<2009年・城主のたわごと9月>




2009年5〜7月の近隣レポに始まり、6月は松戸「相模台城跡」(^^)。

7月の「千葉〜銚子編」、1回目は「千葉城」と「千葉寺」!




     
  今回は、前回やり残した内容から(^^ゞ。
まずは5〜7月の手賀沼をはじめとした近隣の風景から〜♪

続いて前回は飛ばした、6月の「相模台城跡」に進むっ(^^)。
これは松戸市でも松戸駅のスグ近くにある城跡。

さらに今回から連載で、7月に行った旅行「千葉〜銚子編」をお届け!
これは前回の後半に、香取郡の東庄町「沼闕城」「大友城」をお届けした、あの旅行のレポ本編。
東庄町は旅の一番最後に訪れた場所で、「平忠常の乱」をお届けする都合で、先に前回出させて貰った。

今月からは、その前段階のレポを、3回ぐらいに渡ってお届けしたいと思う〜!!
今回は1日目の千葉市「千葉城」と、2日目朝の「千葉寺」からっ♪└(#^.^#)┐♪



■5〜7月・千葉県柏市・印西市・松戸市
<初夏の布瀬と手賀川(^^)>


前回は5月初めのGW(ゴールデンウィーク)から、一気に7月後半に飛んじゃったので(^_^;)、今回はその間の、5〜7月ごろの風景をお届けする。
写真によって、天気や時間帯が違う点はご勘弁を(^∧^)。

主に、これまでにもレポして来た「布瀬」という場所を周囲から見てみよう(^O^)。

まずは、いつも来る湖「手賀沼」。地図A
←前回もお届けした、夕暮れの湖面(^^)。
↑夏も近付く頃には、夏草がいっぱいに!(笑)

この手賀沼から下手賀沼に行く途中から、城跡のある丘陵が見える。
その様子が、昔だったらもっと広かった手賀海に突き出た岬だったのかな〜という具合に、いつも感慨深く見るので、写真でお伝えしたいと思う〜♪

まず、手賀沼から東に向かって行くと、湖は幅が細まり「手賀川」になって続き、すぐ右に「布瀬城跡」や「香取鳥見神社」のある丘陵が見えて来る。↓

左の手賀川(^^)
道路を挟んで右に布瀬の丘

昔はあの布瀬あたりまで、水が及んでいたんじゃないかな〜と思う。地図でも見ても、そんな感じが伝わるよね→地図B(ちょっと拡大)。

さらに進んでみよう(^O^)

↑左のこの土手に上がって布瀬方面を写す↓(パノラマ5枚・180度以上)

↑の逆側、手賀川(^^)(パノラマ5枚・180度以上)

今はこんな風に川幅は狭まって、周囲は田園地となっているが、川の周囲には湖と同じく、釣りに来る人や、白鳥を見に来る人がよく見られる(^^)。

土手を下りて道をさらに進むと
布瀬が島のように見えて来る(^^)

「布瀬」は、2008年12月の<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>でもお届けした通り、将門の乱によって灰燼となった神社を、千葉常重(常胤の父)が費用を負担して再建した、という伝承がある。

前回もお伝えした通り、平将門の時代(900年代)から、千葉常重・常胤父子の時代(1100年代)に至るまでには、その途中に「平忠常の乱」(1000年代)があって、上総・下総を支配した忠常が政府軍に投降した後、その子孫は追訴を受けずに房総に残り、後の上総氏・千葉氏へと続いた。

将門の乱・忠常の乱と、大きな二つの兵火を経ながらも、土から這い上がる草のように、みたび土地を整えていったわけだ。

千葉氏は、こうした利根川(香取海)の各地に拠点を持って水系を押えたと思われ、布瀬城は、その一族でもある原氏が、1300年代末ごろに領していた可能性も高い。

原氏は、その後の戦国初期ごろから、古河公方を担いだ勢力の一つとして出て来るが、こうした水系拠点を持つ各地の豪族が取り巻いて何重にも防備を張り巡らしていたため、古河公方の勢力は、半ば独立国家の態を呈していたものと思われる。

布瀬を通り過ぎて振り返る
ホント島みたい(^^)

このように、昔なら湖面から島か岬までの間だろうが、今は田園地が広がっていて、その途中に幾つか丘陵地に向かう道筋がある。↓

山側に向かっていく道
昔は湖水だった所も青々と田んぼが(^^)

