<2010年・城主のたわごと6月>




2009年9月「岩手南部編」第7弾は、「伽羅御所」の続きから、

「無量光院」「高館義経堂」「白鳥館遺跡」で、最終回!\(^O^)/



     
  「岩手南部編」第7弾、最終回(^_^A)。

「伽羅御所」(続き)のみ、2日目の「えさし藤原の郷」からお届け♪
平泉に戻って、4日目夕方以降「無量光院」「高館義経堂」で、奥州藤原氏の史跡はおしまい(^^ゞ。
その後は、平泉と隣接した北部、前沢区の「白鳥館遺跡」をお届け。
ここは安部氏(白鳥氏)の館と伝わって来たが、その前後を囲んで長い間使われた城(と集落)である事がわかって来たそうなので、これも繋げて、奥州藤原氏の最期までを綴ってみる。

岩手旅行の後は日常編だが、まずは10月前後、千葉県船橋市の「八幡宮」に入った所で、次回に続けたい(^^ゞ。



■9月・岩手県南部
<えさし藤原の郷・E「伽羅御所」、2>


前回4日目をやってる途中で、2日目に行った「えさし藤原の郷」(地図A)で「伽羅御所」(再現)の写真を持って来た(笑)。その続きを(^^ゞ。

<えさし藤原の郷・@「政庁」> 2010年
「1月のたわごと」(岩手南部編2)
<えさし藤原の郷・A「見返り坂」周辺>
<えさし藤原の郷・B「経清館」「清衡館」>
<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>
<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、2> 2010年
2月のたわごと(岩手南部編3)
<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>
<えさし藤原の郷・E「伽羅御所」、1> 2010年
「5月のたわごと」(岩手南部編6)

↑一番最後(下)の「伽羅御所」に今いて、↓前回はド〜ン!と、一番奥の「対屋」まで進んだ。

↓全体図   右上「伽羅御所」を拡大→

下の入口(中門)から入って、庭園のみ矢印が書かれてる↑が、もちろん建物の内部に入れる(^^ゞ。
建物には今、手前の「西の対屋」から、中央やや大きめの「寝殿」を通り越し、一番奥の「東の対屋」に達した所。

ちなみに、右上の端に描かれる小さな群落は、「無量光院」のミニチュアが山肌に作られており、「かつては庭園から無量光院がこう見えた」という借景が再現されている(^^)。

伽羅御所」庭園に面した全景(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑左の中門から入って、渡り廊下づたい「西対屋」「寝殿」「東対屋」→と進み、一番右↑に来た。

「寝殿」から「中門」を振り返る(^^ゞ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

中央「中門」から続く通路↑も、池の庭園にも真っすぐ進める。庭園は……↓

建物側から見ると、こんな広がりを見せる(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

さっきも言った、「庭園から見える無量光院」は、弓なりの橋と池の向こうに見えている(^^)。

伽羅御所の建物は、前回で一番奥まで行き切ったので、今度は北側の各対屋を廻ったり、「寝殿」「西の対屋」を戻りながら見える庭園も、折々眺めながら戻ろう。

話は前回に続いて、奥州藤原氏の「その後」を書いて行きたい。

前回は、二代・基衡から、三代・秀衡に移った所まで、義経についても話した。
最終回の今回は、四代・泰衡についても語っていきたい(^^)。

<1、奥州征伐から振り返る>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

幕府の公式記録「吾妻鏡」は、「義経も泰衡も謀反人ではなかった」とし、頼朝の奥州征伐を、「(頼朝の)私の宿意」を根拠と捉えているようだ。

「私の宿意」と言うと、咄嗟に、頼朝義経の「兄弟喧嘩」に目が行くと思う(^^ゞ。
が、そこに理由の全てを求めるとなると、だいぶ無理があるのは、わりと多くが認める点ではなかろうか(^_^;)。

そこで、頼朝の祖父・為義が陸奥受領を望んだのに果たされなかった無念に遡り、さらに為義が無念がる理由として、前九年の役の源頼義、後三年の役の八幡太郎義家から引きずる、「(奥州に対する河内流源氏)代々の宿念」といった所に遡る事になる。

これも決して小さくは無いんだろうね(^^ゞ。が、この事はこれまでさんざん書いて来たので、今回は頼朝の時代ならではの、少し現実的な線を出したい。

頼朝が平家に対して旗挙げした時、頼朝に付き従った早さや犠牲の度合いによって、御家人らの査定が定まった。
頼朝は旗挙げ時の、こうした各御家人の反応(特にスピード)を、生涯カウントから外さなかったとよく言われる(笑)。

ボロ負けして房総に渡った時、真っ先に駆け付けた千葉一族には篤く感じたが、ちょっと遅かった上総氏には遺恨を持ったとか、同じ論理で、足利は可で新田は不可とか、平家に味方した畠山重忠には用心を解かなかったが、同じく平家方にありながら、惨敗の急場を見逃してくれた梶原景時には恩を感じた、などという話ね(^_^;)。

嘘臭い感じもする一方、結果だけ見る限り、実はわりと当たってるとも思う(爆)。この視点で見ると、なるほどそうか、と納得する点も否めない(笑)。

それゆえ、ひとたび号令がかかるや、「すわ鎌倉!」と我先に駆けつけようとする独特の習慣は、鎌倉武士社会の中で絶対化していったのだろう。

奥の無量光院(ミニチュア)と手前の池辺風景(パノラマ2枚)

一方、この「岩手南部編」の初回(2009年12月)1日目の「ひじり塚」に書いた「河野氏」のように、駆け付けるも何も、はじめから居場所が遠すぎた氏族もいたのは確かだ(^^ゞ(2009年12月<ひじり塚(河野通信の墓所)>内

当初は平家側に属して頼朝を征伐する側にいた畠山重忠も、まさに奥州征伐における活躍が、そのスターダムを決定的な物としている。
河野氏も同様に、奥州征伐の功によって、陸奥国のみならず、伊予国にも所領安堵を取りつけている。

つまり、当初は関東にチンマリ独立を保ってれば良かった頼朝が、平家を滅ぼしてしまうと組織も全国展開となり、後から加わった御家人にも活躍の機会を与えないとならなくなった……という事は、素地の部分にはあったかと(^_^;)。。

論功行賞つまり「人事」であるから、やや「私の宿意」から受ける「個人的感情」みたいイメージから遠のくかもしれない(^^ゞ。
が、「私」は現代で言う「個人」ではなく、当時は国家か官寺以外の、ありとあらゆる(民営)組織は、全て「私」である(^_^;)。。

強いて「頼朝個人」に見立てるなら、頼朝自身の武功が「乗り遅れた感」(^^ゞ?
富士川で、平家が水鳥の羽音に驚いて敗走したのが、頼朝出陣の唯一の勝利と見れば、その後は連戦連勝の勲功を、義経に取って代わられてはいるのかも。

このように、奥州藤原氏の滅亡の経緯を義経に求める見方は世間に多く、その概ね一致してる点は、後白河法皇を原因(黒幕など)と見る説ではないかと思う。

異論を言う気はないが、勲功優先説も、朝廷(院)陰謀説も、やや「成り行き」から出た面を強調した説に思える(^_^;)。

やはり奥州を滅ぼす決意をした根幹根拠は、奥州藤原氏の「脅威」が原因だろうと思う。
それは、頼朝のいる鎌倉に武力侵攻する、といった直接的なものではないにせよ。


平家が滅んだ後、鎌倉は全国展開を強いられたが、奥州は依然、独立を保とうとした。
(義経のような)犯罪者への追及とは少し異なるが、平清盛に流罪され、奥州藤原氏に留め置かれた院の近臣の消息を掴むのに、奥州は「壁の向こう」にあった。
やはり、少なくても「境」を取り除く必要はあったのだろうと思う。


←「東の対屋」から「寝殿」→に戻る渡殿
↓「寝殿」から「北の対屋」→に向かう渡殿

「北の対屋」と「寝殿」の間には、植栽もされて、小造りながら庭が織りなされていた(^^)。
各々の対屋の方角(北・東・西)だと、庭園が南……つまり無量光院がそのさらに南に在る事になるが、地理上は、「無量光院跡」は「伽羅御所跡」よりにある(笑)。

だからこだわって言うなら、各「対屋」の名称も、「・東・西」に換えればいいんだろうけど、「南の部屋」が「奥」にあったり、北に池辺や庭園がある間取りって、確かに見た事無いんで(^_^;)、このままでいいと思う。

<2、藤原基成と摂関近衛家と平清盛>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
奥州藤原氏との関係で個人的にちょっと注目するのは、一つは摂関家、もう一つは平家(および北陸・関東における平家勢力)である。

これまでも折に触れて、奥州藤原氏と摂関家の動向を時系列に書いて来たが、この両家が系譜として関係を帯びるのは、秀衡の舅であり、四代・泰衡には外祖父にあたる「藤原基成」を介して、である。

この「藤原基成」についても、やはり前回、「柳之御所跡」の所で話させて貰った(^^ゞ。大河「炎立つ」では、林隆三が演じていた役柄だ。

┌信頼
基成−女
|     ├−泰衡(四代)
|奥州藤原秀衡(三代)
└−−−−−−女
           ├基通
忠実┬忠通┬−−近衛基実
   └頼長├松殿基房 |
        └九条兼実 |
平清盛−−−−−−−盛子

摂関家(摂関藤原氏)は院政時代の深まりとともに、政界中枢からホサれる傾向が強まり、院の近臣やら、帝の乳母人に威張られる事さえあったのは、前回書いた通りだ(笑)。

そこに第三勢力的に介在したのが、あの平清盛である(^_^;)。

平家との絡みを殆ど書いてなかったので、今度は少し過去に遡って恐縮だが、平治の乱の後、ライバル源氏が消えて、独走態勢となった平家の華麗なる全国展開を見てみると↓


保元の乱
平治の乱
 
西暦→
1151
1156
1158
1159
1160
常陸
頼盛
頼盛
経盛
経盛
頼盛
 
 
 
教盛
教盛
武蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
知盛
遠江
 
 
 
 
重盛
重盛
重盛
宗盛
基盛
基盛
三河
 
 
 
 
 
頼盛
頼盛
 
 
 
尾張
 
 
 
 
 
 
 
頼盛
頼盛
頼盛
越中
 
 
 
 
 
 
 
教盛
 
 
伊賀
 
 
 
 
 
 
 
経盛
経盛
経盛
大和
 
 
 
基盛
基盛
基盛
教盛
 
 
 
播磨
 
清盛
清盛
清盛
 
 
 
 
 
 
淡路
 
教盛
教盛
教盛
教盛
教盛
基盛
基盛
宗盛
宗盛
伊予
 
 
 
 
 
 
 
重盛
重盛
重盛
安芸
清盛
経盛
頼盛
頼盛
 
 
 
 
 
 
大宰府
 
 
 
 
清盛
清盛
清盛
清盛
清盛
清盛

↑パッと見、重任(同じ人が続けて留任)は多くないが、よく見ると、同じ人が場所を移動してるだけで、新人枠はドンドン増え、日本列島を自家一色に塗り替えて行ってるのがわかる(笑)。
これが、保元・平治の乱の起きた、わずか4年ばかりの間の勢力拡大図である(^_^;)。

一方、保元の乱で、家が二分され敵味方と分かれた摂関家の負け組側から没収した所領を、そっくり吸い取った後白河上皇は、懐具合がとっても豊かになっていた(笑)。
さらに、寺社領の検断・検注を強行させるため、その親分格に清盛を起用。こうして清盛はじめ平家一門の位階は、順々に上がって行ったのである。

院政においては摂関藤原氏の力が弱まるのは既定路線だが、後白河院政と二条親政二頭体制の真っ最中だったから、二天の狭間で、摂関家18代・(近衛基実は、二条天皇に宛にされてもいた(^^ゞ。

