<2016年・城主のたわごと2月>




2015年7月「足利編」第四回・最終回(^O^)

7〜9月近隣レポは、主に手賀沼西部、大井の将門伝承地など♪




     
  今回で足利ツアーも最終回だが、前回も言った通り、殆ど前回で終わったようなものなので(^^ゞ、早々と日常編の段取りスタート!

というわけで、まずは定例(笑)↓

日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、ここで恒例・前レポの宣伝を行う(^。^)。

〜おしながき〜「足利編」1〜3
「9月のたわごと」(足利1)
■7月・東京都港区〜栃木県足利市
<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>
<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>
<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>
「11月のたわごと」(足利2)
<足利の朝から振り返る>
<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>
<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>
<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>
<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>
<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>
<門前通り>
<鑁阿寺>
「1月のたわごと」(足利3)
<鑁阿寺、2(つづき)>
<「太平記館」を見てから、お昼ご飯(^O^)>
<勧農城跡(岩井山赤城神社)> 
<長林寺>
<法楽寺>
<両崖山>
<心通院>
<北東へ向かう>
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>

読んでねっ(≧▽≦)!(既に読まれた方は今回のに進んでネ(^^))

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そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

pdf版)
各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)

足利ツアーの後は、日常の近隣レポ、夏〜初秋(7〜9月)編に入るー。
今回は、手賀沼南西の大津川周辺、大井に多く行った。
特に「北千葉導水ビジターセンター」と、最後の「福満寺」(平将門伝承の寺)が、比較的まとまったレポに仕上がってるかなー(^^ゞ。



■7月・茨城県足利市・佐野市
<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)、2(つづき)>


前回、樺崎八幡宮へ至る二つ目の鳥居をくぐった所で終えた。地図
あの先に、↓樺崎八幡宮がある。今も残る唯一の建造物である。

この地に八幡神を勧請したのは、鎌倉期の足利義氏であるが、この本殿の建物は、天和年間(1681〜1684)の再建といい、この江戸時代の再建者が誰かは皆目わからなかった(^_^;)。

石段登り切って正面の拝殿

現在「樺崎寺跡」とされているのは、創建者・足利義兼の頃に築かれた「法界寺」と、その子・義氏の頃に勧請された、ここ「樺崎八幡宮」であるが、明治の神仏分離の折、八幡宮だけは存続が叶ったと見えて、この通り、今も神社だけが続いている。

桁行二間 梁間二間 両側面は高欄付縁張 銅板葺 江戸時代
江戸時代の天和年間に再建された後は、昭和63年度・平成元年度の保存修理で、本来の造りであった隅木入春日造(軒唐破風)に復元した。

この本殿床下には、足利義兼の墓標があり、義兼はここで生き入定を果たしたと伝えられている。

(足利義兼(二代)・義氏(三代)の頃の寺について、今回の旅では……
2015年11月<鑁阿寺>
2016年1月<鑁阿寺、2(つづき)>
  〃   <法楽寺>
  〃   <樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>


本殿
↑その右に神楽殿。明治時代に移築、平成三年(1991)新築。

近年の発掘調査によると、この本殿のある場は、元は義兼を祀る「赤御堂」があり、南に多宝塔・石造層塔(義兼供養塔)、足利氏歴代の五輪塔が立ち並んでいたという。

前回の最後に、造園中の庭園をお見せしたが、あれは義兼の時代にあった浄土庭園の復原ではないかと思われる。(2016年1月<樺崎寺跡(樺崎八幡宮)>
調査によると、池には中島があり、北側には3棟の礎石建物があり、前道路と並行して流れる樺崎川の前と後ろに、坊舎(僧侶たちの生活空間)の遺構も確認されたそうだ。

境内からは、三鈷杵文軒平瓦、青磁・白磁の壺、こけら経、 護摩壇の炉、かわらけ、漆椀などが出土し、鑁阿寺に並ぶ足利氏の重要寺院だった実相が浮かび上がった。

神社の高台から先ほどの駐車場を振り返る(パノラマ2枚)

この夕暮れ風景の天地を、カナカナとヒグラシの爽やかな声が冴え渡り、静かで澄んだ素晴らしい佇まいが、今でもこの写真を見ると思いだされる(#^.^#)。<良かったな〜ここ

明治を迎えると、寺と八幡宮がある、ここ樺崎寺は、神仏分離の波をもろにかぶる。
八幡宮は残されたものの、寺は廃寺。

運慶作と伝わる大日如来像(国重文)や木造地蔵菩薩坐像、厨子、五輪塔19基(足利尊氏の父・貞氏高師直・南宗継らの供養塔を含む)などとともに、寺宝の多くは、西の光得寺地図)に移された。

足利貞氏や高師直の供養塔は銘文から判明したらしいし、近年の発掘調査でこの寺の重要性がわかったばかりだそうだから、今になって浄土庭園風に整備されてる感じなのも、最近の動きなのだろう。

樺崎菅公廟
公民館の会合

樺崎官公廟」は、菅原道真を祀るものだが、先ほど本殿の隣にあった「神楽殿」とともに、元はこの樺崎寺とは別の所にあった。
明治の神仏分離の後、今度は神社政策によって、これらは樺崎寺の敷地に移築あるいは合祀される事となった。

