身の死に至るまで、長く主君・持氏への背反を苦にした事で知られる。
その後は隠遁して関東管領職への再任は引き受けず、自身が諸国行脚などして過ごすのみならず、自分の子らへも出家させるなど牽制手段を講じて、その就任を固く禁じた


進路は、これより森への入口を探して、「公方様の森」に分け入って行くゾヨ(^^)。

森の中に見える民家
森の脇に続く御所沼

結城合戦の後、逮捕連行された持氏の遺児三人いた。
このうち安王丸・春王丸は、連行の途次、美濃の垂井、金蓮寺で処刑され、残る一名(「建内記」に4歳、「永享記」に6歳)について処刑すべきか注進中、持氏追討の主指示者・足利義教嘉吉の変で、赤松満祐に討たれて死去。

こうして、他の遺児には追及の手が及ばずに済んだ(^_^A)。
連行された三人目の遺児は、やはり美濃までは送られたが、土岐家に保護され生き延びた。

以前はこれが成氏と言われていた。
安王丸・春王丸の次の弟が成氏だった。幼名は万寿王(旧来は千寿王とも伝わっていた)。

が、どうもこれは後に示す定尊(又は尊 伸攵(2文字で1文字))という、成氏の弟ではないか、と見られている。
(成氏が結城合戦に参加したと伝える書もある一方で、成氏は参加せず、信州の佐久に逼塞していたと見る説も有力のようだ)

前方、左手に登り道。紅葉が綺麗(^^)
右手は広々とした散策コース

成氏の生年は不詳だが、父・持氏の死亡時(1493年)、5歳だったと言う。
結城合戦の翌1441年、処刑された春王丸が12〜13歳、安王丸は10〜11歳といい(各記録にもよるが)、数えだと実年齢は2歳下と考えれば、やはり1441年に8歳を越えてはならない事になる。

安王丸より一歳ぐらい下かな〜ってな見立てによって、1434年以降の生まれ、と考えておく。

以後、成氏に関する初めの記録は、1444年、信州の大井氏の元での「御代始」の儀式。(〜10歳)
次が1447年の「鎌倉公方五代目)就任」。(〜13歳)
1448年、鎌倉下向(〜14歳)
1449年、「成氏」の諱を8代将軍・義政(義政に成る前、「義成」と名乗っていた)から貰い、左馬頭に補任。元服。(〜15歳)

成氏が来るまでの間、鎌倉は上杉氏(および上杉氏の家臣)が取り仕切っていたらしい。
上杉氏の奉行の名(力石氏など)が書類に見えるそうで、これらに主導的な役割をしていたのは、上杉家宰の長尾氏であろう。

左高台に民家を見上げながら
森に上がる坂道をゆく

が、名目にせよ責任者は上杉氏であったハズで、これが憲実の子・憲忠なのだ。
「あれほど、関東管領になるな、と言ったのにヽ(`Д´)ノ!」と、憲実は怒っただろう。
憲実は憲忠の就任を知ると、憲忠と父子の縁を切ってしまった

案の定、1450年(1451年とする史料もある)には、長尾景仲太田資清道真(道灌の父))が、成氏を急襲し、江の島合戦に発展……と、早速騒動が起きてしまう(^_^;)。。

成氏は、安房・上総にまで難を逃れる想定で江の島に至ったが、小山・千葉・小田・宇都宮などが加勢に来てくれ、双方討死を出しながら引き分け、上杉憲実の弟の禅僧が間に立って、和談が成った。

千葉氏は持氏の最期に、上杉との和解を説いたが聞き入れられず、やむなく上杉についたのが、成氏政権は最初、上杉憲忠を関東管領にしてたので、当主・胤直の叔父・馬加康胤の薦めで、成氏に奉公した。

登って左手に民家がある(パノラマ4枚180度以上)

民家に向かって左に「古河公方館跡」の碑と案内板があり、さらに左に「公方様の森」がある。

そして、1454年の享徳の乱の発端で、成氏が憲忠を討つ段でも、やはり「亡父の復讐」と語られる事が多い。

ただ、成氏の挙兵を「持氏の仇討ち」とするのは、上杉憲実の側からの見方という気がする。
自分が成氏の父・持氏に対して兵を挙げ、自害に至らしめているのは事実だし、憲実はその罪悪感に苛まされる晩年を送ったから、「成氏の恨みが自分達父子に向く」と思い、あるいは人にもそう語って当然だろう。

また成氏自身、上杉に対して旗挙げするのに、実際に「父の仇」と謳った可能性はあると思う。

が、上杉の背後にある幕府にも戦いを挑む事になる以上、多くが納得する尤もらしい大義名分を掲げる必要があるからで、これは頼朝も使った手だ。
だが成氏の思いが、「亡父の仇討ち」に終始してたとは、とても思えない(^_^;)。

永享記」では、上杉憲実が主君を失った世を憂えて諸国行脚の旅に出るや、狙い澄ましたように一門や家来が、子の憲忠をそそのかして関東管領に就かせる様子が仄見える(^_^;)。


民家の前の広場。広々として空青く紅葉が綺麗(^^)(パノラマ2枚)

新関東管領の憲忠は、成氏と殆ど同年齢のまだ幼い子供だった。
だから上杉憲実の弟・清方が代行したとか、彼らの不足を補うべく、扇谷上杉持朝が後見したとも言われている。

成氏自身、京幕府の管領・畠山持国に、江の島合戦の報告として、
憲忠がまだ若輩なのをいいことに長尾が専制し、太田と示し合せて(自分を)急襲した」
「憲忠は元々誤りが無かった。出仕できず不憫。出仕するよう命じて頂きたい」
憲実に関東の政務を執るよう命じて頂きたい
と言って、憲忠を庇い、憲実を頼りにしている様子がうかがえる。

これが1450年であるから、これより4年後の1454年になって、急に「父の仇!ヽ(`Д´)ノ」と気付いて(それまで気づかず)成氏が憲忠を殺害した、というのは、ちょっと不自然かと(^_^;)。

むしろ……。。
上杉憲実が頑なに辞職し隠遁していたがため、 返って留守を守る家宰(長尾・太田)の暴走を招いたのではなかろうか。。
新・鎌倉公方・成氏に良かれと、不和・騒動を避け、或いは二度と主君一家に叛くまいと、今さら身を引いた事が、返って皮肉な結果になったのかもしれない(^_^;)。。

