<2017年・城主のたわごと2月>




2016年7〜9月、常盤平「熊野神社」続き、都内の風景。

打ち上げ花火、「神田明神」、「湯島天神」と菅原道真!




     
  冒頭は、前4回(11月号・8月号・6月号・7月号)と全く同じ(笑)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

というのを定例だと冒頭に入れるんだけど、その前(4月号)の↓

〜おしながき〜「武蔵千葉氏編」1〜4
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>
(リンク間違えてました。後で貼り直しました。2017/05/12)

↑は、ちょいレポだったんで、その前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
(リンク間違えてました。後で貼り直しました。2017/05/12)
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

その前の古河も出しとこか(^。^)↓(それはもいって?www)

〜おしながき〜「古河編」1〜2
2015年「4月のたわごと」(古河1)
■11月・茨城県古河市
<関宿を経由して古河へ入る>
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>
<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>


同「5月のたわごと」(古河2・他)
<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」> ■11月下旬・茨城県古河市
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)、2>
<「長谷寺」(長谷観音)>
<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>
<古河総合公園A旧民家(中山家と飛田家)>
<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>
<古河総合公園C「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>
<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>
<鳳桐寺>
■11〜12月・千葉県北西部
<晩秋〜初冬の風景>

又2ヶ月以上、空いちゃったが、まずは7月の「熊野神社」(常盤平)の続きから入って、チョロリと都内の風景(世田谷区・千代田区)を流し、間もなく8月に入る。

夏は、夜空に浮かぶ打ち上げ花火\(^O^)/<パンパーン!

そして後半は、神田明神(千代田区)と湯島天神(文京区)だけど、神田明神はよくレポするので(^^ゞ、今回は湯島天神を集中的に特集!

……こうやって見返すと、今回は都内ネタが多いんだね(゚.゚)。
写真は地元(千葉)の真夏風景……特に花火がいっぱいだけど♪



■7月・千葉県松戸市/東京都世田谷区・千代田区
<熊野神社、2(つづき)>


前回のはこちらを→2016年11月<熊野神社、1>

地図←ここね。今回は前回から引き継いで、いよいよ境内に入る(^^)。

↓大鳥居から入って、数段を経て……
高台の広い境内に入る(入口を振り返る)→

横に広げると周囲はこんな感じ(パノラマ5枚180度以上)

↑の位置から振り返って正面を見る↓(パノラマ5枚180度以上)

中央に大きな植木コーナーがあって、その向こうに拝殿という、ちょっと変わった構造。

この神社は、正式には「金ケ作熊野神社」といい、「金ケ作」は、新田開発によって拓かれた土地だった。

江戸期の天明二年(1782年)、武蔵国(埼玉県)の川越藩から、郷士・石川(五代目)彦次右ヱ門が新田開発を計画。元締めとして、九家を引き連れて入植したのに始まる。
一家につき五丁歩を与え、開拓が始まったが、翌年(1783年)、7月6日、浅間山の大噴火が起こった。
拝殿
龍の彫り物が覗く

浅間山は、wikiなど見る限り、600年代、1100年代、1500年代、1700年代に、それぞれ1〜2回づつ大きな噴火を起こしているようだが、この時のものは、「天明の噴火」と呼ばれ、浅間山噴火活動の記録として、もっとも記録量の多いものと言える。
火砕流や土砂崩れ、火山灰降下の被害が広範囲かつ甚大で、いわゆる「天明の大飢饉」の原因ともなった。

ここ、金ケ作の新田にも火山灰が降り注いで田畑に大被害を及ぼしたため、石川彦次右ヱ門は急遽、敷地1409.83坪を寄進して神社の敷地に宛て、「熊野神社」を創建するため、紀州和歌山の熊野本宮より御魂を拝受、土地の氏神として、祭神となした。
その当所、木造の茅葺平屋であったという。

やがて時を経て、明治28年(1895)、建て替えを行なったものの、それも百年以上が経過して老朽化したため、平成7年(1995)、2月5日、新たに建て替えとなり、同年10月、今日の姿に完成を見た。

↓拝殿(に向かって)左奥には摂社が連なり……(パノラマ2枚)
その手前に、梛(なぎ)の木と由来の碑がある→

ここにある梛の木を、どういう経緯で植えたのかは書かれてなかったが、要するに熊野に由来する樹木なので、この葉を参詣の帰りに持ち帰る吉事にちなんで植えられたのだろう。

梛は、熊野坐大神の御神木として、二千年前から多くの人々から尊ばれたそうだ。
「参詣の折、梛の葉を御守護としてそっと懐へ入れて帰るのが常であったと伝えられています」と碑にはあり、「夫婦和合、旅行、交通、海上安全、心願成就」などに祈りを込められたとある。

藤原定家が当社に詣でて詠んだ一首が刻まれていた。
「千早振る熊野の宮のなぎの葉を変らぬ千代のためしにぞ祈る」

「当社」というのは、紀州の熊野本宮を指すのだろう(^_^;)ゞ。
定家の時代は、ちょうど鎌倉幕府が起こり、関東にも学識文化の人の訪問も増えたが、定家は、後鳥羽上皇が好んで行った熊野行幸に、随行して歌を詠んだ事で知られている。

