<2007年・城主のたわごと1月>



2006年5〜8月「利根川&印旛沼編」第三弾(^^)。

「師戸城」(続き)と「臼井城」。そして八千代、柏(境根原古戦場)。




     
  明けましておめでとうございます〜♪
本年も宜しくお願いします(^^)。

さて、去年(2006年)11月からスタートしてる「利根川&印旛沼編」の第三弾・最終回(^^)。
まずは印旛沼の北にある「師戸城跡」の続きから。
そして、印旛沼を挟んで双子の関係「臼井城」を。
今回はこの「臼井城」のみ去年(2006年)5月で、その他は全て去年8月のネタ。

その後は、同じく千葉県の八千代のレポを。
さらに、これまでも「国府台合戦」に絡んで、しばしば名の出てきた境根原(千葉県柏市)に行ってみた。古戦場跡には辿り着いてないのだが、ちょっと付近の写真を(^^ゞ。

さらに最後は、たまには日常編(5〜9月)も交えて(^^)。



■2006年8月
<「印旛沼公園」(師戸城跡)、2>

前回の続き(^^ゞ。
ちなみにこの城の歴史については前回の最後(2006年「城主のたわごと12月」<「印旛沼公園」(師戸城跡)、1>内)を。

城跡・見取り図
「三の丸」に入る

↑この地図は「二の丸」にある石碑(^^ゞ。前回はこの左側「道場台」という所までお届けした。
今回はこの中央にある「三の丸」に入ってきたトコ(^^)。これより広場を通って、「三の丸」の右下に出っ張ってる部分から印旛沼を見る。その後、さらに右側「本丸」「二の丸」を廻り、ここでも印旛沼を見る(^^)。さらにお城の外側を散策、という行程。

「自由広場」。パノラマ5枚(180度以上)

↑「三の丸」跡はこのように広い芝生広場になっている。「自由広場」と書いてあった。
亭主はこういう広々した所が大好きだから、ゴロッと寝っ転がってノンビリしてた(^^)。

土塁の間を通って、橋を渡ると→
「梅園」に。名の通り梅ノ木の林

この梅林、冬〜春にかけて、きっとキレイな梅の花が見られそうだね(^^)。

で、この「三の丸」には印旛沼方面に出っ張っている箇所がある。たぶんお城があった時も、この辺りに見張り台とかあって、沼を一望できたんだろうね(^^)。↓

見渡せる印旛沼。パノラマ3枚(ほぼ180度)

想像するに、だいたいこういう水辺の城跡って、昔は結構ギリギリまで水が寄せてたんじゃないかと思う(^^ゞ。

で、この沼を渡る橋(今ちょうど渋滞ぎみの自動車のライトの列がちょっと見える)の向こう、渡って右側の方に、「臼井城」がある。ホント目と鼻の近さよ(^^)。

地図A。←ご覧の通り、橋の渡ってる所は沼から出た川の部分なので、川幅が狭く、この左側に行くほど広い沼地(湖)となっていく。広がってる湖は、この後「本丸」あたりからまた見られる。

いよいよ「本丸」に向かう。↓
渡った橋から、綺麗に植木を巡らせた濠の跡が見られる(^^)。ウネリ具合がなかなか素敵。→

こうした植木類、あまりに重層に施すと、城跡というより「庭園」みたくなっちゃうんだが(^_^;)、「濠」って低い所にあるから、せっかく掘って調べても、すぐ土が上に被っちゃうんだよね(^_^;)。植物は根を張って土を固めてくれるからね(笑)。

「本丸」に到着(^^)。↓

前方。パノラマ5枚(180度以上)

入ってから後ろを振り返る。↓

後方。パノラマ4枚(180度以上)

↑真夏の茂った木々に隠れて、ちょっと見えにくいが、この辺り一帯、周囲には土塁が張り巡らされ、犬を連れて散歩してる人に何回か会ったが、犬がわざわざ遠回りして高い所に上りたがる光景をよく見た(笑)。

「展望台」に到達〜。
こんなスグ近くに印旛沼(この辺りは川幅が広がり湖になっている)が見られる(^^)。

パノラマ3枚(180度)

ここに「印旛沼憲章」という案内版があって、環境破壊は一度やってしまうと、二度と自然を回復する事は難しいので、環境保全に努めましょう、というような事が書かれている。
それにつれて、自然破壊によって、土地の歴史に対する後世の意識が薄れる危機感も書かれていた。
ま、環境や歴史(史跡)を大事にしましょう、といった事はどこの土地でも多かれ少なかれ言われるが(^^ゞ、ちょっと印旛沼や手賀沼にある特殊性(これも同じような他の土地に通じうる事情だが)を述べておきたい。