↓民家寄りに古い石碑が立ち……
←ちょっと左に新しい石碑。案内板の記述は以下↓

茨城県指定文化財
史跡 古河公方館址
昭和8年7月18日指定
(説明)
ここは旧御所沼につきでた半島の中ごろで、古河公方足利成氏以来別館のあった址で、鴻巣御所とも呼ばれていました。成氏が鎌倉から古河に走ったのは康正元年(1455)で、2年後の長禄元年(1457)には下河辺氏の築城した古河城を修築してここにうつりました。それから後、古河公方成氏・政氏・高基・晴氏・義氏に至る120余年の間古河は関東一円に重要な位置を占めていました。ここにあった館も義氏の一人娘氏姫までありましたが、古河公方の城址が大正初期に渡良瀬川改修工事のため、大部分河敷となり、この鴻巣御所址は往時をしのぶ史跡として意義深いものがあります。
この碑の西と東には、当時の空ぼり土塁をとどめています。
 昭和44年1月13日 茨城県教育委員会

……というわけで、やっと成氏が古河にやって来る前段階終了(^_^A)。

館址&民家のあるこの一帯から、今登って来た坂道を挟んで西側には、さらに森(公方様の森)が続く。

いよいよ古河における段階に入りたい所だが、森に入るとこの辺りには戻って来ないので、古河公方・足利成氏の話は、森を歩きながら話すとして、ちょっと民家を見学してから先に進むね(^^)。



<古河総合公園A旧民家(中山家と飛田家)>

民家は二軒展示されてる。

最初は「旧中山家」で、もと茨城県岩井市大字辺田(現・坂東市辺田かな。岩井市は猿島郡猿島町と合併されて消滅)の中山氏からの寄贈。

一軒目「旧中山家」は江戸初期に建築の大型農家(パノラマ2枚)

解体修理で発見された床板裏面の墨書から、延宝二年(1674)に建てられたと見られている。

中山家は武士の出身で、江戸時代初期、辺田村に移住し帰農したといわれ、代々辺田村の組頭などを勤めた。

建築後も、幾度か改造や補修を経つつ、軸部は当初の状態で残存しており、移築に当たっては建築当初の型に復元する方針で行なわれたそうだ。
保存状態も良好で猿島地方の大型農家の典型として、昭和48年茨城県の有形文化財指定を受けている。

←入って左の一段高い居間
↑低い土間には展示物が

住宅は、猿島地方に多く見られる直屋(すぐや)といわれる型。
平面は東側の広い「どま」と、中央の無目(むめ・溝なし)の敷居に分けられた「ひろま」と西側の前室のある「ざしき」とその裏の「なんど」からなり、桁行九間半梁間五間半の大型農家。

土間の展示は鋳型跡(?)のような発掘物だった。(右の写真)
その左奥にちょっと見えるのはかまどらしく、実際に煮炊きできるようで、ここを使用して炊き出しを行なった地域の活動(イベント)レポを、ネットで拝見した(^^)。

外に出ると、この秋、何度もシャッターチャンスを逃したススキがここで綺麗に撮れた(^o^)→
↑中山家を出ると、その右隣は……↓

お次は、「旧飛田家」↓。こちらは同じ茨城県でもずっと北部の、久慈郡金砂郷村大字岩手。
金砂は去年の春旅行でも行った所だ(^^ゞ。スゴイ険しい山奥だった。

「事情により当地に移築」とある。
確かに久慈郡金砂だったら、水戸(県庁所在地)の方が近いもんね(^^ゞ。

←中山家から来ると、こう見える
右側面を通り抜けると↑こんな感じ

このツートーンになっている土壁と板木状の壁は、内部に入ると、板壁の部分に馬が住んでる。馬小屋が家とくっついてるんだね(^o^)。

こちらは、所有者・飛田家の初代の夫婦が、その位牌に「延享元年(1744)」「寛延元年(1748)」と没年が記されている事と、この構造手法とを考え合わせると、1700年代前半の建築と推測できるそうだ。

さらに廻り込んで見よう。

廻り込むカドにある山茶花(^^)
正面はこの通り、縦横二連結の曲がり屋づくり

この「曲がり屋」は、東北〜常陸地方の北部にかけてよく見られるもので、土間の「うまや」部分が突出しL字形をなしている。

初めの建設の後、何回も改造や補修をしているが、構造、平面等にそれほど変化はなく、よく旧態を残しており、現在茨城県下で知られる曲り屋形式の中で、最も古いものとして、昭和43年、こちらは国の重要文化財の指定を受けた。

マネキンだけど、この通り、入ると馬が囲われている

↑さっき見たツートーンの内側はこうなってる(^^)。
そしてL字型の内角部に厩の入口があって、入るとこうしてまず馬と対面し、右に土間が続いて家の内部に改めて入る作り。

入って来た客人からも、厩の馬からも、この視点で家の内部はこう見える→

土間(板の下)に続いた広い「板の間」で、奥の片隅に小さな「へや」が設けられ、さらにその奥には前室のある「ざしき」が並ぶ形式。

最初に目に入る囲炉裏が、家の中の温かさを伝えてくれ、馬も家族も同じ屋根の下で、囲炉裏を囲んで、仲良く広々と暮らす光景が目に浮かぶ(^^)。

これら旧民家は、古河公方館跡とは関係ないが(^^ゞ、広大な公園の敷地の中に、何か和風っぽい古い建物があると、日本史にゆかりの跡地っぽくて良いよね。
こたつ夫婦は、特にこうした展示民家が大好きなので、二つの民家の大きいのに喜んだ♪



<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>

さて、民家のある広場の隣からは、鬱蒼たる「公方様の森」が始まる。

古河市では、こうした自然林が今は珍しいとの事で、保護の方針が取られている。
この森の地が鴻巣館跡である事、氏姫の移転が初代・成氏の軌跡に関連する事などと合わせて、ざっくり「公方様の森」と命名されたのではなかろうか(^^)。

先ほど登って来た坂道と「旧中山家」が森の合間から見える(パノラマ2枚)

古河公方初代・成氏の話に戻ろう(^^ゞ。

先ほど述べて来た通り、成氏が管領・上杉憲忠を討ったのが、「父(鎌倉公方四代・持氏)の仇討ち」で無く、しかも上杉憲実・憲忠父子に対し、当初は敵対感情を持ってなかったのなら、何が原因で敵対へと至ったのだろう。

1451年、成氏(〜17歳)は従四位下に叙任され、左兵衛督となる。
江の島合戦は1451年とする史料もあるが、1450年のようだから、合戦後に畠山持国に申請した成氏の説明が受け入れられ、無事に昇叙を果たした……という事じゃないかな(^^ゞ。

北も南も「御所沼」に囲まれている。昔は半島だったんだね(^^)

この畠山持国は、成氏贔屓(てゆうか反義教派:笑)で、この持国と京政権でライバル関係にあった細川勝元が、新たな管領として台頭してきた事が、このあと一転して成氏に不利に働くようになったともいう。

1453年には、成氏(〜19歳)から幕府へ申し入れをする場合は、関東管領の上杉憲忠が副状を付けないと幕府が返答しない状態になっていたという。

この副状の件は、永享の乱以降、既に鎌倉公方の権限がそれほど劣化していたように書かれる物もあるので、成氏が畠山持国に上杉憲忠の弁護をしていた時と事情が変わった、と見なせるのかは判らないけど(^^ゞ。

