<2009年・城主のたわごと12月>




2009年7月、「千葉〜銚子編」は最終回(^^)。

7〜9月は近隣レポの後、9月「岩手南部編」に突入ー!!





     
  「千葉〜銚子編」が前回で終わり切れなかったので(^^ゞ、この第4弾は、前回「等覚寺」の続きから入り、海上氏の「中島城跡」をお届け!
この旅行では、実はその後、さらに西の東庄町に出て城廻りをしたのだが、既に「城主のたわごと8月」でレポしたので、今回は「中島城跡」にて終了(^_^A)。

その後は、7〜9月の近隣レポ、千葉・東京の夏の風景などお届けしたい。

そして、いよいよ9月後半、岩手県の南部(北上〜平泉〜一関)旅行レポに移りたい(^O^)。
だいたい、5回シリーズぐらいかな〜と思っていて、全部で4日間の旅程だったが、初日は殆どが移動に費やしたので(笑)、今回お届けの初日は、水沢から少し北上した「ひじり塚」まで。
続いて2日目、胆沢「奥州市埋蔵文化財調査センター」まで綴って、次回に譲りたい(^^)。



■7月・千葉県銚子市
<等覚寺、2>


前回の「等覚寺」の続きから行こう(^^)。
地図A
←ここに居る。

←前回は、門から入って本堂まで直行した。

今回は本堂の脇や、ちょっと奥まった松平氏墓所にも行ってみよう。

まず本堂の脇の、なかなか立派なお堂とともに、その前に座す仏像が、素晴らしく南国情緒しているのを、お目にかけたいと思う〜♪

向かって左手のお堂の前に
お釈迦様とジャングル!

お釈迦様を見下ろすように
垂れ下がっているのは
もしかして(拡大)
バナナの花?!

さてさて、この「等覚寺」自体については、まだ書いてないよね(^^ゞ。

前回も少し触れた通り、この寺からは、建長4年(1252)、東氏系・海上氏の初代・胤方が、母親の保養のため埋納したことが銘文に記される「金銅経筒」が、土中から発見されている。

昭和16年(1941)頃、この寺の東方の高見倉で、耕作中に、クスの木の根元から発見されたそうだ。
見つけた人は、ビックリしただろうねっ(゚.゚)。形態はほぼ完形に近かったそうだ。

高さ17.1cm、直径9.0cmの円筒形で、蓋に蓮の葉が筋彫りされており、縁にある三個の小孔で筒身の突起にはめ込みつないであるという。
銘文には「如法経 奉為悲母禅尼也 建長四年壬子二月五日 施主 平胤方」と書かれている。

他に、この寺には、やはり鎌倉時代の作と推定される、「木造薬師如来立像」が二体、「木造菩薩立像」が一体あり、千葉県指定有形文化財。いずれもヒノキ材で、目に玉眼をはめ込んである。
「木造薬師如来立像」は寄木造りで、表面は素地仕上げ。鎌倉時代の中期の作と見られる。
一体は像高1.4m、複雑な衣文形式で、引き締まった表情をしているという。もう一体は像高1.64m。

「木造菩薩立像」は割矧造りで、黒漆仕上げ。腰に巻きつく帯状の衣、にぎやかな衣文、やや腰をひねって立つ姿など、作風からみて鎌倉時代後期の作と推定される。

これは本堂にあった幕。梶紋に近く感じるけど、違うかしら(゚.゚)。→
こちらは、この地を江戸期に治めていた松平氏の墓所でもあって、境内の奥には、ズラーッと藩主の墓が並んでいる。

(パノラマ2枚)

(パノラマ4枚・180度以上)

松平氏は、千葉氏が北条氏とともに滅んだ1590年から銚子に入ったようだ。
奥まった場所ながら、ずいぶん立派な五輪塔の並びで、全部で20余基あるという。

あまり多く人も来ないだろうに、全体的に山奥の風情もタップリで、とても良い佇まいを保っているお寺だった♪



<中島城跡>

次は、「等覚寺」から、わりとスグの場所にある「中島城跡」に来てみた。地図B←位置はこの辺りだが、拡大して貰うと、ポイントより左上の地域に城跡がある。

今イチね〜ここは、城跡に迫り切れなかったと思う(^_^;)。行ってみたら、思ってたより範囲が広そうで、道もよく判らなかったので。。

「中島城跡」の案内板の立つ山の麓(パノラマ5枚・180度以上)

まずは、この「中島城跡」を案内板の記述から辿ろう。

「海上氏関係の遺跡・遺品・伝承等によると、鎌倉時代からこの地方を治めていた海上宗家の居城と考えられ、天正18年(1590)に落城したと伝えられている城は、城郭の遺構が大規模に造られていることなどから、戦国時代の築城であると思われる。

標高36mから43mの台地突端部に位置し、台地の北東及び南西に入り込む谷によって、くびれた部分を城域の北端とし、台地の上から裾部に至るまで全域に遺構が見られ、東西約500m、南北約400mで、県内中世の城としては規模の大きなものである。

城の形態は、高田川と逆川で外堀を形成し、大手門・水堀・土塁・腰曲輪・土壇等の遺構が認められる。
大手門と西木戸以外は、全て60度近い急傾斜地となっており、自然の要害を生かした城である。

また、何段もの三角土塁、幾重にも屈折した空掘などの工夫がなされ、本丸(御城)へ攻め入るまでには、難攻不落であったことがうかがえる。なお、裾部には、現在宅地が規則的に並んでいることから、城跡の周囲に城下集落が存在したと思われる」
以上。

今、右下の方に居る→
書かれてる記述の通り、かなりの規模の城跡だと思った(^_^;)。

ここから先は、私の方からお伝えしたいと思う(^^)。

前回は、千葉常胤−(胤頼重胤胤行までの話を書いた。
その後も東氏は多くの分派を出し、下総のみならず、美濃にも出身者が出ている。
膨大な系図になりそうなので(笑)、だいたい整理すると、以下の通り。

胤頼┬重胤┬胤行┬泰行
   |   |   └行氏−氏村−常顕−師氏−氏数−常縁(美濃東氏)
   |   └胤方海上)┬胤景
   |            └盛胤
   ├胤朝木内小見・油田の祖)
   ├胤康風早
   └胤光(小見)

上から、まず泰行の家系が嫡流である。
また行氏の家系よりは、戦国前期(室町時代)の「東常縁(とうのつねより)」が出ている。

常縁は歌人としても名が高く、連歌師の飯尾宗祇古今伝授を行なったことで知られている。
将軍・足利義政(八代)に仕えて美濃にいたのだが、千葉本家が馬加康胤に襲われ、上杉氏を頼って武蔵に逃れた時(1455〜56年「市川合戦」)、千葉本家を助けるためだろう、常縁は美濃の兵を連れて、下総に馬加康胤を攻め、康胤を討って戦況を有利に運んだ。
(詳しい背景は、「千葉県の動乱」vol2<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>を(^^ゞ)