先ほどの神楽殿は、元は赤坂宮内の示現神社にあったものを移し、昭和56年(1981)に発足された神楽保存会によって、平成3年(1991)に新造しなおした。

一方、この官公廟は、明治14年に樺崎小学校に建立され、北郷第三尋常小学校(昭和38年(1963)に大月小学校に改称)と合併したが、これが移転すると裏山に放置されていた。
平成18年(2006)になって、この樺崎寺に改めて鎮座され、菅原道真の故事にちなんで梅の木が添えられた。



<佐野「やすらぎの湯」(日帰り温泉)>

前日は東北道を館林地図)で降り、一般道を北上して足利に入ったが、この日は、これまで巡った中でも一ヶ所だけ、東に突出して外れた樺崎まで来てしまっている。それに……、

「帰りはやはり、日帰り温泉だよね( ^^)人(^^ )」
と、夫婦の意見は一致しているのもあって(笑)、東の佐野方面に一度出る。

足利市・鑁阿寺地図樺崎寺跡(八幡宮)=地図佐野やすらぎの湯地図

日の長い7月だが、流石にだいぶ暗くなってきた

いつも東北に行く時、東北道を走っていると、首都圏とその近郊っぽい風景から一転して、高山が辺りを覆う一帯があり、それが佐野地図)や岩舟地図)あたりである。
今回あらためて一般道を走ってても、やはりそうした山々の風景を見た。

さて、前回までに平安末〜鎌倉期足利氏三代をやったが、義氏の後の泰氏以降については、とても全部はやりきれないので割愛させてもらう(^_^;)。
大雑把に言うと、泰氏の頃が折り返し地点で、執権北条氏に押されがちになっていった。

力を減じられたとかいうより、北条氏も内部から得宗家が出て権力を掌握したから、鎌倉将軍に忠勤を尽くしても、北条氏の支流と縁を結んでいても、もはや安泰に繋がるわけではなくなっていく。

泰氏は名越北条氏から娶った妻を側室とし、彼女の生んだ子は廃嫡。得宗家の女を正室として生ませた頼氏に家督を継がせた。
(名越北条氏からの前妻は、NHK大河『北条時宗』では、「桔梗」という名で登場、原田美枝子が“復讐する女”を熱演していた)


その一方で、それまで毎代に北条氏から妻を得ていた足利氏も、泰氏の子・頼氏には、上杉氏から妻を得た。上杉氏は鎌倉六代将軍・宗尊親王に従って、京から鎌倉に下向して来ており、これが足利氏上杉氏が婚姻を結んだ始まりであった。
(これもそのシーンが『北条時宗』にあった。宗尊親王が、北条時頼に無視された腹いせっぽく縁談を申しつけるという展開:笑)

頼氏の孫・貞氏も、上杉清子を娶って、尊氏・直義を得ている。

義国┬義重(新田・山名・里見・大館・得川)
   └義康(足利)┬義清……(仁木・細川)
             └義兼┬義純(畠山)
                 └義氏(足利)┬長氏(吉良・今川)
                         └泰氏(足利)┬家氏(斯波・最上)
                                  ├義顕(渋川)
                                  ├頼茂(石塔)
                                  ├公深(一色)
                                  └頼氏(足利)−家時−貞氏┬尊氏
                                                     └直義

泰氏の子からは、斯波・渋川・石塔・一色・小俣といった、その後の室町幕府においても勿論、関東足利氏足利荘にとっても関わりの深い支族が多く輩出した。
足利学校の創設者として、この泰氏が創設したとする説もある。

以上をもって、足利レポを終える。( ^^) _旦~~<お疲れ

到着(^^)。「スーパー銭湯・佐野やすらぎの湯」(地図(パノラマ2枚)

この日帰り温泉が、また結構良かった(^o^)。スーパー銭湯「佐野やすらぎの湯」

珍しいな、と思ったのは……。

普通、この手のお風呂屋さんって、入湯料がそれほど高くなくても、岩盤浴だけは別料金である事が多い。

それがここでは、入湯料も他と変わらない上に、塩サウナや赤外線高温サウナ、そして室内風呂に、「ブラックシリカ・ゲルマニウム・天寿石・北投石・トルマリン」といった、特殊な岩石を配している。
こうした石の効果が治療や美容に役立つ人には助かるよね〜(#^.^#)。

亭主「唐揚げ・ラーメン定食」
城主「レバニラ炒め定食」

↑そして旅の最後は、美味しい夕ご飯(^O^)!

