<2012年・城主のたわごと4月>




2011年9月、東北第4弾は福島県、2日目・会津坂下から(^^)。

柳津温泉で2泊目。3日目は赤ベコの圓蔵寺をお届け〜!




     
  2011年秋の東北(〜北関東)レポ第4弾(^。^)。
前回は2日目の昼食後、再び福島県に入って、喜多方市から南下し、夕方までに会津坂下に到達した所までお届けした(^^ゞ。

今回は全面が福島県。会津坂下に入って後も、さらに南下して、「恵隆寺」と「心清水八幡神社」を見てる内に……すっかり日が暮れてしまう(^_^;)。
2日目の宿は、さらに南下して柳津温泉〜(つ^o^)つ

そして3日目は、柳津温泉街を見下ろす、赤ベコ発祥の名刹「圓徳寺」参拝(^^)。
話は史跡内容に加えて、古代仏教界を揺るがした「三一権実論争」(「三一権実諍論」)についても書く!

3日目レポは比較的明るい風景が多い(笑)。お昼過ぎ頃までは、前日よりも雨が少ないぐらいだったので(^^ゞ。



<恵隆寺(立木千手観音堂)>

地図A←前回の最後、「陣ヶ峯城跡」から、さらに南下。

そろそろ暮れかかる田園
会津坂下町のど真ん中あたりまで入る

地図B←ここが「恵隆寺(立木千手観音堂)」(^^)。鉄道だと、只見線の「塔寺」駅が近いね。徒歩15〜20分ぐらいかな。

前回行った・三浦(芦名)一族の墓所や城跡は、どれも鉄道や駅から遠くて(近いトコでも徒歩40〜50分ぐらい?)、今イチ案内出す気が引けたんだな正直(^_^;)。

これまでも雨天のため明るくはなかったが、さすがにここに着いた頃には、本物の日暮れ時間で暗く、これより先は写真が良くない(^_^;)。。

又わりとスイスイ来れたので、門内に入るには入ったが、肝心の「立木観音(国宝)」は時間切れで見れてない(^_^;)。

ただこの恵隆寺が、前回も書いた平安期の寺ばかり(特に初期を由来する寺が)多い中の一寺(^^ゞ。

地図C←(やや縮小版ながら)磐越道を東(右)から西(左)へ「磐梯河東」「会津若松」「新鶴」「会津坂下」「西会津」とある中、一定の北緯(南北の範囲)に散らばる寺々(^^ゞ。

東から、磐梯河東の「慧日寺」・会津若松〜新鶴〜会津坂下の間に「勝常寺」「恵隆寺」「弘安寺」「法用寺」・さらに西の西会津にかけて「圓蔵寺」「如法寺」「西隆寺」。
太字がこれまで行った寺。赤字は今回めぐった寺)

この八寺は、単に観光名所として有名ってだけで、他に「会津五薬師」と呼ばれる物もあり、中央の勝常寺(湯川村)・東の恵日寺(磐梯町)は今言ったのとダブるとして、他は西の調合寺(会津坂下町)、北の北山薬師(北塩原村)、南の野寺薬師(会津若松市)と、「空海」が5ヵ所に薬師如来を配した(事になっているが、恐らく「徳一」の誤りだろうと見られている(^_^;))寺だ。

そうした中の、ここは会津坂下。

門前にあった付近絵地図

↑こうすると字が小さくなるんで、だいたいの所だけ、ピンクの字で書きいれてみた(^^ゞ。
今「立木観音堂」ってトコにいて、ここと隣接してる「心清水八幡宮」にもこの後行ってみる。

手持ちの歴史観光本によれば、恵隆寺は、元はここより北西に2キロの高寺山に、400年代頃、古代中国・粱の僧侶・青岩が開基、634年に開山、その後の兵火で焼失後、平安初期に徳一がこの地に再建……という。

一方、ネット上で見付けた恵隆寺の寺伝には、やはり渡来僧・青岩の開基後、慧日寺の勢力と抗争に及んだあげく、寺は全焼・僧は戦死・逃亡、とあるけど……(・・;)。。恵隆寺・立木観音(@会津六詣出より)

兵火で焼かれた後、徳一によって再建という話もあれば、その徳一の慧日寺と兵火に及んで焼かれた話もある……のかな(^_^;)?

潜った門の左右に……
迫力ある仁王像の二体

門を潜ると細い参道の途中にあったお手水(暗くて写らなかったが(^_^;))が、享保18年(1733)より以前、地下10mの井戸が掘られ、今でも汲み上げている天然水だそうだ。

そのお手水に、手洗い用の石鉢が添えられ、「狐石」と呼ばれる、河沼郡の不思議石の一つ(って事は他にもあるんだろうね:笑)がある。
只見川の和泉集落にあった、「狐を集めた石」なんだとか。これを七折峠という山坂道から、信者たちの力により寄進して来たという。石曳人夫として、野沢組・坂下組・牛沢組・青沢組などの名が書かれていた。

←細い参道の左に仏像が安置されるお堂↓内部

境内に入ると、「会津めぐり」の説明版があった。これは三十三観音めぐりの事で、ここの本尊が「千手観音」だからだろう。
会津地方における観音めぐりの起こりは古く定かでないが、近年では昭和のはじめごろまで、農閑期におよそ一週間をかけて行われていた。
一生に一度は行うべきとされたが、特に若い主婦が行うものであったらしい(゚.゚)。

背に赤ん坊を負い、ござにこうもり傘を持って、オムツを干し、あるいは泣く子をなだめながら、暑い夏に坂道を登り下り、草道をエンエン巡拝するという、筆舌に尽くしがたい難行で、足を引きずりながら、遠い我が家や近隣を思った日々を、経験した古老たちは、苦しいが有難い日々だったと述懐するという。

それは一家の主婦の座につくまでに、作物や家の造り、風俗習慣、人情の機微、時間と金の大切さなど、広く社会見学をし、特に会津の森羅万象を、足と目と耳でよく知るためで、その上で、我が家の短所を捨て、長所を取り入れる知恵を主婦は身に付けたので、会津では、主婦が家を豊かにし、やがては村や会津全体を豊かにした。

会津は保科正之の家訓に「女は政治に口出しするな」というので有名だけど、嫁いだ家の短所を改めさせる権限を若い嫁に持たせるなんて、意外と開明的よね(゚.゚)。

観音めぐりの御利益は、観世音菩薩の誓願によって、三毒は智仁勇の三徳に、七難は七福に代えると言われ、「耶麻郡の九観音は九品浄土を、河沼郡五観音は五智如来を、北会津西部三観音は身口意の三業の清浄を念じ、北部六観音は六道輪廻・六道解脱を念じ、大沼郡十観音は十善戒を守る」とされている。

