<2013年・城主のたわごと11月>




2013年4〜6月、桜に始まり、初夏の湖と白鳥まで(^^)。

地元の伝承地「矢の橋」「小森城・手賀城」「本光寺」等♪




     
  毎度、まずは定例コピペから。



去年は震災がらみで東北応援もあって、日常編に戻ると、冒頭に必ず旅行編を毎回宣伝させて貰った。

今年は東北旅行ではなかったので、応援や宣伝の意識からではないが、日常編は文章も少ないし、日常編だけ読まれてもそんなに嬉しくないので(笑)、今年は「旅行編を読んで欲しい(^^)」という思いに改めて変え、去年同様、旅行編の宣伝を行う。

1〜8月までの、2012年・群馬レポ(上下毛編1)をヨロシク(#^.^#)。

〜おしながき〜

「1月のたわご>と」(上下毛編1)
■10月末〜11月初・群馬県〜栃木県
<東北道〜北関東道>
<「太田桐生IC」から「生品神社」へ>



「2月のたわごと」(上下毛編2)
<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>
<新田荘歴史資料館><世良田東照宮>
<得川氏・新田岩松氏塁代の墓>
<「長楽寺」「三仏堂」と蓮池竜宮伝説>
<明王院(新田触不動尊)>
<1泊目・新田の夜〜2日目朝>
<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、1>
「3月のたわごと」(上下毛編3)
<「円福寺・茶臼山古墳」(伝・新田氏累代の墓)、2>
<大光院門前・大河「太平記」と焼そば(爆)>
<大光院><金龍寺><曹源寺(さざえ堂)>
<里見兄弟の墓(阿弥陀堂)><大胡城跡>


「4月のたわごと」(上下毛編4)
<大胡城跡、2(続き)><大胡神社>
<長善寺(大胡太郎の墓)>
<二泊目・赤城温泉に到着、赤城山の夜>
<赤城温泉(^_^A)><3日目・赤城山の朝>
<赤城山頂に向かう>
<地蔵峠・小沼・黒檜岳の神仏譚>
「6(5)月のたわごと」(上下毛編5)
<赤城山頂“大沼・小鳥島”「大洞赤城神社」>
<大沼南岸の観光街と「忠治うどん」(^。^)>
<赤城山頂から中腹(三夜沢)へ>
<赤城山中腹「三夜沢赤城神社」>
<赤城山から上泉へ>
<上泉郷蔵(上泉城跡)と西林寺(上泉秀(信)綱の墓)>
<総社二子山古墳>
<「総社神社」と「宮鍋神社(蒼海城跡)」>
「7(6)月のたわごと」(上下毛編6)
<3日目夜、老神温泉に宿泊>
<4日目、老神温泉の朝(^o^)ノ>
<老神温泉街〜日本ロマンチック街道を西へ>
<「うつぶしの森」(白佐波神社)>
<雲谷寺(新田義宗の墓)>
<「高平の書院」と「酒呑み地蔵」>
<日本ロマンチック街道@高平〜追貝>
<日本ロマンチック街道A栃木県境に向かう>

「8月のたわごと」(上下毛編7)
■11月・群馬県片品村〜栃木県日光市
<120号線、丸沼・菅沼・金精峠><湯ノ湖〜戦場ヶ原>
<赤沼〜中禅寺湖(菖蒲ヶ浜)>
<中禅寺湖・東岸(歌ヶ浜)〜帰路>
 

そして、東北・北関東の旅もヨロシクね!

COOL SHARE「東北・北関東への訪問運動」/「東北・北関東を訪問して復興支援しよう!」by民主党時代の政府&観光庁

pdf版)
各種お得な交通手段
「お得に東北へ行こう!」

リンク貼ったはいいけど、「東北観光博」は自民政権はやらないみたい。「閉幕」になってますた(^_^;)。
なので、「民主党時代の」という言葉を付け足しときました。

で、「旅*東北」なるサイトが後を引き受けてるっぽいけど、バナーがない(^_^;)。。
東北の歴史」というページが史跡巡り向きって事みたい(説明が殆どないけど。。)



■4月・千葉県柏市・松戸市
<三週間桜、B散花@柏市・松戸市>


千葉県の各市の並び方はこちらを(^^ゞ→千葉県地区町村マップMapFanWeb版)

前回、一週目、二週目とやってきた。このたびは三週目(^^ゞ。

今年の桜は本当に咲いている時期が長かった!
前回に遡ると、最初に「満開」と聞いて、桜ウォッチング開始したのが、03/23ごろ。

その時すでに七分咲きは超えていたから、その週を第一週目と数えて、翌週末の03/30になっても、まだ満開状態が続いてて驚愕し、ついに第三週目……すなわち4月に突入した所で今回に引き継いでいる。

前回、最後に出した、六高台さくら通り地図A)の夕桜→

前回も最後に書いた通り、さすがに三週目ともなると、だいぶ花びらが散ってはいるものの、この通り、まだまだ立派に咲き誇っている(*o*)。

今回はこの後、1週間後の「常盤平さくら祭り」をレポするが、この「六高台さくら通り」は、1週間先(この写真の前日)に「桜祭り」を行っていた(^^ゞ。
大きな立体お面を被り、高〜〜い竹馬に乗った、派手な仮装も登場し、ずいぶん賑やかな雰囲気だったが、この通りはどういうわけかコンビニが一軒しか無く、当然ながら店内は大混雑していた(^_^;)。。

僅かに葉が出ながらも、殆どの花びらはシッカリ枝につきつつ……

地面には散った花びらがいっぱい
提灯の上に花枝が揺れ、花びらは坂道を転がる

こんにち「桜」と言えば、このピンク色のソメイヨシノ(染井吉野)を指すが、ソメイヨシノは明治時代に改良され全国に広がった品種といわれ、起源はどの時代まで遡れるのかわからないが、江戸時代の後期ごろにあったゲな記述は見掛ける。

一方、日本で古典的に「桜」とされるのは、この「山桜」の方だ、という話をちょくちょく聞く↓

こちらは、やや開花の遅い白い山桜
葉は初めから出ている

常盤平の桜通りにも、この六高台の桜通りにも、この山桜が混ざって咲いている(^^)。

世界三大美女の一人、小野小町の作とされる「花の色は移りにけりないたずらに我が御世にふる眺めせしまに」の歌が、百人一首にも入ってて有名だが、ネット上でも、そこにいう「桜」はこの「山桜」の事だと説明する記述に出会う。

ただ、「桜」の品種って、実はいっぱいあるような事を、前に桜だけをたくさん載せた図鑑で見た覚えがある。
そのうちの、どの品種が古代に長く謳われた花なのか、検証されたって事なのかな(^^ゞ?