後白河院にも二条帝にも、ウマイこと取り入って出世街道をいく清盛は、1164年、娘の盛子を、この近衛基実にちゃっかり嫁がせてしまうのだ(^_^;)。

1165年、二条天皇が重態に陥り、譲位して一ヶ月で崩御。こうして二頭政治体制には終止符が打たれ、後白河上皇の院政となった。

続いて、1166年、近衛基実が24歳で死去すると、清盛は摂関家所領の権利を、基実の子、基通の「母」として盛子の預かりとし(実際は継母だが(^_^;))、さらに自分が盛子の後見となって支配権を略取した。

つまり近衛基通はまだ幼いので、近衛基実の弟、(松殿基房摂政となったのだが、これで摂関家の氏長者の資格まで松殿家に移行する事を認めてしまうと、傍流に財産権が行ってしまうからである(^_^;)。。

ところで、この「基通」の生母が、基成の姉妹なのだ。もういっぺん↓

┌信頼
基成−女
|     ├−泰衡(四代)
|奥州藤原秀衡(三代)
└−−−−−−女
           ├基通
忠実┬忠通┬−−近衛基実
   └頼長├松殿基房 |
        └九条兼実  |
清盛−−−−−−−盛子

つまり基成は、「基通」の母系ながら実の叔父であり、父系の叔父である松殿基房には及ばずとも、単純に血の繋がりから言えば、清盛よりは近いハズだ(^_^;)。

平治の乱(1159年)での、兄弟・信頼の連座による流罪と見られる基成は、この姉婿の基実が死去した時も、陸奥を離れられなかったのだろうか……。

平治の乱と信頼については、こちらを→ (2010年5月<柳之御所跡>内

近衛基実の死去は、1166年で、平治の乱から7年が過ぎているが、14歳で伊豆に流された頼朝などは、30を過ぎても無位無官のまま、結婚すらままならなかった所を見ると、平治の乱の戦後は意外と長かったのかもしれない、という気もするし、逆に、或いは清盛から外戚筋に一応の根回しをしてたのかな……とも思う。


←「寝殿」の北は「北対屋」の他にも「蔵人所」↓

「蔵人所」は、元は朝廷の政務運営を司る役所だが、天皇の側近の職名となり、また、侍の詰め所のような部屋の呼び名ともなった。
摂関家などにも置かれるようになり、家臣の常駐場と認識されていた。

←そして「料理所」といった対屋に向けても、各渡殿(渡り廊下)が連結されて行ける(^^)。

<3、四代・泰衡の生年>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここでちょっと気になるのは、四代・泰衡の生年である。
1189年に死んだ時は、25歳だったとも、35歳だったとも言われている。
すると生まれたのは1154年か1164年。一般的には、1154年と見られているように思う。

平治の乱(1159〜60年)で、流罪されて来た基成としては、在地の奥州藤原氏に娘を嫁がせるしかなかった……という事だと、泰衡の誕生は1164年かな、って感じもする(^^ゞ。

が、流罪の前、基成が鎮守府将軍として来た1143年以降、奥州藤原氏と昵懇になって、娘を秀衡に嫁がせ、1154年には孫、泰衡の誕生を見た、と見るのが一般的なようだ。

自分的には、この10年のズレは大きな問題ではないので、先に進むね(^^ゞ。

<4、三代・秀衡、鎮守府将軍に就任>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
さて、さらに4年が過ぎ、1170年には、有名な「殿下乗合事件」が勃発。
史実と「平家物語」で違いのある事件なので、詳しい事は検索とかで調べてね(^^ゞ。

ここでは、摂関家への干渉権を間に挟んで、バチバチ対立してた松殿家(松殿基房)と平家(重盛・資盛)の間で起きた闘争だった事だけ書いておく。

そしてこの年に、奥州藤原三代・秀衡鎮守府将軍・就任である。
中央の動きと関係あるのか、出来る限り探ってみたい(^^ゞ。

前回も書いた通り、秀衡の鎮守府将軍への就任には、日宋貿易の対価に使用する豊富な「」を秀衡に出させるため、清盛が強行したと見る説がある事は前回書いた。

秀衡を、九条兼実が「夷狄(いてき)」と称し、鎮守府将軍就任を「乱世の基なり」と嘆くのも、貿易相手の宋人を、後白河法皇に引き合わせようとまで引っ張り込む清盛を、「天魔の所為」と罵る余波もあるのだろうか(笑)。


基成にしても、「清盛がイイ」わけでもなかろうが(^_^;)、基成が奥州に君臨する場合、孫の泰衡を後見する立場を取るわけだ。
基成自身は鎮守府将軍の座に就いた事があるから、母系は充分。あとは父系である。

そこで、婿の秀衡に同地位を願うのは、泰衡の将来を確定する上で、大いなる布石となる。
しかし肝心の大コネ、摂関家に、上記の如く、不安定な要素が多くなってきた。
だから平治の乱の長い戦後はともかく、この1170年の時点では、基成と清盛の間に手を結ぶ要素がありえたと思う(^^ゞ。


←北側の各「対屋」から、南の「寝殿」や「西対屋」の方に戻ってみよう(^^ゞ。南の庭園に面して、三体の人形が座している場に出会える↓ 左から泰衡・秀衡・義経のようだ。

南に見える「無量光院」はミニチュア模型だが
ホントに向こうに寺がある感じ(笑)

ただ、清盛が「金」を、基成が「婿の斡旋」を求めて結び付いたとしても、清盛と基成の間には、常に摂関家をめぐる様相が横たわっている事を念頭に入れる必要がある。

だから一点加えるなら、基成にとっても、傍流の松殿基房に摂関嫡流・氏長者の特権が行ってしまうよりは、直接の甥である近衛基通に、将来の地位を留保している清盛と、望む所は近かっただろう、という推測が盛り込める。

そこんとこ、秀衡にとっては純粋に、清盛の平家は「恩人」ですらあったかもしれない(^^ゞ。
秀衡の家は、先祖・藤原秀郷はともかく、奥州に来た経清以降、鎮守府将軍に就いたことなど無かった。
無位無官(か六位以下)の家から、鎮守府将軍の地位者を出すには、一定の功績(戦歴)があって然るべきだからだ。

もしかすると、この辺りの微妙な温度差が、最終的に奥州藤原氏の内部分裂を招いたのかなぁ……?

ちなみに義経は11歳で、ちょうど母の手を離れ、鞍馬山に預けられた頃にあたると思う。

<5、義経の奥州下向(少年編)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
↑というわけで、やっと前回の「義経、奥州下向」まで追いついた(^_^A)。

義経が奥州に下向するのは、前回の算出で行くと、1175年ごろ(義経16歳)で、「尊卑文脈」の言う年と合致するが、これは義経が「自身で元服した」とあるので、だいたい元服する年齢が16歳ぐらいだから、って事だろうか(^^ゞ?
「誰も烏帽子親になってくれなかったから」と受け取れば、2年ぐらい遅れてもOKかなぁ(笑)。
義経自身の独白によると、あちこち放浪してたようでもあるし(笑)。

と言うのも、個人的に都合がいい時期は、1177年である(爆)。
どう都合がいいかと言うと、1177年には、「白山事件」と「鹿ケ谷陰謀事件」が起こるからだ(^。^)v。
この二つの事件の詳細も、字数の関係上、検索で調べてネ(^^ゞ。

そもそも平家は、寺社領の検断・検注を強行させる力をアテにされ、信西や後白河の抜擢を受けて来たが、この二大事件によって、その限界を露呈したようなものとなった。

この年は、長く婚姻からすっかり見放されていた頼朝が、だいぶ行き遅れた感のある北条政子と結婚した年のようなのだ(笑)。
奥州でも、平家にかわる武家勢力の必要性みたい空気が伝わり、「源氏の末子(義経)を奥州に迎えよう」といった雰囲気になるのに、「都合が良い」のである(笑)。

推理は置いといて( ^^)//、最終的に平家は、これら寺社勢力と源氏の呼応によって滅んだとも言え、この平家と寺社勢力との軋轢が後々、義経逃亡の軌跡とも関係して来る。


御膳のご馳走が美味しそう♪
こちらは「料理所」にあった御膳(^^)

↑左のが泰衡の御膳、右のは「料理所」にあった調理仕立ての御膳(^Q^)。。

実はここ、「えさし藤原の郷」では、「お休み処」の「レストラン清衡」で、平安時代の食事を再現したメニューがあるの(゚.゚)。
ちょっと条件が厳しくて、5日前までの予約制で、5〜40人のみ。(キャンセル料あり)

パンフレットに載ってる「秀衡の宴(5000円)」を見ると、左の泰衡の御膳と、ほぼ同じメニューみたい(^^)。
赤飯の大型盛、麹味噌と塩かしら、胡桃など木の実や木の子、大きな葉が敷かれてるのは鮭かな(^^ゞ。

当時の料理については……まずご飯。蒸した米を強飯(こわいい)、水で炊いた柔らかいのが姫飯(ひめいい)、もっと柔らかい粥など。
五位以上の役人だと白米を食べたが、仏教の影響で肉や魚を食べなかったから、たんぱく質をしっかり摂ってる庶民の方が、玄米や蕎麦も食べてるし、元気だったのだとか(笑)。

おかずには、焼き物、煮物、蒸し物、羹があり、調味料に酢・酒・塩・醤(ひしお、現在のもろみ)を用いた。博物館などで見る御膳には、直接つけるよう、塩を小皿に、酢を椀に入れてあるのを見た。

他にも椎茸・筍などの煮物、野菜の漬物、汁物、海藻や魚や肉の生物や干した物……。
魚は、焼き物では、鮎の塩焼きなんかよく見るよね。生ではアワビやウニ。
肉は雉・猪・鴨・鹿・熊も食べたみたい。奥州市の博物館では、「鹿肉のなます」というのが美味しそうだった(^^)。(蝋細工だけど:笑) 肉は干したり塩漬けにし、魚も乾燥させたり、すしにした。

あと平安期の御馳走って、わりとドライフルーツが多いよね(^^ゞ。
小さめの蜜柑や、栗、クヌギなんかも見た。野菜も乾燥させたようだ。
里芋とかえんどう豆とか、まんま器に盛ってあるのを見るけど、ざっと塩茹でかな?(笑)

右の写真↑には「蘇」や「酪」と呼ばれた乳製品が見える。
後はお酒や山芋かしら。汁物っぽい椀が多い(^^ゞ。お酒は甘口の上級酒を「たむ酒」と言い、辛口の「もそろ」というお酒もあったそうだ。

ハッ(*o*)、食いモンの話をしてる内に、いつの間にか「お帰りはこちら」モードに(笑)→

「西の対屋」から、入口「中門」に戻る。帰りは北側の渡殿を通ってるので、南側の廊下も見え、風にそよぐ御簾の、涼しげな様子がGOOD(^^)v。

というわけで、話は中途半端なままで恐縮だが(^^ゞ、これより元に戻る。

「元」というのは、平泉の事ね(笑)。
平泉の「伽羅御所跡」が今は住宅地になってるので、「えさし藤原の郷」(「江刺」にある(^_^;))の「伽羅御所(再現建物)」で撮った写真を使わせて貰ってたの♪



<無量光院跡>

↑本物の「無量光院跡」に来てみる(^^ゞ。3代・秀衡が建てた寺の跡地である。

場所は、地図B←拡大すると→地図C←「柳之御所跡」や「高館義経堂」が見られる。
伽羅御所があったのは、110号線の右側、南(下)の方。
これより、さらに拡大して貰うと、「中尊寺」や「毛越寺」なども見られるかと。

無量光院跡は、かつては西に向かって建てられていた。
が、その敷地は今、北西から南東に向けて、ほぼ平行に流れる二本の道路、110号線と4号線の間にある。。
しかも、その二本の道路のさらに真ん中を、東北本線が縦割りに入り込み、全部で三本の道が遺跡スレスレをかすっている(^_^;)。。