それと成氏の就任前から、京の幕府側には、持氏の遺児ではなく、前将軍・義教の子(七代義勝や八代義政の兄弟)から新しい鎌倉公方を出す考えがあった。

これと関係するのか、江の島合戦が和解となった後も、相変わらず関係修復がギクシャクしたと思われる要素として、これより述べる結城氏などの問題の他に、「鶴岡八幡宮若宮別当」問題への指摘がある。

これを先ほど「長谷観音」でちょっと話した、「
鎌倉から古河に来た寺社」に絡めてみようと思うが、この「古河総合公園」の後に、もう一ヶ所お寺巡りをするので、その時に話そう(^^ゞ。

北側、さっき歩いてた先に続く御所沼(パノラマ3枚ほぼ180度)

ここでは今言った、結城氏の問題を先にやる。
成氏は公方に就任すると、まず、父・持氏および、二人の兄・安王丸・春王丸に忠義を尽くした者達に対する、論功行賞を開始している。

特に結城氏は、安王丸・春王丸に頼られたが故に、結城合戦では一方的な敗者・賊軍となってしまった(>_<)。。
当主の氏朝は討死、三歳だった子の重朝は、家臣によって佐竹に落とされ、今は結城に戻って、成氏に諱を頂戴し、成朝と名乗って復帰した。

この成朝の鎌倉出仕を許可するかに、長尾・太田は反対した事が考えられ、結城氏と上杉氏が、北関東の地を巡ってライバル関係にあった点が小さくない、と見られている。


森を進む。前方は鬱蒼とし……
後方を振り返る(同じ風景だね(^^ゞ)

ただ成氏は、父や兄の味方をした者だけ優遇したわけではないようにも思う。

持氏に対して敵対的な挙動を取った千葉氏武田氏武田信長)などまでが成氏の就任以後、成氏への忠勤ぶりが目覚ましい。
つまり成氏は敵味方によらず、父や兄によって損害を被った者達への手当を行なった(行なおうとした)事が考えられる。

さらに、成氏に寄せられた期待には、父・兄がらみの戦乱犠牲者の他にも、多くの支持があったと推測できる。

当初は長尾・太田といった上杉側の者達も、上杉憲実が支持する以上、持氏の遺児が鎌倉に復帰する事自体に異論は無かっただろう(あっても憲実相手じゃ逆らえなかったろう(^_^;))。

何かヨーロッパ絵画のような美しい公園風景(゚.゚)

が、復帰して来た成氏が出会った現実は、父持氏の起こした永享の乱の冷めやらぬ内に、上杉氏の者達に土地を強奪された者達の悲哀だった。

成氏が憲忠を庇ったり、憲実に復帰を望むのも、全て、「アンタら上杉が、押しこみ犯の長尾・太田のボスなんだから、きちんと指導しなさいヽ(`Д´)ノ」と指示したいからだ。

ところがこの後、上杉憲忠が対処・指導した形跡は全く見られない(^^;)。。

「鎌倉大草紙」になると、憲忠が「和談して長尾はお許し頂いたので、没収された一味の領地は返して下さい(^o^)」とか、シャアシャア訴えに来る始末(・・;)。。
成氏がそれを許さずにいると、長尾側は寺社の荘園に押し入って自分の家人に与えたため、あちこちの国から訴訟が耐えない(^_^;)。。

成氏は再度「長尾を処罰しなさいヽ(`Д´)ノ」と憲忠に言うんだが、又々スルーなんだ。。(汗)


前に進む。北の沼が右に見える(パノラマ4枚180度以上)

今度は後方を振り返る。沼は左に(パノラマ4枚180度以上)

この後に続く段階と思われるのが、「上杉家文書」にある、成氏派(野田・小田・簗田・一色・長沼らに)よる押し入り行為の頻発で、彼らにすれば「取り戻し」のつもりでも、上杉は京幕府と繋がってるので、成氏派は幕府から「強入部」「押領」と受け取られてしまう(^_^;)。。

ここで扇谷と長尾は、本拠の上野国で一味を集めて計略を練る。
この陰謀を察知した成氏派は「一刻の猶予も無い\(>o<)/」と成氏にチクる。

そこで成氏らは綿密に計画を練りあげ、1454年の年末、長尾景仲が上野国に行った鎌倉不在を狙って、上杉憲忠を西御門御所に招き、武田信長・結城成朝らに、憲忠長尾実景父子を含めた上杉主従まるごと謀殺させ、 上杉氏の居館に夜討ちをかけた。

いわゆる享徳の大乱の勃発である。30年に渡って、成氏が朝敵となる動乱である。

森を出ると「天神橋」で御所沼を渡る(^^)
渡り口にあった「胞衣(えな)の松」→
古城跡の天神にあって、人々に敬われ、赤子の成長を祈願された所。今の松は1995年に植えた苗。

「古城跡の天神」とは、今は「公方様の森」と名付けて周囲に池を巡らせ、中世の半島を再現しているが、江戸時代は(藩政時代とあった)ただの森林地で、天神様を祀ってたんだね(^o^)。

以上、挙兵に至った理由は、「殺らなきゃ殺られる」と思ったからで、これは1450年の江の島合戦で急襲を受けた前例で充分だよね(^_^;)ゞ。
憲忠を討つに至った直接動機は、長尾・太田に対し、処断を下さなかった事だと思う。
江の島合戦の決着に際して出した条件を守らなかった事、とも言えそうだ。

それにしても、成氏派のこれほどの大逆襲・謀略、持氏の時代だと、即効で上杉憲実に知れてしまったものだ(^_^;)。
憲実は、おめおめと上意討ちの濡れ衣を着せられるのを避けて、あれこれ細心な画策を施したものだ。

それが成氏に代が替わると、上杉側の謀略はバレバレ( ̄▽ ̄;)で、逆に成氏側の計略に憲忠が陥り、まんまと殺されてしまうというのは、率直に言って、成氏派の情報が漏れなかったから……と見るしかないだろう。


天神橋の左の湖
右の湖、ここはオランダ?(爆)

翌月(1455年1月)には、成氏は各地の武士に軍催促を発送、一斉蜂起を促した。
奉行は勿論のこと、結城・里見・世良田・小山・村上・印東・一色・武田・岩松・筑波など、多くの外様勢力も成氏に就いた。

後に発給文書については触れるが、このスピードも、兼ねてより用意してあったと考える他ない(^_^;)。

実は決行前の1454年8月、成氏は、鶴岡八幡宮の社頭で演じられた、本土寺(千葉県松戸市)の猿楽舞を観賞している。
本土寺の猿楽は当時、東国の代表的存在で、成氏に披露した猿楽士として、鞍掛の長命大夫の名が残っている。