ロッコー酒店前の桜がひと際キレイ
(←拡大↓)

三週目も半ばになってくると……、

代わって枝垂れ桜が盛りとなり
さすがに桜は雌蕊が目立って来る

↑ところ変わって、東船橋に向かう途中の道。
右の写真は前回も、雪の日と咲き染めの頃に出した、「松戸運動公園」の陸上運動場。(地図`a

前回は蕾(つぼみ)の時期で、こんな感じだった(パノラマ4枚180度以上)

一方今回は、散り終わりの頃ですよ〜(パノラマ2枚)

桜の終わりには、葉が出てしまう葉桜と、このようにまだ葉が出ずに、花びらだけが散って雌蕊がいっぱい残る姿とあるが、今年のは後者。

遠目に見ると、これはこれでちょっと見ごたえがあるんだよね(^^ゞ。

近寄って競技場の奥コーナーを写してみる(パノラマ2枚)



<恒例「常盤平さくら祭り」>

さすがに3週目の週末になると、桜は……、

こうだな(^_^;)。「海上自衛隊・下総航空基地」脇の桜並木(地図Bパノラマ4枚180度)

この日は、これより「常盤平さくら祭り」に出掛ける予定で、まずは腹ごしらえに、ここで「ほっともっと」の“花見弁当”を食べた( ^,_^)ф

例年は、お腹すいた状態で祭りに到着し、屋台であれこれ買い食いしては、「今年の旬(^。^)」とレポしたものだが、今年は、これからインフレと消費税増税の推測される年だった。

追加して、冬〜春から保険の見直しを始めた事をキッカケに、なるべく利回りのいいアレにした方がナニという事になって(笑)、このあたりから節約にさらに拍車がかかり、「この祭りだけは\(>o<)/」と、毎年楽しみにしていた屋台の食べ物も、ついに「お預け( ^^) _旦」に決定!(笑)

とは言え、せっかくの桜祭り気分の休日であるから、せめてお外で空を見ながらご飯を食べようという事になり、折よく売り出されていた「花見弁当」を車内で食いながら、散りきった桜をこうして見上げた。

しかるのち……、

常盤平さくら通り」到着(地図C)。ホコテン中(パノラマ5枚180度以上)

今年はこの通り、桜はすっかり散りきってるし、今言った通り、屋台も省略という事で(ちょっとは食べたんだよ(^_^;)、トウモロコシとかカリカリチーズとか)、出ていた屋台で、ちょっと変わった感じのを列挙して終わりにするね。

「韓流レモネード」。ソウルで人気なんだと。屋台じゅうにいっぱい、丸ごとレモンが積んであった。
「揚げピザ」。イタリア国旗の柄の屋台。料理は……ピザごと揚げるのかな(^_^;)。

他に、「スモーク・ターキー」「富士宮やきそば」「ふりふりポテト(色々テーストの粉をふるんだろうね)」「えびせん」「明石焼き」「あんかけタコ焼き」「ルーマニアミンチ」なんてのが写真に残ってる。全部B級なんだろうね、今はやりの。

中でも目を引いたのは、今年はコレかなぁ(^^ゞ。
←「はしまき」と書いてあった。手前のが「たまご」、奥のが「チーズ」とあって、どちらも300円。大阪名物という事だったが……お好み焼きを箸に捲いたものかね(笑)?

お好み焼きは大抵パックに入れて貰えるけど、持つ手と箸で両手がふさがってしまうから、こうして歩きながらだと、手に持って齧れる方がいいって事かなぁ? でも捲いてる箸から、スルッと落としちゃいそうな気もするけどね(^_^;)。

今年もぬいぐるみがいっぱい(^O^)
(拡大)カピバラさん

「カピバラ」さん大好きっ(≧▽≦)。亭主もよくカピバラさんのマネをする!wwww

このあと通り雨が降って、慌てて退散。

帰りに五香で見た二重の虹
同じ場所でこの後の秋にも虹を見た(゚.゚)

五香に虹が出やすいのか、たまたま虹が出た時に2度とも五香を通っただけか……。地図D

虹って指を指しちゃいけないんだってね(^_^;)。
道を行きかう人々で、虹の方を向いて歩いてる人がみんな空を見上げてるのを、対向方面の(虹に背を向けて歩く)人達が不思議そうに見てたんだけど、気付いた人が指で示してた。。



<高柳城跡「善龍寺」、桜の残り咲き(^^)>

高柳付近(地図E
そろそろ田植えの時期だね(^^)

雨は上がって、やがて虹も見えなくなったが、空には重い雲が残り、その合間から見える空の青さと対照的。

桜がわりとよく残ってる(゚.゚)
善龍寺の参道にも僅かに桜が

地図F←善龍寺は、前にも1〜2度レポ出しした事がある(2008年7月<高柳城近辺(柏市)の菜の花と桜>通り、個人的にはこの参道手前の六地蔵さま達にお祈りに来る場所なんだが、地域史的には、高柳城跡の城域に入るか、あるいは隣接地に位置する寺である。

ただし、菩提寺だったかは不明。

高柳城のある高柳村は、1300年代ごろまでは相馬岡田氏の所領である事まちがいなく、1402年に所領の相伝に関する記述が残ると言うが、その後は借金のカタとなって、質に入ったり売却されたりで、相馬岡田氏の所領としては激減していったという(^_^;)。。

確かに鎌倉時代は、早く三代執権・北条泰時ぐらいの頃から、御家人に対して、御家人いがいに土地を渡る事を禁じる法律が頻繁に出た話を聞くから、そうした事例の一つにあたるのだろうか……。
御家人の土地権目当てに、貴族や非御家人などが婚姻を通じて殺到……てな事が多かった一方、御家人自身は財政がひっ迫していったようだもんね(^_^;)。。

城域はここ善龍寺を西端として、その東の国道8号線、さらに東の数社による工場、そのさらに東の森林地帯を全て含む、かなり広い領域にあったと見られている。その北の隣接地に、今は柏南自動車教習所がある。


善龍寺については、今も存続している点、周囲に渡来(わたらい)姓の旧家が何軒かある点から、相馬御厨に拠点を置くべく、伊勢外宮の禰宜・度会(わたらい)氏の子孫が館を構えた跡であろうか、という推測もある。

これはどうも、戦国期に最大の勢力を持った高城氏が、1456年の市河合戦を契機に伸長・掌握するに際し、新松戸(流山線「小金城趾」駅)にある日蓮宗の本土寺地図G)を本拠格とした多くの日蓮宗徒を吸収した事との関連付けのようだ。

確かに武家所領としてではなく、寺社領域としての存続と考えれば、経緯に現実味を感じやすいかなぁ……。

以上、関連事項(のみ、2014/01/28追加)
■常盤平さくら祭り・六高台(六実)・八柱霊園・紙敷〜松飛台・今井の桜
2005年5月・本文
2005年12月<常盤平・桜まつり><桜めぐり(六実・常盤平さくら通り・八柱霊園など>
2006年9月<1日目・花と嵐の(笑)「常盤平さくら祭り」@松戸>
2007年7月<常盤平さくらまつり、1>
2007年8月<常盤平さくらまつり、2><六高台の桜と五香の野馬土手>
2008年7月<六実の桜(松戸市)><八柱〜五香・さくら通り(松戸市)>以降
2009年7月<恒例(笑)桜祭りと夜桜>
2010年8月<「常盤平さくら祭り」と、手賀沼までの桜風景>
2011年11月<六高台さくら通り>以降
2012年8月<常盤平・桜まつり、1>

