<2013年・城主のたわごと8月>




2012年11月群馬レポF4日目は日光からお届け!!

「日光山縁起」を現地から再び(^。^)。あとは近隣日常編です〜☆ミ




     
  5月号・6月号と月越えの回を出したが、このほど一ヶ月分を飛ばす事に決めた(^_^;)。
そもそも遅れの出た「5月」を欠番にすべきだが、そこまで遡るとなると、htmファイル(アドレス)ごと変更となるわけで、もう既にリンクも貼ってて何かと厄介なので、アドレス的には「07.htm」(7月号)を欠番とし、前二回分「6(5)月」「7(6)月」の名称は、そのまま保持・続行とさせて貰い、今回を「8月号」とする。

あと……今回から、ブラウザが著しく変わってしまい、この「たわごと」のテーブルと文字のフォントの見え方が全く違って見える(・・;)。。

ちょうどパソコンが不具合になった頃からだが、不具合の出てないパソコンからも前と違って見えてるので、パソコンの問題でなく、ウィンドウズのアップデートあたりが原因か……(-_-;)。。

いつもテーブル内にあうよう字数など揃えてるんだが、無論それは他の人が他のブラウザで見れば、見え方が違ってるはずだ。

が、少なくても自分の使用ブラウザの限りではこのサイズ……という法則に従ってたのが、今回からは、その狭義においてさえ統一性が取れなくなった(-_-;)。。

まぁパッと見としては凄く大きな問題ではなかろう(^_^;)。
ブログやら日記やらの仕様だったら、そもそもそんな細かい点まで自分の思い通りには出来ないものだ。

ただ正直、私は他人の仕立てた仕様(ブログだのSNSだの)に無理やり従わされるのは嫌だ(^_^;)。
みんなよくそれで我慢できるな、と思ってきた(笑)。
しかしついに自分で作ったサイトでさえ、自己の管理が及ばないようになった。残念至極である。



さて、今回は「上下毛編」の第七弾、いよいよ最終回となる(^^)。

……と言っても、既に前回で話は終わっている(^^ゞ。
今回はひたすら帰路を行くのみながら、この前年の旅行は最後が都会風景で、亭主が残念がったので、今回は爽快な山道ドライブで締めくくろうと、老神温泉から日本ロマンチック街道を栃木県境に向かい、日光を抜けて帰るコースを取っている。

ちなみに前年も、日光の近くを行き来し、南会津を通りながら、「日光山縁起」前半(上の巻)を(舞台が陸奥なので)話した(2012年5月<南会津方面に向かう>内以降)
その次の回では、鬼怒川温泉の渓谷沿い(日光の中禅寺湖がある辺りより東側)を通りながら、後半(下の巻)を話した(2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降)

実は……今回はスイスイとコトが運んで、余裕綽々で7月以内にアップできるだろう、とかタカを括っていた(笑)。
なぜなら今回は、去年出した同じ「日光山縁起」をまた出そうと……つまり手抜きを決め込んでいたからだ(爆)。

手抜きと言っても、ここまでに「神道集」の赤城大明神伊香保大明神の話と、最後には老神温泉神戦伝説もしてきたから、比較して話してみるのもいいと思い、「二年かけて計画してきた」とも言えなくない(^^ゞ。

結局、諸事情により(ご挨拶に書いたから省略するが(^^ゞ)、一月遅らせる事となったが(^_^;)、何しろ今回で「上下毛編」は、めでたく大団円を迎える\(^O^)/!!

その後は、この秋(2012年)は元々旅に出るのが例年より遅かったから、旅行から帰ると秋は瞬く間に終わり、凄く早くクリスマスシーズンを迎える(^_^;)。。
12月に入った辺りで、次回に引き継ごう。



■11月・群馬県片品村〜栃木県日光市
<120号線、丸沼・菅沼・金精峠>


前回の最後は片品(温泉)へ分岐する「尾瀬大橋」(地図A)を左に見ながら、さらに日光へ向かう山道の途中までお届けした。

その続き(^^)。この道の紅葉が何とも素晴らしかった。

まずはこのようにお店(旅館か食事処)の沿道に、人工的に配された並木の紅葉が塗ったかと思うぐらい赤く続く↓
その後も道はウネウネとカーブするたびに、迎える山肌一面、こんなに山が真っ赤になるかと思うぐらい、見事に紅葉しつくした姿を現す→

カーブを曲がって新たな紅葉山を見るたびに、我々夫婦は「おおおお〜!」という歓声を上げ続けた(^^)。

……が、それも120号線が、いよいよ金精峠に向かい上昇していくと、初めに出会う「丸沼」に行き着く前から……

おおっ?
こっ、この白い物は……(・・;)。。

そう、積雪である( ̄▽ ̄;)。。
考えてみれば、11月初旬。例年より一ヶ月以上も遅い旅行だ。雪は降ってて当然なんだが、用意は防寒(衣服)のみで、肝心の車(タイヤ)の装備が全く無い(爆)。

「ほんの少し降ったって感じだね(^_^;)」
「ゆっくり行けば何とか……」

とか言いながら行く程に、丸池(地図B)を通り越し、雪は……

ジンワリ積雪量を増し
上の方はデコレーション状態!

「雪崩はさすがにまだだろうが(・・;)」
「み、道がこの先、凍ってないか」

気になるのはスリップだ。
案の定、しばらく行く内に前後の車は次々とチェーンを巻き始めたが、ウチは通常タイヤのまま通るしかない。。
前年の大遭難に引き続き、この年の旅行もかなりリスキーな雰囲気となっている(汗)。

そんな怖い中を、「日光山縁起」再びを書く!(笑)
お話し=【草木色】/説明など=【海老茶】/旅行レポ=普通【黒】←こんな感じで行こうか(^^ゞ。

@前置き(天地開闢と神降臨、仏教布教)=1
A前半、有宇中将の話=3
B後半、前世譚・蘇生譚・日光と赤城の神戦=2
C後付け(日光山の風水配置、季節ごとの祭礼)=1

だいたいの配分が↑この通り。


落葉した枝の隙間から見える
シッカリ積もった斜面(^_^;)

まず@の「前置」部分は原文がくどいんで、アッサリ目に流すよ(^^ゞ。

〜「日光山縁起)」〜
混沌と固まり漂う状態から、上昇物と下降物で天と地が分かれ、陰陽万物が出来て、陸海の隅々に八百万の神々が行き渡って守った。

三千もの神社が衆生を教化・利益するに巧みな中、特に東山道は下野国の日光山・満願大菩薩は、他に抜きんでて優れていた。
その本地は、西方無量寿仏と観世音菩薩だが、仏の位を辞して、女体男体権現と現われ(太郎を加えて)三山となし、煙と霞を天に、水と石を地に置き、奇木霊樹を並べる様は神仙の仕業か、巌や古石の高く切り立つ様は異人の化身かと間違うほど神秘的だ。

さらに上昇すると
何とゲレンデのような斜面が真っ白!