が、常縁の本拠・美濃の郡上郡を、美濃守護代(斉藤氏と思われる)に奪われたため、取り戻しに美濃に戻った。
以後、常縁は、応仁の乱(1457〜)を契機に美濃に帰郷した。

東常縁がやって来た背景にも、足利本家と分家たる関東足利氏の争乱が伺える。
また、戦国期も近い頃になって、はるばる遠い美濃から先祖の地に駆けつける様相をもって、古来より続く千葉宗家と千葉六党の関係の深さをも、同時に思わされる。

こういう事態をもってしても、馬加系の千葉氏を宗家と見なすかどうか、という争点は当時以降も存在したように想像するが、裁定を下すべき足利宗家(義昭)が信長に追放されて以降、こういう問題も完璧に暗礁に乗り上げたのだろうか(^_^;)。

その下、胤方から始まるのが、「海上」氏である。
次男・盛胤は、「城主のたわごと8月」で既に出した、沼闕城に居したと伝えられるが、現在に残る城跡は戦国期の遺構である。

そして次の段に見える、重胤の弟の内、胤朝(木内氏)の系譜について、これより述べる。

ちなみに、同じく重胤の弟に「胤康」、これは承久の乱の功績によって、風早郷を与えられ、風早氏の祖となっている。ウチのすぐ近くだわ(笑)。そのうち行ってみたいと思う(^^)。

すご〜くレトロな消防庫(^^)
山の方に行ってみよう

スグ右に入る路地に出会うので↓
路地に入る。狭いけど、登り切ると→

こんな農地に出る(パノラマ3枚・ほぼ180度)

畑仕事をされてた皆さんに、もうちょっと頂上に近い道を教えて頂いて(ありがとうございましたm(__)m)、車を廻してみた(^^ゞ。

さて、重胤の次弟の胤朝(木内氏の祖)に戻ろう。

胤頼┬重胤┬胤行┬泰行
   |   |   └行氏−氏村−常顕−師氏−氏数−常縁(美濃東氏)
   |   └胤方(海上)┬胤景
   |            └盛胤
   ├胤朝木内小見・油田の祖)
   ├胤康(風早)
   └胤光(小見)

胤朝が「木内」氏を名乗って以降、「小見」「油田」といった分家を出しており、この系譜が又いっぱい居る(笑)。

この木内系は、東の海上氏、それよりやや西の東氏より、さらに少し西の「小見」に基盤を持っており、長く水運系の勢力を保っていた点において、海上氏と並んで注目に値する。

と言うのも、戦国期、千葉本家の座を奪取した後、馬加千葉氏が実質、千葉氏の宗家となり、千葉城を離れて、本拠を本佐倉に移したことによって、その後の千葉氏の動向は、小見にも重点が移って来るからだ。

前も出した系図を、ちょっと出してみようか(^^ゞ。↓

┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−┘
|B
└−満胤−┬−兼胤−┬−胤直
        |      |
        |      └−胤賢(賢胤)−−自胤−−盛胤(武蔵千葉氏)
        |
        └−(馬加)康胤−−孝胤−−勝胤−−昌胤−−利胤−┐
                                           |

┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
|C
└−親胤==胤富−−邦胤−−重胤(俊胤?)


ちょうど区切れ部分に当たるので、しょうがないから親胤胤富の間を「==」にしてあるが(笑)、千葉昌胤の長男・利胤、次男・親胤と続いた後を引き継いだ「胤富」は、昌胤の三男だった。

昌胤┬利胤
   ├親胤
   └胤富

↑こういう事だね(^^ゞ。兄弟が順繰りに後を継いだ、という事になる。

頂上。広〜い農地に出た(パノラマ4枚・180度以上)

昌胤海上氏の須賀山城を攻め、小見方面に勢力を拡張して、三男胤富海上氏の娘を娶わせ、利胤や胤富いがいの息子に「海上」氏を名乗らせている。

その後、親胤から胤富に宗家の座が移ったのは、家臣が親胤を暗殺したからで、胤富に家督を相続させる勢力によるものと推測される。

実は親胤は、北条氏康の娘を妻に迎えており、時期的には、ちょうど古河公方・晴氏藤氏が、後北条氏と対立していた頃でもあるので、こうした背景も関与した可能性を考えるべきかもしれない。

考えうるのは、胤富が晴氏・藤氏の側、つまり反北条の立場を取ろうとしたか、あるいは北条氏康が逆に、娘婿の親胤を滅ぼし、胤富の勢力に肩入れしたか……。
いずれにせよ、その後の千葉氏が、後北条側として生き、滅亡していく事に変わりはない。

しかし胤富は二人の兄に比べると、充分に成人してから家督を継いだ事もあって、原氏をはじめとして、父・昌胤いらいの「森山城(小見川町)」を引き継いだため、森山衆とも言える家臣団を形成していて、戦国期の千葉氏を率いた有能な人物だったと見られる。

こうした背景も含めて、海上氏の生成した水運勢力とも関わりが深かったと見られ、家督継承の折には、海上氏の紋に由来する「鶴丸黒印」を使用している点が注目される。

(パノラマ2枚)

周囲をグルグル廻ってみたが、ずいぶん広大にまたがる城域に思えるので、そのうち改めて、また来てみたいと思う(^_^;)。

ただ、この地域の城は、発祥した当時は鎌倉以降の城名が伝えられてるにも関わらず、今残っている城跡が「戦国期の遺構」となってる理由は、馬加系・千葉宗家の移動が要因の一つではないか、と見る事が出来る。

変な話、消失しやすい鎌倉期の遺構と同じような地名の城が残ってるのも、「戦国期の動乱あればこそ」という事になる(^_^;)。。

これはどこの地域でも、争奪となりやすい場所なら起こりうる事だが、気をつけたいのは、この地域は、どれもこれも「千葉一族の城」であるから、混同しやすいという点だ(笑)。



<東庄町・再び(笑)>

さて、「中島城跡」を巡った後、さらに西の東庄町「沼闕城跡(福聚寺)」「大友城跡」に行ったのだが、これらは既に「8月のたわごと」で終わってるので(^^ゞ、両城とも、最後に、前のと同じ写真の一部を、もう一度晒して終わる事としたい。

実は、この先に行った東庄町こそ、東氏(宗家)の本拠地と思われ、周囲の雰囲気とか凄く良かったので、まだ行けてない城跡とかあるから、又ぜひ来てみたいと思う(^^)。

また、この地域の戦国期については、他の地域との連携を抜きには語れない事が多いので、個人的には今少し解明・分析が必要に思えるが、そのうち余裕を見つけては、本佐倉や小見方面にも行ってみたいと思っている(^^)。

東庄町の沼闕城跡「福聚寺」(パノラマ4枚・180度以上)

