<2009年・城主のたわごと1月>



2008年7月「阿夫利神社」の続き。そしていよいよ9月、

「福島〜山形」レポ、第一弾は「慧日寺」から〜(^O^)!




     
  前回(2008年12月)までは、手賀沼の北岸と南岸に分けて、チョロチョロ将門伝承の地をお届けして来た。
今回は手賀沼南岸編の続きではあるが、将門とは関係なく、「阿夫利神社」の続き……主に夏の祭礼の様子をお届けする(^^)。

そして今回は、2008年9月に行った、東北レポを開始する。何回シリーズになるか……4回は確実だと思う(^^ゞ。

行った場所は福島県と山形県。
今回は山形もかなり北まで足を伸ばしたので、亭主も運転しっぱなしになるから、行きに帰りに途中下車するような旅程を組んだ。

だから、福島→山形→また福島、という旅程になった(^^ゞ。
また、3泊4日の旅程だったが、最後は又々一日延長となり(笑)、結局4泊5日となった。

今回はその1日目の福島〜山形、2日目は山形からお届けの途中で、次回に引き継ぐ。



■20087月・千葉県印西市
<阿夫利神社、2>


前回の続き(^^ゞ。まず前回と同じ写真から。

前回は地平線の辺りを→こう進んで↓こう降りてきた(パノラマ4枚・180度以上)

↑今回はこの地平線をさらに→こう進んでみる。

すると、車道がさらに続いている→

この道から右に駐車場があり、そこに車を止めて、右の森に入る。

前回は阿夫利神社のある丘の石段を登って、神社の真ん前の鳥居に達したが、今度は直接、その鳥居の前に通じる、丘の中段ルートを通ってみる。
また、これから行く祭りは年に一度の祭礼なので、通行規制がされていたようだ。
だから駐車場も、祭りの時だけ開放されてるのかもしれない(^^ゞ。

私らは祭りの前の週に来て、その事を聞いていたから、祭りの日は最初からスンナリ駐車場に行ってしまったが(笑)。

阿夫利神社→地図A

中段ルート到着(^^)。
←すると、丘の上にお祭りの灯かな、森の奥の暗がりから神秘的な光景が☆ミ
また鳥居に続く途中には古い石碑が並んだ、ちょっとした広場があり、そこで屋台をやっていた(^^)。

前回も触れた通り、こちらのご神体の化身である、青い衣をまとった二人の老人が、村吏(村役人)の夢に現われ、「高西新田鎮守両社の内へ合祭せよ」と命じたので、両社境内の凸地の頂(稲荷山)に奉納したのが、この神社の謂れである。

という事は、このポツンと灯りのともる↑あの頂きが、その「稲荷山」なのかな(^^ゞ。

そして屋台の合間を通り抜ける。オホホ〜(^。^)、ヤキソバにタコ焼きにかき氷じゃっ(笑)。
屋台を抜けて左手に鳥居(^^ゞ。→
ここで前回も出した写真とこう繋がるワケ↓

前回は石段をせっせと登って来た(パノラマ3枚・ほぼ180度)

拝殿は祭りの日には……
この通り、扉が開いていた(^^)

こちらの社紋、天狗の団扇みたいじゃない(^^ゞ?

拝殿の向かって左の神輿の車庫も、屋根にこの社紋が光っていた。
さらに左の神楽殿→

この日は祭礼だったので、この神楽殿で舞が奉納された(^^)。

一方、拝殿に向かって右奥には稲荷社がある。

さて、いよいよお祭りの始まり(^^)。
まずは、今言った「舞の奉納」が行われる。

神楽舞については、この浦部地区では、江戸時代に神楽舞が鳥見神社で行われ、南西の冨塚地区の鳥見神社まで伝えられて、十二座神楽(県民俗)と呼ばれた。

「十二神楽」については、2008年6月の<麻賀多神社、2>の中にも書いた通り、麻賀多神社の由緒では、「伊勢神楽の流れを引く」と説明されていた。

今回我々が見られたのも、この系統ではないかと思った(^^ゞ。
演目は最初のが「笹舞」、二つ目が「玉とり舞」、三つ目が「うずめの舞」と題されていた。

「笹舞」
「玉とり舞」

この二つ目の「玉とり舞」というのが登場人物が多彩で(^^ゞ、最初に出て来たこの人(女神かしら)の持ってる玉が鬼に取られてしまい、それを勇敢な武神(山の神のような)が取り戻す、という筋だった。

中央で力強い舞
右端のが玉泥棒の鬼(^^ゞ

この取り戻しの舞が、足をドンドン床に突いて、大見栄を切ったりして、なかなか見所があった(^^)。

←ついに鬼サン降参。
取り戻された玉は、無事に持ち主の神様に戻されましたとさっ☆ミ
↑そして三つ目「うずめの舞」。「うずめ」は歌舞の元祖神・アメノウズメ命の事だね(^^)。

さて、いよいよ阿夫利神社の祭礼クライマックス、「梯子神輿」に向かう。

(パノラマ2枚)

神楽殿からさらに左に目を移すと、左端の鳥居との間↑に、奥にも鳥居が立ってるのが見える。これから入って来る神輿は最後はここを潜って行くので、ちょっと覚えててね(^^ゞ。

←最初のイベントは子供達が登場。正面の鳥居から「ワッショイ、ワッショイ」と元気に入場〜(^O^)。
↑境内に入ると、先に入って来たお囃子部隊のピーヒャラ・ドンドコの音曲に活気づけられ、担いできた棒(神輿の一部?)を高く掲げる。

いよいよハイライト。神輿の入場!
方向転換・境内の広い敷地に練り込む

神輿の中にはご神体の石が入っている。その神輿を高く掲げるまでは、子供達のと同じだが……、↓
その後おもむろに、神輿の向きを縦に、夜空に向かって担ぎ棒を突き上げるのだっ!→

さらにスゴイのは、これをこのままの状態で大勢がいっぺんに手を放して、神輿を地面にドッタ〜ン!!と落すのである!!