この「佐野やすらぎの湯」の食事処はメニューも豊富で、味付けも美味しく、お値段もお手頃と、三点揃って、すこぶる満足な一時を過ごせたが、だからこそ人気スポットなんだろう、ここは又エライ混みようでもあった(≧▽≦)。。

美味しく頂いた後(=^m^=)、いつもなら、この辺で「お・し・ま・い(^。^)」となるんだが、この旅では最後の最後に、もうちょっとレポ(写真)の追加がある(笑)↓



<羽生パーキングエリア(東北道)「鬼平江戸処」>

佐野から我が家に帰るまでには、それほど距離は無かったが、安全策をとって、途中に運転休憩のため羽生PA(地図)に寄った。

そしたら、パーキングの駐車場前が……(゚.゚)。

夜の闇に浮かびあがる時代劇の町並み!(笑)(パノラマ3枚ほぼ180度)

これは、羽生の隣に江戸への入口「栗橋関所」(地図)があった事にちなみ、池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の時代(1700年代末〜1800年代前半)を、忠実に再現したそうだ。

小説の主人公・鬼平こと長谷川平蔵は、実在の火付盗賊改方長官。
エリアでは、鬼平の闊歩した「日本橋大店」、下町「本所深川」、賑やかな「両国広小路」などに登場する店名が見られ、各店舗では、食通だった作者・池波正太郎にちなんで、江戸の味をたくさん用意したという。

近寄ると夜の町に響く拍子木が聞こえそう(パノラマ3枚ほぼ180度)

この時間は全ての店が閉まっていて、暗いガラス窓越しにしか内部が見えなかったが、なるほど、ありとあらゆる食べ物が全て江戸風に名付けされ、江戸風の字体に書かれていて、見ているだけでワクワクした(^。^)。

全て閉店していたが、通路を通るだけなら内部にも入れ、そこは薄灯りの下、やや暗いながらも江戸情緒した空間となっていた。
自由にとれるパンフレットには、呉服屋・線香屋・薬屋・筆墨屋・酢醤油問屋など、江戸時代の看板や、作中、同心・密偵がつなぎ(合図)に使用した、笠や桶などの品々が提示されていた。

こちらは三味線の音色が聞こえそう(^^)(パノラマ3枚ほぼ180度)

栗橋は羽生からは少し距離があり、江戸時代は関所があったのだろうが、室町〜戦国期にも栗橋城地図)があって、古河公方の形成した古河防衛網の最重要拠点だった。

古河公方は五代・義氏に至って、後北条氏の傀儡とされてしまうが、その最も象徴的かつ実質的な交代(後退)のシグナルといえば、栗橋城に北条氏照が君臨した事だろうか。

勿論そこに至るには、越後の上杉謙信と後北条氏との越相同盟の締結(1969年)や、関宿合戦による、古河公方勢力の後退(1574年)があったわけで、氏照の栗橋城入りは、そのほんの一幕にすぎない。

←ヒョイと暖簾を分けて、町衆が出て来そうな裏通り
↑格子戸の内部をよく見ると、江戸風の食べ物や江戸風の名のついたメニューが見れる(^。^)

古河公方勢力の後退といっても、それは五代・義氏の事を指すのではなく、義氏の兄・藤氏・藤政と、その父・四代晴氏を主軸とした反北条勢力を指すが、具体的にその残留勢力(奉行・外戚)として、北条氏の攻撃を最後まで受けていたのは、関宿城梁田氏であった。

梁田氏は抗しきれずに関宿城を退かされ、ついに後北条氏の古河エリア支配が確定する。

以上のような実効的な段階を経て、やがて北条氏は古河公方の威を借らずとも、関東の実質的な覇者となっていくのであるが、それを時機的・飛躍的に体現したのは、栗橋城をおさえた北条氏照であった。

←こういう格子戸を一部開けれる所があって、そこから内部に侵入↓
↑日中は飲食店や土産コーナーなどで賑わうのだろうが、夜でもスポットライトがついている。

それまで氏照は北条氏の支流の一人にすぎず、北条氏自身も、実力的にはともかく、権威としては、あくまでも古河公方の家臣(外戚)の立場を踏襲するに過ぎなかった。

が、氏照は栗橋城主となるや、いきなり陸奥守に就任。
そしてこれが、古河公方義氏にかわって、実質上に北条氏が関東を支配し、多くの関東諸氏もついにそれを認め、従うこととなった機縁となった。

……あれ? いつの間にか話が戦国時代に行ったねっ(≧▽≦)。。<ゴメン
でも古河公方や後北条氏の時代も、古河を取り巻く地域は商人の活気を取り入れ、大いに繁栄していたので、こういう風情も少しは漂ってたかもしれないよ(笑)。

担ぎ棒にぶら下がる野菜
また外に出て角を曲がる

一度、端まで到達すると、そこで曲がり↑、その先にあるのは芝居小屋という作り↓

ここにだけ自動販売機があって、夜中に訪れる客はみんな、ここに集まって飲み物などを買い、この芝居小屋の前で休憩する。

この羽生パーキングで売られている商品などは→「羽生・鬼平江戸処
特に「江戸の味」コーナーでは、ただ和風の食べ物やそれっぽくもじった料理名があるだけでなく、江戸の食を再現したメニューもあるので、興味のある方は→「江戸の食と土産

カドを曲がると興業の幟が見え
端には芝居小屋の大看板が

以上で、本当に足利レポは、お・し・ま・い(^。^)。

この後、状況的にも体調的にも旅行どころじゃなくなったので(^_^;)、この足利ツアーは、一泊二日と短いながらも、すごく心に良い感じに残ってて、何かと言うとこの時の事を思い出して過ごしている(^^)。

でも、この羽生PAまでだったら、「ちょっと足延ばして来れそうだよね〜」とか言ってて(笑)、そういう意味でも、この旅行は最後の最後まで「使えるネタが豊富」だった(^^)。

