<2017年・城主のたわごと9月>




2017年1〜4月、3月半ばまでがあっちゅう間!(笑)

その後は、根本城跡の追加編、桜祭り、馬橋ウォーク(^O^)




     
  冒頭は例によって宣伝(^。^)、前3回と同じ↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「湯島天神(天満宮)編
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>

この前後も……、

境根原古戦場ウォーキング(2016年6月号)、松戸の根本城跡(同7月号)、北総の龍腹寺(同11月号)、松戸の中根城跡・上本郷城跡・上本郷館跡ウォーキング(2017年4月号)、北総の龍角寺に松戸戸定邸(4〜6月号)、東京の清澄庭園・手賀沼の鷲野谷城跡(8月号)

など、小ネタ史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り……↓

〜おしながき〜「武蔵千葉氏編」1〜4
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

その前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さてさて、今回も日常編の続き。
前回は今年(2017年)お正月のちょっと後までお届けしたが、その後は怒涛の超多忙の連続で3月半ばまで瞬く間に過ぎた(^_^;)。

なので今回は、3月後半からがメインで、まず松戸駅の東側、前(2016年7月号)も一部だけレポした「神明神社」……すなわち、根本城跡の続きをやる。
「神明神社」は城の南端だったが、今度は北端「金山神社」を訪れてみた。
途中に、遊女の性病治癒祈願で信仰を集めた「池田弁財天」にも立ち寄っている。

4月に入ると、まずは恒例「常盤平さくら祭り」に今年も行った。盛況だった(^^)。
その後、また地元ウォーキング参加で、馬橋駅からあちこち巡りながら萬満寺に到着。
残りは次回に引き継ぐ。



■2017年1〜3月・千葉県柏市・松戸市
<あっと言う間に過ぎた2ヶ月(^_^;)>


今年(2017年)は、前回、正月のちょっと後までレポしたが、その後は怒涛の日々。
休みが明けるや、あっと言う間に3月まで過ぎた。。

とにかく確定申告に猛ダッシュ ε=(┌ ̄_)┘
初の青色申告で、わからない事だらけの上、貧乏だから会計士に頼むはおろか、相談するユトリすら全くない。

さらに、初年度はあれこれ届け出もしとかねばならないから、いつも役所の営業時間を気にしながら、暇さえあればネット検索の連続。φ(。。)m

ただでさえ調べるだけで大変だった上、去年一年の会計を二か月半でやらねばならないのだから、もう大変の二乗三乗! ヽ(;;;@皿@;;;)ノシΣバンバン

どれだけ時間が無かったかを、買ったばかりのデジカメの中身を出してみると……。
前回が正月の七福神巡りだった。その後、2月、3月と時を経たハズだが、そのあたりに該当する写真が殆ど無い(((( ;゚Д゚)))

写真を撮るなんて一瞬であって、どんなに忙しい合間でも、外出がてらパパッと写すぐらいするハズなんだが、思うに気持ちのユトリが全くなかったのだろう(苦笑)。

その後4月だけは、少しゆとりの春を過ごさせて貰ったけれど、5〜7月に進むと、再び髪を逆立て始め、8月にようやく束の間の休息をとった。
(で、恐らくこれより秋以降は、又々超多忙になるかと。。。:汗)

そんな我らにこの冬(2016〜17年)は優しかったようで、ここ何年かの豪雪つづきの年に比べれば、降らず積もらずに過ごせた方だったと思う。

←2月の初め頃、ちょっと積もり始めに撮ったが、この時もそう積もらずに溶けたんじゃなかったかなぁ……。
(或いは降り積もってる事も知らずに会計ソフトと格闘してたか:爆)

そういや、前は雪原が見渡せた農地とかが、この頃は隙間なく建物が建ってるーと思う事が増えた(^_^;)。

時々通る見晴らしの良い農地に、パラパラと建物が立ち並び始めたのを見て、「今撮らないと、すぐ建物の密集地帯になる(*_*)!」と慌てて車から飛び出して、パノラマ状に撮影↓

西日が差してるから西の方(地図

↑の逆↓道路挟んで反対。西日に照らされる東の方

このあと、この辺りは予想通り、ジワジワ住宅ラッシュに染まっていき、今ではこれほどの広い空間を見る事は無くなった。
西の一帯、ちょっと左のほう→
白梅と和風建築。昔ながらの取り合わせだねぇ(#^.^#)

が、かろうじて元からある、周辺の森林地だけは、今もなお鬱蒼と続いている。
森林の湿気がこもりやすいのか、急に冷え込んだ夜など霧が発生する事がよくあって、高低差もあるため、霧が波を打ちながら坂を伝う様子など、なかなか神秘的なのだ。

こうして2月は終わりに近づく(早っ)

やがて紅白に咲き揃う逆井の梅林(^^)(地図

こちらは椎の木台の白梅
その奥の森は「野馬除緑地」

地図←前に盆踊り大会で紹介した、クリーンセンターのある一帯で、地図には調整池とそれに連なる川が書かれてるから、昔は渓谷地で、今も水があるのだろう。

高地の道路から低地の野馬除緑地を見下ろす(パノラマ3枚ほぼ180度)

川に沿った道が続いており、ジョギングコースに使う人の姿も見かける。
野馬除緑地」とする石碑が立っているので、こうした断崖に昔は野馬が放牧されて、馬たちに飲み水を与えていた事が伝わっている(か想像できる)のだろう。

というわけで、早くも3月に入っている(^^ゞ<スイマセンね

ワンワン達の遊ぶドッグランを、遠くから羨ましくも惚れ惚れと眺めていたら……↓
ワンワンと近くまで寄ってきてフェンスにスリスリしてくれた(つД`;)<アリガトウ(号泣)→

……と、以上が確定申告(三月半ば)まで(^_^A)。
わ〜ホントあっちゅう間だなっ(((( ;゚Д゚)))

この先は急に余裕こいて、春気分で写真も撮り始めるワケ!(≧▽≦)



■3月後半・千葉県柏市・松戸市・東京都心部
<大熊風船・都心・野馬除土手>


↑駆け足っぽくまとめちゃってスイマセン(^_^;)。

まず最初は、五香駅から元山駅の間の線路の踏切付近にある携帯電話関連の店(地図)。
このクマ、いつもあるわけじゃないようで、見る時と見ない時があるような気がする(週末だけ出てるとかかな?)↓

線路の裏から見える背中
道路に向いてる正面

何を泣いてるかと思いきや、突き出してる指の先を蜂に噛まれてるんだね。ハチミツを取ろうとしてヤラレた?(笑)
凄く大きな風船人形で、腹部や背中に窓がある所を見ると、中に人が入れるんだねー(*_*)!