↑「8月のたわごと」で紹介した、東庄町の沼闕城跡(写真は使い回し:笑)も、実は戦国期の遺構が残っている。地図C

今回までの所で注目すべきは、戦国時代まで下っても、なお「海上氏」がメイン要素で出て来る、という点だろう。
この理由は、殆どが「鹿島−香取に近在する水運交通の要所だった」事が大きいと思われる。

香取神社の造営記録にも、千葉氏と葛西氏が交互に名を現している。
香取−相馬を繋ぐ利根川の各拠点を押さえ、武蔵を抜けて鎌倉に到る大動脈を押さえた氏族を、味方につけた意義は大きかったと思われる。

実は、平忠常の乱より以降、「海上郡東ノ大友」に「忠常・常将・常長・常兼、数代が相続して、常兼が大椎に居城を移した」と伝える物(「大日寺縁起」)、「常将は大友に居り、常長は千葉に移り、常長の長子・常兼と次男・常晴(常時)は大友に居た。常晴(常時)−常澄−上総広常」と伝える物(「千学集抜粋」)がある。

同じく東庄町、大友城(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑これも「8月のたわごと」で紹介した、東庄町の大友城跡(やはり写真は使い回し:笑)。地図D←これも、だいたいの位置(^_^;)。

「大日寺縁起」や「千学集抜粋」を仮に信じてみた時、「平忠常の(大友と思われる)居城が、源頼信に攻め込まれた」という、「今昔物語」における、ヤケに詳細な記述に目が行く。

例えば、「今昔物語」の成立期までには、千葉氏・上総氏に繋がる房総平氏が、この地域に深く食い込んでいたため、そうした描写のタネとなったのかな〜、という想像も心に留めて良さそうな気がするのである。

以上をもって、「千葉〜銚子編」は終わる。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
2005年11月<将門神社>内
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内
2008年5月<香取神宮・2、「本殿」>内
2008年6月「千葉県の動乱」vol2<武蔵千葉氏×馬加氏「市川合戦」(1455〜1456)>以降
2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
2009年8月<東光院>内及び<「大椎城跡」と「大椎八幡宮」>以降
2009年9月<1日目・千葉城(亥鼻公園)>以降
2009年10月<「千葉寺」、2>内及び<胤重寺>内及び<千葉氏館跡(千葉地方裁判所)内及び<千葉神社>内
2009年11月(ほぼ)全文




■7〜9月・千葉県・東京都
<柏市「手賀沼」「下手賀沼」>


夏に突然、戻り咲きした百合(^^ゞ→
冬に咲いて枯れたのに、何となく水をやってたら、又だんだん蕾が出て、イキナリ咲いたのでビックリした(笑)。

さて、今回は後半から、9月の東北レポを開始するが、その前に少し、夏から初秋にかけて近場の風景をお届けしたい(^^)。

まずは千葉県。柏市(一部、印西市)の手賀沼・下手賀川・下手賀沼の夏の風景から、初秋の松戸市「祖光院」の彼岸花の園を。
そして東京。これも初秋の「神田明神」と、通り掛かった渋谷の神社を。
先に千葉県から行こう。はじめに地図E

今年も手賀沼の沼地に渡された橋には、開花を待つ大勢の見学客が訪れ、心地よい風に吹かれていた(^^)。

花は大きな葉に隠れて、風が吹かないと見れないから、風を待つのだ(笑)。

沼に渡される散策路(橋)と、蕾を現す葉陰→

橋の手すりから、バシバシ侵食して来る水草と蓮だが(笑)、そんな橋の左右に可憐な蓮のピンクが顔を覗かせて、楽しませてくれる。

この蓮沼、年々大きくなって見えるのは気のせいだろうか(^_^;)。何か蓮の侵食区域が、ドンドン湖を覆って、そのうち対岸まで達する具合に見えるんだけど……。

手賀沼の端っこに来る。地図F
↑拡大。いつも元気な白鳥一家(^^)。

これより東の手賀川に進み……(パノラマ2枚)

今回はもう一個の湖、下手賀沼に行ってみようと思う(^^)。地図には「手賀沼」と書いてあるが、いつもいく手賀沼との区別上、「下手賀沼」と呼ぶ。地図G

下手賀沼には、ここから途中を右折して、布瀬を抜けて行っても北岸に出会えるし、ここを真っ直ぐ行って下手賀川を渡り、反対側の南岸がわからも出会えるだろう(^^)。
下手賀川→

ただ南岸がわは、川近くまで行ける所が見付かってないので、今回は下手賀川を渡らず、布瀬を抜けて、北岸がわに行ってみよう(布瀬の交差点→地図H)。
こんな田んぼの畦道↓をガタピシ進んで行くのだよっ(笑)。

ガタガタ・ピシピシ……(笑)(パノラマ5枚・180度以上)

そして正面の下手賀沼(パノラマ5枚・180度以上)

広大な沼地の上に広がる大きな空と雲(^^)(パノラマ2枚)

以上、関連事項は、
2005年11月<将門神社>
2006年8月<手賀沼>
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降
2008年4月<柏市・手賀沼>
2008年5月<年末(^^)>
2008年6月<黄砂吹き荒れる手賀沼>
2008年7月<逆井の梅花〜手賀沼(柏市)>
2008年11月<千葉県我孫子市「将門神社」(湖北)>以降
2008年12月(ほぼ)全文
2009年5月<古利根川・手賀沼・清遊湖>
2009年6月<手賀沼と発作橋(冬の白鳥)>
2009年8月<日頃の風景(手賀沼)から(^^ゞ>
2009年9月<初夏の布瀬と手賀川(^^)>




<松戸市「祖光院」>

今度は松戸市。地図I←拡大して貰うと「祖光院」と出て来るよ(^^)。


←鬱蒼とした森に囲まれる道路沿いにある。こういう森、前はふんだんにあったのに、この頃ドンドン伐採されて、ヒグラシの声も聞けなくなって来たので、出来るだけ残して欲しい(^_^;)。。森の下に広がる彼岸花↓

殆ど真っ赤な彼岸花の中に、上のようにチョロと真っ白なのも混ざって、境内にはオレンジ色のもあった(^^)。

道路に沿った入口附近から始まり……(パノラマ2枚)

境内に入ってもズラーーッと(パノラマ6枚・180度以上)

パノラマでも撮り切れないほど、さらに奥にズラーーーッ!!(パノラマ4枚・180度以上)

もぉエンエンと奥に続いていて、この圧巻さは直に見に来て貰わないと、到底実感できない(笑)。
もしかして、手賀沼の蓮沼を目指しているのでは、という説もある(誰の説だよ)。

この道は、こうした森林のムードが凄く良くて、住み始めた頃からよく通っていたんだが、この頃は生意気に色んな道を知って、アチコチ行くようになったので、一昨年だったかな、何気にこの季節に通って、「スゴイ彼岸花だよっ(゚.゚)」と気付いたのは……。

