<2015年・城主のたわごと11月>




2015年7月「足利編」第2弾は2日目の午前

「足利学校」と「鑁阿寺」!
\(^O^)/



     
  ご挨拶でも述べたが、長期の風邪にヤラレて(*o*)、時間をとられるうちに秋の多忙期に突入してしまい、あえなく月越えの憂き目!(涙)

前回から「足利編」に入っている(^^)。
今年(2015)7月初旬、一泊二日、前回最後に2日目を迎えた所。

前回の旅行スタートは→(2015年9月<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>以降←2015/11/11後追リンク)
前回は一日目に東京から来て、足利に入った所で夜になり、宿に到着しただけだから、市内観光はこの2日目から。つまり今回から本格スタートとなる。

「足利」という地名から、普通そこに何があると思うだろう?
足利に旅行……それも史跡をメインに旅行するとしたら、どんな所を見て、どんな旅になると想像しますか?(笑)


今回の旅はこの問いそのものがメインテーマだった気がする(笑)。
その事を含めて、すごく有意義な旅行だったと思う。

ところで、前回最後に今回分の見通し(予告)を書いたが、今回は足利市の鑁阿寺の途中までしかお届けできない(^_^;)。。

いつも写真の量をざっと見て、だいたい先の見通しをつけるんだが、今回撮った写真は、不必要分が極点に少なかった。今回レポする足利学校や鑁阿寺には、それだけ撮影箇所に無駄が少なかったんだなぁ……。

というわけで、だいぶ次回に譲ってしまうが、今回もリキ入れて書くから宜しく(^^)。

では、足利ツアーの始まり始まり(^O^)!



<足利の朝から振り返る>

前回、朝を迎えた所から、ちょっとだけ繰り返すね(^^ゞ。

どやっ!まんま夜が明けたがなっ(笑)(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑と、前回ホテルの高層階から足利市の朝の風景を見降ろしたよね(笑)。
(2015年9月<足利市に到着、1泊目夜〜2日目朝♪>内←2015/11/11後追リンク
これより朝ごはんを食べて、いよいよ出発(^^)。

(↑右端拡大↓)スグ近くに足利学校が見える
朝食を食べに食堂へ

朝ご飯はバイキング(^^)。ビジネスホテル風だったけど、朝夕のご飯と温泉浴場付きで、結構くつろいだ気分になれた♪

こたつ亭主の朝食
こたつ城主(私)の朝食

ごっそさん(^nn^)<フキフキ では、いよいよ出発。

ホテルのロビーで知ったんだが、この足利はこのほど日本遺産に決定したそうだ。(2015年4月指定)
おめでとう\(^O^)/!!
実は来るまで、「世界遺産」だと思い込んで、「最近アチコチが認定されてるんだねぇ」なんて言っていた(爆)。 *愚かな奴*

まずは階下の駐車場に降りる。到着した時は夜で暗かったので、改めて朝の外観を写すと……↓(前回も最後に出したけど(^^ゞ)

泊まってたホテルと駐車場(地図パノラマ縦4枚ほぼ180度

ここから←ちょっと通りに出ると……↓

朝の足利市街(^^)(パノラマ4枚180度以上)

ここまでが、新しい写真も交えつつ前回の最後に出した写真・再び編(^_^A)。

さっき部屋からスグ近くに見えた通り、「足利学校」はこれらのビルのちょっと向こうにある。
左手に見えるビルの合間から、いかにも遊歩道っぽい旧参道が伸びている。
ちなみに、「足利学校」の後に行く「鑁阿寺」は、「足利学校」の左ハス向こうにある。

問題は車でいった場合。「足利学校」は車道からもよく見えるので、場所を探すようなことは無いが、入口がちょっとわかりにくいんじゃないかと思う(^_^;)。。
我々は当初、車で入れる入口を探して、この右手の十字路をちょっと↑こう進んだ。



<「足利学校」@、外観〜「入徳門」〜「稲荷社」>

今回これより出す地図は、いつも通りの縮尺サイズだが、歩きが殆どで狭い範囲の移動になるから、左脇のスクロールで、見やすいサイズに切り替えてご覧下さい(^^ゞ。

まず、↑のビルの合間から出ている参道(地図)の写真を出す↓

右が「足利まちなか遊学館」のビル
(中央拡大)奥に山門・手前に石碑

で、我々は右の十字路から、もっと広い車道を車で進んでいった。

町の地下鉄は瓦屋根♪
この歩道橋の向こう左に見えて来ている

この歩道橋を過ぎたら、スグ左手に↓こんな細い路地(地図)が伸びてて、そこから行くようになっている。

←この路地ね。左方向にいく(パノラマ4枚180度以上)

右手に見える今来た道路だが、このまま進むと、足利学校の建物が外から見えはするが、車道から入れる通用門も無いし、駐車場も無い。ためしに右の車道を進んで見て見よう↓

今の路地を少し通り過ぎる
もっと行き過ぎて振り返る

こんな風に土塁に囲まれているのみで、入口は無い。
地図で見ると、この敷地の囲みは土塁と濠から成っているようで、敷地内の今見えてる建物類は、全て平成2年(1990)の復原(再建)で、江戸時代宝暦年間(1751〜63)頃を再現している。

……そうだと思う。子供の頃、足利には来た事があったと思うが、その頃にはこういう建物を見た覚えがない(^^ゞ。

この敷地も史跡ではあったのだが、かつては、地元の小学校(足利市立東小学校)として活用されており、「足利学校」はその隣接地(この後行く)分だけが史跡として保存されていたようだ。

小学校も明治6年(1873)に始まった、市内でも古い歴史を持つ近代教育発祥の場であったが、校庭が狭く、史跡の跡地である点から老朽化への対処も思うに任せず、また、足利学校の方も、訪問客や市民から史跡に相応しい保全を求める声が根強かったため、小学校は昭和57年(1982)に移転し、二つの敷地を合せて「足利学校」とし、改めて整備し直したのである。

で、さっきの路地を左に進んで、突き当り(地図)を左折して細い路地を行くと、やや大きめの通り(地図)に出る↓。その通りを右折して進むと、右手に改めて入口が設けられている↓。

これがやや大きめの通り、この右に→
足利学校」正門「入徳門」(地図

この「入徳門」は、さっき、宿を出る時に見た参道の伸びてきた正面にあったようだ。
我々は車道から入る路地から、敷地の脇に沿って回り込んで来たから、イキナリここに出たけど(^^ゞ。

門の先の敷地は、さっき大きな車道から見た復原建物のあった元小学校の敷地ではなく、その隣(車道からは奥がわ)で、恐らく明治以後も史跡地として残されていた部分。
こちらに建つ建物は、江戸期に幾度となく修理・修繕を施しているものの、全て現存である。

足利学校には、三つの門があって、まず出会うのがこの「入徳門」、次が「学校門」、最後が「杏壇門」。

足利学校は遅くても室町時代には存在が確認できるが、この門の形式は江戸期以降かも(^_^;)。
寛文8年(1668)に堂宇・門・孔子廟を「新築」(あるいは「建立」)という。

門の配置も江戸時代、頻繁に移動したようで、名称も一定してなかったようだ。(門自体、増減があったかもしれない)
隣接の元小学校の跡地が復原にあたり参考とした宝暦年間には「三つの門が落雷による焼失を免れた」とある(1754年)。

門内に入ると正面に「学校門」、手前右に受付
入場券(^^)

拝観料を払うと、この入学証が貰えるノダ(^^)。<今日から足利学校一年生☆
「入学」といっても、足利学校に卒業規定は特に無く、自学自習で、学びたい学問を納得するまで学び終えたら帰ればよかった。10年以上在学する者もいれば、1日だけで卒業する者もいたという。

しかし校則はあって、室町時代に復興した上杉憲実が定めた「学規三条」がそれである。
@足利学校で学ぶべき学問の内容や規則を守らない学生の在校を許さない。
A就学に不熱心な学生の在学を許さない。
B学生は入学に際して僧侶の身分となる。
の三条。

「学びたい学問」を学べばいいのに、「学ぶべき学問」というのが矛盾だが(笑)、足利学校の方針で特筆すべきは、「仏典を講じてはならない」というものだ。
つまり僧侶の身分とならねば入れて貰えないのに、仏教を論じる場でもない、という事になる。

学規三条は、どうも五山文学の影響が色濃いようで、京都五山の「三註」が学規の@にいう「学ぶべき」に相当するんだとか……。
(※三註=胡曽『詠史詩注』・李暹『千字文注』・李翰『蒙求注』を並び称した物だそうだ)

あと、「老荘の学」も教科に含まれ、これは日本の大学で論じられた事がないという。
が、これも五山の僧侶が好んだ学問(最近では、儒教や仏教と区別して、「道教」の範疇に入れる向きも多い)で、儒学とは対照的な内容だったが、儒学とともに講義内容に入れられていたようだ。他に、史記文選も講じられた。

三つの門の中門にあたる「学校門」とその左右(パノラマ4枚180度以上)

左の植木の中には「孔子像
右には先ほどの復原建物類

この足利学校に入ってきた時に、受付(売店)で扱っていた書籍には、論語など孔子関係の物が多かったし、訪れる人も、そうした本をドンドン買っていくのを見て驚いた!