何度も何度も、この「ドッタ〜ン!」は繰り返される(笑)。
これが「梯子神輿」とか「梯子立て」とか言われる、独特の祭り方のようだ。

何度もカメラを構えたが、落とされるタイミングに上手く合わず、周囲は客も祭りの人々も興奮してひしめきあってるし、さらに神輿が自分の方に倒れて来るから、逃げ惑う客に紛れてしまうし、何より大勢の人の合間に倒れるので、落とされた神輿が人々の姿に隠れて、その瞬間は撮れなかった(^_^;)。。

←落とされた神輿を起す光景を確認する限り、屋根から地面に叩きつけられるようだ。
↑10回ぐらいやった後、改めて神輿の周囲の飾りつけが行われる。

前の週に地元の方に伺った話でも、こうやって神様の「ムシャクシャした気分」を鎮めるのだと云う(笑)。
喧嘩祭りとか、荒神とか祟り神を鎮める祭りによく聞く話なので、やはりここの神様は荒神なのだろう(^^ゞ。

←神様のガス抜き(笑)が終わると、さっきの、さらに奥の鳥居を潜って行く。

ちょっとカメラ切り替え(笑)。→
祭りの間は入れないので、昼間の奥の院を見てみよう(^^ゞ。
このようにズズッと階段を上がって、丘の頂上に登れるようになっている。

鳥居の脇には「聖徳太子」と書かれた石碑が建っていた。

階段を上りきると、さらに上に続く
木の間から見下ろす社殿

前回の謂れの所でも書いた通り、ここに鎮座の前は、相模の阿夫利神社に奉納する予定だったそうだ。

利根川から印旛沼にかける旱魃と雨乞いの伝承は、龍角寺や香取鳥見神社でも書いたが、伊勢原の阿夫利神社には私も何度か行った事があり、「阿夫利」の音は、やはり「雨降れ」の意味合いがある、といった由緒を読んだ覚えがあるのを思い出した。

頂上。ご神体の石を納め直すという
その間を待つ祭りの衆(^^)

やがて階上から
神輿のみ戻されて来る

鳥居の所では祭りの衆のみならず、大勢のお客さんが、ご神体を包んでいた藁が配られるのを「今か今か」と、首を長くして待ち受けている(^^)。

こたつも一つ頂戴する事が出来た→
(ありがとうございましたm(__)m)
この通り、持ち帰りやすいように一つづつ束ねてある。
直接ご神体に触れた藁だから、霊力が移り宿って、信仰者を護ってくれるのだろう。

祭りの間は、倒れて来る神輿を「チョー危険(*o*)!」と慄いていたが(笑)、この藁を受け取って、「スキンシップを図る友好的な荒神サマだったのかもっ(≧▽≦)!」と嬉しくなった☆ミ
増してや地元の人にとっては、「他よりココがいい」と鎮座を望まれた神様だから、尚更じゃなかろうか(^^)。

その後は客もまばらになるが、神輿は長い時間をかけて縄を解かれ、拝殿の隣にある神輿庫に納められる。

祭りの方々には、本当に、お疲れ様でしたm(__)m。

尚、最初に「将門伝承とは無関係」と書いたが、実はこの阿夫利神社よりちょっと北東に「竜崖城跡」があるらしい。

先々月(2008年11月)にお届けした、将門の配下がいたと伝わる「龍崖城」と同じ名だな〜とは思うが(^^ゞ、こっちのは「大菅氏」(たぶん戦国期)の城跡との事だ。そのうち行ってみたいと思う(^^)。

以上、関連事項は、
2006年12月<房総のむら>内

2008年6月<麻賀多神社、2>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>以降




<スイーツ・タイム(^。^)>

さて、先々月(2008年11月)の「たわごと」で、沼南高柳「善龍寺」、「小金中野牧」のレポ予定を書いたが、「それは又その内(^^ゞ」という事にさせて頂き(笑)、今回はこの後、2008年9月に行った福島〜山形のレポに移りたい。
まずは、その前に……。

お茶でもいかが。と言っても、これは……折り紙だぁ!(爆)
このケーキを取り出す銀色のハサミ(トング)も折り紙で作れる!(笑)

作ってみたい人はコチラ。潟gーヨー「おりがみゆうえんち」の新商品情報を(^^ゞ。

今見たら、レアチーズ(左上)・シュークリーム(中央上)・いちごムース(左下)・ガトーショコラ(中央下)が無くなってる。。
この、いちごムースの上に貼るセロファンが、ジャムのようなゼリーのような光沢を放って、人気があった(ごく近辺で:笑)んだがなぁ〜。

代わりに今は、ミルクレープ・エクレア・フランボワーズ・チョコレートケーキが入って、リニューアルされてるゾ!(笑)

「ハンバーガー・シリーズ」というのもあって、デラックスバーガーの他に、前はフィッシュバーガーがあったんだが、今はテリヤキとコロッケバーガーに変わってるぅ〜。。
(こっちは人にあげちゃったから、写真は撮ってない。。)

他に前は、西洋風と和風が作れる「お弁当シリーズ」というのがあって、細々とオカズ類がまたリアルで、「作ってみたい\(>o<)/」と思ってる内に……これも終了ですかっ!(涙)

ごく身近では「パッと見でウケが取れる!」とか、食事制限されてる人の見舞いに丁度イイとか(逆効果か?)、密かな人気♪

さて美味しい(?)話の後は、イタイ話題。。

5月から暫定税率の復帰で、ガソリン代が高騰。。若干は安いバイオガソリンを頼る日々(^_^;)。

←よく見掛ける森林キャラを、さらにサトウキビとトウモロコシの新キャラが囲むようになった(笑)。

「石油連盟」のバイオガソリン説明(Q&A)によると、バイオガソリンは本来7〜8円g高いのを、19〜20年度のみ国と元売の折半で差額を捻出してるとの事だ。
それが通常のガソリンより2〜5円gほど安かったから、これは元売負担なんだろう。

今の暫定税率を廃止して、バイオに注力すれば、ガソリンは安くなる、温暖化防止(に繋がるのかよぉワカランが)には貢献する、一挙両得じゃないかな〜と思ったりしたものだが(笑)。

何しろ引き上げ(復活)後は、1ヵ月で120円台gから、ガーン!と160円台gぐらい行ったかね(^_^;)。。
その後はガンガン上がり続けて、さすがのバイオも、他と殆ど変わらぬ価格になってしまい、7〜8月ごろだったか、ピークは190円台gぐらいまで行ったような(汗)。。
流石に8月は殆ど車使わず、さっさと引きこもったから、値段とかもぉウロ覚え(爆)。

それが世間はすっかり夏休みが終わって、人々の支出期を狙いすましたように高騰がピークに達し、9月になって少しだけ下がったかな。高速料金をちょっと下げたんだっけな。

我々は9月しか休みが取れないからいいが、盆の帰省や、子供の夏休みに併せて旅行した多くは、スッカリ疲弊したろうと思うよ。。(今ごろ高速乗り放題とか言われてもなぁ(^_^;))



■2008年9月・福島県〜山形県
<まずは会津磐梯を目指す>


東北旅行スタートである。
一日目は、大まか北に向けてひたすら移動し、イキナリ山形県は山寺にまで達した。

が、その途中、一箇所だけ寄り道したのが、福島県の磐梯町である。磐越自動車道の「磐梯加東IC」で降りる。地図B

まずは東北道を北進
「郡山JCT」から磐越道に入る

やがて姿を顕わす磐梯山(^^)
既にススキも波打っていた

目前に遠く広がる会津若松平野

これより降りる「磐梯加東IC」は、「会津若松IC」の一個手前なんだけど(^^ゞ、こんな風に会津若松の平野がチラッと見えてから降りれる。磐越自動車道のこの区間→地図C