神の降臨後、仏教は弘仁11年(820)、空海が来て般若理趣教の勤行式を、嘉祥元年(848)には慈覚大師(円仁)が天台宗の円融三諦を広め、顕密ますます盛んとなり、山は二荒と号し、社は三所男体・女体・太郎三権現)に分かち、三才(天地人)を象った。


……仏教が800年代に来たばかりなのに、「ますます盛ん」とか言うのは、「元々居た神が実は仏の化身だった」という「本地垂迹」の考えからだと思う(^^ゞ。

それと、空海の後に円仁とする説は、空海が徳一より前に来たような伝説が、東北の会津地方などでもよく語られているので、そのような空海伝説が既に室町時代には語られていた事がわかる。

もちろん空海については後世付会だろう。事実とは思えない(^_^;)。
が、円仁については、この辺りまでなら来たかもしれないね(^^ゞ。


スキー用リフトが見える(^_^;)
さらに金精峠を目指して山越え

ところで、神々のいた頃の由緒などについては、伝えを書き記した物もなく、故郷の景色をしのぶにも、僅かに里の老人たちが語り草としている「有宇中将の御後身なり」という、一巻の縁起があるだけだ。
この話は、聖武天皇の(奈良)時代、神亀5年(728)から始まる。


「聖武天皇時代(の西暦728年)」については、2012年6月<宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内にも書いた通り、やはり平安末ごろがモデルの時代じゃないかと(^^ゞ。
今回数度にわたって取り上げた、「神道集」でも、何となく同じ空気を感じている事は既に書いた。


わが(日光の)神は、その後は朝廷に仕えず、どう官位についたかわからないが、弘仁7年(816)に勝道上人に対し、三所権現が「自分はこの山に2080余年歳いる」と答えている。神武天皇から弘仁7年(816)までは1700余年ある(計算すると1476年しか無いそうだが:笑)残りの300余歳は、地神・第五ウガ草葺不合尊の時代の終わりが相当する。

この辺りから脱字や意味不明の言葉、複数通りに読める漢字など相次いで、意味が不明朗ぎみ(^_^;)。
だいたい、弘法大師の碑文の話など出て、上古においても由来が既にわからなかった事、「国つ神」の末孫に「二荒の尊」がいたという説があるらしい事、後に中将が高い官位を得る事がわかっていたので、名を出したとか、あえて隠したとか、神となってから示したとかいう話があって、最後に、この縁起書物には絵がついていた事が記されているようだ(絵巻物だったんだろうね(^^ゞ)。


前後の車は次々とチェーン装備を開始したが
ウチと前の車だけは装備せず徐行を続行

通行量は多いと見えて、幸い、道路に雪が深く被ってる箇所は無く(あってもシャリシャリ言う程度)、かと言って渋滞する事も無く、次々と難所を通り過ぎていくようだった(^_^A)。

続けてA「有宇中将」の話に入る(^^)。ここからはわりと詳しく行こう。

都に有宇(ありう)中将という、才芸に優れた殿上人(公家)がいた。誰よりも忠勤で、帝(みかど)の重用ぶりにおいても、並ぶ人がいなかった。

ところが中将は鷹(鷹狩)が好きで、春は朝に弓をひくと、落ちた雉を探して終日を過ごし、秋も鷹狩の野遊びに行くため、花を詠う催しや月夜の管弦詩歌の宴などには、宮廷にも帝の前にも現われない。


律令は悪い事は懲らしめ、良い事を促すものなので、ついに帝の怒りに触れた。
中将は「毎夜のお勤めに出ないと罪となる。帝も社会も恨むわけにいかない。が、(昼の)野遊をやめては、鷹も犬も志が果たせず、不憫だ」と、野山にその姿を隠そうと、の「青鹿毛」、の「雲上」、の「阿久多丸」たちと共に涙を流しながら、一人の供も連れず、都を去った。

馬に任せる内に、七日で東山道、下野国の二荒山に着いた。あちこちに川があり、深い水だったが、川端に山菅の繁る所があったので、向こう岸に渡って一夜を過ごした。
(後半部に「(勝道)上人が教えに沿って蛇橋を渡ると、橋の上に山菅が生じたので、山菅橋と名付けた」とする史料もある)

いつもは一瞬で通り過ぎる「菅沼」(地図C)も、この日はゆっくり撮影(^^)v☆ミ

明けて又馬で進むと、また川があり、山菅の橋を渡り、「しめぢが原」(下野国の都賀郡・原野)の朝露に袂を濡らし、那須の「しの原」(那須郡の広大な野原)、「白川の関」を越え(て陸奥の国に入り)、「安積の沼」の水草を過ぎ、「かつみぬかた(水草の彼方?)」に旅して3日目(「陸奥国の小野郷」とする資料もある)に、門構えや家の造りが立派な、由緒ありげな館に着いた。

館の門前の小さな農家に宿を借り、2〜3日滞在して、主婦にいかなる者の館か尋ねると、「あさ(朝)日長者という、陸奥では隠れも無い有名なお方です」と答えた。
宮仕えの事など尋ねると、「公達はおられませんが、十四歳になる姫君が一人おられます」という。

菅沼(地図C)は横に長く、二つの湖が繋がっている

中将は姫君に恋文を届けさせた。長者夫婦は、中将を「ただ者ではない」と見立て、姫君にも伝えた。
文「をとにきくあさ日の影をいかにして、袖にうつさん雲の上人」

姫君は頬を染め、母上はその様子を長者に伝え、長者は中将を館に招き入れると、その立派な姿に感心し、山幸彦が兄に借りた釣り針を探しに海底を尋ね、海神の娘・豊玉姫を妻とした例のようだと喜び、西に部屋を造り、中将を迎えた。

若夫婦の仲は深まり、長者は自分の姫は高官の妻となったのかもしれないと、大望が最後まで成就する事を祈った。

いかにも冬将軍が来てる、といった空
六年が経った。都では有宇中将が姿を消したので、中将の両親の嘆きが深く、帝もご自分のたった一度の勘気が、ここまで長く尾を引く事に驚き、国々に勅使を出して探した。

中将の方でも昼寝の夢に、荻薄の生い茂る野原を、薄絹の裾を露に濡らす女が一人で立つ姿を見て、いたわろうとよく見ると、自分の母が自分を見て、袖をしぼりながら「都に捨て置かれた嘆きで、月日も忘れ、六年。子を思うあまり、私は死んでしまった」と恨めしげに言う。

目が覚めると中将は、「都へ帰らなくては」と思った。
(朝日長者の)姫君はお供を申し出たが断られ、道中の供をつけようとしても、中将は「出て来た時も、馬と犬と鷹のみだったから」と断る。
その代わり「はなだの帯」を互いに交換して、「別れる事があれば解けるだろう」と契りを交わした。

辺りはまさに銀世界(#^.^#)。菅沼(地図C)を過ぎると、そろそろ金精峠(地図D

朝日の君(朝日長者の姫君)は、「途中、つまさか川の水を飲むと、二度と妻に会えないといわれているので、絶対に飲まないでください」と言った。

しかし中将が「つまさか川」に出会った時は、一日じゅう歩いた喉の渇きで、水を見るや飲みたくて溜まらなくなり、教えを思い出し辛抱して渡ったが、命も絶えそうに思え、力無く川の水を飲んでしまう。
するとその後は病となり、川に近い野辺に倒れ、五日も臥せてしまった。

金精峠を越えた頃見える湯ノ湖地図E
(←拡大)

↑眺めは抜群の絶景なんだが、登り一方だった道が、今度は下りも出て来て、しかもかなりの坂なので、ちょっとでもスリップしたら、崖下に突っ込んでいきそうで、随分ビクビクしながらここを通っている(^_^;)。。

中将は馬に向かって、「自分の命は長くないだろう。心静かになれる所に、急いで連れて行け」と言った。
馬ははじめ一夜を過ごした東山道の山中(たぶん二荒山)に連れて行く。

中将はそこで母に文で「夢でお会いして、急いで都に行く途中、朽ち果てようとしてます。来世必ずお会いしましょう」と心細い事を書いて、馬の鞍に結ぶと、馬は涙を流しながら都に急いだ。
朝日の姫君にも「契をきしつまさか川の水ゆへに、露のいのちとなりにけるかな」と書き、鷹に届けさせた。

金精峠の周囲は、白根山・五色山・温泉ヶ岳と高山がひしめきあう山岳地帯

その頃、姫君は契りを交わした「はなだの帯」が解けてしまったのを見て、夜陰にまぎれて外に出、七日目に「妻離川」に着くと、鷹が飛んで来て御文を落とした。
姫君は読んで、返事を、「むすびをきしはなだの帯をしるべにて、わかれし君を尋てぞゆく」と詠い、「自分より先に早く届けて」と鷹に飛ばせた。.

