<2016年・城主のたわごと11月>




2016年5〜7月、水田と晩春〜初夏の花々(バラとアジサイ)

印西「龍腹寺」と「双子公園」、松戸常盤平「熊野神社」の森




     
  冒頭は、前3回(8月号・6月号・7月号)と全く同じ(笑)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

というのを定例だと冒頭に入れるんだけど、その前(4月号)の↓

〜おしながき〜「武蔵千葉氏編」1〜4
2016年「4月のたわごと」(東京板橋)
■10月・東京都板橋区
<板橋区郷土資料館@「武蔵千葉氏展」>
<板橋区郷土資料館A「旧田中家住宅」>
<赤塚城跡「本丸〜滝不動」>
<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>

↑は、ちょいレポだったんで、その前の「足利編」も出しておく(^^ゞ↓

〜おしながき〜「足利編」1〜4
2015年「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
同「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
2016年「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
同「2月のたわごと」(足利4・千葉北西部)
■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>
<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>
<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>
読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

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各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

その前の古河も出しとこか(^。^)↓(それはもいって?www)

〜おしながき〜「古河編」1〜2
2015年「4月のたわごと」(古河1)
■11月・茨城県古河市
<関宿を経由して古河へ入る>
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>
<水戸市街と水戸城「彰考館」跡>


同「5月のたわごと」(古河2・他)
<1泊目夜〜2日目朝・横川温泉「八幡太郎義家の湯」> ■11月下旬・茨城県古河市
<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)、2>
<「長谷寺」(長谷観音)>
<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>
<古河総合公園A旧民家(中山家と飛田家)>
<古河総合公園B「公方様の森〜天神橋」>
<古河総合公園C「筑波見の丘」から「桃林」まで北上>
<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>
<鳳桐寺>
■11〜12月・千葉県北西部
<晩秋〜初冬の風景>

さて、前回8月号から、2か月以上、間が空いた(^_^;)。。
何となくそうなる予感はしてた(笑)。

前回は桜まつりの4月初旬までお届けした。
今回は冒頭からイキナリ5月に入り、ツラツラと晩春を通り過ぎると、すぐアジサイの咲く頃となる。
今年はアジサイを見るのが早かったな〜5月下旬には咲き始めてた。

で、6月に入って、利根川の南だが、印旛沼よりは北にある「龍腹寺」に行ってみた。
かねてより、ちょくちょく話に出す事のあった、龍伝承のある3つの寺(龍角寺・龍腹寺・龍尾寺)の一つである。

帰りに印旛沼の見渡せる「双子公園」に拠る。
ここはナウマンゾウの骨が発掘された事にちなんで、母子象の像が建てられている公園。

その後は6月の風景を又ツラツラと綴り、7月に入った辺りで次回に続く。



■5月・千葉県我孫子市・印西市・柏市・松戸市
<晩春の水田>


5月に入って、あちこちで水田が見られた。
特に夜に水面に月明りが照らされ、大層幻想的なので、昼と夜を各々写しておいた。

あ、ただ……実は1枚だけ、4月末(爆)↓

前号の最後の方で、千葉県と茨城県の境にある利根川沿いを通った。
あの後、布佐という所を通る辺りに、利根川を渡る「栄橋」(地図)があり、川向うの茨城県に、徳満寺地図)の丘陵がコンモリと見える。

←利根川を渡る栄橋。向こうに隆起してる森が徳満寺の丘。

寺の門前を通ると「布川城跡」と示す標があって、いたくそそられている(^。^)

布川豊島氏の城だそうで、利根町(北相馬郡)にある。
小田原征伐のあった1590年に落城したそうだ。

ただし先に種を明かしておくと、この豊島氏は、武蔵国の石神井にかつていた豊島氏(江古田沼袋の乱で太田道灌と戦った)との関係は不明と各所で見る。
だからそれ以上の事は、行ってもあまり詳しくはわからないと思う(^_^;)。
(それでも行ってみたい!)

■利根川(メインのネタだけ(^^ゞ)
2006年1月<関宿城・周囲の「にこにこ水辺公園」>
2008年11月<千葉県我孫子市「利根川ゆうゆう公園」>以降
2009年11月<川口神社>

2013年1月<利根川・今井・自衛隊基地>
2016年2月<夏から秋へ、手賀沼・古利根川・利根川> 

2016年8月<千葉県の北すみっコ(笑)>
■豊島氏(武蔵・下総)
2005年10月<石神井城(東京都)>内以降
2006年8月<里見公園(国府台城跡)>内以降
2008年7月<牛久城跡、2>内
2008年11月<千葉県我孫子市「龍崖城」(将門の乱・伝承地)>
2014年1月<小森城跡・名内城跡と「手賀合戦」>
2014年3月<皆野に向かう(鉢形城・寄居・長瀞を抜けて)>内以降
2014年6月<手賀城址@「興福院」>内
2016年4月<「松月院」(伝・武蔵千葉自胤の墓)>内