先にも触れた通り、鶴岡八幡宮若宮別当成氏の弟定尊)がいた事を思うと、もしかしたら、こんな場も諸将の会合密談に用いられたかもね(^_^;)。


橋の半ばまで渡った。右に今まで居た「公方様の森(パノラマ4枚180度以上)

対する上杉側は、殺された憲忠にかわって、憲忠の弟・房顕を擁立。
扇谷上杉持朝(憲忠の舅)や太田資清は相模国の島河原合戦で、長尾景仲は武蔵国の高幡分陪河原合戦犬懸憲顕・扇谷顕房が戦死)で、上杉の敗退が続いた。

幕府はいち早く、上杉支持を打ち出し、成氏を朝敵にすべく朝廷に奏上。
しかし、めくるめく進展する関東の戦乱拡大に対し、これらの工作は遅れを否めない。

3月、成氏はこの古河を訪れる。初めに居したのが、ここ鴻巣である(^^)。
館を建設するとともに、関宿簗田氏野田野田氏を置いたともいう。

続く4月、小栗合戦でも、上杉は敗退を繰り返す。
成氏が古河に落ち着いて最初の戦いは、5月の大袋原合戦と見られている。


↓紅葉と秋雲を映す御所沼。綺麗だね(^^)。
渡り終わった所に「天神橋」と道標が立っている→
沼を埋めたのは戦後との事だから、森とともに橋も昔はあったのかな?

何とか後花園天皇から綸旨が下された上杉側は、在京していた上杉房顕が鎌倉へ出発。上野平井城に入る。
続いて、幕府側からも、桃井氏などと下向した今井範忠が、6月に鎌倉到着。
そして、今川範忠は鎌倉に乱入。御所・神社仏閣の悉くを焼き払い、鎌倉は焦土と化した。

転戦中の成氏は、これで鎌倉に戻れなくなったのは確かだろうが、その後も下野天命、只木山などで合戦し、以後、騎西城合戦など、古河を本拠と定めた動きが濃厚となる。

これより成氏は、古河公方初代となり、成氏とともに古河に陣した弟・定尊も、以後、「鶴岡八幡宮若宮別当」として、古河における「雪ノ下殿」初代となる。(成氏の孫・小弓公方義明もこの尊称を受け継ぐ)

一方、この辺りで、成氏が朝敵となった事が知れ渡ったようで、千葉・宇都宮・山川・真壁など、上杉側に寝返る者も出始めた。

もっとも千葉氏は、この頃すでに成氏派上杉派分裂して、いわゆる「市川合戦」の真っ最中だった。



<古河総合公園C「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>

↑特に意味なし。「公方様の森」を出て風景が変わったので、項目を変えるだけ(^^ゞ。

橋を渡ると左手に「筑波見の丘」なる、古墳のような丘がある。
御所沼はさらに南にも伸びてるのだが、一年で一番夕暮れの早い時期だったから、先を急いで南には行かず、せめて「筑波見の丘」だけ登って、あとは北上する事とした。

「筑波見の丘」に登ると……
「天神橋」が見える

傍に立ってる石碑に、「橋の東に筑波山が望める」と刻まれてるんだけど見られなかった(^^ゞ。橋の東と言うと、公方様の森があるが、そのさらに右かな……。

たぶん、既に濃い夕暮れ時だからだろう。ウチ辺りからも、朝昼は筑波山が見えるが、夕方は見えず、むしろ反対の西側に富士山が見える時間だ。

そもそも上杉派だった千葉胤直は、叔父・馬加康胤の薦めで成氏に従ったものの、上杉との抗戦必至となると、成氏を離れ、上杉側についた。
ところが、分家の馬加康胤と重臣・原胤房が結託して胤直を攻め(市川合戦)、この後にその弟・胤賢や子・胤宣まで滅ぼしてしまう。
(「千葉県の動乱」vol2<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)><武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>

以後、房総千葉氏は、古河公方派として登場する事となる。
本家筋の子孫は武蔵に逃れ、上杉氏の支援を受けて、武蔵千葉氏となる)


丘を降りて「天神橋」まで戻る。紅葉が真っ赤だね(^^)(パノラマ2枚)

古河公方×上杉の攻防では、両派の間を行き来する、こうした氏族をちょくちょく見掛ける。
千葉氏は鎌倉大草紙にも中心的に描かれ、各種の手掛かりがあるから詳しい事がわかるが、他氏も代替わりによって就く勢力が変わるなど、同じような事があっただろう。

以後、
1456年、岡部原合戦。
1458年、六代将軍・義教の子・政知(八代将軍・義政の兄)が下向。鎌倉に入れず堀越に留まり、堀越公方となる。(堀越御所)
1459年、太田庄合戦、上野羽継原合戦、海老瀬口合戦。
1466年、北根原合戦、南多賀谷合戦。
〜1471年、毛呂島合戦、網取原合戦、館林合戦。

……と、成氏の戦闘の経過は長く厳しく続いたが、京では、1467年から応仁の乱が勃発。
東国討伐どころじゃなくなった(^_^;)。。

成氏はこのように運に恵まれた人でもあった。
長兄・義久は永享の乱で、次兄・春王丸・安王丸らも結城合戦で命を落とした所で、敵ボスの将軍義教が頓死したため、彼一人が命拾いした事でもそれは言える。

御所沼」を廻り「公方様の森」を側面から(パノラマ3枚ほぼ180度)

が、運だけの問題で無い感じがするのは、いつも、どこからともなく援軍が現れて、成氏を助けてくれる場面がずいぶん多い気がするからだ。

父・持氏が幾度か修羅場に遭った時も、同じように家臣やらが助けてくれただろうから、関東公方の役得と言えるのだが、持氏は結局、三浦氏などに見捨てられた(てか裏切られた)から、どうも結果が違う。

1471年、幕府や上杉氏の方針に沿って送り込まれて来た、6代将軍・義教の子・堀越公方・足利政氏を追い落とそうと、成氏派の結城・小山が箱根山を越えて、三島に向かった事がある。

が、この時は逆に上杉側に撃退され、討死を数多く出し、痛い敗退を喫した。
今度は上杉側から、弱った古河公方側に追い討ちをかけようと、古河城に討って来る。
成氏は持ち堪えられず古河城を落ち、結城に守られながら、千葉の千葉孝胤(馬加康胤の孫)を頼った。

それにしても、空や湖の色まで西洋絵画みたい(*o*)

しかし1年経たずに、1472年には、野田・簗田・佐々木など奉行や、成氏与党の那須・結城とともに出撃、みごと古河城に復帰できた。
このように成氏の与党は、半ば自発的に成氏の敵を求めて、遠国にまで決死の戦いに出ている。