以上、関連事項は、(2016/05/20、後追リンク)
■今回の足利レポ
2015年9月<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>以降
2015年11月・全文
2016年1月・全文
■関宿・古河公方関連
2005年12月<関宿城>
2006年1月<関宿城・周囲の「にこにこ水辺公園」><実相寺>以降
2008年7月「千葉県の動乱」vol2<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>以降
2015年4月<関宿を経由して古河へ入る>以降
2015年5月<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>
■大河ドラマ『北条時宗』
2001年9月・全文
2005年8月<塩田城址>内
2009年4月<羽黒山・参道2「五重塔」>内
2009年9月<相模台城跡>内
2010年11月<雨引観音(楽法寺)・薬医門〜本堂>内
2015年11月<鑁阿寺>内




■7月・千葉県印旛沼・北西部
<夏の印旛沼・虹・月・盆踊り>


足利ツアーの後は、夏の日常が続く。

ある日わりとよく行く白井からフラッと足を伸ばして、何となく印旛沼まで行ってしまった(^^ゞ。
いつもだと、どこどこに行くにはこういうルート……というお決まりのコースがあるんだが、千葉県も狭くはないので、縦横無尽に色んな行き方があって、通った事のない道を開拓するのは楽しい(^^)。

いつも通らない道、入らない脇道の風景

印旛沼は南西と北東に二つある。
南西の印旛沼の西側、新川との入江に「舟戸大橋」があり、この橋を南に渡ると、左手に印旛沼が広がって間近に見える一帯がある。

舟戸大橋(地図)を渡る
渡った後、左手に湖面

印旛沼は、うなぎ・ロード(私が名付け:笑)や宗吾霊堂の方面に行く時に、北東の湖面を通る事がある他は、この南西の印旛沼には、臼井城跡や師戸城跡(印旛沼公園)へ行った時、↑この湖岸に来た事がある(^^)。

釣り客の車が数台並ぶ
舟戸大橋を戻る(^^)

印旛沼は以上。

■印旛沼(北・うなぎロード)・白井〜(南) (2016/05/20、後追リンク)
2005年11月<すすきロード(千葉ニュータウン)><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
2006年11月<宗吾霊堂、1>
2006年12月ほぼ全文
2007年1月<「印旛沼公園」(師戸城跡)、2>
2008年4月<印旛沼〜宗吾〜佐原香取>
2008年5月<千葉ニュータウン〜印旛沼>以降
2008年6月<麻賀多神社、2>内
2010年8月<「房総のむら」レストラン〜印旛沼周辺の夕日>
2012年8月<印旛沼うなぎロード(^。^)>
2012年12月<木下街道(県道59号・市川印西線)、@白井市編>


7月の風景、続けてどんどん行こう(^^ゞ。

こちらは松戸市立運動公園(地図
夕暮れ時、見る見る内に現れ出た虹!


←夕闇が濃くなる程、虹の色が鮮やかになり、やがて外側に二つ目の虹の輪が見え始めた。神秘的ー☆
この虹を周囲の人に教えてあげたら、大勢に伝わっていって、みんなでスゴイスゴイと眺めた(^^)。
↑お次は夏の満月。

この夜の月は、この通り、月影が極めて鮮明で、登り切った後もすこぶる明るかった。


ちょっと特殊加工を施してるが、だいたいは現物に忠実に再現している。
鉄塔や電線と会話するように並ぶ幻想的な光景

7月、最後は、去年も覗いた高柳の盆踊り大会。


アメーバで出会ったピグ友さんが、私と同じくこの界隈に出没するらしく、夏祭りや花火大会の話しで盛り上がった事があり、ここの盆踊りの話題も出た(^^ゞ。



■8月・千葉県柏市・白井市
<北千葉導水ビジターセンター>


↑突然、亭主の思いつきで行ってみた(笑)。地図

手賀沼の南西・大井大津川あたり
「ヒドリ橋」(地図)が見える

「ヒドリ橋」は、2015年8月号<手賀沼・西側「藤姫ウナギ伝説」>でも見た通り、「藤姫」の伝説を伝える石碑が点在するあたり(^^ゞ。
今回は最後のほうで、将門伝承のあるお寺のレポをお届けするが、そこもこの手賀沼南西の地域(^^)。

今からいく「北千葉導水ビジターセンター」は、それらよりさらに西寄り。そろそろ手賀沼が終わろうとする辺りにある。

←こんな風に入って来た(パノラマ5枚180度以上)

↑その銀色の丸い建物が「北千葉導水ビジタセンター」のビル(地図)で、 もうちょっと進むと……↓

ビル超えた先に背の高い柵があり……

柵の格子の合間に……
カメラを入れて撮影(笑)

この施設は、利根川から引き入れた水を溜めておき、手賀沼に注ぐ分がこちら↓に、江戸川に送る分は→こちら(ビル側)に注ぎ流すべく作動させるもので、この仕組みを「着水井(ちゃくすいせい)」というそうだ。

付近にあった紹介版によると、手賀沼にいく方は、手賀沼の水質を綺麗にするため、この先「着水樋管」というのを通ってから注がれてゆく。

手賀沼にゆく方は、この通りザーザー流れるのを見れば、その行く先がわかるが、「江戸川に送る分」というのは、地下にでも流しこんでるのか、右にはビルが建ってるので目視できない(^_^;)。。