さて、いつもの手賀沼あたりに戻って来よう。↓タンポポが綿毛を纏う頃^^
橋に群れる下手賀川の白鳥→

いつもは川の西側から写すが、この日は東から写した↑
このあと橋の北にある車道の「発作橋」(地図)を渡り、いつもの西側に回って、今度は発作橋を振り返って写す↓

←発作橋。ちょうどトラックから餌をばら撒く人がいて、白鳥達がいっせいに餌を食べる光景が見られた。
↑川の西側は広大な水田風景が広がる

この田園の中は凸凹道が多くて、車が入りにくい所もあるが……↓

こんな感じ。水が張ってあって湖にいるみたい(^^)(パノラマ4枚180度以上)

もっとも今いる一帯は、昔ならホントに湖の中(^_^;)。今は手賀川に水流が集められているが、その水域はもっと周囲に広かった。
道が凸凹になりやすいのも、下地がかつて湖だったからかも。

後で、また手賀沼の方に来るけど、一度、高柳や藤心の方に戻って、日中の水田風景を見てみよう。

高柳(地図
自衛隊機が丘スレスレを飛ぶ

藤心(地図
そして夜の手賀沼周辺

この夜の水辺を写したのは、手賀沼そのものではなく、手賀沼の南の水田を行き来して撮れた写真だったと思う(地図

月明りが水田を照らして幻想的な陰影を作りだしていた。
この時期、昼は上の通り、空が暗く曇る事が多かったのに、月が明るいのは不思議。

そして最後は、手賀沼が見える南岸の周りを巡りながら、手賀大橋の街灯を遠くに見る地点(地図)↓

←手賀沼から南に向けて一度離れ、右折↓
正面に手賀大橋(地図)のライトが映える↑

以上、関連事項は、
手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>




<薔薇(バラ)と晩春の花々>

5月の花々をお届け〜☆
場所はだいたい、しいの木台、六高台、六実あたり。お花が咲いてる道が多い。(だいたい中間点→地図

真紅のバラ
マーガレット(だよね)

実はもうこの頃から、すでにアジサイが咲いていた(早〜い(゚.゚))。
でも毎年アジサイだけまとめているので、今年もこの後にそうする。
今回は春から夏に季節がまたがるんで、花も2回に分けるけど、アジサイは咲いてる期間がずいぶん長いんだよね〜(^_^;)。。

薄桃色の月見草
こっちも赤バラ

こちら野菜畑に咲いてるのは……
(拡大)ジャガイモの花!

こちらは飲食店↓店の前にバラの植木がいっぱい出されて、目を楽しませてくれた(^^)。


店の前通りの歩道にも、花壇やベンチが用意され↓、買い物帰りに一休みできる(^^)
日没に一箇所に集められて綺麗o(^^)o→

←純白のバラの頭上から柑橘類の実が(笑)
↑低い街路樹に咲く黄色い花。

最後の黄色い花は、「キンシバイ」と呼ばれるようだが、同じこの名でも、形が微妙に違う種類がいっぱいあるようで、検索すると、この種は「ヒペリカム・ヒドコート」というもののようだ。



■5〜6月・柏市・松戸市
<手賀カフェ・紫陽花(アジサイ)>


去年の秋から、亭主の仕事スタイル変更と私の体調不良のダブルパンチで、金も時間も余裕がなくなり、外出も控え気味になってたが、汲々しすぎると心身に影響するって事で、久々にちょっと優雅なランチタイム(笑)。

久々の「手賀カフェ」(地図
ランチはグラタンとお肉のソースがけ

左の大きめカップに入った野菜スープが絶品( ^o^)〃迴~~
グラタンのチーズトーストにとじこめられた丸ごと野菜なんかが、ここの得意料理で、野菜の風味が凄くよく活かされてる。
この日は鴨だったか、軽くフライかトーストされた肉に、ブラウンソースがよくあってた。

食後のミルクババロアとハーブティー
ハーブ野草園の庭

ババロアにかかってるソースが、黄な粉と黒糖のような味で(信玄餅とかの)、こんな風に甘さを濃く感じる物をちょっとかけるのも、カロリーを抑える工夫だよね〜☆彡

さてさて、優雅な時間に続いて、いよいよアジサイ・シリーズ行ってみよう(^O^)ノ


この頃すごく長い間、アジサイの花を見るようになったので、「品種改良された(゚.゚)?」と思ってたんだけど、検索すると、アジサイはわりと花の期間が長いような感じもする。

そういや、同じアジサイが長く咲いてるのではなく、5月に咲いてたのと別のアジサイが7月に咲いてるように思える。

色も近年、多種に及ぶようになった気がする。
が、これも土に酸性かアルカリ性を混ぜるのみの昔ながらの工夫しか記述が見当たらない。

……という事は、アジサイ(を植える人)が増えた、という事なんだろうね(^^ゞ。
多くの(人がそれぞれ育てる)アジサイがあれば、その土質も、多くの混ぜ具合が出来るって事かもしれない。

