<2017年・城主のたわごと8月>




2016年〜2017年の年末年始、12月は東京・清澄庭園☆彡

2017年1月「松戸七福神巡り」と、手賀沼「鷲野谷城跡」レポ!



     
  冒頭はいつもと同じ↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

で始まり、あとは前回・前々回と同じ ↓

〜おしながき〜「湯島天神(天満宮)編
2017年「2月のたわごと」(東京湯島〜千葉北西部)
■8月・東京都千代田区・文京区
<「湯島天神(天満宮)」@〜参道両脇〜>
<湯島天神(天満宮)A〜社殿・男坂・女坂〜>
■8月〜9月・千葉県柏市・松戸市
<夏から初秋へ>

↑を入れている。
その前も、境根原古戦場ウォーキング(2016年6月号)や、松戸の根本城跡(同7月号)、北総の龍腹寺(同11月号)など、小ネタながら史跡巡りはあったので、ご覧になりたい方はメニューからどぞ( ^^) _旦~~

あとは、その前からの流れ通り……↓

〜おしながき〜「武蔵千葉氏編」1〜4
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

その前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

さてさて、今回も日常編の続き。
まずは、去年(2016年)の12月「清澄庭園」の続きから。

続いて、今年(2017年)の正月も、恒例「松戸七福神巡り」に始まり、続く真冬のレポは、手賀沼の南岸「鷲野谷城跡」と、北岸「ハケ道の湧水」をお届け!



■2015年12月・東京都江東区
<江東区「清澄庭園」、2(つづき)@>


前回は予告だけだったんで、位置は出さなかったが、ここです→地図

最初の二枚だけ、前回と重複(^^ゞ↓

庭園に入った所(パノラマ2枚)

←前回(6月号)は、ここまでお届けした!

このあと、庭園の真ん中を大きく陣取る広い池の周りを、左回りにグルリと周る。
最後に池の中島に建てられた「涼亭」に入る頃には、トップリと日が暮れる。

まず、池が正面に見える所まで、点々と誘導する羽目石を歩いて進む。
では、早速行こう。
レッツゴ(((つ^o^)つ<ス〜イスイ

ここから先↓が、今回初公開の写真ねっ( ^O^)//<パチパチ☆

清澄庭園は、岩崎弥太郎の所有地として有名らしいが、庭園はその前の江戸時代、ここの持ち主であった久世氏の頃に、既に設計の基礎がある程度は整っていたらしい(^^ゞ。

久世氏は、下総国関宿藩(現・千葉県野田市)の藩主で、この土地は、享保年間(1716〜1736年)に、久世大和守の下屋敷になったという。
また、土地の一部は、江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡だった、という言い伝えもあるそうだ。

右(→)からやって来て、左(←)に向かう(パノラマ4枚180度以上)

庭園に入って来ると、早速出会うのが名石の数々で、全国60ヶ所からかき集めたという。
それぞれに番号と石の名前が書かれた札が置かれていた。

↑左側の木々の向こうに垣間見えるのが、「大正記念館」で、池の正面にある。
正面と言っても、池との間に、名石・築山・樹木・芝生・小路などからなる枯山水風の庭園を広く設けてあるから、記念館から見える風景といえば……↓

こんな風に、池がかなり遠くに見える(パノラマ3枚ほぼ180度)

なので今度は、池に向かって行って、この「大正記念館」を振り返って見てみよう。
池にはゆるやかな坂に階段が設けられ、数段降りると↓

←池が迫って来る。そこから後ろを……↓
↑振り返ると「大正記念館」正面

こんな感じね(^^ゞ。

庭園は多くの面積が中央の池に占められ、周りは小路があるのみである。(こういうのを「回遊式」と言う。ここでは「回遊式林泉庭園」と説明されていた)
なので、このまま池にとどまって、しばし水辺風景をお届けする。

下まで降りきって周囲を撮影(パノラマ3枚ほぼ180度)

この広大な池、実は岩崎弥太郎によって……というわけでもなさそう(^_^;)。。

明治11年(1878)、岩崎弥太郎(1835〜85)は、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場として庭園造成を計画。
明治13年(1880)に「深川親睦園」として 一応の竣工をみた。