「僕はこれ何冊買ったよ」
と言ってる人もいて、付近の古本屋にも、孔子関連の書籍のポスターなどが多く貼られていたし、「この土地にとって、孔子にまつわる物を見たり買ったりするのは、一種の信仰となりえているんだな〜」という感想を持った。

この件は、後に「釈奠」(せきてん)について書くときにも触れよう。

「孔子像」のさらに隣(「学校門」の手前)には、「稲荷社」の杜がゆかしい↓

「稲荷社」鳥居
境内、参道と社殿

この稲荷社は、足利学校の敷地の中でも、一番古い由緒に属すのではなかろうか。これは案内板からそのまま提示する。↓

正一位霊験稲荷社縁起
この正一位霊験稲荷社は、足利学校第七世庠主玉崗瑞與九華)が書いた天文23年(1554)9月の棟札に、足利学校の鎮守である稲荷大明神が、年代が古く、神体・社殿ともに破損しているので、あらたに神体を造立し、社殿を造営し、八幡大菩薩を合せ祀ったとあるから、稲荷社の創建は天文23年(1554)よりかなり時代がさかのぼると思われる。
江戸時代この稲荷社は、霊験あらたかで足利の町の人々をはじめ近郷近在の人々が信仰し、祭礼におおぜいの人々が参詣した。またこの稲荷社のは、足利の町に異変がおこりそうな時は、前の晩などに危険を知らせて人々を守ったので、人々から大事にされたという。
江戸時代足利学校では毎年11月に、御供小豆飯をわらにのせ、狐の穴に供えていた。この稲荷社が霊験あらたかなので、明和7年(1770)第16世庠主千渓元泉が、もとの稲荷大明神を改め、正一位如意霊験と崇敬し、正一位霊験稲荷社とした。
社殿は天文23年(1554)創建当時のものと思われるが、明和9年(1772)あらたに梅や竜などの彫刻を社殿にとりつけた。
参道にある灯籠は、元文二年(1737)に足利町の石井新五兵衛・亀田市郎兵衛の寄進、水屋の手水鉢は江戸の大井権左衛門の寄進であり、明治42年(1909)図書館のところにあった社殿とともに現在地に移された。
神前には佐野の天明で作られた灯籠がある。
平成11年11月吉日

文中にある「庠主(しょうしゅ)」は、校長のことで、上杉憲実が足利学校を復興した時、鎌倉の五山から来た禅僧・快元が、初代の庠主の座に就いた後を、二世・三世……と数える。

七世玉崗瑞與九華・1500〜1578)と九世閑室元佶三要・1548〜1612)が、足利学校の最盛期という点でも、戦国末期の後北条〜秀吉〜家康の頃という点でも、事績・逸話ともに有名で、特に崇敬を集めてる感じ(^^ゞ。



<「足利学校」A、「学校門」〜「杏壇門・大成殿」>

じゃ、いよいよ中門「学校門」を入りまーす(^O^)

これより中に入ると、これまでも見た、江戸時代の宝暦年間(1751〜63)ごろの復原がされた敷地にも入れる。

江戸時代足利は、徳川とした足利氏発祥の地でもあったことから丁重に扱われ、足利学校の記録を見ても、修繕・修理を繰り返し施されていた。

……と言っても、江戸はすぐ近く。幕藩体制の元、寺社や学問は統制されたから、影響は強く受けた。

修繕費は出して貰えたものの、足利学校の校風でもあった学生への扶助料の援助などは、幕府に嘆願しても得られず、かつてのような闊達な学問の場としては機能しがたかった。
また時代に遅れた学問は振るわず、どちらかと言えば史跡保存のみの場であり、幕府御用っぽい色合いの濃い場ともなっていた。

また徳川幕府に統制される前から、戦国の時勢といった要請もあって、憲実の頃の五山文学(老荘学など)から、特に筮竹軍学(方位占術など)に重きが置かれる風潮にも傾いた。

では、そもそも足利学校とは、どういう場だったのかだが、上杉憲実の目指した方向に五山文学の色合いが濃かった事は既に書いたが、その憲実が「復興した」とされる以上、その前に遡る必要が出て来る(^_^;)。。この後おいおい述べていこうか。

門をくぐると、左右に展開する風景は……↓

左に図書館・中央に杏壇門・右に復原施設と庭園(パノラマ4枚180度以上)

左の図書館は、大正4年(1915)に建てられた。「遺蹟図書館」と呼ぶ。
屋根は和風で入母屋造桟瓦葺、基礎と洋風の外壁はレンガ積みの上に石材や漆喰の仕上げに、洋物の内装を入れた、和洋折衷様式。内装・ポーチの懸魚・蟇股・格天井・飾り瓦(水煙)などに大正期の特徴的な意匠が見られる。
平成6年(1994)、屋根改修および、市指定重要文化財(建造物)。

歴史的な経緯などについては、最後にもう一度振り返る事とする。

中央「杏壇門」に至る手前右には、二本ほど寄贈された植樹があり、その奥に「かなふり松」がある。

植樹の向こうに復原された「方丈」が見えてる
そしてこちらが「かなふり松

「かなふり松」は「字降松(じふりまつ)」とも言う。
先ほども言った、戦国期の七世庠主(校長)玉崗瑞與九華)の頃、廟の前にあった一本の松の枝に、学生が読めない字を紙に書いて結んでおくと、玉崗が仮名や注釈をつけて返してくれたので、そう呼ばれるようになった。やがて町の人々までこの松に教えを受けたという。足利学校の師弟の交流を伝えた、心温まる足利の伝説である。

傍に「質問箱」という案内板が立てられていたが、箱が置いてなかった。
もしかして誰かが質問を投書したので、答を書いてる最中だったのかな(笑)!

そして、いよいよ三つの門の最後「杏壇門」(地図)をくぐる。
同時に、そろそろ足利学校の創立をめぐる諸説と、復興者・上杉憲実(1410〜1466)の話に取りかかろう(^^ゞ。

この「杏壇門」の先に、既にちょっと見えてる「大成殿」は孔子廟で、この日は扉が開いていた↓
以上、三つの門大成殿は江戸期(1668年)の建立。

足利学校の創立者については諸説あり、現地の案内板や受付で求めた書籍、個人的に集め得た情報等から、目に付いた説を歴史の古い人物順に並べるとこうなる。

@国学遺制の説(律令)、室町時代〜近代に流行した説(※)
A小野篁説(平安初期)、室町後期〜江戸時代に流行(※)
B藤姓足利氏説(平安)
C足利義兼説(平安〜鎌倉)、江戸時代〜現在も言われている説(※)
D足利泰氏説(鎌倉)
E足利尊氏説(鎌倉〜南北朝)
F足利基氏説(南北朝〜室町)
G上杉憲実説(室町)、三説にこれが入る(か加わる)場合もある(※)

一般的には(※)←このシルシのついた三説を「主だった説」として並べるものだ。

@国学遺制の説
律令時代、各国ごとの国衙に置かれた教育機関。儒学や医学を教えた。平安後期は衰えたが、この流れを引き継いだとする説。

A小野篁説
平安時代の貴族で、漢詩に秀でた学者でも歌人でもあった。野相公とよばれた。

が、この2説については、室町〜江戸〜近代と、長い期間を通して唱えられた経緯(伝統)を尊重する向きが強いように思える(^_^A)。

一方、現在の研究過程においては、@〜Aを真正面に据えて論じるより、C以降、すなわち源姓足利氏による、いずれかの時代に前身が発起されたと見る考えが主流に思える。

私的には、もう一歩踏み込んで、

T 「G上杉憲実が作った
U「それより前の時代からあった」

↑の「二説」にまとめちゃっていいんじゃないかなー、と思う(^_^;)。

足利学校が史料に現れて来るのは、永享11年(1439)に、上杉憲実が「復興」に乗り出した時からだからだ。


というわけで、足利学校の新旧敷地(江戸期・復原)全体で総合的に活躍する、ゆるキャラ憲実クン」(笑)→

それより前(復興前)については、この永享11年(1439)より後に書かれた記述ばかりで、それだと足利学校は戦国期には、外国にまで知れ渡るたいそう有名な機関だったから(イエズス会の報告で一気に世界にまで飛躍:汗)、後世「その時代の学校と言えば、きっと足利学校だろう(^^)」と後付けしちゃった可能性も否定できない事になる(^_^;)。。

例えば、薩摩の島津元久の子、仲翁守那(総持寺76世・1379〜1445)が、応永元年(1394)に足利学校に入門した、という記録があるらしいが、これが江戸時代の寛保二年(1742)に刊行された書物によるという。

ただ、憲実の死後間も無い、明応年間(1492〜1501)に成立したと考えられる「桂庵和尚家法倭点」という書物に、五山文学僧の岐陽方秀が、「足利学校は唐以前の古い注釈で学ばせているから、新注を用いるべき」と、応永6〜36年(1399〜1424)に述べたとされる意見があるらしい。(足利市教育委員会『足利学校』)

杏壇門に施された華麗な透かし彫り
多くの寄贈者による各種植樹

門の彫りはちょっと異国情緒っぽくて、大河「太平記」や「北条時宗」のオープニングを思い出した(笑)。
さすが何度も修繕されただけあって、古びた様子など殆ど感じられないが、この杏壇門は、明治25年(1872)の大火で焼け、焼け残った部材を用いて5年後に再建されたというから、意匠は図面などにあったのかもしれない。

岐陽方秀は、明に渡り、日本に宋代の儒学研究法、新注を広めた人物。
上杉憲実が足利学校で行った学問も、五山文学の色合いが強いから、こうした意見を加味して整備を行ったのかもしれない。

また、書写年は慶長8年(1603)であるが、元の年紀を「応永30年(1423)」と書く「学校省行堂憲章」という、足利学校の療養室(「省行堂」、今の学校でいう保健室だね(^^ゞ)の使用規則を書いた史料があるそうだ。

よって、少なくても上杉憲実の関わった永享11年(1439)より、僅かだが前の応永30年(1423)には、既に「足利学校」が在った……というような事が、売店で求めた書籍「足利学校」に書いてあった。

つまりTでなく、Uでいいだろう(^_^A)。

大成殿」は孔子廟で、「孔子坐像」「小野篁像」「徳川家康像」の三像を祀る。
孔子坐像の造立は古く、戦国初期の1528年で、儒学は上杉憲実の復興時も重要な教科とされた。

次に、なぜ@国学遺制の説(律令)、A小野篁説(平安初期)というのが長く言われ、時代が新しくなるうちに、C以降の説に移っていったかだが……。

実は@は、今も言った、岐陽方秀上杉憲実が取った説だったらしい。
理由はわからないが、上記を見る限り、「唐時代の古い注釈を使っているから、唐時代の日本(律令の頃)に起源を探る」のは、学者の姿勢として、まず順当な線じゃなかろうか(^_^A)

そしてAは、その上杉憲実の時代の関東の動乱を書き留めた「鎌倉大草紙」にある説で、同書は室町時代の後期に成立した。上杉憲実の事が書いてあるんだから、当然、上杉憲実より後である(^_^;)。

この時代、上杉憲実の存在感は濃いから、足利学校に触れた箇所も、その謂れの詳細を語るより、上杉憲実の事績を記すことに主眼があるのは明らかに思える。

向かって右に「小野篁像
中門「学校門」を振り返る

室町期(戦国初期)の「孔子坐像」に対して、「小野篁像」の方は、盛んに創立者説が言われた江戸期の1746年に造立された。
幕府の儒官・人見活(号・雪江)が、自分も小野氏を本姓とし、の子孫としている事から、足利学校に寄附をした記録が残ってるそうだ(^^ゞ。

「鎌倉大草紙」に「小野篁」と書かれた理由は定かでないが、上杉憲実じしんが、今も言った通り、足利学校の系譜を古代に遡って探ろうとしたことが原因かもね(^_^;)<ありがち(笑)

しかし上杉憲実という人は、足利学校の復興には関与・主導したのだろうが、関東管領職を固辞して諸国修業の旅に出てしまい、足利などにじっくり腰を据えて調査するような晩年を送れたかどうか……(私的にはちょっと考え難い(^_^;))。

まぁ、もしかしたら、足利学校創立時の謎を解明するためもあって諸国を巡っていた……ということも考えられなくはないが(笑)、その後の関東は戦乱の坩堝享徳の大乱)となったまま戦国時代に突入してしまう。
無論その前に都鄙和睦となって、関東公方と管領上杉も和解(1478年)してるんだが、憲実はその前に亡くなっている(^_^;)(1466年)。
(2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内以降
2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降
 
