上州〜信州編が終わってしばらくは遠出を控え、近場ばかりを攻めてた(^_^;)。。 今回は近場も近場、「いつもよく行く公園(爆)」を一度紹介しておこうかな、と思う。それが最初の「増尾城址公園」。 そしてお次は亭主だけが行った旅の土産編。 最後はオフも兼ねてお誘い頂いた東京の城跡を紹介。以上三本立て〜♪ *パチパチ* ■8月 <増尾城址公園(千葉県)> 来る時は毎週でも来る所(笑)。来ないとなると半年以上あいだが空いたりする(^^ゞ。 ここはそんな風に気ままに来られる、車を飛ばせばスグな場所。 場所は千葉県柏市、路線は東武野田線、柏駅から二駅の「増尾」が近い。 一度だけ、2002年「8月のたわごと」で触れたことがある。その時も書いたが、最初は父に連れられて近くに来ていて、地図を見たら城跡があるので、父におねだりして連れて来てもらった。 最初は「こんな所に城跡なんかあったか?」と訝しげだった父も、その時は来たら公園内の桜が満開状態だったので、「いい所知ったなぁ」と誉めてくれた(^^)。 あと、周囲がちょっと箱根にでも来たような深い緑の多い道を通ったりするので、気分転換のドライブにもいいコース。 何より嬉しいのは、何と言っても「自分チの近くに城跡がある(^^)」ってコトかな。 公園の入口は北・西・東の三箇所ある。 この方角についてだが、実の所正確な地図を元に言ってるのではなく、「いつも夕日が見える所が西ね(^^)」といった大雑把な物(笑)。←方位磁石ぐらい持って来いって。。 で、まずは北から入る。
真ん中が上がって来た階段。左右が柵と土塁。(パノラマ5枚180度魚眼) 左側は平坦、右側はコンモリと山が盛り上がる形状。 で、今度は入って来て真正面↓。 左に山に登る階段。その下に小道(マラソンしてる人が見える)。真ん中が土塁。右に小道。 まず、この右の小道をゆく。(真ん中の案内板に「城址→」とある方向) ちなみに、後で戻って来るルートは、この左の山部分から帰って来る。 山から戻って来た後で、このマラソンしてる人のいる下の道にも行ってみるので、ちょっと覚えてて(^^ゞ。 で、右の小道を入ると……。↓ 左(入り口方面)から右へ土塁を回り込んで進む。右に階段(パノラマ2枚)。
この中央の広場に入ってみる。 左の土塁の途切れ目から、右に入って来た所。中央案内板の裏手が土塁壁。
↑この土塁跡が、公園に入って来た時、正面に見えた大きな小山。つまりこの土塁の裏側が公園の入口。 この案内板の記述は、2002年「8月のたわごと」や他の議事録でも載せたが、ちょっと判りづらいので(笑)、もう一度説明をまじえてやらせて貰う(^_^;)。 この城跡は「相馬氏の居城」と伝承される。相馬氏の発祥は平将門である。 将門−将国−文国−兼頼−重国−胤国−師国=師常−義胤−胤綱−胤村−師胤−重胤……以下代々「相馬」氏 将門自身は「相馬」、二代将国と三代文国は「信田(しのだ)」と名乗った。四代兼頼からはまた「相馬」を復姓している。 案内板によると、この信田将国(将門の子)が小次郎と称してより、八代にわたって「信田」という地にいた、とある。 これがどこなのかを案内板は示してないが、ネットでは、将門の敗死の前後、将国が落ち延びたのは常陸の「信太」という所、と出て来るので、常陸なんじゃないかな〜と思う。 あと、この信田将国(将門の子)が実は安倍晴明と同一人物、とかいうドラマを前にやったそうだ(笑)。 ちなみに私の住む地域では、子供の頃から「信田(しのだ)寿司」という名のお寿司屋さんをよく見掛ける(笑)。特有のロゴを使った看板を見掛けると「地元にいるな〜」と実感する程のもの、と言っていい(笑)。 