磐梯加東インターで降りた後は、ちょっと拡大して地図D
今回訪れるのは、インターの北側に鉄道(磐越西線〜只見線)が走ってるが、そのさらに北の「恵日寺」と「慧日寺跡」。

降りて目的地を探してウロつく中、道脇にド〜ン!とおっきな石碑郡がむき出しに出て来て、石の一つにおっきく「湯殿山」とかあって、「東北に来た(^^)」という感慨にまず浸る(笑)。↓
いよいよ「恵日寺」に差し掛かる橋を渡る。チラッと見える山の頭は磐梯山かの(^^)。→



<恵日寺>


↑「慧日寺」と読みは同じ、「えにちじ」である。
二つに分けて表示される理由は、現在あるのが「恵日(えにち)寺」であるの対し、その北に、「かつての恵日寺の史跡=慧日(えにち)寺跡(本寺地区)」があるから、という事のようだ(^^ゞ。

←字が小さくて見づらいけど(^_^;)、まず左に「資料館」「馬頭観音覆堂」、中央下に「恵日寺」、そのちょっと上に「如蔵尼の墓」。

そこから上の緑色が「慧日寺」(史跡)の敷地となる。

まず右に「乗丹坊供養塔」と「不動堂」、中央に下から「仁王門」「薬師堂」「中門跡・金堂跡」「多重塔跡」「食堂跡」「講堂跡」、そしててっぺんに「徳一廟」「今与供養塔」

実は訪れる前日になって、改めてこの寺の事を下調べして、「意外と色々ありそうだ(*o*)」と知った(爆)。
旅行の用意をする傍らの、かなり間際だったので、「行ってみるだけ」ぐらいの気ではいたが、来てみたらホントに色々あるので、チョー残念ながら全部は廻れなかった。。

というわけで、上記の太字部分しか行けてない(^_^;)。。

ここに来た理由は、前々回(2006年)の東北ツアーで、会津若松の周辺が気に入って、この辺りで一箇所ぐらいまた寄りたいな〜と思っていた事が一つ。

二つめは、亭主の好きな温泉宿を探してる内に、ここの資料館を知ったから(^^ゞ。だから一応、ここが「徳一の開いた寺」という前知識だけはあって来ている(笑)。

三つ目には、将門の娘「如蔵尼」が達したと伝わる寺が、同じ福島県のいわきにあり、それと同じ「恵日寺」という名だったからなんだが、実はここに訪れた時には、「同じ名前の寺ってだけだから〜(^^ゞ」と、殆ど思惑の内に入れてなかった(笑)。

だから、この案内図の前に立って、「如蔵尼の墓」の字を発見した時は、思わず「ウッソー!」と声が出てしまった(爆)。
(一体この人の墓って幾つあるんだろう)

さて、まずは左一番下の駐車場から出発(^O^)!

駐車場からやって来る道(パノラマ2枚)

すると車が出てる向きに我々も出た
←から左を向くと、こんな上り坂

坂の途中、左に「恵日寺」への小道
こんな路地(^^ゞ。途中の建物には「平」の字が

この「平」は、もちろん桓武平氏の「平」だろう(^^ゞ。
この慧日寺は、源平合戦でこの地の平氏が滅んで以来、ともに衰運を迎えているが、それは後に書く。

また、会津地方における修験道(山岳信仰)の広まりは、慧日寺創建より古いといわれるが、この山岳信仰についても後で書こう(^^ゞ。

慧日寺は、平安時代の初めの大同2年(807)、南都法相宗の高僧・徳一によって開かれ、東北地方で開祖の明らかな寺院としては最古のものとして知られている。

この807年という時期を、東北史全体から見てみる。

700年代後半までには中央の進出によって、柵を作る北緯はこの地域まで達していたと見られる(2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>内

桓武天皇が即位し、平安京に遷都された794年前後、アテルイなど現地人による抵抗に対し、坂上田村麻呂の征討が行なわれた。
これが完了した直後から、早速に仏教の伝播が開始された、という事になる。

路地を降りきると「恵日寺」の前に出る(パノラマ2枚)

お寺の脇をせせらぐ壕水の音も清らかに(^^)→
そして「恵日寺」正面の山門を入る↓

今いる、この恵日寺は、本堂が元禄15年(1703)に建立された物だが、磐梯町のHPには「(当初は、という事か)平将門の寄進と伝わっている」と書いてあった(^^ゞ。

が、お寺の開祖は徳一なので、徳一について、まず書こう(^^ゞ。

徳一を、奈良時代の政治家・藤原仲麻呂(恵美押勝)の子とする説が多く、有力でもあるが、鎌倉時代の代表的な仏教史『元亨釈書』には出自にふれてないので、出自についての確定はできない。

徳一はこの会津において、最澄と「三一権実論争」、空海とは「真言宗未決文」など、仏教界で大論争を繰りひろげた僧侶として知られている。

←本堂の手前右に仏像。隣に供養塔があった。

奈良で法相宗を学んだ徳一は、若くして東国に下り、この「慧日寺」を創建したので、南都での修行は短時間だった事が推測される。

が、『元亨釈書』等にも、奈良興福寺の修円の元で法相宗を学んだと記され、徳一が得た法相教学は南都仏教でも本流とされ、短期間の超人的な努力で得た学識があったからこそ、会津に居ても、特に最澄との長く激しい論争を続ける事が出来たのだろうと考えられ、徳一がこの地を拠点に続けた論説は正統な法相学説と言われる。

徳一がここに寺を開いた理由は、「自然智(じねんち)宗」と呼ばれる、生まれながらの知「生知」を得るためで、この目標のために山林修行を取り入れていた事が考えられる。

この「自然智宗」を得る最適な自然条件として、磐梯山を中心とした幽谷深山の山並を選んだのだろう。
これは、後天的な学習によって得られる「学知」とは対象的な考え方だった。

また最澄や空海と宗論の傍ら、会津地方に布教活動をおこない、勝常寺(湯川村)や円蔵寺(柳津町)など数多くの寺院を創建し、会津地方に仏教文化を広めたので、民衆からは「徳一大師」「徳一菩薩」とまで呼ばれた。

一方、最澄や空海からは「麁食(そじき)者」、「北轅(ほくえん)者」、「溺派子(できはし)」などと蔑称され、この会津にこもった事についても、「善師なく、独り東隅に居す」と批判された(^_^;)。。

徳一の没年は諸説(南都高僧伝・法相系図・永仁古縁起・常州筑波志・など)あり、76歳説・62歳説などがある。

「慧日寺」の文化財は、衰運・荒廃・戦乱・火災・廃仏毀釈と廃寺によって多くが焼失・散逸してしまい、徳一が請来した所持品と考えられる物は、「白銅三鈷杵(さんこしょ)」のみだが、この「白銅三鈷杵」は忿怒形三鈷ともいわれ、国重要文化財として指定され、正倉院に二口、日光二荒山発掘物の一口に見られるのみの、最古の形式をあらわしている。