特に東北本線は、本堂のあった跡地にはギリギリ入ってないものの、その周囲の遺跡跡を見事に分断しておる(^^;;)。
下に見る復元図↓で言うと、向かって左の楼のスグ後方を、ガタンゴトン在来線が通っていく(ちなみに新幹線の線路は、もうちょっと右(東)を通ってる)。

ところで、これまで見て来た「えさし藤原の郷」の再現(模型)では、山がスグ背中に迫っていたが、現地の復元図および地図で見ると……、

←平泉の平野が少し広がって、その奥に金鶏山中尊寺毛越寺の間にある山)という背景になっている(^^ゞ。

この復元図は、「吾妻鏡」に、「宇治平等院を模す」とあるのに従って描かれており、本堂など跡地の遺構からは、西の金鶏山に沈む夕日を、極楽(西方)浄土に見立てて建てた事がうかがえる。

↑とは少し位置がズレるが、背景の山の形を見ると、上の寺院群が斜めに肩が食い込む感じかと(^^ゞ→

手前に一箇所、ポツッと独立してる木立の一群が「中島」とあるので、上の復元図の橋がかかった手前側に相当するようだ。

が、これも案内図にあった、上空からの写真なので、実際の現地では……↓

こんな感じ(^^ゞ↓。手前の高い山だけは見えるが、他は樹林に隠れ、時間的にも西日の逆光が……。
↑この位置より、少し←こっち方面から「順路」が始まっていた。これが、その順路のスタート地点→

入口付近を広く見渡してみる(パノラマ4枚・180度以上)

遺跡には、110号線側(上の写真だと右)から入れるようになっている。←こう入って、すぐ右折し、中央の緑のある一帯に向かっていく。
方角で言うと、敷地の北東から入り、少しだけ南に向かうとすぐ右折し、東から西に向かう道筋に入る。

さて、話は義経の奥州下向まで来た所だったね(^^ゞ。
下向して以降、奥州における史料等が皆無、って話は前回の最後にした通り(笑)。

<6、義経、奥州を去る>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
次は、義経が、頼朝の挙兵に駆け付けた1180年、黄瀬川で言った、「秀衡に引きとめられて(富士川合戦に間に合わなかっ)た」の背景を探ってみるかな(^^ゞ。

1178年、清盛の娘・徳子が高倉天皇の男子を出産。後の安徳帝である(^^ゞ。
こうなると、清盛いかに横暴であろうと、藤原氏に並び立つ「外戚」である。世間の反感・反発も、やや薄らいだ(弱まらざるを得ない)のではなかろうか。

ところが、翌1179年(奥州に引き取られた義経が、奥州を出て頼朝の元に赴く前年)は、歴史的な平家クーデターの年。平家による、後白河法皇幽閉事件が起こるのだ。
当然、伊豆の頼朝も立ち上がるし、“復讐の鬼”と伝わる義経など、「今こそ好機」といきり立ったに違いない。

こうして日本全国的に、平家は「倒さねばならぬ悪」となったのだが、義経以外の奥州の面々……すなわち秀衡や泰衡、基成にとってはどうだろう(^_^;)。


そもそもクーデターのキッカケが、清盛の娘・盛子の預かりとなっていた摂関家の所領も、清盛の嫡子・重盛の知行(越前)国も、この年の盛子と重盛の死によって、平家の権益を離れた事にある。

子供らの死で、ただでさえ清盛の摂関家への干渉は及びにくくなった所に、よりによって後白河法皇が自ら乗り出し、没収……つまり奪い取って院領に加えたからである(^_^;)。。

これ自体は、基成も秀衡も、さほど困らない。
奥州における摂関家の重要性は、所領・知行・財産ではなく、朝廷における発言権とか、院やその近臣への折衝力だ(と思う)からだ。

が、クーデターの直接的な引き金となったのは、続いて院が松殿基房の子・師家(12歳(^_^;))を権中納言に昇進させた事だった。。

これには清盛も怒り狂い、数千騎で京に乗り込んで、法皇との間で摂関職を巡って、解官だ復官だとやりあった(^_^;)。。
法皇は折れたのだが、結局は監禁されたので、翌1180年、以仁王源頼政、伊豆の頼朝、園城寺・延暦寺・興福寺、畿内近辺の武士など、反平家勢力が続々と蜂起したわけだ。

しかし清盛のクーデターは、院の側近ら反平氏39名の罷免・官位剥奪・流罪とし、その空位に平家と平家側の勢力に連なる者らを入れ、天台座主にも、平家の息のかかった明雲を復帰させている。

当然、松殿基房・師家など、真っ先に更迭(流罪)され、かわりに近衛基通を、関白・内大臣・氏長者の座に押し込んだ事は言うまでもない。

こうなっちゃうと、これらに利権の絡んだ者らは、迂闊に反平家側に廻れなかったかも?(^_^;)
基成も秀衡も(これより前はともかく)、清盛派に廻らざるを得ないような気がする。


途中、発掘調査中だろう、道の左右に布が被せてあった→

基本的な発掘調査は昭和27年(1952)に行なわれ、この時は、敷地の東にあった、池の岸辺の確認調査との事だった。この年度は、6〜10月の間とされていた。

後ろの方も振り返って見る(パノラマ縦4枚)

そんなビミョーな時期に、義経が平家打倒に立ち上がった兄の加勢に行くとなると、「もうちょっと旗色、出しやすくなってから……(^_^;)」とはなるのかもしれないね(笑)。

何度か述べた通り、摂関藤原氏は奥州藤原氏にとって、朝廷折衝に欠かせない存在だったと思われる。
二代・基衡の時代には対立もあっただろうが、それでは不利と悟ったので、摂関家に繋がりのある基成の娘を室に迎え、その生んだ泰衡を四代の座に就けたのだろう(2010年5月<「毛越寺」C、遣り水〜東大門跡>内aおよび、b

清盛の遣り方は恐ろしく強引かつ暴力的だが、摂関に近衛家を擁するため、ここまで洛中に力を誇示しうる権力者は、遠い奥州の面々としては必ずしも悪ではなかったかもしれない。


<7、鎮守府将軍から陸奥守へ>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
いよいよ運命の1180年、伊豆の兄・頼朝が挙兵すると、義経は秀衡の反対を押して頼朝の元に駆け付け(2010年5月<えさし藤原の郷・E「伽羅御所」、1>内、以後、その頼朝に追討を受けて、再び奥州に落ち伸びて来るまで、奥州藤原氏は数々の「噂」として、貴族の日記などに登場する。

背景・状況
@1180年11〜12月
頼朝は富士川で平家に大勝後、常陸の佐竹氏を討伐。頼朝追討令を発せられつつ、新田・里見とも合流し、年内に関東を掌握。
畿内は反平氏の在地領主や寺社勢力によるゲリラ活動が起き、京は物流を断たれ困窮。
年末、清盛は福原遷都を断念。後白河院の幽閉を解き、院政再開を依頼。
「秀衡が清盛の命令で頼朝を討つことを承知」という噂が流れた。
が、秀衡が平泉を動かないため、九条兼実は「頗る虚言」と批判した。
それでも平家は「士卒を励ますため」と奥州藤原氏を担いで、「秀衡が頼朝を討つ」という宣伝を続けた。
A1181年1〜4月
1月に高倉上皇(母・清盛夫人の姉妹)が病没し、後白河院政が再開。
2月に清盛が病死し、畿内の叛乱が激化する中、平家は墨俣で新宮行家を破り、この戦いで、義円(義経の同母兄・乙若)が戦死。
2年続きの大飢饉で、兵糧に困窮のため、これ以後、北陸(木曾義仲)・畿内(平家)・関東(頼朝)の均衡が保たれる。
鎌倉では御家人同志の縁組、頼朝夫人の政子の懐妊に、お祝いムードで沸き立つ。
九条兼実が得た情報に、「奥州の秀衡が、頼朝追討を約束するという飛脚を送って来た」とあり、何らか平家の催促に応じた様子が伺える。
「秀衡が2万を率いて白河関に到着。武蔵・相模の武士に離反された頼朝は、安房に逃れた」という噂が流れたが、100%事実無根(^^;)。
また、「頼朝が秀衡の娘を娶る約束をした」という噂は、数ヵ月後に誤伝と判明。

↑どうも発端は、平家が主導して「(奥州の)秀衡」を絡めた流言を形成させてる感じが(^_^;)。

頼朝に「迂闊に平家を討ちに行けない」と思わせる事が目的なのか、これ以上、鎌倉に馳せ参じる武士が出ないよう、頼朝のイメージダウンを狙ってるのか……。

富士川合戦の後は、これに敗れた平家を見限る者は激増し、特に福原遷都の断念を発表した途端、「京に戻る」と言いながら、鎌倉に馳せ参じる武士が、我も我もと雪崩を打って続出したというから、後者への狙いが大きそうだ(^_^;)。。

通り過ぎて110号線の方を振り返る(パノラマ2枚)

敷地の東端には厚い土塁跡が長く走る(パノラマ2枚)

いずれにせよ、「秀衡が動けば頼朝は討たれる」というのが、当時の地勢認識だったとすれば興味深いが、三代・秀衡を“それほどの大軍事力者”とする前に、平家の認識も、富士川合戦の後、頼朝が追撃して来ず、むしろ佐竹征伐に乗り出したのを分析して……の可能性はあると思う(^^ゞ。

実際、その後、頼朝自身が上洛できない言い訳に、奥州藤原氏の事を持ち出しているし、そのさらに後に頼朝が奥州征伐した折、佐竹氏から奥州藤原氏についた者もいたから、平家の見立ても当たってた事になる(^^ゞ。

流言には、作為ある作り話も、無責任な噂もあっただろうが、何もかも根拠のない嘘というわけではなく、奥州の秀衡からは、それなり色好い返事は来てたんだろう(^^ゞ。

その証拠というわけでもないが、1181年8月、ついに秀衡陸奥守に、城資永越後守に任じられた。
この大抜擢に対し、「空しい結果に終わる」と、反対や牽制の声があったが、平家(宗盛)は「元々、夷狄(秀衡)が公領を事実上は支配してんだから、任命したってどうって事も……。それよか関東の賊徒(頼朝)がまだ追討されてないのだから……」と押し切ったので、九条兼実などは、「乱世の基」になる事を予言(しかも的中)している(^_^;)。

┌信頼
├基成−女
|     ├−泰衡(四代)
|奥州藤原秀衡(三代)
└−−−−−−女
           ├基通
忠実┬忠通┬−−近衛基実
   └頼長├松殿基房 |
        └九条兼実
平清盛−−−−−−−盛子

平家には焦りもあったのだろう。
実はこの時期になると、頼朝から後白河院や九条兼実に密奏があり、京における頼朝への認識も、「叛逆者」「夷狄俘囚」といった猛々しい悪評に代わって、「(頼朝は)信心や礼儀に通じ、王権を重んじる」といった紳士的な印象に早がわりして来ている。

現地には、自由に取れる説明書コピーが置いてある(^^)。

それによると、進んで正面に「(東)中島跡」が現れる(^^)→

道は少し盛り上がっており、左右は凹んで「池跡」となっていた↓

左(南)側の「池跡(パノラマ2枚)

←右(北)側の「池跡」

9月、城資永は信濃に出撃して、義仲を討ったが成功せず頓死した。

以後、越後の城氏は、資職が後を継いで同じ路線を繋いだようだが、戦況は好転しない。

城氏と東北の平家勢力については、前に会津の「慧日寺」に行った時、城氏と結んだ東北の寺社勢力として、「乗丹坊」の存在を書いた。(2009年1月<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>内
関東に近い東北地域に、北陸と結ぶ、こうした武的勢力があったこと自体、奥州藤原氏が鎌倉の「脅威」として、存在感を誇示した、と私は思う。