特に安産祈願、先祖供養、現世安穏、往生浄土を願って、観音講の歌よみが唱えられる。

↓「立木観音堂」(和風寄棟造・国指定重要文化財)
この右ちょっと手前に「小金塔」→
この時は暗くて気付かなかったが、この塔は、かなり新しい物みたい(^^ゞ。お寺のHPには平成12年(2000)に完成とある。
見ての通り三重塔だが、江戸期の寛文6年(1666)に書かれた「会津風土記」によると、その昔、恵隆寺の千手観音堂のある境内に、「小さなまばゆい塔があった」とのみ書かれる。
昭和57年(1982)の調査で、塔の四隅となる礎石が発見・発掘されたので、寺に継承されてきた仏像(大日如来)も大補修して、発掘された四個の大石を四隅に配して、塔を再建、仏像を安置した。
大日如来は未申歳生れの一代守護本尊。

話は、恵隆寺の本堂、「立木観音堂」(↑左の写真ね)の方に戻る(^^ゞ。鎌倉初期の建築で、禅宗様が多い会津にあって、珍しく純和風、茅葺・寄棟造。国指定重要文化財。
慶長の大地震(1611年)で倒壊したため、元和3年(1617)、蒲生忠郷によって、具材をそのまま用いて再建された。

堂の中には、本尊の「立木千手観音立像」(国宝)の他、風神雷神像・二十八部衆(←立木観音堂より)があるが、拝観は4時まで(^_^;)。扉が空いてて室内に灯りが見えたので、何となく覗いたら、「もう終わってますよ!」と言われてしまった(笑)。

この「千手観音立像」が、一刀三礼の一木彫で、像高8m50pと全国的にも最大級だそうだ(見てないけど(^_^;))。
千手観音は子年生まれの人の一代守本尊。
寺伝では、大同3年(808)に弘法大師・空海が夢のお告げを受けて、一本の立木の芯を止め、枝を払い皮をはいで、根のあるまま彫刻した、とされており、今でも根株が続いてるそうだ。

ただし、新しく建てられた重要文化財を示す立て札には、カッコ書きで「空海」の後に「(徳一)」と書かれている(笑)。

この辺りは、前に慧日寺で説明した事がある(^^ゞ。
慧日寺跡の資料館では、弘法大師に取って代わられた事が推測されていたので、ここで「徳一」の名が出されるのも、だいたい同様の理由ではないかと。
南都六宗たる法相宗の徳一が、空海に塗り替わられたについては→(2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内

堂内には仏像類の他に、「だきつきの柱」があり、柱にだきついて心願すると御利益があらたかなので、「だきつき観音」と呼ばれる。
又、特に老人の後生安楽を叶えるので、「ころり観音」とも云われる。

こちらは、恵隆寺の敷地側から見える隣接地。
旧五十嵐家かな、と(^^ゞ→

ここでトイレ休憩してる間に、ドッと暗くなったので、この先の写真は更に写りが悪いの(^_^;)。。



<心清水八幡神社>

地図D←「恵隆寺(立木観音)」の脇通りを隔てた向かいの敷地。歩いてスグ(^^ゞ。

江戸時代までは、恵隆寺を「堂方」、こちら「心清水八幡神社」を「宮方」と呼び分けてはいたものの一体であった所を、明治の神仏分離によって分かれた。

道はだいぶ暗くなってた
心清水八幡神社」正面・鳥居

何か雨粒が反射しちゃって、雪でも降ってるような具合になったが、↑だいぶ暗い中で撮ったから(^^ゞ。
この後はデジカメを夜モードに替えたが、神社全体が森の中にあるのであまり写ってない(^_^;)。。

普通だったら、この暗さになると、「また今度来れば(^^ゞ」という気分になるのだが、「寄ってみたい」という気分になったのは、恵隆寺の駐車場に入った時から、この心清水神社から、辺り一帯に雅楽調の音色が「フワ〜ン」と柔らかく響き渡り、何とも風雅な気分にさせて貰ったからなのっ(#^.^#)。

入ってわりとスグ正面が拝殿
室内の灯りでこの写真は鮮明(^^)

祭神は応神天皇・神功皇后・比淘蜷_と、典型的な「八幡サマ」だね(^^ゞ。相殿として仲哀天皇、仁徳天皇、武内宿禰命。

戌、亥歳生れの一代守り神で、卯の日が縁日なので、卯歳生れの守り神でもある。
春は4月、秋は11月の初卯の日の参詣で心願が必ずかなうと伝わり、春は福笹、秋は稲蓬莱が授与されるんだって(^^)。

で、ここも前回の「新宮熊野神社」と同じく、天喜3年(1055)6月、源頼義・義家が奥州征伐にあたり、山城国(京都)石清水八幡を当地に勧請、戦勝を祈願した事を由緒とする。
同年に義家が社殿建立、神事・祭礼を定め、河沼郡総鎮守と祭った。

西500mの所に清水があり、ここの社殿建立の際、義家が心身を清めようと、禊の神泉を夢のお告げに託し、「心清々し」と発した事から、神社の名が命名。
この清水で粥を作ると、産婦の母乳に霊験を及ぼす伝えから、「産子(おぼこ)清水」とも呼ばれる。

以来、社殿は金塗り、神領に神役を定められ、領主や信者に崇敬されたという。

注目すべきは南北朝〜室町期の品々で、「塔寺八幡宮長帳」(国重要文化財)なる巻物には、神社の日記として、貞和6年(1350)〜寛永12年(1635)の会津やその周辺のみならず、鎌倉や畿内の災害・治乱・祭事民俗などが断片的ながら記されて、江戸初期から中央でも価値が認められ、史料として取り上げられた。
前回に見た、芦名氏新宮氏の歴史についても、この史料による所が大きいそうだ。

他に、芦名家から神官「初王丸」の物と伝わる「やなぐい」、応仁年間の鉄鉢なども所蔵。

神社に奉納された「銅製鰐口」(重要文化財)も、室町初期の1387年の作で、直径約62センチと大きく、「長文の銘があり、県下随一、全国でも屈指の秀作。

今度は拝殿の側から鳥居の方を振り返ってみる→
鬱蒼と高く繁る樹々の中にある(^^)

寛文7年(1667)保科正之が神社制度を改め、神道に復して社僧・仏像・仏具を廃し、会津五大社の一として会津大鎮守、三万石の鎮護と祭った。社殿修覆は藩主の寄進により、神事祭礼のため三十石を社領とした。
天保11年(1840)12月、社殿が炎上し、松平容保が藩費で造営。
文久三年(1863)に御遷宮、本殿(奥の院)は会津盆地を見下ろす翠山の総欅材を用い、会津藩最後の建造物となった。