が、弥太郎の死後も造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲に全国から取り寄せた名石を配したという。

←「涼亭
東京都選定歴史的建造物に指定された、銅版葺数奇屋建築の平屋。内部は27畳の畳敷。
建造年は特に書いてなかったが、wikiには「明治42年(1909)」とある。

涼亭には最後に入る(^^)

池をツツイと横切る鴨一羽
遠く荒波立たせる水鳥の群

↓「エエ句を詠みなはれ」
「え゛っっ?!。。」↓

亭主が手にしているのは園内のパンフレットで、色紙や短冊ではない(笑)。
しかし、この鳥、このように見学客の前に歩き現れては、人の目を引き寄せておき、やがて、招き寄せるように、トットコ歩き出すのだ。

何気についてゆくと、これぞという絶景ロケーションで止まり、片足立ちとか見返りとか、絶妙なポーズで何秒間も静止する、シャッター押させの名人(いや、名鳥)だったのだ!

どやっ、こないな角度が好みとちゃうか?
(片足立ちっ!)
「ほな、エエ初夢でも見なはれ」
(見返りっ!)

「長き夜の〜遠の睡りの〜皆目醒め〜波乗り船の〜音の良きかな〜」( ^O^)// *やんや*

(↑引っ繰り返して詠んでも同じ歌になる。室町期の作と言われる。三度詠んで、宝船とか七福神の縁起の良い絵を枕の下に入れて寝ると、良い初夢が見られると言われている)

大池に突き出る石庭
水上に点在する石を歩く

こたつは落ちるのが怖いから、水の上は歩かなかったけど(^_^;)。。

水に近づいてを写したらww
「写しまっか、こないでええでっか」

なぜ、ここの動物達は、かようにカメラ目線に長じているのだろう(・・;)。。



<「清澄庭園」A大正記念館〜涼亭>

水辺を離れて、陸に戻ろう(^^)。

池辺からも庭園からも「大正記念館」に石の路は続いている。
そろそろ暮色も濃く、暗がり濃密で恐縮だが。。

大正記念館の足下に控える庭と水(パノラマ3枚ほぼ180度)

そろそろ庭園も東端に達し
東の側辺に歩を進める

地図←拡大して貰うと、庭園の間取りごと出て来る。
園内に見取り図があったんだが、この通り、すぐ日没を迎えたため、写真写りがすこぶる良くない。

入園の時にパンフレットも貰ったが、ここには前回も述べた通り、仕事がらみ(営業)もあって訪れ、庭園が見事だから是非どうぞ、と勧められて、中に入っている。
つまり、旅行で来たわけじゃないので、他の書類に紛れて、今見つからないの(^_^;)。。

←囲む樹林のやや奥に「多重塔(十一重)」がある。
↑東辺を通る。だいぶ日も暮れて、周囲の樹木の影が水面に濃く映し出されていた。

↑左の多重塔だが……、近くの案内板に、「高さ約2.7m(9尺)で石質は奈良御影、下側の四方に四方仏が刻まれてる」と、現状については書かれていた。
が、塔じたいの由来については、「園内でかなりの年代物」とあるのみ(^_^;)。。<なぜここに?

←東端の小路に咲き群れてた水仙 o(^^)o
↑南端まで来た。大正記念館あたり(北)を振り返る

いよいよ「涼亭」が近づいて来る
邸内の灯が華やぐ時間に(拡大)

というわけで、いよいよ中に
入りましょお(((つ^o^)つ

この「涼亭」は、予約を取れば、三時間半、5500円で借りれる。(清澄庭園:集会施設

この日は寄席が行われていたが、会食の申し込みも出来るようで、ネット上、食事会レポも見かける。

囲まれたガラス戸を開けると、幅広い廊下(というか縁側というか)に出られ、見渡す限り四面は水上(((つ^o^)つ

屋形船から見るような岸辺の夜景(#^.^#)(パノラマ4枚180度以上)

台所もついてて、食器洗いやお茶入れ、簡単な炊事ぐらい出来そう(^^)。

清澄庭園は、関東大震災(1923年)で大きな被害を受けたが、図らずも災害避難所の役割を果たし、多くの人命を救った。
以来、岩崎家では、庭園の防災機能を重視し、翌・大正13年(1924)破損の少なかった東側半分(現庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、市ではこれを整備して、昭和7年(1932)に公開した。