紹介文には「坂川・江戸川・大堀川方面に」と書かれている。
しかし地図を見ると、ここより近い所に「大堀川」(地図)があるにはあるが、この施設よりずいぶん距離がある(^_^;)。。

そこで紹介版の作成地図を見ると、どうも「導水管」というのが(地下を?)通っているようで、その管の中を流れて大堀川まで出る仕組みなのだろう……と思う(^_^;)。

←こちらは手賀沼方面への放水。勢いが良い
↑ビルの隣から伸びるこの陸橋に登ると、手賀沼へ向かう前に通る「着水樋管」の建物が見れる↓

左が手賀沼方面↓・中央「着水樋管」↓・右が今見た溜池→(パノラマ2枚)

←手賀沼方面に向かう先ほどの放水が、陸橋の上からも見下ろせる。(ドドドドド!)
↑陸橋の先端に行くと、手賀沼の中央「手賀大橋」(地図)も見えて、眺めが良い(^^)。

満々と水をたたえた手賀沼が前を横たわる(パノラマ4枚180度以上)

後ろを振り返ると「ビジターセンター」のビル(パノラマ4枚180度以上)

このビルは、かつては市民を相手に、上映会や展示会、イベントなど行っていたようで、昔のパンフレットには、制服・制帽を着用したコンパニオン風の女性達が受付にいる写真が見られた。

それが民主党時代の「事業仕分」により、2011年からは受付・案内人の常駐は廃止となり、今は警備員のみの常駐となっている。
よって、見学は自由見学という形に改めているが、展示物は従前通り閲覧でき、シアター上映や団体見学などについては、事前予約によって対応している。

この日も、草刈りや清掃など行う係の方が、見学客の相手をしに立ち寄っておられ、私らを含めて数人の見学者のために、シアターの上映をして下さった。

シアターは、季節ごとの水の増減に応じて事前に水流の出し入れをする仕組みや、近年、土が減ってコンクリートが増えた所が多いため、急な増水に対処できなくなる傾向が強く、川幅や土手の工事で対応している事などを紹介していた。

←水生動植物と沼地の共生をモチーフにした館内の壁絵
↑展示物の撮影は控えたが、これだけ撮らせて貰った(^^ゞ

千年前の利根川の図は、ここだけでなく、千葉北西部のいたる所で見る事ができるもので、茨城県の霞ケ浦や鹿島灘から千葉県の印旛沼・手賀沼まで一繋がりにした絵図。
この頃では「利根川」と言うより、もっぱら「香取海」と称されるのを見かけるようになった。

このビルからは、先ほどの溜池(着水井)が一望できた。↓
先ほどの水流を今一度説明すると……

←手賀沼への放水、↓江戸川への水流(パノラマ2枚)

さらに一階高く上ったんだっけな。陸橋まで写せた(パノラマ縦5枚180度以上)

何かと言うと批判の矛先を向けられる民主党時代の事業仕分けだが、案内嬢二名の常駐とシアターの常時上映は、全く必要ないと思う(爆)。
さすがに無駄遣いだから、「民主党の事業仕分けに賛成」と、県民の本音として思う(^_^;)。。

しかも、そうしたサービスを常時するとなると、音楽や案内テープを流したり、季節ごとの催し物、自動販売機の設置、休憩所の確保など、ドンドン経費がかかる事になるは必定(^_^;)。。

まぁせっかく作ったんだから、今ある施設やビデオ類を大事に活用する事には異論は無い。
川や水の説明も勉強になったしね(^^)。



<白井市「大釜ごはん・自然(じねん)」>

8月はサルスベリの花が見ごろ(^^)↓

場所は柏市の「しいの木台」通り(地図

さて、近年いくようになったお店を、また一件ご紹介(^^ゞ。

白井市にある「自然」。“じねん”と読む。(地図

ここは前をしょっちゅう通っていたんだが、店内に入るようになったのは最近(^^ゞ。

お惣菜(主に和風)を多種類揃える料理店なんだが、実はこのタイプのお店、他にも2〜3店ほど近辺にあって、近くを通る時、「今度来ようね(^^)」と言いはしてたんだが、訪れる機会を逸している内に、他の二店は無くなってしまった(つД`;)。。

そこで、「ここも実は閉店してたり(^_^;)」と恐る恐る入ってみたら、ちゃんと営業していて、しかもずいぶん盛況の様子で(同じような他の店が潰れたからかも)、それ以来ちょくちょく来るようになった。

駐車場から見える側面の大きな店名↓
道路側(正面)の入り口から入る→

店内の撮影は遠慮するが、店に入ると、早速オーダー・コーナーがあって、まずそこで魚か肉の料理を注文する。
これらの注文が特に無ければ、さらに先に進んで、種類豊富な野菜の惣菜を、取り皿に好きな料理を好きなだけ盛って、お会計場に進んで、ご飯と味噌汁を注文。