このような奥越の支えを背景に、平維盛が東国を攻めるという話がしきりで、鎌倉からは義経の出撃なども予定されたが、沙汰やみになったようだ。


<8、平家滅亡(佐藤継信の戦死)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1182年、頼朝が「江ノ島の弁財天供養」を表向きの理由に、足利・北条・新田・畠山・下河辺・結城・上総・足立・土肥・宇佐美・佐々木・和田・三浦・佐野など、大勢の御家人を列席させ、奥州藤原秀衡の調伏を行なっている。
が、これに義経の名は見えない。

1183年、3〜5月、木曾義仲に謀反の疑惑が生じたため、義仲は鎌倉に、嫡子・義高を人質に出して、頼朝との間に同盟関係が築かれた。
兵を挙げ、越前から加賀に進出した維盛も、加賀と越中の国境・倶利伽羅峠で義仲に惨敗。

以後、義仲は連戦連勝の勢いで京に進軍し、7月には入京。
平家は安徳天皇を連れて都落ちし、叡山で義仲と合体した後白河法皇は、平家追討の院宣を発した。
平家の官位や所領は没収され、後鳥羽天皇も擁立された。

中島の跡」、ちょっと通り過ぎて、振り返って撮影(パノラマ2枚)

入京を果たした義仲軍は、その暴挙によって、京の人の不信と不安を買い、朝廷からは頼朝の上洛を促す使者が何度も鎌倉を訪れた。

頼朝は、理知的な方針を示して、法皇や九条兼実らを感動させるものの、上洛要請への返事には、数万もの兵を京に入れることを懸念する(義仲軍もこれがマズかった(^_^;))と同時に、「(奥州の)藤原秀衡・(北関東の)佐竹隆義の脅威」を理由に断っている。

10月には、法皇が年貢調達の復元実行の権限を頼朝に下し、頼朝も弟・範頼義経を代官として、伊勢まで送ったので、これを不満として法皇に抗議した義仲は、逆に「頼朝追討の院宣」を要求し、法皇の院宣らしきが、奥州秀衡の元に届いた、というもあった(^_^;)。。

院宣は、「奥羽の軍を率いて、頼朝と義仲を討て」という物と言われ、現に、院の庁・康貞が秀衡の元を訪れている(少なくても東国に行ったのは事実)。

だが、この頃の後白河法皇も、かなり切羽詰まった状況にあり、暴発した義仲によって、法皇の御所となっていた法住寺は焼き討ちされてしまう(^_^;)。

義仲も清盛と同じく、法皇を捕えて幽閉し、やはり近衛基通や法皇の近臣40人を解官・所領没収・更迭。また松殿基房の子・師家摂政に据えた(苦笑)。
(ちなみに、松殿基房の娘が義仲の妾となっている。後に源(土御門・久我)通親の側室となって、道元(曹洞宗の祖)を生んだ女性とも言われる)

公家たちは、ひたすら頼朝の上洛を懇願して、使者の往来が頻繁だった。

それでも頼朝は動けないのだ(^_^;)。
理由はやはり、奥州平泉を背後に控える、北関東の動向だったと思われる。
12月には、鎌倉御家人として最大勢力であり、かつ佐竹氏と姻戚関係にある上総介広常が、頼朝の命によって、謀反の疑いで誅殺されている。(後に冤罪と判明)

←中島の跡を少し離れて、土檀ごと見てみる。

無量光院は、昭和27年(1952)に発掘調査が行なわれ、「吾妻鏡」に記された通り、宇治の平等院の鳳凰堂に似ている事がわかった。

浄土庭園の「梵字が池」と呼ばれる池の中に、これより向かう西の島には鳳凰堂に似せた「本堂」の跡が、礎石とともに残り、東には、この「東中島跡」が確認された。

↑今ちょうど、影に入りかかってるのが判るかな(^^ゞ。これは背にある「本堂跡」の松林の影なの。
この「中島の跡」から、さらに前方を向くと……↓

さらに先に、西島の「本堂跡」との間の「池跡(パノラマ4枚・180度以上)

↑「本堂跡」の後方から西日が差して、「本堂跡」の松林の影が、「池跡」のほぼ全体を覆い、「中島の跡」の途中で影が止まってるわけ(^^ゞ。

つまり「本堂」と「(東)中島」を繋ぐ中軸線上に、4月中頃から8月末にかけて……そう、ちょうど春秋の彼岸には、金鶏山に沈む夕日が見えた、という事になる(^^)。

1184年、1月に宇治から入った義経軍と遭遇した志田義広(下野に根を張る、頼朝や義経の叔父)は、北関東の禍根の一つと見て良いかもしれない。
と言うのも、義仲挙兵の頃から、義仲派として行動しており、この時に義経に敗れて落ち、同年に没する。

代わって、鎌倉軍が入京。新たに、義経軍には梶原景時、範頼軍に土肥実平がつけられた。
鎌倉軍に敗れた義仲が、やはり北陸への敗走中の近江で討たれると、松殿師家は失脚、近衛基通が後任に復帰する(^_^A)。

義仲が片付くと、次は、平家の連れ去った安徳天皇と神器を取り戻す策が練られた。
九条兼実は「頼朝と相談した方がいい」と慎重案を出し、鎌倉の武士らも合戦は好まず、土肥中原は平家との和平案に賛成したが、法皇は、近臣たちの平家追討案を採用。

こうして2月、一の谷合戦が行われ、平家の総帥・宗盛と、安徳帝・神器は逃したものの、鎌倉軍の勝利によって一躍、義経は京じゅうから期待をかけられた。

8月に秀衡の陸奥守は、別の人物に移っているが、これは単に任期切れね(^^ゞ。
基本的に「重任」は無いから、平家がいても継続は無理だろうが、何か別の官位を賜った可能性はあったかもしれない。
が、何しろ平家も義仲も、こうして都にいなくなった(^_^;)。


通路を辿った先が「本堂跡(パノラマ2枚)

だいたい「復元図」にあった感じに、樹林が凹を逆さにしたカッコ(手前側が窪み部分)にしつらえられてる感じがする。そこに建物が在った……という事だねぇ。
■■■
■  ■←こんな感じね(^^ゞ。

通路は、後から作られた物だが(^^ゞ、「本堂」のある「西島」と、「中島」のある「東中島」は、大きな「梵字が池」に浮かぶように設計されており、辺り一面が広大な池地であった事がわかる。
宇治の平等院も前面に池を称えている。これが浄土庭園のスタイルだったんだね〜☆ミ

夕日の当たる中島跡を眺める(パノラマ2枚)

又、義経追放の主旨と言われる、いわゆる「任官問題」は、既にこの年に発生している。
「吾妻鏡」には次にように説明されている。

「義経の使者が、(義経が頼朝の許しなく)任官し、(院の昇殿も許され)た事を鎌倉に伝えた。(義経は)『自分から所望したのでなく、勲功を黙止されて、朝恩を固辞できなかった』と言ってるが、すごく頼朝の気色に違う。範頼(頼朝の弟で義経の兄)義信平賀氏=新羅三郎義光流)は、頼朝の意思から出た任官をしたのに対し、義経には、内々に話はあったものの許されなかった。頼朝は『義経が自分の意思を遮って所望した』と疑っている。(義経が)頼朝の命令に背いた事は今度に限らない。(だから)平家追討については、しばらく猶予となった」。

9月には、範頼らの率いる鎌倉軍が再び京を出たが、11月ごろから兵糧の不足を訴えて来る。
九州に渡って平家水軍を封じ込める作戦だったが、補給路も退路も塞がれ、孤立した鎌倉軍は船の徴収にも事欠き、難渋を突破できずにいた。

頼朝は遠ざけた義経を再度、起用し、1185年2月、義経が嵐の海を突破。猛スピードで屋島の対岸に上陸した後、平家に勝利したが、平家は越中盛継・上総忠光が応戦。
これまで義経に就き従っていた、奥州藤原秀衡の家来・佐藤継信戦死した。

佐藤兄弟は、奥州から鎌倉に向かう時、秀衡から与えられた東北の実在人物である。
義経は法皇から賜った名馬「大丈黒」を僧に渡して、供養を頼んでいる。

続けて3月、壇ノ浦に追い詰めた平家を殲滅。宗盛父子は生け捕り、他一族ことごとく戦死・入水。ここに平家は滅亡し、安徳帝と三種の神器の一種、宝剣もともに海底に沈んだ。

「本堂跡」に来た(パノラマ3枚・ほぼ180度)

←手前の通路を右に行く。
↑「本堂跡」の北端。さらに北(本堂の左郭の外側)は、現地の地図に「北小島」と書かれ、やはり池中に島が在った。

<9、義経追放>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1185年3月に平家が滅びると、翌4〜5月には、もう義経を糾弾する頼朝の姿勢が見られるが、よく言われる通り、鎌倉追放の決定打が何なのかは、よくわかってない(^_^;)。。

前年の「任官問題」においても、もう一人の弟・範頼が頼朝に、「義経の要求通りの任官に応じない」事を感謝する言葉があるにはある。

4月、頼朝の許しを得ずに任官した者たちに対し、頼朝が一人一人名を挙げて凄まじい罵倒を述べ立て、墨俣より東に入る事を禁じている(破った場合は、所領没収・斬罪)。
その中に、奥州から秀衡の命により、義経につき従った、佐藤兄弟の弟(兄は既に屋島合戦で戦死)・佐藤忠信の名が見える。

同月、いわゆる梶原景時の「讒言」らしき書状が届く。
この書状にも「ウッカリ逆らうと(義経に)処刑されかねない」みたく書かれ、これが届いた後、頼朝が西国武士に充てた通達類にも、「義経が武士を酷使しているから、義経に従わないように」「義経には四国を当ててるのに、範頼に配分された九州を奪い、東国武士に(自分の許しなく勝手に)成敗をしている」といった言葉が散見される。

5月末ごろ、いわゆる「腰越状」において、義経が、「讒言にあっている」「莫大な勲功も黙殺されている」「五位に任じたのも当家の面目」と、頼朝への弁解を、大江広元にあてて送っている。

これが「北小島」と書かれる北部の「池跡(パノラマ3枚・ほぼ180度)

6月、義経が「関東に怨みのある者はついて来い」と言い放ち、頼朝は「自分の代官でなければ敵を討てなかったのに、自分の大功と増長して暴言を吐くとは」と怒り、義経に配分された平家からの没収地を召し上げる。

元々、どこかの土地との繋がりなどないから、義経は途端に路頭に迷った。。
そんな彼にとって、後白河法皇は、「気軽に頼れる下宿の大家」みたくなってしまう(笑)。

9月、これも義仲についたり離れたり、鎌倉御家人とは少し違う行動を取っていた頼朝・義経の叔父・新宮行家を追討する命令を頼朝は発したが、義経は病気を理由に断った。

10月、義経は後白河法皇に「行家は冤罪」と弁明し、自殺を仄めかしながら「頼朝追討の院宣」を要求。
頼朝が発した義経追討に向かわせた者が、追討に失敗。法皇は朝議の上、頼朝追討の宣旨を下したが、義経に兵は集まらず、一方の頼朝の元には続々と集まって、すでに出発。

というわけで、義経追放の決定打はともかく、追討の根拠は、「謀反」および「恐喝」が当たるだろう。

本堂の右郭に戻って来る。

↑右郭の後方に築山のような土塁があるんだけど、寺の北部の土塁はもっと奥にある(^^ゞ。
←今見えてる築山は、東北本線との区切り部分にある仕切り壁になってて、その奥には、もう線路が見えている(笑)。

11月、法皇は行家を四国、義経を九州に行かせる事にし、京を追い出す(笑)。
義経は、義仲や平家のように乱暴なやり方で去って行かなかったと、京での人気は取りとめたが、義経の乗った船が、出航した大物浦で難破(・・;)。行方不明となる。。