2012年9月・全文
2012年10月<六高台ハナモモ通り>〜<4月後半、桜から芝桜、鯉のぼりへ(^^)>

2013年10月<三週間桜、@開花(^^)@松戸市>以降

季節は日々温かくなる春爛漫ムード中、ゴールデンウィークへと向かって行った(^^)。

ただウチらは、桜祭りの翌週、保険新加入がらみで医療機関に行った所から、不確定要素が浮上して、亭主がGWにかけて検査入院の運びとなった。
再検査、その結果、精密検査の申し込み、入院、検査、 その結果と、何度も病院に行く傍ら、漢方薬局や整体鍼灸にも通い、他の病院機関も見に行ったりと、あれこれ病院漬けの一ヶ月半ほどを過ごした。

以後は、そんなさなかに撮った写真が続く。



<藤ヶ谷、伝説の合戦場跡「矢の橋」>

まずは、さくら祭りの翌週末、富塚と下総航空基地の間にある藤ヶ谷を何度か通ったら……、

今年も藤ヶ谷の芝桜が綺麗(^^)
ただ、途中に掘り起こした跡が(*o*)↓

翌日、同じ所を通ると……
(拡大)何やら大掛かりな撮影風景が

パッと見ると、現場検証でもしてるように見えるが、よく見ると、撮影機材(おそらく)など沢山持ちこんで、芝桜の所に人もいるから(調査なら入れないよね)、地域の風景取材じゃなかろうか(^^ゞ。地図H

何の撮影かは知らないが、ここの芝桜は毎年すごく綺麗に植えられていて、確かに地域誌などに載せるのに最適な季節の風景なんだよね〜♪
(とか言って、何か事件性があって現場検証だったりして;;;;)

さらに翌日に通ったら、また一層、掘り起こし跡が広がってるような……(^_^;)。。花の植え替えかと思うけどね→
この辺り確かに、この芝桜みたいな目印が欲しい一帯ではある。

というのも、ここは「富塚」とか「藤ヶ谷」とか(「下総基地の隣」とか)呼んでしまうが、富塚は白井市、藤ヶ谷は柏市、そして鎌ヶ谷市の軽井沢の領域もスグ傍に入り組んで来ている一帯なので、一言「芝桜の」と言えば済むのが生活の上でも便利なのだ。

さらに特筆すべきは、この先ちょっと行った所に左折路があって、そこにも土手に沿って芝桜が続けて植えられ、その手前に……↓

(部分拡大)「矢の橋」なるバス停がある→

この後、白井市郷土博物館に行って知ったのだが、これはこの地域の合戦伝承に基づく地名なのだ。
想像がつく通り、かなり血生臭い伝承と言える(^_^;)。。

すなわち、伝説によれば合戦の折の弓矢の交戦によって、矢が積み上げられて橋になるほどだった……というのだ。
こういうスゴイ合戦地名って、川中島とか姉川といった史上に名高い合戦で聞く(血の川とか血草とか)限りだったんで、こんな近くに……と思うと意外!

ところが、この白井市あたりの城跡に関しては、かなり詳しいと思える郷土史関係の本でも載ってない事が多い。
そのため「いつ頃の、誰と誰の、そして伝承の出どころは……」など、全くわからない事だらけである(^_^;)。。

それゆえ、何か看板とか説明版とか立てたくても、今言った以上の事を書きようがない(^_^;)。。

このすぐ近くに「富塚城」の跡地と言われる場所があるにはあるが、これもまた誰の物か、何時頃の城かがわからない(^_^;)。。ただ、この城と関係ある伝説ではあろう。

いつも何の気なしに通る場所だった。
左に道が折れているのも、自衛隊があるので、関係者の利便のためと思ってたし、停留所にある「矢の橋」という地名も、この付近にあるのかと思っていた

が、この下をのぞくと僅かながら水流があるようだし、他にそうした所を示す記述をどこでも見付けないので、どうもここ自体が、その地名であるのかな〜と思えて来た。

つまりこの左折路自体がが「橋跡」という事なのかも。
……ということは、ここで積み上げられる程の矢の嵐が……(((( ;゚Д゚)))gakuburuッス。。

そうした事もあって、目印が必要だと思ったのと、こうして綺麗なお花を植えるのも、慰霊・鎮魂の役割を果たしているのかもしれない。

平安期の頃、武士は霊や妖怪の存在に打ち勝つ力を護持していると信じられて来たというが、今は自衛隊がその役割を果たしているって事……?(^_^;)

もう一つ、「村雨丸」という話があるのだが、この矢橋はほんの1シーン出て来るのみで、ここを含めた、もうちょっと広い範囲に渡った伝説なので、これは又の機会(もうちょっと周辺の写真など整ったら)に譲ろう(^^ゞ。

以上、関連事項(のみ、2014/01/28追加)
■藤ヶ谷「矢の橋」の芝桜
2008年8月<史跡と順路について(@テキトー画像:笑)>
2012年10月<4月後半、桜から芝桜、鯉のぼりへ(^^)>

2013年10月<雪A(松戸市立運動公園〜鎌ヶ谷)>内




<常盤平〜八柱「元禄まつど村」と「21世紀の森と広場」>

←鯉のぼりは高く上がり……
↑藤もいよいよ満開(^^)。

そして、いよいよGWに突入〜!


こちらは常盤平の「南部商店街」と呼ばれる通り(地図I)。 数多い松戸市の街路樹通りの中でも、背の高いケヤキ道の景観が春夏秋冬を通して素晴らしく、緑が萌えはじめるこの時期特にいい。

前回もお届けした「えんじゅ通り」と途中に交差した後、常盤平駅に向かう道になると、坂の下り上りごとに木漏れ日が降り注ぐ(地図J
この日はこの後、隣の八柱方面に向かった(^^)。

到着「元禄まつど村」(横)
(正面)昔風の一軒家

地図Kヤフー
入口の行燈風の電灯看板には「民芸かぼちゃ」と書いてある。
横から見ると、ちょっと昔の芝居小屋風で、よくこういう時代がかった映画村風の建物って、昔の戦闘機物だとかヤクザ映画のポスターが貼ってあるもんだが、貼ってある映画ポスターは、「こち亀」実写版だった(^^ゞ。

……そうだ、こち亀、見に行きたかったかもなー。
ある日、新聞の広告欄を見てた亭主が急に爆笑して、「こち亀の題名が、勝鬨橋を封鎖せよ!って題名らしい!封鎖すればいいじゃん!他廻るからさ!」と言ったんで、二人で笑い転げたんだよね(笑)。

あれだよね。踊る大捜査線だっけな。「レインボーブリッチを封鎖せよ!」だっけ(^_^;)?
そりゃ大掛かりだよね。
ウチあたりで言ったら……手賀大橋を封鎖せよ!とかかなぁ。あ、それ結構渋滞しちゃうかも(・・;)。。

「テルマエ・ロマエ」は四巻ぐらい勢いで買っちゃって、映画は見に行きそびれてる内に、テレビで見たんだけど、こち亀はテレビいつだろう。

バカバナ失礼(笑)。
……で、この「元禄まつど村」は何かと言うと、「民芸かぼちゃ」のサブタイの通り……、

ジャーーン!カボチャの皮で作ったお面展示(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑この陳列ガラスケースは、入口を入って右側にある。

3Dお面まではアリとして、その下に並ぶ首をひねったガチョウとかスッポンかな、そういうのがカボチャとはとても思えないんだけど……そういうカボチャがあったんだろう(^_^;)。。