南西から写す
涼亭入口↓奥にスカイツリーが見える

昭和52年(1977)には、庭園の西側に隣接する敷地も開放し、公園として追加開園。現在は芝生広場に、桜木が20本ほど植えられ、花見の場となっている。
庭園の方は、昭和54年(1979)に東京都の名勝第一号に指定された。

以上で、清澄庭園レポ&2016年も終わり。良い初夢が見られますように(^人^)



■2017年1月・千葉県松戸市
<謹賀新年、恒例「松戸七福神」@、寿老人>


明けまして、おめでとうございます(^O^)
アップしてる今は、もう夏、真っ盛りですけどね〜っ(^_^A)(爆)

そそ! 例年だと、紅葉やって、街のクリスマス模様やった後、年末の様子をちょっとお届けしてから、改めてお正月!……という段取りになったもんだけど、この年末は、前回までにクリスマス等はまとめちゃったんで、上の清澄庭園が、2016年の最後になった(^^ゞ。

本年も宜しくお願い致しますm(__)m<ガバ

←まずは注連飾り。小判に金の稲。今年こそ金運挽回をーーっヽ(`Д´)ノ

そして、今年のおせち具合は……(=^m^=)↓

一段、二段、三段……例によって寄せ集め素材でつ(≧▽≦)!

食材の出汁が混ざらぬよう、ホイル&ラップしてしまったので、あまり見目が良くないが(^_^;)ゞ。

今年もおせちが売られるず〜っと前から、少しづつ日持ちするフツーの惣菜を買い集め、「おせち・もどき」にして、お重に詰めた(笑)。

一段目の海老、これはナント、お魚コーナーで一匹80円で売られてたんだよねー!助かるぅ〜(#^.^#)。塩をふって冷凍にしといて、大晦日にコンガリ焼いたの♪

前回のクリスマスのレポでも書いたけど、クリスマス料理が安い食材で作れたり、ウチのやってるおせち・もどきの食材が、この冬はわりと元日の直前まで置いてあったり(つまり正月の便乗商法をやめてたり)で、あまり苦労せずに済んだ(^_^A)。

さて、今年も松戸七福神巡りを決行!(・0・)/<おおーっ!

八柱「徳蔵院」(地図)、V字坂を、庫裏から一度下って……↓
坂の下の方、左方向にある階段→
これを登っても本堂に行けるが……

階段を登るのでなく、V字坂をさらに上ってゆくと、同じ左方向に……↓

こんな緩やかな坂からも行ける
V字坂の正面はこんな石垣で終わる

行き止まりの石垣から、のぼって来た方向を振り向くと……↓

←同じV字坂、こっちからの視界を見せた事が無かったので提示してみた。

谷に近い所に、さっきの赤い幟旗の翻る登り口が見える。

さらに先、右側に見える建物が庫裏のある建物。
これまで庫裏の方からの写真をよく出して来たが、これは墓地側から見たV字坂。

で、改めて、谷下の階段から登って本堂にいく。

登りきって振り返るとこんな感じ↓(パノラマ2枚)

V字坂の上の方の入口から入ると、↑墓地を通るし、谷下の階段を上がると↑森の中から出て来る。七福神の寿老人は、赤い幟旗の密集するあたりにおわします(^人^)

突き当り正面は本堂
その右脇の摂社群

←そして寿老人(^人^)<パンパン
七福神めぐりの御朱印を頂いた室内には、お正月の生け花が冬の陽を浴びて華麗(#^.^#)



<「松戸七福神」A、福禄寿・毘沙門天・弁財天>

お次は八柱「圓能寺」(地図
七福神は「福禄寿」(^人^)<パンパン

このお寺は広くはないけど、門・本堂・福禄寿の他にも、建物・祠・碑などがあるにはあって、これまで取り上げた事も無くはない。

が、大抵は2〜3枚写真を出すだけのレポになってしまう。
一個前の「徳蔵院」で、いつも時間が押しちゃうのが主な原因だが……。
時間があっても、何となく写真を撮りそびれる。。謂れなど説明した案内板がないのも、レポに至らぬ原因という感じがする。
山奥の風情があって、特にお正月は田舎の雰囲気のある良いお寺なんだけどねー。