彼らがこうした行動に出るのは、関東公方の権威を嵩に着て、やりたいようにやっている、という指摘も当然出来る(笑)。
しかし笠に着るその「権威」は、この当時、長々と「朝敵」の汚名の下にいる人なのだ(^_^;)。。

あと百年経たずに戦国時代となり、朝廷も幕府も失墜、官位は金で買え、綸旨も御教書も「絵に書いた餅」状態になるから(笑)、成氏の動乱をその走りと見て納得すべきなのか……。

いや、やはり上杉禅秀の乱上杉禅秀と言い、永享の乱の父・持氏と言い、結城合戦における春王丸・安王丸・結城氏と言い、京の幕府から追討を下された途端、雲霞の如く大軍も、手のひら返し、背を向け、蜂の子を散らしたように霧散してしまった現実を振り返ると、なぜ人々は成氏だけは担ぎ続けたのか……と首傾げずにはいられない(^_^;)。

その答として、「古河の歴史を歩く(古河歴史シンポジウム実行委員会編)に、成氏はその前の関東公方と比較して、御判御教書が少なく、書状形式(御内書)を圧倒的に多く発給した公方だったとある。

←色とりどりの落葉を浮かべる小さな池(^^)

御判御教書が年号入りで花押のみなのに対し、御内書は年号を省いた日付のみで公方の諱が自署され、前者に対して後者は、発給相手に対し、やや丁寧な姿勢を取るという。

発給される側にとって公方の文書は、自分のランクを知る重要なソースだから、この形式を変えるなどタブーに等しいものを、こうした事をアッサリやってのける所に、成氏政権の特殊性が現れている、と評価されていた。

権威の象徴である鎌倉を飛びだし、古河に御所を構えるという行動も、それを見た人々がガッカリする可能性の方が、当時としては遥かに大きかったハズだ。


しかし結果的に、古河公方はその後、五代の長きに渡って受け継がれていった。
それは、それまでの鎌倉公方には無かった、独特の柔軟性が功を奏したのでは……といったような説明・解釈だった。

確かに戦国前期、イキナリ下総に出現するこの軍団は、宮殿らしきも持たず、絶えず馬の疾駆する戦塵とともにあって、広いステップ(草原)に唐突に出現した、強健な騎馬民族国家の如きである(^_^;)。。


↓公衆トイレまでシックな色とデザインで素敵〜♪
紅葉の色がすこぶる鮮やかで、どこ歩いても美しく、公園の作りや樹木の剪定のみならず、空や水など、自然まで西洋絵画調なのも驚いた(゚.゚)!

年号と言えば、私はどうも成氏と言うと、「享徳の大乱」と思ってしまう(^_^;)。
享徳」と呼ばれるのは、父の持氏が京の改元に従わず、古い年号を使い続けたのと同じで、成氏も謀叛を決行した時の「享徳」の年号を使い続けたからである。

ただ、30年も「俺は逆らってますゼ( ̄ー ̄)」なんて態度の書状だと、千葉氏みたいに、困る立場の人や嫌気が差す人もいるかもしれない反面、逆に「享徳のままでイイ!」「持氏の流儀を貫いて欲しい!」と思う反上杉派の人もいるかもしれない。(難しい所よね(>_<))

だから、もしかして、わざと年号を省く「御内書」の形式を使った……という事もある(^^ゞ?
だって年号を書かない書式なら、成氏がどっちのつもりか判らないもんね(^o^)v

やがて、桃林のある一帯に到達する(パノラマ3枚ほぼ180度)

さっき出した園内見取り図では、この「桃林」は一番北部にある書き方にも見えたが、私の記憶では、これより差し掛かる「徳源院跡」より、ずっと手前から桃林が始まり、最初はこんな風に沼地を渡る小橋があって、この後いたる所に桃の木が続き、その説明版も各所に置いてあった。

その説明によると、江戸初期、幕府の要職にあって江戸藩邸にいた土井利勝は、国元の古河藩(16万石)でが不足してると知り、江戸市中の子供たちに桃の実を集めさせ、俵に詰めて古河に送り、農家の屋敷や野畑に植えさせた。

桃は成長が早く、枝が薪になったといわれ、江戸後期には、古河城の東方に桃林が描かれる絵画もあり、藩士も家族連れで桃見物を楽しんだ。

明治の末にも、地元の実業協会が盛大な観桃会を催し、町内外の多くが賑わったが、大正期に炭素病で壊滅。

←桃林に囲まれた蓮の沼を渡る

昭和50年に古河総合公園が開園し、桃林を復活。今では、3月中旬〜4月上旬、25ヘクタールに、「矢口(桃)」「源平(紅白)」「寿星桃(赤・桃)」「菊桃(紅)」「寒白(白)」の五種類が、濃淡の各色で咲き誇るそうだ(^^)

水戸の偕楽園で見た梅林も、実用と行楽(観賞)を兼ねる趣旨と聞いた。江戸時代の流行りだったんだね(^^)。

さて、千葉孝胤の保護を受けてた成氏も、1472年には古河に復帰できた。

これには、実弟の尊 伸攵(2文字で1文字)が準備を整えた事が遠藤白川文書から確認されるそうで、これが後にも書く「鶴岡八幡宮若宮別当」、すなわち「雪ノ下殿」と呼ばれる人で、先に成氏とともに古河に来た、定尊の弟と見られている。
定尊は恐らく亡くなり、尊 伸攵がその跡を継いだ、と見られている。


4年後の1476年に、長尾景春の乱が始まり、上杉体制に綻びが出始め、強気の上杉も和議に応じ、京(幕府+朝廷)とも、1482年に和解が成立した段取りは、ちょくちょく話す通りだが(^^ゞ、この交渉にも、尊 伸攵が活躍したようだ。



<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>

桃林を進んだ先に「徳源院跡」があり、古河公方五代・足利義氏の墓所がある。

時代は、成氏の頃から60年ほど進んで、古河公方・五代目の頃。

足利尊氏−(鎌倉公方)基氏−氏満−満兼−持氏−(古河公方)成氏−政氏−高基−晴氏┐
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
義氏氏姫−(喜連川義親

実は、義氏五代目と数えるのは、当時は公式ではなかった(^_^;)。

その父・晴氏四代)は、北条氏綱の娘に義氏を生ませたものの、1546年(河越夜戦)と、1554年の二度に渡って北条氏に抵抗を試みた。

その間の1552年、晴氏は一度は義氏に家督を譲ったものの、後継者とは認めておらず、側室・簗田氏の生んだ藤氏(義氏の異母兄)を五代目に据えようと運動した。
が、二度とも敗れて、二度目は後北条氏に捕えられ、幽閉の憂き目に遭った(;_;)。