明治6年(1873)、郷社に列し、大正13年(1924)に県社に昇格。

ここは卯・戌・亥年、さっきの恵隆寺では、子・未・申年生まれの人の守り神仏だったが、「他の年の人もお参りを(^^)」という事だろう。小さい各社が境内にあった↓

子=出雲社、大国主神・事代主神、福徳の神。縁日=甲子
丑寅=賀茂社、賀茂別雷神・玉依媛神、雨・風・河川・農事の守り神。縁日=毎月12日
卯=北野社、菅原道真、学問・出世の神。縁日=毎月25日
辰巳=箱根社、市杵島姫神、福運の神、平氏の祖神。縁日=毎月24日
午=稲荷社、倉稲魂神、衣食住の神、商売繁盛・五穀豊穣。縁日=毎月牛の日
未申=伊勢宮、天照大神。我国の総祖神。縁日=毎月17日
酉=春日社、天児屋根神、言葉・声の霊の神、藤原氏の祖神。縁日=毎月13日
戌亥=八幡社、縁日=毎月卯の日
若木社、少彦名神、医術・薬治の神、頭痛・高血圧・中風に霊験。

境内を出てからも、しばらく雅楽の音色が長閑に道の先まで見送ってくれ、本当に「清々しい心地」に包まれた(^^)。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内
2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>内以降
2010年2月<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、2>内以降
2010年4月<達谷窟、「毘沙門堂」「岩面大佛」「蝦蟇ヶ池・辨天堂」>内
2012年3月<熊野神社・長床>内




<柳津温泉に到着(^_^A)。2泊目夜>

地図D←心清水八幡神社から、49号線と252号線に南西方面に急行、地図E←柳津温泉に到着(^o^)。

会津では、2006年に東山温泉(たわごとは2007年2月)、2008年の鯖湖温泉(2009年4月)、2010年の新鶴温泉(2011年7月)と、少しづつ西に奥まって来て、今いよいよ柳津に到達! 未踏地である(=^m^=)<ワクワク

←柳津温泉「瀞流の宿かわち」
↑フロントでお出迎えの赤ベコ君(笑)!

宿は只見線「会津柳津」駅から、徒歩15分ぐらい。
周囲の風景は暗闇ながら、良さそうな感じが伝わって来た♪ お出迎えしてくれた、この赤ベコ君は、ここ柳津(やないづ)で生まれたキャラなんだねぇ(^^)。

↓伝統民芸品「赤ベコ」(拡大)
こっちは「あかべぇ」→
会津若松のマスコット・キャラ。観光協会は生まれを「ナゾ」とふざけているが()、wikiには2004年頃と推測されてた(^^ゞ。

夕飯は牛シャブに馬刺しとお肉づくし(^O^)!温泉街に入る前から「サクラ肉」の看板が見えてて、「追加注文しようネ!」と言ってたら、ちゃんとつけてくれてた!(笑)
↑おすまし(^^)。会津料理「こづゆ」風だった☆ミ

美味しかったよー(≧▽≦)!
ガツガツ食いながら、「何かもぉ歯の詰め物無くても、気にならなくなって来たーσ(^Q^)」と言ったら、亭主が、「そうだ!歯医者、結局行ってないけど大丈夫?」と心配してくれたけど、取れた方じゃない方の歯でばかり噛むのも、そろそろ口が疲れて来て(笑)、このころには、本当に気にしなくなっていた(笑)。

特に馬刺しは柔らかくて、当初「追加でご注文をどうぞ」とメール頂きながら、到着が夕食直前の時間で、旅館の人も忙しそうだったから、諦めかけてたから、膳に並べられて説明を受けた時は凄く喜んだし、専用のタレが肉によく合ってて、すんごく美味しかった!

豪華な良い旅館で、お料理もお部屋も温泉も、申し分なく大満足だったけど、一番の絶品は、お部屋や食堂から見た只見川と圓蔵寺の風景!

というわけで、この夜もゆったり温泉に浸かって疲れを癒し、翌朝に見れる風景を期待しながら、おやすみなさぁ〜いm(^O^)m

2007年2月<鶴ヶ城、1>内
2011年6月A<奥会津博物館(旧・奥会津地方歴史民俗資料館)>内

2011年7月<新鶴温泉で2泊目(=^m^=)>内




<3日目・柳津温泉の朝>

おはようございます(^。^)。それでは、早速参りましょう! 引き続き柳津温泉から→地図E

翌朝お部屋から(パノラマ縦5枚180度)

(拡大)赤い橋のアーチの合間から
(さらに拡大)圓蔵寺が見える

明けて3日目(^O^)。

夜、到着時から街灯りで大よその感じは見えてたが、この河の全体像が夜はさすがに見渡せなかったので、朝になるのを楽しみに床に着いたのだっ!
で、これより、あの圓蔵寺に行くわけだが、宿の人はこの部屋に案内して下さった時、「虚空蔵さん」と言ってたから、ここではご本尊の名を、そのままお寺の名称で呼んでるようだ(^^)。

ん? ところで窓ガラスに貼り着いてるのは?
(拡大)ゲコ!

おはよう、カエルちゃん(^O^)。朝ご飯食べて来るね!

階が違うだけで、食堂もほぼ同じ風景だから、同室になったお客さんとユッタリと朝食を食べながら、又また景色に見入る(^^)。

続けて、美味しい朝ご飯〜。わ〜豪華。頂きま〜す(^O^)!

( ^,_^)ф朝から豪華なメニューで、嬉しく美味しく頂いてたら、給仕の方が、宿のサービスで赤ベコのキーホルダーを配って下さった(゚.゚)!

美味しく食べた後は(^nn^)、出発の前に、楽しみの朝風呂ー!〜((((つ^o^)つ

室内も温泉(^_^A)
露天も勿論温泉!\(^O^)/

朝はみんな早く出掛けたと見えて、人が全然いなかったので、ユッタリ入れて写真も撮れた(δ四^^)カシャ

森林浴の気分でユッタリ(^_^A)

良いお風呂だった(^_^A)。そろそろ出発しよう。
フロントに座ってテレビを見てると、依然、台風情報をやっていた。

1日目2日目と大雨に祟られたので、そろそろ行き過ぎる頃かと思ってたが、「まだ居るんだ、しつこいね(・・;)」「ホントゆっくり来るね(^^;)」と言いながら、それでもようやく近付いて来た様子に思え、「今日出会っちゃうかな」などと話した。

宿泊した旅館は、さっきは2日目夜の写真を出したが、朝の明るい中で見ると……↓

柳津温泉・旅館「瀞流の宿かわち」
→面した通りはスグ只見川!