途中に「広徳寺」(地図)を通り
三つ目「医王寺」(地図)到着

↑左の「広徳寺」は、松戸の戦国大名・高城氏の菩提寺ね(^^)。

街中にあって敷地は広くないが(パノラマ2枚)

左が参拝通路で、毘沙門天と本堂に続き、右は御朱印をお願いする庫裏であるが、毎度、美味しい甘酒を頂けて、この頃ではお庭を拝観させて頂けるo(^^)o

お庭に通じる水遣りが風流じゃのぅ(^^)(パノラマ2枚)

これが拝観できる石庭。ステキ〜(#^.^#)(パノラマ3枚ほぼ180度)

↓戻って甘酒を頂き( ^^) _旦~~
改めて本堂に続く参道を進む→

途中に弘法大師堂
本堂の右脇に「毘沙門天

←本堂を行きすぎた先に、御手水があって、六地蔵が並ぶ。さらに先が墓地だろう|ω・`)<コソッ

この医王寺あたりが、高城氏の小金城(現・大谷口城跡公園)や、先ほど通った高城氏墓地の「広徳寺」がある北小金のエリア。

医王寺の毘沙門天と夫婦の弁財天のおわす「華厳院」もすぐ近くで、両寺とも水にちなんだ伝承を持つ↓

すぐ近くの「華厳院」(地図
ちょっと高見から入口を振り返る

この寺はこのように周りが一段高く、参道・境内を見下ろす、一風変わった作りになっている。本堂は階段を上がった上にあるが、七福神の「弁財天」は……↓

入って正面の低地に鎮座
(拡大)

本堂から下を見下ろした低地に、弁財天と銭洗い用の水が引かれている。
先ほどの「医王寺」でも書いた通り、この二寺では、水にちなんだ縁起が残されている。

医王寺には、火事から不動明王像を守った田螺の話、不動滝で目を洗って盲目が治った話がある(2004年9月<松戸七福神巡り4、「毘沙門天=医王寺」>内
この華厳寺も鎌倉時代、川から引きあげられた地蔵を本尊として以来、火災に遭わず、火防のご利益を祈願されている(2009年6月<今年も年始は「松戸七福神めぐり」から>内

東の富士川、西の坂川に囲まれた地域で、水の恵みに預かった背景がうかがえる。
元は少し南のほうにいた高城氏が、同エリアの小金城(地図)に本拠を移して栄えた事にも、こうした水利事情はあったかもね(^^)。



<「松戸七福神」B、恵比寿・布袋・大黒>

←お次は「恵比寿」の「金蔵院」(地図
↑御手水は、龍神の注ぐ自然水

このお寺の「恵比寿」サンだけ撮りそびれた(>_<)。。
ここ数年、毎年のようにここで、駐車場その他が混みあう年が続いている。
「早くどいてあげなくては(^^;)」と、焦って次の場所へ移動するので、あまりゆっくり撮影する暇が無いのだ。。

七福神巡りの廻り方は、松戸→北小金→八柱か、八柱→北小金→松戸のどっちかになるが、いずれにせよ、この寺に来るのがちょうど中間の時間帯になる。

同じような廻り方をする人が多く、どちらの廻り方でも、ここが中間になるので、それで一番混みやすくなるのかも(^_^;)。。

というわけで松戸到着、「善照寺」(地図
布袋」さん

同じく松戸「宝蔵院」(地図
入って正面が本堂

本堂の手前、左に墓地に続く通路があって、墓地の入口に「六地蔵」が立っている。
地蔵は前からあったかもしれないけど、今回あらためて「六地蔵」の説明版が大きく掲げられていた。

さらに、この地蔵サン達の台座に、それぞれの菩薩名が表示されていた。
私は以前から、六地蔵の各々の持ち物名前を知りたいと思っていた。
像と名がセットになってる地蔵って意外と出会わないので、ここ幸い、名前と揃えて出してみよう(^^)。