ご飯・味噌汁・魚・肉料理は一品ごとに値段があり、野菜の総菜は取り皿の大きさで料金が決まっているが、そんなに高くない(^^ゞ。「大釜ごはん・自然

↓入口にゆらめく飾り炎がアイディア
焼き魚二品とお惣菜取り合わせ皿→

お皿に遠慮がちに盛ると、会計場で、「もっといっぱい乗せた方がお得ですよ!」とお店の人が言ってくれて、いたって気さくな雰囲気。

一人だと限界があるが、二人だと、大皿に多種類いっぱいに盛れるから、本当にかなりお得(#^.^#)。

左の写真は入口付近。
かがり火風だが、実は下からライトと送風をあてたセロファン(^^ゞ。ヒラヒラッとゆらめく様子が、本物の炎に見える。
毎度「アイディアだよね〜!」と感心する(笑)。



■8月〜9月・千葉県柏市・我孫子市
<夏から秋へ、手賀沼・古利根川・利根川>


8月の終わり頃、手賀沼の夕暮れ時。

いつもの曙橋(地図)付近@手賀沼↓
川岸で旋回する船→

方向転換を終えて……

岸辺を出発
漕ぎだしていく

9月に入って、こないだ行った「手賀カフェ」(地図)、またランチを目当てに行ってみた(^^)。

この日のメニューは香ばしい二種の焼き物仕立て↓
食後はベリージャムババロアとドリンク→

味噌と梅ジャムっぽいソースのハーモニーが宜しかった(^nn^)
ドリンクは亭主はコーヒー、私はハーブティを頼んでみた。さすがハーブ農園風の庭つきのお店だけあって、ハーブ風味が引き立つメニューが多い。

食後はさらに北上して、古利根川に出た。

小川から湖に通じる所(地図(パノラマ5枚180度以上)

釣り人から貰うお魚を待つ猫(笑)
同じく餌を宛てに来る白鳥(笑)

←人が大勢いるのなど全く気にしない様子で、チャプチャプ近付き、岸辺にドッカリ上がって羽毛づくろい(笑)

一見、優雅に過ごしているが、実はこの4日前の夜から3日前の朝にかけて、北関東地方は集中豪雨に見舞われた。特に「線状降水帯」の雲がかかった川の流域は洪水となり、宮城県・栃木県・茨城県などに大きな被害が出た。

茨城県常総市の鬼怒川が決壊し、小貝川との間に広域に渡って浸水が広がる映像がテレビで放送された。

そういう気象の影響もあるのか、ちょうど洪水が起きた時間から、3日間連続で、かなりヒドイ「ものもらい」になってしまった(^_^;)。。

一時期は首を動かすだけで、目に痛みが響くほどで(汗)、丸一日経った頃「明日までに治らなかったら眼医者に行かないと(^_^;)」と思いつつ、気付けば土日で病院には行けず、こうして水辺の近くで、白鳥たちと一緒に休憩(^_^A)。

川口からちょっと離れて向こう岸を眺める(パノラマ5枚180度以上)

目はようやくこの夕刻ごろから回復して、4日目の夜にはほぼ全快したので、「来週、被災地に手伝いに行けそうだったら行こうか。作業が無理でも様子を見に行くだけでも」などと言っていた。

今思えば、これが「知らぬが仏」と言う奴で、この後、ドンドン体調が悪くなっていったんだが、この時はまだ呑気にしていたッス(^_^;)。。。

この日は利根川の方に行ってみた。一部、茨城県に入り組んでいる所がある↓

土手を上がると進入禁止になり
(拡大)その向こうは水浸し

翌日の日曜日は、今も言った通り、夜までに目の腫れがだいぶひいたので、手賀沼の日帰り温泉に入ったが、置き石に巨大なナメクジがいっぱい居たり、外にも大きな蜘蛛や蛭など、あまり日頃見ない生物をいっぱい見かけた。

いかにも「洪水で川底までひっくり返されて出てきました」という感じがした。。



■9月・千葉県柏市
<「福満寺」、1(平将門の“大井”伝承の寺)>


この年は、振り返れば足利ツアーに行ったきりとなったが、足利にも当初の予定では、信州や上州にでも旅行する行きか帰りに寄るつもりだった。

それが、急きょ旅程を一泊二日に縮めたため、足利オンリーとなったわけで、「秋までにどっか行こうか(^^ゞ」なんて言う内に、先の見通しが立たず、9月のシルバーウィークを迎えていた。

ちょうど大型連休もある事だし、一日ぐらいどこか出掛けようかと言ってた矢先、先の洪水があったので、ボランティアに行ければ行こうか、ちょっとその時間も無いかな……と言いながら一週間が経った。

逆井の田んぼ(地図)では
もう稲干しをしていた

←あまりこの辺りでは見かけない珍しい干し方なので撮影(^^ゞ。
根木内城跡などで、藁を使った手作業の実演風景などの写真を見る事があるが、近頃のこの辺りのブームだろうか(笑)。

さて、この一週間、実は色々あった(^_^;)。

先の「ものもらい」は前述の通り、三日がかりで治ったが、その翌日から、今度はもう片方の目が「ものもらい」になった(^_^;)。。

前の片方に比べれば大した感じではなく、一日半ほどで治ったが、その後、眩暈が起こるようになって、週末の前夜、何となく熱をはかってみたら……38.9度(・・;)!
どっちかというと平熱が低く、風邪ぎみだと、36度代でも辛いぐらいだから、この高熱には驚いた!