つまり印旛沼は、過去に洪水などが大変に多く、これは全国的にも歴史として有名だろうと思う。
しかし、そのあまりにも多難な長い歴史に対して、昔の人はただ嘆いて暮らしたのではなく、試練と戦うなど乗り越える努力をしていた。
むしろ殆どの日々は沼から受ける恩恵によっていた。そこには独特の生活文化があった。

そのように自然と密接な関係にあった歴史であるのに、現代のように環境を簡単に変えられる時代を迎えると、つまり埋め立てなどで試練を乗り越えてしまうと、今度は土地としては遮る物なく広範囲であるので、そのメリットに乗って人口がすぐ急増し、元からあった自然態系があっと言う間にバランスを崩してしまう。今や印旛沼も手賀沼に並ぶほどの汚染沼として有名(^_^;)。

「憲章」には、「だから自然と歴史を大事にしましょう」としか書いてないが、思えば印旛沼は、栄町、成田市、本埜村、印旛村、八千代市、佐倉市、酒々井町と広範囲に渡る沼。行政の管轄って複雑じゃないのかな(^_^;)。確かに「印旛沼」という括りで対処できる仕組みが必要かな〜とも思った(既に何らか整備されてるのかもしれないけど(^^ゞ)。

さて、いっぺん「三の丸」まで戻り、「道場台」に戻って来る。↓

パノラマ3枚(180度)

これよりお城の外側、城跡らしい風景を色濃く残した道に入ってみる。

まずは駐車場の脇に出る。
歩きやすい舗装道が続き

道は進むほどに、やがてまた印旛沼が見えて来る(^^)。↓

この道、駐車場から直接やってくるらしい、あのネコちゃん達(前回参照)がワラワラと森の中を行き来していた(笑)。ネコちゃん↓
先はだんだん道が狭まり、かなり草深くなっていく。薮蚊も出て来て、そろそろ辺りも暗くなったので、このあたりで引き返した(^^ゞ。

城跡外側の土塁を撮影。↓

パノラマ3枚(180度)

←土塁跡は、かなりシッカリ残っていて、昔はキリッと沼からそそり建っていたお城に思えた。臼井城とは沼を通して「渡し」で連絡を取り合っていた、と推定されてる。
行ってみて「臼井城とセットで」と勧めて頂いた理由が何となく頷ける(ぽろぽろ様、ありがとっ)

さて、この日はこのあと宗吾に出て、ウナギにありついた( ̄∇ ̄)。
実は、前に2006年「11月のたわごと」で出した「ナマズの街灯」は、この8月に撮影したもの(笑)。

つまり、ここから宗吾街道(ウナギ・ロード)に戻るのは、わりと手近な感じがある(^^ゞ。だいぶ遅かった(8時ぐらいになってたかな)けど、一軒だけやってた。
←「錦谷」と読める。(だいたいこの辺り・地図B
↓わりと広々とした駐車場で、道路からもよく見える。

お庭のワンちゃん
そして……ウナギ定食〜〜(≧▽≦)!

このお店がなかなか良かった(^^ゞ。値段もそんな高くないし、ウナギは美味しいし、この界隈は夜わりと早く閉まってしまう(7時過ぎるとやってない店が多い気がする)けど、ここにワイワイと地元のお客さんが来てた。店内が広くて、昔の民家の模型が置いてあって風情もあった(^^)。



■2006年5月
<印旛沼>

さて、ここで一度5月に戻るが、行き先は印旛沼のさらに先(南)に行く。

印旛沼は橋で超える時に、ちょっと沼地に降りられる場所もあって、そこでじかに沼を見られる(^^)。

こんな感じ。パノラマ3枚(180度未満)

↓一部拡大↓

あとは車内から撮影

いつも車に乗ってるので、今いちシャッターチャンスに恵まれなかったが、この通り海草を干してたり、小さな船や船付きなどの風景に、ちょっと江戸時代のような風情があって、何となく長閑で、舟歌でも歌いたい気分になってくる(^^)。



<臼井城跡>

地図C。←「印旛沼公園(師戸城跡・地図A)」から殆ど距離はないが、こっちは「京成臼井」駅が近いので、電車で来るなら便が良い。徒歩だとわりと歩きはするが、ゼェゼェ言うような急な坂でもない(^^ゞ。

ただ適当に入ってしまうと迷うので、道路からは臼井宿の交差点から入って来ると、城の正面に出られる。通りすぎちゃったとか、我々のように北から車で来る等の時は、裏からになるが、「ディリーヤマザキ」のカドに城山の麓「円応寺」(地図D)の標識があったと思う。「円応寺」からも城跡への登り口が示してある。