以上、関連事項は(2017/05/08、後追リンク)、
2016年11月<熊野神社、1>




<鶴ヶ久保公園(世田谷区)〜皇居周辺(千代田区)>

地図←以前この周辺に住んでた頃、時々行った公園。所要で都内に出た折、久々に近くを通ったので、フラリと寄ってみた。

←公園の端に背の高い樹々と……(縦パノラマ2枚)
↑足元に大き目の池がある。

住んでる当時は、人口池だろうと簡単に決めつけていた(笑)。

しかし、ここを載せてるブログを見つけたら、手押しポンプ式水汲み機の写真が……て事は、地下水(井戸水)だろうか(・・;)。。
細長い公園で、段差を利用して、隆起した斜面と低地の池によって、大都会の密集住宅街に、和風庭園を出現させている。

池辺と木立の所には、弁天池さながらの祠も祀られ、なかなかの風情(^0^)

地図←所変わって皇居の南、ペニンシュラホテル前(パノラマ3枚ほぼ180度)

ペニンシュラ前を左折し
馬場先門・和田倉門と抜け

皇居前のお濠の水を離れて、大手町のビル街に奥深く入りこむ↓
読売新聞(東京支社)ビル(地図)→

ビルの向こうの夜空を、鉄人ロボットが飛んでゆく絵が思い浮かぶ(笑)
子供の頃、こういう「大都会のビルディング街」を夜に通ると、主題歌をよく歌った。

ビル〜の街にガオー♪ 夜〜のハイウェーにガオー♪
(中略)ビュンと飛んでく鉄〜人28号〜〜〜\(^O^)/<グリコ・グリコ・グ〜リ〜コー!

(関連事項リンクは最後までに貼ります)



■7月〜8月・千葉県松戸市・柏市
<夏の花と日没と花火☆>


今年の夏はよくオシロイバナを見た

今年急に見たというより、ここ2〜3年で増えたような気もする。

雑草花だと、種子の飛んでくる量や時期によって、急激に増えるのも頷けるが、これぐらいの大きさのある草花になると、どうなの(^_^;)?

あと、これは手で植える植物だよなーと思う花を、アチコチの庭で同時期に多く見る事がよくあるけど、どっかのお店や植木屋に「今年はこれがお得でっせ(^。^)」とか勧められるんだろうか?(笑)
オシロイバナもう一個
こちらはサルスベリ、夏の花だね

というわけで、てんで別の日の別の場所ながら、たんと日も暮れて、お題目通り、あとは花火でやんすよ(^。^)

ポォ〜ン、ド〜〜〜ン! バリバリ!

パッ、パッ、ドーンドーン! ヒュルルー

シュワシュワシュワ〜パッ! ドン!

ドーン! ヒュルルル〜! ド〜〜ン!

は〜なやーた〜まやー\(^O^)/

バリバリバリ!シュー、、ドン!パッ!

↑花火は7月も8月も撮影した(^^ゞ。二回も撮影できたのは初めてかな〜☆

以上、関連事項は(2017/05/08、後追リンク)、
■花火
2011年1月<夏の花・森・夕焼・月・花火>
2013年1月<日没・月・花火>内
2014年1月<真夏から初秋へ>


この夏は仕事探しやら面接やらあって、話が決まったあと稼働までの間、また都内に↓



■8月・東京都千代田区・文京区
<神田明神、油揚げと蜜豆と神馬の夏休み>


今年もやって来ました、神田明神地図)。

冒頭でも述べた通り、ここはいつもレポするので、今回は隣駅(千代田線)の湯島天神に重点を置きたい。

てわけで、入口の大鳥居や正門の随神門、ズズイと入って正面の御神殿(社殿)、その裏手をズラリ囲む摂社群は大まか省略、社殿の(向かって)左奥「浦安稲荷神社」のさらに奥にいきなりスポットを宛てる→

神田明神の境内図「神田明神」HPより)

←社殿の両脇の狛犬は、お狐様、その足元に……
↑(拡大)「油揚げ」がお供えされてる! 袋包みから推察するに、コンビニかスーパー購入品(笑)?

神社を出ると、この日は甘味処「三河屋」で、凄く久々に蜜豆を食べた。何年ぶりかなー
亭主は餡蜜、私はクリーム蜜豆( ^,_^)ф<ウマウマ

このところ、我が家は大変な貧乏で、出来る限り出費を抑えているんだが、この蜜豆だけはゲン担ぎに食べた!(そしてその後、運気が上昇したので、効果があったんじゃないかと:笑)

その折、まずは正門(随神門)まで戻ると、門の脇の大黒像の足元にある、神馬の「明(アカリちゃん」の柵に行き会うのだが、この日、当のアカリちゃんは留守だった。

「アカリ」は愛称で、「神田明神」の「」の字を貰ったそうだ。
正式には「神幸(みゆき)」と言う。長野県の佐久高原で産まれた牝馬で、「あし毛」(仔馬の頃は毛が黒く、大人になると白毛になる)。

いつか白馬になるんだね(`・ω・)=3<頑張れアカリちゃん!