ちなみに「信田寿司」じたいは(これが全国的な料理名なのかは調べてないが(^^ゞ)、語源が「和泉(大阪府南部)信太(しのだ)の森の狐の伝説」に由来するのだとか(笑)。 安倍晴明も生母が「信田の森の狐」だとか聞くから、将国=安倍晴明の発想はこの辺りかな、と(^^ゞ。 さて将門を初代と見なして、7代目の師国は頼朝に仕え、下総国相馬郡を所領としたが、そこで将門流は絶える。 よって八代目の師常という人は、実は将門の子孫ではない(女系ならあるかもしれないが、少なくても直系ではない)。将門の叔父、良文という人から出ている。 将門のこの叔父の孫の代から「千葉氏」が出ている。忠常という人で、この忠常を初代として、7代目に三兄弟がいて(父は6代千葉常胤)、長男胤正が「千葉氏」を継ぐ。そしてこの次男師常が「相馬氏」を継ぎ、三男胤頼が「東氏」を興した。 これは以前、久留里城の話をした時「神話という形で語り継がれている」として、将門と妙見菩薩の間に生まれた三兄弟の話をした。この三兄弟にほぼ見合う。(詳しくは2002年「9月のたわごと」のこの辺りを(^^ゞ) というわけで、この増尾城はそれら相馬氏の居城と言われている。 で、案内板の記述に行くわけだが……。 (千葉)師常は(相馬)師国の養子となり、相馬小次郎と称し、元久二年(1025)卒す。 長子義胤が後を継いで相馬五郎と称す。 その次子常家・矢木六郎、三子行常・戸張八郎と、各々在地名を称した。 このようにして、柏市とその周辺では、相馬氏の直系・支流が蟠居し、それぞれ大小の城館を造営した。 ここ増尾城はそれらの本城で、正嘉(1257)の頃、相馬胤村が居城したと伝えられるが定かではない。 その子師胤は文永九年(1272)奥州行方郡を領し、元弘三年(1333)子重胤封を継ぎ、岩城中村に城館を造っているので、宗家は既に下総国を去っていて、後奥州相馬郡になった。 相馬宗家が下総相馬郡には氏の守本尊として妙見様を祀ったことを踏まえて、この城址をみると、中世の少なくとも関東平野の他の鎌倉時代の土城と型式を同じくしていること、妙見社が存在することから、相馬氏の城館であったことはたしかである。 と、ここまでが相馬氏とこの城に関する記述(^^ゞ。 これにもある通り、相馬氏は下総を去って東北に行ったので、その前の相馬氏の城だった、という事になる。 そのあと、どんな具合にここが維持(あるいは放置)されていたのかは調べてない(^_^;)。。 ネットでは「高城氏の家来が守ってたという伝承がある」といった記述も見付かったが、戦国時代も使用できそうな感じはするので、「だったらいいなぁ」と思う(笑)。 さて、今度は振り返って逆側を写す。↓ 左に2箇所、中央(木の奥)に1箇所、通路に続くような間口が見える。
この左2箇所から周囲の土塁を越えて降りて行く道がある。 中央の出口のみ、もう一個の曲輪跡のような広場(二の丸みたいな敷地か?)に通じているので、この中央の間口から出てみる。
この二の丸っぽい敷地も適当な広さがある。
この階段地帯が、城に特有のやや急勾配をなしていて、昔なりに攻めにくい地形だったんじゃないかな〜と思う(^^ゞ。
この「道」というのは、入口で三方向に入る経路が分かれていたが、下の方を通ってくる道(マラソンしてた人がいた(^^ゞ)に通じる。
階段を全て降りきると枝の合間から公園が見えて来る。このすぐ右が東の入口。
この枝の向こうに桜があって、春には緑の合間から見えて来るピンク色がとてもキレイ(#^.^#)。
しかし何度やっても撮れない場所ってのが、何とも霊的な感じ(違うか(^_^;))。 さて階下の公園。↓ 見よ、この明暗度合い(爆)