前にNHKの昼時日本列島だったか……夕方ごろにやる地方版のニュースだったかしら……何しろNHKでやってるのを見た事があって、「あ、いつも通るあそこだ(゚.゚)」と思った覚えがあるから、今や有名なんだろう。

カボチャ創作だけやってるのかと思ってたら……、

陳列ケースのさらに奥庭(ケースに向って左)には民芸品が(パノラマ3枚)

民芸と言うより、昔懐かしい古道具とでもいうかな(^^ゞ。
博物館に並ぶほど古くはなく、まだ「レトロ」ぐらいの域にある昭和ぐらい建物に、こういう今では殆ど使われない道具類を並べて、お客を呼んで見せるという出店は、わりと松戸には多いと思う。

前にレポした所だと、小金原の駄菓子屋「ダイチャン」(地図L(2011年12月<殿内「ダガシヤ・ダイチャン」(駄菓子屋)>がそうだし、つい最近行った所だと、昭和の杜(地図Mヤフー)というのもそんな感じ。

じゃ、こんどは入って左の資料館も見てみよう。

入った。ちょっとした廊下部分の先に展示室がある(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

野球帽カボチャ君の背には、故・小渕元総理とツーショットのご店主殿の写真↑が額入りで飾ってある。

←そのまま、ズズイと左に進むと……↓

工房のような一室に所狭しと展示物がある(パノラマ縦4枚ほぼ180度)

この「元禄まつど村」は、昔でいう千駄堀あたりにあって、千駄堀は、昔は子供(てゆうか私らの世代)がザリガニを釣りに行った沼地であったが、今では沼地ごと「21世紀の森と広場」という大規模な自然公園となってて、大勢の地元客・観光客が来るから、その行き帰りに拠る人も多かろう。

良い天気だから、「21世紀の森と広場」にもちょっと出てみよう(^^ゞ。その南部の芝生広場(地図N)に入った。

ちょうど盛りの藤棚(^^)
八重桜の季節だが藤もいいね(^^)

「21世紀の森と広場」の敷地を説明しようとして、公式サイトを探した所、「現在ありません」状態になっている(>_<)。

というわけで、ざっとした説明で勘弁ね(^^ゞ。

南北に長く、北から、野鳥保護区、湖、東にキャンプ場広場と、広大な芝生広場(光と風の広場)、中央部に田園と沼(みどりの里)と小高い丘陵部(縄文の森)、そして南部に縦長の芝生広場(つどいの広場)がある。

ここはその最南端の縦長芝生広場。
広場の端に、こんな藤棚があって、近くに公衆トイレがある。この日はGWのイベントがあって、ここから見ると横長の敷地いっぱいに、テントが貼られていた↓

藤棚の下から見たテントの屋根(パノラマ4枚180度以上)

右方面にはエンエンと芝生と森が続いている。最南端の突端部だけでこれだけの広さなのだから、全体の広さが知れよう(^_^;)。
これで、普通だと大きな競技場とか、屋外ステージ場などあるものだが、そういうのは一切無くて、エンエン自然の静かな雰囲気が広がるのみなので、いたく人気があって、GWのイベントは楽しみにして来る人も多いのだと、受付の人が教えてくれた。

この日は太極拳をやって過ごせたんだが、実はその前がいろいろ大変だった。。
亭主、鼻炎が悪化してしまい、作って貰った漢方薬の効きが今イチだったので、このあとの検査を案じてたんだが、直前にかかった鍼灸が効いて、思い切り太極拳もでき、体を伸ばしてリラックスしてから入院できた(^_^A)。

検査入院中の夕飯
「アンチーブ(喫茶店)」のランチ

どっかで見たようなメニューだと思ったら……藤心の「アンチーブ(喫茶店)」のランチに似ている。つまりヘルシーという事だね。(右の写真は退院後、久々にアンチーブに行って撮影)

退院後も消化の良い食事を心掛けるよう言われたので、参考に写させて貰った(^^ゞ。
鶏肉が特に消化が良いのだ。メモメモφ(。。)m。<飼い主のつとめ  o▼・ェ・o ▼<ワン

昔よく「病院の食事」と言うと、「不味い」の代名詞だったが(^_^;)、塩分なんてレシピ上では微量の違いなんで、全部一つまみづつ味見させて貰ったら、ダシが効いててなかなか美味かったよ(^。^)v

以上、関連事項は(のみ、2014/01/28追加)
2011年12月<殿内「ダガシヤ・ダイチャン」(駄菓子屋)>
■21世紀の森と広場
2005年3月<松戸21世紀の森と広場>
■常盤平団地・けやき通り・えんじゅ通り
2008年4月<松戸市・「常盤平」駅前「けやき通り」>
2013年10月<雪@(松飛台〜常盤平団地)>内
■藤心「アンチーブ」
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年10月■2007年8月ごろ
2010年12月<藤心「アンチーブ」(喫茶店)>
2011年10月<夕雲・枯木立・雪>内
2011年12月<晩春から初夏にかけて>内
2012年10月<無難に近場で(笑)、まずは藤心>

2013年1月<「権現古墳」と庚申塔(前原公園)>内



■5月・千葉県柏市・白井市・松戸市・鎌ヶ谷市・市川市
<下手賀沼・ツツジ>

GWの休みを繋げて取らせて貰い、連休の初めごろに検査できたので、残りの休みは家で休めたし最後の方はまた手賀沼にも行けた。

たまたま長期連休の初めだったからいいものの、仕事との兼ね合いを考えたら、医療機関はもっと長めに検査後の予後期間(後遺症や安静日数など)を報せた方がいいと思う。

下手賀川沿いコース、晩春の夕暮れ時

左の写真、下手賀川と水田の向こうに林立して見えるのは、千葉ニュータウンです(^^ゞ。

右の写真、前方にだんだん見えて来る橋は、ヤフー地図にだけ名が載ってて、「手賀干拓一の橋」とある(^_^;)。
いつも車の中からしか見ないんで、ちゃんと下りて橋の名を確認すれば、そう書いてあるのかも!

ちなみに、手賀沼→手賀川→下手賀川→下手賀沼の関係は、コの字状。
手賀沼のド真ん中を渡ってるのが「手賀大橋」(地図O)、手賀沼とその東の手賀川の間の橋が「曙橋」(地図P)、手賀川と南の下手賀川が分岐する辺りの橋が「発作橋」(地図Q)、そして下手賀川からこんどは西の下手賀沼に至る所に渡ってるのが、この「手賀干拓一の橋」(地図R)という配置(^^ゞ。

←「手賀干拓一の橋」向こうは下手賀沼
↑「曙橋」近くの手賀沼。白鳥が一羽(^^)

で、今は左の写真「手賀干拓一の橋」を渡って、下手賀沼の南端コースを行くわけだが……。

スゴイ夕陽でしょ(^。^)。
ただ夕陽を写す水辺は沼ではなく水田。

下手賀沼は、道路からはちょっと見えない所にある。距離があると言うよりは、田園地の向こうにあるので、手前の風景に隠れて見えないだけね(^^ゞ。ただ、この道の眺めが、かつての手賀沼……このように埋め立てられる前の、浅瀬の湖面か湿地が拡がってた頃の風景を、ちょっと感じさせるコースで気に入っている。