しかも、義経が乗船する前日、頼朝の「怒り」を恐れる後白河院は、摂政と氏長者を、近衛基通から、さっこんとみに「頼朝贔屓」な九条兼実にチェンジーーーー!!(笑)(鎌倉から北条時政が来てから、兼実は年末までに「内覧」に落ち着く(^_^A))

┌信頼
├基成−女
|     ├−泰衡(四代)
|奥州藤原秀衡(三代)
└−−−−−−女
           ├基通
忠実┬忠通┬−−近衛基実
   └頼長├松殿基房 |
        └九条兼実
平清盛−−−−−−−盛子

その頼朝、「義経遭難!」を知り、黄瀬川を引き払って鎌倉に戻るや、義経追討モードから、「オラオラどう始末つけんだよ( ̄▽ ̄)」と因縁モードにチェンジーーーー!!!
すると後白河院も素早く、この日の内に義経をリストラ(解官)!!(爆)

その辺りの事は、前にこっちにも(^^ゞ→2009年4月<阿津賀志山防塁>内
一方、行方不明の義経の事は、こっちに(^^ゞ→2009年11月<千騎ヶ岩・犬岩>

何しろ、朝廷(と言うより院)側の失策を逆手に取って、幕府に有利な職責・人事・宣旨の発令権限を手に入れた、という点が言える。


その後の5年間は、読めども読めども、「義経探索!!」の記事がエンエン(^_^;)。
だいたいは「捕まえろと命令が出た」「院宣も出た」「前に頼朝を追討しろと言ったのは間違い(←と、法皇が自ら追伸:笑)」←こんな感じかなぁ(^^;;)。。
頼朝が「義経ネタ」で目的達成した事例も多い気がして、どれが本気でどれがネタだか、正直よくわからんです(爆)。



<高館義経堂>


「無量光院」の紹介でも地図上すでに現れていたが……地図D←ここね(^^ゞ。
周囲との位置関係を見るには少し拡大して地図E←毛越寺・中尊寺・柳御所などが出て来る。無量光院は「東北本線」と書いてある下の辺り。

「高館義経堂」は、義経が最期を迎えた、と伝えられる場に堂が建てられている。
お堂は、現地案内板によると、天和3年(1683)、伊達綱村(4代)による建立と記録に残るという。
「吾妻鏡」に伝えられる、「衣川館」の「持仏堂」に擬せられているのだろう。

前々回、衣川地区の史跡を訪ねた。
現在では、あの辺りが「吾妻鏡」にも書かれた場所ではないか、と推測されているようだが、長い間、義経の最期と言えば、イメージされて来たのが、ここの「義経堂」であろう。

私にも長年に何となくイメージがあって、何か川に近い草の生い茂る野原……みたいな感じだった。
寂しく散った、という印象がそういう風景を連想させるのか……。

それが来てみると、かなり高台の上にあるので驚いた(゚.゚)。
義経の居館とか最期云々……というのは置いといて、ここもそれなり城郭のあった場所ではなかろうか(^_^;)。

地図では判りやすく思えるが、↓このように「高館」自体が山だから、意外と入口を探した(^_^;)。
強いて目印と言えば、変電所ではないかと。変電所の脇から、こういう細い登り道が始まっている→

←かなり鬱蒼とした坂道だが、平泉では、わりと町の中にある方だと思う(^^ゞ。

<10、佐藤忠信の死>−−−−−−−−−−
1186年の4月ごろから、比叡山や鞍馬、京や伊勢などに、義経出没の噂が立ったのを契機に、急に事態が動いたようだ。

と言うのも、この4月に、頼朝が奥州藤原秀衡に対し、史料で確認できる限り、初めて接触を図っているのである。
それは、都に送る馬や金を鎌倉で管領して伝送したい(京との結びつきは、鎌倉が取り持つの意)、という申し出である。

どうも比叡山その他に義経が匿われている噂と同時に、その背景として、「近衛基通の関係者が庇護している」という流言が、この時期にあったらしい。

基通は義経と同じぐらいの年齢だから、義経が昇殿を許されていた頃、宮中で顔馴染みの仲になってた、みたいな事かな(^^ゞ?
あるいは頼朝が秀衡に唐突な申し入れをしてるのは、もしかしたら、「近衛基通藤原基成秀衡・泰衡」という線に探りを入れたのか……(^_^;)。

┌信頼
├基成−女
|     ├−泰衡(四代)
|奥州藤原秀衡(三代)
└−−−−−−女
           ├基通
忠実┬忠通┬−−近衛基実
   └頼長├松殿基房 |
        └九条兼実
平清盛−−−−−−−盛子

この時、頼朝が秀衡への書状で、秀衡を「御館みたち)」と呼び、東北における「奥六郡(=秀衡)」が、関東・東海における「鎌倉(=頼朝)」に相当する言い方になってて、それぞれ独立した地域の首長のような括り方をしている事が、よく注目される。

すなわち、「御館(秀衡)は奥六郡の主、自分は東海道の惣官。水魚の交わりをすべき」と言い、 同月に、秀衡からも了承の返事が出されている。

頼朝が「鎌倉殿」と称され、幕府が作られる現象は、中央から見たら素晴らしく唐突だろうが、東国社会ではそうでもなかったのかな、と思う所でもある(^^ゞ。

路地の先の登り階段と、横合いからの道路(パノラマ2枚)

頼朝からの申し出を了承した秀衡は、早速、半月後の5月、奥州馬や長持を京に伝送するよう鎌倉に依頼して来る。

その2日後、新宮行家(頼朝や義経の叔父)の首が届き、6月に義経の母と妹が捕まり、義経の舅(スゴイいっぱい居るけど(^_^;))の伊豆有綱も殺され、義経の従者も、7月に伊勢能盛、9月に堀景光が捕まって、義経が興福寺に匿われ、院の近臣と連絡を取っていた事を明かした。

後に「義経記」などで、悪僧をモデルにしたと思われる弁慶など従者が活躍するが、堀景光は「金売り吉次」のモデルではないかとも言われるらしい。

佐藤兄弟の弟・佐藤忠信も発見された。
忠信は、女に恋文を出した事から足がついて囲まれ、自害した。

彼は勝手に任官したとして、頼朝に叱られる者の中に名を連ねているが、それは奥州からずっと連れ添った兄の継信を、屋島の戦いで失った直後の事だった。
義経も、せめて任官で埋め合わせたかったのだろうが、陸奥を出てより、ずっと一緒だった兄が死んでしまい、女性との遣りとりで捕まった忠信……、任官よりも、故郷の陸奥に帰りたかったのでは……という気がする(;_;)。

季春?−佐藤氏 ┌継信佐藤
        ├−┴忠信( 〃 )
      ┌女  ┌師衡(樋爪
┌樋爪氏+俊衡┴忠衡( 〃 )
|     └□□−経衡( 〃 )
└基衡−−秀衡泰衡藤原

↑先祖筋と思われる佐藤季春については、こちらを(^^ゞ→2010年5月<「毛越寺」C、遣り水〜東大門跡>内
ちなみに佐藤氏は、地元では「湯の庄司」と号していた→2009年4月<福島飯坂、鯖湖温泉>内
樋(比)爪氏については→2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内

階段を登りきると、また階段がある(パノラマ5枚・180度以上)

階段を上った先には、さらに通りと階段があり、ここで拝観料を払うんだが、ちょうど拝観終了の時刻になっていた(^_^;)。。

拝観対象はお堂の中で、義経の像(江戸期)が納まっている。

ただ堂内が見れないだけで、この先にも、係の人が勧めてくれたし、他にもジャンジャン人が登ってたから、私らもさらに登った。

次々と連鎖逮捕された義経関係者らの証言を通じ、奈良の興福寺にも武士の手が及び、義経に頼まれて祈祷を引き受けたという聖弘が、鎌倉に移送された。

11月には改めて頼朝から、京の公卿を通じて、後白河法皇に抗議状が寄せられたため、京じゅうに電撃が走り、公家全員が恐怖に震えた……というのだが、その内容というのが……。。

「公卿が悉く鎌倉を憎み、京中の人が意気を合わせて企てに加わる事に、憤りを感じる」と、実にナマな感情表現(^_^;)。。
つまりは「みんな無視してる\(>o<)/!!」て内容なんだが(笑)、一人一人あげつらって迫って来る空気がジンワリ効いて、九条兼実はじめ公卿たちはビビッて詮議を行なう。。。

それまで、内々に義経を庇うことに協力的だった貴族がいたり、義経に擁護的な寺社および大衆(僧兵など)が特定の貴族を利用してたりで、鎌倉主導のこうした調査の網に引っ掛かるのだろう(^_^;)。。


<11、義経の再度奥州入り〜秀衡の死>−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「えさし藤原の郷」にあった“記念撮影”用の「弁慶の小道具」(笑)。笈(修験者が背に負う箱)だね(^^ゞ。確か中尊寺にも、それと伝わる物があるという事だったが……→

1187年、2月に義経が奥州に姿を現す。
山伏姿に身をやつし、伊勢、美濃を経由して来たと「吾妻鏡」には記される。
ところがその後の5月、九条兼実の日記(玉葉)に、義経が奥州とはまるで離れた美作で首を討たれた噂が書かれている(^_^;)。

確かに後世に編纂された吾妻鏡より、当時の日記は信憑性が高かろうが、兼実は、翌1188年になると、「義経は奥州にいた」と書き始めるので、兼実が知らされてなかっただけ、と受け取れる。

と言うのも、この時期、義経の探索に、京にいる頼朝の妹婿・一条能保が活躍を見せているが、その娘(頼朝の姪)は兼実の子・良経と結婚している(そこに生まれた娘がさらに西園寺氏と結婚して、四代将軍・頼経が生まれる)。

つまり九条家と一条家はともに「鎌倉派」として親密になるわけだが、そうした兼実が、義経の情報を知らされてなかったのは、やはり兼実が摂関家の人だからかなぁ、と(^^ゞ。

一つには、秀衡の舅・基成と摂関家の関係があるが、もう一つには、前年に捕まった義経の祈祷僧・聖弘は、興福寺の僧である。興福寺は藤原氏の氏寺だから、疑われるのも当然かもね(^_^;)。。


階段を全て登ると、眼下に北上川と東の峰々(^o^)

現地に案内されてる鳥瞰図を見ると、山の名は左から「駒形峯」「束稲山」「観音山」とあって、後ろの二つは地図でも確認できるが、「駒形峯」というのは、地図の位置で見る限り、「経塚山」の事(゚.゚)?