↑ただ、この写真はどの辺りだったか、ちょっと思い出せない(^_^;)。。増尾とか高柳にも似たような風景があるので、もしかして混ざってるかなぁ〜。
この地域には、どこからでも見える山と言えば、茨城県の筑波山ぐらいなので、時々、後で写真を見ても「どこだっけな(^_^;)」と思う事が……(笑)。

東の先に到達すると、手賀川は分流しており(地図C)、道は下手賀川へと折れる(拡大・地図D)。
ちょうど分流した辺りは、草ボウボウで川が見えないので(^_^;)、ちょっと下った辺りで一枚。↓

左奥で分流して、下手賀川が始まっている(パノラマ4枚・180度以上)

この日の白鳥サン達は
大きい方の橋の下に集まっていた(^^)

←橋(発作橋)の上から(^^)。
↑こっちは分流地あたりにいた白鳥親子(^^)。

ちなみに↑の橋を渡って、手賀川の向こうに行くと、手賀川はそのまま続いて、茨城県境ギリギリまで行ってる(^^ゞ。

これは関枠橋かな?地図E
街中の布佐に行ける橋。
一方、同じく分流された、さっきの下手賀川は、その先を辿ると、もう一つの手賀沼の方に流れて行く。

その途中の「手賀曙橋」手前(地図F)で、以前も写したが、冬場と夏場を比べて見たいので、両方を出してみよう(^^)。↓

真冬の下手賀川
真夏の下手賀川

「手賀曙橋」で、この下手賀川を渡ると、印西市に入る。
上に並べた二つの写真だと、川の左が柏市、右が印西市ね(^^ゞ。
ちょっと印西市の風景もお届け〜♪

やはり島の合間を抜けるような風景
この広い田園も昔は水辺だったんだろうね

今年はどこに行っても、緑がみずみずしく綺麗で、外に出るのが楽しかった(#^.^#)。



<松戸市・街中の風景>

さてさて松戸市に入って、これは新しく出来た喫茶店「珈楽庵」。地図G←だいたいこの辺(^^ゞ。

この辺りは、夜になると喫茶店は早めに閉まるのだが、わりと遅くまでやってるようなので、前から目をつけていたの(#^.^#)。
中に入ると、小さい石庭が見られる。↓

(パノラマ2枚)

←限定メニュー「珈楽庵膳」

真ん中の丸いのが、猪苗代産の古代米と国産の小麦で作ったパンの中に、惣菜(日替り)を詰めた料理。
周りからむしり取って、惣菜を上に乗せたりして食べるの(#^.^#)。

ここは店の名前からも察せられる通り、専門店っぽくコーヒー代が高い(笑)。
むしろ食事の方が「オマケ」で、ドリンク料金に「+500円」というサービスセットで、軽食がついてくる。

夏の夕暮れ(^^)

居酒屋さんの前にあった、七夕飾り(#^.^#)

さ〜さ〜の葉、さ〜らさら〜(^O^)。みんなのお願いがお星様に届いてますように〜♪



■6月・千葉県松戸市
<相模台城跡>


5月GWの後、亭主が急に足を痛めて歩行困難になり、5月後半に行く予定だった千葉市ツアーが、7月後半に延期となってしまった(;_;)。。

特に怪我をしたとかじゃなく、靭帯疲労のようで、車の運転は全然オッケーだったんだが、歩行となると、なかなか治りが悪く(^_^;)、実は7月に行った千葉市ツアーも、ちょっと様子見しながら……という感じだったので、この6月の相模台城跡に行った時なんかは、まだまだ歩ける状態じゃ全然なくて、仕方ないから亭主を伴わず一人で出掛けた(笑)。

さて、「相模台城跡」は、松戸市の中でも都市のど真ん中、松戸駅のスグ近くにある(^_^;)。
他に松戸駅に近い史跡としては、「戸定(とじょう)邸」がある。

二つの城跡は、どちらも1500年代の第一次国府台合戦に関連するだろう事は、可能性大と見て良いように思われるが、その前歴が各々少し違っている。

「戸定邸」の方は、1400年代に、古河公方の初代成氏と、管領家の上杉氏との間で抗争があった頃に出て来る「松渡城」が相当すると見られているから、まぁこの地域に訪れた「早い戦国時代」の城跡の一つと見なせるだろう。