正門(随神門)近くの大黒像(一部見える)の足元、神馬「明(アカリ)ちゃん」の囲い(この日は留守)↓
甘味処「三河屋」のクリーム蜜豆( ^,_^)φ→

アカリちゃんがこの時、留守だった理由は、柵に張られた手紙によると……↓

ご参拝の皆様へ
 この度、夏休みを頂き、しばらくの間、千葉の牧場バカンスに行ってきます。
 青空の下、美味しい牧草をいっぱい食べてきます。涼しくなったら、また神田神社に帰りますので、またいっぱい遊んでくださいね
平成28年8月吉日                             あかり

との事である。
「ウチらは千葉から来たのに(^_^;)」
アカリちゃんは逆に、東京から千葉へ……(笑)。

でも不満には思わない。
神田明神って大都会のど真ん中にあって、敷地も広いとは言い難い。
この神馬の柵など、周りにギッシリ人だかりが常にあって、ストレスたまらないかな〜といつも心配してしまう(ノ_・。) 。

それとは関係ないかもしれないが、アカリちゃんの事をネットで検索してたら、脱走事件が起きた事があるそうだ(・・;)。。
……まぁ単に元気が良すぎて、勢い余って境内を出ちゃっただけ、という感じもするが(笑)。

あと、アカリちゃんの大ファンの人のブログなども見つかって、アカリちゃんは大人気なんだな〜という実感も持った(=^m^=)。
しょっちゅう見に来て応援して、大事に大事に成長を見守っている人はいっぱいいると思う。

それに……神田明神の主祭神は大黒サマだが、馬と聞けば、アカリちゃんに乗る神様は、「やっぱり将門サマだろう(≧▽≦)」と思うのが東国民の本音に違いない(笑)。

だからアカリちゃん、これからも千葉で良かったら、夏休みだけと言わず、冬休みも春休みも秋休みも、青空と広い牧場と美味しい草を堪能しに、ドンドン来てネ!\(^O^)/

(関連事項リンクは最後までに貼ります)



<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>

↑「天神」と「天満宮」どっちが正式名称なのかな、と公式サイトを探したら、どっちも書いてあった(^_^;)。。どっちかと言うと「天満宮」のようだが、ロゴは「天神」で清書されてる。→湯島天神

かつてこの湯島界隈は、亭主とのデートコースだった(〃∇〃) てれっ☆

年を経るごとに時間に余裕が無くなり、参拝は神田明神のみとなっていたが、この夏、ブラック企業に陥れられ、痛恨挽回のため雷神の助けを得んと、久方ぶりの参拝となった。

参拝後、亭主は、「正しい物は正しい!と言って貰えた気がする(`・ω・)=3」とスッキリした顔で帰途に就いた(笑)。

湯島天神(地図)の前通り(パノラマ4枚180度以上)

←境内見取り図。例によって、字は私が書き入れた(^^ゞ(後日間違い発見。夫婦×→夫婦〇)
↑通りに面した「銅鳥居」から入場。正面に見えるのが「本殿」、手前右を塞ぐのが「宝物殿

↑数字@〜Hは石碑が立つ。図面の左「梅園」とあたりに密集してる@〜Dは、
@管公一千年祭碑/A奇縁氷人石/B管家遺戒碑/C筆塚(泉鏡花)/D小唄顕彰碑
そして右にあるH〜Jは、
H新派碑/Iガス灯/J努力碑(王貞治)

では鳥居をくぐろう。
この鳥居は「銅製表鳥居」で、略して「銅鳥居」と呼ぶ。
寛文7年(1667)9月に創建され、同11年(1671)修理の銘がある。下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なもの。都指定文化財。

境内に入る。まず左側から案内しよう。

←「料理庖丁道・研鑽報徳の碑」、その後方に「包丁塚」が隠れて立つ。
↑続けて、屋根つきの待合所・「御手水」「撫で牛」と並ぶ。

最初に出会う「庖丁道」の碑は、「庖丁儀式三長流保存研鑽会」による建立で、後ろの「包丁塚」もその関係による何かと思う。(針供養みたいな?)

碑には料理の歴史を賞する言葉が羅列されてるのみだが、「平安時代以来」という言葉があり、検索してみると、神田明神やこの湯島天神において、「庖丁儀式」と呼ばれる古式ゆかしい祭典の写真が見られた。

登場されてるのは伝統的な料理人の方々らしく、衣装は平安朝。包丁を握って調理の技を披露する伝統芸的な催しのようだ→「四条流庖丁道」@Wikipedia
……藤原山蔭なる人は、平安期、菅原道真の頃の貴族のようだ。

続けて、御手水のスペースがあり、「撫で牛」が控える。
「撫で牛」は、湯島天神の祭神・菅原道真が牛を深く愛した事、道真と牛のエピソードが数多い事にちなんでいる。
道真ゆかりと言えば、この「牛」と同じぐらい、すぐにイメージされるのが……↓

梅! 珍しい梅鉢の御手水
参道の右側にも梅紋が並ぶ

さすが菅原道真を祀る神社だけあって、境内いたる所に梅の樹木や梅を象った細工で満ちている(^^)
というわけで、参道の右側に移ろう。まずは入口付近でも見た通り、立派な「宝物館」が建っている。その宝物館にも……↓

扉にこの通り、梅の文様入り( ^O^)//<パチパチ (パノラマ2枚)

やや真新しい建造物に思えるが、壁面の各窓ごとに美しい絵彫刻が施されているので、撮影した写真をお見せしよう(^^)。
このあと、社殿の方にも参るし、社殿の裏側に続く建造物にも、同じような絵彫刻があったので、撮影した順に並べながら、この湯島天神と、神社の祭神である菅原道真について述べたい。

織姫(織女)と彦星(牽牛)
大黒さんと因幡の白兎

菅原道真(845〜903年)というと、「国風文化」と学校でイメージづけられて習った。
この時代イメージは、そのまま続行されて良いと思う。

平安時代は長い。400年以上も続く時代は、日本史の中で随一である。
有名な人物はいっぱい出たが、誰がどの順で出たか、年表を見ないと思い出せない(^_^;)。
(前後を示すと、伴善男、菅原道真、平将門の順である)
だから「だいたい菅原道真の頃から国風文化」で覚えとけば良いノダ(笑)。