開花期間が長いという事は、桜みたいに、ほんの短い期間に、あそこの桜もここの桜もいっせいに咲くわけでもないから、晩春の夕陽さす暮れ方、長雨の暗い空の下、晴れやかな夏空の強い太陽の下と、照らし出す光の色合いにも差が出やすいだろう。

アジサイ自体に七色の変化がある上に、光の加減や、見る時の印象に違いがあれば、ますます「今年は実に多くの色のアジサイを見たなぁ」という印象になりやすいのかもしれない。

まさに色とりどり(^o^)

若い頃、アジサイを象った練り菓子を買った時、和菓子屋さんに「結婚のお祝い以外なら、お客さんに出しても大丈夫」と教えてもらった。

結婚に不向きな理由は、アジサイは「色が変わる」からと聞いた。
浮気・不倫・離婚を指すのだろう(^_^;)。。
そういえば、おめでたい席につける事が多い「コサージュ」にも、アジサイは滅多に見ない。

↑ガクアジサイの方が古い種なんだよね。しかも原産は日本というのが驚き。

「変わり身が早い」という性格を、西洋でも国や地域によって評価が別れる、と予備校の英語講座で習った(笑)。

時間を置くと地にはびこる「苔」を、英国では「伝統」「歴史」と捉え、そこから人の事も「経験者」「落ち着いた思慮深い人格」と良く捉えるようだ。

ところが同じ「転がる石には苔が生えぬ」(A rolling stone gathers no moss)を、英国と米国では正反対の意味に受け取るんだとか(^_^;)。
アメリカでは、「苔」は「悪習慣」「変化を受け入れない頑固さ」と悪く捉える向きを感じる。

同じ西洋社会でも、英国以外で(フランスだったかな)「不衛生」「古臭さ」みたいな感じにみた事があり、「黴(カビ)」に近いかな、と思った(^_^;)。
むろん現在では、園芸など美意識が世界で共有されてるから違うだろうけど(笑)。

こちらもガクアジサイ

日本では七色変化を「浮気」に捉えるわけだが、そもそも何らかの忌避意識があったのを、後で適当に理由づけされたのかな、という気もする。

古い日本のアジサイがどの季節に咲いたのか知らないが、今と同じく梅雨時ならば、雨すなわち水神との関係を考えてみたい。

日本では古代、虹も不吉の兆候とされたと言われる。虹は龍と同一視され、虹と蛇は指さしてはならないという話も聞く。
龍は水神だから、雨と関係の深い虹も、水神への恐れなりがあったという話もある。

虹もアジサイも、その多彩な色合いと雨の季節に関係深い事から、自然物に対する畏怖に繋がった……という経過もあったかもしれない。


しかし日本から海外に伝わると、西洋などでは「日本のバラ」として喜ばれたという話も読んだ事がある。
それで品種改良され、日本に里帰りした時には、さらにバラのように全面が花で覆われる、現在の↑ホンアジサイ(西洋アジサイ)として逆輸入されたというわけだ(^^)。



■6月・印西市・佐倉市
<龍腹寺に向かう>


冒頭でも述べた通り、龍腹寺は利根川と印旛沼の間にある。
以前は印旛沼というと、行き方が一定してた。だいたい中央ニュータウン地図)を間に挟む464号線を東端まで行ったものだ。

やがて印旛沼に到達、甚平大橋(地図)を渡ってから南下、うなぎロードを行く……というのが定番のドライブコースだった。(ちなみに今この道は「宗吾街道」と地図に書かれている。昔からあった道路名なのかもしれないが、地図で確認するのは最近のような……)

しかし今年2月号・4月号でも述べた通り、この所、印旛沼に到達するまでのエリアに色んな道を見つけ、色んな行き方を覚えた。

特にこの4号線が良い風情で、このごろ気に入ってる(^^)

この日も、大森近くの4号線(地図)↑を通った。手賀沼に行った後に、ブラリと東部に足を伸ばしてドライブを続行してると、この辺りをよく通る。

その後は64号線・65号線と道繋いでいったと思う

やがて、龍腹寺の一帯に出くわす。

あの奥に見える杜が
龍腹寺のある一帯

「龍腹寺」と言ってるが、実はこれは辺り一帯の「地名」。わりと広い範囲に当たる。

実はこの時、龍腹寺に出会うとは全く思わずに走っていた(^^ゞ。ほんの偶然行き会った。

今回いわゆる「龍腹寺」には入れなくて、その隣の「延命地蔵尊」と書かれるお堂(地図)に行った。たぶんそこも「龍腹寺」ではあると思う。地図によっては「竜腹寺」とあり、お堂の屋根にも「龍」の字が銘されていた。
その「お堂」が、道をゆくと大層目立って、「このお寺は何だろう(゚.゚)」と気になるので、一度通り過ぎてから、戻ってきて立ち寄ったのである。

「わ〜何かお寺みたいな所が」
「……ある〜〜!」と通り過ぎ、戻ってきた

この戻って来る風景が、何となく凄くて……。
写真には写ってないけど、龍腹寺のある一帯(もしくはその向こう奥)が妙に隆起して、確かにそこに何かあるって感じのする一帯なんだなー。(この写真も結構雄大でしょー!)