↑2015/11/11後追リンク)

(一度区切るけど、足利学校の創立をめぐる諸説と、復興者・上杉憲実の話は↓以降も続きます)



<「足利学校」B、「南庭・方丈(外観)・裏門」>

隣の敷地に入った。
これより先は、今まで述べて来た通り、元は足利学校だったが、明治〜平成まで東小学校になっていた跡地。

小学校はヨソに移転し、発掘調査なども済ませて、平成2年(1990)の復原(再建)で、江戸時代宝暦年間(1751〜63)頃の「足利学校」を再現してある。

さっき「学校門」から入った時に見た通り、「杏壇門」までの間に、隣の敷地に入れるよう、石畳の通路が伸びているので、ズンズン入って来た(^^)↓

左「方丈」・中央「南庭」・右「杏壇門(パノラマ4枚180度以上)

話、再開。

その後、C〜F源姓足利氏説というのは、C足利義兼説(平安〜鎌倉)を、江戸期の篠崎東海(1687〜1740)が最初に打ち出したそうだ。

C足利義兼説(平安〜鎌倉)、江戸時代〜現在も言われている説(※)
D足利泰氏説(鎌倉)
E足利尊氏説(鎌倉〜南北朝)
F足利基氏説(南北朝〜室町)
G上杉憲実説(室町)、三説にこれが入る(か加わる)場合もある(※)

学問で身をたてる学者がゾロゾロ出た江戸時代の和漢学者だ。世の中が安定し、戦国期に比べれば、落ち着いて研究に没頭できたんじゃないかなぁ。
史料集めもしやすかっただろうし、関係者に事情を訪ねることもできただろう。また前時代から蓄積された研究が進んで、真相に近づきやすかったかもしれない(^_^;)。

何しろ時代が過ぎるごとに、足利学校の創建については、律令制度や平安貴族に求めるよりも、足利氏に焦点が絞られていった感がある。


入ってきてまず目に入る「南庭」(地図
緑の上で二羽のが日向ぼっこ♪

例えば泰氏説は、建長元年(1249)年に何らかの勉強内容を「周易注疏」(儒学書で占術を説く物)と定めるするよう、泰氏が命じた文書があるらしく(鑁阿寺文書)、同じころに北条実時が作った金沢文庫とその持仏堂・称名寺に、足利学校と共通点が伺える事から、泰氏の時代が始まりではないか、と見る説のようだ。

(八幡太郎)
 源義家┬義親−為義(源)┬義朝−頼朝−┬頼家
      |           └義賢(木曽)  └実朝
      ├義国┬義重(新田・山名・里見・大館・得川)
      |   └義康(足利)┬義清……(仁木・細川)
      ├義時……(石川)  └義兼┬義純(畠山)
      └義隆(森・岩槻)       └義氏(足利)┬長氏(吉良・今川)
                                 └泰氏(足利)┬家氏(斯波・最上)
                                          ├義顕(渋川)
                                          ├頼茂(石塔)
                                          ├公深(一色)
                                          └頼氏(足利)−家時┐
 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−┘
 └貞氏┬尊氏@┬義詮A−義満B┬義持C−義量D
      └直義  |           └義教E┬義勝F
            |                 ├義政G−義尚H
            |                 ├義視−義植(義材・義尹)I
            |                 └政知┬茶々丸         ┌義輝L
            |                     └義澄J−−┬義晴K┴義昭N
            └基氏(鎌倉公方)−氏満−満兼┬持氏┬義久  └義維−義栄M
                                 └持仲├春王
                                     ├安王
                                     └成氏(古河公方)

それほど上杉憲実より前の事がわからないのも、ちょっと不思議な感じがしなくないが、実は足利学校って、昔は今の場所に無かったらしい( ̄▽ ̄;)。。
それも、いつまでどこにあったか、いつごろ今の場所になったのか、そういった事が当地では(求めた書籍でも)詳しく触れられてなかった。

勿論、明治に小学校を作った頃には位置はハッキリ示せていただろうし、その小学校をどかして今の整備に至る前に発掘調査もおこなってはいる。
が、出土品は、当然ながらほぼ全てが江戸期以降の物で、中には明治以後の物もあった。

堀の遺構には、江戸期以前と思われる層も見つかったらしいが、隣が鑁阿寺、すなわち足利氏館跡であるから、これまた当然ながらその一部と思われ、「(今ある)足利学校の築年代特定の決定打!」みたいな記述を見るには至らなかった(^_^;)。

庭から見る左「大成殿」・右「方丈」
庭の奥に「上杉憲実公・顕彰碑」

ただ、この足利学校には、最初の門「入徳門」を入った辺りに、大層古びて青錆びた銅製っぽい案内板が、ちょっと奥まった場所に遠慮がちに置かれ、そこには、こう書かれていた。

 足利学校は、古記録や伝承によれば、もと現在地の南東方1キロ弱の国府野にあり、奈良・平安時代に諸国に置かれた国学の遺制であるといわれる。それは昭和51年の調査も概ね裏付けられ、国学の府であれば、父祖が下野守であった参議小野篁の参画もあったであろう。
その後、衰微した学校を貞和年中、関東管領足利基氏が興こし、(後に続きます(^^ゞ)

小野篁の先祖に下野守がいるのか知らないが、これは「鎌倉大草紙」の小野篁創立説を意識した文面と思われるから、だいたい話したんで、もういいよね(^^ゞ。

その後に続く、足利基氏鎌倉公方初代)を創立者とする文面は、何に拠るのかわからないが、色々と候補が上げられる中では、もっとも上杉憲実に近い時代の足利氏族なので、或いはこれはアリかもしれない(^^ゞ。

そして今、注目するのは、それらの前にある、冒頭の文面。
現在地の南東方1キロ弱の国府野」←ここに国学所が在った、と。


さらに外周は庭の裏から築山も見れる(パノラマ3枚ほぼ180度)

……ちなみに、「国府野」とか「国学の府」とか言われると、「国府があったのね(^^ゞ」と思いそうだが、下野国府というと、今は栃木市公園風に再現されてる「国庁跡」(地図)というのがあるから、国府が足利の南東にあったわけではないんじゃないかと思う(^_^;)。。

そこで地図に指を宛てて、だいたい1キロ南東に向けてみると、そこにあるのは「勧農城跡」(地図・岩井山城跡/現・赤城神社)である。
ここにはこのあとに行った(^^ゞ。今回のレポには入りきらなかったので、次回に廻すけど。

実は、足利学校の元あった場所は、その勧農城あたり……とする説があったらしい。(『栃木県の地名』)

そして、そこは上杉氏というより、上杉氏の家宰・長尾氏の一族・足利長尾氏が、古河公方との戦陣の合間に、この足利荘に入って来て最初に構えた城だった。
勧農城跡の案内板には、足利長尾景人が入ったのが1466年とあった。


裏門
これも江戸時代、宝暦年間の物に復原。
間口八尺の薬医門で、屋根が切妻造の茅葺。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀つき。

正門の「学校門」に対し、日常的に使われた門で、位置は「学校門」(中門)あたりで、「方丈」の前にあり、なぜ裏でもないのに「裏門」と呼ばれたかは不明。

発掘によって、砂利敷きの通路が主屋の玄関・脇玄関に伸びていたことがわかった。
足利学校の各門は、位置や名称が江戸時代に何回か変わっている。

そして、(これも現地では確認できない件だったが)勧農城には古くから足利荘の政所が置かれ、荘園の中心的存在だったが、渡良瀬川の近くにあるので、水害を避けて、1504〜21年、同氏(景人の子・景長)が両崖山(足利城跡・地図)に拠点を移したと見られている。(『栃木県の歴史散歩』

そこで、さっきの案内板の少し続きに進んで見ると……、

 その後、衰微した学校を貞和年中、関東管領足利基氏が興こし、(←この後ね(^^ゞ↓)

さらに、永享年中、上杉憲実は、乱世の中にも僧快元を招き、学領を寄進し、書を献じ学規を定めた。そして、応仁元年(1467)大名長尾景人が、学校を現在の地に移建した。(また、後に続きます(^^ゞ)

となり、両崖山に城を移すより前に、学校(の前身なり)を現在の足利学校の位置に移転した事になるのだが……。


(また区切るけど、足利学校の元あった場所と、復興者・上杉憲実の話は↓以降も続きます)



<「足利学校」C、「方丈・庫裡・中庭・北庭」>

では、そろそろ復原された建物(地図)の中に入ろう(^O^)/<ワクワク♪

左「方丈」・中央「玄関」・右「庫裡(パノラマ2枚)

足利学校が、元は足利氏の所轄する政所にあったのであれば、それを現在地に移す過程も気になるねぇ(*´ω`*)。

と言うのも、関東上杉氏が後北条に負けて関東を去って(1546年、河越合戦)以降も、1585年に後北条氏に併呑され、1590年、秀吉の小田原征伐に至るまで、地域支配の中心は足利氏でも上杉氏でもなく、足利長尾氏であるからだ(^^ゞ。

この空気は、足利学校と鑁阿寺だけ見る限りでは感じ取れない
市街中心地の足利学校は上杉氏、鑁阿寺は足利氏の史跡と言えようが(鑁阿寺は足利学校の隣)、これを南北に取り囲む寺や城山に行ってみると、イキナリ長尾氏の時代の痕跡が多くなる

当初、足利は足利学校と鑁阿寺だけ見ればいいや(^^ゞ、という旅行計画を立てたが、亭主の仕事がらみで1日短縮となったため、いっそ足利だけ重点的に見る旅行に切り替えたら、それが返って正解だった、と前回述べた理由がこれである(笑)。
(2015年9月<皇居〜首都高〜東北道〜館林〜足利>内←2015/11/11後追リンク)

←足利学校の模型。
左半分がさっき見た「大成殿」(孔子廟)の敷地で、左に図書館、右上に大成殿。

右半分が今いる復原された敷地で、上部に建物(方丈・庫裡)、下部に今いた「南庭」(池と築山)。周りを土塁と濠が囲み、右に道路。

鑁阿(ばんな)寺は、図の左上・外側に位置する。

勧農城に来た翌年(1467)には、足利学校(の前身である政所)のみ、鑁阿寺の隣の現在地に移したのか、勧農城を両崖山(足利城)に移した時(1504〜21年)か、それとも足利学校も両崖山に移してのち、改めて鑁阿寺近くに移したのか……。

長尾氏の判断か上杉氏の指示か、その後の後北条氏・豊臣氏・徳川氏(および幕藩体制)との関わり故か知らないが、足利長尾氏が入部した経緯は、その上司・山内上杉氏に由来するのは間違いなかろう。

足利学校に関する書籍やここの案内では、イキナリ「永享11年(1439)に上杉憲実が復興」から始まる(^_^;)ゞ。
これは「永享の乱」が勃発した年で、憲実の主君・鎌倉公方4代持氏と、その嫡子・義久が謀叛の罪で自刃に追い込まれた。憲実は追い込んだ側になってしまった。。

それと時を同じくして「復興」といわれても、どういう光景を思い浮かべればいいのかわからない(笑)。
主君父子を死に追いやった直後、「そうだ、学校作っちゃおっ(^O^)」なんて呑気な道楽を始めたわけでもあるまい:笑)


玄関入ると、ぶっとい梁の数本も渡る天井(゚.゚)↓
新潟県「雲洞庵」の上杉憲実像レプリカ→
(現物所有の山浦氏は、山内上杉氏後裔かな?)