今年ついにデジカメひっさげて立ち寄ったら、彼岸花を見に来る人専用の駐車場とか出来てて、境内入ったら、撮影客だらけ!!(笑)

まぁ、これだけスゴイ彼岸花の園だから、これを前に並ぶお墓に眠る魂は、さぞかし仏様に導かれて楽園に旅立てるに違いないと思う(^∧^)。

で、お寺自体の謂れはどんなだろう、と検索してみたんだが、やはりよほど有名と見えて、出て来るのはどれも「彼岸花」「彼岸花」「彼岸花」!!!(笑)

お寺は曹洞宗。古めかしくシックな色合いの本堂に刻まれた文様が華麗だった。
↑紋を拡大してみる。左が「五七桐」、右が「五つ竜胆車」かな……。この組み合わせで曹洞宗の寺は、同じ松戸市で、高城氏の菩提寺「広徳寺」でも見た(^^ゞ。
もしかして「広徳寺」(か高城氏)に関連するお寺なのかな……。

以上、関連事項は、
2004年8月<寄り道2、広徳寺「高城氏の墓所」>




<東京都「神田明神」>

↑毎度お馴染み(笑)。東京都千代田区、地図J←詳しい場所は拡大してつかーさい(^^ゞ。

道路の大鳥居を入って出会う隨神門(パノラマ3枚・ほぼ180度)

門を入ると、展開される境内(パノラマ4枚・180度以上)

中央の本社殿の裏には、水神社・八雲神社(小舟町・大伝馬町)・江戸神社・浦安稲荷・三宿金刀比羅・末廣稲荷・籠祖神社・祖霊社が祀られている。

右に見える神楽殿の奥には、明神会館があり、よく結婚式が執なわれている。
この日も神官&巫女さんに伴われて、花嫁・花婿さんのお出ましが見られた(^^)。

笙笛の音とともに出発し
本殿に向かう。おめでとー(^O^)

二の祭神「少彦名命(えびす様)」
2005年に作られた、海の魚(鯛・フグ・亀・イルカ・トビウオ)らとサ ーフィンする斬新なデザイン(笑)。
私はこれを見ると、いつも「おっとっと」を食べたくなる(爆)。
ちなみに一の祭神は「大己貴命(だいこく様)」、三の祭神は「平将門命(まさかど様)」である。
そうそう、将門と言えば……(笑)、

本社殿の前の「獅子像」を出しておこう(^^ゞ。拡大↓
これはついこないだ、「10月のたわごと」で「千葉神社」で、「似てる」とか書いたので出してるだけなんだが(笑)、今度ここに来たら、「毎、戊(つちのえ)の日のお参りに、古例にならい授与」とか看板が出来てて、家清めの「お砂」というのを発見した。これまた千葉神社の「亀石」にあったのを思い出したり(笑)。

あ、あと、そうだった。
今回、この神田明神の発祥に絡んだ、時宗遊行二世・真教上人が、この後ちょっとだけ絡んで来るんだわ(^^ゞ。世の中どこで何が繋がってるか、わからんもんだね(笑)。



最後に、この日だったか他の日だったか、やはり東京に行った時、たまたま縁日をやっていた所を撮った写真。↓

渋谷金王神社(パノラマ3枚・ほぼ180度)

例大祭の時期で、神輿の渡御に合わせて、賑やかに明かりが灯っていた(^^)。
祭りのポスターを見たら、雅楽・神楽・舞踊の他、「渋谷昔ばなし」というのもあって、楽しそうだった。

場所は地図K
東京も混雑が無ければ、来たい所は少なくないんだが、渋滞と人混みがどうにもね(^_^;)。。

以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、
2005年11月<将門神社>内
2005年3月<神田明神>
2005年12月<初詣2「神田明神」>
2006年3月<神田祭>
2006年9月<東京・神田明神>
2007年8月<神田明神「天野屋」>内以降
2007年9月<神田明神つづき、いよいよ参拝(^^)>
2008年9月<「常羽御厨・兵馬調練の馬場跡」と「馬場天満宮」>
2009年5月<相馬「中村神社」(西館跡)>内および<妙見社・国王社(妙見曲輪)>内
2009年6月<「柴崎城跡」の周辺「柴崎神社」(我孫子市)>
2009年10月<千葉神社>内




■9月・岩手県南端
<1日目・まずは岩手県まで一路目指す!>


ってわけで、ささっと9月後半に入らせて貰う(^^ゞ。

今年は亭主が足怪我の後、交通事故で首まで痛めて、わりと亭主多難の夏だった。。。
事故処理には私らは費用が掛からなかったのだが、修理に出した車がなかなか戻って来ず、キワまでヒヤヒヤ過ごしていた(^^;)。。

その割に、今年の夏休みは、これまでになく豪勢に、平泉まで行ってしまった!(・・;)

そもそも今年は、我が家もご多分に漏れず財政難で(^_^;)、去年の山形ツアーで金も使い果たした事だし、今年は近場でトロ〜ッと過ごせればいっかなー(^^ゞ、と思ってたんで、どう考えても岩手県はナイっしょー、というのが当初の予定だったハズである。

ところが……ま、この辺りは「今週のご挨拶とお知らせ(2009年10月)」にも書いたので、ここでは割愛するとしよう(笑)。

何しろ東北旅行も、今年で4年目となる。
過去3年、東北道には途中まで乗って、後は別ルートに切り替えるのが多かった。

2006年は、郡山(福島県)から磐越道に乗り換えた。
2007年は、もっと先の白石(宮城県)まで行った。
2008年は、さらに先の村田(宮城県)から山形道に乗り換えた。

今年は東北道を一本、ひたすら北上となった。
行く予定が決まって、平泉を地図で見たら、北の胆沢や江刺、南の一関にわりと近く思えたので、これらも旅程に入れ、はじめに北の方から攻めてみる旅程を組んだ(^^)。

最初から宮城県を越えて岩手県に入り、「水沢」までせっせと行かねばならない!
普通はそこまで遠いと、新幹線か飛行機かな〜と思うが……この辺も、「今週のご挨拶とお知らせ」(2009年10月)に書いたので、同じく割愛(笑)。

で、毎年、前の年に超えた北上ポイントあたりからレポ開始だったが、今年はそれだとさすがに間が保てないので(笑)、途中の栃木県・佐野あたりの風景からお届け(^^)。

まず千葉→埼玉あたりは、まぁいいだろう(^^ゞ。地図L←東北道は、埼玉県から、一瞬だけ群馬県をかすって、栃木県に入る。佐野市に入ると、辺りは山に囲まれ始めて、「おおおおっ旅行(^O^)」という気分になれる!