休みはこうして終わったが、GWの頃から綺麗だったのが……、

つつじ(^^)。今年は特に花のつき具合が凄かった

左の淡いピンク一色も綺麗だけど、右の三色一緒になってるのが全体が大きく……こうなってるんだな(^_^;)→

ズラーーッ!
すごいでしょ?
もっとロングにすると……↓

こんなよ! 柏市「国立がんセンター」(地図S)のツツジ(パノラマ2枚)



<「イラストで知る白井の伝説」と手賀城伝説>

そして、翌週の週末に行ったのが……、
←コレ!「イラストで知る白井の伝説」展。
白井市郷土資料館(白井市文化センター・地図Tの3階)。

まずイラストと伝説のお題目を、上のイラストから順に書く。

・「生食と七次の八幡溜」
・「みたらしの池」
・「ごんべえ稲荷の話」(右上下)
・「村雨丸のはなし」(左)
・「清戸の弁財天と薬王寺」(中央)
・「魔よけの道祖神」(右下)
・「狐火」(左下)
・「切られ庚申」……以上の8点で、イラストと伝承と現地の写真をパネルで展示しているものだった。

先に種を明かすと、これは白井市郷土資料館の受付で買った「白井の伝説と文化財」という冊子に収められているお話(^^)。

ここにあげたお話の他には……φ(。。)m。

・「村雨丸の聖徳太子像」
・「今井の名の由来」
・「粟島神社と若者たち」
・「名内の由来」
・「板ばさみの小森城主」
・「魔除けの道祖神」
・「弐軒茶屋・三軒茶屋」
・「西福寺の子育如来」
・「沢山と鎌倉橋」
・「おかめ石」……以上の10点が見られるが、残念なことに本には展示会に出展されたイラストは入ってない(>_<)。

この展示会については、ツイッターで案内を流してくれた方がいらして、知ったんだけど、白井って所は近いんだけど、さっき「矢の橋」でも述べた通り、歴史については(特に中世については)凄くわからない所なんだな(^_^;)。。

私の知る限り、手持ちの本でも、野田・我孫子・柏・松戸・市川・船橋あたりは、「わからない」と言いながら、まぁまぁ調べをつけた本が出てるが、印西・鎌ヶ谷・白井はホンットにわからない(と言っても、私が知らないだけかもしれないけど(^_^;))。。

柏や松戸、船橋・市川あたりは東京に接して開発されつくしたから、調査もまぁまぁ出来てるが、奥まった地域は自然が残されてるから、というのもあるかもしれない。

なので、この情報を見付けた途端、噛みついて見に行ったんだけど、かなり面白かったと思う(^^ゞ。

実はここには3週間前の4月にも、一度来ていた。
4月ともなると、日暮れは一年の中ではだいぶゆっくりな時期。
まだまだ明るかったので、「昼間、昼間(^^)」と思ってノンビリ来たら……閉館していたんだな(・・;)。。

その時の写真。建物は開いてないので庭園を散歩(パノラマ4枚180度以上)

しかもこの時は「閉館」とは思わず、「展示会なんて、やってたり、やってなかったりするのかもね(^^ゞ」とか悠長な事を言ってたんだな(笑)。←結構こういうおバカな勘違いって、地元民に限ってありがちなんだよな。「自分の住んでるトコは大したことない、行政もテキトーでいい加減」みたいな思いこみがどっかにあるんだろうね(笑)

↑の後ろは↓結婚式場みたいに優雅な雰囲気(パノラマ4枚180度以上)

なにしろ「閉館」とは全く思ってないから、堂々と中に乗りこんで、広い庭園を見ながらゆったり歩いて、「こんなに広くて緑もいっぱいあるのに、誰も来ないなんて勿体無いね。みんな知らないのかなぁ(^^)」とか言い続けていた。
図々しい事この上ない(^^;)。。

……で、展示会に入れた5月のこの日は、もちろん開館中に入ったわけで(当たり前:笑)、イラスト展示を見る前から、イソイソと受付に陳列された郷土史本を眺めて、さっき言った「白井の伝説と文化財」と「しろいの散歩みち」つーのを購入(^^)。

受付のカウンターに何気なく置いてあった笹の葉で編んだバッタ。すごくリアルだった〜(≧▽≦)→

イラスト展示も良かったけど、展示室内の白井市の歴史もすごく興味深かった!
発展していく周囲に比べて、つい最近まで陸の孤島で、戦後も馬を使ってた話などあった。

あと、やはり思った通り、この地域は戦国期には、千葉氏の存在が感じられる。「村雨丸のはなし」や「板ばさみの小森城主」といった、戦国期の合戦に直接関係する、非常に興味深く面白い話がある。

どちらも敵味方の間に立って懊悩するといった少し斬新な内容で、歴史というよりは、どこか江戸期の人情物のような風情が感じられる。

ただ、これが口承され続けて来た「隠れた歴史」なのだとしたら、この平成の時代までに、もっともっと有名になってるべきだろう(^_^;)。

つまりこれらは、後世に土地の都合で創作され、あるいは脚色されている物で、海東氏・相馬氏・高城氏・千葉氏・手賀原氏などの歴史を語っているものではない。

だからこそ、埋もれて流布される事が無い土地伝承なのだが、そう思うと尚更、この土地の「伝説」は貴重で、こうした創作に及んだ、土地の後世の歴史にむしろ強い関心を覚える。

この翌日に、また手賀沼方面に行ったので、、イラスト展示にはなかったが、今回は手賀沼を舞台とする「板ばさみの小森城主」を紹介しよう。

昔、平塚の小森に城があった。小森の殿様は千葉氏の家来で、ある時、沼の向こう岸にある手賀城の攻略を任された。

この小森城は本当にあったらしく、後日それらしき跡に行ったので、次回レポしよう。場所はさっき示した下手賀沼の南側(地図U)に位置する。

←下手賀沼沿いの道をいく。水田を沼に見立て、当時の風情で(^^ゞ。

しかし、小森の殿様は、あれこれ理由をつけては攻めこまずにいた。
と言うのも、敵の手賀の殿様は、実はたいそうかしこく美しいお姫様で、小森の殿様はこの姫に恋をしていたからだった。

人知れず夜の手賀沼へ船を浮かべ来る女城主の姿を小森の岸辺からいつも見守っていた。

今度は逆に下手賀川に戻って
手賀沼方面を見つめてみる

今いる場所は下手賀川沿い、さっきの「手賀干拓一の橋」と「発作橋」の間ぐらいかな〜。
小森城主が下手賀川あたりまで来て、敵地方面を見ると、恐らくまず見えるのが、右の写真、布瀬城や布瀬神社のある突き出た丘(当時は島だろう)が見えるんじゃないかと(^^ゞ。
(2008年12月<兵主八幡神社>および<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>

「あ〜あの島の向こう側に、あの姫のいる手賀城があるんだよな〜」といった雰囲気ね(^^ゞ。

主の命令とは言え、攻めるに攻められず、毎日思案していたが、たびかさなる命令も断わりきれず、援軍がくるという話になって、板ばさみとなった小森城主は、手賀沼に身を投げて自殺してしまった。