旅館の方には、部屋に通してくれた時から夕飯や朝ご飯のたびに、気になっていた、この只見川の氾濫の様子を訊ね聞いた。
この旅行に行く間際まで……そしてこの時もまだ来ていた大型台風の事を気にして、キャンセルするか悩んだ話は、前々回にした通り。

大型台風の長居のせいで居座る「湿った空気」の影響で、台風の通過ルートでもない地域まで大雨が長引き、増水・洪水・土砂災害が頻発していた。
旅行は9月だったが、確か7月には、何度も福島県の「只見川」の様子が報道され、激甚災害に指定された事が記憶に生々しかったのだ。

旅館の方は、「あの川向こうの、アノ辺りまで水が来ました」と、指で差して教えて下さった。
大きな木が流れて来て、氾濫がやんだ後、長く田んぼの上に置かれていたとか、その当時も旅館内に宿泊客がいて、みんなで窓から外を見たとか、当時の様子を話してくれた。

指差してくれた辺り拡大
(さらに拡大)あの大木?

この時は「怖いですね〜よくご無事で(>_<)」と言ったもんだが、この日の内に、我々もあまり大差ない……もしかすると、「さらに過酷」と言える経験をするわけだが(爆)。

それにしても、前泊の小野川温泉も良い宿だったが、この柳津温泉の旅館の人達も、負けず劣らず暖かいおもてなしをして下さった。
旅行に行く前から、メールで親切に声をかけて下さり、宿泊後、出発前の車にまで挨拶に来て下さって、何だか凄く去り難かった(TOT)。。

↓さらば旅館「かわち」よ(;_;)/~
緩い登り坂から見える大きな赤い橋(^^)→

地図には252号線としか書かれてないが、当地のパンフには「瑞光寺橋」とある。
只見川は蛇行して、この向こう側(奥)にも、もう一本同じ赤いアーチつきの橋があり、そっちを「柳津橋」という。(ここからは見えない(^^ゞ)

まずは橋がある辺りを目指して、この静かな只見川流域から、もっと入り組んだ温泉街に入って行くのだ(^^)。

以上、関連事項は、
2012年1月<夏空・夏雲>内




<柳津の門前町>

↑と言うべきか(笑)。ちょっと地理を説明したい。
地図F←かなり拡大。あの大きな赤い橋(252号線)で只見川を渡ってしまうと、これより行きたい「圓蔵寺」に着かず、通り過ぎてしまう(^_^;)。

なので、橋に行く前に252号線を右折して(というか突っ切って)、寺に至る街中(お寺の周辺)に直接入って行くわけだ。その途中の風景が良い雰囲気なので、たくさん写真に収めた(^^)。
途中でもう一回宿に戻って来たり、駐車場を探してウロつくので、必ずしも一定方向に向かう風景じゃないけど(^_^;)。

まずは252号線に出る
突っ切って寺に続く街中に入る

近付きながら、早速、「圓蔵寺」について述べる。
ここも「徳一が開いた」事で有名な会津地方の寺の一つだ。殆どのガイドにそう紹介され、かなり歴史的に突っ込んだ本でも、この寺の名が徳一の会津在住について、傍証的に出て来る程である。

しかし内部の本尊・仏像類については、「空海が作った」という伝えになっている(笑)。
そこで目を皿にして探した所、やはり「最初は空海」になってて、「徳一は跡を引き継いだ」と伝える記述を見付けた(^_^;)。

慧日寺や、さっきの恵隆寺でも「空海→徳一」なので、同じ伝承ソースだろうか(笑)。
違う地域の大きな寺同志で、同様のスタンプがされてる点、史実的には誤りでも、伝承としてすごく面白いと思う(^^ゞ。
徳一が空海に塗り替わられたについては→(2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内

お土産屋さんに赤い郵便ポスト、懐かしい風情(^^)

で、空海を先と見なす縁起というのは、こうだ。
空海が唐の高僧から霊木を授かり、日本に帰ってから、霊木を三つに分けて海に流したところ、一つは茨城県(那珂郡)東海村の村松山「日光寺」の「大満虚空蔵尊」、一つは千葉県(安房郡)天津小湊町の千光山「清澄寺」の「能万虚空蔵尊」になった。

そして一つが、空海によって「福満虚空蔵尊」として彫られ、それを受けた徳一大師が、ここ会津柳津圓蔵寺を開創した……という由緒だ(^^)。

……千葉県の清澄寺を、三重県の伊勢とか、宮城県の柳津と紹介する記事も見掛けたが、現地で貰ったパンフや圓蔵寺の境内に「千葉県の清澄寺」になってたから、そう書いとくね(^^ゞ。

途中、駐車場を求めて彷徨った地域(笑)

↑駐車場は、このまま寺まで行っちゃってもあったので、我々は先まで行って停めた。

途中で小川を渡る赤い欄干の橋がある
周囲の温泉街(^^)

↑この森の陰にチラと「圓蔵寺」の建物が見えるが、橋を越えた先を左に向かうと圓蔵寺。
一方、橋を越えてから、右に「奥之院・辨天堂」がある(地図G)んだが、だいたい気付かず、圓蔵寺に行っちゃってから、境内で「弁天堂がある」と書かれて、「どこ、どこ( ゚.゚)」と探す事になる(笑)。

境内ではなく、この橋より右の方なのでぃす!!(笑)

そして門前町の最後は……
旅館「あづまや」左下の窓に注目

(拡大)赤べこの家族
(さらに拡大)親子で川の字(笑)

この旅館の向かいの下駄屋さんだったかな。「あわまんじゅう」の看板が見られた。門前町じゅうで何度もよく見掛けたのが、この「あわ饅頭」だ(^^)。

これより向かう圓蔵寺が、江戸期に火災で1829年に再建された時、喝厳という和尚さんが「もう災難に“あわ”ないように」と近くの村でたくさん採れた粟を用いて、饅頭を作らせた事から出来た名物(^^)。

参拝が終わってから、私らも道の駅で買って車内で食べたが、素朴な味でしっとりとジューシーで美味しかったよ(#^.^#)。



<「圓蔵寺」の外観と只見川>

町並の最後(旅館「あづまや」)より先に進むと、道路の左に只見川にかかる赤い二つの橋が見えて来る↓

中央が駐車場、右の階段が圓蔵寺の登り階段(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑写真を撮っている位置は、既に圓蔵寺の階段を登る途中から(^^ゞ。
地図H←圓蔵寺。只見線「会津柳津」駅から徒歩10分ぐらいかな。

←その階段。上りと下りで分かれてるから、写真を撮ってても、それほど通行の邪魔にならない(^^)。
↑仁王門(右)の先、さらに高くに「菊光堂」(左)。道路から見ると、巨大な岩盤の上に聳えている。

階段登って境内に入る前に、道路側からの外観を先に見て廻ろう。

←本堂「菊光堂」は文政13年(1830)の再建。
↑一方、階段のスグ上に構えてる仁王門は、明治〜昭和の57世住職・沖津堪宗による大正13年(1924)の再建だそうだ。