一方、これから行く「相模台城跡」の方は、前歴が「????」なのである(笑)。
まぁ、おいおい書いて行こうか(^^ゞ。

では、まずは「松戸駅」の位置から。
地図H←松戸市の中でも西端にある。スグ西隣はもう東京都(^_^;)。

線路から見る「松戸駅」(歩道橋の上から撮影・パノラマ3枚・ほぼ180度

駅には「西口」と「東口」があるが、
やっぱ「西口」がメインかな(^^ゞ

てわけで、「西口」周辺(パノラマ4枚・180度以上)

↑の反対側は、この通り↓(パノラマ4枚・180度以上)

このように、ドジャラガグギャッ、とビルが建ち並んでいる(^_^;)。。
何だか、いつの間にかこういう具合になったが、実は駅の一階部分は、アーケードの下に隠れてしまっている。↓

暗がりの下に淀む松戸駅一階(笑)(パノラマ2枚)

さて、「相模台城跡」に行くとなると、このメイン「西口」とは反対方向の「東口」から出るのが正解かな(^^ゞ。

さっきの「西口」から入って、真っ直ぐ駅構内を抜けると「東口」に出る↓
すると目の前に↑「イトーヨーカドー」(7i)

「東口」を出た周囲の風景はこんな感じ(パノラマ4枚・180度以上)

やはり手前に、ドギャラガギッ、とビルが建ち並んで、今はすっかり影が薄くなったが、子供の頃は「西口の伊勢丹、東口のイトーヨーカドー」が、松戸駅のシンボルだった(^^ゞ。

この「東口」からは、左方向に行けば、「市役所」「税務署」「保険センター」「東葛飾支庁」「衛生会館」などがあり、右方向に行けば、「裁判所」「法務局」「市民会館」「戸定が丘歴史公園」がある、と駅構内の案内は示している。

税務署とか法務局なんてのは、たまに行くのだが、何だか歩いてる内に行けるので、そういや正確な位置など考えたこともなかった気がする(爆)。

何しろ、目前にそびえる中央、この「イトーヨーカドー(7i)」を目指して、ズンチャカ歩いて行く。

到着(^_^A)、「イトーヨーカドー」一階入口(パノラマ3枚・ほぼ180度)

イトーヨーカドーに入り……
エスカレーターで上に上がる

「えっ、何、ちょっと違わない?(・・;)」
「何でアンタのショッピングにつき合わされるワケ?(^^;)。。。」
「城跡巡りだったんじゃないの?\(>o<)/」

と仰る皆様、はい、これが城跡巡りなのでございます(-_-)。このまま、もう少々お付き合いをば……。

もちろん階段もある
5階で
外に出てみよう(^O^)

この「イトーヨーカドー」の5階に、「出口→・聖徳大学・裁判所・法務局・検察庁」と、大きく表示がついてる場所があるから、内部をちょっとウロついて、この出口を探してみよう(^O^)。

出口を出ると、ド〜ン!(パノラマ4枚・180度以上)

「あれっ? 5階で出たハズなのに……地上っ(・・;)?!」

はいな、ちゃんと団地が建ってて、その手前にはチャリンコがワンサと停めてある通り、ここは地上である!
どういう具合にこうなったか……よく判らないんだけど、山の急斜面に割り込んで、イトーヨーカドーが建てられたのかなぁ(^^;)。。
松戸は、史跡としては「戸定邸」や「本土寺」、昔ながらの風情を残す「矢切の渡し」、貴重な野鳥と自然を残す「21世紀の森と広場」、新興住宅地における手本のような各種博物館やホール、また「常盤平さくら並木」など、それなり目玉なスポットがあるにはある。

が、私はこの「イトーヨーカドー5階外の風景」こそ、松戸市民が誇っていい「ミラクル・スポット」だと信じて疑わない!(笑)

さて、上のパノラマ写真の一番右、自販の裏側に城跡(公園)に行ける通路がある(写真→)ので、これを進んで行けばいいのだが、それだと順路を逆から行くようになるし、そもそも、この5階分の落差は、外から来るとどうなってるのかもお見せしたいので、次は外に出て、下から坂道を上がって来てみよう(^O^)。
地図I←わかりやすく、だいぶ大きめにしてあるけど、坂道が始まるポイントの交差点を中心点にしてある(^^ゞ。

←これが交差点、坂の始まり。登る↓。

ちょっと登った所で、山の斜面を写す(パノラマ4枚・180度以上)

この山の斜面がある方にも、小さな緑地公園があるようなんだが、地図を見ると、今は概ね「法務局」の敷地になってるように思える。昔は城跡の一部だったようで、今登っているこの坂道も、城があった当初は「空掘」があった場所と推定されている。