というわけで、臼井城にやって来た(^^ゞ。

城山ふもとの駐車場。パノラマ5枚(180度以上・魚眼)

↑この左側の道をちょっと登ってから入る。

城山沿いに神社の祠(分社)が祀られている。

道を隔てて反対側には古めかしい墳墓。パノラマ2枚

むにゅむにゅ〜懐かしいような風景(^^)。

←そして見えて来る「臼井城」入口。
↓入ってから後ろを振り返る。

臼井城は千葉氏の一族、臼井氏の居城(^^)。
師戸城を支城とするなら、こちらが本城という事になる。

1114年千葉常兼の三男、六郎常康が初めて臼井の地を治めた。
ちなみにこれは、相馬氏とかが出て来るより、もっと前に枝分かれした家系になる(^^ゞ。

千葉常兼┬常重−常胤−師常(相馬)
      |
      └常康(臼井)


やがて14世紀中頃の6代城主、臼井興胤によって、城の基礎がおかれたと伝えられる。
この興胤は臼井氏の中興の祖といわれる人物で、鎌倉の建長寺で育った。
その際、養育にあたった僧仏真禅師の厚恩に報い、城の北側の麓「円応寺」を開山した、とも伝わる(後でちょっと寄る(^^ゞ)。

この時期に当たるかは不明だが、築城の際、鬼門の地に創建された社の一つが妙見社と言われ、現在も「臼井妙見社」として伝わっている(これも後で行く(^^ゞ)。

現在の遺構は15世紀以降のものと考えられるが、城跡は本丸、二の丸を中心として、城跡の近くにも、空掘、土塁の一部など、今でも昔のままに残っている。

歴史的には、太田道灌や上杉謙信の軍との攻防戦で有名となった。

室町時代の中期、千葉氏一族は、古河公方と管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、二派に分かれて争った。
これについては、2006年「城主のたわごと8月」<里見公園(国府台城跡)>内(A)に、ざっと記した通り(^^ゞ。

「ざっ」と言ってもちょっと長いよ。
臼井城の方はGWに行ったので、今度レポするね(^^ゞ。<上がるの冬ごろかな
って言ってる所までね(^^ゞ。その後の文もウッスラボンヤリ関わっては来るが長いし(笑)。

ってわけで、古河公方成氏に登らされたあげく梯子を下ろされた千葉(馬加)孝胤は孤立し、太田道灌の格好の餌食となってしまう(^_^;)。
1478年12月、上杉方の太田道灌は、千葉(馬加)孝胤を境根原(松戸市小金〜柏市南柏あたり・これも後でちょっと寄る(^^ゞ)の戦いで破り、敗退した孝胤勢は、一族の臼井持胤、俊胤の守る臼井城へ逃げ帰った。

翌1479年1月、道灌の弟、太田図書助資忠と千葉自胤(武蔵千葉氏)の軍勢が臼井城を包囲したが、城の防備が堅固なため、いったん引き上げようとした時、城兵がどっと討って出て太田勢と激しい戦となり、遂に落城したが、図書助ほか53人がこの地で討死したという。近くには「太田図書の墓」がある(これも後で行く(^^ゞ)。

16世紀半ば、長くこの地の領主であった臼井氏は、16代臼井久胤までとなり、戦国時代の末期には原氏が城主であった。
原氏というのも、千葉一族から出た氏族だが、千葉(馬加)孝胤とともに境根原で太田勢と戦ったと見られ、つまり臼井城は一度は道灌の側に落ちたが、その後、原氏に奪還されたと見られる(臼井城での太田勢の勝利自体を疑う見方もあるようだ(^^ゞ)。

1590年小田原落城により、千葉氏とともに滅んだ後は、徳川家康の部将、酒井家次の三万石の居城となったが、1593年の火事によって城廓は消失。その後、跡地だろうか、酒井氏の1604年の転封まで使用された、とも言うが詳細はわからなかった(^_^;)。

江戸時代の1698年、臼井久胤の玄孫にあたる臼井秀胤(号は信斎)は江戸から臼井へ戻って、麓の「円応寺」で晩年を過ごして和歌を、僧、玄海(号は宋的)は八景を撰して漢詩を創作。
これが「臼井八景」で、夕映えの城跡の嶺に立ち、祖先が臼井城の城主であった頃を偲び、歌を作り上げたという。
「城嶺夕照
いく夕べ入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡」

本丸跡の発掘調査により、15世紀の中国・明時代の陶磁器の破片や、城が火事になった時の焼け米などが発見されている。

じゃ入ろう〜♪

パノラマ4枚(180度以上)