博物館・資料館というよりは、やはりお寺や武家屋敷などに近い雰囲気で、展示物への撮影禁止も見なかったので、ちょっとだけ撮らせて頂いた(^^ゞ。

というのも、ゆるキャラの「憲実クン」も助かるけど、どんな人物かイメージしにくかろうと思い……(^_^;)。。
仏典講座を禁止し、儒教に五山文学に老荘学とか書いてきて、さらに武将で関東管領で、永享の乱や結城合戦で戦陣に身を置いたあげく、諸国行脚の旅である。(汗)

先ほど、上杉憲実の顕彰碑が園内の隅にあったが、上杉憲実には、「不忠の士」と酷評された時期もあったようだ。主君・持氏父子を攻め滅ぼしたからだろうが、今では「持氏のさらに上に、将軍義教(6代)という二重に主君がいた事が原因」と擁護する向きも出ている。

ただ酷評する側の感覚には、単に道義性のみ問うのではなく、何かモヤモヤした感情が滞留してそうなるのかな、という感じもする。
それは、もしかしたら、江戸時代の忠義・忠臣・儒学観のイメージとの相違だろうか……。

(江戸期の忠臣って、時代劇だと、よく主君を諌めるのに切腹しちゃうよね(^_^;))

「方丈」の広間←こう進んで来た(パノラマ4枚180度以上)

かくいう私にも、そういう事を論じる自信も能力も無いので、人物評価は個々の感性に委ねるとして、材料提供だけしておこう(^^ゞ。

ちょうど足利に来た事でもあるし、今回は足利荘の辿った経過あたりから憲実の時代ぐらいまでを書いておこう(^_^;)ゞ。
立荘(平安期)だとかは古河で話したから、今回は鎌倉以後編。

(2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内←2015/11/11後追リンク)

足利荘は元々、鎌倉時代には公文所が足利氏の家政機関の一端を担い、南北朝時代は、公文所の寄人として、足利氏の支流・小俣氏が荘園の在地領主に任じられたようだ。

ただ荘域が広大な上、国境や水流に近く、交通・軍事の要所で、経済的にも発展していた。
だから京の幕府鎌倉府も、足利荘に各々が御料所を有し、各々の被官が持つ根本所領などが入り組んでいたらしい(^_^;)。


「方丈」の縁側から改めて見る「南庭(パノラマ3枚ほぼ180度)

それが鎌倉公方4代・持氏までには、憲実の前々管領である犬懸上杉氏憲禅秀)の頃も、そのさらに前の山内上杉憲定の頃も、その代官らしき(前者=長尾忠政、後者=大石氏)が取り仕切るなど、管領上杉氏の被官による管理が定着していた。

だから、やはり関東管領となった山内上杉憲実が、ここを管轄していても何もおかしい事ではない(^。^)v。
……と片づけたい所だが、実は憲実の管領時代、足利荘は幕府の管理下にあった。

その契機は、上杉禅秀の乱(1416〜17年)である。(と思う)
乱後、足利荘には京の幕府による代官が差し遣わされていた。
管領被官・香河元景の名が見えるらしい(当時の幕府管領は細川氏)。

その後は、京都扶持衆を巡って鎌倉府と幕府は(鎌倉4代・持氏はこれを討伐し、4代将軍・義持はこれを保護する)、シッチャカメッチャカに対立を深めた(笑)。 *以前いっぱい書いたから今回はサラッと割愛*
(2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内以降←2015/11/11後追リンク)

深緑の築山と池辺に今度は……
さっきの鴨二羽が仲良く水浴(^^)

その間、京の幕府から足利荘に遣わされた荘官は、鎌倉府および関東の様子を時々刻々と京に伝えていた。φ(。。)m<セッセ、サラサラッ

が、応永30年(1423)、最後の代官・神保慶久は、持氏による京都扶持衆討伐(持氏は相手によっては「禅秀与党退治」とも言っていた)のあまりの苛烈さに孤立無援となり、ついに足利荘を放棄。独断で京に帰ってしまう(^_^;)。

詳しい理由と経過は知らないが、禅秀は幕府と鎌倉府の双方に謀叛認定されたわけだから、その管理地の収公権(平たく言うと、没収した跡地を幕府と鎌倉府の「どっちがせしめるか」)をめぐる対立もあったんですかね(^^ゞ。

あと持氏って、京都扶持衆(は義持のお気に入り達)を壊滅させたについて、表向きは京に対して、あれこれ言い訳してたようなので、神保を京に釈明させようと恫喝した、という見方もあるようだ(笑)。(江田郁夫『室町幕府東国支配の研究』)

端(西)まで行くと「杏壇門」と「大成殿」(孔子廟)が見える(パノラマ3枚ほぼ180度)

やがて、応永35年(1428)、4代将軍・義持が死去する。
義持の嫡子・義量は、義持の生前に5代将軍となったものの、義持より先に死去していたため、事実上、義持が政権を執っていた。

(余談ながら、似たような事情が天皇家にもあって、この時代、公武ともに隠居の父達(天皇家では後小松上皇)が、病弱な息子(天皇家では称光天皇)の代わりに頑張ってしのいでいた(^_^;))


そこに、ついに4代・義持が、「自分が定めても、皆が納得しないのでは意味無いから(´・ω・`)」と、後継者を決めないまま(話し合いで決めろと言って)この世を去った。

鎌倉4代・持氏は、義持の生前には、京都扶持衆を巡ってシッチャカメッチャカしてたのに、この時までに、チャッカリ義持の猶子になっていた(か、その約束をしてたかで、その気になってた)らしい(笑)。


 貞氏┬尊氏@┬義詮A−義満B┬義持C−義量D
    └直義  |           └義教E┬義勝F
          |                 ├義政G−義尚H
          |                 ├義視−義植(義材・義尹)I
          |                 └政知┬茶々丸         ┌義輝L
          |                     └義澄J−−┬義晴K┴義昭N
          └基氏(鎌倉公方)−氏満−満兼┬持氏┬義久  └義維−義栄M
                               └持仲├春王
                                    ├安王
                                    └成氏(古河公方)

広間には漢字テストが用意(笑)
こちらはナント徳川歴代将軍の位牌

↑「漢字テスト」用紙には、子鴨を連れた「憲実クン」がポテポテ可愛く歩く絵がプリントされ、ちゃんと机と鉛筆も用意されて、「学校だよ(^^)」という風情を醸していた(笑)。

右の位牌は、最初「庠主か足利氏の歴代(゚.゚)?」と思ったが、ナント徳川将軍のだそうだ!
足利学校は、歴代将軍の位牌の礼拝を承っていた。
これには、さっきの「かなふり松」の7世・玉崗(九華)と並んで、足利学校の中興として名高い9世・閑室元信三要)が、特に家康の信任厚かった事が大きいと言う。詳しくは後に廻す。

並ぶ位牌は、右からB家光・C家綱・D綱吉・E家宣・F家継・G吉宗・H家重・I家治・J家斉、一番左が「桂昌院」(D綱吉の生母)。
AKLMが無いのは、明治維新の頃の動乱で紛失したと思われる。

一番左の「桂昌院」だが、足利は江戸期、どうも天領だったのかな? それを「桂昌院」の身内のために立藩され、足利藩が出来た……というような事をwikiで読んだ(^^ゞ。

縁側をグルッと廻って来て「北庭園」に出る(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑「北庭園」も、南庭園と同じく築山泉水庭湧き水池。四つの築山(高い物で水面3m)で池を囲み、亀の形の中島弁天をまつる石祠がある。かつては鑁阿寺の森、両崖山の峰が築山越しの借景として観賞されたと思われる。
発掘調査の結果、南庭園より古く、三回の改修と四期の変遷を経ている事がわかった。

しかし後を任された京の管領(当時は斯波氏)以下は、持氏を排除して、義持の弟らの名を籤に書き、これをひいて、6代義教の後継が決定された。
(義教は跡継ぎではないから、僧侶となって義円と名乗っていたのを、還俗して義宣と一度名乗り、後に義教と改名して歴史に名を残す)

この「くじ引き」に、名前さえ書いて貰えなかった鎌倉の持氏は、「超ムカつく!\(>o<)/」と怒り狂い、京の足利義教を「ぶっ殺す!ヽ(`Д´)ノ」と上洛戦の準備を開始した(汗)。


この時まで「僕まだ子供(^^)」と、表舞台に出た事なかった上杉憲実、この一件への関与が、関東管領としての鮮烈な初舞台を飾った時である。19歳だった。(ちなみに憲実の管領職務の始まりは、このさらに4年前)

憲実は「御所様!南朝の新田が攻めて来ますぅ!\(>o<)/」とか超大ウソこいて、持氏の出兵を引きとめることに大成功♪

←渡り廊下の右にある中庭(左は北庭園)。懐かしい風情(^^)。

でも、そういうその場しのぎの嘘って、後で却って厄介な事態になるのよ(-_-;)。。

案の定、持氏が「京の改元には従わない!」という行動に出たのは、まさにこの時から。

義教に代替わりして初の改元だから、これはつまり、「義教なんか将軍とは認めないよー!」という意思表示なのだ。(汗)

翌年(1429)になっても、翌々年(1430)になっても、持氏はシャアシャアと「正長」(前の年号、実際は「永享」)を使い続けるわ、憲実は憲実で、せっせと将軍就任祝いの付け届けだとか、年号を用いない謝罪だとかの使者を遣わして 二人とも自由ノビノビと振る舞って いた(笑)。

京の人たちは憲実の度重なる謝罪攻勢に感動(つД`;)。。
将軍・義教にも「許してあげはったらどないどす?」と取り持ってくれたのではなかろうか。

こんな事を3年以上も続けたあげく、それまで鎌倉からの使者に対面しなかった義教が、斯波氏やら大名たちの説得に押し倒される格好で(^д^)ノ☆(/゜凵K)/、渋々対面を果たすと、京じゅうがこれを喜び\(^O^)/、親王までが日記に天下の無事を書き記したφ(。。)m。。