こちらを向いてるお堂は「大日堂」。江戸期、岩肌に大日如来像が現われたので、天和2年(1682)に堂を造った。未申年生まれの方の一代守り本尊。

開祖・徳一については、これまでも福島県では慧日寺(2009年1月)や法用寺(2011年7月)、そして今回(2012年4月)は冒頭の恵隆寺にも名が出るのを見た。

茨城県でも、筑波山(2010年10月<筑波山頂駅〜大鳥居(帰路)>内月山寺(2010年10月<月山寺>、2010年11月<月山寺、2>が、徳一ゆかりの寺として知られている。

しかし、いずれの寺でも、徳一より前にも伝説の開祖がいたり、徳一の後に天台や真言系の寺に変わったため、徳一について詳しく触れる機会が、ついぞ無かったので、今回はそれをやりたい。

というのも、今回は特にあちこちで地元の方と話す機会が多く、古代の仏教文化への思いをよく耳にした。
中には、「大河ドラマにするなら、ぜひ徳一を!」という声まで聞いたので(^^ゞ。

寺の境内全体を支える強固な岩盤(パノラマ3枚)

徳一については、これまで主に慧日寺で書いた→(2009年1月<恵日寺>内以降、および、<磐梯山慧日寺資料館>内

なので、経歴の概要に、補足点のみ追加する。
自然智宗」のために会津の磐梯山を選んだ徳一を、空海は、喧騒に乱されず、衣食住などへの執着を取り去る修行と見ると同時に、中国の江南における仏教伝来の僧の名を上げて、東国に初めて仏教を伝えた等と持ちあげて、徳一に写経を依頼している(笑)。

南都六宗の法相宗に属した徳一だが、東大寺にいたと(後世には興福寺とも)書かれる。いずれにせよ、若年の内に東国に赴いた事は間違いない。

この場合、空海が「陸州」と書くのを「常陸国」と読む向きがあるらしいが、最澄が「会津」「陸奥」と言う点、会津一帯に夥しい徳一伝説をもつ寺院がある点、慧日寺に廟がある点から、徳一の主要拠点は、会津と見る説が有力である。

経歴の補足は以上。今回は徳一が歴史上に存在した証とも言える、仏教論争について書く。


道路の反対側は只見川「「瑞光寺橋
欄干の合間から湖畔も撮影できた(^^)

↑あの「瑞光寺橋」の下あたり只見川の流域に、「魚渕」と呼ばれる伝承地があり、さっきの縁起で、空海が虚空蔵尊を作った時、彫って出て来た木屑を只見川に投げ入れると、それらがウグイに姿を変えた事から、今でもウグイの生息地となっているという(^^)。

東北地方は鎌倉時代に、鎌倉の御家人らが領地化する事によって歴史に名を顕すが、その前を辿って行き着く痕跡に会うとしたら、史跡にせよ伝承にせよ、殆どが仏教に関わる事である(^_^;)。

古代末までに具体名を顕す安倍氏にせよ、清原氏にせよ奥州藤原氏にせよ、地元豪族たるは、それら仏教遺跡の保護者として背景する事によって、ようやくウッスラと存在を窺い知るに過ぎない。

東北への仏教布教を占めた勢力は天台宗であり、東北地方には、広く深く、そして比較的早く浸透したと見られている。
これは、日本の天台宗祖・最澄が着手するより早くから、東国(関東)に布教を志す仏教団組織があり、最澄はその路線を引き継ぐ形で東国(さらに北方)に触手を伸ばして行ったからだ。

それゆえ同じく東国に進出し出した南都系の徳一との間に起こった論争は、布教線を広げる上でも一大事件だった。
それも会津という、陸奥への入口で「通せんぼ\(^。^)/」をされたのなら尚更である(笑)。最澄ら天台宗門としては、何としても東北における南都勢力を突破せねばならない(^_^;)。

だいぶ遠ざかった。
さっきの「瑞光寺橋」も茂みに隠れ……

最澄は遣唐使に加わって唐に留学し、国内に持ち帰った天台宗を開くわけだが、天台宗においては、法華経が最高経典とされていた。

ところが南都仏教系の徳一は、自らの属す法相宗にのっとって、「仏性抄」を顕し、「法華経は釈尊が悟りそのものについて述べた物ではなく、人々を教えに導くために程度を落とし、手段として権(かり)に説いた方便に過ぎない」と論説した。

徳一は最澄に対してと言うより、東国に勢力を伸ばし始めた前身教団たる道忠らを批判してたようだが、「照権実鏡」を著して反論を引き受けたのは最澄で、ここに「一乗」という天台宗論が出て、「三乗」を唱える法相宗との明確な違いが展開されたのだ。

最澄は「三乗はあくまで名のみの方便(教化の手段)に過ぎず、一乗こそが真の経典(仏教の真理)」と反論し、互いに相手を、「お前の方こそ方便に過ぎない」と罵り合った(笑)。

よって、双方の行った論争を、「三一権実論争」(または「三一権実諍論」)と呼ぶ。三乗と一乗の、どっちが権(かり=方便)で、どっちが実(真実)か……という意味だね(^^ゞ。
「三乗」とか「一乗」とか「方便」というのは、どういう事かと言うと……、


静かな只見川の翠流(^^)
(拡大)洞穴がある(゚.゚)

法相宗の考え方では、人間は生まれつき、以下の「五種性」に分けられる。
@「声聞」定性と、A「縁覚」定性の二種に入る人は「小乗」で、心身ともに無に帰すので、成仏できない。
B「菩薩」定性の人は「大乗」と定まっているので、成仏できる。
C「不」定性の人は、@ABのいずれとも定まってないので、成仏の可能性がある。
D「無種」性の人は、そもそも仏教に入る種を持っていない。

@ADは成仏できず、Bのみ成仏できるが、Cにはまだ成仏の可能性が残されているので、最澄が説く「法華経」は、このCの人を勇気づけて、成仏させる手段としてのみ有効だ……というのが、徳一の考え方である。
つまり徳一の「方便に過ぎない」という指摘は、Cの人のみに通用する「方便」を、最澄らが「全部に通用するかのように取り違えている」という批判だったんだろう。


これに対して最澄の持ち出す「一乗」は、「誰もが全て成仏できる」という考え方で、「火宅の譬」というたとえ話が出て来る。

さらに先の「柳津橋」まで来た♪
裏門の駐車場に到達

数台しか停められないけど、ここのは無料だった(^^ゞ。↑ここに停めて、さっきの階段まで歩いてから寺に登って入った。

火宅の譬」によると、家の四方から火事(=末法)が迫っているのに、中にいる大勢の子供達(=人間)は遊びに夢中で、火に気付かず逃げようとしない。

そこで父親(=仏)が、子供の好きな、羊(@声聞)、鹿(A縁覚)、牛(B菩薩)の三つの車(=三乗)をあげる……と誘い出し、外に連れ出す事に成功すると、外には大きな白牛の乗り物(=一乗)が用意されてて、子供ら全員を乗せ、無事に外(=成仏の彼岸)に脱出させる。