↑右に見える鬱蒼とした森は、「法務局」とは別の緑地公園(相模台公園)だが、ここには南に張り出した郭があった、とも見られている。

「相模台城」の城域は判然としない。

再び地図I←近年まで土塁跡が確認されたと伝えるのは、松戸拘置所と相模台小学校で、さらに今通っている坂道を空掘と推定すると、城域は水色部分の下(南)側があたるだろう。
すなわち、今いる坂道より右(東)側の法務局、相模台公園、家庭裁判所、地方検察庁、最高裁判所の松戸宿舎、相模台小学校、松戸拘置所などが入る。

一方、城跡に特徴的な地名の名残や、地勢から見て、これより向かう北部の松戸中央公園、聖徳大学・短大、第一中学校を含め、地図の水色部分を全て包括していた可能性もある。
そうなると、南北約650m、東西約500mとなり、松戸市内では、小金城(大谷口城)に次ぐ、大規模な城だった事となる。

拘置所や小学校では入れないし、土塁跡も今はないのだろうから、北部の中でも南寄りで、市民が入れる「松戸中央公園」を目指して登る。

切り通しをさらに登ると
何やら開けた一帯に出る(^_^A)。

ここが「松戸中央公園(パノラマ5枚・180度以上・魚眼(^_^;))

←これが正門(であるらしい)。

この先は坂らしい部分は無いままに、さっきの公園裏口に通じていたから、つまりはこれまで登って来た坂道が、イトーヨーカドー5階分だった、という事になりそうだ(笑)。

その割には大した坂道ではないが、まだ6月末ごろにしては、お天気もいい日で、意外と汗ビッショリだった(^_^A)。

門から中を撮影(パノラマ4枚・180度以上)

ではでは、この公園の中を歩きながら、「相模台城」の話を(=^m^=)。 順路は左前方に進む。

この「相模台城」は、鎌倉時代の建長元年(1249)に、「北条長時が築城した」と伝える由緒があるらしい。

同じ由緒によると、嘉暦元年(1326)、北条高時(14代執権)が出家して居したが、新田義貞が鎌倉の北条氏を滅ぼした時に、この城も落ち、正平14年(1359)、足利尊氏の命で、芳賀入道が来城。翌15年(1360)、新田義徳が城を取って居し、延文2年(1357)、南北朝が和睦すると廃城した、という。

まず、築城者の「北条長時」というのは、在世年と被る事から、6代執権の事ではないかと思う。NHK大河「北条時宗」で川崎麻世が演ってたよね、うんうん(^^ゞ。ドラマ設定では、登場したての平頼綱に殺されちゃった事になってた人(笑)。

次に、「北条高時」は、由緒に「相模守」とあるから、これも在世年からして、14代(最後の)執権でいいだろう。NHK大河「太平記」では、片岡鶴太郎が演ってたよね、うんうん(^^ゞ。
また、「相模台城」の名が、この「相模守」に関連しているという事らしい。

ただ、この由緒を、そのまま相模台城跡に当てはめるのは、現段階では無理がありそうだ(^_^;)。
この両者ともに、現地に関連づけられる裏づけが全くないらしい(^_^;)。私も聞いた事がない。。

左前方に進むと……
一応、石垣ふうな風情が(笑)

千葉氏が鎌倉幕府の筆頭御家人だった事は言うまでもないし、松戸からも富士山が見え、江戸期にも名残の地名はたくさんつけられている。
だから、「富士」とか「相模」とか「鎌倉」にゆかりの地名は、この地域でも少なくない。
ゆえに、「相模守」から名がついたという由来自体は、決定打にはなりにくい(^_^;)。

又、もし関連があったとしても、上記の由緒は「岩瀬」に関する物だから、「岩瀬城」というのが別にあった場合は、少なくてもこの「相模台城」の由緒ではない、という事になってしまふ。。。
ちなみに「岩瀬城」として候補に上がるのは、この城の北方、「花蔵院」の西の台地にあった可能性もあるそうだ。

てわけで、この「相模台城」に関しては、鎌倉や南北朝といった古い時代まで遡るとなると、この地域を領した千葉氏支族の相馬氏矢木氏・東氏一族の風早氏との関連を考えるのが妥当らしく、確実な線から言えば、やはり戦国時代の、原氏および高城氏の時代以降……という所で落着しそうだ(^^ゞ。