↑入ると広々とした芝生公園が広がっている(^^)。道は芝生を囲んで丸くカーブし右に伸びてる。
ここ、夜のライトに照らし出された様子もなかなか良くて、夜に来た事もあるので、ちょっと出すネ。↓

こんな感じ。パノラマ5枚(180度以上)

カーブ道をグルッと回り込んで来た所。↓
さらに奥の通路へ。→

通路左側。パノラマ2枚

←通路の右側。木の間と土塁の合間に見えるのは、さっきの駐車場。

案内版には「土橋」の説明がある。
「土橋」は、T郭の坂虎口(出入口)とU郭を結ぶ通路の役目を果たし、橋の幅を狭くすることで、一度に多勢の敵が渡れなくなり、わざわざ曲がった坂をつけて敵の進む速度を低下させ、北にあるT郭の土塁上から側面攻撃を受けやすくなるように工夫されている。
現在は保存のため、盛り土によって覆っているそうだ。

正面、上がるとU郭へ。パノラマ4枚(180度以上)

この急な坂を支える土塁、左側。コンモリと高く盛り上がっている。
さっき夜の事を書いたが、このように木々が鬱蒼と坂道を覆って、昼でもこの道は暗く、夜はライトも殆ど遮られるから足元は怖いよ(笑)。

ただ、灯りが点いてるせいか、夜(8時ぐらいだったかな)に来ても、付近の人がお散歩に来てるのにもよく出会う(^^ゞ。ワンちゃんのお散歩が遅れちゃった人なのか、地元のパトロールとかもあるのかな。

登り切って振り返る。→

真っ直ぐ行ける道と曲がる道筋に分かれてる。これを曲がってまず最初の郭跡に行ってみる。

夜。通路(右)を上がった所に広場。パノラマ5枚(180度以上)

広場に入る↓。パノラマ5枚(180度以上)

広場の奥では印旛沼が見える(^^)↓。パノラマ2枚

実はここに初めて来たのは……8年ぐらい前だっけな(^^ゞ。
「海が見える?!」「ウッソー!」という感じで、何が見えてるのかも一瞬わからなかった(笑)。

もちろん「印旛沼だぁぁ〜!」とはスグ判ったんだが、来るまで印旛沼が見えるとは全く知らず、この時の印象がすこぶる強かった。
ところが、この城の名を忘れてしまい(笑)、ネットするようになって時々写真を探してたんだが、「これ!」という確証を持てずにいた(^_^;)。

「見付けたぁ〜!」と思ったのが、YORI様のHP(^^ゞ。「印旛沼が見える」とハッキリ書かれ、公園の外観もよくわかる写真を載せて下さってたのが助かった。

大抵こういう「城山の写真」て、知り抜いてる場所でも、ネット上で見ると「あの公園(とか山)のどっかに、そんなトコもあったんだ(^^ゞ」と驚くような局所詳細的な写真が多いから、「臼井城」って名前を忘れちゃうと、どれが何なのか判らなくなるんだよね(笑)。

さて、さっきの通路付近まで一度戻ろう。
広場はこんな具合にグルリとカーブを描いた道がある。→
前に来た時は、噴水か何かがあったような気がするんだが……(^_^;)。。

いっぺん戻って今度は右に行く。パノラマ4枚(180度以上)

↑さらに先に進む、て事ね(^^ゞ。

やや狭い広場がまた出て来る
すごく大きな藤の木。満開(^^)。

ここの眺めが、さらに印旛沼に近い(^^)。
この臼井城は、さっきの師戸城に比べると内陸にあって、このように眼下にはまず手前に町並みが広がっている。

パノラマ3枚(ほぼ180度)

でもその分、夜景としては臼井城もかなりカンドー(^^)。

夜。パノラマ3枚(ほぼ180度)

城の裏側は急な斜面。パノラマ3枚(ほぼ180度)

↑階段がついてるから今は上り下りしやすいけど、城の形状としてはかなり絶壁っぽい(^^ゞ。
要所要所が堅固な作りで、太田道灌とか上杉謙信とか、戦上手が手こずっただけの事はある(笑)。また遺構が残ってて、当時の様子が窺い知れるのがいいと思う(^^)。



<太田図書の墓・臼井妙見社・円応寺・ウナギ(^。^)>

さて城を出ると、駐車場から上って来た道路を、城を越えてさらに先に行く。
城を出た後も、周囲は城の防備が延長されてるかのように、道の脇に濠を巡らした谷底が見え、さらに木々で暗くなった一本道の先を行くに従い「太田図書の墓」に行き会う。 ↓

周囲は谷よ〜。
太田図書の墓」(ボケてゴメン(^_^;))