ただし「国風文化」の理由として、「遣唐使が廃止されたため、からの影響が途絶え、日本独自の文化が発展していった」と繋げた文脈で解説されたものだが、そこは個々に分けた方がいいかもしれない(^_^;)。


鬼退治の桃太郎に……
熊退治の金太郎

遣唐使の廃止は確かに菅原道真によるのだが、その理由を、

@日本文化も発達し、唐からの文化輸入の必要性が無くなった。
A末期の唐は荒れ果て、騒乱が多くなったため、旅行者に危険が増した。

こうした点から、遣唐使を廃止した菅原道真の卓見といわれていた。
必ずしも間違ってないかもしれないが、現在では、加えて、

B代わって、商船が多く渡航するようになっており、国営の遣唐使船に頼らなくても外来品(や知識)の入手が可能になっていた。
C財政負担の多い遣唐使は、政府には賄えなくなってきた。

つまり、必ずしも「国風文化」に結びつく文脈ではなくなってきたノダ(笑)。
だから「菅原道真の頃に遣唐使が廃止された」「国風文化が発展した」「いわゆる平安朝らしい平安時代が花開いた」と分ければイメージ自体は継続して構わないかと(^_^A)


花咲か爺に……
菅公お好みの”梅”と“牛”

それと、時の政府の既定の路線として、遣唐使の廃止は決定事項だったようで、道真はその廃止を議する場の一員ではあったものの、特に彼一人の考えというわけではないようだ(^_^;)。

むしろ道真自身は、渤海からの使節の接待など勤めており、結構な外交肌だったようだ。
道真に到るまでも、外来通の蘇我氏と密接な関係にあるなど、時代に対して進歩的な氏族であったらしい。

菅原」という氏族名も、桓武天皇(781〜806年在位)の頃、改名を願い出て、当時の居住地の名を名乗るようになったという。

それまでは「土師氏」といい、天皇・皇后の葬礼を行なう家だったが、彼らが請願して言うに、
「かつては吉事祭祀など)においても奉仕する家であったのに、この頃は凶事葬式)にしか用いられず、先祖以来の業の本意に叛くから」
が改名の主張であったようだ。


海幸彦・山幸彦(じゃないかな)
竹取物語のかぐや姫と翁

そもそも土師氏というのも、葬式屋として宛がわれた職掌というわけではなかった。
土師氏は、天照大神の次男・天穂日命から14代下った野見宿禰を祖とする。

垂仁天皇が、先に薨去した皇后の葬礼について群臣に尋ねた所、群臣たちは、殉死者生き埋めにする従来通りの葬礼を勧めた。

が、野見宿禰だけが「(殉埋は)人を利する道でなく、仁政にそむく」と反対し、土師を指揮して色々な埴輪を作らせ、天皇に進呈した。
天皇は喜んで、以後、埴輪を殉死者に代えて墓に入れる倣いとなった。

(垂仁天皇や野見宿禰の時代は特定できないが、古墳に埴輪が出るようになったのは、200年代後半ごろからのようだから、だいたいその頃を指した主張と思えばいいだろう)

このように土師氏も菅原氏も、従来の古臭い路線を改めさせ、人を活かし文化を発展させる理知に富んだ系譜として、道真が出るころには、学者の家として定着していた。
(同族に、同じく学者の家柄で有名な大江氏がいる)


五条橋の弁慶と牛若(義経)
亀に乗る浦島太郎

道真は文章を作る事がズバ抜けて上手く、周囲に頼まれて、文を与えることが多かった。
しかし当時、学者の世界は競合が多くひしめきあって、真面目な道真には、鬱々と悩まされる日々が多かったようだ。

学者仲間との間に交友は乏しかったようで、当時の同僚の中には、どちらかと言えば仲が良くなかった人物が多かったようだ、

多くの軋轢のあげくか、讃岐左遷の憂き目に遭った時期もある。
任期は四年に過ぎないが、道真の嘆きようは凄まじく、清廉潔白のイメージが強い彼だが、実は地方を嫌う都会貴族の一人だった事を思わされる。


青い麒麟に
黄色い麒麟

そんな中、意外な事に、後に道真が陥れられたとする藤原氏の当主、基経とは親密だったようだ。

道真の讃岐在任中に京の都では、その藤原基経宇多天皇との間に、有名な阿衡事件が起きる。
こういう事件である。

藤原基経が、日本初の関白の任を与えられた。
大抵こういう光栄な重職に任じられる時、まずは辞退するのが好ましい例となるので、儀礼的に基経は辞退した。

すると、尚も叙任すべく追って勅が下されるのだが、用いられた橘広相の文面に、中国の古典や故事からの引用で、「阿衡の任をもって卿の任とせよ」という言葉があった。
これに基経の家司藤原佐世が、「阿衡は位のみで、職掌はない」と噛みついた。

基経の手下である佐世がこういう事を言うのは、基経が、橘広相を政界から追い落とそうと謀ったからである。
案の定、この佐世のイチャモンに乗って、基経は、「職でないのなら、仕事をするわけにいかない」と、ストライキしてしまう。

時の政府は、実力者の藤原基経で持っていたから、途端に機能停止状態になってしまった。


青龍に
これは応龍?