……で、戻って来て、最初に森に入って手前にある「龍腹寺」に行き会う。

車道から見える寺
山門(ただし入れない)

この石の門構えの手前に、鍵の閉まった入口があって、入れなかった(^_^;)。。
この石漂に「龍腹寺」と刻まれていて、地図で見ても、こっちに「龍腹寺」(地図)とある。
定時を過ぎていたのか、元より一般参詣は受け入れてないのか……。

ただ、この寺の左方向に、雑木林を隔てて、さっき見えた赤い屋根のお堂(地図にいう「延命地蔵尊」地図)があって、こっちは正面に案内板も立っているし、青年会館や駐車場も同じ敷地にあって、一般人が入れるようになっている。

←「延命地蔵堂」↓雑木林(パノラマ4枚180度以上)「龍腹寺」→

というわけで、早速、「延命地蔵尊」の方に来てみるわけだが、山門(仁王門だった)に近づくと、右の雑木林に結界が張ってあるのに気付く↓
注連縄っぽい奥を覗くと、深い森に続く下り坂→

地図を見ると、どうもこの雑木林の奥には、寺の側面を縫うように川が流れており、この北西方面には「龍水寺」(地図)という寺もある。
川と龍水寺の間で、水流が一度途絶えているように見える。そこが水源なのかもしれない。水源を挟んだ両側に、龍の名を冠した寺を置いて祀っているという事かな……。
(他にも、龍淵寺・龍湖寺など多々あるが)



<竜腹寺(延命地蔵堂)>

仁王門の前の案内板と、境内にあった石碑の碑文から、お寺に伝わる歴史を辿ろう。

……最初に断っておくと、案内板のほうは字が明瞭で現代文に近かったが、石碑のほうは字の摩滅や陰影の具合で読み取れない字が多々あり、且つ、送り仮名入りとは言え漢文だった(^_^;)。
よって所々、推測でいく点、人名や読み方などに間違いもあるかもしれない点、あらかじめご了承を(^^ゞ。

まずは奈良時代から……。
伝えによれば、大同2年(807)、平城天皇の勅願を期に、慈観上人によって寺が開かれた。
寺は、慈雲山・延命院・勝光寺と号し、本尊は延命地蔵尊、弘法大師の招来と伝えられる。


←隣の雑木林に続く道(拡大)
↑じゃ、改めて山門に入ろう。両脇に仁王像を安置した仁王門である。

続いて平安時代。
承和4年(837)、七堂伽藍が整い、25坊が揃う、北総屈指の名刹となる。
延喜17年(917)、降雨の法を修して霊験を示してから、山号を「天龍山」、寺名を「龍腹寺」と改めた。
天慶3年(940)、密勅を受けて、平将門の調伏を修する。


この「降雨」の「霊験」と「龍」のセットが、前々から印旛沼周辺に伝わる龍伝承として紹介している物になるだと思う(^^ゞ。

小さい龍が人間を旱魃から救うため、大龍神に逆らって雨を降らせる努力をしたため、体が三つに割かれて落ちた。頭部を龍角寺、腹部をこの龍腹寺、下半身を龍尾寺にそれぞれ祀られているという。(2006年12月<房総のむら>内

この伝説は、江戸時代、稲葉氏の家臣が土地の伝承を書き留めた中にあるらしい。

杵?金槌?打ち出の小槌?
右にもズラリ!圧巻!

仁王門にこういう物が掛かってるのは初めて見た。
そして、その下に左右の仁王像

嘉永6年(1629)の彫刻だが、元は、左が慈覚大師(円仁)、右が丹慶の作と伝わる物で、「無乳仁王尊」として名が高かった。
これが、「大同2年(807)の伝記」と言うのだが……

慈覚大師すなわち円仁は、大同二年にはまだ13歳なので(^_^;)、この「大同二年」とか「慈覚大師」というのは、東北などのお寺によく見受けられる決まり文句で、「古い」という意味に受け取っておくのが良かろう(笑)。

三度に渡って焼失し、一度目は戦国期の千葉氏、二度目は江戸期の稲葉氏によって再興された。
三度目に焼失した後、この地の土井伊作が発願し、近郷より浄財を集めて、高野光慶、杉山宣慶という兄弟の仏師によって、今のこの仁王像が作られた。