都では、中将の母は亡くなってしまい、七日間の仏事をしていると、中将の馬が内庭に駆け入る。
人々の見知っている馬だったので、大将殿(中将の父)が鞍の文を見付けて読んだ。
妻(中将の母)との別れに、さらに(息子の死という)嘆きが加わった。

下る道から高所を走る車両が見えると、改めて怖さ倍増(((( ;゚Д゚)))

有宇中将の弟、有成の少将は父の大将に暇乞いをし、馬(青鹿毛)に乗って行くに任せると、深い山道に入った先で、兄の中将は亡くなっていた。

「尋ねこん人にあふせを待かねて、むなしくならんことをこそおもへ」
かたわらに姫君の返事がある。

有成の少将は、自分と同じ嘆きを抱える人と、せめて思い出を語り慰め会おう、(朝日の君を)迎えに行こうと思い、慣れぬ旅に涙や露に濡れながら、青鹿毛の知る道を行き、「妻離川」で姫君に出会った。
少将は中将の弟だと名乗り、これまでの事情を話し、「今一度、中将に会わせよう」と姫を馬に乗せ、旅を重ねた。これにより妻離川を、「あふくま(阿武隈)川」と呼ぶようになった。

ここまでが「上巻」(^^ゞ。



<湯ノ湖〜戦場ヶ原>

ウネウネと激しく蛇行する山間道を抜けると、再び湯ノ湖が臨め、その上空には、日光特有の光さんざめく白雲海が幾重にもたなびいて出迎えてくれる。

この湯ノ湖は初めはこのように遠くに見えるが、その後、スグ近くを通れる。
その辺りまで来るともう積雪は無くなり、ようやく緊張感から解放された(^_^A)。

「日光山縁起」も、以後は「下巻」に入る。
BもA同様、物語の骨子なので詳しめに(^^ゞ。


〜日光山縁起(下)〜
有宇中将は死後、閻魔王宮で、門外に朝日の姫を見て、互いに涙を流した。
その思いが庁中に満ちて、第三の倶生神が「二人の女は非業の死なので、娑婆に返すが、有宇中将は定業の死な(寿命が尽きている)ので、浄玻璃の鏡によって善悪を知るべし」(という)。鏡を見ると、業因のがれはないが、過去の宿願によって無間の苦しみからは覗かれる事がわかった。

湯ノ湖地図Eに到着。雪はもう無い(^_^A)

(倶生神の鏡の示唆によると)有宇中将は前世、二荒山の猟師で、鹿を狩るために山に入り、母は彼を養うため山に入って薪や木の実を拾ったが、寒さを防ぐため鹿の皮を着て、木の下草が深い所にいた。そこを息子の彼が、鹿と見誤って(母を)弓で射てしまう。

「母子ともに貧しさのために、こんな事になった」と嘆くと、母は「自分は老いて命は惜しくないが、お前が五逆罪(君子・父・母・祖父・祖母を殺す罪。極刑になった)になる事がいたわしい」と言って息絶えた。

湯ノ湖を通り過ぎて……
綺麗な紅葉の林を進む(^^)

前世、二荒山の漁師だった有宇中将も、こんな森で鹿や木の実を獲っていたのかな。

「猟師は死苦は受けても、貧苦は受けるべきでない。願わくば自分はこの山の神となり、何度も生まれ変わり、貧窮者を助ける事を願とする。急ぎ娑婆に返し、この願を果たさせよ」と閻魔王に言い、蘇生した。
猟師は有宇中将に、母は青鹿毛)に生まれた。雲上)は子で、阿久多)は妻だった。

白樺の自生するカラッと乾いた高原道
こたつ亭主の大好きな戦場ヶ原(^^)

中将が(今回もまた)蘇生した後、朝日の(姫)君は懐妊、馬頭御前(二荒山神伝では「馬王」)を生んだ。青鹿毛(馬)の生まれ変わりだった。

(有宇)中将は上洛し、次第に昇進して大将となった。東八ヶ国(関東八ヶ国=上野・下野・常陸・下総・上総・武蔵・相模・安房)と陸奥まで届き、陸奥はあさ日の(姫)君の御父(あさ日)長者に束ねさせた。

白樺の林が続く道の左が男体山、右が小田代原↓

馬頭殿(馬頭御前)は七歳で都に上り、帝の御目にかけ、十五歳で少将、程なく中納言になった。
中納言(の馬頭御前)が都から下向し、朝日長者殿の所に行った時、一夜召した女が男子を生んだ。三歳で父(の馬頭御前)に会ったが、見ると、容姿が醜いので、都に上らせず、奥州の小野という所に住む事となった。
小野猿丸といい、弓箭を取ると人に優れた。百発百中、空とぶ鳥、地を走る獣、捕り漏れる事は無かった。


「小野猿丸」は狩猟民の間で英雄と伝説された人物。
百人一首の歌人「猿丸大夫」は実在不詳であるが、これも、百人一首の成立期の歌壇で著名な宇都宮氏が関連するのでは……という事を以前書いた(2012年6月<宇都宮二荒山神社>内

また、前回まで何度か登場の「神道集」(南北朝成立)に、「小野猿丸」の名の原型といわれる、「ロ奄(←二文字で一文字)佐羅麼」(オンサラマ)が確認できる(2013年4月<二泊目・赤城温泉に到着、赤城山の夜>内<3日目・赤城山の朝>内/6(5)月<赤城山から上泉へ>内/7(6)月<日本ロマンチック街道@高平〜追貝>内


左に男体山を見ながら進み……
三本杉のドライブインに到着

ちょうど小野猿丸が登場した所で着いた(^^ゞ。
このドライブイン、現在の地図では、男体山に向かって(道路の左側に向かって)左から「お食事売店・竜胆」「三本松茶屋」「レストハウス郭公」の三店舗が確認できる(地図Fヤフー)。

このうち……、一番左の「竜胆」だったか、前は確か「梅宮辰夫の漬け物店」だったと思う(^^ゞ。
ネット上では、「無くなった」という話を散見する。

この時も、漬け物などの商品は置かれてたかもしれないが、前見たほど大々的に宣伝とかしてなくて、前は確かあった梅宮辰夫の等身大看板などは見なかった(^_^;)。

「じゃ、もう無くなってるかな〜(^_^;)」と、寂しく思いながら入ったところ……、

日光山縁起小野猿丸ムカデの目を射抜く場面の屏風(パノラマ縦3枚)

↑これだけはあった(^O^)!