北上川の上には釣り舟が(^^)↓
この「高館」は、別名を「判官館」とも呼ばれ、横長に長い空間……と言うより、なだらかな坂の散策路と言った方がいいかな(^^ゞ? 登って右(坂下)に行き着くと、松尾芭蕉の句碑がある→

記される句は、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」で、平泉のどこでも見られる句碑だが、この歌を詠んだとされる候補地の中では、この「高館」と説明されてる文章を各地でよく見たので、ここで詠んだんだなぁ、と思う(^^ゞ。

さて、捕まった聖弘だが、3月、頼朝との問答で、「平家追討の祈祷を頼まれて祈祷しただけ」と悪びれずに応じている。
これも当然の理由で、富士川合戦で頼朝軍に敗れた平家は、各地でゲリラ戦を展開されて、あげく平重衡が興福寺を焼き払ってしまったんだね(^_^;)。

だから平家が滅んだ後、奈良の衆徒らは鎌倉に申し入れて、捕えられた重衡を引き渡され、斬首に処している。平家を亡ぼした義経への感謝の気持ちはあっただろう。

さらに聖弘は、「興福寺(奈良)に来た義経に、謝罪するよう説得して伊賀に送った。その後の音信はない」と証言しており、義経の謀反に関しても、「讒言で恩賞地を取り上げられれば、逆心を起こすのも当然。この際、義経の武功を認めてやり、兄弟和解するのが天下の平和のためだ」と、堂々と言った。

頼朝は感動して、聖弘を勝長寿院の供僧の職に就けている。

て事は、改めて義経と仲直りするのかな(^^)、と思うんだが、義経探索への圧力は緩むどころか、いや増すばかりで、「それとこれとは別( ^^)//」という事なんだね(^_^;)。。

実際、義経の京時代におけるツテか、義経を匿う公卿などいたのは確かなようで、どうも後白河院の近臣だったようだ。

この事から、後白河院への疑いが及び、黒幕(あるいは義経擁護派)的に見られがちだが、鎌倉方からの発覚情報を受けると、後白河院は本腰を入れて、義経を匿った近臣らの官職を解いたり、流罪にしたり、「秀衡討伐」に賛同を示したり、それなり熱心に感じられる。

なので、結果から見ると、義経が居た場所を後から追いかけ、「ここに頼朝の力が及んでない」と、院に向かって鎌倉が主張する道具に使われてるだけ、って気もするけどね(笑)。


「高館」の真ん中、登って来た階段あたりから見る風景(パノラマ3枚ほぼ180度)

↓「馬櫪神」とあった。お馬サンの守り神だね(^^)。
こちらは「頼三樹三郎」の詩碑→
三樹三郎は、頼山陽の第三子。名は醇、字は子春、号は鴎崖。幕末に尊王攘夷の志によって、安政の大獄(1858年)で捕らえられ、35歳で刑死した。

が、一時期は盛岡に逃れており、弘化三年(1846)平泉を訪れ、平泉の落日を詠んだ。筆は22歳の時の物。案内板には、詩の要約が書かれていた↓(^^)↓

「小舟を仕立てて北上川を遡った。藤原全盛からの600年は一睡の夢の間である。判官館や衣川のたたずまい、義経と頼朝、平泉と鎌倉の悲しい間柄。そして、いま三代百年の豊土山川がいたずらに荒れはてて、ただ義経主従の操立てのみが悲しくよみがえる。草木孤兎までが鎌倉になびいた歴史の浮き沈みのはかなさ。夕日の影は古塔のあたりにかげり落ちて、ひとしお物寂しい」


なお、この高館を今は「毛越寺」が管理していると見えて、各所に整理され案内されているのも、「毛越寺」が行なっているようだ(^^)。
何かここについて、新しくわかった事などあった場合、ここにも拝観払い所があるし、毛越寺の売店や史料館にも書籍類など出るかもしれないね(^^ゞ。

前段の6〜9月に、バタバタと逮捕者が相次ぎ、比叡山など畿内近隣から北陸にかけての山中に隠れ潜んでいた義経が、「奥州に渡る以外無い」と踏んだのも、包囲網が確実に狭まった証拠のように思える。

鎌倉と院庁の合同捜査の結果、「秀衡が院宣を無視して、反抗の意思を固めた」という見解で一致を見た。

特に頼朝の主張には、「かつて清盛の怒りに触れて奥州に流罪されていた、院の近臣(基兼なる人物)が、本人も帰りたがっているし、院も帰還を望んでいるのに、秀衡一人が手離したがらない」というのがあった。

秀衡はこの返答に、「本人が帰りたがってない」と言ったようだ。
しかし清衡・基衡でも書いて来たが、いかにも治外法権と言わんばかりの、奥州藤原氏のこういう態度に、院もそれなりムカついてたのじゃなかろうか?(笑)


←そして高台の「義経堂」!
↑傍らの「義経供養塔」^∧^

秀衡は1187年、10月29日に死去。
ちなみに、秀衡の子・忠衡が鹽竈神社に鉄灯篭を寄進したのも、この年のようだ。
父・秀衡の病平癒か、死後の供養への祈願だったのだろうか(2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内

九条兼実の日記には、「秀衡の遺言」と伝わる内容に詳しく、その頃までには遅れていた情報が追いついたと見える。

それによると、秀衡は、「義経を大将として、泰衡と国衡(泰衡の異母兄)は義経に仕え、三人一味して結束するよう」に遺言している。
「三人一味」すなわち「兄弟が融和」すべく、「他腹の嫡男」すなわち、恐らく国衡に、「当時の妻」これも恐らく秀衡の妻(藤原基成の娘)を、「娶せる」ことも含まれているという。

<12、頼朝の動き>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
長年追跡していた義経が奥州に見つかり、義経を匿っていた秀衡は死去した。
あとは泰衡が義経を匿おうが、義経の首を差し出そうが、「どうせ征伐でしょ(^。^)?」と後世の我々は思う(爆)。

ところが、そこまで腹を括ってたと見ると、その後の経過は意外と長い(^_^;)。
その妙なマを埋めるためか、だいたい以下↓のような感じに書かれるのをよく見る。

頼朝は、最初から奥州を併合するつもりだったが、その前に立ちはだかるのが秀衡であり、義経だった。
武勇に秀で、戦上手の義経を自分で倒す自信が無い頼朝は、泰衡に殺させる作戦を取った。

秀衡が生きていれば、義経を奥羽の大将軍に立て、危機を乗り切れた可能性もあったが、不肖の泰衡は、頼朝との頭脳戦のたび屈服し、義経や実弟(たち)の命を売り飛ばしてしまった。
義経の居なくなった奥州藤原氏は、遂に攻め滅ぼされてしまった。

ところがこの筋書きだと、秀衡の死から義経や奥州藤原氏の滅亡までの空白期間の長さが、返って気になる(^_^;)。
すなわち、秀衡が死んで、明くる1188年の丸々一年間だ。こんな心理作戦やら罠を仕掛けるには、間延びしすぎてやしないだろうか(^_^;)。

この猶予期間は「頼朝の亡き母を供養するため」みたい説明があるが(^^ゞ、本当の理由は何だろう。

「義経堂」側面、正面には「白旗大明神」とあった(パノラマ縦3枚

高い方は北に寄って、眺めも平野部が一望(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

まず、秀衡の遺言の真偽などについて、慎重な調査・検討はされたと思う。その事に多少の時間もかかったかもしれないが、もちろん一年は長すぎる(^_^;)。

その一年間、特に大きな動きがあるように思えない(^_^;)。。
内部抗争じみた事件も、朝廷との摩擦も、佐竹・義仲・平家などの残党叛乱とか、閨閥の揉め事(頼朝の浮気とか:笑)なども、大きくは目立たない。

気になる奥羽方面では、早くも2月には義経の出没情報が、出羽の国司から報告されている(^_^;)。
この後、義経は又ぞろ比叡山を経由して、都に戻ろうとしていた気配もあって、秀衡の死後、泰衡の居る平泉には居づらくて、やがて日本海を経路として脱出も可能な出羽(羽黒あたりか)に住み分けていた、という感じもする。

一方、頼朝の方は、このニュースを聞いて、たびたび出して貰ってる院宣を、陸奥と出羽に範囲を広げて、この時も出して貰うべく要請し、法皇から院宣が発せられると、四代・泰衡からその請文が返されて来るのが9月である。

鎌倉の方では、囚われて梶原景時のもとに預け置かれていた城長茂が、頼朝に召し出されている(何か奥羽や北陸における関連情報など、聞き出されたのかもしれない(^^ゞ)。

義経を庇護した比叡山の僧を詮議したあげく、浪人を集めて悪行を尽くした千光房という者を、お尋ね者に特定したり、俊明なる者を、義経の庇護者の主犯と特定している(この二名は、弁慶のモデルではないかという意見もある)。
鎌倉は比叡山攻めをも申し入れ、九条兼実が幕府と山門の間に入って、双方を説得して戦乱を避けている。

朝廷に対しては、一条能保が、「院宣が遅い!ヽ(`Д´)ノ」とどやしつけ(笑)、慌てて院宣を発する後白河法皇も、「前の頼朝追討の宣旨は間違いだから、取り消し(^∧^)」と追加書きしたり、、「義経の逮捕に功ある者には、恩賞を与えるよっ(^O^)/」などと大盤振る舞いたり、よく協力している(笑)。

しかし、こうやって一年もの月日を費やしてる割には、基成泰衡から連名で、「義経の所在が判明したから、捕えて送る」と言って来るのが、さらに翌年(1189年)の3月なのだ(^_^;)。。

訪れる人は堂の後ろを見て行く
やはり、こういうシーンを想像するのかね(笑)

いや〜夕方の割に来る人がわりと居て、何人か訪れる人を見ていたが、二人に一人は堂の後方を見て帰ってたんだよね(^_^;)。

この「高館義経堂」は、いわゆる「義経北行伝説コース」の起点で、それは「義経は(死んだと伝えられる)一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た」という伝説による。

現地ではこれを「判官びいき」とし、伝説は「作りあげ」られた物と断定してはいるものの、その内容をちゃんと説明してあった(^^ゞ。すなわち、
文治五年に、この館で自刃したのは、義経の影武者である杉目太郎行信であって義経はその一年前に弁慶らをともない館を出て、束稲山を越え長い北への旅に出た
(佐々木勝三著「義経は生きていた」より)

う〜ん、やっぱり「謎の1年」がみんな気になるよねぇ(笑)。

なので一応、堂の裏側も撮ってみた(^_^;)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

基成と泰衡が連名で、義経発見の報告をして来る直前の2月、実は頼朝が京に向けて、「泰衡が義経と同じているのは疑いない」と語気を強めて督促を出している。

つまり、鎌倉がまず具体的な意思表示を出し、それに対して京の法皇や、奥州の基成・泰衡が何らかの処置を示す、という具合になっている。

もちろんこれは、法皇や奥州の動きが緩慢だから、業を煮やして号令を下し、それに法皇や奥州が嫌々応じる……という具合に見えるし、そのように解釈されている事が多い。

しかし「戦に強い義経」が奥州に居ることがわかれば、普通はそれに勝てるほどの充分な準備をするべく、なるべく時間を稼ぐものじゃなかろうか(^^ゞ。
そう思って見れば、義経の新動向を確かめようと探りを入れたり、準備が整った後に起動体制に入ったりなど、具体的にイニシアチブを取っているのは、いつも頼朝の方かな、って感じもしたり(笑)。


背後は烏天狗が飛びそうな森林がエンエン(パノラマ4枚・180度以上)

義経が奥州で発見され、その裏に奥州藤原氏の庇護が感じられた時、頼朝は、「いよいよ奥州征伐」と腹を括りはしたと思う(^^ゞ。
そして、阿津賀志山の防塁を見る限り、応戦すべく奥州でも準備がされてはいたわけだ(笑)。


つまり秀衡の死後一年は、奥州を攻める方も守る方も、準備に時間がかかった……こうではないか(^_^;)。

平家戦では、長期の全国的飢饉の後という事はあったものの、兵糧集めに凄く苦労した。
頼朝は西国における評判を気にして、現地調達を徹底して禁止し(強奪になりやすいからだろう(^_^;))、無理してでも鎌倉から配送する手配をさせている。
奥州攻めでも、同じような手配りがされれば、準備には時間も労力もかかろう。

特に輜重面。前九年・後三年の役など、奥羽での戦いでは、この不備が命取りだった事を思えば当然であるし、未だ征夷大将軍の任に預かれない頼朝には、この手間も苦労も尋常ではない。

すると、結果的には有っても無くてもGO!だった「宣旨」←これを取るのに手間取らされた、というのも必ずしも信用できない(^_^;)。。
宣旨の遅滞に困らされてる風を装いつつ、実はさんざん入念な用意をしてて、やっと揃った所に、ありゃ!義経の首が届いちゃった……こういう事じゃなかろうか(^^;)。。。