しかし、これまた週末だったんで病院に行けず、どうしようもないから、取りあえずご飯を食べに出た。(↑この写真は、そんな時に撮っている:笑)

結局この日は、帰りに買い物するだけで帰ったが、気晴らしのドライブがてら、フラリと寄ったのが、手賀沼の南西、福満寺だった。

まずは手賀沼南西部
大津川の東沿道(地図)北上

大津川は、古代からある地名なのかもしれない。
900年代、中央に叛乱した平将門による政権が偽都(新王都)計画で、「大井の津」と指定した候補地として、前もレポした事がある。(地名は「大井」「大津」とも現在も残っている)。

福満寺は、西にこの大津川、北に手賀沼を臨む寺で、↑今見るこの森の右裏に位置する。
森の裏に続く細い道を、ウネウネと辿って行くと……↓

このような門前道(地図)に行き会う(パノラマ4枚180度以上)

この立派な山門(楼門)は「鐘楼堂」。中に梵鐘がかかっている。

門の(向かって)右のカドには香取神社があり(次回、寄ります(^^ゞ)、神社との間に↓

平将門大明神」の大看板
↑そして山門(鐘楼堂)の脇壁↓

↑の大看板には、「平将門大明神」の隣りに小さめの字で、「大井の七人衆影武者伝説の里」と書かれ、下に「教永山 福満寺」とある。

福満寺は、奈良時代の尊慶の開山により、桓武天皇の時代(781〜806年)に創建された。
承和11年(844)の薬師堂の棟札に、「下総国相馬郡、南相馬庄、大井郷別当福満寺」とあり、天台宗の寺院として、周囲の神社などを統括する別当寺院であったことがわかる。

(天台宗は国の官寺であるから、総本山・比叡山延暦寺から派遣されて、地域の取りまとめを任された、みたいな意味だと受け取った(^^ゞ)

そして、中央の大きな山門楼には晩鐘がつけられており↑、門から入った先は↓

ドーン!と急な坂道が下っていく↓(パノラマ5枚180度以上)

この下り坂、左手には寺の境内地が沈み込み、右手は頂上に香取神社の高台がそそり立つ森林地となっている。

説明は山門(鐘楼堂)に戻るけど、現在の鐘楼堂は、江戸時代の享保13年(1728)に建立で、19世・恵深が秘仏「聖観世音菩薩」(現在も安置)を背負い、房総三カ国を巡錫開帳、浄財の勧募によるもの。
武州平柳の鋳物師と、相馬郡大井村坂巻清左衛門なる大工棟梁の名が見える。

ただし中の鐘は戦時中に供出。今のは多くの支援により昭和43年(1968)に新鋳したもの。

←(拡大)脇に貼られた絵案内には、この「鐘楼堂」の他、「観音堂・太子堂・六地蔵・弁財天(池)・本堂・将門大明神」などが描かれ、その横に「手賀沼八景・大井の晩鐘」とある
(↑拡大)樹の間に垣間見える瓦屋根

手賀沼八景」というのは、この寺だけが言ってるのか、それともかつてこの地域にあった景勝名なのか知らないが、お寺に清掃にいらした御婦人(ご住職の奥様かなぁ)に教わって、後で近くの「道の駅しょうなん(沼南)」に取りに行った、お寺のパンフレットによると……、

@富士の白雪  D大井の晩鐘
A筑波の晴嵐  E城山の春色
B白山の秋月  F五条谷の赤壁
C鵞湖の帰帆  G谷田の落雁

これが八景と書かれていた。

さらに→こう降りて古色蒼然たる「観音堂」の前を通り(パノラマ4枚180度以上)

そのパンフレット、ここにお参りした後で手に入れたので、この時は知らずに歩いてるんだが(^^ゞ、このお寺の周囲かなり広い範囲の絵地図が書かれていた。

なぜそれほど広範囲になるかと言うと、かつての福満寺の寺域が広かったからだそうだ。
これは維新後や戦後、寺や地主に対する国などの政策によって、今は寺の範囲を離れてしまっている、という事だと思う。

そこに、将門の第三夫人車ノ前」の五輪塔(墓所跡という事ではないかと)や鏡井戸・鐘ノ伝説、将門の重臣・坂巻若狭守の居城「大井追花城跡」など、将門類縁の伝承地が記されている。

その他にも、地域の神社・寺跡・古墳・塚・板碑など、数多くの旧所が案内されている。

さらに→方向に降りて来て本堂に到着(^_^A)(パノラマ4枚180度以上)

本堂(正面)の右手前の建物は「講堂」で、その奥、本堂と講堂の間に、「庫裡」がある(奥まっているから、この角度からだと見えないが(^^ゞ)。

本堂と庫裏の間に「将門大明神」が鎮座している↓

←講堂の前にあった元三大師(良源=天台宗18代座主)を象った魔除の鬼「角大師」の護符。
これを見ると、天台宗だなぁ、と思う(^^ゞ。

そして庫裡と本堂の合間に「平将門大明神」の祠→

寺の謳い文句に掲げられてる割に、特に大袈裟な囲いも説明版も無い。

「将門大明神」の方から振り返る境内(前は講堂側面)(パノラマ2枚)

以上、本堂に向かって右側を参拝した。
あとは本堂の(向かって)左側にいく一方で、さっき通った「観音堂」まで続けて行けるが、今回はその途中までで、残りは次回に引き継ぎます(^^ゞ。