時の天皇、宇多天皇は慌てて、自分の落ち度だとして、橘広相を庇い、基経に復帰を頼むが、基経は尚も広相への処断を要求。

ここに、讃岐に居ながら、この事件を知った菅原道真が手紙を書いて、
「これを罰すれば、後続の文章書きが委縮して、何も提出できなくなるだろう。
広相は皇室の外戚で皇子もなしている。
対して、この頃の藤原氏は沈みがちで、せっかく基経が優れた功を立てかけている時、蟻の出る隙間でも用心した方が無難ですよ」
と基経をたしなめた。この友情には、基経もさすがに感動したようだ。

この手紙が送られる前に、基経は態度を軟化させており、それはどうも基経の娘(温子)の宇多天皇への入内が成ったからのようだが(笑)、宇多天皇は、藤原基経をたしなめた菅原道真を頼もしく思い、すっかり入れ込んでしまった。

道真が任期を終え、讃岐から京に戻ると、異例の抜擢と、昇進に次ぐ昇進を与え続けた。
そしてこれが、道真を最終的には大宰府に左遷させる伏線となってしまう。。


……道真の話は、後で続きをする。

↓象だね〜まだ想像上の時代の!
妻壁に揃う三つの絵は山葡萄・梅・柘榴→

中央の金色の梅の花は湯島天神のシンボルとして、下段の葡萄(左)と柘榴(右)は、粒の多い果物だから、子孫繁栄とか子宝や財産を授かるのにあやかってだろう。

どれも幸運の瑞兆だらけで、たいそう縁起が良い(^^)。



<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>

以上、社殿に続く参道の左右の並びを案内してきた。
いよいよ正面、社殿に向かう。境内図面

平成7年(1995)に建てられた社殿
狛犬の台座も梅が枝(^^)

社殿の手前を左右に通路が伸びている。
左の庭園(梅園)は後で行くとして、まず右に進むと「男坂」に達する。

そこまでの間、右側に「新派の碑」「文房至宝碑」「瓦斯(ガス)灯」「講談高座発祥の地」などの碑がズラッと並ぶ。境内図面境内図@「湯島天神」HP)

まず「新派の碑」は、昭和54年(1979)に、新橋の演舞場から移転された。
その2年前の昭和52年(1977)、松竹水谷八重子が、新派の旗揚げ90年を記念して、演舞場の玄関脇に建てたが、改築にあたり、新派と縁の深かった湯島天神の好意を得て移した。
新派は、明治21年(1888)に大阪で旗揚げされたのを起源としている。

文房至宝碑」は、平成元年(1989)、文房具の歴史と先人への感謝を捧げるため、学問の神である湯島天神に建てられた。
古くは中国渡来の「紙筆墨硯」が「文房四宝」と称せられ、文化人の教養を長く支えたが、江戸期の寺子屋を経て、明治の学制では算盤も加わって、戦後の日本を大国に復興させ、今やOA機器にまで幅を広げ、「四宝」は「至宝」となった……てな事が書かれ、「文具資料館」の名が刻まれていた(浅草に同名の資料館があるようだ)

新派」と太字で書かれた石碑↓
続いて「文房至宝碑」「瓦斯(ガス)灯」「講談高座発祥の地」と並ぶ→

瓦斯(ガス)灯」は、明治5年(1872)、横浜に点灯した街灯が初めで、東京には2年後に、金杉橋京橋の間に85基が設置され、以来、文明開化明治時代のシンボルであった。
湯島天神の境内にも5基あったが、最後はここに形だけ残っていた1基が、ついに昭和40年(1965)頃に撤去された。
 昭和56年(1981)、東京ガス鰍フ協力で、最後まで残っていたこの場所に、再びガス灯を設置し、点灯も再現している。都内の屋外で唯一のガス灯である。

←正面は急な「男坂」、↑右に「瓦斯(ガス)灯

ちなみに「湯島天神のガス灯」は、泉鏡花の原作で、新派の公演した『婦系図』に、境内の白梅とともに登場し、
切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ
という決め台詞で一世を風靡した。
(師・尾崎紅葉に反対されて離別させられた鏡花の妻“すず”が、この台詞のモデルらしい。紅葉の死後、鏡花とすずは晴れて夫婦となったんだとか)

泉鏡花の碑は、他にも境内に「筆塚」がある。
(そういや『帝都物語』でも、鏡花は神田明神によく出没してたよね:笑)

←左には、なだらかな「女坂」が続いている(パノラマ4枚180度以上)

東京都の有名な坂道ガイドのサイトを見つけたよ(^o^)→「東京23区の坂道

境内図面境内図@「湯島天神」HP)

最後に並ぶ「講談高座発祥の地」の碑(右端の、画面から殆ど外れかかってる石碑↑(^_^;))は、平成17年(2005)に建てられた物。
江戸時代の文化4年(1807)、湯島天満宮の境内に住み、そこを席場としていた講談師伊東燕晋が、高さ3尺(1m)、一間(1.8m)四面の「高座」を常設することを、北町奉行に願い出て、小田切土佐守に許しを得た。

それまでの講談は、町のや粗末な小屋で、聴衆と同じ高さで演じられていたが、伊東は、読み物の内容が、徳川家康の偉業であることを理由に、庶民と同じ高さでは恐れ多いとして、高座を設立した。
これが高座の始まりで、日本の伝統話芸における講談高座発祥の跡として碑を建立したという。