一番右が降りて来た階段のあった所。そして隣が東の入口。そこから長い通路を歩く細長い公園。 入口付近にはベンチもあり、よく地元の人が座って喋ったり、ランチなんか広げてる光景を見掛ける。 一方写真左の方には、並ぶ木々の奥に小高い丘が写ってる(土だけだが(^^ゞ)。 そして逆側。今までいた本丸・二の丸のある山。
↑左に(だいぶ小さくなったが)降りて来た階段。右にドーンと山。その下にはさらに先に続く遊歩道。この遊歩道を行ってみる。これで東の入口付近にはもう戻ってこない。 遊歩道・左側土塁斜面(進行方向→)
逆の右側土塁(←進行方向)
この右側の土塁は東屋風の屋根つき休憩所もあり、緩やかで駆け上がれる程の高さ。超えた先は低地となっていて、ジョギングコースらしく、よく走ってる人や犬を散歩に連れて歩く人を見掛ける。
ちょっとここで立ち止まって周囲を見渡す。
この登り坂は、後で来る道(マラソンしてた人がいた)にぶつかる↑
この辺りは東から西に進んでるので、西日がモロ目に入ってくる。最初に述べた通り「夕日が見えるからこっちが西(^^)」と私が思ってる所以(笑)。 このアーチ手前には水飲み場とベンチがあり、ここで軽い運動なんかして汗を掻いたり、あとここは藪蚊が多いので、この水道が唯一の救い(笑)。
階段の上は正面が西の入口。手前が広場とベンチ(ベンチにいるのは亭主:笑)
↑そしてこの左側は小さな丘陵となっていて、最初に入って来た北の入口に到達する。
振り返り西の広場を写す。左が入口、右に亭主のいたベンチ。
ベンチの奥には、最初に入った本丸の土塁がほの見える
さらに近付くと、こちらの丘陵との谷間に黒っぽい道筋が見える
この黒っぽい道は後で通る。↑
これがさっき丘陵から見た、本丸跡の土塁との谷間の黒っぽい道筋に繋がる。
やがて各方面に行ける分岐点に差し掛かる。 西側(夕日が出てるから( ̄∇ ̄))の丘陵
東側。ウネウネと右(来た道)から左(進行方向=東)の道へ
この位置が各方面に行く分岐点で、左に折れれば、先ほど通ったアーチと水飲み場のある中央部に出られる。 真っ直ぐ東に進めば、東の長い階段部分の中段の通路に通じるようになっている。
西の広場の説明をした時、「ここがこの公園の正門」と話したので、撮影した時間がてんで違うんだが(笑)、西の入口付近の夕暮れ風景をお届け(#^.^#)。
前に「松戸七福神めぐり」のレポをやった時、この辺りの空は表現範囲が広い(遮る物(山)がない)事を述べたが、夕暮れの雲の様子は本当に見飽きないことが多い(^^ゞ。 ■9月 <山陰(島根・鳥取)土産> 夏休みを取って亭主が故郷の祖母の見舞いに帰った。 亭主の実家は島根県の安来だが、この安来という所は隣の鳥取県にたいそう近い(^^ゞ。 民謡・安来節で有名。あと尼子氏の城、月山富田城(これも島根県)が近い。 2人分の旅費は出ないから(涙)、一人だけで行った亭主、一人で月山富田城を登りたくさん写真を撮って、土産もたくさん買って来てくれた。
●その1・「因幡の白うさぎ」
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まずは「打吹」という地名。これは天女の2人の遺児が母を思って太鼓を打ち鳴らした事に由来するそうだ。 次に「団子」の方。時は1333年、いわゆる南北朝で活躍した名和長年は鳥取県名和の武将で、長年が後醍醐天皇を讃岐島から船上山にお迎えした時、「甘茶団子」なるものを献上したと伝わっており、この逸話を元に考案されたという。 今でも天皇陛下をはじめ、皇室の皆々様に召し上がって頂いてる銘菓なのだとか(^^)。 この団子は美味い! 三色のきな粉っぽいキメ細かな餡がサイコー♪