さて、いかにも申し訳ていど(笑)の石垣の合間を抜けると、↓

こんな広場に出る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

公園には「相模台の変遷」として、天文7年(1538)10月の第一次国府台合戦の「激戦地」と紹介されていた。原氏高城氏が出て来る時代だから、やはりこの時代から紹介となるのだろう。
(第一次国府台合戦については、「千葉の動乱vol2」<第一次国府台合戦・河越夜戦(1538〜46)>を(^^ゞ)

ただ「激戦地」という表現は、この城跡についてと言うより、「相模台」というこの地域一帯についてであって、戸定邸のある松戸城(松渡城)が北条方の軍事拠点と見られる一方、小弓公方・義明の兵たちが「相模台」に在陣した、と伝える記録もあって、この城が使われた可能性もあるだろうか。

ただ両城はかなりの近さなので、両陣の動きや移動経緯にもよろうが、片方が北条方で、もう片方が小弓+里見方、という単純な仕分けにはなりにくい気もするけどね(^^ゞ。
(みたび地図I←「戸定が丘歴史公園」が「戸定邸」)

奥まった場所の芝生(パノラマ2枚)

公園の案内には、戦国時代についてはほんの僅かしか書かれておらず、主に大正8年に開設された、陸軍工兵学校の事が書かれていた。

これは工兵の技術を研究し、成果を全国の将兵に普及する目的で、当時は景勝の地だった、この相模台に作られ、昭和20年の終戦まで教育の場として機能したため、ここで教育を受けて各所に配属された人々をもって、広く松戸が知られるきっかけとなった。

先ほど通ってきた門は、この工兵学校時代の物として残されている。

その後、昭和39年まで、 旧制東京工業専門学校と、その後の千葉大学工学部、同工業短期大学部と、引き続いて教育の場となった。

千葉大学は、戦時下の昭和20年、戦災で校舎が焼失したため、ここに移転して来て、昭和39年に千葉市に移転するまで、19年間ここにあったそうだ(^^)。

このように主に教育の場として次々と建物が出来たので、城跡保存どころではなく、陸軍工兵学校が出来たのも大正時代も、今ほど進んだ調査は出来なかったかもしれないが、いずれにせよ陸軍工兵学校の当時から、城跡の台地面は既に変貌していたようだ(^_^;)。。

←陸軍工兵学校の碑
↑その奥のマンションの一郭に

↓「金毘羅神社」がある(゚.゚)。
僅かな隙間からだけど、見下ろせる道路と市街に、ここの急角度な斜面を感じ取れる→

「金毘羅神社」の謂れは何も無かったが、そもそも国府台合戦が二度にも渡って起きた原因は、水運拠点の取り合いと見られている。
江戸期もこの水運は、江戸の大動脈の一つだったから、水運系の神様が祀られる事は当然かもしれないね(^^ゞ。

この公園は広くはないけど、他にテニスコートなどもあって、近所の方々が集まってテニスを楽しんでいた(^^)。



■7月・千葉県千葉市
<1日目・千葉城(亥鼻公園)>


↑昔は千葉氏の本拠があったと言われていたのだが、現在では、原氏の城があった場所と判明したようだ(^^ゞ。
千葉氏の居館があった場所は少しズレていて、そこは次回に出そうと思う。

さて、7月後半に行った旅行のレポは、今回より3回ぐらいに渡ってお届けの予定(^^)。
二泊三日で、一泊目は千葉市、二泊目は銚子市の犬吠崎である。

銚子はともかく、千葉市などは日帰りクラスの近距離で、泊まる必要あんのかっ、て気がしなくもなかったが(笑)、前述の通り、亭主が足の故障をまだ引きずっていたので、何事も無難に(^^ゞ。

千葉には子供の頃の遠足で千葉城に来たり、親の転勤でパスポート申請やら予防注射やらしに来たり、他さまざま行政関係の手続きやら相談やらで来る場所で、これまで正直、「旅行に来る」という場所ではなかった(爆)。

地図J←拡大して貰うと、「千葉城(郷土博物館)」と出て来る(^^ゞ。
千葉は同じような駅名が多く、町も複雑だから、ここには予め充分に地図を見て来る事をお勧めする。

城(公園)の敷地はそんなに広くなさそうだけど、博物館は見所いっぱい! 時間タップリ見て入ったのに、出て来たら駐車場に鍵かけて締め出されていた(汗)。。

城は小高い丘陵の上にあって、近付くと周囲に建ち並ぶ建物の背景にチラと見えるが、曲がり角でド〜ン!と突然姿を現す感じがした。

「房州や」でウナ弁を買い
城の見える駐車場でお弁当タイム〜(^O^)