←庭から来た↑奥は書院、ここは庫裡(パノラマ2枚)

ここから後ろを振り返ると、もう玄関に戻る。一巡したわけ(^^ゞ。

永享4年(1432)から、持氏はやっと「永享」年号を使用開始。(^_^A)←憲実クン
憲実はその実行に先駆け、お詫びのシルシとして、幕府に所領の返還を申し出る。
つまり、持氏は幕府の所領を「
押領」してたんだねっ!⊂(`・ω・´)⊃<トオセンボ

その中に、ここ
足利が入っていたと( ̄▽ ̄;)。。(田辺久子『上杉憲実』)
足利は、京と鎌倉の双府にとって発祥の地であり、平安期に先祖が立荘した地であり、名字の地であり、先祖代々の墳墓の地でもある。

本来なら鎌倉府は、開幕当時、南朝勢力(主に新田氏)から守護すべく、幕府に配置されたハズなんだが、ミイラ盗りがミイラを地でやっちゃったんだね。゚(゚^Д^゚)゚。


ちょっとお話し中断して、足利学校の各施設の案内もしていくね(^^)。
まずこの庫裡では、展示コーナーが設けられていた。

禁止されてはいなかったが、展示品をバシャバシャ撮るのもアレな気がして(^_^;)、撮った物も全部は載せないが、一つだけ、この足利学校に今も続く儀式だけご紹介したい。

儀式名は「釈奠」。
江戸時代、1668年に建立された大成殿(孔子廟)で、孔子を祀る儀式が行われた。大正期に復興し、今に継続されている。

←儀式で御供えを盛った器類。上部左2点は山海の幸を、右2点は穀物、下部左は酒を飲む食器、中央2点は酒を、右は肉と魚を各々お供えした。

あ、そうだ。念のため言っておくと、足利学校の展示物はレプリカだらけである。現物は大事にしまってあるんだと思う。それであまり撮影制限を見ないのかも(^^ゞ。(↑これもたぶんそう)

なお、「釈奠」(せきてん)は、孔子の他、その高弟の顔子・曽子・子思子・孟子も祀る。

先ほど、学校門付近の孔子像の所で、孔子への祀りが土地の信仰なりえている事を書いた。

前回の最後、ホテルの温泉で居合わせた中国の方が、「ここに何度も来ています」と、感慨をこめるように言われていたのも、孔子廟とこうした祀りに理由があるのかな〜と思った。

(復興者・上杉憲実の話は↓次項で終わります(^^ゞ)



<「足利学校」D、「宥座之器・衆寮・木小屋・庠主墓所・遺蹟図書館」>

入って来た玄関から外に出ると、今度は「宥座之器(ゆうざのき)」が待っていた(^O^)↓
これは傍らの立て看板で実演を勧めているので、早速やってみた♪

平素は傾いているが
水を掬って入れると
だんだん上向いてくる

これは群馬県館林市在住の名工・針生清司さんが、2012年に足利学校の「欹器図(ききず)」(寛政3年(1791)紙本墨刷)を参考に制作・寄贈されたという。
(室内、大広間の西端にも同じ細工の物があった)

しかし重ねて入れ続けると
ひっくり返ってしまう
実演中の憲実クン(笑)

これは孔子が説いた「中庸」を教えるため用いられた。
水が水平を保っている状態が「中庸」すなわちベストであり、水量が不足でも傾き、多過ぎてもやはり傾いて、せっかく盛った水もこぼれてしまう。
食事に例えれば、不足も過食も体を損ねるから、腹八分目が理想という事。

孔子はこの欹器(斜めに立つ器)に、の国の桓公廟で出会い、役人に「座右の戒めをなす器」と聞いて、「宥坐の器」の原理に聞いた通りだと解説し、慢心や無理を戒めたという。
この画題を、北越の内藤北涯が摸刻し、文学者として活躍した幕臣・太田南畝(1749〜1823)記した作品が残されているそうだ。

この「宥座之器」を、憲実クンがやってみてる絵が印象的というか、その生涯(と主君・持氏の最期)を重ね合わせると、象徴的というか……(^_^;)。。
足利学校にある「欹器図」の紙本墨刷は江戸期の物らしいけど、孔子の教えは古くからあるから、似たような物を作って実演した事があったかもね(笑)。 *持氏の前で?(爆)

庫裡を出て左手、隅のコーナーには→……(パノラマ3枚ほぼ180度)

「衆寮」「木小屋」(上の写真だと右奥の黒っぽい建物)などが復原されている。
まず庫裡の前に休憩ベンチのある藤棚があり、その脇に↓

衆寮」が建つ(パノラマ2枚)

遠くから通う学生が写本をするために泊まった僧房(学生寮)。
屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張。六畳間に一間の土間つきの1部屋が4部屋続いて長屋となっていた。中にも入れる↓

発掘調査では、多数の灯明皿が出土し、学生たちが夜も自室にこもって学問に励んだことがわかる。

足利学校で特筆すべきは、学費を学生から取っていた記録が無く、むしろ学校が食事や宿舎の提供をしていた記録がある点。

江戸期に入ってからも、歴代の庠主(校長)がこの制度の維持を幕府に嘆願したものの叶えられず、修繕だけは手厚く施された結果、今に復原された宝暦年間の姿を見るに至る。

学校内の庭園などは、古図に描かれた植木の絵を参考に復原されているそうだが、その周囲の隅にも、「サエンバ」と書かれた案内板があって、「菜園場」の事をそう呼んだらしい。

「日々の食膳に必要な材料となる大根、ごぼうその他の野菜、栗や柿など果樹、茶や薬草を栽培し、ときには花なども楽しんだと思われます」
「学問に励むことは無論のこと、清掃、洗濯、野菜作りや料理など日常生活の全てが修業でした」と書かれていた。

そして、「木小屋」は物置ね(^^ゞ。
屋根は寄棟造の茅葺、外壁は上が土壁の中塗仕上、下が板壁。床は三和土(たたき)の土間 。
薪や鋤・鍬・鎌などの農具、収穫した雑穀、漬物・味噌などの樽、修繕用の板材や大工道具など、日常道具や食糧の備蓄に使われたと考えられる。↓

木小屋」正面(背後は蔵っぽい)
木小屋と庫裡の間から「衆寮」を振り返る

上杉憲実の話を再開(^_^A)。憲実が足利荘を幕府に返還したトコだったね。。

返還と言っても、そもそも足利荘は鎌倉府の管轄にあり、全域でないまでも管理権も有していた。
これが鎌倉府による「押領」という認識になるのは、さっきも言った通り、どうも禅秀の乱(1416〜17)が契機であるらしい。

京都扶持衆を討伐した件がウヤムヤに出来た点で、鎌倉府に有利な結果となったわけだが、まぁ鎌倉府の拡大路線は持氏の前からの傾向だし、そもそも京都扶持衆というのも、どう探しても上杉禅秀の乱の後にしか見たことない(^_^;)。

だから小栗や山入の滅亡を除けば、全般的に「禅秀の乱の前に戻っただけ」という感じがするんだが(^_^;)、ただ一点だけ、上杉憲実の管領就任当初、足利には幕府の代官が派遣されてたんだから、ここに足利学校を再興させるほど、憲実の主導が発揮できるようになったのは、この時の幕府への返還がキッカケなんだろうね(^^ゞ。


←左が今の蔵と「木小屋」、↓「北庭園」の裏側を歩く(パノラマ4枚180度以上)

以上が、足利荘をめぐる将軍義教と鎌倉公方持氏の軋轢、そして両者の間に入って和をはかる上杉憲実の話で、結局こうした対立を防ぎきれず、永享の乱が起き、持氏は滅んでしまう。
(2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内以降←2015/11/11後追リンク)

憲実への義教&幕府の信頼は絶大だったから、足利学校の管理をむしろ任された事もありうるし、持氏の死後、おもむろに足利学校の整備を主導したのも、「それまでは憲実が持氏の感情を重んじて、手をつけなかった」と見る事もできる。

逆に、身の危険を感じて、貴重な書籍を足利学校に寄進するなど(復興というより)身辺整理をしていた、という見方もある。
憲実は持氏討伐に煮え切らず、持氏の死後、安王丸・春王丸(持氏の遺児)討伐もしたがらず、義教はしびれを切らして、先祖の勲功を取り上げると恫喝していたし、持氏の最後の書状にも、憲実の背反が自分の末路を招いた原因と述べられ、両方から攻め滅ぼされる危険性があった。

さっき見た北庭園(拡大)→
この庭園の裏側を今歩いてる。

この東部敷地の東部堀跡には、発掘調査により、江戸以前の土層が発見された。
この北西に隣接する足利氏館跡(現・鑁阿寺)の遺構の可能性が考えられるという。

憲実は、個人としては儒教意識に高く、主君の持氏に刃を向ける事に対して、事前には強い抵抗感を、事後には深い罪悪感を持った点、間違いなく忠臣なのである。
が、京と鎌倉の和を重んじる余り、主君持氏の行動とは真逆な、将軍義教への忠誠行動を展開したり、持氏を牽制すべく、その進軍を軍勢をもって阻止するなど、その裁量手段に自由度が高く、どうも江戸期の忠臣観からは遠ざかる印象がある(笑)。

その原因として、この足利に来て感じたのは、上杉の軍事力の大きさである。
憲実が隠遁して諸国行脚に出た後の、享徳の乱においても、古河公方の勢力の中に食い込むような形で、足利荘上杉氏の勢力の及ぶ地として登場することとなる。

受付建物で上演された足利学校の案内ビデオでも、上杉氏は抜きんでた勢力を持ち、関東じゅうの半分に相当する軍事力を保持していた、と解説されていた。

(2013年6月<「うつぶしの森」(白佐波神社)>内以降←2015/10/09リンク)

これが江戸期以降の忠臣観に相違する、一番大きな要因ではなかろうか。
そしてその力の源泉が、憲実の生れ故郷・越後にある。後年の豊臣秀吉は、上杉景勝を越後から引き離し、会津に封じている。


北西隣接地に鑁阿寺がある
鑁阿寺の外濠
↑鑁阿寺は元・足利氏館跡であったので、足利学校の堀に見られる江戸以前の層は、この足利氏館跡の外濠(の延長部分?)の可能性が強そうだ。

さきほど、途中まで出した説明版の続きを提示しよう。

そして、応仁元年(1467)大名長尾景人が、学校を現在の地に移建した。(←この後ね(^^ゞ↓)