最初に見える布瀬の島影(岬)
そして手賀沼に浮かぶ小舟

現地の大将を失った千葉軍は、結局手賀城を攻め落とすことができなかったという。

で、「こんな女城主がいたという記録は当時史料には無い」と結ばれるわけだが(笑)、私はこの話は、何となく栃木の塩原で聞いた、小太郎ヶ淵を思い出す。

塩原の「小太郎ヶ淵」は、親の仇を討ち切れずに自殺した説と、敵の娘との悲恋に悩んで自殺した説があるが、実は白井にも、他に「村雨丸」という親の仇討ちの話もある。

こういう話は、特定の時代に流行ったんじゃないかな〜という感じがしている(^^ゞ。
例えば、江戸期の仇討ち物と心中物(笑)。

これまた現地伝承であるようだが、戦国期には、手賀の軍勢が千葉や原の軍勢を迎え討った、と流布されていたようで、どうもこっちの伝えの方が古いのだろう。
つまり、必ずしも手賀の勢力は親千葉側ではなく、また小森城に近い名内城では、千葉・高城などを巻き込んだ、原氏の内部抗争があり、原氏と手賀原氏(分家)に別れて争い合った、という伝えもあったようだ。

ところが江戸期になると、小森城跡のある平塚と手賀沼一帯は、宗教的な繋がりなどをはじめ、結びつきが深かったので、このような「本当は愛し合っていた」という構成になったのではないか、という推測がされていた(^^ゞ。

諍いがあった歴史を抹殺したりは出来ないけど、死後も墓が引き離されたら、ロミオとジュリエットが可愛そうだから、せめて後世の我々は仲良くしよう、と思って暮らしたわけだね(^^)。



←5月も半ばを越え、バラが咲き始めた
↑我が家のホワイトボード遊び(笑)

何を書いてるかと言うと、上のが亭主の書いた物で、どうもカピバラであるらしい(^_^;)。「カピ留守」→「カルピス(を買って来て)」という意味。
下のタイヤキは私が書いた。親父ギャグを見て弱っている状態(笑)。

この頃、ようやく検査結果が出た。白だった。
まだ充分安心は出来んが、とりあえずホッ( -。-) =3 車は手賀沼へ。

小森城とおぼしき場所に車を進めてみた所、霊園の駐車場に出会った。

自然の中、広々と長閑な風情で、写真を数枚撮ったはずなんだが写ってない(-_-;)。。
ここ1〜2年、ちょくちょくあるんで、デジカメの耐久年数が来てるんだろうか……(ちょっと早いような気が)。。

出入り口付近で撮った一枚のみ→

ただ後になって調べた所、小森城とは違う場所だった(^_^;)。
管理事務所でも問い合わせたんだが、わからないといった感じだった。
かわりに、このお寺の本拠がもっとウチの近くにある事がわかったり(笑)。


手賀川にまた来てみる
土手から見下ろす遥かな千葉NT

高柳城跡の善龍寺にも来てみた
駐車場に咲いてた月見草(^^)

そもそも保険の医療審査過程で引っ掛かったんだから、引っ掛かった時点でアウトだったハズが、保険相談屋に検査結果を持ってったら、別の保険加入にパスした(^^;)。。

後にして思うと、今の所は、最初に薦められた保険の審査内容が厳しめだっただけになるが(笑)、この頃から闘病・介護に関して周囲と話をする機会も増え、突然、日常が激変する体験も多く知った。
今後のHP運営の急な中断なども踏まえ、ブログを始めるキッカケにもなった。



<市川大野「本光寺」(大野城跡)>

実はここにも、4月に1度訪れている。
ちょっと暗い時間だったので、全てをちゃんと写せなかったのと、ちょうど検査入院の手続きとかしてる頃だったので、健康の事をお祈りしたので、後日、結果報告と御礼のお参りに再度訪れた(^^)。

最初に来た時、道路側から写した全体像(パノラマ4枚180度以上)

地図V←「本光寺」。JR武蔵野線「市川大野」駅から徒歩……1〜2分かな。かなり近いよ(^^ゞ。

ここに来たキッカケは……漢方薬局への行き帰り(と思う)、↑このお寺の塀に貼ってある案内板に、「平将門がどうのこうの」という字が見えたから。
ちょっと渋滞ぎみだったんだっけな。夜だったけど車がちょうどその位置で停まって、目に入って来た。

どこをどう通ったのか亭主に聞いたり、地図に探したりしてるうちこのお寺だとわかり、最初は4月に来た。

門から入ると、左に普通のおうちっぽい建物(パノラマ2枚)

←右には「御神木」の楠木が祀られている。2009年に歩道設置のために伐採を余儀なくされ、切株の四分の一を移植した所、一年三ヶ月後、奇跡的に新芽が芽生えたので、「蘇りの木」「子宝の木」と呼ばれるようになったという(^^)。

こっちは5月ね。以後、写真は4月のと5月のを混合しながら提示するね(^^ゞ。

そして真正面やや右方向を見ると……、

檻のような柵囲いがあり……
「きずな之湧水」とある

↑の通り、中に入ると木製ベンチがあって、喫煙所のような感じもあるが、その傍らには……

←手押しポンプ式の井戸!これで水を汲める。検査前に亭主にも飲ませた!

お水ダヨ>( ゚.゚)∀ o▼・ェ・o▼

上に見た楠木から新芽が現れたのも、この井戸水のご利益ではないかと言われてるそうだ。水質検査もクリアして安全(^^)。

この水はお寺の創立以来、650年間、絶える事無く湧いていたそうで、加藤清正が祀られていたのにちなんで、その必勝力にあやかるべく「きずなの湧水」と名付けられた事が記されていた。

清正っていうのも意外なんだけど(^_^;)、ここにも言う通り、本光寺は、650年前の正平16年(1361)、日胤上人が中山から閉居の地として建立したのを始まりとする。

……南北朝時代だね(^^ゞ。

が、寺に謳われる「大野天満宮」の由緒はもっと古く、平将門が天慶元年(938)に、京都の北野天満宮をこの地に勧請したものであると伝えられている。

将門がらみの寺社に多い、龍をあしらった唐破風
この受付風の建物は、貼ってあったポスターによると、「客殿」であるらしい

初めにここを通った時に目を引いたのも、この古い伝説にいう「将門由来」らしき伝承であったが(^^ゞ、実際来てみると、本光寺において、この「天満宮」の存在は小さくないように思える。

というのも、菅原道真の像を描いた掛け軸に、
「抑天満宮者 人王六十一代 朱雀天皇御宇 天慶元年ニ 平親王将門公 皇都天満宮 下総大野ニ移ス 高祖大師御開眼 近郷鎮守祖社 別當光胤山本光寺」
と由来を記したものが残されており、この菅原道真像は日蓮自らが開眼供養を行ったと伝えられて来たからだ。

日蓮……。
一般の人はここで目が点になるかもしれないが(笑)、まず日蓮は、この千葉県の出身である(^_^;)。と言っても、県の南部、安房・小湊の生まれで、緯度は東京よりさらに遠く、静岡ぐらい南だけどね(千葉県いがいと大きいんです)
それと、加藤清正は日蓮宗だったよね。