さてさて、大仕事は終わったものの、ダメージが大きかったのか、なかなか疲れが抜けず、毎日グタ〜ッとしてたので、亭主の提案で、この日は都内に住んでた頃からお世話になってる按摩(&鍼灸&整体)治療院に向かった。

例によって、大手町から皇居方面に向かう

和田倉門(地図)で左折
堀を周り、国会議事堂(地図)で右折

←そしてこちらが世田谷通り(地図)で見掛けた街灯。
拡大してみると、時代劇でよく見る、お奉行様の被り物(笑)↓
以前、訪れた時には、確か無かった(か、別の街灯だった)気がする(^_^;)。。

何だかこの界隈は今、レトロ調だったり時代劇風だったり、コテコテに造られた店構えやマンションが増えている。

が、街灯となると、個人商店の力だけではなるまいから、町をあげてテーマパーク化を目指しているのだろうか(^_^;)。。

ただ、表参道あたり歩いても感じる事だが、どこか町全体が室内っぽい感じで、テレビのスタジオセットの中に入り込んだような違和感が残る。
頑張って欲しいような、やりすぎて、昔の住人だった者には縁遠く感じるような、複雑な心境(笑)

ウチあたりにも、前に取り上げたように、レトロムード満載の駄菓子屋なんかあるし、今は無くなったけど、同じようなレトロムードのお好み焼き屋も出来た事あって、どちらもやはりスタジオセット張りの装飾だった。
都内・都外に関わらず、今は、ああいう本格的な大道具仕立てで作ってくれる装飾施工業が、あちこちにあるんだろう。

なのにそれが、ウチあたりでは、あまり室内じみた感じがしないのは、周囲が高層ビルの壁に立ちふさがれてないからかも……と思えた。

そうなると、やはり青空から注がれる陽光とは偉大だ。
日没後も、夕焼け・月光・夜雲・星空が背景にあるから、露骨な違和感に繋がらないのかもしれない。

あとは、ウチの近場すなわち松戸の初春風景からだが……。
実は、この↓野馬除土手あたりから先、しばらく続く写真が、どうも写りが変な具合(^_^;)。。
どう変かと言うと、何か特別な加工でも施したかのように、輪郭が凄くボヤケてる。

初春の野馬除土手(地図)。まだ葉が生えてない(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)

ここは例によって「野馬除土手」だが、土手の合間に木戸があったようで、ここだけ特別に「木戸遺構」なる標柱が建てられている。

「享保15年(1730)に小金牧(中野牧)の一部を開墾して高柳新田が誕生した。その頃、牧場を通って松戸方面へ通ずる道の位置に野馬逃亡防止のため木戸が設けられていた」とある。

土手を割った坂道から
土手の裏側に上がると……

裏手の路地からも、こんな風に見れる(^^)(パノラマ4枚180度以上)

……画像のボケに気づかれたかなぁ。
このデジカメは、12月ごろから使い始めてるが、まだ扱いに慣れてなかったというか、仕様書見てる余裕も無かったし、そもそも変になってる事に気づいてなかった(^_^;)。。

レポに使うには、原寸より大幅に縮小するので、それほど強く感じないで済むと思え、使用に踏み切ったが、輪郭はともかく、色合いがだいぶ薄い所もある。

特に明暗のある所では、明るい場所の色がだいぶ飛んでしまっている事を、予めお断りしておきますm(__)m。



<根本城跡・周辺「池田弁財天」と北端「金山神社」>

上でお断りの通り、少々写真がボケ気味で恐縮だが、この状態のまま今回は先に進む。

去年(2016年)7月号でレポした「小根本・神明神社」を南端とする「根本城跡」に、今回もまた挑戦してみる(^_^;)。

去年のレポでは、南端の他に、「金山神社地図)を北端とし、岩山稲荷神社(地図に見つからないが、だいたいこの辺かと→地図)を西端とする」と述べた。

今回は北端「金山神社」に訪れてみた。

そこに至る手前で、これも去年のレポで、「付近にある池田弁財天などは遊郭女郎が信仰した伝承があり」と言った、「池田弁財天」にも行き会ったので、両方をレポする。

松戸駅地図)からのコースは、2016年7月<松戸駅〜市役所〜(小根本)神明神社>を見て頂いて、松戸駅の東口から、「神明神社」のある高台まで辿って来てもらえると助かります(^人^)

これが「神明神社」(地図)→

今回は、すでに、この松戸市役所の高台まで来て貰ったとして、その後を綴りますゾ。

はい、松戸市役所地図)に到着(^O^)(パノラマ5枚180度以上)

←左から登って来て、右に進む→
一度ここまで登ってきた坂は、この市役所を頂点として、すぐに下りてゆく↓

←こう降りて来た。市役所は右ね(^^ゞ→(パノラマ6枚180度以上)

左端と右端は、離れてるけど、一つのビルです(^_^;)。。
京葉ガス」のビルで、中には「松戸市教育委員会」も入っている。(地図
この京葉ガスのビルに背をあてて、谷間の斜め十字路を横繋ぎに撮影してみた↑

……ちなみに、確定申告などおこなう時、このビルを使うこともあるが、税務署は↑の写真で左斜め先に進んだ所にある。(このところ何度か世話になったさ:苦笑)

で、右が市役所から降りて来た坂道。ここまで下りきる前、坂の途中……上の写真で言うと、右端の京葉ガスのビルに至る手前のカドを曲がる↓

↓それがこのカド。左が市役所、右が京葉ガス
この路地を行き、京葉ガスのビルを超えた所(隣のビルとの合間)に「池田弁財天」(地図)の鳥居→

では、これより、この池田弁財天に伝わる、遊女「おつる」の物語を、現地の案内板の通りに提示する。
途中、漢字や表現が通例と違うところも多々あるが、意味が通じなくはないと判断したので、遭えてそのまま写した。
(ただ全文続け書きで、流石に読みづらいので、段落と太字だけは適時入れてある)

周囲を繋ぐと、こんなビルの谷間(パノラマ4枚180度以上)

     
  松戸郷土史談・きりん亭猿象
「池田弁財天霊験記・遊女の祈願」

「もうし池田の弁天様。女として一番大切な、そして恥ずかしい所ですが、どうぞなおしてくだしゃんせ」
 草木も眠る丑満時に美女が一人、密と忍んで来たのが小根本(現、市役所隣り)の池田弁財天のお堂にて、時は文久3年(1863)の末のこと。
 松戸平潟遊廊のおきてきびしい勤めの身をば、どう抜けだしてきたのか笹野家抱えの遊女おつる。引く手あまたの忙しい体ながらも、どんな客でも大切にするおつるは気立てのよいのが朋輩衆の受けもよく、主人にほくほく儲けをさせていたまではよかったが。どこの客が持ってきたのかお土産は、荷物にならぬその代わり付いた名前が淋しい病梅の毒という。
 
     

隣ビルの敷地から見える鳥居の行列
大鳥居を潜るとスグ左手に小さい祠

     
   これをおつるが頂戴したからあとが、えらい事になったのだ。抜き身を納める大切な鞘にガタがきたどころではない。腫れてくるわ、熱は出るは、痛みは日毎につのるばかり。
 それで数あるお客の座敷を万遍なく回らなくてはならぬし、またお客へは病気のあるのを気取らせまいとの苦労も重なることになる。客にうつされた病気だからといって、尻の持って行き場もないし、さりとて勤めも休めない、休もうものなら、いままで恵比須さまのような主人の顔は、えん魔さまに早替わり遣り手婆ぁに折かん部屋へ連れ込まれ、生き地獄の責め苦に会わねばならぬのだ。
 叶わぬ時の神頼みと思うとき、人の噂に聞くならば、小根本弁天さまは、霊験いともあらたかでいかなる願いも叶えてくれるというそうな。決心したおつるは、夜更けて寝込んでいるお客に知れぬよう蜜と遊廊をぬけだすと、やって来たのが弁天様のお堂の前。
 