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●その3・「ふろしきまんじゅう」
場が余ったので、ウサギと団子の「いかにも月見」な取り合わせで一枚(笑)。↑
で、亭主、「月山富田城レポ@亭主のたわごと」はどうするよ?(爆) ■11月 <石神井城(東京都)> これは雅之介さまが「石神井城が、今年も公開時期が近いですよ。普段は本丸付近は柵で中に入れないので」と教えて下さり、この年は珍しく10〜11月のスケジュールがそう詰まってなかったので、「こういう時を逃すと後は無い!」とばかりに、ワラワラと出掛けたのだった(^^)。 ・「石神井城址巡見と発掘パネル展」 11月3日(祝日) 10:30〜15:00 申し込み不要(直接会場に)・参加無料、城址案内は30分ごと ↑こうした物。 石神井城のある場所は、東京都練馬区。路線は西部池袋線の「石神井公園」が近い。 石神井と聞くと飛び付く理由は……チョー恥ずかしながら、こたつ城主はかつてこれを題材に小説を書きかけていたからだ(爆)。※ ※詳しくは「作品の広場」→「猫天地伝」 A案は舞台が戦国前期。当時は(今もですが)幾ら調べてもわからない事だらけで、ずいぶん原稿は書いたのですが先に進まず、途中で諦めました。 このセリフだわね(笑)。←なぜに出雲弁?(笑) 現地には思ってたより早く到着した♪ ちなみに私は、1999年にここに来た事がある(#^.^#)。まだ松戸に来たばかりで、亭主の職場の人(女性)と2人でテクテク歩いて来た。 今度は車で来てるので駐車場を探した。がどう探しても見付からない(^^;)。 おかしい、おかしいとグルグル周囲を廻る内に石神井城を遠く離れてしまい(汗)、そうこうする内に雅之介さまからも到着の連絡が入る。 どこでもいい。テキトーな有料駐車場でも見付けて入れるべぇ!! とは言えあまり遠いと歩くだけで時間がかかるので、出来るだけ城の近くまで行こうとすると、今度は有料駐車場すら無くなる( ̄∇ ̄;)。。 石神井城跡までは結構な距離だったが、どうにか有料の所を見つけて車を入れる(^_^A)。 ヒィヒィ歩いて公園まで行き、や〜っと雅之介さまに再会(≧▽≦)! (雅之介さま、結局かなり遅れてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m)
さてさて、石神井城というのはどんな城か(^^)。
これを知った江戸城の扇谷上杉定正の執事、太田道灌は平塚城を攻め、その城下に火を放つ。 今度は泰経がこれを知り、平塚城の救援のため練馬城(これも豊島氏の城)から兵を連れて行く。 途中、江古田沼袋において、両軍激突。 と、この石碑には書いてあったが、私が前に調べた時は確かこうだった(^^ゞ。 「道灌が平塚を攻めようとしたのを知った泰経は、道灌の留守をついて一気に江戸城に攻め入ろうとした。が、道灌はそれを知り、攻めかけていた平塚城に火をかけるだけにして引き返し、両軍は江古田沼袋で遭遇」 また、「道灌の平塚城攻めは、最初から泰経を石神井から引き出すための囮作戦だった」といった記述も見た覚えがある。 無論どれがホントかは判らない(汗)。 繋げると、豊島泰経が長尾景春の決起に呼応し、(道灌の城のある)河越の通路を絶つ。 道灌は(泰経の弟、泰明のいる)平塚城を討ちに行く。 泰経は道灌の居城、江戸城を攻めようとして、石神井を出撃。練馬からも部隊を連れて行く。 道灌は泰経の動きを知って、平塚には城下に火をかけ、江古田沼袋で豊島泰経を迎え討つ。 こうかな。まぁ続き行こうか(^^ゞ。 何しろこれが「江古田沼袋の乱」と言われる合戦で、道灌は得意の足軽を使った戦法によって、あるいは豊島氏の住する石神井川流域より北にいた、千葉自胤・信胤兄弟と豊島氏を挟み撃ちにして圧勝した。 豊島氏は泰経の弟・泰明、板橋・赤塚といった一族150人以上という、この当時としては甚大な戦死者を出した。 道灌は即座に練馬城と石神井城も攻め、4月18日にこの石神井城も落城した。 泰経は平塚城(北区西ヶ原)に敗走。翌1478年1月25日、また道灌に攻められて小机城(横浜市)に敗走。その後の消息がわからない。