さらにこの本光寺の隣接地、大野城跡は、鎌倉時代、日蓮有力壇越として、若宮館の富木氏、曽谷館の曽谷氏とともに宗教活動していた大田氏の物であったと見られている。

では、いよいよ「客殿」の(向かって)左奥の境内に進んでみよう(^O^)。

まず最初に見える塔のような建物は、案内図によると「永代供養墓やすらぎ」とある。

大田氏は経済的にかなり有力であったようだが、在地性が薄かったためか、やがて大田氏と関係の深い曽谷氏が進出、寺院を建立していったと見られている。

寺は大野城跡に隣接した位置にあり、平将門の伝承を持つ「天満宮」というのは、この寺の内部にもあるが、寺より僅かに南にある(地図W)ようで、浄光寺地図X)とともに城域にあったと見られ、城山と呼ばれる市立第五中学校地図Y)とは、谷津を挟んで対面する。(地図は全部1/10万に設定してあるから、詳しく見たかったら拡大して見てね)

南北朝期、この曽谷氏が動乱に備えて、要害性の高い城館を築いた事が考えられ、ちょうど南北朝時代の年号(1348年・1361年、北朝)とともに「南無妙法蓮華経」と書かれた板碑が発見されている。

……という事だから、お寺の由緒にいう「日胤上人」の創立というのも、この曽谷氏の信仰(日蓮宗)と関係が深いものと私は考える。

さらに奥に進んでみよう。正面が天満宮、右が本堂(パノラマ縦3枚)

日胤上人は、中山法華経寺の二世・日高上人(太田乗明の子息)の俗甥で、日蓮の教えを広め、信者を強化育成し、立正安国論の聖業に精進されたと言われる。

正平16年(1361)4月28日に中山より当村(御門=みかど)を閑居の地として堂宇を創立、同年5月に中山法華経寺より寺号許可を得、同年(南朝は正平十六年、北朝は慶安元年)11月17日に遷化されたと言われている。

4月に来た時はもう夜で、境内の灯りが綺麗だった(パノラマ縦5枚180度以上)

↑左が天満宮、右が本堂ね。ここに立って後ろを振り返ると……↓

来た参道と永代供養塔と、「御廟所」に続く道が出ている(パノラマ縦5枚180度以上)

御廟というのは、たぶん歴代住職さんのお墓かと(^^ゞ。↑塀に輪違い紋の穴があいてる。

こちらは5月。明るい時間に来た(パノラマ縦5枚180度以上)

同じく反対側(パノラマ縦5枚180度以上)

↑輪違い紋を外(道路)側から見る↓
境内に咲く花

曽谷氏は1456年の市河合戦に敗れて、その名のある三名もが戦死、以後は衰退する。(市河合戦→「千葉県の動乱」<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>

本堂は灯りがともされ、奥に座す仏壇の煌びやかな様相

この本堂には、次の神仏が祀られている。

三世以来御縁故有感応生鬼子母神/合掌鬼子母大善神/安産守護子安鬼子母大善神/子授守護子安鬼子母大善神/金大古久天(金大黒天)/手児奈霊神/疱瘡神/七面大天女/開運大野妙見大菩薩

この市河合戦を契機に、この地域でも勢力の交替が起こった。
曽谷氏にかわって原氏が優勢となり、原光胤が大野郷へ本拠を構えた。

一説に、当寺は山号を光胤山と称するが、原豊前入道光胤の名前から採ったものであり、光胤は一方で豊前坊なる坊を営んでおり、この坊が当時の前身であったとも言われている。

光胤は原胤親の子息で、通称は孫次郎、官途は豊前守、のち入道として豊前入道、法号は荘覚院。
寛正七年(1466)2月7日、吉川(埼玉県吉川市)での戦いで討死といい、また、2月6日に没したとも言われる。

この辺りが、さっき「善龍寺高柳城跡)」でも述べた通り、衰退した曽谷氏などにかわって、後に勢力を張る原氏高城氏などが、日蓮宗徒らを掌握して進出してきた過程と重なっていくのだろう。

やがて大野城は、戦国期には、千葉県北西部最大勢力の高城氏によって支配を受けたものと思われる。

「本堂」に対して、左の「天満宮」のあるお堂は「稲荷堂」とも呼ぶようだ

↑の通りだけど、稲荷堂の神仏は、

本光稲荷大明神/清正公大神祇(加藤清正公)/天満大自在天神(菅原道真公)/源三位頼政和光尊儀(源頼政公)/出世弁財功徳天女

ここを別名「天満宮」と呼ぶ通り、菅原道真を祀るキッカケとして、平将門の名が大きく看板に書かれているものの、将門を祀っているわけではなく、お堂の正面には、このように加藤清正の坐像の写真が貼られていた→

先ほどの天然水と言い、清正を「必勝」の神に見立てるのも、恐らく受験合格に験をもたらす意味合いからだろう(^_^;)。
日蓮自身、生涯を通じ「法華経が一番勝っている」と、「勝ち」を強く意識したように思う。(宗教のことはそんなに詳しくないけど(^_^;))

将門の方は、「平安期の下総に京から菅原道真を勧請」というだけで、名が持ちだされる必然性がわかるが、清正となると、日蓮宗に帰依していたこと以外、ここで祀られる理由はよくわからない(^_^;)。。
ただ清正はよくハンセン病(癩病)患者に信奉されていた話を聞くので、「病に打ち勝つ」の験は響きそうに思う。

文化13年(1816)に第二三世、日理上人が堂宇を再建。

水子供養にも力を入れているのが、表の看板からも伺え、これは「水子供養地蔵」詣りを推奨するものだが、「学業」「合格」「就職」成就の祈願など、全体的に子供の養育に関する祈祷や事業に力を入れるのも、学問の神・菅原道真の天満宮ゆえだろう。

稲荷堂よりさらに奥には……

水子供養地蔵と動物供養之塔が並ぶ
そのさらに先(右折)は墓地

寺では昔は盆踊りが行われた記録もあり、明治になってからは寺子屋も出来た。

明治七年(1874)に、市川市に今も残る二番目に古い、大柏小学校が、当時の名で大台小学校として本光寺に開校され、今は寺の近くにある。

厚労省・千葉県・市川市・松戸市に今も子育て支援の登録をしており、授乳スペースを設け、おむつ交換のできる多目的トイレも備えている。

助け合いを心掛ける子供が育つよう、子供に簡単な手伝いをして貰い、ご褒美に子供みくじをひける活動をしている。
本堂には太陽光パネルが設置されており、お寺の本堂としては全国でも珍しいという。

第三四世 日住上人が昭和42年(1967)に本堂、同46年(1971)に客殿を再建し、現在に至っている。
ざっと巡ったが、他に三重宝塔、馬頭観音塔、交通安全碑などもある。

「供養してね、クゥ〜ン」
お守り一式がスゴイ品数!