……ちょっと高い所でやって貰わないと、後ろの人に見えないよね(^_^;)。<私なんて背低いし

他には「都々逸」の碑もあった。

というわけで、あとは、さっきも言った通り、社殿に向かって左側の「梅園」と称する庭園を散策しながら、湯島天神の通史を述べよう。(菅原道真の続きはその後で(^^ゞ)
境内図面境内図@「湯島天神」HP)

今度は社殿前の通路を左折、「梅園」庭園(パノラマ4枚180度以上)

伝えによれば、湯島天神湯島天満宮)は、雄略天皇2年(458)1月、雄略天皇の勅命により、天之手力雄命を奉斎したのを始まりとする。

〜この間に、菅原道真平安時代が入る〜

南北朝時代の正平10年(文和4年・1355)2月、湯島の郷民が菅公(菅原道真)の偉徳を慕い、文道の大祖と崇めて、霊夢によって老松の下に、本社より勧請したとされている。

文明10年(1478)10月、太田道灌がこれを再興、社殿を修建したといわれる。
又ここは、青松が茂る神境に野梅が盛んに香り、風雅に富んだ所として古くから名を知られていたという。

天正18年(1590)徳川家康江戸城に入るにおよび、特に当社を崇敬すること篤く、翌19年11月、豊島郡湯島郷の内、5石の朱印地を寄進して、祭祀料にあて、奉平永き世が続き、文教大いににぎわうようにと、菅公の遺風を仰ぎ奉った。


池の傍らにひっそりと咲く桔梗の花↓
小唄顕彰碑」→
他に「管公一千年祭碑」「奇縁氷人石」「管家遺戒碑」「筆塚(泉鏡花)」が立ち並ぶ

江戸幕府の朱印地になり、江戸時代を通して、徳川家康はじめ歴代の将軍があつく庇護し隆盛をきわめ、徳川綱吉湯島聖堂昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心として、当天満宮を崇敬した。

かって、菅公の徳は全国に浸潤し、天神様と尊ばれ全国に祀られて、学問の神様として敬われ、湯島天満宮は“湯島天神”として知られ、鳥居前には町もでき人々の往来で賑わった。
林道春、松永尺五、堀杏庵、僧尭恵、新井白石などの多くの学者文人に文神として崇められ、参拝もたえることなく続いた。

明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成5年(1993)お木曳き(造営の開始)の神事が行われ、遷座祭(完成)まで2年7ヶ月を要して、平成7年(1995)12月、後世の残る、総檜木造りで造営された。


高校の頃よく来たけど、こんな本格和風庭園だったかな?(^_^;)(パノラマ3枚ほぼ180度)

境内の梅は一時枯れたが、現在では、地元民の篤志により、数百本の梅樹が植えられ、2月から3月に行われる梅まつりにはみごとな花と香りで参拝者、鑑賞者を楽しませている。
また梅園の中には、満天下の子女の紅涙をしぼらせた「婦系図」のゆかりの地として里見淳外16名の文筆家ら旧知関係者によって、昭和17年(1942)9月7日に泉鏡花筆塚が設立された。
奇縁氷人石 嘉永3年(1850)10月江戸で初めて建てられたもので、右側面に「たづぬるかた」左側面に「をしふるかた」とある。迷子探しの石で都内でも貴重なものである。

御祭神 菅原道真公 天之手力雄命
例祭日 5月25日
湯島天満宮 文京区湯島3−30−1


(局部拡大)料亭のお庭みたいに豪華じゃ(^_^;)

それでは、改めて菅原道真の話を再開しよう。

一般的に、道真の大宰府左遷は、藤原時平基経の子)一人が全ての黒幕のように言われるが、実際には、道真は、他の多くの嫉妬や憎悪の対象になってしまっていた。

宇多天皇には、よほど阿衡事件が応えていたようで、醍醐天皇を次の天皇に立てるについても、道真一人を呼んで、二回も密談に及んだ。
これもどうも、入内した基経の娘(温子)に、まだ男子が生まれぬ内に譲位すれば、醍醐天皇(母は藤原高藤の女)を立てられる、と考えたからのようだ。

基経は死去し、子の時平が後を継いで、政界には時平と道真の二人が同列に上位を占めた。
阿衡事件で見た通り、実力者の家系である時平を除く事は出来ないので、宇多天皇は譲位に際し、「今後は全てに時平と道真を通さなくてはならない」と命令を下す。

これに対して、他の納言たちは怒って、ストライキを起こした。


左に参道、中央に「梅園」、右に社務所(パノラマ4枚180度以上)

境内図面境内図@「湯島天神」HP) ↑この位置から後ろを振り返ると↓

左に社務所、中央に太鼓橋風の渡り廊下、右に社殿(パノラマ4枚180度以上)

この太鼓橋みたいに円く浮き上がった橋は、学生の頃や社会人はじめの頃に来た時も見た覚えがある。
この橋の下をくぐって、社殿の裏側の敷地(摂社群)にも入れる。行ってみよう(^^)。

道真は宇多上皇に、「自分は学問に専念するため休暇を貰いたいが、それだと時平だけが仕事に従事しなくてはならなくなる。こないだの勅命の趣旨をよく説明して、納言たちを出勤させ(やすくし)て下さい」と頼んだ。

結局、宇多上皇が勅を出し直して、納言たちは宥められたが、道真はその後も、宇多上皇とその王子に娘を二人も入内させ、さらに位も従二位にまで昇進(道真より前の菅原氏の先祖たちは三位止まり)。時平と左右の大臣を占めた。