名にいわれる「無乳」は、一夜にして作られた像なので、乳が無いという。(省略されたって事かな)
「乳に関する願いは速やかに適う」とある。

損傷が激しくなったので、茨城県江戸崎の仏師・冨岡清吾・義範父子(屋号樽見屋)に依頼し、昭和49年12月12日より同52年3月20日に到る、富岡父子の綿審なる解体を経て、本堅地に漆仕上の修補がなった。


このあとに、他にも多くの文化財があった事が続くが、この仁王像については「部落民の総意により」とあったので、特に崇敬・親愛・信仰を集めていた(例えば乳の出が悪い女性が願いをかけるなど?)のだと思う。

仁王門を潜ると、境内が広がり本堂(地図)が目前(パノラマ2枚)

本堂に向かって右手には鐘楼と日枝神社がある。
一方、左手(←こっちね)にも入口があり、最初(行き過ぎる前)、道路から見えた赤い屋根は、むしろこの向きからだった。そっちの方からも見てみよう↓

すると青年館が建っている。右の立て看板は↓
熊の交通法規w

小熊がお菓子を食べながら、人間に、車への注意を呼び掛けている(笑)。
小学校の生徒が書いた絵なんだろうね(^^ゞ。

境内にはここから車で入れ、駐車スペースもあり、お寺と青年館の兼用になってるようだ。

仁王像の話で、奈良・平安時代から一気に江戸期〜昭和の再建に行っちゃったが、また戻ってこよう。

平安末に、千葉氏の名が顕れる。
保安3年(1121)、千葉常重常胤の父)が講堂を再建。以後、代々、千葉氏が大檀那となる。
治承4年(1180)、源頼朝が参籠、大般若経を奉納し、寺領を賜る。

鎌倉時代。
寛喜3年(1231)、千葉氏が怨髪供養のため、如意輪堂を建立。
建長年中(1249〜55)、北条時頼(執権・前北条氏5代)が登山。
弘長元年(1261)、常行念仏堂を建立し、改修。普門坊を「将斎庵」と命名。
正安2年(1300)、鐘楼を再建。


頼朝は平家に対して挙兵したものの、石橋山合戦に敗れ、房総に逃避行しているので、その時に参拝したという意味だろう(^^ゞ。千葉県にはアチコチにこの時の頼朝伝承が残っている(笑)。
同じく北条時頼も、諸国を旅したという伝説がある有名人なので、それに付してるんだろう。

本堂の左の日枝神社
その手前横の鐘楼堂

一方、本堂に向かって右は森林(さっきの雑木林)に続き、日枝神社鐘楼がある。
鐘楼については、説明版の記述をそのまま↓

千葉県指定有形文化財
梵鐘一口
 昭和47年一月28日指定 龍腹寺

 総高106.3センチメートル、口径60.6センチメートル、池の間の上下に型継のあとがあり、三段組で鋳上げていることがわかります。上帯下帯共に素文(文様のないこと)で、鋳出しの浅い八葉の蓮弁の撞座が片方にだけついています。この撞座が一個だけというのは、非常に珍しいものです。乳は四段四列で欠けている所はありません。
 本鐘は、紀年がありませんが、その形態から南北朝時代頃の製作と推定されています。
 池の間に次の銘文が陰刻されています。

 南閻浮提大日本国関東下総
 印西荘龍腹寺玄林山大鐘
 書付之作者谷田部三郎兵衛
 千葉住人
 筆者當寺普門坊賢勝


  昭和50年9月 千葉県教育委員会 印西市教育委員会

本堂の両脇に祠を備えている→
「印西大師」第21番

室町時代。
嘉吉2年(1442)、千葉胤直大日堂五重塔を再建。大般若経を奉納。


この千葉胤直は、1455年、叔父の馬加康胤に滅ぼされ、その後の千葉氏は房総と武蔵に別れて争うに至るわけだが……。(「千葉県の動乱」vol2<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>
後にも述べるが、その後、それぞれのボスである古河公方と上杉氏は、享徳の大乱後の長い抗争を経て、何とか和睦に到るのである(^_^A)。

……さて、ここからが大問題(^_^;)。

明応(1492〜1500)以来、北条早雲が威を東南東に痕う。
永正4年(1507)8月19日、当山の覚道が、千葉氏を勧めて北条早雲を討伐しようと謀り、兵を寺に集めた所、北条の遣わした兵が夜陰に乗じて放火し、覚道を殺し、本堂・仁王門・太子堂を除いた全ての諸堂灰燼に帰した


石碑にある年号は見えにくかったものの、字の見やすい案内板のほうにも、「千葉北條両氏の戦に灰燼と帰し」とあり、そちらは「永正5年(1508)」とある。

しかし、永正年間の頃、北条氏千葉氏の間に戦闘が起きるような史実は、確認した事がない(^_^;)。
北条氏も、早雲の頃は、まだ北総にまで兵を及ぼすような地勢に到ってないように思える。