屏風絵で、現物はジグザグ状に四枚が折れ曲げられながら立っているから、縦横比と言い、光や色の加減と言い、この通りではないが、何とか使い始めた画像ソフトを駆使して、横一列に整列したらこう見える……という感じに仕立ててみた(^_^;)。
店の奥にポンと置いてあって、写真は撮り放題なんだが、何となくこれまでは控えていた。

が、先に書いた店の事情など考えると、この先いつまで見れるか不安に思え(^_^;)、あと、この「神戦」の話を最初に日光で見たのがこの屏風絵で、以来、東北から関東のあらゆる所で、猿丸磐司磐三郎(猿丸の子ともいう)の話を知るたびに、神戦の様子がこの絵とともに脳裏を巡った。
この話は、あまり絵画として見た事も無いので、せめて「たわごと」を見て下さる少数の方とイメージ共有できればと(^^ゞ。

ネット検索すると作者の大西長利さんHPブログツイッター)は、印旛沼(印西)にお住まいのようだ。近い(゚.゚)。「漆絵」という技法のようだ。

この場面をこれから語ろう(^O^)!

ドライブインの共同駐車場から
さっきまでいた金精峠の方を見ると……

←(中央部拡大)
手前の明るく陽光を浴びてる林とは対照的に、ドーン!と寒そうな気配が濃厚(*o*)。。

「ついさっきまであっちに居たんだよね〜」
「ねー!信じられないよね〜(>_<)」
店内で一休みした後、土産を買いがてら店の人に聞いた所、初積雪みたいな感じでもなかった。さすがは日光(笑)。
でも長居する客が多く、みんな休養を取りたがってる感じもした。

帰宅すると、この日は万里の長城ツアー客の遭難事故も報道され、例年より早い大雪到来ではあったのだろう。

もっとも観光客が疲れた感じに見えたのは、急な緊張を強いられた事もあるかもしれないが、祝祭日の影響もあるかも(^^ゞ。この後、夜にかけてスゴイ渋滞に出合ったから(笑)。

我々も休みがてら、土産屋などの建物の裏で男体山を眺めた(^^)。

高い男体山と広い林を前に「三本杉」と看板が立っている(パノラマ4枚180度以上)

「日光山縁起」の続きに戻ろう。

ここで注目なのは↓


有宇中将が大将になって程なく、神とあらわれて、下野国の鎮守(地域や城館・荘園を守護する神)となった。

↑イキナリこうなるんだね(^_^;)。神になっちゃう。。
こういう、いつの間にか神になったり、死後いきなり神として登場する展開、「神道集」にも無くは無いけど、一応死期について書かれた後に来るのに対し、この有宇中将については丸々カットである(^_^;)。。

恐らく再生した後、帝に奉公し直して出世の道を取り戻し、最期は大往生という事なんだろうと推測しておくね(^^ゞ。


←三本杉から見える、日光男体山の威容

上野国赤城大明神と湖水中禅寺湖であるらしい・地図Gの境を争って、たびたび神軍(いくさ)をしたが、簡単に決着せぬ大儀なので、鹿嶋大明神(常陸国一の宮)に頼んで、軍(いくさ)評定をした。
日光権現が鹿嶋大明神に相談すると、鹿嶋大明神は「奥州の御孫、猿丸大夫は立派な弓取りだ。彼に頼んで、本意を遂げられるべきだ」と助言した。

古文の多くの例の如く、主語がイキナリ変わったり、無くなったりするが、鹿嶋大明神に「御孫、猿丸」と言われているからには、「有宇中将=(→)日光権現」なのだろう(^_^;)。。

そこで、女体権現(日光三所権現の一神)は、背中に金の星が三ある鹿に変身し、みちのくあつかし(阿津賀志・厚樫・熱借)山へ行く。猿丸大夫は珍しい鹿を見付けたと、山々を追いながら日光山まで入る。

これまた、イキナリ名が出て来る「女体権現」だが(^_^;)、前後の文脈から、「朝日の姫君」も神上がりして権現となったのだろう、と受け取られている。
また、日光の原始宗教は女神信仰だったのが、後に男体信仰や三所信仰に転じたとも言われている。


さらに、「あつかし山」は、阿津賀志・厚樫・熱借など様々に漢字を充てるが、前に行った、奥州藤原氏と頼朝の鎌倉軍の合戦が行われた場所(2009年4月<阿津賀志山防塁>地図H

三本杉から一度、道路を渡って
向かいの敷地に入ると……

やがて拓けた一帯に出る(パノラマ縦3枚ほぼ180度)

この眺めが、いわゆる「戦場ヶ原」として紹介される所かな(^^ゞ。

と言っても、戦場ヶ原という名のつく土地は、ここも含めて、山の中の広い平野部全体と思われるが、中でもここは湿原であるらしく、 辺り一面、樹木も生えてないので、遠くの山々を背景に、目前に拓けた平原が見られ、いかにも合戦でも行われそうに見える場所だ。

では、いよいよ「神戦」のはじまり、はじまり〜(^O^)!

後ろを振り返ると、今渡った道路の向こうに男体山(パノラマ5枚180度以上)

(女体)権現は猿丸を誘き入れると鹿の姿を消し、権現として現われ、猿丸に「ここに退き入れるため鹿になっていたが、自分は満願権現だ。この山は疎かに思うな。深く頼む事は、上野国赤城大明神が、我が国の海山(海は湖水の事で中禅寺湖を指す。山はその付近の山)を奪おうとして、何度も戦い合っているが勝負がつかない。お前は天下無双の弓とりと評判なので、力を合わせて本意を遂げよう」
(猿丸は)易々と了承。三所権現は笑みを含ませ、合戦は明日の午の時と定めた。


ちなみに今、すぐ後方に見える、この男体山は、日光権現(すなわち有宇中将)で、女体権現は、その奥(裏)の「女峰山」というのが相当するかと(^^ゞ。(地図I←中心点が戦場ヶ原、その右に男体山・大真名子山・女峰山と並ぶ)


一方、今「戦場ヶ原」として見ているこの平野部(地図J)は、地名としては「小田代原」と呼ばれる一帯かと。
そしてその奥に見える山々だが、この方角で高い山は、笠ヶ岳、錫ヶ岳、大岳などがあるが、ここから見えるのか、またどう見えるのか知らない(^_^;)。
背に控えるのは、男体山に間違いないが↓

男体山アップ。周りの木々は白樺かな(パノラマ2枚)

味方の神兵は雲霞のごとく飛び出て、おのおの軍の内談はまちまちだった。その中に猿丸大夫がたのみ入る。
猿丸大夫は、ふし柴の茂みの中に櫓して、敵は今かと待つ。
やがて空はかき曇り、山風しきりに草木をなびかせ、海上(湖上)に白波が立ち渡る。猿丸は弓の絃を口にくわえて濡らし、そぞろ引いて待つ。



<赤沼〜中禅寺湖(菖蒲ヶ浜)>

戦場ヶ原の三本杉からほど近い「赤沼茶屋」(地図K)に移動してみる。

←その途中から見た、戦場ヶ原(湿地帯)

敵とおぼしきは海面(湖面)に浮かび出た。両眼が鏡を並べるようで、足の数は多く、百千の火をともしたよう。
権現は大蛇の躰になっている。敵味方のどよめき声が山岳に響き渡る。雲の上は海の底まで雷鳴が轟き、稲妻が閃いて、真に耳目を驚かせる。

この空・山・風・波・雷の様相、敵の現われ方、無数の眼や足の並ぶ描写、まるきり怪獣映画ジャン(・・;)……と驚くんだよね。。

「日光山縁起」にある日光権現は、この通り大蛇……つまる所は龍神である。
塩原から南会津にかけた地域に龍神の伝承がある事、鬼怒川に沿って南下するルートも、龍の踊る姿に比して「龍王峡」(地図L)と呼ばれる事は前にも述べた。