古い道標には「古河公方はゑ」と刻まれていた↓
墓所内は鬱蒼とした大樹に囲まれて暗く落ち着いている
その奥に「史跡・古河公方足利義氏墓所」→

結局、晴氏は目的を達成できぬまま、1560年に亡くなり、その後、晴氏の遺志を継いで、藤氏・藤政を擁立し、関東管領に就任した上杉謙信も、目的を果たせぬ内に藤氏・藤政も亡くなった。
そのため謙信も、北条氏との越相同盟が成立した1569年、ようやく義氏を古河公方五代目と認めるに至った。

こうした経緯から、義氏は後北条氏によって、小田原・葛西・鎌倉などに連れ回され(^_^;)、歴代の古河公方と比較して、古河に居た事が必ずしも多くなかった。
「最終的に古河をゲットしたのは、藤氏らではなく自分!」という事で、ここに墓があるのね(^_^;)

義氏は1582年12月に亡くなった。本能寺の変があった年だね(^_^;)。
戦乱中により、葬儀は翌1583年正月、埼玉県久喜の甘棠院で行なわれ、その近くに香雲寺という寺も建てられたが、今は残存しない。

義氏の男子は早世したため、一人娘の氏姫が跡取りとなっていた所に、1590年の小田原征伐となり、先ほども言った通り、氏姫は古河城をどかされ、ここ鴻巣館に移った。


古河公方・足利義氏の墓所徳源院跡(パノラマ3枚ほぼ180度)

秀吉は、氏姫に堪忍分(遺族手当)として三百貫分の土地を与え、小弓公方・足利義明の孫・国朝との縁組を申し渡した。
これは、国朝の姉で、その後、秀吉の側室となった、「月桂院」(嶋子)の要望だったともいう。
月桂院は嫁ぎ先の塩谷氏の城で、小田原征伐の終戦を迎えたらしい。


この姉弟の祖父・小弓公方義明は、あの国府台合戦で知られ、武人の面影が強いが、この人も元は「雪ノ下殿」すなわち「鶴岡八幡宮若宮別当」であった。
先ほどの尊 伸攵の跡を継いだと見られている。


成氏−政氏┬高基−晴氏┬藤氏(母・簗田氏)
        |        ├藤政(   〃   )
        |        └義氏 (母・後北条氏)−氏姫(母・後北条氏)
        |                         | |
        └小弓公方義明−頼純−−−−−┬国朝 ├−義親
                              └−−頼氏


ちなみに国朝は父・頼淳とともに下野国の喜連川に移ったが、先ほど「古河総合公園」に入って来た折も、ちょっと触れた通り、氏姫鴻巣御所から出なかった(^_^;)。。

やがて国朝は朝鮮の役に行く途次、病死したため、氏姫は国朝の弟・頼氏と再婚し、義親(天寿院)を出産した。
こうして喜連川藩が起こり、古河公方(&小弓公方)家は以後、幕末まで継承された。

ただ、父・頼氏は喜連川藩主として喜連川に行ったが、氏姫と義親の母子は、鴻巣館で一生を終えた
やっぱり「最終的に古河をゲットしたのは自分(ら)!」という線を譲れなかったのだろうか(^_^;)。。

この墓所は、義氏ゆかりの寺があり、遺骸ないしその一部が埋められたものと考えられている。
明治初年までは鎌倉円覚寺末の「徳源院」という、氏姫の法号にちなんだ寺があったので、今も「徳源院跡」と呼ばれている。

義氏の墓石はないが、氏女と義親の宝篋印塔七地蔵を刻んだ石塔と、子孫の足利氏による古河公方義氏公墳墓(裏面に墓地改修の文)の碑がある。


古河公方義氏公墳墓
柵に囲まれているのは
宝篋印塔だった

古河公方の墓所(徳源院跡)は以上。
あとは途中に「中台ブランコ」を見ながら、駐車場に戻る。

徳源院の話も出たので、そろそろ「鎌倉から古河に来た寺社」に入ろう(^^ゞ。

古河において、「成氏について鎌倉から古河に来た」「成氏によって鎌倉から勧請された」と伝わるものは、古河歴史シンポジウム実行委員会の刊行によれば、

「若宮八幡神社跡(現・鴻巣香取神社合祀)」「八幡町・八幡神社」「諏訪八幡神社」「尊勝院」「神宮寺(心城院)」「長谷寺(観音院)」「鳳桐寺」(太字は今回訪れた寺)

ざっと、以上の7寺社が上げられそうだが、このうち、鎌倉に今もある寺社は、先に行った「長谷寺」の他(尊勝院・神宮寺・鳳桐寺)は、探せばあるのかもしれないが、調べがついてないです(^_^;)。。

しかし最初の三社の「八幡神社」というのは、全て鎌倉の「鶴岡八幡宮」を勧請している。


開園(1975年)前からあった藤ヅル。通称「ブランコの木」
子供がブランコや木登りをして遊んだという。種は野田藤。

先刻来ちょくちょく述べて来た通り、初代・成氏には、「雪ノ下殿」とか「社家様」などと通称される弟達がいて、正称は、「鶴岡八幡宮若宮別当」という。

書いて字の如く、鶴岡八幡宮の別当職を継ぐ身であり、天皇とか摂関とかになれない皇族・貴族の子弟が、大寺院の院主門跡になるのと同じで、古河公方の弟は鶴岡八幡宮の「若宮別当」になった。

成氏が古河に来る時、軍事行動を共にしたと見られる定尊、そして、ついに京の朝廷・幕府と和解する、いわゆる「都鄙合体」の交渉に参加したと見られる、尊 伸攵(2文字で1文字)がそれである。


(「鎌倉から古河に来た寺社」の話は、次項で終わります↓)



<鳳桐寺>

先に述べておくと、この「鳳桐寺」(地図)については、wiki情報を頼りに行ったが、現地記述にも関連書籍にも出会えず、その後の調べでも全く判らなかった(^_^;)。
鳳桐寺@wiki←には、鎌倉から来たとも、開基が成氏とも義氏ともある。

古河総合公園からそう遠くないのだが、公園を出た途端ドンドン日が暮れて、着いた時は↓こんな感じ(^_^;)。一年で一番日暮れが早い時期だからね。

田園の向こうに「ばんどう太郎」(笑)
お寺に続く参道

話は続けよう(笑)。
初代・成氏には、出家名っぽい弟(兄?)が4〜6人ほどいた。
周ム(?)・定尊・成潤・尊 伸攵(2文字で1文字)・弘尊(?)・守実などと伝わるが、本当に成氏の弟なのかを含め、個々については明瞭でない(^_^;)。

ただ先の二人(定尊・尊 伸攵)と違い、逆に成氏に叛したと見られるのが、成潤と弘尊のようだ。

弘尊は、上杉派が「鶴岡八幡宮若宮別当」に就けようとして、成氏らと調和できなかった経緯を持つ。

成潤は、成氏派が管領・上杉憲忠を騙し撃ちにした直後(成氏がまだ古河に来る前)、鎌倉を退去して日光で上杉派と合体し、日光の衆徒を率いた「勝寿院」に相当すると見られている。