食事せずに来たので、お腹が空いたまま繁華街を離れてしまい、途中に一軒だけウナギをやってる店を見つけて、お弁当を作って貰った(^^)。
土用だったので店は大繁盛で、外食を断わって弁当だけにしてたようで、日頃は中で食べられるそうだ。

鰻も食べ終わって、グル〜ッと廻って正面に出る

↑この小っちゃく張り出してる楼が入口ね(^^ゞ。
この城はもちろん再建で、そもそも千葉氏の時代には天守閣は無かっただろうし、場所が違う事もさっき書いた通りだ。

しかし子供の頃は、この中にプラネタリウムがあって、みんなで遠足に来て大勢で見たものだ。
「城の中にプラネタリウム?」と、バカにする人も多かったが(笑)、千葉氏にとって星が重要なシンボルである事は、これまでもたびたび書いて来た通りだ。

そのプラネタリウムも一昨年(2007年)に閉鎖されたそうだ(・・;)。。
場所がズレていようが、元は天守閣が無かろうが、千葉城と言えば、プラネタリウムだったのに……。。

張り出してる入口から入る
撮影はここまでね(^^ゞ

←ちなみに玄関口の絵は「千葉妙見大縁起絵巻」(複製)。左が妙見、中央が良文、右が将門
↑こちらは城の外の千葉常胤

桓武天皇−葛原親王−高見王−(平)高望王┬国香
                             ├良兼
                             ├良将−将門
                             └良文−忠頼−(千葉)忠常−常将┐
┌−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
└常永┬常時−常澄−(上総)広常
     └常兼常重常胤┬胤正−成胤
                  ├(相馬)師常
                  └(東)胤頼

良文将門の伝承については、前回(2009年8月)<東光院>内に書いた通り(^^ゞ。
そして良文の孫・忠常については前回、全編に渡って書いた「平忠常の乱」の当事者。

常将・常永は「前九年の役」の頃、常兼は「後三年の役」の頃の人と目され、この常兼の代の大治元年(1126)6月に、これも前回書いた、土気の大椎より、この千葉に移住して来たと言われている。
だから常兼は、「大椎常兼」とも呼ばれる。

そして、常重の時代から、相馬地域の開発が始まったと見られ、これが冒頭に上げた「布瀬」の伝承ね(^^ゞ。

この相馬の開発地は、伊勢神宮に寄進され、以後、相馬御厨の千葉氏による成立が、常胤の代には、生涯に渡る執念となって、鎌倉幕府成立により、ようやく実を結んだわけだね(^^)。
(相馬御厨の相論については、2008年12月の<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内を)

千葉城の前の千葉常胤の像
月型いっぱいに張る弓から鏑矢は……

←おおっ、千葉城に矢先が向いてるような気がっ(笑)。この方角が千葉城の正面みたいだね(^^)。

千葉常胤の像は他にも、この千葉城の中に入ると、展示物の筆頭に坐像があった。
と言っても、肖像画などから忠実に興された風貌というわけではなく、老巧な武士風にイメージ化された現代の彫刻物ではあるが、史料や伝記からも掘り起こされる常胤の人物像としては、なかなかイイ線いってるな、と思った(^^)。

頼朝は1180年に挙兵し、平家方の山木兼隆を討ったはいいが、石橋山の合戦で大敗を喫し、房総に逃れて来た。その頼朝の求めに応じて兵を集め、協力した中で大きな勢力を持ちえていたのは、三浦・上総・千葉の三氏ぐらいだった。
三氏を引き込む案は、頼朝の舅・北条時政(後の初代執権)の献策とも言われる。

他にも大勢の名が出ては来るが、流人の頼朝には勢力なんて無いも同然だから、「近臣らが活躍した」とかいう話は小規模の武勇伝で、実はそう大きな影響力は……(^_^;)。。
また三氏の中でも、三浦氏は代々源氏の従者であったから、「みんなが見捨ててもついてく家」と見なされる。

そんな中、千葉常胤は、同族の上総広常がその威勢を誇って頼朝に誅された(貴族の日記からは、直接手を下したのは梶原景時だった事が伺える)のに対し、あくまでも辛抱強く、無理難題にも自ら服し、徹底して忠誠を貫き通した功臣、という具合に描かれがちだ。