先刻の話の通り、道灌は臼井城を落としたと言うが、激戦だったと見え、道灌の弟、図書助が戦死したので、この地に葬られている。

実はこの「太田図書の墓」、8年ほど前に来た時、地図をざっとだけ見て「何か図書館があるらしいから、その建物を目当てに行こう」とか勘違いした(爆)。
その祟りなのか(たぶん暗かったからだろうが)、一生懸命に角度を構えて何枚か写真を撮ったハズなんだが、シャッターが下りなかったと見えて、この通りマトモなのは一枚もない(^_^;)。。 *いいザマだわ*

ただ、ここに来る道は、やはり山城を基準に作られた城下町風のカッコ良い道にも思え、こんな具合にカクッと折れてたりする。→
こういうのは侵入する敵に前途や全容を見えにくくさせ、恐怖心を煽るとも渋滞を誘うとも言われ、千葉県では久留里城付近でも見掛けた(^^ゞ。

この図書の墓を分岐点に、道を右に下って行くと「天満宮」がある。
逆に左にさらに上って行くと「臼井妙見社」がある。

天満宮
臼井妙見社

「臼井妙見社」は、本殿に「星神社」ともあり、典型的な千葉一族の祀る妙見社に思える(^^ゞ。
妙見は北斗七星を神格化したもので、千葉一族にとってはその祖、平良文いらいの守護神とされ、一族が掲げる家紋にもある「月星」「日月」「九曜」は、この妙見に由来している。
千葉氏はその所領に必ず妙見をまつり尊崇したという。この神社の社紋ともなっている。

妙見社下の八幡台に通じる道には「左くすのきみち、右さくらみち」と刻まれた石仏があり、赤子を抱いた「子安観音」で、1857年と彫ってあり、成田街道から楠の大木のあった八幡社への道標を兼ねていた、と案内版には書いてあった。

←その子安観音のお堂の横に、大木の洞を塞ぐように石碑が立っていたのが印象的だった。真ん中に「月山大神」、右に「羽黒大神」、左に「湯殿大神」とあり、素晴らしく判りやすい出羽三山信仰を表している。

ウチあたりでも富士講つながりだろうが富士山を祀っていたり(笑)、その土地に何が伝わってるか経緯は沢山あるだろうから一概には言えないが、強いてこじつけるなら、羽黒山にある「平将門が創建」と伝わる五重の塔が思い出される(^^ゞ。
この羽黒と将門の関係というのは、何でそういう事になったのかはもちろん不明だが、何しろそういうわけで、「出羽三山と千葉一族」と聞くと、勢い連想は将門に行くわな(笑)。

あ、楠木と言えば……。そういや将門創建の羽黒山の塔は、1300年代に再建とか聞いたな(^^ゞ。

妙見社の入口カドの墓。パノラマ3枚(ほぼ180度)

↑こういうちょっとした風景のイチイチに風情がみなぎっていて、「いや〜何か文化レベル高そ〜(^^ゞ」と思った。

臼井城に行く前に目印に……と言った「円応寺」にも来てみた。↓

←山門とお堂。
↑バッチリ「月星」の紋(^^ゞ。
寺は臨済宗の建長寺派。

前述の通り、臼井興胤が創建(1338年)と伝わり、臼井氏の菩提寺となった。興胤は建長寺で育ったという。
1590年に小田原征伐によって徳川家が入って来て、酒井氏が臼井城に居城したが、1593年に城が焼失した時、この寺もともに燃えたという。が、寺はその後再建されて、江戸時代「臼井八景」の一つとして詠われた。
臼井氏歴代墓所と家臣(岩戸胤安)の墓がある。

この臼井城は、5月の「房総のむら」に行った後に来たんだが、この日も無事に美味しいウナギにありついた( ̄∇ ̄)。
場所は佐倉。「歴史民俗博物館」の道路沿いだった(^^ゞ。地図E←この辺。「鹿島橋」ってトコ。
お店の左側
右側「鹿島園」

野菜の天ぷら(^^)。
うな重(^O^)!