つまり、一見「三乗」のように見えるが、それこそ仏の用いた「方便」であって、実はみんなが乗れる(救われる)から、「一乗」の考えで正しい、という主張だ。

論述は多岐に項目立てて行われたが、ここには明確に「末法」が意識されており、法相宗という奈良平城京から始まった古い仏教に対し、最澄は自ら唐で学んだ新仏教の視点から、「悟りに向けて真っすぐな大きな道が必要で、そんな遠回りをすべきでない」という批判が所々に行われている。

例えば「止観」という修行法についても、徳一が論学より抜粋して独自に編み出した修行論によっているのに対し、最澄は、「正法の世の実践法であって、既に末法が近い現在では通用しない」と批判した。

←ここが裏山門に続く階段ね(^^ゞ。次回になるけど、最後はここから出て来る。今は右の坂を一度下りて、さっきの登り階段まで戻る。

最澄と徳一の間の「三一権実論争」については以上でおしまい\(^O^)/

新しいか古いかって話になると、新しい方がいいような気がするけど、洗濯機に例えると、新しい洗濯機には、「センサー」がついて、さらにどんな洗濯物にも通用する「お任せコース」というのが付加されたような感じだ。

ただでさえ便利な全自動洗濯機が、これ以上、便利になる必要があるだろうか。
じゃあ、「大物洗い」や「ゴシゴシ洗い」や「柔らか洗い」のボタンは、何のためにあるのだろうか……。
何となく、大物やゴシゴシやウールを適時それぞれ選ばないと、汚れが落ちなかったり、生地が伸びたり縮んだりするのではないかと心配である。

そう思うぐらい、「一乗」なる優しい仏教の登場は、疑いの眼を向けられた(笑)。

その一方で、空海の持ち帰った真言密教には、「クイック仕上げ」なる、さらなる超スピード・コースがついていた……つづく。。。ヽ(-_-;)<続かない続かない *怪しいマトメ(笑)*




<福満虚空蔵尊「圓蔵寺」、赤ベコ伝承と「菊光堂」>

↑いよいよ境内に入るよっ(^O^)。

裏山門にあった境内案内図↓

↑左下「現在地」とある「裏山門」にあった案内図だが、字が小さくなるんで、例によって上からピンクで字を打ち入れてある(^^ゞ。
中央右寄り一番下に、二重の階段があって、途中に「仁王門」がある。さっきの階段ね(^^ゞ。そこまで歩いて戻る。

その先の順路を予め説明しておくと……。
仁王門→撫牛→菊光堂→(再び)撫牛・鐘楼・売店→(上に登って)休憩所→庫裡→人形塚→霊寳殿(休館)→(再び)菊光堂→龍蔵大権現→裏山門→(駐車場から車で)奥之院・辨天堂

再び「仁王門」に続く階段から(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑さっきより更に高所なので、只見川が一層よく見える。左「瑞光寺橋」と右「柳津橋」の間に、もう一本「観月橋」が見える(これのみ252号線から外れている)。

これら三つの橋の合わさる、ピンクの屋根の白い建物の裏に「瑞光寺公園」があり、柳津温泉街を360度見渡せ、巌の上に切り立つ圓蔵寺を、只見川に浮かぶ「亀石」ごと撮れる、ベストショットな位置らしい。
カレンダーとか名所ガイドで見る「圓蔵寺」の構図じゃないかな(^^ゞ。

仁王門を通り越し、石段はさらに続く

寺は正式名を「霊巌山・圓蔵寺」と号し、臨済宗妙心寺派に属す。
徳一の後、どういう経過を辿ったかわからなかったが、一時、真言宗となった事はあるみたい。ただ、例の空海がらみの話はその時に入ったのか、或いは早くから伝説があったので、後で真言宗となったのか、その辺も全く解らなかった(^_^;)。

ちなみに、空海が流した三つの霊木(虚空蔵尊)の一つ、茨城県の「日光寺」は真言宗みたい(^^ゞ。
千葉県の「清澄寺」も真言宗だったらしいけど、日蓮が出た寺なので、今は日蓮宗みたい(^_^;)。

他に三霊木の候補と目される、宮城県の柳津というのは、柳津山「宝性院」かと思うけど、としたら、真言宗智山派のようだ。
三重県の伊勢は、朝熊山「金剛證寺」ならば、こちらは臨済宗・南禅寺派みたいよ(^^ゞ。

↓仁王門の仁王二像。門の再建は大正13年(1924)だそうだが、この仁王像はいつの造作仏だろうか。
仁王門を越えて尚、整然と続く石段→
これを登り詰めると、待ち受けているのは……↓

牛と

(拡大)味わい深い顔をしている(笑)

ここに来るまで、「赤ベコ発祥の地」と聞いていたので、虎は予想外だった(笑)。
しかしここに祀る(と言うか本尊とする)虚空蔵菩薩は、丑年寅年の守り本尊なので、まるで神社の狛犬のごとく、仲良く出迎えてくれる!

階段を登り切って振り返る

(拡大)やはり味わい深い風情である(笑)

肝心の発祥伝説である「赤ベコ」が、読む物によって幾通りか筋が別れる(^_^;)。。
まず時代だが、1200年前(恐らく徳一が開祖したと伝える、大同2年(807)かと(^^ゞ)というのと、400年前、江戸初期の会津大地震の後という話がある。

江戸初期の会津地震を由来とする話では、それまで寺は今のような高台ではなかったのを、地震の倒壊を受けて、より強固な場所を土台にした方が良いと、今の岩盤の上に移した……となっている。
会津や塩原の江戸初期の地震については、(2011年4月<源三窟>内、および、同6(5)月<1日目・塩原温泉から川治温泉へ>内を(^^ゞ。

又、江戸後期の文政元年(1818)の火災焼失後、文政12年(1829)に再建が行われた時、会津は勿論、越後・出羽・上野・下野など、多くの地域から木柱材が寄せられた事が、現存の木材に記された出材地によってわかるので、赤ベコの由来について、この時の木材運搬とする記述も見掛ける(^_^;)。

鐘楼の傍に赤ベコ。後で行った道の駅にも、赤ベコ親子シリーズがあって、ここにいたのは「母・満子(みつこ)」とあった。
お母さん赤ベコなんだね(゚.゚)。カワイイ〜♪