なので、「”永正”は、写し間違いか読み間違いでは(^_^;)」という思いに駆られた。

それで家に帰って、改めて碑文の字を読み起こしてみたが、この記載の細かさと言い、明応と天文の間にある点と言い、年号の写し間違いではなさそうだ(^_^;)。

すると、ここにいう「千葉氏」とは、もしかして武蔵千葉氏もアリ……?
ついさっきも述べた通り、古河公方と上杉氏は和平した後なので、両上杉同志の争い(長享の乱・1487〜1505年)絡みなのかなぁ(^_^;)?
(「千葉県の動乱」vol2<成氏と幕府の和解・道灌殺害・早雲伊豆進出(1482〜1491)>

今度は本堂から振り返って境内を見回す(パノラマ2枚)

天文19年(1550)、千葉氏は寺の荒廃を深く嘆き、諸堂の再建に着手したものの、出来た事はかつての一割にも及ばなかった。

江戸時代。
文政元年(1818)、寺僧の出火によって、諸堂は再び焼失。
元治元年(1864)、諸堂を再建したものの、僅かに名跡を績ぐのみにて、80有余年という長い年月による老朽を修復するのは容易ではなかった。

戦後。
昭和26年(1951)、大東亜戦争(太平洋戦争)の戦禍によって成田山深川不動堂(東京都江東区)が焼失し、その再建を議するにあたり地蔵堂譲渡を懇望され、寄進することに決定。


この事は、成田山深川不動堂のサイトにも、今の本堂の前の「旧本堂」として↓

平成23年4月までの本堂です。関東大震災と第二次世界大戦によりそれまでの本堂が焼失してしまったため、千葉県印旛沼のほとりにあった龍腹寺地蔵堂を昭和26年に移築しました。現在は江東区指定登録文化財となっており、区内最古の木造建築といわれます。

と、説明が書かれてる。地蔵堂の写真はコチラを(^^)→成田山深川不動堂トップページ

「千葉県の動乱」vol2<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>
■龍三分伝説(角・腹・尾)
2006年12月<房総のむら>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>
2009年1月<阿夫利神社、2>
2010年8月<「房総のむら」レストラン〜印旛沼周辺の夕日>




<双子公園(ナウマン象の化石発掘跡>

龍腹寺を出ると、道はすぐ464号線に出た。(地図

山田橋(地図)を東に渡り
南の印旛沼に近づく(地図

この道も通った事はあるが、南の印旛沼(印旛沼は南北に二ヶ所ある(^^ゞ)に来る時、大抵は西側の舟戸大橋(地図)を渡って、印旛沼公園(師戸城跡)や臼井城跡の方面に出てしまうので、東側はあまり知らない。

この時は、東に出て、「こんな所あったっけ(^^ゞ」と思う公園に来た。それが……

中央にこんな丘のある「双子公園」(地図(パノラマ2枚)

「なにゆえ“双子”(゚.゚)?」と思いつつ、道路からも目立った園内の隅にあるモニュメントに近づいてみると……↓

←ジャ〜ン!象の像!って駄洒落かいなっ(笑)
↑中央の古墳っぽい丘との距離はこんな感じ。この位置からだと今イチよく見えないんで……↓

この角度でご覧下さい
(拡大)そう!子連れ象なの!

付近には「ナウマン象について」と題された石碑があり……、
一、今から約一万年前まではアジア大陸に生息していた。
一、最近では野尻湖(長野県)、北海道でも発掘されている。
一、印旛沼発掘された事から考えられることは、
  イ、アジア大陸と陸続きであった。
  ロ、発見された地層から沼地は当時からあった。
  ハ、ナウマン象は水のみに沼に近寄り泥土にはまった
  以上のような事が考えられる。

と、こう書かれて、どうやらこの印旛沼でナウマン象の化石が発見された事がうかがえるものの、この像に見るような親子象だったかには触れられてない(^_^;)。。

親子だったかはともかく、二体分が発掘されたんで、二頭の象の像が建てられてるんだろうし、公園の名も「双子」としたんじゃないかと思うんだが……。
それとも、印旛沼が南北に二つづつあるからだったり……(^_^;)。。。

そうそう、印旛沼と言えば、この母子象の見ている方角は……

印旛沼が見える(^0^)
あの丘に登って見下ろしてみよう♪

登った〜あの東屋デス。道路の方に面した側ね(パノラマ4枚180度以上)

↑左にチョロと母子象が見える。ここから後ろを振り向くと、さっき母子象が見てた方面↓

ね(^^ゞ。印旛沼が見えるでしょー?!(パノラマ4枚180度以上)
母子象はこの辺↑にいる

(↑中央拡大)印旛沼を……
母子象が水飲みに(右拡大↑)