もう一度、正面から↓

今度は本堂の向かって左側へ行く(パノラマ5枚180度以上)

この福満寺は、平安初期の創建伝記と、今見た将門の痕跡から、平将門の乱の頃にもこの地域に寺があった、という寺伝と思われるが、その後は「火災に遭って、近世の建築は観音堂と鐘楼のみ」という事だ。

「火災」がいつのものか(近世建築も、その焼け残りか再建か)判らない(^_^;)。

同じような寺伝を持つものに高柳の善龍寺がある。
これも天台宗で、やはり相馬系の城跡近辺と思われるから、「同ソースを根にしてる(^^ゞ?」と思ったが、これも寺のパンフに「幾度もの火難を乗り超え」とあるので、現地では一まとめに書いてるだけなんだろう。

本堂の前に並ぶ名所からいこう。

まず「宝子霊石」と銘される巨石↓
こちらは「宝篋印塔」→

宝子霊石」は、祈念すると子宝に恵まれるとされ、陰陽道(「神道でも仏道でもない」と説明されていた)による考えが書かれていた↓

宝篋印塔」には、「参拝すれば過去・現在の一切の霊障が解消」と説明されていた。

実はこの二箇所の合間に、「粟島大明神」があるんだけど、向こう裏から参拝する感じなので、次回にまわす(^^ゞ。

←本堂の中をちょっと拝見(^^ゞ。
本尊は先ほども書いた通り、「聖観音菩薩」で、聖徳太子の作と伝わるそうだが、隣接の観音堂の敷地にも「聖徳太子堂」があって、どうもこれらはこの土地の大工さんと関係があるような……(^^ゞ

と言うのも、先ほど鐘楼堂の建築に「坂巻清左衛門」という大工の棟梁の名を見た。

この「坂巻」という名は、この近辺でよく見かける。
言われてみれば石材とか建設関係の看板とかに多かったかなぁ(^^ゞ。

そして、この本尊「聖観音」は、平将門の重臣・大井城主坂巻若狭守の守本尊だという。
この寺が多くの火難をくぐりぬけて来た事から、「火防観音」とも呼ばれるそうだ。

聖徳太子は昔から、商工業者の信仰が篤いと聞いた事がある。
ここでは「職人の守本尊」として、太子堂が近郷の大工さん達の寄進で昭和48年(1973)に再建されたという。

坂巻という名は、「将門記」をはじめとして、将門の縁者や郎党などの当時史料には見かけない(^_^;)。
ただ大井城は、このすぐ近くにある「大井追花城」を指すようで、遺構の残る城跡がある。
戦国期の城で、高城氏に類する勢力と見られ、その前身か何かで相馬氏に関係があるのかもしれないが、今回は行ってない。そのうち訪れてみたい。

本堂の縁から見る福満寺の境内(パノラマ4枚180度以上)

本堂参拝の後は、この右方に進んでいくが、まず本堂の右隣に「倶梨伽羅龍王」なる小さい祠があり、「一切の苦難や災害を取り除いてくれる龍王」とある。
(「倶梨伽羅龍王」とは、不動明王の持つ剣に、火炎が龍のように巻きついている事を指し示すようだ)

その隣に「開運の黄金水」なるお手水(受け水)があり、その背後には以下の文言が書かれていた↓

当山は平将門ゆかりの寺で、境内は太古の昔から不可思議な大自然のパワーが満ちあふれています。
神秘なパワースポットで、この聖地から湧き出る黄金水は身体を癒し、心を癒し、開運を招きます。
お参りされたあと恵みの黄金水で竹笹を使い身体を祓い清めてお帰りください。

福満寺・44世・現住・伊原慧純・合掌

と書いてあり、どうやら湧き水のようだが、「この水は飲めません」ともある。

そしてよく読むと、通常なら「参拝の前」にお水を頂くものだが、ここは「参拝後に祓い清め」とあって、いわゆる「お手水」とは用途がちょっと違うようだ。(順路的にも、本堂を参拝した後に控えている)

ちょうどここの前を通りかかった時、先ほどもいった、境内に清掃に来られている御婦人が、「どうぞこれをお使い下さい」とにこやかにお声をかけて下さり、竹笹を差し出して下さった。

ちょうど重い風邪で高熱を出して、病院にも行けない時だったから、「これは有難い(^O^)」と喜んで竹笹を受け取り、早速笹の葉にタップリお水を浸して、ババババッ!と体じゅうに水をかけた!(≧▽≦)<将門サマ!アリガト-!!

以上、関連事項は、(2016/05/20、後追リンク)
■手賀沼(リンク専用ページ)
<城主のたわごと「手賀沼の史跡・手賀沼・手賀川・下手賀沼」>
■平将門(リンク専用ページ) 
<城主のたわごと「平将門の史跡・伝承・信仰・相馬(千葉)氏」>




次回は、この「福満寺」の続きから、秋〜冬の日常レポ。年末まで行けるかなぁ。
関連リンクはまた後日貼ります(^_^;)。。
(スイマセン、前回1月号のをまだ貼ってませ〜ん。。)


できました(^_^A)
各々の関連する場所の一番下↑にそれぞれ貼っておきましたー☆
(2016年5月20日・追記)

<つづく>

2016年02月29日(関連リンク05月20日追加)
 
     






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