恵日寺には他に、「絹本著色恵日寺絵図」(国重要美術品認定・県重要文化財)、「紙本墨書田植歌」「日光・月光菩薩面」「薬師如来光背化仏一具・七躯」(それぞれ県重要文化財)が所蔵されている。



<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>

路地を戻って坂をさらに上ると
まず手前に「橋姫大神」に出会う
この「橋姫大神」の祠は、「安産の守り神」と書かれていた(^^ゞ。

このカドを右に行くので、ちょっと覚えてて(笑)。

この祠のスグ奥から、いよいよ「慧日寺跡(史跡)」の領域に入る。↓

史蹟 慧日寺跡」の境界石碑→
(左隣は「古峰神社」の石碑)

←そして左手には「如蔵尼の墓」がある。
資料館の年表には、「伝承」としつつも「平将門の娘・如蔵尼が恵日寺に逃れる」とシッカリ記されていたと記憶。

徳一が慧日寺を創建したと伝わるのが807年だから、940年に亡くなった将門の娘の墓がここにあっても、モチロンおかしくはない(^^ゞ。
「橋姫大神」のカドを右に曲がって、しばらく歩くと、この「如蔵尼」と関連するとも思われる「乗丹坊の墓所」に達する。

実は「乗丹坊の墓所」には一番最後に行ったのだが、話の流れと順路に按配が良いので、ちょっと先にそっちに行ってみよう(^^ゞ。

森林の奥に左にお堂・右手前にお墓
乗丹坊の墓」

平安時代の中頃には、慧日寺は最も興隆をきわめた。
その勢力は寺僧300・僧兵数千・子院3800坊にものぼり、支配権は会津はもとより新潟県の一部まで及んだと言われる。

平安時代末期には、慧日寺は全盛期を迎え、衆徒頭だった「乗丹坊」には、僭兵数千人を動員する勢力があったと言われる。

「乗丹坊」は、養和元年(1181)6月の平氏の命を受け、越後の豪族城氏と共に木曾義仲を追討するため、会津四郎の兵を率いて出陣したのだが、信州横田川原(現在の長野県篠ノ井付近)の合戦で敗れて討死した。
合戦のようすは『平家物語』などにも描かれる。

この宝篋印塔は乗丹坊の墓と伝わり、高さ2.7m、台石に格狭間を表し、塔身の四面には薬研彫りの梵字が刻まれ、笠はややゆがんでいるものの隅飾突起が直立に近く古い形式を残している。
全体として地方色が強く、中世後期に建てられた供養塔と案内されている。

また資料館の記述によると、元々、如蔵尼の墓所と伝わる「小中野原の地に十三家の塚を作った」と書かれていた。
さっきの如蔵尼の墓は道端の脇にあったので(^^ゞ、元はこっちにあったのかも?
後に「佐原」氏に仕えたが、1589年の伊達氏との戦いの時、芦名についてから消息不明という事だった。

もう一つ、この「乗丹坊」は「城丹坊」とも書かれ、「城氏と供に義仲追討」という城氏は常陸を基盤に発展した平繁盛の子孫なので、「乗丹坊」は城氏の出身とも見られる。平氏系図

戦況結果からも分かる通り、城氏は源平合戦の頃、バリバリ伊勢平家の与党だったから、もしかしたら平家落人として厳しく詮索されたのかな〜とか思った(^_^;)。

何しろ、この「乗丹坊」の死によって、会津慧日寺の勢力は大きな打撃を受け、次第に衰退の一途をたどるのである。。

不動院・龍宝寺「不動堂」
途中の橋から川のせせらぎ(^^)

「乗丹坊の墓所」と同じ敷地にある、この「不動堂」は、「龍宝寺」の建物。

会津の修験道(山岳信仰)は、慧日寺の興りより古いと言われるが、中でも大伴家が「大寺修験」の指導者として盛衰を繰り返しながら続いて行った。そのため、磐梯修験は「大伴修験」とも称されている。

『新編会津風土記』には磐梯山・厩嶽(うまや)山の他に吾妻山修験を掛け持ち、猪苗代成就院と共に活動していたことが記載されているそうだ。

前述の通り、慧日寺じたいは平家滅亡とともに衰退したが、この龍宝寺は永正18年(1521)九州彦山の中津郡より彦山流の伝灯を受け、寺号を「磐梯山不動院龍宝寺」と称した。
が、江戸時代の宝永年中(1704〜1710)になると、大寺修験の勢力圏は猪苗代領にあり、大伴修験は成就院の支配下に入った。

大伴修験はその後、彦山流から京都聖護院に移り「不動院」を「龍宝院」と改め「磐梯山龍宝院」と称した。
現在の龍宝寺は修験不動尊として約180年前の再建といわれ、桁行・梁間とも三間の入母屋造りで、磐梯山修験の祈願所となっている。



<磐梯山慧日寺資料館>

今度は「如蔵尼の墓」「慧日寺跡・入口」「橋姫大神祠」の一帯を左に折れて行ってみる。
←左右に「庭園の跡かな(゚.゚)」と思うような石の配置(特に左のが)が出て来る。↓

この右の中心に建ってる石碑には「史跡境界」とあって、最初に出した案内図にあった緑色の場所との境界という意味なんだね(^^)。と言うのも、これから向かう慧日寺資料館は、ちょっと史跡の領域から逸れているのだ。

この慧日寺資料館には、実は一番最初に来た(^^ゞ。資料館は閉まる時間が早いから、来て最初に向かったのだ(笑)。

さて源平合戦への参戦と敗北の後も、慧日寺は伊達政宗の侵攻などたび重なる戦禍に見舞われ、わずかの建物を残してすべて焼失した。。

この時期の財宝としては「鉄鉢」が現存、永亨7年(1435)の銘がある。
高台に皿型をもつのは例がなく、国重要美術品として認定されている。

それと徳一の後、いつからか判らないが、この慧日寺は真言宗に宗変えとなった(^_^;)。だからさっき行った、今もある「恵日寺」は、号を「磐梯山」、宗派は「豊山派」である。
この転宗の経緯から、徳一の痕跡に代わって、「開祖は空海」とされるようになったという(^_^;)。。

例えば、この恵日寺を東端として、東西南北に「会津五薬師」という寺が広がって存在したが、これらの薬師寺を造ったとされる伝承は、以下のようになっている。

「磐梯山に住む魔物によって霧に囲まれ陽光に遮られ、作物は育たず、病気が蔓延していたのを朝廷が嘆き、遣わされた弘法大師(空海)が法力によって魔物を撃退し、五つの薬師を造ろうとした。
そこに朝廷から帰還命令が下ったので、空海は徳一に託して去った。徳一が残りを引き継いで、中央に勝常寺(湯川村)・東に恵日寺(磐梯町)、西に調合寺(会津坂下町)、北に北山薬師(北塩原村)、南に野寺薬師(会津若松市)と、5ヵ所に薬師如来を配した」

これら「薬師如来像」が現存するのは、勝常寺(国宝)と調合寺のみである。

新しそうな古そうな石垣
真っ赤に空に映える、何の実(^^)?