↑古代のこんな光景を想定して作られた公園なんだね(^^ゞ。湖面と象の姿を両方見るには、ちょっと高い所に登らないと見れないので、この古墳みたいな丘を作ったんだろう(^^)。

ちなみに、今いる場所は、印旛沼のどこをどの角度から見てるかというと……。
ちょうど附近にこの周辺の地図があったので、その写真を撮って、見やすいように(例によって)字を大きく書き入れておいた(^^ゞ。↓

中央の「双子公園」から、左の「南印旛沼」を見てる
傍らに立つ大木

↑「双子公園」の字が、その下の地図に書いてある字と重なって読みづらいけど、そのすぐ上に「双子橋」があるからわかるよね(^^ゞ。
左の「南印旛沼」を見てる……つまり東から西を見てるので、上のパノラマ写真には、真ん中に夕陽が指してるわけ。

右の写真は、沼の手前左に立ってる大木。
この高さが、いかにも凄く昔から立ってる感じに思え、上から象の親子を見下ろす姿が、象も飲み込んでしまう印旛沼と対比されて、太古の沼風景のスケールを彷彿とさせる。

帰りはすっかり日暮れ時
どっかの橋を渡って帰るw

この日は夕焼け強く、特に水辺によく映えた(^^)

■印旛沼(うなぎロード等)
2005年11月<すすきロード(千葉ニュータウン)><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
2006年11月<宗吾霊堂、1>
2006年12月ほぼ全文
2007年1月<「印旛沼公園」(師戸城跡)、2>内・ <印旛沼>
2008年4月<印旛沼〜宗吾〜佐原香取>
2008年5月<千葉ニュータウン〜印旛沼>以降
2008年6月<麻賀多神社、2>内
2010年8月<「房総のむら」レストラン〜印旛沼周辺の夕日>
2012年8月<印旛沼うなぎロード(^。^)>
2012年12月<木下街道(県道59号・市川印西線)、@白井市編>
2016年2月<夏の印旛沼・虹・月・盆踊り>
2016年4月<秋の印旛沼>
■印旛沼の城跡
2006年12月:師戸城@
2007年1月:師戸城A・臼井城




■6〜7月・柏市・松戸市
<初夏の花々と水陸の白鳥>

バラやアジサイの後も夏を彩る花が見られた(^^)。松葉牡丹↓
芙蓉→

初夏の空の下、高低差のあるV字坂。ふと見ると……屋根に金の鯱!

近頃、この手のちょっと変わった和風アイテムを取り入れた新築の建物をよく見るようになった。

大抵はマンションやアパート、戸建てでも建て売りなど、集合住宅(ここもそれっぽいけど)や店舗を入れてるビル等に多い感じがする。

かなりの高層ビルでも、屋根や入口の小屋根を瓦葺風にしたり、合掌造り風や城郭っぽいデザインを取り入れたりが増えて、ちょくちょく目をひく。

……さて、お次は下手賀川の夏の白鳥。

発作橋の白鳥たち(^^)
餌を貰いに集合〜(^0^)

↑は6月の風景で、発作橋(地図)で、↓は7月、手賀干拓一の橋(地図


これほど大勢で水辺を離れて陸に登っている風景は、さすがに滅多に見ないので、ここで何枚もバシャバシャ写真を撮ったんだけど、実はデジカメを持って来忘れて、iPhoneで撮影。

畠山様にメールで、「iPhoneはパノラマ撮影が出来ますよね!」と言われて、「その機能があるんだけど、使ってみた事無くて(^_^;)」なんて話をした後だった。

「持ってるのに使わないのはもったいないよね(^^ゞ」と、何枚か試し撮りして、撮り方がわかってきた所だったので、白鳥の群れと橋を川の流れを一画面で繋げ撮りしてみた↓

iPhoneだとこんな風に撮れはします(^_^;)

スマホの繋げ撮りって、後で一枚一枚つなぎ合わせの編集作業が無くなって、すこぶる便利ではあると思う。
けれど、「ここから〜ここまで」の指定距離を、均一のスピードで撮れてるのか、いつもあやふやに感じてしまう(^_^;)。

デジカメで一枚一枚撮って、後で画像ソフト使って繋げる方が、固定の位置間隔が確保できる信用性が高い。
そのため、手作業が面倒とは思いつつも、結局パソコン上で繋げる事になるのであった(笑)。

←高柳・善龍寺(地図)の参道前に咲いていたノウゼンカズラ

これぐらいの時期に、松戸市立博物館の学芸員講演会を聴講した。
題して「西原文書の世界」。

10点を含む文書群で、戦国期の後北条氏の家来、西原氏が所有していた物。

その中に、第二次国府台合戦の前、松戸の高城氏が戦機を告げている事が、氏康から西原氏に向けた軍催促に書かれている。(「千葉県の動乱」vol2<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>