ここも美味しかった〜(#^.^#)。「歴博」ならこれからも何度か来そうだし、佐倉まで来て鰻を食べて帰るだけでも、ちょっとしたドライブコースかも♪



■再び・2006年8月
<八千代「文化伝承館」>


これも、ぽろぽろ様に教えて貰ったトコ。

八千代という場所は、印旛沼村とか佐倉市より西……つまり東京に近く位置する。ざっと位置関係→地図F
その中でこの時行ったのは、だいたいこの辺り。地図G

まず、佐倉から八千代に向かうと、「新川」という印旛沼に繋がる川を渡る。ここは「村上橋」という。→

この「村上」は15世紀ごろ、八千代市の米本城の城主だった村上氏に関係があるようだ。
出自は不明(^^ゞ。いろいろ推測されてるサイトもあるにはある。

また印旛沼と繋がるだけあって、この辺りにも龍神伝説があり、「草田の鳴き龍」というそうだ。
雨乞いを頼む時、「文化伝承館」の入口の天井に張ってある絵馬に拍手を打つと、龍の声がして雨を降らせるという。絵馬は雨を降らせる龍の言い伝えを描いた物だとか。

←その「文化伝承館」にまず向かった。入口には「飯綱神社」の鳥居。
鳥居をくぐって坂道を登る↓

この「飯綱神社」は、太田道灌が米本城に攻めて来た時、その本陣に使われたとも言うんだが、この道灌襲来というのは、時期がちょっとアヤシイ(^_^;)。

と言うのも、米本城の城主には村上国綱と綱清の名が見え、2人は父子であるそうだが、この綱清の方が1558年3月13日に自殺したと言うのだ。それを期に米本城は廃城(あるいは落城)したという。

で、その戦った相手が太田道灌という話なんだが、道灌は1486年には死んでるので(^_^;)、何か別の事件とゴッチャになってる感じがする。

「道灌」と「1558年」のどっちに焦点をあわせるかも悩ましい所で(^^ゞ、あるいは史料的に、途中何代か省略されてるって事もアリかもね(^_^;)。

道灌が国府台城を築城し、柏市の境根原で馬加や原とぶつかりあった1478年ごろに合わせれば、上に書いて来た通り、すぐ近くの臼井城で1479年に攻城戦が展開されたのだから、その前後の頃、国府台と臼井の間にあるこの地域で戦闘があっても不思議ではない。

また1558年と言えば、第二次国府台合戦のあった1561年に近い。
第二次国府台合戦については、さっきの続きになるが、2006年「城主のたわごと8月」<里見公園(国府台城跡)>内(B)を(^^ゞ。

この時、道灌の太田氏は曾孫の代になっていたが、里見に味方してたので、これと戦うならここの村上氏は北条方だったという事になるが、北条は勝ったのだから、負けた側(自殺というからには、病気でもない限り「負け」が原因だろう)って事は……里見側か?(^_^;)

しかし伝承というのも重要で、実はこの付近を通っていたら、「七百余所明神」という社に出会っている(^^ゞ。
「何だろう」と亭主に車を寄せて貰い、ちょっと案内版を眺めたが、そこには触れてなかったので写真も撮らなかったんだが、実はこの場所が、後で「村上主従700人余りが自決した場所」と伝わっている、としているサイトもあるので、かなり大掛かりな事件(か紛争)があったのかもしれない。

ちなみに米本城には行かなかったが、城の先端部分は15世紀中頃に作られ、村上綱清のころ拡張したという(と言っても、結局いつ頃の人か判らなかったけど(^^ゞ)。

伝承の館」。パノラマ3枚(ほぼ180度)

夏の日差しでかなり明暗が強く↑こうなっちゃったけど(^_^;)、ご覧の通り神社のお堂(鐘楼)と並んで施設がある。

で、ここに来たものの、中で聞いたら「今は郷土博物館が出来たので、そちらの展示を参照して下さい」という事で、郷土資料館の方に行った(^^ゞ。「郷土博物館」は地図Gだと「正覚寺」の向かいにある。

資料館では、ちょうど村上氏に関する展示もやってた時期だったので、いろいろタメになった。でも村上氏の事はだいたい書いちゃったから(^^ゞ、この「伝承館」に来てみて面白かった話を。
それは、国府台に行った時に見た「辻斬り」の詳しい展示を見れた事(^^)。

「辻切り」の蛇
「オビシャ」と「般若」
「神輿」

「辻切り」については、2006年「城主のたわごと7月」<国府台天満宮>内を。
悪霊をここでは「鬼」と言い、市川の「村の四隅」がここでは「道」となり、鬼の嫌いなものや怖い蛇を置いて威嚇し、「道切り」とか「綱吊り」と言った。年の始めに付け替える。

蛇でなく注連縄を使うタイプでは、「嫌いな物」が、唐辛子、大蒜(にんにく)、柊(ひいらぎ)、八つ手など匂いの強いものやトゲがあるものを使うなど、ちょっと節分の鬼祓いに似てる感じがする。