空海がらみの話を続ける。
江戸時代の松平定信が編集した『集古十種』には、4個の銅印の押された印影が見られるが、『新編会津風土記』には、これらが「平城・嵯峨・淳和天皇と、白河院より授かった」と記されてるという。

が、平城・嵯峨・淳和という三代の天皇は、仏教への導引や祈願、儀式の他、編纂物の奏上や漢詩創作に必要な資料の献上など、深く空海に頼ってたので、これらの銅印も「開祖=空海」の流れで、上記三人の天皇の名と結び付いた話ではないか、という指摘もある。

この銅印も、明治の廃寺で寺の所有を離れ、転々とするうちに所在が分からなくなってしまったそうだ。

が、伽藍の見取り図としては、『絹本著色恵日寺絵図(県指定重要文化財)』が伝わっており、仏堂・社殿が46棟のほか、礎石26ヶ所、鳥居15基、石塔5基、橋4基、山・川・湖などが描かれているという。
永正8年(1511)の銘文から、南北朝〜室町時代ぐらいの伽藍を描いた物ではないかと推定されている。

これにはさらに、享保7年(1722)、文政9年(1826)、嘉永3年(1850)に修復が加えられており、江戸期になると、史料の保存に努められた事が伺える(^^)。

資料館には裏手から入った(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

江戸期に入ると、歴代の会津藩主の保護を受けた。
万治元年(1658)に慧日寺は火災に見舞われたが、その後、元禄2年(1689)には、慧日寺の55世「尊悦」が会津藩へ境内絵図を描いて提出しており、その下書きが残っている。
中央には五間堂の薬師堂の他、鐘楼があるのみで、南に観音院はあるが、他に大きなお堂は無い。神官の屋敷などは見られ、神仏習合の様子が伺える。

また、寛文年間(1661〜1672)ごろまで、享禄4年(1531)の銘を持つ梵鐘があったと示す史料があり、これが損傷したのを、延宝7年(1679)に鋳直したのも「尊悦」で、現在にも伝えられる梵鐘で、尊悦の名が銘文に刻まれている。

この頃の会津藩主が保科正之(^^)。会津松平氏の藩祖である。
保科正之に迎えられた儒学者・山崎闇斎も、新しく出来た梵鐘を「恵日寺晩鐘」という漢詩に、霧と月光の中に聞える鐘の声を、とても神秘的に描いている。

貞享2年(1685)には尊悦は、年間行事とその役割に従事した人の記録も書いており、慧日寺の復興に尽力を続けたが、元禄13年(1700)2月に他界、中興の祖と言われる56世「実賀」に引き継いだ。

こうして江戸時代は、今の恵日寺の本堂が元禄15年(1703)に建立され、やはり現存する仁王門(あとで行くね(^^ゞ)も、江戸時代後期に建立された。

資料館の前の田んぼは見事な黄金色!(パノラマ2枚)

慧日寺が磐梯山を中心に広大な地域で栄えたのも、その後、何度も衰退の憂き目に遭いながら継続したのも、会津の山々を背景とする山岳信仰と祖霊崇拝の土壌があったからだと考えられる。

この山岳信仰は東北全域に広がっていると思えるが、資料館では、信仰への捉え方が丁寧に説明されていて頼もしかった(^^)。

その考え方は、まず「奥山」と「麓山」の違いに始まる。
奥山が遠い「高山」であるのに対し、麓山は「里に近い端の山」を指すようだ。

まず高い山には天から神が下りて来て住み、山全体を所有支配したので、だんだん山そのものを神聖視するようになっただろうと考えられる。
この「高山」にどこが当たるかよく判らなかったが、磐梯山か、全体を繋げると吾妻山(山形との県境)かしら?(^^ゞ

一方、山には自然神の他に祖霊も集まるのだが、人は死ぬと、まず里から近い「麓山」に霊が集まる。恵日寺の周辺だと「羽山」が相当するようだ。(ただ東北に「羽山」とか「羽黒山」は星の数ほどあるけどね(^_^;))
そして、ある年月が過ぎて霊魂の穢れが無くなると、尊い祖霊となる。

磐梯山」は、会津地方最大の「麓山」のような役割を果たし、古くは「いわはし山」と呼ばれた。「梯」とは「はしご」の意で、「祖霊のおもむくところ」を指す。
ちょうど「阿夫利神社」の祭礼にも、「梯子立て」というのが出て来たね(笑)。

祖霊は、春には里に下りて「田の神」となるため、里に近い山に住む。
冬になると山にこもって「山の神」となるので、秋に収穫が終わると、里人たちは霊を饗応して山に送りをする。

祖霊は子孫の生活を守り、ことに弥生期以降は稲作を見てくれると信じられた。亡くなった家族とも永遠に別れてしまうのではなく、春〜秋には身近にいると信じたのだろう(^^)。

「羽山」より、ちょっと高く遠い場所に「厩岳山」があり、ここには「馬頭観音」が祀られる。
馬は祖霊の乗物で、祖霊は馬に乗って幽界と現世を去来する。つまり季節に応じた里と山の去来に、重要な役割を果たすのが「馬頭観音」なのだ。

図式で見ると、羽山と磐梯山の間に厩岳山が描かれているので、「羽山」と「磐梯山」の間を、祖霊が「厩岳山」つまり馬に乗って行き来する、という具合にも見える(^^)。

今回はちょっと行けなかったが(^^ゞ、資料館に来る途中に「厩嶽山・馬頭観音覆堂」というのがあって、資料館の「野外展示場」との事だった(工事中だったかな)。
パンフで見る写真では、新しそうなお堂に見えたが、磐梯町HPの案内では、参拝者が減ったので「(厩嶽山から)御厨子を移した」と書かれている。

厩山は北方約4.5キロにあり、会津地方における馬頭観音信仰の総本山として、昭和30年代(1955〜65)までは盛んに登拝が行われたそうだ。寺には厨子・馬絵などが公開。

慧日寺資料館の広い庭園(パノラマ3枚・ほぼ180度)

東北全域の民間信仰として有名な「オシラサマ」も盛んだった。福島県では「オシンメサマ」と呼んだ。
木で芯を作った男女一対の人形を作り、包頭や貫頭などの頭部に目鼻をつけ、稀に馬頭や僧形のものもあった。