やがて古河公方と堀越公方と分裂した時、弘尊は未だ上杉側の「若宮別当」として在位し続けるが、 「都鄙合体」の後、堀越公方は古河公方の傘下に収まる事となり、上杉派の若宮別当(つまり弘尊の名)は見られなくなる。


一方、古河公方の側の若宮別当は、その後も存続し、先にも言った通り、小弓公方義明にまで繋がって行く。

「鶴岡八幡宮若宮別当」は、鎌倉の聖界で、俗界における「公方」に匹敵する権威であるから、公方に奉行など家来衆がついて廻るのと同じで、「供僧」というのが属すらしい。

これらは本来、鎌倉の寺に居るべきだろうが、俗界トップの「鎌倉公方」(成氏)と、聖界トップの「鶴岡八幡宮若宮別当」(定尊)が、兄弟して共に古河に行ってしまい(^_^;)、上杉方も弘尊を立てたから、さあ大変!(笑)

鎌倉の「供僧」は、25院家を構成していたが、このうち7院家が、成氏の弟・定尊にくっついて古河に移った。
一応列挙しておきます(^^ゞ。

最勝院弘運、等覚院弘恰、慈園院範季・蓮花院弘珍・宝光院運海・荘厳院俊朝・金勝院玄淳

こうした聖界の素早い行動が、その後、成氏の晩年(あるいはその後の古河公方)に至るまでに、長く鎌倉に対して影響力を持ったんじゃないかな、と……。

先ほどの長谷寺などは、文明年間に至ってから古河に来たという事だったから、それまでは上杉方(弘尊)に就いていたか、「都鄙合体」まで経過を待って、あらためて古河に来たのだろう。


一般的には、北条早雲が鎌倉を支配し(1512年)、復興に乗り出すに至るまで、鎌倉が衰退した理由は、「戦乱による荒廃・放置」が原因とされて来たが、そんな一面的な想像で賄える物ではないように思えて来た。

空を覆う暗雲がカッコイイ(笑)(パノラマ縦5枚180度以上)

↑から見る正面の夜景↓(パノラマ5枚180度以上)

↑この巨大な植木の形は、前に関宿の宗英寺に行った時も見た。
宗英寺は、古河公方四代・晴氏の墓所であるが、ひょっとして古河公方繋がり(^^ゞ?

古河公方は、上杉や京との和解後も鎌倉に帰らず、子孫は古河に続いた(^_^;)。
鎌倉を放棄したのは、堀越公方との兼ね合いもあったのかもしれないが、古河における寺社や奉行衆・水運・職工商人らへの独自の組織の仕方など、かなりの力が感じ取れ、来た時はともかく、その後「仕方なく居た」とは、とても思えない(^_^;)。。

もし機会があれば、こうした事もまた考えて行きたい。


以上で、「鎌倉から古河に来た寺社」の話は終わる。

最後になったが、古河城を最初に築いたと見られている下河辺氏の事もちょっと書きたい(^^ゞ。
本来は古河城跡(諏訪曲輪跡歴史博物館)で書くべきだったが、江戸時代の話だけで終わっちゃったので(ホント古河は歴史ネタがテンコ盛りね(^_^;)。

ただ今回はこの通り、もう日暮れで、古河はこのあと夕飯&お風呂を頂いたら退去したので、項を送ってから改めて書こう。

この日帰りミニ旅行の最後に寄った、スーパー銭湯「いちの湯」(地図)。ここが結構良かったんだわぁ〜(#^.^#)。

←広間の天井灯に散りばめられたお花が可愛い(^^)

露天の寝湯や洞窟風呂も居心地が良く、食事メニューも揃ってて、広間もくつろげた。
地元で人気と見えてちょっと混んでたけど。。

古河では、博物館・公園・駐車場・風呂屋、どこでも上品な感じの人が多かった(゚.゚)。
無論ヨソから来る人もいっぱいいるだろうけど、ナンバーは周辺の車が多く、亭主も「松代とか思い出すね。城下町だからかな」と言ってた。

ウチからだと、日光や福島に行くよりは近いが、途中に通った関宿が「ちょっと頑張っていく場所(^_^;)」という印象があるから、その先の古河となると、さらに距離は感じる。

しかり帰り道、行きに来たのと違うルートをナビが誘導したら、とんでもなく工業地つづきの風景が続くんで、二人とも「さっき来た道とえらく違うね〜(*o*)!」とビックリした!

古河で買った本には、経済効果や利便性のみ追求する現代の激流に翻弄され、首都圏に追随しているうちに、アイデンティティーを失う事への警告が鋭く指摘されていた。
多かれ少なかれ、どこの史跡や郷土史にも書かれる常套句ではあるが、古河の歴史継承が絶体絶命といった、ややもすると悲痛な絶叫に感じた。

永井路子氏が発起人の一人となって、呼びかけていた。
氏の名は、博物館でも通りの標識でも、郷土の文化人としてよく見たが、書いている物が鎌倉時代や戦国時代のイメージが強く、「地元の名士って奴ね(^_^;)ゞ」ぐらいに思ってた(笑)。

でも、古河をひも解くと古河公方にブチ当たり、古河公方をひも解くと、鎌倉幕府にブチ当たる事は、私もこのたび痛感した。
それで鎌倉時代に立ち戻り、北条政子の事なんか書いてたのかなー?

(てわけで、下河辺氏の話は↓に始めます(^^ゞ)



■11〜12月・千葉県北西部
<晩秋〜初冬の風景>


以後、写真は日常編(^^ゞ。11月も末の近場の風景から。
でも千葉北西部もこのへんは、モロ古河公方の勢力圏である(#^.^#)。

これより話す下河辺氏は、古河城を最初に築いたとされている。
下河辺荘は、平安末、千葉常胤の提出した相馬御厨の東西南北の領域限を示す地名に現れ、具体的な地名として下河辺が史料に出てくる初見であるらしい(^^ゞ。
(南限として登場するのが「手賀海(手賀沼)」で、境を接する外の領域が「下河辺」と示される)


(2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内・2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内

この秋こだわったススキの群生
これは増尾か富塚付近だったか

1146年、下河辺荘の荘園名が、文献に初めて現れる。
1180年、下河辺行平が、下河辺荘司(庄司)として名を示す。

行平が登場するのは、この年、宇治川の戦い源頼政が平家に敗れて自害するからだ。
行平は、この源頼政の郎等だった。
だから、頼政の起こした反平家の動きから、同じく挙兵に踏み切った源頼朝にも、その流れから臣従し、所領安堵を取り付けたと見られている。