敵は百足(むかで)だ。輝くのは眼と見定めると、三人張の強弓に十五束の中ざし矢を取って、引っ張ってしばらく溜め置き、ヒョウと放つ。

三本杉の店の屏風絵・再び(パノラマ縦4枚)

鏑は海上(湖上)にひらめき渡り、百足の左の眼に深く突き立った。
重症を負わされ(た百足は)とても適わず、引き退いた。

弓の弦を口(唾)で濡らしたり、味方が大蛇(龍神)、敵がムカデ(百足)という設定は、同じ室町時代成立の『俵藤太物語絵巻』の「俵藤太(藤原秀郷)」とよく似ている(^_^;)。
これも今回の旅行で、赤城山中腹の赤城山神社で述べた→(2013年6(5)月<赤城山中腹「三夜沢赤城神社」>内
ちなみに、日光と同じ下野国には、足利(藤姓)、小山、佐野など、藤原秀郷の子孫が大変多い。


また、この屏風絵の傍のレジの上には、額縁入りの清書でこう書かれている↓。

戦場ヶ原における神戦(かみいくさ)
二荒山神社に伝えられる古事によると 東山道下野国 二荒山の神(男体権現)が領有する中禅寺湖を巡り赤城山の神と神戦をしたという説話が鎌倉時代の頃から伝わる 二荒山神社に現存する縁起は巻子本の絵巻上巻のみであるが室町時代にこれを模写した日光山並当社縁起と題する上下二巻の大和風の絵巻物が愛媛県大洲市の宇都宮神社に現存し神戦図は下巻に載っている
この神社は二荒山の神をまつった社であり日光山縁起は同社の社宝になっている。下野国出身の宇都宮氏にとって日光山縁起は宝物であった
 下野宇都宮城主 宇都宮薩摩守豊房 元徳二年(1330)3月 下野国より伊予国守護に転封、第十六代宇都宮城主 宇都宮右馬頭正綱、日光山縁起 文明(1477)正月11日奥書 9月9日奉納 能範書之
本国は下巻より 二荒山の神が海山を守らんがため 后神である滝尾神社の神が金の星のある鹿に化身して 岩代国(福島県)と陸奥国(宮城県)の境にある熱借山で狩をしている弓の名人で男体権現の孫にあたる小野猿丸大夫を迎えに行き 加勢を求めた そして二荒山の神は大蛇に、赤城山の神は大百足に化身して戦い猿丸の豪弓の前に大百足は敗退し権現宿意をとげ敵を滅した 以来 二荒の神は宿意が叶い願い事が満たされるとして参拝客が遠路からも多く二荒山神社の繁栄を今にしているのである
 資料提供 二荒山神社
 参考文献 愛媛県大洲市 宇都宮神社 社宝 日光山並当社縁起
 漆画製作 東京芸術大学教授 大西長利
 企画 有限会社 クロサキ工芸 代表取締役 黒崎啓弘

赤沼茶屋」に到着(パノラマ3枚ほぼ180度)

ここ「赤沼茶屋」に何か案内などがあったわけじゃないが(もう閉まっていたし)、大ムカデの流した血が溜まった、と伝えられる地名が「赤沼」なので、その地名を冠する茶屋に寄ってみた(^^ゞ→地図Kヤフー

以下は、伝承からついたとされる地名を地図から探してみた(^^)↓

合戦が行われたと伝えられる「戦場ヶ原」→地図M
大ムカデの流した血が溜まった、と伝えられる「赤沼」→地図Kヤフー

ここまで既に来たね(^^)。この後も……↓

勝負が決した、と伝えられる「菖蒲ヶ浜」→地図N
勝利を祝い、歌い踊った、と伝えられる「歌ヶ浜」→地図Oヤフー

に向かおう。

さらに南下すると……
中禅寺湖に達する

権現は猿丸が敵を打ち果たした忠節に感じ入り、「お前の弓箭の力で我が宿意を遂げて敵を滅ぼし、国を取った。お前はそもそもわが孫。今からこの国をお前に譲ろう。わが子・太郎大明神(馬頭御前)と共に、この麓の一切の衆生を利益せよ。お前をこの山の神主とする」といったので、猿丸は喜び、諸神も喜んで、舞い踊り歌を唄った。それで湖の南の川原を「うたの浜歌ヶ浜)」という。


これより、その「歌ヶ浜」とおぼしき所に向かうが、その途中、「勝負が決した」と伝えられる「菖蒲ヶ浜」にも寄って行こう(^^ゞ。

ここが「菖蒲ヶ浜」(地図N(パノラマ4枚180度以上)

どうもキャンプ地であるらしく、「菖蒲ヶ浜」と地名を示す看板はあるものの、「猿丸が大ムカデと戦って勝負した地」などという説明は無論ナイ(^_^;)ゞ。

この「日光山縁起」の「神戦」の事を、日光で見られる場所と言えば、私の知る限り、さっきのドライブイン(元漬け物店)ぐらいだ(笑)。

ボートでもつけるのか桟橋が長く尾をひく(パノラマ4枚180度以上)

三の嶽より紫の雲が立ち降りて、湖水の上に五色の波がたち、異香風が薫じた。怪しい雲の中より、一羽の鶴が飛び下る。左の羽の上には左に馬頭観音、右は勢至菩薩、鶴は女人の姿に変じて猿丸に告げた。「馬頭観音は太郎大明神、勢至菩薩は猿丸の本地である。お前は恩の森(小野の森?)の神となって、衆生を導け」と言って消えた。

↓ネッシー出る?(特定世代の連想:笑)
120号線に戻ると鳥居と祠が→

ちょうど菖蒲ヶ浜で中禅寺湖に近寄る道があるので、湖に面して神様を祀っているのだろう。
……やっぱ龍神かな(^_^;)。

権現は、下野国では日光三所、常陸国では鹿嶋大明神として現われた。過去は夫婦だった。人の立派な事を嫉んだり、貧しさを笑う者には利益せず、貧窮孤独な者を憐れむべし、と誓った。
「雲上」(鷹)は、本地が虚空蔵菩薩、「阿久多丸」(犬)は地蔵菩薩、「青鹿毛」(馬)は太郎大明神で、馬頭観音の垂迹。有宇中将は男体権現で、本地は千手観音、朝日の君は女体権現で、阿弥陀如来の化身である。


だいたい、ここまでが後半部のストーリー。この後も後半は続くが、「後書き」と見て、以後Cとして分けてみた(^^ゞ。



<中禅寺湖・東岸(歌ヶ浜)〜帰路>

中禅寺湖は地図で見ても、かなりの大きさの湖である事がわかる。
その北岸を走り抜けると、いよいよ中禅寺、華厳の滝などが近いエリアに入る。

戦場ヶ原から続いた林道を抜け
中禅寺の北岸ルートを走る

中禅寺は湖の東岸にある(地図P)が、今走る北岸の東方よりに「中禅寺温泉」街があって(地図Q)、暮れ時にもネオンが灯され、ちょっと賑わったムードがある。(夜中は真っ暗よ(^_^;))

でも一度も泊まった事がない(^_^;)。
日光は東北に行くルート上より、ちょっと脇に逸れて奥まった所にあるので、東北旅行の行き帰りに一泊という運びにならないし、日光に来るのが目的の時には、日帰りコースで行き来できるからだ(笑)。