これは主婦が家の中に祀る「家の神」で、祟り神ではあるが、遊行を好み、時々手に持って振り動かしたり、布切れを着せてあげたり(オセンダク)、頭をさすれば頭痛が、肩を叩けば凝りが治ると信じられ、これらを「オシラ遊ばせ」と言った。

このように、主に民間信仰による痕跡は多く伝わっており、慧日寺の周辺には、80枚を越す版木が所蔵されている。その多くは慧日寺龍宝寺磐梯神社など、史跡に指定されている敷地から発行されている。
内容は五穀豊穣や魔除けなど、庶民的な現世利益だが、この多さで、慧日寺・龍宝寺・磐梯神社が会津地方最大の山岳信仰の場であった事がわかる。

版木には、「磐梯山・猫魔嶽・猫の絵」というのがあり、猫が馬と同様に、幽界と現世を行き来する媒介と信じられた形跡を顕わす。この「猫魔嶽」は「厩岳山」の北側に背中合わせにあるなど、民俗学的にも興味深い例と言えよう。

また「吾妻山御札・恵日寺」や「吾妻山像」という版木などは、史跡内の「龍宝寺」が、「成就院の霞下に吾妻山の峯入りを行っていた」という明治2年(1869)の分限書や、「恵日寺が吾妻山への先達を行っていた」という『新編会津風土記』の記述の裏付けとなった。

豊かな水量を称える池
磐梯山・慧日寺資料館」に入る

民間の中に生き残ったものの、慧日寺の末路は厳しく、明治初年(1868)の廃仏毀釈によって廃寺。。
塔頭(たっちゅう)であった「観音院」に法燈をうけついだ。

が、寺の廃止後も、山岳信仰は継続されていた。
神社や講の神事や祭りの中心となる家を「頭屋(とうや)」と言い、司祭役を「大頭(だいとう)屋・兄頭」、次いで「小頭(しょうとう)屋・弟屋・脇頭」などと呼び、これを廃寺までは、慧日寺の役僧が勤めていた。

彼らは秋に黒衣・白衣をまとい、「大頭」か「小頭」と書かれた円盤、幣束・麻縄のついた2m近くもある木製の鉾を持って、家の門前で「ダイトウ・ショウトウ」と呼ばわった。
恐れ入った家人は直ちに献米。稲束二把(後に米一升とも)とされたが、畑作地域ではソバ・大豆・麻で代用した。

これらを集め、イナバツという初穂として 作神・磐梯明神に奉納する役目で、「大頭・小頭の円盤に触ると祟りに遭う」「イナバツを怠り鉾で突かれた家は火事になる」「大頭・小頭の常宿は火事に遭わない」など、磐梯の神への畏敬の念は続いた。

慧日寺の廃寺後も、この行事は磐梯神社が引き継ぎ、玄米百俵も集まったと言う。
磐梯山が見下ろす広大な地域が含まれたそうだが、会津若松の芦ノ牧まで入っていたというから、本当に広範囲だ(^_^;)。寺の修復費にも役立ったのではないか。

一方で、厩のお祓いも行ったので、徐々に偏重して厩信仰にもなったそうだが、農家から馬が居なくなり、厩が姿を消すと、ついにイナバツの伝統も見られなくなった。。

明治37年(1904)5月、寺号の官許を得、更に大正2年(1913)「磐梯山恵日寺」として堂塔の修復をし、再興の緒として今日に至っている。

この磐梯山慧日寺資料館は、さらなる散逸・破壊を防止し、保存・公開・活用を目的として、昭和62年(1987)にオープン。
展示は、南北約8キロ、東西約12キロの模型や、これまで書いた歴史の他、民間に伝わった「明神之舞」「雨乞い」の遺品、現在でも春分に行なわれる「舟曳き」と「巫女舞」など、ビデオでは「火伏せ」も公開している。



<仁王門>

資料館を出て、いよいよ史跡の中に入ってみる。最初に出会うのが……、

仁王門」、手前右から橋が渡され↓
その先にさっきの「不動堂」

さっき行った、龍宝寺「不動堂」には移転については書かれてなかったが、「仁王門」については、「当初どの場所にあったのかわかりません」と案内版に書かれてあった。
南北朝〜室町期に作成と推定される『絹本著色恵日寺絵図』によれば、だいたいこの辺りでいいのかな〜と(^^ゞ。

ただ建物は「江戸後期の建立」と言うから、会津松平藩の時代だろう。
通路の土間に平らな石を据え、安置される仁王像は江戸中期の作。

明治5年(1872)に薬師堂と鐘楼が焼失し、この仁王門のみ難をまぬがれ、ここに来るまでに3回は移築されたが、昭和42年(1967)には、磐梯神社の仮本殿として使われていたそうだ。
この「磐梯神社」も、ここから近いが、時間が無くて行けなかった(^_^;)。

この慧日寺の史跡は、遺構がよく保存されている事が認められ、昭和45年(1970)に国史跡に指定された。

この仁王門も、この時に早速修理が行われた。
その時に柱の足元を切り縮めたため、全体の高さなど当初の状況は明らかでないが、仁王門としては比較的、平面の規模が大きく、木柄が太い独特の特徴を持っている事から、近世の慧日寺を解明する上で、重要な建造物。



<金堂>

慧日寺の史跡は、更に61年(1986)に追加の国指定を受け、現在も調査・研究が続けられている。
広さ約15万uの史跡内には多くの建物礎石が露出し、本寺地区のうち、中門・金堂・講堂・食堂と推定される建物跡は、南北同一軸線上に連なっている。

この内「中門」は建築(再建)中っぽく枠組みが組まれていた(^^ゞ。
『絹本著色恵日寺絵図』では、中門から金堂までの間に「舞台」があったようだが、この絵図がどういう目的で描かれたか不明という事で、発掘結果と照らし合わせ、慎重に考証しているように思える。

金堂」は既に出来上がっており、大勢の人が見学に訪れ、カメラを撮っていた。↓

実はここには資料館の次……つまり二番目に来た(笑)。
この手の拝観は終了時間が早いので(爆)。

慎重で緻密な考証の一方、全く不明で想像に頼らざるを得ない所もあって、例えば屋根。
まずは「寄棟造」か「入母屋造」か(^_^;)。
徳一の出た南都寺院や、会津地方の中世建築に多い事から、「寄棟造」が採用。

葺き材は消去法っぽくて(^^ゞ、発掘で一個も出てない瓦は却下。植物性としても、檜皮(ひわだ)葺は土地的に入手困難と見て却下。
会津に現在も寺社建築に見られるものの、中世の建物はこけら葺・板葺だった事から、茅葺も却下。
というわけで近世以降の地方山間に多く、さらに積雪を考慮して、厚めの杉板を用いた「とち葺」を採用。

積雪を考慮となると、さらに屋根の下を支える「組物」、通常の南都寺院は荘厳に見せるため軒をはり出す(三手先=みてさき)が、雪の重さに耐えうるよう、軒桁が柱の真上に載って柱筋から持出さない「平三斗」を採用し、軒の出を控えた。
また屋根をとめる釘には、風雨に保ちのよい竹が用いられている。