地蔵(地獄)・宝掌(餓鬼
宝拠(畜生)・宝印手(修羅
持地(人間)・堅固意(天上

スペースの都合で略称になったが、正確には……↓
台座表示
説明版記載
六道
地蔵菩薩 檀陀地蔵 地獄道
宝掌菩薩 宝珠地蔵 餓鬼道
宝拠菩薩 宝印手地蔵 畜生道
宝印手菩薩 持地地蔵 修羅道
持地菩薩 除蓋障地蔵 人間界
堅固意菩薩 日光地蔵 天上界

こうかな。「台座表示」の方は、字のカスレや写真うつりが正確ではないかもしれないが、説明版の記載とは、ちょっと違うように思う。

wikiなんかで読んでも、六地蔵のそれぞれ地蔵の名や、持ち物およびポーズ(合掌など)の違いは、必ずしも一定してないらしい(^^ゞ。<面白いね

そして、今年も会えた、サービス犬(^O^)! 今年はおメメが赤く、小屋からなかなか出て来なかった。ちょっと弱ってるかな〜(つД`;)<心配 ↓
こちらは、境内の隅「いぼとり地蔵」→

この「いぼとり地蔵」は、江戸末期の嘉永4年(1851)付の碑が刻まれた前の地蔵が、いぼとり等、厄払いや延命を祈られた歴史をひき継いで、新たに建立されたそうだ。

このお寺には、先ほどの六地蔵やこのいぼとり地蔵の他にも、水子地蔵や「勉強小僧」があって、全体的に子供に関するものが多いo(^^)o

そして本堂の前の「大黒」サン(^O^)
頂いた「七福神あられ」

あられを頂いたのは、どこのお寺だっけな(^^ゞ。
下↓のは、おうちに帰ってから、改めて撮影した一個一個の中身だけど……

一神一神づつ違うデザインで
裏返すと、後ろ姿も書かれてる!(驚)

ちょっとブレちゃったんで、小さい写真でスイマセン(^^ゞ。<大きくしてもボヤケてるので

このあられ、芸の細かさは、前向きと後ろ姿の両方がプリントされてる包装だけでなく、中のあられも一個一個、味が違うのである!

寿老人=しそ味/弁財天=バター味/福禄寿=唐がらし味
恵比寿=えび味/布袋=チーズ味/毘沙門天=カレー味/大黒=青のり味

←六実の高オ神社も正月飾り(^^)
↑うちに帰って雑煮の続き( ^,_^)φ″

今年は、いつも犬とか風景のカレンダーを吊るす寝室にも、七福神の絵のカレンダーを吊るして、初夢を見る日も、枕の下に七福神の乗る宝船の絵を敷いて寝たから、今年こそ! 今年こそ、絶対に良い年になると思う!\(>o<)/<ジタバタ!(てゆうか安倍もうヤメロ(爆)貧乏人増える一方



<鷲野谷城跡>

↑特に意識して行ったわけではないが、今回は取り上げてみようと思った。

というのも、場所はだいたいわかるんだけど、跡地のどこを撮影するのが丁度良いかでいつも迷い、何となく取り上げないまま日を過ごしてしまっているからだ。

ただ、「撮影するに足る風景が無い」という事では全く無くて、むしろ「全体のロケーションが良すぎてどこ撮るか迷う」というほうが当たってるんだな(^_^)

なので、城跡の周囲の雰囲気ごと伝えよう、という気になったのだ。

手賀沼南岸の道を走ってる(側面↓)
今だいたいこの辺→地図(前方↓)

右に「杜のパン小屋」(パン屋)
このカド(地図)を左折

2015年9月<手賀沼南岸「杜のパン小屋」と「手賀カフェ」>

地図をかなり拡大して貰えるとお分かりの通り、これまでの道路はここで手賀沼から大きく逸れて行ってしまうので、左折して南岸に沿ったルートに入り直すのである。

……実は、もう一本手前にも左折カドがあるが、城跡の周囲の雰囲気を伝えるのには、二つ目の方が都合が良いの(^^ゞ。

で、その二つ目を曲がった後は南岸に沿ってゆくが、↑左の写真(パン屋がある)に見る通り、カドの手前から丘陵地が始まるため、左の車窓からは、今までのような、岸辺ならではの広大な河川敷風景は見られなくなり……↓