ジンワリ山影が近付き
目前を塞ぎ始める山の……

……奥からド〜ッと広がる山々が(^^)→

ちなみに佐野SAは、広域で見ると、まだこんなトコね→地図M

SAで買った、おからドーナツ
さぁさぁ先はまだ長い! 頑張って北上ぉ〜!ヽ(`Д´)ノ

この「おからドーナツ」、さやえんどうが入ってるそうだ。確か佐野SAか那須高原SA(栃木県)で買った気がする。
いつもなら、那須高原SA(広域地図N)あたりで昼食なのだが、亭主は「先長いんだよね、行こうね!」と、ドンドン行くので(笑)、午前中には白河の関を超え、東北に入った。

昼食は確か、国見SA(福島県・広域地図O)だったと記憶する。もぉ宮城県の一歩前だ(^_^;)。

昼食、こたつ注文「芋煮定食」(^。^)
亭主注文「うーめん定食」(#^.^#)

芋煮は山形の、うーめんは白石(宮城県南部)の郷土料理(^。^)。
うーめんというのは、麺の名前。右のドンブリに入ってる麺がそれ♪

帰りは、これよりさらに北の長者原SAで夕食を食べたら、伊達ナントカ御膳というメニューがあった。
伊達家の家来・片倉氏が領したのは宮城県の南部・白石で、伊達家の本拠地は、そのちょっと北の仙台だから、こんな風に、サービスエリアの位置ごとに、メニューが微妙に変わる、というのも嬉しいねっ♪

←これより宮城県に入るぞ〜!という雰囲気(^^)。
↑SA(サービス・エリア)にあった松尾芭蕉の道しるべ。SAにはよくこういう記念碑がある(^^ゞ。

また東北自体、芭蕉に関する碑が多く、あまりに多過ぎて、いつでも見られる気になれるものだから、勢い無視してしまう事も多いんだわ(^_^;)。
ただ今回は、特に扱う時代が縁遠すぎるので、ちょっとここで入れておこうか、という気になってみた(笑)。

早苗とる手もとや昔しのぶ摺り
「おくのほそ道」をたずねる俳聖芭蕉が、元禄2年5月2日(1689)、陽暦6月18日、現在の福島市山口の文知摺観音堂にある文知摺石を眺めて詠んだものです。
「宿キレイ也」と福島城下を出発した芭蕉と曽良は、岡部の渡しを渡ってやってきました。河原の左大臣と山口長者の娘の悲恋物語として有名な文知摺石は、そのころは地中深く埋もれていました。それは往来の人々がここで麦の葉を摺るので、この巨石を地中深く落したのだと聞いて、芭蕉は「さもあるべきこと」と、この句をつくったのです。娘虎女の恋しい物語と、このあたりで田植えする娘たちの姿が、重なって見えたのでしょう。
その信夫文知摺から近いこの地 国見サービスエリアに、芭蕉旅立ち300年を記念し、記念碑を建立したものです。                                       平成元年3月吉日 日本道路公団

高速に乗れば歴史に詳しくなれる、ってぐらいもっと本腰入れて頑張れば、仕分けられずに済むのかな〜(爆)。

他に各SAでは、やはり今年の大河「天地人」のポスターをはじめ、会津はもちろん、二本松の菊人形展などで、直江兼続がらみのポスターが見られた(^^ゞ。

広域地図P←「白石」のちょっと南の福島−宮城の県境あたりに今いる。ここから宮城県に入って縦断し、岩手県に入り、「北上」のちょっと南辺りまでの風景をお届けしよう。

高速道からは滅多に撮れない横から見る山の風景。→

今年も東北地方の田は黄金の実りに輝いて、素晴らしかった。

以下、仙台を超え、一関や平泉をさらに北へ超えて行く。
この「城主のたわごと」では、去年の松山温泉(羽黒山より北)が北限だったが、同北緯が宮城−岩手の県境より、ちょっと南なので、さらに北緯に突破だぁ〜! ε==(/^o^)/



仙台に差し掛かった辺りから、雨が降って来て、急カーブや坂道でも地元ナンバーはバンバン飛ばしてるので、わりとスリリングだったね(^_^;)。

あの辺りは大都会だから、渋滞に巻き込まれない内にと、みんな急ぐんだろうね。
仙台には知り合いが居て、事情は多少知ってたから、あらかじめ「左に居た方がいいよ(^_^;)」とか言っておいたのだが、亭主は構わず、ブンブン飛ばしていた(笑)。



<ひじり塚(河野通信の墓所)>

さてさて、水沢インターで降りた(^_^A)。
日本列島の地図を見ててもアレなんで(笑)、サイズを少し広げる。
地図Q←真ん中に「奥州」とか「水沢」とかある辺りで高速を降りるんだが、最終目的地は「北上」に近い。

宿は「水沢」インターのすぐ近くに取ったんだが、亭主ガンバリのお陰で、ずいぶん早く着いたので、今回旅程の最北端、「ひじり塚」に行ってみる(^^)。

「最北端」と言っても、岩手県の中では南部に当たる。
今回、「岩手南部編」と題したのは、「北部・南部」の「南部」じゃなくて、「北部・中部・南部」と三つに分けた内の「南部」という意味(^_^;)。

岩手県は縦長で南北の距離が長い。縦の長さだけだと新潟県の方が長いが、面積にしたら、ナント北海道に継いで、日本第二位なのだっ(゚.゚)!

さらに拡大。地図R←下の「水沢」インターで降り、 北の「山下」と、さらに北の「門岡」の間あたりを目指す。鉄道だと、東北本線の「六原」という駅が最寄ではあるが、歩くと40〜50分かかる気が(^_^;)。。バスがあるかなぁ……。

←「水沢」インターで降りて、4号線(陸羽街道)を北上。

やがて右折し、山の方に入って行くが、地図でも明確にわかる場所じゃないので、ほぼピッタリの位置を示しておく。地図S←比較的わかりやすい附近の目印は「樺山遺跡」だろう。

この「樺山遺跡」には行くつもりが無かったんだが、帰りがけにポッと目に入って寄ってみたから、先に写真を出す。これが見えたら近くと思っていい、という目印になるかもね(^^ゞ。

ただし、この「樺山遺跡」自体が、地図で見ると、わかりやすい場所とは言いにくいんだわ(^_^;)。。

対して、判りやすいと思える地点が、地図T←「樺山遺跡」に入る分岐点かと(^^ゞ。
その辺りの風景がとても素晴らしかったのもあって、目印がわりに写真を出してみたい。

地図で見る黄色い道路。水沢方面から←こう来る(パノラマ4枚・180度以上)

反対側の風景。←この細い道に入ると「樺山遺跡」(パノラマ4枚・180度以上)

上の写真の右端が、分岐点の地図T←ちょうど曲がりくねった坂道になっている。

←逆方向視点だが、坂の上から見ると、こんな感じね(^^ゞ。

さて、これより行く「ひじり塚」について触れるが、ここは別名「河野通信の墓所」という。

「ひじり塚」の名の所以については後に廻し、まず河野通信について述べる。

河野氏は伊予(愛媛県)を出身地とする。
歴史に顕れるのは、平家追討戦をしてる義経に協力して、水軍を出した頃(1185年)で、その時の河野氏の当主が、この通信である。

