<2004年・城主のたわごと12月>




2003年8月は、世田谷観音にブラリと。

そして9月、「沼田・日光編」の始まり始まり〜♪





     
  この「城主のたわごと」って、過去を遡ると「12月は掲載が殆どナイ」事をいま確認してしまった(汗)。。

そうそう、年末は毎年いそがしくて目が廻っている(*o*)ため、こんなコーナーがある事は愚か、下手するとHPをやってる事すら覚えてない事が多いんだなぁ(笑)。

しかし今年(2004年)はいつになくユトリも(一時は)あったため、ちょくちょく旅行編の写真なんか見繕って、何となく出来てしまった気がする。

さて箱根編も終了し、いよいよこたつ夫婦は北上するのであった。
前から我らの目標は、「だいたい箱根と日光あたりと、あとは鹿島かなぁ」なんて言ってたものだから、日光や鹿島はいつか行こうと言ってはいたのである。

それが適ったと言うべきか、強制的にそういう運びになったという気もするが(笑)、何しろ北上は果たされたのであった。
それが「沼田・日光編」である。その後、沼田に至っては、これを皮切りにナント4回も行っている(笑)。
その最初の一歩。今回は3回ぐらいに渡ってお届けしようと思う。



■8月■
<そこに、なぜか「世田谷観音」(爆)>


前振りの「北上」の割に、出だしがいきなり東京(南下)で始まる今月である(笑)。

これは8月。なぜ東京に行ったのかは今イチ思い出せない(^_^;)。
用があったか、前回の「箱根編(7月)」でも書いたごとく、この夏はPC暴走の上に多忙が重なって、かなり腐っておったから、フラリと出たのかも。。

何しろ写真は語るので(笑)、とりあえず「世田谷観音レポ」から。

舞台は東京都世田谷。ここにはだいぶ長く、しかもちょくちょく住んでいた。
「長く、ちょくちょく」と言うのは、子供の頃から何度か引越したりしながらも、合計すれば20年はココに住んだからである。元々両祖父母の本拠も、我々夫婦が出会い生活基盤を持ったのもこの辺りなので、用は無くても行く事が多い。

写真は毎度不思議に思う、新町一丁目あたりを通る高速道路の脇「六文銭」の看板。

インター名では「三軒茶屋」から「用賀」の間。鉄道では田園都市線の「駒澤大学」から「桜新町」の間。

仲間内で場所の話などする時、時折「六文銭の看板付近」で通っていた(笑)。が、なぜ六文銭なのか、遂に突き止める事は無かった。

さて「世田谷観音」に到着。場所は三軒茶屋が近い。「江戸札所第三十二番」である。

単にこの辺りに住んでた頃よくいったお寺を紹介してみたいだけで、言われや案内を書くために載せるわけではない。寺の公式ページもあり、かなり作りもいいので、私はサッと写真で紹介するにとどめようと思う。

これが道路に面した入り口。

門に到達する前、左にお地蔵サマ
そして正面に山門

このお地蔵さまが崇拝を集めてるように思える。住んでた頃も、山門には入らず、このお地蔵さんだけ拝んで帰る人をよく見掛けた。お地蔵さんの横には「さざれ石」がある。

あとは山門から本堂まで真っ直ぐ。途中、進んでいく右に左にお堂や菩薩が並ぶ。

山門を入ってすぐ左に恵比寿サン
同じく左。恵比寿の先に建つ不動堂

今度は右。山門入ってすぐ阿弥陀堂
同じく右。阿弥陀堂を超えると文殊菩薩

恵比寿サンは前は無かった覚えがある(笑)。
不動堂には「不動明王」が、阿弥陀堂には「韋駄天」が祀られている。
韋駄天は足の速い神として崇拝され、ここにはよくスポーツ選手がお参りに来ると聞いた。何しろ世田谷だから(^^ゞ、もともと有名人も多く住んでるし、東京オリンピックの跡地である駒沢公園もすぐ近く。かなりの有名選手も祈願に来ると聞いた。