これが土塁。城址案内コースの後でまた来られたので、後で紹介ね(^^)。
城の内部、この地点から城址案内コースの始まり始まり(^^)。 石神井城は、北と南を石神井川と三宝寺池に挟まれた台地にあり、全体は9ヘクタール前後と推定。三宝寺池がわは崖で、残る三方には濠と土塁(東は濠、西は堀と土塁)がある。 また四角形に区画された郭をいくつか築いていたようで、内部は平坦、陶磁器片、かわらけ(素焼土器)、鉄釘など出土した。
メンバーはその時に集まった数人。これを説明係の方が引率して行く。我々もそれに加わった。祭日でしかも年に一度のイベントということで行われた。無料である。
でも、10人だかいる他のメンバーの手前、「ほぉ〜」と相槌打ちながら聞いた殆どの事は、実は説明員サンの説明がよく聞こえなかった(^^ゞ。
実は上右の写真などは、すごく明度を上げている。 やはり建物の合間の細い路地に居る事、あとは11月の日差しは強く逆に影は濃く、特に強い明暗が出やすい。 皆さん、日を除けながら非常に熱心に聞き入っていた。 沼地を撮影。これが三宝寺池だったような……。
一度公園の敷地に戻って来たんだっけな(^^ゞ。ちょっと記憶がウロだったり。。 三宝寺池は湧水で、数百年前から景観も変わらないのだとか(゚.゚)。 ここには落城伝説があり、豊島泰経の娘と伝わる「照姫」が水中に身を投げた、と言われる。 これにちなんで、確か春に「照姫まつり」というのが行われている。東京には数少ない(唯一かな)戦国系の祭り。 また住宅街に入る。住宅街はどこも見た目が似てるので(^^ゞ、時々目印の写真を撮りつつ……。
何て事のない風景に見えるが、この下り坂の向こう側遠くに、道灌がやってきたと伝わる林が見えた。 この辺りで城の区画巡りコースが終わり、最後に「豊島氏の子孫とされる人が江戸期にいた」という話になった。 実は子孫については、前に私も調べた事がある(^^ゞ。それは以下。 江戸時代、忠臣蔵の赤穂浪士で有名になった浅野内匠守の刃傷事件(松の廊下事件)より73年前、豊島泰経から四代目にあたるともされる「豊島明重」という人物が、江戸城内で刃傷事件を起こした。 この豊島氏は家康に召抱えられた旗本だったそうだが、縁談話のもつれから事件は起きた。 浅野内匠守とは違い、豊島明重は相手の武士(井上主計守)を一刀両断の上、止めに入った武士ごと自分も串刺しにして果てた、と言うから剛勇の士だった事に間違いない。 違うと言えば、こうした事件を防止するために、あのズベズベ裾を引き摺る装束(笑)を身につけさせるようになった、とも言われるし、有無を言わせず切腹させるの一方的に家を断絶されるのと、何しろ先に抜刀した側に厳しい裁定を下すようになった、とも言われるので、どっちがエライのどっちが可愛そうの、という話ではないけどね(^_^;)。 で、この話ではなく、この坂で聞いたのは以下。 それよりさらに後、あの「絵島生島」の絵島がそうであるという。 これは七代将軍の生母、月光院に仕えた大奥の取り締まり格(年寄)の女性で、役者の生島との逢引の罪を問われて流罪された事で有名になったが、この絵島の弟が豊島氏を名乗っていたそうで、絵島も豊島氏出身ではある、との事だった。 ちなみに……。。 ここで「そこちょっと待ったぁ〜! さらに説明ーーー!!!」と飛び出してこれを聞いたのは、言うまでもない(結局やったんじゃん(^^;))。 いずれも、この石神井の豊島氏との繋がりが明確になってるわけではないが、全てこの東京で起きた事件というのだけは動かしようもない史実。 <三宝寺> また住宅街に出る。これより向かうのはいずれも石神井公園の南側。 その後、向かったのは「三宝寺」。↓