     

入口の小祠は馬頭観音だった
幾重もの鳥居を潜った先に境内

     
  「今日から向かう百日間丑満刻まいりをいたします。どうかこの難病を治して下さいませ」
と一心こめて涙を流して祈願をする。
 女郎の涙で家の屋根が漏る、なんて悪口を言われるが、それは手練手管で客を手玉に取る蓮っ葉女郎を称することで、おつるの場合は誠心誠意こめての祈願である。
 さあそれからというものは、丑満刻まいりを続けたが、99日目のことだった。人っ子一人通らぬ深夜の道を忍んで来たおつるが、参道から池の畔を通って、今お堂の前に来るならば、いつどこから現れたのが、一匹の大蛇がとぐろを巻きかかって鎌首をもたげているではないか。その体なるや松の巨木を横たえた如く、双の眼玉はらんらんと輝きわたり、大きく開けた真っ赤な口は、炎のような長い舌を出し、おつるをひと呑みにせん形相だ。
 
     

境内は小川に架かる石橋に始まる(パノラマ3枚)

     
  「キャー助けてえー」と、普通の人ならば腰をぬかすところおば、
「ああ、これは弁天様が私の心を試めすために、仮のお姿を現わされたに違いない。怖がったりしてはもっ体ない。有難うございます弁天様、明夜は満願の事なれば、おつるは必ず詣いります」
両手あわせて伏し拝んだから、これでは大蛇の方が引っこみがつかなくなってしまった。
 その翌る日の丑満刻、おつるが弁天堂へ詣でると、お堂の前に姿を現していたのは、昨夜の大蛇とはがらりと変わって、目の覚めるような(夜中の小便目の覚めるようなとたとえる)美しい弁財天女。ニッコリ笑ってお待ちかねなのだった。
 善哉、善哉、汝、浮川竹の勤めの身を以て、よくぞ百日間の丑満刻詣りを成しとげしぞよ。その功徳によって汝の難病直ちどころに平癒なさせるであろう。夢々疑うことなかれ」
 
     

この小川、何やら演出の如く、下からブクブク泡立ちながら水が湧き出ているのが印象的↓
入って右手の屋根の下には椅子が並び、お札がゾロリと巡らされ、さらに右に小ぶりの本殿→

     
   お言葉と共に、弁天様がおつるを堂内へみちびき入れると、どういう治療法を用いたものか、さしもの難病がケロリと全快したのである。
 さあ、このことが評判になると、病いもちはとんでいって祈願を込める。すると不思議にも全快するから大喜びで、お礼詣りと鳥居寄進に付く人がある。なかには蛇の形の陶器を奉納する。絵馬を献ずる人もあれば、清酒生卵を供える人や、甘いまんじゅうを持ち込むからお堂の前は置ききれぬくらいだ。たちまち参道は奉納の赤い鳥居目白押しにと建ちならんだ。 終

《付記》 現在では、手芸の神ともあがめられ、華道の先生やお弟子さんも詣でて寄進の額を記した札が、たくさん掲げられ、ご霊験のほどがうかがわれる。
 平成9年10月吉日 伝記更生 根本山吉祥寺 住職 鰐部照明
 
     

↑の記述通り、本殿は勿論、そのさらに左奥の壁側にも奉納用に祠が設けられているが、そこでも足りない程の、本当におびただしい数の蛇の陶器が奉納されている↓

祠↓及び祠の背後に用意された棚までがビッシリ埋まりつつあって圧巻!↓

この遊女「おつる」の勤めた「平潟遊郭」というのは、現在は勿論無いが、元は、地図←だいたいこの辺にあったらしい(現在は住宅街)。

この伝承も、宿場として発展した松戸らしい土地の裏話だが、遊郭と言っても、宿場の飯盛女が遊女化して出来た物だったようで、江戸川の舟業にあやかった事、軍隊の駐留や工兵学校があった事が背景にあるそうだ。

昭和の初め頃の記録では、妓楼が13軒ほどあったという。
遊郭は今はもうないが、遊郭の跡地に近い来迎寺地図)には、遊女の墓があるらしい。

この「池田弁財天」(地図)のある根本とは隣り町で、そう遠くはない。
平潟と根本は、鉄道で分断された今と違い、かつては宿場の賑わいを共有したようだ。

それでも寝ている客の目を盗み、病に苦しむ体での毎晩の参拝は大変だったろうし、根本は山(城跡)で真っ暗だったろうから、女の一人歩きとなれば、さぞ怖かっただろう。

居並ぶ鳥居のトンネルを戻って
さらに進むと、こんな踏切に出会う

踏み切り(地図)の向こうに小高く見える丘陵が、「金山神社」(地図)のある杜だ↑
踏み切りは新京成線で、松戸駅〜上本郷駅の間。これを渡ると、少し住宅地が続くが、それが突然途切れて、神社の緑地が始まる↓

ちょうど、その切り替わり↓の所を写してみた(^^ゞ(パノラマ4枚180度以上)

さらに→こう進んで来ると、石の大鳥居がある↓(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑この左は、金山神社(地図)の杜の続きで、かなりの丘陵(断崖)が上に積み重なっているが、一方、右は遠くに高層ビルが見渡せる通り、遮る物なく、実は間近に線路が通っている。

先ほど渡った新京成線と松戸駅で枝分かれして伸びているJR常磐線(および、私営・千代田線)の線路で、松戸駅〜北松戸駅の間。

つまりこの金山神社は、二つの鉄道の線路に挟まれた立地にあり、先ほど、市役所に上った後で、すぐに京葉ガスのビルに向かって坂を下りたが、城山は市役所あたりの高さを維持したままか、もうちょっとなだらかな凹みを経て、この神社に続いてたのかも……なんて思う(^_^;)。

神社の奥には、線路を渡る歩道橋が続いているので、後で示そう。

境内に入ると、立ちはだかるように急斜面がそびえる(パノラマ4枚ほぼ180度)

この斜面に設けられた石段を、エッサホイサと登って本殿の高さに到達すると、本殿は側面を向いている↓ので、神社の正面は、今も言った歩道橋の向こう側が正式な参道なんだろう。

側面から見る向こうの背景は急斜面(パノラマ4枚180度以上)

↑の通り、本殿は中腹に過ぎず、さらに上にも急斜面は伸びている。
今回はそれほど頑張らなきゃいけない場所と思って来たワケじゃない(というより、役所まわりついでに来てみて、この高さを見て焦った)ので、ここで引き返した(笑)。

地元のガイド本(『わがまちブック・松戸』(全三巻))を見ると、この上は富士山に見立てて、「何合目」など登山配分が書かれた石碑が立ち並ぶ、軽装トレッキングコースみたくなってるようで、江戸時代に流行った「富士塚」のような物に思えた。