しかしそれは裏を返せば、ともすれば離反者が続出しがちの鎌倉幕府を、何としても成立させ、守り抜こうという強い意思の現れだろう。

なぜなら、常胤がここ一番とばかり筆頭で登場する場面と言えば、幕府の執政とか戦の趨勢といった華々しい局面では全くなくて、意見集約が困難とか、離反者が出そうなムード満載シーンばかりなのだ(笑)。

「真っ先に駆けつけた」という功績基準に合致し、かつ大票を保持する千葉常胤の去就は、上総氏の抜けた後も、前から不満を溜め込んでた連中や、後から新規に加わった連中や、そろそろ別の大将を担ごうかな〜なんて考え始める連中に至るまでが、イチイチ注目していただろう事は疑いようもない(^_^;)。

この辺りは、幕府成立後の鎌倉内部における凄まじい淘汰・粛清劇を見れば、だいたい想像がつくだろう(^_^;)。

出来ない我慢も、何でも無さそうに引き受け、私財も兵馬もヒョイと叩き出して頼朝を支援し、老体に鞭打って奉公する姿には、皆を団結に追いやる必死の演出と覚悟が要る。忠義などより、子のため、孫のため、土地のため。それが無くて、この必死の姿はありえない。

将門の乱・忠常の乱を経たこの地域は、房総とか下総とか一地域の存立が、いかに正統な理由でも、必ず淘汰される事を身をもって知り尽くしている。
関東の統一と中央の介在から脱皮できる体制(すなわち鎌倉幕府)を持たなければ、房総の安泰がない事は、常胤にいたる250年の歴史が証明しぬいて来たからだ。

城正面がわから見た公園の風景(^^)(パノラマ4枚・180度以上)

この千葉城の周囲には、「千葉神社」「千葉氏の館跡(千葉地方裁判所)」「胤重寺」「千葉寺」など、見所が沢山あって、中でも「胤重寺」は、ここから歩いてほんのスグの場所にあるのだが(^^ゞ、全て2日目に行ったので、「千葉寺」のみこの下に出すが、その他は次回に譲ろうと思う。

この先々に行く場所も、全て千葉氏関連なので、千葉常胤の素顔に関しても、次回以降も折に触れて書けたら書いて行きたいと思う(^^)。



<2日目・千葉の朝(^^)〜「千葉寺」、1>

おはよーおはよー(^O^)。朝だよー♪

グランパークホテルエクセル千葉
朝ごは〜ん( ^,_^)<モグモグ

バイキングで朝からいっぱい食べると、早速しゅっぱぁ〜つ!(^O^)/

千葉市の町並み(^^)

そして「千葉寺」に到着!(パノラマ3枚・ほぼ180度)

地図K←狭い範囲に多くの史跡があるので、この先はちょっと拡大した地図で行くね(^^ゞ。上(北)の「市立郷土博物館」が、さっきの千葉城があった所ね。そんなに遠くない。

この千葉寺は真言宗。本尊は十一面観音。
境内には歴史上の記念碑が多く、千葉市の歴史上もっとも重要な寺である。
また坂東33ヶ所観音札所の第29番のため、巡礼者で賑う他、戻り鐘や千葉笑の奇習伝承を残す。

このうち「千葉笑」については次回(^^ゞ。

千葉寺の縁起は古く、和銅2年(709)、東国巡錫中の行基が池田郷の池で「千葉の青蓮」に霊を感じ、丈六の十一面観音像を刻んだ事から始まったという。
この話を聞いた聖武天皇は、勅令を出して堂舎を建立し、「海上山・歓喜院・青蓮千葉寺」と称したという。

ただし、今この寺のある場所は建立当時とは少し違い、当初は、ここより東方約1kmの観音塚にあった、と伝えられている。

行基を開祖とする寺社は全国に多く、よって、仏寺の建立に聖武天皇の時代を背景とする由来も多いと思うが、この寺は発掘調査によって、奈良時代の瓦や境内跡・金堂跡が確認されているので、ここもかなり古い時代の寺跡なのだろう。

奈良時代だと、朝廷を背景とした施策によるものと考えて妥当かな、と(^^ゞ。
同時に「千葉」が、かなり古い時代からの地名、という由来にもなりそうだ。

では入ろう(^^)。これは「仁王門」のようだ。
仁王さま(向かって右)

(向かって左の)仁王さま
カッと目を見開いて睨み下ろす竜神(^^)