ちょっと進んで左。悪夢を良い夢に変える夢違観音と大きな池。
夢違観音(拡大)

こたつ夫婦は、よくこの夢違観音をお参りしたものだ。またお参りしてると、時折お寺の人や参拝客に「嫌な夢を見たらここでお祈りするといいんですよ」と声を掛けられた事も何度かある。
お寺には龍神の絵が書かれてる手拭を貰った事もあり、これもまた「安眠守」だそうで、体調が悪かった時「枕を包んで寝なさい」と勧められた(^^)。

開山塔(睦賢和尚の墓)
本堂の龍神像(復元、本物はボストン美術館所蔵)

↑そばに佇んでいるのは、こたつ亭主である(笑)。

他に特攻観音堂、馬頭観音、鐘楼堂などもある。
そんなに広い敷地でもないが緑が多く、この辺りに住んでた頃は、ちょっとホッとしたい日曜日などよく来たものである(^^ゞ。



■9月■
<沼田城跡(城址公園)、1>


さて、本格的に旅行記に入る。
と言っても、実はこの時は旅行が目的ではなかった(^^ゞ。

所用が2日に渡ってあり、各々場所もかなり離れていたため宿泊の必要も出た。ちょうど亭主も取りそびれていた夏休みを消化する都合上、予定をあわせて車を出してくれた。
用を足しながら、という行程だったので、あまりゆっくり見るゆとりは無く、ただひたすらバシャバシャ写真を撮って移動しただけで、後日それを見て「こんな所に行ったのか(^^ゞ」と知った次第(笑)。

しかしこのルートは道筋がとても気に入り、その後は純粋に旅行目的で、さらに3回ほど来た(笑)。
この9月については3回に渡ってお届けしようと思う。

最初に訪れたのは沼田城。群馬県である。
これまで真田の史跡と言えば、信州にしか行った事が無かった(^^ゞ。と言うのも、群馬の史跡は交通の便を考えると億劫な上、信州が好きで何度行っても良い所だったため、たまに旅行となると、ついつい信州に出てしまったというのがある。
しかしせっかく車も買った事だし、この時はちょうどその方面に出る用事もあったので行ってみた。

関越の沼田インターで降りる。駅は「沼田駅」。
市内までは順調に入って来たが、道路地図で見る限りどこから入ればいいのか判らなかったし、駐車場の記述が地図では城址の反対側にしか見付からなかった。

後で正門が別にある事を知ったが、後で説明するとややこしいから(笑)、先に説明してしまう。
これが城址公園の中にあった公園の案内図。

右部分が上下とも広大な運動場となってて、その右脇に駐車場がある。

そこに車を停め、広い運動場を抜けて左の城址公園に入って来た。

公園に入った所でデジカメの電池が切れたので、1度車に引き返して電池を買いに行った。

次に来た時は、この地図の下部分、そこが正門だったのだが、そこからもう一度入場し直して来る。

まずは運動場から入場。かなり広い(^^ゞ。やがて公園に入れそうな道に近付いて来る。


公園の入り口
公園に入る。お出迎えのネコちゃん♪
拡大(笑)

沼田城址公園の案内図には、以下の記述があった。

久米民之助像/久米民之助歌碑/寿楽園碑/生方たつゑ歌碑/旧生方記念資料館旧土岐邸洋館/武道場/沼田小学校講堂記念体育館/関口コキきり絵美術館/天狗堂/村上鬼城句碑/平八石(沼田平八郎の首石)御殿桜鐘楼/金子刀水句碑/沼田の歌歌碑/利根英霊殿/テニスコート/野球場/遊園地/ゲートボール場

ここで取り上げる物については太字にしておいた。「平八石」は次回、「天狗堂」はさらに後日に廻す。

公園に入って来ると、「旧生方記念資料館」「旧土岐邸洋館」の説明版があった。
旧土岐邸洋館」は1924年、土岐章子爵によって東京都渋谷区に建てられた和洋折衷の屋敷であったが、その後土岐氏当主實光氏により、洋館部分を寄贈。ドイツ郊外の別荘風建築。
旧生方記念資料館」は、沼田藩の薬種ご用達を務めた商家。
城下町の本格的町家として重要文化財に指定。