漢学・儒学・経学・易学・占卜・医学・兵学などが講ぜられ、再興世代の庠主(校長)九華のころは、学徒三千人といわれ、フランシスコ・ザビエルは、『日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学』といい、『四方より攻学の徒雲集す』と、耶蘇会に報告している。
江戸時代にも、学燈は受けつがれ、刀剣などもうたれ、文人、学者の来訪はしげく、古書、珍籍の秘庫として、遠く、中国にもしられた。
現在、入徳門、中門(学校門)、杏壇門聖廟、などがのこり、字降松歴代庠主の墓石もあるが、明治初年までは東小学校の敷地に書院、御祈祷殿、寮舎、文庫、倉庫、庭園、裏門があり、東西約135、南北約120メートルの長方形状に土塁をもって全体を囲繞していた。いま足利学校遺蹟図書館には、宋刊本『文選』・『尚書正義」など、国宝、重要文化財指定の書籍をはじめ、和漢の書1万3千余冊を蔵し、毎年晩秋の一日、儒祖孔子を祭る釈奠の儀式が行われている。

上杉憲実は、享徳の乱の最中の1466年、長門国の大寧寺で亡くなった。
その翌年(1467)、京でも応仁の乱が起こったため、京とその周辺は戦乱による疲弊で大荒廃し、貴族らは居場所を求めて畿内を離れ、地方大名を頼るなどした。

京にとっては不幸だった反面、貴族らの身を寄せた地方では、彼らを取り巻く文化の残り香が後世にまで影響した。
坂東の足利学校にも実に全国から多くの学徒が集った。隆盛を極めた一要素に、こうした影響はあろう。
(2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内←2015/11/11後追リンク)

歴代庠主の墓
足利学校代官・茂木家の墓

↑庠主の墓(無縫塔)は17基あり、9基は判読不能だが、残り8基は、14・15・16・17・18・19・21・22代庠主の墓だそうだ。
庠主は、明治2年に足利学校が藩校になるまで、約430年間で23代続いた。

戦国期の足利学校は、時代の要請に沿って、占筮・兵学・医学が盛んになった。
1549年に来日したザビエルも、その14年後に訪れたフロイスも、足利学校を日本有数の大学機関と認め、キリスト教伝道における最大のライバルであるかの如く報告している(笑)。

『甲陽軍鑑』では武田信玄が、家臣・長坂長閑に「徳ごん」なる占筮師を推挙されて、「占いは足利にて伝授か」と問い、足利学校の出身でない事が判明すると、徳ごんを退け、長坂長閑を厳しくたしなめたという。

足利学校は、九世の庠主・閑室元佶三要・1548〜1612)の頃が最盛期だったが、小田原征伐(1590年)以後は、北条氏足利氏の滅亡により保護者を失い、豊臣秀次に宝物や書籍を召し上げられ、上洛させられた。
1595年に秀次が高野山で自刃すると、閑室元佶は1597年から徳川家康に従い、その側近として重んじられ、寺社政策なども任された。関ヶ原合戦では陣中でを立てたという。

しかし儒教は、藤原惺窩林羅山の江戸朱子学が幕府公認となってゆき、足利学校は、日本最古の学校として幕府に保障されたものの、内実は名所旧跡の保護に落ち着くのみとなった。

庠主(校長)も幕府による任命制となり、寺社奉行の支配下に置かれて、学問や組織運営は、幕府の文教政策の下で制限を受けた。
幕府の宗教政策は、寺院での仏教学以外の研究や学習は認めず、足利学校の五山文学的な特色、特に禅僧による学問や、私立大学的な中世学問の性格は大きく後退した。

先ほども出したけど、大正4年(1915)に建てられた「遺蹟図書館」→

1868年、足利藩主・戸田忠行は官軍に恭順の意を示すと、足利学校の復興を願い出た。藩校を学校内に置き、役員をまわして蔵書の寄進を行った。
が、1871年の廃藩置県で戸田の藩知事は廃され、足利学校は廃止。1873年には敷地の半分が小学校となり、藩校も校舎に転用、書庫の蔵書は役場に移して放置された。

蔵書の返還は1876年に実現。足利藩士・田崎草雲らの運動があったと言い伝えられる。
以後、地元の有志の募金活動などにより、残された聖廟(孔子廟)や門の修繕が行われ、1915年、ようやくこの遺蹟図書館が出来た。明治以後、廃止されていた釈奠も、この期に毎年継続的に復興されるようになった。

1921年には史跡の指定を受け、戦後は、1965年、文化財愛護モデル地区に、関東では鎌倉市とともに第一回の指定を受ける。
1982年、敷地の半分を占めていた小学校が移転したのを機に、保存整備事業の発掘調査が行われ、1985年から外構工事、1988年からは復原建物に着工、1990年に復原の全てが完了した。

以上、関連事項は(2015/11/11後追リンク)
2008年7月「千葉県の動乱」vol2
2013年6月<「うつぶしの森」(白佐波神社)>内以降
2014年1月<加須市「龍興寺」(持氏・春王丸・安王丸の墓)>内以降
2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内以降
2015年5月<古河総合公園@「古河公方館(鴻巣館)跡」まで>内以降
2015年9月<虎ノ門「光明寺・明和大火の供養墓」>以降




<門前通り>

次は鑁阿寺に行くのだが、実は足利学校に入る前に、鑁阿寺に向かう方角に行ってしまった(^^ゞ。
最初は足利学校の入口を車道から探したので、入れないまま足利学校の北辺まで行ってしまい、続けて鑁阿寺の東の通りを抜けて、寺の北の通りまで行ってしまったのだ。

その結果、徒歩でなら入れそうな路を見つけたので、車は改めて宿に停めさせてもらい、歩いて両方を見学した。
足利学校から鑁阿寺に向かうのも、途中を繋ぐ門前通りをそぞろ歩きした。

そんなわけで、ここでは門前通りの風景を紹介するが、車で来る人の場合、入口探し同様、駐車場の確保も課題に思えた。

正面に鑁阿寺がある
後でお昼を食べた蕎麦屋さん

地図←鑁阿寺の南、足利学校の南西にポイントしている。
L字状にこの門前通りが展開され、鎌倉や日光のような和風&レトロな建物群が、渋谷や原宿の路地街っぽいお洒落な営業スタイルで、足利の観光ムードを盛り上げている。

私らは鑁阿寺見学の後で、宿に車を取りに行き、改めて「太平記館」(地図)に駐車した。
そこで昼食を取ろうとしたからなんだが、そこには昼食は無くて(^^ゞ、でも駐車場が広く、確か一定の時間までは無料だったので、そこに停めさせて貰って、ここまで再び歩いて昼食を食べに来た。(次回レポになるけど(^^ゞ)

多分この辺りの観光産業的な意図としては、史跡の周辺に既に建物が立ち並んで、駐車場を確保できないのと、出来るだけ広い範囲を買い物などして歩いて貰いたいのもあって、私らみたいな利用の仕方(ちょっと遠くに停めて、歩いて買い物や飲食する)をして貰えたらいいなーって感じなんじゃないかな(笑)。

カレー屋さんだったかな(^^ゞ
こちらは写真館。レトロ!

そして端まで歩くと、いよいよ鑁阿寺の前まで来て、ふと左を見ると、「足利尊氏の銅像が立ってて、思わず「おおっ!」と言ってしまった(笑)。

鑁阿寺の前には、立派な蔵作り風と黒々とした古そうな建物が立ち並んでいた↓
通りを挟んで向かいに……
ド〜ン!と「足利尊氏」像→

これは現地における表現が興味深かろうと思うので、そのまま出す(笑)↓

足利尊氏公
西暦1305年〜1358年
八幡太郎源義家の流れをくむ源姓足利氏は、永く当地足利の領主として、また鎌倉幕府にあっては、将軍に次ぐ武家の名門としての地位を得ていたのである。
ここに当地ゆかりの足利氏を顕彰し、過ぎし昔をしのぶよすがとするため、歴代の中で室町幕府の創設者として最も名声の高い尊氏公を選び、束帯姿の像を建立するものである。
尊氏公は、天性慈悲深く、人を憎まず、和歌や書画などにも通じ、また幕府十五代にわたる基礎を築いた偉大な政治家であった。
この像は、「ふるさと足利づくり事業」として平成元年に国から交付された資金を活用し、市民から募集したアイデアをもとに尊氏公の事績を永く後世につたえようと建立したものである。
なお、この像は本市出身で日展会員の中村宏光生の制作による。
平成3年3月   足利市

上記の文はとてもよく出来た紹介文だと思う。(ちなみに平成3年(1991)は、NHK大河ドラマ太平記」の年(笑))

ここで、今回の冒頭に立ち戻って、もう一度。

「足利」という地名から、普通そこに何があると思うだろう?
足利に旅行……それも史跡をメインに旅行するとしたら、どんな所を見て、どんな旅になると想像しますか?(笑)


日本で幕府といえば、鎌倉幕府・室町(足利)幕府・江戸(徳川)幕府の三府である。
鎌倉にいけば、頼朝北条政子を発起とした後継者たちの遺跡が多く、御家人たちの名も多く見かける。

東京とその周辺になると、古代から戦国期までの史跡や逸話は殆ど見聞きせぬのに、江戸時代の痕跡は無尽蔵に溢れているし、その頂点たる徳川松平の名を冠した人物名となると、ゲップが出る程よく見る(笑)。

だから足利と言えば、室町時代を創設した足利幕府が真っ先に浮かぶのが当然だと思う。

私も行ってみる迄、正直どんな所かは想像がつかなかった(笑)。しかし漠然と、「太平記とか?」というイメージがやはりあった。

それは前に新田に行ってみて、新田義貞の新田氏の史跡があちこちにあった点から想像した面もあった。
足利に「太平記館」なる建物が出来た話を聞いたから、というのもある。 *宣伝効果(笑)*

南北朝の名場面から、「足利尊氏の故郷」と思ってるのもある。
特に、大河ドラマ「太平記」では、その幼少期から始まり、成人して足利氏の惣領となり、都に挙兵するまでの間、主人公を生み育んだ土地として“存在”する。

子供の尊氏は、まだ少年の新田義貞と出会って憎まれ口を叩かれたり、子供同士で菩薩像かなんかの所在を確認しに、洞窟を冒険するシーンが確かあって、局部的に足利の里が出て来たような気がする。

しかし実際の舞台としては、太平記に足利の里ってどれぐらい出て来るだろう?
大河ドラマの尊氏もその一家も、よく思い出すと、鎌倉にばかりいた気もする(笑)。
その後の将軍幕府(宗家)は京に行ったまま帰ってこない。よく考えたら、肝心の幕府の名が、そもそも「京の室町」から来ている(笑)。

片や、この足利の地にとって、尊氏の系譜すなわち源姓足利氏の前に、藤姓足利氏が領した時期も短くない。(両氏は共存してた時期も長い)

以上の通り、結論から言うと、足利に足利尊氏に縁の深い場所はあまり無い気がする(^_^;)。

しかし、では足利尊氏いがいの足利氏って、普通の人は何人ぐらい知ってるだろう?
普通の人が尊氏しか知らないのは当然としても、じゃあ歴史に詳しい人なら、どうだろう?