平家を打ち破る事に成功した(案内板には「壇ノ浦の海戦」とある)ので、その協力者として鎌倉方に認められたのだろう、河野通信は頼朝の舅・北条時政の娘を娶って、二人まで息子を儲けている。

現地の案内板には、その後、頼朝が平泉の奥州藤原氏を攻め滅ぼした時(1189年)、岩手郡地方まで従軍し、功績によって伊予国や陸奥国に領地をあたえられた事、のちに伊予国の軍事や治安をつかさどる守護を命じられ、高輪城(愛媛県北条市)に住んだ事が書かれていた。

が、その後、承久の乱(1221年)を迎えた時、河野通信とその息子たちは後鳥羽上皇方について、鎌倉幕府と敵対関係となってしまったため、戦後、通信とその息子たちは、各々別々の場所に配流されたのである。

案内板によると、通信は二年間ほど極楽寺に庵をむすび世捨人となって余生を送り、1223年(貞応2年)5月19日、68歳で世を去ったという。

この辺りの拓けた風景が本当に素晴らしかった(^^)(パノラマ2枚)

ちょっと戻って田園風景を写してみる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

河野氏については、それより前の時代についても色々と伝わってはいるようだが、いずれも家伝・伝承の域を出ておらず、後世に付属された逸話と見られているように感じる。

すなわち、河野氏は古代氏族の越智氏の子孫とも言われるが、明確な点は不詳である。
が、越智氏については、伊予に勢力を張っていた事が顕れ、かの藤原純友の乱(天慶の乱・939年)の折、伊予を拠点としていた見られる純友の追討に、多少の功績があったようだ。

しかし乱後、7年も経ってから官位に預かっている事から、功績ありとしても、最終段階まではどちらかと言うと純友に与していたか、政府軍に協力的ではなかった、と見る声もある。

これは同じ「天慶の乱」で、将門追討に功績のあった、藤原秀郷平貞盛などが飛び級で昇官し、その後、この二人から、いわゆる「兵の家(武士専門の家)」が出た事と比べると、確かに目覚しくはない。

だから注目すべきは、むしろ「純友とともに海賊活動をしていた」と見た場合、その頃から水軍・河野氏に通じるか、あるいは河野氏が伝承とする背景となるような、何らかの系脈が芽生えていたのかもしれない、という点だろうか。

←遠くに浮かぶ車のライトと町の灯り↓
ちなみに「海賊」と言うと凶悪なイメージがあるが、昔、水運活動者を一般的にそう呼んだ(^_^;)。いわゆる海賊行為もあったろうが、生産や運搬業にも携わっていたようだ。

彼らが発生したのは、中央貴族や寺社が、畿内・中国・四国の沿岸を荘園化する(製塩が主体と見られる)にあたり、土地を追われて浮遊化したのが始まりと見られている。

荘園も各沿岸に行き届くと、今度は拠点の争奪戦になったり、運搬や労働の担い手が必要になったりして、海賊もそうした勢力に雇われて、生業の機会を得てはいたようだ。

応天門事件の頃(866年)、海賊活動が活発化している。
この事件は放火犯として、源信(嵯峨天皇の子)と伴善男の名が上がったが、犯人は類者への拷問によって伴善男と決定され(^_^;)、伴氏紀氏らがドッと流刑されて決着した。

が、真相は闇の中で(^_^;)、海賊の仕業ではないか、という見方もあるし、流刑された氏族と海賊の関係が問われる向きもある。
応天門事件の後、海賊討伐がされて以後、73年後に起きたのが「藤原純友の乱」(939年)であるが、純友に与して捕らえられた者の中には、伴氏とともに排除された紀氏の名も見える。

ちょっと「樺山遺跡」にも行ってみよう(^^ゞ。

もうね、真っ暗になっちゃって(笑)(パノラマ2枚)

それでも頑張って登って行くと(パノラマ3枚・ほぼ180度)

見えるかな(^^ゞ。遠くにやはり町の灯りが(パノラマ4枚・ほぼ180度)

ここは、縄文時代の大きな遺跡が発見された跡に、復元を行った場所(^^)。
肉眼では、縄文時代を偲べる風景が広がってるのを確認できたが、残念ながらカメラ写りが今イチ……。
他にも遺跡範囲はあるようで、ストーンサークルの跡も発見されたらしい。

あと「炎立つ」で、これと凄く似た場を使って、「鬼切部の戦い」のロケが行われてた覚えが……(ここじゃないのかなぁ)。

かなり頑張って明るく再現してみた1枚(笑)(パノラマ2枚)

うん、やはり新しいデジカメの方が、特に暗い場所では性能がいいかも(爆)。

ところで河野氏に関しては、もう一つ伝承があって、それは(八幡太郎)義家前九年の役(〜1062年)の功により、伊予守に任じられていた時、義家の子を養子としたとか、義家に娘を嫁がせて子を得たとか、そうした縁によって、既にこの頃から源氏との間に主従関係を結んでいた、という伝えのようだ。

ただ、こちらの伝承は、もしかして前時代に遡って源氏との主従関係を創作してるのかな、という感じもしなくない(^_^;)。。

河野氏の立場は、源氏政権との接触が、後に謀反人扱いされた義経との出会い、という点もあったりで、平家討伐の戦果や高評価にも関わらず、かなり不安定な物だったのかもしれない。

承久の乱で鎌倉方と敵対関係に陥ったのも、帰趨によっては、鎌倉より京に地盤が近い河野氏は朝敵にされた場合がヤバイ(^_^;)。「純友の乱」のおける叛乱者たちの末路も脳裏をよぎった事だろう。一族を東西の二手に分けておくという、苦渋の選択があったようにも想像できなくはない。

亭主が新しいデジカメで苦心して撮ってくれた! 立派な竪穴住居の再現(^^)。

私の知る限り、通信には北条時政の娘との間に二人、二階堂行光の娘との間に四人の息子がいた。

通信┬通政
   ├通久(以上、母北条氏)
   ├通末
   ├通俊
   ├通広−一遍
   └通宗(以上、母二階堂氏)

このうち時政の娘が生んだ通久のみ、鎌倉に在って、幕府側の兵力動員に応じたので、その後の家系も保たれ、元寇の折にも曾孫の通有による活躍が見られ、南北朝期や戦国期にもその名残は水軍として現れる。