このほど、その辺りで大渋滞に遭遇した( ̄▽ ̄;)。。
なので、写真をいっぱい撮ったので、ご紹介。

正面に東岸が近付いて来る
右手には中禅寺湖の夕暮れ

道路の左はお洒落なお店が並ぶ(^^)
正面「立木観音入口」交差点が近付く

この道路の大渋滞は、この先までエンエン続いてるようだったが、我々は「立木観音入口」交差点を右折して、中禅寺湖の東岸に廻ったので(実際そっちにもう1箇所、見学場所があったわけだけど(^^ゞ)、その途端に渋滞から逃がれられた(^_^A)。

ただ大渋滞の内にドップリと日も暮れたので、ようやく右折した後、この先の写真はすっかり暗がりになってしまった(^_^;)。

中禅寺地図P)に到着。道路の右側は中禅寺湖(パノラマ縦3枚)

では、「日光山縁起」の続きを書こう。
話はBまでで終わってるので、Cから「後書き」的に、日光(二荒山神社)の紹介という感じで、ストーリー性は殆ど無い(^^ゞ。


昔、勝道菩薩(勝道上人)は仏法興隆の志あって、当山へ分け入り、岸は高く川は深くて渡れず、祈祷して深砂大王を呼び、「自分は玄奘三蔵のために流砂の難を助け、和尚の志を現す」と、二の竜を結んで投げると、橋となったので、踏み渡った。


この橋は、現在も「日光二荒山神社」の「神橋」(輪王寺の南「大谷川」に架かる・地図R)として観光の名所となっている。
(※また先に述べた通り、前半部で有宇中将が初めて二荒山に来た時、「山菅の繁みを向こう岸に渡った」とするのに対応して、ここを「(勝道)上人が教えに沿って蛇橋を渡ると、橋の上に山菅が生じたので、山菅橋と名付けた」とする史料もある)


その後、一男・太郎大明神は、下野国河内郡の小寺山(現在の宇都宮二荒山神社近くの下宮山)に遷宮し、若補陀落大明神と号し、社壇の南の大道を通る者は下馬の礼をせず、秋毫の誤りがあれば、神が怒り刑罰がある。そこで瑞がきを北の山に遷す。

この「宇都宮二荒山神社」は、日光やここ鬼怒川より、だいぶ東(^^ゞ→地図S

中禅寺、頑張って明るくしてみた。これが限界(^_^;)(パノラマ2枚)

↑この中禅寺は、今言った勝道上人が建立した寺(^^)。日光でも初期の寺院として、また「立木観音」としても有名。
第18番札所・中禅寺「立木観音」@「板東三十三所 観音霊場」公式サイトより

かの二荒山の松ぜんは内宮の儀を隠し、この如意峯の叢祠は外宮(豊受大神)の理をあらわす。内証(内心の悟り)外用(外界での働き)と同じだが、和光同塵(仏が一時的に智を隠して、煩悩の塵に動じて衆生に縁を結ぶ)の本誓において、当社はなお優れている。

境は結界ではないので、五障とされる婦女も足を運び、縁を結び、四重(殺生・窃盗・邪淫・妄語)の悪人もたなごころをあわす。
魚類や鳥類・獣類なども、捕って食う事が却って彼らの救いとなり、菩提の岸に送り届ける。大慈悲の方便は、藍は藍より出て藍より青し。


中世は女人禁制ではなかったという事だろうか(^_^;)。。確か江戸期の日光にも「女人禁制」の歴史があったハズだが、場所によるのかな(^_^;)。。

そして道路の右に中禅寺湖「歌ヶ浜パノラマ5枚180度以上)

いろんな地図を見ると、だいたいこの辺りに「歌ヶ浜」(戦に勝利した猿丸と諸神が喜び、舞い踊った浜)と名称される宿泊施設など見るので、ここを最後の見学所にした(^^ゞ。

承平の将門の乱では、賊の首を伝え、正一位の尊号を贈り、(平将門・安倍貞任・平家一門・藤原泰衡・蒙古など)五ヵ度の征伐に、この神の力が発揮され、代々の聖主、家々の将軍も崇敬した。

五つの征伐戦をカッコ内に記したのは、「宇都宮大明神代々奇形瑞之事」というものに、そうあるらしい(^^ゞ。
この内、二番目以降の安倍氏(前九年の役)・平家・奥州藤原氏の討伐には、多くの武家が「先祖が参戦した」と謳う事が多く、しかも全て清和河内流源氏(源頼義・義家・頼朝)を総大将としている戦いである。

対して、筆頭に「平将門の乱」を上げ、特に、「将門の首」に追加言及してる点は注目される。

」に関わった事は、「将門記」にも「下野の国庁から解文を添えて献上」とあって、平貞盛も秀郷とともに将門を討ったのだが、貞盛は常陸なので、首を扱ったのは「貞盛ではなく、秀郷の手配」という事がわかる。

下野は藤原秀郷の後裔らの多く割拠した地域で、長くこの勲功を誇りとしてきた事が伺える。

中禅寺湖の南岸から西岸に夜雲が長くたなびく(パノラマ縦5枚)

↑どうもこの雲が、龍と言うより、戦いに負けたムカデが上野国に帰っていく姿に見える(^_^;)。
龍を象る雲って、上に登って行くとか左右にくねってるイメージがあるけど、この雲は上下左右せず、ゾワゾワと百本の足で真っすぐ這っていく感じがするんだよね(^_^;)。

社壇は四神相応、青竜を川東に、白虎を道西、前に池水を深く湛え、神竜あざとを九淵の底に隠し、後ろには山巌高くそそり立ち、霊亀の形を一嶽にあらわし、地景は非常に優れ、祭礼の霊験もあらたかだ。

春渡冬渡の祭礼は、公家の勅願で始まり、3月は稚児による延年舞、5月の会式も、武将の祈念から始まった。重陽宴の菊水は、神前の水に浮かび、秋山飾り(大湯神事)の紅葉は、質素な供物の細やかさを象り、吾田屋もりのなる子(鳴子)の綱は、長く天の邑併せ田(日本書紀神代)の昔の跡をしのび、御狩司の鈴倉のかがり火の影は、ほのかに卜部かたやきのふるい言葉を残す。


以上で「日光山縁起(下)」を終わる。 お疲れ>( ^^) _旦~~

渋滞はツイッターでも伺え、渋滞が解消されるのを、夜の中禅寺湖に近い大型駐車場で一眠りして待った。

湖の東岸は、高級ホテルが立ち並び、夜もちょっとリッチな雰囲気(^^)。

以上、「上下毛編」を、7回に亘ってお届けして来た。

この旅行は、上州(上野国=群馬県)を南から北へ巡った。
レポでは、赤城山南麓(大胡)において、庶民に布教された唱導文学「神道集」から、上州を舞台にした物語「赤城大明神の事」と、その末妹の物語「伊香保大明神の事」を紹介してきた。

前者は継母との確執に端を発し、龍神の後継として湖に祀られる女神の物語、後者は伊香保温泉が生まれる縁起に仕立てられていた。

後者からは、物語より前時代の話(本筋の枝葉)として、赤城沼竜神・「ロ奄 佐羅摩女(オンサラマニョ)」と伊香保沼竜神・「吠尺羅摩女(ベイシラマニョ)」が沼争いをした話が見付かった。
(2013年7(6)月<日本ロマンチック街道@高平〜追貝>内

ただ、上州で美女に姿を借りた龍神「ロ奄 佐羅摩」は、日光では現地妻に生ませた容姿の醜い「小野猿丸」なる弓の名人の名になってて、果たして注釈にある通り、二つの名に因果関係があるのかと一瞬、首を傾げかけた。