赤ベコの伝えも二通りあって、一つは寺建立の木材運搬に駆り出された多くの牛が、険路のために次々と倒れた。
しかしその中で、最後まで倒れず働き通したのが赤い色の牛だった……という話。

もう一つは、やはり困難がつきまとう寺の建立当時、どこからともなく赤牛の群が現れて、やはり材木運びを手伝い、見事に寺の完成に漕ぎ付けた後、どこへともなく姿を消したため、これは神のご加護にちがいないと、もっぱらの噂になった、という伝説だ。
後者は会津でよく見掛ける、作業の手伝いをする地蔵などの話と同類だね(^^ゞ。(2011年7月<法用寺>内

いずれも、どんな重荷にも耐えられる壮健な人に育つよう、子供が誕生した時、厄除けのお守りと、幸運を運ぶお祝いの玩具として供えられるようになり、土地に親しまれる代表的な郷土玩具となった……と結ばれる(^^)。

↑「赤ベコ」は、階段上がって右の鐘楼の手前脇にいたが、対して、「撫牛」は、階段上がって、ほぼ正面のお手水の左右(さっきの牛と虎の狛犬の間を通ってすぐ前)という配置↓

開運撫牛。撫でると運が拓ける(^^)
お手水の(向かって)右にも牛の像

牛の石像は他にも数体あった。何世代も作られてるのかな……(^^ゞ。

近年、牛は、BSEだ口蹄疫だと、人間の犠牲となって死に至るケースが多い(-_-;)。。
原発事故でも、一刻の猶予もなく避難するハメとなった福島の酪農が、大勢の牛を置いてかなきゃならず、殺処分ならまだしも、みんな餓死させるしかなかった。ナデナデ>( ;_;)ρ

ただ、さっき最澄の話でも、成仏の象徴として例え話に使われたのは牛だった。
三乗の羊や鹿と並んで「牛」の車として現われ、一乗でも「大きな白い牛」とされていた。
最澄が持ち出したのが「白牛」だったから、こちらは「赤牛」と対抗したわけでもあるまいが、朱色は魔除けの色とされ、また古来より、良き彼岸への旅となりますように(^∧^)、とお祈りしたのが牛だったんだね。

そして「菊光堂」。圓蔵寺の本堂。さっきの階段上がって左に聳え建つ。

先に案内の通り、江戸後期の文政12年(1829)再建。桁行11間半・梁間9間、棟高18間、本堂造・入母屋。二重破風で下部は大唐破風造、向拝付。材質は無着色白木の総欅材、八角立柱56本に、赤牛運搬伝承が結びついている。

圓蔵寺は戦国大名から民衆に至るまで篤い信仰を集め、江戸期は会津藩主は勿論、幕府から派遣された巡見使(監察使)が数回も登山参拝しており、特に初厄である13歳の参拝は霊験あらたかとして、山形県や新潟県などからも「十三参り」に訪れる信者がいる。

また、正月7日の夜は、この「菊光堂」めがけて「七日堂裸参り」が行われる。
この祭りは、この地方に疫病が流行した時、病を治すため、竜宮から宝珠を持ち帰った事があったのだが、只見川に住まう竜王が、この宝珠を奪いに来たので檀徒らがそれを防いだ、という伝説にちなんでいる。

今でも竜王は毎年、この祭りの凄まじさを見て、宝珠の奪還を諦めるというのだが、どんな事をして竜王の野心を退けるかと言うと……。

寒風の中、ふんどし一本姿の若者たち大勢が、113段の(今登って来た(^^ゞ)石段を駆け上がって、この「菊光堂」に殺到する。
本堂では梁をめざして押し寄せ、鰐口の綱に群がり、揉み合いへしあいながら綱をよじ登る。熱気で白い湯気が立ち上って、身動きも撮れない混雑の中で、観衆全員が一体となるそうだ(^^)。

地震対策かな。灯籠が囲ってあった
寺務所に続く渡り廊下(^^)

寺務所か祈願所か修行所か(^_^;)。一般人は本堂に入った後、この向かって右方向ではなく、左の縁側へ出るよう扉が開いてるんで、こっちは来てない(^^ゞ。

本堂の内部は撮影禁止なので、階段近くから撮るのも遠慮し、左方向に出た所から↓

だいぶ魚眼だが(笑)、広い広〜い「舞台」となっている(パノラマ4枚180度以上)

「裸参り」の若者たちも、本堂からここになだれ込んで、気勢を上げるのかな(^^)。
この「舞台」から見降ろされた只見川の竜王に、「参った」と言わせる場所だね(笑)。

奥(→)に廻ると、そのまま裏山門(さっき「三一権実論争」の話をしながら行ったトコね(^^ゞ)に出られるんだが、そっちは最後に行くので、まず境内を廻る事にしよう。



<「圓蔵寺」の境内散策、「人形塚」「龍蔵大権現」>

だいたい主要な所は廻っちゃったんで、以後、特に歴史の話は多くないが、圓蔵寺の境内は広く、高台にも行ってみた(^^)。

裏山門にあった境内案内図(再び)

↑「仁王門」の上下の石段を上がって、「撫牛」や「鐘楼」から左、「菊光堂」を見たら、もう一度「鐘楼」まで戻って来る。
そこから登るルートが「売店」を間に挟んで二通りある。

「売店」の手前から上がる階段道と
「鐘楼」「売店」を過ぎてから上がる道

まず手前↑(左の写真)を上がる(^^ゞ。登る前に「鐘楼」があって、さっきの赤ベコと一緒に「良寛禅師行脚之地」という碑が建っている。

良寛(1758〜1831)は、60歳の時と推定される文化14年(1817)秋、郷里の越後から江戸に出て、北上してここ柳津圓蔵寺を詣でた。

階段の途中の緑地に、仏像や彫像が何体か並ぶ(パノラマ3枚ほぼ180度)

圓蔵寺についた良寛は、蝋燭一本のほの暗い堂内に仏像に囲まれて座禅し、翌朝の4時ごろの鐘で目を覚ますと、当時あったという三重塔などを、秋の絶景の中に見て、言葉を失うほど感動し、仏典の理想郷「香聚界」に例え、二編の長詩を編んだ(詩と胴塚が、つきみが丘公園に建立されている)。
柳津からは米沢、鶴岡に出て、海路を越後に帰ったと思われる。

←あ、そうだ。通り過ぎちゃったけど、その売店で買ったのが……↓
「福島限定・あかべこ・KISSペアマスコット(マグネット入り)」キーホルダーにしては大きい(笑)。黒いのはやっぱ「黒ベエ」?