開山は1394年、南北朝時代。真言宗智山派。 つまり落城する前の豊島領にあった。その当時は現在地より東500mほどの場にあったそうだ。 石神井城が落城した後で、現在の場所に移ったと言われる。 その後、後北条氏からも徳川氏からも保護を受け、江戸時代には三代家光が狩りの休憩所として使用。 また数十の末寺をもち、府内88箇所巡り第16番の札所となり、表参道の「守護使不入」の碑は、守護の徴税使でも入れないという、この寺の格式を示す。
この辺りで城址廻りコースは解散だった(と思う)。 あとは、外にいる時に見付けたお団子屋さんに入った(^^)。醤油ダレで風味良く焼いてくれる。店の脇にはベンチもあって、お茶を買って3人で飲み食いしながら、しばし歓談♪ <もう一度「石神井公園」> ↑に戻って来る。パネル展の時間には間に合わなくなってたけど(^^ゞ、土塁はまだ見られるかもね、という事で。 三宝寺から戻って来るカドで華麗な塔が見えた(^^)。
この行き止まりを左に曲がる。
土塁では今日は柵の中に入れるという事で、大勢の人が見学に来ていた。
パネル展示には間に合わなかったけど、イベント中、写真やスケッチで遺構や発掘の様子がうかがえた。
それから土塁にもまだ入れたので、「わ〜い(^O^)!」と3人とも駆け上がった☆ミ 小高い土塁から周囲を写す。こっちは公園側
そして今度は逆側、遺構の森(日頃は入れないそうだ)
ここは他の平坦な場と違い、有事の際に利用した建物(掘っ立て小屋)があったと推定。 平成10〜16年に市民参加の発掘調査が行われ、濠、土塁、内郭の一部が明らかになった。 濠は空堀で幅12m、深さ6m。底面を平にする「箱堀」。土質は関東ローム層(赤土)。掘った土には黒土を混ぜて土塁を築いた。 その土塁は、現在より3mほど高かったと推定。濠と土塁は高低差10mに及び、土塁からは14〜15世紀の常滑焼の甕や鉄製小刀、12〜16世紀の中国製陶磁器、渥美焼が出土。 三宝寺に並んだ通り、やはり公園の南側にある神社なのだが、土塁もそのうち入れなくなる時間になるかも、と先に城跡に入った(^^ゞ。 その点、神社ならきっと遅くまで入れるだろうから、参拝を後に廻した。 というわけで、「氷川神社」にやってくる。 この写真↓は、実は三宝寺に行く前に撮影(^^ゞ。
そう! 前に松戸七福神巡りで色々こじつけて燈篭を写して載せた(笑)。一時期は狛犬ばかり追い掛けてたんだが、今はなぜか燈篭ばかり写してる(^^ゞ。 さてさて、改めて参拝に来る。
↑元禄年間、子孫と名乗る、豊嶋泰盈、泰音によって奉納された。 もう一個目をひいたのが、井戸のそばの何やら厳重に囲まれてる建物。
なんでこうなってるんだろうね〜とか言いながら、参拝は無事に終わった。 その後は「来るのが遅れたお詫び」とか言いながら、車のある駐車場までまたエンエン雅之介さまを付き合わせて(笑)、車に乗って貰ってお送り。そこで別れた。 さらに亭主が又々、今度はタイヤキに目を付け(爆)、ちょっと脇に停車する。幸せそうにタイヤキを食う亭主(笑)。 そして又エンエンと千葉県まで帰る夫婦であったぁ〜♪ 2005年10月16日 |
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