富士登山を専門にされてる「ルート5」で、富士塚を取り上げてる「富士塚・浅間神社を巡る」の千葉県の部門でも、松戸の金山神社がリスト入りしているようだ。

ただ、ここの富士塚がいつから在る(江戸期まで遡れる)のかは、私にはわからない(^_^;)ゞ

正面。左が歩道橋・中央が本殿・右が富士塚(パノラマ5枚180度以上)

この通り、左にはすぐ歩道橋が迫っていて、線路を渡るようになっている。今いる所もわりと急な曲がり階段の途中で、足場は広くない(^_^;)。。落ちないよう岩壁に身を寄せて撮影した。

一方、左の歩道橋の向こうは、歩道橋に上る階段がついてて、下りれば路地に出る。
路地の入口に「金山神社」という石碑が立ってるので、本来そちらが神社の参道なんだろう。

根本城については、去年のレポでだいたい書いた通りなので、もう一回提示。
2016年7月<松戸駅〜市役所〜(小根本)神明神社>

そこに書いた通り、ここ「金山神社」には頂上付近に、城主・高城氏夫妻の墓があったという伝承が残るそうなので、行ってみたかったが、一人で行くのは足場が不安だったので、またの機会に譲ることにした(^_^;)。
(ちなみに高城氏の墓所は廣徳寺地図)にあるので、ここには今はないのかも)

根本城の北限がこの金山神社で、南限が前に行った神明社とすると、先ほど行った「池田弁財天」や京葉ガスあたりは城域に入るのか……。

市役所からの急な坂の降り方を見る限り、ちょうど城域から外れた所じゃないかと。
弁天を祀ってるのも、城の周囲を取り巻くがあった名残りかなぁ?

一方、根本城のさらに北は、根本城と連続する尾根が長く伸びていたようだが、それを新京成線が断ち切ってしまった、というわけではなく、元々北部の尾根とは、谷津によって途切れた地形だったようで、線路は元の低地を利用して敷かれただけなんだね(^^ゞ

だから開発などによって、城の遺構は(地形の表面に造られてるから)消滅してる部分が多いとしても、全体の地形はわりと元の状態を保ってるんじゃないかな。

線路向こうの入口に行けば、案内板などがあるのかもしれないが、今回見た限りでは祭神や神社の紹介など一切無かった。
手持ちのガイドによれば、祭神は金山彦命(鉱山や金属の神)とあり、城跡については、「高城氏の属城だった」とする教委の標柱が線路わきにあるそうだが見つけられなかった。



■4月・千葉県松戸市
<常盤平さくら祭り>


4月になるや、今年も地元の桜まつりに行った(^O^)!
祭りと言っても、桜通りをダラダラと歩いて、ズラリと並ぶ名物の屋台で買い食いするだけなんだけど(笑)。

ただ、その最中、新しく買ったデジカメの容量が満杯に達してしまい、あれこれいじった。
恐らくそのためだろう、この薄ボヤけた画像が、途中からシャキッとした画像に戻る(^_^;)。

屋台の横並びがそろそろ始まる辺り(地図(パノラマ4枚180度以上)

入り始めは、みんなさっさと歩くから、そんなに人込みしてないのが、このようにそろそろ屋台が始まると、買い食いも始まって、だんだん混んでくる(^_^;)。。

さて、今年は上記の通り、途中から容量がいっぱいになったので、要らない写真を削除しながら、残量を推し量りながらの撮影となったので、買い食いメニューだけササッと写しただけとなった。(おかげで却って、効率よく祭りを楽しめた気もするけどね:笑)

ジャンボたこ焼き
きゅうりの一本漬け

きゅうりの一本漬けは、前にニュースで、日本のどっかの夏の屋台で食中毒を出した、という報道が流れて以来見かけなくなったので、今年は出す店がチラホラ見られて嬉しかった。
これは安くて美味しくて、喉の渇きにもいいし低カロリーだから、これからも衛生に気をつけて営業して欲しいなぁ〜。

私らは、たこ焼き、ジャガバタ、綿菓子、ドリップコーヒーあたりは、毎年買う屋台が決まってるんだけど、それ以外は定番という感じの屋台は特にないので、食中毒になったら困る〜。。

毎度、芸の細かさに感心させられるチョコバナナ

今年は例年に増して、この桜祭りが心待ちだった。
東京に住んでた頃は、地元の花見に出掛けるのが面倒臭く、「今年はパスかなぁ」なんて思ったこともあったから、松戸の桜通りが東京のよりいいんだと思う。

「東京より楽しみに乏しい田舎だから」と思われるかもしれないが(笑)、特に「常盤平さくら祭り」は、遠隔地から訪れる人も多いようだ。
屋台がエンエンと続いて、桜も飲み食いしながらノンビリと見れるし、同じように楽しみにしてる人が大勢いて、物凄い賑わいだ。

それでも例年だと、祭りが近づいてから桜に気付くことが多いのに、今年は1月ごろから「今年の祭り、楽しみだなぁ」と、桜通りを見るたびに思った。

ここしばらく遠出もせず、閉じこもって忙しくしてたからだろう。
それと、今年は桜通りやその近くを通ることも多かったかも!

←そして、このガチョウの着ぐるみサンを最後に……
↑ボヤケ映像から通常モードの写真に復活(^O^)

やっぱ桜はクッキリ写らないと、勿体ないよね〜!!
キャラ着ぐるみに抱き着く子供と撮影するお母さん(笑)→

もっとも、「たわごと」に出す時、写真はう〜んと縮小してしまうので、原寸で感じるボケ具合に比べれば、それほど違いが無いかもしれないね(^_^;)。

ただ、見てお分かりの通り、今年の祭りは、桜の開花具合が今イチで、そのぶん澄み切った濃い青空が枝の合間からよく見えたので、この時までに写り具合が復活してくれたのは幸いだった(^_^A)
このあとはさっきも言った通り、デジカメから削除しては写し……と、残量に余裕がなかったので、残りは買い食いメニューのみで失礼します(笑)↓

じゃがバタ
焼きそば

シャンピン(中華おやき)
クロワッサンたい焼き

クロワッサンたい焼きは、前からよく看板は見てたんだが、今回はじめて買ってみた。
思った通りの味で美味しかった( ^,_^)ゐ 次回から定番に加わるかなー☆

じゃがバタシャンピンは、初めて食べた時から「メッチャ旨〜い(≧▽≦)」と、あっけなく定番入りしたんだが、その後、これといったヒットメニューに出会わずにいた。

撮りそびれてるけど、焼きトウモロコシが定番!
前はアンズ飴(と銘打ってるけど、大抵はスモモに水飴を絡めた物(^^ゞ)が定番だったけど、この頃は歯の詰め物が取れるのを避けて、食べるのをやめてる(ノ_・。)

あとは、鮎の塩焼きとか焼き鳥、串ステーキなんか亭主の大好物で、時々買う事がある。
今年は、ゲソ焼きが食べたくなって、イカ焼きの屋台を片っ端から覗いたんだけど、ゲソは売り切れるのが早いんだよねっ(>_<)。。やっと手に入って、美味しく食べたけど(笑)。