が、もう一人の息子(通政)と、二階堂氏との間に生まれた息子の二人(通末・通俊)までが宮方についたので、これらは長野県に配流の他、所領も一切没収された。

二階堂氏との間に生まれた、今一人の息子(通広)は承久の乱では名が見えず、どうも僧籍にあったのではないか、と見られているように思える。

この僧籍らしき一人(通広)を父として生まれたのが、一遍である。

やっと一遍の名が出た所で、そろそろ「ひじり塚」に行ってみよう(^_^A)。
地図S←「ひじり塚」にポイントを置いているので、拡大して貰えば、ほぼ正確な位置が示せていると思うけど、どうかなぁ(^_^;)。。

目的地に到着。「ひじり塚」である(パノラマ3枚)

一遍自身は時宗の祖とされているが、その宗教上の系譜は、浄土宗が母体と思われる。
祖父や叔父たちが戦いに身を投じていた頃、一遍の父のみ名が上がって来ないのも、浄土宗の宗祖・法然の生前から続いた、いわゆる専修念仏者の法難(迫害・排撃)と時期が重なっており、信徒たちは難を逃れて各地に散らばっていた。

承久の乱との関わりがないと判断されたのだろう、一遍の父に相伝された所領は没収されなかったか、一部の没収のみに留まったのではないかと思う。

京に留まって戦後処理に当たっていた北条泰時(北条時政−義時−泰時)から見れば、河野氏は叔母の嫁ぎ先であり、通信の息子は、泰時にとって従兄弟に当たるわけだ。
一遍の父は母親が違うから、従兄弟には当たらないが、一族の一人なりとも遇すれば叔母も浮かばれる、という思いがあったかもしれない。

しかし、こうして相伝された所領は、たぶん最初は一遍の兄が継ぎ、この兄が死んだため、一遍が継いだ……という事ではないかと思う。一遍の生涯は、最初の頃は武士として登場するのだ。

あるいは一遍も当初、父とともに僧侶となっていたのかもしれない。
父は承久の乱により、一遍は兄の死によって、いずれも急に武士として所領を差配する立場についた、とも考えられる。

一遍には妻が二人いるようで、一人は生涯、尼として連れそうのだが、もう一人は家系存続のために娶った妻ではなかろうか……。
何しろ一遍の事を伝える伝記には、妻の一人らしきと別れて家を出るシーンから、修行(遊行)の旅が始まったように描かれているようだ。

一遍にとって、先祖を供養するのは、悲運の家系を継いだ者としての責務でもあり、その一方で、法難の負い目にある専修念仏の系譜者としての定めもあったのかもしれない。

そうした様々に複雑な負の要素を背負った一遍が、日本の各地を遊行して歩く、その最北端の地が、祖父である河野通信の墓参りだったのである。

河野通信の配流先は、「江刺」となっており、一遍が訪れるまで墓所があったのは、河野氏で唯一、存続の許された鎌倉方についた叔父(通久)の配慮かもしれない。河野氏は陸奥に所領を得ていたようなので。

←松の木の根元には、積まれた石垣が残る
塚を仰ぎ見る位置↑に、祭壇が設けられている。

この塚は、四角な段の上に、円く土を盛り上げた二段造りで表面を平な石でおおい、堀をめぐらした物だという。

この墓所は、長く地域の俗説として扱われていたようだが、近年、信憑性が認められ、正式に「河野通信の墓所」として認定を受けている。塚を守るように積まれた石が、古い物と認められたのか、一遍や時衆研究との照らし合せも功を奏した結果かもしれない。

時衆は寺を持たないから、確かな痕跡とか信憑性の高い文献も多くはない。
人から人へと受け継がれた、日本では珍しい宗派と言ってもいいかもしれない。

そんな一遍の遊行の旅も、長く一人旅に近かったようだが、真教(他阿)と出会い、彼を弟子とした頃から、急激にその周囲には多くの信徒(時衆)が取り巻くようになる。

彼らが集団で繰り広げる旅の様子は、「すごく楽しそう(≧▽≦)」と思え、すこぶるファンタジー色に彩られて、中世の作り出した幻想世界がそのまま広がっているように感じる。

例えば真教(他阿)が一遍を肩車し、一遍が札を撒いて歩くと、大勢の群集が札を貰いたがって、我も我もと手を出し、周囲にひしめている様子から熱狂ぶりが伺える。

大きな大きな松を下から仰ぐ祭壇には、「時宗第一教区」による奉納が平成18年(2006)付で、「河野通信墓所」の石碑には、愛媛県宇和町の方の建立名が、昭和54年(1979)付で記されていた。

また時宗については、旅の至る所で一遍が現出したと思われる、「奇瑞」も大きな要素であり、一遍はいわゆる霊能力者であったのだろうとも言われている。
昔、「僧侶」という格式ある立場とは別に、こういう人は「ひじり」と呼ばれた。

この「奇瑞」が顕著に現れるのも、祖父・河野通信の墓参りを終えた頃からなのだ。
一遍にしてみれば、長年心に溜めた祖父への孝養を果たし、ようやく宗教者として独立した人生を歩める気運であったろうし、あるいは「奇瑞」の数々には、祖父・河野通信の加護がある、と当時の人らしく考えたかもしれない。

←現地にあった『一遍聖絵』。「史跡と絵が一致する点で大変貴重」とあった。

一遍と時衆たちの旅路は、驚くべき歓喜の渦と同時に、常に深い悲しみに彩られている。
彼らは寺を持たず、常に旅路の野宿を繰り返した。
寺の境内に宿を借りたりするたびに、乞食扱いを受けたり、追っ払われたりしている(;_;)。

しかしこれは、時あたかも元寇の頃であり、悪党の跋扈も多く世情騒然だったから、致し方ないとも思う。

それより心を寄せるのは、一遍とともに旅する者らが、何かと言うと往生を遂げるシーンが夥しく連発する点だ。
水辺だったり、山奥だったり、野辺にある一遍について廻る彼らに、死に場所は豊富だっただろう。
中には一遍が近くに来るという評判を聞きつけてだろう、一遍に会いに来るなり、目の前で自殺してしまう者までいた。

一遍が死んだ時も、人々は次々と後を追って入水自殺を遂げている。
これらは、往生とか浄土とかにおぼつかないとされてた人々だろうか。

一遍からは、その時々、尊敬する故人や神々にゆかりの地を巡った事が伺えるが、そのような一遍の個人的な旅行の先々に、こうした群集がついて廻った。

信仰を約束された彼らの驚きと喜びは、いわゆる念仏踊りに現され、自殺に現され、時には喧騒し、時には寂静として、濃縮された生とともに、めくるめく展開されたのである。



<水沢に宿泊、1日目夜〜2日目朝>

↑した(^^)。着いた時は暗かったので、翌朝に撮った写真から。

薬師堂温泉(地図Uパノラマ2枚

水沢インターからだと車でスグだが、駅だと「金ヶ崎」と「水沢」の中間で、どっちからも遠いと思う(^_^;)。でも温泉と言うと、これより北の花巻には多いが、この辺りでは貴重な温泉宿だと思う♪