階段登った先は、コンコース状に並ぶ一帯(パノラマ3枚ほぼ180度)

登った先から左方向に、忠魂碑・消防屯所・圓蔵寺会館(無料休憩所)・千本杉・桐供養塔・人形塚・傷痍軍人碑・お手洗・霊寳殿(宝物館)と並ぶ一方、庫裡や五葉松のある方向へ行く右の道や、水子地蔵や龍蔵大権現に続く左の道も出ている。

一方、さっき通らなかった、「売店」の端から来る道からも来て見よう↓

木漏れ日も涼しい苔むした坂道
庫裡に入る門

庫裡があるだけ(^^ゞ。これと言って見学場所が無いのが勿体無いぐらい美しい道。

この寺をここまで立派に再興したのは、明治〜昭和の住職さん(59世)沖津堪宗氏。顕彰碑が頂上にある。

禅の修行を積まれ、最初に見た仁王門再建などお寺の復興はじめ、特に教育に優れた功績を遺され、只見川に橋を架け、鉄道の誘致や温泉の引湯など、地域振興に多大な貢献をされたという。
今日の柳津の綺麗な風景や、温泉の恩恵などは、ずいぶんこの方の時代に行われた物だったんだねぇ。

道は庫裡より奥に続くが、端まで行くと行き止まり(^_^;)。案内板の絵地図に、この先に「辨天堂」があるように見え、もしかして実際に行けるのかもしれないが、この先に続きがあると思えなかった(^_^;)。
なので「辨天堂」には、駐車場に戻って、車に乗ってから向かった(^^ゞ。

裏山門にあった、その境内案内図↓(三たび)

頂上には、右から左に忠魂碑・消防屯所を過ぎ、圓蔵寺会館(無料休憩所)の前に、千本杉・桐供養塔・人形塚・傷痍軍人碑と並んで、お手洗・霊寳殿(宝物館)で頂上付近はおしまい(^_^A)。

←その内の「人形塚」。芭蕉碑と並んで東北各地でよく見る「こけし」の大きな石像(^^)。目印に最適♪ 大正12年(1923)建立。人形を捨てがたく思う全国の子供から、多くの人形・仏像が寄せられている。字はカッパの絵で有名な小川芋銭(歌人・画家)の筆。
↑霊寳殿(宝物館)。残念ながら定休日だった(^_^;)。
この宝物館に入れても撮影は出来ないが、何か見れるなり本でも買うなり、もうちょっと柳津や圓蔵寺の詳しい事がしれたかもしれないから、自分的には残念だったが、水曜定休ってのはいいかな、と少し思った。

通常こうした所は月曜休が多く、今は月曜が振替休日の場合、特別に営業する所も増えたが、そうじゃなくても、土日の休みに有給を追加して月曜に来る事もあるので(^^ゞ。

ただ案内を読むと、ここは定休だけじゃなく、閉まるのも15:00までと通常より早めなので、早く入った方がいいとは思う(^_^;)。拝観料は300円。

ところで、↑の「人形塚」の背景に見える建物は、無料休憩所の「圓蔵寺会館」。霊寳殿が定休だからか、人が居なかったんだが、お土産コーナーの虎のお守りキーホルダーが欲しくて、近くを通ったお婆さんに来て貰って買った(^_^;)ゞ

旅館「かわち」で朝食時に貰った赤ベコとペア→
ちなみに亭主は丑年・私は寅年だから、このお寺は二人とも特に気に入った(笑)。

さらに左方向へ通路は続く
左手に「龍蔵大権現」の赤いお堂

この時は「龍蔵大権現」という意識はなかったが、「あの赤いお堂まで行こう(^^)」と歩いてたら……、

←ド〜ン! 駐車場まで行ってしまった(笑)。赤いお堂は見えるんだが、行こうとすると、竹垣の柵に入り込む事になるので、ここまで真っすぐに来ちゃうんだな(^^ゞ。

「駐車場あったんだねー(^_^;)」などと言いながら戻りつつ、赤いお堂に行ける道を探したが、結局……「菊光堂」まで戻ってしまった(爆)。

なので、「菊光堂」に入り込んで聞いた所、「そこから廻って裏に出て下さい」とのご案内(^^)v

それで再び「舞台」に入り込んだら……(パノラマ4枚180度以上)

言われた通り……裏に出れたわ(^_^;)(パノラマ4枚180度以上)

この「菊光堂」の裏手の緑が、またシットリと雨に潤って深みがあり、何とも心地よかった(^^)。

やや高い位置に緑の合間からポツッと
(拡大)見えるのが「龍蔵大権現」

では「龍蔵大権現」にお参りしよう(^^)。……と階段に近付くと、お堂の足下に佇む影が見える→

境内案内図には、だいたいこの辺りに「弘法大師像」と書いてある。

弘法大師伝説によくある、弘法大師が水を湧かせる話は、当然のようにこの地にもあって(^^ゞ、ここまで来る前、門前町を通って来た中に、「大清水」という所があったらしく、そこが弘法大師の湧かせた水という。

すなわち、弘法大師の作った虚空蔵尊を、焼津の人々が大切に崇めたので、弘法大師が喜んで、御礼に岩を錫杖で突いて岩清水を掘りあてた。今でも水を汲みに来る人がいっぱいいるそうだ。

一方、↑の階段を上がる手前にある石碑には、「龍蔵権現堂は當町岩坂、坂上家先祖、即ち、當福満虚空蔵尊の霊水を拾い得た翁を祀る」とあって、「霊水」と地元の「翁」の関係が、より具体的に書かれている。

ちなみに、徳一ゆかりと伝承される寺には必ず“龍”と名のつく寺社が合祀されてるよね(^^ゞ。(2009年1月<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>内・2011年7月<法用寺>内

←(拡大)果たして弘法大師か、霊水の翁か(笑)。
↑階段を登る途中から、改めて見る「菊光堂」。

なかなか良い所で、続きは次回!(笑)

以上、関連事項は(大雑把だが(^^ゞ)、
2007年12月<鎌先温泉「最上屋旅館」>内〜<弥治郎「こけし神社」>
2008年6月<かっぱの碑・牛久藩陣屋跡><小川芋銭記念館「雲魚亭」>
2009年1月<恵日寺>および、<磐梯山慧日寺資料館>内
2009年2月<立石寺(山寺)、対面石〜根本中堂〜山門>内
2010年10月<筑波山頂駅〜大鳥居(帰路)>内、および<月山寺>
2010年11月<月山寺、2>
2011年4月<源三窟>内
2011年6(5)月<1日目・塩原温泉から川治温泉へ>内
2011年7月<法用寺>




次回は第5弾。
「圓蔵寺」の後、「奥之院・辨天堂」を廻り、柳津の道の駅で昼食後、南会津「鴫山城跡」の辺りから、だんだん台風に巻き込まれつつ(^_^;)、3泊目の栃木県日光の川俣付近まで何とか行き着いて、4日目まで迎えられたら〜〜〜!(笑)

<つづく>

2012年04月26日
 
     






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