辻切りの風習は、全国でも千葉県に特に多く、上記の他に「貧しいムラを装う」「鬼をもてなして帰す」といった「ご機嫌取り型」もあったらしい(^^ゞ。

一方「オビシャ」の方は、ウチあたりでもよく聞く単語(^^ゞ。和菓子の名称になってたりする。
元々は弓を射る行事だったが、今は高津と高津新田の二箇所でしか行われてない。写真は「ハツカビシャ」と言い、「甲・乙・ム(無)」の字を合わせた模様をマトに書き、「甲乙無く平穏」を祈って、そこに弓を射る。
高津新田では「カラスビシャ」と言い、諏訪神社で、マトにカラスを書いて弓を射る。

高津比刀iたかつひめ)神社では、農耕開始の春先、オブスナ神を招いて、村人が当番で一年間お世話をし、宴を催すスタイルだし、オトウ(御神体)ワタシでは、大根を半分に切ったものに塩を付け、頭に擦りつけ、次の当番には背中に入れて渡し、酒宴をする行事になっている。

「辻切り」も「オビシャ」も、戦闘的なタイプの物と、ご機嫌取りをするタイプの物が、同じ名で呼ばれてる所が共通した特色かな(^^ゞ。
何かこうした面も千葉県かな。当面する敵には誓詞を交わしてねんごろになり、居なくなると「さぁ武芸の稽古だ」「守備を固めよ」とバンバン戦闘的な城とか作っちゃう(笑)。



<柏、酒井根の風景>

ド〜ンと帰って来て、印旛沼ではないけど、今度は柏市(^^ゞ。
国府台、臼井と、「道灌×馬加・原」の拠点や合戦地を巡って来たので、そもそもその発端の衝突があった「境根原」がどんな所か、ちょっと廻ってみようと思った。

「みよう」と言っても、実はこの辺りはホント近所(^^ゞ。しょっちゅう通ってる。
この地域は、今でも柏市と松戸市の「境目」にあり、これは昔も境界であったから「境根」と言われたらしい(笑)。

古戦場について調べてみた所、麗澤大学とその周辺の団地に合戦跡があるらしい(^^ゞ。
ネット上では、首塚などの一隅がある、とも見付かった。

ところがその辺りの地名は、今は「境根原」ではなく「光ヶ丘」になっている(笑)。
いかにも新興住宅的な地名だが、「境根原」の名残が全く消えたわけではないらしく、「光が丘」のすぐ南に今でも「酒井根」という地名は残っている。
実際にはその辺り一帯が合戦地であっただろうから、まぁこれでもいいわけだ(^^ゞ。

地図H←北部に「麗澤大学」や「光が丘団地」。南部には「酒井根」という地名があり、そこに「酒井根下田の森緑地」や「龍光寺」が見える。この南部の方に行ってみる。

←「龍光寺」山門。 ↓本堂。

1400年代前後の室町時代に創建というが、その場所がここだったかは判らない(^^ゞ。
この場所として確定的なのは、江戸時代初期(1600年代中頃以降)、建物は、本堂が江戸時代1700年代後半。
裏手の薬師堂は1428年創建というから、合戦のあった時期とは重なりそう。

奥の森林に入る
酒井根・下田の森緑地(と思う(^^ゞ)

地図で見ると、お寺の裏地あたりにこの「下田の森緑地」とある。
こたつ亭主は、ここに入り込んで「ビックリした!」と言っていた。
というのも、ここに入り込むと、周囲のズラッと並んだ住宅街とはまるで異世界で、トンボやカエル、ホタルやフクロウ、サワガニや野鳥が生息するという。

ウチの周辺で城跡とかが残ってる場所は殆どない(^_^;)。住宅化の波に押されて消滅したか、場所が不明な所もあるらしく、住宅内の小さな首塚であっても貴重であると思うし、合戦跡の碑なら、都市や住宅地になると、どっかにポツと残ってれば充分かもしれない。

しかし開発と住宅化の波に押され、史跡のみならず自然も失われていく。
そうした中この森は、昔ながらの里山の風景と自然態系を僅かでも残そうと、土地所有者が自ら無農薬で手入れして土地を提供し、市民の協議会によって管理されている。1999年オープン。

また、この酒井根とかなり近いのだが、我が松戸市にこのほど「根木内城跡」なる公園(地図I)がオープンした。
この根木内城と酒井根(古戦場)は目と鼻の近さ(^^ゞ。城から打って出てすぐ合戦になる距離だと思う。

右の上下に「麗澤大学」と「酒井根下田の森緑地」、左に「根木内歴史公園」、さらに左上には「本土寺」(地図)、この領域に入ると高城氏の大谷口(小金)城跡(地図)がある。