柱には四国産の樹齢200年以上のヒノキが採用され、特徴ある削り痕を持つ「ヤリガンナ」という、柳の葉のような古来の大工用刃物で作業された。

漆は、近世以後の殖産とは言え、何といっても会津であるから(^^)、会津産。

基礎は層状に築成した土層の周囲に切石を立てた低い基壇。

縁や床の再現には、『絹本著色恵日寺絵図』と発掘調査を照らし合わせ、まず縁は絵図にも描かれず、跡も発見されないから無くしている。
床も礎石の高低差や土間叩きが発見されない事、絵図でも、板床張を表したと受け取れる事から、傾斜を防ぐため、板床張が採用。ここもヒノキとヤリガンナが活躍している。

講堂」や「食堂」「多重塔」は「跡」で礎石のみであるらしいが、この他に「薬師堂」と、さらに奥まった所に「徳一廟」「今与供養塔」があって、行ってみたかったのだが、この後、山寺まで急がなければならないので、残念ながら行けなかった(^_^;)。

「薬師堂」は明治5年に焼失。明治32年に再建された。
「徳一廟」には、今はお堂が建てられているようだが、元は五重の石塔が守られており、これは平安期の物と認められるそうで「徳一の墓」と伝えられている。
「今与」は徳一の後を継いだ僧侶で、この人の時代には慧日寺は既に隆盛してたようだ。

現在、この慧日寺(史跡の方)は復興が行われている最中なのだが、かなり広大な敷地だな〜というのが、ここに来て実感した点だった。
だから復興には、寺や地域の力だけでは無理で(^_^;)、半ば国がかりでかかっているようだ(笑)。

最澄が天台宗の比叡山、空海が真言宗の高野山と、それぞれ超ビッグな総本山を開いた事を思えば、徳一に力が入れられて当然なのかもしれないね(^^ゞ。

周囲の家々に見受ける「平」の字→
この隅々に見える「平」の字から、地域としては、「平氏の土地」として受け継がれているんだな〜という感触を得た(^^ゞ。

磐梯町には、そう遅くまで居たわけじゃなかったが、この先の道程がまだまだ遠いので(^_^;)、この辺りで引き上げて、磐越道を郡山まで戻り、東北道をさらに北進。地図D



<「山寺」の麓で一泊>

地図はさらに縮小。殆ど日本列島が出て来るサイズ(爆)。地図E
太平洋がわ近くの青いのが東北道。郡山から村田までガンガン北進して左折、「山形自動車道」に入って、ガンガン西に向かい、山形北JCTで降りる。

東北自動車道。なんか雲が凄くキレイだった(#^.^#)。

地図F←ここで拡大(^^ゞ。左・山形JCT、中央・山形北JCT、右・山寺(立石寺)。
山寺(立石寺)に行く交通機関は、JR「仙山線」の「山寺」駅となる。名の通り、仙台から山形に行く路線(^^ゞ。

鉄道は終点から終点までなので判りやすいのだが、気を付けたいのは車道(^_^;)。
地図G←山寺より東の仙台よりの地図だが、「二口峡谷」から、ちょっと細めながら道路が出てるように見えるが、「ここは車道が繋がってない」。
最初に泊まろうとした二口温泉の宿の人が、実に丁寧に教えてくれたのだ。

……あ、ただ、この地図にある「磐司岩」というのを、ちょっと覚えてて貰えれば(爆)。

で、車だとどう行くかだが、又々縮小、地図H←48号線というのが北を走ってるが、とんでもなく遠距離なので、おとなしく我々と同じく、山形道(高速)で来るのが正解かと(^_^;)。

てわけで、お宿に着いた(^_^A)。全景は翌朝に廻すとして、東北に来たな〜とまず感じさせて貰ったのは……
カワイイこけしサン軍団!(^O^)→
↑そしてお楽しみ(^。^)、夕飯タイム〜☆ミ
大好きな山菜中心メニュー! 特に鮎の塩焼きが超うめがった〜(≧▽≦)!

山寺も山岳信仰が盛んな地ではあるんだが、残念ながら温泉は無い(^^ゞ。この辺りから温泉となると、天童あたりに出るのかな〜と。

←夜じゅう明かりが灯って、闇に煌いていた宿のお仏壇。さすが遠国にまで名に聞こえた山寺、朝にはお参りにお誘い頂けて、ちょっと感激〜!

↓ヘルシーな朝食! ハーブなど作っておられるようだ。

実はここは「東泉坊」と呼ばれる、山寺のお坊さんから始まるお家のようで、お墓の写真も拝見させて頂いたが、初代の埋葬が1532年と、かな〜り古い(・・;)。。

「注進」で始まる額入りの古文書も壁にかけられ、何かの安堵状のように聞いたが、漢文で内容はよく判らないなりに、字面と記された日付から推察するに、こちらは山寺の由緒書きのような感じがした(^^ゞ。

さてさて、今いる場所だが(遅れ馳せながら(^^ゞ)、ここから既に山寺と一体化してるので(笑)、次の項に進んでから説明しよ〜お!(^O^)/



<対面石と対面堂>

地図I
←まずは案内図を(^^ゞ。
字がスゲェ小さいけど、今の所は、この絵でコト足りる(笑)。

一番下が「山寺駅」である。
今ナントここに居る(爆)。
(ちなみに「現在地」チックなシルシのあるのは、この図のあった場所ね(^^ゞ)

先の行程を話してしまうと、駅から歩いて右に曲がり左に曲がって川を渡り、山寺の前の道路手前にある二つのお山……これが「対面石」だが、今回はここまで行ってみる。

この先の、すなわち山寺の境内に入ってからは次回に廻そう(^^ゞ。

というわけで、お宿のペンション「おのや」(パノラマ2枚)

↑このスグ奥が「山寺」駅である(^^ゞ。この「おのや」サンのベランダ↑から前に見えるのが……。
ド〜ン! まんま「山寺」(爆)(パノラマ5枚・180度以上)
もうここから線路に電車が走ってる↑(笑)

拡大・剥き出しの岩肌がカッチョイイ!(≧▽≦)
さらに拡大・危険な所に建物がっ

「あんな所に登るのよっコワ〜イ(≧▽≦)」とか騒ぎながら、宿を出て立合川を渡る。↓

正面が「山寺」(^^)(パノラマ2枚)

↑を渡って振り返る(パノラマ4枚・180度以上)

↑は、立合川だよ〜ん(^O^)
橋の反対側の端の家あたりにあるのが↓

ドーン!「対面石」
↓近くに行ってみると……デカイ!(笑)