ここで一度駐車場に引き返したので(^^ゞ、今度は改めて正門から入って来る。

正門脇の駐車場から周囲の山並を撮影

駐車場を出る所に「三の丸跡」の石碑
拡大

この「三の丸跡」から振り返って「正門」に入る。
正門から続く道に「沼田城址」石碑

奥に進むと、右方向と左方向に道が分かれる。左方向に進むと、縦長に奥深く広場がある。広場の中央には花壇。

前方奥に「鐘楼
右手奥に鳥居「利根英霊殿」。まずここを参拝。

沼田城は「真田の城」である。真田というと上田城が真っ先に上がりそうだが、上田城が出来たのは武田氏が滅亡し、真田昌幸が武田から独立した後である。

それまで真田の本拠と言えば真田。信州である。同じく砥石城、そしてここ上州の沼田城・岩櫃城といった所。小田原征伐の発端になった事で有名な名胡桃城も、この沼田のすぐ近くにある。
また真田は北信州の松代藩として名を知られるが、江戸時代中期まではここ沼田も松代の分国として継続されていた。

以下は沼田城の歴史について、城内の(結構あちこちにあった(^_^A))案内板をまとめて、ざっと概略を記す。

1532年、12代沼田顕泰(万鬼斎)が3年を費やして築城した。当時の沼田城は「蔵(倉)内城」と称され、その前は沼田顕泰も柳町の幕岩城という所にいた。

1566年、顕泰は子の朝憲に城主の座を譲り、側室とその子、平八郎(景義)を連れて、川場村の天神城を隠居所としていた。
が、1569年に朝憲を呼び出して殺害し、かわって平八郎を城主にしようとしたため、顕泰と平八郎は沼田勢に追われて会津に逃げ、上杉謙信が柴田右衛門尉を城代とした。
謙信の支配のもと10年近い歳月を経たため、沼田には謙信の痕跡もあるが、それもそのうち語ろうと思う。

1578年、謙信が死去すると、こんどは北条氏政・氏直親子が支配したが、北条の支配時期は短く、1580年6月、武田勝頼の配下、真田昌幸が入城した。
昌幸は城の規模を拡張し、1581年3月、平八郎が沼田奪還のために攻め寄せると、昌幸は策を用い、金子美濃守に城内で謀殺させた。ゆえに「沼田氏」はこれをもって滅亡した。

この「沼田平八郎」については、次回ちょっと書く。

1582年、織田の城代として滝川氏が入ったが、信長が本能寺で死ぬと滝川氏も居なくなり、またしても真田の一族、矢沢頼綱が城代として入り真田の領地となる。

この矢沢頼綱、NHK連続ドラマ「真田太平記」を見ていた人なら、すぐ思い出すだろう(笑)。加藤嘉さんが真田家きっての老将として演じ、非常に強い印象を残したからである。あの頼綱が守っていた城なのである。

1589年、真田と北条は和睦したが、真田領地であった名胡桃城を、北条氏城代の猪俣能登守が奪ったため、これを発端に秀吉が北条討伐を決め、小田原征伐にて北条を滅ぼしてからは、沼田城は真田氏の物となり、真田昌幸の長子、信幸が城主となった。
信幸は、慶長年間(1596〜1614)に五層の天守閣を建造した。

それがここ「利根英霊殿」で、先ほどの鳥居をくぐって中に入った所。

天守閣のあった場所は、最初は三階建ての隅櫓(水の手曲輪門)があったとされる。

この五層天守閣は、後に幕府に提出された絵図によると、屋根は千鳥破風、最上階には高欄が巡らされ、9間×10間の五層建築であった事が伺える。

さらに天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、こうした城は、関東において江戸城以外では沼田城だけだった。

信幸の後は、
1616年、信幸の長子、信吉が城主となる。
1635年、信吉の長子、熊之助が城主となる。
1639年、信吉の弟、信政が城主となる。天守閣の絵図を幕府に提出。(上の絵図か?)
1656年、信政が松代の藩主となる。
1657年、信政が松代に去ったため、信吉の庶子、信澄が城主となる。