なかなか手に入らなかったイカゲソ
大判焼き

←お土産の綿菓子(これも定番のリラックマ(^^))
↑こちらは後日、久々に行った白井の「自然」(じねん・地図)の惣菜取り放題( ^,_^)φ″

2016年2月号の「自然」の写真転用(爆)(パノラマ2枚)

さくら祭りの後は、しばし近場ドライブをお届け(((つ^o^)つ<ルンルン♪

↓こちらは転用じゃないよっ(笑)(パノラマ3枚)

鎌ヶ谷市中沢の「正八幡神社」(市川市と船橋市と鎌ヶ谷市の市境・地図)を写した、と思ってたんだが、後でグーグルのストリートビューで確認したら、違う神社だった(((( ;゚Д゚)))

わりとよく通る道で、いつも良い風情なので撮りたいんだが、写し損ねる事が多い(>_<)
それがこの時は渋滞してたんで、「撮ってもいいかなぁ」と車を一瞬下りて撮った。
亭主もウッスラ記憶してたようで、一緒に地図上を探してくれたんだが、やはり同じ神社をイメージしてたようで、「え?違う?」と驚いてた(笑)。

今度この神社の前を通ったら、次こそは、ハッキリ場所を確認せねば(`・ω・)!<ファイト

春を迎えた手賀沼(地図)にも来てみた♪
ちょうど雪柳が盛りだった〜


多忙からは解放されたが、いつの間にやら体を酷使してたようで、ずいぶん長く疲労が抜けずにいるうちに、季節はドンドン春を増していった。



<馬橋〜八ヶ崎ウォーク@、馬橋駅の界隈(西側)>

多忙明けて初めての、また久々の地元ウォーキング参加!
いつもは私一人の参加なんだが、この日は珍しく亭主が時間を作って、夫婦参加できた(^O^)

集合はJR常磐線(地下鉄千代田線)の馬橋駅・西口地図)↓

駅から階段下りると左手に桜!
右手は駅ビルと水濠、土手の花々

コースは、前半が馬橋駅の東側がメインで、古い町並みや寺社などをめぐる。
後半はさらに東隣の八ヶ崎へ移動して古跡を訪ね、最後は「21世紀の森と広場」(地図)で花見をしながらお弁当を食べる(^H^)<モグモグ

歩きの行程で、狭い範囲を行き来するので、地図の細かい点は、内部を拡大しながら見て下さい(^_^;)。

桜の咲きっぷりも進んでる〜♪
では出発。馬橋駅を背に西へ

一ヶ所だけ、馬橋駅より西に行く所があるので西口に出たが、すぐ戻ってきて、あとは東方面ばかりになる(^^ゞ

その西側の一ヶ所というのが「馬橋消防署」(地図)。
何しに行ったのかよくわからないが(笑)、アポ有だったと見え、署員の方が待ち受けていて、案内に立って下さった。団体見学は何かと有利じゃのぅ(^^ゞ

←入ってスグの所に展示されてる「(まとい」。
↑消防署の後は又、馬橋駅にカムバック(^^ゞ

上の「(まとい)」は、明治6(1873)年頃に造られた物。
昭和22年(1947)に発生した、小金小学校の火事では、警防団の若衆がこの纏を振り続けて、見事に延焼を阻止したという。
現在も当時を知る地元の人達に語り継がれる、土地の記念品として残されている。

ところで配布されたチラシによると、ここ馬橋消防署は本庁(ってどこでしょう、松戸でしょうか、市内には11ヶ所に消防署があります)の他では唯一、地震震度計があるそうで、奥に通されて見れたのは、多分それだと思う。(人がいっぱいで話が聞こえなかったけど(^_^;))

見学者からは続々と、地震の時、テレビに松戸の震度が上がらないがどうしてだの、市民ならでは行政への質問がボンボン飛び出して、
「やっぱ納税者が集まると、小学生の遠足とは違う|ω・`)」と思った(笑)

この橋は「中道橋」。鯉がいっぱい泳いでた(^O^)↓
馬橋駅と反対側の流れは、長閑な春の風情♪→

地震震度計は1990年に開発され、全国3000ヶ所以上に設置されてるそうだ。
千葉県でも20ヵ所で観測点を持ってるんだとか。

署員の方の説明で印象的だったのも、「(阪神大震災か東日本だ震災で)なぜ松戸では、正確な震度がテレビに出ないのか」という問い合わせや苦情がいっぱい来て、それ以来、震度計による測定をやるようになった、といった経緯。

うん、それぐらいやって貰っていいと思うわ。
この地域は、既得権益には何一つ浴してない無党派層の巣窟だもん(-_-;)。

土地は買わされ、満員電車に詰め込まれ、ガツガツ働かされ、税金ガッポリ搾り取られ、下の世代にいくほど会社を早々と追われ、退職金も年金も貰えず、先の不安におびえながら、死ぬまで労働させられるわけだ。災害時の安全確保ぐらい優先して欲しっす *しみじみ*

東口に出るのに一度、駅の中を通る
馬橋驛」の看板(拡大)

この看板は、馬橋在住の書家、源川彦峰(みながわけんぽう)氏の作。
源川氏は二松学舎大学の元教授で、戸定歴史館にも和歌を書いた色紙が寄贈されている(常設展示はされてない)。
あの片岡鶴太郎にも書を指導したそうで、書の他に、絵・版画・陶器・漆芸・篆刻・茶杓など十芸をたしなむ芸術家。馬橋駅の近くに、自宅を改造して開業した展示室がある(予約制・地図



<馬橋〜八ヶ崎ウォークA、馬橋駅〜馬橋・中根寺>

さて、、駅ビルを抜けて外に出てからは、馬橋駅の東側を巡り歩く。

←「おたすけ地蔵
正確な位置を地図で示すのは難しいが、だいたいこの辺→地図。駅の東口を出て、右側のほうを探すと、わりとスグあると思う。

昔はこの駅前には、赤提灯があって、一杯やっていく親父の憩いのひと時があったそうだ(笑)。

地蔵の名の由来は謎のようにチラシに書いてあるが、ここで聞いた話では、どうも賽銭を失敬してゆく貧窮人もいたのだとか……。戦後の苦しい時代か、高度成長期に乗り遅れた人の話か……。

ここからゴチャゴチャッと、狭い路地を抜けたのは近道だったろう。目指すは……↓

「おお、見える見える!」と指さす先は……
地名発祥の「馬橋」(地図

これは、私も知らなかった! 松戸には子供の頃から住んでて(しょっちゅうヨソへ転校・引っ越しを繰り返しながらだけど:笑)、馬橋という地名は知ってたけど、名の謂れの橋が今でもあるなんて、思ってみた事すらなかった(^_^;)。。

地元のガイドに限らず、千葉県の郷土史にもあったかもしれないが、何しろ意識に上る事が無かったので、見聞きしてても気づかなかっただろう。
こういうのを「灯台下暗し」と言うんだろうね(笑)。