勿論その間、「自分は学者の家柄であり、大任は恐れ多い、苦痛である」と、何度も辞退を示しながら、上皇に頼られると断り切れず、大勢の妬みの対象に位置づけられながら、ズルズルと運命の時を迎えてしまう。


裏側に廻って社殿(本殿)の背を振り返る(パノラマ3枚ほぼ180度)

左遷される場合、「表向き栄転」の形をとりつつ、内実は「陰険にも流刑」という場合もある。

が、道真の場合は、ハッキリと罪科をとわれ、流刑として公表されている。この時の詔を「道真左遷の詔宣命)」などと呼ばれる。

その罪科とは、「前上皇を欺き、廃立を行なって、父子の慈を離間し、兄弟の愛を破ろうとした」というのである。

「前上皇」は宇多上皇、父子の「子」、兄弟の「弟」は、斉世親王を指すのだろう。
この斉世親王に、道真の娘が嫁いでいるので、「道真が醍醐天皇を廃して、弟の斉世親王を天皇の座に就けよう(新しい天皇の舅になろうと謀った」と言いたいわけだ。


笹塚稲荷」と「戸隠神社
その脇に「夫婦坂」への門

ところが道真の左遷を聞くと、宇多上皇は自ら内裏に現われた。
が、警固の者たちが中に通さない。上皇は自ら草座を敷いて終日、庭で待ったが、誰も門を開けない。やがて晩になって、上皇は本院に帰った。

宇多上皇は、道真の左遷を事前に知らされてなかったんだろう。

対して、宣命が発せられたという事は、醍醐天皇は知っていただろう。(当時は、院政ではなく、親政期として有名な時代)
宇多上皇に事情を問われても答えられない(罪状証拠や正当性がない)から、上皇の行動に反応できなかった、という事か……。
あるいは宣命にいう「父子の慈を離間」「兄弟の愛を破」が、すでに修復不可能な状態になっていたからだろうか……?


湯島天神からのレポはこれで終わるが、菅原道真(と湯島天神や神田明神の界隈)の話は、この後も続ける↓



■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>


道真は流刑地の大宰府に赴いた。家族は一部を連れ添ったが、各々が別の流刑地に赴くなど、多く四散した。

大宰府への道中の食も馬も用意されず、到着すると、官舎の床は朽ち、縁も落ち、井戸も竹垣も屋根も手入れが必要だった。しかし天井を覆う板もなく、衣装は湿り、書簡を損じた。
生来が虚弱の道真は、すぐ健康を害し、胃病、不眠症、脚気、皮膚病を得た。

しばし望郷の念に暮れて過ごしたが、流刑の二年後、死に際しては、なぜか遺骨を故郷に帰すことを望まないとして、遺言によって大宰府に葬られた。(のちに安楽寺になったという)


しいの木台で見た真夏の入道雲(パノラマ3枚ほぼ180度)

道真の生きた時代(845〜903年)は、先にも触れた通り、伴善男(811〜868年)と平将門(?〜940年)の間にあたる。
伴善男の事件、応天門の大火(866年)については、道真の以下の詩が残っている。

「班(あか)ち来りて、年事晩(おそ)し、刀気(とうき)、夜の風威(はげ)し、念ずること得たり、秋の怨(おも)ひ多きことを、心王、我がために非なり」

応天門の焼亡が3月に起き、その8月には、伴善男が首謀者であると告発した者が出て、9月に伴善男らに対し、遠島などの処分が下された。
この詩は、その年の秋、処分が降る前後に書かれたと推定されている。道真22歳の作である。

首謀者とされた伴善男自身が、そもそも冤罪と思われるものを、その縁座として配流された紀夏井などは、きわめて清貧な能吏であった。

冒頭「班ち来りて年事晩し」に、年老いた人さえも諸国にそれぞれ分けて配流された様子を取り上げ、最後の「我がために非なり」では、時世の行く末が「自分にとっても良い方向になると思えない」と締めくくっている。

道真の嘆きは、若きこの日の時点で、もう既に深かった。
そして、同じ事が自分や自分の一族の身の上にも降りかかると予想していた。

こちらは下手賀川附近
(拡大)夏の日没

しかし、そのさらに未来、「将門記」において、道真は八幡菩薩の神意を告げる霊官として、将門に新皇の位を授けるとは、道真ですら予想しえなかったに違いない。

道真は初めから終わりまで、嘆いて一生を過ぎたが、その死は、その後の日本に変革を齎した。
その新しいステージが、怨霊であり、祟り神であった。

六実の夕焼け
手賀沼南岸から見る夜景

いわゆる「菅原道真の祟り」は、道真を左遷すべく、藤原時平を助けた以下の面々が、次々と謎の死を遂げた事によって、強烈に恐怖された。

まず、道真の死(903年)の3年後の906年、藤原定国が死去。
908年、藤原菅根が落雷を受けて死亡。
909年、最大の黒幕、藤原時平が急死。60〜70歳代まで生きた彼の兄弟の中で、時平一人39歳の働き盛りであった。
913年、源光が鷹狩り中に、沼に落ちて溺死。

この間、疫病や旱魃などの災害が地上を覆い、怨霊への不安が人々にふりかかった。


夜の手賀沼東南、曙橋付近(パノラマ6枚180度以上)