それと尊氏という人は、足利氏にとって、「中興」ぐらいに位置する↓

(八幡太郎)
 源義家┬義親−為義(源)┬義朝−頼朝−┬頼家
      |           └義賢(木曽)  └実朝
      ├義国┬義重(新田・山名・里見・大館・得川)
      |   └義康(足利)┬義清……(仁木・細川)
      ├義時……(石川)  └義兼┬義純(畠山)
      └義隆(森・岩槻)       └義氏(足利)┬長氏(吉良・今川)
                                 └泰氏(足利)┬家氏(斯波・最上)
                                          ├義顕(渋川)
                                          ├頼茂(石塔)
                                          ├公深(一色)
                                          └頼氏(足利)−家時┐
 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−┘
 └貞氏┬尊氏@┬義詮A−義満B┬義持C−義量D
      └直義  |           └義教E┬義勝F
            |                 ├義政G−義尚H
            |                 ├義視−義植(義材・義尹)I
            |                 └政知┬茶々丸         ┌義輝L
            |                     └義澄J−−┬義晴K┴義昭N
            └基氏(鎌倉公方)−氏満−満兼┬持氏┬義久  └義維−義栄M
                                 └持仲├春王
                                     ├安王
                                     └成氏(古河公方)−政氏┐
 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−-−−−−−−−−−┘
 ├高基−晴氏−義氏=(喜連川)国朝(養子)←┐
 └義明(小弓公方)−頼純−国朝−−−−−−┘

ちょうど歴史の中間に位置する点をもってしても、歴代から尊氏を代表として立たせる意義は小さくないと思う。

故郷(父祖の地)に錦を飾った男・足利尊氏!(拡大)
(亭主が「真田広之に似てるよね?」と言ってた:笑)
↑尊氏の足元をやや離れて手前に、水飲み場があり、天然水が飲める!

足利の地下水は、自然の濾過作用により浄化され、天然ミネラルが豊富に含まれている。足利は「東の京都といわれる山紫水明の地」と傍らの案内板に書かれていた(^^)。こたつ夫婦も二人でかわるがわる階段に乗って、ゴクゴク飲ませて頂きました。( ^O^)/∀☆∀\(^O^ )<カンパイ

以上、関連事項は(2015/11/11後追リンク)、
2011年6月<塔のへつり>内以降
2013年1月<東北道〜北関東道>内
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内以降

2014年10月<笠間から、再び常陸太田へ>内以降



<鑁阿寺>

↑境内に掲げられる案内板には、鑁阿寺の前身である「足利氏宅」について、
「平安時代後期、源氏の祖、八幡太郎源義家の子義国、その子足利義康(足利氏祖)の二代にわたって堀と土手を築いて邸宅としました」
と紹介されている。

義家はもういいよね(^_^;)。。<いっぱいになるから(笑)

義国は「鬼足利」といわれたそうで、長兄の義宗が早世、次兄の義親(頼朝の曽祖父)が討伐され、弟(四男)の義忠は暗殺という中で、三男・義国が義家の後を継ぐべきところ、義親の子の為義(頼朝の祖父)が相続したので、内心に憤悶を持ってはいたという。

門前通りから来ると、突き当りが鑁阿寺の山門↓

鑁阿寺足利氏宅跡地図)に到着(パノラマ4枚180度以上)

義国については、
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内
2014年8月<「花園神社」B本殿>◆義光C、結局地元(身内)の抗争に身を投じるの段(^_^;)◆内

などにも書いた(^^ゞ。

特に、2014年8月にも書いた通り↓


この「義国」だが……、「常陸合戦」と、「藤原実能邸、焼き打ち事件」を並べて、「粗暴」「勅勘を被った」と表現されがちだが、記述の誤りがない限り、「常陸合戦」は1106年、「藤原実能邸の焼き打ち」は1150年、間に44年も開きがある(^_^;)。

wikiで見る生年(1091年)を信じると、常陸合戦は義国15歳、焼き打ち事件は59歳。
少年時代と老齢期の騒動に連続性を感じるには無理がある(^_^;)。
が、在地に根を置く根拠として、中央政府との齟齬があるという事なら、共通性はあると言えよう。


横(西方向)からだとこう見える
濠の欄干には二両引紋が(^^)

足利市のお隣、太田市(群馬県)の新田氏の郷には、この義国を祀る「義国神社」(地図)がある。
義国の長男・義重は、新田氏の祖である。
義国は晩年、新田に進出して没したとする話も散見する。

一方、義国の次男、足利義康は、足利庄を父・義国から相続し、鳥羽法皇に寄進の末、安楽寺領の荘官となり、やがてこれは八条院領になる。

(2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内・2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内以降←2015/11/11後追リンク)

(八幡太郎)
 源義家┬義親−為義(源)┬義朝−頼朝−┬頼家
      |           └義賢(木曽)  └実朝
      ├義国┬義重(新田・山名・里見・大館・得川)
      |   └義康(足利)┬義清……(仁木・細川)
      ├義時……(石川)  └義兼┬義純(畠山)
      └義隆(森・岩槻)       └義氏(足利)┬長氏(吉良・今川)
                                 └泰氏(足利)┬家氏(斯波・最上)
                                          ├義顕(渋川)
                                          ├頼茂(石塔)
                                          ├公深(一色)
                                          └頼氏(足利)−家時┐
 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−−−−−−−−−−−−┘
 └貞氏−尊氏


←鑁阿寺の山門太鼓橋(濠を渡る)。向こうの大きい屋根は本堂の「大御堂」。

では入ってみよう(^^)。

実は、ここ鑁阿寺にも、御霊屋(赤御堂)に義国足利義康のものと伝わる二基の墓があるようだが、これが誰のものかはハッキリしないらしい。

(※「御霊屋」(赤御堂)は↑「大御堂」より奥にある)

こうして源姓足利氏初代となった義康は、源義朝(頼朝の父)の妻(頼朝の生母)の妹(熱田大宮司秀範の娘)を娶って、1154年に、二代・義兼を得る。
だから頼朝と義兼は母系の従兄弟なんだね(^^)。

そして義康は、義朝とともに保元の乱(1156年)を勝ち残ったものの、翌年(1157年)に31歳の若さで没した。


←境内と、外のこの道路までが「足利氏宅跡」として、国史跡指定地(1923年)。
太鼓橋を渡るとき横合いに見える濠には水がたたえられ……
↑覗きこむと大きい鯉がいっぱい(゚.゚)!

この縄張りは、平安時代から続いてるんだねぇ(^^)。
一方、今渡る太鼓橋は、江戸時代の物だそうだ。

イキナリ私見で恐縮だけど、時代背景と足利市の寺を把握しやすいので言うと、私は足利市にある三つの寺が、岩手県の平泉にある奥州藤原三代三つの寺に相当すると見ている。

奥州藤原氏(平泉)
源姓足利氏(足利)
1代目
清衡 中尊寺 義康 鑁阿寺
2代目
基衡 毛越寺 義兼 樺崎寺
3代目
秀衡 無量光院 義氏 法楽寺
(2010年2月<中尊寺・参道、1(八幡堂)>・同3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>以降
同5月<「毛越寺」@、表門〜南大門跡>以降
<えさし藤原の郷・E「伽羅御所」、1>内・同6月<無量光院跡>、以上2015/11/11後追リンク)


ちなみに、初代・義康は、奥州藤原氏3代・秀衡とほぼ同世代。
奥州藤原氏の三寺は、建立した人の代と寺の関係づけが取れているのに対し、源姓足利氏の三寺は、義兼(2代目)に至って立案したようだ。

でもまぁ両氏とも、意図する点は似たようなモンだと思う(^。^)。
「平泉の浄土庭園つき三寺みたいのを自分の所でも建てたい」←これだよね(笑)。
今はもう無いけど、鎌倉の頼朝政権も似たような寺を建ててるから、当時の武家社会の間で、「平泉しようぜ!\(^O^)/」は、一種のブームだったんだと思ってる。


そんなわけで、義兼が父・義康のために建てたのがここ鑁阿寺地図)、その義兼がその後に建て、自分を埋葬させたのが樺崎寺地図)、これはこのツアーの最後に行った。
そしてその子・義氏の墓所が法楽寺地図)で、これは次回にはレポできそう。
この三つの寺には、かつては浄土庭園があったといわれている。

以上、イキナり私見でスイマセンでした。(でもちょっと把握しやすくなったかな(^^))


山門は仁王門
左右に仁王さま

建物に関しては、

(イ)鎌倉時代の建物
 本堂、鐘楼、東門、西門
(ロ)室町時代の建物
 一切経堂、山門(仁王門)
(ハ)江戸時代の建物
 二重塔(再建)、御霊屋(再建)、校倉(大黒堂)、太鼓橋、蛭子堂、大酉堂、北門
(ニ)明治時代の建物
 水屋、本坊(庫裡)、稲荷堂等

と案内板にあった。

この山門(仁王門)室町時代の物なんだね(^^)。
それから山門太鼓橋は、県指定重要文化財

境内に入ると早速「大御堂」が正面
境内見取り図

見取り図の字は小さくて見えないので、例によって、上から私が黒い太字で書きこんでます(^^ゞ。
右が少し小さめなのは画像がゆがんでるのではなく、鑁阿寺の地形は東側がやや小さめの台形になっている(地図

順路的には、途中に多宝塔を拝みつつ、まず本堂に向かって進み参拝、次に図の上部にある各堂宇を参拝。
しかるのち下部に戻り、左にあるステージと広場、右にある鐘楼と心字池の庭園など散策、という具合だと思う。

案内板には、「必ず本堂をお詣り下さい。単なる観光寺院とは違いご信仰のお寺で由緒あるお寺です」と書かれていた。

こう読むとちょっと厳格な感じもするが、境内の雰囲気はいたって庶民的。
もしかしてあの本堂が国宝なので、写真だけ撮って拝まないで帰るとか、元が邸跡だから、起伏がなく全面が平らで、公園と勘違いして運動場や遊び場がわりに使っちゃう人がいるのかもね(^_^;)。。

立ち並ぶ石塔群
本堂の屋根には桐・菊・二両引の各紋

桐紋は足利尊氏が後醍醐天皇に下賜されたようだ。菊は皇室、二両引は足利氏だね(^^ゞ。

ここ鑁阿寺の建立は、二代・足利義兼によるもので、案内板には、
足利義兼(尊氏より七代前)が、鎌倉時代初期(1190年代)邸宅を撤去して大日如来を本尊とする真言宗・金剛山・鑁阿寺を設立しました」と時代が続く。