馬橋が架けられている川は「長津川」と呼ばれ、江戸時代には水戸街道が通って旅人も多かったが、その昔は大雨でよく橋が流されたという。

鎌倉時代、万満寺に招かれた良観忍性)が、馬の鞍をしたを架けさせると、橋は流されなくなった。
その橋を「馬橋」と呼ぶようになり、地名の由来になったと言われ、室町時代の本土寺過去帳にも、「マハシ」の記載があるという。

←ちゃんと「馬橋」と書いてある。
欄干は最近の造りだね(笑)。レトロな雰囲気ではあるけど

この後、商店の多い通りを、教委の立てた道標の説明に沿ったり、そういう物すら無いけど、土地の人だけが知ってる伝承を聞いたりしながら歩いた。

配布チラシには、「栢日庵立砂(はくじつあんりゅうしゃ)の居宅跡」が取り上げられてるが、その道標の立つ所は、今「東京ベイ信用金庫・馬橋支店」(地図)があるだけだった(^_^;)。

栢日庵立砂(〜1799年)は東葛地方の俳諧人として有名で、元の名を、馬橋の油屋平右衛門という。
小林一茶とは、親子ほど年齢の開きがあったが、一茶に「爺」と慕われ、一茶のよき理解者でも庇護者でもあった。

どうも、「たまたま家を訪れた時に、栢日庵立砂が亡くなった」という話をネット上に見た(一茶と立砂)ので、ウィキの「小林一茶」を見てみたが、名前すら出てこなかった(^_^;)。。

ただ、ウィキには、一茶が25歳で最初に俳句を学んだ小林竹阿について、藤原周平の著作で、「一茶と一面識もなく、師弟とするのは一茶の詐称」としてるようだ(創作かもしれないが)。

そこで、一茶の年表を載せてるサイトを探したら↓

一茶の歴史・生涯(年表)@(「信州高山・一茶ゆかりの郷」より)

によると、竹阿に師事する前が、「15才で江戸に奉公に出て、20歳で松戸馬橋(千葉県)の大川立砂のもとに奉公」とあるので、立砂の俳諧における人脈を頼りに活動した可能性はあろう。
一茶が江戸からもよく立砂を訪ねて来た、という記述も見かける(一茶が歩いた小金道を歩く

さて、通りから裏路地にヒョイと入り込むと……、

四国霊場巡りの碑
中根寺」(地図)に到着

お寺と言うより、公園に入るような感じだったけど(^^ゞ
「伊久山 中根寺(ちゅうこんじ)」は、慶長18(1613)年開基だが、本尊の薬師如来には、平安期の弘法大師伝説が伝わっている。

次のようなものである。
金山神社の頂上に「かくれざとう」という所があり、弘法大師が篭って、一本の木から三体の薬師如来像を彫った。
木の根の部分で作られた像を吉祥寺に、中程の部分の像を中根の東照寺に、末の部分の像は印西の歓喜院に安置した、と。

金山神社というのは、先ほど(桜祭りの前に)行った松戸・根本城跡にある金山神社地図)かな、と(^^ゞ。
吉祥寺というのも、金山神社に程近い所にある→地図

次の中根村・東照寺というのが現在地に移り、↑「伊久山・中根寺」となったんだね。

最後の歓喜院だが、よく印西の浦部を通ると同名の寺を見かけるが、そこなら→地図

素敵な佇まいの洋館に
呉服・用品の「信濃屋」(地図

他にも、昔ながらの和洋折衷の家とか、この店はかなりの古さだとか、この建物もそろそろ年代物で、いつ取り壊されるかしれないから、写真に撮るなら今の内だよとか、教えて貰いながら歩いた。

こういう情報は、地元の団体でしか聞けないから貴重だよね。φ(。。)m<メモメモ

あと、中根寺への路地に入る付近で、『裸の大将放浪記』の主人公の画家、山下清馬橋に住んでいた(一番長く滞在していた、と言うべきか)事が話された。

帰って調べてみたら、確かに昭和15〜21(1940〜46)、清が18〜24歳の頃、魚屋(加藤商店)や大川米屋の妾宅で奉公しており、馬橋の大通りを「さびしくもなく中位です」と記す文章が残るという。

こちらは、萬満寺の門前にあった千葉周作の道場跡という。→

千葉周作の史跡は、松戸では、松戸駅の西口の近く「放光院」前に「修行之地」という標柱と、墓地に父・幸右衛門の墓があるのが有名

ここ馬橋にもゆかりの跡があったんだね〜(^^)

ただ、千葉周作の千葉氏というのは、千葉県の千葉氏とどう繋がるのか不明(^_^;)。
前に私が調べ物した中に、陸奥の「奥玉千葉氏」の長い歴史を綴った本を見た事があって、どちらかと言うと、そちらのほうが可能性が高い(系譜が近い)ような推測を読んだ覚えがある。



<馬橋〜八ヶ崎ウォークB、萬満寺と王子神社@>

馬橋駅から、少し遠回りしつつも、ようやく萬満寺の門前を歩いてきた(^_^A)。

現在は千葉市にあって、千葉一族の菩提寺として有名な「大日寺」(地図)は、実は初め、ここにあった。

前に、その千葉市の大日寺に行った時、その前身が馬橋にあった事、そして馬橋にはこの萬満寺がある事を書いたが、「大日寺の前身=萬満寺」の確信を得てなかったので、その辺をボカして書いた(笑)。(2009年10月<大日寺(千葉氏歴代当主の墓所)>

めでたく本日、千葉市の千葉氏菩提寺「大日寺」は、ここ「萬満寺」にあった事が判明〜♪

萬満寺地図)に到着
山号「法王山」の扁額

まず、ここに最初の「大日寺」が出来たのは……。
鎌倉時代の建長8年(1256)に小金城主であった千葉頼胤が、鎌倉極楽寺の良観房忍性を招いて堂宇を修め、真言宗大日寺を開いた。

……この時の「小金城」というのは、『鎌倉大草紙』に記載がある奴かな?
だとしたら、その所在がどこを指すか、わかってないんじゃなかったかな(^_^;)。
「小金城」と言うと、現在も残る、高城氏の大谷口城跡(戦国期)を思い浮かべる人が多いと思うけど、あそこに鎌倉時代も、城とか居館があったかわかりません(^^ゞ

上本郷ウォークのレポで書いた通り、鎌倉期の「小金城」の候補としては、「中根城」(地図)、「馬橋城」(地図)、そして「大谷口城」(地図)の説があるようだ

そして、千葉頼胤の呼んだ「極楽寺の忍性」というのは、鎌倉時代の超有名なお坊さん。
鎌倉仏教において、「新宗の宗祖」として名を残しても不思議じゃないぐらい。

強いて宗名を言えば、「真言律宗」と言えるが、鎌倉六宗(浄土・浄土真・時・臨済・曹洞・日蓮)には入ってない。
新宗を起こしてない理由は、鎌倉仏教に対して、その前からある律宗(南都六宗の一つ)と真言宗(平安二宗の一つ)の復興を目指したからじゃないかと思う。