923年、醍醐天皇の皇太子、保明親王(母、藤原時平の妹)が21歳で死去。
醍醐天皇は、菅原道真に右大臣の位を復帰し、正二位を追贈(生前は従二位)。
そして、道真を左遷(流刑)に処した折に発した、例の「道真左遷の詔(宣命)」を破棄させ、改元も行った。

しかし925年、保明親王の後に皇太子に立てた慶頼王(母、時平の女)も5歳で死去。
このように真綿で締め上げるが如く、ジワジワと時間をかけつつ、凶事は続いた。

そして、930年、清涼殿落雷事件が起き、藤原清貫(恐らく左遷運動に携わった最後の一人)が、落雷で胸部を焼き裂かれ即死。
帝のおわす清涼殿に雷が落下した、という衝撃もさることながら、この落雷光景が極めて凄惨で、これを目撃した醍醐天皇は以来、死病にとりつかれ、3か月後に崩御。


↓頂き物の月見ウサギのお菓子
訳あってこの時期に作った薬玉

936年、時平の長男・保忠が物の怪にとりつかれ、僧侶の読経にある「宮毘羅大将」を、「我をくびる」と聞き、恐怖して死んだ。

943年、時平の三男・敦忠、38歳の若さで死去。

……と、いかに偶然とは言え、これだけ道真左遷の関係者の異常死と、時平子孫の夭折が連続したので、これの例外に当たる長生きの人にまで↓

「次男の顕忠は毎夜、庭に出て天神を拝んだので若死を免れ、時平の子としては珍しく、67歳と長寿を保った。

時平の弟・忠平は、生前、道真と親しく、道真の左遷に反対をとなえたので、むしろ天神の加護を得て、その後の摂関藤原氏の流れは、忠平の血脈へ続き、時平の系譜は衰運を辿った」


↑以上のような「補足」がつく有様となった。。。
この秋も鎌ヶ谷市で、将門子孫の祭礼、福島の「相馬野馬追」騎馬武者行列が行なわれたようだ(^^)→

天満宮(天神)は、九州の大宰府や京の北野天満宮をはじめ、全国津々浦々で祀られている。
湯島天神もその一つだが、将門の神田明神も、その首塚のある大手町もいたって近距離にある。

道真自身が祟りをもたらすような人物であったと言うより、多くが祟りを恐れ、やがて、むしろそのパワーにあやかろうとした。
その実際例が、将門の新皇即位(940年)に際し、上野国の巫女が口走った八幡菩薩神と、その神意を伝える菅原道真だった。
将門の乱は、935〜940年。上の経緯と見比べれば、未だ祟りの真っ最中に起きた乱だった事がわかろう)

尽くし甲斐も無い朝廷のために働くより、自分たちの立てたいリーダーを、一緒に応援してくれたらいいのに……。
そのほうが、どれだけその才知が、苦しむ自分たち庶民の助けになっただろう。
そういう思いが、常々人々の心の地下深くにあって、高揚した瞬間に口をついて出たのかもしれない。

学問をもって宮仕えしていた菅原道真の同族(土師氏の末裔)、大江広元が、都を捨てて東国に下り、頼朝の幕府創世を一から支えあげたのは、その250年ほど後の事である。


以上、関連事項は、(2017/05/08、後追リンク)
■東京方面(皇居〜世田谷)
2004年12月<そこに、なぜか「世田谷観音」(爆)>
2005年3月<東京>
2005年11月<駒沢公園(東京)>
2011年10月<クリスマス前の東京(皇居東面)>および<東京「上目黒・氷川神社」の「目黒富士」>
2012年1月<御茶ノ水(神田明神まで)>
2012年7月<ハロウィンの頃まで>
2013年9月<初詣A「神田明神」拝殿に到達まで(笑)>以降
2013年10月<東京都・皇居〜用賀「カフェ・ピロエット」>
2015年2月<北千住宿場町(サンロード商店街)高札場><池尻大橋ジャンクションと目黒天空公園>
2015年7月<神田明神>内
2015年8月<夜まで都心ドライブ(^^)>
2015年9月<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>以降
2016年7月<クリスマスの街と千住宿「勝専寺」>
■平将門(リンク専用ページ) 
<城主のたわごと「平将門の史跡・伝承・信仰・相馬(千葉)氏」> 




<次回予告>

な、な、何でしょう?! 「次回予告」? 何があるんでしょう!

別に何もありません。。

これ夜の松戸駅です(^_^;)ゞ
この時期、夜な夜な松戸をウロつく用事があって、来たついでに写真を撮っただけ(笑)

この時期、地元の歴史会の説明会に行けたり、楽しい事もあったが、すぐ仕事スタートして、シッチャカメッチャカ忙しく過ごし(^_^;)、何しろあっちゅう間に日が過ぎた頃。。。

松戸駅西口を出ると、イキナリ二階歩道橋の上を歩く(パノラマ4枚180度以上)

てな感じで、以後は次回に譲るとして、今回はこれにて終わる。
まだ仕事その他で、シッチャカメッチャカしてた頃だったので、撮影もレポ具合もだいぶ雑になりそうだが(^_^;)。。

次回は……とりあえず10月には入れる。
地元の歴史会で、松戸西部の散策に行ったレポ。その後もちょっと日常編が続けられるかなー。

問題はその後だなーそろそろ写真ばかり溜まって、だんだん溜まる一方の危険地帯突入(汗)。

今回も関連リンクは、また後日貼りますねー(^^ゞ。 ←貼りました(^_^A)(05/08)

<つづく>

2017年02月03日(関連事項、2017/05/08、後追リンク)
 
     






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