つまり「奥州征伐」は、「最初から想定内」と言うより、「義経が見付かってから体制が取られた」と考える方が妥当じゃないかと思う(^^ゞ。


←ちなみに平泉には、中尊寺の近くに「弁慶の墓」がある(爆)。車道から参拝・撮影できる(^^ゞ。↓拡大

↑場所は地図F←「中尊寺」と「高館義経堂」の中間ぐらいにあるので、両方の名が出て来る程度、大きめにしといたけど、さらに拡大して貰うと何個目のカドとか判りやすいと思う(^^ゞ。

なるほど……と思ったのは、義経堂で死んだかはともかく、「弁慶」は、平泉で「立ち往生」したのは間違いない、という考えだから「墓」になるけど、義経のは「供養塔」……つまり、「冥福は祈るが、ここで死んだとは限らない」という事になるんだね(笑)。

これにて、「伽羅御所」「無量光院」「高館義経堂」の奥州藤原氏関係の名所は終わる。
が、話がまだ終わってないので(笑)、この後、安部氏の居館跡と伝わる(が、必ずしもその限りでない)「白鳥館遺跡」に場を移しつつ、残りの話をしよう(^^)。



<白鳥館遺跡>

↑は、平泉より北方で、初日と2日目に訪れた水沢区の南、前沢区にある。
「白鳥館」が歴史に登場するのは、「前九年の役」の後半、安部貞任藤原経清(初代・清衡の父)の叛乱軍に対し、源頼義清原氏を味方につけ、「小松柵」を陥落させた後の事だ(2010年1月<えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内)。

頼義軍は、輜重を襲撃されるなど、安部宗任の指揮するゲリラ戦に悩まされた。
そうした所を襲撃し、さらに痛手を加えようとした貞任を、しかし頼義軍は逆に打ちのめす事に成功し、貞任が衣川関まで撤退した後を追って、態勢立て直しの猶予を与えず「衣川の戦い」へと引きずりこむ。

貞任らはこれにも敗れ、一気に北部の厨川まで撤退して、籠城する事となるのだが、衣川に貞任を追い掛けて来た頼義軍が居たのが、ここ「白鳥村」であり、さらに安部氏の柵だった「鳥海柵」も奪取するのである。

恐らくこの「白鳥館」も、「頼義軍に奪われた」という事かと思うが、元は貞任の弟、白鳥(八郎)則任(行任)の居所と伝えられている。
地図G←このように、西(左)から東(右)の北上川に大きくのめり込んだ際どい地形上にある。
航空写真で見ても、北上川が大きなS字を描いており、岬と言うより、殆ど孤島と言える。(↑北↓南の角度になるよう、画像を転回している)→

が、S字の上部、⊂部分は、1700年代ごろ歪曲に作られたと見られ、その前はそう極端なS字ではなかったようだ(^^ゞ。

白鳥館のあった地点より南を「北上川」、北を「白鳥川」と呼ばれ、古図によると、館のあった辺りに相当する隣川に、ちょうど二つの島が浮かんでいた事がわかる。
3日目、衣川地区を廻った最後に、ここを見てから宿に向かったのだが、日が暮れてしまい(^^ゞ、4日目最後の見学地となったわけだが、この日も途中で日が暮れてしまった(^_^;)。。
なので、途中からは聊か中途半端な映りで恐縮ながら……(^^ゞ。

まずは道に迷いそうな五差路の分岐点から(パノラマ3枚・ほぼ180度)

237号線から、白鳥館遺跡のある方向に行けるのは一本道なので、来てみれば判ると思う(^^ゞ。
途中に駐車場があるので、そこから歩いて来ると、↑五差路だったかな、こういう分岐点があるが、この左の道のちょっと下段に……↓

↓斜めに伸びる下り坂を降りて行き
奥の木立を越えると……

ド〜ン!と視界の拓ける田園の脇道に出る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

上に出した航空写真だと、S字の下部、⊃部分の黄緑色の田んぼが相当すると思う(^^ゞ。

ここから北上川の方に迫るには、航空写真で見る限り、濃い緑の繁みに入るのだが、そこはかなり本格的な城郭跡っぽい山になってたので、「平安期の館……が(゚.゚)?」と、正直少し不安になった(笑)。

日暮れが近いので、この時は読んでる暇が無かったが(^_^;)、後で現地に置いてあったパンフレットをよくよく読んでみたら、ここは発掘調査の結果、安部(白鳥則任の居た1000年代半ばのみならず、900〜1500年代と、かなり広い時代を通して、断続的に使用されていた城だった事がわかったそうだ。

「館跡」と名がついているが、900年代には「集落」として、1300〜1400年代の南北朝・室町期には「城館」、1500年代には再び「集落」として機能していたそうだ。

だから、「前九年・後三年の役」があった頃は、「城郭」と言うより「集落」だった、という事で良いかと(^^ゞ。
北上川へ大きくせり出した構造から、見張りや渡しなど水運に関する拠点だったと見られているので、川への見張り台に丘陵を活用するぐらいなら、ムラの機能としても有り得ただろう。

城跡(北上川)の方に向かうと
登り口近く、田園に土檀跡(?)が見えた

確かに先ほど言った「前九年の役」の登場では、「白鳥村」と書かれている上、さらに「後三年の役」にもそれっぽい地名が出て来るようなのだ。

それは乱の初段階、まだ清衡とその異父弟・清原家衡が協力関係にあり、二人が家衡の異母兄・清原真衡を敵としていた頃だ。

真衡は清原家の嫡宗として、政庁を構えていた。
そこを清衡・家衡の兄弟が攻めたのを、時の陸奥国司・源義家の従者、兵藤正経伴助兼なる者らが、真衡の家族(妻と養子の成衡)を助けた(2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>

それが「胆沢城(鎮守府)」ではなく、「伊沢郡白鳥の村」における「政庁(真衡館)」だという……ここだよねぇ(^^ゞ。

だから平地には、平安期の遺構も残ってるかもしれないが、戦国族の習性か、私らはどうしても山に登ってしまう(^_^;)。。
あんなS字形になってると思うと、川の流れも見てみたいもんね(笑)。

やがて散策路は、吸い込まれるように山の奥に入って行き、徐々に日も暮れて行くが、それよか元から鬱蒼として暗い(^_^;)。。

整備の手が入って、まだ真新しい感じ。遊歩道の敷石なんか素敵だった(^^)。ただ「蜂に注意!」とあったので気を付けたい。

さて、安部氏のみならず、その後の時代も活躍したという事で、安心して語れる(かもしれない)史跡という認識で、義経と奥州藤原氏の最期を書かせて貰う!!

<13、泰衡側の動き(義経の最期)>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
鎌倉が着々と義経追討戦に向けて準備する中、平泉が余裕綽々・悠々自適な日々を送っていたかと言えば、無論そんなわけはなさそうだ(^_^;)。

秀衡の死の翌年(1188年)末には、泰衡の祖母で、秀衡の母が、泰衡によって殺害された事を伺わせる記述が「尊卑文脈」にあるという。

秀衡の母と言うと、例の「安部宗任の娘」という事になるが……(^_^;)。。
しかしこの語意は、どうも泰衡の弟・「泉忠衡」を示す、と解釈できるようだ。
忠衡については後に記すが、いずれにせよ、こうした一族の相克は、秀衡の遺言……すなわち義経の処置をめぐっての対立と見られている。

山に入ると、ビッシリ森林が続く中
らせん状っぽく上に登って行く

この辺りでドッと暗くなったかな(^_^;)。(パノラマ3枚・ほぼ180度)

そして1189年に入り、まず1月、指名手配されていた、比叡山の千光房が捕えられ、義経が比叡山を通じて京に戻る計画が露呈する。
前年の出羽出没の事と合わせ、やはり秀衡の死後、泰衡の仕切る奥州に居られなくなった感じがする。

「尊卑文脈」には、泰衡の弟・錦戸頼衡というのがいて、2月に泰衡に討たれたという。

この後に、頼朝が京に向け、「泰衡が義経と同じているのは疑いない」と、泰衡への嫌疑を示すのだ。
「尊卑文脈」は室町時代の成立だから、信じていいかアレだが(^_^;)、その前から、泰衡が義経を追い出しそうな気配が感じられるので、頼朝にしてみれば、泰衡のえらく潔癖な「ケジメ」の付け方に、むしろ危機感を感じたようにも見れなくはない。

つまり、さんざ苦労して、征伐の準備が整いつつあるし、そうなると御家人たちの間(特に後から参加した者ら)には、早くも戦功への期待が高まるからではなかろうか(^_^;)。

そして3月に、先ほども言った通り、基成泰衡の連名で、「義経の所在が判った、召し進める」と、初めて具体的な反応が来るのである。

これに頼朝は態度を硬くし、「前から勅に叛いて逮捕せず、今になって害を逃れるために言い出すのでは、泰衡は信用できない」と跳ね付けた。
後白河法皇も、「奥州追討は当然。泰衡の言い分は前後が相違して奇怪。征討軍はいつ出発させたいか、それに合わせて宣旨を出す」と、鎌倉に同意の返事を出している。

義経の生命は、こうした中の1189年4月30日に閉じる。
泰衡が100騎で、衣川基成の館を攻め、義経は持仏堂に入って妻(河越重頼の娘)と娘(4歳)を殺し、自害して果てたのだ。

義経が奥州を出られず死を迎えたのは、鎌倉が比叡山攻撃をも予定に入れた経緯があったからではなかろうか(その時は九条兼実が双方の間に入って止めたけど(^_^;))。

二方向に小道が分かれる(パノラマ3枚・ほぼ180度)
こっちの方から来た→
↑もう一本の小道が木立に隠れて見えにくいが、木立の立ってる一帯は、少しスペースがあったから郭があった気がする(^^ゞ。途中にある「腰郭」のような空間だろうか。

で、もう一本の方の(↑の写真だと木立の奥に←こう伸びている)小道の側面は断崖となってて、崖から下を見下ろすと、分岐点と小道が見える→

この小道をさらに←こう進んで行くと……↓

進行方向(←)に明るい広場が出て来る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ところで、衣川に基成の館があり、義経がそこに居た、という事をどう解釈したらいいだろう。

やはり義経を面倒見ていたのは、基成だからか(^^ゞ。前回も少し書いたが、基成には源氏に対して、当初はかなりの親近感があったのではないかと思っているが……。
それとも基成の館に呼び寄せて、敢えて攻めたのか……。

それだと 炎上も予測できたはずだし、妻子もともにいたという事は、やはり義経が基成館を日常的に使用していた、って感じもするが……(^_^;)。

義経の死は、5月後半には泰衡から鎌倉に伝えられ、少し遅れて5月末には京にも伝わった。
頼朝は届いた義経の首を検分せず、家来が検分したのも6月になってからだった。

ここに疑惑が生じるようなので、蛇足ながら経過を書くと、兼ねて、頼朝の亡母の供養の日程が決まっていた所に、身内の不幸が起こったので、一旦、供養する日の延期を法皇に申し出た事から始まる(^^ゞ。

「身内」とは、義経を示す(^^ゞ。義経は頼朝の弟だから、頼朝自身に「穢れ」が生じ、そうした身で供養しては、神の機嫌を損ね、母の供養に差し支えがあるので延期しようとした。

ところが後白河法皇が、「義経は年下だし、30日以上も前の死だから、頼朝が内陣に入らなければ、予定通り供養してOK」とアドバイスした。院からは、高価な供物も送られていたようだ。
せっかくの厚志を無下に出来ないので、供養は予定通り行う事にし、せめて供養が済むまで、死体(首)を鎌倉に入れず……という経過である。

繁み(木立)から明るい方に出てみよう(^^ゞ(パノラマ2枚)

それなり構えた郭跡に思える(パノラマ4枚・180度以上)

←進行方向はこちら。行ってみよう。ちなみに正面の風景は、北上川対岸側と思われる。

そして、さっきも少し触れた、泰衡の弟・(泉)忠衡は、1189年の6月、泰衡に討たれるのだが、その折、合戦を交えたようでもある。
このままに受け取ると、義経の死後も、一族の間に抗争が長引いた事になるが、これもその数日前に、頼朝が「泰衡は日来(ひごろ)義経を容れ隠した罪は反逆にすぎる」と、征伐の意思を表明した事と関係する、という意見がある。