↓山門くぐって裏から振り返る。立派な楼門じゃのぅ
前を向き直すと、参道の先に今度は仁王門が控えている。(左手前に赤い鳥居も見えてる)→

さて、次の段階が、現在の「萬満寺」になった室町時代になるんだが、その前に、「ここにあった大日寺がどうなったか」が述べられてない(^_^;)。

配布チラシに「のちに千葉介貞胤によって大日寺は千葉に移されましたが「大日五仏」は残りました」とあって、「貞胤の時代」というと、鎌倉末〜南北朝時代だろう。
(ウィキには貞胤の生没を1291〜1351年とある)

さらに詳しく知るべく、千葉市の大日寺のページを見ると、「1284年に頼胤の子、胤宗によって千葉に移されたという説が有力」と書いてある。

千葉頼胤┬宗胤(九州)
      └胤宗−貞胤

というのも、同ページに断り書きがある通り、千葉の大日寺は戦災でボロボロに焼かれてしまった(>_<)。
前に大日寺に行った時も書いた通り、そうした経緯のため、元は千葉神社地図)の近くにあったのが現在地に移転されてる程。
詳しい事を寺自身の記録として提示できない代わりに、「有力説」を載せてるんだと思う。

←参道に入ると、スグ右手に鐘楼堂。外からも山門に並んで見えたよね。平成19年に落成したらしい。
↑続いて左手に出て来る、この神社が謎(^_^;)。。
隣の王子神社との関連を推測してるブログもあったが、あるいはそうかもしれない。(後述)

では一方、大日寺が千葉市に去った後、馬橋のほうの大日寺(跡)がどうなってたのか。
これもわからない(^_^;)。

禅宗にしては珍しく、護摩焚き行事(唐椀供養)(後述)が行なわれているのが、「真言の名残り?」と探る声もある。
……とすれば、何らか寺として継続されてたのかもしれない。

そして、今の「萬満寺」として再度現れるのは、臨済宗としてで、康暦3年(1379)、千葉満胤が、鎌倉の瑞泉寺にいた夢窓国師の高弟・古天周誓を招いて中興開山し、関東管領・二代・足利氏満(1358〜1398)の「」の字をとって、「萬満寺」と号したといわれている。

千葉頼胤┬宗胤(九州)┌ 一胤(早逝)
      └胤宗−貞胤┴氏胤−満胤

以後、現在までについては、配布チラシから……。
天文7年(1538)、戦国期の小金城主・高城胤吉胤辰)が、京の大徳寺・金甫宗貞(きんぽそうてい)を迎えて伽藍を復興。馬橋村5〜7百石を寄進し、中興開山した。

江戸時代は、歴代将軍より70石の寺領を受ける朱印寺として栄えたが、明治41年(1908)機関車の煤火による火災で、茅葺屋根の本堂・書院・庫裏・歴史資料を焼失。(駅・線路が近すぎたんだね(>_<))
現在の本堂は、殿平賀の慶林寺から、本堂を譲り受けて移築したという。
(萬満寺の由来には各説あるそうで、その一例だそうです) ……以上(^_^A)

仁王門を潜ると本堂に続く
手前左に不動明王像

集団行動につられて、何となく潜ってしまったが、仁王像仁王門の両脇にあったと思う。
松戸馬橋の「萬満寺」で有名なのは「仁王股くぐり」(^^ゞ。地元でも、ちょくちょく観光案内みたく見かける。

各種の案内を見ると、正月三が日と、春(03/27〜29)と秋(10/27〜29)の御開帳の折、この「仁王の股くぐり」を行うようだ。

阿吽両像の内、阿形の仁王像の狭い股をくぐり抜けると病気・厄除けになるといわれる。

狭い所を潜る祈願方法は各地にあるが、もう一度母親の産道をくぐる行為になぞらえるとも聞く。
生まれてから今日までに身に帯びた罪状を帳消しに出来、罪状がない=極楽往生できる可能性を広げる、という理屈だろう。つまり、リセットできるんだね(^_^;)。

他にも、このお寺の名物とされる行事を紹介しておこう。

不動まつり(中気除け)」 春季・秋季
本尊は中風除不動尊といわれ、中風足の病によく効くとされている。

唐椀供養」 春季・秋季
唐の国により伝来の儀式用の朱塗りの大椀とうつした御膳で、精進のご飯を祈祷の間に頂く行事。
徳川家康が鷹狩りの途中に立ち寄り、差し出されたのが始まりと伝えられ、残さず食べる処に功徳があるとされる。

……これが、先ほど言った「護摩焚き」の事で、この食事で使った箸を持ち帰り、翌年、護摩焚きしてもらうと、中気除け、無病息災に通じる、というもの。

一方、右手には池があり、太鼓橋が架けられた先にお堂が聳える
この池の傍に「義真弁才天」の説明版が立っていたので、この池ゆかりの伝説なのだろう。

これについては、その説明版の記述のまま↓

     
   義真弁才天(小僧弁天)
江戸時代 当山に義真という大変利発な小僧さんがおりました。一番年下ですがお経を覚えるのも一番、議論をしても誰もかなわないなど将来を期待されていました。
しかし、余りのいたずら好きの為にある日とうとう寺を追い出されてしまいました。日ごろ馬鹿にされていた寺男は、それを好いことに「こらしめてやれ」と彼を捕まえて簀巻きにして坂川に放り込んでしまいましたすると不思議なことにそこから白蛇がスルリと抜け出し、何処へと泳ぎ去っていったと言うことです。
白蛇は古来より弁才天のお使いとされ村人たちは「義真は弁才天の化身であった」と言い義真弁才天として祀られる様に成りました。義真弁才天は学芸、知識の神様です。お参りすれば学業、歌舞音曲などにご利益があります。
萬満寺
 
     

実は、萬満寺に来たら、どこかに書いてある事を期待していた大蛇伝説があったんだが、来てみたら、白蛇伝説の義真弁才天しかなかった。
大蛇伝説のほうは、これ→「万満寺の大蛇伝説」(@「福娘童話集」より)

いずれにせよ、蛇の伝説というと、先ほどの松戸「池田弁財天」の大蛇伝説を思い出すが……
その辺の考察は後で述べるとしよう(^^ゞ。

萬満寺の文化財
国指定
重要文化財 木造金剛力士像
市指定
有形文化財 木造不動明王立像
有形文化財 鋳造魚藍観音立像
有形文化財 一月寺遣石
有形文化財 阿弥陀如来坐像
有形文化財 豊臣秀吉の制札

一月寺遣石
明治4年(1871)、普化宗が政府により廃止され、廃寺となった、小金の「一月寺」にあった物で、享保16年(1731)に造立された「開山塔」。台石に一月寺の由来がある。
天保年間(1830〜44)の仙石お家騒動(但馬の出石藩)に関わる石碑「遺墨墳」の遣り石も共にある。

豊臣秀吉の制札
天正18年(1590)の小田原征伐で、浅野長政の軍が入るについて、民心安定のため萬満寺に与えた制札。
民家や寺の中に陣を構えたり、麦の勝手な刈り取りを禁じ、一銭でも盗んだ者は厳罰(斬首)を制定するかわりに、離散した民衆には帰住を命じている。
「一銭切りの制札」とも称される。

残念ながら、なぜか萬満寺のサイトが今は無くなってて、市役所や観光案内のサイトはあまり詳しくないので、地元の墓地・墓石のサイト「清心」の「お寺紹介」を参考にした→萬満寺



<馬橋〜八ヶ崎ウォークC、王子神社>

万満寺の裏手が「王子神社」。
明治の神仏分離令が出されるまでは、万満寺と共にあった。
一昨年(2015年)12月、不審火によって、本殿・幣殿・拝殿全焼してしまったという(*o*)!