で、場面はいきなり夜に転換(笑)。

←真夜中の薬師さま(^∧^)。玄関で出会える。
↑夕ご飯〜(^O^) ビールがサービスでついてた♪

食後は楽しみの温泉(^^)(室内)
露天〜〜(つ^o^)つ

こたつの好きな汗のよく出る温泉で、初日の疲れ(車乗り続けの:笑)を落とし(^_^A)、これより先の旅行の計画を亭主と話して夜を過ごした♪

今回ちょっと残念だったのは、予めセットしていた地図が、ミスでノートに入ってなかった事(>_<)。。
一応、ナビにも仕込んでおいたので、全体として大きな不備は無かったのだが、「明日行く所はね〜(^o^)」とかいう話がしにくくなるので、夜はテンヤワンヤしながらネットに繋いで、何とか打ち合わせを終えた(^_^A)。

これが後になって、「良かったー(≧▽≦)」と思ったのは、この後、通信可能な宿がココだけだった事(爆)。
ナビもほうぼうで不能になり、いろいろ難儀も多かった(去年も同じだったけどね:笑)。
あまりにも不案内な土地なので、初日の内に打ち合わせ出来て良かった〜(笑)。

しかしこの夜は何も知らず(笑)、「これで安心だね(^^)」とか言って、ちょっと遅めながら床に着いた。

おはよー(^O^)。朝も真っ先に露天に!(パノラマ縦3枚)

←朝は庭園の緑がよく見れて、いっそう清々しかった(^^)。
↑朝食の広間には、野馬の絵が掛けられていた(^^)。江刺に来た〜という気分♪

テーブルには箱が(゚.゚)
↓パカッと蓋を開け、箱を開けると二段目も出る↓

↓ご飯・お味噌汁・お茶もついて(^^)。頂きま〜す!
朝も玄関前の薬師さまを拝んで(^∧^)。→
去年、山寺の麓に泊まった時も、宿の仏像を拝ませて貰ったけど、東北は、仏教の盛んな名残が多くていいね(^^)。
では、行って来ま〜す!!



<奥州市埋蔵文化財調査センター>

↑宿より北に進み、「胆沢城跡」に到る途中にある。
「胆沢城」は次回に譲るが、古代の陸奥鎮守府である。

で、「奥州市埋蔵文化財調査センター」の位置は地図Vだが、拡大して貰えれば判る通り、この博物館、「城跡に行く途中」と言うより、実は「胆沢城跡の前」にある(^^ゞ。つまり……、

┌−−−┐
|     |
|     |
|     |
└−−−┘
   □
←こんな感じに、上の大きい敷地が「胆沢城跡」で、下の小さい敷地が、今来ている「奥州市埋蔵文化財調査センター」。

この通り、胆沢城跡の敷地がとても大きいので、地図上、真ん中に地名を図示すると、ちょっと距離があるように見えるが、実は隣接している、という事ね(笑)。

奥州市埋蔵文化財調査センター(パノラマ3枚・ほぼ180度)

通りに面しているのは↑コッチ側なんだが、古代の胆沢城は南面を表にしていたからだろう、裏に廻ると……↓

コッチが正門だよ〜んという雰囲気(笑)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

でも、コッチ側↑が面しているのは……、↓

こんな広〜い広〜い田園風景(パノラマ4枚・180度以上)

ここは、内部の撮影もOK(^^)v。
ただし、書籍やホームページに掲載の場合は、申請の上、認可を得る事。
個人が閲覧して楽しんだり学習する分には、申請・認可は必要ナシ。

「と言っても、見てみん事には(^_^;)」と、申請をしなかったから写真は公開できない。
なので、当時の記憶を辿って、印象を述べるに留める。

まず、入った所にド〜ン!とアテルイの復元像が置かれていて、「おおおおっ(゚.゚)」と思う。
展示コーナー入口には、大勢の武官像が並んでお出迎えしてくれ、まるで「秦の始皇帝展」でも見に来た印象。

展示物には、平安期の(思うに東北のだと思う)ご馳走の復元模型などあって、「オイシソー(^O^)」と喜ぶ(笑)。
東北独特の信仰にまつわる展示などもあって、興味深い。
アテルイとの関係は書かれてなかったと思うが、鹿島神宮にある「悪路王」の首像(複製だろう)が見られた。

そして映画を上映している。30分ぐらいだったと思う。これが判りやすい。

奥州の平定に到る過程については、次回に譲るが、そもそもこの「過程」ってのが、ホントに「過程」なのかよく判ってない上に、出て来る登場人物名が読めないほど難しく(ってか当て字だからしゃあないが)、頑張って覚えた所で、それら全てがホントに関係線上にあるかどうかもワカランぐらい、記録が断片的すぎて(^_^;)、とても一息で説明する気になれないものだから、「これから行く場所の説明」ってのを、どっか「他人任せにしたい気分」になるのが正直な所である(爆)。

私はともかく、亭主などは東北の古代は全く知らないから、そういう意味では、最初にここに来たのは正解だったと思う(^^)。
どんな難しい名前の人でも、顔が出て来て何か喋れば、「こういう人が居たのね〜(゚.゚)」と思うものだ。
だから入ったら、何はともあれ、「上映ビデオを見たいです〜(^O^)」とリクしてみよう!

ただ、「これはちょっと、どうなのかな〜(^_^;)」と思った点も無くは無かったが、まぁ次回、「胆沢城跡」や「巣伏の戦場跡」で、書ける余裕があれば書こうかな(^^ゞ。

センター前の稲田には
東北独特の変わった干し稲(^^)

再び田園風景↑。ホント大勢の人が並んで、今にも動き出しそうに見えるんだよねコレ(笑)。

展示について掲載許可を取るつもりだったが、亭主の足が痛くなったので、見終わるとスグ出た(^^ゞ。

今回は亭主の足具合もあり、階段や山登り系より、展示系なら途中から引き返しも可と思って平泉ってのもあったんだが、このころは逆に、坂も下りが急ぎじゃなきゃオッケーになってて、むしろ博物館みたい固い下地での「長時間の立ち見」が堪えるようになってた(^_^;)。

これ実は今回、私も同じで(笑)、博物館めぐりって意外と足をヤラレルのよね〜(^_^;)。。

以上、関連事項は、
2007年8月<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>

2007年12月<白石城>内
2008年3月<蔵王エコーライン・駒草平>内
2009年2月<立石寺(山寺)、対面石〜根本中堂〜山門>および<立石寺(山寺)、山門〜本坊>内
2009年6月<「布施城跡」と、その周辺(柏市)>内
2009年10月「今週のご挨拶とお知らせ」内




次回は「岩手南部編」の第2弾。
2日目の午前の続き、「胆沢城跡」「神明社(伝アテルイ居住跡)」、午後に入って「巣伏村の戦場跡(胆沢側)」「えさし藤原の郷」まで行きたいとー(≧▽≦)。

<つづく>

2009年12月04日
 
     





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