田園地から北上し、手賀沼南岸あたり

下河辺氏は藤原秀郷の子孫である。
秀郷流には、大まかに分けて、下野国(栃木県)の南部藤姓足利氏淵名大夫系)と、武蔵国東部(埼玉県)や下総国北西部(茨城県・千葉県)の小山・下河辺・太田など諸氏(太田大夫系)がある。(2011年6月<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内(太田大夫系))

下河辺行義は、小山政光小山朝政・長沼宗政・結城朝光の父)の弟だが、小山氏から独立したがっていたようで、源頼政が京で三位の高官にあり、かつ八条院(鳥羽天皇の皇女)に仕えていたので、この頼政に従い、八条院への寄進を通じて、下河辺荘の荘司となる事に成功したと見られている。(本家は八条院、領家は九条摂関家


この夜は濃霧。今度こそ増尾周辺かと(^^ゞ

富塚=地図/増尾=地図

頼政との類縁は、頼政の父・仲正下総国司になった時、地元豪族として関係を持ったと推測されている。
今回は行かなかったが、古河城の近くには頼政神社もあれば、古河城じたいに「頼政曲輪」という名もあった。

頼政が宇治川の戦いに滅んだ時、下河辺清親は頼政から介錯を頼まれた。
この頼政の首を古河の立崎に祀り、首塚を造った事が、「永享記」や、同市「頼政神社縁起」に伝わっているそうだ。


北総地帯に多い夜の濃霧。写真には写りにくいけど(^_^;)。。

1183年、下河辺行平・政義の兄弟は、野木宮の戦い(頼朝と、その叔父・志田義広の抗争)で、いよいよ頼朝政権でも、濃厚に名を顕すようになる。
その一方で、下河辺氏は「荘司(庄司)」を名乗り続けた。

頼朝が地頭を配置したため、徐々に廃止されていった庄司名を残す、数少ない御家人でもあった。
これは頼朝が頼政の家人に配慮し、頼政以来の痕跡には手をつけなかったから、と見られている。


所かわって松飛台商店街の、ゆるキャラ→(拡大)
「まっぴー」(笑)

「ぼのぼの」の「シマリス」にしか見えないが(笑)、松戸市のこのあたりは、相撲部屋もあるから、ちゃんと「廻し」をつけているんだね(^^)。<カワイイ♪ 松飛台=地図

実は頼政の摂津源氏頼光の子孫)も、下河辺の地に続いたらしい。
境根原合戦でちょっと触れた事があった通り、私の知る限り、太田道灌の太田氏も頼政の子孫のようで、岩槻江戸などは確かに下河辺からは遠くはない。
が、詳しいことは知らない(^_^;)ゞ。一般的に太田氏は上杉氏について来た、とされているよね。

古河では、地元の史跡にちなんだ伝承として、平将門と源頼政の他に、静御前の伝承が残っている。
以前、塩原源三窟(栃木県)に行った時も、頼政の一族と義経の伝承が混在していたのを見た
(2011年4月<源三窟>内

「平治物語」には、少年時代の義経が、京を出て奥州藤原氏の元に渡った時、頼政の甥・深栖頼重の行列に紛れ込ませて貰い、下河辺→小山→宇都宮→那須と見逃して貰った話があるらしい。

この深栖氏など、頼政流の源氏が下河辺には続いたようだ。

←12月初頭の夜空
ここ数年、12月の月は色が濃い→

が、下河辺氏は、この摂津源氏との関係が、時代とともに薄れていったようだ。
下河辺氏の嫡流は、徐々に猿島方面に進出を広げたようで、あげく本拠が猿島に移った事が知られる。
1200年代半ばの下河辺時村から、幸島(さしま)姓を名乗るようになった。

また宝治合戦で、親戚の関氏三浦氏との関係で滅んだ頃から、下河辺氏の地頭職が没収されたか、関連衰亡した可能性も考えられるという。

下河辺の地は、単独行政では対処できない河川など広域土木工事の必要から、幕府による奉行の手が入った。
やがて北条氏の一門・金沢氏が地頭となっておさめ、律宗真言密教など寺院建立が進んで、鎌倉との水運も活発化し、広い経済圏を確保した。

鎌倉時代に北条氏の管轄にあった土地は、南北朝を経て、多くが足利氏による接収となったので、下河辺に関しても、鎌倉公方御料所とする経過は、この金沢氏に由来すると見られるようだ。




何とかかんとか上げられた(^_^A)<ホッ

冒頭に述べた通り、関連事項リンク、および、次回以降の更新は再開時期が不透明ながら、ネタ的には、次回、クリスマスシーズンに始まり、年末年始、冬の日常(近隣)レポを経て、梅か桜の季節ぐらいまで行きたいで〜す(#^.^#)。

以上、関連事項は(08/06遅れて提示(^^ゞ)
■古河公方関連(周辺配置諸城を含む)
2004年9月<松戸七福神巡り7、「寿老人=徳蔵院」>
2005年・石和川中島合戦絵巻レポート1<流浪の甲斐守護、武田信重>
2005年10月<石神井城>
2005年12月<関宿城>
2006年1月<関宿城・周囲の「にこにこ水辺公園」><実相寺>以降
2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内以降
2007年1月<臼井城跡>
2007年5月<真如寺>内
2007年6月<松戸・大谷口歴史公園(小金城跡)><高城氏について>
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>
2007年10月<真里谷城跡>内
2007年11月 <久留里城>内
2008年5月「戦国武将一覧」<北条早雲>および<北条氏康>
2008年7月「千葉県の動乱」vol2<永亨の乱〜結城合戦(1435〜1440)>以降
2008年7月<牛久城跡、2>内(結城氏)
2009年6月<「柴崎城跡」の周辺「柴崎神社」(我孫子市)><「布施城跡」と、その周辺(柏市)>内
2009年7月<北部「禅福寺」と「筒戸城跡」>以降
2009年9月<初夏の布瀬と手賀川(^^)>内
2009年10月<千葉氏館跡(千葉地方裁判所)>内
2010年11月<雨引観音(楽法寺)・薬医門〜本堂>内
2012年6月<宇都宮城址公園>内
2013年6月<雲谷寺(新田義宗の墓)>内
2014年1月<久喜市「甘棠院」(古河公方二代・足利政氏の館跡)>以降
2014年3月<皆野に向かう(鉢形城・寄居・長瀞を抜けて)>
2015年2月<酒井根合戦場(境根原古戦場跡)>
2015年4月<関宿を経由して古河へ入る>以降(前回)
■下河辺氏関連
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内

2011年4月<源三窟>内(源頼政)
2011年6月<湯西川〜五十里湖〜県境〜南会津(糸沢)>内(太田大夫系)
2014年3月<畠山重忠史跡公園(館跡)>内(下河辺行平)


<つづく>

2015年05月23日
 
     






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