左を絶壁に阻まれながら登る
高台・左手に「将門神社」へのカド

「龍光院(将門神社)」は→地図
今は神社に向かえるカド(地図)を通りすぎる所で、あの森あたり↑がその十字路。

この界隈は、ちょくちょく話す通り、「将門伝説の地を巡る」なるウォーキングコースだが、無論ここで言われる「将門」は、史実としては「将門自身」と言うより(100%関係無い、とは言わないが)、その子孫を称する「相馬氏の痕跡地」と見るべきだろう。

コース領域にある城跡には、「箕輪如意寺城」「鹿島城」「鷲野谷城跡」「泉妙見山城」などが含まれ(「鹿島城」と「泉妙見山城」は前にレポした事がある)、いずれも「相馬氏の地」と推測されている。戦国期には高城氏の領域でもあっただろう。

左は将門神社に繋がる畑地
左に「星神社」(地図)があるあたり

中でも「鷲野谷城跡」のある鷲野谷村は、その中心に「妙見社」(現在の「星神社」)があり、その周囲に「龍光院(将門神社)」「善龍寺」「医王寺(薬師堂)」「香取神社」と社寺地が密集しており、前述の「将門ウォーキング」においても中心的エリアと言えるのではなかろうか。

が、城跡があったと見られているのは、この星神社などがある高台から再び坂を下っていく所が推定地となっている。

なので、そのまま坂を下り
突き当たり地点(地図)まで進む

地図はちょっと拡大して貰った方が、道路が明確に現れるので、詳しく道を知りたい場合は拡大してつかーさい|ω・`)

で、実は、今見た「突き当り地点」までつき進んでしまうと、城跡からちょっと逸れてしまう。
↑左の写真に見る通り、城跡は左の丘陵の稜線に沿って在るからだ。
それに対して、道路は丘陵を離れ、水田を渡ってしまうのだ。

丘陵に沿って左折できるカドもあるんだが、そこを行ってしまうと、ただの田園地に囲まれるばかりなので、むしろ跡地を離れて、突き当り地点までいって左折してみる↓

すると、前方はこんな道ゆきで、
左の車窓からさっきの丘陵が見える

こんな風に、ちょっと遠くから離れて見るほうが、城域全体を含んだ風景が撮れる(^^)v
今遠くに見えてる鷲野谷城跡は、中心点がだいたいこの辺りかな→地図

宅地や道路のため遺構の多くは破壊されたとの事で、その辺りに行っても、これといった目印は無いように思えた。

鷲野谷城は、そもそも出城だったとも言われ、その本城にあたるのが、今そばを通ってきた「星神社」(かつては「妙見社」だったという)のある辺りであると、かつて里の人が伝えてきたという。

ただ、本城といっても、戦国期の城ではなく、星神社あたりが、この鷲野谷村における中心的な場所で、地域の経営のため置かれた居館といった感じで、その主体は相馬氏だろう。

また、星神社にあったとされる居館と、こちら鷲野谷城との関係を、「本城と出城ではなく、時代の異なる別の遺構群」という見方もあるらしい。

さらに前方に進むと……
左手は丘陵に代わって平原になる

建武3年(1336)、陸奥国行方郡にあった相馬親胤が、闕所となった鷲野谷村を得た。(他に、筒戸・藤ケ谷・大鹿・高井・高柳などの村名もあるそうだ)
応永2年(1395)にも、相馬氏の所領として名が見られるらしい。

しかし、その後、この地の相馬氏の動向が不明で、延徳5年(1493)、この地で戦死した飯野氏の名が、『本土寺過去帳』にあるが、相馬氏との関係は不明。

天正18年(1590)になると、高城氏の家臣、畔蒜氏がこの地で没しており、同じく高城氏の家臣・染谷氏鷲野谷城主として名を表すなど、もはや高城氏の領域となっていることがうかがえる。

同年、小田原征伐によって、高城氏の本拠・小金城も陥落となった後、染谷・平川の両名は、旧主にあたる高城胤則に窮状を訴えて、胤則から返書を得ている。
両名の苗字は、今も周辺の家に多く見られるそうだ。