お守り類は、全て種類別に並べられ、安産・子供・子宝・学業と、やはり子育て関係が多く、開運・交通安全・健康・福などが並ぶ中、「引越七点セット」というのが特に目を引いた。

玄関用・トイレ用・台所用・リビング用・寝室用・鬼門(裏鬼門)用・仏壇用で7点。
バッチリ整っている!(こんなに部屋がない家はどうしたら……:笑)

以上、関連事項は(のみ、2014/01/28追加)
「千葉県の動乱」vol3<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>以降
■千葉北西部、戦国期の城跡・墓所など
2004年8月:広徳寺、高城氏墓所
2004年9月:徳蔵院、国府台合戦供養祠
2005年10月:増尾城
2005年12月:関宿城
2006年1月:実相寺・宗英寺(足利晴氏墓)
2006年7月:徳蔵院「藤塚稲荷」・国府台天満宮・総寧寺
2006年8月:国府台城・おせし様・龍泉院・弘誓院・箕輪城
2006年12月:師戸城@
2007年1月:師戸城A・臼井城
2007年6月:大谷口(小金)城・根木内城@
2007年7月:根木内城A高柳城
2007年9月:松ヶ崎城・根戸城
2008年11月:龍崖城・常圓寺・芝原(中峠)城・
2008年12月:柳戸砦・高野館・布瀬城
2009年6月:柴崎城・布施城
2009年9月:相模台城・千葉城




<6月の手賀沼サイクリングロード>

週末は夫婦で太極拳をしに出掛ける事が多いんだが、場所が確保できない事もあって、真夏・真冬だとスゴスゴ撤退するしかないが(^_^;)、やはり人が運動する季節ってのは、秋か春であるようで、大抵埋まってるのは秋か春なのだ。

雨さえ降らなきゃ屋外でもいいわけで、公園などでやる事もある。
この日は手賀沼に来たので、サイクリングロードをブラブラ歩いて、湖のよく見える高台を借りた。


地図Zヤフー←この辺かなぁ。ヤフーの方が建物も書いてくれて詳しいが、いつもの曙橋付近から15分ぐらいサイクリングロードを歩くと、ちょっとした高台がある所があって、上から湖を俯瞰できる。
大抵は波も無く穏やかな手賀沼も、大雨などで増水する事もあろうから、所々にこうした高台を築いているのかな。

曙橋から来る途中、手賀沼から引かれた水路(農業用水かと(^^ゞ)に二羽の白鳥が浮かんでいた。
私が立つ位置の先にも水路は続いて見えるが、下には入れないのか白鳥はここで停まってた。

沼が近いので、さぞかし蚊に刺されるだろうと思いきや、まだ真夏じゃないせいか、昼間だったからか全くいなくて、清々しく気持ちよく運動できた(^^)。

東京や神奈川に住んでた時など、どういうのか周囲の目がうるさいと言うか、時折、太極拳をやってるのは中国人だと思う人がいると言いますか、「中国人だと何なわけ(^_^;)?」という気もするんですが(笑)。

そういうとこ、千葉は素朴な人が多いかも。(まぁ腹の中でどう思ってるかはともあれ(^_^;))
海外から来る人もいっぱい住んでるし、青少年も大都会ほどすれてない子が多いと言うかとんでもなく醜い制服(ミニスカ・タータンチェック・リボンタイ)もあまり見掛けないし(^。^)。(児童心理への影響調べた方が良くない? 普通にイラッと来るよ似合わない子多過ぎて)

白鳥もバサバサ羽根を広げてリラックス(^^)。
↑途中の植木にトトロの刈り込みが(笑)。
奥で羽根づくろいする白鳥とセットで、ポワ〜ンとノンビリした雰囲気を醸してくれてた♪

そうこうするうち、ガクアジサイが咲く頃に→
次回分まだチェックしてないんで、写真写りが不安だが(笑)、蛍を見に行ったんだな。このアジサイはその後に咲いてるのを見た(^^)。

以上、6月半ばまでお届けしてきた。
意外と6月まで来れたね(笑)。5月までが関の山かと思ったが……。

ただ、ここんとこ毎度、ギリギリにアップでスイマセン(^_^;)。終わりの所で又ちょっとパソコンが具合悪くなったのと、白井関係の本がどっか行っちゃって、探してる内に遅くなったでつ。。

関連事項リンクはまた後に廻すけど、必要に思える箇所は文中に貼ったんで(^^ゞ。

次回は続けて、6〜9月まで一気に駆け抜け、いよいよ9月の日帰りミニ旅行、「埼玉北部編」に入りたい(^O^)!

以上、関連事項は(のみ、2014/01/28追加)
■古利根川・手賀沼
2008年11月<茨城県取手市「龍頭山・常圓寺」>以降
■手賀沼の史跡
2005年11月<将門神社>
2006年8月<泉「三夜堂」と「おせし様」>(龍泉院・弘誓院・箕輪城跡)
2007年9月<手賀沼周辺散策・古墳と川べりの風景>(松ヶ崎城跡・根戸城跡)
2008年6月<旧村川別荘・我孫子宿本陣>以降(延寿院・子の神古墳)
2008年11月<千葉県我孫子市「将門神社」(湖北)>
2008年12月<「将門神社・龍光院」(沼南)>(兵主八幡・六所神社・柳戸砦跡・高野館跡・布瀬城跡・香取鳥見神社)
2009年6月<「柴崎城跡」の周辺「柴崎神社」(我孫子市)>
2010年8月<旧手賀教会堂>
2010年12月<将門神社(沼南「龍光院」)>
2011年11月<沼南(柏市)「将門神社・龍光院」>

2012年12月<手賀沼南岸・片山(北ノ作古墳群と南蔵院)>

■手賀沼・手賀川・下手賀沼
2006年8月<手賀沼>
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降
2008年4月<柏市・手賀沼>
2008年5月<年末(^^)>
2008年6月<黄砂吹き荒れる手賀沼>以降
2008年7月<逆井の梅花〜手賀沼(柏市)>
2008年8月<お花見続行(^^)>
2008年11月<千葉県我孫子市「手賀沼公園」>以降
2008年12月本文
2009年5月<古利根川・手賀沼・清遊湖>
2009年6月<手賀沼と発作橋(冬の白鳥)>
2009年8月<日頃の風景(手賀沼)から(^^ゞ>
2009年9月<初夏の布瀬と手賀川(^^)>
2009年12月<柏市「手賀沼」「下手賀沼」>
2010年7月<手賀沼と下手賀沼から、富士山・筑波山を>
2010年8月<手賀沼北岸(我孫子市)の桜模様(^^)>以降
2010年12月<梅雨の風情(湖と蛙と紫陽花)>以降
2011年1月<手賀沼の晩春〜初夏>
2011年4月<晩夏〜初秋・手賀沼までの空と雲>
2011年9月<柏市〜白井市、秋の夕暮れ><同じく、夕月・夜雲>および<日没>
2011年10月<クリスマス本番〜年末>以降
2011年12月<晩春から初夏にかけて>
2012年1月<ニョキニョキ歩き雲>以降
2012年7月<ハロウィンの頃まで>内
2012年8月<手賀沼「水の館」と「天然温泉・満天の湯」><真冬の手賀沼><梅の開花がすごく遅かった件>内
2012年9月<八柱霊園の南・手賀沼の南北岸・五香>
2012年10月<南北手賀沼の間「手賀の丘公園」「下手賀川」>以降
2012年12月<木下街道(県道59号・市川印西線)、A印西市編>以降
2013年1月<大島田〜箕輪・「手賀大橋」と「道の駅しょうなん」>内〜<利根川・今井・自衛隊基地>


<つづく>

2013年11月30日
 
     



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