しかし、その前日に行った「三夜沢赤城神社」では、大胡氏が先祖とする藤原秀郷が、室町期には、「大ムカデを退治して琵琶湖の龍神を助けたという「俵藤太物語」に登場」するようになって、「起源を異にする秀郷ムカデ赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついてきた」と説明されていた。
(2013年6(5)月<赤城山中腹「三夜沢赤城神社」>内


清滝IC(地図T)から
日光宇都宮道に乗る。月が綺麗(^^)

そう思って見ると、最終泊の老神温泉では、日光の神戦に敗れた赤城神の後日譚(復活物語)が伝わり、どうやら上州における神戦伝説だと、赤城神はムカデではなく(^_^;)、むしろ龍神と確認できて、こうして伝承の途中経過が伺い知れると、少し手掛かりが掴める気もする。
(2013年7(6)月<3日目夜、老神温泉に宿泊>内

最終日に行けた新田義宗(義貞三男)の墓所においても、義宗の戦死は目の負傷からと伝わり、「日光山縁起」における赤城の神(日光ではムカデとする)と重なる感じも受けた。
(2013年7(6)月<「うつぶしの森」(白佐波神社)>および<雲谷寺(新田義宗の墓)>

……となると、重要なのは「オンサラマ」なる神名のみで、容姿や性別・付帯状況より、その「音」に呪術的な意味合いでも纏っているのかもしれない。


そう思えば、確かに「オンサラマ」「ベイシラマ」というのは、いかにも「充て字」という感じがする。
音の響きからすると……密教の真言めいたものかな(^_^;)ゞ?

この「たわごと」で、東北仏教の起こりなどしばしば述べて来た。
まず徳一法相宗が来て、すぐ後に、最澄円仁の息のかかった初期天台宗が移入してきた。

真言宗が入って来たのはその後だろう(もちろん「真言=真言宗」とは限らないが(^^ゞ)。
確かに会津や出羽三山でも、真言宗が土地の「古層」を装ったり、現地の昔話を塗り替えている現象に出会った事を思い出す(笑)。

(拡大)日光宇都宮道から宇都宮に出て、東北道に乗り換える(^^)

一方今回とりあげた「日光山縁起」だが、これも前半と後半で全く話が変わって驚く(^_^;)。
後半に入ってからも、小野猿丸が生まれる辺りまでは繋がってるが、神戦の段になると、全く別の話が始まった感がある。

こういう空気は「神道集」にも通じ、まるで違う話がくっついて収まっているので、「こういうものなのか(^_^;)」と納得するのに、二つの古典を読み比べた意義はあったかもしれない(笑)。

それでも尚、「日光山縁起」ほどの急チェンジではない(^_^;)。

私は、猿丸の地元として「熱借山」の名を出す辺りに、作者の意図めいたものを感じる。
去年も書いたが、例えば藤原秀郷の末裔で、しかも頼朝の隠し子とも言われる結城朝光あたりを、阿津賀志合戦の英雄として讃える向きが、元はあったんじゃないかという気がする。
それも、当時は婚姻関係にあった宇都宮氏が関連しての視点という感じもする。

ただ、その英雄たる猿丸の名乗り「小野の森」は、「恩の森」と書かれ、音の発生源は不詳と言わざるを得ない。
(これも「御恩と奉公」(=土地を貰う)みたいな感じがするけどね(^_^;))


←途中に寄ったSAで、この旅最後の食事。ピリ辛ネギラーメン(^^)。

強いて掘り起こせば、新田氏子孫を語って岩松氏に取って代わった、戦国期の金山城主・横瀬(由良)氏は、実は新田氏でも、新田氏家来の由良氏でもない事は、これまた今回の初め、新田を旅した所で書いた。

横瀬(由良)氏の起こりは、武蔵七党横山・猪俣党と見られている。
彼らは通例、小野姓を称しているので(古代の小野氏にまで遡れるかは、甚だ疑問だが:笑)、案外この辺りが、縁起の名乗りの段に混ざり込んだ疑いは持てるだろうか……?


新田氏の後継として、その慰霊まで兼ねて足利幕府に公認を受けていたのが岩松氏である。
赤城神たるムカデが、戦死した新田義宗の象徴なのだとしたら、その目を射抜く猿丸が、岩松氏を下剋上によって斃した横瀬氏の象徴……という事なら、これまた「
物凄い隠し味」と言っていい(^_^;)。

ただ、桓武朝の蝦夷征伐後、天台宗の東国布教に道筋をつけた最澄が、全国に六宝塔を置いた内、関東には上野国緑野郡「浄法寺」と、下野国都賀郡「大慈寺(小野寺)」の二所が充てられた。
取り合えずの所、下野にとって「小野」は、一般的な代名詞(「あそこ」とか「ここ」とか)だった、と見ておく(^_^;)。

面白味のない片付け方でスイマセンm(__)m。


以上をもって、「上下毛編」を終わる。
旅行の余韻については、後に書こう(笑)。


以上、関連事項は、
■日光山縁起・神戦・龍神・小野猿丸・豊城入彦命・関係
2004年11月<芦ノ湖>内
2005年4月<戦場ヶ原>内以降(日光山縁起)
2006年10月<4日目、駒ケ岳「箱根神社元宮」>内
2007年5月<筑波山神社>内
2009年1月<対面石と対面堂>内
2009年4月<阿津賀志山防塁>
2010年4月<厳美渓温泉で最終泊、3日目夜〜4日目朝♪>内以降
2011年4月<「塩原温泉郷」を目指す>内以降
2012年5月<南会津方面に向かう>内以降(日光山縁起)
2012年6月<23号線を東進、川治ダムまで>内以降(日光山縁起)
   〃   <宇都宮に向かう・「栃木県立博物館」>内<宇都宮二荒山神社>AB
2013年1月<東北道〜北関東道>内
2013年2月<「長楽寺」「三仏堂」と蓮池竜宮伝説>内
2013年7(6)月<3日目夜、老神温泉に宿泊>内以降

■「神道集」
2013年4月<大胡城跡、2(続き)>内以降】の字を、
   〃   「赤城大明神の事」@は<赤城温泉(^_^A)>以降】の字
2013年6(5)月・ほぼ全文「神道集」「赤城大明神の事」Aは上記通り、
   〃   「伊香保大明神の事」@については
【紅】の字
2013年7(6)月<老神温泉街〜日本ロマンチック街道を西へ>内以降
   〃   (「神道集」伊香保大明神の事」A上記通り)




■11〜12月・千葉県柏市・松戸市
<晩秋の紅葉(銀杏)・白鳥・夜霧>


以後、柏市・松戸市(千葉北西部)の風景からお届けしよう。

まずは、まだ秋の紅葉真っ盛りの頃から(^^)。

旅行は10月末〜11月初、例年より遅い旅行だったので、帰るとすぐクリスマスが来た感じがした(^_^;)。

また、我々の旅行中、東京でも冷え込んだようだが、それでも帰って来た頃は、まだこんな感じ。

六高台の桜並木(地図U)→

先ほどまで綴った、上下毛編レポの「余韻」だが……(笑)。
今回の旅行は、我々夫婦の間ですこぶる好印象で、何かと話題になる事が多い(^^)。

群馬で好印象だったという事は、これまで行った東北や栃木より良い、という事かと言うと、まるでそうじゃない(^^ゞ。

よく「東北の心は、もてなしの心」という言葉を耳にする通り、旅館がゴージャスだったり、食べ物が美味かったり、自然が豊かだったりするだけでなく、旅人が居心地よく過ごす手段を、東北の人は本当によく心得ていると思う。