一方、この弟(たち)の死は、「秀衡の遺言を死守しようとして」とも伝えられるので、或いは義経の死ぬ前、もう一人の弟・錦戸頼衡を泰衡が討った事と混同してるか、二人の弟が実は同一人物か、そのさらに前に泰衡が祖母を討ったと受け取れる12月、既に忠衡も殺されていたか……。

<14、奥州藤原氏の滅亡>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この後は奥州征伐となる。こちらを(^^ゞ→2009年4月<阿津賀志山防塁>内
一点だけ追加すると、征伐に出る前、勅許ナシで奥州征伐に踏み切った段を(^^ゞ。

後白河法皇も、義経が奥州に居ることが判明した時は、「追討されて当然( -。-) =3」と見放したが、「その義経を討ち取った以上、これからは和平をネ(^^)」と、さらに奥州を追討する事には同意しなかった。

頼朝は、勅許が下されるものとして御家人らを諸国から召集したのに、追討の宣旨(勅許)が下されないが……と持ち掛けた所、大庭景能がこう応じた。

「故事にも、軍中では将軍の令は聞くが、天子の詔など聞かない、と言う通り、今は緊急事態なので、朝廷の返事を待つ必要はないでちゅ(^。^)。泰衡は「累代の家人」の系譜にある者で、懲罰は主人の自由ですゼ( ^。^)〃」
てな事を言った(笑)。まず注目すべきは、やはり「累代の家人」だろう(^_^;)。

←「白鳥館」の一番高い所かな(^^ゞ。見下ろすと、まさに日没を背景に、北上川の壮大なうねりっ(≧▽≦)!↓

彼の口にした「累代の家人」とは、、前九年の役の時、源頼義が藤原経清に「先祖代々から我が家の家僕」としている事だろうか(としたら、恐らく「平忠常の乱」かと思うが)→2010年3月<中尊寺・奥のロータリー、金色堂〜弁財天堂>内

また後三年の役で八幡太郎義家は、清原家衡の軍中から「相伝の家人の癖に!」と悪口されて怒り狂った話を、前に書いた→2010年2月<矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内以降
ただしこれは清原氏であるから、泰衡には当たらない(^^ゞ。

又は、後三年の役の後半戦、家衡を敵にした清衡にとって、源義家は力強い庇護者だったし、義家は陸奥守でもあり、坂東武者の棟梁格でもあったから、この時点で……という事もあったかもしれないね(^^ゞ。

或いは泰衡の父・秀衡に対して、頼朝が貢物を鎌倉を経由して送るよう申し入れ、これを秀衡が了承した時点に発する、と見る向きもあるかもしれない。
清衡の頃から摂関家と通じ、秀衡に至ると、基成を通じて京に強い繋がりがあったものを、頼朝を介さないと京への輸送が出来ないというのは、平家が滅んで、鎌倉による武家一党支配が奥州に及び、その風下に立たざるを得なくなった……という解釈もある。


空も刻々と暮れる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ただ、この際、実は「宣旨院宣など無くてもOK」←頼朝の時代は、これが90%以上の主旨になってる気がする!(爆)
つまり「無理が通れば道理が引っ込む」のであるから、他の理屈は殆ど、酔っ払いの言い訳みたいなモンかもしれない!!!!(笑)

と言うのも、大庭景能は、言葉を継いでこう繋げるのだ。
「それよか、召集されて集まってる連中が煩いになるので、さっさと進発したが良かろう」と(^_^;)。何か大変な事が起っちゃいそうな感じがするよね(笑)。

ちなみに大庭景能は、石橋山で頼朝が惨敗した時、平家側として頼朝を討った大庭景親と同族であるが、頼朝の側についていた方の大庭氏である。
しかし身内に敗者がいる場合、取り次ぎ、取り立ててやりたい者もいっぱい居たかな〜とも(^_^;)。

というわけで、これより先は「阿津賀志山の戦い」となる→2009年4月<阿津賀志山防塁>内
この
阿津賀志山防塁を見た限り、長大にして物凄い軍備だと思う(^_^;)。

確かに秀衡の遺言が、逆提示的に懸念した事(兄弟同士の相克)は当たって、秀衡には先見性があった、と言えるのだろうが、阿津賀志山合戦の後、泰衡が頼朝宛に書いた書状に言う通り、義経を受け入れたのも、秀衡であって泰衡ではなかろう(^_^;)。

勿論それなら、秀衡の死後、すぐ義経の追討なりに動いてれば……と言うのが、頼朝と後白河院の主張だろうが、それでも泰衡が、ただグズグズ迷っていただけとも思いにくい。

代替わりするや血縁者への粛清の凄まじさと言い、あの防塁建設と言い、戦後の平泉炎上と言い、実行力はすこぶる強勢で、臆病者や呑気な平和主義者がやる事とは到底思えない。
泰衡は果断な現実主義者であって、「情けない屈服者」で片づける気になれない(^_^;)。

山を降りると、さすがに辺りはすっかり宵闇(^_^;)。
岩手の幻想的な月空も、これが見納め(;_;)。
勝敗が決し、奥州藤原氏の居なくなった平泉は、頼朝が入った時には、泰衡の放火による炎上の後で、秋風が吹いていた。

一つだけ焼け残った倉庫からは、水牛・犀・象の角牙類や、金銀や瑠璃や玉からなる装飾品・調度品、舶来品など、山のように財宝が出て来たという(この辺りは→2009年4月<阿津賀志山防塁>内以降を(^^ゞ)

義経が滅んだのと同じ場所かどうか、泰衡の祖父・基成は子とともに、やはり衣川の館で東胤頼(千葉常胤の六男)に生け捕られた。泰衡の最期より、22日前だった。

逃亡していた泰衡は、おのが従者の手にかかり、その首は、頼朝に降参し安堵を許された比爪俊衡に管理された。→2010年3月<中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内

幻想的な風景と別れ、東北道に乗った我々は、宮城県に入ってスグの「長者原SA」にて夕食を取った(^^)。

1195年(征伐より10年後)、頼朝が「秀衡夫人に、特に憐憫を与えるように」と指示しているのは、基成の娘、すなわち泰衡の母の事だろうか……。
彼女は結局、亡夫・秀衡の遺言に従って、秀衡長男の国衡と再婚したのだろうか。

経清に嫁いで初代・清衡を生んだ、安部頼時の娘(「炎立つ」の「結有」)を思い出す。
彼女は経清の滅亡後、夫の仇・清原氏に嫁いで家衡を生んだ。
あげく、清衡と家衡の兄弟が相克しあった過去を、国衡と泰衡は思い出しただろうか。

秀衡の遺言から察する限り、泰衡の兄弟の中でも、もっとも険悪に思えた国衡だったのに(^_^;)、彼が最期まで泰衡と運命をともにしたのは、泰衡の母で亡父の未亡人である、この女性の存在があったからかもしれない。

←長者原SAでは、亭主が前沢牛定食を。
↑私は伊達ナントカ御膳というのを(=^m^=)

この「伊達ナントカ御膳」、長者原SAのHPで見たら、今は「伊達の里」というメニュー名になってるみたい(゚.゚)。

この後はエンエン、私は車の中で喋りを連発し、亭主はひたすら高速を走って、真夜中には家に着いた(^_^A)。
岩手旅行のお土産は、左の写真が調理前、右のが調理後。どちらも左から……(^^)↓

「古代米」「弁慶のほろほろ漬」「延年茶」
「弁慶のほろほろ漬」「古代米」「延年茶」

「古代米」と「弁慶のほろほろ漬」は、初日〜2日目の水沢「薬師堂温泉」で買った物(^^)。

「古代米」は、少量をあらかじめ水に浸して5時間ほど置き、普通のお米を5倍ぐらい足して、一緒に炊き上げると、右の調理後(中央)のような赤飯っぽい色に出来上がる。
食感はちょっと噛み応えがあり、ヘルシーな味わいで、お弁当やおにぎりにすると特に美味しい(^^)。

「弁慶のほろほろ漬」は、酸味の強い漬物で、お茶漬けなどに特に合いそう(^。^)。

「延年茶」は毛越寺の売店で買った(^^ゞ。お茶に色んな薬草が入ってて、とても香ばしく、美味しく愛飲した♪
(調理後に使用してる瀬戸物は、信州松代の松代焼だけどね:笑)

以上をもって、「岩手南部編」7回シリーズを終わる〜。( ^^) _旦~~

以上、関連事項は(だいたいね(^^ゞ)、
2008年2月<鹽竈(しおがま)神社>内
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年1月<如蔵尼と乗丹坊の墓・龍宝寺「不動堂」>内
2009年4月<福島飯坂、鯖湖温泉>内
   〃   <阿津賀志山防塁>内
2009年10月<胤重寺>内
2009年11月ほぼ全文
2009年12月<ひじり塚(河野通信の墓所)>内
2010年1月<えさし藤原の郷・@「政庁」>
   〃   <えさし藤原の郷・C「河崎柵」「伊治城」「厨川柵」、1>内
2010年2月<えさし藤原の郷・D「大路」「街並み」→出口>
   〃   <矢びつ温泉「瑞泉閣」にて、3日目朝!>内
2010年3月<中尊寺・参道、2(総門〜本堂〜讃衡蔵)>内
   〃   <中尊寺・奥のロータリー、金色堂〜弁財天堂>内
   〃   <中尊寺・白山神社〜帰りの参道>内
2010年5月<「毛越寺」C、遣り水〜東大門跡>内aおよび、c
   〃   <柳之御所跡>内以降




■10月前後・千葉県船橋市
<八幡宮>


まずは、秋の名月から(^^)。これはウチの近く、松戸市だけど(笑)。

雲の動きが早かった(^^ゞ
モォモォと蠢く中に顔を出す月

で、ここからが船橋市の「八幡宮」。地図H←小室という場所。拡大して貰うと詳しく出て来る(^^)。

特に案内が無かったけど、この辺りはだいたい、遡っても江戸時代に開発されたぐらいしか判らない事が多い(^^ゞ。
ただ、神社の隣の本覚寺では、8月下旬〜9月初ごろに、古くより伝わる悪魔祓い、「小室の獅子舞」を行なっているようだ。

この辺りは印旛沼や千葉ニュータウンに行く時によく通るんだが、道路の横に見える杜に目を引くものだから、一度来てみたいと思ってたの(#^.^#)。

赤い鳥居がよく映える杜
「八幡宮」とある

周囲はこんな大きな森林(゚.゚)。(パノラマ2枚)

神社は↑ここに鳥居がある。入ってみよう(^^)。

えいえい!と階段を登って行くと、正面は社務所かな↓
裏に廻ると、手前の社務所に隠れるように本殿が→

さらに、本殿の脇に小道が伸びて各社に通じている(パノラマ3枚)

ちょっと変わった作りに思えた(^^ゞ。本来、拝殿がある正面には、社務所っぽい建物が塞いでおり、その裏に拝殿(奥に本殿)という形式で、さらに縦長の敷地には、本殿の脇から奥に通じる道が伸びている。

拝殿の前にある案内板によると、合祀か近隣の神社か、各社が写真と説明の習字入りで貼られていた。
「道祖神」「妙見」「駒形」「天満宮」「八幡宮」「稲荷」「古峰」「疱瘡神」などの神社だ。

次回、この脇道をさらに進んでみたい(^^)。



次回は、↑の続き、2009年の10月から、今年(2010年)の1月ごろまでの予定でいたんだけど、だいぶ後ろが迫ってるので(笑)、もうちょっと頑張って行くかな〜とも☆ミ

<つづく>

2010年06月30日
 
     




ホーム