山寺もまた、立石寺の創建より古くから山岳修験の霊場であったという説があるが、取り合えずここも、「立石寺」の開山から行こう(^^ゞ。

山寺(立石寺)の開祖は、天台宗・比叡山座主3代・慈覚大師(円仁)と言われている。
慈覚は貞観2年(860)にこの地に訪れた。清和天皇の勅命による。

この860年という時期については、さっき「慧日寺」で言ったのとだいたい同じね(^^ゞ。(2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>内
加えると、福島よりは北っつーのと、慈覚(円仁)は唐に行ったりで忙しかったから、だいたい、そゆのが終わった頃だろう(笑)。

この山寺も又、たび重なる火事で多くの事が判らなくなっているものの、そのもっとも古く元祖的な伝承が、この「対面石」に出て来る「磐司」という人物である。「磐司磐三郎」と伝えられている。
さっき出した地図に、この山寺より二口峡谷に近い場所にあった「磐司岩」も、恐らくこの磐司にまつわる地名だと思われる(^^ゞ。

磐司を蝦夷人とする説があるそうで、ホントにせよ違うにせよ、山寺に先住民がいたという意味では、この地域の先史に繋がる手掛かりと言えそうだが、出自については下にも書こう(^^ゞ。
この慈覚大師と磐司磐三郎が出会ったのが、この「対面石」のある場所だと言うのだ(^^)。

磐司は狩人だった。この山寺を支配していた、いわば……地主である(爆)。
慈覚大師はこの石の上で対面して、仏道を広める根拠地を求め、さらに仏道に叛く殺生をやめるよう説いた。

磐司「いい事言うな〜人殺しは良くないっすよ〜(^^ゞ」
円仁「違う違う、全部の生き物を殺したらダメという事( ̄∧ ̄)」
磐司「えっ。。。(・・;)」
円仁「あと、ここは自然の景観が美しいから、環境保護にも努めてね( ̄∧ ̄)」

「何やって暮そうと俺の勝手じゃねぇか、場所を提供して貰っただけで有り難く思え」
とは磐司は言わず(笑)、むしろ慈覚大師の尊い心に感動し、生業の狩猟をやめて自分から仏道に帰依して、この山寺の基礎づくりに協力した。

つまりは話し合いオンリーで、「国譲り」&「国造り」両方の神話を一気に満たしたのだ!
しかも、この手の話によくある「地元の悪党を法力で退治」「首領はOKしたが配下が逆らったから討伐」という武勇伝も無く、仏教説話によくある「彷徨う霊を成仏させた」といった手柄話も無く、山寺の創建記は非常に平和的だ!

こうして山寺では殺生は無くなった。

次はこれに感謝したシシというのが登場する。彼らは一同そろって慈覚に挨拶に来て、
「自分たち、円仁さま(慈覚)のお蔭で殺されなくなったので、御礼言うですぅ〜(^∧^)」
「こらこら、それは磐司のお蔭なのだから、磐司に言いなさい( ̄∧ ̄)」

てわけで、毎年8月7日の山寺で一番大事な「磐司祭」には、まず地主神である「磐司祠」の前で「しし踊り」が奉納され、次いで慈覚大師を祀る「大師堂」で舞う事となった(^^)。

そしてこれが、8月上旬の前後1ヵ月以内に生まれた人を、「しし座生まれ」と言う初端となったのではなかろうか(-_-)。 ヽ(^^; )<違っ!

「対面石」の裏(前と言うべきか)に建つお堂(パノラマ2枚)

山寺の歴史を開いたこの大石に、左手をあてて願いをこめれば、良いことに対面できるともいわれ、さらにこの「対面石前のお堂」は、慈覚大師と磐司磐三郎の両像を安置し、山寺開山の功績を永く称えるために建立された。
堂前で両尊を参詣すると誓願がかない、ご利益がさずかると伝えられ、絵馬の奉納所ともされている。

山寺には巨石が大変多く、維新以降かなり切り崩されて失ったとは言え、今でも山寺の周囲、歩き回れないほど広範囲に名のある岩が多い。
その中でも、この対面石は山寺一の名石と言うから、発祥伝説に相応しく、またこれより山寺に登る入口にある点も幸先が良さそうだ(笑)。

ところで磐司磐三郎が円仁と出会い、一発でここまで誠心誠意尽くす気になった理由に、「円仁と同じく下野国の出だったから、同郷の誼で」という説もある(^^)。

「磐司は猿の子だった」という話があるそうで、さっきの二口渓谷の「磐司岩」にまつわる伝承の中にも見付けた。
が、磐司の父が「日光の猿麻呂」であったから、転化して「猿」になったのでは、とも言われている(^^ゞ。

「日光の猿麻呂」というのは、福島県と宮城県の県境にある「熱借山」の狩人、「小野猿丸太夫」の事だろう(^^ゞ。
日光の大蛇と赤城の大百足が、土地の領有をめぐって大戦争をした時、この「猿丸大夫」の矢で大百足が倒れた、という伝承がある。(詳しくは「たわごと」2005年4月<中禅寺湖>内を)

磐司が猿麻呂(猿丸大夫)の子であれば、狩人であってもおかしくはない(^^ゞ。
磐司ははじめ、奥州名取郡の渓谷で狩をしていたが、後に山寺の出来たこの辺りに移り住み、やってきた慈覚と土地の状況について談合している内に、互いに下野(栃木県)出身と知れたため、和気藹々となったと言うのだ。

日光や赤城の伝承が出てくる所以はよく判らないが(^^ゞ、元々この日光の伝承は「宇都宮氏」が伝えるもので、宇都宮氏は、いわゆる「毛野族」(上野・下野を古代から支配する一族)から出ている。
この毛野族は、「豊城入彦命」(トヨキノイリヒコ=崇神天皇の第一皇子)を祖としている。

一方の慈覚(円仁)も、立石寺(山寺)で買った「山寺百話」によると豊城入彦命の末裔だと言うのだ。慈覚の「壬生」氏がそう伝えているのかもしれない。
慈覚が下野国壬生出身である事は間違いないから、こうした点が両者の接着要素なのかもしれないね(^^ゞ。

しかし狩人(の家系)だった磐司は、山寺で狩が出来なくなってしまったので、その後はさらに秋田に去ったとも伝えられている。

以上、関連事項は、
2005年4月<中禅寺湖>内
2005年11月<将門神社>
2007年2月<東山温泉の朝>内以降
2007年4月<小野川温泉>
2007年5月<筑波山神社>内
2007年12月<鎌先温泉「最上屋旅館」>内〜<弥治郎「こけし神社」>
2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>内
2008年10月<桜川市、筑波山「薬王院」、2>
   〃   <坂東市「国王神社」>
2009年1月「将門雑記(風と雲と虹と>47〜52話


次回は、福島〜山形編・第二弾。
2日目・山形県「山寺」の続きから、「北畠神社」「山形城」、出切れば「松山温泉」まで行ければー!

<つづく>

2009年01月29日
 
     





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