ちょうど平安末〜鎌倉初期にかけて、邸から寺へと変貌を遂げたわけだ。


義兼は、頼朝が鎌倉に幕府を構えると、早くから信任を受け、頼朝の妻・北条政子の妹・時子北条時政の娘)を妻に迎えて、三代・義氏を得る。
よって義兼は頼朝従兄弟であるとともに相婿にもなり、義氏になると、祖母と母の二代を通して、義朝・頼朝父子と親戚の誼を持ち続ける間柄となっただけでなく、その後の実力者・北条氏とも親戚になっていたのだ。

(義兼の妻で、義氏の生母・北条時子については、ちょっと後にまた触れる(^^ゞ)


参道の左には鮮やかな青アジサイが咲いていた(^^)↓
やがて左手に出て来る「多宝塔」(二重塔)→
江戸時代の建築で、栃木県指定文化財

日本で一番大きい多宝塔だそうだ。これより大きくなると、「大塔」というのだとか(゚.゚)。

この塔はこれまで、足利義兼の創建とか、徳川5代・綱吉の生母・桂昌院の再建(1692年)などと伝えられて来たのが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永六年(1629)銘のものが発見された。(そのころ、桂昌院はまだ2歳(^_^;)ゞ)

再建寄進の理由を、「徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以て、此の宝塔を祖先の菩提供養のため」としているようだ。
何度か示して来た通り、

(八幡太郎)
 源義家┬義親−為義(源)┬義朝−頼朝−┬頼家
      |           └義賢(木曽)  └実朝
      └義国┬義重(新田・山名・里見・大館・得川
          └義康(足利)−義兼−義氏−泰氏−頼氏−家時−貞氏−尊氏

↑新田系と足利系への分かれ目は、義重・義康の兄弟からで、徳川氏は新田系得川氏)を称しているので、「祖先」と言えば、兄弟の父「義国」以前を指す。
(2010年2月<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内・2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内←2015/11/11後追リンク)

本尊は金剛界大日如来、本尊前に勢至菩薩(二十三夜尊)、両側に十六羅漢像を祀る。(↓近寄って撮影)
多宝塔の先・本堂の手前に、「大銀杏」が聳え立つ→

「足利義兼お手植え」を称しているが、鎌倉末の1310年のお寺の古図に載ってないそうで、樹齢550年と鑑定されたらしい(^^ゞ。1400年代頃だね(笑)。

それでも江戸時代には、既に大木の銀杏になっていて、鑁阿寺は「足利の大日さま」と呼ばれて大勢の信仰を集めたので、御堂の前で若い男女の見合いが行われ、縁結びの神木といわれた。
避雷針にもなり、諸堂の災厄を守護した。
目通りの周囲9m、高さ約30m。

そしていよいよ本堂にお参り(^^)。
大御堂」は、建久7年(1196)に足利義兼が建立。正安元年(1299)再建。本尊は大日如来
明治41年(1908)と平成25年(2013)、国宝に指定。創建以来、これまで一度も火災にあわず、多数の重要文化財を蔵している。↓

本堂「大御堂」(国宝)
隣は「中御堂」(不動堂

「中御堂」は「不動堂」で、寺伝によれば、足利義兼の創建、文禄元年(1592年)生実御所国朝の再修……と書かれてあるが、小弓公方義明の嫡孫・足利(喜連川)国朝のことだろう(^^ゞ。
国朝は古河公方五代・義氏の娘・氏姫と婚姻したが、姫に先んじて死去し、弟の頼氏が氏姫と婚姻して、嫡子・義親をもうけ、喜連川藩の初代となった。
(「千葉県の動乱」vol2<北条氏の終焉(〜1590)>・2015年5月<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>内←2015/11/11後追リンク)

 └貞氏┬尊氏@┬義詮A−義満B┬義持C−義量D
      └直義  |           └義教E┬義勝F
            |                 ├義政G−義尚H
            |                 ├義視−義植(義材・義尹)I
            |                 └政知┬茶々丸         ┌義輝L
            |                     └義澄J−−┬義晴K┴義昭N
            └基氏(鎌倉公方)−氏満−満兼┬持氏┬義久  └義維−義栄M
                                 └持仲├春王
                                     ├安王
                                     └成氏(古河公方)−政氏┐
 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−−-−−−−−−−−−┘
 ├高基−晴氏−義氏=(喜連川)国朝(養子)←┐
 └義明(小弓公方)−頼純−国朝−−−−−−┘

こちらの本尊は、千葉県の成田山から、興教大師の作と伝わる不動明王を勧請した。
堂の右側に、800年前に足利氏が居住し、使用した古井戸の跡があるそうだ(゚.゚)。
本堂が国宝に指定されるまでは、この不動堂と廊下でつながって、「四度加行の護摩法の道場」として使用されていた。商売繁昌と、酉年の守本尊の祈念がされる。

お次が「経堂」↓で、現在の建物は、応永14年(1407)、鎌倉公方3代・足利満兼により再建↓
……これもここには、「関東管領」と書かれてあるが(^^ゞ、鎌倉公方はよく「関東管領」とも書かれるんだよね(ややこしいよね(^_^;))。

こちらが「経堂」(国重文)↓ここまで本堂の並び
本堂の裏(奥)のほうに並ぶ堂宇に移る。
まずこちらは「蛭子堂」(市重文)→

「経堂」は、二代・義兼妻の供養のため、一切経会を修する道場として創建したといわれ、一切経二千余巻が収められている。
昭和11〜12年(1936〜37)に解体修理、と平成16〜17(2004〜05)年に屋根修繕。

義兼の妻といえば、北条政子の妹・時子の事かと思うが、実は時子に関しては、「自害した」という伝説が残されてて、それが右の「蛭子(ひるこ)」の由緒となる。

蛭子堂は「時姫堂」とも称し、時子の法名をとって、「智願寺殿」ともいわれる。
案内板には、「(時子の自害)にまつわる逆さ藤天神足利又太郎忠綱の遁走、自刃の哀話は足利七不思議の伝説の中の白眉の物語」とだけ紹介され、「栗のいがより栗が軽くもげる」ように妊婦の安産に効能があると謳い、本尊の蛭子女尊が「手に栗のいがを持つ」と紹介されているのみである。

……(^_^;)、気になったので当然、検索した、m(。。)m<カチャカチャ

法玄寺の歴史・開山の由緒」(@「浄土宗・法玄寺」より)

この逸話には多岐の異伝もあるらしいが、井戸水を飲んだ時子の腹部が膨らみ、讒言によって妊娠・不義密通を疑われる(・・;)。潔白を示すために死後解剖を頼んで自害。解剖の結果、大量の蛭が腹部より出て来た(*o*)、というのが概要のようだ。

案内板にある「足利又太郎」というのは、藤姓足利忠綱であるらしいが、これが時子の密通相手として討ち果たされる、とする話もあるようだ(^_^;)。。
(2013年1月<東北道〜北関東道>内←2015/11/11後追リンク)

「蛭子堂」は平成5年(1993)解体修理。

無縁か有縁かドッサリ集められた墓石↓
校倉」(はぜくら)(市重文)→
宝物の収蔵庫。「大黒堂」とも称する。

永享4年(1432)、公文所奉行の再建といわれているが、現存の棟札では宝暦2年(1752)、22世・満慶の時の再修で、42世・忍空の時に、宝物は他へ移して、足利家に伝来の大黒天を祀った。
昭和55年(1980)、半解体修理。

鑁阿寺にも、鎌倉公方府による再修の経歴(1407年・経堂、1432年・校倉、1592年・中御堂)が伝わっている点は興味深い。

ところで一個前に触れた北条時子の逸話は、何とも奇妙な伝説だよね(^_^;)。。
だいたいこういうのは、保食神の神話か信仰と関係あるんだろうけど、個人的にはこの話を聞いて、何となく二つのエピソード(二人の女性)を思い出した。

一人は史実の人で、藤原宮子(聖武天皇生母)。藤原氏初の天皇生母である。
藤原氏は、聖武・孝謙(称徳)へと、2代続けて藤原不比等の娘から天皇を生ませたが、宮子は聖武を生んだ後、重い鬱病を病んだことで知られる。

時子の生んだ義兼の嫡子・義氏も、また北条氏から妻を迎えている。北条泰時の娘である。
北条氏は時の政権中の最高実力者であり、足利氏も元は将軍と同じ清和源氏で、頼朝の血筋が絶えた後は、将軍候補格と言えた。
その両家の結婚で、初めに嫁いだ方の女性に悲劇が訪れている点、夫の家が仏道にのめった点などがそう思わせる。

もう一つは、丸きりフィクションだが、大河『北条時宗』で、安達泰盛の妻・梨子が、平頼綱と密通したと言いだす回を思い出した(^_^;)。
真相は、梨子の兄・長時を暗殺した下手人が頼綱で、その暗殺を指示したのが夫・泰盛であったため、梨子が二人に復讐を仕掛けた(戦わせようとした)もの。

無論ドラマ上のフィクションと受け止めつつ、私はしつこく「元ネタは何だろう(^_^;)、似たような伝承があるのでは」と思ってた(笑)。
他にも、金沢実時の妻が離縁を苦にして自害するシーンが確かあった。
蛭子伝説のような、幾つか複数の伝説を束ねたり分けたりして作られたエピなのかもね(^^)。

以上、関連事項は、(2015/11/11後追リンク)
2008年7月「千葉県の動乱」vol2
2010年2月<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内
   〃   <中尊寺・参道、1(八幡堂)>
2010年3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>以降
2010年5月<「毛越寺」@、表門〜南大門跡>以降
   〃   <えさし藤原の郷・E「伽羅御所」、1>内<無量光院跡>
2013年1月<東北道〜北関東道>内
2013年2月<生品神社(新田義貞・挙兵の地)、2>内
2014年8月<「花園神社」B本殿>◆義光C、結局地元(身内)の抗争に身を投じるの段(^_^;)◆内
2015年4月<古河城跡(諏訪曲輪址「古河歴史博物館」)>内以降
2015年5月<古河総合公園D「古河公方義氏墓所」(徳源院跡)>内




今回はここまで(^^ゞ。
鑁阿寺はまだ残りがあるので、次回はこの続きから始めたい。

今回大きく目算がズレてしまい、次回の予告をする自信がないが(^_^;)、旅程だけ書いておく。

鑁阿寺の後は、太平記館、勧農城跡、長林寺、法楽寺、心通院、樺崎寺跡と行った。
次どこまで出来るかなぁ……?

以上、関連リンクは例によって後日に廻すんだが……。
先月の関連リンクがまた遅れちゃった(>_<)!<風邪ひいてる内に忙しくなっちゃって。。
一勝一敗が続くなぁ(笑)。
というわけで、前回・今回の関連リンクも、出来るだけ近い内に貼りたいと思いますm(__)m。



↑リンク、11/11に貼り終わりました(^^ゞ。
各項目ごと(足利学校・門前通り・鑁阿寺)の最後に貼ってあります。

2015年11月04日(関連リンク11月11日追加)

<つづく>
 
     



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