発作橋(地図)にやってきた
勢いよく飛び回る鳥達

江戸期の『東国闘戦見聞私記』には(例の手賀合戦などに絡んでだろう)、千葉国胤(邦胤)が布川・牛久攻めの兵を集めた中に、「」と名乗る者が「鷲谷城主」として書かれてるらしいが、この書物はもとより、以前より何度か述べた通り、創作物と言われ、史実性を疑われている(^_^;)。

……と話してる間に、いつもの曙橋も過ぎて、下手賀川まで来てしまった。
この日は大勢の水鳥たちが橋の周辺に群がって、冬の寒さに身を寄せ合って過ごしていた。

古橋の欄干と電線に並ぶ鳥達
橋の袂の白鳥サン(^^)

同じく1月の終わり頃だったか、やはり手賀沼に、「手賀カフェにでも行こうか(^^)」と来てみたんだが、どうも冬休みで、店じまいしてたので、久方ぶりに、「道の駅しょうなん」(地図)に入った。

この日食べた定食( ^,_^)φ″
ヴィアッヂオ」という店で、中華が得意らしく、中華メニューが豊富で味も良い→

その後、この4月に「野菜レストラン」なる店が隣に出来た、という情報を検索で見つけた(`・ω・)=3<今度いってみたい

この日は湖北(我孫子市)で買い物をしたのだが、車道に並ぶ店舗の裏手にも細い道が通っていて、そこにちょっとした名所がある。

「ハケの道と湧水」(地図(パノラマ縦3枚)

ここは、「京北スーパー」の裏手で、付近には、「オランダ家」「ビックエー」「ケーズ電気」「夢庵」などが立ち並ぶ、手賀沼の北岸を通る道路(「手賀沼ふれあいライン」)が並行して通っている。

こういう台地の崖のことを、関東地方では「ハケ」と呼んだ。
崖下が平坦で、集落同士を繋ぐ道ができ、これを「ハケの道」と言って、古くから生活道として使われた。
志賀直哉など白樺派の文人たち(※)も互いに往来しあって、友情をつないだ。

崖には雨水が浸透し、染み出す豊かな「湧水」は、自然にとっては手賀沼へとつながる生態系を形成し、また人々にとっては、水田の水源として利用された。
(ただし、飲用には適さないことが注意書きされている)

湧水はかつてはあちこちで見られたが、台地がアスファルトに覆われ、斜面林が少なくなると減り、今も残るのは、ここと、東側80mの旧三谷別荘下が比較的安定して湧き出しているという。
その2カ所を、市民に親しまれる場となるよう再整備した……という事が、平成24年(2013)付で書かれていた。

確かに前は無かった気がする手水
ちゃんと水が出ている!

※、ちなみに白樺派の文人たちの別荘などが、西から東に列挙してあったので記す↓

武者小路実篤邸跡、嘉納後楽農園跡、柳宗悦邸跡、嘉納治五郎別荘跡、杉村楚人冠邸、志賀直哉邸跡、現在地、瀧井孝作仮寓跡、旧三谷別荘跡、旧村川別荘、ハケの道、子ノ神大黒天

ところで、この京北スーパーは高級志向の食材店で、「白樺カレー」というレトルト食品があるんだけど、わりと良いお値段なので、残念ながら一度も食したことがない(^_^;)。。



「ご挨拶」で述べた通り、7月終わりごろパソコンが壊れてしまった。
不十分ながら一部復活して、「ご挨拶」の続きを書いたら、不安定な動きをしたので、「たわごとの続きは無理かな(^_^;)」とあせった。。

だが、何とか書き終える事が出来た。(画像処理もなんとか上手くいった)
メデタシ・メデタシ。……まだまだ再起不能データも多くあって不安この上ないが(汗)。。

さて、次回は……写真どれぐらいあるかとかあまり見れてないので、予告ができかねますが、春ぐらいまではいけるかなー。

例によって、関連リンクはまた後日に……。
だいぶリンク貼りが遅れちゃってスイマセンm(__)m

<つづく>

2017年08月06日
 
     




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