このとき折しも「明暦の大火(1657)」で江戸城の天守が焼失し、その当時の沼田城は「江戸城を見下ろす(江戸城より背の高い)城」となっていた(笑)。

話は途中だが、ここでちょっと不思議な光景をご紹介(^。^)σ。

ジャーン! 「利根英霊殿」の隣はウサギ小屋!(爆)
クジャクもいたりする(汗)

これで驚いてちゃいけない。他にもまだまだこ〜んな顔ぶれも〜〜〜〜(笑)。

当初、間違って入った「生方・土岐旧邸」の付近にも、実はクマがいた(爆)。
他にも何か動物クン達がいた覚えがあるが、さすがに全部は写さなかった。

こたつ城主は、何か一発でこの沼田城址が気に入ってしまった。花壇の花も美しく、3月には夜中に提灯がエンエンとかかり、 GWにはオレンジ色のツツジが群れで咲き揃い、「ここぞ城址」といった気取った雰囲気も無ければ、かと言って、逆に喧騒じみた客がドヤドヤ来る風でもなく、全体的に穏やかでハッピーなムードなのだ(^^)。

さてさて、この動物園(笑)を超えると、左に、さっきも正面に遠く見えた「鐘楼」が見えて来る。右には遺構が発掘されていて近くから見られる。

左に「鐘楼」、明治時代に建設
右に「西櫓」の堀の跡

現在も天守閣のあった辺りとして、当時植えられた「形見の桜」が樹齢400年を数えつつ残っている。この桜は、その翌年(2004)の3月に訪れた際、夜目にもあでやかな威容を見せてくれた。

先ほどの続き。沼田真田家の悲しい結末を……。

1681年11月、江戸両国橋の用材到着遅延を幕府に咎められ、悪政を理由に真田信澄は幕府に追放され、出羽山形藩奥平氏へ、嫡子信就は赤穂浅野氏へ預けられた。沼田領は以後5人の代官が在任。
沼田城は破却され、二度と本格的な復興はされなかった。壊されずに地中に埋もれて残されていた西櫓の石垣(上右)が、後の発掘によって発見された。

西櫓の石垣、横合いから撮影。この手前が「形見の桜」のある丘

さて、この広場一帯だいたい見終わったので、西櫓の石垣をさらに先に進んで右折。
これまで見て来た広場の外側を通って戻る。

右から降りてきて左に進む。進んださらに左に別の曲輪跡(広場)がある。

←途中、西櫓の石垣に続く土手の合間から、鐘楼が見える。

1703年、幕府の交付金により本多正永が城を再建。三の丸に館を建て、2代正武、3代正矩と城主が続いた。
三の丸(江戸期)は、正門に入る前に撮影した石碑がソレである。本丸と二の丸の南にあり、侍屋敷があったと伝えられる。

1730年、再び代官在任。
1732年、黒田直那、常陸より沼田藩主に。
1742年、2代黒田直純、久留里へ転封。

ちなみにこの「久留里」にいった黒田氏ついては、「城主のたわごと・2002年8月」、久留里城にいった折に少し触れた。
実はこの久留里では、しばしば「真田」という名を目にはした。この沼田藩との関係は掴んでないので書かなかったが(^^ゞ。

黒田にかわって沼田には、老中、土岐頼稔(大坂城代、京都所司代)が駿河田中より移封。沼田学舎を創設。武芸・儒学を奨励。
以後127年間、土岐氏が城主となる。

1869年、沼田土岐氏は藩籍奉還(明治2年)し、以後、館も取り壊された。
が、この「鐘楼」は明治に建設。戦時下の戦火も免れたため現存している。

この後も、まだちょっとだけ沼田城のレポが続くが、それは次回に廻そう。
次回は沼田城のあとで沼田市街をちょっと巡り、そのあと日光に抜ける過程をお届けしたい。

<続く>

2004年12月31日
 
     





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