去年秋、城跡公園のオープンを記念して公演も開かれ、展示会も催された。
そこで、この「根木内城」は「大谷口城」と連携し前線で防備に当たった城、と説明されていた。

城跡にもついこないだ行ってきたばかり(^^ゞ。その時はデジカメを持ってなかったので、そのうちまた行ったら写して紹介したい。
ただ、今はまだ案内版とか殆どなく、警察に聞いても、すぐにわかる場所ではなかったと見えて、おまわりさんが大勢出てきて、新しい地図をみんなで見ながら探してくれた(笑)。
今はまだせっせと何か作ってる所もあるようなので、行ってみたい人は、もうちょっと整備されてから来られるといいかもしれない(^^ゞ。

というわけで、これにて「利根川&印旛沼編」は終わり(^^)。



■2006年5〜9月
<オマケ(^^ゞ>


●5月ごろ

去年はなかなか暖かくならなかった(;_;)。。お日様の顔もあまり見れず、植木もなかなか元気が出ず……なのにっ、パソコンは早くも5月に熱暴走でブチ壊れたっ!ヽ(`Д´)ノ

なかなか大きくならなかった我が家の大葉たちをチョイ見せ。

5月初旬。まずだいたい種をまいてから芽が出るまで遅かった(^_^;)。

5月下旬。何っこの遅さっ、6月になっても食えなさそ〜( ̄∇ ̄;)。。

6月近くなってもこの有様! 撒いた種に比べ出てる芽が少ない(涙)。。

すごく日照時間が少ないと、5月ごろからニュースで騒いでいた。
そのせいだろう、ただ大きくならないだけじゃなく、せっかく出て来た芽が、ちょっと水遣りしただけで、ボヨ〜ンと土にヘバリついちゃって起きて来ない(^_^;)。。
仕方なく何度か指で助け起こしてやる始末。今年は農業関係の方もかなり苦労されたんじゃなかろうか。

まばらに出て来て、なかなか大きくならない。ヘコむわ〜(笑)。

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●6月ごろ

そんな夏に相応しい……と言えば嫌味か(笑)、亭主が買ってきたお土産。
ジャジャーン! 「あじさい・くずきり餅」!
鎌倉の和菓子であるらしい。美味しかったヨン♪

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●7月ごろ

そうこうする内にやっと夏(^_^A)。

ところが一度来ると今度はバカ暑で、去年はいたく夏バテしてしまった。。

本当に参ってしまい、こういう時間になってから買い物に行く毎日(笑)→
↑「六文銭」紋いりの「しめじ」。
「JA全農長野」とも「JA信州うえだ」ともある。
六文銭の下にはシッカリ「真田幸村の里」と書かれている。いいな〜。松戸で「高城胤辰の里」とか書いても何の事だか地元民すら判らんだろう(笑)。

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●8月ごろ

早朝ゴミ出しに外に出て、ふと空を見上げたら……「あっ、龍だっ!」。
慌てて家に戻ってカメラを持って来たら、見事に崩れてしまっていた(^_^;)。。↓

龍のイナバウアー(@曲トゥーランドット:爆)。パノラマ2枚。

↑ホントは下部分が顔で、ちゃんと目鼻も髭も前足もついてて、グッと背を逸らして……でもこの時は既にバラバラになってしまい、イナバウアーと言うより、ビールマン・スパイラル風ね(^_^;)。

でもしばらく見とれていたら、朝散歩してた付近の人も同じように驚いて見上げてた。「縁起イイ〜(#^.^#)。何かいい事あるシルシかも〜」と、色々ネット検索したら、同じような現象を指して「今度お生まれになるのは、きっと親王さま!」とか言ってる記事を見付けた(笑)。

そ、そういう事だったのか(^_^A)。確かにこの直後、悠仁親王さまが誕生されたのよ。

てっきり宝クジに当たるのかと期待した(爆)。空や雲なんて誰でも見る物にそういう不純な期待をする者は、得てしてメデタイ写真のシャッターチャンスを逃すものかも。。(でも念のために宝クジを買っておくべきだったのでは、と今頃ちょっと後悔もしてる:核爆)

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●そして9月

「ふぐ料理」というものを生まれて初めて食べた。
←プリプリしたフグが丸ごと入っている雑炊と、フグ刺と、クジラ肉の甘酢づけ。
↑フグのから揚げ。
右に並んでるのは吟醸酒。「菊姫」「八海山」「雅山流」。

実はウチの近くでは「ふぐ料理屋」が意外と多い(^^ゞ。「なのに一度も食べた事がない」と、我ながら前から不思議に思っていたら、親が連れてって食わせてくれた(笑)。

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次回からは、いよいよ2006年9月に行った東北レポ(会津〜米沢編)をスタート!

2007年01月06日(2014/06/12:地図(ヤフー→MapFan)張替)
 
     





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