やがて銀杏も真黄色に染まる晩秋を迎える

一方、群馬は東京に近いため、値段も高め設定である。
我々のレベルでは素泊まりスレスレの宿に泊まるのが精一杯で、むしろ改めて、

「東北旅行は良かったね〜」
「日常からの脱出感が濃厚だったよね〜」
と振り返りながら旅をした程である。

しかし、何年にもわたって東北旅行をしてきた後で来たからだろう。
群馬県という土地が、以前に比べて全く違った土地に見えた気がする。

柏市逆井あたりの見事な銀杏の紅葉(^^)。地図V

かつてはよく甲信越に旅をした。特に信州の北信地方はお気に入りの旅行地で、同じ所に何度も行った。

その頭で関東に旅すると、途端に何となく物足りないような、あるいは逆に、どこか掴みかねる印象となったものだ。
特に史跡巡りをメインの旅程を企画すると、何を基軸にしたらいいのか、ちょっと迷うような感じがあった(^_^;)。

それは北関東が、どこも東北への玄関口である、と捉えるべき場所だからなのかもしれない。
だから先に東北に行って、土地勘や郷土史を掴んでおく事を優先すべきだと思う。

再び六高台界隈(地図W)、道端に溜まる銀杏の落葉(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

振り返ると、最初に上州・沼田城址を訪れたのが2003年9月、2004年には、4月、5月、8月と、3回行ったようだ(^^ゞ。
真田氏の前の沼田城主・沼田氏の事が書かれており、亭主に「ずっと北には伊達がいたけど、その間にはどういう勢力がいたの?」と聞かれて、答に詰まった覚えがある(笑)。

当時は由良氏も知らない氏族だったし、また、沼田氏のお家騒動(内部分裂)には、どうやら例の、「関東管領上杉×北条(&古河公方)」の勢力争いが裏に潜んでいたようだが(^_^;)、これも当時は詳しくなかったから、一緒になって首を傾げるのみだった。

今でも明確に答える自信は全く無い(笑)。

しかし、北の越後は室町時代初期から上杉氏が勢力を張っており、その伏線のように、新田氏とその一族・里見氏などによる戦歴という南北朝時代の爪跡を今は感じる。

あるいは下野国における、小山氏と宇都宮氏の興亡と鎌倉公方の軋轢、さらに北の長沼・芦名といった進出勢力、伊達・結城といった強力な南朝的勢力など、中世には数多くの盛衰があったのを知った。

銀杏もドンドン散っていき……
こちらは下手賀川地図X)の白鳥たち↑

(拡大)周囲は枯れ草、水面を滑る様がよく見える(^^)

これまで数年にわたって、東北旅行をしてきた成果……とまで言うと大袈裟だが(^_^;)、ネット&パソコン環境、および日常的には多々問題の増えた昨今ながら、旅行と歴史については、ここまで数年の蓄積もあいまって、ますます意欲が出るに至っている(笑)。

そして、やはり「近い」というのは、抜き難い強味である。
群馬の近さは、正直に「ありがたい」と思った。
「いつでも気楽に来られそう(^^)」という感じが、貧乏な我々には、より親しみの思いを強めてくれた☆ミ

亭主とも「何かこう……手放しで楽しめたよね」とよく話し合う。
近い、と云う事は、何かと「効率よく廻らないと(^_^;)……」と緊張しなくて済む。
これからも、信州東部や埼玉北部あたり、色々出てみたいと思っている。

←夜霧。
秋〜冬にかけて手賀沼付近に多く出るが、ボヤけるか真っ暗に写るだけで、滅多に撮れない(^_^;)。これは珍しく撮れた1枚。

本当はこちらに向かって波が寄せるように、わりと立体的な霧が幾重にも来ているんだが、そこまでハッキリは写らなかった。。

遠い灯に照らし出される
坂の上の橋に霧が集中しやすい

遠くの地平線近くが明るいけど、いつもその辺りは明るい場所(^^ゞ。
今も時折、大きめの地震が日本では起こるけど、震災とその直後に、毎週のように長い間見た(一年は見たと思う)、あのド明るい地平線近くの夜空は、全くと言っていいほど見なくなった。
やっぱり地震雲だったという事か、逆にそうじゃない、って事なのか……。



<クリスマス・ツリーと喫茶店「シエロ」>

そろそろ街はクリスマス飾りにさんざめく頃(^^)。

こちらは園芸屋さん↓
婦人物洋装店→

この通り、この冬はクリスマス・ツリーをいっぱい見た(゚.゚)。

節電でイルミネーション出来ないからかと言うと、光り物もいっぱい見た気がするので、単に流行じゃないかと思うんだけど……。

カフェでも携帯ショップでも英会話教室でも(^^)

今年はいっぱいツリーを見たので、何度目かの頃から意識して写真を撮るようにしてた(^^)。

シエロ」(地図Y)というイタリア系レストラン&喫茶店(パノラマ2枚)

↑実はこの写真だけ夏の写真(爆)。それも2年も前の(^_^;)。。
前にレポしようとしてパノラマ作ったんだけど、その時のレポで写真が多かったんで、割愛したの。そのうち使えたら……と取っておいたのを今使う(笑)。

この後のは今の写真(^^ゞ↓

玄関とその前のベンチ
ウインド前の緑(^^)

一時期はよく利用していたお店(今はだいぶ金欠で行けてないが(^_^;))。
いつも藤心(柏市)のアンチーブばかり写真を出すので、こちら「シエロ」(松戸市)もイイお店だよ〜って事で(^^ゞ。。駅は常磐線の「馬橋」や「新松戸」が近いかな……。

この数年はウチあたりでも、よほど本格的なレストランか、チェーン展開してる大手のカフェ(ドトールとか星乃珈琲とか)以外で、個人経営の喫茶店は、とんと見掛けなくなった。
そんな中で貴重なお店の一つ。
料理はずいぶんと本格的な美味しさ(#^.^#)ながら、昔の喫茶店みたいな、気安く懐かしい雰囲気もある。

スノー人形に……
ガラス細工のツリー、スキー帽人形

……と、ここもこの季節は、クリスマスの装いで出迎えてくれた(^^)。

ポタージュとサラダはフルコースセットで。
この日のメインは鮭のソテーだったかな(^^ゞ→

こちらは確かポークジンジャーだったかな→
ソースはバルサミコやマスタード・味噌など味付け豊富(#^.^#)。

今、ウチらが激貧なだけで(^_^;)、値段も600円台からあって、決して高くはないし、コーヒーが2杯目から100円にしてくれてお得☆ミ

↓出窓にはブッシュドノエルに座るサンタの瀬戸物(^^)
「ご馳走様(^nn^)」とお会計を済ませて外に出ると、お隣の店舗のウインドにも、豪華なクリスマスツリー(^^)→

以上、関連事項は、
■紅葉&クリスマス
2007年6月<クリスマスの街角(^^)>
2008年4月<松戸市・「常盤平」駅前「けやき通り」>
2008年5月<年末(^^)>
2009年6月<紅葉とクリスマスが同時に訪れるの図(笑)>

2010年7月<街路樹の紅葉(#^.^#)>および<クリスマス・イルミネーション>
2011年10月<クリスマス前の東京(皇居東面)><クリスマス本番〜年末>
2012年7月<ハロウィンの頃まで>内

2013年1月<今年の秋もハロウィン(^O^)!>


次回は、クリスマスシーズンの続きから、年末年始……今年(2013年)の2月ぐらいまで来れるかなぁ〜(^_^;)。

<つづく>

2013年08月28日
 
     




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