この仁王門は、境内の鐘楼堂とともに、江戸時代の文政11年(1828)に建立されたものだが、寺がこの地に移されたのは、永暦元年(1160)、雷火で伽藍を焼失した事が原因で、この頃より千葉氏の厚い信仰を受けるようになったと伝えられている。

1160年は完璧に千葉常胤の時代(^^)。
ちょうど前年の1159年に起きた平治の乱の敗戦を受け、年末に逃亡してた源義朝が、年が明けて1160年に入るや、僅か4日で家来筋に殺され、まだ14歳の嫡男・頼朝が蛭ヶ島に配流されてきた年だ。

その後、相馬御厨が「謀反人・源義朝の所領」として没収されたりなどの経過を辿り、ついに佐竹氏に取られてしまう事になるわけね(^_^;)。。

門を入るとこんな感じ(^^)(パノラマ4枚・180度以上)

昭和25(1950)年と27(1952)年の発掘調査では、境内は70間(約126m)四方であったと推定され、奈良時代末期には四間×四間の瓦葺きの金堂が存在したことも確認された。
奈良時代の瓦も出土している事から、1160年より前に、すでに大伽藍があった事が考えられるという。

奈良時代の遺物には、明確な物としては「布目瓦」が保存されているが、当時の名残を伝える伝承物として、境内を進むと真っ先に目に入る、この大きなイチョウの樹がある(^^)。

(パノラマ縦型4枚・ほぼ180度)

大きすぎて、どう写せばいいのか困った(^_^;)。
このイチョウは、開山にあたる和銅2年(709)、行基がもたらしたものと伝えられており、伝承に恥じぬ大木ぶりに仰天した(笑)。その特徴は……

コレコレ、大きく垂れ下がる何本もの乳柱
樹の周囲いたる所にある

イチョウは、防火や母乳守として信仰されるとして、よく色んなお寺の境内で見掛けるが、こんなに大きいのは見た事がない(゚.゚)。

樹高30m、目通り8mもあり、樹勢旺盛で地上3mから枝を張り、神奈川県鎌倉市の「鶴岡八幡宮のイチョウ」よりも大きい。
ここのイチョウも、やはり「この乳柱を煎じて飲むと母乳がよく出るようになる」と伝えられているそうだ(^^)。

乳柱もスゴイが……
この鍾乳洞のような幹と根もスゴイ(^_^;)。

(パノラマ2枚)

千葉寺の文化財は、奈良時代の後も、平安時代の経筒、鎌倉時代の常滑焼骨壷、室町時代の青銅製の梅竹透釣灯籠(国指定重要文化財。東京国立博物館所蔵)、桃山時代の五輪石塔など、貴重なものが多い。

そして正面の奥に本堂。昭和51年落成。

ユニークな色彩と彫り物が目に楽しい♪
寺の発祥「千葉」にちなんだのか緑の葉が彩られ、「海上山」の印象通り、青々とした珍獣や波の絵が描かれて、ちょっと竜宮城みたいな感じ(#^.^#)。

海上山」と書かれた両脇に珍獣と千の葉(?)模様
波の絵柄と青い獅子と象

この「海上山」だが、千葉氏や上総氏からは「海上氏」というのが出ていて、今回は銚子に出てみたが、海上氏にゆかりの史跡が多い(^^)。

このように千葉氏は、北は利根川流域の長い東西地域と、中央ではこの千葉市から外房総にかけてのやはり長い東西地域の、二段に渡る横長の勢力を形成し、隆盛していった。

だから、この千葉市が内海(東京湾)に近い事もあるだろうが、千葉氏とその支流が、水系・水運による基盤形成に裏打ちされて発展した事から、海をイメージしたデザインになってるのかもしれないね(^^)。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
2005年11月<将門神社>内

2008年6月「千葉の動乱vol2」<第一次国府台合戦・河越夜戦(1538〜46)>
2008年8月<史跡と順路について(@テキトー画像:笑)>以降
2008年9月・ほぼ全編
2008年10月<筑波山中〜羽鳥(服織)〜湯袋(弓袋)>以降
2008年12月<兵主八幡神社>および<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>
2009年8月・ほぼ全編


さてさて次回も2日目、千葉市の「千葉寺」の続きから、「胤重寺」「千葉氏館跡(地方裁判所)」「千葉神社」「宗胤寺」「来迎寺」「大日寺」「千葉山」、夕方から銚子市に移動して2泊目を迎え、出来れば3日目の犬吠崎あたりまで行けたらー(^O^)!

2009年09月11日

<つづく>
 
     




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