それで、さっき万満寺の山門から仁王門までの間に、左手にあった↑鳥居と祠は、昔、境内に神社があった事にちなんで、社殿復興がなるまでの仮社殿だったのかなぁ、と思ったわけ(^^ゞ

王子神社」(地図)正面の鳥居
正面の社殿は今、建設予定中(;_;)

三殿とも残らず全焼したというんだから、かなりの火災だったんだろうね(・・;)。。
社殿が無くなったことは勿論すごく悲しく惜しいが、すぐ隣が万満寺だった事を思えば、よくぞ類焼せずに済んだなぁ〜(A*。*)=3、という思いも、同時にこみあげて来る。

さて、王子神社についてだが……。

建永6年(1306)に千葉氏一門菩提として開山建立。
馬橋一帯は砂丘水が乏しいため、諏訪明神を勧請し、寺領の鎮守としたという。
文明年間(1469〜1487)、王子から王子権現を移し、天文6年(1537)に王子権現社になる。
明治6年(1873)に萬満寺と分離した後は、大正11年(1922)に村社となる。
境内には、神木・庚申塔・石祠・江戸初期の道祖神などが祀られている。

千葉氏の歴史で言うと……、

千葉頼胤┬宗胤(九州)┌ 一胤(早逝)    ┌胤直−胤宣(滅亡)
      └胤宗−貞胤┴氏胤−満胤┬兼胤┴胤賢−自胤(武蔵)
                        └馬加康胤……孝胤(房総→佐倉)

建永6年については、貞胤(1291〜1351)はまだ年少なので、胤宗(1268〜1312)の主導期だろうが、その6年後に胤宗は死去し、21歳で代替わりした貞胤だったが、1333年で鎌倉幕府は崩壊。以後、南北朝時代に入ることになる。(千葉氏は新田氏との縁から、はじめ南朝だが途中から北朝)

文明年間に関しては、千葉氏が関与してるとすれば、直系(自胤)は武蔵に行ってしまってるので、その頃よく名を表す、佐倉系の千葉孝胤かなぁ〜という気もする一方、その頃のこの辺って、享徳の大乱の真っ最中だなーという気もする(笑)。

ここでも、最初(鎌倉末)は諏訪明神だったのが、あとで(室町期)王子権現になってるのはなぜだーという疑問が浮かぶ(^_^;)。。

ちなみに祭神は、幸江序(さちえわけ)命、市杵島姫命、猿田彦命
はじめの神様は聞いた事がない(^_^;)。。そして検索すると、この神社しか出てこない。
王子権現を、熊野権現と関係が深いとする神社もあるにはあるが……。

ところで最初の頃、馬橋砂丘だったという話と、そのすぐ近くで、大雨が降ると橋が流された話を結びつけると、何だかスゴイ土壌だったんだなー(というか浜辺だよね、それ)という気がする(^_^;)。。

諏訪明神は、明治にクソうるさい事言われるようになってからは、古事記の建御名方神に決まり!となったが、それより前は、神道集に出て来る蛇神を祀る向きも濃厚だったと聞く。

この神社が、祭神を「建御名方神」とはせずに、「諏訪明神は水神だから勧請した(^O^)」と伝えてる事で、逆に創建期を鎌倉末とする信ぴょう性が強くなってる気がした。



<閑話休題〜松戸の城跡と怪談伝承>

萬満寺で「後回し( ^O^)//」にした、馬橋と松戸の大蛇伝説について……。

日本に大蛇はいなかっただろうが、武蔵との国境にあって、川は無数にあるから、大蛇や弁天の伝説があるのは理解しやすい。

ただ、ちょっと細かい事を言うと、万満寺の大蛇伝説には「江戸川」とあるが、実は江戸川地図)はやや遠い。
義真の白蛇伝説にある坂川地図)だと近いが、今近くに流れるのは川から引いた用水路(地図)かもしれない(^_^;)。一番近い新坂川地図)も、名前から言って最近ひいたのかもしれないし(笑)。

ま、細かい事は置いといて( ^O^)//
松戸〜馬橋〜さらに北の北小金までの区間は、戦国期、高城氏の領域であった。
山城と言うほど高くはないが、やや小高い丘の上に城あるいは拠点が点在していた。
高城氏の一族であったり、その家来筋の勢力が押さえていたと思われる。

それらはすべて、小田原征伐以降(1590〜)は徳川氏の領地となり、城らしきは廃城され、江戸時代を通じて何か新たに作られた形跡もない。

今言いたいのは、どうもそういう区間、川沿いの丘陵などあった辺り、なぜか怪談が多いな〜という事(^_^;)。
高城氏に限らず、相馬氏の跡地なんかもそうかもしれない。

理由の一つは、江戸期、本当に怪談が大流行したからだと思う(爆)
しかし、それを支える素地もあったんだろう。

JR常磐線の松戸駅と馬橋駅の間には、北松戸駅があり、そこからやや馬橋駅寄りに龍善寺(地図)がある。
寺の裏手には、昔「雷(いかずち)山」があったといわれ、山から夜な夜な、真っ赤な袴をはいた「官女の化け物」が出て、人々を驚かせた。
この山を所有した家は必ず潰れた、……という伝説を前に紹介した。

戦国期の領主の跡地に怪談と言うと、落城悲話や、合戦やら一族内紛やら、虐殺や処刑などによる幽霊話や怨霊を想像しがちだが、私が言いたいのは、そのような「隠された史実」的なモノではない(^_^;)。

高城氏自身は、元の大名を保つには至らないながらも、それなり武家をまっとうしたようだし、その下にあった多くは帰農するなりしていったと思う。

しかし、後に残された山や川には、かつて神霊を祀ったり先祖を供養した痕跡があっただろう。
そういう場所に対する遠慮のような、遠慮を言い訳にして部外者の侵入を拒む心境が、そのような怪談を生み出すのかなーと思った。(そして子供の躾にも有効なので継続される:笑)

それは、何もないよりあった方がいいのだろう。
何か「犯すべからざる領域らしき」があって、後世に生きる者が「守るべきものを持っている」と思って生きる方が、本当にいつの間にか守られてる「何か」が残りそうに思えるからだ。



次回は、4月が相変わらずユルユル花見モードなんだが、5〜7月というのがまた忙しく、わりとパパッと飛ばすかもしれない(^_^;)。。
なので、4月で終わるか、5〜7月のどっかまで行けるか微妙。

例によって、関連事項のリンクは後日に回すけど……。
ここんとこ、リンク貼りをサボッててスイマセンm(__)m。
辛うじて4月のを、今月(9月)に入ってから貼りました。
その後、6月・8月・そして今月と、なるべく近いうちに追いついて貼りたいと思う!

2017年09月22日

<つづく>
 
     




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