「史料の多いとは言えない高城氏の貴重な当時動向を示している」というのが購入理由。
西原文書[にしはらもんじょ]の展示についてPDF)(やさシティ、まつど)

とは言え、後北条氏といえば相模が地盤。西原氏も伊豆の小領主だそうだ。
だから、10点全部に高城氏の事が書かれてるわけじゃない。

だから、神奈川の県や市が購入すれば良さそうなものだが、財政不足により、千葉県の松戸市に話が回ってきたんだと(^_^;)。。

私の知る限りでも、こういうものを、例えば松戸に関係ある文書だけなど、バラバラに購入すると、散逸してしまう事例が後を絶たない(^_^;)。。

今は維新や戦後の混乱期ではないから、保管場所がわからなくなる事はないとしても、保存法が一定せず、所有者が良かれと思っての事でも、表装を加えて裏書が読めなくなってしまうなど、むしろ悪化の傾向が危ぶまれる(>_<)。。

てわけで、この手の物は出来る限り揃いで、しかも大学とか博物館とか保存法に長けてる機関の懐に入る事が望ましいわけ(^_^;)。。

ただし、市の貴重な財源を使っての購入に変わりはないので、松戸市民に対して、特別に展示と解説講演が無料で行われたんだと思う(^^)v

実はこの事、今ご挨拶を読み直してて思い出した(^^ゞ。
つい先日、ご挨拶書いて、そこで「詳しくは、たわごとにも書くかも」みたいな事を言ったばかりなのに、うっかり失念したままアップするとこだった(^_^;)<ヌハハ。。

で、受講してみた感想は、戦国期の話については、際立って新情報を得たわけではなかったが、これまであまり興味のなかった古文書の解読に、ちょっと関心を持てた事が良かった(^^ゞ。

以上、関連事項は、
手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>

■初夏・アジサイ
2004年11月<アジサイ・ロード>
2005年5月<ガクアジサイ>
2007年10月<根木内城跡>
2008年11月<初夏の花々>
2010年12月<梅雨の風情(湖と蛙と紫陽花)>
2011年12月<小田原城にお散歩♪>
2012年12月<晩春〜初夏の花々と景色>内
2015年2月<アジサイ・カトレア・曽谷ノ窪瓦窯跡>
2015年9月<アジサイとわんこ(#^.^#)♪>

■高柳城・善龍寺
2008年7月<高柳城近辺(柏市)の菜の花と桜>
2013年11月<高柳城跡「善龍寺」、桜の残り咲き(^^)>
2014年6月<柏市・藤ヶ谷城跡(と高柳城跡)>
2015年8月<春の花々〜高柳「善龍寺」>




■7月・千葉県松戸市
<熊野神社、1>

話の区切り上、項目を分けたが、たぶん上の善龍寺と同じ日に行ったと思う。

場所は松戸市の中央やや東寄り、新京成線「常盤平」駅の裏手の北方向(地図)。

特筆すべき点は、この神社を含む広範囲の「囲いやま森」と呼ばれる森で、天然の自然が残されている。

この神社自体、住宅地に囲まれた駅の近くの割には、敷地がある方だが、森はその8〜9倍はある。
元々、この新京成線の北側には、八柱の「21世紀の森と広場」(地図)、常盤平の「祖光院」(地図)「金ケ作自然公園」(地図)など、森林に囲まれた公園や寺が多い。

だから、この熊野神社を含めて、全体が大きな森だったんじゃないかと思う(^^ゞ。
鳥居をくぐると早速鬱蒼とした高い木々に囲まれる

子供の頃は、この辺は暗く、夜なんか一人で歩けるというイメージも無かった気がする……。
夕方なかなか帰ってこない子供がいると、「沼に落ちたのでは」とか心配されてたのを覚えてる(^_^;)。

その「囲いやま森」も現在は、自然を残すための市民活動が熱心に行なわれてるようで、今でもフクロウ・キジ・ウグイスなどの生態系が守られている。
昔は湧水もあり、炭も調達できたんだとか……。

←境内に上がっていく階段の途中、休憩所が設けられて、夏も木々の安らぎが得られる(^^)
↑しかし振り返ると、鳥居の外は間近まで駅近くの住宅街が迫っている。

この続きは次回!

次回は、この熊野神社の続きから入る!
期間は7月〜9月、出来れば10月に届きたいが、どうなるかなー。

夏の花火、東京の公園や神田明神、湯島天神。
9月以降は、仕事であっちゅう間に過ぎたが(笑)、合間に、松戸で地域史の講習を受けた。

関連リンクは、例によって、また後日貼ります(^^ゞ。
(今回はリンク類が鍵を握ってる感じがする:笑)
 ←貼りました(^_^A)(12/06)

2016年11月12日

<つづく>(関連リンク12月06日追加)
 
     



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